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最近YouTubeで公開されている大学の講義を適当に見ていたら慶応大学の講義の受動意識仮説というのが面白そうだったので、これについて考えることにした。●受動意識仮説とは何か受動意識仮説は人間の意識は司令塔みたいな能動的な主体でなくて受動的な観察者のようなものだという仮説で、慶応大学大学院の前野隆司教授が提唱した。人間はエピソード記憶をするために受動的に意識があって、意識が能動的に意思決定しているわけではなく、意思決定の0.数秒前に無意識の小人が意思決定をしている。昆虫のようにエピソード記憶ができない動物は意識を持っていなくて、多くの哺乳類や鳥は餌があった位置などのエピソード記憶ができるが意識のクオリア(主観的意識)があるかどうかはわからない。・意識はひとつなのか私は受動意識仮説が正しいような気がする。養老孟司がYouTubeの何かの動画でてんかんの患者で左右の脳をつなぐ脳梁を切った患者について話していたのだけれど、左脳は外に出かけるために右手で靴下をはこうとして、右脳は外に出かけたくなくて左手で靴下を脱ごうとして、なんとか靴下を履いたあと、左脳は右手でドアを開けようとして、右脳は左手でドアが開かないように抑えていて、患者は「ドアが壊れて開かない」と言ったそうな。このエピソードを基に考えると、この患者の意識はひとつだとしてもその意識はドアを抑えようとする右脳の行動を認識していなくて意識が能動的に指示を出して右脳を動かしているわけではないし、右脳と左脳で二つの意思系統があるか、あるいは脳の部位ごとに無意識の小人がいるのかもしれない。右脳と左脳が違う意識を持ったとして、右手と左手は別々に動かすことができるけれど、言語として口から出力できるのはひとつの言葉しかないので、言語中枢がある部分(右利きの95%以上、左利きの70%以上は左脳)が意識をつかさどることになる。アウトプットの手段が限られているがゆえに我々は実際は脳内のあちこちの部位にいる小人たちが意思決定しているのを受動的にひとつの意識としてまとめているだけなのに、一人の人間にはひとつの主体的な意識しかなくて意識が意思決定していると錯覚しているのかもしれない。この辺は素人の私が考えても証明しようがないけれど、脳の研究が進めば明らかになると思う。脳の活動を企業の会議にたとえて考えると、営業部長や経理部長がそれぞれ自分の立場から発言して、その意見をまとめて出来上がった報告書を読む株主が受動意識といえる。部長が発言してから報告書になるまではタイムラグができるし、報告書から削除された発言は株主は認識できない。株主は株主総会で意見は言うけれど、株主が企業を所有するからと言って企業活動のすべてを把握して直接指示を出しているわけではない。こう考えると、無意識に小人たちが意思決定して、受動意識がそれを認識しているという考え方が理解しやすいのではなかろうか。・無意識の小人がけっこう有能脳は無意識にいろいろ活動していて、例えば危険がないと学習した刺激は脳が省エネのために自動的に無視するようになって、時計の針がチクタクいう音は物理的には聞こえているはずなのに意識は音を認識しなくなる。意識的に時計の音がうるさいから無視しようと思って無視するわけではないし、意識が司令塔として脳のすべてを制御しているわけではないといえる。右目と左目も実際は若干違う映像を見ているのに、脳が勝手にピントを調整してひとつの映像を見ているように意識は認識する。・感覚の共有と意識文明が発達したのは、一人の人間がひとつのことを考えるのでなくて、大勢の人間が協力してひとつの事を考えるようになったからだろう。しかし言葉を媒体にしないと共通認識を持てないのがボトルネックになっていて、言語化しにくい感覚が必要なものは共同作業をしにくい。しかし感覚の共有で言葉を媒介せずに済むようになると作業効率が上がると思われる。最近はドコモが6G通信で人間拡張基盤を開発していて、これは脳波センサーや筋電センサーをセンシングして得た情報をロボットや人に伝えて操作したり知覚させたりすることが目的で、「身体のユビキタス化」「スキルの共有」「感情の伝達」「五感の共有」「テレパシー・テレキネシス」という目標を掲げている。この技術が発展したら人間同士が直接感覚やスキルや情報を共有できるようになって、文明が飛躍的に発展したり変化したりするかもしれない。例えば子供は病気になってもうまく症状を説明できなくて診療を怖がるけれど、どこがどのくらい痛むかとかの感覚を脳波センサーでデータ化して可視化できるようになったら患者に説明させなくても診断できるようになるかもしれない。娯楽の楽しみ方が変わって、例えば映画や演劇では観客が登場人物と喜怒哀楽の感情を共有するような芸術鑑賞ができるのかもしれないし、スポーツ観戦だとアスリートと身体感覚を共有して一人称視点で自分がスーパープレイをしているような感じを体験できるのかもしれない。近未来で感覚の共有が一般的になったら、受動的に他人の感覚を意識するようになって、「私」という自意識はあまり重要でなくなるのではなかろうか。そうなったら個人のアイデンティティの拠り所はどうなるのだろう。意識でなく遺伝子がアイデンティティになるのか、あるいは所属する集団がアイデンティティになるのだろうか。集団がアイデンティティになったら個人の自由や権利もなくなって共産主義に適した環境になって、テレパシーで思想教育をして、無個性な労働者がスキルを共有して全員が熟練工なみの作業をして、集団での幸福の感覚を共有する共感覚共産主義というディストピア的な社会が出来上がるのかもしれない。現代は貧乏人がセレブのSNSをフォローしてバカンスだのブランド物のファッションだのの贅沢な気分を疑似体験して代償行為にしているけれど、感覚が共有できるようになったらさらに極端になって、貧乏人が政府から配給されたサプリを噛みながら美食を食べているエリートの味覚を共有して満足するような感覚共有の使われ方になる。