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7月20日投開票の参院選で、14議席を獲得するという大躍進を果たした参政党。その参政党神谷が選挙演説で「医療費無償化とかやめよう。だってウチの子供、元気だから病院行かないんですよ。無償化関係ない」と発言していたそうだ。 そのコメントに対して、「お前のガキは*5種混合ワクチン*も射ってねえのかよ」というツッコミがあったが、まったくだ。私は、後期高齢者ということで、無償ではないが若い人達よりも公的支援を受けている。 20年近く前、友人が生活保護を受ける人に対して、怒っていた。しかし彼女は、県営住宅に住んでいた。私たちからみたら、住宅に関しては、公的な援助を受けているのに、何で気が付かないんだろうと思ったことを思い出した。 *5種混合ワクチン*とは、これまでの4種混合ワクチン(ジフテリア、百日咳、破傷風、ポリオ)にHib(インフルエンザ菌)ワクチンが加えられたもので、同時に5種類の感染症の予防を行うことができるワクチン。■7月見た映画■*フロントライン*ハルビン*おい、太宰(劇場版)*once ダブリンの街角で*ババンババンバンバンパイア*スーパーマン■書き残したネタ■*チップ*スポーツジムの水が出なくなった話。*枇杷の樹*関西万博*能登の町が復興する時、考えて欲しい町づくりについて。*ダウンタウン松本氏のスキャンダルについて*アフリカで日本の古着が環境破壊!?*トグサ(研ぐさ)*「篩(ふるい)」と「とおし」*レッドオーシャン、ブルーオーシャン*高師浜・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.31
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プレイバック俳句:2023~2025.3月そのあまりにも有名なキャッチコピー「NO MUSIC, NO LIFE?」"音楽があることで気持ちや生活が豊かになる"という事。で、私も「NO俳句NOライフ」というタイトルを考えたけど、語呂が悪いので辞めた。■2023年7月■蝉*よろめきつ蝉は歩めりアスファルト*百歳の夏は越さざり母逝きぬ*夕涼み口笛流る闇の中*今日という日に別れいう夏の真夜*まな板に焼き茄子の肉くずれおり■2024年7月■半夏生*半夏生無人となりし生家かな*番傘の音ジワジワと半夏雨*「ばばへら」の名の氷菓あり旅の味*青蚊帳で燃やす蛍の命の灯*マスクなき世のありがたさ七月来■2025年7月■祭*息合わせどんどこ舟の祭かな*豆絞り鉢巻にして夏祭*潜(くぐ)り行く赤き提灯夏祭*我が辞書に夏痩せはなし昼の膳*炎昼や影を探して立ち話■2019~2022・1月■■2019~2022・2月■■2019~2022・3月■■2019~2022・4月■■2019~2022・5月■■2019~2022・6月■■2019~2022・7月■■2019~2022・8月■■2019~2022・9月■■2019~2022・10月■■2019~2022・11月■■2019~2022・12月■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■2023~2025・1月■■2023~2025・2月■■2023~2025・3月■■2023~2025・4月■■2023~2025・5月■■2023~2025・6月■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.29
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7月283日は、なにわの日(ひぃ)である。最近、大阪が、世界で7番目に住みやすい街のトップ10にとランクインした。■世界で最も住みやすい都市トップ10 [2025年版]■経済誌「エコノミスト」の調査部門であるエコノミスト・インテリジェンス・ユニット(EIU)は、173の都市を安定性(治安や政治的安定性)、医療、文化・環境、教育、インフラという5つの分野で評価・スコア化し、毎年報告書を発表している。2025年版では、4月14日から5月11日までに収集されたデータを基に分析された。 各分野は100点満点で評価され、コペンハーゲンは安定性、教育、インフラの3部門で満点を獲得した。運河や建築、美しい街並みに加え、自転車に優しい文化でも知られるこの都市は、5つの分野を合わせた指数で98.0点を記録した。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 7位(タイ)大阪の点数は次のとおり。■総合指数: 96.0■安定性: 100.0■医療: 100.0■文化・環境:86.8■教育:100.0■インフラ: 96.4◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■安定性: 100.0場所によるだろうが、映画を見に行く時に、治安が悪い場所だと感じたことがない。■医療: 100.0大きな病院が駅から近くにあるし、日本の中でも恵まれている所だと思う。■文化・環境:86.81位の1位 デンマーク、コペンハーゲンの文化・環境指数95.4。10ポイント近く大阪の方が低い。運河や建築、美しい街並みに加え、自転車に優しい文化でも知られるデンマークのコペンハーゲンにはかなわないな。大阪とタイ7位の ニュージーランド、オークランドの文化・環境:97.9。大阪の弱点は、文化・環境で、ここのポイントを上げれば、もっと上位に行ける。■教育:100.0小学校、中学校、高校、大学が、公立、私立と自分に合ったところが選べる。■インフラ: 96.4・電気、ガス、水道は、日本ではどこでも使えるもの。・バス、電車、飛行機などの交通インフラが利用できる点において評価されたのだろう。 大阪は、京都、奈良、神戸など魅力的な町が近くにあって、複数の交通機関で行くことができるのは、大きな魅力だ。東京にも2時間半で行けるし、新幹線も1時間に何本も出ている。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆1位 デンマーク、コペンハーゲン総合指数: 98.0/安定性: 100.0医療: 95.8/文化・環境:95.4教育:100.0/インフラ: 100.0◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆1位 デンマーク、コペンハーゲン2位(タイ) オーストリア、ウィーン2位(タイ) スイス、チューリッヒ4位 オーストラリア、メルボルン5位 スイス、ジュネーブ6位 オーストラリア、シドニー7位(タイ) 日本、大阪7位(タイ) ニュージーランド、オークランド9位 オーストラリア、アデレード10位 カナダ、バンクーバー■なにわの日(ひぃ):ネタ■■なにわの日(ひぃ):大阪的■■なにわの日(ひぃ):ツッコミ■■なにわの日(ひぃ):2017■■なにわの日(ひぃ):「草食系より大阪府警」■■なにわの日(ひぃ):どうなる「さすべえ」■■なにわの日(ひぃ):閉め切りですねん■■なにわの日(ひぃ):「人生の甘美なしたたり」■■なにわの日(ひぃ):ほかす■■なにわの日(ひぃ):なにわ野菜■■なにわの日(ひぃ):笑いの天才、紳助とさんま■■なにわの日(ひぃ):オカラさんと書いた人を推理する■■なにわの日(ひぃ)■■なにわの日(ひぃ):■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.28
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今から65年以上前の私の子どもの頃の話。岡山県で生まれて家に時計がなく、〇時〇分という言い方をしなかった。小学校に入って時計の授業があったが、よく分からなかった。テレビもなかったので、分単位の必要がなかったのだ。太陽が出ると暑いので、大人は太陽が昇る前に起きて働いた。夏休みの間、子どもは、大人に起こされてラジオ体操に行った。そして、夜が来る。夜のいい方にはいろいろあって、その時間帯は、言い方で現した。まず、夕方。●終バスが帰ってきた。●終バスが出た。村からバスを使ってあらわした。●夕飯時(よーめしどき) ●宵の口夕方になってすぐ。夜の入り口といった使い方をしていた。●宵●夜さり(よーさり)●夜さ(よーさ)いずれも意味は夜。 亥の子の行事の時の歌に「亥の子の夜さ(よーさ)ボーテボテ」というのがある。 ●夜更け今の使い方と同じ。 晩御飯のあと、まだ宵の口。人々は、涼を求めて橋の上に夕涼みに出た。昔は、夜になるといっきに温度が下がって過ごしやすかった。橋の上は特に涼しかった。 大人も子供も、暗闇に中、蛍がゆらゆら飛ぶのを見たあの頃の夏の夜は、豊かだった。土橋より見ゆる蛍のゆらぎかな はるな夏は、夜。月の頃はさらなり。闇もなほ。螢の多く飛び違ひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。 「枕草子」 清少納言・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.26
