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今朝の新聞に劇作家・木下順二氏が亡くなられたと出ていた。亡くなられたのは先月30日だったとのことだが、なぜかマスコミが知ったのはその死から1ヶ月経っていた。享年92歳。生涯独身、まさに孤高の劇作家であった。 木下順二氏については、いまさら私がここに紹介するまでもない。氏の劇作舞台を見たことがない人でも、民話「鶴女房」に拠った『夕鶴』の作者といえばお分かりになるであろう。名女優とうたわれた山本安英さんの、まさに鶴の化身を見るようだったその舞台は、いまも私の目の前に浮んで来る。彼女の主演で1949年に初演され、以後、86年まで全国で1037回上演された。 山本さんが亡くなられてからは、木下氏は『夕鶴』の上演を封印してしまわれた。97年になって、ようやく阪東玉三郎さんに上演を許可された。私はその舞台を見たいような、見たくないような気で、結局見なかった。山本さんのしぐさのみならず、その声色まで・・・セリフのエロキューション(セリフ術)を真似したくなるほど、しっかりと記憶に残っていて、私はそれを壊したくはなかったからである。 私が見た『夕鶴』は、私の記録によれば1969年4月24日、東京・千代田区にある砂防会館ホールでの公演である。このことについては、すでにこのブログの日記に書いている(06.5.20「私が観た名優名舞台」)。そして、このとき木下順二氏ご本人にもお目にかかり、パンフレットに御署名まで頂戴した。 じつはそれより8年前の1961年、私が16歳のときに、木下氏の『おんにょろ盛衰記』という芝居に私は出演していたのである。これも何度か書いてきたけれど、会津若松市に現在も存続して活動する「童劇プーポ」という劇団の第10回記念公演の演目が、『おんにょろ盛衰記』だった。私はその劇団に入ったばかりで、それが初舞台だった。 そんなわけで、私は木下順二氏の劇作品は、上演台本として穴のあくほど読み親しんでいたのである。 その頃はまだ気が付かなかったが、後に、氏の劇作家としてまた思想家としての姿勢に深い敬意を感じるようになった。特に大平洋戦争について、日本国民はひとりひとりが己の意志で戦争責任について検証し、自覚をしなければならず、その反省の態度は時間とともに消えてゆくべきではない、という意味の主張は、戦後世代の私にとってもまさに私自身の言葉になったのである。 私が、今日、木下順二氏が亡くなられたことを知って、まず思ったことは、「また一人、現在の日本に真に必要な人を失った」ということであった。多くの無惨な戦死者の呪詛を礎に、60年かかって築きあげてきたはずのものを、軽率に、拙速に、破壊しようと狂奔する政治家達。この者たちを選んでしまった私たちの一層の愚かさ。いまアメリカでは、国民がひとつのカウンター・パンチを突き出したけれど、かの国の国民ほどにもない、毅然とした意志をそがれた我等。卑しさだけが突出している。 木下氏は、背筋がまっすぐに伸びた人、と称されてきた。それは氏のお姿のことでもあり、また生き方のことでもあったろう。私は、ご本人にお会いしたとき、そのことを目の当たりにしている。学生っ気の抜け切らない、小僧の私を前にして、まず、さっと眼鏡をおとりになり、踵を合わせてお辞儀をされたのには、私のほうが内心あわててしまったのだった。相手が何者であるかを問わない、問う前に人としての礼儀がある・・・私は、氏の端然としたたたずまいに接し、それだけですでに人を学ばせていただいた。 木下順二氏の訃報に接し、衷心より哀悼の意を捧げさせていただきます。『夕鶴』山本安英の会 公演パンフレット 1969年4月 東京・砂防会館パンフレットに頂戴した木下順二氏の御署名 童劇プーポ第10回公演『おんにょろ盛衰記』パンフレット以下にその舞台写真 パンフレットに掲載されている出演者プロフィール。16歳の私。
Nov 30, 2006
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予定通りにはいかないなァ。今日は30日、新作があがるはずだったのに、とてもそれどころじゃない。いったいいつになったら完成するやら、八幡の薮知らずに迷い込んだぐあいだ。 まあ、仕方がないか。なるようになるさ、ケ・セ・ラ・セ・ラである。いつか、パッとできあがるさ。 それはそれとして、来年はすこしドライヴをかけようかな。あれこれ考えてみよう。
Nov 29, 2006
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昨日の日記に書きそびれてしまったのだが、外出先でほんの5分間ほど通りがかりの大型古書店に立ち寄った。せかせかと急ぎ足で歩いているのだから、どこの街にもあるそんな古書店に寄り道しなくてもよさそうなものを。 自分ながらにそう思い、それでもこのような大型店も、わずかながら街の特徴というか、おとくい様サーヴィスの集書をこころがけているらしいので、どうしてもちょっと覗いておこうという気持になる。私の住んでいる町の店舗は、近頃では某氏の著作をかなりこまめに揃えている。その作家の未見の本があると私は一度に5册6册と、棚の空きが目立つほど購入する。その作家目当ての客は他にもあるにちがいないが、店側としてはこの作家の本は売れると考えるのは当然で、2巻本や3巻本も、きっちり揃えて並べるようになったのだ。つまりこのての大型古書店が扱っている本は、本当の意味でのいわゆる「古書」ではないのだが、商売熱心なので意外に客の好みのデータを持っているらしいのである。 というわけで、たとえ5分でも、一応は棚を覗いてみようと思ったのだ。 目をすばやく動かして、ザーッとみわたす。と、大きな本のあいだに挟まれて、長沢節氏の『美少年映画セミナー』というタイトルがあった。 たぶん普段なら手にとらないであろう(というのは、装丁やその他もろもろの、本が発する気配というものがあるので)本だったが、昨日は、棚から引出すや内容をたしかめることもせず、すぐにレジに持っていった。そして、それ1册を購入して、またせかせかと歩きだしたのだった。 長沢節氏については、過日、このブログで紹介している。私の卒業した高等学校の大先輩であり、戦前戦後を通じて日本のファッション・イラストレーションの第一人者であった。ブログに書いたとおり、氏の生前、わずかな時間であったが、私はお話しする機会があった。 そのことを書いてまだ日も浅かったので、これもなにかの因縁と思い、その著書を購入したのである。 ところが、帰宅して、いつものようにアルコール消毒しようと表紙をひらいて驚いた。その本が、長沢氏の直筆署名本だったのである。 贈呈本かサイン会での署名かはわからないが、ローマ字である人の姓が書かれ、その下に「Setsu セツ」とあり、さらに何の略字か判別できないが、長沢氏の絵に付された署名ではお馴染みの井桁のような記号が書かれている。 ためらいのない、流れるようなオシャレな書体は、長沢節その人の自筆にまちがいない。 気配が私を呼んだか!・・・などと、いいきな空想はしない。しかしそれにしても、数千冊の古書のなかから、ひそかなたたずまいのその1册をサッと取出したことについては、母校の先輩との因縁を感じたくもなる。驚きである。 せっかく署名をした本が、無情にも売り払われて、長沢氏もすこし淋しかったかもしれない。いま、流浪の旅の汚れを落し、そのタイトルのように美少年風な瀟洒な姿になって、私の蔵書に収まったのだった。
Nov 28, 2006
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午後、小用があって外出した。その帰りの電車内。 私の前に黒いサージの詰襟学生服の中学生が坐っていた。膝にアディダスの白いスポーツ・バッグをのせて、うつむいている。居眠りしているのである。私は、詰襟学生服とはいまどきめずらしいなと、その少年に目をとめたのだった。色白というより、蒼白なといいたい顔色をして、前髪がカールしている。うつらうつらしながら、ときどき眠気をはらおうとするかのように頭を振っていた。どこにでもいる中学生の男の子なのだが、私はその右の手の甲にふと目をやって、何か文字が書いてあることに気が付いた。すこし消えかかっている。しかし、最後の「・・・れ!!」という文字は、はっきり読める。 まさか学校でイジメられて、万年筆のようなもので嫌味なことをされているのではあるまいな。私はなんとなく不安になって、そう思えばまた一層ひよわそうな少年に見えてくるのである。少年自身が書いたのでないことは、字体が私のほうから見た書き方によってわかる。 なんとか読めないものか。少年が居眠りしているのをいいことに、目をこらしてみた。どうやら上下二段に書かれているようだ。上の文字は、・・・日本語じゃないな。T・・O・・P・・、トップだな。 下の文字は、「れ!!」の前に1字だけのようだ。それがちょうど筋の上に書かれているので、くねっているのである。 私はその乱れた文字をさぐりだすように、いくつかの言葉を頭のなかでつぶやいた。そして、それが「入」という漢字であると見てとった。つまり、少年の手の甲には「TOP 入れ!!」と書かれているのである。 そうか、お父さんかお母さんが、今朝登校する息子の激励のため、おまじないのようにそう書いたのにちがいない。期末テストかスポーツ競技があったのであろう。コックリ、コックリ居眠りしているところをみると、どうやら学力テスト。きっと夜遅くまで勉強していたのであろう。 いつもTOP入れという激励も荷が重いかもしれないが、私は小泉八雲の『耳無し芳一』を連想しながら、まあ同級生たちのイジメではないと確信して、膝の荷をかかえなおして目をつむったのだった。
Nov 27, 2006
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日が移って27日。いま午前2時をまわった。激しい雨が降っている。地方によっては1時間当たりの降雨量が百数十ミリに達しているようだ。何事もなければよいがと思いながら、じつは私は長いことなにもせずに椅子にからだを沈めている。 ちいさな音がラジオから流れている。23日に亡くなった白人ジャズ歌手アニタ・オデイの歌声だ。享年87歳だったとか。けだるいような、また、独特な崩しかたをするその粋な歌唱法を、草書体と称したものの本もあったと記憶する。「オールド・デヴィル・ムーン」とか「ロスト・イン・ザ・スターズ」、あるいは「メディテーション」や「ユア・マイ・エヴリシング」などのスタンダード・ナンバーも忘れがたい。 今夜はもう何もすまい。雨の音にからめてアニタ・オデイを聴きながら、もっともっと椅子のなかに躯を沈めるのだ。
Nov 26, 2006
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今朝は町内の大掃除。いよいよ冬迎えの準備である。町内総出でにぎやかに掃き清めて、40分ほどですべて終わってしまった。早い早い。 ついでにわが家の落葉掃き。掃いても掃いても降って来る。帚の柄で枝をたたいてみる。が、まだ枝にしがみついている黄葉の風情もすてがたい。そのままに残しておくことにした。 降る如き落葉の絶間ありにけり 高浜虚子
Nov 26, 2006
