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【2017年3月31日(金)】 雨も降り、冬に逆戻りしたような寒さでした。昨日が最低気温/最高気温9.0℃/20.8℃だったのに対し、今日は6.2℃/11.4℃と最高気温が10度近く低くなりました。 4~6月のガイドは常時点は「旧三井家下鴨別邸」です。今日、ようやく本格的に準備を始め、説明の要約を作成開始しました。 そして、雨の中、下見に行ってきました。無料で駐車できる相国寺内の駐車場に車を停めて、今日の散歩を兼ね、旧三井家別邸まで歩きました。 玄関棟での今日の担当の方お二人の案内を聞かせていただきました。お一人は、順序も含めほぼマニュアル通りで、目標の10分きっかりで淀みなく説明されました。もうお一人は、内容はマニュアル通りですが、順序は自分なりに変更されており、お客様と会話するような感じのガイドでした。ご両人とも、とてもお上手でした。ベテランの味がにじみでていました。 ご両人とも、備え付けのフリップ以外は使っておられませんでしたが、やはり難しい漢字や、あまり知られていない人名の場合は、フリップがあったほう親切で分かりやすいとの印象を持ちました。私は準備したいと思います。 旧三井家別邸の場合、我がガイド会の方以外にも、何人か勤務しておられ、紹介していただきました。食事をする場所、ロッカーやトイレの場所などを、説明会のときに続き、もう一度教えてくださいました。 私の初日は明後日の4月2日です。明日はゴルフラウンドですので、あと今晩と明日の晩しか準備期間がありません。今日中に要約を完成させ、明日、ゴルフの往復の車の中で説明の練習をし、帰ってきてからフリップを作成したいと思います。主屋の1階座敷から、庭園を望む 家内は、大学時代の友人と、三十三間堂の東にあるハイアットリージェンシー・ホテルでランチして、泉涌寺とその塔頭・即成院を訪問したとのことでした。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/31
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【2017年3月30日(木)】 今日は、「八木邸」の第17日。私の最終勤務日です。 春らしい暖かな一日でした。春休みに入って、ご家族連れや中高生が多く来られました。中高生や小学生は大人と違って、お抹茶なしの選択もできるので、受付でその説明もしなければなりません。修学旅行の場合は、生徒ということは分かるのですが、家族連れや友達同士であれば、ちょっと見では、なかなか判断できません。失礼になる場合もありますが、確認せざるを得ません。大学生だと思ったのに、「えっ、高校生?」ということもあれば、高校生と思ったのに、「えっ、大学生?」という場合もあります。 京都でボランティアガイドをしているという4、5人連れのお客様が来られました。新選組のこともよくご存知だと思いますが、ガイドが終わって、「とてもよく分かりました。金戒光明寺や壬生寺、角屋も訪問して、最後にここを訪れて説明を聞いて、それらの繋がりがよく分かりました。ありがとうございました。」とのお言葉をいただきました。一般のお客様に喜んでいただくのはもちろん嬉しいですが、プロの方に評価いただけるというのは、違った視点で嬉しいものがあります。 さて、ガイド内容の続きです、前回(こちら)、芹沢鴨暗殺のところを書きました。今日は、最終回で、芹沢暗殺後のことです。 毎回書いていますが、新選組については、史実が明確ではないことも多く、ここに書いているのも、諸説あるうちの一つに過ぎない場合もあるということをご承知おきください。【近藤・土方中心の運営】 新見切腹、芹沢・平山暗殺、平間行方不明、そしてその後、野口切腹で水戸系(芹沢一派)は誰もいなくなります。その後は、近藤・土方のラインがきっちり出来、新選組の全盛時代を迎えます。 彼らが八木邸に寝泊まりして、出て行って活躍したのが、池田屋事件、蛤御門の変です。新選組が最も活躍した時期です。しかし、やがて隊士の数が200人を超え、もはや壬生村では収容しきれなくなり、収容能力のある大きなお寺・西本願寺に屯所を移します。元治2年(1865)3月10日のことです。ですので、新選組が壬生村を屯所にしたのは、2年間だけです。しかし、その2年間が新選組が最も活躍した時期です。西本願寺の後、慶応3年(1867)6月15日に不動堂村へ屯所を移します。【江戸幕府消滅・戊辰戦争】 第一次長州征討くらいまでは、幕府側が優勢でしたが、坂本龍馬が仲介するなどして、それまで犬猿の仲だった薩摩と長州が薩長同盟を結び形勢は逆転します。やがて慶応3年(1867)10月14日、大政奉還を経て江戸幕府は消滅します。 しかし、戦いはそこで終わらず、慶応5年(1869)に京都の南で鳥羽・伏見の戦いが起こり、戊辰戦争に突入します。 鳥羽伏見の戦いでは、井上源三郎が40歳で戦死しています。戦いは東に移り、江戸城は無血開城されましたが、上野戦争では原田佐之助が負傷し、それがもとで29歳で亡くなっています。 近藤勇は、甲州勝沼の戦いで敗走し、捕縛され、処刑されます。35歳でした。さらに戦いは北に移り、白虎隊で有名な会津戦争があります。そして、最後は北海道函館の五稜郭の戦い(1869年5月)で幕府軍は壊滅します。土方歳三が、35歳で戦死します。 沖田総司は25歳で病死。藤堂平助は隊を離脱し、油小路事件(慶応3年(1867)12月13日)で暗殺されます。24歳でした。山南敬助も隊を離脱し、新選組の仲間により捕えられ、元治2年(1865年)2月23日切腹。32歳でした。山南敬助のお墓は、八木邸のすぐ北の通りを東に行ったところにある光縁寺という小さなお寺にあり、入ってお参りしていただくことができます。 永倉新八は会津戦争で会津藩が降伏したのを知り、松前藩士に帰参します。結成当初の新選組メンバーの中で唯一人長生きし、77歳まで生きます。明治時代は国賊扱いだった新選組の復権運動をし、東京板橋に近藤・土方のお墓を建てています。【「無事楽太平」の額】 ガイドをする座敷に「無事楽太平」という額がかかっています。書いたのは明治から昭和にかけて活躍した著名な日本画家・橋本関雪です。「無事太平を楽しむ」と読みますが、いつどのような目的で掛けられたものかは伺っていません。私の勝手な想像を書いてみます。 橋本関雪は、明治16年生まれ、昭和20年没です。ということは、少なくとも、太平洋戦争が終わる以前に書かれたものです。恐らく、太平洋戦争が始まる前に書かれたのではないでしょうか。 この部屋は、芹沢鴨の暗殺事件を見ています。そして、八木家に寝泊まりしていた隊士の多くが、戊辰戦争や暗殺、切腹で若くして亡くなっています。二度とこのような悲惨なことが起こらないようにという願いを込めて、八木家の過去の代の方がこの額を掛けられたのではないかと推測します。 しかし、その願いは叶えられず、太平洋戦争では、多くの若い命が犠牲になっています。今度こそ、この額が願うことを、日本だけでなく、世界が実現できるときが来ることを祈願します。(ガイド内容の説明は一旦終わりますが、書き漏らしたことを後日投稿予定です。) 1月10日に始まった計17日に及ぶ八木邸のガイドが終了しました。寒い中での気候的には厳しいガイドでしたが、実に楽しくやりがいのあるガイドでした。養徳院でのガイドも含め、スキルを向上させることができましたし、度胸もつきました。新選組や幕末史の知識を深めることもできました。 いっしょにペアを組んでいただいた仲間の皆さん、総括責任者の方に感謝です。4月から担当の皆さんにも、私が使った「紙芝居」や注意事項、気付き事項をまとめたものを配信でき、区切りもつけました。 季節は移ろい、受付前の桜はまだですが、蕾だった馬酔木(あせび)の花は可愛く咲いています。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/30
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【2017年3月29日(水)】 今日は、今年2回目のゴルフラウンドでしたが、朝、家を出てすぐのところで、交通取締りに引っ掛かってしまいました。 私の住む住宅地のメイン道路の交差点の一つはロータリーになっています。普通の交差点と違って見晴らしがいいので、車が来ていなかったら、減速だけでロータリーに入ることが多いです。今朝も完全にストップせずにロータリーに入りました。ロータリーを抜けたところにガードマンらしき人がいて、メイン道路を左へ入れという合図。交通違反している意識もなかったですので、警官とは気付かず、「あれ、何か工事していて、迂回なのかな。」と思ったくらいです。 曲がったところで止められて、警察だと気が付きました。「ロータリーの入り口で一旦停止しませんでしたね。」と。そういえば「止まれ」の標識があります。そのとき一旦停止しないといけないということに気が付いた次第です。過去、そこで取締りしているのを見たことないし、そういう情報も聞いたことがありませんでした。しかも、朝の6時半ですよ。 「7千円の罰金と、2点減点です。」やっちゃいました。 昨日の飲み会で、セーブはしたので、アルコールチェックがあっても大丈夫とは思ってたのですが、万が一ということもあるので、少々ビビったのですが、そちらのチェックはありませんでした。あと、これでゴルフラウンドに遅れたら、皆さんに迷惑かけるので、最悪だったのですが、何とか15分くらいで終わり、間に合いました。スコアもそこそこだったので(こちら)、まだ救われました。 ゴルフの帰りは、ブックオフに寄って、子供たちのコミック本の一部を売却しました。「断捨離」少しずつ進行中です。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/29
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【2017年3月29日(水)】 今日は「がん」治療復帰後、第19回目のゴルフラウンド。日本に帰ってきてからは通算122回目となります。そして今年(2017年)第2回目のラウンド。前回、110超え、しかも118と超悪スコアだったので(こちら)、普通なら練習して次のラウンドに臨むのですが、観光ガイド関係などで忙しくて、練習なしで臨みました。 朝、家を出てすぐのところで、交通違反張り込みに引っ掛かって、7000円の罰金伝票をもらってしまいました(後刻投稿)。いやな気分でゴルフ場へ。 今日のコースは大津カントリークラブ。東コースに27ホール、西コースに18ホールある大きなゴルフ場です。今日は西コース。今回で6回目ですが、西コースは初めてだと思います。あまりアップダウンがなく、比較的広くて、あまりトリッキーではないコースのように感じました。ガードバンカーが難しい設計になっているように思いました。 経営難からアコーディアのゴルフ場になっていますが、朝、バッグを車から下ろす人がいなかったり、チェックイン・精算も自動化され、コストカットが進められているようです。精算時は、カウンターに誰もいませんでした。何とか無人精算機に慣れてもらいたいということからでしょうか。お風呂を無くしてシャワーにしたり、レストランもファーストフードにしたり、茶店をなくしたり、最後のクラブ整理をセルフにしたりなど、まだまだコストカットできるところはあるように思います。 今日の会は、C&C会。私はCR会に参加しており、そのCR会とCF会が3ヵ月に一度コンペをしています。1年くらい前から、この合同コンペをやっていたと思いますが、過去私は都合が悪くて参加できておらず、今回が初参加になりました。11名、3組でした。上さん、横さん、北さんとは久しぶりで、復帰後初めてです。初顔合わせの方が2人でした。コース航空写真 クラブハウススコアカードマーカー(アコーディアなので、アコーディアのマーカー)往路のルート(高速利用)復路のルート(高速+地道) さて、肝心のスコアですが、スコア 52+56=108ストローク 35+39= 74パット 14+14= 34と4ラウンドぶりに110を切りました。 ドライバーもフェアウェイウッドも、そこそこ安定していましたが、アイアンが寄せも含めて下手くそでした。途中、ダウンブローを意識したら、よかったので、次回に期待です。 次にパターですが、前回の後半、ゆっくり引いて、ゆっくり振り出すとうのをやってみたところ、感触がよかったので、今日もそれをやってみました。なかなか良かったです。パット数34は、復帰後の最高です。方向性がよくなりました。距離は短いことが多かったので、もっとしっかり打ったほうがいいのだと思います。パターのイップスからはついに脱出できたように思います。 同伴者では、横さんが92と、昔からそうですが、お上手です。 【スコア】【コンペ結果】~7位が私【費用】9,797円(昼食含む)高速1,150円+360円 これとは別にコンペ参加費1500円。オリンピックで約1500円負け、7位の賞金で1000円戻ってきたので、2000円の出費。【歩数】 約14,000歩。(往復の移動含む) 帰りは、京滋バイパスを巨椋(おぐら)インターで降りて、地道を走り、今回もブックオフに寄って、不要本を売って帰ってきました。 家内は車がないので、友達に乗せてもらってのテニスでした。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________「日本でのゴルフ」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=7「ゴルフ他@米国」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=3
2017/03/29
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【2017年3月28日(火)】 今日は、夕刻から、常駐ガイドの八木邸ガイドの慰労会でした。 京都の街中に出るので、ガイド点の見学をしたり、京都歩きをしたりした後、慰労会に出席したいところですが、やらねばならないことが溜まっているので、昼間は在宅としました。本当は、4月からの旧三井家別邸のガイドの準備もしたかったのですが、ブログ、京都の新聞記事のまとめ、健康記録記入、DVDのダビング、三味線の練習などなどで終わってしまいました。 八木邸の見学終了時刻近くに八木邸に寄って、その日のご担当と合流して会場に向かいました。 会場は、四条大宮近くの「ほっこり酒場なごみ家」。住宅街にある隠れ家的な小さなお店です。 坪庭にきれいに咲いた桜の枝が生けてありました。雰囲気のあるお店です。つき出しの「おばんざい」もよかったし、高知直送の新鮮な魚が美味しかったです。少人数の飲み会に是非使ってみたいです。こうやって、ガイド仲間の飲み会で京都の良いお店を知ることができるのも嬉しいことです。飲み放題付きで4000円という優しいお値段も嬉しいです。 https://tabelog.com/kyoto/A2601/A260203/26007976/ 「夏の旅」や「冬の旅」以外で慰労会をすることは少ないそうですが、今回慰労会があったのは、飲み助さんが多いからだとか。 参加の皆さんの人となりを知り、新選組のこと、ガイド会のこと、健康のこと、色んなお話を聞くことができました。楽しくて、あっという間に時間が過ぎました。 終わって締めのラーメンということになり、一部の方と近くの「香来」というラーメン屋へ。ラーメンと餃子、そしてまたビールを飲んで、特にパソコンでも資料作りの話題で盛り上がりました。 https://tabelog.com/kyoto/A2601/A260203/26019548/ 明日、ゴルフラウンドなので、セーブはしたつもりでしたが、結構お酒いただきました。(守秘義務再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/28
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【2017年3月27日(月)】 今日は、ガイド会のエリア研修会に参加しました。 去年8月の入会後、エリア研修会は他のエリアグループ主催分も含め、研修には何度か参加してきました。 今日は、他エリア主催の「もう一つの150年 新選組の4大事件の2つを訪ねて」というお題での、現地訪問をしながらの研修でした。案内役は、先輩の某さん。 新選組4大事件というのがあり、それは 1.1864年6月5日 池田屋事件 2.1866年9月12日 三条制札事件 3.1867年11月18日 油小路の変(決闘) 4.1867年12月7日 天満屋事件 です。このうち3番、4番のゆかりの地を中心に巡るという企画です。 午前10時に、京都駅ビックカメラ西隣の東小路公園からスタートしました。 まず、ハトヤ瑞鳳閣というホテルへ。 ここは新選組3つめの屯所となった「新選組洛中屋敷」があったところで、碑が建っています。 新選組発足からのおおまかな歴史は 1863年(文久3年)2月、200名余の浪士たちが「浪士組」として一団を結成し将軍に先がけて上洛 同3月、壬生村の八木邸や前川邸などを屯所として新選組の前身である 「壬生浪士組」を結成 同年8月、いわゆる「八月十八日の政変」の警備で活躍し「新選組」の隊名を拝命 1864年(元治元年)、「池田屋事件」および「禁門の変」に参加し活躍 1865年(慶応元年)、西本願寺(太鼓楼他)に屯所を移転 1867年(慶応3年)6月15日、屯所を西本願寺から不動堂村に移転 不動堂村に屯所を移したのは、組織内の抗争や血の粛清など、騒ぎの静まる暇もない新選組に、本願寺側が不満を抱いていたことが背景にあったようです。建築費、諸経費は西本願寺が負担しました。 しかし、その不動堂村にも半年しかおらず、伏見奉行所に移動し、鳥羽伏見の戦に参戦することになります。 続いてリーガロイヤルホテルへ。ここにも屯所跡の碑「不動堂村屯所跡碑」があります。 続いて、塩小路通を渡り、油小路木津屋橋を上がったところにある、本光寺へ。 「油小路の変」で、伊東甲子太郎が絶命した場所です。 以前、「京都全寺社巡り」で訪れたことがありますが、そのときは先代のご住職の体調の関係で門が閉まっていて、後述の碑は見ることができませんでしたが、近所の床屋さんのご主人が色々教えてくださいました。 その後、今の庵主さんが継がれました。今日は、その庵主さんから、お話をいただきました。ご朱印もいただきました。 「油小路の変」の経緯です。 伊東甲子太郎は、その尊王攘夷思想から彼を含め14人を引き連れ新選組を脱退します。14人は「孝明天皇御陵衛士」を任命され、高台寺月真院に移ります。これにより高台寺党と呼ばれました。 近藤勇、土方歳三らは、高台寺党壊滅に動き、まず伊東の暗殺を企てます。慶応3年(1867)11月18日、近藤らは、伊東を近藤の妾宅に呼びます。一席が設けられ、伊東は酒が進んだ後、午後10寺頃、用意された駕籠を断って木津屋橋通を東に向かって歩きます。そこで切りつけられ、本光寺の門前で絶命しました。享年32歳。そして、遺体を収容に来た御陵衛士のうち、藤堂平助を含め3名が切り殺されました。伊東甲子太郎がよりかかって絶命したといわれる門派石 門の中にあります。甲子太郎が暗殺されとのは夜中なので、お寺の門は閉まっていたので、 門の中のこの石のところで絶命したというのはおかしいように思いますが、当時はお寺の 前の道路が広くて、門はもっと東にあり、この石は門の外にあったとのこと。門の前には「伊東甲子太郎外数名殉難之跡」の石碑が建ちます。 油小路通を北上します。油小路花屋敷下ルに「中井庄五郎殉難之地碑」があります。この場所にあった旅籠・天満屋で後に「天満屋騒動」と呼ばれる事件が起き、中井庄五郎が亡くなったことを示す碑です。「天満屋騒動」とは 紀州藩士である陸奥宗光は、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、慶応3年(1867年)には坂本龍馬の海援隊(前身は亀山社中)に加わるなど、終始坂本と行動をともにしました。慶応3年11月15日の龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、慶応3年海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃しました。襲撃側は十津川藩士・中井庄五郎が死亡、2、3名が負傷しました。 堀川通に出て西本願寺に向かいます。 池田屋事件に続いて禁門の変が起こり、幕府にとって長州が討伐対象になると、増員で手狭となった新選組の壬生村の屯所を親長州派の西本願寺に移転させました。これは、西本願寺と長州系志士たちのつながりを絶つことを狙いとしたものといわれます。 西本願寺は、浄土真宗本願寺派の本山。戦国時代、本願寺は織田信長と長期抗争状態(石山合戦)にありましたが、その間毛利家は本願寺に兵糧を運び込んで助けました。そうした縁があり、幕末期にあっても本願寺は長州藩・長州系志士を支援していました。 大所帯となった新選組は西本願寺の北集会所と太鼓楼を屯所としました。僧侶や信徒たちの迷惑も顧みず武芸の稽古や砲撃訓練などを繰り返しました。仏教で忌まれている肉食も境内で大っぴらに行われたといいます。傍若無人なふるまいを続ける新選組は、寺側にとってはまったく招かれざる客だったでしょう。ついに本願寺は、新選組のために新たな屯所を建設する費用をもつという条件で退去を要請し、新選組は慶応3年(1867年)6月に西本願寺からほど近い不動堂村に建てられた新たな屯所(前述の不動堂村屯所)に移転していきました。西本願寺 太鼓楼 西に向かい、大宮通のさらに西の櫛笥通を北上します。万寿寺櫛笥通を北に上がった西側に末慶寺があります。この辺りは、お寺が集まって建っています。 末慶寺には新選組とは関係ありませんが、裂女と呼ばれた畠山勇子の墓があります。 畠山勇子は元治(げんじ)2年1月2日生まれ。安房(あわ)(千葉県)出身。離婚して上京し、魚問屋ではたらきました。明治24年ロシア皇太子が大津市で襲撃された大津事件をきき国の将来をうれえ、5月20日京都府庁の門前で自殺し、27歳で亡くなりました。 続いて、大宮通綾小路を西に入ったところにある光縁寺に向かいました。 光縁寺には、新選組山南敬助の墓があります。 光縁寺の門前近くには新選組の馬小屋がありました。山南家の家紋と光縁寺の鬼瓦の紋がが同じだった事もあり、当時の住職・良誉上人と山南敬助の間に親交が生まれました。そして、山南の紹介で、屯所で切腹した隊士たちが良誉上人によって弔われ埋葬されました。山南もその3人目になり、その後も多くの隊士関係者が葬られました。埋葬は壬生村の共同墓地にされましたが、明治新政府軍によって暴かれ、伊東甲子太郎はじめ御陵衛士新撰組隊士たちが亡くな一派は、東山にある泉涌寺塔頭の戒光寺に改葬されました。山南敬助他の志士たちは、この光縁寺に改葬されました。ここには沖田総司の縁者といわれる方のお墓もあります。 ご住職は、我がガイド会のある方が高校の同窓でもあり、我々を本堂に集めてお話もいただきました。 庭には仏手柑の実が生っていました。 この研修で、新選組のことをより深く知ることができました。八木邸のガイドはあと1回なので、今回のガイドに活かせなかったのは残念です。 終了後、参加していた同期の方々と四条大宮の王将(王将発祥の地)で、餃子とビールで反省懇親会でした。 (内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/27
