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ディーツゲン著『人間の頭脳活動の本質』(その10)「三、事物の本質」からの抜粋(3) 引き続き「三、事物の本質」からの抜粋です。岩波文庫のP60-19節からです。 ここまでは思惟と事物の関係でしたが、ここでは認識能力そのものを検討しています。 五、P60-19 この形而上学を我々のテーマである認識能力に適用するならば。 諸々の認識作用は、他の事物と同様に感覚的現象に属する。感性的現象は、それ自体すべて 真である。すべての精神の現れ(すべての思想の、臆見の、誤謬等)の基礎には、ある種の真 理が存在し、真理の核をもっている。すべての思想は、必ず真の事物の肖像であり、客体の 理論化である。〔P41-29「感覚作用の産物である」を正確にしている〕 P61-21 以上のことから、1、真の思想と誤った思想の差異、認識と誤認の差異は、相対的 に通用するにすぎない。一つの思想はそれ自体では真でも偽でもなく、一定の与えられた対 象と関係してのみ、真になったり偽になったりする。 2、思想、概念、理論、本質、真理は、いずれも一つの対象に属す点で一致する。一般に 対象は、多様な感覚界、即ち「外にある世界」の一定量である。 真理とは、このように与えられている感覚的定量物の中に一般者を見出すことである。 P61-22 感覚的定量物、すなわち世界の事物は、すべてその仮象のほかに真理を、現象 を通じて本質を持っている。感覚界が時間・空間的に無限に分割されるように、事物の本 質も無数である。現象の各小部分はその固有の本質を持ち、各々の仮象はその一般的真理 を持っている。現象は感覚との接触により、本質(真理)は認識能力との接触により生まれる。 P62‐23 真理は感覚界の与えられた一定量から、一般者・抽象的理論を展開する中にある。 真理は一般的にあるのではなく、一般者を産み出す認識の中にある。真理は客観的でなけ ればならず、一定の対象の真理でなければならない。真理は自体的に真にはなれず、たん に相対的な、一定の対象にしてのみ、外的事物にもとづいてのみ真でありうる。 認識の課題は、特殊なものから一般的者を発展させることの中にある。この特殊なものが、 一般者の尺度(制限、前提)であり、真理の尺度である。大よそ存在するものは多少にかか わらず真である。一度存在が与えられれば、その一般的性質は真理であるとの結果が生じる。 一般者がどれだけ一般的かは、存在と仮象の区別、真理と誤謬の区別は、一定の限界内にあ り、特殊の客体に対する関係に基づいている。完全な認識は、定められた制限の範囲内にお いてのみ可能である。完全な認識は、常に自己の不完全性・制限を意識している真理だ。 感覚的現象のある与えられた範囲における個別的なもの・特殊なものを、一般的と称する 誤謬とは一般的に、意識が無考えに、浅はかに、経験なしに、感覚が立証する以上の拡張 を現象に与えるところによって生ずる。 P63-24 誤謬の判断は先入観である。誤謬とは、自らが表現している一定の事実に対し、感 覚的経験が教える以上のより一般的な存在を僭称するところにある。僭越が誤謬の本質で ある。 以上。
2015年01月31日
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今回、所得税の確定申告で感じたこと休日農夫は、既報のとおり、数日前に所得税の確定申告を済ませました。この申告書類を作成している中では、訳の分からない計算式などが出てきて、「なんでこんなめんどくさい計算式などが必要なのか」と困惑したのですが。とにかく、もやもやしながらも、提出を済ませました。その根拠不明の計算式の一つです。なんで割る4なのか、なんでかける2.4とか、2.8なのか、よくわかりません。しかし、全体的には、少なくと所得の大きさに応じて課税額が決まるようになっています。大きくは、そうなっています。それが、感じられてきたので、納得です。あらためて「現在の、戦後日本の税制は、制度の基本としは、民主的なんだ」と感じました。たまたま『大江戸生活百科』(北村鮭彦著 新潮文庫)をめくっていたら、江戸時代の税金制度の話が出てきました。「播州赤穂藩5万3千石では、浅野家が城代家老の大石内蔵助の尻を叩いて、一坪6尺四方を五尺七寸方(一坪は6尺方)と計算するように命じて、税のとりたてを増やした。帳簿上での坪数を増やした。そのうえに、五公五民どころか6割4分も年貢として取りたてて、3割6分しか農民に残さなかった。彼の事件で浅野家が改易になって、領主が変わったが、新たな領主は5割8分年貢にしたそうで、百姓、町人は赤飯を炊いて祝ったとか」待ったなしの、厳しい情け容赦ない、上からの取りたてです。日本の歴史には、こうした時代も、厳しい現実もあったわけです。当方は、とんと税制などには疎いのですが、直感的に感じました。戦後の税制は、制度の基本としては、1、自主申告を基本にしていること。2、計算式の根拠は分からないけれど、とにかく所得に応じて基準により課税額が決まること。3、収入-経費、その結果としての所得に対して課税されること。4、事業者については、その経費については必要なものは認めていること。それに、各自治体が無料相談会をもうけてくれていて、私などのように、申告書類の作成の仕方が分からないものにも、そうした場で、さまざまな疑問の相談できる場があるということです。それに対して、税理士さんたちが、いろいろ丁寧に教えてくれました。所得税の確定申告というのは、目前の締め切り日がある課題です。この数年、休日農夫は、多少しがみついて、自分の申告の仕方を探ってきました。回を重ねたら、だいたい自主申告が出来るようになってきました。あらためて感じますが、今日の制度は、江戸時代の年貢のとりたてと比較してみると、同じ所得税でも、そのあり方はまったくの雲泥の差です。現在の税制の基本が、民主主義的だということが、明確に見えてきます。歴史というのは、無為に過ぎてはいないということです。もっとも、そこにはそこには問題もあります。第一に、この制度の民主的性格にふさわしく、この政治と行政が運営しているかというと、江戸時代とも、ちっともかわらないような、「お上の姿」が見えてきます。文句を言わない弱者には、情け容赦なく増税し、利用料を上げ、年金等の施策はカットする。他方、儲けている力ある大企業には大盤振る舞いで、しなくてもよい減税を気前よくする。そうした全体像がみえてきます。いったいどうなってるんだ、この国の今の政治は。第二に、国民がおとなしすぎること。「めんどくさい」「まぁ、いいや」と、ながれるきらいも無きにしにあらずです。まぁ、ちょっと前までは、私も同じような類でしたが。忙しいし、いちいち確定申告なんかに、細かくかかわってられない、と。しかし、ちょっとまて、と。せっかくの確定申告をする機会ですから、確かめてみることが必要です。結果として、私の場合には、源泉徴収されてた分から、還付(返却)分がでてきました。やっぱり、少しだけでも確かめてみることが必要だと、選挙もそうですが、国民が国政に参加している、その実際のあり方の問題です。
2015年01月30日
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ディーツゲン著『人間の頭脳活動の本質』(その9)「三、事物の本質」からの抜粋(2) 「三、事物の本質」からの抜粋で、前回の続きです。岩波文庫のP55-12節からです。 わかりにくいですが我慢です。字数制限にとらわれず、なるべく探っていきます。 前の所で「認識能力は感覚の諸現象と接触して事物の本質を産み出す」(P54)指摘してました。四、P55-12 感覚的印象、即ち現象は、何れも真実の本質的な対象である。感覚的に存在するものはすべて真理である。思惟能力は、存在と仮象の対立的関係を統一させる。 P56-13 我々は世界を二重に、感覚的及び精神的に、実践的及び理論的に知覚する。 P56-15 概念能力は感覚的現象と接触して、本質的なもの、共通なもの、一般的なものを産み出す。概念は初めは本能的に行うにすぎないが、科学的概念はこの行為を知識と意志をもって繰り返し遂行する。科学的認識が求めるのは現象ではなく本質である。現象の中から集約的、一般的な法則、簡潔な科学的精髄を求める。 P57-16 一般者が真の存在である。完全に真理であるのは存在一般・世界全体だけである。これに反し、現実的世界は絶対に相対的であり、無常であり、無限の仮象である。すべての真理は、この世界の構成部分、すなわち部分的真理にすぎない。 P58-17 一般者が真理である。一般者とは存在するもの、即ち現存、感性である。存在が真理の一般的標識である。存在は一般的な形で現存するものではない。一般者が現実界で存在するのは特殊な様式においてのみである。感覚界は、自然及び生命の一時的で多様な現象にあり、すべての現象は相対的な真理であり、特殊な時間的現象である。感覚的仮象は、思惟能力と接触すれば、一つの本質、一つの真理をつくる。意識にとっては一片の塵(ちり)でも、大きな事物と同様に、一方では本質的な「事物自体」であるが、他方では単に世界全体の仮象にすぎない。この世界全体の内部で諸現象は、我々の精神によって目的に応じて任意に体系づけられ、概括される。この概括は、上は無限の宇宙まで、下は無限の部分にまで及ぶ。すべての事物は相対的な性質となる。 P59‐18 何れの事物も感覚的現象も、いかに主観的であり一時的であっても、真実であり、多少の真理を持っている。思惟能力は多様性の中から一つをつくりだし、雑多な中に同一を、多数の中に一者をみとめる。要するに、思惟能力は結合力であり、無限の多様性を一つにまとめるもので、すべてを概括する。(以上です)ここまでは思惟能力と事物一般との関係でしたが、次回、P60-19からは、「以上で得たことを認識能力に適用する」こと、すなわち思惟能力そのものの検討です。
2015年01月29日