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昨日23日は、午後2時半に待ち合わせをして、昨年この私のホーム・ページ立ち上げに尽力してくださったシルフさんに、初めてお目にかかった。このブログに早い時期からアクセスしてくださっているお客様は、先刻ご承知かと思うが、シルフさんは大阪在住の美術愛好家で、ご自身もコラージュ作品をインターネット上で発表している。私はもちろんまったく未知の方であったのだが、私の作品を御存知で、インターネット上で一般に広く紹介したいとのことで、ホームページを立ち上げることを勧めてくれたばかりか、実際に入力までして公開にこぎつけてくださったのだった。私の作品に関する資料は、現在、もしかするとシルフさんが一番所持しているかもしれない。 そのシルフさんがこの10月に東京に赴任され、東京に居を移された。そこで初めてお互いの顔を見知っておこうとなったわけだ。インターネットで知り合った方に会うというのは、私にとっては初めてのことであるばかりか、普段から仕事関係者以外の未知の方との面会はほとんど謝絶してきた。まあ、年をとると次第に腰が重くなったというのも理由のひとつではある。 さて、そんなわけで、ひとこと御礼を述べなければならないと思っていたので、勤労感謝の休日に新宿で待ち合わせした。シルフさんはお土産まで用意してくださり、恐縮したが、数冊のスケッチ・ブックに貼り込んできちんと整理したコラージュ作品のオリジナルを見せていただいた。Webで見て、勝手なコメントなども寄せていたのだけれど、オリジナルは解像度の問題で視認できなかった細部をあらためて見ることができ、少し今までの印象を訂正した次第だ。大変繊細な仕事振りで、そういう仕事が私はなにより好きだ。色彩感覚にもすぐれ、とても美しいのだ。写真印画紙でいうとキャビネ判ほどの大きさなので、作品がすばらしいだけに、それが私にはすこし残念。せめてA3ほど、欲をいうとB3くらいの大きさがあったなら、と。 私はこれまでアマチュア作品を見ることはまったくなかったし、まして批評をすることは酷だと思い、それもしてはこなかった。しかし批評するとなると、アマチュアもプロフェッショナルもありはしない。なぜなら、批評というのは、対象の善し悪しではなく、むしろ自分自身の物の見方を試されているからである。見る力というのがあるのだ。見るということは非常に難しいこと。人格や教養や主義主張がさらけでるばかりか、見ているようで何も見ていない、いや、見えないということは、ごく普通におこることなのである。見るということには、真摯な修行が必要なのである。 であるから、シルフさんの作品に対しても私の態度は変らない。アマチュアという逃げ道をふさいでしまうのだから、シルフさんにとっては辛いことにちがいない。しかし、良いものをもっているのに、何故手放しで称讃できないことをやっているのだ、と私は期待をこめて尻たたきする。それはコラージュという制作方法にもかかわることなのだが、いわば他人の作品を切り刻んで、元の作品を恣意的に犯しているということはやはり意識すべきで、さてそこから現代美術としてコラージュにオリジナリティーを付与するにはどうしたらよいかを考えるべきであろう。その私の主張は、単にリーガル(著作権法をはじめとする法的問題)な問題ばかりを言っているのではなく、現代美術の「引用」の問題をふまえながら、表現としてのピュアなオリジナリティー確立を言っているのである。そのために苦しんだらいかがです、と私はシルフさんに言うのである。そういう作品を私は見たいのである。見たことがないものを見たいのである。誰もやらなかったことを見たいのである。私はもう若くはないので、残った時間で本当の若さに出会いたいのである。ハハハ、これは自分のために他人の才能に要求していることになるなー。 シルフさんは大阪弁で話すとよかったのに、いささか大阪的なツッコミを封じられた感があったかもしれない。ハハハ、どんなもんじゃい、61歳老人のパーワーですぞ、シルフさん。
Nov 24, 2006
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先日、美術品輸送車から盗まれたゴヤの油絵が、FBIによって発見され、持主であるオハイオ州のトレド美術館に戻ったそうだ。いまのところ目立った損傷はないとのこと。まずはめでたし、めでたし。 しかし、これで事件は落着したのかというと、どうもそうではないらしい。新聞によると、FBIは、犯人を捕えたとも捕らえていないとも発表していない。いったいどういうことだろう? 考えられることは、犯人はまだ逮捕されていず、FBIは目星をつけて泳がせているのではないかということ。つまり、犯人はかなり大掛かりな窃盗団なのではあるまいか。もしかすると国際窃盗団かもしれない。FBIはその一網打尽を狙っているのではないか。 この絵画盗難事件、続報記事への私の関心はまだまだつづく。 それにしても美術品盗難事件というのは、一般の窃盗事件と比較すると、事件そのものの経緯がなんとなくすっきりしない感じがある。私だけの感じだろうか。美術品の場合、セキュリティーは一般の品物に比べてずっと厳重なはず。個人住宅はいざ知らず、美術館から盗み出すのは相当困難ではあるまいか、というのが一般認識だと思うが、その認識をくつがえすように美術館の盗難が起っている。 美術館建築における設計上のミスなのだろうか? オードリー・ヘップバーンとピーター・オトゥールが共演したコメディ映画『おしゃれ泥棒』じゃあるまいし、あんなオッチョコチョイ美術館が現実に存在するわけでもあるまい。 もっとも、あのルーブル美術館でさえ、歴史的にはあきれるようなポカをやっている。モナリザ盗難(1911年8月21日)はあまりにも有名だが、あの事件後、フランス政府は莫大な懸賞金をかけて犯人探しをした。そして警察当局は、ルーブル美術館関係者はもちろん疑わしき者を徹底的に調べた。そのなかにピカソと詩人のギヨーム・アポリネールも含まれていた。じつはルーブル美術館は、モナリザ盗難以前に、小さなアフリカの彫刻3点が盗まれていた。その盗品彫刻をピカソとアポリネールが所持していたことがあったからだ。 この盗難事件は有名な事件なのだが、そのわりに誰でも知っているとは言えないかもしれない。はじめは冗談のようなことだった。アポリネールの元秘書の男が、ルーブル美術館のセキュリティーがあまりにも疎かなことに気がつき、警告のつもりで盗みを計画した。そして実行してみると、まさかというか、案の定というか、やすやすと美術館に侵入できたのである。彼は、アフリカの小彫刻3点を盗みだした。そしてそのうちの1点をピカソにやり、もう1点をアポリネールに、最後の1点を新聞社に持ち込んだのである。ルーブルよいったい何をやっているのだ、というような新聞記事が出て、ルーブル美術館の面目はまるつぶれになった。・・・はずだった。ところがあろうことかルーブルの至宝、世界の恋人、モナリザが美術館から消えてしまったのである。 ピカソもアポリネールも、いわば「前科」があったので徹底的に取り調べられた。もちろんさんざん絞られて、結局、モナリザ盗難事件には無関係とわかって釈放されたのだった。 どうです、95年前の事件ではあるけれど、あの大ルーブル美術館にしてこのような始末なのだ。『おしゃれ泥棒』を荒唐無稽とばかり言えなくなってしまう。そしてここが私の関心でもあるのだが、厳重に保守すればするほど、それを破ろうとする不届きな意志がきざすのかもしれない。美術館から盗むというのはそういうことだろう。以前にも述べたが、この盗難品を陽のあたる場所にだすことは絶対できないからだ。美術品盗難に国際窃盗団が想定されるのは、そのような事情による。 このたびのゴヤの油絵盗難事件は、いま第2報に接して、私はその国際窃盗団の存在を予想しはじめている。
Nov 22, 2006
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いよいよ明日、ディクスン・カー生誕100年記念アンソロジー『密室と奇蹟』(東京創元社)の見本ができあがる、と担当編集者・古市さんから連絡があった。店頭にならぶのは誕生日の30日だが、一足早くこのブログで書影を掲載できそうだ。 来月は、同じく東京創元社のディクスン・カー『盲目の理髪師』改訳新装版が刊行される。この本のデザインをベースにして、今後、順次にすべてのカー著作本の装丁を改めてゆくことになろう。いままでの装丁・装画は25年におよぶ長い間、読者諸氏の愛顧を得てきた。『盲目の理髪師』といえば思い出す絵がある、といって下さるカーのファンもあった。絵描き冥利につきる言葉だった。 25年の間に、担当編集者も3人替わった。最初にお声をかけてくださった戸川安宣氏は、現在、同社の会長である。今回担当の宮澤氏は、したがって4人目となる。話しをしながら、私がド忘れした昔のミステリーの作家名などを、即座に指摘してくれるのだから、ミステリーの造詣は相当なもの。こういう方と一緒に仕事ができるのは、じつに嬉しい。 ところで、読者諸氏に愛顧されてきた絵を新装版として描き直すことを、私が嫌がるのではないかと宮澤氏は危惧したようだ。私がまったく気にもとめずに快諾したことに安堵したようだ。 「描き難くありませんか?」と宮澤氏はいった。 「いいえ、まったくそんなことはありません」と私。 実際、描き直しをすることなど、私には何の問題でもない。むしろ新たな意欲がわいた。新しくカー著作集としてイラストレーション・コンセプトを考案することは楽しく、また、普段の仕事のなかで、こういうことをやってみたい、ああいうことをやってみたい、というアイデアがあったので、それを実現するために製図する嬉しさがあった。 当初、11月刊行予定であったが、出版調整のため一月延ばしになったので、まだ色校正も出ていない。まもなく出て来るだろうが、それを待つ気持は、たしかに普段とは少しばかり違うかもしれない。
Nov 21, 2006
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去る11月2日は、ルキーノ・ヴィスコンティの生誕100周年目だった。追悼記を書こうと思ったが、いまさら私ごときが書くまでもあるまいと思いなおし、その日は手持ちのDVDで作品を鑑賞した。ヴィスコンティの映画作品は全部で17作。私はそのほとんどを映画館で観ているのだが、観ていないのが5本ある。『ペリッシマ』(1951:日本公開1981)、『われら女性』(その第5話『アンナ・マニャーニ』:1953)、『白夜』(1957)、『ボッカチオ'70』(その第3話『前金』:1962)、『熊座の淡き星影』(1965:日本公開1982)である。なかでも『白夜』と『熊座の淡き星影』を観ていないのが悔まれる。 ところで生誕100周年を記念して、NHK・BSが明21日からヴィスコンティ作品を連続放映する。私はこれを楽しみにしている。ライン・アップされている作品はみな観ているけれど、中に1本だけ観ていなかった『白夜』が含まれている。これで念願がかなう。マルチェロ・マストロヤンニは、この『白夜』への出演をステップに、大きな俳優に脱皮したといわれている。マストロヤンニのヴィスコンティ映画出演は、その後の『異邦人』とあわせてわずか2本だけだが、フェリーニ作品には多く出演しているから、私はフェリーニ映画で彼に親しんだ。私の好きな俳優のひとりである。 じつは今晩8時から、前夜祭ともいうべく、カルロ・リッツォーリ監督のテレビ・ドキュメンタリー『ルキノ・ヴィスコンティ』を放映した。まあ、番組としてはさしたる内容もなかった、というのが私の見方だが、おもわず声を出して笑ってしまったのがマストロヤンニのインタヴュー。ヴィスコンティが演出した舞台劇に出演したおりのこと、装置と衣装を担当したのはサルバドール・ダリ。 「あの衣装を着せられたときには、自分がバカになったようだった。そこでヴィスコンティに文句を言ったんだ。ヴィスコンティは、ダリの衣装だから黙って着ろ、と言ったよ。私はそれを着ているあいだじゅう、バカをさらけだしているようだったよ」 ヒッチコックが『白い恐怖』を撮ったとき、装置の一部をやはりダリに依頼した。ヒッチコックもダリにはさんざん手こずらせられたようだ。私はその逸話を思い出しながら、ダリはどこでも悶着をおこしているわい、と笑ってしまったのだ。 おもしろいことに、ピカソにはそうした悶着の逸話が伝わっていないのではあるまいか。ピカソもエリック・サティやジャン・コクトーとのコラボレーションで、舞台装置や衣装を制作している。 この両美術家の相違はどこからくるのであろう。・・・ふとそんなことを考えながら観ていた番組であった。
