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小説を「一気読み」する人は多いと思います。聖書はどちらかというと、1日1章読むことが多いような気がします。毎日読み続けるすばらしさを思えば、それでいいと思いますが時には、その書ごとに、まとめて読む時を持つことを、お勧めします。たとえば創世記なら、アブラハムの生涯、ヤコブの生涯、ヨセフの生涯などを一回で読んでしまう読み方です。小説を読むように、とても楽しいのです。(複数の書にまたがるモーセの生涯などは、ちょっと無理ですね)サムエル記上の「サウル王の生涯」は知っていますか?サウルの生涯には、考えさせられることが多いです。ダビデの生涯、これはちょっときついけれど波瀾万丈ですね。ルツ記、ヨナ書は超短いし、ぜったい一気に読むべき書です。ルツ記は何度も読んで味わってください。新約聖書では、パウロやペトロの「手紙」は比較的短いので、大丈夫ですね?一度でそれぞれを読み通すと、同じ人が書いたものに、個性や書いた目的がそれぞれにあることがわかって、身近になります。
2006年01月31日
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「ラブ・レター来たよぅ」こう言ったら、すぐにわかった「○村先生ね!」ボクと妻の誕生日にはちょうどその日に配達されるようにはがきを下さる後輩の○村先生そのはがきには、聖書の言葉が書かれ祈りの言葉が寄せてあった「ハレルヤ。幸いなことよ。 主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。 その人の子孫は地上で力ある者となり、 直ぐな人たちの世代は、祝福されよう」 詩篇112:1~2今日は妻の誕生日
2006年01月30日
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キリスト様はボクたちの世界に来られたクリスマス、十字架、よみがえりそして天にお帰りになった天では神の右にお座りになった「神の右に座られた」という言い回しは、パウロの「おはこ」だ使徒信条にも取り入れられているつくづく良い表現を考えついたと思う天では、信徒のために「とりなし」をしておられるようだ「・・・・キリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」ローマの信徒への手紙8章34節
2006年01月30日
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「十字架の言葉は、・・・・神の力です」コリントの信徒への手紙1・1章18節------------犯罪者のように、裸にされて木に掛けられたキリストその痛みと苦しみの底から絞り出された言葉が「神の力です」とは、とうてい信じ得ないことなのだろう言葉と共に流れ出たその血潮神の命がつみびとの世界に注がれるそれは燃えるような命の力濁った水をきれいにするに等しい命の燃える力を帯びているのだ
2006年01月29日
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体の中に痛い所があると、体全体が苦しむように、家族の中のだれかが病気になると、皆が痛む。だれかが喧嘩をしたら、早く仲直りするように願う。 失敗をしたり、間違ったりする、ボクたちだれもがそうだ。家族なら、慰め、いたわり、赦してあげるよと、きっと言える。 「それは理想だ」。そう? いったいどうしたら愛することが出来るか、どうしたら赦すことが出来るか。それは神様を信じることだ。神様が、キリスト様を通して、ボクのような愚かなつまらないものを、愛し受け入れてくださっていることを知ることから。キリストは苦しく、痛い十字架にかかり、血を流し、ボクたちが赦され、また赦せる道を開いて下さった。 そして、人と人とのすべての交わりを、家族単位として考えたら、どうだろう? 地域の人々も、地域の絆で結ばれた家族。教会も、国も家族、地球に住むすべての人々も、一つの家族として。
2006年01月28日
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教会に籠もって、事務的な仕事を片づけようとしていたら一人の来訪者があった。初対面の男性聖書について、教えていただきたいと言うから上がっていただいた。キリスト教、聖書、教会、献金、教派、仕事多岐に渡って質問を受け、また意見を伺ったとつぜん、「自分が作ったお茶を飲んでください」これには一瞬とまどうすでに淹れてあって、何かの空き容器に入れられていた「飲むほかはないなぁ」と覚悟彼が帰るまで3時間ほどは費やしたかお見送りをしようとしたら、戸外に出てさらに会話が続くお帰りになってから彼が作ったお茶を飲んだ、と家族に言うと「もし、何かあったらどうするの?」「家族のことを考えているの?」あの人は、イエス様のお使いかもしれないと思った
2006年01月27日
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「礼拝での祈り」を、式文のように、書いた年がある。1年間、祈りを書き、礼拝の中でそれを読み、年度が変わる頃、妻に感想を聞いた。「書いた祈りを読むのは、心に響かない」書く方が、バランスがいいし、祈り忘れることもない。しかし、祈りに心を合わせる会衆の感想は、また違うものだったのだ。それからボクは原稿を捨て、その場でささげる祈りに戻した。やはり妻はそのほうがいいと・・・・50数枚の、一年分の礼拝でささげる祈りのファイルが手元にとどまった。静かに読むと、自分の心には安らぎを与える。
2006年01月26日
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ホームの上で寒風にさらされていた衣服のスキマをさがし風が射し込んでくるいたいいたい耳もつんつんしてきた前と後ろに下げていたマフラーの端をもう一度首に回して手で押さえる足をばたばた出がけの妻との会話を思い出す「オーバー着ていったら?」「だいじょうぶさ」もうだめか車内整理を終えてするすると電車の扉が開いたこれは天国への扉か?
