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高三の娘と夫は、競い合って飼い犬であるユズを虐待する。が、虐待に見えるのは他人にだけで、実は本人達はそれが愛情表現だと認識している。当のユズは、私から見るとひどく怯えている。実際、夫が帰宅して車から降りると、犬小屋と壁の間に入り込んで、尻尾を下げてじっとっしている。娘についてはそこまではないが、朝、出掛けようとする娘が、根限りの大声で「ゆずっ!!」と言うものだから、彼女が家から出ると、緊張した面持ちになる。いつ大声を出されても良い体勢を整えているのだ。 そんな晃子が言うには、「ユズには絶対に心があると思うよ。」・・・・・心。そりゃあるわいな。何を今更、と思っていると、彼女の言い分は、ユズもその時の気分で帰ってきた人を迎える態度が違うと言うことらしい。 一部の飼い主に似て気分屋なんじゃないの?と言うと、タハハ・・と笑った。
2007年11月29日
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懐かしさと言うものは、どうして涙を誘うのだろう。例えばそれが楽しい思い出であっても、微笑むのと同時になぜか涙腺が緩んでしまう。 日曜日と言うと、広い工場で一人仕事をしながら、私は大きな声で歌を歌う。知っている曲、心に浮かんだ曲を手当たり次第歌うのだが、さだまさしの曲を歌うことも少なくない。 さだまさしのファンと言っても、かなりメジャーな曲しか知らない程度だが、ふと、「飛び梅」を口ずさんだ。♪しんじ池に掛かる 三つの長い橋は 一つ目が 過去で 二つ目が 現在(いま)~~♪ 高校3年生の頃は、さだまさしだの、吉田拓郎だの、長淵剛だのを聞きあさっていた。私が九州(福岡県)の大学を志したのは、長淵剛の曲に出てくる「大濠公園」などがあったからかもしれない。♪ミドリの地図を 指で辿って 君のうちまで バスに揺られた♪と言う歌詞。福岡大学や西南学院大学を受験するに当たり、購入した福岡市の交通マップに、緑色のバス路線があったのを見て、「長淵さんはこの地図を見たんだろうか・・・」と真剣に考えたものだった。 そんな福岡フェチの私の受験に、滅多に遠出をしない、と言うか、姑によって外出を阻止され続けた母が、同行してくれた。試験が終わってだったか、先立ってだったか、とにかく、二人で訪ねたのが、学問の神様、菅原の道真を祭った太宰府天満宮だった。 母と共に、しんじ池に掛かる橋を渡り、本殿にお参りし、帰りには梅が枝餅を食べた。 いま、高校3年になった娘の入試状況は、広島市内の専門学校への合格で一応、一息ついたというところ。入試旅行に同行することはもうないだろう。いつも仕事、仕事で、余り構ってないから、こういう時くらい、一緒に旅行に一つでもと思わなくもないが、実は経済的にそんな余裕はないし、時間的にもまず無理。不憫に思いつつ、私の思い出を辿り、飛び梅を歌いながら、少しセンティメンタルに浸った。 この人と結婚するだろうと思っていた大学時代の恋人とも、一度、大宰府を訪れたことがあった。当時、学友の間では、大宰府でデートをすると、その恋は成就しないと言う噂があった。私たちは、「そんな事、絶対にない!」と断言したけれど、例に漏れなかったわけだ。 きっと、恋人同士で訪れても、分かれることのない二人はいる筈で、私たちが分かれたのは、大宰府へ行ったからではなく、縁がなかっただけなのだ。 でもそのお陰で、ちょっと乱暴者で天邪鬼ですごく照れ屋な夫と出会い、生まれ育った家のすぐ近くに嫁ぐことができ、多少貧乏はしているけれど、雨風を凌ぐことの出来る家があり、暖かいお風呂に毎日入れ、「今日は何をしよう。」と途方にくれるほどの暇をもてあますこともなく、頂いた命を有意義に過ごすことができている。 それにしても不思議なのは、懐かしさが、何故、涙を運んでくるのか、と言うこと・・・・・。誰か、その理由をご存知ありませんか?
