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東京谷中の全生庵と言って、すぐに思い出す方はおありだろうか。東京都指定旧跡の臨済宗寺院である。上野の国立博物館前の通りをまっすぐ進み、東京芸術大学の美術学部キャンパスと音学部キャンパスとを左右に見てしばらくすると上野桜木町交差点に出る。そのまま直進すると間もなく通りはゆるやかに左にカーブする。しばらくすると右手に全生庵が見えてくる。ここが幽霊画のコレクションで知られる俗称「幽霊寺」である。 じつはこの幽霊画は落語家・三遊亭圓朝(天保10年[1839]―明治33年[1900])が収集したもので、歿後この寺に寄進されたのである。円山応挙の有名な「幽霊図」を含んでいる。 この寺は三遊亭圓朝の菩提寺でもあり、8月11日の命日には、毎年、落語協会と落語芸術協会との共催による『圓朝忌』が開催されてきた。そして忌日をはさんでの8月いっぱいは、幽霊画コレクションが一般公開される。今年も明日(もう午前2時を過ぎているので、今日)から始まる。応挙のほかには、安藤広重や河鍋暁斎、月岡芳年、鈴木誠一などもある。 幽霊画がこれだけまとまって観られることも滅多にない。興味のある方は是非お出かけになっては如何だろう。もっとも、お寺さんへ行くのはどうもと言う方は、早稲田大学構内にある演劇博物館を訪ねるのがよろしかろう。意外や意外、幽霊画がかなり所蔵されているのである。ざっと20点はきかないだろう。初代豊國の3枚つづきの「怪談小幡小平次」や、一勇斎歌川國芳のやはり3枚つづきの「実成金菊月(みのりよしこがねのきくづき)」、あるいは豊原國周「皿屋敷鋪化粧姿見(さらやしきけしょうのすがたみ)」と「左倉惣吾伝」など、なかなかの名画がそろっている。もちろん演劇博物館の収蔵品なので、芝居絡みではあるが。 ところで三遊亭圓朝は落語や講談を自作自演した人で、その作品は春陽堂版『圓朝全集』に拠るのが一番良いのだが、この本はれっきとした古書店でも滅多に出てこない。この全集が興味深いのは、落語というのはシャベクリ芸であるから、彼の創作は、彼の語り口そのままだということで、これがじつは文学史的には言文一致体へ道をひらく先駆けとなったのである。言文一致といえば誰でもすぐに二葉亭四迷を思い起そう。しかしそれ以前に三遊亭圓朝がいた。 三遊亭圓朝の名を知らない方でも、怪談『牡丹燈籠』は御存知なのではないだろうか。あるいは『四谷怪談』とか『真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)』は如何であろう。圓朝は怪談の名人であったといわれている。幽霊画のコレクションは、怪談を創作する際のイマジネーションを掻立てるために必要だったのかもしれない。 そして、どうやら、幽霊の実在を信じていたふしがある。『真景累ヶ淵』のマクラ(冒頭)の部分は、まさにそのことを良く示している。ちょっと引用してみよう。圓朝の語り口も分ろうかと思う。 「悪いことをせぬ方には幽霊というものは決してございませんが、人を殺して物を取るというような悪事をする者には必ず幽霊が有まする。これがすなわち神経病といって、自分の幽霊を背負っているような事を致します。例えば、あいつを殺した時にこういう顔付をして睨んだが、もしや己を怨んでいやしないか、と云うことが一つ胸にあって胸にこしらえたら、何を見ても絶えず怪しい姿に見えます。また、その執念の深い人は、生きていながら幽霊になる事がございます。」 (註:現代カナ使いに直したことをお断りする) このマクラは、一般論を語りながら、本題そのものを概略しているのである。『真景累ヶ淵』の「真景」とは、「実話」という意味。ドキュメンタリーである。と同時に、「神経」を掛けている。引用した部分、「これがすなわち神経病といって」と振っているのは、伏線なのである。 そしてまた、このような考え方を三遊亭圓朝自身が幽霊について持っていたとみなしてもよいだろう。私は、「一般論を語りながら」と述べたが、それは圓朝の持論としての一般論である。誰もが等しくそのように考えているというわけではない。かつて平安時代のように、社会全体が怨霊実在の宇宙観に呪縛されていたと見ることはできないのである。 幽霊の存在を完全否定した江戸中期の人物がいる。出羽の人、安藤昌益(生没年不明)である。 安藤昌益は医者であり社会学者であった。彼の知性はまことに現代的といっても過言ではない。儒教や仏教を完全に排除し、国家管理による農業生産主体の国民平等社会論を提唱したのである。 幽霊については、不労階級が宗教を支配の道具として、恐怖や不安心理を民衆に植え付けて隷属化するために作り出した幻影である、と激しくその実在を否定した。 「幽霊と云うは、己れの心思の執着する失(あやま)りにして、他に非(あら)ず。人魂(ひとだま)飛ぶと云うは、己れの心火の亢散(こうさん)にして、他に非ず。神に利主ありと云えり、己れの心思の利に迷うにして他に非ず。神の罪に当ると云う。己れの心思の狂妄にして、他に非ず。仏衆生を救うと云えり、己れの心思の理を明らかにするにして、他に非ず。魔法使と云うは、己れの心思の愚惑にして、他に非ず。狐附(きつねつき)と云うは、己れの心思の願富の迷いにして、他に非ず(山田後註)。---(以下略)」 「是れ(註:幽霊)また、自然に毛頭これ無きことなり。是れ釈迦これを作り出す。己れ直耕自然の道を盗んで高座に上り、不耕貧食して制し、三世(さんぜ)・因果・地獄・極楽を立て、寺僧を制し、衆人を誑(たぶらか)す。ゆえに常に地獄を恐れ、極楽を願うて妄念絶ゆること無し。---(以下略)」 まったく宗教者は形なしである。もっとも、安藤昌益の言いたいことは、人間よ、おのれの心を強く鍛えよ、理性をもって思考を練成せよ、ということだ。そうしないでは、手前だけ安全な高みに立って傲岸不遜な指図をする奴に、尻の毛羽まで抜かれてしまうぞ、と。幽霊が怖いのではなくて、幽霊を信じることが怖いのだ。そのように安藤昌益は言っているわけである。 さて、あなたは? (山田後註):狐憑きや狐信仰が、どのように民衆心理にとりこまれていったかについて、私はかつて図像学の観点に立って、『狐信仰とそのイコノグラフィー』という論文において検証した。後日、「遊卵画廊」の論文室に掲載しようと思っている。
Jul 31, 2006
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みなさーん、怪談はお好きですかー? きょうは怪談ですよー! どうやら梅雨もあがって、東京はひさしぶりの青空。暑さもあつし、いよいよ夏本番。日曜日の遊び疲れで早々とおやすみになっておいでかもしれませんが、眠られぬ方はすこし涼んでおいでなさい。 我家には少なからぬ怪談が伝わっていて、私も子供のころからしばしば聞かされてきた。私はあまり怖がりではないので、怖がらせようとしてそのような話を私に聞かせるなら、まことにお生憎さまなのだ。が、話すほうも、怖がらせるために話しているのではない。不可思議な「事実」として話しているにすぎなかった。 数年前のこと、私は思い立って、父母に確認できるうちにそのような話を書きとめておくことにした。私が記録したのは、登場人物があいまいでなく、どこの某(なにがし)と名前がはっきりし、また場所がはっきりし、なおかつ数人の同時証言者がいる「事件」に限ることにした。要するに私の関心は、怪談というより、その事態が起ったときに人々が何を見、何を感じたのかということにあった。 しかし中には同時証言者がいないものがひとつだけあった。きょうは手始めにまずその話しをしよう。すでに亡くなって久しい大阪在住の私の伯母が、生前、私に直接話したことである。伯母は私の絵を見ていて、その事件を突然思い出したのだった。 私がまだ世田谷に住んでいたころ、伯母が遊びにやってきて数日間滞在した。母の姉である。そのころ70歳の手前くらいだった。しばらくぶりの姉妹の再会ということで、ふたりは日がな一日おしゃべりに花を咲かせていた。私は相手をしなくてすむので大助かり、仕事部屋に籠っていた。 ある日、いつものように私は製作に没頭していると、部屋のドアが開いた。振向くと伯母だった。我家では家人は誰ひとり私の仕事場に入ることはない。それは不文律ながら、ほとんど絶対的なルールだった。私は内心で、よわったなと思い、あまり愉快でない気分になった。しかし出ていってくれとも言えないので、黙って仕事をつづけた。 伯母は後ろ手を組みながら、あちこちに立て掛けてある完成作品を眺めていた。この伯母はいささか風流ッ気があって、絵も好きなのだった。私が小学生のころ、初めて我家を訪れて、廊下にたたずみながら暮れなずむ空をながめながら、やおら「ああ、山の端に月かかり~」とくちづさみ、私たちは吹き出してしまった。伯母は私たちの笑いに頓着せず、「わたし、ちょっと風流なんよ」とのたまって、またみんなを吹き出させたのであった。 立て掛けてある絵は、ちょうどそのころ盛んに「卵形」を描いているときだったので、どの絵にも大小の真っ白い卵が描かれていた。 「タダミさん、わたしナー、昔、タダミさんの絵に描かれているような真白な玉がコロリコロリとやって来るのを見たんよ。いま、突然それを思い出したワ」 と、ひとりごとのように言った。 「何を見たんですって?」 「なんやろなー。一抱えくらいな、真白な玉やった……」 私は筆をおいて、伯母に向き直った。 「少女時代にな、私、それを見たんよ。行儀悪い話やけど、子供のころだから堪忍してや。夜中に私、おしっこしたくなって目がさめたんよ。御不浄に行くのがおっくうで、廊下から裏庭に出て、草のしげみに屈んだんよ。私、子供のころから風流でなー、おしっこしながら月をながめていたんよ。そのとき左の先の方に何か気配を感じたんよ。なんやろなーって、本堂の裏手を見たんよ。真っ白い玉があるんよ。私、それがなんだか分らなくて、しばらく屈んだまま眺めていたんよ。白いと言っても、なんと言ったらよかろう。……月の光に輝いているというのではないんよ。そうかと言って内側から光っているのでもなし。なんや知らん、トローンとした丸い塊だったわ。それがな、コロン、コロンと動き出してな、本堂の角を直角にまがって、コロンコロンと私の方へ近づいて来たんよ。私、もうわけが分らんようになって、タマシーって叫んで、家のなかに飛込んだんよ」 伯母は私の絵に目をもどしながら、「この絵を見て、すっかり忘れていたことを思い出したわ」と言った。 「それで、その後どうしたんですか?」 「私が叫んだものだから、みんな起きだしてきたんよ。どうしたどうしたって言うから、魂がいると言ったんよ。裏庭をのぞきに行って、何もいないと言うんよ。真っ白い玉が転がって来たと言っても、寝ぼけたんだろうと言うんよ。寝ぼけているはずがないんよ。寝ぼけている者が、本堂の角を直角にまがったなんて見ているはずないもの……」
Jul 30, 2006
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29日付け朝日新聞に烏賊漁の漁り火のカラー写真が掲載されているのを見て、「ああ、そうだそうだ」と思い出したことがある。 19歳、大学1年の夏休みだった。私は漁り火が見たくなって、佐渡へ旅立った。午前8時30分に新潟港を出港した佐渡汽船の〈おけさ丸〉は、11時ちょうどに両津港へ到着した。が、別になんのスケジュールもたてていない全く思いつきの旅だった。漁り火はもちろん夜にならないと見ることはできない。ぶらぶらと港を歩きながら、どうせなら烏賊釣り船に乗り組ませてもらえないものかと思った。 無鉄砲? そうだろうなー。それまで漁船なんて一度も乗ったことはないし、リクレーションで海釣りをしたことさえないのだから。 しかし、私という人間はどういうものか、そんなことで考えこむことはないのだ。港を歩きながら、どこかに漁師さんはいないものかと、繋留されている烏賊釣り漁船を探した。いや探すまでもない、すべての船が大きな電球をまるで祭りの行灯(あんどん)のように沢山ぶらさげていて、それが烏賊釣り船であることは一目瞭然なのだった。 漁師のオカミさんらしい婦人たちが5人、笠をかぶり一団となって干し烏賊をつくっていた。わたを抜いた烏賊を一枚々々よしずに並べている。私は東京の学生であることを告げて、漁船に乗り組ませてもらえまいかと話した。オカミさんたちは呆れたように、「観光バスがあるすけ、島巡りでもされるといいがね」と口をそろえて言った。 「いいえ、観光には興味がないんです。烏賊釣り船に是非御一緒させていただきたいのです」 「ヘー、そのためにわざわざ東京から来なすったかね。酔狂な学生さんだわねー!」 オカミさんたちは私の頭のさきから足の爪先まで眺めやって、「ちょっと待っていなさい、いま、聞いてくるすけ」 小走りにどこかへ行った。しばらくして戻って来ると、「水晶屋さんが乗せてくれると言ってるすけ、3時頃もう一度ここへ来てみなさい。……まあ、酔狂、酔狂」 私は礼を言って、「よし!」という心持ちで、さて夕方まで眠っておこうと、旅館をさがした。旅館さへ予約していなかったのだ。 観光シーズンだったけれども、さいわい港の近くの海老名旅館に宿を取ることができた。時折汽笛の音が聞こえる6畳間。ポンポン蒸気船の音が遠のいて行くのを聞きながら、3時間ばかり仮眠をした。それから宿をひきはらい、酒屋に寄って清酒の一升瓶をもとめた。漁師さんへの手みやげである。さきほどの所へ行くと、乗せてくれる船をみつけてくれたオカミさんが、「その服では汚れてしまうから、ちょっとウチへおいで。父ちゃんの作業着を貸してやるすけ」と言った。