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Dec 31, 2006
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きのうは半日、御節料理をつくっていた。まだ全部はできあがっていないので、31日の今日もつづきをやっている。御節料理をつくるのは私の役目。昔ながらの我家の料理をすべて手作りする。頑固に店売りの出来合いのものは一切ない。このブログを書きながら、黒豆を煮含めている。つぎは膾をつくり、最後に、今晩、弟一家もやってくるので、年越し家族パーティの準備をする。 さて、そんなこんなの多忙のなか、私の作品を2点収録した『現代の絵画』Vol.12が刊行された。文字どおり今年最後の刊行本である。来年も頑張らなくてはと、気力をあらたにしている次第。 山田維史(やまだただみ)の遊卵画廊をお訪ねくださったお客様、1年間の御愛顧、ほんとうにありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎え下さい。----------------------------------------------『現代の絵画』Vol.12 朝日アーティスト出版A4判ハードカバー上製本 223ページ 定価6,500円(税込)【お問合せ先】朝日アーティスト出版〒164-0013 東京都中野区弥生町5-23-7-407電話03(5328)6527 ?03(5328)6528
Dec 31, 2006
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今日の午後は、正月迎えの準備。玄関アプローチを掃き浄め、門扉を洗い、門松を立てて注連を飾る。鏡餅を供え、立花供養をする。立花は老母の役目。池坊流。真宗東本願寺派の立花供養がかたちを変え、ごく簡略化して、細々と我家のしきたりのなかにつづいている。病床のそばにテーブルを置き、半身起きあがって、松・千両・菊などを流儀にしたがって活けてゆく。 各家々にはそれぞれの正月迎えのしきたりがあるだろう。我家の場合、まず準備はすくなくとも28日までにすませなければならない。29日は不可。30日も一夜飾りとなるので不可という次第。 しかしそのような種々のしきたりも、次第にやらなくなったものが多い。第一、神棚を排してしまった。私が子供の頃は、神棚をめぐる諸準備は父がやっていた。しかし、私はなるべく宗教色を家中から排除してしまいたかったので、仏式で死者を供養することだけにした。本心を言えば、私自身はそれさえも形式としては無用だ。ひとそれぞれの心の内に思いを秘めればよい。まあ、いまそれを主張すると、家庭内に波風がたつ。感情の嵐は一層御免だ。 家の行事を何やかにやと排してきたが、とはいえ、季節季節を楽しむこころはあるのである。桃の節句や菖蒲の節句。旬の食材をつかっての料理。そういうことはたしかに生活にほどよいリズムをつくり、精神もまた風通しよくなるものだ。私の生活というのは結局、絵画を創作することにほかならないので、創造力が涸れないようにするための、ほとんど無意識的ともいえる「配慮」なのだ。だから、じつのところ、家族には大いに迷惑な「配慮」なのである。
Dec 28, 2006
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モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart;1756-91)は、その35年の生涯におよそ800曲を作曲した。現在『モーツァルト全集』といわれている楽譜集成は、127巻、研究・解説が含んでいるものの全11,234ページという厖大なものである。 研究家ならいざ知らず、モーツァルト演奏を得意とする演奏家でも、この11,234ページをすべて繙いたひとは滅多にはいないかもしれない。じつはザルツブルグ国際モーツアルテウム財団が生誕250年を記念して、この11日からインターネットでこの全集を無料公開している。個人使用に限ってなら、プリントすることも可能だ。なんとも懐の深いサーヴィスで、文化的な成熟を思い知る。 私は多忙にもかかわらず、時間を割いては、好きな曲の楽譜をながめたり、プリントしたりして楽しんでいる。プリント・アウトした楽譜をみながら手持ちの音盤を聞こうと思っているのだ。ピアノ・ソナタについてはレコードで全曲所持している。この楽譜はすべてプリントして2册の本に仕立てた。厚さ4cmにもなった。 ほかに『レクイエム』のモーツアルトによる断片集も製本した。断片とはいっても厚さ7mmはある。 1798年に書かれた三大交響曲、『第39番変ホ長調』(K543)、『第40番ト短調』(K550)、『第41番ハ長調』(K551)、そして文字どおり最後の『鎮魂ミサ曲(レクイエム)』(K626)はもちろんだが、私の好きな曲を少しあげてみよう。 ピアノ協奏曲『第20番ニ短調』(K466)、同『第23番イ長調』(K488)、『第27番変ロ長調』(K595)。 『クラリネット協奏曲』(K622)。『弦楽五重奏曲ト短調』(K516)。 ヴァイオリン・ソナタ『ト長調』(K301)、同『ホ短調』(K304)、同『ヘ長調』(K376)。 『弦楽三重奏のためのディヴェルティメント変ホ長調』(K563)。 楽理がわかるわけでもないが、優れた曲というのは楽譜がヴィジュアル的にとても美しい、というのが私の感慨である。たとえば『レクイエム』の‘Recordare’にしろ‘Confutatis’や‘Lacrimosa’にしろ、ヴォーカル部分はじつに単純と言ってもよいような音列である。しかしそれが演奏されると、なんと清らかで高貴な美しさなのだろう。私は‘Lacrimosa(涙ながらに)’のパートにいたると、いつもしらずしらずに自分の目に涙がにじむのである。 モーツァルテウム財団がいつまでこのサーヴィスをするのか分らないが、11,234ページのあっちを見こっちを見して、「神の愛でしひと(アマデウスのラテン語の意味;後注)」の所業を繙いている私である。 私が製本したピアノ・ソナタ集【注】Amadeusは、ラテン語に由来する男子名。ドイツ語に分解すると、ama( Liebe;愛人)+ deus(Gott;神)となる。 ミロス・フォアマン監督の映画『アマデウス』のタイトルは、したがって単にモーツァルトの実名を示しているのではなく、サリエリのモーツァルトに対する羨望の視点が同時に示されているわけだ。なかなか秀逸なタイトルということになる。
Dec 27, 2006
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終日降りつづいていた雨は、午後11時過ぎに大雨警報が出た。雷もとどろいている。東京の多摩地方は1時間に30ミリになるだろうという予想だ。関東に洪水注意報が出たエリアもあるようだ。テレビでは「爆裂低気圧」と言っていた。 この雨のために、諸事の予定を中止した。窓ガラス拭きや門扉の汚れ落し等々。 猫のフクがひとりで窓をあけて外に出ていった。間もなく急いで帰ってきて、大声で鳴いて、濡れた躯を拭いてくれという。躯をあずけて喉を鳴らしているのだ。一般に猫は水が嫌いと言われるが、雨のなかで少し遊んでみたいと思う、フクのような猫もいる。子猫などは水道につないだホースからちょろちょろ流れる水を、何か小動物の動きに似ているのか、おそるおそる手をのばしてはあわてて引っ込めるような遊びをする。夏にシャンプーをしてやるのだが、その時はギャーギャーと鳴いて大騒ぎをするけれど、おわってしまうとケロリとして、イジメられているとは思っていないようだ。そういえば数年前、テレビ・コマーシャルで風呂に入っている猫の映像があった。たしか実際に風呂好きな猫だと聞いたおぼえがある。 午前0時55分、ただいま地鳴りがするほどの雷があった。近くに落雷したのかもしれない。 俳句の季語に「冬の雨」がある。私が好きな高浜虚子の句につぎの一句。 降り出でてはや風添ひぬ冬の雨 虚子 今夜の雨は一層、おどろおどろしい。
Dec 26, 2006
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どうも夜中に手紙を投函しに、ちょいと外出することが多い。ただいまも一通出してきた。クリスマスの25日から26日に移って、雨が降りはじめていた。数時間前のこと、病床の母が、「雨?」と聞くので、私は、「いや、エア・コンデショナーの音だよ」と応えたのだが、あれはやはり雨だったのかもしれない。「いやねー、耳がおかしくなってしまった」と母は小声で笑っていた。 24日に墓参をした。良い天気の日曜日、車の混雑を心配したのだが、思いのほかすいていて、一度も立往生せずにすんだ。昨年、墓石の左右に鉢植えの花を置いた。普段の墓の掃除は年間を通じて管理を頼んであるのだが、いつも花をきらさずに供えることもできないので、鉢を置いたのだ。私の合理精神のなせるわざ。言ってみれば一種の「ものぐさ」である。しかし、その鉢植えの花が、鉢底の穴から根をのばして土中にしっかりと張っていた。寒中だというのに、桃色の花が2輪、おおきくほころんでいる。盛りには10輪くらい咲いていたようで、種をおとした枯れた咢がいくつもあった。それは左右ふたつの鉢のうち右側だけで、左の鉢には植物の影も形もない。ふたつの鉢に目立った条件のちがいはないと思うのだが、結果はかようにはっきりしていた。 「ほら、こんな元気に花がさいている」と私はいい、水を注ぎ、周囲の雑草を取った。こんど来るときは別の鉢を持ってこようと思いながら。 その帰り、私だけひとり別行動をとった。読んでおきたい学術書があるので、それを探すためである。6年前の刊行なので、注文しなければならないだろうと思った。が、なんと棚にあった。A5判2段組、500ページもある高価な本である。来年の制作のために少し勉強しておこうという次第。 私は楽観的というか脳天気というか、こんなふうにサッと資料があらわれると、幸先良しとして未来がパッと開けるような気になってしまうのである。 上機嫌のまま、洋菓子店に寄って土産のケーキを買った。
