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昭和57-59年に書かれた17編の短編と掌編集。「旦那さま留守」は旦那さまな留守な間に召使ロボットたちな旦那さまな物まねして遊ぶ話。「日本古代SF考」は文壇バーで古代文壇用語を使えないSF作家たちがベサツされる話。「通過儀礼」は成人の日の晴着魔の掌編。「句点と読点」は。や、の句点と読点を考察する掌編。「東京幻視」は東京に行きたかったのに発熱して行けなくなった松太郎が東京を幻視する話。「言葉と<ずれ>」は各章の登場人物の口調がずれていて、サラリーマンがざます口調、女子高校生は会社員口調、やくざが女子高校生口調、中年女性がやくざ口調で会話する話。「きつねのお浜」はきつねのお浜が人間に化けてお尋ね者を捕まえるのに協力する話。登場人物が作者の原稿稼ぎに文句を言ったりするメタフィクション。「点景論」はおれが尾行者をまこうとして乗ったゴンドラが壊れる話。「追い討ちされた日」は幕府兵が逃亡していくうちにタイムスリップする話。「シナリオ・時をかける少女」は時をかける少女のシナリオ版パロディで、時をかける少女の演技中に暴力中学生が暴れる話。「退場させられた男」は物語の主人公のおれが物語から退場させられてしまう話。「春」は春から連想するようなものを延々と自動筆記で書いたような話。「妻四態」は妻が冬眠したり飛んだり卵を産んだり脱皮したりする話。夫の言葉だけが改行なしで書かれる形式。「風」は戸を叩く音を風だといいながら夫婦がいなくなった息子たちについて会話する話。会話文のみの形式。「座右の駅」は筒井の仕事場の机の上の駅から団体客が見学に来る話。「遥かなるサテライト群」は衛星都市タイタンの長距離貨客船クルーのおれと仲間の恋愛話。「串刺し教授」は崖から落ちて塀に串刺しになった教授の写真が週刊誌に載った事件を記者が調べる話。●感想文体実験やSFや純文学風の短編などがあっていろいろアイデアが出ているので短編集として飽きずに読めるものの、これといって印象に残るほど面白いものはない。尾行だとか逃亡だとか『脱走と追跡のサンバ』で見たようなネタがいろいろあるけれど、構造主義的に筒井の物語のパターンを見ているようである意味面白い。「時をかける少女」を自分でパロディにしてもう一回原稿料を稼ぐのはさすが筒井というか、他の作家ならそういうことはやらせてもらえないんじゃなかろうか。あるいはまだ出版業界が儲かっていた時代だからくだらない原稿稼ぎのような文体実験とかもやれたのかもしれない。★★★☆☆【中古】 串刺し教授 新潮文庫/筒井康隆【著】 【中古】afb
2017.01.29
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1982-84年に雑誌『潮』に連載された高橋康雄との対談の原稿をまとめた本。●各章の内容・触れられた死──序にかえてブランショのカフカ論にあるカフカの死のとらえ方、ハイデッガーの存在の未済性としての死のとらえ方とそれに対するサルトルの批判の解説。・『死』体験の意味古代の死体験と精神病などについての対談。・戦中派の生き方敵兵を弔った島尾敏夫や戦争を肯定した高村光太郎についての対談。・東洋と西洋の生死感自分の生死より大きなものを乗り越える日本人と、個の人間より大きなものは存在しないという西洋の生死の考え方についての対談。・『銀河鉄道の夜』にみる死後の世界宮沢賢治の仏教的な永世の観念と童話的なユートピアの観念についての対談。・再生もしくは救済物語について──大江健三郎著『新しい人よ眼ざめよ』を読む大江健三郎の連作小説の私小説とフィクションの裂け目の良し悪しの対談。・<死>が恐怖でなくなるとき──『イワン・イリイチの死』と『マルテの手記』を読む死病になったイワン・イリイチが死を受け入れる話の対談。・心霊現象とホログラフィ──『霊界日記』から『空像としての世界』までスエデンボルグ、エンゲルス、タルコフスキー、アリストテレスなどの心霊論の対談。・資料(1)「生きること」と「死ぬこと」仏教、社会学、民俗学、哲学で生きることと死ぬことがどう考えられたかという話。・資料(2)証言・私が見た死の瞬間臨死体験の証言集。・資料(3)参考文献数百冊の参考文献が列挙されている。