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■スーパーマン■「弾よりも早く」「機関車よりも力は強く」「ビルディングなどは一飛び(ひとっとび)」クリプトン星の最後の生き残りであり、弾丸より速く飛び、目から熱光線を放ち、鋼鉄の体を持つスーパーヒーロー、スーパーマン。普段はクラーク・ケントとして大手メディア、デイリー・プラネット社の新聞記者として平凡に働き、その正体を隠している。しかし、最大の宿敵であり最高の頭脳を持つ大富豪レックス・ルーサーは、そんなスーパーマンを人類の脅威であると考え、陥れようとする。 アメコミ史上最も歴史のあるヒーローを描くアクション。「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズのジェームズ・ガンがメガホンをとり、『Pearl パール』のデイヴィッド・コレンスウェットがスーパーマンことクラーク・ケントを演じる。「マーベラス・ミセス・メイゼル」のレイチェル・ブロズナハンがスーパーマンの恋人ロイス・レイン、「X-MEN」シリーズのニコラス・ホルトが最大の宿敵レックス・ルーサーを演じる。 監督が私の大好きな「ガーデアンズ・ギャラクシー」の監督なので見た。■ガーデアンズ・ギャラクシー■■ガーデアンズ・ギャラクシー:リミックス■「スーパーマン」は、私の幼い時から、近所の家のテレビで見ていたが、70年近く前のことなので、あまり詳しくは覚えていない。ただ「鳥だ、飛行機だ、いやスーパーマンだ」という始まりの決まり文句はよく覚えている。今回しらべたら下記のとおりだった。■TVドラマ版のオープニングナレーションの一部ですね。■「弾よりも早く」「機関車よりも力は強く」「ビルディングなどは一飛び(ひとっとび)」「なんだあれは」「鳥だ」「ロケットよ」「あっ『スーパーマン』」「そうです『スーパーマン』です。遠い星から地球へやってきた奇跡の男。人間の能力をはるかに超えた『スーパーマン』、川の流れを変え鋼鉄をひねるくらいは朝飯(メシ)前。彼は『クラークケント』と名のって正体を隠し、メトロポリスの新聞社『デイリープラネット』の記者となって正義と真実を守るため日夜戦い続けているのです」 スーパーマンにデヴィッド・コレンスウェット。デヴィッド・コレンスウェット(David Corenswet, 1993年7月8日 - )は、アメリカの俳優、脚本作家、映像監督。イーロン・マスクや第45代・第47代アメリカ大統領のドナルド・トランプなど富裕な卒業生が多いことでも知られペンシルベニア大学に進学。ペンシルベニア大学の新入生の時にジュリアード学院に合格。2016年卒業。名門音楽学校の代表として、映画やテレビドラマなどに、たびたび登場するあの「ジュリアード」だ!!身長は、身長193 cmって大谷選手とほぼ同じくらいあるのだなと感心した。あの青いスーパーマンの服は、背が高くて、筋肉のしっかりして理想的な体格でないと似合わない。顔や髪の色なども、デヴィッド・コレンスウェットは適役なのだろう。 あと、スーパーマンの愛犬“スーパードッグ”クリプト。スーパーマンが呼ぶと、走ってきて、スーパーマンを助ける“スーパードッグ”。犬なのに赤いマント着てるし・・・。(〃艸〃)ムフッこのクリプトと一緒に地球を見る二人の姿の写真がスーパーマンの孤独を現わしていて切ない。そういえば、スーパーマンのいとこの女の子が青いシャツに赤いミニスカート、赤いブーツはいて出てきた。こういうちょっとしたサービスが嬉しい♪ 昔見ていたテレビは、新聞社のシーンがもっとあって、闘うシーンは少なかったように思う。この方が経費節約になるなと今の私は納得する。銃弾を跳ね返す鋼鉄の体に超高速の飛行能力、目から放つレーザー光線などおなじみのスーパーパワーを駆使して戦う。そんな力はいらないけれど、転んでも骨が折れないような体が欲しいとせつに節に願う後期高齢者の私である。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.24
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■ババンババンバンバンパイア■森蘭丸 450歳!銭湯で働く森蘭丸(吉沢亮)、その正体は450歳のバンパイア。至高の味わいである「18歳童貞の血」を求め、銭湯のひとり息子である15歳の李仁(板垣李光人)の成長と純潔をそばで見守る日々だったが、ある日李仁がクラスメイトの葵(原菜乃華)に一目惚れ!恋が成就してしまえば、それすなわち童貞喪失の危機!突如訪れた絶体絶命のピンチに「恋をさせてはなるものか!」と蘭丸による決死の童貞喪失阻止作戦が幕を開ける!ところが、そう意気込んで葵の家を訪ねるも、バンパイアオタクである葵から逆に恋心を抱かれてしまう蘭丸。さらには蘭丸の命を狙うバンパイアハンター・坂本(満島真之介)、葵の兄である脳筋番長・フランケン(関口メンディー)が次々登場、全員の勘違いとすれ違いにより、恋の矢印が大混線!そして、そんな蘭丸のもとへ因縁の相手である兄・長可(ながよし=眞栄田郷敦)の影が忍び寄る――別冊少年チャンピオンで連載中の奥嶋ひろまさによる同名コミックを実写映画化。 吉沢亮主演の「ババンババンバンバンパイア」を見てきた。この映画、吉沢亮が昨年末に起こした酒の事件でオクライリになる可能があった。しかし、「国宝」の大ヒットで、この映画も日の目を見たのだった。よかった・・・。★バンパイアといえば、「ポーの一族」と思っていたけど、いっぱいあるみたい。 バンパイアヲタクの葵(原菜乃華)の部屋には、手塚治虫の「バンパイア」があった!!★主人公は、信長の小姓だった森蘭丸。兄・長可(ながよし=眞栄田郷敦)も出てくる。岡山県の津山の領主になった兄弟もいる。★小ネタが散りばめられていた。アンミカが「血ぃの色はなぁ、200色くらいあんねんで」と言っていた(〃艸〃)ムフッ★「いい湯だな」のアレンジバージョンが面白い。続編がありそうな予感(〃艸〃)ムフッ 蘭丸は、永禄8年(1565)信長の家臣で金山城主だった森可成(よしなり)の三男として誕生しました。本名は森成利(なりとし)といい、名前には諸説あります。文書には「乱」「乱法師」が用いられ諱は長定とあるものの、当時の古文書では「成利」と署名されているようです。武勇に優れた父は信長から厚い信頼を得ており、その跡を継いだ兄・長可(ながよし)も重用されました。蘭丸は天正5年(1577)5月に弟らとともに小姓として召し抱えられ、それ以降は信長の側近として活動。17歳の頃には近江に500石の知行を与えられました。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.23
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■2025.5.28(水)-29日(木)5月19日から始まったフランス旅行も5月28日の飛行機で日本に帰る。旅の最後の朝ごはん。食堂から見えるパリの街並み。▲私たちの部屋は一階で壁と床が石だった。今回は、旅の大枠を私が決めた。夫が、ホテルやガイドを手配してくれ、娘が地下鉄やバスなどをテキパキと案内してくれた。3人で力を合わせた旅だった。9時過ぎにタクシーがホテルまで迎えに来てくれて、シャルルドゴール空港へ。シャルル・ド・ゴール空港(Aéroport Roissy-Charles-de-Gaulle)は、パリ市街の北北東約23 kmのロワシーに位置する。通称では地名を取って空港行きのバスは、ロワシーバスなど「ロワシー」と呼ばれる。13:30発の飛行機だからまだまだ時間がある。コーヒーを飲んだり、お土産を買ったりして時間を潰した。さて、出発。飛行機は、南に進路をとった。これまで乗った経験では、北に廻る。しかし、今は、ロシアの上空は飛べないのだそうだ。ベジタリアンメニューの食事は、行きも帰りも美味しかった。フランスにいた時の食事は、もちろんレストランもあったけれど、スーパーで食材を買うことが多かった。サンドイッチやサラダ以外にも、握りずし、巻きずし、おにぎりなどなど食べ慣れたものがあって不自由しなかった。帰りは、12時間55分の予定。「昔は11時間代で日本に帰れたんですけどねぇ・・・」とガイドさんがロシア上空を飛べないことを嘆いていた。朝ごはんにと紙パックに入った軽食を降りる間際に食べた。5月19日(月)からの旅は、関空に5月29日(木)9:25分、無事に着いた。5/28●5416歩5/29●7232歩旅行中よくあるいた。美術館に入る時などは、荷物をロッカーに入れ、スマホも預けたので、実際の歩数はもう少し多い。5/19■エールフランスでフランスへ■5/20-1■パリ東駅からアールヌーヴォーの町ナンシーへ■5/20-2■ナンシー:世界遺産・世界遺産スタニスラス広場など■5/21-1■1デイチケットで美の町ナンシーをまわる■5/21-2■ナンシーでアールヌーボーな2つの邸宅美術館■5/22-1■ドイツ風木組みの町・ストラスブール■5/22-2■世界遺産・ストラスブールをガイドさんと歩く■5/23-1■世界遺産の町・コルマールへ■5/23-2■アルザスのベニス:世界遺産・コルマール■5/24-1■フランス第二の街・リヨン/リヨンはライオン/抗議デモ■5/24-2■世界遺産の街・リヨンを観光船で見る■5/25-1■世界遺産:リヨンの町<中洲>をガイドさんと歩く■5/25-2■ガイドさんと世界遺産の町・リヨン<旧市街地>を歩く■5/25-3■世界遺産の街リヨンの<丘>を歩く/<中洲>の美術館■5/26-1■リヨンからパリ・リヨン駅へ■5/26-2■オペラ・ガルニエ/お土産さがし■5/27-1■パリで一番華麗なアレクサンドル3世橋■5/27-2■パリ:プチパレ/ポンヌフ■5/27-3■パリ:世界遺産を見るセーヌクルーズ■5/27-4■パリ:シテ島のノートルダム寺院とポイントゼロを探せ!■5/28-29■フランス旅行:帰路■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.22
