全31件 (31件中 1-31件目)
1
信徒さんが垣根の脇に植えた山桜小さな苗木も、いつの間にか見上げるように大きく例年、花がつくより先に葉が出るそれでも今年は葉と一緒に少しの花を咲かせた皆さんが帰った後、脚立を出して枝切りをしたそれから消毒をした来年の春は、いっそうの花を咲かせ道行く人や信徒さんたちを楽しませるのだ
2006年04月30日
コメント(0)
出先に向かって歩いていると少し前を、先輩の○○牧師さんが歩いていると思った。背格好がよく似ていた。後ろから見ると、肩を揺すり、傲慢なほど自信にあふれて歩いている。いつの間にか、あんな風に歩くようになったのだろう。ショックを受けて見つめているとそんな足取りで曲がるはずの最後の路地を、まっすぐに通り過ぎていった。
2006年04月29日
コメント(0)
まだ木曜日なのに、新幹線の回数券は使えないのだって!「4/27~5/6は利用できません」抗議のしるしに、帰りは鈍行で帰ってきた。ふぅ。でも疲れた。隣の男性に思わず寄りかかってしまった。
2006年04月27日
コメント(0)
「別れ」のことを考えるといっそのこと、出合わなかったほうがよかったなんて馬鹿なことを考えていました歳のせいか人の世の「無常」を感じるようになりました。
2006年04月26日
コメント(6)
「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。」「(ルカによる福音書9章1節)----------------ここで、キリストは弟子たちに病を癒す力を託しています。「病を癒す力」は、使徒に与えられた権能として、特別な人にではなく、教会に与えられた賜物と思います。だから教会では、病の癒しのために積極的に祈ることにしています。当然ですが、祈った結果は神様にお任せしています。
2006年04月25日
コメント(5)
東海道線から湘南電車が消えたと、嘆いていた青年に「熱海以西では、今でも走っているねぇ」でもアレは違うそうだ3両とか4両編成ではダメなんだそうだグリーン車もあり、11両とか15両編成でさっそうと走るのが、真の湘南電車だそうだ
2006年04月24日
コメント(4)
もしだれも来られなかったらどうしようそんな不安に駆られることもある朝自分が信徒だった時のことを思い出すああ大丈夫だぜったい大丈夫だきっとこの朝を待っていたんだ
2006年04月23日
コメント(4)
なにげなく戸外を見ていたら幼稚園の方からこちらの方に歩いてくる女性がありました。陽射しに照らされて、両のイアリングがキラキラしています。それからボクたちの子どもたちも卒園しそのかたと会う機会もなくなりました。風の便りに、重い病にかかっていることを知りました。一度、お庭に出ていたお姿を見たことがありましたが治療のためか、お元気の頃とは随分変わっていました。まもなく亡くなった知らせ。その方の家の前を通るたびに今でも胸がキュッと締まります。あれから20年近くもたっているのに
2006年04月22日
コメント(0)
夜中にグラグラ2回も起こされた生きているのは、人間だけではないことを実感水も空気も大地もみんな動いているこの小さな星さえ回転しながら太陽の周りを飛び回っているだから愛し合いたい人と人と自然と人と
2006年04月21日
コメント(4)
鎌倉は朝から風が吹いていました。それから雨が加わりました。雹も混じっています。ガラス戸が割れないかと心配になる吹きつけ方。ボクたちが集まりを終えて最後の昼食を終える頃雨も風も収まりました。帰りがけに、八重桜の木の下を通りました。あんなに吹き付けられ、翻弄されたのにしっかりと花がついています。そうだボクたちもきっとこの八重桜のように風雨に耐えられるように神様に造られているんだ。
2006年04月20日
コメント(4)
八重の桜に過ぎ去る春を懐かしみ、朝は鴬に早起きをうながされ
2006年04月19日
コメント(0)
東海道線の、ある駅のトイレに入る。小便器の下が汚れている。新しい駅舎に似つかわしくないと思った。
2006年04月18日
コメント(2)
どんな人にも長所があり欠点があると思っていた。だが待てよ・・・・こういう分類は違うかも知れないな~「長所」とか「短所」って一種の評価だな評価的な係わりは、自分にも人にも避けたいとすると「虹」だ!そうだ「虹」がいい人は七色の虹だ
2006年04月17日
コメント(1)
キリストは復活なさいました十字架の上で「死」とレスリングをなさった主それをど~んと横倒しにし牙を抜き去りとげを引きちぎられましたわん、つ~、すり、ふぉ、ふぁいぶしっくす、せぶん、えいと、ない、てん勝利 勝利 ブラボー ハレルヤ イースターもう「死」には、棘も毒もない主のように新しい命に復活するボクたちのための単なる足場に過ぎないんだ足場は必要だから一応取っておくさ(微笑)
2006年04月16日
コメント(8)
ハッピイ イースターキリストはよみがえられたよみがえられたキリストはよみがえられたキリストはよみがえられたハレルヤ!