●感想対談部分は各章が20ページほどしかなく、生死のテーマの割には文章量が少なくて掘り下げが不十分な感じ。対談でない序にかえてと資料1が個人的には面白かった。文学や哲学が好きな人は何かしら面白いところがあるかもしれない。各章の対談については特に感想がないので、現代のエンタメ業界で死をどう扱っているのかを考えることにする。物語には死がつきものだけれど、はたしてその死がひとりの人間の死として真摯に扱われているかというと必ずしもそうではない。昔の純文学では妹の死だとか、戦友の死だとか、作者が死を体験して一度しか書き得ない真摯な物語にしている。評判がよかったから次回作も妹が死ぬやつでよろしくなんて編集者に言われても書けるものではない。戦中派の世代くらいまでは死は真摯に考えるべきテーマとして扱われてたけれど、商業主義の中で職業作家が作品を量産するようになると、もはや個人的な死のテーマは古臭いものとして見向きされなくなり、病苦やら事故やらの現実の地味な死よりも、誇張された過激な死が読者の感情を動かす安直な娯楽として量産されるようになってしまう。『GANZT』や『進撃の巨人』や『彼岸島』やホラー映画やゾンビ映画は侵略者や殺人鬼や得体のしれないものに襲われる理不尽な死の恐怖をあおり、『リアルアカウント』や『神様の言うとおり』や『BTOOOM!』や『ダーウィンズゲーム』は箱庭の中で殺し合いをして、『東京喰種』や『亜人』はマイノリティの復讐としての死をあおる。『サンクチュアリ』や『静かなるドン』とかのやくざ漫画は任侠道を強調するために対立するやくざを殺したり殺されたりする。恋愛小説や少女漫画では恋人が事故や難病で死んで同情を誘う。『キングダム』や『ヒストリエ』や『ヴィンランド・サガ』は過去の戦争での戦いと死を強調する。時代劇は勧善懲悪で悪人を殺すカタルシスがあり、ミステリーは勧善懲悪で殺人犯を捕まえるカタルシスがある。『Trash』や『DEAD Tube』はエログロの派手な死を客寄せにする。海外のシリーズ物のドラマでは役者が契約更新しないときによくわからない理由で殺されるし、バトルものの漫画だとテコ入れで新キャラと登場させるために人気がない登場人物を殺したりする。あらゆるジャンルのあらゆる物語でわんさか人が死んでいるけれど、その死が読者自身の死の考察につながるかというと、あまり繋がっていない。読者がいる現実世界とは違う可能世界における死として処理されてしまって、読者は単に別世界で展開される途方もない物語を眺めるだけになってしまい、自分ならどうするだろうかと感情移入して考える機会が乏しくなっている。登場人物の死はプロットを作動させる装置であったり、読者の感情をゆさぶる装置だったりして、作家が真摯に考えるべき重大なテーマというよりは物語の構成上のギミックになってしまった。現代の商業主義のなかで量産されるフィクションにはリアリティがなく、存在感がない人間が死んだところでその死には重みがなく、ドラゴンボールでさくさく生き返らせられる程度の存在でしかない。小説や漫画や映画の過激な死に親しんだ日本人が、自殺の生中継動画やISISの処刑動画を見てショックを受けているのは、結局はフィクションの死は現実の死ほどの重要性を持っていなかったということだろう。『クレヨンしんちゃん』や『ちびまる子ちゃん』のように登場人物が何十年も年をとらない世界をループして生きていて老いや病気や死がまったくない世界よりは、リアリティがなくても死がある世界のほうがまだましだとは私は思うけれど、結局死の考察につながらないという点ではどっちも読者が人生の意味を考えるのには役に立たない。リアリティがなかろうがエンタメとして面白くて儲かればいいじゃんというのもひとつの考えだけれど、皆が金儲けのために面白さだけ追求していたら誰が死の考察を担うのか。死は誰にでも訪れるものなのに、死の考察は医者や哲学者や宗教家任せでよいのか。それに現実離れしたフィクションの世界が拡張されたところで、現実逃避がはかどるだけで実生活の充実に繋がらないのではないか。ホラー映画の幽霊に呪い殺されることは怖がるのに、自分が天災やテロで明日死ぬかもしれないことは怖がらないのか。フィクションの死を怖がったり楽しんだりして、自分の死に無頓着というのでは本末転倒ではないか。