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■2025.5.27(火)-4世界遺産の景色を見ながらのセーヌクルーズが終わって、シテ島のポンヌフから同じくシテ島にあるノートルダム大聖堂を見に行く。シテ島は、フランス・パリの中心部を流れるセーヌ川の中州である。ポンヌフがシテ島の西の端で、ノートルダム大聖堂は、その反対の東の端。シテ島の長さは1kmほど、端から端まで歩いても30分もかかりません。「ノートルダム」とはフランス語で「私たちの貴婦人」という意味で、それは「聖母マリア」を指すもの。そのため、マリアに捧げられた聖堂につけられる名称として、世界各地に「ノートルダム」の名を冠した教会が存在している。聖堂は1163年に着工、約200年後の1345年に完成しました。荘厳に聳える双塔、気高く真っすぐに伸びる尖塔、バラ窓の美しいステンドグラスは、初期ゴシック建築の最高傑作と言われています。■2019年5月■ギリシャ旅行の最中に、パリのノートルダム寺院が火災で焼失したことを知った。2002年、娘2人と私の3人でパリ旅行をしたとき、ノートルダム寺院に行き、塔に登った。あの時よりも、大勢の観光客がいて、中に入ることはできなかったけれど、見事に修復されていて満足だ。しかし近くには、まだクレーン車があったので、修復は続いているのだろう。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ノートルダム寺院のあるシテ島は、サン=ルイ島と並んで、「パリ発祥の地」とも称される。ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』では、すでに紀元前1世紀にパリシイ族が住んでいたことが述べられている。ノートルダム大聖堂とパリ警視庁とパリ市立病院がある。病院は、旅の病人を宿泊させ、病になれば看病した教会、巡礼教会からの発展の名残である。この近くにパリ発祥の地のマークがあるはずだと、ノートルダム寺院の前を探した。「ブラタモリ」では、この辺りに「ポイントゼロ」があって、こういうのが大好きな私は、必死になって探した。皆で探したのだけれど見つけられなかった。残念・・・。_| ̄|○◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ポイントゼロを探すのを諦めて、バスでホテルに帰る。バスを降りたあたりに食堂っぽいところがあった。日本語のメニューがあったので、遅すぎるお昼としてオムレツを注文。スーパー・モノプリが近くにあったので夕食用の食材を買いこむ。●15575歩5/19■エールフランスでフランスへ■5/20-1■パリ東駅からアールヌーヴォーの町ナンシーへ■5/20-2■ナンシー:世界遺産・世界遺産スタニスラス広場など■5/21-1■1デイチケットで美の町ナンシーをまわる■5/21-2■ナンシーでアールヌーボーな2つの邸宅美術館■5/22-1■ドイツ風木組みの町・ストラスブール■5/22-2■世界遺産・ストラスブールをガイドさんと歩く■5/23-1■世界遺産の町・コルマールへ■5/23-2■アルザスのベニス:世界遺産・コルマール■5/24-1■フランス第二の街・リヨン/リヨンはライオン/抗議デモ■5/24-2■世界遺産の街・リヨンを観光船で見る■5/25-1■世界遺産:リヨンの町<中洲>をガイドさんと歩く■5/25-2■ガイドさんと世界遺産の町・リヨン<旧市街地>を歩く■5/25-3■世界遺産の街リヨンの<丘>を歩く/<中洲>の美術館■5/26-1■リヨンからパリ・リヨン駅へ■5/26-2■オペラ・ガルニエ/お土産さがし■5/27-1■パリで一番華麗なアレクサンドル3世橋■5/27-2■パリ:プチパレ/ポンヌフ■5/27-3■パリ:世界遺産を見るセーヌクルーズ■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.21
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■2025.5.27(火)-3パリ観光のハイライトといえば、セーヌ川のクルーズ。セーヌ川の周辺は、世界的な歴史建造物が集まっているスポットで、「ノートルダム大聖堂」、「ルーブル美術館」、「アレクサンドル3世橋」や、「エッフェル塔」などある。セーヌ川とその周辺の建築物を含めた一帯が、世界遺産として登録されたのは1991年。そこを船で廻る。出発は、ポンヌフの船乗り場でフランスの小学生が遠足?に来ていた▲ポンヌフ出発。▲オルセー美術館の建物はもともと1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて、オルレアン鉄道によって建設されたオルセー駅の鉄道駅舎兼ホテルであった。 もともとオルセー駅はオルレアンやフランス南西部へ向かう長距離列車のターミナルであり、かまぼこ状の大屋根(トレイン・シェッド)の下の地下に10線以上のホームを備えていた。狭くて不便だったことから、1939年に近距離列車専用駅となり、駅施設を大幅に縮小した。(時計の下にパリ、オルレアンの文字)その後、この建物はさまざまな用途に用いられ、一時は取り壊しの話もあったが、1970年代からフランス政府によって保存活用策が検討されはじめ、イタリアの建築家ガエ・アウレンティの改修により19世紀美術を展示する美術館として生まれ変わることとなった。 こうして1986年、オルセー美術館が開館した。建物内部には鉄道駅であった面影が随所に残る。現在ではパリの観光名所としてすっかり定着した感がある。なお、旧・印象派美術館(ジュ・ド・ポーム)の収蔵品はすべてオルセーに引き継がれている。▲船がすれ違うと手を振り合う。▲コンシェルジュリー(Conciergerie)は、フランスのパリ1区、シテ島西側にあるかつての牢獄。現在はパリのパレ・ド・ジュスティス(司法宮)の一部で、観光名所となっている。もともとフィリップ4世などカペー朝の王宮(palais de la Cité、シテ宮)として建てられ、10世紀から14世紀にかけて使用された。しかし、シャルル5世らによって放棄され、ヴァンセンヌ城に居城が移された後の1370年に牢獄として使われ始める。 また、マリー・アントワネットが処刑される前に2か月半過ごした独房も現在再現され、説明のための掲示板もある。パリで一番、いや世界で一番美しい橋、▲アレクサンドル3世橋。アレクサンドル3世橋はアールヌーヴォーの街灯、天使やニュンペーの像、ペーガソスといった華麗な装飾で有名。当時は、船が大きな役割をおっていたので、上からも美しいが、川から見ても美しいように出来ている。後世では「鉄の貴婦人(La Dame de fer)」と称えられるエッフェル塔であるが、建設当時としては奇抜な外見のため、賛否両論に分かれた。1887年2月には、建設反対派の芸術家たちが連名で陳情書を提出している。反対派の文学者ギ・ド・モーパッサンは、エッフェル塔1階のレストランによく通ったが、その理由として「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」と言っている。ここから、「エッフェル塔が嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」ということわざも生まれた。■前回2011年に行った時、■エッフェル塔の中にある眺望レストラン『58 TOUR EIFFEL (58・トゥール・エッフェル)』 でのディナー。その後、セーヌ川クルーズというコース。エレベーターが混雑していて、時間がないので、エッフェル塔を駆け下りた。船はここから引き返した。遠目にビルアケム橋が見えた。■おしゃれ手紙:ビルアケム橋■5/19■エールフランスでフランスへ■5/20-1■パリ東駅からアールヌーヴォーの町ナンシーへ■5/20-2■ナンシー:世界遺産・世界遺産スタニスラス広場など■5/21-1■1デイチケットで美の町ナンシーをまわる■5/21-2■ナンシーでアールヌーボーな2つの邸宅美術館■5/22-1■ドイツ風木組みの町・ストラスブール■5/22-2■世界遺産・ストラスブールをガイドさんと歩く■5/23-1■世界遺産の町・コルマールへ■5/23-2■アルザスのベニス:世界遺産・コルマール■5/24-1■フランス第二の街・リヨン/リヨンはライオン/抗議デモ■5/24-2■世界遺産の街・リヨンを観光船で見る■5/25-1■世界遺産:リヨンの町<中洲>をガイドさんと歩く■5/25-2■ガイドさんと世界遺産の町・リヨン<旧市街地>を歩く■5/25-3■世界遺産の街リヨンの<丘>を歩く/<中洲>の美術館■5/26-1■リヨンからパリ・リヨン駅へ■5/26-2■オペラ・ガルニエ/お土産さがし■5/27-1■パリで一番華麗なアレクサンドル3世橋■5/27-2■パリ:プチパレ/ポンヌフ■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.19