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ディーツゲン著『人間の頭脳活動の本質』(その8)三、事物の本質 からの抜粋(1) 「三、事物の本質」は、P47から69の22ページ、全体で32節です。 一、「事物の本質」とは、思惟活動の働き P47-3節 事物の「本質」というのは、眼や耳などの感覚にではなく、思惟能力に現れる。 P48‐4 ところで、科学や知識の対象、すなわち物質は感覚的現象である。それは無限に交代し、常に変化している。 では、物質の永遠さ、不滅性というのはどこで見出すか。 人の身体は、個々の肉や骨は絶えず変わっているのに、身体は同じであること。 答えは、多様に変化する形態に対して、その総和として変わらない人がある。 P50‐6 「事物自体」(本質)と現象との矛盾は、理性批判により完全に解決される。 その矛盾は、人間の思惟能力は任意の数の感覚的に与えられた多様性を、精神的統一・本質として捉えること。一般者に対立するすべてのものを、全体に対する個々の部分として理解することで完全に解決する。 言い換えると、感覚世界の相対的、一時的な多様な形態は、人間の頭脳活動の材料となり、人の 意識は共通性の標識によって材料を抽象して、体系化し主観的な統一をつくる。多者から一者を、部分から全体をつくり上げる。また、意識は抽象的統一を解消して無限に多様な感覚的現象に分けてみることが出来る。統一は人間の頭脳の産物である。 二、人間の認識過程から分かったことは。 P52‐8節 精神は一般的に、相対者から絶対者へ、仮象から事物「自体」へ到達しようと努力した。その努力の結果、実体は思想により集められた材料の総計であること、従って精神は、感覚的多様性から精神的統一をつくりだし、世界の移り変わる事物を結合することによって、独立的な存在「自体」、すなわち絶対的な全体として捉える唯一の実体的な存在であることが明らかになった。 そして、この実体的真理が、真理でないと想像されたものの総計、すなわち現象の全体であることが明らかとなり、精神は実体の創造者であることを実証した。 三、自然科学者の中にある混乱のわけは P52-9 「現象の背後に本質が隠れていて、この本質が現象する」との観念論的な考え方が、ある物理学者の混乱の原因になっている。 自然科学者のなかには、帰納的に研究しているが、論理学の理解を欠くために、隠れた「事物自体」への思弁的信仰に助けを求める状況がある。 実際には本質は現象の中に客観的に現存すること。 (字数制限のため、つづきは次回)
2015年01月28日
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本日、休日農夫は確定申告を終えました本日(1月27日)、多摩市の確定申告相談会に行ってきました。多摩市では、1月26日から30日まで、確定申告の相談会が開かれています。「小規模納税者の方などの確定申告無料相談会」です。東京税理士会・日野支部の税理士さんが応対してくれています。午前9時始まりですから、外は人影も少なかったんですが、当方が8時半に行った時には、すでに22番目になっていました。始まる時には、待合のスペースは、順番を待つ人たちでいっぱいでした。当方は、会社勤めと休日農夫の複数収入ですから、確定申告Bの書式です。昨日までに、申告書をまとめてあったので、全体として、記入が間違ってないか確認してもらいました。農業の大赤字を加味すると、生活保護水準よりはるかに低いですから、源泉徴収された分のお金を返してもらう、ということになります。「問題なし」、税理士さんによるチェックの結果です。あわせて気になっていた点を聞いてみました。再来年の完全退職した後には、申告の書式はBでよいのか?「年金だけならAだけど、農業が加わるならばBのままになる」とのこと。出納帳や領収書などの資料の保管期間は?「10年間を保管するように」とのこと。これにて、今回の確定申告書は、完成することが出来ました。当方の居住地からして、所管は八王子税務署になります。最寄りの相談所というのは多摩市でしたが、書類の実際の提出先は、八王子税務署です。申告用紙は、帰り道で直ちに郵送しておきました。確定申告の作業は、後片付けの部類ですから、申告書の提出は、なるべくはやめに済ませるようにして、これからは、肝心の実際のみかん作業に移りたいと思っています。やれやれ、これにて終了です。
2015年01月27日
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去年仕込んだ梅酒と梅干を楽しんでます1月26日、東京の梅の開花が発表されました。いよいよ、関東でも観梅の時期の到来です。この梅の開花の便りが届くころは、去年仕込んでおいた梅酒・梅干の解禁する時期でもあります。これが、去年6月に仕込んだものです。「梅干は3年物がおいしい」と、小田原の梅干屋さんが教えてくれました。それで3年ものもとってあるにはあるんですが、しかし去年のものも、これはこれでなかなかいけます。この数年は、すっかり「梅干爺さん」になってしまい、毎年、6月には梅干(梅酒も)をつけています。梅干は素朴に、簡単にできますが、大変な優れモノで、すぐれた整腸作用があり、健康食なんですね。昔の人の暮らしの知恵というのは、じつにたいしたものです。こういうものを引き継がない手はありません。梅の実の収穫時期は6月ですが、そのころは、毎年、青梅は梅酒に、熟した梅は梅干に仕込んでいます。それを静かに寝かしておいて、半年あまりが過ぎた今日この頃、一年で一番寒い大寒の時期に、梅の花が咲き出します。その時を待って、「花とともに団子」です。咲き始めた梅の花をイメージしながら、(現地はたいがい車ですから、花の下で味わうわけにはいきませんが)せめて写真でも見ながら、解禁です。梅酒、梅干を楽しみだすというわけです。 去年(こぞ)の春いこじて植えし我が宿の 若木の梅は花咲きにけり 『万葉集』巻八・1423昔も今も、人は同じようなことをして、楽しんでいるということです。
2015年01月26日
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二ホンミツバチの養蜂、今年の課題です二ホンミツバチの飼育は、去年も失敗してしまいました。みかん園は、みかんの花もあるし、養蜂には適していると思ったんですが。一昨年の失敗に続いて、去年もまた二度目の失敗をしてしました。自然の豊かさというのは、オオスズメバチやスムシなどの障害も大きくて、結果として、ミツバチは年越しをすることが出来ませんでした。これは、分蜂にそなえて育てているキンリョウヘンです。ランの種類の一つです。この花の香りを二ホンミツバチは好むんですね。分蜂した時に、待ち箱に誘導するために、栽培しています。もっとも、今は、ミツバチの群れは消滅してしまい、活用はできないのですが。もう一つは、巣箱ですが、これも今は、あるじのいない待ち箱の状態です。ミツバチの気配のない、ガランとした空き箱は、寂しい限りですが。みかん園でミツバチを飼う-これがこの数年の希望している目標なんです。みかん栽培とミツバチとが、自然の中で共存するのが、理想的と思っているんですが。残念ながら、まだまだそうした状況をつくれてはいません。今の時点では、2年の失敗が続いて、幻の計画といった状況です。今年の春には、三度目の挑戦をするつもりです。千葉の養蜂家の方に頼んであるんですが、春が来て、分蜂の時が来たら一群を分けてもらう予定なんです。今はそれを首を長くして待っているんですが。せめてそれまでは、キンリョウヘンの手入れでもしておきます。
2015年01月25日
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休日農夫は、本日はお休みです1月24日、休日農夫はお休みで、湯治に出かけました。確定申告の準備の方は、下書きをまとめるところまできたし、みかんには網かけを済ましたし、陽気は寒いし、休むとしたら、今ですから。バックにタオルと着替え、読み残しの新聞と、読みたい本をもって、朝早く出かけるようにして、大平台の「姫之湯」行きでした。今日は湯治が中心です。温泉につかりつつ、午前と午後の2回も昼寝をしてきました。今日の成果ですが、ディーツゲンの『人間の頭脳活動の本質』(145年も前の本ですが)の「三、事物の本質」を読み通すことが出来たことでした。この間、この著作を読み込もうとしているんですが、難物で容易ではありません。しかし、この第三章まで来たら、その面白さと重要さが、かなりわかりました。人間の認識ということについて、独特に重要な解明をしています。彼は、もともと専門の学者ではなく、労働者(なめし革職人)ですから、仕事と学研の、「二足の草鞋」の人だったんですね。まぁ、この本も簡単に読み通せるものではありません。がんばってよく読み込んで、その論点を整理するようにしないと、なかなか理解できない。この「三、事物の本質」でも、中身はつかみにくいんですが。ここでの論点の中には、例えば、 人は知りうるのは相対的な真理であり、それを広げることで全体な真理に近づいていく。 また、その相対的な真理の前提条件を越えて正しさを主張しようとして誤りを犯す。などが、その中にふくまれてます。この論点は、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』や、レーニンの『唯物論と経験批判論』などに引き継がれ、より明確にされていく認識論ですよね。その草分けがここにある。ディーツゲンがこの著作で、その基本を1869年時点で述べているということは、すごい業績だとおもいます。彼は独特に弁証法的唯物論の哲学の発展に貢献したということです。そんなことを感じながら、電車にゆられて、居眠りしつつ帰ってきました。
2015年01月24日
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休日農夫は、確定申告の準備に入りました当方は、会社勤めと、みかんの休日農夫との二足の草鞋です。この数年は、農業者収支を含めた確定申告Bで自主申告しています。先日、職場の昼休みに、板橋区の税務署で申告用紙をもらってきました。当方は、この一年間、みかん農業にかかわる収支を出納帳に記録してきました。簡単には、みかんの総売り上げから、みかん農作業にかかった経費を引くことですが。その部分を、確定申告Bの事業収入欄に加えるようにして、申告しています。みかん農業の収支は、もちろん、だいぶ大赤字なんですが、会社で源泉徴収されていた金額の中から、ある割合で還付されてきます。もともと、源泉徴収されていた金額自体が少ないので、いくら赤字が大きくても、少ない源泉徴収の枠内での還付ですから、もどってくる金額は、知れたものですが。それでも、その還付があるのは勤労の結果です。大事なのは、このなかで、みかん農業の収支を整理集計する点です。「農業者用の収支内訳書」があって、収入-諸経費ですが、収入-みかんの売り上げはどのくらいか。支出-農具、肥料、諸材料、荷造代など。出納帳の記録を、勘定ごとに整理して、まとめます。頑張った部分も、改善の求められる問題点も、全体が見えてきます。これで、1年間のみかん農業の状況や課題、問題があきらかになります。この点では、なかなか面白いものですよ。これから、集計作業をして、申告書にまとめます。来週の、1月下旬には、最寄りの市役所で、税金の申告相談会がありますから、まとめた申告書を、そこで税理士さんにチェックしてもらって、提出します。これが、大事な休日農夫の一年間のまとめ作業です。