そして先にたって自宅へ案内し、上下の作業着や首に巻くタオル、長靴を貸してくれた。Kさんという漁師さんの家。やせっぽっちの俄漁師ができあがってゆくのを、幼い子供たちが、笑いをかみ殺して見ていた。 水晶屋さんの船は、御主人ひとりの焼玉エンジンの小型船だった。物静かな人だった。たった独りで海のまんなかで仕事をしている男の、いわく言いがたい寂しさと、また強靱な意志とがそのたたずまいに漂っていた。水晶屋という屋号は、戦前まで北海道根室半島の納沙布(のさっぷ)岬沖合いに浮ぶ水晶島に住んでいたことによるという。私の両親も北海道の出身だと言うと、「そうかね」と笑った。 波がやや高いらしく、船が揺れた。 私は船酔いを感じ、胸がむかついた。「酔ったか?」と御主人が言った。「はい」と、応えながら私は船端にかがみこんだ。吐き気がした。昼飯に筋子の入った握り飯を食べていたので、それが胸に来た。こらえきれずに、海中に嘔吐した。そしてうずくまったまま目をつむった。「船酔いはにわか病だっちゃ」と御主人は言った。 両津港からおよそ1時間10分。漁場につくころには、周囲にはすでに他の漁船の漁り火がおちこちに輝きはじめていた。私の船酔いもおさまっていた。 御主人は2.3畳ほどもある帆布製の大きな凧を海中に投入れた。これは錨のようなもので、船は漁をしている間、流されることなくこの凧の周囲をぐるぐる回っているのである。 集魚灯は1個1000W、それが3灯。船端には、たくさんの針をつけたロープを巻き付けたドラムがいくつも設置されていた。サンパー全自動烏賊釣機である。烏賊釣りの針というのは、ひとつにJの字形の針が蛸の脚のように何本かついているもので、それが1本のロープに一定の間隔で15,20と取り付けてある。ドラムが回転し、ロープが巻きとられてゆくと、針にかかった烏賊がつぎつぎに海中から引き上げられ、甲板にたたきつけられる。このとき烏賊は海中から出るやいなや勢い良くピューッと潮を吐き出す。いちどきに沢山釣りあげられるので、船の周囲はまるでビックリ噴水のように、ピューピュー、ピューピューと水柱がたちのぼった。 海中を覗くと、集魚灯に引き寄せられた烏賊の群れが、さながら海の底から放たれた矢のように水面に浮上してきて、あたり一面が真白だった。 御主人は手釣り用の棹を私に持たせた。入れ食いという言葉があるが、まさにそのとおりなのだった。おもしろいように釣れるのだが、おもしろがっている暇もない。釣りあげた烏賊は甲板の上で潮を吹いたり、墨を吐いたりしながら、ロケットのように飛び回っている。 そうして白しら明けまで操業し、捕った烏賊を箱詰めにして港に向った。「月が出ていたから、あまり捕れなかったな」と御主人は言った。月のせいではなく、私が邪魔をしたのはまちがいなかった。豊漁のときは一人30箱の水揚げがあるという。1箱に90杯。卸値がおよそ600円ほどだそうだ(ちなみに、当時、たばこハイライトが80円、コカコーラのボトルが60円だった)。 私に舵をあずけ、捕れ立ての一杯を捌いて、「食ってみろや」と差し出す。それはかつて味わったことがない旨さだった。 「旨いか?」 「はい。こんなおいしい烏賊を食べたのは初めてです」 「帰ったら、素麺にしてもらうといいがの」 港に入る直前に、朝ぼらけの水平線に光球がスッとあがった。 私は水晶屋さんと別れ、借りた衣服を返すためにオカミさんの家に向った。オカミさんはワカメの味噌汁と、たったいま上がったばかりの烏賊を素麺にしてたっぷり器に盛り、朝食を作ってくれた。 「疲れたでしょう。少し寝なさい。私たちは仕事に出かけるから、遠慮しないで、一眠りしたらお帰りなさい」 ……私は一眠りし、誰もいない漁師さんの家を出て、帰路につくため波止場に向った。19歳の夏のことである。
Jul 29, 2006
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まだ梅雨があけぬのか降ったり止んだりの日々の中休み、昨日今日と曇り空がつづく。早朝、門前や庭を掃き掃除しながら、柿の木をながめやった。柿の実があまり目立たないのだ。昨年はたわわに生って、しかも2年ぶりの豊作だった。それまでの2年間というもの、まったく実をつけることがなかった。というのは、2年前、その年も驚くほどの大量の実をつけて、枝がその重さに耐えられず、直径5,6cmもあった枝が折れてしまったのだった。何百個という青柿が庭に散乱した。ちょうど家人たちはみな留守のときだったので、帰宅して何事が起ったかわからず茫然とした。すると隣家の夫人が姿を見せ、垣根越しに事情を説明してくれた。夫人はまるで御自分がその事態を引き起こしたかのように、「風が吹いたわけでもないんですよ」と言った。「柿の木の枝は弱いんですよ。身のほど知らずに、こんなに実をつけるから…」と、私たちは笑った。以来2年間、実をつけなかったのだ。昨年は、柿の木も痛手からようやく回復したのであろう。たくさんの実が色付くまでに育ち、ひとつもいで齧ってみると、渋柿のはずが甘かった。「エッ?」というようなもので、ここ数年のうちに木の性質が変わってしまったのかと不思議だった。 そんなわけで、今年は収穫して食べてみようと思っていたのだ。ところが今朝あらためてながめると、ほんのわずかしか生っていないのである。柿というのは実生に周期があるのだろうか。 青いまま地面に落ちた実にカビがはえて、白い毛玉のようになっていた。 青柿の落ちしより早かびそめし 高浜虚子 写生句というが、この虚子の句はまことに観察がするどい。まさに我が庭の落柿も、たちまちにカビの毛玉となったのだ。菌糸の先に朝露が透明な玻璃の珠のように無数にきらめいていた。 閑話休題 夕食前にキッチンに行くと、居間から母が出て来て、「300読んじゃった!」という。何を言っているのか分らず、「300がどうしたって?」と聞き返す。「小説本を300册読んだのよ!」 私の書棚にある小説を適当にみつくろって渡していたのが、昨年来、母専用の本を買って与えるようになった。それがちょうど300册になったというのである。 「すごいでしょ」 「ヘー、もう300册も読んだの。それはすごいね」 母は、高血圧症によって片目の視力を失い、残る目も視野はごく狭い。足腰も弱っているので、一人で外出も困難である。テレビ・ドラマも幼稚きわまりない。そんな子供騙しを観ているより、巧緻きわめた小説のほうがどんなにかおもしろいし、87歳の老人を感動させる、というのだった。 私もまた、「退屈すると年寄りのお節介がはじまる。そんなことをして家のなかを掻き回されちゃかなわない。読書をして、勉強しながら、脳神経をはたらかせたほうがいい」と憎まれ口を言いながら、折をみては本の買い出しに行く。 しかしそれが2年も経たないうちに300册になっていたとは。 母もなかなか頑張っているわい。
Jul 28, 2006
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さきほどまで仕事を放りだしてDVDでマリリン・モンロー主演映画をたてつづけに3本も観ていた。『帰らざる河』(1954)、『ナイアガラ』(1953)、『お熱いのがお好き』(1959)である。 子供の頃からたくさんの映画を劇場で観てきたが、そのなかにマリリン・モンローの作品が1本もはいっていない。そのことをDVDを観ながらあらためて気づいた。私の女性の好みからすると、確かに彼女は好みではない。しかしそんなことが映画を観ないことの理由にはなるはずもない。ただ何となく抜けおちてしまったのであろう。 もちろん彼女の作品を観ていないというのは、劇場に足をはこんで観ていないという意味だ。TV放映されたときや、ヴィデオでは、すでに何度も繰り替えし観ている。ヴィデオやDVDは便利ではあるけれど、私の感覚としてはどうしても映画を観たという満足感が得られない。最近、家人のあいだでチラリホラリとDVD用のホーム・シアターの設備についての話題がでる。画面も相当大きいし、5チャンネルのドルビーサラウンド・システムも可能なのだという。心が動く。弟が、「DVDを600本コレクションしていても、たぶん死ぬ迄に全部観られないと思うよ」と、ズケズケと言う。私が、「老後の楽しみ、楽しみ」と言いながら買い集めるので、からかうのだ。「なかなか老人にならないようだし…」と付け加えるのは、いささかの優しさか。ホーム・シアターを設備したところで、今日のように、仕事をほっぽり出して映画三昧とはいくまい。 私が好きなマリリン・モンロー映画は、『帰らざる河』。しかし『お熱いのがお好き』も、『紳士は金髪がお好き』(1953)も、『バス停留所』(1956)も、最後の作品となった『荒馬と女』(1961)も、みな面白い。彼女の出演映画の良さは、彼女の可愛らしい魅力によることは勿論なのだが、脚本がじつに良くできている。粒ぞろいと言ってもよいほどだ。たぶんどの作品も、彼女に当て書きしたのだろうけれど、そうしないではおかない魅力と、女優としての「上手さ」を具えていたのだろう。彼女自身は終生、劣等感に悩まされていたらしいが、おそらく俳優に特有の「うぬぼれ」でそれをカバーすることができなかったに違いない。俳優というのは、演技をしているときの自分自身を見ることができないため、つまり自分が良いのか不味いのか自己批判ができないので、常にある種の神経症的な不安をかかえているものなのだ。彼等(彼女等)が、ときに尊大、ときに傲慢であるのは、そうすることで深層にかかえこんだ不安を抑えているともいえる。おそらく、マリリン・モンローにはそれができなかったのだ。 彼女の映画を観ながら、思い出したことがある。1992年の6月から7月にかけて約1ヶ月ばかりニューヨークに滞在していたときのこと。ある日、ふらりと市立図書館に入った。するとたまたま『マリリン・モンロー写真展』を開催していた。 マリリン・モンローが亡くなったのは1962年の8月4日。したがって1992年は、ちょうど歿後30年目にあたり、たぶんメモリアル・イヴェントだったのかもしれない。詳しくは忘れてしまったが、たしかそれらの写真はある雑誌のためのもので、彼女の最後の写真だったと思う。もちろんオリジナルで、マリリン・モンロー自身がチェックするために焼きつけられた写真だった。その中の一点に、大きく赤いバツ印がつけられていた。完全ヌードの彼女が両手を広げて正面を向いている。「大嫌い!」と言い放ち、叩きつけるようにバツを付けたのだそうだ。 この小規模な写真展の、その写真はいわば目玉だった。私もそういう写真があることは、それまでに何かで読んでいた。しかし実物を見ることができるとは、その時までまったく思ってもいなかった。入場料も取らない、ひそやかな展覧会だった。私は所持していた小さなEEカメラで、そのバツ印のつけられた写真を撮影した。 私はその写真を観ながら、彼女の心の底を覗くような感じがした。彼女が哀れであった。
Jul 27, 2006
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辻邦生氏といえば熟(こな)れた日本語の格調高い文体の小説家として知らぬ人はいまい。美術にも造詣がふかく、西洋名画に材をとったスタイリッシュな短篇小説集もある。『十二の肖像画による十二の物語』とか、『十二の風景画への十二の旅』、あるいは『風の琴 ― 二十四の絵の物語』等々。 私は、知的な様式が遊戯性を加味して、なお品格をそなえて造形されている文物に出会うと陶然としてしまう。たとえばバッハの『平均律クラヴィーア曲集』や『フーガの技法』の美しさはどうであろう! それと同じように、私は、辻氏の小説をその造本の趣向ともども愛惜してやまない。たとえば『十二の肖像画による十二の物語』の構成は次のようになっている。()内が、取材した名画である。それらの名画は、それぞれの物語の始まりに、17cm×26cmの大きさで美術印刷されている。 第一の物語 鬱ぎ(ロヒール・ファン・デル・ウエイデン作;ある男の肖像) 第二の物語 妬み(ジョルジョーネ作;老婆の肖像) 第三の物語 怖れ(ティツィアーノ作;自画像) 第四の物語 疑い(デューラー作;ヤーコプ・ムッフェルの肖像) 第五の物語 傲り(ホルバイン作;エラスムスの肖像) 第六の物語 偽り(レンブラント作;黄金の兜の男) 第七の物語 謀み(ポライウォーロ作;婦人の肖像) 第八の物語 驕り(ブロンツィーノ作;ラウラ・バッティフエルリの肖像) 第九の物語 吝い(ジョヴァンイ・ベルリーニ作;レオナルド・ロレダーノの肖像) 第十の物語 狂い(レオナルド・ダ・ヴィンチ作;美しきフエロニエール) 第十一の物語 婪り(ピエロ・デラ・フランチエスカ作;フェデリゴ・モンテフエルトロの肖像) 第十二の物語 誇り(バルトロメオ・ヴエネト作;婦人像) おのおのの物語はごく短い。400字詰めの原稿用紙にして13,4枚というところだ。まことに贅沢な絵本である。『十二の風景画ヘの十二の旅』の趣向も同様で、ロラン、セザンヌ、プッサン、コロー、ブリューゲルといった画家たちの良く知られた名画をモチーフにしている。 うらやましいような仕事であるが、考えてみれば、よほど自信がなければできることではない。掌編小説といってもよい、ごくごく短い一編で、世界中の美術愛好家の視線に耐えてきた歴史的な絵画と、五分で勝負するようなものだ。これが五分五分でないとまったく貧弱な本になってしまうことは、試してみなくとも分り切ったことだ。 私の見たところでは、辻氏はそれを見事にやってのけ、名画をイラストレーションにしてしまっている。 ところで辻邦生氏の著書についてふれたのは、氏へオマージュを捧げるためだったのではない。たまたまさきほどまで同氏の小説『江戸切絵図貼交屏風』を読んでいた。この小説もまた美術絡みで、歌川貞芳という架空の浮世絵師を登場させ、文化文政時代(1800~50年頃)のいわば美術界や市井話を描いている。九つの物語は連作短篇のかたちをとり、辻氏はここでも凝ったタイトルをつけている。「その一 山王花下美人図」とか「その四 無量寺門前双蝶図縁起」という具合だ。じつはこの小説の「あとがき」の冒頭に書いてあることが、私のすくなからぬ感慨を誘ったのだった。それはこんなふうに述べていた。 「私は本郷西片町に生れ、戦前の赤坂界隈で育ったので、江戸=東京の匂いがたまらなく好きだ。数寄屋橋の下を流れていた運河や、聖路加病院わきの隅田川の河岸は、私の幼少期とわかち難く結ばれている。山王様の夏祭りは、子供の私にとって、花火、神楽、色とりどりの幟、見世物、露店の並びなどとともに夢に似た幻想世界を作っていた。」 つまり辻氏は、「こうした回想のスクリーンに、映像の移り香のように浮ぶ江戸の姿を、物語のなかに蘇らせて、遥かな歳月の懐かしさを、もう一度生きてみたい」と思って、この小説『江戸切絵図貼交屏風』を書いたというのである。 こう紹介すれば、私がここ2,3日というものブログに書いて来た、私にまったく欠落しているものの正体が浮びあがってくるに違いない。私は小説家辻邦生氏の立脚している風土からまったくかけ離れた、否、風土とは無縁の、……風土性など薬にしたくとも皆無のところに立って、私の絵画を始めたのだった。それは「引かれ者の小唄」であろうか。まあ、そう言えなくもないな。だがしかし、風土性の欠落が全面的なデモクラト(democrat)の因ってきたるところだと、私は不遜にも自己規定しているのだ。 ちかごろ世の中の不穏な気配は、このまま見過ごすと暗雲になりかねない。全面的デモクラト画家としては、描かねばならないことが多すぎるのである。