●受動なんとか仮説主体的だと思っていたもののが実は受動的なものかもしれないという考え方はいろいろなものに適用したら面白いと思うので、科学的に正しいかどうかは無視してとりあえず考えてみる。・受動創造仮説受動意識仮説は創造のプロセスと似ている。これとこれを組み合わせたらあれになるぞというのは創造というよりは既存の知識を自覚的に組み合わせた設計で、創造では無自覚なところで突然ピコーンとアイデアをひらめくものである。主体的な意識がアイデアを必死に考えたというより、脳内で小人たちがよくわからない働きをして知識と知識が予期しない組み合わせになって新しいアイデアが出てきた瞬間を受動的な意識が観察したととらえるほうが創造の実感に合っている。しかし意識が受動的なものだとすると、どうやったら小人たちをうまく働かせることができるのかよくわからないのが問題である。たいていは風呂やトイレや散歩中や就寝間際とかのリラックスして通常の思考から外れたところでアイデアをひらめくもので、何かアイデアを出したかったら脳に情報を詰め込んでブレインストーミングとかをしてガンガン刺激して能動的にアイデアを出そうと頑張るよりも、いったん知識を仕入れた後に脳を休ませたり脳を自由に遊ばせたりして受動的にアイデアが出るのを待つほうがよいのかもしれない。・受動人生仮説植物や昆虫は光や気温や物質に反応して遺伝子のプログラム通りに動くだけで意思はないけれど、人間は自分の意志で行動できる。しかし我々は自分の意志で生き方を選んでいるつもりで、実際は散歩のときに右に行くか左に行くかという程度の自由はあるくらいで生き方は遺伝と環境で受動的に決まるのかもしれない。古代は生まれた時のヒエラルキーで職業が決まって、親が子供を私有物として扱って勝手に結婚相手を決めて、王の命令で徴兵されて戦死するので、社会が個人の役割を決めて個人の自由がなかった。現代は信仰の自由や移動の自由や職業選択の自由があるので昔よりは選択の幅が広いけれど、たいてい親と同じ宗教になって親の文化資本次第で学力と進路が決まって、貧乏で低学歴なDQNの家庭に生まれたら慶応医学部を出て医者になるとかウィーンの音大に留学してバイオリニストになるとかの選択肢はなくなる。親ガチャという言葉も親次第で人生が決まるという考え方である。人間の死も安楽死や自殺以外はすべて受動的なものである。・受動ひきこもり仮説受動人生仮説を掘り下げると、様々な社会問題も環境によって起きるといえるかもしれない。誰でも子供の時は元気に幼稚園に行っていただろうに、なぜか歳をとるにつれて家に引きこもる人がでてくる。ひきこもりは主体的に社会から隔離された人生を望んでいるのでなくて、毒親とか友人がいないとか学校でいじめられたとか不景気で就職先がないとかの環境要因がそろったときに受動的にひきこもることを強いられているのかもしれないし、環境を変えればひきこもらなくなるのかもしれない。・受動恋愛仮説我々は自分の意志で誰かを好きになるのでなくて、特定の条件に合う場合にだけ受動的に好意を持つのかもしれない。婚活する女性なんかが典型的で、身長や年収とかの条件を並べ立てて男性が条件からちょっとでもはずれようものならありえないという扱いをされる。運命の出会いの一目惚れとかは無意識に遺伝的な相性を感じ取って恋愛対象を直感的に選別した結果で、意識的に惚れるわけではない。・受動読書仮説本屋に何千冊も本がある中で年齢も嗜好も違う人たちが特定の本を買ってベストセラーになるのは不自然である。読書したい人は本屋で自分で読みたい本を選んでいるというより、社会状況によって本屋の品揃えが変わって客に読ませたい本が目立つところに並んで話題になって、環境によって受動的に読むべき本が選ばれているのかもしれない。・受動スマホ仮説我々は主体的にスマホを使っているというより、受動的にスマホに使われているのかもしれない。SNSは頻繁に更新されて、ゲームのデイリークエストは毎日変わってログインボーナスがもらえて、新しい情報を目にしたら無視できなくて何か反応しないといけない気になって、生活からネットが切り離せなくなっていつの間にかスマホ漬けになる。・受動芸能人仮説勝俣やラッシャー板前みたいに持ち芸がなくてファンがいない芸能人がなぜかテレビに出ているし、フィッシャーズや東海オンエアとかの特にイケメンでもない人たちのYouTuberのグループがなぜか人気になっている。視聴者は好きな芸能人を見たいからテレビ番組を見ているわけではなくて、芸能人だろうが素人だろうが元気に楽しそうにしている姿を見て暇つぶしできれば誰でもいいのかもしれないし、たまたま手元にテレビやスマホがあるからなんとなく動画を見ているだけかもしれないし、いったんそういう人がいると知ったら全く知らない人よりは愛着が出る程度で好きというほどでもないかもしれない。こういう芸のない人たちは芸能人というより元気な人と呼ぶほうが似合っていると思う。・受動地球仮説物理学のホログラフィック原理だと、弦理論で空間の体積の記述はどこかの2次元平面に書き込まれたデータの投影で、全宇宙は宇宙の地平面上に描かれた2次元の情報構造とみなすことができるのだそうな。投影されたホログラムのようなものを我々が立体として認識しているということになるらしい。これが地球平面論者の根拠になっているらしい。地球平面論者には教育水準が低いキリスト教徒に多いそうだけれど、そもそも宗教自体が非科学的なので、宗教的な見方を優先すると科学と矛盾するので科学的な思考ができなくなるのだろうか。あるいは宗教を抜きにして考えると、日本みたいに四季がある国だと地軸の傾きが原因で季節が変わると理解しやすいので球体の地球や地動説での地球の公転を想像しやすいけれど、四季がはっきりしない大陸で育った人は空間的な想像力が働かないのかもしれない。・受動ねこ仮説我々は自分で飼いたい猫を選んでいるのではなく、NNN(ねこねこネットワーク)という組織が猫好きな人に猫を派遣しているという考え方がある。同様に他の動物も派遣されて受動的に人間の側に存在しているのかもしれないし、GGG(グローバルゴキブリ学園)が掃除が必要な人の家にゴキブリを派遣しているのかもしれないし、KKK(近所のカラス組合)が人間のゴミ処理意識を高めるためにゴミ捨て場にカラスを派遣しているのかもしれない。