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■2025.5.27(火)-2アレクサンドル3世橋を渡ると、チャーチル元英国のチャーチル元首相が立っていて、そこは、プチパレの敷地。目の前の通りはウインストン・チャーチル通りです。▲プチ・パレと▼クラン・パレが向かい合ってたっている。グラン・パレもプチ・パレも、1900年のパリ万博の会場として建てられた宮殿でどちらも現在美術館として使われている。▲プチ・パレに入ることにしたがまだ時間が早かったので▲キンキラキンの扉は開いてない。▼入り口付近で待つことにした。金の門の下で、撮影していた。女性は、ノースリーブで、撮影が終わるとコートをひっかけていた。この日、パリの気温は14度で私は、長袖の上にダウンのベストを着ていた。イオニア様式の石柱や、壮大な入り口とドーム屋根。プチ・パレとは小さな宮殿という意味だけれど、どこが小さいねん!!▲プチ・パレの入り口付近から見た正面のグラン・パレ。メインの屋根は鉄とガラスで作られている。プチ・パレの入口を入るといきなり広いエントランスホール。▲美しい階段の手すり。どんな有名な絵にも勝る、天井や階段。これぞパレス(宮殿)!!◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆この日は、最後の観光なので、どこにするか・・・?パリといえばセーヌでしょうと、朝からアレクサンドル3世橋に行き、そのあと近くのプチパレをみて、セーヌに浮かぶシテ島の橋、ポンヌフへ向かった。▲メトロで→ポンヌフまで▼メトロ、ポンヌフ駅についてポンヌフ(橋)まですぐ。 ポンヌフ(橋)の上で次女のレイに会う。彼女は、午前中は、バレエのレッスンに行っていた。「日本人が来てるでって先生がゆうてた」と言う。パリジェンヌが関西弁(〃艸〃)ムフッ娘以外にも日本人がバレエのレッスンに来ていたそうだ。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ポンヌフは現役で利用されるパリ最古の橋。名前は「新しい橋」という意味ですが、1606年にアンリ4世によって造られたパリでもっとも古い橋です。橋はたびたび修理を受けてきたが、その基本的構造は建築当時のままであり、「ポンヌフのように丈夫」ということわざも生まれたほど頑丈な橋である。 『ポン・ヌフの恋人』(Les Amants du Pont-Neuf)パリ最古の橋であるポン・ヌフを舞台にした『ポン・ヌフの恋人』は、1991年にレオス・カラックス監督によって制作されました。▲橋の上に立つアンリ4世橋の上を通ると、橋の中央に大きな騎馬像が現れます。これはポンヌフを作ったフランス国王アンリ4世の像。最初の像は1635年に建造され、フランス革命の時に破壊されました(彼が創始した王朝だったため)。フランス人に愛されたブルボン朝最初の国王は、好色な性格だったことでも有名で、現在は偶然にも秘密を隠すようにひっそりとたたずむドフィーヌ広場の先端を覗き見る形で立っています。絶対君主制を誇示するために人の多いポン・ヌフの中央に立てられた像でしたが、当時の人々はこの「王ののぞき見」的な位置関係を面白がったそうです。ポンヌフから下をのぞくと、緑地が見える。アンリ4世の騎馬像の後ろに回ると、下へと続く細い階段があって下に降りることができる。階段を降りると、橋の上の喧騒が消え、静かなセーヌの流れが間近に見えます。柳の木が美しい・・・。シテ島の西端にあるヴェール・ギャラン公園。▲流れに浮かぶ船のような、シテ島の最西端、ヴェール・ギャラン公園。そんな景色が見えるのが、セーヌのクルーズ船。早速、乗ることにした。5/19■エールフランスでフランスへ■5/20-1■パリ東駅からアールヌーヴォーの町ナンシーへ■5/20-2■ナンシー:世界遺産・世界遺産スタニスラス広場など■5/21-1■1デイチケットで美の町ナンシーをまわる■5/21-2■ナンシーでアールヌーボーな2つの邸宅美術館■5/22-1■ドイツ風木組みの町・ストラスブール■5/22-2■世界遺産・ストラスブールをガイドさんと歩く■5/23-1■世界遺産の町・コルマールへ■5/23-2■アルザスのベニス:世界遺産・コルマール■5/24-1■フランス第二の街・リヨン/リヨンはライオン/抗議デモ■5/24-2■世界遺産の街・リヨンを観光船で見る■5/25-1■世界遺産:リヨンの町<中洲>をガイドさんと歩く■5/25-2■ガイドさんと世界遺産の町・リヨン<旧市街地>を歩く■5/25-3■世界遺産の街リヨンの<丘>を歩く/<中洲>の美術館■5/26-1■リヨンからパリ・リヨン駅へ■5/26-2■オペラ・ガルニエ/お土産さがし■5/27-1■パリで一番華麗なアレクサンドル3世橋■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.18
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■once ダブリンの街角で■ふたりをつなぐ、愛より強いメロデイダブリンのストリート・ミュージシャンの男が、外国人移民の若い女と出会う。2人は音楽のセッションを通して親しくなっていくが、男は別れた恋人のことを忘れられず、女も複雑な事情を抱えていた。 アイルランドの人気バンド、ザ・フレイムスのグレン・ハンサードが主演した恋愛映画。音楽によって心を通わせ、微妙に揺れ動く男女の思いをいきいきとつづる。★アイルランドといえば、貧しい国。その貧しい国に移民としてやってくる人がいるのだとビックリした。チェコから移民としてやってきた若い女性は、母親と娘と3人でダブリンの街で暮らしている。 仕事は、掃除や花売り。家には電話もない。テレビはあるが、近所に住む移民仲間は、持っていないので、見に来る。★ダブリンのストリート・ミュージシャン男性も貧しいのだろう。商売道具のギターには、穴があいている。音に支障はないのだろうか?★仕事は?と彼女が男性に聞く。「中古のフーヴァーの修理をしている」と男は答える。思い出した、思い出した!!!50年以上前、ロンドンでは、掃除機をフーバーと言っていた。 「『フーヴァー』とは掃除機メーカーの名前だが、イギリス・アイルランドでは掃除機の総称としても用いられている」そうだ。■once ダブリンの街角で■★原題/Once★製作年/2006年★製作国/アイルランド★初公開日/2007年11月3日★上映時間/87分・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.17
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■おい、太宰(劇場版)■洞窟を抜けると、そこには太宰治?!小室健作(田中圭)は太宰治を敬愛する平凡な男。妻の美代子(宮澤エマ)と出席した結婚披露宴の帰り道、偶然太宰が心中未遂を起こした海辺に迷い込む。太宰ゆかりの地に興奮した健作は暗い洞窟を進んでいく。その先に現れたのは太宰治(松山ケンイチ)と恋人のトミ子(小池栄子)。タイムスリップしてしまった健作はトミ子に一目惚れをする。しかし、史実では二人はもうすぐ心中してしまう。トミ子を助けたい健作は奔走する! 三谷幸喜がオリジナル脚本と監督を務める“完全ワンシーンワンカット”シリーズの新作第3弾。WOWOW放送のドラマ『おい、太宰』の劇場版にして、放送版とは異なる「もうひとつのエンディング」を特別映像として上映。海辺を舞台に、太宰治を敬愛する平凡な男が時代を超えて奮闘する姿を描いたタイムスリップコメディ。出演は主人公の小室健作を田中圭、太宰の恋人・矢部トミ子を小池栄子、健作の妻・小室美代子を宮澤エマ、健作と出会う漁師・打雷次郎に梶原善、太宰治を松山ケンイチ。浜辺を舞台にした足場の悪さやドローン撮影など様々なハードルがあるなか、約100分間一度もカメラが止まらない極限の緊張感が画面にみなぎる。 健作がタイムスリップ先で出会った男、太宰役の松山は、青森県出身の太宰と同郷。セリフを津軽弁にすべく、地元の知り合いのアナウンサーを相手に方言を学び直したという。「僕も東京暮らしが長くてシティボーイになってしまったので、青森駅の喫茶店に2人で入ってずっと方言の練習をしていました。ただ青森の中にも津軽弁と下北弁があって、僕はゆかりの深い下北弁の自分の感じも入れたいと思ったので、かなりミックスしています。なので本作の言葉は『青森の言葉』という表現でお願いします」とこだわりを見せた。これに三谷監督は「いまだかつて太宰を描いて青森言葉でしゃべった人はいないはず。本作はまさに画期的です!」と絶賛していた。太宰治の故郷は、青森市の左隣、五所川原市。下北というのは、右上にある斧の形の部分。 脚本、監督が三谷幸喜というので見に行った。主人公の小室健作が「ダザイさんのこと」を尋ねると「ダライさんならうちです」という地元民。よく聞くと「打雷=ダライ」だった。そんな小ネタがあちこちにちりばめたれていた。★太宰の恋人・矢部トミ子を小池栄子、★健作の妻・小室美代子を宮澤エマ、★健作と出会う漁師・打雷次郎に梶原善、それに脚本が三谷幸喜とくればもう、これは「鎌倉殿の13人」!!それにしても、太宰治は、女性と心中したというのは知っていたけれど、それ以前にも心中未遂をして、相手は亡くなったというのは、知らなかった。 自分のことを「ワ」という太宰治=松山ケンイチの青森弁が面白かった。本物の太宰も訛っていたようだ。本名ではなく、ペンネームを使ったことに関し、太宰治の師でもある井伏鱒二が、「従来の津島では、本人が伝うときには『チシマ』ときこえるが、太宰という発音は津軽弁でも『ダザイ』である。よく考えたものだと私は感心した」と回想記で語っています。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.16