2015年01月23日
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鳥害対策でみかんに網を被せました1月21日は、陽気の寒く、天気は下り坂で下から、最小限の見守りくらいのつもりでみかん園に出かけたのですが。そうは問屋が卸してくれませんでした。鳥たちが、中・晩柑を突っつき出していたんです。急きょ、湘南ゴールドと日向夏の木に網を被せました。これは湘南ゴールドです。今、みかん園には、ヒヨドリやメジロ、ムクドリがやってきています。年末で温州みかんは終了していますから、この間は、落ちているみかんを突っついていたんですが。湘南ゴールドは、まだ成熟するまでには時間があるはずなんですが。突っつくには早すぎるはずなんですが、狙われ出しています。1月11日に見た時は、まだ異常はなかったんですが。この10日間の出来事で、ヒヨドリの仕業です。あちこちに、いくつも穴をあけていました。念のため、「そろそろ網掛をしておくか…」とは思っていたんですが。現実は予想した以上に切迫しているようです。この時期は鳥たちの餌が少ないんですね。「熟してから…」など贅沢は言ってられなようです。前回、1月11日には、清見とはるみには、袋かけしておいたんですが、これは正解でした。今年は裏年のため、ただですら数が少ないのに、それをやられては、せっかくの栽培した意味がなくなりますから。こちらは日向夏です。日向夏は、右側の半分を摘果して、左側はならしておいたのですが、これも狙われているはずです。急きょ、主要な半分には、網掛けしておきました。お腹を空かした鳥たちを相手にしては、この時期の柑橘類には、袋かけか、網かけをしておかないと、人が収穫する以前に、鳥たちの饗宴により、餌食になってしまいます。当方の木は小木ですから、網掛けするのは容易なんですが、一般農家の木は大きく生育してますから、網掛けするのは大変な作業だとおもいます。今、東海道線の車窓から、注意して山を見ていると、網掛けした木が目につきます。大規模に網掛けされているのみると、その大変な苦労のほどを感じさせられます。やはり、この時期、みかんを守るためには、これは欠かせない措置なんですね。
2015年01月22日
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梅の花が咲き始めました1月21日(水)、関東の朝は曇り、午後からは雨の予報。今日は休日農夫の仕事始めです。今回、梅の花を見つけました。まだほんのわずか、チラホラですが、確かに咲き始めています。大寒の曇り日、雨が降り出せば、雪になってもおかしくはない寒さなのに、 梅一輪、一輪ごとの暖かさとはいえ寒いから、仕事は最小限にして、早々に引き揚げてきました。まだ1輪、2輪と、開花しだす兆しの段階ですが、それでも、確かに咲き始めました。まだ、「香り、ただよう」という所までは来ていませんが。今年の「小田原の梅まつり」は、1月31日から3月1日までとのこと。さすがですね、開催日に「花なし」なんてことには、ならずに済みました。自然は、人の都合に合わせてはくれませんから。当方の梅は、バロメーター的で、地域一帯につながってますから、これで、まつりの主催者は、ほっとしているでしょう。『古今和歌集』からです。 人はいざ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける 巻一・42以前に調べてみたんですが、梅の歌は、『万葉集』には、119首、『古今和歌集』には、23首も歌われていました。昔の人たちが、いかに梅を楽しみにしていたか、数からも伝わってきます。
2015年01月21日
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ディーツゲン著『人間の頭脳活動の本質』 第二章の抜粋(その3終)一見難解そうなディーツゲンですが、意外にも身近な事柄です。何とか手身近かに引き寄せるために、書き抜きの基礎作業です。今回は第二章の書き抜き3回目で、第29節から37節・終わりまでです。 もっとも抽象的な、労を惜しんではならない、哲学の根本問題です。二、純粋理性或は一般的思惟能力(その3) P41-29 思惟は肉体的活動であり、考えるためには材料を必要とする。この材料は自然と生命との諸現象の中に与えられている。これらの現象は「特殊なもの」と名づけているもの。思惟の対象は無限である。しかし思惟が活動するためには現象の世界、物質を必要とする。精神は物質の産物である。しかし物質は精神以上のものである。物質は五官により我々に接近し、同時に感覚作用の産物である。〔これも言い過ぎだ〕感覚と精神により同時に開示される産物のみを、現実的な、客観的な産物、すなわち事物「自体」と名づける。 30 理性は感覚的であるかぎりでのみ、真実の現実的の事物である。理性の感覚的活動は、客観的に外の世界で開示されるのと同様に、人間の頭脳においても開示される。さもないと、理性が自然及び生命を改造する活動は感覚では知られないことになるではないか。世界は関連の中においてのみ存在する。 31 もし我々が世界を「事物自体」と考えるならば、世界「自体」と我々に対し現れる世界(世界の諸現象)とは、全体と部分との相違にほかならない。世界自体とは世界の諸現象の総和にすぎない。 〔この辺をエンゲルスは『非常によい』『天才的だ』と評価している。1868.11.6付手紙〕。 我々が理性・精神・思惟能力と名づける世界現象の諸部分についても同様で、思惟能力をその現象・活動から区別するが、思惟能力「自体」・「純粋」理性は、その現象の総和においてのみ現実的に存在する。我々は諸部分によってのみ全体を持ち、その活動(個々の思想)によってのみ理性を持っている。思惟能力は最初ではなく、思想に先行するものではない。 感覚的対象によって生み出された思想が材料となり、その材料によって思惟能力の概念が生み出される。個々の思想から思惟能力という概念が形作られるように、思惟能力も我々の思想の総和としてのみ実践的に存在する。 32 純粋理性、すなわち特殊な内容を持たない理性とは、特殊な理性の諸作用の中の一般的なものにほかならない。この一般的なものを二重にもつ、一方では不純に実践的或は具体的に、現実的現象の総和として、他方では純粋に、理論的或は抽象的に、概念において持っている。 33 どのような現実の認識作用にとっても他の現象が対象となっており、この対象はすべての現実的なものの性質として豊富であり多様である。この多種多様な対象から、思惟能力は同種なもの(一般的なもの)を引き出す。概念は多くのものを包括して統一し、特殊なものから一般的なものを発展させる。このことは次のことを示している。認識能力の一般的本質は、ある与えられた・現実的・感覚的・現象から、本質・一般的なもの・共通なもの・精神的なもの・普遍的なものを抽出することの中にある、ことを証明している。 34 理性の本質はそのままで現象するものではない。逆に我々は諸々の現象から、本質、理性自体、純粋理性の概念を形成するのである。 35-36 (同じ事柄を別の言葉で表現している。それは、空虚な言葉ではなく、生きている概念を、多様な客体をその普遍的な本質において掴んでもらうためにそうした、と) 37 意識とは存在の知識だ。意識、すなわち存在の知識には、様々な多様な形で矛盾が含まれている。意識は一方で普遍化・統一する能力だし、他方では区分する能力である。意識は矛盾を含み、同時に説明や理解の性質を持つ。意識は、すべての自然現象、すべての自然物が矛盾によって生きており、あらゆるものが対立する他者との協同によってのみ存在することを知っている。思惟と存在とを支配する矛盾は一般的なものである。思惟能力の科学は矛盾の普遍化によりすべての特殊の矛盾を解消する。 (以上で二、純粋理性或は一般的思惟能力からの抜粋は終了です)
2015年01月20日
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ディーツゲン著『人間の頭脳活動の本質』 第二章の抜粋(その2)前回に続いて、第二章の書き抜き、基礎作業です。第二章は、全体で37節ありますが、前回は第1節から19節まででした。今回は、第20節から28節までです。二、純粋理性或は一般的思惟能力からの抜き書き(その2) (続き)P37-20 概念を産み出すことと概念を分析することは、脳髄の作用という点では共通だが、本能と意識との区別を持つ。人は概念を、まず本能的に自然に生み出す。これを意識の下におくには分析する必要がある。本能的な概念を意識的な分析された概念に高める。分析により初めて事物は概念的に、的確に理論的に把握される。本能的概念と分析された概念との区別は、生活の思想と科学の思想との区別に等しい。 21 ある概念の分析と、その対象すなわち概念を産み出した事物の理論的分析とは同じものである。概念は一般的な事物を包括する。分析とは一般的なものをその要素に分解することである。 22 概念の分析とその対象の分析とが違ったものと思われるのは、我々が対象を二つの方法で、一つは特殊なものには実践的・感覚的・行動的に、一般的なものに対しては理論的に・頭脳を以て精神的に区別する能力を持つからである。実践的分析は理論的分析の前提になる。 23 どのような概念にも対象が照応し、対象は実践的に多くの部分に分解される。従って概念を分析するとは、すでに実践的に分析されたその対象を理論的に分析することを意味する。概念の分析は、その対象の特殊の部分の共通性或は一般性を認識することの中にある。科学は対象の概念を分析するために、対象を分析する。 24 我々の特殊な対象である思惟能力も、またその概念から区別される。しかし概念を分析する為には、その対象が分析されていなければならない。思惟能力は理論的に科学的に分析することは出来る。しかし科学が概念的に分析しようとする対象は、あらかじめ実践的に分析されている必要がある。すなわち対象の種類に応じて、使ってみたり、眺めてみたり、聞いてみたり、要するに徹底して経験されなければならない。 25 人間が考えること、すなわち思惟能力は感覚的に経験される事実である。そうした事実が、我々が本能的に概念を形作るための機縁或は対象を与える。だから、今後は思惟能力の概念を分析するとは、種々の個人的な一時的な現実の思惟作用から、共通なもの或は一般的なものを見出すことを意味する。