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柳本光晴の『響 ~小説家になる方法~』という漫画が巷で話題らしくて、漫画が文学をどう扱って、絵で小説をどう表現するのか気になったので読んでみた。ストーリーは文芸部の天才女子高校生小説家が暴力を振るいながら芥川賞と直木賞をとってついでにラノベの賞もとって汚い大人をばったばったなぎ倒すという話である。ラノベによくあるような主人公が何の苦労もなく勝負に勝って周囲に認められるチート系の展開で、リアリティがないので私はつまらなかった。響という主人公に人間味がないのが一番つまらない。デジタルネイティブ世代なのに手書き原稿で、不景気なのに印税に興味なくて、思春期なのににきびや便秘や受験勉強にも悩まないような無機質な女子高生に興味を持てないし、響を世話するストーカーの男子もきもい。実は響は人間でなくてガイノイドの試験機でAIが小説を書いていて、ストーカー男子は響のデータを解析している科学者だったというほうがまだ納得できる。ちなみに小説家になる方法としては天才と親のコネしか書かれていなかったので、小説家を目指す人の参考にはならなそう。●文化系天才ストーリーの欠点・天才の作品を提示できない天才の物語は華があるので、あらゆる物語の主人公は天才だったりする。友情・努力・勝利を標榜する少年ジャンプの漫画にしても、努力というより特殊能力持ちの天才が主人公である。スポーツや戦闘の体育会系の天才だと天才主人公とライバルが切磋琢磨して必殺技を繰り出す様子が描けるので話が盛り上がる。『テニスの王子様』の波動球のようなリアリティのない必殺技でも具体的に描くことができれば話が盛り上がる。しかし文化系の天才の場合、一人で創作する芸術ではライバルがいないのですごさの比較ができないし、周りが天才だと騒いで天才アピールするものの、作中で天才の作品がどういうものなのかが示されない。これは『響 ~小説家になる方法~』だけでなくて、土田世紀の『同じ月を見ている』は天才画家の話、かっぴーの『左ききのエレン』も天才画家の話だけれど、天才の創作物を直接読者に見せようとしない。結局は作者の才能を登場人物が超えることはできないし、具体的なものを見せてしまったらこの程度なら天才というほどでもないとばれるので、見せることができない。なので物語の展開としては凡人とは違う変な振る舞いをしたり、周りが天才だと騒いで間接的に天才像を演出するしかなくて、体育会系の天才と違って展開が婉曲でわかりにくくになる。『響 ~小説家になる方法~』の場合は主人公の才能を持ち上げすぎて切磋琢磨するライバルがいないので文芸部という環境を活かせておらず、チート能力がある問題児が悪い大人を懲らしめる話になっていて、これは小説ネタでやらなくてもいいんじゃないかというような展開になっている。・子供は天才小説家にはなれない主人公の子供が天才というパターンでは一層リアリティがなくなる。スポーツやゲームは若者が才能を発揮できる分野なので、子供が天才の物語でも読者は受け入れやすい。たとえば『ヒカルの碁』は囲碁の天才とライバルの勝負を書いているけれど、囲碁は子供でも大人と対等の才能が発揮できる分野だし、おまけに天才棋士の幽霊の指導もあって、子供が天才であるということにもっともらしさがある。音楽や絵画だとサヴァン症候群的な天才はいるけれど、小説は感性や想像力よりも知識や人生経験が重要で白痴では小説はかけないので、若い天才小説家はいない。早熟な小説家はいても、傑作はたいてい晩年の作品である。小説の場合は老若男女の様々な人間の心理を知らないと他人の物語を書けないし、創作技術への理解や思想がないと芸術にはならないので、子供のころに小説をたくさん読んで難しい言い回しを覚えれば小説を書けるようになるというものでもなく、絵画や音楽よりも修行に時間がかかる。年上や年下の人間や異性を観察して心理を理解して、文学理論を理解して創作技法を身につけて、政治・経済・哲学・宗教を理解して独自の思想を持つのはどれだけIQが高かろうが未成年には無理である。人生経験がない若者が無理に天才ぶろうとすると、平野啓一郎のような形式頼みで中身がない小説を書くようになる。響が短絡的に暴力をふるって包容力がない様子は精神的に未熟で、いくら才能と強調したところで説得力がない。それにスポーツなら記録や得点や勝敗が絶対的な価値だけれど、芸術の価値観は一枚岩ではなく、響のように選考委員の評価が割れずにすんなり高評価されるような作品は既存の価値観をなぞっているものなので、芸術に新しい価値をもたらす天才というよりは既存の型を覚えるのが早い早熟の秀才タイプで、読んだ作家が筆を折るほどの天才扱いされるのに違和感がある。