Nov 20, 2006
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終日の雨。まもなく午前零時になろうとしているが、まだ、音をたてて雨は降りつづいている。 それだからというわけでもないが、私は半日テレビの前に陣取り、東京国際女子マラソンを観戦し、つぎには'06世界バレー男子・日本対プエルトリコ戦を観た。両者ともに大変おもしろかった。 東京国際女子マラソンは、高橋尚子さんと土佐礼子さんが、6年振りの直接対決ということで注目された。ふたりの頂上決戦となるであろうことが期待されたのだった。 それはまさにそのとおりとなった。27キロ地点を過ぎたあたりで、二人は、それまでのトップ集団を完全に引き離してしまった。土佐さんはスタート時点から先頭を走りつづけ、27キロ地点に至るまで順位が前後することを許さなかった。高橋さんは土佐さんを風除けにするかのようにピタリとつける。 激しい篠突く雨。冷雨が体温をどんどん奪っているに違いない。 高橋さんは、沿道の応援に応えずレースに集中したいと、サングラスにキャップを目深にかぶり、手袋をつけている。しかしその手袋が雨を吸って重くなったのであろうか、途中で手袋を脱いで捨てた。これまでの高橋さんのレース展開は、30キロ地点あたりからスパートをかけていたので、その時がいよいよ迫っているか、とも思えた。高橋さんはキャップも脱ぎ捨てた。雨に濡れた髪が額にはりつく。いかにも寒そうだ。 二人のレースに変化が見えたのは31キロを過ぎたときだった。土佐さんがスパートをかけた。どうした、高橋さんが付いてゆけない! どんどん離されてゆく。300メートル、400メートル。土佐さんを追うテレビ・カメラからは、もう高橋さんの姿をとらえることはできない。カメラを高橋さんに切り替えると、なんと高橋さんの4,50メートル後方に尾崎朱美さんが迫っているではないか。尾崎さんは20キロ地点までのトップ集団6人ほどのなかにいたのだが、その後やや遅れてしまっていたのだ。しかし、高橋さんに迫ってくる走りは、むしろ高橋さんよりしっかりしている。高橋さんの脚がややもたつく。体温が低下して、体力を奪っていることが明らかだ。 そして尾崎さんが高橋さんを抜き去る。これによって高橋尚子さんは、来年の大阪マラソンに無条件に出場するシード権から1歩遠のいてしまった。 土佐礼子さんは、そのままスパートをかけつづけ、いわばブッチギリで優勝した。大会記録をつくることはできなかったものの、タイムは2時間26分15秒。・・・・6年前に高橋さんに敗れた、その雪辱をはらしたというわけだ。土佐さんの目から涙がしたたり落ちていた。 2位は大健闘の尾崎朱美さん。高橋尚子さんは3位だった。 マラソンというのはつくずく難しいスポーツだと感じさせられる。たとえば今日のレース中に、トップグループにいた外国人選手が給水ポイントでボトルを取るのに失敗した。一瞬、立ち止まってしまったのである。その、まさに刹那の出来事によって、彼女はレースから脱落してしまった。あるいは、土佐・高橋さんと併走していたエチオピアのA・ジジ選手が、あれよあれよというまに後方に下がってゆく。何が起ってそうなるのか、私ごときにはさっぱり分らない。過酷な天候のせいもあろうが、駆け引きや、レースの組み立ての失敗なのであろう。 自己のペースが正しく保たれている場合、もちろん残りの距離によるが、トップとの差が3分あっても抜きかえせる可能性があるのだと聞いたおぼえがある。とはいえ、それが並み大抵のことではないのは、今回、土佐さんと高橋さんとのタイム差がおよそ3分であったことを見てもわかる。 土佐さんのすばらしさは、スタートからゴールまで終始トップを守り、ラップ・タイムをほぼコンスタントに保って走り抜いたことだ。 さて、世界バレー。日本対プエルトリコ戦。これまでの日本チームの成績は、エジプトに勝利し、中国に敗れての1勝1敗。今日の闘いに敗れると、2次リーグへ進むことがむずかしくなる。 で、プエルトリコ戦だ。いやァ、おもしろかった、おもしろかった。ということは日本チームが勝ったということでもあるが、それだけでもない。もし敗れていたとしても、この戦いはすばらしかった。 日本はセット・カウント3対1で勝利したのだが、まず1,2セットを連取。3セット目をのがし、次の4セットは、24点目のマッチ・ポイントがイーヴンに持ち込まれた。それからがすごかった、両チームともにマッチ・ポイントに持ち込むたびにイーヴンにし、ついに34対34になる。この均衡を日本チームが崩し、35対34。そして山本隆弘のスパイクが決まって、ついに勝利をもぎとった。36対34、まさに死闘といいたいような素晴らしい戦い。山本のスパイクがきまった瞬間、監督が驚喜してフロアーに大の字に倒れこんだ。 そんなわけで、私はしばらくぶりでテレビにかじりついていたのだった。
Nov 19, 2006
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八王子市中央図書館で開催されている、『畑三郎コレクション・昭和の映画ポスター展』を観てきた。八王子市在住の映画史研究家・畑三郎氏が、70年間にわたって収集してきた映画関係資料およそ10万点を、このたび同市に寄贈された。そのコレクションの中から、懐かしの映画ポスターを中心に、チラシやチケット、スチール写真やブロマイドやシナリオなど、300点ほどを展示公開したのである。 畑コレクションの内容は、いま列記したもののほか、邦画・洋画のプレスシート、劇場プログラム、パンフレット、前売券、入場半券、試写会案内状、劇場用絵看板、撮影所ニュース・レター、映画宣伝グッズ、新聞切り抜き、映画関連雑誌および書籍、メンコやフィギュアー等々、およそ映画興行に関わるありとあらゆる品々である。いわゆるエフェメラ(消えてなくなってしまう物)であるが、このような品々は博物館等の従来の官制的な収蔵品からは洩れてしまうものである。部分的には一般のマニアといわれるような人たちによって収集対象となっているものもあるが、畑コレクションの特異な点は、それら収集マニアのアイテム・ジャンルを超えていることだ。そこに、エフェメラとはいえ、おのずと価値がでてくる。いや、むしろ、今からではとうてい収集が不可能であることは明らかで、いかなる映画評論からも抜け落ちている、日本における興行的上映史の具体的資料・素材がそこに集まっているとみなせるだろう。 畑三郎氏の映画史研究というのが、どのようなものであるか、どのような言葉で語られているか、どの程度系統的に整理されたものであるかは、すくなくとも私は不明だ。そして、このような展覧会を各地で開催してこられたらしいが、その展示はすべて畑氏ご自身がやっているという。 それかあらぬか、私の目にはいささか素朴で、それは良いとしても、博物館学的な見地からは資料解題には大きな問題がある。 たとえばポスター一枚にしても、それが映画初公開時のものなのか、それともリヴァイヴァル上映時のものなのかは、示したほうがよかろう。ポスター・デザイナーが分かっているものもある。それも説明するべきであろう。あるいは、私はとても興味深く見たものに、全国の映画館の数・料金・入場者数が年代ごとに表にされていた。1897年(明治30年)、料金20銭、入場者4人。1946年(昭和21年、終戦1年目)、入場者4人。・・・この記録は、どのように収集されたものだろう。その詳細は何も説明されていない。これでは、今後、学術的な論文等には資料として参考引用できないのだ。つまり、資料のように見えるが、資料とは言えないということである。 コレクションすることと、それを公開展示することとは、精神にちがいがあるのだ。それを明確にうちだすことが、コレクションを活かすひとつの重要な方法であろう。これは、寄贈を受けた八王子市の今後の課題である。私は、八王子市は寄贈を受け入れたはいいが、いまどのように扱うべきか途方にくれていると思った。 私は、今日、会場で畑三郎氏ご本人にお目にかかり、しばらくお話をうかがった。御名刺をくださったので、私も住所や連絡先等をおしらせした。畑氏はやはり八王子市の対応にやきもきしているとのこと。それはそうだろう、70年の生涯をかけ、自分の全存在をうちこんで収集してきたのだから、その行く末を確かにしておきたいのは当然だ。10万点の物品は、個人が万全の保存をするにはとうに限界を越していただろう。しかしまた、いま地方自治体の緊縮財政下にあっては、即座に博物館並みの対応が出来ようはずはない。おそらくこのエフェメラを宝物とみなすか否かも、当局の内部では見解を分けているのではあるまいか。畑氏が私に対して、一般市民としての立場から市当局へ働きかけてほしいと言った裏には、そのような両者の攻防があるとみた。 私は、この畑コレクションをたんなる懐かしい古き物とみなして部分的に展示していたのでは、やはりエフェメラをさほど出はしないだろうと思う。10万点を興行的上映史に組み立ててゆく作業は並みたいていではなかろうが、そうすることによって学問的にも有益な資料になることは間違いないと思う。つまり畑氏が後生大事にかかえこんでいたものから、一般が自由に利用できるように系統づけられてこそ、本物の宝物になるだろう。 同展は八王子市中央図書館にて19日(10:00AM~17:00PM)まで開催中。入場無料。JR中央線・西八王子下車、徒歩3分。
Nov 18, 2006