Dec 25, 2006
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年賀状を書き終わり、投函した。ブログで知り合い、その後、私的なやりとりがつづいて私の住所録への記載をお許しくださった方々にも、どうやら元旦の御挨拶ができそうだ。まだ1週間残っているが、みなさま1年間の楽しいおつきあいありがとうございました。 さて、多忙のスケジュールはまだまだつづき、明日午前中は墓参にゆく。朝のうちに出かける予定なので、供物等はすでに準備しおえた。 準備するといえば、15年ほど前、新墓を建てた。そのとき父母は元気で存命だったが、僧侶の伯父にたのんで二人の戒名をつけてもらい、墓石に刻んだ。いわゆる寿墓である。わたしたち子供の名も刻んだ。そして伯父の読経をカセット・テープに録音してもらった。 数年後に伯父が亡くなった。そして、昨年、父が亡くなった。すべて生前に準備をととのえていたので、葬儀は淡々といとなんだ。すでに戒名がついていたので、親戚にはおどろかれた。大変立派な諡(おくりな)が伯父によっておくられたことを知ると、ずいぶん羨ましがられた。 こういう準備は、物事にくよくよと拘泥する人には向かないかもしれない。しかし、私は未来志向で、精神も風とおしよくしておきたいので、人生のしめくくりもサラリと準備しておきたいと思っている。
Dec 23, 2006
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近所に買い物に出かけ、帰宅すると郵便受けに「元旦にもらってうれしい年賀状 出来るだけ12月25日までにお出しください」と、郵便局からのカードがあった。 ごく若い頃、私は手紙を書くのが好きだったけれど、年賀状だけはどういう心境だったのか差し上げなかった。ところがフリーランスのイラストレーターとして仕事をするようになって、それまで思ってもみなかった沢山の方々から年賀状を頂戴するようになった。それらを拝見すると、どうも不精をきめこむわけにはゆかなかった。私の年末の行事がそのときから始まった。 年齢を重ねてある程度までくると、「今年を限りに年賀状をやめることにしました」と言う人がいる。その真意は知らないけれど、あるいはそれも人生のひとつのまとめかたかもしれないと思う。長年の誼(よしみ)をゆるゆるやわやわと消してゆくのは、それはそれで奥ゆかしくも感じる。 しかし、私の場合は、むしろ途中参加選手のようなものなので、「老いてますます盛んなり」とゆこうと云うのが、内心の決意である。といっても、始めたころのように手描きにするにはあまりにも数が多すぎて、失礼ながらその年の作品を絵葉書にして、文面も印刷ということでお許し願っている。 郵便局からのカードを手にひらひらさせながら玄関をあけると、台の上にまさに出来上ったばかりの絵葉書1,000枚が印刷所から届いていた。どうやら元旦に御挨拶ができそうだ。
Dec 21, 2006
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さきほどまでボクシング・ライトフライ級世界チャンピオン防衛戦をテレビ観戦していた。チャンピオン亀田興毅に対する挑戦者はベネズェラのファン・ランダエタ。 今年8月に亀田がチャンピオン・タイトルを獲得した試合は今日の対戦者ランダエタであった。私はそれもテレビ観戦しており、どうも納得ゆかない判定だと思ったものだ。世評の多勢も私同様であったらしく、それだけに、今日の初防衛戦が注目されていた。 結果から言うと、3対0で防衛成功であった。最終ラウンドで、亀田が相手に頭を押し付ける試合振りに対してレフリーが減点を宣告したが、亀田は品格には欠けるものの、全試合を通して落着いた戦い振り。といっても挑戦者にあまり覇気が感じられなかったのは私だけだったろうか。元チャンピオンの鬼塚氏は、解説者として、「大人の試合を見せてもらった」と言っていた。そうかもしれないが、一観客としての私にはさしたる面白味のない試合だった。これがチャンピオン・タイトルを争う試合か?と、うとうとと眠気をおぼえながら見ていたのである。 何にも知らないで言うのも語弊を招くもとだが、挑戦者というのはどのような立場にある者が、どのように試合を認められるのであろう。ファン・ランダエタの気魄が感じられない様子を見ていると、逆に、こんなのとグラブを交えてチャンピオン防衛して亀田興毅よ、いいのか?と素人の私は思ってしまう。いや、並の試合ではない。世界の頂点にある者の命がけの戦いだ。そのくらいは、いくら私でも想像がつく。 しかし、興行としての試合という観点からは、私のような事情知らずの観客にも言い分はあるのである。 話は飛躍するが、映画表現にとってボクシングはどうやら恰好な素材であるらしいのは、映画史を眺めると納得する。喜劇から、れっきとしたスポーツ映画まで作品が並んでいる。ロバート・デ・ニーロが凄まじい体型の変化を見せる『レイジング・ブル』は忘れられないし、もちろんシルベスタ・スタローンを一躍大スターにのしあげた『ロッキー』シリーズもある。日本映画にも赤木圭一郎主演の日活作品『打倒(ノック・ダウン)』があるし、プログラム・ピクチャーながら他にも数本ある。 ところでこのようなボクシング映画を見て感じるのは、チンピラのぶん殴りではない、スポーツとして十分成熟した気品があるものだということだ。少なくとも亀田クンのような、子供っぽい挑発的パフォーマンスは見たことがない。数年前までは「浪速のロッキー」氏も同じような、あまり感心しないパフォーマンスをリング上でやっていた。 スポーツの高度な技能者というのは、おそらくその技能を獲得する過程が人格の陶冶と重なるのだ、と私は見ている。亀田クンは若いからとは思うのだが、それだけに彼をとりまく者たちは、彼の人格の成熟に手をかしてやってほしいものだ。なんだか、いまの取り巻きたちは、父親をふくめて、彼の下品なパフォーマンスを食い物にしているように見える。世界チャンピオンともなれば、もはや世界が注目する人間であり、チンピラではすまない。 私のこの苦言は、ボクシングを美しいスポーツと考えるからである。
Dec 20, 2006
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日本語の乱れが指摘されて久しく、国語審議会なるものが設けられて敬語や丁寧語について、なにやらいささかトンチンカンな審議をしている。まあ、言葉の問題に政府機関がのりだすのもどうかと思うので、それについて今ここで述べるつもりはない。 ただ、先日NHKに出演していた言葉の研究をしているという触れ込みの方が、ご自身で奇怪な言葉づかいをしていたので、オヤオヤこれはもはや病膏肓(やまいこうこう)に入るだなと思った。 その人は、「そういう言葉は耳ザワリが良くないです」と言ったのである。 耳ザワリが良くない、という言い方はそもそも日本語の使い方にはない。「耳ザワリ」を漢字に書き改めると、「耳障り」なのである。この研究家氏は、おそらく「耳触り」だと思っているのであろう。 この誤用は、この人ばかりではなく、近頃の若者言葉として、また若者からなぜか影響されていい年をした方々まで口にしている。 「耳障り」とは、耳に聞きづらいということだ。耳に対する感触のことではない。同様な言葉に、「目障り」「気障り」がある。「障り」という独立した言葉が基本になっている。 一方で、「肌触り」とか「指触り」ということばがある。こちらは、感触を表わす「触り」が基本にある。 発音すると同じ「サワリ」なのだが、その意味するところはまったく異なる。 なぜ、このようにまったくことなる意味合いの言葉が、こうも平然と誤用されるようになったのだろう。 思うに、本を読まなくなったこと、視覚で補強された知識ではなく、耳から入った言葉を貧しい自己解釈で使用するからではあるまいか。あるいは、うがった見方をすれば、音楽でも日常会話でも、サラサラと聞き流すために、音はただ耳に「触れる」ものとしてしか捕えていないのかもしれない。聞きづらい、自己存在に強く迫ってきてある意味で対決をしなければならない他者の発する音を、無意識に聞き流し、自分の都合のよい音だけを「耳触り」のよい音として聞いているのかもしれない。 しかし、こういう誤用は、コミュニケーションの破綻につながることは必定だ。誤用容認論者というのが、言語研究者のなかにもいて、その論拠はおおむね一致している。いわく「言葉は生き物で、時代とともに変ってゆくものだ」。たしかに、言葉は時代とともに変ってきた。平安時代の言葉のみならず、わずか昭和時代の言葉でも使用しなくなった言い回しや言葉はある。とくに、日本は一種の言葉狩りをしてきた国である。そのような短兵急な狩り込みでもしなければ、特に福祉をめぐっては弱者をみくびり、見殺しにして何の「気障り」も感じない国民が多い。弱者救済を言おうものなら逆ねじをくわせるような行政をする国だ。美輪明宏氏ではないが、民度が低いといわれても仕方がないようなことを、文化として保持してきた。それが事実だから、しかも文化として根強くあるのだから、言葉狩りでもするしかないということになる。 だが、言葉狩りというのは限度がない所業である。じつに貧しい所業なのである。また言語というのは、たんにコミュニティー財産ではない。かぎりなく広く、かつ深いところで使用されている、むしろ人類的な財産なのである。いいかえれば、日本語はたんに今生きている日本人を自称する者たちの言語ではない、と私は考えるのだ。 そう考えたうえで、あらためて言葉の誤用からくる意志疎通(コミュニケーション)の危険性について指摘しなければならない。 