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【2017年3月26日(日)】 雨がショボショボ降って、冴えない天気。そして、冬に逆戻りしたような寒さ。この3月は例年より、寒いという印象です。それとも私が観光ガイドを始めて、寒いところで仕事をしているので、単に寒さが例年より気になるだけなのでしょうか。実際の気温がどうだったか、調べてみたいものです。 以前なら、即調べていたのでしょうが、今はそうはなかなかいきません。ここしばらく、常駐7ガイド2箇所、常駐ガイド締めの慰労会、研修会、ゴルフラウンドと公私にわたって忙しく、ブログも後追いになっています。これに修学旅行の準備、次の常駐ガイドの準備が加わり、少々テンパっています。「忙しい」は「心を亡くす」と書くと、よく言われるように、あまり良い状況ではありません。4月になれば、常駐ガイドが1箇所になり、少し落ち着くとは思うのですが。 以前も書きましたが、修学旅行は4月、5月まで次のように担当が決まっています。・4月2件~甲信越地方の中学校、北麓地方の中学校・5月5件~北陸地方の小学校、関東地方の中学校、東海地方の中学校2件 先日、4月25日の北陸地方の中学校のレスポンスレターを書いて提出しましたが(こちら)、今日は、その後通知が来た4月20日の甲信越地方の中学校のレスポンスレターを作成して提出しました。締め切りは30日なのですが、明日から、研修、八木邸ガイド締め慰労会、ゴルフ、八木邸最終ガイド、これに加え、次回固定点の準備と下見、霊鑑寺見学と盛りだくさんで時間がとれませんので、今日、最優先でやってしまいました。 この学校は、去年まで班別自主行動だったのですが、今年初めてガイド付きの班別行動にしたようです。歴史の勉強になるのと、時間コントロールがしやすいというようなことで、切り替えたのでしょうか。我々にとってはありがたいことです。これからも依頼が続くよう、丁寧なガイドが求められています。 フォーマットは、今回、少し修正して、タイムテーブルと地図を左右入れ替えました。このほうが座りがいいので。検討・作成に結局6時間くらいかかってしまいました。もっと短時間でできるよう効率化しないと、6月になってさらに件数が増えれば対応が苦しくなります。 ガイドの内容吟味は、4月に入って、次の固定ガイドが始まって落ち着いてからです。 どんな生徒さんたちか会うのが楽しみです。 (内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/26
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【2017年3月25日(土)】 櫻谷文庫の見学(の後、午後は京都アスニーでの講演会、「京都学講座」の「後鳥羽上皇・二条良基が眺めた庭園-鎌倉・室町時代-」を聴講に行きました。「京都学講座」は、月に3回程度、土曜日午後に行われている無料・申込不要の講座です。 今日の講師は、京都考古資料館 副館長の山本雅和氏。氏の講演会は1月のガイド会の研修でもお聴きし(こちら)、2月には上京区での講演会でもお聴きしましたので(こちら)、これで3回目ということになります。上から目線ではなく、分かりやすく楽しく、好感のもてるお話をされる方なので、この方の講演会を聴くのは楽しみです。 いくつかの発掘庭園の例を挙げながら、鎌倉・室町時代の庭園の特徴を説明してくださいました。(当日配布された資料が公開されています。→こちら)主な京都の発掘庭園一覧(鎌倉・室町時代) (本講演会資料から) 鎌倉・室町時代の庭園の特徴をまとめると、下記のようになります(これも研修資料から)。・平安時代からの変化 宸殿造→主殿造・書院造 浄土式庭園→禅宗様式の導入・枯山水庭園の盛行・立地 分類:「山頂型」・「山腹型」・「山裾型」・「斜面・平地型」 京都の庭園 郊外の庭園 =山裾型 市街地の庭園=平地型・構成要素 泉・池・中島 洲浜・景石・滝石組 遣水・導水路・排水路 建物 樹木・草花(・魚・鳥・昆虫・・・)・「洛中洛外図」に登場する庭園 武家:室町殿・細川殿・曲厩 公家:二条殿・近衛殿 寺社:西芳寺・相国寺・北野社-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/25
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【2017年3月25日(土)】 今日は2つの目的で京都市中へ。午前中に我がガイド会がガイドを担当している「櫻谷(おうこく)文庫」の見学、午後から京都アスニーでのセミナー。車をスーパーの駐車場に停めて歩き開始。 まず櫻谷文庫を見学。場所は、北野白梅町の嵐電駅を北西に約500メートル歩いた閑静な住宅街の中にあります。洛星高校の西隣です。 櫻谷文庫は、明治から大正昭和にかけて活躍、注目された日本画家木島櫻谷の旧宅で、櫻谷の遺作や収集した絵画など1万点以上が収蔵されています。いくつかの建物が国登録有形文化財、京都市指定登録文化財などになっています。時々特別公開をしており、今回は「2017年春 同時期公開 今小路通り沿い」と銘打って、等持院、真如寺、仁和寺などと時期を合わせて公開中でした。櫻谷文庫の公開は、3月3日~4月2日の金・土・日・祝日で、入館料は大人600円。 ここは外から建物を見たことがあるだけでしたし、これからも我がガイド会が担当する可能性大で、いずれは私にも出番が回ってくることもあると思うので、今日訪問させていただきました。室内はフラッシュも含め写真撮影OKですので、たくさん写真撮らさせていただきました。外観洋館を外から眺める門前の道標 西 仁和寺 もう一つXX寺とありますが、読めません。 是西 足利家菩提所等持院(途中で埋没していますが)門門前のポスター 駐車場もあるようです。国登録有形文化財、京都市景観重要建造物の銘版和館内部 昔なつかしい物もたくさん展示されていて、見ていて飽きないです。この付近に多くの画家たちが住んだことを示す資料 堂本印象、土田米僊、小野竹喬、菊地芳文などの名が見えます。 また下の地図では、付近は田園地帯だったことが分かります。和館 裏からの外観洋館前の道標 恐らく付近の別の場所からの移築でしょう。 推定も含めてですが、五条大橋、ぎおん社、六はら寺、大佛、三十三間堂、 東西本願寺、ちおんいん などの名が見えます。洋館 大正時代の特色を示す洋間の展示室画室前の道標 これも付近からの移築でしょう。 三條XX、小野?、天満宮、きんかくじ などの名が読めます。画室 何か行事をやっておられ、入り口に鍵がかかっていたようで、 中には入れませんでした。 見学後、ガイド会の方々と少しお話をしました。知名度、地理的な関係から、あまりお客様は多くないようですが、もっとたくさんの方々に観ていただきたい素晴らしい文化財だとおっしゃってました。私も同感です。 京都アスニーに向かう途中、北野天満宮近くで修学旅行食事処下見を兼ねて昼食をとりました。 「初音」というお店。北野天満宮大鳥居前を北野白梅町に向かってしばらく歩いた(もう白梅町駅に近い)北側の地下にあります。同期共通の一覧表に記載もされていますし、以前から先輩方からお薦めのお店と聞いていたところです。 午後1時過ぎでしたが、土曜日ということもあってか、結構混んでいて料理が出てくるまで時間がかかりました。値段がリーズナブルで美味しくて雰囲気もいいお店ですが、そこだけが難点かなと思いました。12時前の来店が望ましいかなと思います。食べログよりおばんざい盛り込み定食 650円。 京都らしくて、安くてGood!!!食べログより 昼食後、京都アスニーに行き、セミナーを聴講しました。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。) -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/25
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【2017年3月24日(金)】 今日は、「八木邸」の第16日。 風が強く、寒い一日でした。18日で「京の冬の旅」が終わった後、初めての八木邸の担当でしたが、「冬の旅」で特別公開していた壬生寺の特別公開が終わって、前の人通りは少なくなったようです。 外国人の方もときどき来られます。ドイツ人で片言日本語を話せる女性二人のお客様が来られたのですが、聞いてみたら、ゲームで新選組を知っているので、訪れたとのことでした。ドラマ、アニメ、ゲームの影響もあって、新選組も国際的になっているようです。 途中、我が会の先輩某氏が来られていて、私は気付かなかったのですが、私のガイドを聞いておられたようで、終わってからアドバイスをいただきました。「関東からのお客様も多いので、芹沢鴨の良い点も、入れてあげるといいよ。」 確かにそうです。最初は入れていたのですが、ガイド時間を25分にまとめるなかで、省略していました。こうやって来ていただいて聞いていただいてアドバイスをいただけるのはありがたいことです。 蕾だった「アセビ(馬酔木)」もピンクの花を綺麗に咲かせています。八木邸でのガイドは残すは1日となりました。 さて、ガイド内容の続きです、前回(こちら)、新選組発足、そして局中法度を破った新見錦の暗殺のところまで書きました。今日は、いよいよ芹沢鴨暗殺の場面です。 いつもそうですが、新選組については、史実が明確ではないことも多く、ここに書いているのも、諸説あるうちの一つに過ぎないということをご承知おきください。 【芹沢鴨暗殺】 新見錦が新選組の仲間によって切腹をさせられた僅か10日後、八木邸で惨劇が起こります。 芹沢鴨は、新選組初代局長の一人でもあった文武両道の優秀な人物です。漢詩もたしなむし、書道も達筆でした。しかし、お酒を飲むと、へべれけになるまで酔っぱらって、人が変わったように乱暴するという悪癖がありました。試衛館系の面々は、それを逆手に利用して何とかしようとしたようです。 9月18日、雨の激しく降る晩でした。その日も、新選組の宴会が島原の角屋で行われました。芹沢一派にお酒がどんどんすすめられます。芹沢鴨はへべれけに酔って、角屋の駕籠で八木邸の主屋(おもや)に帰ってきます。待っていたのは、お妾さんにしていたお梅さん。 芹沢派の平山五郎は桔梗屋の芸者お栄、平間重助は輪違屋(わちがいや)の芸者糸里を連れて帰ってきます。輪違屋は今も島原に古い建物まま残っていて、今も営業を続ける老舗の置屋兼お茶屋さんです。 その6人が、部屋でもう一度飲み直して、床に就きます。庭側に、芹沢とお梅、屏風を隔てて、奥に平山とお栄、襖を隔てて一つ奥の部屋に、平間と糸里が寝ます。試衛館系の隊士たちは、今お菓子屋さんになっているところにあった表の離れ座敷に寝泊まりしていました。6人が寝入ったところを見計らって、土方、沖田、原田など試衛館系の5~6人が表の離れ座敷から刀を持って、庭伝いに6人が寝ている部屋に押し入ります。 芹沢は寝込みを襲われ、一太刀・二太刀手傷を負いますが、さすが神道無念流の新選組一ともいわれた剣の達人、枕元に置いてあった脇差を抜いて、応戦しながら庭の縁側伝いに隣の部屋に逃げ込みます。ところが暗闇の中、その入り口に置いてあった文机に蹴つまずいて、バッタリ倒れます。倒れたところを止めの一撃を受けて絶命します。 お梅さん、平山五郎、お栄さんは、寝ていた部屋で即死状態。あたり一面血の海です。平間重助と糸里は、庭から遠い側の部屋に寝ていて気付いて逃げることができたのでしょうか、その後、行方知れずになっています。 ですので、表側の部屋で3人、奥の部屋で1人、9月18日の晩に斬り殺されたことになります。縁側から奥の座敷に入るところの鴨居に刀傷が残っています。これは、芹沢がつけたのか、追っ手がつけたのかはまでは不明ですが、暗殺の夜につけられた刀傷です。芹沢が蹴つまずいたという文机も昔の姿のまま置かれています。【芹沢・平山の葬儀】 2日後、芹沢、平山の葬儀が新選組の手によって盛大に行われます。お墓は壬生寺共同墓地に建てられましたが、今は、壬生寺の壬生塚に移されています。 京都守護職には長州の志士にやられたと届がされました。新選組内の暗殺よりは、そのほうが聞こえがよかったからではないかと思います。盛大な葬儀をしたのも、そのためでしょう。 これで、水戸系(芹沢派)は、新見が切腹を強要され亡くなり、芹沢と平山が暗殺され、平間は行方知れず、残った野口健司もしばらくしてから、新選組の仲間から切腹を強要され亡くなっています。 これで水戸系・芹沢派は誰もいなくなったことになります。 壬生塚の多くの隊士の名前が刻まれたお墓に、野口健司の名前もあります。また、そこに刻まれた田中伊織は新見錦ではないかといわれています。芹沢鴨・平山五郎墓(壬生寺境内)http://bakumatsujournal.jp/map/detail/id/203野口健司・田中伊織(新見錦?)墓(壬生寺境内)http://blog.livedoor.jp/rekishi_tanbou/archives/2013-01-14.html(続きます)(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/24
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【2017年3月23日(木)】 「京都市内全寺社巡り」を思い立ったのは、2012年末にM社をリストラで早期退職した直後。失業保険をもらえるだけもらって、あとはパートタイムで観光ガイドのような仕事をボランティアでもいいからしようと思っていたので、全寺社を巡る時間が十分とれると思ったからです。退職後3ヵ月は順調でした。 しかし、2013年4月に結局再就職し、ペースダウン。とはいうものの土日を利用して何とか続きます。ところが、2014年7月に「がん」を発病。1年半のブランクができてしまいました。そして、経過観察になって9ヵ月後の2016年2月に再開。会社勤めは辞めていたので、再びペースは上がりました。 2017年8月に、ガイド会に入会し、観光ガイドの仕事を始めましたが、フルタイムではないので、ペースダウンはすれど、そこそこのペースで続けられると思っていました。しかし、ガイドとしての有償勤務以外にも、ガイド関係で下見、研修、会議、事前説明会、飲み会など結構時間をとられることが分かりました。それに加え、ガイドの仕事の勉強のため、プライベートにも関係のセミナーを聴きに行くようにもなりました。結果的に、去年の9月10日を最後に「京都市内全寺社巡り」は中断状態になってしまいました。 今日、午前中「京都迎賓館」見学の研修会があったので(こちら)、午後から、久しぶりに「全寺社巡り」をする予定でした。ところが、ガイド仲間といっしょに昼食をして、あれこれしゃべって、終わったのが午後2時頃。あまり時間がないので、直接帰宅しようと思ったのですが、途中で思い直して、東山区の北西の鴨川沿い三条通り付近を短時間でも歩くことにしました。実に7ヵ月ぶりの「京都市内全寺社巡り」となりました。午前中の「迎賓館」での研修も含め、歩いた径路(うろ憶えですが) 三条大橋の袂からスタート。(<>の中の数字は、地図内の番号)三条大橋<1> 天正18年(1590年)、豊臣秀吉 の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修されましたた。徳川家康によって定められた東海道五十三次の西の起点。駅伝の碑<2> 日本で最初の駅伝競走が、ここからスタートしたことを記念する説明碑「駅伝の碑」がある。1917年(大正6年)4月27日から3日間にわたり開催された。高山彦九郎像<3> 三条大橋の南東にあります。江戸時代後期の尊皇思想家。林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の1人(「奇」は「優れた」という意味)。13歳の時に「太平記」を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち、18歳の時に遺書を残して家を出て、各地を遊歴して勤皇論を説きました。この像は御所望拝の姿で、土下座ではありません。吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物です。また、二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられました。歌碑 京では岩倉具選宅に寄留し、奇瑞の亀を献上したことにより光格天皇にも拝謁しました。その感激を詠った歌。 「我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ」小川亭跡碑<4> 小川亭は,肥後藩御用達「魚卯」の未亡人ていと姑りせが共に開いた旅館。幕末肥後藩士ほか勤王の志士たちに利用され,二人は志士の面倒をよく見たという。大正9(1920)年に廃業し,家屋は第2次世界大戦時の強制疎開で取り壊されました。三条京阪駅から縄手通を少し南に下った西側にあります。京都市立有済小学校に残る太鼓望楼<5> 明治9年8月。入り口に近いところに太鼓楼兼望楼を作り人々に時刻を知らせました。各小学校にあった望楼は明治末までに姿を消し,有済校にだけ残っている日本唯一の文化財。池田屋事件殉難志士墓所跡碑<6> この地にあった三縁寺には、池田屋事件で犠牲になった宮部鼎蔵・松田重助志士らの墓がありました。三条バスターミナルの開発に伴い、1979年に墓は三縁寺とともに、左京区岩倉へ移転しました。大像寺(浄土宗)<7>大将軍神社<8> 素盞嗚尊を主神とし、相殿に関白藤原兼家を祀る。 桓武天皇が平安京を造営した際、大内裏鎮護 のため、四方四隅に祀られた大将軍神社のうち、 東南隅の一つである。 特に平安京東のこの地は、三条口の要地にあたり 邪霊の侵入を防ぐ意を以て重要視されてきた。 このあたりに建てられた藤原兼家邸は、応仁 の乱で廃壊したが、境内に東三條社として名跡を 留めている。又。樹齢八〇〇年と伝える銀杏の 大樹があり、かっては鵺の森とも呼ばれ、源 頼政の鵺退治の伝説を偲ばせる。-境内由緒書き-大将軍神社境内の東三條社樹齢800年と伝わる銀杏の木城安寺<9> 浄土宗。幕末、御陵衛士・伊藤甲子太郎らが最初入った寺。