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藤波辰爾さんが来訪第944回 2007年7月1日グループホームへ藤波辰爾さんが来訪 6月30日午後から私たちのグループホームにプロレスラーの藤波辰爾さんが来訪されました。 この日は藤波さんが社長をされている「無我ワールドプロレスリング」米沢大会で、藤波さんは限られた時間の中での来訪でした。 今年の1月に藤波さんと食事をする機会があり、社会福祉について意見を交換したのでしたが、そのときにも藤波さんはプロレスラーとして青少年育成と同じくらい社会福祉に貢献したいと言われたのが印象的でした。 そのご縁もあってか、この度の来訪になりました。 さて、おばあさんたちの反応ですが、それはそれは大喜びでした。 やさしい笑顔でおばあさんたちに声を掛け、握手や力こぶを見せる藤波さんにみなさんは声を掛け、励ましの言葉を掛けていました。 退院後で部屋で食事をしていたおばあさんにも藤波さんは両手を取って話し掛けると、そのおばあさんはハミングして歌で応えるのでした。これにはビックリです。 「あんなにみんなが喜ぶとは、藤波さんから溢れ出るオーラのようなものを感じたのかもしれないね」 と、この日の司会進行を担当した新関さんの感想です。 職員たちにも労いの言葉を掛けてくださるなど、職員のみなさんも大喜びでした。「みんさんから元気をいただいた!後10年は頑張ります!!」 と、おばあさんたちに挨拶をしてグループホームを後にしました。 藤波辰爾さんのやさしさがみなさんを感動させていただいたひと時でした。photo :Tatumi tamura
2007年06月30日
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~山形マンガ少年~ 第三部 『熱い夏の日』●第26回 情熱第943回 2007年6月30日~山形マンガ少年~第三部『熱い夏の日』●第26回 情熱 石井文男の相談とは村上彰司のスカウトだった。「秋山(満)ちゃんの後を継いでキミにぐらこんを任せたいんだ」 石井がショートピースをシャツの胸ポケットから出しながら言った。「ボクが虫プロ商亊に入社するってことですか?」 村上はハンカチで顔中をせっかちに拭きながら質問をした。「そうだよ」 と、石井は静かに答え、ショートピースに紙マッチで火を点けた。 青白いタバコの煙がゆっくりと昇ると、ウエートレスがアイスコーヒーを運んできた。「キミが初めてCOM編集部を訪ねてきたのは……」 と、言いかけると、村上は背筋を伸ばして、「昨年の秋です。『ビッキ』という日本一大きな同人誌を持っていきました」 と、言った。「そうだったね、あの大きさには驚いたっけ」 石井は笑いを浮かべながら言い、アイスコーヒーにミルクだけを入れてかき混ぜた。「それからキミは時々編集室に電話を掛けてきたんだね」「そうです。主に秋山満さんが相手をしてくださいました」「村上クンはそのときは社会人だったの?」「ハイ、地元(酒田)の高校を卒業して、東洋曹達酒田工場に就職した年でした。十九歳でした」 村上のアイスコーヒーの氷が少し解けてカタンと音を発てた。「それからキミたちの企画でまんが展の協力が始まったんだね」「ハイ、秋山さんにまんが展を開きたいっていったら、最初はびっくりしていたようでした。なにしろデパートでプロとアマチュアの原画展をすること事態、あまり例のないことでしたから」「そうだったね。秋山ちゃんからその話を聞いたときは正直ビックリしたよ。 キミを除けば高校生と中学生の山形・酒田の同人会で、手塚先生や石森先生の原画を飾るなんて前例がなかったことだからね。 第一こんな企画を思いつくなんて、すごい人たちだと思ったよ。 それがキミ、村上クンだったんだねえ!」 村上は頭を掻き掻き、ようやくアイスコーヒーを口にした。「そして原画を取りに、酒田から来たキミに会って、その生真面目さと面倒見のよさが、ちょうどトキワ荘時代の寺田ヒロオさんに似ているなあって、思ったんだよ」「………」 村上は照れながら黙って石井の話を聞いていた。 