2006年01月25日
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バッハは、楽譜の最後に「神の栄光のために」と記していたという名誉、名声よりも「神のために」と作品を作ったのだろう妻を愛する子供を愛する信徒さんを愛する「神の栄光のために」ボクの一日の日記の終わりにはこう記したいものだ
2006年01月24日
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日に何回も電話がかかってくる外出の時は絶えず手を繋いでいる愛される喜びも愛する喜びも知った「幸せ」を絵に描いたようなご様子だボクたち信徒も、こうありたい主とボクたちも、そうだから
2006年01月23日
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今日は、一番前に座って、伝道師である妻のメッセージ(礼拝説教)に傾聴しました。妻が話すときは、ボクは司会を致します。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7:8)「神様はいつでも、信じて祈る者たちに、耳を傾けていて下さり、お答え下さいます」とお話下さいました。信徒さんたちのお顔の中に、「神様の御言葉に耳を傾けたい」と言う迫りを感じます。話をする方が、皆さんに引き込まれてしまうのです。午後は浜松市の遠州キリスト教会に出かけました。そこでは、聖別会のメッセージを聴きました。「ジロー先生にもう会えなくなるので、ワタシも行く」と長女も付いてきました。長女は近々、外国に行きます。
2006年01月22日
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「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない」コリントの信徒への手紙1 10章23節---------------パウロがコリントにある教会に宛てた手紙の一節です。信仰による罪の赦しは、自由、自主、自立心という実を結びます。「だからといって、不道徳な行いも許されていることはないでしょう」これがパウロが言いたいことです。信徒は、神様の清さに向かって、まっすぐに進みます。ひまわりが、太陽に花を向けるように。
2006年01月21日
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久々にテレビにかぶりついた寺内たけしの生出演、トークと演奏「たたきあげ」の自然さを、絵に描いたような人柄スクール・コンサートを、中学校などで展開している子供たちが感動している姿を、テレビは映した「60年間弾きつづけて、一つのことだけわかったよ」と子供たちの前で、語っていた「ギターは弾かなきゃ、音が出来ない」
2006年01月20日
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自分が整えた食卓を見つめて言っていたという「野菜が足りない」何と誠実な人柄かと思う妻の母自身は90歳まで生きその夫である男性は97歳にしてなお健在そしてその娘であるわが妻も言う「野菜が足りない」
2006年01月18日
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長い直線の下り坂は自然にスピードが付くドライバーはエンジンを制御しなければならない坂の脇では警察官たちが何かを構えていたボクはいつもより遅めに坂を上りながら降りてくる車にパッシングを繰り返した
2006年01月17日
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今日は弟の診察に付き添ったのですがはっとひらめいて、自分の診察もついでにお願いしました。財布に保険証を入れていて良かったです。血糖値を測っていただくのは久しぶりでした。110と言われました(空腹時)「ぎりぎりですね」と看護師。2千円と少しかかりました。
2006年01月16日
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前奏が始まりますそれから、さんびが歌われます詩編の交読祈りさんびか、などだんだんとメッセージの時が近づきますなんと緊張するときでしょうボクと皆さんが語り合う真剣な時間ボクは口を開き皆さんはお顔の表情で、ボクに語り返します用意した原稿に目を落としながら細心の注意で語ります耳の不自由なかた日本語が母国語でないかた彼らにも伝わるようにマイクの使い方や、音声の明瞭さを心がけながら語ります繰り返しをしなかったかくどくならなかったかしつっこくならなかったかそれでも十分ではなかった今度こそ主がもう一度、語ることをお赦し下さるならもっと愛をもって語りたい
2006年01月15日
