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土曜日、調子の悪いプリンターの事で、事務機屋さんに来てもらった。その人は、若い頃からサッカーに熱心で、現在、市立中学のコーチをしていらっしゃる。その市立中学のサッカー部の顧問の先生が、26日の金曜日、午前中も授業で、教壇の上にいきなりバタっと倒れられた話をされた。丁度、サッカー部のキャプテンのいるクラスで、他の誰より、キャプテンが最初に先生に駆け寄り、安否を確認したが、意識はなく、いびきをかいておられたと言う。 救急車が来て先生を積んで行ったが、29日、朝、先生は帰らぬ人となられた。 人の命と言うものは、水物・・・と言うのは言葉が良くないかもしれないが、こうしている私の命だって、いつ、心臓が停止し、耐えてしまうやも知れぬものだ。せめて、こうして生きていられるうちに、やり残した事のないよう、精進するだけだと思う。 それにしても、月日のたつもは早い。新年になって早一ヶ月が過ぎた。私は一体、この一月、何をしてきたのだろう。2月半ばには東京でギフトショーがある。今年ももちろん出展するが、新商品はまだまだ完全な形には至っていない。やはり、工場長不在の影響は大きい。何とか、かんとか、食いつないではいるが、余裕のかけらもない。 跳び箱の小物入れが、芸術新潮と言う雑誌に取り上げて頂いた。その影響で、このところ、注文の電話が続いている。本当にありがたいことだ。跳び箱と言うものには、学校時代の懐かしさが凝縮されている。それは、10人中ほぼ10人が同じではないだろうか。何故、跳び箱には懐かしさが漂うのだろうか。作っている私自身、作りながら、ものすごく癒されるのは事実だ。
2007年01月31日
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年内にもめにもめた父さんのサッカー審判員資格講習の件で、結局、1月28日の呉での講習を受講する運びとなったことは既にご承知のとおり。で、それに便乗して、と言うか、私の責任ではるばる呉まで行かなくてはならなくなった父さんを、単身、行かせる訳には行かぬと、かねがねヤマトミュージアムへ行ったことがない、行きたいと言っていた義母を出汁に?!英検のある晃子とサッカーの試合のある耕平、二人の子供を置き去りにし、大人3人での呉への旅と相成った次第。 午前五時起床。朝食を摂り洗濯物を干し、身支度を整えいざ出発。聞く人毎に入る情報は、呉は陸の孤島。広島へ行くより遠い。確かに、今まで何度か行ったが、三原から、海沿いを行く道は、景色は最高だが道のりはしっかりとある。高速を東広島までとばし、南下する道は、恐ろしく渋滞して進まない。時間にして少なくとも2時間半は考えておけと言うアドバイスに、9時10分始まりの講習会に備え、午前6時出発と決めた。 運転席で他に乗組員を待つ父さんは、講習会に遅れてはならじと必死の形相。洗濯物を力を合わせて干す義母と私に「早くせんかいっ!!!」と怒鳴り散らす。その声は早朝の町内に響き渡る。あぁ、暴力一家・・・・・。 家を出たのは6時9分。早朝と言うこともあり、渋滞は全く無く、講習会場の呉二河球場にたどり着いたのは午前8時過ぎ。9時からの講習会には充分に時間がある。駐車場もスペースが充分だが、ここで車を出して時間近くに帰ってきて空きがあるとは限らないので、父さんをひとり残して、義母と私で町へくり出すことに。広島の義姉へ電話すると、江田島の大垣カキ祭りへ、義兄が行ってみようかとのことで、義姉夫婦と合流することに。我が家の二台の携帯のうち一台を父さんに残し、もう一台を私が持って分かれた後、大変なことに気づいた。私の持った携帯には、義姉の携帯が記憶されてない。げげげ~~~! 慌てて義姉の家に電話すると、お姑さんが。携帯に連絡をしてくださるということで、義姉からの連絡を待つもベルは鳴らない。父さんに電話しても車において出ているのだろう、出てくれない。 困っていると、義母が「携帯の番号なら分かるよ。」・・・・そうか、その手があった。義母は携帯を持たないので、電話番号を手帳に書きとめている、アナログ万歳!デジタルなんて当てにならないものだ。人間の力ってすごい! 川沿いを南下し、左に折れて呉駅の駅ビルで呉の観光パンフレットをゲットしアンデルセンでコーヒータイム。