・時代を反映していないフィクションの天才の物語がつまらなくなるのは、天才本人に焦点を当てて同時代を書いていないのも原因だろう。芸術は時代とワンセットになっている。たとえば飢饉や伝染病が起きている時代には人民救済のための宗教画や仏像が作られたし、戦争が起きている中世には騎士道物語やドルバドールが産まれたし、第一次世界大戦があったから失われた世代の作家の小説が享楽的な特色を持ったし、第二次世界大戦後の大量生産の時代だからこそウォーホルの芸術が成り立った。しかし現代を舞台にしたフィクションだと読者が同時代を知っているという暗黙の了解で同時代を書こうとせず、天才だから作品がすごいと天才性をごり押しするのでよけいに背景情報のなさと天才の持ち上げぶりのアンバランスが際立つ。それに現代社会では世界中にものと情報が行き渡って価値が均質化して、たいていの芸術のアイデアはやりつくされて芸術の構成要素の色や形や音や言葉は還元されて、芸術のトレンドがなくなっている。現代の純文学にもトレンドがなくて個々の作家が好き勝手に書いている。それゆえに響が純文学というざっくりとしたくくりで天才扱いされてもどこが天才なのか、他の作家や作品とはどこが違うのか不明でぼんやりしていて、学校以外の社会を知らない未成年の響が何の苦労もせずに小説を書いたというのも才能の証明というよりはむしろ逆に思想の浅さにつながる。時代と向き合うこと、あるいはその時代を生きている自分自身に向き合うことなしでは、必死に生きている他人を感動させるような芸術作品は創作できない。響が現代社会の諸問題と向き合うことと作品の内容をセットで書かないと、響の天才性に説得力がない。●実在の人物のほうがリアリティのない天才より面白いいくら天才や英雄の物語がフィクションの王道だといっても、結局はフィクションでリアリティのない天才をでっちあげるより、古今東西の実在の人物の伝記のほうが面白いんじゃないかと思う。現代人よりも昔の人のほうが身分差がある中で病気や戦争や革命に直面して波乱万丈な人生を生きたわけで、丁寧に伝記を書けばそれだけで面白くなる。歴史上の人物を書いた物語はたいてい人気で、漫画だと『キングダム』(李信)、『ヒストリエ』(エウメネス)、『ヴィンランド・サガ』(ソルフィン・カルルセフニ・ソルザルソン)、『イノサン』(シャルル=アンリ・サンソン)などがあるし、小説だと司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が坂本竜馬人気の元になっている。実在の人物だと話の展開が決まっていて作家性が薄れるかというとそうでもなく、脚色の仕方に作家の特徴がでる。『イノサン』は処刑人の血なまぐさい話でありながら絵がきれいでマリーにケレン味があってよい。芸術家の人生も波乱万丈で、印象派のような新しい時代を作ってきた芸術家たちは同時代の権威ある芸術家には理解されない不遇の貧乏時代があったり、逆に権威に認められた芸術家が時代が変わるとありきたりなものとしてまったく評価されなくなったりして評価の浮き沈みが激しいがゆえに面白いし、大正昭和の作家はインテリと貧乏人とごろつきが混在していて太宰治が芥川賞をほしがったり、坂口安吾が薬中になったり、三島由紀夫が自殺したりする実生活のスキャンダルも面白い。現実世界を舞台にしておきながら現実に劣る程度のリアリティや想像力ではフィクションとしての存在意義がないし、フィクションは伝記と違って教養にもならない。暇つぶしの娯楽なら無料のゲームがたくさんあるので、教養にもならない小説や漫画を買う理由がなくなる。出版統計を見ると、ムックや文庫の刊行点数は94年の二倍くらいになっているのに販売額は94年以下に落ちている。その膨大な作品は本当に出版する価値があるのか、読者が本棚に置いて何度も読み返す価値があるのか疑問である。漫画家は数が増えすぎてアシスタント不足になっているようだけれど、作家や出版社は粗製乱造を反省して個々の作品の価値をあげるように努めるべきだろう。●天才はチートではないライトノベルだと凡人が異世界に転生して特殊なチートスキルで成り上がる話が人気があるけれど、これはリアリティのないファンタジー世界だからまだ許容されている。一方で響は現実世界で天才が一切の批判を受け付けずに周囲を屈服させるチート能力を発揮したわけで、いくら漫画とはいえリアリティがなくなる。生来の才能を礼賛する物語は地道な努力を否定するので、生まれつきの能力を絶対的なものとしてチートスキルのように扱うのは現実世界を生きるうえでは危険な考え方である。