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北国から初雪のたよりがとどき始めている。雪便りに対する想いは、北の人と南の人とでは異なるであろう。私は子供時代は豪雪地帯に住んでいたので、軒先きを埋めるほどの積雪も経験している。雪の縁がうすくなったのは、東京に住むようになってからだ。一晩に5,6cmも積れば、朝の町内は除雪のためにおおわらわとなる。プラスティック製の大団扇のような雪掻きをもちだす家、シャベルの家、竹帚の家、道具はそれぞれだが、雪国の人が見たらオママゴトのような光景だろう。 と、こんなことを思ったのは、天保6年(1835)頃に刊行された鈴木牧之の『北越雪譜』の一節を思い出したからである。この本は、岩波文庫に入っているので、現在でも簡単に入手できる。 鈴木牧之(ぼくし;1770-1842)は、越後国魚沼郡(うおぬまごおり)塩沢(現在の新潟県南魚沼郡塩沢町)の人。越後ちじみを手掛ける商人だった。13歳のとき、隣の六日町に滞在していた江戸の画家狩野梅笑に20日間ほど絵を習っている。稽古に熱中するあまり病気になったほどで、狩野梅笑に出会ったことに大いに感動したらしく、生涯絵筆を離さなかったといわれる。『北越雪譜』の挿画は、牧之自身が描いた下絵を山東京山の息子の京水が描き直したものである。 名著として知られているので、御存知の方も多いであろうが、『北越雪譜』は、雪国の生活をことこまかに述べている。郷土の雪に埋もれた苦難の暮しと人とを、広く知らしめて理解を得たいと願ったのだった。この本が実際に刊行される経緯は、著者鈴木牧之がいわゆるプロフェッショナルな文筆家ではなかったので、山東京伝(京山の兄)や滝沢馬琴を巻き込んだ、大変興味深いものなのだが、それはまたの機会としよう。 さて、初雪便りを聞いて私が思い出した一節は、「初雪」の章である。 暖かい国の人たちは、たまの降雪によろこんで、風流な遊びをしている。芸者を伴って雪見の船を出したり、雪の茶会を催うして賓客を招く。酒場は、雪の日を来客の多い日として、かえって歓迎する。雪にかこつけて大いに遊び、楽しんでいる。・・・このことを雪国の人たちが知ったなら、どんなに羨ましがることか。「我国(越後のこと:山田註)の初雪を以ってこれに比ぶれば、楽しむと苦しむと雲泥のちがい也」と、鈴木牧之は慨嘆するのだ。 牧之の故郷魚沼郡は、現在では「魚沼こしひかり」で名を馳せ、彼が「高山が波濤のように連なる」といっているその中の苗場山は、日本有数のスキー場として知られている。天保の時代には一昼夜に6,7尺(約2mちかく)も積雪した、と牧之は書いている。私が子供時代に住んでいた北海道羽幌町や福島県南会津の山岳地帯では、その昔は一昼夜に1mくらいの積雪は私自身が経験している。ちなみに「豪雪」という言葉は戦後にマスコミによって造られたものらしいが、豪雪地帯では、「玄関の戸を開けると雪のトンネルであった」のだ。しかし、現在の積雪量はどうなのだろう。地球温暖化の影響があるのではあるまいか。 南会津を去ってから42,3年、いや45年にもなるので、現在の積雪量はまったく知らない。3年前のこと、インターネットのさるサイト上の書き込みにひとつの名前をみつけた。それは仮名だったのだが、私は、なんだか南会津の小学校時代の友人のような気がした。で、その仮名の主にメールを送ってみた。返事があった。「御推察のとおりです」と。彼も現在は関東の地方都市に住んでいるとのことだったが、冬になると南会津にスキーに出かけているというのだった。小学生のころからスキーがうまかったけれど、60歳になって、わざわざ昔の懐かしい豪雪地帯にスキーをかついで出かけているという話に、私はこころを動かされたのである。 「むかしより今年にいたるまで此の雪、此の国に降らざる事なし。されば暖国の人のごとく初雪を観て吟詠遊興のたのしみは夢にもしらず、今年もまた此の雪の中に在ることかと雪を悲しむは辺郷の寒国に生れたる不幸というべし。雪を観て楽しむ人の繁花の暖地に生まれたる天幸を羨まざらんや。」と鈴木牧之は「初雪」の章を結んでいる。 初雪や水仙の葉の撓むまで 芭蕉
Nov 17, 2006
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ゴヤの絵が盗難にあったと、昨日の夕刊が報じていた。きのうのブログで新聞記事について書いたばかりなので、また新聞記事を持出すのは気が引ける。が、わずか23行の短い記事ながら、いくら読み直しても、事件の情況の迂闊さに唖然としてしまう。 ニューヨーク市のグッゲンハイム美術館が『スペイン絵画 エル・グレコからピカソまで』と銘打った展覧会を準備していたのだそうだ。それに展示するために同美術館は、米・オハイオ州のトレド美術館からゴヤの油絵『子どもたちと馬車』(1778年作)を借りた。絵は、9日、美術品輸送の専門業者が輸送し、その途中、ペンシルベニア州東部のスクラントン付近で、絵は消えてしまった。輸送車を無人にして離れたすきに盗まれたのである。 オイオイ冗談だろ?と言いたくなるような、事件ではないか。いやしくも美術品輸送の専門家が、車輌をほったらかして何処かへ行ったんだってさ。コヒー・ブレイクか? ハンバーグでも食いに行ったか? それともトイレか? いったいこの輸送車はどんな構造をしていたのだろう。そんなに簡単にアンロックできるのか? 私でなくとも、何一つ得心できる情況ではなかろう。両美術館に対しては取り敢えず、御気の毒とぐらいは言っておくが、私としては追跡記事がたのしみだ。 重要美術品の盗難事件は、多いとまでは言えないにしろ、決して少なくはないようだ。国際手配されている事例が何件もあったと記憶する。 これらの盗品は、もちろん陽の当る市場で売りさばけるわけではないから、闇のルートで取り引きされ、コレクターの秘密の美術館に人知れず飾られることになる。美に淫しているのか、独占欲だけに精神が支配されているのかは分らぬが、一方で、この世にただ1点の美術品というのは、言葉は悪いが、高級妾のようなものであることも間違いない事実である。美術館に収蔵されればそれなりの公共的な顔をするけれども、ひとたび個人コレクターの想い者となれば、夜毎の愛撫に喜悦する顔となり、また主人を惑溺させる悩ましき姿態となる。それが美術品というものだ。 ゴヤの絵の盗難事件は、出来心などではあるまい。おそらく計画的なものであろう。今後、この作品がどんな運命をたどるかは知らぬ。願わくば、丁重に遇されんことを!
Nov 16, 2006
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15日付けの朝日新聞は、私の関心をひく次の4っつの文化的な記事が掲載されていた。(1)平城京 大いなる眠り ― 古代で最大の絵馬出土(写真付き)。(2)最古の迎賓館施設か ― 難波宮跡に高床建物跡(写真付き)。(3)古代ローマの墓公開 ― バチカンの敷地内で発見(写真付き)。(4)ミニマル・ミュージックの先駆ライヒさん「言葉こそが音楽の根幹」(肖像写真付き)。(1)の絵馬出土の記事は、奈良市日笠町の山間部の水田から天平10年(738)頃に使用されたと推測される絵馬が発見されたことを伝えるもの。横27.8cm、縦19.9cm、厚さ0.8cmで、顎を引いて足踏みする右向きの馬が描かれている。去る89年に平城京跡から出土した絵馬に非常に良く似ているそうだ。 この記事はさらに、「737年に平城京で天然痘が大流行したとされ、絵馬は災いを追い払いたいという当時の願いが込められているとみられる。」と解説している。 この解説が当を得ているかどうか、ことに天然痘と馬が結び付けられていることについては、私は、推測をふくめて拙速な判断は避けるべきだと思う。天然痘罹患者の平癒祈願としては、江戸時代末期にいたるまで、笠松稲荷社などが衆知である。全国に厖大な数になる稲荷社には、たしかに絵馬が奉納されているのを見るが、それらのなかに馬を描いたものが混じっているからといって、はたして天然痘撲滅・平癒祈願であったかどうか。 馬を描いた絵馬は、馬頭観音信仰と結び付けられているものも多く、それらの社のなかには馬の絵馬だけを奉納するというところもある。馬は、神馬降臨のみならず軍馬として農耕馬として、古くから愛されてきた動物である。その死に際しては、人々は鄭重に哀悼を捧げてきた。馬頭観音もそのあらわれである。あるいは逆に、飼い主の死に際しては、愛馬の殉葬ということも行なわれた。 これらのことから、最も大切な馬を神に献上するという考えを絵馬の成立の基とする説もでてくる(中山太郎)。一方、その説に異を唱えるのは柳田国男である。 柳田国男は「海から渡って来たらしい日本人ではあるが、不思議に神々のみは馬に騎って、高い山の嶺から降りたまふものと信じていた。それが飾り馬の背上に、未だ描かれざる神を幻覚した理由でもあれば、同時にまた絵馬を大神への贈呈の如く、考えるに至った原因でもあるが、最初は是もまた神徳讃歌の、主要なる記念方法であったのである。山の神が馬に召すという信仰は今でもある。奥州の民衆では御産のある前には空馬を牽いて迎えに行く風習がある。ある時は一日半日山深く分け入り、またある時は里はづれの林などで、その馬が立止まり耳を動かし尾を振るのを見ると、それを山の神がすでに乗りたまふ報らせとして、直に引返し家に戻って来るそうしてその保護の下に安産したのである。馬をエマに描くべき動機は十分に備わって居たのである。私はただ馬だけがエマの芸術の根源だという通説を認めないのである。キリスト教国などのごとく神馬降臨を信じない人民でも、エマと訳すべき画板はやはり奉納している。のみならずそれが現在の掛額画風の最初であった。」と述べている。 馬と天然痘とが結びつくかどうかという主題からいささか離れてしまったが、中山太郎も柳田国男も、ともに絵馬の考察のなかで天然痘について言及していない。古文献を当ってみても、絵馬について述べているものは、たとえば『神道名目類聚抄』や『本朝文粋』、あるいは平安時代末期の説話集『今昔物語』などがあるが、いずれも絵馬と天然痘を結び付けてはいない。『年中行事絵巻』や『天狗草子絵巻』には、絵馬を奉納している情景が描かれているけれども、ここにも馬(絵馬)と天然痘を結び付ける証拠はない。 上述の記事の解説はおそらく記者会見における担当研究者の答弁をもとにしているのであろう。737年に平城京において天然痘が流行したことは確かだとしても、私は、ここはやはり図像学や民俗学等の検証をまったほうがよいだろうと思った次第だ。 さて(2)を飛ばして、(3)について。 ローマ発・郷富佐子氏の記事は、バチカンの敷地内で古代ローマ時代の共同墓地(ネクロポリス)が見つかり、一般公開が始まった、というもの。共同墓地はサンピエトロ広場の北側に位置する2カ所。紀元1~4世紀に、中流から奴隷まで、幅広い階級と年齢層の人々がさまざまな様式で埋葬されていたことが分るのだという。 この記事で私が注目したのは次の一節。 「1歳で死亡した乳児の手元には〈再生〉を意味したとみられる卵がほぼ完全な形で見つかったほか、死後の世界へ行く川をわたるための〈通行料〉とみられるコインが歯の間にはさまれているものもあった。」 問題は、再生のシンボルである卵。この記事からすると、その卵は模型ではなく、実物のようだ。 卵が再生のシンボルであることは、いまや図像学上のひとつの常識である。それは世界中の多くの民俗にみられるものだが、イタリアについて見ると、ギリシアから入ってきたオルフェウス教の影響が著しいと思われる。文字が存在しないので、いまだに謎の部分も多いエトルリヤ文明は、あきらかにオルフェウス教の影響下にあり、バンディタッチャ遺跡などのネクロポリスからはその証拠がおびただしく出土している。再生のシンボルとしての卵を手にした彫像も発掘されている。この周辺事情については、私は『卵形の象徴と図像について』で述べたことがある(本ブログのフリーページ「論文室」を御参照ください)。 ところでその拙文が雑誌に掲載されたとき、著者の私に無断で、編集者が削除してしまった一節がある。それは、エトルリアの卵に関する部分で、私は澁澤龍彦氏の見解に誤りがあることを指摘していた。澁澤氏は、オルフェウス教徒たちは再生のシンボルであった卵を食用にしなかった、と述べていた。澁澤氏がこの見解をどこから導きだしたか私は分らないが、おそらく氏は、バンディタッチャ遺跡から出土した饗宴用の火鉢のなかに、3個の壊れた卵が見つかっていることを御存知なかったのであろう。