石井のショートピースの煙が村上の顔を横切った。「今年の春先だったね。酒田のデパートでやった第一回目のまんが展は?大成功だったね。そして、この夏には暑い暑い米沢で第二回目のまんが展だった。これまた第一回目とは様相も違うけど、ボクが実際この目で確認して、その企画力と資金もかけないで、あそこまで展覧会を仕上げたっていうことに敬服した次第だった」 石井は淡々と話を続けた。「こんなことを言ったらキミたちは気分を害するかもしれないけど、キミたちの同人会にはこれといったマンガを描く人はまだいない。だけど、まんが展の企画や同人誌の中での突拍子もない企画物はなかなかおもしろい。キミたちを『ぐらこん山形支部』と認可したのは、その企画力に注目したからなんだ。ボクたちCOMにとっても、ぐらこんにとっても新しい存在なんだよ」「石井さん。それはどういうことですか?」「キミたちの存在と手塚先生が描く虫プロの将来、いや、マンガ界の未来にとっての戦略が一致しているんだよ」 村上は石井の言いたいことがよく理解できなかった。 2007年 5月13日 日曜 記■(文中の敬称を略させていただきました)~山形マンガ少年~ 第三部『熱い夏の日』 ●第26回 つづく 「熱い夏の日~山形マンガ少年~」第27回にご期待下さい!! 「山形マンガ少年」まとめてご覧いただけます。 第一部「はじめちゃんの東京騒動記」のホームページ第二部「旅立ちの歌」のホームページ
2007年06月30日
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~山形マンガ少年~ 第三部 『熱い夏の日』●第25回 スカウト第942回 2007年6月24日~山形マンガ少年~第三部『熱い夏の日』●第25回 スカウト 七月三十一日、この日も暑く熱が空と地面から噴出していた。 酒田の村上彰司は上野から山手線で目白に行き、マンションの一室にある虫プロ商事COM(コム)編集室に向かった。今回も夜汽車で酒田から新潟経由での上京だった。 「第二回 山形まんが展」の成功と、村上の念願だった「ぐらこん山形支部」を認可されたお礼に出向いたのだった。村上は大きな包みを紙バックに入れて持ち歩いていた。その中身は酒田のお菓子だった。けっして便利な道のりではない酒田から、わざわざお礼に上京する村上の姿勢に、彼の人間性が現れていた。 マンションにはコム編集長の石井文男と同編集の萩原洋子がいた。机に向かって原稿用紙に向かう石井はサングラスを掛け、半袖のポロシャツを着ていた。考え事をしている時の石井は右肘を立て、鉛筆を持った手の甲にあごを乗せ、せわしく貧乏揺すりをして、左手ではタバコのショートピースを天井に向かって吹かしていた。「ピンポーン」 とチャイムが鳴ると、萩原はサッと椅子から立ち上がり狭い玄関のドアを開けた。天然パーマの髪から汗を額に流して村上が立っていた。メガネの奥から人懐っこいやさしい目が微笑んでいた。「こんにちは」 村上は軽く会釈をした。「あら、村上さん!遠いところをご苦労様です。さっ、どうぞ上がってください」 萩原は中へ招くように手を動かした。畳敷きのこのマンションに上がると、足のつま先と甲がヒヤッとして気持ちよかった。 村上は早速、萩原にお土産のお菓子を渡した。 低いテーブルの前に案内され、畳に座ったところに、「東京も暑いでしょ!米沢のジメジメした暑さには敵わないけどね」 そう言って石井が現れた。「石井編集長、この度はたいへんお世話になりました。感謝しております」 と言いながら、正座をして深々と頭を畳につける村上だった。「あそこまでよくやったね。マンガ同人会の活動にまんが展とはよく考えたものだね」「マンガもいまはブームともてはやされてはいても、まだまだ社会的地位は低いです。それにマンガを描いているといっても、ぼくたちのような同人誌では多くの人の目に触れることもありません」「そこでまんが展なんだね。プロの著名なマンガ家で人を呼び、同人会のみんなの作品も同時に見せてしまう……なかなか奇抜な企画力だね」 萩原が冷やした麦茶をコップに入れて持ってきた。