義母とこんなにゆっくり向かい合って過ごすのって久し振り。義母はこんな嫁でも、こうして一緒に過ごす時間を楽しんでくれる。こんな時間が欲しくて、寂しくて、物売りの会場へばかり出掛けていたのかもしれないと思うと、本当に申し訳なく思えた。本人にはそんな自覚なんて無い。ただ、話し相手が欲しかったのだろう。それも、義姉の心遣いで気が付く無粋な嫁だ・・・・。 駅前で義姉夫婦と合流し一路江田島へ。島へ渡る車は多く、義兄の「みんな行きようてんでぇ。」と言う言葉に爆笑。そんなわけ無いやろう~~。 それでもカキ祭りは押すな押すなの大盛況。商工会婦人部のバザーの、何のお魚だかミリン干し200円也と、ちりめんの佃煮150円也を、我が家と義姉家へのお土産に購入。 義兄ははりきって試食コーナーの列に並ぶ。殻付きのカキをあぶったものを一粒ずつ試食にもらえるのだった。最初は試食とは思わず、幾らなのか、義兄の順番が来たら、私の分も買って貰おうと、ちゃっかり考えていたが、無料となると遠慮でそうは行かない。と言いつつ、実は私は間に入らせて貰い一粒ゲット。義兄が手にしたそれは、丁度、そこにきた義母の口に。なんだか申し訳なく、後でもう一度並んで、義姉と義兄の分を貰った私は全く、理想のお嫁さんではないか!!(自画自賛) カキを堪能し、その場を後にして、次に向かったのは入船山記念館。ヤマトミュージアムは、講習会を終えた父さんと合流して観にいくために残しておく。 私こと昔の建物は結構好きで、こぢんまりとしたその建物は、歴代の・・・・海軍大将?!の住まいとして使用されたものだった。呉と言う町の歴史の一端を垣間見た気がした。 義姉夫妻と合流する前、実は父さんから電話があった。9時10分始まりと思っていた講習会が、実は10時開始だったと言う。その時点で小一時間あったが、薄情な女房と実母は、「ぢゃぁお茶でも・・・」なんて言わない。「今何してるの?」「少年たちが野球の練習してるのを見てる。」「そう、寒いだろうけど、風邪引かないようにね。」あっさりしたものである。 かくして、講習が終わる12時半が近づき、私たちは再び二河球場へ。 終了時刻の12時半を過ぎると、ボツボツと受講した人たちが会場の建物から出てきた。サッカー親父は野球親父とどこかしら違う。野球親父よりチョイ悪っぽい。野球親父は品行方正で。サッカー親父はちょっと不良って言うイメージ。ファッションもちょいと派手な人が多い。 父さんとはうまく会えて、一路、ヤマトミュージアムへ。日曜日なので人が多くイズミの無料駐車場は満車。ミュージアムに隣接した駐車場へ入れようとすると、警備員のおっちゃんが、ちょっと離れた駐車場へ回れと言う。言われるまま移動。そのビルには、尾道のロケで使われた戦艦ヤマトの大砲などが建物の中に展示されていた。でかい! 5人がそれぞれ、注文をし腹を満たした。義姉夫妻とはここでお別れ。義姉家のお父様の月命日なのでお墓参りをするという。夫妻を見送ってヤマトミュージアムへ。 車道を渡るのに横断歩道は無く、足の悪い義母には歩道橋の階段はきつい。ありがたいことにエレベーターがあるので利用させて頂いた。リバーシブル?!のエレベーターは、家具メーカーに納品に行くとちょくちょく使うので私は慣れているが、義母はひたすら驚嘆していた。 ヤマトミュージアムの展示内容は、興味深いものだった。船舶技術に関する内容や、日本の戦争へ向かった経緯、ヤマトに関わった人たちの証言など、多角的に展示されており、他に企画展も催されていたが、そこを見る余裕なんて無かった。この次は朝一番から来て、くまなく見たいと思った。 それにつけても、やはり戦争の罪深さを痛感する。あれほど素晴らしい船が建造されながら、海の藻屑と消えて行くしかなかったなんて虚しすぎる。戦艦ヤマトを作った人たちが建設的であった分、社会は破壊的で空虚なものだったと思う。壊されるために作るなんて・・・・。 帰りの道は私がハンドルを握った。前夜の超夜更かしもあったのだが、初詣の帰路の眠さと言ったら無かったが、今回は、海の景色も美しかったこともあってか、ちっとも眠気などなく、極めて快適なドライブだった。 この次は山陽本線と呉線を乗り継いで呉を訪れ、呉探訪バス(一日乗り放題400円也)で、とことん歩きつくしたいと思った。
2007年01月29日