この貴重な遺物は、じつは日本に貸出されて、我が国で初めて開催された『エトルリヤの文明展』に出品されたのである。澁澤氏には、信仰のシンボルだからよもや食べはすまい、という思い込みがあったのではあるまいか。 信仰のシンボルだから食べるということもあるのだということは、卵に関して言えば、古代中国では梁宗懍の『荊楚歳時記』正月の項に、「長幼悉く衣冠を正し、次を以て拝賀す。椒柏酒を進め、桃湯を飲み、屠蘇酒・膠牙トウ(食に易と書く)を進め、五辛盤を下し、敷于散(ふうさん)を進め、却鬼丸を服し、各おの一鶏子を進む。」とあるのを見ても知れる。最後にでてきた「鶏子」というのが、卵のこと。鶏卵に同じである。この解釈について、李献璋という人が、「卵から発生し始めたばかりの幼生物、即ち胚を『行』と云うように、それは胚が形成されるにあやかって、順調に発育して堅実質に成長することを祈願したものである」と解釈している。 ともあれ、新聞記事が伝える、実物の卵が遺物として発掘されたという例は、おそらくそう多くはない。珍しいばかりではなく、私に言わせれば、図像学的見地からも重要な証拠品ということだ。 さて、(4)の記事は、作曲家のスティーブ・ライヒ氏(70歳)が、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞して、現在来日しているとのこと。ライヒ氏へのインタビューが載っていた。 ライヒ氏作曲の『ユー・アー(ヴァリエーション)』が、日本でもこの9月にCD発売されたばかりだ。ヘブライ語の旧約聖書にもとづく言葉や、哲学者ヴィトゲンシュタインの言葉が、音の単位となって重層的に構成されている。ライヒ氏はユダヤ教徒であるが、88年度グラミー賞を受賞した『ディファレント・トレインズ』は、ホロコーストを題材にしている。また、『ダニエル・バリエーション』は、9.11の真相を追っていた記者がパキスタンに入ってイスラム過激派に殺害された、その人へのオマージュである。ライヒ氏の創作にとって、9.11は決定的なものとなったという。 ところで私がスティーブ・ライヒに注目し、また芸術的に共感したのは、いまから9年前の1997年9月、東京・渋谷のシアターコクーンで、ライヒ作曲のオペラ『ザ・ケイブ』が上演されたとき以来である。 オペラというと、イタリヤ・オペラのような舞台を想像されるかもしれないが、この『ザ・ケイブ』はライヒの音楽とベリル・コロットのマルチスクリーンのヴィデオアートとの共同作業による作品。舞台の背景には巨大マルチスクリーンが設置され、その前に4人の歌手と、13人のスティーブ・ライヒ・アンサンブルが陣取る。 冒頭、スクリーンに旧約聖書創世記の一部が映し出される。それはアブラハムがヤハウェとの契約、すなわち、「汝の子孫に私はこの地を与える。エジプトの河から大いなるユーフラテス河までを。」の後のできごとである。アブラハムの妻サラには子供ができなかった。サラはアブラハムに言う。「主は私に子供を授けてはくださらない。どうか、エジプト人の召使ハガルのところに入ってください」と。かくしてハガルはアブラハムの子イシュマルを産む。が、後にサラも子が授かる。イサクである。・・・・『ザ・ケイブ』というタイトルは、洞窟という意味であるが、アブラハムが妻サラを埋葬するために購ったもので、エルサレム、ヘブロンの地にあった。ユダヤ民族にとっては父祖の眠る聖地である。そして同時に、アブラハムはアラブ人にとっての祖イブラヒムその人である。つまりユダヤとアラブ、二つの宗教世界は同じ祖をもち、同じ神聖な洞窟を共有しているのである。 さてそれを踏まえての作品構成だ。5つの質問が用意されている。「アブラハムとは誰か?」「サラとは誰か?」「ハガルとは?」「イシュマエルとは?」「イサクとは?」 この同じ質問を、ユダヤ人12人(第1幕)、パレスチナ人17人(第2幕)、アメリカ人27人(第3幕)にぶつけ、その答えを当人のスピーチそのまま、あるいは断片的モザイクにして音声とスクリーンに組み立ててゆく。同時にその回答にかかわる聖書や創世記の部分的引用をスクリーンに文字で示し、または4人の歌手が歌う。スピーチをする人たち一人一人のイントネーションが、ライヒによって巧みに掬いとられてリズム化されてゆく。たとえば弦楽器がスピーチのイントネーションを模倣する。すると、スピーチは歌として聞こえてくるのだ。第2幕ではコーランの詠唱も取り入れられている。 音楽的には、ライヒのモダール(旋法的)な作曲理論についても述べるべきであろうが、それはさておき、私が非常に関心をもったことは、ユダヤ人やパレスチナ人が旧約聖書の人物のあざやかなイメージをもっているということ。すなわち、およそ4000年以上前の宗教的世界を今に生き続けているということだった。その世界観が、決して「神話的」なものなのではなく、血を流し、闘いつづける、現実なのだということが立ち上がってくるのだった。それは巧みに用意された第3幕の、多民族国家アメリカ人の答えによって一層きわだつ。あるネイティヴ・アメリカンは、「アブラハムなんて、誰だかまったく知らない」と答えるのである。 私もまた、アメリカ人青年と同じに、「アブラハムって誰?」と答えるであろう。いや、ユダヤやパレスチナを否定しているのでもなく、揶揄しているのでもない。世界共生の哲学は、異種な文化を同時にとりこむための現実的なシステムを考案することに賭けなければならない、という思いなのだ。知らないものは知らない。我々はたくさんの知らないものに取り囲まれて生きているのだし、取り囲まれて生きなければならないのだ。 私が作曲家スティーブ・ライヒに共感し、注目するのは、彼がまさに現代の生の世界を問題にしているからである。
Nov 15, 2006
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夢の話というのは、文学作品に昇華されたものは別だが、概して他人が聞いておもしろいものではない。フロイトを持出すまでもなく、夢をみた当人にとっては、その夢がいかに荒唐無稽に思われようと、無意識と深く結びついていることは間違いないので、捨て置くことができない。ちょっと意地悪い見方をすると、他人に自分の夢の話を熱心にするとき、その人はナルシシズムが昂揚していると言ってよい。自分の心の奥に眠る秘密に夢中なのだ。 と、こんなことを前置きにして、これから私が語ろうとしているのは、今朝方の夢についてだ。正確に言えば、何かの夢をみて目が覚めた。すると覚醒した意識のなかで、つぎつぎに影像がうかびあがってきたのだ。それは幻影というのではなく、あきらかに頭のなかにうかんでいるのであるが、ひどく生々しいのである。記憶がよみがえっているのかというと、そこが問題なのだ。私の人生のいかなる局面にも、それに合致する場面はない。それは明らかなのだ。 どんな影像がうかんでいるかというと、高架鉄道の目もくらむような高さにある駅であり、それは私の住んでいる町とはかけ離れているのだが、どうやらつながりがないわけではない。そしてその鉄道はあるところで、別の鉄道とすれ違うのである。・・・じつは、今このように書いただけで、私の躯は、どこかの駅で降りて、どうやら大学らしきところに向っているのだ。人々とすれ違い、私はなんだか急いでいる。・・・もう、私はそこから戻ってきた。また人々とすれ違う。私は電車に乗る。・・・消えた。 別な光景がうかんでくる。これも電車だ。ふたつの線路が平行するように走っている。一方が、右側にゆるやかにカーブして、そこで2線は連絡している。その近くを街路が縦横に走り、私は誰かの車でそこを通ってゆく。どこへ? だめだ、そこから先の影像がない。 全然別の光景がうかんでくる。東京の渋谷の近辺ではないかという思いが強くおこる。ゆるやかな坂道が左にカーブしている。右側は高台の住宅地である。左側は窪地のようで、断崖とまでゆかないが舗装道路の下に町がひろがっている。 私は目覚めているのである。寝ぼけているのでもない。意識は明晰なのだ。ただ、何か夢がきっかけとなって頭のなかに次々にそのような影像が生々しくうかんできていた。じつは、この影像はいままで何度も同様な状況下で見ているのである。渋谷のどこかではないかと、何故かそう思う場所も、実際にそれに似た場所がないか探索したが、いまのところそれと思う場所をみつけていない。 いったいこれは、どういうことなのだろう。記憶でないとすると、目覚めながら夢を見ているのだろうか。明晰な意識とは別に、しかも同時に、夢次元の意識が流れているのだろうか。 それとも、誰か見知らぬ他人の意識や記憶が、私の意識に転写しているのだろうか。そうだとしても、なぜ時々私自身が歩いているという感覚をもつことがあるのだろう。 夢のメカニズムに関する私の知識では解けない、ひとつの夢のような私事について、気が引ける思いでお話しした。
Nov 14, 2006
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ルービック・キューブがふたたび流行しているらしい。協会が設立され、それが主催する競技会が、今日、東京で開催されたそうだ。日本記録がでたらしい。某大学大学院生が12秒をマークした。 ルービック・キューブ(Rubik's Cube)を考案したのは、ハンガリーの建築学者エルノー・ルービック氏。一面が3×3=9、赤・青・黄・緑・黒・白の色違いの小さなキューブを、同一色に揃えて6面を完成させるというもの。この配置は、たしか天文学的数字になるはずだ。1980年に世界的に大ブームとなった。ここにきての再流行のきざしは、脳活性化ブームと重なった一面があるようだ。 私も探せばどこかに昔のルービック・キューブを所持している。26年前、近所の小学生たちに、一週間に一度、金曜日の午後の2時間ほど、仕事場を解放していた。1年生から6年生まで、年齢はばらばらだったが、いっしょに創作的な時間を過していた。ルービック・キューブはその子供たちのために用意したものだった。用意したというより、たまたま弟がコンパのゲームの賞品だといって幾何学的な造形物が好きな私にくれたのだ。仕事場のショー・ケースに飾っておいたところ、子供達がめざとくみつけて、ショー・ケースを開けて遊びだしたので、そのまま与えておいたのである。 ショー・ケースのなかには他にも箱根細工の木製パズルや、パリの骨董商でみつけた直径8cmほどの水晶球もあった。静物画のモデルでもあったのだが、それらも例外なく子供たちの遊び道具にされてしまった。 その子供たちも、大きい方はもうそろそろ40歳に手が届こうという年齢である。一番小さかった女の子も、今やバイオテクノロジー学者である。 ルービック・キューブの再ブームという話を聞いて、ついついそれらの子供達のことを思い出した。 ところで、まあ、偶然というのはあるもので、つい今し方、デスクトップ型コンピューターを置いているスチール・デスクの引出しを探って、鉛筆の買い置きがまだあったはずだと奥に手をつっこんだところ、指先にプラスティックのひらべったい妙なものが触れた。何だろうと思ってひっぱりだしてみたところ、なんとルービック氏が考案したマッチボックス(MATCHBOX)というゲームではないか。1986年に特許が取得されたと印刷されてある。その名のとおりマッチ箱のような正方形の薄いプラスティック板が8面連なっていて、表面に虹色の帯びが弧を描くように印刷されている。その帯びの端をうまく繋ぎあわせるのが、このゲーム。しかし、こちらはルービック・キューブのようなブームを巻き起こすにはいたらなかったのかもしれない。いまこのブログを読んでいてくださるお客様で、どれだけの方がマッチボックスを御存知か。 おもしろさがルービック・キューブに比べるといまひとつもの足りない感じだ。といっても、私自身このゲームの完成された形というのをすっかり忘れてしまっているので、やってみると意外にむずかしいのかもしれない。ためしにやってみると、なかなか帯が完全につながらないのだ。たぶん繋がるとO型の虹の輪になるのだろう。しかし、ひねくり回しても、どうしても一カ所に穴があいてしまう。ミッシング・リングである。 20年間、机の引出しの奥に眠っていた、いや、眠らせていた、そのものぐさに我ながらあきれながら、ガチャガチャパタパタとしばらく遊んでいるのだ。