2022.01.28
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最近は神田沙也加が交際相手の前山剛久に死ねと言われた音声が録音されて週刊誌の記事になったようである。私は神田沙也加も前山剛久も知らないのでどっちが悪いかとかはどうでもいいけれど、死ねと言われたとおりに死んだ結果になったので、言霊について考えることにした。●言霊(ことだま)とは何か言霊とは古代に言葉に宿ると信じられた霊力のことで、発せられた言葉の内容通りの状態を実現する力があると信じられていて、言葉を積極的に使って言霊を働かせようとする考えと、言葉の使用をつつしむ考えがある。例えば結婚式のスピーチで別れるとかの縁起が悪い言葉を忌み言葉として避けるのは後者である。言霊を完全な迷信とは言えなくて、言葉が石や木とかの物体に影響を与えることはできないけれど、人間同士で言葉が伝達されたときには心理学的な作用がある。例えば薬としての効果を持たないプラセボにも病気の症状を改善する効果があるように、暗示や期待が人体に影響を与えうる。逆に誹謗中傷の言葉は相手の脳に作用してストレスを引き起こすので、文字や音声のデータにすぎないものが人体への物理的影響力を持っている。欧米だと罵り言葉のことをcurse wordというように、呪いの言葉という概念は現代にも残っている。科学的に呪いという超自然的な力が存在しないにもかかわらず、相手を呪う行為で実際に相手がストレスを受ければ傷害罪になる。それゆえに前山の「死ね」という言葉は相手を害する呪いの言葉といえる。言葉には言霊として心理に作用する力があるので、同様に文章も文章霊として心理に作用する力もあるといえるだろう。●言葉の力・言葉と文字の力の変遷アニミズムの時代には神道の神主や中国の風水の占い師やアフリカのシャーマンのように、原始的な社会では神の言葉を聞いて人々に伝えることができる人が権力を持っていた。新約聖書の「始めに言葉ありき」という文句も、創世は神の言葉から始まったという言葉の力の大きさを表している。文字が発明されてからは、文字を読み書き出来て集団内の貸し借りの帳簿をつけられる人や、明文化された法律や宗教的戒律を理解できる人が管理職として権力を持つようになった。階級社会で上流階級になるには武勲を上げるだけではだめで、古代ギリシアや古代ローマなどでは政治家は弁論で支持を得なければならなかったし、上流階級特有の言葉遣いを覚えて外国語や詩などの教養を身に着けたりして社交する必要もあったので、言葉と文字の両方が力を持った。活版印刷が発明されてからは本が大量生産できるようになって筆での写本に比べて安価になって識字率が上がって、思想や情報を広める手段として印刷物が使われるようになって、1839年にイギリスの作家のエドワード・ブルワー=リットンにペンは剣よりも強しと言ったのが有名になったように文字が影響力を持って、文字が大衆を教育して思想を変えていった。ラジオやテレビが発明されると、放送する側と受診する側で情報が不均衡になって、ヒトラーの演説とかが典型的で放送インフラを持つ権力者のプロパガンダの手段として言葉が使われるようになって、その一方で出版物は権力者に検閲されて情報を制限されて、再び言葉が力を持つようになる。しかし第二次世界大戦後は帝国主義が終わって民主主義国家では検閲はなくなる。インターネットが発明されてからは、光回線が普及していなかった頃は大量のデータをやりとりできなかったのでブログや掲示板とかの文字が優勢だったけれど、光回線やWi-Fiや4Gが普及してSNSで動画投稿ができるようになると言葉も影響力を持って動画でべらべら喋るメンタリストDaiGoやひろゆきやオリラジ中田が読解力が低くて文章を読めない層に人気になって、言葉と文字の両方が世界中に拡散されるようになる。気の利いた一言をSNSに投稿するとバズって一躍人気者になって大勢のフォロワーを従えて大儲けしたり、逆に不用意な一言で炎上して世界中から誹謗中傷が殺到したりする。このように言葉と文字が力を持つがゆえに権力者に重要な情報を独占されて、情報が大衆の扇動に使われたり、権力者に不都合な情報が統制されたり、インサイダー取引とかで情報が金儲けに使われたりしている。・言葉の信用創造言葉の意味を定義して、科学的に真偽を検証して、論理的に正しければ、何かの命題が真だといえる。真実の言葉を連ねていくことで言葉が信用を持つ。人間は自分の言葉に責任をもって実行に移すことで信用を持つ。ビジネスだと5年で1億稼ぐプランがあるから初期費用の2000万貸してくれといって未来の成功を担保にして金を借りるのを信用創造というけれど、同様に約束や宣誓は自分は将来これをやりますよという未来の行為を担保にして信用してもらう言葉の信用創造といえる。しばしば結婚式やスポーツの開会式などの重要な場面で宣誓していて、将来これをやりますよと周知することで信用を得ようとする。法律はただ存在するだけでは意味がなくて、警察が法に則って取り締まって裁判で平等に法律が適用されることで信用される。古代の中国のように人治主義で法律がない国は武力で国を平定しようが、賄賂や縁故主義の不正がはびこって反乱が起きて国王を殺されて滅んでいる。このように文明は言葉の信用から成り立っている。約束や契約や法律を破る行為は信用をなくして、罰せられたり交友関係から排除されたりする。韓国はどんな条約を締結しようが政権交代したら支持を得るために反日を打ち出して条約を無視するので国家としての信用をなくして、日本の政治家が譲歩して支持率を落としてまで交渉する意味がなくなって日韓関係が進展しなくなった。・誹謗中傷という呪い人種やジェンダーなどに関するポリティカル・コレクトネスの諸々の基準はソーシャルジャスティスウォーリアー(SJW)たちが他人にレイシストとか歴史修正主義者とかのレッテルを貼って攻撃する免罪符となって、現実でもインターネットでもSJWが暴れるようになった。