自然科学的方法でそうした研究するには、どんな科学や認識とって、それに欠かせない感覚的観察は、先天的に与えられている。我々の研究対象である思惟力の事実とその経験については、誰でも記憶の中に持っている。 26 先に本能的概念もその科学的分析も、感覚的・特殊的・具体的なものから、抽象的なものもしくは一般的なものを発展させることを認めた。それを言い換えると、すべての個々の思惟作用に共通なものは、感覚的・具体的には雑多な現れ方をする対象において、一般的なものすなわち普遍的統一を求めることの中に見いだされる。共通な一般的なものが普遍的な概念を構成する要素になる。こうした思惟能力を分析した結果、思惟能力とは、特殊なものから一般的なものを究める能力であることが分かる。 P40-27 〔まとめ〕我々は次のことを知った。 一、思惟は他のすべての活動と同じ様に対象を必要とする。 二、すべてが無制限に思惟能力の対象になりうる。 三、これらの対象は感覚的には様々な現れ方をする。 そこで思惟活動はこれらの現象の中から類似なものを、一般的なものを抽出することによって、それを単一の概念に転嫁させるものであることを、知った。 この思惟能力の一般的方法に関する認識・経験を、我々の課題に適用するならば、我々がもとめているのは思惟能力の一般的方法だから、それによりすでに解決は与えられている。 28 特殊なものから一般的なものを発展させることが、理性が認識を促進させる普遍的方法、一般的方法であるならば、それにより、特殊のものから一般的なものを引き出す能力としての理性は認識されたことになる。 (この続は、次回です)
2015年01月19日
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ディーツゲン著『人間の頭脳活動に本質』の 第二章の基礎作業(その5)今回は、ディーツゲン著『人間の頭脳労働の本質』、「二、純粋理性或は一般的思惟能力」の追跡で、基礎作業です。 第二章は、P28からP46までの18ページ分で、全体で37節からなっています。 ディーツゲンのこの著書の中で最も抽象的な部分ですから、読み込むためには苦労します。しかし、この作業は欠かせません。ブログは一回の字数に制限がありますから、とても一回には収まりません。回数を重ねたとしても字数制限にこだわらずに、中身を追跡したいとおもいます。 二、純粋理性或は一般的思惟能力 P23-1節 我々が今問題にするのは、思惟過程の様々な種類ではなくて、その一般的性質である。 2 思惟は頭脳の作用である。思惟は頭脳の産物である。 3 我々は思惟(精神)を感官によって知覚する。主観的な内的な過程として感じられる。 4 思惟過程は、内容は違うけれど形式は同じで、特殊なもの(具体的なもの)と一般的なもの(抽象的なもの)とを区別することであり、思惟の一般的目的は認識である。 5 対象のない思惟はなく、思惟には自己を表現する客体を必要とする。 6 特定の表象、現実の思惟は、その内容と同じであるが、その対象とは同一でない。 7 我々は思惟と存在を、感覚的表象とその精神的概念とを区別する。しかし共に、物質的であり、現実的である。 9 思惟以外の活動は対象が制限されるが、思惟はすべてが対象になり認識される。 P31-10 思惟は感覚世界の無数の活動のすべての代わりをすることは出来ないという意味では制限されている。我々はすべての客体を認識するだろうけれど、しかし、どの客体も認識しつくすことは出来ない。また意識以外のものが必要である。 11 我々は世界を外的と内的(表象)の二重に捉える。その際、事物はそのままで頭に入れることは出来ず、その概念(表象・一般的形式)で取り入れる。そして頭脳の中には事物の無限の豊富さを入れる余地はない。 12 我々は諸現象を二重に捉える。感覚による多様性として、また精神としては統一して。しかし、概念(思惟能力)は、感覚的部分から抽象的全体を作り上げる。感覚的全体は抽象的世界の一部分として理解する。〔精神は物質的であり、事物は精神的である-これは問題〕 13 すべての事物は他のものとの関連の中でのみ現れる。 15 すべての精神作用は対象を前提とし、その対象が精神作用を産み出し、精神的内容を与える。内容は、精神の外に存在する対象から、知覚され経験することによって生ずる。 16 対象は無数の特殊な感覚的性質の外に、なお考えられ把握される思惟能力の対象である一般的・精神的性質を持っている。 P35-17 あらゆる客体のこの形而上学(哲学)的規定は、思惟能力すなわち精神にも当てはまる。精神は肉体的・感覚的活動であり、様々な頭脳に生み出される思惟である。我々は他のすべてのものと同様に、特定の思惟作用の対象にすることができる。(存在と思惟との区別は思惟作用にも当てはまる)。対象としての精神、この多様な経験的事実は、特殊な頭脳の作用に接触すると、この思惟作用の内容として精神という一般的概念を産み出す。一般に事物はその概念から区別されるように、思惟の対象は思惟の内容から区別され、自己独自の概念を産み出す。 18 理性(精神)は二重の存在を、一は、現象或は経験における存在を、他は本質或は概念における存在をもっている。ある客体の概念は、その経験を前提にしている。 P36-19 次の関係を見るところまできた。経験なしに精神から認識を産み出そうとする思弁的方法は、客体の感覚的性質によりいつのまにか帰納的方法になり、経験のみにより認識を産み出そうとする帰納的方法は、客観の精神的の性質により思弁となる。それで、ここで思惟により思惟能力、認識能力、理性、知識、科学等の概念を分析しなければならない。 (この続きは次回です)
2015年01月18日
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ディーツゲン著『人間の頭脳活動の本質』へのマルクスの批評(その4)ディーツゲンの『人間の頭脳活動の本質』(1869年)を、岩波文庫で読んでいます。今、「二、純粋理性或は一般的思惟能力」を読んでます。前にこの手稿に対するマルクスとエンゲルスの批評を紹介しました。http://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201412270000/今回もその続きです。 1、マルクスは、この草稿をディーツゲンから受け取って、自らの感想とともにエンゲルスへ送っています。『マルクス・エンゲルス全集』32巻にありますが。 マルクスからエンゲルスへの手紙 1868年10月4日です。 「僕の考えでは、ディーツゲンが自分のすべての思想を短くまとめて出せば一番良いのだけれど。彼が意図している範囲で公表すれば、彼の弁証法的発展の欠如や、循環論法のために物笑いになる。通読して君の意見を書いてくれたまえ。」と。 2、マルクスはエンゲルスの返事がくる前に、クーゲルマンに書いています。 マルクスからクーゲルマンへの手紙 1868年10月28日 「ディーツゲンを知っていますか。彼は私が知っているうちで最も天才的な労働者の一人です。手紙の上だけで、まだあったことはありませんが。」3、マルクスの求めに対してエンゲルスの書評の返事は、 エンゲルスからマルクスへの手紙 1868年11月6日です。「これについて完全に確定的な判断を下すことは困難だ。この人は生まれながらの哲学者ではないし、彼の典拠(フォイエルバッハ、君の著書、自然科学に関するいろいろな通俗的なガラクタ本)は、一部分は彼の用語からもすぐに察しが付くが、他に何を読んだかわからない。用語はもちろんまだ非常に混乱しており、その為に厳密性に欠け、またしばしば別の用語での繰り返しがみられる。その中には弁証法もあるにはあるが、しかし関連を成しているというより多くはせん光の姿で現れる。物それ自体を思想物として述べていることは、非常にいいだろうし、また、彼がそれを自分で発案したということが確かなら、天才的でもあるだろう。才気にあふれているし、文法上の欠陥があるとはいえかなりの文才もある。だが、全体として、あんなに不足な予備研究をもってあんなに多くの正しいことを考え出すという、注目に値する本能がある。 いろいろな繰り返しは、すでに述べたように、一部は用語の欠陥の結果で、一部は論理的な修練に不慣れなことの結果だ。これらのことをことごとく取り去ることは困難だろう。短くすることが最良かどうか、僕にはわからない。」 4、このエンゲルスの書評にたいして、マルクスがお礼を述べつつ語っています。 マルクスからエンゲルスへの手紙 1868年11月7日 「僕はディーツゲンの説明は、フォイエルバッハなど、要するに、彼の典拠をのぞいて見なかったかぎりでは、まったく彼の独立の仕事だと思う。そのほかの点では僕もすべて君のいうところと一致する。繰り返しについては、かれにいくつかのことを言ってやろう。彼がヘーゲルを学ばなかったということこそ、彼にとっての不運なのだ。」 5、この後、マルクスはクーゲルマンに対しても草稿を送るとともに、ディーツゲンについて書いています。総評といってよいと思います。 マルクスからクーゲルマンへ 1868年12月5日 「『思考能力』に関する草稿の断片なのですが、これはある程度の混乱や重複が多すぎるなどの点はあっても、優れたところは多く-一労働者の独力の所産としては-感心させられるところの多いものを含んでいます。」 私などが思うに、この哲学問題は、『反デューリング論』(1876年から78年執筆 『空想から科学へ』)と、『フォイエルバッハ論』(1888年)くらいしかありません。『ドイツ・イデォロギー』(1845-46年)がありますが、これは刊行されたのは1926年ですから。 その事情からすると、1869年にディーツゲンが読めたものは極限られていた。その中で『人間の頭脳労働の本質』を書いたということは、問題点はあっても、全体としては、彼の独学による、注目されるべき著作だと思います。それは哲学的世界観を豊かにする上で一つの重要な貢献にもなったと思います。
2015年01月17日