2007年11月25日
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夕べ、一人お風呂に入っていて、曲がらない私の左手の薬指のことをふと思った。 もう10年以上にもなる。今、高三の娘が小学校に上がった年の6月19日のことだった。水曜日。まだ午前中のことだったと思う。ある得意先からの下請けの仕事。タンスの前板と同じ材料。それはいつも使っているのとは違って堅い材料で、小さな引き出しを作っている時のことだった。 普通ならローラーと言う器具で材料を押すのだけれど、急いでいたし、僅かな数だったので、左手で押していた。ふと緊張が途切れた瞬間、小さく堅いその材料は手前へと回る刃物の力で私の方へ押し戻され、その反動で材料を押していた私の左手は高速回転をしている刃物へ叩きつけられたのだった。 使っていた刃物は18mmカッター。材料に18mmの幅の凹の出来るものだった。自分の手の何処にどう、その刃物が当たったのか判らない。ただ、傷ついた左手の指を右手で力の限り握りこみ、夫を呼んだ。当時はまだたくさんの従業員さんが勤めていたが、そんな時に一番に呼ぶのはやはり夫の名前だとわかった。 工場のどこにいたのか、ただならぬ声を聞きつけ、おっとはすぐにやって来た。怪我をしたところに何か布を巻くことさえ思いつかなかった。痛みはそれほど感じなかった。とにかく、力いっぱい自分の手で自分の手を握り締めていた。 車で10分ほどのところにある総合病院に着いて、救急処置室へ案内された。手のひらを上に向け、握りこんでいた右手を緩めると薬指の付け根の方の関節から先が、コロンと手のひらの方へ入っていた。切断を余儀なくされるだろうと感じた。ただ、指先を触られると感覚があった。 傷を洗浄した。数箇所に麻酔を打ち消毒液を流す。そしてブラシで傷をごしごしとこするのだ。この業界?!で仕事をはじめ、機械を使い始めて何度か怪我をしたので判るのだが、洗浄がいい加減で化膿した場合、本当に長引いてしまうので、外科、或いは整形外科の看護師さんたちは、根限りの思いで洗浄して下さる。全くありがたいことだ。自分でやれと言われて、到底できることではない。 水曜日は晃子のピアノのレッスンがある日だった。時間までに連れて行かなくてはならないことが気になった。でも、どうしようもない。結局、実家の母が動いてくれて晃子の皆勤賞の望みはつながれた。 開放骨折。折れた骨が皮膚を破り空気に触れた状態にある骨折をこう呼ぶ。骨に雑菌が感染すると厄介なので、完治までの全期間を病院で過ごす事を薦められた。 手術は何時からだっただろう。三人の整形外科医の先生がオペ台の周りで、話し合いながらの手術だった。手のひらの方へコロンと転げて入っていた薬指は、それでも、運よく手のひら側が無傷で、太い血管と主要な神経が繋がっていたので、3本の針金を指して関節を固定し、とりあえず長さだけは確保する方向となった。 中指の先はかなり損傷が激しく、爪は割れ、骨も砕けていた。幾つかに割れた爪を糸でつなぎ、その下の組織を再生の助けに縫い付けられた。ただ、爪の原組織がやられているので、この爪がはがれて落ちたあと、新しい爪が生えるかどうかは、現時点では判らないとのことだった。 母から譲り受けた天性の能天気が幸いして、傷の癒えは奇跡的に良好だった。数日違いで右手の全ての指をプレス機で潰し入院してきた男性は、怪我のことを気に病む余り、治療の進展が思わしくなく、さらに数回の再手術を受けられたのだった。 きっと、気分だけではなく、傷の程度の違いもあっただろうと思うが、この時ほど、お気楽に産み落としてくれた両親に感謝したことはなかった。 退院したのは八月の終わり。夏の終わりを告げるツクツクホーシが鳴く頃だった。 二ヵ月半近くの入院生活の後、娑婆に出た私の左手は、じゃんけんをしてもグーは出せない姿になっていた。小銭を手のひらに載せると、中指と薬指の間からこぼれ落ちてしまう。それが最初は情けなく思われた。 何気なく手を振ると、曲がらない薬指があちこちにぶつかる。重いものの底に手を掛けて運び、再び置こうとすると、曲がらない薬指がつっかえてしまう。その後の痛みの程度から、恐らく何度かひびが入ったのではないかと思う。不便だ。何度か、ふと思った。