アメリカでHugh Mungus事件というのがあって、太ったおっさんが自分の名前を「Hugh Mungus(デカ男、humongousとかけたおやじギャグ)」と言ったら、Zarna Joshiというフェミニストがデカチンだと思い込んだのか「ナニがでかいのわよ? セクハラなのわよ? こいつあたいをセクハラしたわよ! 体の一部を指してデカいって言ったわよ! ハウデアユー! ディスガスティン!」とギャオギャオ騒ぎ立てて攻撃して、賛同を得られると思ったのかその動画を自分でアップロードしてイカレタSJWとしてバズったそうな。誰でも事実を誤認したり、先入観で誤解したり、言葉選びを間違えたりすることはある。しかしちょっと間違えたからといってその人の人格を全否定する必要はないし、こいつとんでもないクソだ死ねボケと大袈裟に騒ぎ立ててSNSで拡散して相手のプライドを傷つけて辱める必要もない。それは文明人として高等教育を受けた良識ある人間の態度ではない。科学的に論理的に間違っていると証明できる物事については、それは事実と違いますよと指摘すれば相手が論理を理解できない馬鹿でない限りは間違いを理解して訂正や謝罪をしてそれで終わる。しかし正義を掲げて自分の理念を他人に押し付ける人はやたらと攻撃的になるのが問題である。裁判なら法に基づいて争いの決着がつくけれど、口論は落としどころがないので泥沼の中傷合戦になりかねない。自分の理念のために行動するのはよいけれど、だからといってハウデアユーと感情的に他人を罵る必要はないはずである。科学には正しいものと間違っているものがあるけれど、理念には正しいも間違いもないので、保守であれリベラルであれ個々人が違う考えを持つことを認めないといけないし、そうでないと民主主義は機能しなくて独裁の思想弾圧になってしまう。どんな思想を持つにしても基本的に良い社会を作ることが目的であるべきで、科学的に正しくなければ他人の理解は得られないし、武力革命を掲げる極左みたいに自分の理想のために他人の身体や権利を侵害したりしてはいけない。年齢も性別も性格も人種も国籍も宗教も違う人では意見が違って当たり前で、だからこそ冷静に論理的に議論する必要があるのだけれど、感情的な言葉の応酬では議論にならないので建設的でない。感情的に罵ればスカッとするだろうけれど、それでは何も問題が解決しないだけでなく別の問題を引き起こす。・嘘という呪い嘘は言葉の信用を利用する行為で、嘘は魅力的であるほど力をもつけれど、嘘がばれると嘘の大きさの分だけ他人を騙そうとした悪意があらわになって信用がなくなる。それゆえに仏教だと嘘をつくと閻魔に舌を抜かれるというし、妄語を言った人が行く大叫喚地獄とか焦熱地獄とか阿鼻地獄とかがあって嘘を戒めている。地上の楽園だと嘘をついた北朝鮮は独裁と飢餓の生き地獄になっている。昔の日本人はお天道様が見ているというメタ認知的な意識が悪事に対するスタビライザーになっていたけれど、現代は金を持ってれば勝ちという価値観になって倫理観がなくなって、金を儲けるために嘘をつく人が増えた。犯罪者やサイコパスや無教養な人は、上手く騙せるのは頭がいい、騙されるほうが悪い、自分が騙さなくても馬鹿は他の人に騙されるので自分が騙しても悪くないという考え方をする。情報商材は言う通りにするだけで金持ちになれると嘘をついて、情報商材を売った側は金持ちになるけれど買った人は損をするだけで社会を豊かにするための本質的な価値を提供していない。円天、安愚楽牧場、ケフィア事業団、効果のない健康食品とかの詐欺も多発している。中国人は隣人でさえ騙そうとして有毒の偽食品を売る。このように嘘で他人を騙す人は目先の金儲けはできても信用創造ができなくて事業が発展しなくて、嘘つきが増えると社会全体の信用を毀損して与信管理コストが増えて経済活動が停滞することになる。ゲーム理論だとお互いに信用すると最大の成果が出るけれど、お互いを信用できないと成果が低くなってしまう。●言語の教育・語彙を増やす必要性語彙を増やすという事はそれだけ世界の仕組みを理解するということである。例えばビジネスだと常に新しい技術が開発されて社会が変化してSDGsだのなんだのと次々に外来の新しい言葉が出てくるけれど、その単語の意味を知らなければそれについての議論をまったく理解できなくなる。言葉の意味や定義を共有できないと真偽の判断ができないし、他人の思想を理解できないし、自分の思想も持てなくなる。自分の思想を持てないと政治家の理念を実現させるための政策の良し悪しの議論を理解できないので、民主主義政治にも参加できなくなって社会の意思決定の枠組みから疎外される。そんで不満があってもデモや選挙や政治家への陳情で社会を変えようとせずに、犯罪をしたり、ドラッグで現実逃避したり、ひきこもってゲームして現実逃避したりするようになる。それに語彙が乏しい人は「まじで」「やばい」「むかつく」「うざい」「きもい」「死ね」とかの論理や構成がなくて感情的な短い言葉ばかり使うようになって、中傷になりやすい。リアリティー番組で木村花を中傷したDQNとかが典型的で、論理的な批評の言葉を持たないので感情的な中傷になる。・読解力の必要性子供の国語力の低下について考えるという記事でも考えたように最近は子供の読解力が落ちているようだけれど、世間の文系軽視も相まって重大な問題としてとらえられていないようである。話し言葉は自然に親から学ぶけれど、文字は意識的に学習しないと覚えられないので、文章の読解力が落ちているのはそれだけ教育全体のレベルが落ちているといえる。読解力が落ちているということは知識のインプットの質も落ちているわけで、インプットの質が落ちれば必然的にアウトプットの質も落とすことになる。例えば多機能の高性能の製品に詳細な説明書があってもそれを理解できなければ製品を使いこなせなくなるし、法律を正しく理解できなければうっかり違法行為をするようになるし、論理的な真偽の判断ができなければストローマンとかのよくある詭弁に騙されて陰謀論とかのデマに扇動されるようになる。