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■2025.5.27(火)-1次の日は、日本に帰る飛行機に乗る、そんな日、パリで一番美しい橋、アレクサンドル三世橋を見に行く。しかし気がかりがある。 それは、娘のレイが一緒でないこと。彼女は、この日午前中、別行動で、バレエのレッスンを受ける。バレリーナか!!((´∀`*)) 彼女は、小学生の頃からバレエのレッスンを受けていて、イギリスにいた2年間も1時間をかけてロンドンのバレエ教室に通っていた。夫とふたりで、娘の行動力に感心した。と共に、私たち夫婦二人で大丈夫か?と心配になった(〃艸〃)ムフッ▲アレクサンドル3世橋は、エッフェル塔近くの緑の〇のあたり。娘がホテルから最寄りのパリメトロの8号線の駅まで送ってくれて、乗り換えなしで着いた。「オペラ」駅から3番目の「アンヴァリッド」駅。メトロは、娘に任せっぱなしで来たので、乗り換えなしでホッとした。『アレクサンドル3世橋』は、世界遺産「パリのセーヌ河岸」にも含まれ、セーヌ川に架かるたくさんの橋の中でも、最も美しいと言われる橋。 4隅の17mの高さの柱の上にはそれぞれ「芸術」、「農業」、「闘争」、「戦争」を意味する女神像が立っている。▲エッフェル塔も見えた!▲アレクサンドル3世橋の礎石は1896年にニコライ2世によって設置され、1900年のパリ万博に際して落成した。▲1915年(大正4年)に架けられた大阪の難波橋は、パリのセーヌ川に架かるヌフ橋とアレクサンドル3世橋を参考にして製作されたといわれる。難波橋にもライオンの飾りがあって、階段も似ている。■おしゃれ手紙:難波橋■▲天使の装飾をした街灯▼▲橋の中央にある飾りの先は、灯がつくようになっている。▼船から見た橋の飾り。▲と表裏となっている。繊細な飾り。▲橋の四隅の柱のひとつ。▼柱の下にも彫刻があって、美術館のよう。▲船から見たアレクサンドル三世橋▼絵にも描けない美しさというが、写真にも撮れない美しさ。( ;∀;) アレクサンドル3世橋は色々な映画のロケ地にもなっています。ウディ・アレン監督の「ミッドナイト・イン・パリ」では、ラストシーンにアレクサンドル3世橋が出てくるという。「ミッドナイト・イン・パリ」の舞台を歩くというパリのツアーがある。私は、大いに心が動いたが、案内はフランス語か英語だった。残念~_| ̄|○橋はセーヌ川の右岸にあるパリ万博の展示会場だったグランパレ・パレおよびプチ・パレと、セーヌ川の左岸にあるアンヴァリッド公園を結ぶように架けられています。プチパレの敷地にイギリスのチャーチル元首相が立っている!!目の前の通りはウインストン・チャーチル通りという名になっている。なぜイギリスの大政治家ウインストン・チャーチルの像が立っているのかは不明。5/19■エールフランスでフランスへ■5/20-1■パリ東駅からアールヌーヴォーの町ナンシーへ■5/20-2■ナンシー:世界遺産・世界遺産スタニスラス広場など■5/21-1■1デイチケットで美の町ナンシーをまわる■5/21-2■ナンシーでアールヌーボーな2つの邸宅美術館■5/22-1■ドイツ風木組みの町・ストラスブール■5/22-2■世界遺産・ストラスブールをガイドさんと歩く■5/23-1■世界遺産の町・コルマールへ■5/23-2■アルザスのベニス:世界遺産・コルマール■5/24-1■フランス第二の街・リヨン/リヨンはライオン/抗議デモ■5/24-2■世界遺産の街・リヨンを観光船で見る■5/25-1■世界遺産:リヨンの町<中洲>をガイドさんと歩く■5/25-2■ガイドさんと世界遺産の町・リヨン<旧市街地>を歩く■5/25-3■世界遺産の街リヨンの<丘>を歩く/<中洲>の美術館■5/26-1■リヨンからパリ・リヨン駅へ■5/26-2■オペラ・ガルニエ/お土産さがし■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.14
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■2025.5.26(月)-2リヨンからパリに着いて、昼からオペラ座=オペラ・ガルニエに行った。私は、パリは5回目、娘は4回目で、今回は、どこにしようかと迷った。オペラ座には、2002年に、娘2人と一緒に来ているが20年以上前なので、ここにした。夫は初めて。オペラ・ガルニエは、ナポレオン3世よって打ち出された大規模な都市改造計画により建設された建物で、当時はまだ無名の若き建築家シャルル・ガルニエが起用され、1875年に完成した。パリ国立オペラのオペラハウスで、オペラ座(l’Opéra)やガルニエ宮(Palais Garnier)とも呼ばれている。ルネサンス様式とバロック様式の混在した折衷様式で、パリ屈指の美しさを誇っている。音声ガイドを借り聞きながら階段を登った。名高い大階段は、白大理石が贅沢に使われた煌びやかで、天井までの高さは約30m。ここは、かつて貴婦人たちが、華やかな衣装で美を競った場所。◆カリアティードの門◆階段を登ると正面にカリアティードの門が見える。左の像が悲劇を、右が喜劇を表す。▲宮殿の中にいるようなロビー。▼「前に来た時は、こんなに混んでなかったのにな・・・」と娘のレイが私に話しかけてきた。「オペラ座の怪人」というミュージカルで聖地巡礼として、こんなに混んでいるのかな。私も舞台は2回観たし、映画も見た。ロビーの天井の絵は、古典的なのだけれど、劇場の天井はがらりと雰囲気が違う。▲シャガールの作品で天井画の依頼を受けたのは1960年。1962年に依頼は公表され、 メディアでは批判が殺到した。 オペラ座の調和が乱れる、というのがその趣旨だった。 あまりの辛辣さに、 シャガールは隠れて制作を行なわなければならなかったほどだ。▲「オペラ座の怪人」の中でも登場するシャンデリア。シャンデリアの落下事件は、実話だそうだ。ミュージアムショップでお土産を見た。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆交通系カード「ナビゴ」を利用してバスに乗り次の目的地へ。「モノプリ・オペラ」店に行った。「モノプリ」は、スーパーでオペラ店は大きいのでお土産にいいと知っていた。エコバッグは、お土産の定番らしい。 エッフェル塔の形をボトルに入った塩や可愛らしい缶に入ったチョコレートなどなど買った。もっとゆっくり見たかったなぁ・・・。▲近くの店(正面)て遅いランチ。▼●12268歩 パリ泊5/19■エールフランスでフランスへ■5/20-1■パリ東駅からアールヌーヴォーの町ナンシーへ■5/20-2■ナンシー:世界遺産・世界遺産スタニスラス広場など■5/21-1■1デイチケットで美の町ナンシーをまわる■5/21-2■ナンシーでアールヌーボーな2つの邸宅美術館■5/22-1■ドイツ風木組みの町・ストラスブール■5/22-2■世界遺産・ストラスブールをガイドさんと歩く■5/23-1■世界遺産の町・コルマールへ■5/23-2■アルザスのベニス:世界遺産・コルマール■5/24-1■フランス第二の街・リヨン/リヨンはライオン/抗議デモ■5/24-2■世界遺産の街・リヨンを観光船で見る■5/25-1■世界遺産:リヨンの町<中洲>をガイドさんと歩く■5/25-2■ガイドさんと世界遺産の町・リヨン<旧市街地>を歩く■5/25-3■世界遺産の街リヨンの<丘>を歩く/<中洲>の美術館■5/26-1■リヨンからパリ・リヨン駅へ■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.12
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■2025.5.26(月)-1この日は、リヨンからパリへ行く日。▲卵は固ゆでにした。リヨンでの最後の朝ごはん。▼フランスに来るまでは、リヨンってストラスブールから4時間かけて来る値打ちがあるのだろうか?と思っていたけど、あった。ありました!街中といっていいほど世界遺産が多い。旅は船が主流の時代、日本からパリに行くのは20日以上もかかって船に乗ってマルセーユに着く。そこからリヨンまで鉄道で陸路。そして鉄道でパリに行く。鉄道の無かった時代は、川を船でリヨンに行ったのかも知れない。♪そんな時代もあったねと~それにしても、ホテルの食堂から見てた↑の像は、なんだったのだろう??この日は、電車で2時間かけてパリに行く。昔、1970年代、80年代もヨーロッパに行ったが、電車に乗ると個室のようなコンパートメントだった。2010年、2011年と国境を越える鉄道に乗ったが、この時は、コンパートメントではなかった。もう、コンパートメントは無くなったのだろうか?夫は、都会が嫌いなので、家族とパリに行ったことがない。学生の頃、今から50年以上前に、一度行ったきりなので始めてのようなものだ。パリは、スリが多いし、トイレが汚い。だから厭だという。「つまり外国へ行って、いや、べつに行かなくたってよろしい、この日本国のことでもよい、めいめいの趣味、主張、主義にしたがって、上品なところ、きれいなところ、立派なところばかり見る、あるいは逆に、下品なところ、汚いところ、要するに共同便所のようなところばかり見てくる、私はそんなことはきらいである。世の旅行者というものはたいていその二つ、上品立派組と共同便所組のどちらかに所属してしまうようであるが、これはどうもやはり困りものではないのか。ひとつの社会というやつは、どこだって、美術館だけでできあがっているのでもなければ、どこへ行っても共同便所ばかりというようなこともないのである。」「何でも見てやろう」小田実リヨン最後の夜に私は「何でも見てやろう」を引き合いに出した。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆私が真剣にパリの地下鉄の地図を見ている間にパリ・リヨン駅に着いた。「お母さん、先に降りて私が荷物を下ろすから、それを見てて」と娘。「了解!」と私は答え、先に降りてスーツケースを受け取った。「老いては子に従え」part2▲現在のリヨン駅:地図・右下赤〇。1849年8月12日にパリ・リヨン鉄道の起点駅として開業したのがリヨン駅の起源である。