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新しい管理画面になって、一段と立ち上がりが遅くなった上、立ち上がる途中に画面をスクロールすると、なんか変な・・・・同じ行が何十にも映るみたいな格好になるし、そして何より人手不足で現場に終われ、パソコンを開けている暇が無いことで、全くブログの更新が遅れている。ってか、更新しようと言う元気が湧かない。 普通なら、ふと目の行く何気ない日常の出来事に、ちっとも目が行かない。こんなだと子供がくれるんだろうな・・・・・と思いつつ、本当に自分のことで手一杯・・・。 晃子が脇の下の傷の不調で体をつけられないので、シャンプーしたり体を洗うのに付き合うため仕舞い風呂に入る。一人でゆっくりとはいるのと違って、寛げない。人間ってわがままだと思う。ってか、人間がじゃなく私がなのだ。 工場長が入院して一ヵ月半。ペースが掴めてきたと言えばそうかもしれないけど、ぶっちゃけ、遅れていた帳面はほとんど野放し状態。はや20日〆の請求書を出さなきゃいけないけど、そんなのほとんど二の次と言う気分。でも、請求書出さなきゃ、お金は無いって来ない。 そうこうするうち、2月のギフトショーの出展についての詰めが・・・・。今日はとりあえず、セロテープカッターの金具のところが完成したので、ほっと一息・・・。 今夜はおでんが出来ているのだけど、おなかへっても帰れない。でも、もう帰っちゃおうかな。いやいや、まだまだ。でも・・・。耕平の塾も父さんが送って行ってくれた。お迎えは私が言って一緒に帰りたいんだけどな。 もう、パソコンと伝票持って帰って家でしよう!!!
2007年01月23日
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時々、ワーキングプアって言葉を聞くけど、どういう意味だろう。仕事していて何がプアなんだろう。経済的なプア?それとも、精神的なプア? 私は、って言うか、我が家は、精神的な部分ではそう問題はないけど、経済的には極めてプア。来年、長女が大学へ行くという予定だが、一体、生活費や学費、どうするつもりなんだろうと思っている。彼女には、奨学金を受け、足らない部分はバイトで稼いで親からの援助無しで卒業するつもりでいて欲しいという他無い。 今日は、元住んでいた家のお隣さんが、ある積立をつなぎにおいでた。二人子供さんがあって、ひとりは大学2年、もう一人が1年だそうだ。二人とも理学部で、半年に一度の授業料支払い時には、なんと160万円必要だとおっしゃる。半年で160万と言うことは、一ヶ月に20万積み立てなきゃならない。死んだほうがまし。って言うか、死ぬしかない。家族がみんな死んでも良ければ、どうぞ大学へ行って下さいってなモノだ。 これは深刻だ。絶対に深刻だ。それに大学へ行ったからといって、社会に出て、就職を含め、安定した生活が保障されているわけではない。尤も、今の私たちの生活とて、決して安定したものでは無く、いつ、不測の事態が起こるとも限らない状況だ。 とりあえず、毎日忙しく働いてはいるが、自営業だけに、足らずを自己負担する場合もある。月20万学費に供出?!せねばならなくなると、自滅だ。同年代の親は、よくやっているなぁ、と感心しきり。 うちの娘は、息子も、あまり勉強が好きそうじゃないから、勉強は高校で終了にして欲しいものだ。社会に出てからの実地の勉強の方が、身に尽くしお金も掛からない。って、自分が大学まで行かせて貰いながら、わが子にそれは無いかな。でも、現実、難しい。あぁ、悩む。
2007年01月18日
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商工会議所の、起業家交流会に参加している。起業と言うほどでもないが、ここ数年、オリジナル製品を作るようになったので、心安い会議所の若手が、参加してもらえませんか?と声を掛けてくれたのが縁だ。 さて、集まって、どんな話をするのか?既に数回、開催されてきたが、「こう!」と言う方向性が出ない。と言うのも、業種から何から、多岐にわたっていて、共通点がほとんど無いからだ。それで、一人ずつがスピーチをして、それについて質疑応答してはどうかと言うことになった。起業した理由や経緯、将来の夢、現実など、どんな話でも結構と言うことだ。 夕べはその第二弾で、木工の工場を営むTさんの話だった。