ネットでいつでも情報を調べられるといっても、情報を正確に理解できないなら調べる意味がなくなってしまう。子供の読解力の低下は社会全体の将来に関わる重大な問題なので、対策する必要があるだろう。・言葉の倫理の教育の必要性嘘をついてはいけないとかの倫理観は幼児期に各家庭で教育されるけれど、学校ではあまり教育しない。「うざい」「きもい」とかの感情的な言葉もしばしばいじめに使われるけれど、学校ではいちおういじめは駄目よというけれど言葉遣いを教育しないし、普通の庶民の家庭は言葉遣いに厳しくないので、高学歴でも人格や倫理観が伴わない人が大勢いて社会人になっても暴言で部下にハラスメントをしたりネットで中傷したりして社会の幸福度を下げている。誰かを嫌だと思う自由はあるけれど、それを口に出したら攻撃である。「やあやあ我こそはお主がうざくてきもくて嫌いなので死ね」とわざわざ戦争を吹っかけたところで得るものがなくて戦う意味がないので、相手を傷つけずに遠ざけるための方便としての嘘は私はよいと思う。嫌いな人に絡まれてうざかったら、「今うんこを我慢するのに集中してるから放っておいてッ」とか「今シカゴ先物から目が離せないから後にしてッ」とか適当な嘘で遠ざければよい。好きでない相手に告白されたときの断り方もうまく嘘をつくのが大事で、「きもいマジありえない迷惑だからもう関わらないで次会ったら事務所総出で潰すから」と素直に言って相手のプライドをへし折ると刃傷沙汰になってしまう。前山剛久が神田沙也加と別れたいにしても「死ね」はないだろう。絵本だと嘘をついてはいけないとかの教訓を幼児に教えるけれど、大人に対しても状況に応じて適切に応答するリテラシーの教育が必要だろう。学校で言葉の倫理観を教育できないのであれば、フィクションが教育に役に立つと思う。・思考力と文章力の必要性思考とは言葉や知識を論理的につなぎ合わせる行為である。いくら知識を増やしても思考をしなければ創造や問題解決にはつながらないので、社会人は知識の記憶力よりも思考力が必要になる。それに人間の記憶力には限りがあるので、いくら思考をしてもそれを書き残さないと考えた内容を忘れてしまう。それゆえに思考を十分に記すための文章力が必要になる。私は文章を書くのが苦手で大学生の時はレポートに何を書けばよいのかわからなくて原稿用紙10枚分のレポートを書くのに苦労していたのだけれど、今ではどんなトピックでも原稿用紙10枚分以上の文章を書けるようになった。これは私が若い頃は知識がなかったのに加えて十分に思考していなかったから文章を書けなかったわけで、思考力や文章力は先天的な才能でなくて訓練で伸ばせる。知識が乏しい子供に思考力や文章力を期待してもあまり意味がなくて、知識が豊富で意見を発信する立場にいる大人こそ文章力が必要になるので訓練するほうがよい。しかしいったん大学を卒業するとレポートを書く機会が少なくなって、研究者やライターや広報などの一部の職業の人以外の大人がまとまった量の文章を書く機会があまりない。原稿料が出ないのに長文を書くメリットもないし、長文を書く時間もないし、長文を書いてもどうせ誰も読まないので、社会人が文章を書くにしてもせいぜいTwitterや掲示板で短文のコメントする程度じゃなかろうか。私は書いた本人でさえ忘れるような短文のコメントを100回書くよりも、よく考えて長文を1回書くほうが思考力や文章力が上がってよいと思うので、社会人こそいろいろな本を読んでブログで長文を書いて自発的に能力開発するべきだと思う。
2022.01.23
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最近はリカレント教育やリスキリングというのが流行っているらしいので、これについて考えることにした。●リカレント教育とは何かrecurrentとは再び起きるというような意味で、リカレント教育とは仕事に就いた後も自発的に大学に入りなおしたりして何度も学習し続けることである。一方でリスキリングは企業が従業員に新しいスキルを身に着けてもらうことで、例えばDXのために技術職でない人がプログラミングを勉強したりしている。何度も学習し続けると言っても時間と金は有限だし、勉強するために何度も仕事をやめてその都度転職するわけにはいかないので、学習プランを作って何を学ぶかを選択する必要が出てくる。●日本の教育の問題・教育が知識を偏重しているリカレント教育やリスキリングだとたいてい社会人が仕事に役に立つ分野を勉強していて、例えば管理職が心理学を勉強したり、営業職が経営学を勉強したりして、すでに持っている知識や技術とのシナジー効果を出すような感じである。しかしそのやり方で何か画期的なアイデアが出てくるのかというと、知識には個性がなくて皆が同じ知識を持つので、定説化した知識を増やすだけでクリエイティブになれるものでもない。それにリカレント教育として仕事の合間にちょっと勉強の時間を作る程度だとその分野を専門的にやってきた人にはかなわないので、あまり差別化にならない。そもそも日本では創造力や発想力とかの定量化できなくてテストで採点できない定性的な能力を伸ばすための教育が軽視されている。例えば進学校は受験に必要ない音楽や美術を教えないところもあるし、国語も実用性だけ重視して文科省は2022年度の高校1年生から新設される「現代の国語」の教科書に小説を載せない方針のようだし、ひろゆきみたいに古文や漢文がいらないという人も出てきた。小説や和歌や漢詩は知識ではなく芸術的感性の領域で、ここが義務教育から削られようとしている。社会人のリカレント教育も同様に資格取得とかの定量化できる知識や技術の学習に偏っていて、このままでは芸術的感性を育てる機会がなくなりかねない。スティーブ・ジョブズのスピーチで、学費が高いリード大学をやめることにして必須の授業を受けるかわりにカリグラフィーを勉強したおかげでマッキントッシュで多様なフォントを作って、将来をあらかじめ見据えて点と点をつなぎあわせることはできなくて後から点と点をつなぎあわせたのだと言ったのは良く知られているけれど、ジョブズはすぐには役に立たないことを勉強したからこそAppleの製品は個性的でありえたわけで、日本はこの逆に目先の実用性だけ重視して、知識だけ教えて感性を育てずに国民を今以上に無個性化しようとしている。