当時の駅は現行の駅よりバスティーユ広場に近い位置にあった。その線路跡がリヨン通りとなっている。2011年・バスティーユ広場近くの鉄道跡地■緑の遊歩道■を歩いたが、リヨン駅とその線路跡だったのだ!! 1957年のビリー・ワイルダー監督、オードリー・ヘプバーン、ゲイリー・クーパー主演の映画『昼下りの情事』のクライマックスに出てくる。駅舎正面に向かって右手には高さ67m、時計の直径6.4mの時計台がある。駅舎の1階(日本式表記では2階)には1901年開業のベル・エポック調の装飾で知られるレストラン「トラン・ブルー」(青列車)があり、映画『ニキータ』にも登場する。 パリ・リヨン駅は、華やかなりし世紀末の優雅を持った駅で2階のレストランはシャンデリアや壁画で飾られた一流の社交場でした。パリ・リヨン駅の横手界隈には安くておいしい(略)中華料理店がありルノーの工場で働いていた周恩来もよく通ったということです。「パリからの旅」 堀内誠一◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆パリのホテルはメトロ、バスティーユ駅の1つ手前、パリ・リヨン駅に近い方にあった。▲右側がホテル5月19日からリヨンまで、全てイビスホテル系だったが、今回のみ違う。1階のフロントは、中庭に続いていた。私たちの部屋は、一階で(初めて)中庭に面していた。▲非常階段には、ツタが絡まっていた。▼◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆スーツケースをホテルに置いて出かけた。正面の建物の最上階、どうなってるの?!パリでは2026年を目処に、紙のチケット廃止を決めています。そこで代わりとなるのがこのナビゴイージー。ナビゴ イージーとはパリとパリ近郊の公共交通機関で利用可能な、チャージタイプの交通カードです。ナビゴイージーを使って、メトロ8番線の駅から出発。乗り換えなしで着いたのが、オペラ・ガルニエ。オペラ座だ!メトロ・オペラ駅では、「スリにご注意下さい!」と日本語のアナウンスが!!(´;ω;`)5/19■エールフランスでフランスへ■5/20-1■パリ東駅からアールヌーヴォーの町ナンシーへ■5/20-2■ナンシー:世界遺産・世界遺産スタニスラス広場など■5/21-1■1デイチケットで美の町ナンシーをまわる■5/21-2■ナンシーでアールヌーボーな2つの邸宅美術館■5/22-1■ドイツ風木組みの町・ストラスブール■5/22-2■世界遺産・ストラスブールをガイドさんと歩く■5/23-1■世界遺産の町・コルマールへ■5/23-2■アルザスのベニス:世界遺産・コルマール■5/24-1■フランス第二の街・リヨン/リヨンはライオン/抗議デモ■5/24-2■世界遺産の街・リヨンを観光船で見る■5/25-1■世界遺産:リヨンの町<中洲>をガイドさんと歩く■5/25-2■ガイドさんと世界遺産の町・リヨン<旧市街地>を歩く■5/25-3■世界遺産の街リヨンの<丘>を歩く/<中洲>の美術館■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.11
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■2025.5.25(日)-3ガイドさんとケーブルカーの駅(地図、左下青い〇)で別れた。ケーブルカーで丘に登る。ケーブルカーのチケットはトラムやバスのチケットは、前日買った観光2デーチケットに含まれている。カーブルカーを降りると突然、世界遺産、「ノートルダム大聖堂」が・・・。リヨン市内のどこからでも見えるのが、最も高いフルヴィエールの丘にあるノートルダム大聖堂。フルヴィエールの丘に建築されているので、フルヴィエール大聖堂とも呼ばれています。真っ白な外壁にアーチ、それぞれ細かなレリーフが施されており、とても美しいですね!▲外の柱。この教会はロマネスク様式とビザンチン様式の特徴を併せ持つデザインになっており、1872~1896年にかけて建築されました。▲教会の内部の柱も凝っていて美しい▼▲床には大理石で作った模様が▼床も天井も柱も豪華。これぞ世界遺産!!◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆教会の外に出るとリヨンの街が一望できる。手前に見えるのがソーヌ川で真ん中あたりに見える緑のところにローヌ川が流れる。ここから見える鉛筆型のビルの近くにリヨンパール・デュー駅があり泊っているホテルも近い。このビルの愛称は鉛筆という意味のCrayonクレヨン。フルヴィエールの丘は‟ルグドゥヌム(神の砦の丘)”と呼ばれたリヨン発祥の地。ローマのガリア(現フランス)征服時代に中心地となり発展しました。かつては城壁で囲まれ、神殿、住居、劇場などが建てられました▲2000年の歴史を持つ、ローマの征服時代のこ劇場は今も使われている。ロマン文明博物館も2デーチケットでいける。ローマにちなんだケーブルカ―駅の名前もある。ケーブルカーは2路線ある。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ソーヌ川とローヌ川の中洲にやってきた。目指す美術館は、テロ―広場、上の写真の右にある。▲中庭。ここまでは、無料。私たちは、2デーチケット使用▼リヨン美術館の建物は、かつてダム・ド・サン・ピエール王立大修道院として使われていた。回廊が豪華。高貴身分用の修道院だったので、建物も豪華。1803年に美術館になったという長い歴史があり、有名な画家の絵や古代ギリシャ、古代ローマなどのコレクションも多い。前日買った観光2デーチケットを使ってバスに乗りホテルに帰った。■おまけ■▲珍しい形の自転車(*´▽`*)▲川端に新しい木を沢山植えていた。●19725歩 リヨン泊5/19■エールフランスでフランスへ■5/20-1■パリ東駅からアールヌーヴォーの町ナンシーへ■5/20-2■ナンシー:世界遺産・世界遺産スタニスラス広場など■5/21-1■1デイチケットで美の町ナンシーをまわる■5/21-2■ナンシーでアールヌーボーな2つの邸宅美術館■5/22-1■ドイツ風木組みの町・ストラスブール■5/22-2■世界遺産・ストラスブールをガイドさんと歩く■5/23-1■世界遺産の町・コルマールへ■5/23-2■アルザスのベニス:世界遺産・コルマール■5/24-1■フランス第二の街・リヨン/リヨンはライオン/抗議デモ■5/24-2■世界遺産の街・リヨンを観光船で見る■5/25-1■世界遺産:リヨンの町<中洲>をガイドさんと歩く■5/25-2■ガイドさんと世界遺産の町・リヨン<旧市街地>を歩く■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.09
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■ハルビン■この決断は、きっと未来へ続く。1908年、咸鏡北道(ハムギョンブクト)シナ山で、安重根(ヒョンビン)率いる大韓義軍は劣勢にもかかわらず勇敢に戦い、日本軍に勝利を収める。万国公法に従って戦争捕虜たちを解放すると主張するアン・ジュングンに対し、イ・チャンソプ(イ・ドンウク)は激しく反論。結局、自らの兵を率いてその場を去ってしまう。その後、逃した捕虜たちから情報を得た日本軍の急襲を受け、部下たちを失ってしまったアン・ジュングンは、なんとかロシア・クラスキノの隠れ家に帰り着く。しかし、彼を迎えた同志たちの視線は厳しかった。1909年10月、日本の政治家である伊藤博文(リリー・フランキー)が大連からハルビンに向かうとの情報を得たアン・ジュングン。祖国の独立を踏みにじる「年老いた狼」を抹殺することこそが、亡くなった同志たちのために自分ができることだと確信した彼は、ウ・ドクスン(パク・ジョンミン)、キム・サンヒョン(チョ・ウジン)とともに大連行きの列車に乗るが、日本軍に察知されてしまう――― 1909年10月に中国ハルビンで起きた歴史的事件を映画化したサスペンス。祖国独立のためハルビンへ向かった男と同志たちと、それを阻止しようとする勢力の攻防を描く。同志との対立、交流、裏切り、そして絆の強さ、あるいは激しい戦闘シーン。日本支配から独立しようと闘う集団を描いた物語。★韓国において、伊東博文を暗殺したアン・ジュングンは、英雄なのだろうが、日本人にとって馴染みがない。私も知らなかった。 タイトルが(英雄)「安重根(アン・ジョングン)」ではなく「ハルビン」であるように、アン・ジュングンだけの物語ではなく、義兵闘争(独立運動)における「同志愛」と「連帯」に焦点を当てた群像劇であることだ。これまで韓国では、伊藤博文暗殺はアン単独によるものとの認識が一般的だった。監督はジュングンの決心と決行までに、数多の同志の犠牲と協力があったことを描くことで、普通の人たちの勇気ある行動と志が歴史をつくることを示した。その監督の核心的メッセージが、本編では大韓義軍側ではなく伊藤博文の口に託された点も興味深い。「朝鮮という国は、数百年間愚かな王と腐敗した儒者たちが支配してきた国だが、わしはあの国の民たちが一番の悩みの種だ。恩恵を受けたこともないのに国難の度に変な力を発揮する…」(伊藤博文)「歴史」としての映画『ハルビン』はまだ完結しておらず現在進行形だ。日本でより多くの方が劇場に足を運び、本作のメッセージや世界観に触れ、日韓の不幸な歴史を知り、今の平和と民主主義と交流の尊さに思いを馳せることが、新たな日韓関係の土台につながる。この映画の「歴史」は、日本のみなさんが観客として見届け、「歴史の証人」となることによって完結されるであろう。文/クォン・ヨンソク(一橋大学法学部准教授)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆★ハルビンで伊藤博文がロシアの役人に対して「ハルビンは、元は中国の土地でしたよね。」(今は、ロシアが占領しているけど)ということを含ませて言った。するとロシアの役人は、「じゃあ、朝鮮は、どこの国の領土ですかね・・・?」と朝鮮を占領した日本に嫌味をいう。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.08