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ボクがニコンの代わりに手にしたのはペンタックスだった。結婚祝いに、父に何か買ってやろうと言われた時「ニコン」とは言えなかった。ペンタックス一眼レフ・カメラボクの結婚生活の泣き笑いを側で静かに見ていたんだ。シャッターを押したときの「ぽこん」という音が大好き30年たっても、今でも時々、首から下げている。もう、セミ・クラシック・カメラになった。
2006年01月14日
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ニコンがフィルム・カメラから撤退するとのニュース。これは驚いた。ボクはニコンを手にしたことは、自慢じゃないが、ない。中高生の頃も、大学生の頃もニコンは高嶺の花だった。ただカタログを店頭からそっと持ち帰るだけだった。展示品をあこがれの目で眺めるだけだった。
2006年01月13日
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ボクは信徒さんたちに、コーヒーを入れて差し上げるんです。もちろんボクが喋っているときではなく皆さんと手を動かしているときです。「おいしい」とひとこと、言って下さるそれが楽しみで。
2006年01月12日
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冬のコーヒーは、すぐに冷める淹(い)れていて、冷めてくるガラスの器に入れてコンロで温めたちびちび飲んでいたら冬のコーヒーはまた冷める冷めてもおいしかった
2006年01月12日
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今日は里帰り中の従兄弟に会いに、伊東まで行きました。久々の再会、楽しかった。海を見たくて、海側に電車の席を取りましたが往復とも、うたたねして、海は見ませんでした。それから熱海に降り、知り合いの家を訪ねました。昨年の年末近く、姉を失ったかた。「歳を重ねれば、仕方がないこと」とおっしゃいました。大勢の兄弟の中の末の娘さんは兄姉を看取ることになるのですから、きっと、大変でしょう。お姉様の葬儀の思い出を、ひとしきり交わしました。
2006年01月10日
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それを手にしながらあれはどこに行ったかと、探そうとするそんな歳になった
2006年01月10日
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信徒さんに連れられて教会に来られていた人メッセージの後、さんびかを歌う時毎回のように涙を流していた昨日の礼拝の時はうれしそうに歌っていた
2006年01月09日
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使徒信条によるメッセージ「ポンテオ・ピラトの元で苦しみを受け、十字架につけられ」 バッハは「クリスマス・オラトリオ」の中に、イエスが十字架で受難なさったコラールを入れている。クリスマスの喜びが、どんなに声の限りに歌われようと、イエスが十字架のお苦しみをお受けになるためにお生まれになったことは、離れることはない。クリスマスと十字架はイエスの御生涯の中で一つのものだった。 この世で、イエスほどの苦しみを味わったかたは、ほかにおられない。ピラトの元での告発、十字架の上でお受けになった蔑み、茨の冠を頭に被せられ、手足に釘を打たれ、極悪人として十字架の上に立てらた。 ピラトが主を「有罪」と言う時、その時、全人類の罪がイエスの上に覆いかぶさった。 イザヤ53:6b「わたしたちの罪をすべて、主(神)は彼(イエス)に負わせられた」 イエスはボクたちと全く同じ人間としてお生まれになったが、罪だけは犯されなかった。イエス様がピラトに「有罪」の宣告を受けられた時、罪人の一人と数えられた。主は罪を担われて、ボクたちと同じ人間と同じになられた。ガラテヤ3:13「木に掛けられた者は皆呪われている」(死刑にされた者の即日埋葬の決まり・申命記21:23)。 パウロは、イエスが天のお父様の呪いをお受けになった聖句として引用している。 愛される御子が、愛する御父から呪いをお受けになる。これはただごとではない。人の犯した罪というものが、天のお父様からご覧になって、どんなに極悪かがわかる。 この年の年賀状の中で、凶悪な犯罪が年々ひどくなっていることを嘆く言葉が、幾つかあった。しかし極悪な罪人も、唯一人で出来上がるモノではない。親、家庭を含めて社会全体がそういう罪人を生み出してきた。愛情を受けられない人が3代続けば遺伝子まで変わってしまうと言われている。キリスト教の言葉で言えば罪の受け継ぎ「原罪」。ボクたちみんなが罪の呪いの下にある一人一人。 