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U-Bahn 1号線の東側終点の近くになると地下ではなく高架線になり旧東独の地域に入る。そして終点の手前でSpree川を渡るとその東岸線路の北側が壁の一番長く残されている場所、壁が多くの人々によって様々な絵画で埋め尽くされ、East Side Galleryと呼ばれる場所になったところである。川を渡って数百メートル先が終点Warschauer Strasse駅になる。 U1を降り、線路の横の大通りを下って行くと、Spree川を渡る橋の手前に大きな交差点があり、その交差点を右折して直ぐ左側から、川沿い道路際に、約2kmほど続いて残された壁がEast Side Galleryになっている。 Berlinの壁が残っているところには、Berliner Mauerと書かれた、壁の高さの茶色の金属製角柱が立っている。 写真左下に移っているのはベルリンの猫のイラストか? 角柱から先を見ると、壁が見渡す限り続いている。壁が壁の役をしていた時代、壁の上にはバラ線が何重にも張られていた。いまは、壁はキャンバスである。崩されていった壁の残された部分に、多分最初誰かが書いたのは、勝利の言葉であったのではないだろうか。それを見て次々といろんな人が書き始め、その内に、コンテストの状態になって来て、皆が認める良いものは保存され、表現に自信の無いものは手が出せなくなっていく。そして今や、Galleryに相応しい様相である。角柱の案内標識のところから見渡すと、カラフルに彩られた壁面を大勢が見ている。平日午前にもかかわらず、三々五々、見物人は絶えず。 壁には所々、取り除かれた部分があり、壁と河岸の間に建っているビルディングへの出入り口になっている。最初の出入り口は、Berliner Mauerを示す道標と壁の始まりとの間から覗いている6階建てビルである。看板状の茶色のペインティングにクリーム色でThe Wall Museumと書いてある。そのビルの3階(欧州風にいえば2階)がそのmuseumで、壁の歴史が展示されている。因みに、道路側が東ドイツだったところ、The Wall Museumは西独だった側にある。 The wall museumを見た後、裏手,川沿いから壁の裏側を見ると、いろいろ絵が描いてある。しかし、表に比べて壁面の埋まり具合は一寸隙間が多く、閑散感がある。そして壁の前は駐車エリアになっていて、壁を見る人の方も閑散としている。 壁の表(旧東独側)を見て行くと、ギッシリと画き埋まられている。有名になっている絵もあるんだそうだ。特に有名らしい男性同士がキスしている絵の前では、記念撮影する人が絶えない。撮影のポジション待ちの状態であった。
2019.02.20
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猫がベルリン旅行、生の猫には容易でなく、ヴァーチャルキャットの我がニャンスケだからこそ出来たことである。今回も、芝居見物同様、我が宿主は相方のお供なのである。宿主は、糸が切れそうな凧みたいな相方の、いわば重り役なのかも知れない。Berlinを昔日本人は伯林と書いた。到着したとき、既に日が暮れていて、気温は零下5℃程度、人は皆軽くて厚い人工羽毛入りのジャケットに身を包んで歩いている。日本の街で、冬に黒いコートの人が多く、交通安全上最悪と思っていた。Berlinの街の人々も似た色好み、つまり黒好みで、あきれるほど東京の風情と似ている。そして、道にうっすらと雪。所々ぬかるんで、そして、これは後から見たのだが、白樺が彼方此方に林を成している。もしかしたら、明かりがない雪と白樺の中では黒は目立つ色と言えるかも知れない。質素で紳士淑女的雰囲気。なるほど伯林とはよく名付けたものだ。この漢字がこの街の雰囲気を、百年以上経た今でも、よく表しているように思える Berlinに5泊6日いて、猫をモチーフにした様々な絵画や小さな猫像には至る所で会ったが、ついぞ生身のお猫様には会えなかった。ずっと気温が零下だったから、猫は防音室に閉じこもり外出無しというか?それはそれで仕方が無いか? それはさておき、歴史の街である。プロイセン王の都ベルリンに設けられた出入り口のひとつで、王宮の正対に位置するため代表的な門としての誉れ有るブランデンブルグ門、1848年にはナポレオンの凱旋門ともされてしまったブランデンブルグ門。はナチスドイツの席巻するドイツ帝国の首都ベルリン。ユダヤ人虐殺の原点。