2006年04月16日
コメント(6)
朝 戸外に出た屋根の十字架の頂上にカラスが止まって鳴いていた見上げるとあわてて飛んでいった逃げなくてもいいのに受難週も今日で終わり明日はイースターだとキミにも呼びかけたかっただけ
2006年04月15日
コメント(2)
聖金曜日となりました。キリストが十字架にかかられ、息を引き取られた日として記念します。 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか) マタイ福音書27章4節十字架の上での悲痛な祈りキリスト様のこの祈りは、色々に解釈されてきました。主はここで詩篇22編を思っておられたことは確かでしょう。これは、詩篇22篇の始まりのお言葉だからです。ボクは今朝、主のお心を思いながら詩篇22を読みました。苦しみの底で顔を天に向けます。そこで、黒雲の彼方にある光を見ます。その時、自分はこの世で何を望み来るべき世には何があるか、わかります。詩人は、苦しみのただ中で光を見て満たされます。そんな主のお心がボクの心に響いてきました。
2006年04月14日
コメント(2)
<第3の御言葉> イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」 ヨハネによる福音書19章26~27節------------血のしたたる杭にすがって泣いている女性がいた。主の母マリアに、十字架の上から声がかかった。マリアに寄り添っていた弟子に対しても声がかけられる。マリアは主の弟子の母となるように、弟子もまたマリアを母とするように。十字架は、神の家族のスタートとなった。ここで私たちの新しいホームが生まれ、私たちの新しい母がいて、兄姉がいて弟妹がいる。
2006年04月13日
コメント(2)
<十字架の上から語られた第2の御言葉> 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」 ルカ福音書23章43節先の祈りを一番身近に聴いていた人々があった。主を十字架につける作業をしたローマの兵士たちや、一緒に十字架にかかった2人の犯罪人たち。お祈りをなさる前までは、2人でののしっていたようだ。しかし主のお祈りを聴いて、主の両側で一緒に十字架に掛けられた犯罪人の片割れの心が動かされた。「彼らをお赦し下さい、だって?ということは、オレのような者もそこに入っているのか?」きっと劣悪な生育環境に育っただろう。親の愛も受けられず、たらい回しにされ、辱められ、いじめられ、だからオレはこんな悪事をする結果になった。自分はここで死ぬが、それは当たり前の結果だ。しかし、こんなように祈ってくれる隣のかたが、何も悪いことをしてはいないことは、オレにも解る。最後の最後に、やっと真実な人に出会うことが出来た。死にゆく者の最後の力を振り絞って、主に声をかける。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
2006年04月12日
コメント(2)