いま私は「意志疎通」と言ったが、この言葉のなかに「障り」の問題がふくまれている。つまり、「疎通」とは「障り」なく意志が通いあうことを意味するからである。 最近の言葉の誤用は、部分的にはマスコミュニケーションにおいて必ずしも地方性を指摘できなくなったことも一因としてあげられよう。たとえば〈お笑い芸〉のなかから拡がったのではないかとみられる、「めちゃくちゃ」という言葉の使い方。「めちゃくちゃ」は「滅茶苦茶」であり、『広辞苑』に拠れば、「ひどくわけのわからぬさま。度はずれて全く話にならないこと。さんざんなさま。めちゃめちゃ」とある。つまり、事象にたいする否定的な見解の表現なのである。 これがどのように使われているかと言うと、「めちゃ楽しい」とか「滅茶苦茶おもしろい」とか「滅茶苦茶おいしい」とか、本来の否定的見解はまったく姿を消して、全肯定的に使用されているのである。意味合いが完全に転倒してしまっている。これでは本来の使い方をしている人とはまともなコミュニケーションは成立しないだろう。 お笑い芸から出た言い方、とくに関西芸人から出たと思われる言葉に、「笑かす」というのがある。芸によって客を賑やかすということを意味している。「笑わせる」というのが正しい使い方なのだが、私見によれば、これにさらに「沸せる」「沸かす」が混合したのではないだろうか。「沸せる」という言葉は、昔から芝居小屋や寄席では使われていた。先に述べたように、客を賑わせることを指す。 これらの言葉はいわゆる上方方言としてあったのかもしれない。私は関西に住んだことがないので、明言はできないが、上方芸人がごく普通に使っているのをテレビで耳にする。上方お笑い芸の隆盛に押されて、関東以北出身の芸人もいっしょになって「めっちゃ楽しい」とか「笑かせる」などと言っているのには苦笑させられるが、ことほどさように、最近はあまり方言が意識されなくなっている。それはそれで良いことだと私は思っているのだけれど、気になるのは誤用である。私にはとても「耳障り」なのである。 私が好きな、明石家さんまさん、松っチャン浜チャン、「笑かす」と「めちゃくちゃ」誤用の〈ゲンキョウ;元兇〉は、あなたがたのような気がするんだけどもなー。
Dec 19, 2006
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もう18日の午前2時になろうとする時刻なのだが、近くのポストに手紙を投函しに行ってきた。明けると予定がつまっているので、今のうちにと思ってのこと。 私は暑がりというか寒さに強いというか、仕事場にはまだ暖房もいれていない。それでもさすがに戸外の夜気はしんしんと冷えきっていた。星が輝いているので、玄関の扉を閉めるのをふと止めて、一呼吸の間だけ空をあおいだ。 あまり人工的に体温を上げ下げしないせいか、本来の体温調節機能がうまくはたらいているのかもしれない、と思っている。人工的に体温を調節するとホルモン・バランスがくずれて、本来の生物的な機能がはたらくなると聞いた。たしかに冷えきった寝床に入ると、一時は身震するけれど、すぐに身体のうちがわからほんのりと発熱しはじめる。三浦哲郎の小説『忍ぶ川』に、東北地方の真冬に素裸で床入りする場面がある。結婚初夜ということばかりではなく、雪深いその地方のそれは一般的習慣だというのである。昔読んだ小説だから、うろおぼえだが、確かそんな説明がされていた。 小説ではその場面は、セクシャルとエロティシズムを眼目としているのだが、味気ないことをいえば、生物学的な体温調整機能が発動する理にかなった習慣なのである。 戸外は急に風がでてきたようだ。2階の仕事場の雨戸をゆすりながら、ヒューヒューと風が渡ってゆく。 冬の烈風が庭の竹垣などに吹き付けて、笛のような音を発することを、虎落笛(もがりぶえ)という。いままさに我家の周囲に虎落笛が鳴りひびく。 その音を聞きながら幼い子供たちが眠りにおちてゆく姿を、俳人高浜虚子はランプのほのあかりに見やったのだろう。なんの飾りもない歌である。こんな夜、人はみな素直になるのかもしれない。 虎落笛眠りに落ちる子供かな 虚子
Dec 17, 2006
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国会図書館を別にすれば、公立図書館では最大の蔵書量を誇るのは、東京都中央図書館である。この図書館は大変利用しやすく、また、職員が熱心に相談にのってくれるので、私はよく利用する。南麻布4丁目の有栖川宮記念公園内の高台の静かな環境にある。 この図書館に行くため、私は地下鉄広尾駅で降りて公園内を通る。公園の門前の道路際に「南部坂」という標識が立っている。そしてさらに、この南部坂は忠臣蔵でおなじみの南部坂ではない、という意味の注意書が出ている。 14日の日記で忠臣蔵に触れた。ついでなので横関英一著『江戸の坂 東京の坂』に拠りながら、「南部坂」について記しておこう。 有栖川宮記念公園前の標識には、忠臣蔵の浅野家下屋敷があったのは赤坂の南部坂であると示している。きっと忠臣蔵関係の史蹟めぐりの人が、まちがって訪ねてくるのであろう。 江戸にはふたつの南部坂があった。いずれも奥州盛岡の南部藩の江戸屋敷があったため、坂にその名称がつけられた。では浅野家下屋敷があった赤坂のほうの坂は、なぜ南部坂といわれたのだろう。 調べてみると次のことがわかった。 その昔、麻布の坂にあったのは実は浅野屋敷、赤坂のほうにあったのが南部屋敷であった。ところが忠臣蔵の事件がおこる46年前の明暦2年に、浅野家と南部家とが互の屋敷をそっくり入れ替えるよう幕府から命令されたのである。坂の名称は南部家の名前だけが残った。 赤坂の南部坂というのは、昭和40年代までは赤坂福吉町および麻布今井町と呼ばれていたその境の坂である。私はいままで「浅野家下屋敷」と述べてきた。横関英一氏によれば、浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)の実兄浅野式部少輔長照の下屋敷であるとしているが、ただしくは三次藩主・浅野土佐守長澄の屋敷である。現在の氷川神社の境内の前寄りにあった。 吉良上野介に対して刃傷におよんだ内匠頭長矩が即日切腹を命じられ、また現在の中央区明石町の聖路加病院前の中央保健所のあたりにあった浅野家上屋敷も即日明け渡しを命じられた。道具商人たちが押しかけたという。 内室あぐりは落飾して名を搖泉院とあらため、浅野家下屋敷に引取られた。それが南部坂の浅野土佐守長澄の下屋敷である。三次・浅野家は搖泉院の里なのだった。この屋敷における搖泉院と大石内蔵助との最後の対面が、映画や歌舞伎あるいは講談などでおなじみの「南部坂雪の別れ」である。 ところで、『広辞苑』の「赤穂義士」の項には、赤穂四十七士全員の名前が正しく載せられている。随分特別な扱いでびっくりする。 その一番最後に「寺坂吉右衛門」の名がある。この人物は、義士吉田忠左衛門の足軽で、討ち入り後に幕府に届けられた書面にはたしかに記述されているのだが、討ち入りのときにはその場にいなかったといわれる。実際、討ち入り後に吉良邸引揚げの列のなかには姿がなかった。50日後の2月4日に切腹を命じられたときにも人員に含まれてはいない。 大石内蔵助はそのことについて手紙を残していて、討ち入り決行の14日の晩には確かにいたが、吉良邸では姿をみかけなかった、何分軽い身分の者だから、と述べている。高輪泉岳寺の義士の墓所にも墓はない。忠臣蔵の謎のひとつとされている。 しかし、寺坂吉右衛門は事件後もただひとり長く生きつづけたのである。 討ち入り後に、主人吉田忠左衛門の娘婿の伊藤という人のもとに身を寄せた。それから諸方を転々とし、その間に何をしていたかは不明だが、後に伊藤家が曹渓寺の住職に頼んで、その口利きで旗本山内主膳の従者となった。討ち入りから45年後に83歳で死亡した。その墓が曹渓寺にある。現在の南麻布2丁目9番地、イラン大使館に比較的近いところである。 この寺坂失踪の謎にはさまざまな憶測があるけれど、私の憶測は、大石内蔵助が事件の「語り部」として生き残るように命じたのではないかということ。大石内蔵助良雄は深慮遠謀の人であったと思われる。事件の類がおよばぬようにあらかじめ妻子を離縁しているが、末子(男)がやはり生き残り、後に大石の家名を再興しているのである。 忠臣蔵事件は、芝居や講談よりも史実のほうが私にはずっと面白い。
Dec 16, 2006
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きょう12月14日は赤穂浪士の吉良上野介邸討ち入りがあった日。ここ数日、ケーブル・テレビでいわゆる「忠臣蔵」映画の数々を放映している。なかなか優れた企画で、こんなふうなコレクションは滅多に見られない。で、私もテレビの前に陣取って楽しんでいる。 あつめられた作品は、1938年に京都・東京日活が制作したマキノ正博他監督の『忠臣蔵 天の巻・地の巻』、1941年および1942年の溝口健二監督『元禄忠臣蔵』前編・後編。1958年、大映制作の渡部邦男監督『忠臣蔵』、そして明日、1962年東宝制作の稲垣浩監督『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』が予定されている。 興味深いのは戦時中に制作された溝口健二作品の存在である。戦時中は思想統制が厳しく布かれ、歌舞伎や新派、その他の商業演劇、特にプロレタリア演劇の影響があった新劇は激しい弾圧を受けた。演劇のみならず映画もまた国策にそうべく強制された。内容はすべて国威発揚、武士道鼓吹、軍国精神の謳歌に限られた。 「忠臣蔵」はその意図にそうものとして認可された。たとえば歌舞伎を例にとると、近松心中物、いわゆる世話物は上演禁止。しかし武家社会を描いた『仮名手本忠臣蔵』は許可された。戦争へ突入寸前の1941年9月に大名題市村羽左衛門の一座が地方をまわった番組には、この『仮名手本忠臣蔵』が入っている。 