もとはそこそこ大きな規模の家具メーカーへ勤めていた彼は、10年余り勤めた後、上司とともに退職、独立した。独立前には、仕入先であった会社を顧客として開拓する場面もあったが、やはりその態度は180度違い、新規事業の展開の難しさを痛感したという。 そんな彼の話を聞いて、最後のまとめを振られたKさんは、隣の町では、ある弁当屋が保育所へ販路を拡大した途端に、幼稚園保育所への弁当の卸が広まったという話を、マーケットの新規開拓のたとえとして話された。 これを聞いたTさんは、僕はそう言う商売を好ましく思わないと言った。親のある子供が、しかも、幼稚園や保育所に通う年端の行かない子供が、親の作ったものではなく、出来合いの弁当を食べるなんて、その子の発育に良い影響があるとは思えないからと言った。 仕事の何たるかを考える。ここ最近のお笑い系のテレビ番組然り。売れれば何でも良いのか?と言う話だ。儲かれば、社会を後退させても良いのか?便利は大切だし、社会を良くするが、社会を良くする便利ばかりではない。 これは、理想に過ぎないけれど、いつも、そのことを胸に仕事をしたいと思う。モラルの低下を誘うような商品やサービスを提供することを、仕事と言いたくない。
2007年01月12日
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私にとっては、それはいつものことだけれど、本当は銀行が開く九時にはここを出て、配達と品物の引き取り、銀行を二件回り税務署とおいたちの処理をして帰ってこようと思っていた。けれど、現場を済ませ、出掛けられる状態になったのが十時半。それから伝票を書くなどのデスクワークを済ませ、さて、出掛けようとするとなんと11時半を回っていた。いつものこととは言え、どうしてこうなんだろうと、ちょっと情けなくなる。件数が多くなると、道順も考慮して、回る順番を考えていると、もう、わけが分からなくなってしまい、何度も振り出しに戻る。だからと言って、いい加減な段取りで出掛けると、用事を落としたりしてひどい目にあう。でも、緻密に準備したからといって、落ち度なく帰れることは希少であるのだが。 認知症の人は一度に二つ以上のことが処理できないというから、私はやはり、既に認知症が認められるのだと思う。 配達は三件。配達と商品の引取りが一件。銀行は入金と振込みの一行、税金の支払いの一行。最初の配達先では、盆の箱を下ろしリフトに積む。もう何年も納品する先なので、時々した配達に来ない私でも、段取りは承知だ。それでも、前回、初めて、一回のリフトのスイッチの存在を知った。今回は、それを活用しようと張り切ってボタンを押したが応答なし。??と思い、二階に上がってずっと使ってきたスイッチを押したが、そちらも無反応。初めてのことだ。 一軒でもたもたしていられないので、伝票を渡しに事務所へ行き、リフトが動かない旨を伝えた。後はよろしくやって頂けると思っていたら、世の中そう甘くはない。「担当者を呼びますので、少し掛けてお待ち下さい。」って、もうお昼が来ちゃうよ!! 結局、リフトの扉をきっちり閉めてなかったので、リミットが作動し電源が入らなかったのだ。あぁ~あ、なんと間の悪い。慌てる○○は貰いが少ないって、昔よく言ってたなぁ。急がば回れってことか・・・・。 二軒目は修理依頼のあった盆の納品。いつもは現場に納めるが、一杯だけの修理品なので思い切って事務所へ。受け取ってもらえた。良かった。新しい注文書はなかった。今月は注文が少なめだ。 三軒目はわずかの盆の納品と、桐材の持ち帰り。順調。 三軒目は郵便局。私書箱の郵便物の受け取り。10日の支払い分の手形が、書留で送られてきていたので、中に入って判をついて受け取った。先月の請求は多かったんだよね。嬉しい。 ふと思い出し、義母から依頼されていた振込みをATMでする。じつは、義母には、とうに済ませたと言ってある。最近、この手の嘘をしばしばついてしまう。子供に、嘘はいけんよ!なんて言えない母である。 四軒目は入金と振込みの銀行。ATMで振り込むのだが、前回は105円の手数料を取られた。今日は0円だった。ラッキ~~! 五軒目は、税金の支払いの銀行。いつも、番号札を取ると10人近く待つのだが、今日は店内はガラガラ。一人の女性が、いすに乳児を寝かせてい呼ばれるのを待っている。可愛い赤ちゃんだなと視線を向けながら、番号札の発券機のボタンを押すと、「あぁ!こんにちは!」