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「ご先祖さん」碑文の意味が解りましたこの1月14日、真鶴町教育委員会から手紙が届きました。中身は、当方のみかん園の近くにある「石工先祖碑」の碑文の読み下し文でした。前々から、この石碑に何が書かれているのか謎だったんです。50年をさかのぼる、私の子どものころは、「ご先祖さん」と呼ばれていました。そこは小竹が生えた寂しいけもの道の脇にありました。そこに冒険に出かけて、クワガタをつかまえたり、ニッキの根を探したりしました。5年前に、60近くになって、みかんの手入れの合間に、今でも残っているかなと探ったところ、ありました。今では、松林はすっかり宅地に切り開かれていて、小竹の小道はどこへやら。様子はすっかり変わっていましたが、しかし、石物はしっかりと残っていました。それは、あらためて見ると、「石工先祖碑」と刻まれた石碑だったんですね。子どものころは巨大に見えた石物でしたが、よじ登ろうとして、登れなかったんですが。今の目で見ると、大きめなお墓くらいの、こじんまりしたものに見えました。それでも何で「ご先祖さん」なのか、刻まれている碑文は何が書いてあるのか、謎でした。そこで、碑文に何が書いてあるか、石業組合に聞いたり、町役場に聞いたり、はては知り合いの学校の先生に聞いたりしたのですが、この5年間、分かりませんでした。http://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201006190000/自分でも解読しようとしたのですが、碑文の約4百字を写しとって、挑戦したのですが、江戸時代の末に刻まれたもので、おおよその部分しか解りませんでした。http://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201005190000/今回、上さんのアドバイスで、あらためて真鶴町の教育委員会に問い合わせしてみました。すると吉報が返ってきました。それは「町の重要文化財になっている。読み下し文があるはず」とのこと。そして、1月14日に、さっそく送って来てくれたわけでした。それで、ようやく次の様な内容だということが分かりました。 以下、「石工先祖碑」の読み下し文に、字引を引いたものです。 「天の物を生ずるや必ず其の人を待ちて世に顕るなり。 相の巌邑(いわむら)は嶮岸東南の海に沿い峻岳西北の函関(カンカン 箱根山の関所)に連なり樹林縫うが如し。ガン石間を為し一項の田無し。しかれども百有余戸飢渇を知らず。 古昔保元平治の時〔1156-59年〕土屋氏の族格衛、乱を此に避け石工を創業す。右幕府鎌倉に城くや納め錫い、太田氏桜田に城くやまた石を此に取る。是れ巖邑〔四方が山で囲まれた村〕出石の天下に顕るるなり。 東照君大江都を城くや諸侯に命じて大石を納め錫う。然り而して大事毎に此に納め錫わざるなし。此此に於いて徳沢(トウタク めぐみ)下降し屋を潤し身を潤す。乃ち格衛の成功を楽しむ。初の文明中〔文明年間1469-1487年に〕始めて成功を頌(ショウ ほめる)し石に勒(ロク ほりきざむ)し碑を建て、春秋に祭祀し以て之を思う。其の子孫を謂て古元業と号し世々邑宰(ユウサイ)に比す。元亀天正の乱〔1590年秀吉の小田原攻め〕駿相(駿河・相模)彊(ゴウ)を争いしばしば戦場となり碑銘摧壊(サイカイ くだかれる)す。 慶長十一年〔1606年江戸城の増築〕筑州の都督〔黒田長政か〕に台命し諸侯の人に先んじて其の人を使わしむ。小河政良は善工七人を以て山勢を観、地理に由りはじめて山をひらく。故に其始むる処を謂て後世発口(クチアケ)と名づくるなり。役やみて(修繕)七子、古元業及び父老に謀り碑銘を再興す。是を以て父老其の功徳を懐い、また墳墓を碑の傍らに為し中興の祖となして併せ祭祀するも、嘉永の震〔1853年2月2日の関東地震〕に摧折(サイセツ 破壊された)没入す。之に加うるに年凶穀貴時又季世(キセイ)なり。しかれども天徳を断たず至誠を佑(たす)け三興復古成功益々明らかなり。因って以て石工先祖と名づけ石に勒(クツワ 彫り刻む)し、以て功徳をあらわし後人をして事業に怠慢無からしめんと欲す。不肖、父老に代わりて諸千載に謹告す。 安政己末年(1859年)七月 加州 南陽金剛山入 長良連謹識 」今回、ようやくにして、長年の謎が解けました。それは、小さな村の片隅に、今でも残る大きな郷土の歴史の記念碑でした。「たかちょうば」とか、「うがくぼ」とか、昔年寄りたちの茶飲み話に出てきた言葉が、ふと想い浮かんできました。当時の子どもには、何のことか、どこの場所のことか、ちっとも分からなかったんですが。幻の世界です。古老たちが健在なうちに、もっともっと聞いておきたかったですね。
2015年01月16日
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今回は、休日農夫の年間会計のまとめです1月14日の箱根・大平台行きは、この時期ほぼ恒例になってます。休日農夫は1年間のみかん作業のまとめる為、電卓を持って一日中、山に籠もります。これが、その臨時の「書斎」の様子です。所は、大平台の湯治場・姫之湯です。食べ物や飲み物も持ち込んでの作業です。周囲は箱根山、その自然の中ですから、抜群です。ここに来ただけでも、「湯治」となるはずなんですが、中身が中身ですから、「湯治」になったかどうかは、わかりません。これが「姫之湯」の正面です。二階が休憩室になっていて、大広間があります。その一角を当方の「書斎」にさせてもらって、一年分のみかん作業を、その出納帳と電卓をもちこんで、作業させてもらいました。これは確定申告の下準備でもあるんですね。すでに12月末で絞めてますが、ここで一度、中間的決算をしておきます。まだ届いていない資料もありますから、最終決算は1月末になりますが。ここで集計しておけば、後の作業が楽になりますから。1年間のみかん作業の動向が、具体的な数字になって出てきます。電卓作業に疲れてきたら、温泉です。43度の熱い温泉で頭をシャキッとさせます。これは大変に効果があります。強制的にすっきりさせてくれます。この大平台温泉は、箱根十七湯の中でも、比較的新しく開けたところですから、大きなけばけばした施設は無く、落ち着いた家族的な温泉場です。湯量もたいへん豊富なんです。この姫之湯も、源泉かけ流しです。午前9時から午後5時までが、休憩者の利用時間で、一日の休憩料が1300円ですから、当方にとっては、もう大ぶねです。主には仕事帰りの人や、山登りの人たちが、立ち寄りで利用しています。この日の休憩室は、当方の他に3組が利用していましたが、二階の部屋は大広間で、広々としてますから、ゆったりでした。当方は、何度も熱い温泉で頭をシャキッとさせるようにして、電卓をたたきました。今回分かったことですが、東京-真鶴間の年間の往復交通費だけで28万円かかってました。みかんの売上金で12万円ですから、赤字もいいとこですが。いろいろ現状と、そのもつ問題点もみえてきます。しかし、みかん園を放りっばなしにしておくわけにはいきませんし、いろいろなお金に換算できない副産物もありますから、今回の「姫之湯」行きもその一つですが、まぁ、みかん農夫は、これからも、なるべく行けるところまで、がんばって続けていくということです。
2015年01月15日
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箱根・大平台のどんど焼き休日農夫は、1月14日、湯治で箱根・大平台に行ってきました。朝、9時半頃、登山電車の出山信号所からの景色です。天気もよし、素晴らしい絶景でした。この景色をみれたら、それだけでも、遠路出かけてきた甲斐があったというものです。平日のことですから、登山電車の中はのんびり、ゆったりでした。山間の急こう配を登っていきます。短いトンネルをくぐるため、車内は暗いのですが。やはり湯治に行く人たちでしょうか。目指した駅は、大平台駅でしたが、駅舎を出たすぐのところに山神神社があります。神社の境内には、枯れた木々が積まれていました。山間の小さな集落でも、どんど焼きの風習があるんですね。いや、こういう所にこそ、昔ながらの素朴な形が伝えられているのかもしれません。再び帰り道で通った時には、大方は終わって、残り火の始末にかかるところでしたが。最後の親子でしたが、小枝にさし焼き上げた団子を持ち帰るところでした。もちろん、子どもたちは大喜びでした。全国各地にどんど焼きの習慣が残っているんですね。小さな大平台の集落でも、やはり行われていました。午後4時30分をまわった頃だったでしょうか、山間の日暮れはつるべ落としで、すぐに暗くなっていきます。地域の消防団の人たちが、見守っていくれていて、そろそろ残り火の始末にとりかかろうとしていました。帰りの大平台駅、午後4時55分発です。もう駅全体がうす暗くなってきていました。箱根登山鉄道は単線ですから、この駅でスイッチバックです。前から登りの強羅行きの電車が入ってきました。当方は、右側の箱根湯本駅行きで帰途につきます。荷物は車内において、電車を撮っていたんですが、出発時刻です。もっとも、あせらなくても車掌さんが待っていてくれてたんですが。
2015年01月14日
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初仕事は、はるみと清見の袋かけ1月11日が、今年のみかん園の初仕事でした。年末にマシン油散布をしましたが、今回もそのつづきをしましたが、同時に、梅の木への石灰硫黄合剤の散布もしておきました。本来は年末に済ましておくことでしたが、風が吹き出したので少し残りました。今回は、そうした作業の前に、はるみと清見への袋かけをしました。今季の清見は裏年です。はるみは幼木ですから。いずれも木に着いてる果実が少ないので、袋かけをしておきました。鳥たちが、熟しだすのを狙って待ちかまえているからです。この清見の木は、前回は表年で、実が多かったんです。去年は、いちいち袋かけなどしておれず、木全体に網をかぶせるようにしておきました。しかし、今年は、袋かけで十分です。この時期はヒヨドリたちも、餌が不足しているとみえます。はるみや清見、日向夏などは、果実が成熟してくると必ず狙われます。この日も、年末に枝落としで地面に転がっていたみかんや、ジュースを絞ったみかんの残りを、あちこちでついばんでいました。鳥たちも今は贅沢はいってられないんですね。これはヒヨドリでしょうか。なかなか警戒心がつよくて、その姿を撮らしてくれません。カメラを手元に取り寄せた時には、何処かへ飛び去っています。ようやくにして撮れたのがこの一枚です。ほかにもメジロ、ムクドリ、モズ、キジバトなどが来ています。今は餌が不足がちですが、それでもみかん園は鳥たちの楽園です。次の写真は湘南ゴールドです。果実がたくさんつきました。これでは、いちいち袋かけなどはしていられません。日が暮れちゃいます。こうした果実の多い木は、木の全体に網をかぶせるようにしています。当方はまだ小木なので木全体のへ網掛けといっても簡単にできますが、大きく生育した木を持つ農家にとっては、その網掛けは大変な作業です。当方の網掛けは、この次に行った時の課題です。
2015年01月13日