手足を杭に打ち付けられる苦痛は大変だったでしょう。そんな十字架の上では、いくら主でもまともなお話は出来なかったと思います。十字架の上から、とぎれとぎれに、お言葉が聞こえてきます。ルカは3つ、ヨハネは3つ、マタイとマルコが一つ。合わせると7つのお言葉があります。第1の御言葉は「赦し」そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 ルカによる福音書23章34節「おい、キリスト様のあの言葉を聞いたかい?」「彼らをお赦し下さい、だとよ、俺たちのために、赦しを祈ってくれているのか?」「どこまでおめでたい野郎なんだ。神よ、助けてくれ~ぐらい祈ればいいのに」その時から更に1000年ほど前、ダビデという王様がありました。息子アブサロムに背かれて、逃げだしたことがあったのです。王宮を捨てて、王たちは泣きながら谷を渡り、山を登りました。その時、シムイという先代サウル王の親戚筋の者がやってきて、ダビデに罵詈雑言をあびせます。家来は怒って、シムイを殺してやりましょうと言います。その時ダビデはいさめて、「神がシムイにわたしを呪わせているのだ。放って置け」さすがダビデ王だ、とボクは思ったのです。しかしそんなダビデも、死ぬ前に言い残しました。「シムイの白髪を血に染めて陰府に送り込め」信仰の詩編をたくさん書いたダビデさえ、恨みや憎しみから解放されてはいなかった。赦すことがどんなに難しいことか。赦すことの大切さを考えて、「あの人を赦します」と百回唱えても、その人が自分の前に来ると、思わず体が動かなくなってしまいます。真実の赦しに生きたお方を、たった一人、ボクは知っています。そのかたがお祈り下さった赦しは、ボクのためでもありました。なぜなら、もしボクが今から2千年前のゴルゴタの丘(刑場)に居合わせたら、きっと主の十字架刑を傍観していた人々の一人であったはずだからです。
2006年04月11日
コメント(4)
肌寒い天気午後からは雨模様妻が果物を買いたいというので夕方、一番近所のスーパーに連れて行っただだっ広い駐車場隅っこに一台停っているだけ「だれも来ていないわ 何だか入りにくい」「だから入るんじゃないか!」こんな会話をして、少しの買い物をして再び駐車場に出るとあれれ、たくさんの車が停まっているあんぱんも買った
2006年04月10日
コメント(2)
「わたしの霊を御手にゆだねます」 ルカによる福音書23章46節------------------------------ キリスト様の十字架の上の臨終の御言葉この地上で、最大の使命をなしとげた主の、満足と安らぎを感じさせられる。33年の御生涯は、余りにも短いと考える人があるだろうか。それはないだろう。使命をなしとげることにおいて、長い短いは大したことではない。33年の御生涯をもって父に託された最大のご使命を終えられた。天の父にとっても、主ご自身にとってもそれで充分だった。ボクたちはきっと、毎日の労苦に快い疲れを覚えて寝床につくだろう。 「わたしの霊を御手にゆだねます」と祈りながら、眠りにはいることだろう。やがて次の朝と共に、また新しい重荷に生きる一日が始まる。しかしこの地上で負うべき最後の働きを終えて眠りにつくなら、次は、永遠の命によみがえる朝が待っている。「おはよう」それは孤独の朝ではない。妻や子たちの顔がのぞく朝でもない。「今日も一日がんばらなきゃ」と気合いを入れる朝でもない。目覚めるなら、主イエス様の御顔がすぐ前にある。それは主と共に安らぐよみがえりの朝だ。
2006年04月09日
コメント(6)
一応、明日の「メッセージ」は脱稿したけれど随分おざなりだなと自分ながら感じるまず自分が納得できるメッセージを仕上げたい信徒さんたちのお顔を思い浮かべるともうぜったいぜったいおざなりは、こんりんざいいやだ!