と聞き覚えのある声。なんと、高二の娘を出産した時、隣り合った分娩台で、痛みを分かち合ったKIMIちゃんだった。と言うと、その赤ちゃんは?なんとKIMIちゃん夫妻にとって、13年ぶりの4人目の我が子だという。 保母さんをしているKIMIちゃんは、きっとその赤ちゃんによく話しかけ、よく話を聞いてあげるのだろう。ニコニコとよく笑い、また、ふいとべそをかき、なんと表情豊かな子だろうと、目が合っても無表情な赤ちゃんが多いことを悲しく思う私は、心から嬉しく、楽しく、話を聞かせてもらった。 明日で40歳と言うKIMIちゃんにとって、この出産は本当に予想だにしないものだった。妊娠を知った時は、ただ驚くばかりで、夫に告げる時には、わけもなく涙が溢れたと言う。一時は、夫婦仲が思わしくないと、ある日会った時には、優れない顔色をしていたKIMIちゃんだったが、今日は本当に生き生きとし、命を堪能している様子だったことが本当に嬉しく、私は溢れる涙を抑えることが出来なかった。 13時には、帰社し材料を受け取るため、N社の倉庫へ行ってその社長と落ち合う予定だったが、案外なKIMIちゃんとの遭遇に、予定は大幅にずれ込み、用事を済ませ銀行を出た12時55分、社内においてあった携帯に、会社からの着信もあったので、会社へ電話をいれ、着信の用事に便乗し、夫に倉庫へ言って貰うよう頼んだ。 次に実家によりおいたちの指示書を置いた。母は、KIMIちゃんを知っており、4人目が生まれたことを話すと、赤ちゃんを見たいと言った。 買い物も済ませ、買ったものを自宅へ届け、帰社したのは午後二時半過ぎ。あまりの空腹に手が震えそうだった。お弁当のふたを取ると、今日のデザートはゴマ団子。嬉しくて嬉しくて、気絶しそうだった。 今日も、いつもどおり、思ったことの半分も消化できなかったけれど、4人目を出産したKIMIちゃんに会えたことがとても嬉しく、充実した一日だった。以上。
2007年01月11日
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あぁ、落胆。本当は2月25日(日)。久々のタイムラグ日記。どうにもこうにも、書き記して置かなくてはならないような気がしてページをめくった。 久々の刃物との接触。うぅ~~ん、おととしの3月以来かな。あの時は、跳び箱が忙しく、手押しかんな盤を使っていて、何気なくテーブルに乗ったごみ(材料の切れ屑)を、取ろうとして、うっかり回っている刃物に指先が当たったんだった。怪我って言うものはそうやって起きるものだ。誰しも、怪我をしようとして当たっていく者は無い。って、時々、自動車へあたっていく人がいるようだけど、あれは別。 今回は、小さな鋸。右手の人差し指の先がちょこっと当たってしまった。刃物が切れないので、良かったのか悪かったのか。かんな盤の前の怪我の時、自費治療で8万円位掛かったので、もうこりごりと前回から自力治療に切り替えた。今回もそうするつもり。 怪我をする度に思うのは、親に申し訳ないということ。生きると言うことは、所詮、身を削っていく事だけど、何も、本当に削らなくてもねぇ。 今日、丁度夫が、いらいらするので怪我をするかもしれないなぁ、なんて言ってた。24日の日記にも書いたように、失敗したりしたから。その思いが私に降りかかったの?夫が怪我をするより良いけど、何にしても作業にプラスにはならないので、ひたすら、申し訳なく思う。 そう言えば、もう退職された人だけど、あの鋸を使っていて、一箇所、本当にわずか、怪我をされて、医者へ行くほどでもないと、テープを巻いて仕事を続けていて、第二段を立て続けに接触、と言うことがあったなぁ。怪我はいかんよ、怪我は。 明日は支払日。ホントに僅かながら、集金もある。今夜は帰って寝よう。傷が少し痛み始めた。でも、少々の痛みなんて、お産の痛みに比べれば大した事無いから、子供を産んで痛みには断然強くなったような気がする。ただ、皸の痛みだけは別格。あれは、何をどうしたって痛くて、何をしようと言う気も失せてしまう。恐るべし、皸。
2007年01月08日