「まんが展が成功されてよかったですネ」 萩原はやさしい笑顔で村上に言った。「村上クンにいろいろと相談があるんだけれど、今日は時間は(十分に)だいじょうぶかな?」 と、石井は麦茶を口にしながら言った。「だいじょうぶです。また、夜汽車で帰ればいいですから」 村上が答えた。「じゃあ、外に行こう!」 そう言うとすぐに石井は立ち上がった。 村上も石井を追うように立ち上がり、石井の後に続いた。 二階のマンションから外付けの階段を降りていった。まだ午前だというのに外の陽射しが眩しく照りあがる。 アスファルトの上を歩くと、暑さが下からも照らしてきた。 空気もモヤッとして、暑さが体中を囲う。 石井はそんな状態もお構いなしに早足で歩く。都会の暑さは酒田とは違うことを村上は実感した。「臭いなあ~」 都会の暑さには臭いがある。なま物が腐ったような臭いがする。 石井はビルの二階に駆け上がった。そこには喫茶店があった。 昼にしては暗い喫茶店だった。入るとスーッと涼しかった。冷房が入っていた。 真ん中辺りの窓際に席を取った。 アイスコーヒーを注文すると、石井はすぐに話し始めた。「村上クンが四日市に行くのは決定だね?」「ハイ。九月から行きます。東洋曹達は全国転勤なんです」「村上クンは長男だっけ?」「いえ、次男です。家には兄がいますから」「そう……だったら、四日市に行かないで、東京にこないか!?」「言い直そう。ボクんとこにこないか!!」 村上はビックリした。そして自分の耳を疑った。 「石井編集長……いま、なんとおっしゃいましたか?」 村上の眼鏡越しの目は大きく開き、石井の眼をにらみつけるようにして訊いた。 村上クン。そ、そんな怖い目をするなよ、と言って、石井はもう一度ゆっくりと言った。「ボクとCOMを一緒にやらないか」 村上は体中が汗で濡れていたが、その汗がスッと引くのを感じた。 2006年11月18日 土曜 記 2006年11月19日 日曜 記 2006年11月24日 金曜 記 2006年12月 6日 水曜 記 2007年 3月11日 日曜 記■(文中の敬称を略させていただきました)~山形マンガ少年~ 第三部『熱い夏の日』 ●第25回 スカウトつづく 「熱い夏の日~山形マンガ少年~」第26回にご期待下さい!! 「山形マンガ少年」まとめてご覧いただけます。 第一部「はじめちゃんの東京騒動記」のホームページ第二部「旅立ちの歌」のホームページ
2007年06月24日
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NPOの監査を終え、午後からは同会の総会でした。 この総会では理事が二人交代され、理事長が勇退されました。 理事長は創業のご苦労を見事に克服されてのバトンタッチでした。 それから記念講演。 その後、会場を移して交流会でした。 この交流会の盛り上がりもすばらしく、会員が明るく元気があふれていました。 このNPOの成功の秘密には、会員のキャラクターにありとみました。 とにかく明るく元気があるのはいいことです。 この秘密を学んで、明日西ノ宮を後にします。 2007年6月16日
2007年06月16日
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今日は兵庫県西宮に来ています。 私が役員をしているNPOの総会に出席するためです。 久々に再会した役員と事務局の面々は、いつもと変らず笑顔で迎えてくれました。 事務所が以前より整理整頓されており、とても感じがよくなりました。 阪神大震災から12年経ち、どこにもあの当時の被災地の陰はありません。経済的にも心理的にも、傷は癒されていない方はたくさんおられるそうです。 人々の復興はまだまだ難しいのです。 「天災は忘れたころにやってくる」といいます。でも、被災者と関係者以外の人はいつの間にか忘れてしまってしまうのも現実です。 NPOは今日も明日も住民の復興と、高齢者の介護に邁進して活動を続けているのです。2007/ 6/16