漫画家はデビューが早くて高学歴な人が乏しいので、死ぬのが怖い、死んだから悲しいという感情的な次元で死を描いて、哲学的な次元で死の考察を深めることができないのはしょうがないかもしれないし、編集者の指示でエンタメとして読者にとってわかりやすい話にしないといけないのかもしれない。一方で、もともとシリアスなテーマを担ってきたはずの純文学作家は何をやっているのかというと、高校生やらニートやら主婦やらをもてはやして、高学歴な知識人でないどころか社会人よりも人生経験が乏しくて政治経済の一般常識さえないような作家の身辺雑記やらエンタメ寄りの空想やらに退化してしまい、哲学的な次元で生死のテーマを掘り下げられるような本格派の純文学作家が出てこなくなった。それゆえにシリアスで暗いテーマをまじめに書いた古典小説が未だに重宝されるのだけれど、何のために生きるのか、避けられない死にどう対処するのか、自ら死を選ぶべきかというテーマは、高齢化の介護苦や自殺や過労死やひきこもりやいじめといった現代日本社会の根底にある問題なので、現代は現代で生と死のテーマに向き合わないといけないはずで、古典小説では代替にならない部分がある。医者兼作家の南木佳士は医者として死をどうとらえたのかを小説にしたし、介護のテーマならモブ・ノリオや鹿島田真希や村田喜代子が書いたけれど、やはり地味なせいかあまり人気がない。というわけで漫画でも小説でも現代人の死生観の考察につながって読者の人生を豊かにするような作品が少なくなってしまった。もともと日本人は死に関する話は不謹慎だとして避ける傾向があり、天災や事故が起きてもモザイクをかけて死体を映さないようにして現実に直面するのを避けて、悲しいというだけで死の話題を掘り下げずに流してしまう。みじめに生きることやみじめに死ぬことの受け入れ方がよくわからない人たちが試行錯誤して無理心中やら通り魔やら飛び降り自殺やら硫化水素自殺やら死刑になりたくて無差別殺人するやらの変な死に方をするのが社会問題ではなく個人の問題として放っておかれて、死ぬ必要がない人まで巻き込まれるのは社会的損失である。屋上や駅に自殺防止の柵を作ったところで根本的な解決にはなっていないので、やけになって衝動的な自殺や通り魔やテロを起こさないような死生観の成熟が必要だろうけれど、学校ではフリーターになったら人生失敗するよと恐怖だけあおって失敗した後の生き方はまったく教えないまま社会に送り出して、そうして失敗した人たちを自己責任として責めて、社会の責任ではないと開き直っている。これではいつまでも自殺も通り魔もなくならない。それに自殺が禁止されている宗教の人が死にどう対処するのかというのも日本ではあまり議論されない。キリスト教徒は銃の暴発だとか薬の飲みすぎだとか車のスピードの出しすぎだとかの事故にみせかけた自殺をしてはっきりと自殺とわかるような死に方を避けているらしいし、イスラム原理主義者はジハードで殉職して天国に行くことに救いを見出しているらしい。宗教を持つのは救済になりうる反面、自殺を禁止されているせいで現実逃避的な死に方になる。それに宗教の教義自体が問題をはらんでいて生きるのが大変になる可能性もあるので、宗教を信じたら煩悩から開放されて死からも救われるかというと微妙である。キリスト教徒は神様が助けてくれないんじゃないかと疑ったり嘆いたりして、神様に頼らずに苦難にどうにか対処しようとする物語を小説にしたのでキリスト教圏では傑作古典小説がけっこうあるのだけれど、どういうわけかイスラム教徒の文学の傑作というのはあまりないようである。イスラム教徒が人生の悩みや苦しみを持っていないというわけではないだろうけど、宗教の束縛が強すぎて神を疑うような内容は書けないのかもしれない。私は無神論者で人類も地球も滅ぶと思っているので、人類滅亡から世界を救うセカイ系の作品は子供だましの物語で見る価値がないと思っている。最近人気の『君の名は。』も彗星墜落から町を救ってハッピーエンドの話のようだけれど、私は見る価値がないと思っている。世界は救われないし、救う必要もないし、救われるべきなのは個人である。重要なのは世界を救うことよりも、どうやって個々人が自分の運命としての死を受容して、死ぬために生きるという矛盾した生に折り合いをつけるかということで、死の受容を通じて個人は死の恐怖やら愛情の喪失やらから救われることになる。