Jul 26, 2006
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民俗学的な知識として、日本の各地に伝わる祭りにはいささか詳しい。しかし私自身の暮しのなかには、かつていかなる地域の祭りも関りをもたなかった。 私の精神形成に、そのような土着の風土性はまったく作用していない。というのも、父親がいわゆる転勤族であったからだ。私の日本人としての精神性は、したがって地方性のない日本プロパー(proper)なのである。 このことは意外なことに、60年の今日まで非常に強く自覚せざるをえなかったことで、海外旅行をしているときは純粋日本人としてまことに快適なのだが、自国に住んでいるとまるでコスモポリタン的に表われてくるようだ。私は子供のころから、積極的で快活なのにもかかわらず、身の置きどころのなさに苦悩していた。たとえば祭りだが、私自身にその伝統が不在であるから、ある日突如として巻き起こる祭りエネルギーは、理解不能の暴風のようなものだった。実際、私は、その氾濫するエネルギーに恐怖を感じていたのだ。以前、八総鉱山時代の回想にもしるしたが、弟たちが祭半纏を着せてもらい、家族総出で見物にでかけるときに、私はいつも一悶着おこした。怖くて行けないのだ。結局、私はひとり家にのこることになる。そして奇怪な行動がはじまる。煙突の支柱である軒下の梯子をよじのぼって屋根にあがり、見えもしない遥か彼方のお祭りの気配を感じようというわけだ。近づきたいのに近付けない、私の感情はそのようにいつも引き裂かれていた。 私は18才のときに、『祭り日』という拙い詩を書いた。そのころ私は、旅をしながら、いろいろな風土を見て歩いていたのだった。 『祭り日』 今朝は空気がはじけてる 朝餉には、気も早の笛と太鼓の前調子 さればこそあの夜あの寄合の明るさが… いまに思えばうなづける 祭り日は前の日から仕度され 祭り日は一月前から仕度され いやいや祭り日は 遠い昔に仕度され 紅提灯が揺れていて 僕は宿屋の二階でありました 「祭りだからなあ」と、父親らしい 「祭りだもんなあ」と、幼く答える 振向けば稚児結い髪に 花簪がこぼれている! いつまでも僕は見ていた 何処という當のない旅の宿屋でありました やあっこやれやれ やあっこやれやれ やがて小若襷の神輿が繰出し やあっこやれやれ やっこやれやれ呟けば ふと淋しさにおそわれる 通りがかりの見知らぬ町で 由無い後悔におそわれる 記憶も其処には霧が降り 笛も聞こえず太鼓も鳴らず 暑い日のこととて 涙も出ないのでありました 宿屋の二階ではお祭りも… あゝお祭りは、僕の祭りは吃っている 華やかな列を離れて酔漢が 「神様信ずるに理屈はいるめえ」 と、言っている 頭のはげた四十の男だ 僕は失ったものを取り戻そうと よろめくように起ちあがる 祭り囃子に浮かれたように 微醺を帯びた男のように どおん どおん どんどん どどどん どおん どおん どんどん どどどん 笛吹け 太鼓打ち鳴らせ 見知らぬ町の通りにいでて 僕は踊ろう 祭り日は前の日から仕度され 祭り日は遠い昔に仕度され さればこそあの夜あの寄合の明るさが… 僕には苦しく思われる 紅提灯が揺れてるが 暮れるにはまだ早い… 自分の描く絵というものは、作者として良くわかっているようで、また、あまり分らないところもある。ではあるが、いま上に述べたことは、私の作品のごくごく深層によこたわっている精神的基部のような気がする。絵のテーマと関りなく(あるいは関っているのだろうか?)、いつもその上層にある諸々のことどもを支配している、そう、いわば「地霊」のようなもの。 私が「近づきたいのに近づけない」感情のアンビバレンツを、すくなくとも生活に支障ないほどには克服できたのは、絵を描くようになってからである。20才を半ば過ぎていた。私の精神に画家としての「ふてぶてしさ」が生まれていた。「私の武器かもしれない」と思ったのであった。
Jul 25, 2006
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昨日のブログはたまたま出先の八王子で遭遇した祭りについて書いた。それにつられて、今日は、私が撮影した東京の祭りの写真のなかから10点を選んでご覧いただくことにしました。
Jul 24, 2006
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所用があって八王子駅周辺の商店街を歩いていると、いやに浴衣姿が目立つ。若い男女のカップルや子供たち。二十歳代の青年たちは、浴衣を着慣れていないせいか、ほっそりした腰にせっかくの博多織の角帯も様にならない。腹にタオルを巻いて恰幅をつけるとよかったのに、彼女も御両親も相談にのれなかったか。 なんとなく頼り無い可愛らしいカップルを幾組か見過ごして、はて何か催しごとでも?、と思っていると、こんどは揃いの半纏に褌をきりりと締め上げた一団にでくわした。それでようやく夏祭だと合点した。 やがて錦の幡をかかげた供をしたがえ、山伏装束の天狗と宮司が、神輿の先触れとなってやってくるのに出会った。100メートルの後方に、太鼓の音とともに、さきほどの半纏に褌姿の男たちが神輿をはげしく揉んでいるのが見えた。 毎年たいへんな賑わいの八王子祭りは8月4,5,6日のはず。この祭りは昭和50年頃から、八幡八雲神社の天王祭などいくつかを合祀して開催されるようになったもの。かつては天王祭もちょうど7月21,22,23日が祭日であったのだが、きょう7月23日はそれとは別の神社の祭祀なのであろうか。 東京都の西南に位置する八王子は古い町で、たくさんの神社がある。八王子という地名がそもそもスサノオノミコトの子供たち5男3女、すなわち八人の王子・王女を祀った八王子神社に由来する。 私は詳しくは知らないけれど、それぞれ異なる祭神のたくさんの神社それぞれに祭礼があるのであろう。なかで異色な祭りは、JR八王子駅の西南方向、富士森公園に隣接する浅間神社の「だんご祭り」。毎年7月31日が宵宮、8月1日に本祭りがおこなわれる。その名のとおり、境内には厄除けの甘辛串団子を売る店がならぶのである。団子を売るようになったのは明治時代になってからで、宮司さんが余った饌米(せんまい)で団子をつくり参詣人にふるまったのが始まりだという。その団子を食べると暑気あたりをしないと言われるようになったとか。 似たようなと言ったなら語弊があるかもしれないが、8月26,27日は八王子諏訪町にある諏訪神社の「まんじゅう祭り」である。この祭りの謂われもおもしろい。江戸時代、寛永年間のことだそうだが、もともとこの神社では祭日に赤飯を参詣人にふるまっていたらしい。ところが、夏の盛りのこととてその赤飯で食中毒がおこってしまった。赤飯に代るもので腐敗しにくいものはないかと考え、地元産の小麦粉と小豆で酒饅頭をつくって奉納した。以来、境内に饅頭を売る店がたちならぶようになったのだという。「まんじゅう祭り」のほうが「だんご祭り」より240年ほど早くはじまったわけだ。もっとも寛永以来の直伝の饅頭を売る店は、じつは境内にはない。----関心のある方はお探しになってみてください。 そんなわけで、思いがけず威勢のいい神輿を見物して帰宅した。夕方には調布の多摩川べりで花火大会もあるらしい。さすがに我家からは見えるはずもないが、午後7時過ぎころ、ふとした加減で遥か遠くにくぐもったような「ドドド」という音がしたのは、たぶんその花火の音であろう。そして9時になると、また雨が降りはじめた。
Jul 23, 2006
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『季寄せ』の7月の項に「鷺草」とある。ちょうどこの時季にほっそりした茎に2,3輪の白い花をつける。白鷺の飛翔する姿にまことに良く似ている。東京・世田谷区の区花である。 私は世田谷に長年住んでいたが、そこでは一度もみたことがなかった。実物を見たのは箱根仙石原の湿生花園においてであった。また、同じく山中湖近辺の住宅の門前に、簡易店鋪を設営して鷺草の鉢を売っているのを見た。家族でドライヴに出かけたときだったので、ちょっと車を止めて、買おうかどうかを相談した。しかしその可憐な姿がかえって痛ましく、湿地に育つ植物を我家の痩せた庭土で育てられはすまいと、衆議一決した。 それで良かったのかもしれない。この花のことを想うと、私の目の前にちいさな一羽の白鷺が舞うのである。 夏の早朝、多摩川堤のサイクリング・ロードを走っていると、朝靄のなか、川の岸辺や中洲に白鷺の姿を目にすることがすくなくない。浅瀬に脚を浸けて、小魚を狙っている姿も見かける。まるで水墨画のたたずまいのようで、靄はあたりをすっぽり包み、岸辺の潅木の緑が滲み、美しい白鷺がすっくとたたずんでいる。 明方まで仕事をしていた私は、まだ眠っている家人を起さないようそっと家を出て、往復およそ36kmのサイクリングをする。時間にして2時間弱。1週間に1度のことではあるが。 東京ではなかなか感じられない空気の清清しさを、さすがに朝靄のなかを走っていると、胸いっぱいに感じる。子供の頃の、夏休みの朝のラジオ体操を思い出す。私は山のなかで暮らしていたので、ラジオ体操は少し冷え冷えとした山の気の思い出でもある。あるいは学生時代、旅行の途路の泊めてもらった田舎家で、「デデッポー、デデッポー」というミミズクの鳴き声にめざめて雨戸を開けたときの、庭にただよっていた水色の気配。 ペタルを踏みながら、「白鷺は~」と小唄を口ずさむ。小学生のときに見た道中映画で、高田浩吉が晴々とした笑顔を見せながら歌っていた。しかし、昔の歌はそれからさきを思い出せない。夏の早朝の毎度の行事。私はひとり含み笑いをしながら、小坂を勢いをつけてこぎあげるのである。
Jul 23, 2006