イエスは祈られた「主よ彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。イエスは、「彼を十字架につけよ」と叫んだ周りの人々のために、赦しを祈られる。 昔のヨーロッパの多くの人々は、イエスを十字架につけたのはユダヤ人だから、ユダヤ人を憎み恨んで、ついにあのユダヤ人を200万人以上も殺したヒットラーを生み出した。 えっ? ボクたちは一体、イエスを「十字架につけよ」と叫んだ人々の中にいなかったのだろうか。これがボクたちのキリスト教信仰の原点である。ボクがもしあの時代に生きていたら、そうだきっとボクの自己中心、欲望の深さを思うとき、ボクがそこにいたら、本当に清い主を十字架に追いやった人々の中の一人だっただろう。 そう認めることが出来るなら、イエスの赦しの祈りは、現代のボクたちにも、向けられている。イエスの十字架の上の赦しの祈りが消されない限り、いや天と地がなくなっても彼の御言葉はなくならないのだから、いつでも、どこでも、どんな罪人も完全なゆるしを頂くことが出来る。
2006年01月08日
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1月6日は、教会の暦で「エピファニー」(公現日)ペルシャから博士たちが訪ねてイエス様にお会いして、プレゼントを献げた日とされています。ボクたちは、「降誕節祈祷会」を持ちました。信徒さんがおひとり、こちらには珍しい雪模様の朝、バスに乗ってこられました。「クリスマスオラトリオ」(バッハ)の第6番は教会の中で、この日に演奏される指定になっているので「クリスマスオラトリオ」を少し解説し、曲のエッセンスを聞き、それから一年のため、教会の皆さんのためにお祈りしました。お祈りを終わって、信徒さんと色々お話ししていたらお昼に近づいたので、インスタントラーメンを作ることにしました。「今日は、ツリーを片づける日にしています」というと、手伝って下さると。それで、講壇上のツリーと、玄関にあるツリー、あちこちの壁に掛けたリースなどを3人で仕舞いました。クリスマスを忘れないために、リースは全部は取りませんでした。信徒さんを、妻と二人でお送りして帰ってくるともう夕方になりかけています。信徒さんありがとう
2006年01月06日
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フトンたたみで戸を開けた妻が「雪よ、うっすら積もっているわよ」ボクが外を見ると、もう雨に変わっているお正月のゴミを入れた袋を出しに行った近所の奥さんがにこにこ顔でご挨拶(しまった、正月だった)ディスプレイに座ると戸外が明るいいつの間にかまた雪に
2006年01月05日
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(編集して「靖国神社と宗教」というタイトルで、右のフリーページに移動しました)
2006年01月04日
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子供を育てた、というよりも一緒に生きてきた親の弱点を見てきたと思う家にいる親だから子が育つ大切な期間に親がさまざまに葛藤を繰り返していた子供は知っただろう「自分は、自分が育てるものだ」ある時は、子に育てられたこれからは、温かい目で子たちを見つめていよう
2006年01月04日
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新しい年が加えられて「おめでとう」新しい年が来るのは、当たり前そんな風に考えていた不遜な日があった当たり前ではなく今年も神様がお許し下さったそう考えたい年の途中で、人生の終焉を迎えるとしても挫折ではなく完成ととらえたいそういう毎日を目指したい
2006年01月03日
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冷たい雨降りの中の箱根路次々とゴールしてくるランナーを見ていてこみ上げてくるものがあった見せてくれてありがとう自分との戦いなんだと、改めて思う自分に勝てなければ、完走は無理だ人生と同じだ教えてくれてありがとう
2006年01月02日
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時の流れを区切った昔の人たちに合わせボクたちは、竹のように生きる年末年始は、その節のようだ今日は一つの節を乗り越え一つの節を重ねボクたちの竹は伸びていく「兄弟姉妹」と呼び合う皆さんと無心にひと時を過ごした日過ぎた年の苦難はもう忘れたかのように新しい年の苦難もまだ見えないただ神様の愛を信じる旅を新しい心でスタートしたのだ友がいる、神様による家族がここにいる
2006年01月01日
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