溝口作品もタイトルの前に国威顕揚の文言が入っている。しかし、私が「なるほど」と思ったのは、忠臣蔵といえば討ち入りの場面は欠かせないはずという予想をみごとに裏切って、チャンチャンバラバラや切腹場面がまったくない映画なのである。シナリオの下案は真山青果の新歌舞伎『元禄忠臣蔵』であろうが、普通その上演や翻案の映画では冗長として削除されるエピソードに注目し、非常にうまく処理している。忠義という武士道に殉じることが男女の愛を理不尽に蹂躙する、というふうに。これは見方によって、武士道の美しさを描いているともいえるし、一方で、その醜さを描いているとも言える。見る人それぞれの心のままにというわけである。 赤穂浪士の討ち入り事件とその周辺の史料というのは意外に多く残っているようだ。箱根の関所跡にある小さな博物館には、浅野家が取り潰しになり、脇坂淡路守が赤穂城の明け渡しを見届けるために赤穂に向った関所通過の記録簿が展示されている。 もちろん東京都内にはその多くの史蹟がある。浅野内匠頭(たくみのかみ)の江戸城松の廊下刃傷事件は、彼が勅使御馳走役(接待役)を勤めたことに端を発する。勅使は伝奏屋敷を宿舎にするならいで、その宿泊期間中に接待役は伝奏屋敷に移って、高家の指揮をうけながら勅使のすべての世話をすることになっていた。 伝奏屋敷があった場所は、現在の東京駅近く、丸の内1丁目の興銀本店のところである。 元禄14年(1701)3月10日勅使は品川に到着し、浅野家家臣冨森助右衛門と高田郡兵衛がお迎えした。その日、高家筆頭吉良上野介は伝奏屋敷の準備がととのっているかどうかを点検にきた。そして「粗末である」と叱責した。 翌11日、内匠頭は高家とともに品川に勅使を迎えに行った。このとき内匠頭は身体が不調で、藩医の診察を受けた。 そして14日の刃傷となる。 史料がたくさん残っているにもかかわらず、この刃傷事件の動機については現在もなお不明であるといってよさそうだ。 諸説があるけれど、主な説はつぎの三つである。(1) 吉良への付け届けが十分でなかったので、事につけて嫌がらせをされ、接待役としての指導が受けられなかったことに対する遺恨。つまりイジメを受けていたわけだ。多くの映画・演劇はこの説を採用している。 しかし、この説が説得力に欠けるのは、じつは浅野内匠頭が勅使接待役をつとめるのはこのときが2度目。あえて指導をあおぐ必要もなかったのだ。(2) 内匠頭は虚弱体質で、片頭痛の持病があった。11日にも気分がすぐれなかったが、14日も天候が曇りで、そのため頭痛がし、発作的に刃傷に及んだという説。(3) 赤穂藩は塩が重要産業で、その利益で藩政を維持していた。一方で、吉良上野介の領地は三河であるが、三河にも塩田があった。しかし三河の塩が販売競争で赤穂の塩に敗れ、常々その対立があったという説。 いずれにしろ謎のまま、その後の四十七名の家臣による仇討だけが、305年後のこんにちも語りつがれているわけである。 ところで、私は高校を卒業するときまで会津若松市に住んでいたことは、このブログでしばしば書いてきた。会津藩が、微妙なところで、・・・あるいはとても重要というべきか・・・「忠臣蔵」と関わりがあることを御存知だろうか。 吉良上野介義央(よしなか)が刃傷事件後、幕府からの御とがめもなかったが、9月になって呉服橋の屋敷から本所へ屋敷替えになった。この屋敷は現在の両国駅の近く、両国小学校のあたりにあった。ここに移ったとはいうものの、仇討ちがあることが不安で、翌年暮には米沢(現・山形県)の上杉家に身を寄せることにした。上杉家の当主、綱憲(つなのり)は吉良家から養子にはいった人物だった。 上杉家というのは謙信公の血筋をひく名家である。しかし子供には恵まれない家系で、じつは討ち入り事件のときにはすでに死亡していたのだが、綱憲の先代にあたる綱勝は吉良上野介義央の長男で、上杉家に嫡子がなかったために養子として迎えられていたのだった。ところが1664年にこの綱勝が急逝してしまう。正室は子を産まずにすでに死亡しており、継室にも子がなかった。つまり家名を継ぐべき子はなく、それに手を打つ遺言もないままの突然の死だったのである。幕府の定めた法令によれば、上杉家は断絶をまぬかれなかった。それは沢山な家臣団と領民が路頭に迷うこと意味していた。 当時、由井正雪による陰謀事件があり、大量の浪人が流出することは幕府にとって頭の痛い問題であった。時の将軍家綱は、上杉家の処断について会津藩主・保科正之に一任した。 保科正之は前将軍家光の異母弟であった。頭脳明晰で将軍家第一を旨とする恭順な姿勢のため、家光に重用され、また家光はその死に際して家綱の補佐を託したのである。 保科正之のとった方法はおどろくべきものである。上杉綱勝に遺言があったということにしたのだ。そして保科正之は、綱勝の甥にあたる吉良三郎を上杉の養子とし、三郎あらため上杉綱憲として養子縁組を幕府に届けてやった。しかし示しをつけるため、遺言があったにもかかわらず幕府への届けが遅延したとして、30万石から15万石へ減封した。上杉家は断絶をまぬがれた。 『忠臣蔵』のなかで、しきりに「上杉15万石」ということが言われるのは、そのような歴史的事実によっている。稲垣浩監督作品のように、綱憲を息子と言い、また上杉30万石と言っている作品もあるが、それは誤りである。 米沢上杉家は会津保科正之に対する恩義を末代まで忘れなかった。204年後、幕末の戊辰戦争のときに、会津藩が賊軍の汚名をかぶって官軍の討伐にあっていたとき、米沢藩が陰から会津藩を支援していたのは、その昔の恩義に報いようという意志だった。 さて、こうして間接的ながら吉良家と縁があった会津藩だけども、一方で、赤穂藩ともいささかの関係がある。 討ち入りの映画でお馴染みだと思うが、本所吉良邸門前に集結した四十七士は大石内蔵助の打鳴らす陣太鼓とともに邸内に乱入する。その陣太鼓、山鹿流という。軍学者・山鹿素行(やまがそこう)のおしえに基づくものである。 その山鹿素行は、会津若松の人である。生誕地は藩校日新館の隣で、現在は碑がたっている。私は日新館の跡地に住んでいたので、その碑は少年時代の思い出とともにある。 じつは、会津藩では山鹿流軍学は行なわれなかった。会津藩が採用したのは信州松本の長沼宗敬(そうけい)によって始められた長沼流であった。山鹿流は会津からは遠い赤穂藩が採用するところとなっていたのである。 敵味方、共に会津との関わりがあるのをおもしろく思いながら、私はテレビで「忠臣蔵」映画を見ていたのである。元禄15年12月14日、江戸は雪が降っていた。今日、東京は雨である。
Dec 14, 2006
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ことし購入した古書を片付けながら、ずらずらと並べて書いてみたが、まだ15册洩れていた。どうせならそれ等も記録しておこうと思う。73) 今村昌平『今村昌平のええじゃないかエッセイ』株式会社アシーネ74) ビートたけし『仁義なき映画論』太田出版75) 岡本嗣郎『歌舞伎を救った男』集英社76) 戸板康二『ぜいたく列伝』文藝春秋77) 水上勉『精進百撰』岩波書店78) 竹田真砂子『三千世界の烏を殺し』祥伝社79) 佐江衆一『自鳴琴からくり人形:江戸職人綺譚』新潮社80) 中村亮平『朝鮮慶州の美術』改造社出版81) ポール・ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』岩波文庫82) 辰野隆選『リイルアダン短篇集 上』岩波文庫83) メーリケ『旅の日のモーツァルト』岩波文庫84) ポール・ゴーガン『ノア・ノア』岩波文庫85) 高津春繁・斎藤忍随『ギリシア・ローマ古典文学案内』岩波文庫別冊486) 武田祐吉編『神楽歌・催馬樂』岩波文庫87) トレルチ『ルネサンスと宗教改革』岩波文庫 以上。まずまずの読書量か。 眺めると、小説に関するかぎりいわゆる純文学がまったくふくまれていない。時代小説ばかりだ。これは若いころとは完全に反転した傾向である。20代のころは、『群像』や『文学界』や『新潮』、あるいは『文藝』という文学誌を毎月購読し、そのうえで新刊書を読んでいたものだ。たまに時代小説がまざることはあっても、せいぜい五味康祐の硬質な切って捨てるような文体の作品、また国枝史郎の伝奇時代小説のようなものだった。 仕事関連以外で小説を読むことがほとんどなくなったのだ。純文学といわれているものが、まず時間をかけて読むに足ると思えなくなった。自分の人生のほうがずっと重く感じるようになり、小説の主題が、どうでもいいつまらないことに頭悪気に拘泥していると、捨て置けるほどのものと思うようになったのである。 かわって面白味を感じるようになったのが、それまで一顧だにしなかった大衆時代小説である。そこには純文学が忘れ去った物語のおもしろさがあった。たしかに一読してしまうと、ほとんど忘れてしまうほどなのだが、小説のなかで人物たちが動き回る、そのイメージの喚起力がじつにおもしろい。 そして、これは作家の資質もあるのだけれど、資料や史料をよく読みこなしていることがよくわかる。それらに示された事実に制約されながら、作家の想像力がはばたきだす、そこが面白い。 近頃では、いままでまったく知らなかった作家をみつけるのを楽しんでいるのである。
Dec 13, 2006