Nov 13, 2006
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昨年、亡くなる直前の父が病床から、「お父さんの手紙はまだ持っているのかい?」と母にきいた。「持っていますよ」と母は応え、父は「そうかい」と言って、それきり口をつぐんで目をとじたり開いたりしていた。私はちょうど二人のそば近くにいたので、その短い会話が聞こえたのだった。 父が問うた手紙というのは、60数年前、父が戦場から母に書いたラブレターのことである。その数、数十通におよび、母は文箱に入れて紐を掛け、箪笥の一隅に所持していた。 戦時中、父は、新婚まもなかったが、北支(中国北方)に派遣されていた。戦場からの郵便物は、軍事に関することは書くことが禁止され、すべて検閲されるので、おそらく多くの兵士たちが家族に書いた手紙は、さしさわりない互の安否を気づかうものであったと思われる。父の手紙もそのようなものだと言えなくもないのだが、しかしどちらかと言えば、やはりラブレターにちかい。しかも、葉書の場合は、一枚で済まなくて、3枚4枚とつづき、糸で綴じられているのだ。そのような手紙が、現在、数十通も残っているのだから、よほど筆まめに書いていたようだ。検閲官があきれたのではないかとさえ思われるほどである。 私は子供のころからそれらの手紙の存在は知っていた。いや、じつはそれらは、ほとんど切手が切り取られていて、それは私のしわざなのだ。切手を集めていたので、家中をかきまわして古い手紙をさがし、母の手文庫の中にぎっしり詰まった父の手紙を発見した。そして戦時中の切手に驚喜し、みな切り取ってしまったのだった。 つまり、父のラブレターはいまや日付けの手がかりとなる消印が失われているわけで、数十通を順にならべることはできない。 私は子供のころ、子供ながらに、戦場からよくもこんな甘い手紙を書き続けられたものだと、父の心情を解しかね、怪しんだものである。ほかの兵士たちがどんな手紙を書いたかを知らないので比較はできないが、私は父に何か異質なものを感じていたかもしれない。 父というひとは、息子の私が60歳になるまで、ほとんど戦争の話をしなかった。日本兵が中国の一般人にいかに愚劣で横暴なふるまいをしたかを一言二言語ったことはあるが、その心根の醜さに対して口を閉ざしてしまったらしい。 「市中行進をしていて、路傍に店をだしている中国人の屋台を蹴散らして行くのだから、ほんとうに厭になっちゃうんだ。そんなことは何の必要もないんだよ。ことごとくが理不尽なんだ。」 それかあらぬか、やがて父は隊長にかけあうのである。もう、日本本国へ自分を帰還させてほしい、と。 こういうかけあいをした兵士が、ほかにもいたのかどうか。 信じられないかもしれないが、父のその申し出は受諾されるのだ。単身、帰国したのである。もしかすると鉱山技術者だったからかもしれない。帰国後、父は、伊豆の金山に赴任している。私はその地で生まれた。私の名前が歴史が新しくなることの願いがこめられていることについては、以前に書いた。 父が書いた戦場からのラブレターについて、私はいま、なんとなく気にとめている。そして、父自身も、死の直前に、ふと、その手紙を思い出し、何か思うことがあったのかも知れない。
Nov 11, 2006
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古書店で、長野県佐久市の櫟(いちい)という地方出版社が刊行した、小宮山利三編著『佐久に伝わる歌の風土記:南佐久編』という本をみつけ、購入した。南佐久は、私が小学校に入学し、2年生の2学期まで住んでいた川上村の所在地である。私の学校は、川上村第二小学校という。その当時の思い出については、以前、このブログに書いた。 件(くだん)の本は、南佐久に伝承する〈わらべ歌〉84篇と、〈民謡〉〈神楽歌〉〈田楽歌〉〈風流芸能歌〉、そして伝承者不在で歌詞のみ残っている歌などを収集・採譜した、小宮山利三氏の労作である。 子供のころに住んでいた地名にひかれ、なんとなく懐かしくなって手に取った。パラパラと頁を繰ってみると、知っているわらべ歌もいくつかある。・・・しかし、小宮山氏の解説を読むと、私がくちずさんだことがあるそれらの歌は、かならずしも南佐久だけに伝承するものでなく、むしろ全国的に歌われていたものであることが分かった。なるほど、それはそうかもしれない。私は自分の身にひきつけて、その解説を納得するのである。つまり、私は、父の勤めの関係で2年ばかり川上村に住んだのであり、いわば通りすがりの者だったのだ。私の精神形成におおきな意味をもつ2年間ではあったが、地方性へ錐がくいこむようにギリギリと突き刺さって暮らしたのではない・・・。そのことが、いま、まざまざと明らかになる。 すでに何度も述べたことだが、私の記憶の特徴で、いま川上村のことを思い出すと、50数年の歳月を一気にとびこえて、まるで昨日のことのように私はそこにいる。こんなことがあった、あんなことがあった、と言うよりもっと何でもないことが鮮やかに見えてくる。道端の小さな黄色い花が見え、梓川の白い石の川原のカワラナデシコの濃いピンクと粉を噴いたような白っぽい緑の葉、そのそばの焚火の痕。落葉松の林のなかの茸の匂い。叱られて裏のバス車庫のドラム缶の陰にかくれ、その隙間から見た、暗闇のなかにたたずむ母のすがた。・・・2年間の毎日々々が、そのまま連続して映画のように私の目の前にうかんでくるのだ。誰にも伝えられない、見せたくても見せることができない、私ひとりの映画館なのである。 『佐久に伝わる歌の風土記:南佐久編』から、幾つかの歌を書き写してみよう。 〈あんた方どこさ〉 あんた方どこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ せんばさ せんば山には 狸がおってさ それを猟師が 鉄砲で撃ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを木の葉で ちょいとかぶせ 〈花いちもんめ〉 ふるさともとめて 花いちもんめ みよちゃんとりたい 花いちもんめ 勝ったら嬉しい 花いちもんめ 負けたらくやしい 花いちもんめ 向いの誰かさん ちょっとおいで 向いの誰かさん ちょっとおいで 〈お嬢さんお入り〉 お嬢さん お入り ありがとう ジャンケンポイ 負けたお方は お逃げなさい お次ぎ お入り 〈あんた方どこさ〉は手鞠歌。私が記憶しているのは、最後の一句が、「ちょいと隠し」といった。女の子がボールをスカートの中に隠すのを見て、私はヘンナ感じがしたものだ。アッハッハ。
Nov 10, 2006
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太陽・水星・地球が一直線にならぶ今朝の天体ショーは、私の住んでいる所はあいにくの曇り空で、見ることができなかった。この現象がつぎに起るのは26年後とのこと。私は87歳のはずだが、生きているかどうか。 去る9月14日の新聞は、国立天文台や東京大学などの研究チームが、ハワイにあるすばる望遠鏡で、地球から約128億8千万光年離れた銀河を発見したと報じていた。これは、約137億年前のビッグバンで誕生して間もない宇宙の様子ということになる。これまで確認されている、最も遠い銀河だそうだ。 想像を絶する時間というのは、まさにこのようなことだろう。遥かな宇宙の彼方でおこった大爆発の光が、137億年かかって今ようやく我々の目にとどいたというわけだ。地球が誕生したのがおよそ45億年前だから、それより遥か昔のできごとである。その光が宇宙空間を飛んでいる間に、新生地球上ではタンパク質が合成されて生命ができ、分裂を繰り返し、環境に適応すべく形をかえ、姿をかえ、やがて古生物時代となる。この宇宙時間においては、人間の誕生はほんの一瞬前のことにすぎない。・・・・私は、この大宇宙とその時間のなかの極微存在として我身があることを愉快に思う。心からカラカラと笑いがのぼってくる。このあっけらかんとした真相に、私はおおいに満足しているのである。
Nov 9, 2006
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富山県にお住まいのかたは御存知であろう。きょうこのごろ、富山湾に鳴りわたる雷を「ぶり起し」という。漢字で書いたほうが分かりやすい。「鰤起し」である。いま旬の鰤が、雷鳴に驚いて目覚め、あわてふためいて、定置網に掛かる、ということらしい。地元の漁師さんのことばであろうが、なんとも味わいのあることばだ。 旬の鰤。先日、スーパーマーケットの鮮魚売場を通りかかると、私と同年代とみられる60歳前後の夫婦が、きょうの夕食は何にしようかと思案しているふうだった。夫のほうが新鮮な鰤の切り身を指しながら、「鰤大根、うまいんだがなー」といった。そこでことばを切って、女房の反応をうかがった。彼女は無言だった。すると夫は、「つくる気はないだろうなー」といい、自嘲するように売場を離れた。 私は、「おやおや」と思いながら、これはいいヒントをもらったと、ちょっと後戻りして鰤の切り身のパックを手にとった。 で、わが家の夕食は「鰤大根」になった次第。むろん私が腕をふるった。人任せにはしない性分だ。 大根だけ別にして圧力鍋で先に少し煮込んでおく。取出して、別鍋に鰤とあわせ、生姜を入れ、砂糖を加え、醤油出しでコトコト煮込んでできあがり。黄瀬戸の大振りの器に盛りつけた。 魚介のおいしい季節だ。秋刀魚もいいし、牡蠣もいい。昨夕は、立派な真鱈の子をみつけたので、これも大根といっしょに煎り煮にした。亡き父と母の好物の惣菜である。 作り方は、いとも簡単。 (1)大根は長さ5cmほどに拍子切りにする。大根膾をつくるときのように、5mm角くらいにするのがよい。これはたっぷり用意する。(2)鍋に湯を沸かし、大根がやわらかくなるまで下茹でする。(3)茹で上がったら湯を切り、真鱈の子の袋を割いて、子だけを掻き出して大根とあわせる。袋は捨てる。(4)少々の砂糖と出汁の素を加え、醤油を二回し程度入れて火にかける。大根を崩さないように気をつけながら、しばらく煎り煮にする。 さて、季節の惣菜料理について書いているうちに、午前零時をまわった。 9日の朝、大天体ショーがある。夜明けの太陽がのぼったらすぐに(午前6時から9時の間)、太陽を見やってみよう。太陽の下から上方にむかって黒い点がのぼってゆくだろう。水星である。この時間、太陽と水星と地球が一直線に並ぶのである。望遠鏡で見るときは、くれぐれもフィルターをかけることをお忘れなく。
Nov 8, 2006