一時的に世界を滅亡の危機から救ったところで、最終的に人間の世界は不可避な形で滅亡するので、絶望の先延ばしにすぎない。『魔法少女まどか☆マギカ』も魔女から世界を救う話だけれど、これが他のセカイ系のアニメと違うのは、主人公がどうやって世界を救ったかということより、どうやって自分の死を受容したかという過程が描かれているところで、ただ悪人を倒して世界を救うだけの話ならヒーロー戦隊モノと大差ないのでヒットしなかっただろう。しかしこれはやはりアニメでリアリティがないので大人が見る作品としては不満がある。ネビル・シュートの『渚にて』(邦題『エンド・オブ・ザ・ワールド』)はテレビ映画化されて、核戦争後の放射能汚染で人類滅亡に直面したオーストラリアの人たちがどうやって死を選んだかというのを描いているけれど、私はこういう救いようがない作品が好きである。ゾンビ映画だとどうやって理不尽な感染による自分の死を受け入れるのか、感染した家族や仲間との離別を決断するかという人間ドラマに面白さがある。バイオハザードのように重装備でバッタバッタ怪物をなぎ倒すアクション映画はゾンビ映画としてはつまらない。ホラーは死にたくない人たちが悪霊やら殺人鬼やらの強制的な死から逃げようとする話で、いわば頑なに死を受容しない物語だけれど、『シックス・センス』のラストのように死の受容があるあたりがカタルシスになっている。スティーブン・キングの『ミスト』は万策尽きて死を受容して息子を殺した後に救助隊が来るというラストだけれど、その部分は映画のオリジナル結末でそれなりにプロットとしての狙いがあるのはわかるけれど、いかにもとってつけたようなどんでん返しで悪評の原因になってしまった。迫りくる死を受け入れるか、死から必死に逃げ続けるかは各登場人物たちの決断だったのに、物語にいなかった部外者の軍隊がいきなりやってきて水を差したので、それまでの物語はなんだったのかというしらけた感じになってしまう。というわけで、作品内での死の扱い方が傑作か駄作か、芸術か娯楽かの判断基準のひとつになるかもしれない。登場人物のうそくさい死は物語内で積み上げてきたその人物の生さえもうそくさくしてしまい、物語を台無しにしてしまう。エンタメでも人生の中の幸福な部分だけを書いて物語をハッピーエンドで終わらせてしまい、その先にある死を書かないのはごまかしだと思う。創作に携わる人たちは金儲けのために暇つぶしにしかならない娯楽作品を作るのでなく、作者自身が生死に向き合い、読者の人生に寄り添うような作品を作ってほしいものである。★★★☆☆【中古】 死の位相学 / 吉本 隆明 / 潮出版社 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2017.01.18
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レコード会社の部長が美人タレントに惚れられたり派閥争いしたりする話。●あらすじレコード会社の部長の井沢信介は妻の冬子が敗戦後の収容所でレイプされたり息子を亡くしたりしたことがトラウマになってセックスレスで夫婦仲に溝があった。井沢が乗った社用車が金沢から上京してきた保育士の沢木亜由美をひき逃げしたので井沢が謝りに行くと、亜由美の姉は人気タレントの直子だった。井沢は亜由美が書いた詩に興味を持って若手編曲者の山村鋭二に曲を作らせるものの二人は反発し合う。直子はテレビ業界でいつも孤独を感じていて恋人の谷慎一郎を振って陰のある井沢に惚れてホテルに誘うものの慎一郎に粘着され、慎一郎は冬子に会って直子の密会が週刊誌にスクープされたと言って復讐をもちかけて冬子を襲うものの発作を起こして倒れ、冬子は親を亡くしている慎一郎に同情する。直子はADの早川に結婚を申し込まれるものの断り、クリスマス・イヴに亜由美は上京してレコーディングを見学して山村と夜遊びし、直子は井沢とホテルに泊まり、慎一郎は冬子に会う。亜由美は姉のような自由な女になるためにナンパについていって処女を捨てて帰ると、直子は酒と睡眠薬を一緒に飲んで入院して自殺未遂の騒ぎになっていた。亜由美は井沢を好きだったものの、井沢が亜由美を仕事相手としてしか見ていないので、山村を愛しているという。