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折につけて古書の購入について書いてきた。ここで言う古書とは、ただしくは比較的安価な古・新刊書のことである。そんな本があっちに数冊、こっちに数冊と山になったので、年の暮の大掃除の手始めにひとまとめに片付けることにした。これらの本に新刊書を加えると、私が今年読んだ本のすべてとなる。 ことのついでと思いながら、古書のほうだけでも列記してみることにした。1) 金平聖之助『世界のペーパーバック』出版同人2) 長澤規矩也『古書のはなし ― 書誌学入門』冨山房3) 岩男淳一郎『絶版文庫発掘ノート』青弓社4) 外山軍治『中国の書と人』創元社5) 阿部昭『短編小説礼讃』岩波新書6) 瀬島龍三『瀬島龍三回想録 幾山河』産経新聞社7) 勝田龍夫『重臣たちの昭和史』(上下)文藝春秋8) 寺崎英成『昭和天皇独白録』文藝春秋9) 呉平城『海軍軍医日記』問題と研究出版株式会社10) 社会評論社編集部編『右翼テロ』社会評論社11) 海野弘『陰謀と幻想の大アジア』平凡社12) 川喜田敦子『ドイツの歴史教育』白水社13) 笈川博一『イスラエルの国と人』時事通信社14) 桜井啓子『現代イラン ― 神の国の変貌』岩波新書15) 岡倉徹志『サウジアラビア現代史』文春新書16) 飯塚勝久・水野建雄『ヨーロッパ精神史』北樹出版17) ファビオ・ランベッリ『イタリア的考え方』ちくま新書18) 佐藤唯行『アメリカのユダヤ人迫害史』集英社新書19) 饗庭孝男・朝比奈誼・加藤民男・窪田般彌『フランス ― 絵画と文学の心』20) 小池滋『ロンドン』中公新書21) 見市雅俊『ロンドン=炎が生んだ世界都市』講談社選書メチエ22) 出口保夫『ロンドン塔 ― 光と影の九百年』中公新書23) マルガン&デイヴィン『イギリス文学史:増補版』八潮出版社24) 林望『林望のイギリス観察辞典』平凡社25) ハワード・ファーガソン『独奏的生活』研究社出版26) 中尾真理『英国式庭園;自然は直線を好まない』講談社選書メチエ27) 池波正太郎『田園の微風』講談社28) 伊藤俊治『愛の衣装』筑摩書房29) 高階秀爾『世紀末の美神たち』集英社30) 木村重信『民族美術の源流を求めて』NTT出版31) 多木浩二『ヌード写真』岩波新書32) 阿木翁助『演劇の青春』早川書房33) 堂本正樹『喝食抄』ぺりかん社34) 最相葉月『絶対音感』小学館35) 中村紘子『チャイコフスキー・コンクール;ピアニストが聴く現代』36) 小宮山利三『佐久に伝わる歌の風土記』株式会社櫟37) 嶋岡晨『坂本龍馬の生涯』新人物往来社38) 嶋岡晨『夢にんげん坂本龍馬』新人物往来社39) 八尋舜右『坂本龍馬;物語と史蹟をたずねて』成美堂出版40) 阿井景子『龍馬のもう一人の妻』毎日新聞社41) 阿井景子『龍馬と八人の女性』42) 星亮一編『戊辰戦争』教育書籍43) 中村彰彦『保科正之;徳川将軍家を支えた会津藩主』中公新書44) デボラ・キャドバリー『メス化する自然』集英社45) ブライアン・サイキック『イヴの七人の娘たち』ソニー・マガジンズ46) ブライアン・サイキック『アダムの呪い』ソニー・マガジンズ47) クララ・ピント=コレイア『イヴの卵』白楊社48) 山本茂実『高山祭;この絢爛たる飛騨哀史』朝日新聞社49) 三杉隆敏『世界・染付の旅』新潮選書50) 諸江辰男『香りの風物誌』東洋経済新報社51) 阿川弘之『食味風々録』新潮社52) 村井弦斎『食道楽』新人物往来社53) 川本三郎『私の東京町歩き』筑摩書房54) 倉橋由美子『大人のための残酷童話』新潮社55) 松本清張『信玄戦旗』角川書店56) 阿井景子『築山殿無残』平凡社57) 川田弥一郎『江戸の検屍官 闇女』講談社58) 伊藤桂一『伊藤桂一時代小説自選集』(1,2,3巻)光人社59) 永井路子『この世をば』(上下)新潮社60) 高橋哲雄『ミステリーの社会学』中公新書61) 中山治『無節操な日本人』ちくま新書62) 田中琢・佐原真『考古学の散歩道』岩波新書63) F・H・カー『歴史とは何か』岩波新書64) 渡瀬信之『マヌ法典;ヒンドゥー教世界の原型』中公新書65) Ian McLellan Hunter & John Digton『ROMAN HOLIDAY』cine-script book66) 藤井省三『中国映画を読む本』朝日新聞社67) 長沢節『美少年映画セミナー』角川書店68) 越智道雄『アメリカ映画の暗号を読み解く』アルク新書69) 宍戸錠『シシド』70) 戸田奈津子『スクリーンの向こう側』共同通信社71) 神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』中公新書72) 広地利明『絵地図の世界像』岩波新書 以上、72点全76册。これに新刊書や贈呈された本が加わって私のことしの読書ということになる。月平均して7,8册というところか。 さて来年はどんな本を読んでゆこうか。
Dec 12, 2006
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例年のように、市の郵便局から年賀状の配達基地として我家を使わせてほしいと言ってきた。「どうぞ、お使いください」と応えて、やってきた局の責任者が毎年のこととて顔見知り、「お元気ですか」などと3,4分の立ち話。 スーパーマーケットに行くと、もう正月飾りの鏡餅が積まれていた。いくらなんでも早すぎるのではないかと思うのは、客のほうで、店側としては客の気をはやらせるのも年末商戦の術(て)かもしれない。 いよいよ年末へとなだれの如く突進するの感。 年の瀬や急流のごとく逸りけり 維史 家の外回りも放ったらかしなので、今週末にでも手入れをしなければなるまい。あすこをやり、ここをやりと、思いめぐらせると次々に仕事がうかんでくる。忙しい忙しい。 ともかくもあなたまかせの年の暮 小林一茶 アッハッハ、一茶さん、あんたはえらい!
Dec 11, 2006
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拙作を収載する今年2册目の集合画集『現代の絵画』Vol.12が、年末29日に刊行になる。 日本画、洋画・版画、抽象・コンテンポラリーと、三つの部門に分かれ、現在活躍する明治生まれの大森運夫・大山忠作・片岡球子の各氏から昭和世代の画家まで、200名の新作を掲載。 A4判ハードカバー上製本 定価6,500円(税込)【お問合せ】 朝日アーティスト出版[現代の絵画]係 〒164-0013 東京都中野区弥生町5-23-7-407 電話03(5328)6527
Dec 11, 2006
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最近ひんぱんに目にし、また耳にするマスコミ用語に「天の声」というのがある。ある権力者もしくは権威と目されている人物が、その所属する組織を使って絶対的な命令をくだすことを指すらしい。しかもこの命令たるや、概して良からぬ内容をふくんでいると言ってよさそうだ。 私はこの言葉が耳目にはいるたびに、その使い方の軽薄さに胸くそが悪くなる。 「天の声」って、誰にとってなのだ? その良からぬ命令を唯々諾々として従う人間たちや、組織にとってだろう? 近頃の県知事たちによる卑しい行いについて言うならば、主体的存在である県民にとっては、「天の声」でもなんでもありはしない。 つまり、知事たちの私利私欲のために、組織があげて従っているわけだ。そのような私利私欲につながる命令を発することが、知事の命令権を逸脱しているにもかかわらず、組織に自浄システムが確立していないということだ。知事をはじめ行政組織の各ポストというのは、「機関」に過ぎない。別な言い方をすると、主権民が健全な生活をおくるためのその民意を疎通させるための「窓口」でしかない。そのことをそのポストについいている人たちは断じて忘れるべきでなく、命令権の逸脱については告発すべきを当然としなければならない。 こんな単純な自浄システムが発動しないことをそっちのけにして、「天の声」もなにもありはしない。この言葉を気軽に使用しているマスコミだから、そんな言葉が主体的存在である県民や、国民そのものに無頓着なんだと私は思うのだが、いかがでしょうかね。「天の声」というなら、それは主権者の声でなければならない。そうでしょう? 同様なものに、たとえば「お上」という言葉がある。 「お上」って誰? 主権者をさしおいて、「お上」を僭称しているのは誰ですか? そんな者はいないのだから、実体のないものにそのような言葉を使うとはどういうことだ。 マスコミやジャーナリズムには、軽薄さも必要である。しかし社会心理を形成するうえで、日本の基盤が現在どのようなところに据えられているかは、胆に銘じておくべきだろう。 言葉を使う者が言葉に鈍感になっているのだろうか。それともあえてそのような言葉を使う陰険な意図があるのだろうか。戦時中の手足を拘束され、あまつさえ頭も切断されて、地獄へと突き進む大本営発表に対してまったくの無力であった我がマスコミのように。このことは、戦時体制においてマスコミやジャーナリズムがまったくの無力におちいいることの例証であり、したがってそれを食い止めるためには、平和時の政治体制に対する先鋭な監視が必要だということであろう。現在、NHKに対する政府命令放送の問題は、じつに危うい問題で、まさにマスコミやジャーナリズムの危機的情況であるはず。われわれもまた、聴取料という身銭を払って、自分たちを死地に追いやらないともかぎらないのだ。国営放送がそのような危険をはらんだシステムであることも、不断に認識すべきことだろう。 自由というのは脆いものだ。自由を謳歌しながら、その自由を破壊しようとする狂気の思想もまた、自由社会のなかにはある。マスコミはもし自由社会を堅持しようとするなら、浮ついた言葉をふりまいているべきではない。一語ですまなければ二語を使えばよい。二語ですまなければ三語,四語と使えばよい。言葉をケチるな。 日本のマスコミは、政治家の発言に対して食い付きがたりないように思える。政治家と言葉で互角にわたりあえないのではないかとさえ思える場面が多々ある。「どこの新聞社だ!」などと政治家に恫喝されて、すごすごと引き上げる場面も、かつて、テレビ映像がとらえている。怪しい政治家はたくさんいるのだから、少なくとも記者会見の場ではどんどんつっ突き、発言の真意を丸裸にする力量はもってほしいものだ。 日本の選挙事情には、どこか根本的におかしいところがあって、選挙民に立候補者の見識や人品がつたわらない。選んでしまってから、とんでもない人間だと気が付くことになる。そしてそのとんでもない人間が、日本の将来を決してゆく。選んでしまったからには、われわれの総意であるとわれわれは考えなければならないけれど、じつのところほんの一握りの人間の愚かな決定が、国家的意志となっている場合もなきにしもあらず。「天の声」として。「お上」の「お達し」として。 マスコミが鈍感に言葉をばらまくならば、われわれはそれを拒絶しなければなるまい。「天の声」という手軽さに頼らず、むしろ自浄システムの欠落・欠陥という本質を追求すべきであろう。