日本人はただでさえ同調圧力が強くて就活で黒一色のリクルートスーツ着る個性に乏しい人だらけなのに、文学部は役に立たないから大学からなくして趣味でやれとか言って無個性で没人格で入れ替え可能な量産型労働者の道を邁進している。感性が乏しいがゆえに芸術の価値がわからず、わずかに残った貴重な感性のかけらさえ無駄としてとらえて自ら捨てようとするのは馬鹿である。そんで芸術的感性がなくて無個性のビジネスパーソンと良識がないうさんくさいYouTuberとかで両極端で、ジョブズみたいな芸術的感性を持っているビジネスパーソンがあまりいない。バルミューダはトースターとかのコモディディ化した製品におしゃれなデザインを取り入れることでヒットしてそこまではうまくいったけれど、高い割に低スペックなスマホを作ってブランドイメージが落ちた。これは徹底して価値やこだわりを突き詰めて唯一無二のものを作るという芸術的感性が足りなくて、トースターとかの部品が少なくてデザインに融通がきく製品と違って部品が多くてデザインを変えにくいスマホでは価格に見合う価値を出せなかったのだろう。芸術家は自分の審美眼に基づいて自己批判をすることで作品をブラッシュアップして理想に近づけていくけれど、この自己批判ができなくて自己満足になってしまうと駄目で、バルミューダはその甘さが消費者や投資家に見透かされてしまった。それに知識や技術は覚えたところで特定の業務でピンポイントでしか役に立たないし、普段使わないと思い出しにくくなってしまうし、技術革新で古い技術が陳腐化して無駄になることがあるけれど、発想力や創造力や感受性とかの能力は常時発動して様々な分野に適応できるので長期的な学習のコスパはよいと思う。それゆえに特に研究や開発の仕事をしている人は実用的で定量的な知識や技術を増やすよりも、日本人に足りない心理的機能(思考・感情・感覚・直感)や創造性とかの定性的な能力を育てるためのリカレント教育をするほうがよいと思う。・学習が仕事につながらない日本人は幼児期から高校までの教育には熱心だけれど、日本の大学は入学するのが難しい割に卒業するのは簡単なので日本人の大学生は留学生に比べて勉強しないと言われているし、企業も入社試験で成績や論文を評価しなくてGPAが高い人も低い人も〇〇大卒として同じ評価になるのがおかしい。企業側が学生に勉強しないで学生時代に力を入れたこと(ガクチカ)のエピソードづくりのサークル活動したほうが得だというインセンティブを与えている。宮台真司が同一労働同一賃金にして終身雇用の正社員という制度を廃止するように主張しているように、日本は解雇しにくい正社員の雇用を維持するために非正規労働者を搾取して使い捨てる社会構造になっている。おまけに古い企業や田舎の企業は企業への忠誠心を評価するという時代錯誤の封建主義的な評価基準があって、プロパー社員はスキルに関わらず忠誠心を評価されて、転職者はスキルがあっても新参者として冷遇される。さらに資格を持っていても数年の実務経験がないと雇わない企業だらけで、資格がスキルの証明書としての役割を果たしていないし、民間資格に対して資格手当が出ないことがあるので、一部の資格は取る意味がなくなっている。こうした不公平や理不尽がまかり通っているので労働者がわざわざ余暇に勉強する意欲がわかなくて、スキルアップしないので生産性が上がらないのだろう。実際にリクルートワークス研究所の「全国就業実態パネル調査」だと学習・訓練がもともと低い数値なのが2020年は大幅に低下している。OECDのEducation Policy in Japan: Building Bridges towards 2030には日本の教育レベルは高いと書かれているけれど、その中のFigure 1.15. Achievement motivation and school-work anxiety across education systems, 2015によると日本は最下位レベルで学習の動機付けが低い。欧米みたいに年収を上げるためにはスキルアップして出世するか転職するかしないといけない状況なら学習意欲は増えるはずだけれど、もう日本人は給料が上がらないことに慣れてしまって、いったん正社員になって長期的な雇用が保証されたら業務に必要とされること以外は学ぼうとしないのかもしれない。最近は日立製作所が全社員ジョブ型雇用に移行して、どの職種にはどのスキルが必要なのか社外にも公表されるそうで、これはよいことだと私は思う。グローバル人材が欲しいというならまず会社が世界基準に合わせてジョブ型雇用にするのが筋である。どれだけのスキルがあればどういう仕事につけてどれくらいの年収になるのか可視化されるようになれば自発的に勉強する人が出てきて、雇用が流動化して産業転換もしやすくなると思う。・内向的な人が評価されない外向的な性格の人よりも内向的な性格の人は集中力や忍耐力や創造力があって一人で物事に没頭できる。例えばアインシュタインは内向的で空想好きだったそうな。創造の結果は評価されるけれど、じゃあその創造の過程が正当に評価されるかというとされない。数学者は何時間もじっと椅子に座ったまま頭の中で数式を考えるそうだけれど、傍から見ると何もしていないるように見える。その一方でやたらと会議してパワーポイントを駆使してプレゼンしている人はすごく活動しているように見える。どっちが物事を深く考えているかというと前者だけれど、メンバーシップ型雇用の会社ではじっと考えていたらさぼっているとみなされて評価されないだろう。大学ではジョブ型雇用に近い環境なので自分のペースで作業出来て優秀だった人でも、就職したらメンバーシップ型雇用で外向的な人のペースに合わせることを強いられてこまごまとした雑用や雑談で思考を中断されて、思考力や創造力とかの能力を発揮できずに役立たずとみなされてしまう。アメリカだと数学を勉強した人はIT企業で引く手あまただそうだけれど、日本だとなぜか数学を勉強した人にコミュ力という評価基準を当てはめて役に立たないとみなす不合理なことをしている。