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朝から強い風が吹き、寝室の雨戸を揺すっていた。その音で目をさましたのだ。その風のせいであろうか、気温は23℃と、この季節にしてはさほど低いともいえないのだが、体感温度はもっと低く感じられた。 近頃は、朝めざめると、猫たちが私の床の周囲にぴたりと躯を寄せて眠っている。私は寝入ってしまうとあまり態を変えたりしないらしく、猫たちにとっては好都合らしい。 この猫たちのお婆ちゃんにあたるクロは、生前、やはり私の胸のうえにのっかって眠った。なにが面白いのか、私の寝顔をじっと見つめていた。私はいいかげん重くて、胸苦しくもあるのだけど、そう見つめられると邪慳にもできず、「クロ、重いなー」などと言いながら、しかし結局そのまま身じろぎもせず眠ってしまうのだった。のっかっているのがクロだと認識しているせいか、意外に悪夢にうなされることはないのである。 下絵をトレースしてから、しばらく手をつけず眺めていた新作に彩色を始めた。長くかかりそうだが、11月いっぱいで完成させたい。もう7日も過ぎてしまったので、ぐずぐずしているわけにも行かない。下絵のうえにプレミエール・クーシュをほどこす。刷毛塗りした後、指でキャンバスの織目に食い込ませるように擦りつける。1,2日放置して定着と指触乾燥をまつ。そのご本格的な彩色に入ることになる。 この作業は短時間で終了。後は、東京薬科大学の薬草園からもらってきたレモングラスのハーブ・ティーを飲みながら読書。外山軍治著『中国の書と人』とリンゼイ・アンダースン著『About John Ford』。
Nov 7, 2006
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柳茂教授による『病気の黒幕 ~老化の分子メカニズム』、昨日のつづきである。 さて、老化のメカニズムとしてあげられた(2)の「インスリン受容体のエネルギー代謝の亢進」をめぐって、柳茂教授の講義をおさらいしてみる。もとより私の理解であることは、あらかじめお断りしておく。(2)インスリン受容体のエネルギー代謝の亢進 腎臓から分泌するタンパク質であるクロトー(Klotho)遺伝子がインスリンやIGF-1シグナル伝達系を抑制することが分かっている。つまり、インスリンがインスリン受容体から細胞質にとりこまれ、インスリンシグナルを発してグルコースをグリコーゲンに変えるが、過カロリーが老化をひきおこす。クロトー受容体よりとりこまれるたクロトーは、このインスリンシグナルを抑制するのである。 線虫・ショウジョウバエに見られる長生き変異体は、その多くの原因遺伝子がインスリン様シグナル伝達系の機能を喪失していることが観察される。 また、IGF-1やインスリン受容体欠損マウスが、寿命延長することも観察される。 これらのことから、クロトーの作用によって、カロリーが制限され、その結果、老化を抑制、つまり細胞が老化してゆくのを先延ばしにしていると考えられるのである。インスリン様シグナル伝達系の適度な抑制が、長生きのメカニズムであるとみられる。(3)テロメア(染色体末端)の短縮による細胞老化促進 細胞老化(cellular senescence)とはどういうことだろう? 1958年にヘイフリックが、ヒトの体細胞には分裂寿命があることを発見した。細胞はつぎつぎに分裂を繰り返して増殖してゆくのだが、その分裂回数(試験管内分裂寿命=PDL)が決まっているというのである。 実験的観察によると、細胞供与者の年齢と分裂寿命の相関性は、年齢とともに分裂寿命が低下している。 また、遺伝的早老症(昨日述べたアシュリーさんの例)は、細胞分裂が極端に少なく、分裂寿命が低下し、長生きするひとはいない。 細胞の分裂寿命とほ乳類の最大寿命との相関性をみると、 マウスは個体最大寿命約1年余、PDL約5~5.5 ミンクは約10年、PDL約25 ウサギは約14年、PDL約22 ウマは約47年、PDL約27~8 ヒトは約115年、PDL約55 ガラパゴスゾウガメは約200年、PDL100以上 これらのことから、遺伝子に支配された細胞の分裂寿命(細胞老化)が、個体老化を反映するといえる。 ところで、真核生物の染色体末端をテロメア(Telomere)というが、顕微鏡で見ると染色体の先端にたくさんのヒゲのようなものが出ていてたえず振動しながら伸びたり縮んだりしている(柳教授、動画で示す)。5’(TTAGGG)3’の数百から数千の繰り返しである。これは10kbから5kbになると増殖が停止する。 このテロメアは細胞が分裂するたびに長さが短くなることが観察されている。ラギング鎖の5’末端が短縮するのである(3’末端が100dp一本鎖でオーバーハンギング)。いわばテロメアは細胞分裂の回数券というか分裂時計なのである。 DNA型癌ウイルス(SV40Large T antigen)に冒された体細胞染色体は、トランスフォーム細胞がM1期(Mortality=死期)を超えて増殖しはじめる(Rb、p53の機能抑制)。次いで染色体が不安定になり死滅(M2期)する。このときテロメア3’末端にテロメラーゼという酵素が発現する(逆転写酵素[TERT]と鋳型PNA[TERC])。そしてこの酵素テロメラーゼは、テロメアDNAを延長するのである。これはどういうことを意味するかというと、簡単にいえば、分裂寿命の延長と不死化である。 正常体細胞組織にテロメーゼ活性はない。卵巣と精巣(20kb)に強い活性がおこる。また癌細胞に強く発現する。 このことから、テロメラーゼの強制発現によって分裂寿命の延長、もしくは細胞の不死化をうながすことができると予想され、癌細胞に強く発現するため抗癌剤の分子ターゲットになると考えられるのである。 人間はついに不死を獲得することができるのであろうか。古代の王や皇帝が熾烈に願い、もとめた、不老不死を! ところが、若い細胞と老化細胞とを融合して増殖誘導すると、老化細胞が意外な力を発揮して若い細胞核のDNA合成を抑制するのである。つまり、老化細胞による細胞増殖停止機構がはたらいていると言ってよい。細胞はかならず死滅すべく「定められて」いるのである。 老化して死するから、新しい生命が新しい環境に適応することができ、種が繁栄するのである。人間が不老不死を獲得したとき、それは人間という生物種の絶滅を意味すると言えるかもしれない。老化はポジティヴに考えるべきなのであろう。そして、限られた命のなかで、自己自身を実現してゆくことが、人間の幸福なのである。 私は柳茂教授と岡希太郎教授の講義に接し、新しい哲学が、生命科学の最先端から発せられているという感を強くした。それはまるで水晶の節理のように整然としてすがすがしいものであった。 岡先生、柳先生、ありがとうございました。
Nov 6, 2006
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さて今日は東薬セミナー第2部、生命科学部分子生化学研究室の柳茂教授による『病気の黒幕 ~老化の分子メカニズム~』について述べよう。とはいえこの講義こそ、柳教授が動画を添えて示す事例を、私が論旨を通して記述することができるかどうか、まことに心もとない。私が、老化の問題を、分子レベルで考えたことがないからでもある。 とりあえず、柳茂教授の述べる老化のメカニズムが、どのような観点から研究および検証されているかを略記すれば、次のようになるだろう。 【老化のメカニズム】 老化(Senescence)というのは成熟期以後を称するもので、生後からはじまる加齢(Aging)とあわせられるものの、さしあたりは、傷ついた細胞の修復能力の低下をいう。(1)ミトコンドリアの機能低下による活性酸素の関与。(2)インスリン受容体のエネルギー代謝の亢進。(3)テロメア(染色体末端)の短縮による細胞老化の促進。 柳教授は初めに癌化した細胞(りんご芯兆候、胸膜中皮腫=石綿症)の写真を示した。 正常細胞が傷ついて癌が発生し、やがて癌は毛細血管をとりこんで栄養源とし、肥大化してゆく。細胞は加齢過程で常に傷ついているのだが、新しい細胞をつくりだす能力や修復能力があるうちは癌化せずにすんでいる。したがって癌は、細胞の老化形態と見ることができる。(1) ところで、アルツハイマー病(Alzheimer's disease)は、記憶力の低下や認知機能障害を主な特徴とする進行性の神経変性を伴う痴呆症であるが、その病理所見は老人斑である。老人斑の主成分はアミロイドβタンパク質(分子量4kDの不溶性ペプチド)である。 またパーキンソン病(Parkinson's disease)はアルツハイマー病に次いで罹患率の高い老人性神経変性疾患である。大部分は弧発性(個人の資質にもとづく発症)であるが、一部は遺伝性である。臨床症状は、運動機能が傷害されるためによる手指の震え、筋肉の硬直、動作の緩慢・消失が見られる。主な原因は中脳黒質のドパミン神経の選択的変性である。 日本のテレビの娯楽番組で紹介されたことがあり、私も何度か見たことがあるので知っているが、アシュリーさんという男性がいる。この人は実際年齢は非常に若いのだが、肉体的外見は異常に老化している。遺伝的早老症というのだそうだ。その症状は、白内障、白髪、脱毛、糖尿病、動脈硬化である。原因となる遺伝子は、DNAの二重らせんを一重にほどく時に働くDNAヘリカーゼと呼ばれる酵素が異常になると染色体が不安定になり、これが老化現象を起すのである。 これらをふまえて、線虫の長寿変異株Age-1を観察すると、スーパーオキサイドジスムターゼ(SOD)、カタラーゼ活性の上昇によって、フリーラジカル(活性酸素)に対する抵抗性の獲得がみられる。 一方、老化促進モデルマウス(Senescence-accelerated mouse: SAM)の老化の特性をみると、次のようだ。 老化の進行が早く、寿命が半分に短縮。記憶学習能の低下。老年性骨粗鬆症。老年性アミロイド症。免疫機能障害。 これには酸化ストレスが関与していて、フリーラジカル(活性酸素)に対する対抗性がないことが観察されるのである。これをふまえて、スーパーオキサイドジムスターゼ(SOD)欠損マウスを、抗酸化剤投与群とその対照群とに分けて生存率を観察すると、対照群が5日目以降は階段状に急激に下降してゆき20日以降は限り無く0にちかづくが、抗酸化剤投与群は10日目で生存率0.9を維持し、20日以降も0.65を維持している。 以上のように、ここでは活性酸素の関与が問題となっている。そして柳教授によれば、ミトコンドリアDNAの機能低下、すなわちその老化機構が、活性酸素をつくりだしている。加齢にともなうミトコンドリアDNA(miDNA)変異蓄積による悪循環がおこっているのである。【加齢に伴うmiDNA変異蓄積の悪循環:模式図】 miDNA変異の蓄積 ↓ ↓ 電子伝達系の障害 → 活性酸素種漏出の増大 ↓ ↓ ↓ ↓代謝的変化 エネルギー危機 脂質過酸化→タンパク質の 修飾 ところでここに非常に興味深い、柳教授とそのグループによる発見がある。 機能が低下したミトコンドリアをつつみこんで細胞外に排除するタンパク質があるというのである。 ミトコンドリアセプチン(M-septin)は、傷害ミトコンドリアを見つけるとそれを取り囲んで封入し、その後、別のタンパク質と協力して細胞外へ放出する。このタンパク質の発見の意味するところは重大で、上記のパーキンソン病や糖尿病の治療薬となる可能性があるということである。(2)および(3)は次回に述べます。