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学校で道徳を習った。こんな時にはどうするの?誰だって良く分かっている。人を助けることがとても素晴らしいことで、道徳で言うと、それが正解だってこと。算数や国語と同じように、正解は分かっている。でも、道徳で大事なことは、正解が分かっていることじゃなく、正解の通りに行動できることなんだ。 誰だか知らないけど、政治の世界で重要な職についている人が、とんでもないことをおっしゃった。言葉と言うものは、頭で考えていることが口をついて出てくるものだ。幾ら、どう弁解しても、あなたの頭の中にある考えは、もう決して人々の記憶に更新されることはない。 言葉と言うものは、言わず語らず、その人となりを表すものだ。やっぱり偉いさんは偉いさん也の考えがあるんだと思った。
2007年01月07日
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人の価値観と言うものは、様々だ。だから、結婚した後、結婚相手の価値観が理解できなくて、離婚する人も少なくない。でも、結局、理解するったって、同じ価値観を持つことは無理だから「あぁ、そうなんだな。」と思う位で、妥協できるかどうかだと思うんだな。 私はおしゃれと言う言葉とは本当に無縁で、町へ出掛けると言っても、はきっぱなしのパンツとよれたようなトレーナ姿がせいぜいだ。義母は、そんな私を見てため息をつくが、何を着て行こうかと、悩んで時間を潰すくらいなら、出掛けた先で少しでも長く滞在した方が意義深いと言うのが私の持論。これが価値観の違いと言うものだろう。 それに、所詮おしゃれの素養のない私が、どんなに洋服を選んでも、「え゛~~。」と却下されるのがオチなので、既に私は指示を待っている状態。だって、力を注いでも、それが徒労に終わることが目に見えているのだもの。義母はそんな私に、またため息をつく。 20年あまり寄り添い続けた夫は、少しはこんな私の価値観を理解してくれるようになったし、おしゃれだった夫は私のほうに引き寄せられたというか、着るものにあまり執着しなくなった。尤も、二人の子供をもうけ、業績不振のちいさな町工場を遣り繰りする家計が、おしゃれなどと言うものに注ぐ余力がないことを、自覚するようになったと言えばそうだろう。 物事を考える時、大事なのは、それが自分の物差しだけによる考えではないのか?俺様状態な思考ではないのか?それをしっかりと考慮しようとすることではないだろうか。年をとるにつれ、自分の頭の中にあるそのままが、相手の頭にもあると思うようになる傾向があると感じる。でも、それは決して正しい判断ではないことを知るべきだ。 自分には自分の考えがあるように、人には人の考えがあるのだ。その二つを言葉にし、並べ、お互いを分かろうとする姿勢だけは、忘れないようにしたい。
2007年01月06日
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いや、決して殺人を肯定するわけじゃない。でも、私が言いたいのは、言葉はそれを受け取る者の気持ちを十分に考慮した上で、口にしなくてはならないと言うことを認識するべきだと言うこと。 細かいことは分からないが、この兄妹は人間関係が出来ていなかったと思われる。心を開いてない相手から、やれ夢がないだの、やれ勉強していないだのと言われれば、プッツンくるのも仕方ないことだ。ただ、だからと言って、殺していいかと言うとそうではない。 知り合いのご長男の話。 彼は、ある大企業に就職し、数年勤めた後、身の回りで、自殺者さえ出るほどの、あまりの勤務のきつさを親に訴えた。親は身を案じ、退職し帰郷して、しばらく体と心を休めた後、近いところで就職すれば、と進言した。 彼は言葉通りに帰郷し、休養したが、その後の就職と言う時点で、親の思惑から外れて行った。彼の兄弟は、いい加減に就職するよう言葉を掛けるが、その意欲がわかない。 一方、親は、次から次へと報道される親子間の殺害事件を耳にする度、明日はわが身を案じ、我が子へ掛ける言葉をすっかり失ってしまっている。 彼は、学生当時、成績優秀で、国立大学を出た。一体、どこでどうボタンを掛け違ってしまったのか。 私は、近年、起こり続けている親子間の殺害事件の一つ一つを、国は、国を挙げてしっかりと検証しなくてはならないと思う。そして、それらの結果を教育現場や家庭生活において反映するような政策を採らなければ、社会が崩壊するスピードは減速できないのではないかと思う。 美しい国、美しい国と謳われるが、足元をしっかりと見つめ、何が問題なのか、よく見据えて国民を引っ張って行って欲しいと思う。