「こんな薬指、なくても良かった・・・・」 でも、きっと無かったとしたら、もっと大きな不便があったに違いないし、ここにこうして残っている薬指は、一生懸命に私のために仕事をしようとしている。そんないたいけな薬指を邪魔に思うなんて、私はなんて人間だろうと思う。 2ヵ月半近くの入院生活の間、まだ2歳だった息子をずっと連れて寝てくれた義母夫婦。もともと、台所は義母に任せ切りだったけれど、さらに、義父母は孫を母親に会わせ、洗濯物を引き取るために病院へ通ってもくれた。私のいない工場を夫は一人で仕切ってくれた。母恋幼子二人は、無茶を言わず良い子にしてくれていた。 何をもって一人前と言うのかは定かでないが、もし、怪我をする前の私が一人前であった摂るれば、怪我をした私は一人前未満になった。 でも、そんな私を励まし、受入れ、助け、ともに歩んでくれる家族や周りの人たちがいる。スーパーでお金を払う時は、財布に溜まった小銭を取り出し、手のひらに乗せるのがちょっと億劫だけど、「ごめんなさいね。」と言いつつ、時間を掛けてお金を払う。終わったら、必ず次の人に「お待たせしてすみませんでした。」と言う。それが私のルールになった。 曲がらない薬指が私に教えてくれたものは、へりくだる心なのかな。そう思うと、怪我をするまでは私は結構高飛車なヤツだったのかもしれない。怪我をした後も、へりくだった気でいるだけで、ひょっとして他人から見ると「高飛車なヤツ」かもしれないが、麒麟の田村君が言っていたように、少なくとも幸せのハードルは低くなって、きっと標準より幸せな人生を送っているような気がする。
2007年11月21日
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ホームレス中学生を書いた麒麟の田村君が先週末だったか、オヤジズイレブンに出演していた。 彼の言葉を借りると、「幸せのハードルは低い方が良い。」 うん。それは常々思っていることだよ。彼曰く、講演生活の後、ある同級生宅に呼び入れてもらって振舞ってもらった食事。何より、「お箸」でモノを食べられることが嬉しかったと言う。 どん底を経験した人間にしか判らない幸せなんだろうな。でも、今、こうして、外界と隔たりのある屋内で、雨風を凌ぎ、生活できていることは、当たり前のようで実は決して当たり前ではなく、会社を創立した亡き会長(義父)、それを陰に日向に支えたその妻(義母)の功績があって初めてのことであり、それを継承し何とか食いつないでいる現社長(夫)のお陰でもある。 感謝しようと思えば何にでも感謝でき、喜ぼうと思えば何にでも喜ぶことが出来るのに、得てして恵まれない部分や、不満ばかりを思い、自分の務めを忘れがちな毎日。彼の言葉に、今一度、反省を促され、また、スタートラインに立ったような気持ちになった。 ここで間違ってはいけないのが、下げるべきなのは幸せのハードルであって志では無いと言うこと。ここを間違えると、「何言ってるの?」ってことになるので要注意。 話は変わるが、先週のリンカーンでは、ネプチューンの健、名前忘れた・・・・・がお笑い映画?!瞬間芸映画を作って披露していた。その中で、大好きな佐久間一行君が、持ちネタを披露していた。二階で勉強している晃子を、通り中に響くほどの大声で呼び下ろし、ともに、彼に会えた事を喜んだ。佐久間君は確かに面白い。
2007年11月19日
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まずは、ここに報告。待ちかねていた合格通知が届きました。って、待ちかねていたなんていうと、合格するに決まっていたような印象ですが、決してそうではなく、去る日曜日、試験から帰ってきた晃子に、面接の一問一答を聞くにつけ、「をいをい!そりゃまずいよ。」ってな内容ばかりで、こりゃ、やばいんじゃないの?と言うのが正直な気持ちでありました。 しかし、嬉しい事に予想に反して合格。まずは胸をなでおろしたのでありました。あとは、期日に遅れないように入学金等を振り込むこと。高校入試の時の私立への9万円は付いて行くようでしたが、今回は意気揚々と入金します。 学生寮は既に満員。提携不動産屋さんのパンフを貰って帰ったといっていましたが、アパート、結構掛かりますからねぇ・・・・。 