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春は近い、梅の花はあとチョットみかん園は、静かな常緑樹の木々にもどりました。今は寒中の季節、一年で一番寒い時期ですが。1月11日、梅の花のつぼみがふくらみだしました。梅の花の開花まで、あと少しです。寒いはずです。途中の厚木・中津川の橋げたは、午前7時でマイナス3度でした。富士山の雪も、宝永山を下りて、下界に迫ってきました。あまりに寒い時は、散布は不適当だとは思いますが、昨年12月末に散布したのですが、午後からは風が吹き出してきたので、早々に切り上げました。みかんの木の越冬害虫駆除につづいて、同じくこの時期、梅の木にも、予防散布をしておきたいもの。梅の枝には、ミノムシの袋がありました。最近は、見かけるのが少ないのですが。外敵や寒さから身を守ってるんですね。カイガラムシなどの越冬害虫の駆除ですが、みかんはマシン油乳剤を使いましたが、梅の木は、石灰硫黄合剤を使ってます。春の芽吹きの前が適当なんですが、ミツバチを考えると、花の咲く前に散布しておきたいものですから。(もっとも、ミツバチは消滅してしまって、今はいないのですが) 『万葉集』からです 春さればまづ咲く宿の梅の花 独り見つつや春日暮さむ 山上憶良(巻五・818) あの時代に、九州の大宰府で、高官たちの梅見の宴があったそうな そのなかの一首です。このくらいの心が欲しいですね。 同じように政府高官でも、 あえてしなくてもよい大企業減税の方はスパスパと実施して、 ぎりぎりの庶民の暮らしからは医療も年金も介護もバサバサ切ってしまう。 いったいこの国の「えらい」政治家の頭の中はどうなっているんでしょうか。
2015年01月12日
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初めての柑橘と、初めてのうれしい便り昨年の12月に温州みかんは収穫を終えました。これからは、ほんの少しですが、中・晩柑橘をたのしみにしています。これは、今年初めて収穫が期待される湘南ゴールドです。知人に苗木を分けてもらい、一昨年植えたばかりなんですが。苗木の育て方が良かったと見えて、短期間にしっかり育ってくれてます。みかんの大きな収穫を終えた今は、これからの生育を楽しみにしているところです。それと、数日前に、初めてのお便りをいただきました。「こんにちは。昨年一年間、楽しく読ませていただきました。私も5月から日本みつばちを飼い始めました。みかん2本といよかん1本、柿と梅を育てています。街のまん中ですが、土日はのんびりとみつばちたちに癒されています。仕事が遅い日は、このBLOGで癒されています。みつばちは元気なのですが、昨夏、ようやく沢山実をつけるようになった8年目のみかんの木から、カミキリムシが出てきました。今回は20個くらいしか実を付けれられませんでした。枯れなかっただけでもよかったとは思っていますが……。今まで無農薬でしたし、みつばちもいることなので消毒は考えていませんが、こちらで学んだ石灰とマシン油を検討していこうと思っています。情報を楽しみにしていますのでよろしくお願いします。それでは。 (2015年01月10日 01時28分12秒)」とのうれしい便りでした。ミツバチとみかん、伊予かん、柿、梅など を、街中で育てている。ほぼ共通したものを育てられていて、しかもミツバチが順調そうで、何よりです。想像するのに、みかんの5月の花と収穫の11-12月と、さらに柿の収穫。梅の2月の花と6月の収穫。自然は四季の折々、たのしさと憩いを与えてくれていると思います。自然は不思議な力をもっていて、驚きや楽しさがいっぱいあること、私などがつづくのも、それが少し見えてきたことによるものですが。同じような楽しみをされている方が出てくることは、それはうれしいもの、なによりです。
2015年01月11日
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普天間問題 沖縄・民主主義を問う試金石 民意無視に懸念高まる 前泊博盛 沖縄国際大学大学院教授(沖縄問題で、報道された論評の紹介です) 2015年。沖縄では米軍新基地建設をめぐり「流血の惨事」への懸念が高まっている。懸案の米軍普天間飛行場移設問題で安倍政権が選挙で示された沖縄の民意を無視し、代替え施設とされる名護市辺野古崎への米軍新基地建設を強硬に進めているからである。民意を無視する政権に県民は「体をはって抵抗するしかない」ところまで追い詰められている。 12年12月の衆院選で「県外移設」を公約に掲げ当選した沖縄の自民党所属議員4人全員が、石破幹事長(当時)に一喝され、13年末「県内移設」に転じさせられた。公約を堅持しようとした自民党県会長は辞任した。同じく県外移設を掲げ再選をはたした当時の仲井真弘多知事が、その後、沖縄振興予算を500億円上積みされて移設容認に転じ「政府にカネで沖縄の魂を売った」と県民の猛反発を買った。 国会で多数を占める安倍政権が、その気になれば選挙で示された沖縄(地方)の民意などひとたまりもない。ポストとカネの恫喝で、いとも簡単にねじ伏せてしまう。この国はいつから選挙で示された「民意」をカネや恫喝でねじ曲げる横暴な国になり下がってしまったのか。沖縄から見る限り、すでに日本は民主主義国家ではなく、一党独裁国家になってしまったかのような印象を受ける。 昨年も沖縄では、普天間移設の是非をめぐって四大選挙(名護市長選、名護市議選、県知事選、衆院選)が行われた。いずれも「県内移設反対」を掲げる候補や政党が圧勝した。沖縄は選挙で「県内移設ノー」の明確な民意を表明した。ところが、安倍政権は昨年末の衆院選で圧勝し、「国民の信任を得た」として、沖縄の民意を無視し、辺野古への新基地建設を「粛々」(菅官房長官)と゛強行゛している。 そもそも危険な普天間真飛行場の撤去から始まったはずの「沖縄の基地負担軽減」が、いつの間にか米軍の新基地建設問題にすり替わっている。しかも最大1兆円とされる建設・維持費も国民の血税で賄われる。 建設の賛否をめぐり国民同士が衝突を繰り返し、血を流す。なのに、新基地が誰のための、どんな基地なのか、詳細は知らされず、肝心の米軍はカネも口も出さず、終始高みの見物を決め込む。 沖縄で新基地建設が強行されれば、次は原発再稼働で、あるいは集団的自衛権行使で、果ては改憲、徴兵制さえも民意を無視し多数与党の単独強行も可能になる。 中央による地方の支配、民意より党利党略、選挙の時だけの主権者という現状で、国会の過半数を占める自民党・安倍政権が、万一にも暴走した時、「一強多弱」のこの国では、誰が歯止めをかけれるのか。戦後70年、この国の「選挙民主主義の限界と欠陥」が垣間見える。 「沖縄問題」は、日本全体の民主主義の質を問う試金石であり、日本全体の問題である。政治学者の丸山真男はファシズムの台頭を防ぐには「端初に抵抗せよ」と説いた。沖縄の息が詰まれば、次は日本の民主主義の息の根が止まる。(沖縄問題は日本の民主主義の試金石です。休日農夫としても、この問題を現在の大事な課題の一つとして、追跡していきます)
2015年01月10日
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「フランス革命の指導者」 (桑原武夫編 朝日選書)を読むこの本は1978年刊行ですから、だいぶ古い本です。フランス革命を知るために、時に断片的には読んでいたのですが。ラファイエット、シェース、バルナーブ、ヴィルニョ、ダントン、マラー、ロベスピエール、サン・ジェスト。この8名の指導者の活動を通してフランス革命を明らかにしようとしています。調べてみると今でも、インターネットの古書で入手できるようです。京都大学の人文科学研究所という所で、1953年から59年にかけて、フランス革命について共同研究したそうで、その時の副産物だそうです。長い間、本棚にほこりをかぶっていたんですが、今回、初めてですが全体を通読してみました。一つの出来事も、それぞれ人によって様々な見方や対応があるものです。それぞれのグルーブ(党派)の闘争が行われたわけで、それを通して歴史は展開していった。フランス革命については、知っておきたいテーマですが、その大事な歴史が、この本のおかげで、少しですが身近になりました。この本は、私にとって参考になる本でした。
2015年01月09日
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みかんの便り-今年の年賀状に見る毎年、当方は年末ぎりぎりまでみかん作業に追われています。その年のうちに、収穫と発送作業を終わらせるためなんですが。従って、年賀状を書くのは、だいたい元旦になるはめになっています。今年もやはり、そのパターンでした。今年の年賀状ですが、とっておきの傑作写真を使わしてもらいました。みかん作業は、ほとんど一人の作業ですから、対象を採るのはお手の物ですが、自分が写されるというようなことはまずないんですね。その点では、この写真はまれな一枚です。早川の知人のみかん園で、作業していた時の一コマです。みかん園便りに載っていたので、さっそく頼み込んで、当方の今年の年賀状に、この写真を使わせてもらいました。やり取りの中で、何人かの人から、みかんの便りがありました。今回はそのコメントの紹介です。1、年賀状、花咲かじいさんになってましたよ。2、みかん便、おいしくいただきました。3、おいしくいただきました。今年もおいしいみかんが出来ますよう楽しみに待っています。4、みかん美味しかった。5、みかんでのご協力、ありがとうございます。6、ミカン、がんばってくださいね。7、美味しいみかんありがとうございます。8、写真、みかん農家のおじさんにどっぷりつかった感じですね。先方に「みかんですか」と逆に云われる様になりました。うれしいものです。おだてられると、サルも木にのぼるそうですが、これらは、なによりです。なんやかや、苦労はあってもグズグズいわず、今年もちょっと頑張ろう、と心持ちがしてきました。そうしたことで、本年もよろしくお願いします。
2015年01月08日