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肩のこらない本なら、2,3册かけもちで読んでいる。寝室に1,2册、仕事場の机のわきに1,2册というぐあい。だいたいテーマ別になっているのだ。あるいは互いにテーマから分岐した部分を補っているようなこともある。 そのなかの1册、300ページの本ながら、たちまち読み終えた。俳優・宍戸錠氏の著書『シシド----小説・日活撮影所』である。先日ふらりと立ち寄った古書店の映画関係の棚でみつけた。ぱらぱらとページを繰ってみると、宍戸錠氏の自伝といってもよい内容。スター俳優の側から日活の映画史がつづられている。これは一見の価値ありと踏んで購入した。 私が世田谷に住んでいたころ、比較的近所に大勢の映画関係者が住んでいたが、宍戸邸もまた御近所だった。家人たちは犬をつれて散歩する姿を何度もお見かけしているらしいが、私は「エースの錠」をお見かけしたことはない。が、近くの自動車整備工場に「錠さん」のものだという高級車が格納されているのを何度か見かけていた。日活調布撮影所も近いといえば近い、私のサイクリングの行動範囲になっていた。 その撮影所は昭和29年(1954)に建設された。日活映画のそもそもは、日本で最初の映画撮影所といわれる明治43年(1910)の京都二条城西南櫓下広場に設けられた板敷舞台に端を発する日活京都映画である。その後、日活向島映画、日活多摩川映画と移りかわってきたが、戦時中の企業統制で大映と製作部門を統合せざるをえなくなり、日活としての製作を止めていた。日活は直営映画館を全国に約3,000館所有しており、戦後、アメリカ映画を上映することで興行収益をあげ、1952年ころから製作再開の気運がもちあがったといわれる。調布撮影所の建設はまさにその実現だったわけだ。 昭和28年12月に日活は、映画製作再開を唱い「日活第一期ニューフェイス募集」をした。宍戸錠氏はその合格者だった。氏の自伝的小説『シシド』はここから始まる。 私は前述したように、「エースの錠」としての宍戸氏に子供のころから親しんできた。右手の人差指を顔の前で振りながら、「チッ、チッ、チッ、俺の面(ツラ)に色をつけたのはお前で三人目だぜ。前の二人は墓の下でオネンネしてらァ」とやるキメのしぐさ。 いやいや、じつはそれよりもずっと早い時点で宍戸錠氏を記憶していた。例の豊頬手術をする以前の、ほっそりした美声年の宍戸錠。久松静児監督、森繁久弥、坪内美子、二木てるみ主演『警察日記』における田舎の巡査である。私が少年時代をすごした会津若松近傍の岩代熱海(現・磐梯熱海)や猪苗代湖周辺で撮影されていた。映画のなかの言葉が、会津弁にちかいこともあり、いまだに忘れられない作品である。 その「錠さん」が、じつはスターへのみちのりは険しく、仕出しから始まっていたというのは、この著書で始めて知った。しかも5年間ほどは傍役専門であった、と。その傍役から、ダイヤモンド・ラインと日活内部では呼ばれていたプロモーション・プロジェクトに加えられるところで、この『シシド』は「つづき」として一巻を終了している。続巻が執筆されたのかどうか。ちなみに、ダイヤモンド・ラインというのは、石原裕次郎・小林旭・赤木圭一郎・和田浩二・宍戸錠をさす。いわゆる昭和30年代の日活映画黄金時代を築いた男性スターたちである。 ところで私が古書店でみつけたこの『シシド』、どうも宍戸錠氏ご自身が所有していた本ではないかと推測されるフシがある。読んでいるうちに発見したのだが、ところどころに2Bくらいの鉛筆による、語句の削除訂正がある。この本、カバーは宍戸氏若き頃のスタジオ前で撮影したモノクロ写真が使われている。そして、カバーをはずした表紙は、表も裏も、宍戸氏の自筆原稿の実物大写真である。その原稿はやはり2Bないし4Bの鉛筆書きで、筆蹟を観察すると書き込みの文字と非常によく似ている。とくに「は」の字や「金」、あるいは長音記号「ー」の書き癖がまったく同じだ。削除訂正した部分も、文章のキレをよくする工夫をしている点が、一般読者のやることではない。署名があるわけでないから確信はないが、私はほぼ間違いなく宍戸錠氏が所有していた本であると思っている。
Jul 21, 2006
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降りつづく長雨の一時の霽(は)れ間を縫うように、買い物がてらの外出をした。天気予報は来週いっぱい、降ったり止んだりがつづくようだ。 街の店々は、気のせいでもあるまい、すこし人出が多い。老夫婦がつれだって日用品の買い物をしている。きっと雨の外出を嫌っての買い溜めであろう。たくさんの品を夫婦でわけあって持っている。「雨の日サーヴィス」などと書いた張り紙も見かけた。かと思えば、「雨の中の御来店、まことにありがとうございます」という店内放送に敏感に反応した老婦人が、ケタケタ笑いながら店員をつかまえて、「雨なんて降ってないわよ」と、まあ、言わでもがなの忠告をしている。店員は相手にしないわけにもゆかず、もてあまし気味に、「すみません、前の日に準備をして録音しましたので…」などと応えていた。普段ならそんな程度の放送内容のくいちがいなど聞き過ごしてしまうであろうに、長雨で気が沈みがちだったところへの霽れ間、心にも愉快が兆して、何を聞いてもおかしかったのかもしれない。「雨の中の御来店、まことにありがとうございます」繰り返す店内放送に、老婦人は去りながら、またケタケタと笑った。 そんな暢気なことばかりではない。九州地方や長野県など、大きな被害も出ているようだ。そちらの方面から私のブログにアクセスしてくださる方もお出でなようなので、お見舞い申しあげるとともに、御無事をお祈りいたします。 ところで、出水の凄まじさを書いた文学作品といえば、谷崎潤一郎の『細雪』を思い出す。中巻の八章をまるまるその描写にあてている。もっとも、凄まじいと言っても、全然悲痛ではなく、主人公たちも初めのうちは面白半分にキャッキャと笑っている。水が戸口から室内に流れ込んできて、安楽椅子を戸口の内側へ寄せつけてその上に少年が胡座をかいて坐っていた。と、たちまち戸が開いて、安楽椅子が坐っていた少年ぐるみ浮き上がった。水は腹くらいまでに達し、テーブルだのコーヒー沸かしだの、砂糖壷だの、飾っていた花などが室内のあちこちにポカリポカリと浮いた。少年はもう背が立たなくなりピアノの上に登る。----水かさは増して、やがて水面に大人たちの首だけが出している状態になった。 「外部も室内と同じくらいの水位になってをり、且室内の水は次第に沼のやうに澱んで来るのに反し、ガラス一枚外は非常な激流が流れていた。そして、窓から四五尺離れたところに西日を防ぐための藤棚がある外には、その辺は芝生になっていて、高い樹も建物もない。もし窓の外へ跳び出して、何とかして藤棚まで泳ぎ着くことが出来、その棚の上へ攀ぢ登ることが出来れば締めたものであるが、棚に達する迄の間に押し流されてしまふことは明かであった。弘少年は、ピアノの上に突っ立って手を伸して天井を撫で廻していたが、確かに、天井を破って屋根の上へ出ることが出来れば、それが此の際一番よい方法に違ひないけれども、少年や女たちの力では如何ともしやうがなかった。」 実際は切迫した状況を、谷崎は比較的長いセンテンスでじっくり描写してゆく。短いセンテンスを積み上げてゆけば、それらしい状況描写にはなるのだが、『細雪』のあたかもフローベルのような書きぶりで長いセンテンスでじっくり細部を描写してゆく方針は、この洪水の場面でも決して崩されることはない。しかしその長いセンテンスのなかの息づかいが、やがて洪水の大きな総体に達するのであるから、けだし名文。 『細雪』には日本の四季の風情がちりばめられているけれども、この洪水の場面は作中の異色である。 この小説は3度映画化されている。昭和25年に新東宝で阿部豊監督・花井蘭子、轟夕起子、山根寿子、高峰秀子主演で、また昭和30年には大映で島耕二監督・轟夕起子、京マチ子、山本富士子、叶順子主演で、そして昭和58年に東宝で市川崑監督・岸恵子、佐久間良子、吉永小百合、古手川裕子主演で。 私は30年と58年の作品を観ている。いずれの映画も洪水の場面はない。 小説で洪水を描いているのは、私はこの『細雪』しか思い出さない。ほかにもあるのだろうか。 雨を描いている小説は少なくはない。しかし、絵画となると、思い出すのは安藤広重の浮世絵だけだ。 東海道五十三次「庄野」と、近江八景「唐崎夜雨」。東都名所「白雨の図」。そしてゴッホが模写している名所江戸百景「大はしあたけの夕立」。 「あたけ」という今では聞きなれない言葉は、「あたける(浮ついた)」という言葉の連用形がつまったもの。「あたけの夕立」は、さしずめ浮気な雨というところ。これには「大はし」でなければならない理由がある。大橋とは千住大橋のこと。 広重が活躍した頃の江戸には五つの大きな橋があった。日本橋(1603年架橋)、隅田川に掛かる両国橋(1659)・永代橋(1696?・98?)・大川橋(1774:吾妻橋とも言った)、そして荒川の上流千住川の千住大橋(1594)。千住大橋が江戸の橋としては一番古い。松尾芭蕉が『奥の細道』の旅に出た、「千住といふ所にて船をあがれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。行く春や鳥啼き魚の目は泪」と記しているのが、この千住大橋。江戸の出入り口だった千住は旅籠(はたご)や遊女町が賑わった。ここの遊女は、遊廓の公娼ではなくいわゆる私娼で、遊女町は岡場所と呼ばれていた。夜がちかづくと男たちはそぞろ浮気心がきざして、そそくさと大橋を渡った。そういう「あたけ心にザッと来た夕立」である。 そうそう、喜多川歌麿にも3枚つづきの大判で「雨宿り」という作品がある。東京国立博物館が所蔵している。歌磨には傘をさしている絵は何点かあるけれども、かならずしも雨の気配を感じはしない。 そして東京国立近代美術館所蔵の福田平八郎画伯の「雨」。画面いっぱいに瓦屋根の一部が描かれ、いましもポツリポツリと降りはじめたところ。灰色の瓦に小さな丸い染みができている。ウーン、この作品、雨を描いているといえば否定はできないが、広重の雨降りを写そうという努力からすれば、御遠慮願ってもいいだろう。 欧米の長い絵画史のなかに、私は雨を描いた絵を見かけた記憶がない。「嵐」というおおまかな括りだと、そういう作品はある。しかしそれらの作品にも雨の気配はない。 広重さん、やりますなァ。
Jul 20, 2006
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各地に大きな被害をおこしながら長雨がつづいている。みなさまのお住まいの地域では如何であろう。 さきほど午後4時ころ、猫のトイレの砂を買いに行ってきた。雨がつづくと猫達もベランダにも出られず、家のなかで退屈している。かわるがわるやって来ては遊んでくれと鳴く。高い高いをやったり、腹を撫でながら転がしてやると一時的に満足し、窓に駆け寄ってゆき戸外を眺めている。 レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿は、広範な観察記録やスケッチで知られているが、私は20年ほど前、その中の水の研究の実物を見ている。雨についてや、水の落下による流体運動についての記述とスケッチ、あるいは洪水の種々の様態のスケッチが、おそらく銀尖筆によるのであろう力強い筆蹟で紙に刻み付けられていた。 これら厖大な水の研究ノートは、1490年、1495~1505年、1508年と、およそ20年近い長期にわたるものである。レオナルドは大地の構造を人体構造にきわめて良く似た有機的な構造としてとらえていた。たとえば次のようなメモがある。 「非常に大きな河が大地の下を流れている。[CA.108 v.b]」 「水こそはこの乾燥した大地の生命液として捧げられたものである。大地の底に浸入し、たゆみない熱心さで枝別れした水脈を通って流れ、水分が必要なあらゆる個所に駆け付けるのだ。(略)[Ar.234 r.]」 事実、手稿のなかでは、水の渦と人体図が並んで出て来ることがある。このことは何を意味しているかと言えば、水の研究は必ずしも「絵画論」と同一ではないにもかかわらず、レオナルドの絵画概念の根本に水の研究が影響していたのだということ。 レオナルドのみならず、たとえば同時代のミケランジェロも人体に関する厖大な研究スケッチを残している。彼等の時代は、絵画は科学であった。自然観察と材料学とを極めたすえにうまれる科学製品、----それが、この時代の絵画である。 現代美術とは概念的におおいに異なる。その変遷の道筋をたどり、あきらかにするのが美術史である。 たとえば風景画ひとつとっても、----レオナルドの時代にはまだ純粋に風景画と呼ばれるものは生まれていなかったけれども----現代の風景画は、むしろ幻想画に非常に近接したところにある。現代の風景画から、科学的な目で見た自然を読み取るのは、およそやっかいなことであろう。画家はたとえ自然のなかに画架を立てて描いたとしても、彼(彼女)の見ているのは自然に仮託した自分の心象風景でしかない。現代風景画論がそれらの作品から汲み取るものは如何なるものなのか。私自身がかつて一度も風景画を描いたことがないので、いささか興味をもっている。 雨が降りつづく窓外を猫達といっしょに眺めながら、レオナルド手稿を思い出してのよしなしごとである。上図:レオナルド・ダ・ヴィンチ『障碍の板をこえて流れる水、および濠の中に落下する水の習作とノート』[29A]
Jul 19, 2006
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きょうは制作は休み。手紙の返事を書いたり、その他の事務的な仕事をかたづけた。その余は先日購入したカレル・ゼマンの1970年の作品『彗星に乗って』のDVDを見たり、読書をして過した。 『彗星に乗って』は期待したほどの作品ではなかった。創られた当時、少年向け映画の国際賞をいくつか受賞している。架空国ながらアラブ系の国とヨーロッパ系の国との1888年の戦争という筋立ては、ちょうど100年後(実際には20年,30年後)の現実を予見しているかのようである。が、いまや世界は湾岸戦争とNY9.11をTV中継で目撃してしまっているので、映像の魔術師ゼマンの作品といえども、もはや子供向けの寓話でしかない。さらに私にとっては、創られた当時に見た『悪魔の発明』の衝撃が強く、それを超える作品ではなかった。もっとも、どのように撮影したのだろうという技術的な驚きは、現在なにもかもをCGでやっつけてしまう映画作法にうんざりしているから、一層新鮮なのだった。 考えさせられたのは、1888年というような枠組はもはや有効ではないということで、そのことから考えをすすめると、絵画制作上の具体的な展望を拓くことができるかもしれないと思った。昨日書いた「新作のためのメモ」に通じることなのだが、いま、私の頭というか目の前というか、ぼんやりしたイメージが浮かんでは消え、消えては浮かんでいる。ミルトンの『失楽園』から突如やってきたイメージで、それが私の目にした現実と重なり、私はいまだ確信を持てないでいるので、影像が幽霊のようにふわふわと漂っているのである。 人に説明することもないが、このような時、私の想像はいくつかのコア(核)に別れていて、同時に漂っている。何かのきっかけで、多重空間を内包するひとつのマッス(塊)を形成することがある。このときこそ、「ユリーカ(見つけた)!」背筋を貫くゾッとする感覚。描いて確認をしないではいられない、私の作品制作のモチベーションとなるのである。