その後すぐに、善立寺に移り、さらに月真寺に移りました。榎木大明神<10>圓光寺<11>市立三条浴場<12> こういう市立の浴場があるところは特別な地域であることが多いようです。蓮沢寺<13> 廃寺になったようです。古道具屋<14> 東山通で目を引くお店です。一澤信三郎帆布 店舗と工房<15> お家騒動でも有名になりましたが、しっかり商売は継続されています。門前白川道【道標】<16> [南]門前白川道 [東]右きく屋ばし [西]左たぬきばしなすありの径碑となすあり地蔵<17>「なすあり」とは、地元有済小学校の「有済」を逆さに読んだもので、中国古代の歴史書「書経」に記されている言葉です。意味は、「耐えて忍べば済す有り(どんな辛い事に対しても、耐え忍んで努力すれば必ず報われる)」ということ。昭和二十九年(1954)に、京都市水道局が花見小路通の水道管工事をした時に、お地蔵さまが白川の川底から掘り出されました。このお地蔵様が何百年もの間、川底の暗闇でじっと耐え、ようやく日の目を見たことを讃えて、「なすあり地蔵」と名付けられました。辰巳大明神<18> 元々は、御所を守るために創建され、御所の辰巳の方角」を守るということから、辰巳神社と呼ばれたのだが、いつしか祇園の芸舞妓が芸事の上達を祈るようになり、いまでは芸事の神として信仰されています。 もう一つ云われがあります。神社の祭神は実は狸で、巽橋に住んでいた狸が、橋を渡る人を化かしては白川の中を歩かせていました。それに困った人が、この狸の為に祠を建て神として祀ったところ悪戯が止んだという言い伝えです。ちょうど婚礼写真撮りがありました。新橋通り<19>巽橋<20>白川南通り沿いの白川(巽橋からの眺め)<21>祇園切通し<22>(巽橋を南に渡った南北の通り) 名前の由来は不明ですが、ネットでは富永町、末吉町、本吉町といった花街を縦に突っ切っている通りだからとの推定がありました。かにかくに碑<23> 祇園を愛した歌人、吉井勇の歌碑。 「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」 祇園白川に「大友」というお茶屋さんがあり、夏目漱石、谷崎潤一郎ら有名作家や画家が多く訪れました。この歌碑は、吉井の古希の祝いに「大友」のあった場所に谷崎潤一郎ら数名が建立しました。 毎年十一月八日には 「かにかくに祭」が祇園甲部お茶屋組合によっておこなわれています。弁財天<24> その昔、賀茂川が手の付けられない暴れ川で、白河上皇も「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言ったほどの川であり、その賀茂川の治水を受持っていた、防鴨河師の勢多判官為兼が、行きずりの僧から「川の北に弁財天を、南に禹王廟を祀れ」と言われ、そうすると賀茂川の洪水は治まったという謂れに因み、この白川が鴨川に注ぐ弁財天の社が再興されている。青木聾米(ろうべい)宅蹟碑<24> 青木聾米(1767~1833)は,祇園の茶屋「木屋」に生まれ,通称木屋佐兵衛。号を木米といい,晩年に聴覚を失ったため聾米と称した。29歳で作陶を志し,奥田頴川に入門。仁阿弥道八・永楽保全とともに幕末京焼の三名工といわれました。弁財天の一画に立っています。大和橋<25>から白川を望むせせらぎの道碑<26> 1987年(昭和62年)、京阪電車の地下化事業により琵琶湖疏水の三条~七条間が地下化し暗渠になりました。それに伴う川端通の整備・拡張作業の一環として、この散歩道が誕生し、名前は公募により決定されました。北座跡<27> 北座は元和年間(1615~24),四条河原での興行が許可された7か所の常設芝居小屋のひとつ。のちに四条河原の整備により四条橋東周辺に集中した。幕末には7か所のうち,北座と南座だけが残っていたが,明治26(1893)年に取り壊され,現在は南座のみになっています。出雲の阿国像<28> 出雲の阿国(おくに)は、歌舞伎の祖とされる女性芸能者。奈良の春日若宮で「ややこ踊り」を演じたと見えるのが初見。出雲大社の巫女と称して興行。慶長8年(1603)年、京都で「かぶき踊り」を始めて人気を集め、これを模倣した遊女歌舞伎が流行。阿国が興業したのは、北野の社と五条河原などで、四条河原の地は後の遊女歌舞伎の地だといわれています。 短時間でしたが、久しぶりの「京都市内全寺社巡り」でした。五条烏丸まで歩いて、バスに乗り帰宅しました。次はいつ全寺社巡りができるでしょうか。巡りきってからあの世に行きたいものです。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/23
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【2017年3月23日(月)】 ガイド会のエリア研修会で、京都迎賓館の見学でした。 事前予約ありの団体が入場できる時間帯と、事前予約ありの個人が入場できる時間帯が別になっています。予約がなくても、当日10時から整理券が配布されるので、当日入場が可能です。水曜日は休館日です。時期によってはガイド付きのツアーもあるようですが、この期間は自由観覧方式でした。 去年のGWに京都迎賓館の試験公開(入場無料)があり、家内と行ってみたことがありますが、すごい人出で、整理券が早いタイミングで無くなってしまい、入れず仕舞いでした(こちら)。その後、有料での一般公開が去年7月に始まり、行こう行こうと思っていたのですが、結局行けず仕舞い。私はこの日が初見学となりました。 堺町御門を入ったところの鷹司邸跡の「黒木の梅」がきれいでした。入場券概要 門を入って、地下の駐車場に降ります。賓客があるときは、玄関で降ろした後、車はこの地下駐車場に止めることになるようですが、見学時には見学者の入り口になります。空港のような探知機による荷物チェックがあり、ある大きさ以上の荷物はコインロッカーに預けます(お金はあとで戻ってきます)。見学場所に入ると、見学者が使えるトイレはありませんので、ここでトイレは済ませておく必要があります。 再び地上に上がり、正面玄関両側の靴箱に履物を入れて、靴箱のスリッパで中に入ります。賓客があるときは、この靴箱は撤去されるのだと思います。●正面玄関●聚楽の間伊砂利彦氏 型絵染 「さくら」●夕映えの間日本画家の箱崎睦昌(はこざきむつまさ)氏の下絵を基に綴織り技法を用いて製作された織物東側:比叡月映(ひえいげつえい)西側:愛宕有照(あたごゆうしょう)●藤の間日本画家の鹿見喜陌(しかみきよみち)氏の下絵を基に綴織り技法を用いて製作された織物39種の花が描かれていることを示すパネル人間国宝の故・江里佐代子氏作の截金(きりがね)細工による舞台扉装飾「響流光韻(こうるこういん)」食器類 銀メッキ食器:ノリタケ 洋食器:大倉陶苑 グラス:HOYA●和厨房●桐の間全長12メートル、漆の一枚仕上げの座卓 座椅子の背面の蒔絵は「五七の桐」。明治時代から日本国政府の紋章。 京都迎賓館の紋章でもある。 蒔絵作者はサービス台のも含めて、下出祐太郎氏。◆床の間などの飾り 林駒夫作 「熨斗(のし)飾り」 西陣工業組合 西陣織「源氏物語」 浅野美芳(びほう)作 金工「桐の舟(吊り舟)」 大田佳男作 奈良人形「立雛」●庭園 まさに一級品揃いで、見ごたえがありました。 見学後、午後から時間のある同期で、よく行くハートピア近くの「おおたや」さんで昼食しながら、ワイワイガヤガヤ。しかし、ガイド会の会議があったのでしょう、先輩方のグループも昼食中でした。先輩方の噂話もするので、「わざわざ、ここで昼食することもないなぁ。」と一つ賢くなりました。 午後から、京都歩きをする予定でしたが、昼食が終わったら午後2時頃だったので、真っすぐ家に帰りかけましたが、思い直して東山区へ向かいました。歩きの様子はこちら。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。) -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/23
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2017年3月22日の読売新聞から。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/22
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【2017年3月22日(水)】 今日は「がん」治療復帰後、第18回目のゴルフラウンド。 日本に帰ってきてからは通算121回目となります。そして今年(2017年)初めてのラウンド。 観光ガイドの仕事やその準備と関連のことで忙しく、さらに寒いところでガイドやっているので、わざわざ好き好んで寒い中、練習に行かなくてもという思いから、直前に1回だけ、しかも60球だけの練習をしただけ(こちら)でのラウンドとなりました。 今日のコースは、初めてのコース、「宇治カントリークラブ」。そして、いっっしょに回るメンバーも全員が初めてお手合わせのメンバーです。シニア観光ガイドで同時期に入会した方々です。新入りメンバーの自己紹介の冊子に趣味の項目があり、男性陣22人のうち、4人が「ゴルフ」と書いており、声をかけあって今日のラウンドが実現しました。松シさん、松ウさん、大さんと私の4人です。「宇治カントリー」は、松ウさん、大さんが会員になっているコースで、予約をしてもらいました。 「宇治カントリー」は、今までラウンドした中で、一番近いゴルフ場です。自宅から直線距離で15km。今までで一番近かったのは滋賀県の「京阪カントリー」と兵庫県の「東海カントリー」で22kmです。「宇治カントリー」は高速を使えば、30分強で行くことが可能です。 1965年創立の歴史のあるコースですが、その分設備的には古く、今は住宅地が近くまで迫っています。ところどころトリッキーなホールもありますが、「京阪カントリー」ほどではないと感じました。山腹のコースなので、アップダウンはきつかったです。京都の眺望が素晴らしくて、京都に向かって打球するようなホールがあるのも、このゴルフ場の特徴です。 コース航空写真クラブハウス駐車場からコースを望むスコアカードマーカー往路のルート(高速利用) さて、肝心のスコアですが、スコア 63+55=118ストローク 42+39= 81パット 21+16= 37とストロークが最悪で、前半5オーバー2つが痛かったです。ドライバーもフェアウェイウッドはそれほど調子悪くなかったのですが、チッパーでオーバーして、バンカーに入れたり、アイアンがシャンクしたり、AWが短かったり散々でした。復帰後、冗談抜きで、110さえも切れなくなりました。 パターは前半、この前の練習で試したバックスイングで頭も肩といっしょに傾けるというのをやってみましたが、ダメでした。しかし、後半、ゆっくりバックスイングして、ゆっくり振り出すとというのを試してみたら、方向性が安定して感じよかったです。それが後半のパット16に現れています。次回に繋がる内容です。 同伴者では、大さんが93とお上手です。 【スコア】【費用】8,200円(昼食含む)(誕生日サービスで割安)高速840円(帰路は地道)【歩数】 12,000歩。(往復の移動含む) 帰りは地道を走り、ブックオフに寄って、不要本を売って帰ってきました。 家内は車がないので、友達に乗せてもらってのテニスでした。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________「日本でのゴルフ」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=7「ゴルフ他@米国」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=3
2017/03/22
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【2017年3月21日(火)】 今日、午前中ガイド会の研修、夕刻津軽三味線のレッスンが京都でありました。その日記はこちら。 ここでは講演会の様子を書きます。 我がガイド会は、別エリアグループの研修会ですが、席に余裕があるので参加させていただきました。 講師は、冷泉 貴実子(れいぜいきみこ)さん。 冷泉家時雨亭文庫の常務理事。烏丸今出川を東に入った北側、同志社大学に隣接する冷泉家の第24代当主故・冷泉為任氏の長女で、第25代当主冷泉為人氏の妻。 冷泉家は藤原俊成、定家の流れをくむ歌道の宗匠家の内の一つで冷泉流歌道を伝承しています。住まいの「冷泉家住宅」は、1790年の建築で、現存する唯一の公家屋敷で、国の重要文化財に指定されています。 我が会は、営利を求める団体ではなく、そんなに高額な講演料は払えないと思うので、普通なら冷泉貴美子さんを個別にお呼びしての講演会など考えられないのですが、そこは我が会の強みなのでしょう、会のメンバーに冷泉家での和歌の会に参加していた方がいらして、その繋がりで来ていただくことができたようです。 場所は、我が会の事務所があるハートピア京都の会議室でした。 演題は「和歌に詠まれた四季」。 初めて知ったことも多く、最初から最後まで楽しく拝聴させていただきました。 色々知ったことを列挙します。・現在の暦・太陽歴は明治5年に導入された。それ以前の和歌は旧暦(太陰暦)で理解しないといけない。例えば、睦月、如月、弥生は1月、2月、3月だが季節は春。それぞれ、今の2月、3月、4月(きっちりではないが)・旧暦では新月のときが1日。・お月様が出る時間は毎日52分ずつ遅くなっていく。十六夜は「いざよいの月」(ぐずぐずすろという意味)、十七夜は立待月(たちまちのつき)、十八夜は居待月(いまちのつき)、十八夜は臥待月(ふしまちのつき)と呼ばれるのは、どんどん月の出が遅くなっていくため。二十六夜頃の月は有明月(ありあけのつき)と呼ばれる。夜明けの空(有明の空)に昇るから。・月の満ち欠けは29.5日で1周するので、29日の月(小の月)、30日の月(大の月)を6回ずつ設け、1太陰年を354日とした。すると、3年で1月以上の誤差が出るので、閏月を設けた。(昔の人の誕生日や死亡日に、例えば「XX年閏X月」と書かれていることがあったが、その意味が分かりました。)・春、夏、秋、冬の始まりが立春、立夏、立秋、立冬。節分はその前日で、季節を分けるという意味。年4回あったが、今残っているのは立春の節分のみ。・お正月は昔は、今の2月だった。春に近かったので、迎春という言葉がぴったりだった。・昔は照明がなく夜は暗かった。月の光は、現代とは比べ物にならないほど、明るい存在だった。 その後、季節ごとの歌を紹介いただきました。なお下記の黒太文字で書かれた歌の解釈は、当日、冷泉貴美子さんが示されたものでなく、私がネットから見つけてきたものです。 (一) さざ浪や滋賀の浜松ふりにけりたが世にひける子の目なるらん 藤原俊成(新古今)滋賀の浜辺の松は老木となってしまったなあ。いつの御代に引いた子の日の松が根付いたものなんだろう。 門松は平安時代の宮廷儀礼である「小松引き」がルーツと考えられています。「小松引き」とは、正月初めの子(初子)の日に、外出して小さな松の木を引き抜いてくる貴族たちの遊びの一種で、この「子の日の松」を長寿祈願のため愛好する習慣から変遷したものです。現在でも「根引きの松」と呼よばれ、関西地方の家の玄関の両側に白い和紙で包み金赤の水引を掛けた根が付いたままの小松が飾られています。根引き松http://ruiruitomidori.blog.fc2.com/blog-entry-808.html 若い子であっても自分の干支は知っている。未成年者を補導し、年齢を偽っていそうだと感じたら、「何年(なにどし)産まれ?」と聞くのがテクニック。 方角は「子」が北、「卯」が東、「午」が南、「酉」が西。これから子午線という。 (二) 君がため春の野にいでて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ 光孝天皇(古今)あなたにさしあげるため、春の野原に出かけて若菜を摘んでいる私の着物の袖に、雪がしきりに降りかかってくる。 昔は冬の間は、緑の物は食べられなかった。春の七草、七草粥はまさにご馳走だった。 (三) 梅が枝に鳴きてうつろふ鶯の羽白妙に淡雪ぞ降る 惟明親王(新古今)梅の枝から枝へと飛び移っている鶯。その鶯の羽が真っ白になるほどに沫雪が降っているよ。 淡雪は春の雪、白雪は冬の雪。 「梅は花の兄、菊は花の弟」という諺がある。梅は百花にさきがけて咲くので花の兄と呼び、菊は後で咲くので弟という意味。 (四) 大空は梅の匂ひにかすみつつ曇りも果てぬ春の夜の月 藤原定家(新古今)大空は梅の香りに霞んでいる。そしてぼんやりと曇りも果てない春の夜の月、そう朧月が出ている。 春は霞、秋は霧。だから春の月は朧月。今は春の霞は、黄砂とかPM2.5で嫌われるが、昔は初めての霞を初霞といって喜んだ。冬は冴ゆる月。 (五) またや見む交野のみ野の桜狩花の雪散る春のあけぼの 藤原俊成(新古今)また見ることがあるだろうか、いや、ないだろう。交野のみ野での花見で、桜の花が雪のように舞い散る、この春のあけぼののすばらしい景色を。 桜は今はソメイヨシノが主だが、昔は山桜だった。交野は猟場だったところ。泊りがけで出かけた。藤原俊成が実際に出かけたわけではない。このように昔の和歌は、実体験に基づかないものも多い。(六) 三千年になるてふ桃の花咲けり折りてかざさむ君がたぐひに (落窪物語)桃の花が咲いているのを、人が折っている。三千年に一度だけ実がなるという桃の、花がたわわに咲いているのを折って、花かんざしにしましょう。あなたのように長寿になるように。 三千年は「みちとせ」と読む。「三千年の桃」とは、漢の武帝が西王母(せいおうぼ)(崑崙山に住む女仙)からもらって食べた、三千年に一度実を結ぶという不老長寿の桃。この西王母の誕生日が3月3日。古代中国では3月3日に、御祓をした人型を川に流し、また邪気を祓う桃の枝を飾った。この行事が日本に伝来して宮中行事の「曲水の宴」になり、奈良時代以降やはり3月3日に行われた。3月3日を「桃の節句」と言うのは、西王母と深く関わりがあると思われる。 男の人も帽子にかんざしを差した。 陰陽道の陰は偶数、陽は奇数を表す。五節句は1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日(重陽)と奇数になっている。9は今では「苦」に繋がると縁起が悪い数字だが、昔は「九重」で縁起の良い数字だった。9月9日は、「救急車の日」でもあるそうな。(七) 卯の花のむらむらさける垣根をば雲まの月のかげかとぞみる 白河院(新古今)卯の花が群がって咲いている垣根を雲の間からもれる月の光と見てしまいます。 卯の花(うのはな)は初夏に白い花を咲かせるウツギの花を指す。旧暦の4月(卯月)頃に咲くことから「卯月の花」=「卯の花」と呼ばれた。唱歌『夏は来ぬ(なつはきぬ)』では卯の花にホトドギスの組み合わせ。 昔は下水道も上水道もなく、夏は病気が流行った。死を招く最悪の季節。 (八) うちしめりあやめぞ香るほととぎ鳴くや五月の雨の夕暮 藤原良経(新古今)しっとりとした空気の中で菖蒲(しょうぶ)の香がする。ほととぎすの鳴く五月の雨が降る夕暮れどきよ。 5月は旧歴では夏。五月雨(さみだれ)とは梅雨の雨であり、五月晴れとは梅雨の合間の晴れ。あやめ=菖蒲。 この季節は病気が流行る。5月5日の端午の節句には、病気が入らないようにヨモギやショウブを飾ったり、屋根に置いたり、お風呂に入れたりした。それが薬玉(くすだま)になり、軒に吊るした。端午の節句も、男の子が元気に育つようにと願う日になっていく。 「ホトホトギス」の名は、「ホトホト」と鳴くことから。「ス」はカラスやウグイス同様、鳥の名の接尾語。 (九) 風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりけり 藤原家隆(新勅撰)風がそよそよと吹いて楢(ナラ)の木の葉を揺らしている。この、ならの小川の夕暮れは、すっかり秋の気配となっているが、六月祓(みなづきばらえ)のみそぎの行事だけが、夏であることの証なのだった。 夏越祓=六月祓。半年の穢れを祓う。御禊(みそぎ)は、水の中で身を清めること。足だけ清めるのが「御手洗(みたらし)祭」。葵祭では斎王代が手だけを清める。 冷泉家ではススキの葉で「人形(ひとがた)」を作り、全身をなでながら和歌を唱えて息を吹きかけ、水を張った手水鉢の中に放。 宮中では夏越の祓の後、氷を食べた。氷に小豆を乗せた。これがお菓子「水無月」に繋がる。(十) 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行(新古今)(立秋の日になっても)秋が来たと、はっきりと目にはみえないけれど、風の音で(秋の到来に)はっと気づきました。 (十一) 雲間より星あひの空を見わたせばしづ心なきあまの川浪 大中臣輔親(新占今)雲の間より二つの星がで会う空を見わたせば、落ち着かない天の川波です。私も二つの星が無事に出会えるのか心落ち着きません。 七夕は今は梅雨シーズンで、何故天の川の見えにくい季節なのかと思ってしまうが、旧歴では今の8月で、秋の始めと言ってよく、天の川が見える可能性は大きい。 冷泉家では乞巧奠が行われる。中国起源の7月7日に行われる織女に対して手芸上達を願う祭。「巧みを乞う」、すなわち歌や蹴鞠が上手くなることを祈る。 (十二) 星あひのゆふべすずしきあまの河もみぢの橋をわたる秋風 西園寺公経(新古今)彦星と織女が逢っている夕方、涼しい秋風が天の川の紅葉の橋を吹き過ぎてます。 中国伝説では、鵲(かささぎ)という鳥が天の川を紅葉でうずめて橋を成し、織姫と牽牛が出会う。7日の月なので、半月。それを渡し船の見ることもできる。 (十三) 白露に風の吹きしく秋の野は貫きとめぬ玉ぞ散りける 文屋朝康(後選)草の葉の上に乗って光っている露の玉に、風がしきりに吹きつける秋の野原は、まるで紐に通して留めていない真珠が、散り乱れて吹き飛んでいるようだったよ。 (十四) 秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ 藤原顕輔(新古今)秋風に吹かれて横に長くひき流れる雲の切れ目から、洩れてくる月の光の、澄みきった美しさといったらどうだろう! 8月15日は仲秋。 (十五) 露ながら折りてかざさむ菊の花老いせぬ秋の久しがるべき 紀友則(古今)露があるままでも、折ってこの菊の花を頭に挿して飾ろう、老いることない秋がずっと続くように。 9月9日は重陽の節句=菊の節句。菊の葉から水が川に落ち、それを飲んだ慈童や村人が長寿となり、不老長寿を祝った。これが菊酒を飲んだり、菊のきせわたをして、災厄を祓い、健康や長寿を祝う「重陽の節句」に繋がる。 お酒の名前に「菊正宗」「菊の盛」など「菊」が付くのはこのため。今では、菊は弔事の花のイメージがあるが、昔はお目出度い花だった。今、菊が弔事の花になっているのは、ヨーロッパでお墓に菊を飾ることが日本に入ってきたからのようだ。 (十六) 奥山にもみぢふみわけ鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき 猿丸大夫(古今) 人里離れた奥山で、散り敷かれた紅葉を踏み分けながら、雌鹿が恋しいと鳴いている雄の鹿の声を聞くときこそ、いよいよ秋は悲しいものだと感じられる。 (十七) けふはもし君もや訪ふとながむれどまだ跡もなき庭の雪かな 藤原俊成(新古今) 今日は、ひょっとして君でも訪れてきてくれるんじゃないかと思って眺めているけど、 門に通じている庭の雪には、まだ何の跡も無いんですよ。 女になって詠っている。こういうことはよくあった。(十八)へだてゆく世々のおもかげかきくらし雪とふりぬる年の暮れかな 藤原俊成女(新古今)振り返ればいろいろなことがあったけれど、この降る雪が空を覆い隠してしまうように、昔の面影を忘れさせてくれる、そんな年の暮れです。目からウロコ的お話しが多く、とても勉強になりました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/21
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【2017年3月21日(火)】 今日は、雨。夕刻から月イチの津軽三味線レッスンですが、午前中にガイド会の研修があったので(こちら)、三味線を持って研修会場へ。雨の中、傘を差して、三味線をかついで、五条烏丸から烏丸丸太町のハートピアまで歩きました。 お昼に研修が終わって、レッスン会場のある四条河原町まで、また傘差して、三味線をかついで歩きました。しかし、レッスンは午後5時から。時間はたっぷりあります。会場の事務所に三味線を預けて、久しぶりに回転寿司でビールもいただいて昼食。 ほろ酔い気分で、三条通の京都文化博物館へ。京都検定の合格証で、総合展示が3月いっぱいまで無料で観ることができるためです。先日家内と「戦国時代展」を観に来て、そのとき総合展示は駆け足で観ただけでした。今日は、じっくりとユネスコ記憶遺産の「東寺百合文書」を観たかったのです。しかし、行ってみたら今日は休み。いつもは月曜日が休館なのですが、月曜日が祝日だったので、火曜日が休みだったのです。ショック。 近くのスタバで、持ってきていたポータブルDVDで溜まっていた録画番組を観て過ごしました。これはこれでOK。 午後5時からのレッスンは、いつものように、女性3人(一人は小学生、一人は高校生)に囲まれての楽しいレッスン。新しい課題曲の追加はなしです。 2日前の「津軽じょんがら節」の練習の録音です。十字屋カルチャー教室が入る「シカタビル」。河原町の高島屋に隣接した9階建てビル。十字屋カルチャー教室は8、9階にあります。http://kyoto-lunch-info.seesaa.net/article/218686690.htmlGoogle Mapよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村-------------------------------------------------------------------津軽三味線練習カテゴリー投稿一覧http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=33
2017/03/21
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【2017年3月20日(月・春分の日)】 今日は、今年3回目の三重へのお墓参り。3連休で、交通渋滞が心配ですが、やはりお彼岸に行くことに。家内もいっしょです。 出発が少し遅くなって午前11時頃。往きは渋滞もなく、スムーズに三重に到着。いつもなら昼食の前にお墓参りですが、着いたのが午後1時に頃だったので、途中で買ったお弁当をまず実家で食べてからお墓参り。お彼岸なので、親鸞聖人御廟、母方祖母の遺骨のある納骨堂、お寺の阿弥陀堂と御影堂もお参り。親鸞聖人御廟納骨堂阿弥陀堂(手前)と御影堂 阿弥陀堂では、釈迦涅槃図が公開されていました。縦5m50cm、横4m。江戸時代後期製作と考えられ、円山応挙筆との言い伝えはありますが、誰の作品かは分からないようです。しかし、描写手法から、応挙門下の長沢蘆雪かその一派の作品であるのは間違いないとのことです。仏涅槃図解説 実家の空気の入れ替えをして、恒例になった駐車場の溝の土除去を半ブロックだけしました。今まで2回は1ブロックずつしてきましたが、今回は量が多くて、持って行ったビニール袋では半ブロックしか除去できませんでした。もっとビニール袋を持っていけばいいのですが、途中で処分しようとすると量にも限界がありますから。このペースでは全部除去するのに、毎月行ったとしても、1年半くらいかかりそうです。 帰りは、やはり四日市インターから長距離渋滞。関インターで伊勢道を一旦降りて、土山インターから第二名神に乗りました。草津から京滋バイパス笠取トンネルも渋滞でした。 帰りのサービスエリアで、家内はいつものように、テニス仲間との談笑用に赤福を買いも求めましたが、私は久しぶりに津名物の「平治煎餅」を買いました。素朴な味のお煎餅です。【平治煎餅の由来】 阿漕海岸に暮らす貧しい漁師の平治は、母と妻子4人で暮らしてました。 ある時、母親が風邪をこじらせて病が重くなりますが、医師にかけるお金がなく、平治は伊勢神宮ご用の禁漁区からヤガラという栄養のある魚を獲り母に食べさせました。 そのおかげで母の病気は日増しに良くなりましたが、禁漁区をおかす者がいると噂になり、日に日に取り締まりが厳しくなりました。 それでも、母に与えたいばかりに禁漁を続け、ある夜、ついにみつかり逃げ帰りました。しかしその時平治は海辺に笠を置き忘れ、これが証拠となり捕えられ、す巻きにされ阿漕浦沖に沈められました。 平治せんべいは、この平治が忘れた笠にかたどって作られたお菓子です。 天気良く、暖かい一日で良いお墓参りなりました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/20
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2017年3月19日、読売新聞の記事。 年に一便しかなかったバスと、ほぼ同じルートを走るバスが定期便で営業開始するというニュース。「幻のバス」は従来通り残るらしいです。 昔の記事を振り返ります。 この幻のバスは、私が粒子線治療中の2015年3月19日の新聞で紹介されました。 →こちら これで話題となって、その運行日には混雑し、バスが増発されたという記事も掲載されました。 →こちら よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/19
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【2017年3月19日(日)】 去年、東寺の五重の塔のガイドを担当したとき、東寺のことを勉強するために、東寺の売店で2冊の本を買いました。 一冊は「東寺行こう」という本で、去年12月に読み終わり、こちらに投稿しました。 引き続き読んだもう一冊の本がこの本です。買ったときの投稿はこちら。 以前はガイドの行き帰りのバスでは、本を読んでいましたが、最近は溜まったDVDを観ているので、読書時間はベッドに入ってから眠くなるまでの僅かの時間です。ですので、読み終えるのに3ヵ月近くかかってしまいました。読了は3月12日でした。題名 :東寺の謎著者 :三浦俊良(しゅんりょう)発行所 :祥伝社(祥伝社黄金文庫)発行日 :2001年4月21日 初版第一刷ページ数:364ページ価格 :本体619円+税読書期間:2016年12月25日~2017年3月12日 著者は東寺の塔頭・宝菩提院の住職。僧によって書かれた本で、一般の観光ガイドブックとは違って、宗教的に彫り下げられた内容です。東寺の歴史を、詳しく学ぶことができました。 特に廃仏毀釈、戦後の荒廃、学校運営、著者の生い立ちなどは、この本ならではの内容です。これからの観光ガイドにも大いに役に立つと思います。 今日は、家内は高槻の実家の両親・義姉といっしょに吹田のほうにお墓参りでした。私は散歩以外は外出なしのOFFの日でした。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/19
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【2017年3月18日(土)】 今日は、「京の冬の旅」の最終日で、養徳院勤務のガイド締め慰労会があり、八木邸勤務(こちら)の後、壬生から会場の室町通高辻下ルの「創作料理とお寿司 希味(のぞみ)」というお店に向かいました。「京の冬の旅」のどの拠点も今日が最終日で、その多くが今日締めの慰労会をするようです。 暖簾も含め、お店の前に店名の表示がないので、一度行き過ぎてしまいました。町家を改装した隠れ家風の雰囲気のある和食飲み屋さんでした。飲みホ―付きで、4600円と場所、雰囲気、料理を考えるとリーズナブルなお値段でした。 写真はいずれも「食べログ」(こちら) です。料理写真は当日のものではありません。 途中でご住職も参加され、楽しいひと時でした。 私にとっては、去年10月~12月の東寺五重塔に次ぐ2つめの固定点ガイドでした。しかし、東寺五重塔は積極的な案内は団体さんのみでしたし、お金を扱う作業も不要でした。ですので、連続的にガイドをするという点でも、お金を扱う受付をするというのも初めての経験でした。そして、「冬の旅」「夏の旅」勤務プロセスも凡そ理解できました。大変勉強になった3ヵ月でした。 また、お寺のご住職、副住職、お手伝い勤務の方も、皆さん大変親切に、優しく接していただいたのもありがたかったです。いっしょに勤務したガイド会のメンバーも、我々新入りを暖かく指導してくださいました。特に、責任者の方が、ガイドに必要な資料だけでなく、途中からも背景資料もたくさん追加くださり助かりました。 この日のご住職のお話も、楽しく興味深いお話でした。特に文化財級の寺宝の維持・管理の苦労話からは、お寺の運営の難しさを改めて感じました。また、我々もお若い副住職さんから色々教えていただきましたが、「副住職も、逆に皆さんから色んなことを教えていただいて、成長したんじゃないかな。」というお話をいただいたのも嬉しかったです。それから、我々、副住職の達筆さと墨絵のお上手なのに驚きましたが、期間中に絵がどんどん上手くなっていったというのを、ご住職は感じておられたようで、それも「冬の旅」の隠れた副産物だなと思いました。 大きな問題なく無事に勤務を終えることができたことが何よりです。養徳院の特別公開は全く始めてだったのですが、ご住職からも、「今後も機会があれば、是非、このような特別拝観をしたいと思いますので、そのときはよろしく。」とのお言葉がありました。 この日は、ご住職や副住職から、色紙などのプレゼントをいただきましたが、それは後日紹介します。 楽しく、充実した3ヵ月に感謝し、八木邸の残り勤務をつつがなく終え、4月からの「旧三井家下鴨別邸」ガイドの準備を進めたいと思います。 明日はOFF日ということもあり、自分へのご褒美として、遠慮なく飲ませていただき、帰途に就きました。 (内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/18
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【2017年3月18日(土)】 今日は、「八木邸」の第15日。朝は最低気温2.1度と寒かったですが、昼間は最高気温14.5度と暖かくなりました。 多人数の団体さんがあり、2組に分けてのご案内をしました。ご案内が先でお抹茶が後のグル―プとお抹茶が先でご案内が後のグループに分けるのですが、この2つをほぼ同時に終わらせることがむつかしく、ご案内が先のグループの方に待っていただかなければならなかったのは反省点です。 そして終了間際に、一つハプニング。最終受付は、午後4時半で、午後4時半過ぎには最終ガイドに入って、午後5時前には終わるようにしています。しかし今日は午後4時50分くらいに来られたお客様がおられました。この時間だと、進行中のガイドは終盤に差しかかっているので、通常ですとお断りします。ところが、「せっかくタクシーで来たのに。」とおっしゃったので、お店の方に断って、もう1サイクル短時間でガイドを回しました。通常30分の説明を15分くらいに短縮はしましたが、お客様には喜んでいただけたと思います。 ガイド内容の続きです、前回(こちら)、浪士隊メンバーのほとんどが、わずか20日間しか壬生に居ただけで、江戸に帰ってしまったところまで書きました。 【京都に残留した浪士たち】 ほとんどの浪士が江戸に帰るなか、京都に残って、当初の目的である将軍警護と、京都の治安維持を完遂すべきだとの強い意志を持つ浪士が一部いました。 一つのグループが試衛館系と呼ばれる浪士たちです。試衛館というのは、江戸の日野にあった道場の名前で、そこに集っていた面々です。近藤勇、土方歳三、藤堂平助、井上源三郎、山南敬助、沖田総司、永倉新八、原田佐之助の8人です。 もう一つのグループが、水戸藩を脱藩した浪士たちで、水戸系と呼ばれます。芹沢鴨、新見錦、野口健司、平山五郎、平間重助の5人です。 8人と5人、合計13人。いずれもそのとき、八木邸に寝泊まりしていた面々です。この13人が清河八郎と分かれて京都に残りました。【新選組発足】 京都に残ったものの、いわば失業者。幕府にお役に立ちながらの働き口を見つけなければなりません。13人は連名で京都守護職の配下で働かせて欲しいという「嘆願書」を書きます。京都守護職・松平容保公はじめ約1000人の武士は、壬生とは京都の中で対角線上で正反対の北東の方向にある金戒光明寺に駐屯していました。金戒光明寺は今も大きなお寺で残っています。「嘆願書」を持って、13人の代表が金戒光明寺に出向き、松平容保公に謁見します。彼らが嘆願に行くことを前もって幕府から知らされていた容保公は願いを聞き入れ、守護職預かりという形で配下に加えるとのことになります。「預かり」とは非正規部隊という意味です。 13名は大変喜びます。お役に立てるということはもちろんですが、お給金をいただけることになったわけですから。八木家の長屋門に「松平肥後守御預新選組宿」の標札を掲げて活動を開始します。ですので、八木邸が「新選組発祥の地」と言われるわけです。 しかし、13人ではあまりにも人数が少な過ぎますので、隊士を募集します。その結果、30人強が集まります。八木邸だけでは宿所が足りませんので、道路を挟んで向かい側の前川邸や南隣の南部邸にも分宿しました。南部邸は今はありませんが、前川邸は建物が残っていて、門をくぐって、外からですが(土日祝日には新選組グッズ屋さんが営業)、建物をご覧いただくことができます。 そして新選組が訓練をしたのが八木邸の南にある壬生寺です。壬生寺の地下の展示場に行きますと、「境内で新選組が訓練をした。ときどき大砲の訓練もして、お寺も迷惑をした。」などという記録もご覧いただけます。【局中法度】 そうやって新選組の活動が開始されますが、所詮、寄せ集めの荒くれ者の集団です。放っておくと何を仕出かすか分かりません。そこで、土方を中心として「新選組局中法度」という厳しい掟が作られます(下記参照)。 今の言葉で言いますと、・武士道に背いてはいけない。・新選組を辞めることは許されない。・勝手にお金を貸し借りしてはいけない。・勝手に訴訟を取り扱ってはいけない。・私的な闘争や斬り合いをしてはいけない。 もし背いたら、切腹を命じる。 このような処罰の非常に厳しい掟が作られました。【芹沢鴨と新見錦の蛮行】 しかし、それを破る輩がでてきます。水戸系の一部の隊士、芹沢鴨と新見錦です。 芹沢鴨は初代局長も務めた重要人物。その重要人物自らが、局中法度を破る狼藉を繰り返します。 壬生の南1キロくらいのところに島原という遊廓街がありました。そこに角屋という料理屋があります。角屋は今も残っていて、料理屋さんはもうやっていませんが、古い建物の中が「角屋もてなしの文化美術館」として見学することができます。この角屋で新選組は時々宴会を催しました。そこで客扱いが不満だと芹沢鴨が大暴れし、調度品を壊してしまい、角屋が一週間くらい営業ができなくなってしまいました。 大阪に隊士を連れて相撲を観にいったとき、力士一人を斬り殺してしまいます。 鴻池善右衛門という大商人(今の三菱東京UFJ銀行に繋がる三和銀行の礎を築いた人)から、200両(今の千数百万円)という返しもできないような大金を借りてしまいます。 京都の大和屋という商人から借金をしようとしたのすが、断られたので、大和屋の家に火を付けて全焼させてしまいます。 菱屋太兵衛という呉服屋は、新選組の有名なダンダラ模様の制服を仕立てたと云われています。その集金に店の者が行ったところ、芹沢鴨に刀で脅されて集金ができません。止むなく太兵衛さんは、自分のお妾さんであった「お梅さん」という人を集金に行かせます。当時は集金がうまくいかないと色仕掛けで集金をしたこともあるようです。ところが、集金に行ったお梅さんは芹沢鴨に手篭めにされてしまいます。そして、お梅さんは芹沢に心を移し、芹沢の情婦になってしまいます。 こんな乱暴狼藉が続きました。 新見錦は、それに輪をかけた蛮行を繰り返します。【新見錦切腹】 このようなことが京都守護職・松平容保公の耳に入ります。これは放っておけないとうことで、近藤勇に「芹沢一派を何とかせよ」との密令が下されます。 そして、文久3年9月8日、新見錦が新選組の仲間によって、祇園新地の料亭山緒というところに呼び出されます。新選組結成から半年くらいしか経っていません。ということは、その半年という短い間に多くの蛮行を繰り返したということです。行なってきた悪行の数々を追及されて、切腹を強要され、新見錦は切腹して亡くなります。 さらにその10日後の9月18日の夜、八木邸で惨劇が起こります。(続きます) 八木邸勤務の後、「京の冬の旅」養徳院のガイド締め慰労会に向かいました。後刻、投稿します。→こちら(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/18