2007年06月15日
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~山形マンガ少年~ 第三部 『熱い夏の日』●第24回 巧妙な技第939回 2007年6月14日~山形マンガ少年~第三部『熱い夏の日』●第24回 巧妙な技「石井ちゃん、ところでお願いがあるんです」 手塚治虫はやさしい微笑みを浮かべて石井文男に向かって言うのであった。 こういうときの手塚先生は危ないから気をつけようと石井は覚悟した。 「手塚先生。クレオパトラのマンガ版は坂口(尚)ちゃんに依頼することにしたんですから、手塚先生が描くことはあきらめてくださいね!?やっぱり先生が描きたいのですか?」 石井は構えて質問をした。「う、うん。それは追々に……実は『火の鳥』のことなんだけど……」「火の鳥ですか?いよいよ最終回ですから、もう、落せませんよ(締め切りに遅れて連載を中断すること)」「そうじゃないんです。石井ちゃん、この鳳凰編は今までの火の鳥の中で、ボクは一番力を入れて描いているんです」 手塚は、おでこが見えるようにベレー帽をあげて、両手を大きく広げながら話を続けた。「それだけに十月号からの火の鳥は『復活編』で西暦二四八二年を舞台にします。でもストーリーが浮ばないのです」「奈良時代の『鳳凰編』から西暦二四八二年の『復活編』ですか……でも、先生、先ずは鳳凰編を完成させ、トキワ荘を描いてください。それが先決です」「ボクはこの鳳凰編に賭けています。手塚マンガと劇画や性を扱ったマンガと、どちらが価値があるかを読者に問いたいのでした。それだけに疲れました。 それからアニメラマ『クレオパトラ』の追い込みで、ヘラルド社からは絶対遅れないようにと釘を刺されています」 手塚の熱心さと社長として世間に笑われるようなことはさせてはならない。編集長としては社長の希望に応えなければならない。しかし、スケジュールは大丈夫なのだろうか?本人は山形へ行き、そこから秋田に向かう。ただでさえアニメラマ「クレオパトラ」の追い込みが続いており、どう考えても無理がある。 「先生、復活編は『科学と生命』がテーマと伺っていましたが……」 と、石井が言いかけたときだった。 手塚は右手で机をバシンと叩いた。 石井は目を手塚の鼻に向け、黙って直立不動になった。手塚の鼻がピクピクと動いた。「石井ちゃん。『トキワ荘物語』は競作といっても、トキワ荘そのものは、ボクがマンガ家のタマゴや新人を集めて今日の伝説になったわけでしょ? だから読者は期待しますよ。誰よりも力を入れなければなりません。」「手塚先生。そのとおりです。マンガ家の宿になったのは、先生がトキワ荘に住んだことに発しています」 石井の言葉に手塚は頷いた。そしてゆっくりと言った。「だから描きなぐったり、締め切りに追われて描くようなことはしたくないんです」 石井はその言葉の瞬間「ピーン」ときた。 手塚治虫一流の「原稿落し」だ。つまり、いろいろな理屈をつけて今回は原稿を描かないで次号に引き伸ばすことだ。それは手塚治虫という大家だからこそ、自分が社長の出版社だからなせる巧妙な技であった。コムの火の鳥はこれで何回も連載を休載していた。「先生。コムは手塚治虫の『火の鳥』が創刊以来のメイン作品です。この一作を読みたくて購入している読者の多いことはご存知でしょう?先生は休載して、コムをまた返品の山にするつもりですか」 石井は語尾を強めて言った。「まあまあ、石井ちゃん落ち着いてください。ボクの『火の鳥』も『トキワ荘物語』も休載するなんてひと言も言っていませんよ。 ボクが納得したものを描かなければ、読者は納得しないんです。だから、困っているんです。特に『火の鳥』は新作であり、連作の『トキワ荘』は他の誰よりも期待されるのはわかっていますからね」 ああ、困った、困った、と手塚はハムレットのように頭を抱えて、制作室を回り出した。 それを憮然とした顔で見ている石井だった。「だまされないぞ!!」 2007年 2月17日 土曜 記2007年 2月18日 日曜 記2007年 2月19日 月曜 記2007年 2月20日 火曜 記2007年 2月28日 水曜 記2007年 3月 2日 金曜 記 この回の物語は作者の創作です。■(文中の敬称を略させていただきました)~山形マンガ少年~ 第三部『熱い夏の日』 ●第24回 巧妙な技つづく 「熱い夏の日~山形マンガ少年~」第25回にご期待下さい!! 第一部「はじめちゃんの東京騒動記」のホームページ第二部「旅立ちの歌」のホームページ