2007年01月05日
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年末年始のお休みはあっという間に過ぎていく。 年末は、29日からお休みだったけど、納品の不手際で結局29日は仕事したし・・・。 御節は、結局予約はしないまま、3日に義姉とその次女、二人を迎えるため、5000円と1500円のお寿司2パックにとどまった。 長女がおなかの調子を壊して、その看護のため、義兄も宅にとどまったので、お客様は2人と言うことになった。さらに、義姉は中学の同窓会だったか、次女を置いてすぐに出掛けたし、我が家の長女は寝坊しつつ、朝から、部活のOB会と言うことで出掛け、昼食までそちらにとどまり、午後はビーチバレーの打ち初めだとか言って、そのまま帰宅しなかった。夕方、夕食も食べて帰るという電話があったが、高校の制服のままなので、着替えに帰りなさいというと、ビーチの仲間が来るまで家まで送ってくれ、着替えるのを待って連れて出てくれた。 全く、便利な世の中になったものだ。ガソリンと言うエネルギーは、いつかはそこを尽いてしまうのだろうが、自動車と言う便利な交通手段を与えてくれたので、この辺鄙な場所からでも、町の中心部へ気軽に出られるようになった。尤も、不便な時分をよく知らない私がこんな風に言うのはおかしいことので、自分の話しとして言えば、母の実家へ行くのに、昔は、つづら折れの山道をボンネットバスに揺られて行くのに、途中で車に酔ってしまって、運転手さんにバスを停めてもらい、道の脇でゲロゲロやったものだったが、今や、ボンネットバスは勿論、あのバス路線はなくなってしまった。と言うのも、自家用車の普及でバスの利用者が減り廃止されたのと、かつてはつづら折れだったあの山道は、今や農道とか言う名目で、恐ろしく走りやすい直線、もしくはきわめてゆるいカーブの舗装道路が出来ているので、あの頃は小一時間、いや、それ以上掛かっていた母の実家への道は、なんと20分もあれば着いてしまうという状況になっている。 けれど、便利にはあっという間に慣れてしまって、感謝の気持ちなんて、なんと持続しないものだろうかと思う。そして、使い放題にエネルギーを消費し、次の世代への思いやりなんてかけらもない自分にぞっとするのである。
2007年01月04日
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11月のサッカーの審判講習会申し込みについての一件。1月にある備後運動公園での講習会へ申し込むということで一件落着していたのですが、申し込みページへ入ろうとして、ログインIDなどが記入してある父さんの審判手帳を探しつつ見つからないまま、時が過ぎ、ふと気が付くと父さんが探したのか、パソコンの上にぽんと置いてあった。で、早速ログインして申し込もうとすると、あぁ、悲しいかな、50人の定員が満員になりましたので、申し込みを締め切りました、と書いてある。絶句 で、他を見てみると、同日、呉の二河球場で、80人の講習会があると書いてある。呉と言えば、去年、男たちのヤマトのロケがあったところで、義母がヤマトミュージアムへ行きたいわ、なんて言っていた。これを口実に、進言しようと、とりあえず、呉に申し込みをした。 帰宅して、恐る恐る現実を伝えた。きたぁ~~~~!!!! 最も恐れていたことだったが、まず、起きるだろうと思っていたことが起きた。父さんが爆発した。まぁ、暴れたわけでも、暴力を振るって来たわけでもなかったのですが、怒りが頂点に達した様子。悪いのは私なので甘んじて、その怒り、受けてたちますが、イカってもどうにもならないのも事実。ひたすら、ごめんね、ごめんね!と謝るばかり。 それ以後は、話しかけても返事はなく、視線は決して会うことはなく、私が入室すると退室するという状況。・・・・嫌われてるんだな、と思うほかない。まぁ仕方ない。これも身から出た錆だもの。甘んじて禊を受けようぞ。 つくづく、父さんの身の不幸を思う。もっと、しっかりしたお嫁さんを貰っておけば、幸せになれたかも知れないね。私も、誰か他の人のお嫁さんになっていれば、父さんをこんなに不機嫌にさせなくて済んだのにね・・・・・・。 いくら思っても後の祭り。たらればほど無意味なものはない。明日に向かって走れ~~~!