Nov 5, 2006
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私は一昨日、東京薬科大学のセミナーを聴講した。その第1部は、薬学部臨床薬理学教室の岡希太郎教授による『生活の中の薬理学 ~コーヒー一杯に秘められた効果~』だった。門外漢の私がどれほど理解したかは我ながら疑問だが、先生の講義をここにもう一度たどってみることにしよう。 現代の疫学調査によると、コーヒーの薬効として、2000年にパーキンソン病予防効果が、2004年に2型糖尿病予防効果が、2005年に肝臓癌予防効果と肝炎予防効果が、2006年にはアルコール性肝硬変予防効果が、つぎつぎに報告されている。また、2005年にはコーヒーによるパーキンソン病の治験が開始されている。このように疫学調査では予防薬としてコーヒーが効果があるらしいと分かったものの、それではコーヒーの何が効いているのか。岡希太郎教授とそのチームの研究の主眼は、その分析と薬効成分の抽出、ならびに証明である。 コーヒーに含まれる成分は、生豆と焙煎豆では異なる。【生豆】 【焙煎豆】ミネラル(マグネシウム等) ミネラル(マグネシウム等)カフェイン カフェイントリゴネリン 香りの成分(200種以上)クロロゲン酸(UCC添加物) ビタミンB3(ニコチン酸)カフェー酸 蟻酸、酢酸テルペン 未知の化合物1炭水化物(糖分) 未知の化合物2タンパク質(アミノ酸) その他の未知化合物? 生豆の成分が焙煎中に変化するわけだが、1. 変化しないもの----カフェイン2. 常に変化するもの----200種以上の香りの成分3. 減るもの----トリゴネリン、クロロゲン酸、ショ糖4. 増えてまた減るもの----ニコチン酸、クロロゲン酸ラクトン、5-HMF、?メイラード化合物、?コリン作動性化合物 上記2004年に発表された2型糖尿病予防効果に関する疫学調査は、フィンランド国立公衆衛生研究所によるものである。35~64歳の健常者14600人の調査で、「コーヒーをたくさん飲むほど、2型糖尿病に罹る危険が小さく」なると述べている。 1日3~4杯で、女性は29%、男性は27%の発症率低下 1日10杯以上、女性は79%、男性は55%の発症率低下 私たちが日常的に目にし耳にするインシュリンであるが、それはいったいどのような働きをし、また、糖尿病とはどのような関わりがあるのだろう。 食事をすると胃と腸においてグルコースが吸収される → 吸収されたグルコースが膵臓に働きインシュリンが出る → インシュリンは直接経路で肝臓に働く。また間接経路で脳にも作用し、迷走神経が肝臓に働きかける(2005年に発見) → 肝臓は、グルコースをグリコーゲンに変えて貯蔵する。これによって血糖値が下がる。 ところが食べ過ぎや高脂肪食は、インシュリンの働きをいわば上回ってしまい、グルコースはグリコーゲンに変らず糖として血中に出る。これが糖尿病発症のメカニズである。 医学雑誌として最も権威ある『ニュー・イングランド・メデシン』によれば、生活習慣の3大要素すなわち、1)食事、2)運動、3)ストレス----この一つを守れば、糖尿病のリスクは11%に下がり、食後高血糖を防げば心筋梗塞リスクの90%はなくなるという報告をしている。 ここで守るべき食事とは、 腹7分目(食べ過ぎ禁物)― 肥満予防 30品目(食材の種類を増やす)― 食べ過ぎ予防 油は少なく(低脂肪食)― 備蓄脂肪削減 規則正しく(朝・昼・晩)― 食後高血糖予防 また、守るべき運動とは、1週間に30分の運動をすること。これで糖尿病のリスクを低減できるという。 さて、2型糖尿病予防効果を説明するコーヒー成分は次ぎのように証明されている。 クロロゲン酸・カフェー酸 ― グルコース吸収抑制作用 (注・クロロゲン酸は吸収されない。カフェー酸になると吸収される。カフェー酸の効能を証明する必要あり) クロロゲン酸ラクトン ― インシュリン感受性亢進作用 ニコチン酸(ビタミンB3) ― 脂質代謝改善作用(特に、HDL-C(善玉コレステロール)上昇作用) (注・量が少ない) カフェイン・ニコチン酸 ― 抗炎症作用、細胞保護作用 しかし、この成分効果は、岡教授によれば一長一短があって、コーヒーが効くという実感がわいてこないのだという。 岡教授のチームが注目しているのは、コーヒーのメイラード熱反応産物。すなわち、コーヒーのタンパク質・アミノ酸と糖分を加熱すると、揮発性メイラード化合物(香りの成分)と不揮発性メイラード化合物とが抽出される。前者は構造が変化してビタミンB3群となり、これが脂質代謝改善をする。そして、後者の不揮発性メイラード化合物がコルチゾール代謝の改善をし、これがメタボリックシンドロームを予防する。これは副腎皮質ホルモンの分泌制御メカニズム、すなわちコルチゾール代謝酵素(11β-HSD-1)の臓器特異性に関わっている。このメカニズは大変興味深いのであるが、このブログで述べることでもあるまい。 コルチゾールはコレステロールを原料にしてつくられ、生命に必須である。たとえばダイエットでコレステロールが減少してコルチゾールが減少すると死にいたるのである。しかしまた内分泌代謝系の疾患により、コルチゾール血中濃度が上昇すると、それが直接の原因となって身体所見に変化が起る(クッシング病=副腎癌)。メタボリックシンドローム(代謝異常)の原因も副腎皮質ホルモンにある。 コルチゾール代謝酵素(11β-HSD-1)の臓器特異性というのは、肝臓と骨格筋にはグリコーゲンが多く、コルチゾール代謝酵素(11β-HSD-1)が優位に働いてコルチゾールが増える。したがってこのコルチゾール代謝酵素阻害薬が見つかれば糖尿病を予防できるということになる。 岡希太郎教授の東京薬科大学チームは、11β-HSD-1阻害薬として、焙煎コーヒー中の不揮発性メイラード化合物を発見した。 東京薬科大学(岡希太郎教授他)とTAMA-TLOとの共同研究チームは、成分ブレンド・コーヒー(健康コーヒー)に関する特許を出願中だということである。
Nov 5, 2006
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ここ数年来、文化の日は、東京薬科大学の学園祭に出かけ、東薬セミナーと銘打たれた同大学の教授による講義を聴くのを楽しみにしてきた。このセミナーは、各教授が、世界情勢のなかで鎬(しのぎ)を削っている最先端のご自身の研究について、率直に話してくださる。ほとんどが現在特許出願中の研究なので、私のような門外漢にとっても、とてもスリリングである。薬理学や生命科学というのは、時々刻々と進歩し、新しい発見がなされているので、そのような研究者でないと大学としては教授として無用だということだ。それだけに、事、研究の話をする科学者の姿勢は誠実そのものである。私は数年來聴講して、つくづくそれを感じる。 きょうの講義は、薬学部臨床薬理学教室の岡希太郎教授の『生活の中の薬理学 ~コーヒー一杯に秘められた効果~』と、生命科学部分子生化学研究室の柳茂教授の『病気の黒幕 ~老化の分子メカニズム~』。 講義内容については、私自身がきちんと理解したかどうかを確認するためにも、日をあらためて述べることにしよう。 講義は門外漢の一般聴講者に興味がもてるようなタイトルがつけられているが、内容はなかなかどうして。岡教授の講義を例にとると、まずコヒーにまつわる薬学史を概説したのち、次のように次第に研究の核心にむかってゆく。「予防薬としての珈琲の証明」「珈琲に含まれている化学成分」「焙煎コーヒーの成分分析」「焙煎中の成分変化」「成分ブレンド珈琲の原理」「2型糖尿病を例にして」「珈琲と2型糖尿病;疫学調査論文」「疫学調査に見る珈琲の2型糖尿病予防効果」「インシュリンの働き最新の研究結果」「糖尿病の食事療法」「高脂血症薬物治療の反省点;HDLを高めるための工夫」「2型糖尿病予防効果を説明する珈琲成分」「珈琲のメイラード熱反応産物」「クッシング病とMSの症状比較」「Cushing's Disease」「副腎皮質ホルモンの分泌制御メカニズム」「2型糖尿病の原因・最近の進歩;メタボリックシンドロームの立場から」「コルチゾール代謝酵素の臓器特異性」「11β-HSDs阻害薬の種類」「コーヒーの処方せん;2型糖尿病の予防」 岡希太郎教授が述べる「コーヒーの処方せん」だけでもここに記述しておこう。 ステロイドホルモンのバランス維持と食後高血糖の予防が要。 処方薬が出ている場合には主治医にも相談。 1. 深煎りコーヒー >2 朝・昼・晩 適宜 (ステロイドホルモンのバランス維持、脂質代謝改善) (期待成分:ビタミンB3、メイラード反応産物、カフェイン) 2. 浅煎りコーヒー >1 主たる食事の直前後 (期待成分:クロロゲン酸[食後高血糖の予防]、カフェイン) 3. ビタミンB3 >150mg コーヒーと併飲 (注・150mgを1回で飲まないこと。顔が赤くなりピリピリする)----------------------------------------- さて、セミナーが終わってから、これも毎年の楽しみだが、薬草園に足をのばした。見本園や熱帯植物温室を見て、薬草自然観察路をめぐった。自然観察路は山麓にひろがり、遊歩道のように整備されている。ここで私は今日はじめて「ていかかづら」をみつけた。以前、櫻井淳さんのサイトでこの植物の写真を見ているが、私は実物を見たことがなかったのだ。モミの樹と山櫻の幹にからみついていた。小さな濃い緑色の葉。上品なと形容したいような美しい蔦植物である。 カレープラントと名札がついている植物があった。スープに入れたりするそうだが、花と葉がカレーの香りがすると書いてある。私は地面にひざまづいて顔を近付け、香りをかいでみた。ほんとうだ、カレーとまるでそっくりな香りがする。厭な臭いではない。とても良い香りだった。 ずいぶん歩き回ったが、さわやかな気分で、夕暮れたちこめはじめたキャンパスをあとにした。
Nov 3, 2006
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明日はスケジュールがあるので、いまのうちにと思い、先ほど午前0時過ぎになって郵便物を投函してきた。小雨が降っていた。 郵便物のなかに会津の清水先生への葉書がふくまれている。先日頂戴したお葉書への遅ればせの返書である。楓の葉を描いて、拙い一句をそえた。 行く秋や猫魔岳より磐梯へ 維史 これは、この春先に先生が、御自宅の窓から遠く家並越しにのぞむ猫魔岳と磐梯山の写真を送ってくださった、それに因んでのこと。
Nov 2, 2006
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『密室と奇蹟』の表紙デザインが完成したと、東京創元社の古市女史から連絡があった。同社ホームページの新刊案内にもさっそく画像をアップしたとのこと。発売は11月30日を予定。 その画像をここにコピーしてご覧いただきます。小さな画像なので細部は不明瞭ですが、おおよその雰囲気はお伝えできると思います。装画:山田維史装丁:柳川貴代+Fragment東京創元社の近刊案内『密室と奇蹟』のページURLは↓http://www.tsogen.co.jp/np/detail.do?goods_id=3634
Nov 1, 2006
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