そして、戦後処理でベルリンはソヴィエト連邦が占領するドイツの東側(いわゆる東ドイツ)に存在したにもかかわらず、ベルリンだけは連合国(つまり英米ソ仏)が分割統治する特別地域となった。 分割統治下の東西ドイツに、次第に大きな経済格差が生まれてきて、良い生活を求めて1051年から1961年までのほぼ10年間に、毎年東ドイツ人口の1%が、そして10年間では人口の10%が西側に出る状況が生まれてきた。多くは、東西が自由に出入りでき、道路も鉄道もつながっていたベルリンから西ドイツへ抜けていった。国の存亡危機で、兎に角人の出を防ごう、出来たのが東ドイツ・ソ連の連携でつくられたベルリンの壁。1961年のことであった。ブランデンブルグ門の直ぐ西側が東西の境界で、西側から見ると、壁の直ぐ向こうに、封鎖された道路に無為に立つブランデンブルク門が見える構図になっていた。ブランデンブルク門の前から門と並行に南下する道は4カ国の分割統治の分かれ目となるポツダム広場につながっており、本来繁華街だったその道は壁で並行する2本の道に分けられるような形になっていた。壁で囲まれたのは英米仏が統治していた西ベルリンである。西ベルリンは東ドイツの領内のど真ん中に出来た英米仏への抜け穴の入り口であった。大多数が、東より西が居心地良いと感じてしまっていたので、壁がつくられれたとき、閉じ込められた感が出て、抜け出そうとする本能がむき出しになったのは枠の外だったはずの東側であった。東側は、漸次、壁の内側にもう一つ柵を設け、柵と東西の壁の間に入ったものは銃殺という方針をとった。しかし、命を賭して抜け出す人々を皆無にすることは出来なかった。東側が上手く行かなかったという歴史的事実の由来となる問題は多分二点に集約される。ひとつは人間の我欲である。もう一つは人間の甘えである。共産主義のアイデアは、全ての人が一生懸命お互いのために役割分担を持って働こう。成果は平等に分けよう。ということである。一生懸命やっているか否かを、どうやって判断するのか。皆が、来るべきキリストの最後の審判の時に、顔を上げていられるように、それがキリスト教徒。そのためには、地上の生き物が見ていなくとも神は見ている、という信仰が肝になる。共産主義は、何を思ったか、その人間の誠意が生まれる源であったキリスト教を廃そうとした。一生懸命の判断者を現世の人間にしてしまった、そうなれば、あらゆる誘惑が、評価する側と評価される側の間で発生し、収集つかなくなることは目に見えている。最終判断者を皆で選んだ議長にするとしても、その議長をどうやって選ぶかで利権闘争が発生してしまう。そして、それに拍車を掛けるのが、ずるしよう甘えよう、あるいはそれを餌に供応を求めてしまうという、上下双方に生ずる誘惑である。上司に気に入られるためにチャラチャラして見せて、高い評価・給料をもらおう。チャラチャラを要求して、応じれば昇給昇進、応じなければいびり出しあるいは不当評価による左遷である。考えて見れば、共産主義の失敗は、神という人間の手の届かないところに絶対者を設定する宗教の英知に気づかなかったことなのではないだろうか。ともあれ、1961年に壁が出来、それ以来、東西の格差は加速度を付けて開き始めたように記憶している。その一方で、米ソ宇宙競争が牽引する形でエレクトロニクス、航空宇宙技術、情報科学技術が急速に展開し、西側の民政技術情報は為政者が為す術もなく東側の庶民に浸透していった。80年代当初からソ連でゴルバチョフ大統領による大胆な情報公開(グラスノチヒ)と共産主義の問題点に直視した社会主義再建運動(ペロストロイカ)が展開され、急速に社会が活気を帯び始めた。それに呼応するように、東欧のソ連影響下に置かれていた諸国でも、ゴルバチョフ路線や更にそれを推し進めた社会民主主義的政権が建ち始め、共産党独裁から共産党幹部の貴族化という本来の趣旨からは大きく逸脱した状況が顕著になってきていたチェコなどでは、市民革命的な状況が生じ始めた。ベルリンの壁崩壊はその東欧圏共通の市民革命的動向の象徴的な事件として記憶されることになった。中国天安門事件が1989年6月4日、その流れの中で、着実に歴史を動かした出来事がこの11月9日に起きたベルリンの壁崩壊であった。 今、ブランデンブルグ門は統一ドイツと平和の象徴、さらにはヨーロッパの象徴として多くの観光客が訪れる場所で、その意味はユーロ硬貨のデザインとなっていることが明快の象徴している。その統一はゴルバチョフ氏のペレストロイカ/グラスノチヒとそれに鼓舞された大衆である。しかるに、そのブランデンブルグ門、東から見て門手前左隣に駐独米国大使館が連合国のドイツ支配を未だに象徴するかのようにドーンと居座って居るのはいかなるものか?