Jul 17, 2006
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伝統的日本美術の装飾性に日本人としてのアイデンティティを表明‥‥といっても、その伝統を引き継ぐという意味ではなく、拭っても拭いきれないに違いないであろう自己の風土性の一つの象徴として意識的膨脹的に表明し、しかし、現実に対してはnonchalance(無頓着)にならぬよう意識を研ぎ、なおかつ巨視的と微視的とをあわせもたなければならない。観念は具体の結果でなければならない。個から出発して全体へ。全体はまた個にかえらなければならない。世界は多義的であることを認め、そのうえで私自身の未来指向を創作の動機とすること。 方法:感覚を解放して瞑想。資料分析。多様なイメージの遊戯的操作。多重空間と冗談の効用。
Jul 16, 2006
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家人の口の端や送られて来るメールに、「連休」「連休」とあるので、何のことだろうと一日合点がいかなかった。さきほど居間に誰もいなかったので、掛けてあるカレンダーを見てみると、17日の月曜日が「海の日」とある。「ヘー!?」ってなもんだが、私はこういうことにはまったく疎い。 若いときから、カレンダー上の休日にはあまり縁もなく仕事仕事で過して来た。 私の場合、印刷用のイラストレーション原稿を油彩でやっていた。締め切りまでのわずかな期間に乾燥させなければならないので、昼夜なく時間を詰めて制作し、乾燥時間を稼ぎださなければならなかった。しかも本画制作と同じ工程を踏む細密描写が多かった。さらに、たとえば文庫本のカバー用の絵でも、たいていは10号キャンバス(53.0×45.5cm)を使用する。これは使用実寸でいうと、面積にして15.5倍の大きさである。印刷原稿は少し拡大して描いたほうが、出来上りが引締まった感じになる。しかし、いくらでも拡大してよいかというと、それには自ずと限度がある。私の経験からすると線分で5倍までだろう。文庫本用の原稿を10号キャンバスに描くと、線分で約4.3倍だから、まあギリギリ可能なサイズである。随分効率の悪い仕事をしていることになるが、そのような拡大原稿を依頼されているのではない。むしろ担当編集者やお使いの人は、その大きさに辟易している(らしい)。 私の気持の問題なのだ。使用目的を果せばよいだけの小さな絵をちょこちょこ描いていては、精力が余ってしまう。仕事をしたような気がしない。人生を無駄遣いしているようで、だんだん気が滅入ってしまう。もともと自分の楽しみのために絵を描いてきたわけではない。依頼されるから、それが面白くて描いて来た。いまでは生涯の仕事になってしまったので、自分の楽しみもたくさんあるのだが、若いころは、精力を持て余すような仕事なら他の仕事を、と思わないでもなかった。 そんなわけで、あえて時間が必要な仕事のやり方を志向していた。世間が休日のときは電話にせかされることもなく、まさに仕事日和。長年の間に、カレンダー上の祝日にも連休にもすっかり疎くなってしまったのだ。 連休初日ということだが、私は外出することもなく終日仕事場ですごした。ときどき遠雷が聞こえていた。が、降るかと思えば、そうでもなく。窓の外は水気の多い空気がよどんだように甍をつつんでいる。梅雨前線が停滞しているのだそうだ。降りそうで降らないのはその所為らしい。 おやつに冷たい白玉をつくった。白玉粉(糯米粉)を水で練って小さな団子にし、沸騰した湯に落とす。浮き上がったところを網杓子ですくい、氷水にさらす。 今日は、わざわざ古い昭和初期の切り子のガラス器を出して人数分を盛りつけ、市販のシロップではなく、さらりとした砂糖水をそそいだ。 亡父が好きだったので、一椀を仏前に供えた。7月15日は盆。我家では陰暦にして、8月15日に盆祀りをする。 白玉にとけのこりたる砂糖かな 高浜虚子
Jul 15, 2006
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先日このブログで美空ひばりについて書き、私が美空ひばりに関心をもったそもそものきっかけは、昭和40年、彼女が『柔』でレコード大賞を受賞したときのTVインタビューであると、次のように述べた。 ‥‥「ハヒフヘホが難しいのね」と彼女は言った。そして「ハ、ヒ、フ、ヘ、ホ」と発音してみせた。『柔』の歌詞の2番に、「行くも止るも、坐るも臥すも」とある。その「臥(フ)す」が、明瞭な言葉と音にならないのだと言う。‥‥ 私はこの言葉を聞いて、ただならぬことを言っているような気がした。それは、単に、「ハヒフヘホ」がマイクロフォンにのり難いと云うのとは違うと思ったのだ。そして、これも先日述べたことだが、美空ひばりの歌唱法は背筋と腰をつかっての気の入れ方が重要で、しかも彼女はその一瞬の集中が並外れている。 そんなことをキーワードのように自分の思考にたたみこんで、私は美空ひばりという歌手を見て来た。 じつは共感覚についてのブログで紹介した作曲家新実徳英氏は、その著『風を聴く 音を聴く』のなかで、「ハ」と「ホ」についてとても興味深い考察をしているのである。長い引用になるが、ここはどうしてもその考察を新実氏自身のことばで語ってもらうほうが良さそうだ。 「呼吸音は生きていることの最小限の証しであり、生命体の無意識の[表現]であり、これもまた[声]である。 あらゆる言葉を無声音で発音することができるが、ここでいう無声音はha(ハ)、ho(ホ)などについてである。それらはなにかに驚いたり感動したりしたときに思わず発せられる。呼吸音に比べればより肉体性を、ひいては官能性を伴っている。モノクロームではないがカラフルでもない。あえて言うならかぎりなくうすい、同時にある濃さをもった色調を感じとることができよう。 ことに抑揚のついたha(ハ)、ho(ホ)などの無声音は[生]そのものが、音量は小さくとも外に向ってくっきりと表出される。生命活動のほとばしりがそこに感じられ、より官能的であり得る。」 美空ひばりが、「行くも止るも、坐るも臥すも」と歌うときに、その「臥す」にどれほどの生命活動のほとばしりを込め、官能的に表現しようとしていたか、私はいまあらためて新実氏の考察を援用することによって知るのだ。 ちなみに、このハヒフヘホを、手持ちの中国語辞典で似たような発音をさがしてみると、おもしろいことが分る。もちろん日本語の発音とは微妙に異なるのだが、いずれも「息」に関係している言葉なのだ。【ha(ハァ)と発音することば】 哈 1,笑い声。2,ハーッと息をかける。【he(ホォ)】 呵 1,しかる。2,【ha(ハァー)と発音した場合】ハーッと息を吹きかける。【ho(ホゥ)】 呼 1,息を吐く。 「音量は小さくとも外に向ってくっきりと表出される」という新実氏の観察は、中国語ではまさに無声音がそのまま「呼気」を表わす言葉となっているのである。 美空ひばりにとっては、「ハヒフヘホ」は、音量が小さいことも問題であったろうし、武道的な行動のキレと楽曲のキレとを合致させなければならない、表現上の要であった。何よりもそのことを明確に意識していたのだ。そして、私が彼女の背筋力をあげつらうのは、「ハヒフヘホ」と試しに発音してみると背筋に緊張がおこることが分るが、おそらくとても真直ぐな強い筋肉だったことが推測されるからである。武道においては吸気よりも呼気が重要で、ヨーガなどでも同様だが、息を吐ききった瞬間に背筋と腰とのまじわるあたりに「気」が集中する。したがって、美空ひばりが「ハヒフヘホが難しいのね」と言ったとき、彼女はじつは「気」配りを問題にしていたのだと言えるかもしれない。
Jul 14, 2006
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1時間前までNHKハイビジョンの特集『モーツァルトの真実・自筆譜が明かす素顔』を見ていた。池辺晋一郎氏がピアノを弾きながら、モーツァルトの自筆の楽譜を検証し、神の声を聴いた天才作曲家の創作の秘密に迫ろうという意欲的な番組である。 5歳の最初の作曲の楽譜、8歳のときの第一交響曲をはじめとする自筆楽譜、あるいは父親が作曲法を指導するための練習問題の親子ふたりの筆蹟の譜面等々。それらにはすでに生涯にわたる創作の筆法の明確な萌芽があるというのには驚く。しかし、書き直しがまったくない流れるように美しい楽譜はつとに有名であるが、近年発見されたスケッチ譜によって、じつは試行錯誤の長い苦闘の積み重ねであることが分かったのだという。そのようなスケッチによって、頭のなかに音楽が完成してしまえば、譜面に仕上げてゆくのは何の苦労もなかったということらしい。それにしても、「長い苦闘」というのが問題で、一週間に一曲完成していたと聞けば、彼の「長き」はわれわれの一瞬に等しいかもしれない。 それにしても死の2ヶ月前に作曲を始め、ついに未完のままで終わった『レクイエム』は、現在でも謎と伝説につつまれている。絶筆となったのはこの「ラクリモサ(涙ながらに)」の数小節。池辺氏がこの部分をピアノで演奏しはじめると、私は思わず涙がこみあげてきてしまった。所持しているレコードやCDで聴いていても、ついつい涙をこぼすのである。 『レクイエム』といえばヴェルディにもあるし、フォレにもある。それぞれぞれみな美しい。フォレの『レクイエム』をクリュイタンス指揮でパリ音楽院管弦楽団とエリザベート・ブラッスール合唱団が演奏したレコードは別格のおもむきがある。しかし、涙を流すほどではない。ロマンティックな清澄さを感じるだけだ。 モーツァルトの『レクイエム』は、彼が完成させた部分は多くはない。現在もっとも演奏されるのは弟子のジェスマイヤーが補完したものだ。番組のなかでも説明していたが、ジェスマイヤーは師がのりうつったかのように筆蹟までそっくりで、その作曲方法は、自らが新しく曲をつくって補うというのではなく、師の曲想をつなぎあわせたのだった。そして楽譜の余白に、「これはアマデウス・モーツァルトが作曲した」と書き込んだ。 そういう曲ではあるが、「ラクリモサ」の部分になると、私はいつも感きわまってしまう。「死」が私のそばにやってくるのだ。私の腕をつかもうとするのだ。「もう、さよならをするがいい」と。 私はTVを見ながら、嗚咽をこらえ、喉元が痛くなった。
Jul 13, 2006
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数日前のTVの天気予報によれば13日は熱帯夜になりそうだと言っていた。連日の蒸し暑さ。昼間の街は、まるで霧の出始めのように、水っぽい空気がただよっていた。外出から帰宅すると、何をするよりも早く水シャワーを浴びた。 ところで、いま、私の仕事場の椅子の周囲には「無気味」な黒髪が山となって散らばっている。髪がのびたのが急に鬱陶しくなって、机の上にあった工作用の鋏で、いきなりザクザクと切ってしまったのだ。ザンギリ頭。叩けば文明開化の音がするかもしれない。 (註;明治維新の頃の流行歌に、「ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」と。チョン髷を切って、いわゆる西洋風なヘア・スタイルになった。それを諷刺した俗謡です。) 私は年齢のわりには髪が豊かだ。ヘア・スタイルなど気にしたことがないせいか、ハゲてもこない。友人たちがすっかり薄くなって、なかにはツルツルのもいるけれど、私はカツラじゃないかと逆に疑われるほどなのだ。無遠慮に手をのばして私の髪をひっぱってみる奴もいる。そいつらに、この床の上の黒髪の山を御中元に贈ってやろうかしら。ヒッヒッヒ。 だけど、明日、このザンギリ頭を見たら、家人たちは驚くだろうな。「バッカじゃないの?」なんてね。ヒッヒッヒ。 花輪莞爾氏から「季刊現代文学」が届いた。氏の小説「沼のある風景」が掲載されている。これからそれを読むところだ。 目次にざっと眼をとおし、朝比奈誼氏の評論「ニューヨークの教訓」に注目。いわゆる9.11以後の世界情勢を、アメリカへのさまざまな対応を分析することで、ひとつの教訓を導きだそうとしている。ところで私が気になったのは、エピグラムとして小林秀雄の次のことばを引用していることだ。 「わが国の言論界、思想界は嘗て空疎なスローガンにおどらせられ、充分に味噌をつけたのである。それが今日のジャーナリズムを見ていると、又同じスローガンの遊戯が始まっているのである。そういうものと僕等は戦わねばならぬ。それが詩人の道でもあるとともに、実践的な思想家の道であると信じます。」 小林秀雄「歴史の魂」 こうして部分的に抜き出すと、まことに立派な態度で、さすがの知性人と誰もが思うにちがいない。小林秀雄の評価はすでに非常に高いところで確定しているとも言える。 だが、この人が大平洋戦争が開戦したとき、待ってましたとばかり小踊りして快哉を叫ぶ文章を発表していることを、どれだけの人が知っているだろう(後註)。実はその文章は、戦後、小林自身が秘匿してしまった。そのような文章を書き、日本が戦争への道を歩き出したことを嬉々として歌ったことを、この人は口を閉ざして語らず、戦後のあらゆる著作集の中から削除したのだ。現在、何回目かになる小林秀雄全集が刊行中であるが、はたしてこの文章が収録されているかどうか----。 そういう彼の思想の流れのなかに、先の文章を置くと、いささか意味の背景が違ってくるのではあるまいか。 エピグラムというものは、眉に唾して読まなければならないところがあるものなのだ。そんなことをちょいと思った次第。 (後註)昭和17年1月、雑誌『現地報告』所載の小林秀雄「三つの放送」