仮に業務にコミュ力が必要だとしてもそれこそリスキリングとしてコミュニケーション講座でも受講させればいいのにそれもやらない。企業や社会に能力を活かして評価する環境がなければ、どんな教育をしても無駄になってしまう。●リカレント教育としての文学の可能性私は従来の詰め込み教育で軽視されてきた感性や創造性の教育、つまり芸術の鑑賞、批評、創作こそが無個性な社会人のリカレント教育として重要になると思う。スイスの哲学者のアラン・ド・ボトンはThe School of Lifeを創設してアートセラピーとかのレジリエンス教育をしているように欧米だと社会人のメンタルヘルスを維持するための教育があるけれど、自殺率が高くて大勢メンタルを病んでいる日本人がなぜかその分野を学ぼうとしないので、社会課題の解決という点では社会人にも哲学や芸術の教養が必要だと思う。そこで文学がどれほど需要があるのか考えてみる。リカレント教育で文学を勉強しようという社会人は現状はほとんどいないと思う。私が行った大学院には高校の教師や退職した中年の人とかがいて学部よりは年齢層が広かったけれど、ビジネスパーソンはいなかった。文学は本さえ買えば自分で研究できると言われているように、自著を朗読するだけで金を払う価値がない授業をする高齢の教授とかがいて教授の質があまりよくない。それゆえにすでに他の分野の学位を持っている人にとっては、リカレント教育として文学を学ぶためにわざわざ大学や大学院に行くほどの価値はないと思う。芸術だと個々の芸術家によって芸術観が違っていて知識が多ければいいというものではないので、何を学ぶかよりも誰から学ぶかのほうが重要である。例えば音楽だと名門音大の高名な教授と師弟関係になって芸術観や技術を継承することが業界での地位になる。文学も知らない教授から学ぶよりも、私塾の形式で小説家や批評家や哲学者に師事して文系の教養を身につけるほうがよいと思う。一部の小説家や批評家や哲学者はすでにワークショップを開いているし、距離の問題でワークショップに参加できない人はオンラインサロンに参加するのでもいいと思うし、リカレント教育としての需要を掘り起こすことができれば貧乏な小説家も印税以外の収入が増えるかもしれない。じゃあ文学から何を学べるかというと、個々の作家の思想や創作技術や歴史や文化や言語を学べる。他人や社会とどう関わるか、何が幸福なのか、死をどうとらえるか、どうやって思想や感情を作品として昇華するか、というようなことは会社で学べるものではないし日常生活で自然に身につくものでもないので、時間を割いて文学を学ぶ価値はあると思う。それに芸術作品を創作するにしても音楽や絵画の技術を一から覚えるよりも言葉だけでどうにかなる文学のほうがとっつきやすいし、小説の創作には高い道具が必要なくてパソコンだけあればいいし近所の図書館や青空文庫とかを情報源に使えるのでイニシャルコストも低く抑えられるメリットがある。芸術はルールも勝ち負けもなくてやりたいようにやっていいので、創作では発想力や構成力が鍛えられるし、批評では分析力や論理的思考力が鍛えられる。ハイカルチャーもサブカルチャーもあらゆる感情も思想もありの血沸き胸躍るバーリトゥードである。何でもありだからこそ個性や才能が顕著に出るし、自分が何を考えて何を表現したいのかを突き詰めることで創作を通じて自分のアイデンティティや価値観を自覚することができる。ビジネスだと業務ごとに役割分担をしているので指示待ちするだけの人もいるけれど、創作は準備も作業も全部自分でやらないと作品が完成しないので、PDCAサイクルやOODAループの意思決定の訓練にもなる。たぶんリカレント教育だと経営学や心理学やプログラミングや英語とかの実用性がある分野が選択肢の上位になると思うけれど、選択肢の5-10番目くらいに文学をいれてみるのもよいと思う。
2022.01.14
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お供キャラの役割を解説した動画をアップロードしました。『DRAGON BALL』ではプーアルがヤムチャのお供として出てきたものの、変身するだけで戦闘能力がないので強さがインフレする中でZ戦士とともに物語から脱落したように、かわいいお供キャラをとりあえず出せばいいというものでもないので、役割を把握したうえで登場させて活用する必要があります。
2022.01.12
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最近はRIZINという格闘技イベントで、YouTuberのシバターが対戦相手の久保優太に1Rは様子見しようと持ち掛けた挙句に約束を破って勝った疑惑で揉めているそうな。これについて考えることにした。●八百長とは何か八百長とは真剣に勝負を争うように見せかけて、実は前もって約束しておいた通りに結末をつけることである。選手や関係者を脅したり、利益を供与する場合もある。八百屋の長兵衛が八百屋の売り上げを増やすために囲碁仲間の伊勢ノ海五太夫にわざと負けて機嫌をとっていたのが語源だそうな。シバターの場合は勝敗までは決めてなくて久保は負けることには同意していないので、八百長ではなくて試合展開の申し合わせだという見方もある。しかし1Rの結末までは約束していたという点では部分的な八百長と言えなくもないし、どこまで申し合せたら八百長になるのかという判断ははっきりしない。プロレスは巡業スケジュールがあって試合間隔が短いし、同じ団体に所属しているレスラー同士で手の内も知っているので、怪我をしないで得意技を出し合って見せ場を作れるように大まかな展開を事前に決めるのは妥当といえる。しかし試合間隔が長くて同じ人との再戦があまりなくて真剣勝負のKOを売りにしている総合格闘技だと、試合展開の申し合わせをしたらその時点で真剣勝負でなくなるので問題だと私は思う。