Dec 9, 2006
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家人達がみな外出し、私は散り敷いた寒椿の花弁を掃きあつめていた。それから郵便ポストを開けて、幾通かの郵便物を取出した。中に一通、喪中葉書があった。ことしはすでに5人の方々から同様の知らせを受け取っている。悼ましいことと思いつつ、差出人を見ておどろいた。亡くなったのが友人だったからだ。 そのひと淺沼伊和男氏に、私はまだ世に出る前、27.8歳のころに御会いした。同年齢であった。彼は行人社という大学語学副読本を主に手掛ける出版社のフランス語担当の編集者だった。彼が人を介して、まったく無名だった私に仕事を依頼してきたのである。私はそのころ、『少年マガジン』等にポツポツ描いていたけれど、自分の方向づけも定まらず、第一、イラストレーターとしてやってゆけるかどうかも分らなかった。 淺沼氏が依頼してきた仕事は、当時、京都大学でフランス語を講じていらした生田耕作氏の副読本の装丁であった。私は即座に承知した。生田耕作氏といえばフランス文学翻訳ではセリーヌやバタイユの翻訳者として知らない人はいなかったし、私の蔵書のなかにも沢山の訳書があった。また、シュルレアリスムの紹介もされていたので、そのころシュルレアリスムの勉強をしていた私にとっては敬すべき碩学の士であった。 その副読本は、やはりシュルレアリストのピエール・マビーユ著『驚異』(LE MERUVEILLEUX)のフランス語原本からの抜粋だった。 私の記録によれば、実際にその仕事にとりかかったのは昭和48年(1973)の1月8日。16日までに3点のスケッチを仕上げている。このスケッチは生田氏に届けられ、そのなかの1点が選ばれた。ところが、この副読本は京都大学のほかに、ある大学のキリスト教神学部でも使用することになっていたらしく、スケッチはその大学の教授会にも回された。そして、生田氏が選択した作品にクレームが付いた。エロチックだということらしかった。このクレームには生田氏も手を焼いたらしい。しかし最終的には折れて、私が提出した別の作品を実際に使用することになった。 私に課せられた仕事は、絵を描くだけでなく、装丁デザインの印刷用版下まですべて製作することだった。何にも知らないのに、心臓が強いというか、無謀で楽天的というか、いまから見るといかにも素人くさい仕事で、冷や汗が出る。しかし、淺沼氏は黙って受け取ってくれた。 原画3点は戻ってこなかった。聞けば、生田氏が所蔵したいとのことで、淺沼氏は私には事後承諾ということで贈呈したとのこと。私はむしろ嬉しかった。生田耕作氏はすでに亡くなられ、その拙作3点がどうなったかは不明だ。 こうして淺沼氏とのおつきあいが始まった。私は行人社でドイツ語副読本の装丁もさせていただいたし、英語のトレーニング用カセット・テープのパッケージ・デザインやパンフレット製作も依頼された。 最初に会ってから14年後の1987年、淺沼氏は一人の人物をともなって我家に現われた。その人の小説集を出したいので、造本デザインをやってほしいというのだった。 その方は国学院大学のフランス語教授で、小説家として過去に2度、芥川賞候補になっている、と淺沼氏は紹介された。その日から現在まで20年のおつきあいがつづくことになる、花輪莞爾氏そのひとであった。 花輪氏は我があばら家に驚いている様子だったが、お聞きすればほとんど御近所といってもよい高級住宅地にお住まいとのこと。それでかえって、妖怪でも住んでいそうなあばら家をおもしろがっているふうだった。もちろん紳士であられるので、口には出さない。後年、私の作品の保存を心配されて、火事はもちろん地震が来ても、いっぺんで御陀仏だろうと言われた。 それはともかく、こうして淺沼伊和男氏によって、花輪氏の『悪夢名画劇場』および『悪夢名画劇場 II』が刊行された。この装画は、私にとっても重要なものとなった。スイスのグラフィス社が刊行する『グラフィス・アニュアル』にその年の秀作として選定再録されたり、カナダのグラフィック専門誌から賞をもらったりした。またニューヨークの展覧会にも原画を出品した。現在、この原画2点は、花輪莞爾夫妻の所蔵となっている。 そんなわけで淺沼氏は、縁の下の力持ちのように私の作品を支持してくださった。深い声は歌手にでもしたいほどで、人柄は優しく、氏が来訪すると我家の猫が車に同乗してついてゆきたいと足にしがみつくのだった。淺沼氏は途方にくれて、どうにかしてくれと私に言うのである。 行人社が解散後、淺沼氏は、東放学園という主としてテレビ・メディアについて教える専門学校で、講師として後進の指導にあたられた。また〈ヌマ工房〉という編集工房を主宰された。 電話やハガキで、今年こそ会おうといいあっていたのだが、長年互の顔をあわせる機会がもてなかった。東放学園にも来てほしいと、その機会をさぐってくれていたようだが、実現はしなかった。 きょう、突然その死をしらされたのである。 ヌマさん、ありがとう。そして、さようなら。
Dec 8, 2006
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絵葉書の発注のために外出し、その帰りにいつもの如く古書店に立ち寄り、安価な本を5册購入した。 その中の1册は、映画字幕翻訳の第一人者、戸田奈津子氏の『スクリーンの向こう側』(発行:WOWOW、発売:共同通信社)。A5判ハードカバーの瀟洒な装丁の本である。 美しい装丁なので、あえてそのデザインにクレームをつけたくなった。 本体の表紙に、簡略的で軽快なペンによる線画で映画館のスクリーン周辺が描かれている。スクリーン部分は、銀のベタ刷り。銀幕そのものを表わして、知的でおしゃれなデザインだ。 ジャケットはわずかにクリームがかった白。厚手のしっとりした手触りの紙を使用している。凸版空押しで、The other side of the Screenの文字。Sという文字だけに澄んだ美しいグリーンをのせている。フィルムのコマが切り抜きになってデザインされ、その窓から下の表紙の銀幕が覗き見えるという趣向。その下方に書名『スクリーンの向こう側』。スの字がグリーンである。そして著者名と発行社名。 こんな知的な装丁に、何を私はあえてクレームをつけようというのか? フィルムのコマの刳り貫きのデザイン、そのコマ送りの穴の数が、どうしても見過ごしにできないのだ。 このデザインでは、左右それぞれ5つの穴がならんでいる。 これでは、映写機にフィルムがかからないですぞ、と私は言いたい。これは4っつの送り穴でなければならない。 コマの縦横の比率には歴史がある。トーキー以後、サウンド・トラックをつけなければならないこと等々の問題もあり、画面比率で1:1.33というのが定着した。しかしそれも必ずしも唯一ではなく、35ミリフィルムだと、サイレント・フレーム、トーキー・フレーム、シネスコ・フレーム、パナヴィジョン・フレーム、またヴィスタヴィジョンがある。これらはすべて送り穴が1コマに左右4つずつと決まっている。ソ連時代、かの国では経済的理由からヴィスタ・サイズを採用し、送り穴3つに対して1コマという例もなくはない。また、70ミリ・フィルムの場合は送り穴5つになる。 なぜ、この送り穴の数が重要かというと、映画がわれわれの視覚に、いわば自然な動きとして映じるための標準速度は1秒に24コマ繰出されることが絶対条件である。この正確なコマ送り技術の発明も、映画史においてはエポック・メーキングとなることなのだ。コマ送り穴の数は1秒間に24コマを繰出すために、つまり映写機の歯車と合致する数なのである。 フィルムのコマと送り穴の形象というのは、デザイナーにとってなかなか魅力的なものだ。しかもシンボリックで、一目で映画や写真を表現できる。 ただ、センシブルなデザイナーになればなるほど、コマの上端下端と4つの送り穴が同一線上にならんでしまうことが気になってしまうものだ。どうしても少し変化をつけたくなってしまう。で、本来4つであるべき穴を5つにしてしまう! 最近では、映画を観たといっても、家庭でDVDで鑑賞したという意味であることも少なくない。映画館に行かないのだ。もっとも、映画館に行ったとしても、そのフィルムを見る機会はほとんど絶無にちかいであろう。 映画『ニュー・シネマ・パラダイス』のように、フィルムの切れ端をもらう子供もいないであろう。あの映画を観ると、私は自分の子供時代を懐かしく思い出す。映画終了後に、映写室の扉をあけて、私はたくさんのフィルムの切れ端をもらったものだ。市川右太衛門や中村錦之介のチャンバラ・シーンや、八千草薫の『お蝶夫人』というミュージカル映画の紫がかったカラー・フィルムなどなど・・・それらはサルバトーレ少年のように、私の宝物だった。 『スクリーンの向こう側』の装丁家には、そんな思い出はなかったか。思い出はなくとも、映画字幕の第一人者の著書を装丁するのだから、フィルムについても調べてほしかったなー。装丁・デザイン:株式会社キュリオス
Dec 7, 2006