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ふたたび、ディーツゲン著『人間の頭脳活動の本質』序論について 『人間の頭脳活動の本質』は、序論も含めて全部で五つの章から出来ています。 前回、その内の「一、序論」について、その論点を順次追跡しました。http://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201501020000/ ディーツゲンの著作は読むのは容易ではありません。だからそれを理解するには、この基礎作業として読みこなすことが必要となり、それが前提になります。しかし、そうした論点やその要点を知っただけでは、まだ事柄の半分です。問題はそこから何をつかむか、どこに意義を認めるか、それらを引き出すことが、肝心な点になっているわけです。この二重の作業が求められているわけで、今回はその後の面です。 一.ディーツゲン著『人間の頭脳活動の本質』の序論ですが、これは著作全体の中心論点を示唆していると思います。 初めのところで「思惟活動を科学的な基礎に置く、その為の理論を見つけ出すこと」にあると述べています。思惟活動の方法の問題とは、大変に抽象的で一般的な問題です。それがテーマだといってます。 二、ディーツゲンは自然科学者の持つ矛盾ということから問題を提起していきます。 自然科学者は、自分の専門の具体的領域では何が事実であり、結論であり、法則であるかを知っている。しかし、その他の専門以外の領域では、道徳や宗教や政治などの領域のこととなると「三百代言的詭弁」、矛盾だらけの臆見をしでかしている。 そこには、自己の専門領域で「確かな事実をつかむ」方法というのが、実際には本能的なもので、しっかりした意識的な仕方ではないということを示している、と問題点を指摘しているわけです。 三、ディーツゲンは、そのことから、確かな事実を捉える仕方と、臆見・詭弁との違いを見分けることの大事さを指摘しているわけです。そして、この二つのとらえ方の違いには、その根本に哲学的な思惟方法の二つの方法があると洞察しています。 すなわち、帰納法的経験論の思惟方法と、思弁哲学の方法です。 具体的な諸事実から一般的な事柄を導き出してくる方法と、感覚や経験に頼らず思考の中から導き出してくる方法です。ディーツゲンは二つの思惟方法の特徴をさまざまに対比しています。それは唯物論的方法と観念論的方法といってもよいかも知れまません。もしくは唯物論弁証法と観念的弁証法の区別に近づいているといってもよいかもしれません。 四、ディーツゲンは、それが歴史的に出てくる背景として哲学史の流れをみていきます。 両者はずっと昔においては渾然としてからまっていた。それが近世に入って、一方では、自然科学の発展が経験的方法による知識の成果を蓄積していく。他方では、思弁哲学はヘーゲルがその特徴的な世界観をまとめあげた。 こうした哲学の歴史をディーツゲンは描き出します。この歴史の相剋は、その後において、もっと鋭くなっているわけですが。 五、思弁哲学の方法の持つ問題点について、ディーツゲンはいくつか指摘しています。 自然科学の帰納的方法が多くの知識を蓄積していく。同時に思弁哲学が発展していく。この思弁哲学の洞察は失敗続きの連続だったけど、積極的な点もあった。ヘーゲルが思弁哲学を完成させた。ヘーゲルの考え方は、その中身には多くの知識が含まれているが、その方法は思惟の中から導き出すとする空想だった。 「逆立ちした唯物論」とまでは言ってまませんが、ほぼそうした洞察をしています。 六、そこからのディーツゲンの結論です。 いかなる思惟にも対象と前提を必要としている。具体的な諸事実から、一般的思惟を導き出し、一般的に理論はそれが妥当する経験の限りで正しいこと。自然科学者は本能的にそれを行っていて、専門以外では思弁的な方法による誤謬をかなりしているものだ、と。 その原因は、思惟の方法に対する意識的な把握が弱いためだ。だからその点をこれから探っていこうということです。 序論は、あくまで問題提起です。全体によって提起される論点に対して、要点のいくつかの指摘でしかなく、これからの本論が注目されるところですが。 それでも以上のとおり、この序論の範囲でも注目すべき論点を持っていることが分かっていただけるかと思います。
2015年01月07日
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休日農夫は、今日が本業の仕事始です2015年1月6日、今日から休日農夫は、本業の仕事始めです。みかん作業のピークは、11月、12月の温州みかんの収穫時でした。芸能タレントの忙しさとは、こんなものかと感じさせられる日々でした。しかし、その嵐は去りました。みかん園は、元の静かな常緑樹の畑に戻りました。もちろん、これから舞台裏の仕事が待ってはいるんですが。とにかく今日からは、本来の介護事業の車いす洗浄に足場をもどしました。当方が務める介護用具の事業所は、主にはベッドと車いすのレンタル事業です。今日が、新年の仕事始めです。職場の状況はというと、この冬は、寒さが厳しかったためか、レンタル品の返却が多くありました。事業所には、返却されてきたベッドや車いすが、たまっていました。弱者にとって、この冬の寒さはかなり身体にこたえているようです。レンタル品の返却の多さが、それを語っています。これが当方の本業でして、返却されてきた車いすを洗浄することです。農家は農作業に忙しくて、政治や社会に疎くなるように、当方は、返却されてくる車いすの洗浄に追われて、建屋の外の天気のほども分からなくなるような、そうした時もあります。しかし、それでは働く国民としては失格です。ご存知のように、今回政府は消費税の10パーセントアップを延期しました。それ自体は、国民世論に逆らえなかったわけですが。ところが、アップを先送りしたことにより、それを大義名分にして、医療、福祉、介護の費用を抑えにかかろうとしています。その他方では、法人税の減税はイの一番に実行しようとしているわけですから。仕方なしではすまされない、まゆつば物です。当方も、車いすの洗浄作業に忙殺され、終始しているだけでなく、選挙後のこうした動向にも、目を配らなければならないと思っています。とくに今の政権の弱者へのしわ寄せする習性と、仕組みを見抜かなければ。とくに、テレビ・新聞のニュース報道が、政府の広報機関化しているもとでは。自分自身仕事経験から、具体的につかまなければ、と思っています。そうした意味で、今日から、洗浄作業とともに、選挙後の政府の動きを抑えていくこと、この二重の意味での仕事始めです。
2015年01月06日
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正月に不破哲三著『スターリン秘史(1)』を読みました この正月に不破哲三著『スターリン秘史 巨悪の成立と展開(1)』(新日本出版社 2014年11月刊)を読みました。 以前から月刊誌『前衛』に連載が続けられていることは知っていたのですが。 その最初の部分、2013年2月号から6月号に掲載された部分が、一冊の本にまとめられました。それをこの正月休みに読むことが出来ました。 私なども、だいぶ昔になりますが、学生時代に、コミンテルン7回大会の『反ファシズム統一戦線』をデミトロフ報告で読んだ記憶があります。それがファシズム・軍国主義の世界侵略を世界的に打ち破る上で大きな歴史的役割を果たしたと感じたことを覚えています。 今回、この著作で不破氏は、そのデミトロフのコミンテルンの活動が、当時のソ連の政治状況、スターリン指導下のソ連共産党とどう関連していたかを解いています。デミトロフがドイツの国会放火事件による暗黒裁判から釈放されたところから展開は始まっています。新たに発見されたデミトロフの『日記』に光を当てて、当時のスターリン指導下のソ連政治の実際を解き明かそうとしています。 そもそも社会主義をめざしていたレーニンの時代は、ソ連邦は世界的にも大きな希望だったと思います。それが1920年代前半のレーニン亡き後、変化していった。コミンテルンとソ連邦の国内に、どのような変化があったのか。知りうるのは大会報告などので、全体的にはよくわからないのが状況でした。 今回あらためてデミトロフと1930年代のスターリンと係わりが解明されつつあります。今回、デミトロフが残した『日記』を調べることによりにより、当時の状況の一端が解明されつつあります。 他方、後から知ることになりますが、現実に、社会主義の名の下に、他国の主権を踏みにじたり占領したりする、他国への干渉・民族抑圧の問題が、その当時から実際に起きていたんですね。 どうして社会主義の名でそうした忌まわしい現象が発生するようになったのか。その対外現象は、国内のどのような政治と関連していたのか問題になりますが、わからなかった。 一般的には、よその国の国内政治の問題は、その国の中で解明しなければならないはずですが。干渉問題となると、干渉を受けた側はそれだけではすまないんですね。 また、コミンテルンの世界共産党という性格、国際組織の側面をもってましたから、それに与えたソ連の「指導」問題についても、各国の共産党にとって解明の必要となる部分があったとおもいます。 今回の不破氏の解明は、まだ進行中ですが。今回の著作部分からだけでも、デミトロフ「日記」にみられるスターリンの言動と垣間見える姿は重要だとおもいます。それは、今もって諸国の歴史に与えている問題の元になっていますから。 社会主義の「羊頭をかかげて狗肉をうる」ような、多くの人の善意や期待を裏切った忌まわしいごまかしが歴史的にあったこと。そうしたことに振り回されることのないように、しっかり底をついた解明がなされることが期待されてます。 ひきつづき、この解明のつづきを注目していきます。
2015年01月05日
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新たな年、みかん作業の始まりみかん収穫の片づけは12月31日までかかりました。ようやくひと区切りです。今季の結果は、これから集計が始まりますが。大ざっぱには、5キロ箱にして200箱の出荷でした。(これには、早川のみかん30箱分が入っています)11月27日の状況です。特に摘果などはしていませんが、まずまずの出来でした。思うに、春の元肥を撒く時に根回りを中耕したのが、根の吸収をよくしたようです。収穫は、10月26日の第一回から、12月23日の残払いまで17回往復しました。昨年度は、80万円の支出に対し、売上20万円でしたから、採算は合わないのですが。主要な費用は東京-真鶴間の交通費で、それを除けばまずまずのはずなんですが。縁あって、みかん栽培に係わるようになり、この西湘地域の特産品のみかんを都会人に味わってもらうこと。この結びつきをはかることは、大事な仕事と感じるようになっています。これは、みかん園に向かう途中、朝の真鶴道路です。この西湘地域は、東京に近いし、自然が豊かです。相模湾の海の幸が楽しめますし、湯河原・箱根の温泉も近くにあります。そして、季節の蜜柑が加われば、みかんと地魚、それと温泉と、都会のひとたちの一つの行楽のコースになります。当方のみかん園は、小さなものですが。125坪で、みかんの成木は18本と、大変に狭いものですが、ひとりで栽培していくには、適当な規模でもあります。そのささやかな栽培は、当地のみかん農家のつながりでもあります。これが当方のみかん園なんですが。このみかん栽培をいつまで続けれるか、それは分かりません。しかし、この小さな畑が、当方の生産活動の現場です。それを大切にしていくということです。みかんの生産は、流通と消費がともなってこそ循環が成り立ちます。今季の200箱を普及したこと、それをめぐる人間関係が大事です。これから、みかん栽培の技術をもっと高めて、美味しいみかんをつくりひろげる。この活動により、この地域を憩いとし、楽しむ人たちが増えてくれたらと思っています。それが、これまでもそうでしたが、また今年の目標でもあります。