退院した直子はテレビ番組をはずされてパリに行ってぶらぶらして、井沢は亜由美を売り出す方針を主張して社長と対立してモスクワのコンクールを見に行く。慎一郎は亜由美に直子についての週刊誌のゴシップ記事を発表前に抑えて知らせると、山村はその記事がレコード会社の派閥争いで井沢が不在の間に追放するためのでっちあげだと推測して記事を書いた記者に会いに行くと、記者の野島五郎は大島常務の義弟で、記事は大島派の陰謀だった。直子はモスクワの井沢に会いに行き、冬子はハルピンの難民収容所で仲良くなった武田文江と20年ぶりに再会し、彼女の店に飲みに行って常務派が井沢をはめるために作詞を盗作扱いにする小細工の相談をしているのに聞き耳を立てる。亜由美と山村の曲はコンクールで入賞して、山村は亜由美に結婚を申し込む。直子はパリに戻って仕事を紹介してくれた春山にプロポーズされて考える。井沢は冬子から常務の陰謀を聞き、井沢は派閥争いに疲れて会社を辞め、井沢と亜由美と冬子がそれぞれの恋愛を話し合い、亜由美は山村の求婚を受ける。●感想1960年代の東京が舞台で、直子が自分をハイミスと呼んだり、民謡のレコードを作っていたり、電話の交換手がいるあたりに時代を感じるものの、内容は普通の恋愛小説として現代でも読める。三人称で視点が変わりながら物語が展開していくので話が停滞せずにさくさく読めて、600ページほどある長編小説の割にはとっつきやすい。男性視点と女性視点の両方の恋愛が展開するので、読者の性別を選ばないのはよい。プロットとしては井沢と直子、亜由美と山村のそれぞれの恋愛がどういう結末になるのかというのが見所だけれど、後半に直子がパリに行ってしまうといきなりレコード会社の派閥争いの話になって直子の恋愛を放り投げているし、慎一郎はプロット進行の手伝いを終えたら物語から忘れ去られているし、恋愛小説から経済小説的に物語の主軸が変わってしまうのは構成がよくない。ひき逃げから出会いにつなげるあたりはやり方が強引で、社用車の運転手の田島がその後の物語に登場するわけでもなく、プロットのために脇役を使い捨てにするやり方は登場人物のリアリティをなくすのでよくない。運転手の田島、常務の大島、大島の義弟の野島といった似た名前が多いのもよくない。慎一郎が井沢と直子の密会を全部把握していたり、発表前の週刊誌の記事を押さえていたりして、プロット進行のための謎の探偵能力を持っているというご都合主義はよくない。冬子が偶然20年ぶりに会った武田文江の店で偶然常務派の会話を聞くという偶然の連続で無理やりプロットと絡めるのもご都合主義でよくない。冒頭のご都合主義はまだ我慢できても、終盤にご都合主義が炸裂するとそれまで積み上げてきた人物描写のリアリティが一気になくなってしまって物語が台無しになる。終盤に偶然の連続で強引に物語を畳もうとするのはそもそもプロットがよく練られていないせいなので、長編小説の終盤でのご都合主義はそれまで長い時間をかけて物語を読んできた読者への裏切りともいえる。敗戦後の満州でのトラウマだとか、孤独だとか、シリアスなテーマを盛り込もうとしている割にはプロットを優先したご都合主義展開のせいでリアリティがなくなっているので、プロットを優先したいのか孤独な心理をほりさげたいのか、やっていることがちぐはぐな感じ。若い女がいきなり訳ありのおっさんに惚れるというのも男性作家が書く恋愛小説によくあるパターンで、男が都合よく美女に惚れられるというのはご都合主義。直子や亜由美が井沢をただ好きになったというのでは説得力がなく、なぜ他の男ではなく井沢に惚れたのかという点がプロットの根底の部分なので、この恋愛の動機がご都合主義になってしまうと物語全体がうそくさくなる。直子や慎一郎がすぐに死ぬと言い出す豆腐メンタルだったり、亜由美がろくに付き合ってもない山村を愛していると言い出したりするあたりはいかにも作り物めいたドラマチック展開で、物語が面白くなるどころかかえって興ざめしてしまう。というわけでプロットのご都合主義が目立って、恋愛小説としてはあまり面白くない。70代以上の年配の読者が若いころを思い出しながら読むとぼけ防止になってよいかもしれない。★★★☆☆【中古】 恋歌 講談社文庫/五木寛之(著者) 【中古】afb
2017.01.09