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【2017年3月17日(金)】 今日は、がん復帰後30回目のゴルフ練習。今年初練習。午後から家内がテニスで車を使うので、朝9時半ごろいつものアルバ練習場に行きました。 前回の練習が去年12月13日でしたので、3ヵ月ぶりの練習です。サラリーマン現役の頃は、冬でもラウンドしたし、練習も行きましたが、今はあえて冬にラウンドも練習もしたいとは思わなくなりました。何が原因でしょう。色々あるように思います。 最も大きな理由は、仕事の質が変わったということかなと思います。 サラリーマンの頃は、仕事に行くのが楽しいと思うことはあまりありませんでした。せめて休みの日は自分の好きなことをしたいと思い、寒い冬でも、せっせとゴルフをしていたようなところもあるのかなぁという気がします。今はどうでしょうか、趣味を延長したような観光ガイドの仕事をさせていただいて、しかも僅かとはいえ、報酬もいただいている。いわば仕事のストレス解消という意味でのゴルフは不要なのです。 もう一つは、運動不足解消としてのゴルフが不要になったこと。観光ガイドとして身体を動かす仕事をしていることと、その通勤をできるだけ徒歩にしていることで、十分過ぎるほど歩いています。むしろ体力を普段使い過ぎているので、せめてガイドのない日は身体を休めたいと思うところがあります。 それと、事務所での仕事と違い、冬のガイドの仕事は自然環境が厳しい。あまりの寒さで、シモヤケができたくらいです。あえて、休みの日にお金払ってまで寒いことをしたくないという思いも。 さらに練習してもどうせうまくならんのやから、あえて寒い日に行ってもという思いも。 まぁ、そうはいっても、やはりゴルフは楽しいし、人とのおつきあいも大切にしたい。そんなことでゴルフは細く長くやっていきたいと思います。 で、この22日が今年初ラウンドとなっているので、今年初練習となった次第です。 疲れが残らないように、筋肉痛にならない程度に、そして手にマメができない程度に、そしてお財布と時間にやさしく、60球くらいの打球とパター練習だけで切り上げました。早朝は打席料無料で1球8円ですから、ワンコインです。 ドライバーが飛びません。キャリーで150ヤードくらい。去年は180くらい飛んでいたのに、久しぶりだからなのか、歳のせいか、何か打ち方が違っているのか。あまり膝をひねらないようにして、下半身を安定させて、ようやく150を超えるようにはなりました。 フェアウェイウッド、アイアンともやはり飛距離は落ちていますが、あまり変な当たりはありませんでした。60球ですので、アプローチは練習せずです。 パターはイップスをずっと引きずったままです。去年シーズンが終わってから思いついたことを試してみました。バックスイングで、頭もいっしょに動かすことで真っすぐヘッドを引いて真っすぐという考え方です。パターはバックスイングで頭を動かさないというのが基本と言われていますし、プロの試合を観ていても、誰一人動かす人はいませんでした。でもイップスに陥っているので、ダメ元で何でもトライです。今日やってみて、悪くはありませんでした。とにかく本番でやってみましょう。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________「日本でのゴルフ」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=7「ゴルフ他@米国」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=3
2017/03/17
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【2017年3月16日(木)】 養徳院第16日目の勤務です。「京の冬の旅」は3月18日(土)が最終日。私の勤務は今日が最終日です。「京の冬の旅」は、もっと長くてもいいのに、何故この時期に終わってしまうのでしょう。3月下旬以降は、「暑さ寒さも彼岸まで」というように、気候もよくなるし、春休みになるし、少しすれば桜の季節。宣伝しなくても、あるいは何か企画しなくても、お客様は来ていただけます。京都の強みです。しかし、寒い冬、暑い夏は、さすがの京都も人出が少なくなります。それで「京の冬の旅」、「夏の旅」が企画されているわけです。「東山花灯路」、「嵐山花灯路」、「京の七夕」しかりです。 まだまだ寒い一日でした。最終日が迫っているせいか、平日にしては多いお客様の数でした。今日の私の担当は受付。受付は3回目です。受付は2回経験していて、2回目は落ち着いて短時間でできました。 今日も問題なくできると思ったのですが、事前の締めで、計算が合わない部分があり、時間を多く使ってしまいました。反省です。有終の美を飾れなかったのが残念です。 受付をしていて、ご朱印のところに座っておられる副住職と色々お話することもあり、お寺を継ぐことについて、若いころどう考えていたかといようなこともお聞きすることができました。意外だなと思う部分、驚いた部分もあり、ご紹介申し上げたいところですが、プライバシーに配慮して控えます。 前回、室中の間、寺宝「鉄庵道生賛山水画」、「鑑真和上請来鉄鉢」、「曽我直庵白と黒の鷹図」の説明をしました(こちら)。 引き続き、お庭の案内をします。 お庭は、苔の枯山水です。妙心寺は北山の山裾に位置しており、この養徳院も緩やかな傾斜面に建っています。そのため、普通の目線より高い目線でお庭をご覧いただくことができます。苔の枯山水のお庭です。名前は特にありません。誰か高名な作庭家が作ったものではなく、この養徳院のご住職が、天塩に掛けて整備されてきたお庭です。 真ん中やや右に背の高い灯籠があります。宝珠の部分が長く、花が咲いたようになっているのと、笠の部分も長いのが特徴で、変形春日燈籠と呼ばれる形です。 左手奥には十三重の石塔があります。栃木県の那須から移築したものです。近くまで寄っていただくと、背が高いということが実感いただけると思います。上の相輪の部分が食パンの耳のようなもので取り囲まれています。十三重の石塔としては珍しいかたちです。台座の部分に石仏が彫られています。四方に彫られた「四方仏」で、東に薬師如来、西に阿弥陀如来、南に釈迦如来、北に弥勒菩薩が彫られています。優しいお顔をされており、養徳院のご朱印の一つにも描かれています。 お庭には、赤松、黒松、楓の他、右の方に台杉があります。中央やや右に地を這うような枝ぶりの木は「フジ」です。藤棚にぶら下がっているのを鑑賞することが多いですが、このような寺院のお庭ですと、景色を隠すことになるので、意識的に地を這うような剪定がされています。滝が流れ落ちるような咲き方になるとのことです。 その他、「冬の旅」が始まった当初は、千両、万両の赤い実がご覧いただけました。クチナシの実もご覧いただけます。そして今は、梅の花が満開です。 庭の南の塀の向こう側は墓地になっています。その入り口を入ってすぐ左側には石河家の墓所がございます。その近くの桜の木は、円山公園の有名な「祇園枝垂れ桜」の孫桜です。6年前に12年物の苗木を植えて育てられています。咲いたときの写真が廊下の上に掛けられています。 このことは説明しませんが、石河家墓所の左側奥には、性被害者の引き揚げ女性に「人道中絶手術」を施した秦禎三(1912-2001)医師を顕彰する石碑が平成14年に養徳院・横江桃国ご住職によって建立されました。「戦争がもたらした悲劇の史実とい故人の勇気を後世に伝え、二度と戦争を繰り返さない誓いを深めたい」と願われています。 また墓所左隣には、衛藤(えとう)正治という税理士の方が奉納された秦先生を讃えるために建てられた小屋があります。中央:石河家墓所、右:枝垂れ桜(祇園枝垂れ桜の孫)、左:衛藤正治氏奉納の小屋(秦先生を讃える)http://shukatsu.nifty.com/haka/kyoto/kyotoshiukyoku/haka001309/ あと庭で目を惹くのは、白い木肌のサルスベリの木です。なかなかこれほど立派な枝ぶりのサルスベリを見ることはありません。樹齢350年くらいとのことです。白い花が咲くとのことです。その下の灯籠がカワイイ形をしています。そのそばに、「思いのまま」という品種の梅が咲いています。一つの花の中に、白とピンクの花びらが混在している珍しいものですが、残念ながら、そうなっているのはこの頃は一つくらいしかないようです。 お庭は受付を出て、右のほうに回っていただくと出ることができます。 以上が、一通りの説明内容ですが、実際の説明では、込み具合に応じて、説明内容は取捨選択しています。 これで延べ16日間の養徳院勤務が終わりました。うち12日間が説明員、3日間が受付、1日が当日責任者でした。これに加え、無報酬ですが、事前説明会が1日、受付の指導が1日ありました。説明は最初は緊張しましたが、次第に慣れ、すぐに上手く説明できるようになりました。団体客対応のコツも理解できました。公開が初めての寺院ですが、養徳院全体責任者の方が説明用の資料や補足資料をこまめに作成してくださり、とても助かりました。途中で新たに分かったことも資料として付け加えてくださり、説明の深みを増すことができました。他の方が全体責任者だったら、こうはいかなかったと思います。深謝です。 寒さが堪え、久しぶりにシモヤケもできました。先輩方に色々ご指導をいただき、なるほどと思ったことも多かったです。立ち位置が悪く、監視が疎かになっていたこと、混み具合で必要に応じ説明の長さを変えること、漢字の読み間違いなどなど。でも、中にはご自分の狭い価値観だけで指導される場合もあります。先輩方に敬意を払うことは大切ですが、自分自身が是々非々をしっかり持っておくことが大切なことを改めて実感しました。 当日責任者、受付も経験させてもらって一通り理解できました。受付について3度経験させていただいたにもい拘わらず、最後も集計に手間取ったのが唯一の反省事項です。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。) -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/16
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【2017年3月15日(水)】 朝、みぞれが降り、風も強く、お天気の不安定な一日でした。家内はテニスで外出でしたが、私は、散歩以外は外出せずの一日でした。 観光ガイドは、3月は修学旅行の担当はなく、今のところ4月、5月まで次のように担当が決まっています。・4月2件~講師熱地方中学校、北陸地方中学校・5月5件~東海地方小学校、北陸地方中学校、関東地方中学校、東海地方中学校2件 去年は、研修として付き添いのようなかたちで中学校2件、正式担当として小学校1件でした。この春から件数が増えますし、固定ガイドも担当しながらになるので、去年のように一校に多くの準備時間を割けなくなります。効率よく準備をする必要があります。 1週間ほど前に、4月25日担当の中学校の班別行動予定表がガイド会事務所から届きました。今日それに対してレスポンスレターを作成して、事務所に送付しました。 私のレスポンスレターは、地図を組み入れたものにしています。 計画では1時間程度時間が不足します。こういう場合、外すべき寺社を提案せず、生徒側に委ねるのがいいと思い、「計画の寺社を全部回ったら1時間程度不足するので、班で外すべき寺社を考えておいてください。当日朝相談しましょう。」としました。また、最終訪問地が夕方の集合場所から遠いと、渋滞の影響で遅れることもあるので、集合場所に近いところを最後に訪問する提案もしました。 当日の朝の生徒さんとの打ち合わせが最終決定の場となります。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/15
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【2017年3月14日(火)】 7回目送付の「マイカルテ」のフィードバックが粒子線医療センターから返送されてきました。送付したのは1月17日。そのときの投稿はこちらです。 質問のポイントは下記でした。 ・CVポートを除去してもよいか。返信コメント 上記のように、CVポート除去OKとのこと。 次回M病院の診察(4月7日)で、このことを伝え、CVポート除去の手術日程を決めることになります。恐らく1泊2日の手術です。 これが終われば、1ヵ月に一度のCVポートのフラッシュは必要なくなります。また、腎不全指標のクレアチニンも安定しているので、血液検査も1ヵ月に一度でOKです。ですので、3ヵ月に一度のCTと血液検査ということになると思います。経済的負担、時間的負担が軽減されます。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_________________________________過去の治療履歴は下記を参考にしてください。がん治療日記:http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10がん治療振り返り:http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2017/03/14
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【2017年3月14日(火)】 今日は、「八木邸」の第14日。晴れると暖かいですが、曇ると急に寒くなる日でした。 途中で私のエリアグループの某先輩さんが見学に来られました。この方は我々新人が研修を受けたときの責任者でもあり、お世話になった方です。 私のガイドへのコメントは紙芝居の字が一部小さいところがあるのが気になるくらいで、あとは良かったとのこと。この字の大きさは私もまずいと思っていた点で、いずれは修正しないといけないと思っていたところでもあり、合点です。もうお一人の先輩ガイドさんは劇画調ですごかったとのこと。ただ、私には出来ないことであり、私としては、今の路線の分かりやすく、誠実なガイドを心がけたいと思います。 ガイド内容の続きです。今まで、先に建物や庭の説明を書いてきましたが、これらは後半で説明する内容なので、これから書いていくのが、最初の部分です。【長屋門と主屋】 お客様にくぐっていただく長屋門、そしてガイドをする主屋とも文化年間、1800年代の初めに建てられた建物で、築200年以上経過しており、民家としては非常に古い建物です。「おもや」は普通「母屋」と書きますが、ここでは「主屋」と書くことにしています。 これらの建物が建って、約50年後の文久3年(1863年)に、新選組がここ八木邸で誕生しました。【開国】 江戸幕府は鎖国政策をとっていましたが、嘉永6年(1853年)に、アメリカからペリー提督が浦賀に黒船で来航して、開国を要求します。 開国に反対する尊王攘夷派と佐幕派がにらみ合うことになりますが、ついに江戸幕府は安政5年(1858)に天皇の許可を得ることなく日米修好通商条約を締結します。そして、それに反対する尊王攘夷派の人たちが投獄されたり、処刑されたりという安政の大獄が起こります。 その2年後、それに反発した尊王攘夷派が井伊直弼大老を暗殺するという桜田門外の変が起こります。太平の世の中だった江戸時代が、どんどん血生臭い世の中に変わっていきます。【京都守護職】 特に京都は天皇のお膝元で、大きく揺れ動きます。文久2年(1862)になると、「天誅」の名のもと、一部の過激な尊王攘夷派の人たちによる、佐幕派の人たち暗殺が繰り返され、非常に治安の悪い状況に陥っていきます。 それまで京都所司代とか、京都町奉行とかの治安維持組織はちゃんとありましたが、それだけでは制圧し切れないと考えた江戸幕府は、新たに京都守護職という治安維持組織を設置します。その長に任ぜられたのが、会津藩主・松平容保(かたもり)公です。あとで、この容保公が新選組発祥に大きく関わります。【浪士隊結成】 当時の天皇は孝明天皇です。実質的な京都最後の天皇です。妹君に皇女和宮様がいらっしゃり、公武合体のための政略結婚で、第14代徳川家茂(いえもち)将軍に嫁がれます。そして家茂将軍が和宮様のお兄様である孝明天皇にご挨拶、すなわち謁見するために、江戸から京都に来ることになりました。 ただでさえ治安の悪い京都に将軍が行くことになりましたので、将軍をしっかり警護するために、江戸幕府は腕に覚えのある浪士たちを江戸で募集します。234名もの多くの浪士が集まります。徳川家ゆかりの小石川伝通(でんづう)院という寺院で文久3年2月6日に結団式をして、2日後の2月8日に江戸を出発し、中山道を経て、2週間かけて2月23日の夕刻にこの京都の壬生に到着します。 【壬生村】 壬生の地が選ばれたのにはいくつか理由があります。一つには将軍が京都に来られるとき宿泊するのは二条城です。壬生はその二条城に近いということ。さらに壬生郷士と呼ばれる人たちが多く住んでいたこと。壬生郷士とは元は武士の身分でありながら農村に住み、農民たちを束ねて壬生の地域経営をした地方(じかた)役人です。広い屋敷を所有していたので、浪士たちを宿泊させるスペースがありました。また八木家はじめ、壬生郷士たちが、京都所司代や奉行所と繋がりを持っていました。こういうことが理由で、浪士たちの駐屯所として壬生村が選ばれたようです。今でこそ建物が建てこんでいますが、当時は周りは畑や田んぼで、京都の外れの文字通りの「村」でした。【清河八郎】 浪士たちが壬生に着いた2月23日のその晩、浪士隊の盟主・清河八郎が、八木邸の東南にある新徳禅寺に浪士たちを集めて演説をします。清河八郎は現在の山形県、出羽の国、庄内藩出身の志士です。新徳禅寺は今もその場所にあり、外からご覧いただくことができます。新徳禅寺に集められた浪士たちは、清河八郎が「これから将軍が来られるので、しっかり警護をしよう。」という決意表明をすると思ったところ、そうではなくて、「天皇を奉り、外国に立ち向かっていく。いっしょに闘おう。」との尊王攘夷の演説でした。当初の目的と全く反対の内容ですので、浪士たちは最初はびっくりしますが、清河八郎の演説があまりにも鮮やかで説得力があったので、浪士たちの多くは賛同してしまいます。 これを聞きつけた江戸幕府は驚きます。江戸幕府が集めた浪士たちなのに、幕府に楯突く行動をしようという訳ですから。幕府は当時発生した生麦事件で対外的危機を迎えていることを口実に彼らを江戸に呼び戻します。 ですので、清河八郎始め、ほとんどの浪士は、壬生にわずか20日間滞在しただけで、江戸に戻ってしまいます。(続きます)(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/14
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【2017年3月14日(火)】 本日、ブログのアクセス数が、1,111,111回の「ぞろ目」に到達した瞬間をクリップできました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/14