と言うことで、報告はここまで。次は晃子の近況。 先週後半だったか、元カレから、テンションの高さと物言いの無神経さを指摘され「何であいつにあんなこと言われなきゃいけないのよ!」と怒り心頭だった晃子。お風呂に入りながら話したのは、「あいつ、ここ、治した方が良いと思うけど、言うと怒るし、あいつが人に嫌われたって、俺(私)はどうって事ないし、って思って、知らん顔する友達が殆どじゃないの?その中で、晃子が怒る事を判っていながら、敢えて「もちょっと、考えろよ。」って言ってくれたのよ。ありがたいと思う分とも、怒り散らすなんてどうかと思うわよ。」 さらに、専門学校を受験して帰った晃子に、親友のAKARIちゃん曰く。「晃子、合格しても学校ではしゃぎまわらないのよ!」 晃子が単細胞な事よく判っている!AKARIちゃんからのこの一言には、晃子、素直に頷いたらしい。 元カレとAKARIちゃん。言っていることは大して違わないのに、過去の経緯で受け取り方がこんなに違うの? でもね、大事なことは、苦言はありがたく受け止めるべきだって事。自分を変える勇気。大事だと思う。勿論、ありのままの自分は大事にしなきゃいけないけど、さらにレベルの高い自分を志そうよ。 例えば、物静かな人柄を無理にハイテンションに変えたり、オキャンなところを妙に大人らしげに振舞う必要なんて無い。ただ、自分がどれだけ心地よいかと同じくらい、周りがどれだけ心地よいか。そこに心を配れる人になりたい。 と言いつつ、実は今日、仕事のことで、同じミスを何度も繰り返すM氏にズバッと言ってしまった。M氏曰く、「おかしいと思ったんだ。」でも、そのまま仕事を続けた結果、間違った数のまま仕上がってしまった。 「おかしいと思ったら、訊いて下さいよ。そこってM氏の悪いところですよね。おかしいと思いながらそのまま続ける!」 M氏は少し憤慨しながら退社したが、はてさて、明日の朝の風向きや如何に??
2007年11月15日
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会社良くする為には、何をどうすればよいのか、いつも悩んでいる。先日も商工会議所の集まりで、経営者としての会社経営の改善のためのノウハウを伝授頂いた。すこぶる納得の行くもの。 その中で「動きを阻むものを挙げよ」と言う項目があったが、私は一も二もなく「夫(社長)」と書いてしまった。 夫婦で同じ仕事をするのはとても効率的であるように見えて、実は相当難しいと感じている。と言うのが、夫婦であるだけにどうしても甘えが出てしまうからだ。偉そうにこう言っている私だって十二分に夫に甘えている。 夫の手の早さに(女を引っ掛けるそれではなく物を作るそれです)に甘えて、完成推定から逆算して、恐ろしく短時間の仕上げを求めていたりする部分。それから、配達に出かける夫に、便に銀行とか諸々の用事をお願いする部分とか。 でもそれを差し引いても、夫の傍若無人加減は尋常ではないと思っているし、何より、「社長」と言う立場でありながら、例えば今回私が出掛けた集まりなどの会社経営についての研鑽を積むような場所に、全く出かけようとしない様子に、私は痺れを切らしている。会社を良くする為に、何もしないくせに、地元の小学校や中学校のサッカー部の世話だけは、頼まれもしないのに、せっせとやっている。 会社が順風満帆で大いに黒字が出ているならそれも結構だが、今の状況では如何なものか。 経営のみならず、現場の仕事についても然り。 昨日は、ちょっと大きめな箱を組み立てるのに、私一人では手に余るので「ちょっと手伝ってぇ~」と言うと、「俺だって仕事中だよ。」と言い放ち後も見ないで立ち去る始末。どんな手伝いを求めているのか、どのくらい時間が掛かるのか、それくらい尋ねてからでも良いのではないかと思う。彼には、それを尋ねると後に引けなくなると言う懸念が先立つのだろう。 結婚したての頃、実家の父が夫に「こうやれば人は動く」と言う本を進呈した。経営者として、会社をになっていくべき立場の人間に、何かしらためになるものをと考えてのことだったのだろうが、当然のことながら夫は一ページも開くことなく、その本を放置した。 鬼嫁と言われようとどう思われようと、私は夫に要求していく姿勢を保ち続けなくてはこの会社は潰れるのを待つだけだと確信している。それに、そうしなければ、私が夫の人間としての魅力さえ見失い、夫婦関係までも崩壊してしまいそうだから。 如何なものでしょうかね、皆さん。会社経営。経営者が経営に積極的でなくても、会社って大丈夫なものでしょうかね。私の言ってること、理不尽でしょうかね。