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■フロントライン■新型コロナウイルスを乗せた豪華客船。そこは、命の「最前線」だった。2020年2月3日、乗客乗員3711人を乗せた豪華客船「ダイヤモンド・プリンセス」が横浜港に入港し、香港で下船した乗客1人に新型コロナウイルスの感染が確認される。船内では感染が拡大し100人を超える乗客が症状を訴え、災害派遣医療チームDMATが出動要請を受ける。しかし、治療法不明の未知のウイルスに対応できる経験や訓練はされておらず、DMATを統括する結城英晴(小栗旬)たちは、命を危険にさらしながら乗客全員を下船させようと奮闘する。 2020年に新型コロナウイルスの集団感染が発生した「ダイヤモンド・プリンセス号」内での実話を基に、船内での出来事をオリジナル脚本で描く。監督は『かくしごと』の関根光才、企画と脚本とプロデュースを『劇場版 コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-』の増本淳が務める。『キャラクター』の小栗旬、『雪の花 ―ともに在りて―』の松坂桃李、『本心』の池松壮亮、『スイート・マイホーム』の窪塚洋介らが出演する。 主人公の医師・結城英晴(小栗旬)は、DMAT(ディーマット)を統括する医師だ。DMAT(ディーマット)とはなにか?■DMATとは■「災害急性期に活動できる機動性を持ったトレーニングを受けた医療チーム」と定義されており災害派遣医療チーム Disaster Medical Assistance Team の頭文字をとって略して「DMAT(ディーマット)」と呼ばれています。医師、看護師、業務調整員(医師・看護師以外の医療職及び事務職員)で構成され、大規模災害や多傷病者が発生した事故などの現場に、急性期(おおむね48時間以内)から活動できる機動性を持った、専門的な訓練を受けた医療チームです。1995年に発生した阪神・淡路大震災をきっかけに発足されました。本来は、地震や台風などの災害の時、出動するのだが、今回(2020年の新型コロナ)は、自然災害ではないが出動を依頼された。 映画を見て、てんやわんやだった2020年のコロナが流行り始めたころを思い出した。医療関係者でも、コロナのことが分からない時に、DMAT(ディーマット)は、本当によくやってくれたと頭が下がる思いだ。厚労省の若き役人(松坂桃李)も事務的な感じだったが見えない所で、DMAT(ディーマット)が動きやすいように頑張ってくれた。 2020年3月、いつ終わるともしれないコロナに閉塞感を感じながら、思った。このまま、ジムにも行けず、映画にも旅行にも行けず、家で過ごすのだろうかと・・・。コロナが終わったとしても、その間に年をとっていて、何も出来なくなるのだろう・・・と。去年までは、簡単に行けた外国に、私はもうたぶん行けないだろうと思った。「100日後に死ぬワニ」のワニくんは、死ぬまでに98日の時、テレビの通販で見た布団を注文する。1年待ちと言われても、「はい!」と喜び、楽しみだな・・・とつぶやく。彼に1年後はないと知らずに・・・。去年までの私は、ワニくんと一緒で、いつでも映画や旅行に行けるジムに行くのも、句会に行くのも当たり前だったが急に終わりが来た。そんな感じだった。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆「フロントライン」を見て、いろんなことを思い出した。■雨がっぱ買い取り方針 新型コロナの医療現場で防護服不足―大阪■大阪市の松井一郎市長は14日、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い大阪府内の医療現場で防護服が不足していることを受け、「家庭に使用していない雨がっぱがある人、在庫が余っている人はぜひ大阪府市に連絡してほしい。しっかりと購入させていただく」と述べ、提供を呼び掛けた。「おしゃれ手紙」にコロナの話題が最初に出てくるのは、■2020年2月14日■長女がマスクが買えないと電話してきたので送った。2月6日、生協のチラシもマスクが売り切れと書いてあった。近所のスーパーにも「売り切れ」の張り紙が・・・。他のスーパーには、売られているものの、「ひとり2つまでにして下さい」という貼り紙が・・・。■2/11・東京旅行で■はとバスの乗客は、全部で3組12名。他のコースは乗客の数、2名というところがあった。新型コロナウイルスの影響だろうか・・・。*鹿だけがまことの姿で歩みおりマスクの列を左右に退かせ*ウィルスをゴルフボールとするなばらマスクのメッシュは網なき網戸朝日新聞「朝日歌壇」より2020.3.29・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.07
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■2025.5.25(日)-2ソーヌ川とローヌ川の中洲に引き続き旧市街地をガイドさんと歩いた。赤〇のところ。▲ソーヌ川べりに立つ像。中洲からソーヌ川を渡り旧市街に行く。フルヴィエールの丘とソーヌ川に挟まれた一帯が、リヨン旧市街。▲像の前は裁判所。新古典主義様式のファサードを飾る24本のコリント式の列柱。美しい!◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆▲サン・ジャン大聖堂。▼1180年から1480年にかけて建設。1600年、日本では関が原の合戦の年、イタリアのメディチ家のマリアさんとアンリ4世の結婚式が、この教会で行われたそうです。中に入ると聖歌隊の歌が流れていた。あまりに神々しくて思わず献金した(⌒∇⌒)▲サン・ジャン大聖堂にいかにも古い門のような遺跡がある。▼サン・ジャン大聖堂は、もとは、ローマ人によって、ここから始まったのではないかと思う。▲古代ローマ人の遺跡公園のような場所になっていて、そこで昔の衣装を着た人たちが大勢いた。テレビ局らしき人たちも来ていて賑わっていた。▲兵士の盾の絵はライオン?ローヌ川とソーヌ川の合流地点にあるリヨンは、川を使って地中海に出ていた。ローマ人も水運を使って、この地に来たのだろう。▲サン・ジャン大聖堂前の広場では、ルネッサンス時代の衣装を着た人たちが太鼓を叩いたり、旗を振ったりのパレードで賑やかだった。「リヨンの歴史を守る会」の人々?知らんけど(⌒∇⌒)▼▲この辺りは石畳で雨が降った時のために、真ん中が低くなっている。歩きにくいが、歴史を守っていることに感激する。表通りに面した厳しいドアの向こうに、細長い路地が奥まで続いている。路地の先は、隣近所の家と共有する中庭に通じています。トラブールと呼ばれていて、「道」という意味。ストラスブールが街道の道の意味と同じ。この路地は、家から家へと、網の目のように繋がっていて、地図にはのっていない抜け道、迷路と化しています。昔、絹織物を運ぶのに、雨に濡れないように、とか、織物のデザインが盗まれないように、トラブールを使って運んだ、とか、いろいろな説があるようです。入り口は小さくてガイドさんがいなかったら見つけられなかったかも・・・。まわりは、こんな感じの古い町で昔昔は、絹織物が盛んだった。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆30代で、一念発起してフランスに来て25年、フランス人と結婚してこの地に暮らす日本人のガイドさん。彼女が手配してくれた場所でランチ。▲みんなそれぞれ違うものを頼んだ。(⌒∇⌒)▲私は、サラダリヨネーズ。食の都リヨンの代表的なサラダであるサラダリヨネーズ(リヨン風サラダ)。▲デザート▼私はアイスクリーム。ガイドさんがケーブルカーの駅まで送ってくれた。これからケーブルカーに乗ってリヨンのはじまりの地へと登る。5/19■エールフランスでフランスへ■5/20-1■パリ東駅からアールヌーヴォーの町ナンシーへ■5/20-2■ナンシー:世界遺産・世界遺産スタニスラス広場など■5/21-1■1デイチケットで美の町ナンシーをまわる■5/21-2■ナンシーでアールヌーボーな2つの邸宅美術館■5/22-1■ドイツ風木組みの町・ストラスブール■5/22-2■世界遺産・ストラスブールをガイドさんと歩く■5/23-1■世界遺産の町・コルマールへ■5/23-2■アルザスのベニス:世界遺産・コルマール■5/24-1■フランス第二の街・リヨン/リヨンはライオン/抗議デモ■5/24-2■世界遺産の街・リヨンを観光船で見る■5/25-1■世界遺産:リヨンの町<中洲>をガイドさんと歩く■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.05