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【2017年3月13日(月)】 養徳院第15日目の勤務。曇りのお天気でしたが、暖かい一日でした。後で調べたら、京都の最低気温5.5°、最高気温14.7°でした。 今日は初の当日責任者でした。今回の拠点責任者の配慮で、我々新人は、2月に二度、3月に一度の受付担当ですが、当日責任者は最終月(今月)に一度だけの担当となっています。 今までの勤務の中で、当日責任者の仕事を見てきているので、あまり不安はありませんでした。団体客があれば、それに対する臨機応変の対応が求められますが、今日はそれもなし。そ拝観料やクーポン券の締めは、どこまでが受付担当で、どこまでが当日責任者担当かが必ずしも明確でないところがあり、受付と当日責任者のチームワークで乗り切らざるを得ないところがありますが、今日の受付が拠点全体責任者のTさん♂でしたので気が楽でした。細かいところでは色々ありましたが、全体的には、あまり困ることもなく、無事に終えることができました。 説明員ですと、ずっとしゃべり詰めで、緊張の連続ですし、受付は金銭を扱う緊張感があり、締めのときも大変だし、寒い場所での勤務です。それに比べると当日責任者は責任という意味では大変だし、気遣いが必要ですが、弛緩できる時間もあり、体力的には他の持ち場に比べると楽だなぁというのが実感です。 「冬の旅」が終わりに近いこともあるためか、平日としては多くのお客様にお越しいただきました。 また同期のTaさん♀、Abさん♀が見学に来られました。 それから交替で受付をしているとき、外人さんが来られ、英語で応対したのですが、副住職もご朱印を書いておられる場所から、流暢な英語で応対されていました。伺うと、中学校時代にニュージーランドに1年間留学していたとのこと。仏教系の学校に行かれていたのではないんですか?と聞いたら、成安中学で無宗教の学校だったとのこと。いやはや、達筆さ、絵の才能に加え、英語も堪能、スーパーお坊様です。 さて、ガイド説明内容の続きです。 第一の持ち場では、養徳院の歴史、寺紋、「酒茶論」の説明が基本ですが、その部屋に置いてある屏風がインパクトあるので、それについても触れることが多いです。時間に余裕があれば、トリビアとして、その部屋の柱に掛けてある「竹篦(しっぺい)」の説明もします。しかし、これらは本題ではないので、ここでは省略します。 第二の持ち場は、室中の間でのご本尊、襖絵の説明と、南側2部屋での3つの寺宝、お庭の説明です。【室中の間・ご本尊・襖絵】 室中の間は、お寺で最も大切なお部屋で、ご本尊、ご位牌が祀られています。 厨子の中のご本尊は小ぶりです。安土桃山時代に養徳院が創建されたときに作られたもので、一見金属性に見えますが、木彫です。真ん中に宝冠の釈迦如来、向かって右に白象に乗った普賢菩薩、向かって左に赤い獅子に乗った文殊菩薩の組み合わせで、釈迦三尊像になっています。多くの場合、向かって右が文殊菩薩、向かって左が普賢菩薩ですが、ここでは逆になっています。 ご本尊の向かって左に石河(いしこ)家代々の方々のご位牌、向かって右に養徳院歴代のご住職のご位牌が安置されています。 須弥壇の下両側に阿吽の獅子の図、真ん中に牡丹の図があります。唐獅子牡丹です。これらと襖絵は、大正期から昭和期の画家、渡辺泰河(たいが)が描いたものです。この養徳院が現在の地に移築された昭和10年頃に描かれたものです。他の部屋の襖絵、南東の部屋に掛けられた十牛図の額、玄関の衝立の絵も渡辺泰河によるものです。 渡辺泰河氏は昭和47年に亡くなったのですが、石河家にゆかりが深い方とのことで、ご位牌が石河家代々の方々といっしょに安置されています。同じく「冬の旅」で公開しているお隣の大雄院(だいおういん)にも渡辺泰河の襖絵がありますが、大雄院では柴田是真、土岐済美の襖絵が中心なので、積極的には説明していないようです。「室中の間」の写真は、下記の「養徳院」のところを参照。https://kyokanko.or.jp/huyu2016/huyutabi16_01.html【鉄庵道生賛 山水図】 室中の間の南隣の間に置かれたケースの中の掛け軸「山水図」が、2つ目の寺宝です。絵の作者は不明ですが、はっきりしているのは、左上に鉄庵道生(てったんどうしょう)の賛が入っていることです。鉄庵道生は鎌倉時代の僧で、祇園の南にある臨済宗建仁寺派の本山・建仁寺の第39世住持を務めた高僧です。 書いてある賛は、中国唐の時代の有名な詩人・王維の書いた「鹿柴(ろくさい)」という題の漢詩です。鹿柴とは、鹿を囲うための柵を意味しますが、ここでは王維の別荘があった地名を指します。空山不見人但聞人語響返景入深林復照青苔上くうざんひとをみずただじんごのひびきをきくのみ へんけいしんりんにいりまたせいたいのうえをてらす木の葉が落ちつくしてひっそりと静まりかえった山の中に人かげは見あたらない。しかしどこからか、わずかに人の声が聞こえてくる。夕日の照り返しが奥深い林の中へとさしこんで、みどりの苔を照らし出している。 不思議なのは縦書きなのに左から書かれている(サインが右に書かれている)のと、改行位置が五字の途中だったり、一字「入」という字が抜けていたりすることです。鉄庵の遊び心ではないかと思われます。 鉄庵道生はある功績を残しています。「鈍鉄(どんてつ)集」という漢詩集を著していますが、その中に「博多八景」と題する七言絶句の漢詩があります。中国の北宋時代に長江中流の洞庭湖周辺の景色を詠んだ「湘瀟八景」にならい、博多の8つの風景を漢詩に詠んだものですが、日本で最初に八景を詠んだものです。現在の、「近江八景」「金沢八景」など「××八景」という表現の先駆けになったものです。【鑑真和上請来「鉄鉢」】 次にその西のお部屋に置かれた第3の寺宝です。 黒い大きな鉄の鉢、「鉄鉢(てっぱつ)」です。托鉢で食物などを受けるのに用いるものです。鑑真和上が奈良時代に中国から日本に来られるときに持って来られたものと伝わります。目が見えなくなくなるなどして苦労して大宰府に着いたのですが、何とか辿り着けたのは八幡大神のご加護によるものだとのことで、この鉄鉢は宇佐八幡宮に奉納されます。 その後行方知れずになっていたのですが、北九州小倉の開善寺という末寺の桂州和尚が、夢で八幡大神から「朽ち果てぬ前に早くこの鉄鉢を探し出しなさい。」というお告げを受けます。このお告げに従い発見・修理して、本山のほうに奉納されました。そういったことが、いっしょに展示されている由緒書きに書かれています。 由緒書きの一つの最後のほうには「この鉄鉢を見たものは、厄災を逃れ、福が訪れる」と書かれています。お客様に「せっかくですから穴が開くほど見つめてください。」と促します。そして「実は穴が開いています。托鉢に使うものなので、重くないよう薄い作りになっていて、錆びて穴が開いています。」【曽我直庵筆「鷹図」】 「よく見ていただきましたら、最後の寺宝です。床の間のお軸をご覧ください。」 拝観券にも印刷されている白と黒の阿吽の「鷹の図」です。安土桃山時代から江戸初期に活躍した画家・曽我直庵による絵です。同時代には狩野永徳、長谷川等伯、海北友松など名立たる絵師たちが活躍していますが、曽我直庵という名前はあまり聞きません。残っている絵が少なく、資料も少なく、謎が多い絵師というのが一つの理由です。 しかし、絵の評価は高く、高野山に重要文化財として指定されるものがあったり、京都では北野天満宮の宝物殿に豊臣秀頼が寄進した大きな絵馬で作品が残っていて、京都市の文化財に指定されたりしています。曽我直庵は曽我蛇足6世を名乗り、堺で活躍したこともあるようです。幽霊画で有名な曽我蕭白は、その10世を名乗っています。 この「鷹の図」はそういった希少な曽我直庵の絵ですので、将来公式な文化財として指定される可能性も高いと思われます。「鷹の図」 http://www.toretabi.jp/travel/kyoto_dc_2017_03/#content_04(説明内容は続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/13
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【2017年3月12日(日)】 今日は家内といっしょに、京都文化博物館での「戦国時代展」と先斗町歌舞練場での「邦楽舞踏名流会」に行ってきました。 車を京都文化博物館近くの立体駐車場に停めようとしたところ、係員の人から高さが入らないと言われて(プリウスαなので、そんなに車高が高いわけではないんですが)、駐車場をグルグル探し、結局河原町御池の市営地下駐車場へ。料金がよく分からないまま入りました。コインパークより高いかもしれませんが、地下街ゼストで買い物すれば割引きがあるので、買い物すればそれほどではないでしょう。 まず、京都文化博物館の「戦国時代展」へ。先日の講演会で「洛中洛外図屏風」のことを聴いて(こちら)、色々調べているうちに、上杉本の原本がこの展覧会で展示されていることを知りました。家内もその講演会を聴きに行きました。それで興味があるのか、喜んで同伴してくれるようでしたので、二人で行くことになっていました。しかし、途中で展示替えがあり、お目当ての上杉本洛中洛外図屏風の展示は今日までとのこと。二人とも都合がよいのが、今日くらいしかなく、ギリギリ間に合いました。お値段は一人1300円也。 上杉本洛中洛外図屏風(国宝)は米沢市上杉博物館蔵ですが、多くの上杉家文書もいっしょに展示されており、「織田信長書状」、「徳川家康書状」、「豊臣秀吉直書」など多くの国宝を観ることができました。国宝「上杉本洛中洛外図屏風」 織田信長から上杉謙信に贈られた狩野永徳の作品とされています。右隻https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9B%E4%B8%AD%E6%B4%9B%E5%A4%96%E5%9B%B3左隻https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9B%E4%B8%AD%E6%B4%9B%E5%A4%96%E5%9B%B3「織田信長書状」http://ameblo.jp/hiibon33/「徳川家康書状」 http://ameblo.jp/hiibon33/「豊臣秀吉直書」http://ameblo.jp/hiibon33/ 京都関係の重要文化財では、妙心寺蔵「達磨・豊干・布袋図」、北野天満宮蔵「北野天神縁起絵巻」、陽明文庫蔵「後法興院政家記」などが展示されていました。妙心寺蔵「達磨・豊干・布袋図」(南宋時代)達磨図:伝門無関画、豊干・布袋図:李確https://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?PageId=2&ctgy=31北野天満宮蔵「北野天神縁起絵巻」土佐光信画、三条西実隆詞書http://sengoku-period.jp/highlight.html その他主な所蔵元博物館・美術館や寺社は、東京都江戸東京博物館、陽明文庫、真田宝物館、毛利博物館、国立歴史民族博物館、山口県立山口博物館、九州国立博物館、厳島神社、真正極楽寺などです。 内容、展示品数とも大満足の展覧会でした。日曜日でしたが、滅茶苦茶混雑しているわけではなかったのもよかったです。 江戸東京博物館→京都文化博物館→米沢市上杉博物館と巡回中です。 総合展示も「戦国時代展」のチケットで入場でき、ユネスコの記憶遺産に登録された「東寺百合文書」の展示も観覧できたのですが、次に観る踊りの会の開始時間が過ぎていたので、素通りに近いかたちで観て、三条通を先斗町歌舞練場に急ぎました。 観覧したのは「邦楽舞踏名流会」という踊りの会です。私の所属するシニアガイド会の同期の方が、私が三味線をやっているということで、わざわざ送ってくださいました。この方の従妹さんと姪っ子さんが踊りで、お兄さんが三味線で出演されているとのこと。先斗町歌舞練場 詳しくは分かりませんが、プログラムを見ると、藤間流、花柳流、若柳流などの流派の方々の踊りの会のようです。タダでいただいたのですが、送っていただいたチケットには5000円と書いてあってマジックで塗りつぶしてあります。5000円ですので、発表会というのではなく、プロの方の踊りの会のようですが、チャリティー事業とあります。踊り手の方にノルマが何枚かあって、実際には踊り手の方がそれを買い取ってチャリティーとし、友達、知人に売るなりタダであげているのだと思います。 入場すると、席はいっぱいのようです。立ち見を覚悟しましたが、2階もあるので行ってみました。横の桟敷席に入ったところ、空いている席があったので、そこに座りました。会場を眺めると、1階も、2階の普通席も空いているところがたくさんあるようでしたが、面倒でしたので、そこで観続けました。 すでに3つめの長唄「松の羽衣」までプログラムは進んでいましたが、送っていただいた方の親戚の方が出られるのは、次の長唄とその次の常磐津でしたので、タイミングよくそこは観ることができました。 なお常磐津の演題「猩々(しょうじょう)」とは、古典書物に記された架空の動物で、各種芸能で題材にもなっており、特に能の演目である五番目物の曲名『猩猩』が有名です。真っ赤な能装束で飾った猩々が、酒に浮かれながら舞い謡い、能の印象から転じて大酒家や赤色のものを指すこともあります。その「猩々」 駐車場に5時間強停めました。30分250円(平日なら最大1500円。土日祝日は上限なし)でしたが、ゼストで3000円以上買い物をして1500円の駐車場場割引きしてもらって、結果的に1000円強の駐車料金でした。あとから調べたら、コインパークは、20分300円とか30分300円とかするようなので、市営駐車場に停めて正解でした。義父にもらった商品券が残っていたので、阪急オアシスで買い物して帰りました。 戦国時代の文化財、そして古典芸能と、いにしえの文化を堪能した一日でした。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/12
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【2017年3月11日(土)】 養徳院第14日目の勤務。土曜日なのに平日ダイヤの時間でバス待ちをしていました。お目当てのバスがなかなか来ないので、土曜ダイヤであることに気付きました。違うルートで間に合いました。慣れて来て緊張感が薄れているということでしょうか。気を付けなけらばなりません。 あと2回の養徳院勤務は当日責任者と受付ですので、今日が最後の案内係でした。 まだまだ寒く、結局、足にはカイロを付けての勤務でした。しかし、「冬の旅」も終わりに近づいた土曜日ということで、いつも以上のお客様で、よくしゃべった一日でした。 さて、説明内容の続きです。前回は「対鶴(むかいつる)」の寺紋について書きました(こちら)。 寺紋に続き、第一の持ち場の床の間に掛けられている寺宝「酒茶論」について説明をします。 石河家の拠点は美濃の国(現在の岐阜県)であり、今の岐阜駅の西の長良川沿岸鏡島(かがしま)というところに鏡島城を建て居城としていました。その城下にあった乙津寺が、石河家の菩提寺になっていました。この酒茶論は、その乙津寺(おっしんじ)の2世を務めていた禅僧・蘭叔玄秀によって天正4(1576)年に書かれました。蘭叔玄秀はのちに妙心寺の53世を務め、また織田信長が帰依した高僧です。 「酒茶論」は2000文字に及ぶ漢文体で書かれており、内容は次のようなことです。 お酒好きの「忘憂君(ぼうゆうくん)」と茶人の「滌煩子(じょうはんし・てきはんし)」の2人が、中国の故事を引き合いに出しながら、それぞれお酒とお茶の徳を論争します。お酒は憂いを忘れるので「忘憂君」という命名。「滌煩」は、世の中の煩わしい事をきれいさっぱりと洗い流すこという意味で、お茶の別名でもあるので、「滌煩子」という命名になっています。 そして、最後の2行くらいになって、第三者の「閑人(かんじん)」が現れます。閑人は、ひまじんという意味もありますし、風流人という意味もあります。閑人が言います。「お二人よ、言い争いされるな。お酒もお茶も両方とも素晴らしいものなんですよ。引き分け。」と仲裁して目出度く終わります。 漢字なのですが、行草体で書かれており、お客様に「座っておられるところからご覧いただいても、近くに寄っていただいても、読めないものは読めません。」と言うとたいてい笑いが起きます。 「ですので、最後の部分だけ、読める漢字で書き下してみましょう。 (フリップをお見せして) 松上雲閑花上霞 (しょうじょうのくもしずかなり かじょうのかすみ) 翁翁相對豪奢闘 (おうおうあいたいす ごうしゃのたたかい) 吾言天下両尤物 (われいうてんか りょうゆうぶつ) 酒亦酒哉茶亦茶 (さけはさけなり ちゃはちゃなりかな) 松上雲はお酒、花上霞はお茶を表わします。両尤物とは両方とも素晴らしいものという意味。酒は酒で素晴らしいし、お茶はお茶は素晴らしい。このような七言絶句で結ばれています。最後に近くに寄ってご覧ください。言われてみれば、そう書いてあるなというのがお分かりになると思います。」 なお、このような形式の読み物を「異類合戦物」と呼ぶのですが、そのようなものがよく読まれたようです。この「酒茶論」以外に、酒飯論・梅松論・油炭紙論なども作られました。酒茶論のオリジナルは乙津寺にもう一つあったのですが、第二次世界大戦の空襲で焼けてしまいましたので、今は養徳院のものしか残っていません。そういう意味でも貴重な寺宝です。 なお下の絵は、以前、副住職さんが、手本なしで即興で書いてくださったもので、説明のときに使わせていただいています。副住職さんが即興で書いてくださったと説明すると、皆さん驚かれます。達筆さといい、画才といい、副住職さんお若いですが、色んなことに秀でたお方です。そしてイケメンです。 帽子を被っているのが滌煩子、その隣が忘憂君。2枚目の写真の杖を持って座っているのが閑人です。 寺宝については撮影が禁止されていますので、「酒茶論」の掛軸の外観は、「京の冬の旅」ホームページをご覧ください。https://kyokanko.or.jp/huyu2016/huyutabi16_01.html(案内内容は、続きます) 勤務が終わってから、今日会計を担当した同期入会の某さんと花園会館でお茶しました。 私は今回何とか京都検定1級に合格することができました。1級合格の特典として、京都産業大学の特別客員研究員に応募することができます。採用されれば、1年間研究員として活動して、研究結果を発表します。その後、上席特別研究員として残ることも可能です。 ガイド業を始めて忙しくなりましたが、せっかく得たチャンスですので、今のところ応募しようと考えています。某さんは京都検定1級に以前合格して、現在研究員をされています。某さんから活動の内容を色々教えていただき、過去の研究発表資料などをお借りしました。応募するとすると、GW明けには研究計画書など応募書類を提出する必要があります。ますます忙しくなります。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/11
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【2017年3月10日(金)】 今日は、色々盛りだくさんの行程でした。大阪府下M病院「がん」経過観察(こちら)。 ↓京阪七条駅 ↓「京の冬の旅」妙法院 ↓昼食~王将 七条烏丸店 ↓確定申告提出~京都府中小企業会館(西大路四条下ル)(こちら) ↓「京の冬の旅」角屋 ↓「京の冬の旅」壬生寺 ↓ガイド会定例会(こちら) 京都部分の歩き距離は約14km。M病院通院部分も含めると16kmの歩き、歩数は27,500歩でした。 途中、京都中央卸売市場を横切りました。大学時代に冬休みにアルバイトした場所なので、懐かしい場所です。 各寺院やスポットの訪問記は時間がとれれば後日アップします。 記入いただいたコメントはこちら。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/10
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【2017年3月10日(金)】 午前中、大阪府下M病院へ「がん」経過観察の通院(こちら)。その後、京都に移動し、「京の冬の旅」の妙法院を訪れた後、京都府中小企業会館で確定申告を提出(こちら)、「京の冬の旅」の角屋、壬生寺を訪問、最後夕刻にガイド会定例会でした。 定例会での私に関係する特記事項としては、5月の修学旅行の日程が決まったことが一つです。これで、・4月2件~北信越地方の中学校、北陸地方の中学校・5月5件~北陸地方の小学校、関東地方の県中学校、東海地方の中学校2件となりました。固定点ガイドは一度準備すると、3ヵ月は新たな準備をする必要はないですが、修学旅行は個別に対応が必要です。去年1校だけ担当しましたが、それだけでも大変でした。慣れる部分もあるし、未訪問の場所もだんだんと少なくはなっていくはずですが、あまり根を詰めて時間に追われて、バランスの悪い準備にならないようにしないといけません。 もう一点は、某講座の講師を務めることになったことです。丸一日の座学+現地研修が何回か月から行われます。去年入会したメンバーが現地研修を担当することになっていて、私は、9月に二条城を担当することになりました。1日だけすが、知識のある方々の研修ですから、周到な準備が必要です。 写真:二条城 二の丸御殿https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%9F%8E(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/10
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【2017年3月10日(金)】 今日、今年の確定申告(平成28年度分)の提出をしました。ガイド業が忙しいこともあって、なかなか時間がとれず、締めきり(3月15日)ギリギリになってしまいました。 この日は、「がん」の経過観察(大阪府下M病院)→京都歩き・妙法院→確定申告→京都歩き・角屋→京都歩き・壬生寺→ガイド会エリア会議 と盛りだくさんの行動の中での提出となりました。ここ数年は私の住所(西京区)を管轄する右京税務署(西大路三条を西に行ったところ)に持参してきたのですが、今日は、上記京都歩きの途中の提出となり、そのルートに近い、確定申告特設会場の中小企業会館(西大路四条)で提出しました。ここで提出するのは初めてです。写真:中小企業会館 ここは相談を受けながら作成して提出をすることもできますし、パソコンが置いてあってe-taxで提出することもできますが、私は毎年国税局のホームページの作成システムで作成して印刷済みを持参してでの提出です。 少し待つことも覚悟したのですが、単なる提出は、誰も待っておらず、すぐに提出できました。しかし、少し時間が経過したら、写真のように列ができていました。タッチの差でラッキーでした。 申告相談の会場のほうは、待っている人も多いように見えます。 去年は、「がん」の粒子線治療に高額の費用がかかって、不動産収入を含めても総合課税分の所得がゼロになり、源泉徴収分が全額還付されたのですが、今年は、医療費も高額ではなく(それはそれでいいことなのですが)、総合課税部分の所得がプラスになりました。 それから、不動産を譲渡がありました。譲渡は去年で入金は今年なので、来年の確定申告での計上かとも思ったのですが、今年に計上しました。よく調べたり、相談を受けたりしたうえで、今年か来年かを判断したほうがよかったのですが、時間もなかったので、遅くなって延納で追徴されるよりは、早めの納税の方がいいと考え、今年に計上しました。従って、分離課税部分の税金が高額となり、100万円超の高額な納税となりました。今年限りの特別な状況です。 何とか期限までに提出することができました。第三表 緑の総合課税の部分の所得がプラスに。黄色の不動産譲渡関連が発生。青の最終課税が100万円超の高額に。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/10