2007年11月12日
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11月に入り早くも五日。今日は給料日だった。かつて、大人数を養っていた頃には、給料日には100万円台の現金を銀行から持ち帰り、給料袋に詰め、従業員のみんなに手渡しをしていた。今や、それは見る影もなく、フルタイムで仕事をするのは夫と私。パートさんが三人。全くこじんまりとした所帯となった。 私はこの所帯を結構気に入っている。大人数の時にはなかったアットホームさ。そして、大人数の時には気づくことの出来なかった様々な問題点に気づき、改良を心がけ、前に向いて進むことが出来ていく。 勿論大人数の時にはそうでなくては出来なかったことも少なくなかった。でも、きっと、モノ作りに関しては、今よりうんと無責任だったのではないかな、と思う。逆に言えば、今は物を作る全ての工程に関わってしまうだけに、「嫌われ者」で居なくてはならなかったり、煙たがられたりする。でも、それは自分の作ろうとするものへのこだわりがそうさせるのだから、取り立ててそれをつらいとかどうとか思わない。 今日は昼過ぎから雨。2月のギフトショーに向けて、今週木曜には新商品仕上て持ち込まなくてはならないが、今日、やっと気に掛かっていた丁番を発注したところだ。本体は組み立てられるところまで来ているが、組み立ててしまって組み立て前に済ませておかなくてはならない肯定があったら・・・と思ってしまい二の足を踏む。これは毎度、私が繰り返すことなのだけれど、そうやって、柄にもなく慎重に進める割には、毎回、手抜かりばかりだ。 尤も、誰だって、最初から完璧などと言うことはなく、工程や部材の改良を繰り返して商品と言うものは完成されていくものだと思う。おいたちの小箱も跳び箱収納シリーズも、例に漏れず、社長に「作るたびに変えるな!!」と叱られながら、改良を繰り返し、現在の姿に至ったのだから・・・・。 うちの商品は手作りモノだけに、一品モノのようではあるけれど、例えばおいたちの小箱は、発売当初から言うと5000個を作ってお嫁入りをさせてきた。その中で感じるのは、10個売れた商品は10個のように、100個売れた商品は100個のように、作った数だけの深みが備わっていくのではないかと思う。手馴れても来て余裕が出てくる。そうすると、最初の頃見落としていた不備に目が届くようになる。そうするとより完成度の高いものに仕上がっていくのだ。 先週の火曜日、インターネットテレビの番組に出演した。あれこれとネタは用意したが、カメラの前ではなかなか思う通りの演技?!、喋りが出来ない。まず、目線が定まらない。カメラ目線が良いのか、違うのか・・・・・。テレビに出ている芸能人など、不自然さなくやり過ごしているのは、やはり、場数を踏んだだけの深みと言うことなのかな、と思う。 テーマがお笑い芸人のことなので、ちょいと触れておくことにするが、その時にカメラを回していた藤本君と言う男の子(S51年生まれと言っていた)が佐久間一行に似ていた。彼より一回り小柄だけど、口元がそっくり。収録場所で別れて、少し離れた商工会議所でもう一度会ったのが嬉しかった。 碁盤のカバーを注文されている。10月前半に受けた注文だが、「そろそろ・・・」と言われ、取り掛かろうとしてサイズのメモを紛失していることが発覚。それだけじゃない。帯を入れる衣装ケースもサイズ紛失。発注者から電話が掛かり、正直に事の次第をつげ、改めてサイズを伺って取り掛かることにした。 全く、どうして私はこうなんだろう・・・・・。だらしない。物をなくす。特に、サイズの控えをなくす。「ここに!」と言う場所を決めればいいと思っているし、そうしているつもりなのに、ちっとも徹底しない。今の私の最大の悩みは、きっとこれだと思う。・・・あぁ、悲しい。
2007年11月05日
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