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■2025.5.25(日)-1フランス・リヨンのイビス系のホテルの朝。「日本人ですか?」と声をかけられた。日本人に会うのは、今回の旅で初めてだ。▲この日もしっかり朝食をとった。▼ガイドさんが迎えに来てくれて、前日買った観光カードを持って出発。このカードがあれば、交通関係や美術館のチケットを買う手間が要らない。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆赤〇がガイドさんと行ったところ。ローヌ川とソーヌ川の中洲にあるテロ―広場は、1995年、歴史的建造物に指定された。▲4頭の馬を駆る女神の噴水。▼▲広場には市庁舎がある。豪華で市庁舎というより王宮。美術館やオペラ座もあって、素晴らしい。少し広場を離れると静かな通りがあって、ここもよかった。リヨンって見どころがあるのかと思っていたけど、なんのなんの素晴らしい!◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆次に行ったのは、ソーヌ川沿いの中洲にのマルシェ。▲野菜や果物が色とりどりに並んでいて美しい▼リヨンにはマルシェがここ以外にも5か所以上あるけれど、ここが一番大きい。■リヨンのマルシェ■▲蜂蜜で作ったヌガーを買った。▲橋を渡って旧市街に行く。5/19■エールフランスでフランスへ■5/20-1■パリ東駅からアールヌーヴォーの町ナンシーへ■5/20-2■ナンシー:世界遺産・世界遺産スタニスラス広場など■5/21-1■1デイチケットで美の町ナンシーをまわる■5/21-2■ナンシーでアールヌーボーな2つの邸宅美術館■5/22-1■ドイツ風木組みの町・ストラスブール■5/22-2■世界遺産・ストラスブールをガイドさんと歩く■5/23-1■世界遺産の町・コルマールへ■5/23-2■アルザスのベニス:世界遺産・コルマール■5/24-1■フランス第二の街・リヨン/リヨンはライオン/抗議デモ■5/24-2■世界遺産の街・リヨンを観光船で見る■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・ <
2025.07.04
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■黒い瞳■あなたなしでは、生きられないアテネからイタリアへ向かう船の中。初老の紳士パヴェル(フセヴォロド・ラリオーノフ)は、まだ準備中のレストランでイタリア男と知り合い意気投合する。その男ロマーノ(マルチェロ・マストロヤンニ)は新婚旅行中だというパヴェルに自分の恋の話を始めた。大学で建築学を学んでいたロマーノは、ローマ有数の大銀行家の一人娘エリザ(シルヴァーナ・マンガーノ)と結婚、25年の歳月を迎えた頃、彼女と大喧嘩し、家を出て湯治場へ行った。そこで小犬を連れたロシア女姓アンナ(エレナ・ソフォーノワ)と知り合い、2人の仲は急速に進展した。彼女は結婚していたが、夫を愛したことはないとロマーノに告白した。が、愛の一夜を過ごした翌日、アンナはロマーノに一通の手紙を残してロシアに帰ってしまった。ロシア語で書かれたその手紙が愛の告白であったことをやっと解読したロマーノは、彼女を追ってロシアに向かった。 アントン・チェーホフの「犬を連れた奥さん」など4つの短編を基に、ロシアのニキータ・ミハルコフ監督がイタリアの名優マルチェロ・マストロヤンニを主演に撮影、1987年・第40回カンヌ国際映画祭にて男優賞を受賞した恋愛ドラマ。★初老の男ロマーノ(マルチェロ・マストロヤンニ)は、アンナとの約束は破って妻と暮らす。ロマーノのその話を聞いて紳士パヴェルは驚きロマーノに対して薄情だと批難した。私は、ロマーノを憎み切れない。ロマーノは、本当はロシア女姓アンナと暮らしたかったに違いない。しかし財産をなくした妻を置き去りにできなかったのだろう。ロマーノは、今は落ちぶれてこの船でウェイターをしているのだった。★映画のチラシをネットで見て、絶対に見たいと思った映画。映画のチラシや動画には、髪をふんわりとまとめ、ベールのついた大きな帽子を着ている女性。彼女のスカート丈は長く白いレースの服を着ている。 19世紀末か20世紀のはじめかと思いながら見ていた。「1903」という文字があったので、20世紀のはじめだろうと思った。車はないので馬車。しかし電話はあった。 ベルエポックの時代だ。アールヌーボーの時代とも重なる。この時代は、一番好き。 ベル・エポック(仏: Belle Époque:「美しい時代」)は、厳密な定義ではないが、主に19世紀末から第一次世界大戦勃発(1914年)までのパリが繁栄した華やかな時代、およびその文化を回顧して用いられる言葉である。単にフランス国内の現象としてではなく、同時代のヨーロッパ文化の総体と合わせて論じられることも多い。美しく着飾って優雅に暮らせるのは、ごく一部の特権階級のみで、大多数の国民は、過酷な労働に苦しんでいた時代だ。★ロマーノが工場を作るからロシアに来たと思った青年が「工場をあの島に作らないで」と訴える。川を渡る時も、「昔はもっと魚がいた。」など環境が悪くなっていることを嘆く。今から100年以上前からもう自然破壊が起こっていた・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.03
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■マリリン・モンロー 私の愛しかた■彼女の視線は、時代の先を見据えていた・・・。時を超えて愛されるマリリン・モンロー。「セックスシンボル」として広く知られてきた彼女だが、再評価の呼び声も高い。抜群のコメディセンスをもった「女優」として、VOGUEで「20世紀で最も偉大なスタイルアイコンのひとり」と評される「ファッションアイコン」として、現代のインフルエンサーのように自らのイメージを完璧にコントールした「ビジネスウーマン」として・・・セクシーなイメージに隠された素顔は、野心的でユニークだった。本作はドラマチックな人生を豊富なフッテージで蘇らせ、スキャンダラスな私生活や謎多き死の真相にも新たな見解で迫ってゆくドキュメンタリー。圧倒的な「男性優位主義」だった時代に、自分自身を愛して、突き進んだマリリン。色褪せることのない才能と魅力、その生き方が脚光を浴びる時代が到来!★マリリンのここがすごい★★策略家映画業界でチャンスを掴むべく、重役たちが参加するパーティーにセクシーなドレスで遅刻して登場し、存在感をアピール。彼女は次々と付き合うが、相手は、大物が多い。その最たるものがJ.F.ケネディだった。★セルフプロデュース舞台裏では「仕事着」と呼んでいたゴージャスな白いショールで、毎回レッドカーペットに登場。ファンが求めるイメージを自らが体現。★スキャンダルも好感度にヌード写真が流出。「貧しくて家賃のためだった」と素直にインタビューに答え、マスコミを通じて世論を味方につけ、自らの手でピンチをチャンスに好転。「貧しくて家賃のためだった」を言えと教えたのは、新聞記者(だったと思う)。★努力と勤勉人気絶頂に全てを捨ててニューヨークのアクターズスタジオで演技を学びなおす。*チャップリンの息子と恋仲になり、チャップリンに会って演技の話を聞いた。★ブランディングダム・ブロンド(頭の弱いブロンド美人)役から脱却するため、当時としては画期的だった個人プロダクションを設立。★多くの人と浮名を流した、マリリン。一番、彼女を愛したのは、ジョー・ディマジオだ。★ディマジオは、マリリンと結婚。ハネムーンは、日本だった。ディマジオは有名人だったから、日本では特別扱いだったけれど、妻・マリリンは彼以上に日本で大歓迎を受けた。夫のディマジオは、少し自尊心が傷ついた。★日本に新婚旅行に来ている間に、ディマジオの止めるのを振り切って、マリリンは軍隊の慰問のため、韓国に出かけた。寒風の中、ステージ衣装で歌って風邪を引いたマリリン。★白いドレスを着て地下鉄の風をあびて、スカートがまくれ上がるという映画のシーンの撮影をディマジオが見ていて、怒った。その後、ディマジオは肌を露出しない首の詰まった服を着るようにマリリンに言った。★結局、マリリンとディマジオは離婚。しかし離婚後も落ち込んだら、ディマジオを頼った。★マリリンは、睡眠薬を飲んで「自殺」する。これは、ケネディとの関係を恐れたFBIの仕業説がある。この時、遺体の引き取り手がいなかったので、離婚して他人となったディマジオが引き取った。★そういえば、「午前十時の映画祭」では、毎年、オードリー・ヘップバーン枠がある。しかしマリリン・モンロー枠がない。映画の中に、沢山の名シーンがあって、見たくなった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.02
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今年はへび年ですからとヘビにまつわる話を書いている。写真は、鎌倉幕府執権の北条氏が家紋「三つ鱗」。「三つ鱗」を用い始めた由来は何だったのでしょうか。初代執権、北条時政が経験した「ある出会い」がこの家紋の由来とされています。北条時政が子孫の繁栄を江ノ島弁財天に祈願した満願の夜、その出会いは起きました。突然、高貴な服を身にまとった女性が目の前に現れ、北条家の未来についてお告げをしました。女性はその後、大蛇に変身し海中に消えたそうですが、その後ろに三枚の鱗を残していたそうです。 その結果、北条時政は残されていた三枚の鱗を家紋に使用することにしました。1■辰巳は天井■2■杖にからむ蛇■3■蛇篭(じゃかご)■4■干支の名前■5■♪蛇と蛙は仲良くなれぬ・・・■6■蛇の目■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2025.07.01
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