Jul 12, 2006
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私が体験したニューヨークでのカンディンスキーについては、ニューヨークという利便性・効率性を追求する街の建築空間におけるフランス美術の効用という問題がふくまれているかもしれない(彼はモスクワ生まれで、フランスに帰化したロシア系フランス人であるけれども)。 しかしこの問題はいまは措いておく。さしあたり私が述べておこうと思うのは、共感覚の問題としてのカンデインスキーの色彩と音の関係である。 じつは私はジョン・ハリソンの『共感覚』を読むまで、「共感覚:synaethesia」という概念を知らなかった。いや、正確に言うと、その実体というかそのような特異な能力をもった人が存在するということは知っていた。私の知識は超心理学(parapsychology)の方面から得たものだった。 横道にそれるが、私と超心理学の関係をすこし述べておく。 1999年に、私は1册の本を企画して出版にこぎつけた。湯浅泰雄著・訳『ユング超心理学書簡』(白亜書房刊)である。これは、スイスのユング研究所が監修したユング全集の中の書簡集に含まれる厖大な量の手紙のなかから、ユングが超心理学に関心をもっていたことを示す23通を選びだして翻訳したものである。日本では嘗てほとんど知られておらず、もちろん出版されたことはなかった。ユング研究所が許可しなかったからである。湯浅博士はその数年前に、その一部を雑誌に紹介していた。下訳は雑誌編集部がした。しかし、私が湯浅博士が所持していた原本をお借りして、翻訳と照らし合わせてみると、重大な誤訳をしていることを発見した。私はあらためて自分でその部分を翻訳し、さらに必要と思われる書簡を選びだし、刊行した本では湯浅訳となっているけれども、それも私が翻訳した。 このユング書簡が問題になるのは、当時、ユングはフロイトの精神分析学から袂を分かって自らの心理学を構築し、それがアカデミズムにおいて認められるためには科学的である必要があった。したがって、後に超心理学と称されることとなるいわゆる心霊現象や超能力についての関心をひた隠しにしていたのだ。 1934年11月、アメリカのノース・カロライナ州にあるデューク大学の心理学教授J・B・ラインから1册の著書がユングのもとへ送られてきた。『超感覚的知覚:Extra-Sensory Perception』(1934)である。そしてラインは同年11月14日付けのユング宛書簡で、この問題に関するユングの個人的観察と体験、特に、ユングが所持していた「破断されたナイフ」についてのレポートを求めた。そのナイフは、ある日、ユングの自宅のキッチンの引出しのなかで、大音響とともに四つに破断したパン切りナイフのことだった。ユングはそれを写真に撮ったのだが、秘密にしていたのである。ユングは、アメリカの大学でなら、自分の経験を非科学的と一蹴されることはないだろうと考え、ライン宛11月27日付け書簡で、初めてこの問題に関する意見を披瀝した。 詳しくは同書を読んでいただくとして、私はユング研究所からこの23通の書簡の翻訳出版の許可を取得し、さらにデューク大学ライン超心理学研究所に連絡を取り、同研究所図書館記録保管所が所有するユング自身が撮影した「破断されたナイフ」写真の使用許可を得ることに成功。湯浅博士に新しい論文を執筆していただき、合わせて1本としたのだった。 そんなわけで、超心理学関係の調査をしているときに、いまの私なら「共感覚」と言うであろうレポートにめぐりあっていたのである。それは主にロシアからの報告であった。これに関しても、私は、ロシアに連絡を入れた。が、同国内は混乱していて、タライ回しにされたあげく、結局なんの得るところもなく終わってしまった。それはともかく、それらのレポートは、指先で色彩を感じたり文字を読む人が存在する、というのだった。 『共感覚』の著者ジョン・ハリソンは、感覚の混乱と言う。しかし、それは視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚と、五感を分離して考えるからであろう。もし、人間の総体として感覚を再検討してみたらどうなるだろう。そう、ホリスティックな視点から、感覚のあらたなパラダイムはかんがえられないだろうか(後註)。 残念ながらこの問題をこれ以上議論することは、私にはできない。画家として私が、「指先に色彩を感じる」と言ったなら、それは隠喩(メタファー)でしかない。私がニューヨークでカンディンスキーの絵を音楽として身体に鳴り響かせたとしても、それは決してメタファーではないのだが、しかし、「感覚」と言うことには疑問がある。一方で、幻聴や幻視が感覚と呼べるなら、私の体験は幻覚ではないけれど、その方面からのアプローチに近いところにあるかもしれない。 新実徳英氏の著書『風を聴く 音を聴く』のなかのエッセー「音の色彩について」は、現在もっとも優れた作品を創りつづけている作曲家の実感的な考察だけに、私の関心を惹かずにはおかない。こんな書き出しである。 「音は耳で聴き、光は眼でみる。が、どちらも波動であることに変わりはない。私たちが[音の色彩]とか[色彩の交響]というとき、互いが互いの世界をメタファーとしながらもじつは双方ともその現象の物理的性格を共有しているのはまことに興味深いことといわねばなるまい。」 新実氏は出発が理数系(工学)だから、「現象の物理的性格を共有」という言葉は「メタファー」という言葉以上に正確だ。しかし新実氏が「音の色彩」というとき、----氏はこうも書いている。「あらゆる音が色彩をもっている。それゆえ、染織や美術全般における色彩と等しく、音楽における色彩も本質的問題なのである。」----それは音色のことであって、カンディンスキーがフルートの音は淡い青色をしていると言うのとは違うかもしれない。 だが、新実氏の言う「音の色彩」は、じつはとてつもなく高度な哲学的な問題をはらんでいるのである。 「自分のまわりに、いわばア・プリオリ(無前提)に与えられているあらゆる音を、「異界=神界」にいちど返す。すると私は「音の闇」の住人となる。そうして無音の世界にじっと耳をすまし、そこからどんな音がやってこようとしているのか、あるいは自分がどんな音を取りもどしたいと欲しているのかを感じとろうとする。これは私の今の作曲姿勢であり、「音の闇」にどのような音=色彩=意味が立ち返ろうとしているのかをひたすら待つ、というやり方なのである。(略)一つひとつの音の色彩は生命体のそれであり、「神界」からもどってきた音たちは、たとえそれらが既知のものであっても、新しく生まれ変わった音であり色彩であり生命体であらねばならない。音楽はあくまでも人の営みであり、技術や方法論なしには一歩も進むことができないが、それを超えたところで、あるいはそれ以前の問題として、音=色彩=意味について考えてみなければならない。」 この新実氏の姿勢と考え方は、現代芸術のすべての方面を照射していると言ってもよいだろう。 共感覚は芸術作品の読解にあらたな視点を用意している。しかしその能力は先天的なものであるとしたら、昨日述べたように、その能力を持たざる者は如何ともしがたい。その感覚の存在を知ったからといって追体験することもできない。 実作者の私としては歯噛みして悔しがるか? 『共感覚』を読んで、また巽孝之氏の書評を読んで、あらためて私が思いだしたのが新実徳英氏の考え方だった。それは新しい感覚の錬磨について示唆しているのではあるまいかというわけである。 (後註)現代美術のいわゆるコンセプチュアル・アートの背景に読み取れるのは、五感に頼らない理解ということである。
Jul 11, 2006
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心理学者ジョン・ハリソン(John Harrison)著『共感覚----もっとも奇妙な知覚世界』についての巽孝之氏の書評が新聞に掲載されていたので、それにつられるように思いだしたことがある。昨夜書こうとして、トバクチで止めてしまった。 繰り返すが、共感覚(synaesthesia)というのは、ある一つの感覚刺激から同時に複数の感覚が生じる先天的な能力。眼耳鼻舌身(がんにびぜっしん)、つまり視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚のいわゆる五感が入り乱れることをいう。その共感覚がどのようにおこるかといえば、たとえば、ドレミファソラシドの「ド」の音が聞こえたとすると、それに色がついて「見え」、「匂い」がし、「味」が感じられてしまうのだ。本書でとりあげられているのは、詩人のボードレール、ランボー、作曲家スクリャービン、映画作家エイゼンシュテイン、画家カンディンスキー、物理学者ファインマン、小説家ナボコフ、俳人松尾芭蕉。これらの人達がみな共感覚の能力を実際にそなえていたかどうかは、必ずしも明確ではない。著者ジョン・ハリソンは、彼等が共感覚者なのか、それとも共感覚的な表現を隠喩として用いたのかを、きわめて慎重に考察している。 巽氏は書評のなかで、ナボコフの例をとりあげた。『ロリータ』の著者ナボコフはその共感覚を母親から遺伝的に受け継ぎ、彼は、英語の長母音のaは「乾燥した木の色合い」として感じ、しかしフランス語のaは「磨いた黒檀」に見えた。 この問題でアルチュール・ランボーといえば、私はその『第一詩集』に収められた詩、「母音:voyelles」をすぐに思い出す。1871年10月、すなわち彼が17歳、ヴェルレーヌと同棲を始めたころの作品。全編を中原中也の訳でみてみる。 母音 Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは赤、母音たち、 おまえたちの隠密な誕生をいつの日か私は語ろう。 A、眩ゆいような蠅たちの毛むくじゃらの黒い胸衣は むごたらしい悪臭の周囲を飛びまわる、暗い入江。 E、蒸気や天幕のはためき、誇りかに 槍の形をした氷塊、真白の諸王、繖形花顫動、 I、緋色の布、飛散った血、怒りやまた 熱烈な悔悛におけるみごとな笑い。 U、循環期、鮮緑の海の聖なる身慄い、 動物散在する牧養地の静けさ、錬金術が 学者の額に刻み付けた皺の静けさ。 O、至上な喇叭の異様にも突裂く叫び、 人の世と天使の世界を貫く沈黙、 ――その目紫の光を放つ、物の終末! (中原中也訳) 日本語に訳しては、耳からの音に重きをおくヨーロッパ語詩の「旨味」を削いでしまうが、ここは致し方ない。意味だけを味わい、なによりも共感覚という問題に即すなら、ナボコフのようにランボーも「Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは赤」と感じているか、見えているのだということになる。 これが表現上の隠喩(メタファー)ではなく、ランボーの感覚の実態だとしたら、私のみならずその共感覚をもたない者は、追体験すらできないのであるか? どうも一方的に聞かされているようで、気持がしっくりしない。 カンディンスキーは、若い頃は音楽家になりたいと思っていたらしい。彼の絵はしばしば音楽にたとえられる。彼にとっては色彩は音楽の音と同じだったという説さえある。カンディンスキー自身もそのような発言をしているのだ。たとえばこんなふうに言っている。「音楽的に言うならば、淡青色はフルートに似ている。また濃い青はチェロに似ている。それよりもっと深い青は、コントラバスのようだ。一般的に言えば、青はその深さと荘重さの点で、パイプオルガンの低音部の響きに似ている」 カンディンスキーの作品を鑑賞するときは、作品の題名にはとらわれないほうがよい。題名は作品が完成したあとで、その印象に対してほとんど便宜的に付けたものだ。彼は何か具体的な対象のメタモルフォーズ(変貌)を描いたというより、画面のなかでリズムをつくるように構成した。 私はカンディンスキーの作品の実物を何点か見ている。しかし、正直言ってあまり心を動かされることはなかった。ところが、もう10年以上昔のことになるが、突然、カンディンスキーを理解したと思ったことを経験した。ニューヨークでのこと。 ニューヨークという街は、地下の岩盤が堅いので、大理石の床などは特に足裏に堅く冷たい感覚がある。日本では感じない感覚なのだ。長い滞在で、そのような感覚が私の身体のなかに溜まっていた。ある白亜の広い部屋の壁に、数点のカンディンスキーが掛けられていた。それを見た途端に私の身体に音楽が鳴り響いた。真っ白い部屋の空間がパッと変わってしまった。「アッ!」と、私は思ったのだ。カンディンスキーは日本のような湿気の多いところ、足裏に土の柔らかさを常に感じることができる風土では「真価」がわからないのだ!、と。 私は踊りだしたいような軽快な気持で、実際、すこし爪先立ちになってリズミカルなステップを踏んでいた。ニューヨークの一画の冷たい空間がほのぼのとした温かさをただよわせ、しかしどこかピシッと引き締まっている。「たいしたものだなー!」と私は、空間変貌をもたらすカンディンスキー作品に感嘆したのだった。 このときの私のカンディンスキー体験は、カンディンスキーの表現上のメタファーとは関係あるまい。彼の好きな青から、私はフルートやコントラバスの音を聴いたわけではないが、しかし、彼の絵は私のなかで音楽を奏でた。 もうひとつ私自身が興味深く思っていることがある。私は視覚的記憶がかなり良いほうである。たとえば展覧会で100点くらいの作品を見たとする。数カ月、あるいは半年くらいなら、順番に思いだすことができる。が、ニューヨークで見たカンディンスキーの作品は、わずか数点だったのに、いったいどんな作品だったのかその片鱗さえも思い出せないのだ。なぜだろう? よくよく考えて、どうも音楽に変わってしまっているのではないかと思うのである。時間芸術である音楽が、演奏の進行とともに生まれ生まれて消えて消えて行ってしまう。カンディンスキーの絵もそのように私の記憶から消えて行ってしまったのではないか、と。 音と色彩との関係について思いめぐらすと、どうしても我が敬愛する知人の作曲家新実徳英氏の著書『風を聴く 音を聴く』のなかのエッセー「音の色彩について」を述べなくてはならない。しかし、それはまた明日にする。