2007年01月03日
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本当に久しぶり、と言うか、お正月に義兄とゆっくり話したのは初めてだろう。義兄は仕事(僧侶)の関係で、お盆、お彼岸、お正月などには、東京であったり、石川県の羽咋、山梨県の身延で過ごすことがほとんどで、時期をわずかにずらして帰郷してきた。その関係で、実家に泊まりに行った時、いることがなく、お酒は結構イケル口?!だが、ご一緒するチャンスが滅多になかった。 今回は、心置きなく話が出来、とても楽しかった。 同じ種と卵から出来た姉妹、兄弟でも、どうしてこれほど、と言うほど、個性と言うものがあるので、私たち三姉妹のそれぞれの夫(妹はすでに過去のものだが?!)が、ものすごく違っていると言うことはあまりにも当然だ。義兄には、あまり感じないが、我が夫には少しだけ、義理兄弟へのライバル心?!的なモノを感じるのは一人合点だろうか。男の人ってそうなんだろうか。ちょっとおかしい。うちのだんなは、そう、普通の人より、少しだけ「人に合わせる」のが億劫なところがあるみたい。特に、実家へ行ったときには、我が家にいるとき以上に、寛ぐようだし、逆に寛いでいなければ、実家の父母に悪いと思っている節さえ感じられる。私に言わせれば、ちょっと位、あなたが気を使ってもいいのよ、的な部分がある。まぁ、かれこれ20年以上、このペースで来ているので、いまさらと言う感じ。 2日の午前中は、サッカーへ出掛ける二人が出て行った後、コタツで二度寝。あぁ~~~、気持ちよかった。でも、本当はその時間、家に帰って年賀状の整理をするつもりだったけど、予定は大幅に変更。意思の弱さが露出した一日であった。 午後五時ごろ帰宅するや否や、家の前にお迎えが。高校の音楽部の同窓会。夕食の支度のかけらもせずに出掛ける私に、義母の言葉が・・・・。「娘じゃないのよ!」・・・・確かに!今年最初のお年玉?! せめてもの言い訳に、日付の変わらないうちに帰宅しました。って、何の足しにもなりません? お後がよろしいようで。
2007年01月02日
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毎年お正月はやってくるし、特に変わったこともないのだけれど、お正月には必ず「おめでとうございます。」と言う。例えば、努力して試験に受かった時に言う「おめでとうございます。」とはわけが違う。でも、おめでとうはおめでとうだ。11月が12月になるのとはわけが違う。 年末はとにかく気ぜわしい。あれもしなきゃ、これもしなきゃと思っているうち、時が過ぎ、正月がやってくる。遣り残したことがあろうとなかろうと、正月はやって来るし、遣り残したことがあっても、正月はめでたいものだ。遣り残しがあったからと言っても、死ぬわけではない。だから、焦らなくてもいいと思うのだけれど、なぜか無茶苦茶に焦って、怒りっぽくなってしまう。自分でも可笑しいくらい。でも、今日でそれも終了。だってお正月が来たんだもの。 これって、学生の時、試験前に焦っていた気持ちと相通ずるところがあると思う。結局、試験で散々な点をとっても、試験が終われば万々歳だった。ウン、確かに、あれと同じだ。 去年は、我が家は怪我と病気のオンパレード。死亡者がなかったから良かったと言えばそうだけど、それに、医療費が結構掛かって、青色申告でちょっと控除してもらえるかもしれないのがちょっと楽しみ。まことにささやかな、小市民の癒しである。 今年の元旦は例に漏れず、最上稲荷へ参詣。相変わらずの人ごみ。軽トラとエスティマの二台を交通安全名目でご祈祷してもらうのだけど、車の登録番号を申請するのに、メモってなかった。4桁の数字が良く覚えているし、陸運局の地名もわかっている。うろ覚えなのが、車体の種類を表す2桁(最近は3桁もある)の小さい数字とひらがな。ええい、ままよといい加減に書いて出したら、出来たお札を車に持ち帰ると、しっかり違っていた。ドンマイ!ま、少々違っていたからと言って、ご利益に違いはないだろう。って、それならわざわざ番号記入しなくてもいいじゃないか!ってか?ま、その辺は良きに計らえ、ってか? 今年から、姉の夫がお正月に在宅し、私としては、初詣も遠方へはパスして、とか思っていたけど、そうはイカのふんどしだった。滅多にない遠出だし、子供たちも結構楽しみにするので、実家のお寺へだけの初詣は断念せざるを得なかった。人生、なかなか、一筋縄ではいかない。
2007年01月01日
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