2007年06月14日
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~山形マンガ少年~ 第三部 『熱い夏の日』●第23回 憤り第938回 2007年6月7日~山形マンガ少年~第三部『熱い夏の日』●第23回 憤り 手塚治虫と石井文男は久々にふたりで話をした。 以前はよく話をしたふたりだったが、「手塚治虫ファンクラブ」から「コム」に編集が移行してからは、落ち着いて話をする機会にはほとんど恵まれなかった。 手塚治虫はこの七月から虫プロ商事の社長になっていた。それだけに商事のメイン雑誌であった「コム」の石井編集長とのコミュニケーションを図る必要性は誰よりも手塚自身が感じていた。しかし、マンガ家としての手塚の比重は重く、どうしても経営や編集からは遠くならざる得ない手塚だった。 「石井ちゃん、そういえば一週間後にぼくは山形で少年たちに会うんですね? 漫画集団の行事で『花笠踊り』に参加して、地元の書店でサイン会ですかあ…… エッ、この日のうちに秋田に向かうんですか……強行ですね。 それじゃあ、サイン会後に少年たちと会いましょう」 「会う人数は、できるだけ絞って少人数にしましょう。 これからの虫プロ商事、虫プロ、手塚プロについて話し合いたいですね。ぐらこんの中からボクと一緒にマンガ制作をしてくれる人材を発掘させましょう」 手塚の目が光った。 手塚先生はやる気だな、長期ビジョンにたった改革を……。 石井は直感した。 隙を逃さず手塚は話し掛けてきた。「石井ちゃん、今までのコムはマンガ家発掘がメインになっていました。でも、これからのマンガ界やアニメ界にはプロデューサーや企画を練る専門家が必要です。ディズニープロを見学した時にそのことを学んできました。日本の映画が衰退した理由には、興行師的な感覚だけで当たる当らないの基準で作品と大衆を見ているからでしょう。プロデューサーや制作部門に専門家というか、その分野での作家、専門家がいないと、いずれマンガ界は出版社、アニメ界はテレビと映画会社の枠だけに規制された消費にしかなっていかないでしょうね」 こういうときの手塚は雄弁だった。「だから石井ちゃん、これからの私たちのコムは、そのことを意識してくださいよ。マンガ家志望やマンガ少年の中からきっとプロデューサーや各部門の専門家としてのセンスのある者がいるはずなんです」「手塚先生、その各部門の専門家?つまり現在、テレビや映画界にいる専門家の中の者を鍛えてもいいのではないでしょうか?」 石井には手塚の言うコムやぐらこんとの関わりがいまひとつわからなかった。「石井ちゃん、今井さんだって元々はボクの担当編集者だったでしょ。ボクのマネージャーを経て、虫プロダクションの常務、そして虫プロ商事の前社長だった。そいうい人には限界があるんですよ」 手塚の言う「今井さん」とは、出版社から手塚治虫を補佐するために転職した今井義章のことだった。「先生。なんですか?内部改革でもするのですか?」「石井ちゃん、ボクはそんなケチなことは考えてはいませんよ」「マンガ界、アニメ界全体の将来のことを考えているんです」 「いまの虫プロダクションをご覧なさい。 手塚の作品を作る組織が『ムーミン』や『あしたのジョー』がメインになっているじゃあないですか!? 最近聴こえてきたんですが、営業では手塚アニメは売れないとか、手塚は制作の細かい所に口出しするから作品が仕上がらないから、手塚以外のアニメを作るとか言っているそうですよ」 手塚はひとりでエキサイティングに話をしている。石井はそれを黙って立って聞いている状態だった。 