Jul 10, 2006
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サッカーW杯決勝戦、ただいま5時44分に終了。激戦乱戦のすえ、イタリアがPK戦を制して優勝した。イタリアは、奇しくも70年前に同じこのベルリン・オリンピック・スタジアムで優勝している。 激しい戦いだった。 イタリアのキックオフで開始した戦いは、開始早々47秒でフランスのアンリが相手選手5番と接触、脳震盪を起して倒れ、試合は中断。3分16秒に再開。幸いその20秒後にアンリはピッチに戻ったが、これがその後の乱戦ぎみのこの決勝戦の予兆であった。たちまちザンブロッタのラフ・プレーにイエロー・カード。7分、フランスはPKを取り、ジダンがキック。ボールはクロス・バーに当る。落下してゴールラインを割り、先取点をあげた。 しかし、イタリアの攻撃はみごとで、19分、コーナーキックをゴール前のマテラッツィがヘッドで押し込んでイーヴンにする。 その後は両チームともに攻守堅く、それでもボール・ポジションはイタリアがやや多いか。前半37分台で、イタリア59に対してフランスは41。シュート数もイタリアが上回るのだが、ゴールには至らない。狙いが甘いのだ。ただ、イタリア・チームのタックルはすごい。 後半戦も硬直状態がつづく。36分、ジダン倒れて右腕打撲。一旦ピッチを離れるが、すぐに戻る。41分、イタリアはユモラネシを代えてデルピエロを投入。しかし1対1のまま90分を終了、延長戦にもつれこんだ。 延長戦の前半9分、フランスはリベリが絶好のシュート・チャンスを失敗。リベリはそのままピッチを去り、代ってトルゼックが入った。13分、フランスは再び右サイドからのクロス・ボールをジダンが受けてシュート。イタリアのゴールキーパー、ブフォンが突き上げてセーブ。 後半開始早々、フランスはアンリを下げてビルトルドを投入。5分、ジダン、背後につきまとうマテラッツィに業を煮やしたか、突然うしろを振向き、相手の胸に頭突きを喰らわせ倒した。レッド・カードの一発退場命令。誰も予想だにしなかったこと。イタリア・チームのブフォンが頬を寄せて慰める。ジダンは泣きながらスタジアムを去った。(後記;新聞には、マテラッツィがジダンに何かを言ったと書いてある。) こうして延長戦も決着がつかないまま終了。ついにPK戦となった。 PK戦。 一回目、両者成功。2回目、フランス、トルゲゼが失敗。3回目、両者成功。4回目、両者成功。 さあ、最終回、固唾を飲むなかで、先行のイタリアはデルピエロが登場。蹴る! Oh! 成功だ! 結局、2回目のフランスの失敗がこの戦いに決着をつけた。イタリア優勝。1982年の大会以来4度目のゴールデン・トロフィーを手中にした。 それにしても総ての戦いを振り返ると、わが日本、決勝Tへの進出の道は遠いゾー。これからまた4年間、どのように準備してゆくことやら。オシム氏が監督に就任したが、世界に通用する若手が揃うのか。いつも思うのだが、日本チームは個人々々を含めてチームとして、終わった戦いについての分析が不足しているように思えるのだが、サカーファンの皆さん、如何であろう。昔ながらの日本人の悪い癖、----その場しのぎの精神が、若い人達に遺伝してしまっているような。そんな日本精神ならクソ食らえ、早く脱却して、国際精神をスポーツ文化の基盤として確立してほしいものだ。「日本らしさ」という言葉を、もっと建設的に使いましょうよ。
Jul 10, 2006
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7月9日付け朝日新聞の読書欄に、イギリスの心理学者ジョン・ハリソン著『共感覚』(新曜社刊)についての書評が出ていた。共感覚(synaesthesia)というのは、ある一つの感覚刺激から同時に複数の感覚が生じる先天的な能力。眼耳鼻舌身(がんにびぜっしん)、つまり視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚のいわゆる五感が入り乱れることをいう。その共感覚がどのようにおこるかといえば、たとえば、ドレミファソラシドの「ド」の音が聞こえたとすると、それに色がついて「見え」、「匂い」がし、「味」が感じられてしまうのだ。本書でとりあげられているのは、詩人のボードレール、ランボー、作曲家スクリャービン、映画作家エイゼンシュテイン、画家カンディンスキー、物理学者ファインマン、小説家ナボコフ、俳人松尾芭蕉。これらの人達がみな共感覚の能力を実際にそなえていたかどうかは、必ずしも明確ではない。著者ジョン・ハリソンは、彼等が共感覚者なのか、それとも共感覚的な表現を隠喩として用いたのかを、きわめて慎重に考察している。 この本については、関心のあるかたはお読みいただくとして、じつは私がお話ししたかったのは、敬愛する知人の作曲家新実徳英氏の著書『風を聴く 音を聴く』に、16頁にわたって「音の色彩について」ということが述べられている、そのことを思い出したのだ。また、フランス19世紀末の自然主義の小説家ジョリ=カルル・ユイスマンスの『さかしま』の主人公デ・ゼッサントが、パリから程遠くない地に築いた人工世界を思い出した。そこにあるピアノのキーはひとつひとつが違った種類の酒瓶と連結していて、たとえばベートーベンの『月光の曲』のカクテルができるというわけだ。 が、話のトバクチで申し訳ないが、それについて述べるのは明日にする。これから3時間後、明けて10日の午前3時にサッカーW杯の決勝戦が始まる。フランス対イタリア。ジダンの引退試合でもある。これを、私、みますからね。----その前にちょっとかたづけておかなければならないことがありますので、ごめんなさい。
Jul 9, 2006
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遊卵画廊の常連である良次さんが自作を送ってくださった。「お客様の投稿作品展示室」に掲載しましたので、どうぞご覧ください。 彼は私とは親子ほども年が離れている。彼の作品はデジタル作品もあるけれど、主たるものは和紙を自ら染色して後、絵を描いている。レトロチックなものに関心があるようで、描く対象もそのようにデフォルメしている。そのデフォーァメイションに対する感覚にオリジナリティがある。また一見奔放なような描線も、感覚的ではあるのだが、よく訓練されていて躊躇(ためらい)がない。作品そのものも、簡略的でデザイン的なのだが、よく見ると繊細な処理をしている。なによりも良次さんという人の素直さがそのまま抒情的に表出されているのが良い。 今後は、大作に取り組んでほしいと、私は楽しみにしている。大作というのは深さを指しているけれど、画面が大きいということも指している。画面が大きくなると、それまで小さい画面処理に用いていた技(わざ)が、小手先のものと感じることが無いわけではない。絵柄のほかに、空間を維持する「厚み」が必要になってくるのだ。それはいうならば、観客のドリルのような視線に対処できる「厚み」である。
Jul 8, 2006
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作家の折原一氏がメールで私の旧作についての情報をくださった。どんな情報かは公表できないけれど、私のサイン無しの作品の存在についてである。それは確かに私の作品にまちがいなかった。私の特徴を示す描法ではないが、30年くらい前のペンとコラージュによる小さな作品である。 この作品と、他に関連性のある10数点に、私はサインをいれていない。この事情については、あまり愉快ではない思い出がある。当時の関係者はすでに亡くなっているのだが、折原氏が寄せてくださった情報によると、故人の遺族があるらしい。無署名の旧作はその方が所持しているのだという。 なぜ作品にサインをいれなかったかについては、故人も遺族も知りはしないだろう。それは当時、私ひとりの胸にたたみこんでしまった、ある思いなのだから。 30年間、私の記憶からも消えていた作品----と言うのも、それら無署名の作品については、私の記録にも詳細はないのだから----が、ふいに目覚めて、小声をあげたのだ。所持者は、その作品と私の名前を明確に結び付けている。もちろん、直接尋ねられれば、私も否定はしない。 私はいま、いささか複雑な感慨で、その旧作のおかれた状況について静観している。
Jul 7, 2006
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仕事場の電話が鳴った。 出ると、某出版社の者だという若い女性の声。 この出版社とは過去に関係はないが、名前は知っている。どうやら私の作品が掲載されている画集を見て電話をかけてきたらしい。 彼女はのっけから、ある作品の絵柄について説明しはじめた。それはたしかに私の2003年の作品に間違いない。 「そうです、私の作品ですね」 「すばらしいですねー」 彼女はひとしきり讃辞を述べ、それから私の活動の様子を質問したり、海外での展覧会歴や、国内での発表の予定などを聞いてきた。そして、原画を見たいというのだった。 面会をもとめる人は少なくはないのだが、私の絵が好きだから会いたいという求めにはいちいち応じられない。彼女の場合も、出版社として取材したいというのなら考えないでもないけれど、どうもそういう訳でもないらしい。話を聞いていても、社用の電話なのか、出版社を名のったものの個人的な電話なのか、もひとつピンとこないのだ。 15分も話していただろうか。質問には一応の返答はするものの、いいかげん煩わしくなってきた。 すると、「先生とお話できて嬉しかったです。ありがとうございました」と、彼女は言った。 「はいはい、わざわざお電話をありがとうございました」私も言った。 「失礼いたします」 私は電話はきった。 ????? いったい、何だったのじゃ? 彼女、本当に某社の人なのかしら。----私は途端に蒸し暑さを感じて、窓をおもいっきり開け放ったのだった。
Jul 6, 2006
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W杯準決勝、ポルトガル対フランス戦、ただいま終了。6日午前5時51分。 前半33分に、ポルトガルのカルバルホ選手のゴール前でのファールで、フランスPKを取り、ジダンが左サイドぎりぎりのところへ蹴り込み1点を先取。ポルトガルはボール保持率もシュート数も上回っていた。先取点を与えて後、攻撃につぐ攻撃。フランスは後半39分にアンリをピッチから下げてしまうが、それでも良く守りきった。0対1で、フランス勝利。念願の決勝進出をきめた。 ジダンはこのW杯を最後に引退すると伝えられている。はたして決勝戦、イタリアとどう戦うか。いよいよ最終試合だ。
Jul 6, 2006
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ほんとうによく降る雨だ。昨日は九州・四国方面の豪雨が伝えられていたが、今日は愛知や和歌山方面が激しく降っているもよう。そちらにお住まいの皆さん、被害はございませんでしょうか。くれぐれもご注意ください。 我家は高台にあるので、多雨による災害はさほど心配することはない。ただし強風がまじると、ちょうど私の仕事場の窓はさえぎる物がないために、下方から吹き上げてくる風雨がまともに窓をたたくことになる。いつぞや、猫のマリが雨に濡れた屋根で跳躍ができず、大の字になって滑り落ちていった話をした。それが、この仕事場の窓下の屋根なのだ。マリのために車の床に敷くゴムマットを屋根に取り付けてやろうかとも考えるのだが、突風のことを思うと、ゴムマットなど引きちぎられてしまうだろう。近隣の家にそんな物が飛んでいっては大変なので、マリには可哀想だが、依然としてつるつる滑る屋根のままだ。 夕刊新聞の天気予報を見ると、東京は来週の火曜日までずらりと傘マークがならんでいる。 大事な用件もないので外出をせず、ここ数日、家のなかに籠っている。制作時間がたっぷりできて良さそうなものだが、こちらもここ数日、ストップしている。描きかけの作品を眺めてばかりいるのだ。ずいぶん長い間かかりきりになっているけれど、なかなか完成しない。 最近の私の作品は、さまざまな技法が複雑にからみあっている。部分々々で異なる下準備をし、組み立て、最終部分で融合させ、作品としての一体性をもたせようというもの。技法はそれ自体が表現なので、奇を衒ってそのような多様な技法を用いているわけではない。考えに考えた末に、そのような方法にたどりついたのだ。 私の絵は決して抒情的な絵ではない。私はむしろ意識的にそれを拒否してきた。抒情性が一種のムードであり、ムードがある曖昧さを許容するものだとしたら、私の作品はそうしたことから遠いところにある。たとえば、人が幻想的と指摘することを、じつは、私はきわめて明瞭に見ていることなのだ。「幻想」は、私にとって「朧げ」なものでは全然ない。 私の80年代の作品群のなかに静物画がある。いわゆる写実画である。しかし、私のそれらの絵は、もしかすると普通の意味での写実的静物画とはちがうかもしれない。いわば「倒錯的」な静物画かもしれない。というのは、私は写実画の技法を用いて、まったく存在しない物や空間を描いたのだから。「実」を「写した」のではない。それは、技法上のことで、私は目の前に存在しない物を描いたのだ。あるいは、どこにも存在しない空間を、在るように見せかけたのだ。こうしてできた「静物画」を、ほんとうは何と呼べばよいのだろう。 しかし、近年、私は物としての絵に何かを語らせたくなってきている。私の精神を物質化して見せたいのだ。もちろんいかなるメチエ(技法)も、すべて精神の物質化なのだが、それを制作過程で一度意識的に際立たせ、それからもう一度波を静めるように、美として鎮めたいと思っているのだ。 まあ、こんなことは独り作者の思いにすぎないのだけれど、仕事場に籠って筆も持たずに、ぼんやり未完成の作品をながめている。