2006年04月08日
コメント(2)
お約束した時間に何とか間に合ったけれど、ご本人はまだだった。「今朝は何度も念を押したんですけど・・・・」娘さんが申し訳なさそうに言われた。間もなくお帰りになった。手におみやげを持っておられる。そうか駅に回っておみやげを買っていたので遅れたんだ。「おみやげならワタシが用意しておいたのよ、お父さん」97歳にもなると、怒られてもうれしそうにしておられる。娘の心を知っているから。庭の桜が見える部屋でひとしきり話にも花を咲かせておみやげを2っつ頂いて帰途についた。
2006年04月08日
コメント(0)
2件回ってくる、と家を出ても1件で帰ってくる3件回ってくるよ、と家を出ても2件で帰ってくるそんなボクだから「今日は学院の入学式に出るついでに回ってくるから」と妻に伝えたら「お父さん、ちゃんと回ってきてよ」その一言が、ボクの道を照らす光になった
2006年04月07日
コメント(2)
おはようございます。今日は、早々に日記を書いてしまいます。ボクの毛筆との出会いは3度ありました。一度目は、中学校で、芸術科目選択に「書道」を取らされたことです。「音楽」を取ったのですが、なぜか結果は「書道」でした。基本的な筆の回し方は、そこで教わりました。2度目は、大学で「中国文学」の先生が、ご自分のノートを毛筆で書いておられたことです。これには衝撃を受けました。自分もいつかマネをしようと思いました。3度目は、牧師養成学校で「習字」の授業があったことです。毎回先生が、「信仰」とか「希望」とか「愛」とか「聖書」とか、キリスト教でよく使う言葉を選んでお手本を書いて下さいました。先生が、ひょうひょうとした信者さんで面白かった。
2006年04月06日
コメント(0)
今日はイースターの案内状を書きました。妻と分担して、宛名書きをします。ボクは小筆と墨汁で書きました。妻はボールペンで書きました。筆で書くと力がいらないので、楽しく早くかけます。筆書きは、手のひらや指ではなくて腕を回しながら書きます。中に入れる案内状にも、一行か二行添え書きをします。これも筆で書きます。妻が夕食の片づけて終えて下に降りてきました。テーブルいっぱいに書き散らかしているの見て「お父さん、がんばったね」とほめてくれました。
2006年04月05日
コメント(0)
信徒さんが日曜日に持ってきて下さった映画「再見」という中国の映画昨日の夜、妻と見た単純なあらすじなのに泣いたいつも泣く時は妻に見られないようにそっとトイレに立つ振りをして涙をぬぐうでも今回はそうは行かなかったハズカシげもなく堂々と泣く逆境に堪え忍び、そして生きる道を探していくけなげな子供が出てくるともうダメだな
2006年04月04日
コメント(2)
ブロブを読んでくださっている方にお会いしたあの時恥ずかしくて、うれしかった「ブログでは、もっとお若い人かなと思っていました」
2006年04月04日
コメント(0)
犯人捕捉後にも、ビデオが捉えた逃走映像を繰り返し放映するに、どんな意味があるのか? 人の衣服をはぎ取って喜んでいるように、ボクには思える。捕まる以前なら、はっきりした目的を持っているから、必要と思うが。世に言う「ニュースバリュー」というものより、「井戸端会議」のほうがまだ健全か?「ジェンダーフリー」という言葉。ある所では、あえて使わなくなったという。性差というものは、自ずと明かであり、隠しようのないものだ。あえて「男らしく」とか「女らしく」と言われることは、余計なお世話だ。男らしくなくて良い。女らしくなくて良い。自分らしくあれば、それでよい。定住外国人に参政権を与えること。この国に税金を払い、この国に産まれ育ち、一緒に泣き、笑い、楽しみ、苦しんできた隣人が、政治に参加することは当然のことと思う。彼らも、彼らの生きる地で、生きている者の声を、この社会の営みのために、声を上げる権利はある。そうであるなら、私たちが創る「歴史」は、はるかに豊かになるだろう。
2006年04月02日
コメント(4)
信徒さんのご主人が、目にケガしたと伺ってお見舞い。信徒さんとそのご主人がにこにこして出てこられたので安心。きっとこれからクリスチャンになるご主人のため「お祈りをしてもいいでしょうか」それから手を握ってお祈りした。帰り際、満開の梅の枝を手折ってくださった。それから、さくら草をひと鉢くださった。あしたの礼拝のため、家内が講壇に飾った。
2006年04月01日
コメント(2)
全31件 (31件中 1-31件目)
1