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【2017年3月10日(金)】今日3月10日(金)は粒子線治療後22回目の定期経過観察(1ヵ月に一度)で、大阪府下のM病院に行ってきました。今回は、血液検査とCVポートフラッシュのみです。 午前8時から血液検査、9時過ぎに診察、診察後CVポートのフラッシュでした。 先生に体調は特に変化なしと伝え、血液検査の結果を確認しました。・2ヵ月前に1.76と若干跳ね上がり、先月1.53と1.5台に戻ったクレアチニン値は、今回も1.54と1.5台。やはり腎機能悪化は止まっていると言っていいようです。ただし、尿素窒素は27と過去最高レベル。しかし、先生は何もおっしゃらなかったので、クレアチニン値だけ気にしておけばいいのでしょう。・先生から指摘はありませんが、ここ1年は正常値だったLDLコレステロールと総コレステロールが先月同様を若干ですが基準値を超えています。血液検査結果クレアチニン、尿素窒素、尿酸値の推移コレステロール、中性脂肪 診察が終わって、CVポートのフラッシュをしてもらいました。担当の看護師さんが、名前は忘れましたが、私が抗がん剤治療で入院していたとき担当していただいた、かわいい看護師さんでした。憶えていてくれて、「もう入院されないんですか?」と聞かれたので、「セカンドオピニオンで紹介してもらった粒子線治療で治っていっています。会社は辞めたんだけど、京都で観光ガイドの仕事を始めましたよ。皆さんに、『元気にしていたよ。』と伝えておいてください。」とお願いしました。診察に来て、入院のときに担当していただいた看護師さんに会うのは一つの楽しみでもあります。 会計をし、処方してもらった薬(フェブリク錠)を薬局で求めました。その後、京都に移動し、午後は京都歩き、確定申告提出、夕刻からガイド会のエリア会議に出席をしました。別途、投稿します。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_________________________________過去の治療履歴は下記を参考にしてください。がん治療日記:http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10がん治療振り返り:http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2017/03/10
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【2017年3月9日(木)】 今日は、4月から3ヵ月間担当する「旧三井家下鴨別邸」の説明会があり、行ってきました。 今担当している養徳院同様、交通費節約のため、バスや地下鉄への乗り換えは避けようと思っているので、烏丸五条までバスで行って、そこから下鴨神社まで歩いてみました。歩く距離は片道約5キロ。途中でトイレに寄ったりする時間も含め、片道約1時間15分でした。これから気候もよくなってくるし、養徳院への往復と違って、鴨川の眺めを楽しんだり、先斗町や木屋町通を通ってみたりと、途中の変化もあるので、天気の良い日は、まずは歩きにトライしようかなと思います。 「旧三井家下鴨別邸」(以下、三井別邸)は、去年の10月から公開されています。我々ガイド会はガイドだけを担当します。受付や監視・案内を担当する別の団体の方々といっしょにお仕事をさせていただくことになります。 私は、現在は、固定点の八木邸と、「冬の旅」の養徳院を掛け持ちですが、4月からは三井別邸だけになります。しかし、修学旅行が多く入ってきます。 今日は、まず主管団体や全体責任者の方から、色んな注意事項を含め説明いただきました。その後、建物の中とお庭を案内いただきました。今回は非公開の茶室、2階、3階望楼も案内いただきました。最後に、今担当されている方のガイドを聴かせていただいて終了。南側からの眺め。建物が池に映ってきれいです。中3階があり、違う角度からは4階建てのように見えます。 料金と所在地 もともとは説明会が終わった後、「冬の旅」でまだ訪問できていないところに行く予定でしたが、結局、確定申告作成が終わっておらず、できたら明日の外出時についでに出してしまいたいので、そのまま真っすぐ帰ってきました。これから確定申告作成の続きをします。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/09
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【2017年3月8日(水)】 本日、ブログのアクセス数が、1,100,000回に到達しました。 直近の100,000回到達の日数は52日で前回(57日)よりペースが上がりました。 ガイド業が本格化して、たくさん件数を投稿できなくなり、下のグラフのように、投稿記事数は今年になって、極端に減らしましたが、アクセスのペースがむしろ上がりました。トータルの記事数が単調増加するためでしょうか。 皆さんにはお立ち寄りいただき感謝いたします。これからもよろしくお願いします。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/08
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【2017年3月8日(水)】 今日は、「八木邸」の第13日。冬に戻ったような寒い一日でした。特に午後から冷え込みました。それでも、日に日に陽気がよくなってきているのと、大学が春休みに入ったり、修学旅行生も次第に増えたりしているので、平日としては多いお客様でした。順調に一日を終えることができました。 八木邸の説明の続きです。 前回から八木邸のお屋敷の特徴を説明していますが(こちら)、その続きです。 お客様の中には、入って来るなり、「天井低い~っ。」とおっしゃる方がいらっしゃいます。天井はどうか分かりません(低いような気もします)が、鴨居は低い造りになっています。母屋(主屋)が建ったのは、江戸後期の天下泰平の時代ですが、郷士の家には刀や槍はありました。しかし、天下泰平の世の中で、刀や槍を使うような騒動が起こって欲しくない、起こっても刀や槍を振り回しにくいようにと考え、鴨居を低く造るような行政指導のようなものがあったようです。それで当時の壬生の郷士の家の鴨居は低く造られています。 本玄関を入ったところに、棒のようなものが何本かぶら下がっています。いつもここの説明を一番最後にします。ぶら下がっているもののうち、曲がっているのは弓だと容易にわかるのですが、真っすぐの棒は、単なる棒のように見えます。しかし、これは突棒(つきぼう)、刺又(さすまた)、袖絡み(そでがらみ)といった江戸時代によく使われた捕り物道具だったものです。しかし実際に使うことが目的ではなかったようで、これを見れば、盗人も怖がって入らないだろうと、一つは泥棒除けのために置かれていました。また、昔は疫病なども怨霊や魔物の仕業という考え方をしていて、それを防ぐ魔よけの意味もあったようです。 しかし、第二次世界大戦が終わって、米軍が進駐したとき、刀狩りのようなことがあって、こういう武具類は、全部警察に提出させられました。そして返ってきたときにはケラ首の下から切り落とされていたので、今は、単なる棒にしか見えないのです。突棒、刺又、袖絡み(この写真は八木邸のものではなく、Wikipediaから)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%81%93%E5%85%B7 今まで述べてきた建物についての詳しい説明は、新選組誕生の話や芹沢鴨暗殺のお話をした後、奥の間に回ったときにしますが、奥の間に移動するとき、お庭の横の縁側を通るので、そのときにまずお庭の説明をします。時間の急ぎ具合を、このお庭の話の内容で調整することが多いです。今回は、フルに説明した場合です。 お庭は、床の間のある部屋から、ガラス障子越しにも見えます。ここに嵌まっている大きな4枚のガラスは、表面が波打っている大正ガラスと呼ばれるものです。昔は真っすぐなガラスは作れませんでした。逆に今は、真っすぐなガラスしか作れません。ですので、割れてしまうとそこだけ真っすぐなガラスになります。ここは4枚すべて大正ガラスのままです。お家の方も、割らないよう細心の注意を払ってきたでしょうし、訪れたお客様も注意をしてくださったのでしょう。 人数が少なければ、ガラス障子を開けて、縁側に出ていただいて説明します。多ければ、奥の座敷の内容の一部も含め、部屋の中に残っていただいて説明します。 庭の奥行きは当時のままですが、今のような背の高い板塀ではなかったし、周りは農地だったので、二条城や五山の送り火が庭から見えたそうです。右手は表のほうに向かって倍ほどの広さがあって、その突き当たりに板張りの剣術道場がありました。しかし、西本願寺に屯所を移したとき、道場も移したとのことです。刀掛けだけが土間に置かれています。 その道場の前に石が置いてあって、そこによく隊士たちが腰を掛けて、休んでいたそうです。その石は今は、長屋門を出て左にある燈籠の近くに置かれています。看板が立ててあって「隊士の腰掛け石」と書かれています。よく皆さんここに腰をかけて記念写真を撮っておられます。 一番左の灯籠が黒ずんでいるのは、天明の大火で灯籠の石も焼けたからです。その右のとんがり帽子の灯籠は「蓮華寺型灯籠」と呼ばれる形の灯籠です。その右に雪見灯籠があり、さらにその右、建物に近いところに、背が低くて、グニャッと曲がった灯籠があります。「お化け灯籠」と呼んでいます。 井戸は飾り井戸ですが、石の削り方から判断すると、室町時代のもののようです。 床の間のある部屋(説明をする部屋)の額や、彫刻は質問があればお答えすることにしています。 額は「平太楽事無」(読みは、無事楽太平)と書かれています。意味は、「無事太平を楽しむ」。書いたのは明治~昭和期の日本画家、橋本関雪です。 置いてある像は、近藤勇の木像で、滋賀県彦根市の山口栄太郎という新選組ファンの彫刻家が、欅(けやき)の一木から刻まれ、平成11年に納められてものです。 部屋や庭の写真は撮影禁止ですので、八木家のHPでご覧ください。 http://www.mibu-yagike.jp/04tonsho_main.html(続きます)(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/08
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【2017年3月7日(火)】 今日は、2日連続OFFの2日目。 高血圧の薬が切れそうなので、近所のO医院へ。いつものように血圧の測定地値をプロットしたグラフを持っていった。ガイドのある朝は血圧がどうしても高くなり、1週間の平均が上が140、下が90を超えることが時々ある。去年より、それぞれ5くらいずつ高い感じ。 先生にそのような状況を話したうえで、「これから暖かくなるので、血圧が下がって来るはずなので、薬は今までのままでいいかと思います。来年冬は様子を見ながら、薬を増やすことを考えたい。」と話したところ、先生も了解いただきました。 さて、今日は、2016年の私の主な出来事の最終回(第23回)です。 家族のことです。 家内の体調不良は、一昨年よりさらに快復。テニスは週2~3回出かけていますし、2週間に一度の気功にも行っています。友だちとの飲み会や日帰り旅行にも、躊躇なく出かけています。中断していたゴルフレッスンも11月に再開しました(こちら)。クリニックに通い続けていますが、薬も次第に減らしています。今年は、薬もゼロになり、全治あるいは寛解と呼べるところまでいけると思います。 長女は婚約し、12月に京都で先方のご両親と顔合わせをしました(こちら)。顔合わせ以外では、1月、5月、8月にそれぞれ1泊で京都に来てくれました。長女の顔合わせ 京都「花咲・錦店」 次女は私が「がん」を患った、2014年夏に東京を引き上げ京都に帰ってきてくれましたが、私の「がん」も経過観察に持ち込むことができ、家内も快復方向なので、2月に 婚約していた彼氏と6月27日に入籍、9月には東京に引っ越しして(こちら)、夫君といっしょの生活が始まりました。東京で職を見つけてフルタイムで仕事を始めました。京都にいる間は、2度の海外旅行をはじめ、日本国内も色々旅行して独身最後の年を楽しみました。次女の顔合わせ 京都「花咲・祇園店」 私、家内もほぼ普通の生活が1年続き、長女は婚約、次女は婚約・結婚と、それぞれ新しい道に踏み出し、良い2016年でした。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_________________________________私の十大ニュースカテゴリー⇒こちら
2017/03/07
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【2017年3月6日(月)】 今日は、2日連続OFFの第1日。以前、講演会で「洛中洛外屏風図」のことを学んだが(こちら)、その上杉本が京都文化博物館の「戦国時代展」に出典されていることを知った。家内は今日は何も予定がないので、行こうかと誘ったところ、やはり講演会で興味が湧いたのか行くという。 ところが、ネットで調べると休館日。「戦国時代展」はまだ続くが、展示品替えがあり、「洛中洛外図屏風」は12日の日曜日までとのこと。12日は私も家内もフリーなので、12日に行くことにした。 替わりに、こちらも前から家内と相談していたミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」をイオン桂坂に観に行った(こちら)。 映画の前に、イオンのフードコートで安価な昼食。普段食べないものをということで、「テキサス・キング・ステーキ」という店を選んだ。いただいたのは、「テキサス・ビーフライス」(税込み680円)。家内も同じものを選んだ。分厚い鉄板が熱せられ、そこにビーフライス+生玉子が載っている。ビーフは生状態で、熱い鉄板で焼いて食べる。がっつりと美味しくいただいた。毎日こんなもの食べていたらダメだが、たまにはよい。http://kyotokatsuragawa-aeonmall.com/shop/detail/210 映画を観終わって、家内の厚生年金受給申請手続き(こちら) プライベートに忙しい一日だった。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/06
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【2017年3月6日(月)】 家内はこの2月で60歳になった。長女が生まれるまで会社勤めをしていた。特別支給老齢厚生年金がもらえる年齢になったので、だいぶ前に年金機構から支給申請書が来た。ただ、必要添付書類が、誕生日以降のものでないとダメなので、具体的準備は家内の誕生日以降にしてきた。書類が揃ったので、今日(3月6日)映画「ラ・ラ・ランド」を観に行った(こちら)後、京都の西年金事務所に寄って、申請手続きをした。 添付書類は完璧だと思ったのだが、落とし穴があった。家内の戸籍抄本で対応しようとしたのだが、その場合は、住民票に筆頭者の名前がいる。ところが準備した住民票には筆頭者の名前が省略されたものだった。戸籍謄本なら、住民票に筆頭者の名前はいらない。戸籍抄本も謄本も同じ値段なので、謄本にしておけばよかったということ。 添付書類を変更する必要がある。戸籍は三重県にあり、戸籍謄本にする場合、取り寄せが必要になる。係の人から、「住民票なら、京都の市役所でもらえるので、住民票の筆頭者記載のものをもらってもらったほうが簡単ですよ。」とのアドバイス。 桂駅前に書類発行所があり、桂駅のビルに年金書類提出の窓口があるので、もう今日済ませてしまおうと、阪急桂駅に向かった。 駅前に車を停め、私は車の中で待った。結構時間がかかったが、家内が戻ってきた。筆頭者入り住民票を発行してもらい、それをもって年金窓口行ったのだが、係の人がもう一度一から書類をチェックし、年金支給の説明もご丁寧にもう一度一から詳しくやってくれたので、時間がかかったとのこと。これで、手続き完了だ。厚生年金受給申請書受付控え。 また、以前、企業年金連合からも申請書類が来ていた。私は、定年扱いでM社を辞めたので、辞めるときに企業年金の手続きをしたが、家内はもうだいぶ前に辞めているので、企業年金連合扱いになっていたということのようだ。厚生年金をもらえる年齢になったので、申請書類が来たらしい。これも厚生年金同様、書類を準備してきた。今日、必要書類の送付準備ができた。今日、明日にも郵送する予定。企業年金申請書 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/06
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【2017年3月6日(月)】 今日、久しぶりに映画を見た。家内同伴だ。学生の頃は、よく映画館に出かけたが、今は、映画館で観るのはミュージカル映画だけ。最近映画館で観たのは、「マンマミーア」と「レミゼラブル」。最近と言っても、調べてみたら、日本公開が「マンマミーア」は2009年1月、「レミゼラブル」が2012年12月。なので、今日観たのは4年ぶり、「がん」を患ってからは初めてである。 映画館は、イオン桂川のシネコン。「夫婦50割引」(どちらかの年齢が50歳以上の夫婦)で、一人1,100円で入ろうと思ったら、今日は月曜日で、毎月曜日「ハッピーマンデー」の割引きで、大人すべて1,100円とのこと。毎月1日は「ハッピーファースト」で1,000円なので、次に観るときは1日狙いだ。 席は指定で、真ん中付近の後方に2つ求めた。入ったらすでに予告編が始まっていた。平日のお昼だが、席は半分くらい埋まっていただろうか。すでに座っているお客さんに「すいません。」と前を通してもらって席に着こうとした。 ここで大失敗。すでに座っている女性客が大きなポップコーンの箱を、映画館が貸してくれるプレートを席に付けてそこに置いておられた。そこを通過しようとしたときに、前を開けて着ていたコートの裾がそのポップコーンの箱に当たってしまい、見事にその箱を倒してしまった。まだほとんど食べていないポップコーンが半分以上、床にこぼれ落ちてしまった。その女性は、怒りもせず苦笑いしていた。笑うしかないといったところか。何度も謝ったが、楽しみにしていただろうに、本当に申し訳なかった。 映画が始まった。大失敗をして最初は、気分が乗らなかったが、映画が進むにつれて、そんな失敗も忘れるほど楽しい映画だった。ポップコーンを倒されたお嬢さんも、どうか映画の楽しさで救われていて欲しい。●ラ・ラ・ランド La La Land 監督・脚本 デミアン・チャゼル 出演者 ライアン・ゴズリング(セバスチャン・ワイルダー、ジャズ・ピアニスト) エマ・ストーン(ミア・ドーラン) ジョン・レジェンド(キース) ローズマリー・デウィット(セバスチャンの姉) 音楽 ジャスティン・ハーウィッツ 撮影 リヌス・サンドグレン 上映時間 128分 製作国 アメリカ合衆国 この映画、アカデミー賞の多くの部門賞をとったが、作品賞の受賞発表では、最初「ムーンライト」と間違われて受賞アナウンスがされ、前代未聞のニュースにもなった。◆第98回アカデミー賞 ラ・ラ・ランド関係受賞 監督賞 デミアン・チャゼル主演女優賞 エマ・ストーン撮影賞 ライナス・サンドグレン美術賞 デヴィッド・ワスコ、サンディ・レイノルズ・ワスコ作曲賞 ジャスティン・ハーウィッツ歌曲賞 "City of Stars" (Justin Hurwitz, Pasek and Paul) この「ラ・ラ・ランド」、今日の読売の朝刊でも紹介されていて、過去のミュージカル映画などを多く引用していると書かれている、3月6日、読売朝刊の記事 いやぁ、堪能した。ひとことで言うと、お洒落、お洒落、お洒落なミュージカル。お洒落で始まって、お洒落で終わる映画だ。映像、音楽がお洒落。それとカメラワークがすごい。特に最初の渋滞した高速道路で車の周りや上で大勢で踊るシーンがあるが、カメラポジションをグルグル動かしながら長回しで撮るところとか、主人公ミアがルームメイトたちと部屋の中で外出の準備をして出かけようとする場面も、多くの部屋をあちこち動きながら、切れ目なく撮っているところとか、どうやって撮っているのか感嘆させられる。 色々あるプロモーションビデオの中で、最もこの映画の特徴を表しているのがこれだと思うので、紹介しておく。そして映画の中で、最もお洒落な部分だと思う部分。「バンド・ワゴン」や「雨に唄えば」へのオマージュのように思う。 正直、踊りや歌がすごくうまい訳ではない。でも、それが映像や音楽そのものも主人公にさせる効果を出しているようにも見える。ストーリーがありきたりなのも、映像に集中させる効果を持っている。 上記新聞記事では、引用された映画として、「フェーム」「バンドワゴン」「雨に唄えば」が書かれているが、私自身がそれ以外で引用だと気付いたのは、思い違いもあるかもしれないが、次のような映画である。「シェルブールの雨傘」~全体のストーリー。特に最後セバスチャンの店で再会するところ。 「シェルブール」ではガソリンスタンド。「フラッシュ・ダンス」~オーディションで落ちたり、受かったり。「ウェストサイド・ストーリー」「サウンド・オブ・ミュージック」「巴里のアメリカ人」「踊る大紐育」「オズの魔法使い」「E.T.」「ムーラン・ルージュ」「巨星ジーグフェルド」 いずれも観たことのある映画か、「ザッツ・エンターテインメント」で観たものだ。他の方のブログでは、これ以外に「カサブランカ」「若草の頃」「赤い風船」「パリの恋人」「ロシュフォールの恋人たち」「スウィート・チャリティ」「ニューヨーク・ニューヨーク」「グリース」「ブギー・ナイツ」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」が引用されているとのこと。 それからエンディングタイトルの挿入楽曲紹介で「Rentaro Taki」と出てきた。あとで調べたら、「荒城の月」が使われていたようだ。ジャスにアレンジされていたためか、気付かなかった。 もう一度見たい映画だ。 最後にオマケ。渡辺直美による、パロディーPRビデオ。お洒落に笑わせます。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/06