Jul 5, 2006
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イヤー、たった今、終了。サッカーW杯、準決勝、ドイツ対イタリア戦。 試合は0対0で延長戦にもつれこみ、後半、残り2分のところでイタリアがついに1点を獲得。さらに終了間際、ふたたびイタリアのデル・ピエロが押し込み追加点をあげる。2対0で、イタリアが決勝進出をきめた。 両チームともに攻守すばらしい善戦。ドイツ敗れて、バラック選手のこみあげるてくるものを押さえる顔が印象的だった。
Jul 5, 2006
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中田英寿氏がサッカー選手を引退するという。私は彼の存在をとても興味深く感じてきたので、引退声明を読んで私なりに考えることもあるが、今日のところはそれを書くつもりはない。ただ、野球のイチロー氏が、自らの技術や感覚を繊細な言葉で適確につたえることができ、しかも、その言葉がほとんど詩的な美しさにまで昇華しているのと比較すると、中田氏の場合は、自らの肉体的感覚や高度な技術を伝えることばに乏しいかもしれない。「中田語録」と世間が称するものはある。その言葉は、彼のある種の苦悩を伝えて感動を与えはするのだが、そこからサッカーというスポーツが彼の何を育み、如何なる世界認識をもたらしたのかは、あまり伝わってこない。それらを中田英寿という個人の内奥(ないおう)に溜込んでしまい、表現しようという意志がないのかもしれない。スポーツマンとは言葉ではない、肉体存在そのものが表現なのだ、と考えているのかもしれない。このように言うと、中田氏はインターネットを媒体として、5カ国語によって毎日メッセージを世界に発信している事実を見過ごしているのではないか、と反論されそうだ。少なくとも日本のスポーツ選手としては、そのような活動の先駆者である。しかもその5カ国語のメッセージに対して、一日40万のアクセスがあるという。「中田語録」が社会現象としてマスコミにあげつらわれるのも当然なのだ。しかし、----そう、しかしだ。中田英寿という稀有な天分をもつ人だけが知る、あるいは知り得た、サッカーの真髄については語っているだろうか。サッカーよりいでて、世界内存在としての人間の真相にせまる、中田英寿の確信を。----私はそのような中田語録を待っているのだ。 さて、今夜というか明朝というか、5日午前4時に、サッカーW杯の準決勝ドイツ対イタリア戦がキックオフする。開催国の強みか、ドイツが勢いついている。守備堅個で定評のあるイタリア・チームを崩すことができるかどうか。イタリアは、準々決勝戦でウクライナに快勝している。私はどちらのチームが勝ってもいいし、等分の応援をしているけれど、おもしろい試合になりそうだ。これから4時間半、どのようにして待とうか。弟からワインが届いているが、ワインを飲んでは、眠気もやってくるにきまっている。アア、ドナイショー!
Jul 4, 2006
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庭の蔓薔薇が2度目の開花をはじめた。薔薇は枝先にしか花をつけないので、花期がおわると花柄を摘み、枝先を剪定しておかなければならない。どのような樹形にするかは、この剪定でおおよその形が決まる。 先日、多チャンネルTVのあるところで、1960年代初期の大映作品『薔薇大名』を放映していた。見たことがない映画だった。主演は小林勝彦。この俳優は、おそらく、当時大映が売り出そうとしていた人なのだろう。おやっ、と思ったのは市川雷蔵がワンカットだけ顔を出していた。とりたててどうのこうのと言うシーンではない。会社の方針で、小林勝彦の売り出しに花をそえる役目を仰せつかったのだろう。いかにもスターでございというような、声高な芝居をしてひっこんだ。雷蔵にしては感じが良く無い。しかし、たいしたものだと思うのは、写真うつりが主演者を上回っていた。 いや、そんなことを言おうとしたのではない。『薔薇大名』というのだから、薔薇が登場するにちがいない、いったいどんな薔薇だろう、と思ったのだ。 棚倉藩の若君の右腕に薔薇の花に似たアザがあるという、ただそれだけのこと。瓜二つの見世物の軽業師がいて、小林の二役、そちらにはアザがない。 この薔薇の花に似たアザだが、現代園芸種のようだった。いわゆるイングリッシュ・ローズ。江戸から奥州棚倉への旅の道すがら、町人に身をやつした若君、路傍の花を一輪摘み取る優雅さを見せるのだけれど、それもまぎれもないイングリッシュ・ローズ。 このイングリッシュ・ローズは、いつ頃日本に渡来したのだろう。私が愛用している1138頁もある牧野富太郎博士の『新日本植物圖鑑』に、和名「せいようばら」(学名:Rosa hybride Hort.)とあるのが、西洋輸入種のそもそもの品種なのであろう。 映画のなかの品種は、改良に改良をかさねた結果の現代園芸種だったから、もはや何をかいわんや。 もちろん古(いにしえ)の中国からも数多くのバラ科植物が渡来している。「こうしんばら(庚申ばら)」もその一つで、中国では「月季花」と呼ばれるらしい。 日本のバラ科の植物といえば桜や梅や桃、苺、山吹、枇杷、梨、林檎、木瓜(ぼけ)等々。そしておもしろいことに、バラ科植物には地方名がついているものが多い。富士イバラ、浪速イバラ、樺太イバラ、立山金梅、千島金梅、島原苺、蝦夷苺、八丈草苺、千島苺等々。 「シモツケ」というのがある。いわゆる「下野」である。6月頃に淡紅色の小さな花が群がって咲く。卵形をした5弁のはなびらが、梅のはなびらのように美しい形をしているが、たくさんの白い雄蘂(おしべ)がその花弁よりずっと長く出ていて、そのため群がった花はふんわり羽毛をかぶったように見える。「シモツケ」という名は、下野の国(栃木県)で最初に発見されたことによると言う。その後、同種がつぎつぎに発見され、みなシモツケということばを含む名称がつけられる。なかに「アイズシモツケ」というのがあって、これは福島県会津地方で発見された品種だ。漢字で書けば、「会津下野」である。会津地方の山の中で育った私には、ひときわ懐かしく、嬉しい名前のバラ科植物。 海岸の砂地に自生する「ハマナス」もバラ科。しかし「ハマナシ」というのが正しい。「茄子」ではなく、「梨」の意。牧野博士によると、東北地方の訛りなのだそうだ。「シ」が「ス」と発音された結果だと。おもスろい、はなスだなス。 それにしても、日本の代表的な果物が、みなバラの仲間であることがおもしろい。そうそう、我家の白桃も、いま、青い実をたくさんつけている。直径3cmほどだが、年々実の数がふえている。
Jul 4, 2006
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東京は蒸し暑い日がつづく。エアコンディショナーの除湿のスイッチを入れ、湿度40%に設定している。雨が降ったり止んだりしているので、窓を開け放っておくことができない。午後、ザーッとひと降りしたと思ったら、4時頃には晴れ上がって、仕事場の窓から青空が見えた。光をたっぷり含んださまざまな形の雲が美しく、しばらく見とれていた。 この空の青は、エメラルド・グリーンにコバルト・ブルーを加え、チタニウム・ホワイトで加減したものを、ジンクイエローの下地の上に塗ってみたらどうだろう。 エメラルド・グリーンは、美しい色だが、混用には注意が必要。熱にも弱く、黒変する。また湿気に対しても不安定。単独で樹脂油を媒剤にすると、最も美しい効果を発揮する。上層彩色に使用すべきだが、それでもその下色は樹脂油を塗布して絶縁膜を作っておく方が良い。 ついでながら、このエメラルド・グリーンの製造法が発明されたのは1800年のこと。油絵具は、18世紀から19世紀にかけて、人工的な彩料の開発が盛んになる。 プラッシャン・ブルー、コバルト・グリーン、ジンク・ホワイトが18世紀。そして化学の世界で1797年にクローム元素(Cr)が発見され、その12年後にクローム・イエローが発明された。この色をさっそく使用したのがゴッホである。しかし、この彩料が化学的にどのような性質をもっているかという研究の蓄積がゴッホにはなかった。ゴッホの彩色技術は完璧なものであったが、唯一、このクローム・イエローを使用した部分に、現在、災害が見出せるのである。 19世紀半ばまでには、先述のエメラルド・グリーンのほかに、コバルト・ブルー、カドミウム・イエロー、ウルトラマリンなどが次々に発明された。ウルトラマリンは高価なラピスラズリの代用品として開発されたのだった。 ところで、私はほとほと感心してしまうのだが、このような新しい彩料の開発に、当時のフランス政府が賞金を出していたということを御存知であろうか。化学的合成法で、1kgあたり300フラン以下のコストで生産できるものに対して、6,000フランの賞金を与えた。もちろん公募であった。 このように、化学によって油絵具を発明し製造することが盛んになると、画家達も油彩画の科学に無関心ではいられなかった。外光をもとめて、それまではほとんどアトリエ内部で制作されていた「風景画」を、印象派の画家達は野外にキャンヴァスを立てて制作するようになった。しかし、彼等は目でとらえた現場の光を唯夢中になってキャンヴァスに乗せていっていたのではない。彼等の目は繊細に色に感応し、それを確固とした科学的技法(メチエ)で実証しようと努力していた。彼等はその点、夢想家ではなかった。画家として実際家だった。古典技法の研鑽、----つまり先人から蓄積されてきた彩料に関する知識をきっちり身につけ、応用したのであった。表現とはメチエに帰結するのである。 私はなにをするでもなく、しばらくぶりに見る青空をあかず眺めていた。やがて午後6時を過ぎた頃、空は茜色に染まった。住宅街の甍や遠く白亜のビルディングが金色に輝いた。20分後。水に溶けてゆく染料のように、茜色は次第にうすれ、そしてついに薄墨色におおわれてしまった。アルミサッシの稜線を金色の残光がまたたくように走り抜け、暗い天に昇って行った。
Jul 2, 2006
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この造形には精神性を感じる、あの造形には精神性はみじんもないなどと、私たちはしばしば口にするし、耳にもする。このとき、「精神性」とはいったいどのようなことを指しているのだろう。私は以前から気になっていた。その「精神性」とは、ほんとうに普遍的なものなのだろうか、と。私の疑問は、ことに造形美術をさまざまな角度から観察したときに、ふと心に芽生えるのである。 もっとも分かりやすい例を示してみよう。 タイ国やインド、ネパールやスリランカ、あるいは中国や韓国に行ったことがなくとも、これらの仏教寺院に祀られている仏像のイメージは必ずやどこかで目にしているであろう。タイやスリランカのような敬虔な仏教国の仏像が、私たちが親しんでいる日本の仏像のイメージと如何に異なるかを、いささかの違和感をもって見たことがあるにちがいない。それら黄金に輝き、極彩色で荘厳された仏像を。 そのとき、私たちは内心に、「なんとケバケバしい。なんと俗っぽい」と呟かなかったであろうか。そして敬虔な気持になるどころか、ひとかけらの精神性も感じなかったかもしれない。 けれども、冷静になって考えてみると、かの国のひとびとが信仰し、帰依してきた仏像が、かの人々にとってケバケバしく俗っぽいものであるはずがない。長い長い年月、国をあげてバカ気たイメージを祀りあげてきたはずがない。そこには確固とした精神的な造形があるはずだ。なければおかしい。 さて、そうなると私たちが「精神性」が在るとか無いとか言っていることは、きわめて限定的な文化圏における意識だと言えるかもしれない。いや、そんなことは実は誰でも気が付いていることなのだ。が、イメージという具体的なものを前にすると知性があやふやになる。そもそも「イメージ」とは唯物的唯心論の産物なのだ。 私は、芸術家が「精神性を追求する」と言うのを、あまり信用していない。 いまだ明瞭な言葉にはなってこないのだが、今日の日記は、造形の精神性について考察するための私のひとつのメモである。
Jul 1, 2006
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