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7日に発注する年賀絵葉書の版下データを作成しおえた。本格的な美術印刷をして年頭に御挨拶するのを長年のならいとしているが、毎年、押し詰まった頃にあわてて発注する。わかっているのに、なんだかんだと仕事がかたづかず、ぎりぎり間に合わせていた。ことしは、いま時間ができたここぞとばかりに、先ほど午前1時過ぎに取りかかり、MOファイルを作成した。これで20日前には絵はがきが出来上る手筈だ。ニンマリ。毎年こうだと何のことはないのにナー。
Dec 6, 2006
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印象派の画家クロード・モネ(1840-1926)の自筆メモや、ルノワールやセザンヌなどの画家たちから送られた250通以上におよぶ未公開の手紙を、モネのひ孫が売りに出すそうだ。朝日新聞の夕刊がつたえている。 のちに印象派と呼ばれることになる美術史運動は、そもそもモネの描いた《印象・日の出》(1872年作)というその題名に由来している。当時フランス美術界で画家として認められるためには、公募展であるサロンに入選するというのが常道であった。その落選者たちがあつまって、一種の示威行動として、1874年に写真家ナダールのスタジオで開催したのが第1回印象派展であった。《印象・日の出》はその展覧会に出品された。出品者は他にルノワールやセザンヌやドガ等がいた。展覧会はさんざんな不評だった。作者の感覚を重視するという画法が、旧来の写実的な絵になじんでいた観衆にはとうてい支持できるものではなかったのだ。 ちなみに、映画『タイタニック』で例の女性主人公がデカプリオに裸体画を描かせるシーンで、豪華な船室にはパリで買い集めてきたモネの《睡蓮》やドガの《踊子》、あるいはピカソらしい作品が登場した。タイタニック号の遭難事件は1912年のこと。当時、あるいはそれより早い時期に、アメリカの大富豪たちが印象派の絵画を購入してアメリカに運んでいたのは事実である。ニューヨークのヘイヴ・メイヤー夫人がドガにいちはやく目をとめ、画家から直接非常な安値で作品を購入し、現在、アンドレ・メイヤー・コレクションとして知られる素晴らしいコレクションをつくりあげてもいる。 このたび競売に出されるモネ宛の手紙類は、どうやら印象派の画家仲間達の親密な関係を知る上で重要な資料となりそうだという。落札予想価格は、およそ7,600万円とのこと。ただし332のロットに分けるそうなので、貴重な資料もバラバラになる可能性がおおきい。現在の所持者であるモネのひ孫には、それらを遺贈する子供がないのだそうだ。それで結局、売ることにしたらしい。どこに落着くかは知らぬが、私はちょっと興味をひかれた新聞記事である。 新聞記事といえば、同紙に、「弥次喜多道中裏話」という見出しで、奈良大学の近世文学の永井一彰教授が京都市内の古美術商で、江戸時代の滑稽本『東海道中膝栗毛』の作者・十返舎一九(1765-1831)の手紙を発見したことが報じられていた。 『東海道中膝栗毛』というより、弥次さん喜多さんといったほうが分りよいかもしれない。原本を読んだことがおありなら承知だろうが、若い頃に衆道(ホモセクシャル)の関係にあった弥次さんと喜多さんが、いまや年を重ねて気のあった良い友達として東海道見物の旅に出るという仕組み。漫才コンビのように、滑稽な事件をまきおこしながら各地の名所名物が紹介されるというわけだ。 永井教授の発見した手紙は、この小説を書くために一九が名古屋方面へ取材旅行をした、その折に世話になった人への礼状だという。もちろん今まで存在を知られていなかった手紙である。江戸時代の小説家の裏話として、これもまた面白い発見である。 ついでにニュース種をもうひとつ。 京都大学の小山教授等のグループが、いまからちょうど1,000年前、1006年5月1日に藤原定家が『明月記』として知られる日記の「南の空に大客星があらわれた。火星のようだった」という記述が、超新星の爆発(ビッグ・バン)であったことを証明した、というもの。超新星の爆発というのは、星が寿命がきて大爆発をおこすことをいう。藤原定家の記述した現象は、小山教授等の計算によると三日月より明るかったようで、それは人類が見た最大の明るい天文現象であったという。そして、定家卿の記述は、天文学史上の重要論文と位置付けることができるそうだ。 フーン、と唸りながら目をとめた、文化的な新聞記事三題である。
Dec 6, 2006
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普段、仕事の関係で若い方々とお会いし、また編集担当者と画家といういわばパートナーとして若い方と一緒に仕事をすることはめずらしくない。私が年をとるにしたがって、反比例してパートナーは次第に若くなってゆく。 けれども、仕事以外となると、私が若い方々にお会いすることはほとんどない。絶無とはいわないが、友人とは異なる立ち話ていどの一過性の出会いである。社交の輪というのは、むしろジェネレーション・ギャップがあるものだ。 そんなわけだから、私はこの1年半ばかりの間に、ネットを通じて若い方々と話をするようになったことを面白がっている。話をするだけではない。アマチュアとして、あるいはセミ・プロとして美術的創作をしている方々が、自作を私にプレゼントしてくださる。こういう経験は、まったく初めてのことだ。 私は私なりにアンテナを張り巡らして、美術の動向を見ているけれども、プレゼントされた作品は、そのアンテナが取りのがしていた作品ということになる。正規の美術教育を受けていない、したがってもし美術に王道があるとすれば、そこからは1歩も2歩もかけ離れてはいるかもしれないのだが、それだけに却って私には新鮮に感じるのである。 プレゼントされた作品は、作者が承諾したものに限って、このブログの《お客様の投稿作品展示室》に掲載させていただいている。現在、大阪在住の良次さんの作品を展示している。 先日、ネット友達として初めて御会いしたシルフさんも、自作のコラージュ作品を1点プレゼントしてくださった。彼のコラージュ作品を掲載しているブログは、ファンも多い。私は実物を拝見して、その繊細な仕事ぶりに大いに好意を持った。そのことはすでに過日の日記で述べた。 そして今日、やはりネット友達のglamさんから、沢山の写真作品をプレゼントされた。作品をプレゼントしてくださると言うので、それならと、私は無遠慮にもいくつかの希望を申し出た。それは、glamさんの作品をweb上で見るより、きっと良くするであろうと思ったことだ。どうやらglamさんは、ディジタル・カメラではなくアナログ・カメラを使用していると見たので、ぜひ紙焼き(印画紙使用)にしてほしいこと、また、キャビネ判以上の大きさにしてほしい、と。 届いた写真は、私の希望どおりにして下さっていた。贈り主に対して注文をつける厚かましさに呆れたことだろうが、しかし、私の思ったとおり、作品はずっと素晴らしい仕上がりになっていた。 シルフさんとglamさんの作品を《お客様の投稿作品展示室》に掲載しますので、どうぞご覧になってください。私の若き友人たちの作品です。
Dec 5, 2006
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いま午後11時25分、仕事場にちいさな音量でモーツァルトの《レクイエム》が流れている。ニコル・マット指揮のプフォルツェイム・南ドイツ室内オーケストラの演奏である。 さきほどまで私はNHK・BS2でミロス・フォアマン監督の映画『アマデウス』を観ていた。この映画は自分でビデオを持っているし、1985年4月の劇場公開以来、何度観たかわからない。それでも、今晩も仕事を放ったらかしてついつい観てしまった。 今年はウォルフガング・アマデウス・モーツァルトの生誕250年にあたる。1756年1月27日、ザルツブルクに生まれた。そのことについては過日の日記にしるした。NHKの放映もそれを記念してのことであるが、それとともに、じつは明日12月5日(1971年)が、彼の命日なのである。こうして日記を書いているうちに、その日を迎えることだろう。 モーツァルトの最後の年、35歳、祝典オペラ《ティト帝》(K621)を急ぎ仕上げてプラハに赴きそれを上演し、疲れを癒すまもなく《魔笛》の初演をする。成功をよろこびながらも、身体の不調はいかんともしがたく、そのまま病床に臥してしまう。それより以前、7月のことであったが、匿名の使者によって、死者のための鎮魂ミサ曲、いわゆる《レクイエム》の注文があった。モーツァルトは、その作曲をみずからの死を見据えながら執筆したかもしれない。 《レクイエム》(K626)は、まさにモーツァルトの絶筆となった。続誦(セクエンツィア)の最後の一節〈涙ながらの日(ラクリモサ)〉の途中で、プツリと終わっている。死の寸前まで筆を進めていたのではなかろうが、そこまで書き進めてきたとき、「もう、いい」と息をひきとったかのように・・・ モーツァルトの最後の日々と、その死をめぐっては、いまだに解明されない不思議な曖昧さにつつまれている。毒殺説や、ウィーン宮廷楽長アントーニョ・サリエリによって殺害されたという説が、執拗に唱えられ、映画『アマデウス』でも、肯定はしていないけれども聴聞神父によってその問が発せられていた。 埋葬をめぐっても曖昧な点が多い。 12月5日に死亡したが、埋葬されたのは翌日ではなかったようだ。翌々日の7日というのが現在、もっとも信じられている説であるが、それも確証はない。埋葬の日、激しい冬の嵐が吹き荒れていたと言われているが、一方で、寒い日ではあったが良く晴れていたという説もある。 映画では冷雨が降り注いでいた。これはおもしろい解釈である。 つまり、雨はとても映画的であるばかりか、神の寵児の死というにはあまりに惨めで悲しい別れ、その気分を表現するに最適であったろう。しかしそればかりではない。遺骸は共同墓地に掘られた穴に投込まれ、沢山の遺骸とともに石灰をふりかけられ、墓掘り人たちは冷雨のなかでそそくさと仕事をきりあげて番小屋に去ってゆく。このシーンが、事実と符合するかどうかはともかく、後にモーツァルトの遺骸をどこに埋めたかわからなくなってしまった、その解釈付けとして見ることができるのである。良く晴れた日ならば、墓掘り人たちは、慣れ切った日々の仕事だから無感動にしろ、もうすこし身をいれた仕事をしたかもしれない。 そしてもうひとつ、遺族をはじめ数人の会葬者が共同墓地の門前までしか行かなかったという解釈もおもしろい。つまり会葬者は誰ひとりとして埋葬を見ていないということだ。墓地の門前まで付き添い、墓地内には入らないというのが、当時当地の慣習であったのか。これについては私に資料がない。脚本作家ピーター・シェイファーの創作かもしれない。しかし、遺骸がみつからないという事実をこのように説明し、それはそれなりに良くできていると思う。 モーツァルトの遺骸が聖マルクス共同墓地に埋葬されたことは間違いない。現在ではその墓地にモーツァルトの墓標が建っている。台座に円柱が据えられ、天使がよりかかっている。円柱が途中でポキリと折れたようにデザインされている。 遺骨のありかは杳として知れない。 《レクイエム》の絶筆部。モーツァルトの筆は8小節目でおわっている。 『モツァールトの臨終』作者不詳の絵。弟子のジスマイヤーが付き添い、戸口に怪しい人物がたたずむ。