2015年01月04日
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小田原・早川のみかん園に行ってきました1月3日、早川の「だんだん園」に行ってきました。前日に「みかんを送ってほしい」との注文があったためですが。すでに自園のみかんは終わっていたので、知人に分けてもらうことにしました。小田原駅の正午ころつきまましたが、箱根駅伝の応援者の余韻がありました。みかんの発送については、3箱を箱詰めして、宅配便の事務所へ持ち込みました。発送は明日になりますが、滞りなく済ませることが出来ました。その帰えり道に、知人のみかん園に置いてあるミツバチの巣箱を見てきました。早川に2つ置いてある巣箱(待ち箱)の一つですが、雪が残っていましたが、なんとか風雪に耐えて、無事に建っていました。箱根の山の方は、駅伝で見ていたら、雪があちこちに残っていました。今回は山だけでなく、小田原駅にも、海に接した早川のみかん園にも、日陰の所には、まだ雪が残っていました。昨年のミツバチ計画では、当方のみかん園のミツバチがこの春に分蜂したら、これらの早川の待ち箱に、その分蜂した群れを移そうと予定していたのですが。まだまだ未熟で、そうは問屋が卸してくれませんでした。昨年11月、母体としてあったミツバチの群れが消滅してしまい、当てが外れました。従って、今は群れはなし。この巣箱もしばらくは空き家のままでしょう。さて、みかん園から見た相模湾の景色です。海の青色がきれいです。正面は三浦半島です。手前の黄色は、湘南ゴールドでしょうか。豊かな自然に恵まれて、みかん園として最高の立地条件ですね。ちょうど、みかん作業が一段落した折でもあり、知人のみかん仲間と、今季のみかんの出来や反響、取り巻く状況、など、しばしみかん談義で交歓してきました。
2015年01月03日
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ディーツゲン著『人間の頭脳活動の本質』(序論)を読む この本は1869年5月に刊行されました。岩波文庫(小松摂郎訳)で読んでいます。 第2回は序論です。ここで全体的に論じようとしている事がわかるとおもいまます。 一、この著作の主題について、「思惟活動を科学的な基礎の上に築き、その為の理論を見出すこと」「科学的真理を産み出す為の方法を見出すこと」にあると述べています。 二、現状はどうか。リービッヒを引用し「自然科学では、何が事実であり、結論であり、法則であるかは分かっている。これらに対し試金石を持っている。或る見解を三百代言で押し通そうとしても、証明できないことを他人に信じ込ませようとしても、この科学のモラルによって失敗してしまう」と。これに対し、他の領域では、具体的物質的事物を去って、抽象的な哲学的対象(道徳・宗教・政治)に向かうならば、原因と結果において何が主要事かは、「的確に証明する事実」の代わりに「三百代言的詭弁」があるだけで、確実な知識は無く、いたる所矛盾だらけの臆見を見るだけだと。 問題は、その自然科学の大家でも、自らの専門を離れた哲学的な問題では不手際を暴露する。それは自然科学者の「知識と臆見とを区別する科学的モラル(試金石)をもつ」との自慢は、本能的な実践に基づくにすぎず、意識的な認識やしっかりした理論を基礎としたものではないことを示している。 「思惟過程の一般的理解、真理と誤謬とを分離する一般的規則」。それが数千年来の昔から『真理とは何か』問われつづけてきたし、哲学の根本問題になってきた。 三、そこで、この序論では哲学の本質と経過とを簡単に考察する。 1、もともと哲学は知識一般をさしていた。知識が増えるにしたがい、個々の部門が哲学(知恵の母親)から分離していった。近代にはいり自然科学が成立したが、諸科学は対象の相違によって区別される。これに対し哲学を区別する特徴は目的を追求する方法と様式にある。 2、「目的を追求する方法」として、帰納的諸科学と思弁哲学の、二つの方法を比較する。 帰納的諸科学は、個別的なもの、特殊なもの、感覚に与えられたものの研究を基礎として、一般的な結論、認識に到達する。これに対し思弁哲学は逆のやり方で、感覚による経験を退けて、「純粋な」すべての前提を度外視した思惟に制限し、それにより多様な世界全体を認識する方法をとる。(この比較は唯物論と観念論であり、それぞれの特徴を捉えてます) 3、思弁哲学と帰納的科学との区別を、ディーツゲンは空想と常識の違いと指摘しています。しかも空想の生産方法が精神の中から生み出すというのは外観だけで、外界の印象を勝手に配列したものであり、経験されたものを奔放に、任意な形式で再生産したものと洞察しています。 4、歴史的には、古代では常識と空想が同居していた。経験と観察がなく帰納的認識が不可能であった時代に、自然の生命の現象を人間の精神から思弁的に説明するようにしていた。経験の欠如を思弁で補おうとしていた。 経験が豊富に蓄積されるようになると、以前の思弁が誤謬とされるのが普通だった。しかし思弁を棄て去るには、千年もの間、幻滅が繰り返され、帰納法の成果が必要だった。 5、空想にも積極的な能力や働きを示すことがあり、意識的な予感は科学的な研究を促すはたらきをする。 感覚への不満から、無批判に感覚的真理を棄てて、研究を自然や経験からはなれて純粋思惟による思弁哲学を始めだした。 四、近代の哲学史が示す課題は。 1、一方で自然科学が帰納的方法の実り多きな成果を明らかにし、他方哲学は細目にわたる研究なしに理性のみをもって一般的知識を推論させる体系を探し始めた。思弁哲学の歴史は、他の諸科学の歴史のように知識の漸次的蓄積の中にあるのでなく、純粋の思惟力をもって自然と生命の一般的な謎を解こうとするものであり、失敗続きの一連の試みだった。ヘーゲルがそうした思弁哲学を完成させた。 2、数千年間の従事した基礎には積極的なものがある。生きて発展してきた哲学の歴史、方法がある。再び実証科学と思弁哲学の違い。思弁哲学の全体性、自立性、無前提が空想であることが明らかになり、次の認識に解消された。 ア.一般知識は不純であること、イ.認識には与えられた端初なければはじまらない、ウ.科学が経験より優れているのは多くの経験を組織する限りでのこと。 したがって、一般的・客観的な認識が哲学の対象であるのは、与えられた特殊の認識から一般的な認識を特徴づけ、認識しうる限りにおいてのみとの認識に解消された。 思弁的迷妄と科学的な迷妄打破との過程、思弁の解消は、フォイエルバッハの「私の哲学は哲学ではない」との言葉で始まった。 3、認識の方法、いかなる思惟も対象と前提を必要とするとの事実に関する無知が、思弁的誤謬の原因であり、自然学者達に見られる思弁的誤謬や矛盾の原因である。特殊の場合には本能的に知っていても、一般的には意識的には知らないからだ。 五、最後にディーツゲンは、この著作全体を通しての課題を指摘しています。 哲学がいかに無意識的に実証科学を促進したか。その過程の認識が自然と生命のすべての一般的な謎を解くカギを我々に与え、それにより基本的立場、体系的世界観が得られるのを見ると。
2015年01月02日
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新年にたどりついたみかん園、12月のまとめ 新年おめでとうございます。12月31日、小田原SAからみた朝焼けの富士山です。今季のみかんの収穫は、総選挙が降って出て、政治の見極めともかさなりました。農業分野では、TPPに参加して海外の大規模農業に門戸を自由開放するという、農業は株式会社でも参入できるように「改革」して、たてつく農協は、「岩盤規制」をとりはらって潰してしまう。こうした本音が、曖昧な空言葉でごまかしてすすめられているわけですから。とうとう、コメは水以下の値段で買いたたかれている状況です。とかく作業に忙しく、政治社会に疎くなりがちな農夫ですが、その眼は厳しくなってきています。「きれいごとに、だまされないぞ」、「本当のことを言ってないぞ」と。まだまだ、これからが問題であり、みきわめが続いていきます。さて、みかん園ですが、12月23日に「残払い」で、すべての果実を木から下ろし、12月25、28、31日の3日間で、規格落ちしたみかんをジュースに絞りました。そして、12月31日に最後のマシン油乳剤を散布して、年末の作業を終えました。「ふーっ、やれやれ」といったところです。今季の温州みかんの収穫ですが。 今年の収穫は、早生みかんが4コンテナ、普通温州が41.5コンテナでした。1コンテナには20キロが入りますから、早生80キロと普通温州830キロでした。 これを去年と比べると、去年は、早生19コンテナ、普通温州が85コンテナでした。 みかんは「隔年結果」がありますから、今年が裏年であり、今年は減ることは分かっていましたが、どのくらい減るかは不明でした。 よもや半分にまで減るとは・・・。11月初めには、底知れぬ落ち込みをかんじて、不安にかられたのですが。農業は工業と違って、残業や休日出勤しても、作物を増やすことは出来ません。 知人の早川のみかん園「だんだん園」に補充を頼んだのは、そうした時でもありました。 最終的には、早川みかんの小粒の完熟ミカンを少し上にのせるようにして、5キロ箱にして150箱を出荷することが出来ました。なんとか当初予定どおり、不渡を機ささずに、予定を達成することが出来ました。無事に八王子―真鶴間を、20往復、3000余キロメートルを走りぬきました。さて、終わりは始まりです。果実を収穫した後に、マシン油乳剤を12月31日に散布しましたが、これは、越冬害虫を駆除して、葉を充実させる、毒性のない薬剤です。これが一年の締めくくりであり、同時に、新たな年への最初の第一歩だということです。
2015年01月01日
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