確かに手塚のことは誰しもがそう思っていた。しかし、その反面、「アニメ界のパイオニア手塚治虫」に誇りを持ち、「手塚アニメはいい加減な作品にしたくない」という者たちもたくさんいた。「石井ちゃん。これからは就職や労働者意識のスタッフでは、世界的、歴史的な作品は生まれてきません。 ぼくが虫プロを作ってまだ九年しかたっていないのに、アニメ界は虫プロに右習えではありませんか。こんなことではいけません。 アニメ制作にも夢を持って挑む人を育てないと、商業ベースの作品しか生まれないでしょうね。」 石井は首を傾げて石井に訊いた。「それをコムで……ぐらこんで……やるのですか?」 手塚は石井の目をきつい目で見つめた。 そしてゆっくりと「うん」と頷いた。 連載とアニメ制作に追われているのにも拘わらず、こんな先々のことまで手塚先生は考えているんだ……と、石井はあらためて手塚の大きさを思い知った。 「ボクのマンガで育った人たちは、いまは売れっ子マンガ家として活躍しているではありませんか。 ボクのアニメで育った人たちは、ここ数年で社会に出るでしょう。あの山形の少年たちの年代がそうでしょう?」「手塚先生!?」 手塚治虫と石井の話は続くのだった。 2007年 2月17日 土曜 記2007年 2月18日 日曜 記2007年 2月19日 月曜 記2007年 2月20日 火曜 記2007年 2月28日 水曜 記 この回の物語は作者の創作です。■(文中の敬称を略させていただきました)~山形マンガ少年~ 第三部『熱い夏の日』 ●第23回 憤りつづく 「熱い夏の日~山形マンガ少年~」第24回にご期待下さい!! 第一部「はじめちゃんの東京騒動記」のホームページ第二部「旅立ちの歌」のホームページ
2007年06月07日
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今日は仕事で、東京と横浜に来ています。 ようやく休憩をしてコーヒーフロートを飲んでいます。 今日もたくさんの収穫がありました。 多くの人たちに会って話をすると、知恵がわいてきます。 刺激が頭を刺激するのでしょうか。 暑さも好きです。
2007年06月06日
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入居者の人生から学ぶ姿勢 大学のスクーリングで面白い講師と出会いました。 N先生はグループホームに勤務しておられ、介護の視点は私たちと同じ、普通の生活が基本になっていました。 なかなかこのような福祉関係者は珍しいので、ついつい講義に夢中になってしましました。 この先生はミュージシャン志望だったようで、所々に音楽の話や写真が折り込まれていました。 講義の中で一番感心したのは、入居者から学んだ生きた福祉論でした。謙虚にその方の人生に学ぶ姿勢こそが、いまの福祉現場に欠如していることかもしれませんね。
2007年06月03日
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もうひとりの熱い夏の日 大学生である私はスクーリングで上京中です。 この間は「熱い夏の日」の執筆もできません。 昨日の朝日新聞でのごとう和さんの記事で、彼女と手塚治虫先生とのやり取りを思い出していました。 ぜひ、「熱い夏の日」で再現します。 いまやマンガ家として大活躍のごとう和さんも、あの1970年は熱い夏の日だったのではないでしょうか。
2007年06月02日
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今朝の朝日新聞二面「人」欄に、マンガ家ごとう和さんが紹介されています。 ごとうさんはパーキンソン氏病の体験をもとに作品を描くとのこと、山形漫研出身者としても益々活躍していただきたいものです。 山形で手塚治虫先生と一緒にお会いした日が懐かしいです。
2007年06月01日
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