勘違い米国の象徴、暴力的権力が取り除かれたとき、その代替者が既に名乗りを上げている、そんな風に見えてしまうのはニャンスケの余りに斜に構えた猫目線だからであろうか。 ブランデンブルグ門から北数百メートル行くとドイツ議会、その少し東に首相府が、更に1キロメートルほど東のSpree側の畔には大統領が住むBellevue Palaceがある。ベルリンは戦後45年の空白を経て1990年以来、ドイツの中心に、そして多分ヨーロッパ文化を代表する中心のひとつに返り咲いている。 U2のブランデンブルグ門駅では、音楽が流れていた。それはブランデンブルグ協奏曲、3番だったか5番だったか一寸記憶が曖昧。J.S. バッハ:ブランデンブルグ協奏曲 全曲 (2CD) [ImpOrt](J.S.Bach:Brandenburg Concertos)【中古】【オリコン加盟店】■ベリー・ベスト・クラシック1000 CD【バッハ ブランデンブルグ協奏曲(全曲)】10/10/6発売【楽ギフ_包装選択】
2019.02.16
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2018/12/9 第56回赤坂をどり 長唄 春の節会・うたげ、 新邦楽 欄夫人(ランフーレン)、奏風楽・小唄・端唄 赤坂芸妓師走賑 TBS赤坂ACTシアター 主催:東京赤坂会赤坂をどり/TBS/TBSラジオ 後援:港区 運動神経が鈍い宿主にとって、踊りという行為は、実は、天敵に近い。自ら行うのではなく、見る立場だけなのである。それに対して、宿主の相方はだいぶ違う。何せ、自分は歌が上手くて可愛くて人の目を引く立ち居振る舞いが出来ていると信じて疑わない相当始末の悪い輩である。都合が悪くなると、「私はチビで体力がないから、ずっこける事もある、」と逃げる。 「赤坂をどり、見に行こう」と切り出したのは相方である。相方は文学を専門としていると称している。そして、一応、極めて多品種に、いろいろやっている。しかし、どうも認識や行動が怪し気である。何故赤坂をどりを見たいのか?日本の伝統芸、日本舞踊をよく知りたいから。そして、日本の女性史、文化史に重要な吉原に代表される遊郭などでの芸妓の文化を知りたいから。 しかし、話している内に、宿主の相方は遊妓と芸妓の区別が出来てないようなのだ。一緒にしている。まるで昔のポンコツ爺みたいな認識だ。従って、芸者という職業への認識は芸者の皆さんから怒りを買うこと間違いなし。こういう芸者という生業への酷い認識をただすためにも、赤坂をどりなるものを見に行く価値はあるのかも知れない。 ところがである、12月9日の朝になって宿主の相方は突然宣わった。「明日から私はイタリアに行く。準備があるから今日のをどりは見に行けない。切符が無駄になるからおまえだけ行ってこい。」というわけで、宿主は、自分の意思だったら絶対に行かないであろう芸者をどりを見に、赤坂はTBSに向かうのであった。言うまでも無く、寄生しているMr. Cats’ Gardenと私ことニャンスケも同行である。赤坂の料亭・座敷は国の方向を決めるような政官財界の意思決定が,時に利権絡みで阿吽の呼吸で動く場所であった。そして、宿主が昔、多分1980年代中頃、ほんの少し接した情景・会話をMr. Cats’ Gardenとニャンスケが再構成してみるに、浮かんでくること、それは、一流の芸妓さん舞妓さんはお座敷用白塗り正装の時は勿論、馴染みにはスッピン平服でお座敷に行く場合も、正装時平服時を問わず、お座敷関係のお付き合いでは、口も貞操も極めて堅い。これが緩んだら一流から外され、漸次花柳界から消えざるを得なくなる。 TBSの階段を上がってロビーに入ると、客筋が何時もの観劇時と一寸違う。現代劇より歌舞伎座の客に近い。和装の年配女性客が目立ち、男性客は2割程度。比較的若いあるいは年齢不明の女性客も、日本舞踊を嗜んでいる雰囲気が漂う。そして一流どころの女優さんの名前で花が沢山出ている。そして、お土産品の菓子や簪その他小物がいろいろ売られている。席に着くと、7-8割の入りか?入場券に書いてある演目を見ても、開幕前の場内アナウンスを聞いても、宿主にはどういう展開になるのか皆目見当つかず。芸者の踊りというと、大勢が横に並んで日本舞踊、というような,これはつまり、阿波踊りや雀踊り、果てはリオカーニバルなどのパレードでの踊りながら練り歩くイメージからの連想、映像で見た図の様な感じもある連想である。