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精神を病んだフランチェスコ・ペトラルカは彼を救うために現れた真理そのものである女神がつれてきた教父アウグスティヌスと会話して、幸不幸や死などの人間のみじめさ、高慢、妬み、情欲などの魂の病気、愛と名誉欲についての会話を反芻するために本にして「わが秘密」と名づけた話。●要約第一巻 人間のみじめさと救いフランチェスコ:幸福を求めながらも意に反してみじめになる。死について省察しても苦悩や恐怖しかない。後で後悔するけど現在を楽しむ人も、現在と未来に楽しみがない人も、どちらも死ぬのなら前者のほうが幸福ではないか?アウグスティヌス:現世で心の平静をたもつにはいつも自己のみじめさを思って死について省察するとよい。意に反してみじめになることはなく、様々な願望を根絶した後に最高の幸福への熱望が残る。理性を捨てた人は理性がある人よりも転落したときに傷つく。第二巻 魂の病気フランチェスコ:老後の対策のために金儲けをするのはだめか?欠乏を感じない程度でよい。欝で全部いやになり、いつも将来が心配で、他人のために生きるのはみじめなので、せめて老後を楽に生きたい。アウグスティヌス:君は短期間の老後を心配して死を忘れている。皇帝でさえ欠乏を感じるし、自分自身のために生きている人は少なく、幸福に見える人も他人のために生きて苦労している。不可能なことを望むのはやめて自分の運命と和解しろ。第三巻 愛と名誉欲フランチェスコ:卑猥な女を愛するのと美女の魂の美徳を敬愛するのは違う。人間的な名誉がほしい。アウグスティヌス:君は愛と名誉に縛られているせいで生と死について思索できずに破滅する。滅びるものに魂を従属させて、女に誘惑されて現在の自分以上になる可能性を捨てて、他人の噂である名誉に幸福の頂点を置くのは愚か。情念を再燃させないように場所を代えて、過去を思い出すのをやめて、仕事に打ち込め。名誉に値しない名誉のために本を書くことは二の次にして死の省察をしろ。●感想死や徳についての哲学の話だけれど、対話形式でアウグスティヌスから真理を聞くという形になっているので哲学書の割には比較的読みやすい。アウグスティヌスのツッコミ具合が容赦なく、ペトラルカを全否定して駄目出ししていくのでほのかにユーモラスで面白い。ペトラルカは生計のために聖職につきながらも、人妻に恋して愛人に私生児を生ませて詩で名声を求めたという堕落っぷりで、自己批判と救済のためにこの本を書いて、公表するつもりはなかったようである。この本でアウグスティヌスが全体的に強調しているのは死についての省察で、要するにいつ死ぬかわからないということを忘れずに、無駄なことに時間を使わないでやるべきことをやれと促しているわけである。ペトラルカ自身にとってはこの本が救いになったのだろうけれど、神が死んだ時代に生きている現代人にとっては救いにはならないかもしれない。人間は自分が死すべきものだと忘れているという点では、病気や戦争で早死にしていた中世人よりも、医療が進歩して食料が捨てるほどあって長寿化した現代人のほうが一層当てはまるだろう。日本人は長寿化して65歳の定年を過ぎても平均寿命の80歳くらいまでの生活のめどを立てないといけなくなり、さらには年金があてにならないせいで大勢の人が孤独死を恐れて老後の資金を稼ぐためにやっきになり、大金を持ったら持ったで詐欺に狙われたり遺産相続争いが起きたりして気苦労が多くなる。ペトラルカが生きた中世と同様の問題を現代人も抱えているにもかかわらず、資本主義の中で社会的に成功しなければ人生に価値はないと刷り込まれて育ち、目先の勉強や仕事に忙殺されて大局をじっくり考える時間がなく、忙しく日々をすごして人生が充実していくほど死についての省察から遠ざかっていくという逆説的な状況に陥っている。死について省察する時間がないということが日本の自殺率の高さにつながっているんじゃないかと私は思う。マズローの欲求段階における生理的欲求や安全欲求などの低次元の欲求はたいていの日本人ならば満たしているはずで、貧乏な私でさえ飢え死にするほどの危機はいまのところ感じない。となると承認や自己実現欲求の問題である。