●なぜ八百長はだめなのか・選手の成長につながらない格闘技の選手はそれぞれに得意技があって、腕力やスピードやスタミナや柔軟性も違っていて、似た身長や体重の選手でも戦い方は異なるがゆえに、誰と誰が戦ったらどういう勝負になるのかという組み合わせの面白さが出る。相手の長所をどう潰して自分の短所をどうカバーするか、スタミナ配分をどうするか、真剣勝負の中で選手が考えながら成長していくものである。そこで八百長をしてしまうと真剣勝負で磨かれる部分が伸びなくなる。・イベントの格が落ちる八百長をしたら格闘技ではなく格闘技風のショーになる。一度でも八百長をしたら検量やジャッジにも不正があるかもしれないと疑われるし、そんな格闘技イベントで勝ったところで強さの証明にはならないし格闘家としての実績にもならない。RIZINは視聴率をとるために知名度があるシバターを呼んだようだけれど、試合の質よりも知名度を優先した時点でショーみたいなものである。アメリカだとYouTuberのローガン・ポールに格闘技をやらせてPPVの視聴率で大儲けしたそうだけれど、そういうことをやりだすととりあえず興行に有名人を出せばいいということになってもはや格闘技をする意味さえなくなる。・客が金を払って見る価値がなくなる八百長をしている選手は手を抜いて戦って軽いパンチで大袈裟に吹っ飛んでダウンしたりして不自然な負け方をするので、目の肥えたファンは何か変だと気づく。最高峰の選手の技を近くで見たりひいきの選手を近くで応援したりするためにわざわざ金を払って会場まで見に行ったのに、茶番を見せられたのでは金を返せといいたくなるし、八百長をした選手をそれ以上応援できなくなる。・賭けをした人が困る他のスポーツと違って格闘技団体の運営には反社会的勢力が関わっているし、野球や相撲さえ賭けの対象になっているのだから格闘技でも非合法の賭けが行われていると思われる。真剣勝負に賭けて負けたら諦めもつくけれど、八百長のせいで大金を損した人は納得できないだろう。●フィクションの勝負はどうするのかフィクションでは作者には結末が分かっているけれど、それを読者に悟られないように真剣勝負している物語を書かないといけない。結局主人公が勝つんでしょと読者が予定調和の結末を見抜いてしまったら八百長みたいなもので白けてしまうので、たいていは読者に結末を覚らせないようにギリギリのところで決着がつくし、時限爆弾もすぐに解除せずに時間をかけて残り1秒で解除する。映画の『ロッキー』がヒットしたのは、主人公補正で主人公を勝たせていい話として終わらせずに、主人公が実力差がある試合でやれるだけのことをやって僅差で判定負けしたがゆえに真剣勝負らしさが出たからだろう。試合後にロッキーが勝敗を気にせずに「エイドリアーン」と恋人を呼ぶシーンは有名になった。・真剣勝負のぎりぎり感の演出じゃあどうすればぎりぎり感が出せるのかというと、主人公よりも強い敵を出して主人公の成長で強さの差を埋めるのが簡単なやり方である。『DRAGON BALL』はピッコロやベジータやフリーザやセルのように悟空よりも格段に強い敵が出てきて修行してぎりぎり倒せる強さまで成長して毎回瀕死になりながら勝利する。別のやり方としては、何かのアクシデントで主人公が実力を発揮しきれないパターンがある。スポーツもののフィクションだと試合直前や試合中に怪我をして、怪我を隠したまま試合したり、選手生命の危機がどうのこうので悩んだりするのがスポ根的な演出になる。ボクシング漫画の『はじめの一歩』だと実力がある鷹村が減量に失敗したり足を痛めたり網膜剥離ぽくなったりしてぎりぎりの戦いをして話を盛り上げている。ハードボイルド系だと恋人とかを人質にとられて主人公が試合で負けるように脅されて一方的にぼこぼこにされて、仲間が人質を解放すると主人公がようやく実力を発揮して敵を倒すパターンもある。一対多の戦いの場合は、映画の『プレデター』や漫画の『鬼滅の刃』のラスボス戦みたいに仲間がばたばた死んでいく中で主人公がとどめを刺すことで敵の圧倒的な強さを強調してぎりぎりの勝利の演出ができる。フィクションならではのやり方だと、ファンタジー系では変身して強さを引き上げる方法がある。『DRAGON BALL』が典型的で、フリーザが変身して強くなったら悟空もスーパーサイヤ人に変身して強くなって、強さの限界を引き上げて勝負の行方をわかりにくくしている。『BLEACH』の卍解も似たようなものである。しかし変身で強さの限界値を上げてゴールポストを動かすやり方だと強さがインフレして歯止めがきかなくなる問題がある。ドラマチックな展開にするなら奥義を使うやり方がある。『NARUTO』のガイ先生の八門遁甲みたいに使ったら死ぬ奥義を使うことで、戦いに勝っても負けても死ぬので熱い展開になる。しかしこういう技は作中で一度しか使えなくてキャラクターも死んでしまうので創作上のコスパが悪い。『NARUTO』だと瀕死のガイ先生がナルトに助けられていて、奥義を使っても死なない場合はご都合主義的になるのできっちり死ぬ方がよい。・俺ツエーの予定調和漫画の『グラップラー刃牙』は主人公の刃牙が子供の頃は何度もピンチになりながら戦っていたのに、父親と互角の勝負をして人類最強になってからはピクルも武蔵も宿禰も余裕であしらうようになって、もう主人公の伸びしろがなくなって真剣勝負というより勝ち確定演出を見せられるような蛇足の話になって格闘漫画としてはつまらなくなった。異世界転生なろう小説とかはタイトルで「〇〇が無双する話」と結末までネタバレしてしまっているので、最初から予定調和が読者にわかっていて勝負になっていない。モブに馬鹿にされても実力で圧倒して俺ツエーという場面を見どころにするのもわからなくはないけれど、話の展開としては工夫がなくて安直である。バトル系フィクションは勝ちか負けかの単純な結末になりがちでストーリー展開がパターン化していて新しい展開にしにくいので、ストーリー展開よりもキャラクターや必殺技で差別化したり、『ロッキー』みたいに恋愛を絡めたりして勝敗以外の見どころを作るほうがよいのかもしれない。
2022.01.07
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