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【2017年3月5日(日)】 今日は、「八木邸」の第12日。 天気も良く、暖かく、日曜日ということもあり、たくさんのお客様にお越しいただきました。 ちょっと困ったことが最後の団体さんでありました。私が受付のときに、受付も、お店も通さずに、添乗員さんが団体のお客さんを連れて中へ入っていきます。呼び止めると17人の団体さんだとのこと。ペアの方の案内が始まってすぐだったので、お客様をそのまま表座敷にお通ししました。 添乗員さんに支払いのことを訪ねるるとクーポン券を出されます。よく見るとクーポン券に「特別公開」と書かれています。ここでようやく、これは特別公開している「壬生寺」のクーポン券だと気付きました。 添乗員さんにそう言ったら「えっ!!!壬生寺じゃないんですか?」 確かに、一般のお客様が壬生寺と間違って入って来られることがあるので、受付をする前に「ここは新選組の屯所だった八木邸です。」と説明しますが、まさかプロの添乗員さんが間違うとは思ってもみません。あわてて表座敷のお客様に向かって、「すいませ~ん、さきほど入った団体様。壬生寺と間違って入られたようなので、申し訳ありませんが、お戻りくださ~い。」 いやはや、考えられないです。添乗員さんを呼び止めたとき、最初にお店に通さなかった私のミスでもあります。 あと個人客でも、今日は色んなお客様がいらっしゃいました。 日本語が片言の一人旅の若い男性客がいました。聞くと中国人だといいます。なんと「私は、佐幕派です。友達には、高杉晋作ファンがいて、今、山口県のほうに行っています。固有名詞はよく知っているので、ガイドさんの話、だいたい分かりました。」とのこと。 先日、台湾人の新選組ファンのお客様の話を書きましたが、中国にも幕末に詳しい人がいるようです。「新選組」の大河ドラマは中国でも放送されたのでしょうか。 それから、夫婦連れのお客様から、何か忘れましたが質問されました。どこかでお見かけしたお顔だなぁと思っていたら、「昨日、養徳院で説明していただきましたね。」とおっしゃいます。2日連続で別のところをガイドをすると、こういうこともあるのですね。 さらにもう一つ。説明が終わったとき、一人のお客様が「説明に使っておられた新見錦の写真が、何故長岡藩士河井継之助の写真なんですか。」との質問。「インターネットで調べた写真ですが。」と答えたのですが、帰ってよく調べたら、お客様の指摘どおり、新見錦と思って使っていた写真は、河井継之助の写真でした。ここ八木邸は、ディープな新選組ファンや幕末ファンが多く、我々ガイドよりよく知った方々もたくさん来られます。間違いを指摘していただいて感謝です。 さて、八木邸の説明の続きです。 以前、八木家のルーツについて書きました(こちら)。 戦国大名朝倉義景が織田信長によって攻め滅ぼされた際、息子又兵衛が京都の西、八木の荘(現在の南丹市八木町)に生き延びて、そこに住みつき、八木姓を名乗ったところまで書きました。 その後、八木又兵衛が豊臣秀吉の時代に、京都壬生村に引き退き郷士となりました。 時は江戸時代に移ります。天明の大火(1788)で屋敷が焼失し、建て直されました。見学のためにくぐっていただく長屋門、説明をさせていただく部屋のある母屋(主屋)は、それぞれ文化元年(1804)、文化6年(1809)に建てられたものです。200年以上前に建てられたもので、民家としては非常に古い建物になります。 見学後半で案内させていただく奥の座敷の鴨居の上に、5つの古びた箱があります。これは提灯箱です。消えかかっていますが、箱の前面に描かれているのは、朝倉家、八木家の家紋である「三つ木瓜(もっこう)」。長屋門に掛けられている幕の紋もこれです。昔は何でも身分・格式で出来ること、出来ないことが決まっていました。普通の郷士は、定紋を打った提灯箱は3つまでしか持てませんでした。八木家は壬生郷士の長老格であったので、5つ持つことが許されました。 見学のときに上がっていただく玄関が本玄関です。座敷より一段低い板張りの部分がありますが、これを式台と呼びます。駕籠でお越しになったお客様が、足を地に付けずに上がれる造りになっています。奥の勝手口側にあるのが脇玄関。正式なお客様は本玄関から上がっていただき、そうでないお客様、気軽なお友達や近所の人などは、脇玄関から出入りしてもらったようです。 長屋門、式台玄関、提灯箱は武家屋敷としての特徴です。一方で奥の座敷に沿ってある土間部分は、「京の通り庭」で脇玄関から裏庭までまっすぐ通っています。郷士の身分は、武士と町人の中間的存在なので、屋敷も両方の特徴を兼ね備えています。江戸時代後期の郷士屋敷の特徴をよく残しており、また新選組との縁も深いので京都市の有形文化財に指定されています。図:母屋(主屋)平面図 赤線が見学ルート 写真:長屋門 「三つ木瓜」の紋が見える (1月16日撮影)写真:母屋(主屋) 本玄関。一段低い板張り「式台」がある。(2月14日撮影)(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/05
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【2017年3月4日(土)】 養徳院第13日目の勤務でした。 暖かく、お天気の良い一日でした。それに加え土曜日ということで、多くのお客様にお越しいただきましたので、ご案内の回数の多い一日でした。 ガイドの内容の続きです。 養徳院の歴史を説明した後、養徳院の寺紋の説明をします。 養徳院の寺紋は釘隠しに見ることができます。鶴が向かい合った「対い鶴(むかいつる)」です。石河家の家紋でもあります。石河家ゆかりのお寺は、すべてこの「向かい鶴」を寺紋にしています。養徳院の向かい鶴は、嘴(くちばし)を交差させていて「喰い合いの対い鶴」と呼ばれます。他の石河家ゆかりのお寺(大雄院、桂春院、東海庵)のものは嘴が離れていて阿吽(あうん)になっています。養徳院では、釘隠しとか仏具とか、建物の中でしか見ることができませんが、大雄院、桂春院、東海庵は瓦に刻まれたいますので、外から見ることができます。写真:養徳院の「喰い合い対い鶴」(養徳院のご朱印帳)写真:東海庵の「対い鶴」 嘴が離れ、阿吽になっています。大雄院、桂春院のも同じかよく似ていて、瓦に見ることができます。「対い鶴」には嘴が阿吽でないもの、嘴が上向いたもの、上下に向かい合ったもの、間に松があるものなど様々なデザインがあります。資料:「対い鶴」種々(続きます)(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/04
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【2017年3月3日(金)】 2016年の振り返りです。今日を含めあと2回で終わりの予定です。 観光ガイドの仕事は有償とはいえ、最低時給に近いような報酬でしかありません。好きだからできていると言っても過言ではありません。「先立つもの」がそうすることを許してくれている側面があり、ありがたいことです。 毎月末「先立つもの」の締めをしていますが、年間でまとめてみました。絶対額はご想像にお任せします。 まず、金融資産の総額の2015年末、2016年末の比較です。 2016年末は、2015年末に比べ、少しプラスになりました。勤労収入は年後半のわずかのガイド収入だけですので、年金類だけでは、マイナスになるのですが、幸いなことに、貸与不動産があるので、何とか僅かにプラスになっています。両親、ご先祖様に感謝です。 次に、資産を次のようにリスクに応じて分類して構成比を見てみました。 ・円預金・国債・円MRF・円MMFなどほぼ元本保証のもの及び一時払い生命保険解約返戻金 ・外貨預金・外貨社債など、為替変動だけの影響を受けるもの ・株式(円建て) ・投信(円建て・外貨建て)・投資型生命保険解約返戻金 2016年度は株式・投信の売買をしなかったし、円/外貨の交換もしなかったので、2015年末、2016年末で、大きく変動はしていません。 安全資産が約75%です。まぁ無茶はしていないなと思います。 それでは、収入内訳を見てみます。 傷病手当金、失業給付、特別支給老齢厚生年金、企業年金で約半分です。賃貸料が約30%。去年は特殊要素として、実家の火災保険満期返戻金がありました。 収入と支出を比較します。 ありがたいことに、収入が支出を上回っています。しかし、両方とも去年だけの特殊要素があります(ピンクの部分)。収入のほうは、さきほどの火災保険満期返戻金。支出のほうは次女の結婚資金です。この特殊要素を除いたのが緑色の部分で、こちらも収入が支出を上回っています。 しかし、今年は土地売却で不動産収入が減り、厚生年金より高額な傷病手当金や失業給付はなく、通年で厚生年金だけになります。一方で、通年でガイドをするので、勤労収入は増えます。それらを考慮すると、今年の収入は去年に比べ大幅に減り、グラフの一番右の緑色のバーのようになります。去年の定常支出を下回ってしまいます。すなわち、去年と同じような支出では赤字になってしまうということです。有意義に使ったうえで、子供たちにある程度遺してあげることができれば、それはそれでいいと思ってはいます。 外貨預金、株式、投信など資産種類別に差益損を見てみます。 外貨預金が大きなマイナス、株式が少しマイナス、投信類ががプラスになっています。それらの合計が少しマイナスとなり、「収入-支出」のプラスを食ってしまっています。 これら合計の差益損の月変動は、下のグラフのようになっています。 去年6月には最悪の事態になっていますが、10月以降持ち直し、年間(12月の値)では、僅かのマイナスで済みました。もし、6月のままなら、資産合計は大きなマイナスになっていました。そうならなかったのは、トランプさんのお陰かな? さぁ、今年はどうなるでしょうか。 今日は、ガイドとガイドの間のOFF日。明日からの土日、養徳院、八木邸と連続勤務です。寒さも和らいできて、きっと多くのお客様が来られるでしょう。2ヵ月経過し、慣れてきて気も緩みがちになるところ。各拠点の全体責任者の方々からも、もう一度気を引き締めてと注意喚起もありました。気を付けたいと思います。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_________________________________私の十大ニュースカテゴリー⇒こちら
2017/03/03
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【2017年3月2日(木)】 養徳院第12日目の勤務でした。 雨の予報でしたが、朝少し降ったくらいで、ほぼ曇のお天気でした。時折、日も差しました。暖かだったので、使い捨てカイロ無しでスタートしましたが、やはり足も手も冷たく、途中からカイロの助けを借りました。 ちょっと面白い団体客がありました。第1の持ち場で説明していたら、途中でお客様が来られたので、「途中ですがこちらへお入りください。」と案内したところ、多くの女性客が素通りして第2の持ち場の方へ行ってしまいました。おかしいなぁと思いながら、交替時間になったので、第2の持ち場に移ったところ、副住職さんが、その団体のお客様に、室中の間(仏間)の説明をされていました。年若い女性15人くらいと、袈裟を着たお坊さん数人の団体でした。花園大学の学生さんかな? でも花園大学は男女共学だし、変だな。妙心寺経営の女子大ってあったかな? 女子大生とは言えない年齢の人もいるぞ。 あとで副住職さんに聞いて謎が解けました。寺庭婦人会の研修の一環で見学に来られたとのことでした。寺庭婦人とはお寺の奥さん(僧籍は持たない)のことです。お寺に嫁がれた奥さんがたは、仏教の知識を前もって持っていないのが普通なので、そういう方々を全国の末寺から集めて研修しているとのこと。そういえば皆さん真剣に聴いておられました。 もう一つは副住職が寺宝の一つ「酒茶論」の登場人物の絵を描いてくださったこと。この絵は、後日、寺宝の説明をアップするとき紹介させていただきますが、この副住職の画才と達筆さはすごいです。絵はどかかで習ったのですかとお聞きしたところ、特に習ったことはなく独学だそうで、とにかく絵を描くのが小さいころから好きだったとのこと。「好きこそ物の上手なれ。」なんでしょうか。 ガイドの内容の先日の続きです。 石河家の続きです。 先日の要点。 石河光清~光延の祖父。初代鏡島城主 石河光延~光重の父。織田信長に仕えた。 石河光政~光重の兄。豊臣秀吉に仕える。鏡島城主 石河光重~養徳院開基。豊臣秀吉の重臣。鏡島城主 功沢宗勲~養徳院開祖。光重の兄 水庵宗掬~養徳院二世。石河家出身 今日は、光重、光政の子の世代。 光重の嫡男・光元は豊臣秀吉に仕え、馬廻組頭を務めた。真田信繁(幸村)大坂時代の上司。播磨龍野城主。小田原征伐や朝鮮出兵に従軍。お亀の方との間に子・光忠。 光重の次男光良(光吉・貞清)は、豊臣秀吉に仕え、尾張犬山城主。その後、豊臣秀頼に仕えた。関ヶ原の戦いで敗戦後、京で隠棲。剃髪し宗林と号し、茶人・商人(金融業)となった。真田信繁(幸村)の正妻竹林院(大谷吉継の娘)を経済支援。真田幸村の七女・おかねを妻に迎えた。妙心寺塔頭、大雄院・桂春院・韶陽院等の造営に際して土地を寄進。最晩年は幕府に扶持米500石で召抱えられ幕府役人。 光重の三男・一光(貞友・兵助)は、賤ヶ岳の戦いで「賤ヶ岳の七本槍」に並ぶ戦功を収めたが討ち死に。 光重の四男・一宗(頼明)は、兄一光の十七回忌を営み、東海庵(養徳院近くの塔頭寺院)を中興した。 光元とお亀の方の子・光忠は徳川家に仕え、尾張藩家臣となる。大雄院(養徳院の東隣の塔頭寺院)開基。大雄院は父・光元の菩提を弔うために建てられた。御三家尾張藩初代徳川義直は徳川家康とお亀の方の子なので、光忠の異父弟。 なおお亀の方は石清水八幡宮の祀官家・田中氏の分家である京都正法寺・志水宗清の娘で、一時石河光元の側室となるが、その後、家康に見初められ側室になった。 光政の子・貞政は鏡島城主。豊臣秀吉に仕えた。馬廻後、秀頼→徳川秀忠→家光→家綱に仕えて旗本に。大坂の陣の時には片桐且元と行動を共にした。養徳院の北東の塔頭寺院・桂春院(常時公開)の開基。桂春院は貞政が父・光政の菩提を弔うために建てた。 石河家と妙心寺塔頭との関係を整理すると、 養徳院~光重が父・光延の菩提を弔うために建てた。 開祖は功沢宗勲。2世水庵宗掬も石河家出身。 大雄院~光忠が父・光元の菩提を弔うために建てた。 桂春院~貞政が父・光政の菩提を弔うために建てた。 東海庵~一宗が兄・一光の十七回忌を営み中興。 このように、妙心寺東北部には石河家ゆかりの塔頭寺院が集まって建っている。 下記境内図の青の四角が現在の養徳院の寺域だが、他の塔頭寺院とよく似た規模である。しかし、創建当初は赤の四角のような非常に広大な寺域を持っていた。境内余地は他の塔頭寺院に分与するなどして、しだいに衰微縮小され、安政6年(1859)の再建時に現在の堂宇が建立された。このとき現在の小方丈の北にあったものが、昭和10年に現在地に移された。(続きます)(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。) -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/02
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【2017年3月1日(水)】 もう2017年も3月になろうというのに、まだ2016年の振り返りです。 2012年末にリストラでM社を辞めてから、毎年大きな変化の連続でした。 2012年12月 :M社をリストラで退職 2013年1月 :「毎日が日曜日」の生活 4月 :N社に再就職 2014年7月 :後腹膜悪性腫瘍発病→抗がん剤治療 2015年3月 :粒子線治療 4月 :N社を退職 5月 :経過観察で再び「毎日が日曜日」の生活 2016年3月頃:ゴルフや京都歩き再開 5月 :シニア観光ガイド会入会・研修 10月 :観光ガイドの仕事開始 1ヵ月の中で、それぞれの日に何を主にしたのか分類して、それがどのように変遷してきたのか、2015年と2016年について調べてみました。・在宅・用事・通院(通院・入院、お墓参り、家内実家訪問、行事、その他時間のかかる用事など)・趣味・交際(ゴルフ練習・ラウンド、観光、講演会聴講、飲み会など)・ガイド関係(ガイド、研修、下見、会議など) 2015年の4月まで「用事・通院」が多いのは、抗がん剤治療が終わって、何度も通院しながら次の治療について相談・検討したのと、3月からは粒子線治療で入院したためです。 2015年5月からは経過観察となりましたが、すでにN社を辞めていたので、再び「毎日が日曜」状態に。そして体力を使うような外出は控えたため、「在宅」の比率が大きくなっています。 2016年3月頃に、ゴルフや京都歩きを再開したため、「趣味・交際」の比率が伸びています。 そして5月にはシニアガイド会の研修が始まり「ガイド関係」が出現しています。10月からはガイドの仕事が始まり、特に11月はピーク・シーズンで「ガイド関係」が約半分を占め、「在宅」は僅か5日となっています。本当に忙しい月でした。ガイドの仕事が始まって、ガイドの準備を在宅ですることも増え、その分、「趣味・交際」の日が少なくなっています。ゴルフの練習やラウンド、京都歩きを少なくして、ガイドの準備に充てたためです。 ガイドのペースは季節変動もあり、まだ様子が分かりません。今年1年でペースが分かるでしょうから、やりたいこと、やらねばならにことを取捨選択して、自分なりの生活リズムを創り出していかねばなりません。 今日は、散歩以外は在宅でした。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_________________________________私の十大ニュースカテゴリー⇒こちら
2017/03/01
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