Dec 4, 2006
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昨夜、就寝前のひととき、阿井景子著『龍馬と八人の女性』を読んでいた。すると坂本龍馬の姉乙女についての章に、一葉の小さな写真が掲載されていて、「おやッ?」と目をとめた。 説明に、「坂本家離れ縁側 昭和15年10月撮影。写真右から寺石正路、中安墨子(河田小龍孫娘)、三谷卯之子(河田小龍末娘)」とあった。 河田小龍(しょうりゅう)は、坂本龍馬より10歳年長、土佐藩御抱絵師であるが、博学で知られ、アメリカから帰国したばかりの漂流民・万次郎(ジョン;後に中浜の姓を許された)を詳細にわたって取り調べた人物でもある。安政元年の大地震後に仮の住まいを龍馬の家の近くに移したことから、龍馬21歳のときに親しく交わるようになった。龍馬は河田小龍からアメリカの民主主義にもとづく政治体制を聞き、いわゆる文明の利器、たとえば汽車についての知識も学んだ。龍馬の〈海援隊〉構想は、河田小龍の所説に発するといわれている。 その小龍の娘と孫が、昭和15年10月に坂本家を訪問したのであろう。写真がその事実をしめしている。 ところで、私が「おやッ?」と思ったのは、河田の娘たちのことではない。写真右端の寺石正路という人物に注目したのである。 寺石正路といって、お分かりになるかたがいらっしゃるだろうか。私も写真を見るのは初めてなので、同一人物であるという確証はない。しかし仮に同一人物だとすると、和歌山県田辺に在った南方熊楠と親交深かった高知の在野の民俗研究家・寺石正路、その人である。 南方熊楠全集には熊楠と寺石の往復書簡がたくさん収録されている。 じつは私は寺石正路の著書を1册だけ大事に所蔵している。『食人風俗考 全』である。この本については、このブログの日記、2005年8月4日「私の蔵書から」で、すでに紹介している。 その部分を引き写してみる。 明治31年5月、高知市片桐氏刊、東京堂書店発売、高知県士族寺石正路著『食人風俗考 全』。 すなはち人肉食(カニバリズム)の風俗を民俗学の視点から研究したものである。著者の寺石正路は南方熊楠と親交のあった、いわゆる在野の民俗研究家。熊楠の全集でふたりの書翰のやりとりが知られる。 こういう研究は、近年になってたしか中野美代子氏にあったと思うが、それ以前となると少なくとも日本人の手になるものを私は知らない。事件となると、アンデス飛行機遭難事件や佐川某のパリ猟奇殺人事件が思いうかぶけれど。 ちなみに私が所蔵する『食人風俗考』は、日本昆虫学会を創設した矢野宗幹の旧蔵書である。裏表紙の内側に名前が朱で書かれている。 おそらくカニバリズムについて真面目に研究した書物は、この本を嚆矢とし、以後、中野美代子氏の研究まで皆無なのではあるまいか。奇書といってもよさそうだ。旧蔵者が矢野宗幹であることもおもしろい。装丁はなんということもない、むしろ貧弱、厚さも6,7mmほど。私が入手したのは、もう30数年も前で、価格もそう高くはなかったはずだ。しかしちょうどそのころ平凡社が新しく南方熊楠全集を刊行しはじめており、私もそれを購入していたので、親交のあった寺石正路の著書を発見するとはよもや思っていなかったから、入手したときは本当に嬉しかった。 入手後30数年が経て、昨夜、ほとんど偶然のように、著者の写真に目がとまったのである。阿井景子氏は、その写真については、上記の説明以外、本文においては何の説明もしていない。したがって「寺石正路」とは記していても、如何なる人物で、河田小龍の娘や孫たちとどのような関係であったかも分らない。同道して坂本家を訪問しているのだから、それ相当の関係であると推測される。阿井景子氏が、寺石正路がいかなる人物かを、御存知なかったとは思えないのだが。 それはともかく、私は、また新しい関心事ができたような気になっている。
Dec 2, 2006
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ここ数日来、NHK・BS2で放映しているルキーノ・ヴィスコンティ監督作品を楽しんでいる。未見だった『白夜』と『熊座の淡き星影』も観ることができた。 しかし、やはり晩年の『ルードウィヒ ― 神々の黄昏』、それ以前の『山猫』のような作品を見ると、このような映画美術はヴィスコンティ以外にはなしえないだろうという感をいだく。私は『夏の嵐』や『イノセント』が好きだけれど、たとえば『山猫』の公爵邸における大舞踏会のシーンを注意深く見ると、長いシーン、それも部屋を移り変ってゆくシーンを、ワンカットで撮っていることが分る。厳密に言えば、数台のカメラをセッティングしておいて、俳優たちがまるで舞台劇のように途切れることがない長時間の演技をしながら数台のカメラにフレーム・インしているようだ。これは驚きである。ヴィスコンティは厳密にフレームを創る映画作家なので、この流れるような映像のために、どれだけの準備をしたかを考えると、想い余るものがある。 今夜は、テレビも特別放映をお休み。私はいままでの行きがかりで、手持ちのDVDで『ヴェニスに死す』を見直した。おもしろかったのは、付録として入っている『ヴィスコンティのヴェニス』という短いドキュメンタリーで、そのなかで主演のダーク・ボガードが監督について語っている言葉だ。 「ヴィスコンティは完全主義者ではなく、緻密なのだ」 この言葉に、私はうなってしまう。イメージこそが映画の命と考えれば、緻密さこそがイメージの命なのである。 そのドキュメンタリーは、『ヴェニスに死す』の撮影初日の様子を記録したもの。その日の撮影シーンは、完成作ではずっと後ろ、およそ3分の2を過ぎたあたり、コレラ予防の消毒薬が撒かれ、街路ではいたるところでゴミを焼く煙がたなびいている。家庭教師に先導されたポーランド貴族の子供達が運河にかかった石橋を渡り、小さな広場を横切って路地へと消えて行く。美少年タッジオが子供達のしんがりを勤めている。運河のほとりに化粧をしたグスタフ・アッシェンバッハが顔を隠すように俯きながらたたずんでいる。彼はタッジオのとりこになっていて、美少年のあとをつけまわしているのだ。タッジオが通りすぎると、アッシェンバッハは街灯に身を隠すようにしながら、少年のあとを追う。・・・完成作では30秒ほどのシーン。セリフは一切無い。 スタッフは早朝から立て込みに忙しい。やがて監督が到着し、扮装をしたボガードも到着。ふたりは抱擁をし、すぐに演技の打ち合わせをする。そして午前9時、撮影開始。何度も何度もシュートが繰り返される。 人物の動きだけが、・・・タッジオと、特にアッシェンバッハの動きだけが、彼等の微妙な関係を示すのである。アッシェンバッハの心理のみならず、美の実存に捕らえられてやがて人格崩壊さえあやぶませるような人物像が、このシーンで完成される。重要シーンであることは間違いない。セリフが無いだけに、まさに映像のみにそのことを語らせなければならない。・・・夕方、最後のシュートがOKとなったとき、それはテイク9であった。 ほんの数十センチにみたない身体の移動が、あるいは街灯の柱とボガードの身体との間合いが、アッシェンバッハの心理状態を語ることを見抜く、その緻密さ。 私は、ボガードの語る言葉を、うなりながら納得した。 ダーク・ボガードも凄い。撮影現場にメーキャップして現われた彼は、もちろん元気溌溂。ところが撮影が開始されると、美少年に魂を奪われ精も根もつきはて、それでなくとも心臓を患い、シロッコの暑さに汗だくでヘトヘトの状態にみごとに変身してしまう。こういう俳優をみると、私はほんとうに嬉しくなってしまう。DVDをみながらひとりでに笑みがこぼれてくるのが分る。 一日の撮影を終えて、ヴィスコンティは滞在しているホテルに帰る。入浴し、数時間休憩してから、友人達と夕食を共にする。・・・それがルキーノ・ヴィスコンティの最も好ましい一日だったのだそうだ。
Dec 1, 2006
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レオナルド・ダ・ヴィンチの初期の大作『受胎告知』(L'ANNUNCIAZIONE)が来年3月に来日するそうだ。駐日イタリア大使が正式に発表した。フィレンツェのウフィッツ美術館が所蔵するもので、門外不出とされてきた、いうなればイタリアの至宝。イタリア国外に貸出されるのは、今回がはじめて。これは美術的にはひとつの事件であろう。きっと他国の美術関係者がうらやましがるにちがいない。うれしい春となりそうだ。
Dec 1, 2006
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