11時半開演という設定からも、2階席3000円という値段からも、多分公演時間は普通の劇場公演2時間前後より可成り短いだろう、多分一時間から1時間20分の間ぐらい、という漠とした心づもり。しかるにである、幕が開いた途端、すとっと半分ぐらい腑に落ちた。上手袖が御簾になっており、その前に和楽器地方4人が袖に添って一寸斜めに並ぶ。記憶に間違えがなければ、奥から琴、鉦、篳篥、そして一番客席寄りに鼓。一方下手袖前には地唄担当らしき前四人1列と、三味線4竿が後列。全員女性。要するに、能・狂言・歌舞伎など伝統男舞台の女版という感じである。をどりは、そういう意味の舞なのだ。最初の出し物は長唄、うん!判った。でも唄が始まり音を聞いていると、あの和楽器4人では出せない音が入ってくる。御簾内に笛太鼓が居るのだ。楽隊、いわゆる地方、は充実してる。そして、舞台への登場人物は何と二人だけ。詳しい筋は全く記憶に残ってない。恋の道行き恋物語?これは宝塚歌劇団の国内ルーツなのだ。宝塚は日本の伝統文化に根付いていること、改めて認識。多分20分ぐらいで長唄が終わると、10分休憩と来た。このペースで1時間半持って行くのか?次の幕が開いて、驚いた。題目がカタカナ「ランフーレン」括弧内に(蘭夫人)。何だろと思っていたら、地方は舞台表面から消え、舞台全体が黄色っぽい。そして出てきた立ち方は、また二人。いわゆる和装ではなく今度は中国風。長唄でも都々逸でもない、演題の前に「新邦楽」というト書きあり。聞こえてくるは一寸中国風にも聞こえる旋律。中国で伝えられているという蘭の精との恋物語。要するに羽衣伝説、鶴の恩返し、はたまた竜宮城のお話などの仲間の話。宝塚歌劇団の祖先が芸妓をどりとすれば、舶来ものに心惹かれるも尤もなり。また一寸腑に落ちる。 ビヤンビヤンと太三味線の音がしたかどうか記憶曖昧なれども、めでたく中国風「をどり」が幕となり、アナウンス。「次の休憩は25分となります。お食事ご予約の方、準備できておりますのでお早めに食事会場にお越し下さい。一階の売店に千うん百円とお手軽なお弁当も用意してございます。ご利用下さい。」これで完全に腑に落ちた。正に歌舞伎と同じだった。食事時の前に開演して第一幕第二幕、食事時に長めの休憩食事時間、そして第三幕は主舞台のはずだが、時には意外に短い舞踏ものだったりする。千うん百円の弁当とは、閉店間際で半額割引になった100円おにぎりを好物にしている宿主にとって気絶もの。 客席を見ると、結構な割合が席でじっとしている。その割合は、有権者の中で実際に自民党に投票する有権者の割合ぐらいか。しかるに、座った席がばらばらで纏まらない。さてはこれは旧民主党系の割合というべきか?食事を予約したと思われる人数も似たようなものと想像されるが、こちらは纏まって食べているらしいので、さてはそっちが自民党系か。 馬鹿なことを考えている内に、第3幕が始まった。ズラリ12人の白塗り正装芸者が横に並んで舞う。これが、事前に想定していた赤坂おどり、あるいは芸者おどり。良いです。壮観です。美しいです。 終わると、ほぼ開園後2時間が経っていた。一般的な舞台の公演時間に合わせている。2階席から、人の流れに乗って1階出口に向かうと、少し前を、先ほどまで舞台にいた芸妓集団が表に向かっている。そして、出口階段上で並んでお客様のお見送りとなった。この辺は手作りアングラ系劇団のやり方と同じ。良いですね!と一瞬思ったが、チョット拙いことも直ぐに気づいてしまった。芸妓は高齢化しているのである。目一杯躍った後である。白塗りと皮膚の間に隙間も生じよう。ひび割れた白塗りから、茶色い皺肌が垣間見えてしまう。一寸無残なり。 若い女性客たちが、一緒に記念撮影して下さい、と芸妓たちに声を掛け、彼方此方で撮影会が始まった。良いです、素晴らしいです。でも、そう思いながら、宿主は余り振り返らず地下鉄の駅に急ぐのであった白塗りの隙間からのぞく茶色の皺肌。芸者さんの前に出れば、そのイメージに支配されていることが表情に出てしまう。そういう事態は避けるべし。ニャンスケ輩、Mr. Cats’ Garden共々、この宿主の行動には、もう一寸、心に隙間をつくったら、と言いたくなるのだが、寄生している身の上故、宿主共々、階段を下っていったのであった。 芸妓の世界、ニャンスケも詳しいわけでは勿論無いが、その歴史や経緯を全く知らないで日本文化を語るのは問題ありと感じている次第。入門編の例はこんなもんでしょうかと掲げてみたのが以下の数例。2019/2/1 up
2019.02.01
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