就職活動に失敗したから自殺するとか、好きな人にふられたから自殺するとか、投資で損したから自殺するとか、会社を辞めて肩書きがなくなったら誰も相手をしてくれなくなったので自殺するとか、そういう自殺をする人は死についての省察とみじめさの耐性が足りないのかもしれない。金も愛も名誉もないみじめな状況で死ぬまで何十年も生きるくらいなら手っ取り早く死を選ぶわけである。しかしそもそもひとりの人間が所有できるのは自分の肉体と精神のみで、それ以外のものは法律上の所有権があろうが自分ではない存在にすぎない。愛とか名誉とか自分の思い通りにならないものを人生の目標にしたところで、無駄に心が乱されることになるだろう。しかしアウグスティヌスがいう滅びるべきものに魂を従属させるのが愚かしいという点では、愚かしいには違いないけれども万物は滅びるし死後の世界も輪廻転生もないのだから、何に魂を従属させたところで結局は愚かしいということになる。五億年後には太陽が爆発して地球も人類も滅びて、宇宙もエントロピーが増大してなんやかんやで滅びるわけで、現代人が直接人類の終わりを目の当たりにすることはないだろうけれど、個人の死のずっと先には種族としての死が待っている。人間は動物としての生存本能や種の保存の本能は残っていても、理性は人類が滅びることを知ってしまっているし、子孫を残したところで絶滅までの期間がちょっと延びるにすぎない。死に行く世界に死に行く存在として生まれて、神も救いもなく死ぬために生きなければならないという理不尽さに理性がどう決着をつけるのかというのが実存主義のテーマだけれど、これに万人が納得するような答えはないので、自分が納得できるような答えを自分で見つけるしかない。愚かさを受け入れた上で金儲けやら名誉やら愛やらに束の間の幸せを見出して満足して死ぬか、スポーツで自分の限界に挑んで満足して死ぬか、真理探しの学問や芸術をやって満足して死ぬか、旅行や登山をして世界を見て満足して死ぬか、神や宇宙人やらの人知を超えた存在になんとかしてくれと祈って満足して死ぬか、なんであれ自分は死ぬべき存在であるという運命と折り合いをつけなければならない。欠乏を感じないことが不可能であれば、足りないものは想像力で補えばよいではないか。というわけで芸術の出番である。なんで現代の日本の小説や映画やアニメはつまらないかというと、マーケティング優先で売れる要素を詰め込んで作られていて、人間の死やみじめさに向き合っていないから琴線に触れないのだ。フィクションのキャラクターたちは人生のみじめさに苦悶することもなく、老いて死ぬこともなく、萌え美少女やらかわいいモンスターやらと一緒に日常を謳歌していて、読者や視聴者にみじめな人生を生きる勇気を与えるというよりも現実逃避するための道具になっている。これでは現実の死に向き合うためには役に立たない。一方でヒット作品となったエヴァンゲリオンやまどかマギカやカイジは主人公が死に向き合って苦悶している。死やみじめさへの対処は人間にとって普遍性があるテーマであるだけに、みじめな人々に生きる勇気をもたらすのだ。みじめな愚か者のてんてこ舞いも傍から見ると面白いもので、それゆえに愛憎を描いたラブロマンスやミステリでさえ娯楽になりうる。他人の愚かさを笑えるなら、自分の愚かでみじめなな人生も楽しく生きて、みじめさや死と折り合いをつけることができるようになるんじゃなかろうか。あるいは我々が数十年の短い生涯の中で死との折り合いのつけ方に答えを出せなくても、今後の人類が数千年間考え続ければ、何かしら人類の終着点のような答えがあるのかもしれない。あるいは数十万年後には犬やカラスが進化して人間以外の知的動物が現れて、人間とは違う答えを出すかもしれない。あるいは将来クローン技術やら記憶のコピー技術が開発されて不老不死になって、死について考えること自体がなくなる時代がくるのかもしれない。あるいは痴呆症になって理性の機能を停止して何も考えないまま死ぬのが死についての直接的な答えをさけたまま死を感受するというのがうまいやり方なのかもしれない。あるいは人類が理性を捨ててサルに退化して何も考えずにウホウホ言いながら本能のままに生きて、みじめさを自覚しないまま死ぬようになるのかもしれない。★★★☆☆わが秘密 [ フランチェスコ・ペトラルカ ]
2017.01.04
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