芸術は師弟関係で技術が受け継がれてアイデアを付け足して洗練してきたわけで、天才だから誰から教えられなくてもすごい能力を発揮して他の才能を蹴散らすというのは芸術家が積み重ねてきた努力の否定、多様な才能の否定である。週刊少年ジャンプだと『アクタージュ act-age』という天才的な演技力を持つ女子高校生の話が連載開始されたけれど、やたらと未成年の天才がでてくるのはよくない流れだと思う。天才だからうまくいくという展開にするとプロットが作りやすい。これは登場人物が金持ちだったり美男美女だったりラッキースケベ能力があったりするのと同様で、天才は一種のご都合主義のキャラクター属性である。ライトノベルがいくら売れようがしょせんライトノベルとして馬鹿にされるのは異世界転生のチートスキルがなんでもありのご都合主義だからだけれど、ご都合主義で辻褄あわせをしているとプロット作りの能力向上は望めなくなるので、クリエイターは安易に現実世界に天才を出現させるのはやめたほうがよい。ファンタジー世界でなく現実世界の業界をネタにするなら現実世界の障壁も用意しないと、天才がやりたい放題やるだけの話になってしまう。現実世界の障壁を用意している例だと、『Capeta』は天才的なレーシング能力がある少年が主人公だけれど資金難という逆境があるのでマシン性能のハンデがあるなかで戦う主人公の活躍が見せ場になるし、『Giant Killing』だと怪我で引退した天才サッカー選手が監督として弱小チームを立て直そうとして選手やサポーターの反発に試合で答えていくという話で、天才だから何でもうまくいくというご都合主義の展開ではないのでそのぶん波乱万丈になって物語が盛り上がる。天才がカリスマ性を持つのは努力して苦労して逆境を乗り越えて才能を発揮して成功したからで、響のように天才だから何をやっても成功するという展開では凡人である読者は憧れも共感も持てない。才能をライトノベルのチート能力のようなものとして安直に描いてしまうのではご都合主義の二流のプロットといわざるをえない。●漫画の表現としての価値はあるのか私は『響 ~小説家になる方法~』が漫画で小説をどう表現したかが気になったので読んだもののその点では期待はずれで、出版する価値のない漫画とまでは言わないけれど、小説をネタにするならもっと面白い作品にしてほしい。筒井康隆の『大いなる助走』とか『文学部唯野教授』とかの文壇パロディネタがよくできているだけに、『響 ~小説家になる方法~』の小説ネタは書くことがなくなった作家とか賞レースに落ちて自殺しようとする作家とかぶさいくで顔出ししない作家とかステレオタイプな作家像で工夫が乏しく見える。響の小説の世界観を漫画風に絵で演出するわけでもないし、響の小説を読んだ人が料理漫画みたいなリアクション芸をするわけでもないし、背中を蹴りたくなるとか蛇にピアスをするとかのパロディがあるわけでもないし、漫画ならではの小説ネタの面白さが出せないなら『響 ~小説家になる方法~』は漫画で表現する意味が乏しい。リアリズムなら漫画ならではの大げさな演出をしないのもわかるけれど、絵柄もキャラクターもリアルでないので話の内容と演出手法がうまくかみあってない。池上遼一は『浦沢直樹の漫勉』でリアルな絵で荒唐無稽なことをやると言って人物造詣に拘っていたけれど、リアルでない絵で荒唐無稽なことをやったらそれは単なる荒唐無稽である。響の物理的暴力性に比べて、実在の作家を批判しないのでは釣り合いがとれない。Amazonのレビューだと響の暴力性が嫌という感想が多かったけれど、私にとってはぬるく感じる。小説家からクレームが来るぐらいに実在の小説家をこき下ろしてやればいいのに、それをやらなずに響が架空の作家や架空の不良と喧嘩したところで見所がない。作家が社会に喧嘩を売らない作品は欺瞞で、いくら暴力シーンを書こうが見せかけだけのファッション暴力である。そんな愛のない暴力では魂がエレクチオンしないッ。『響 ~小説家になる方法~』は映画化されるようだけれど、響に蹴られる小説家役に俳優を使わずに小説家を起用するくらいの文学界への挑発をやってほしいもんである。響〜小説家になる方法〜(1)【電子書籍】[ 柳本光晴 ]
2018.01.22
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ツルゲーネフ『片恋・ファウスト』恋愛小説の短編集。「片恋」はNが20年前に25歳だったときの話を語り、失恋して旅していたら金持ちで画家志望のロシア人のガーギンとおてんばな妹のアーシャと知り合って、Nはアーシャは妹ではないと気づいてガーギンに話を聞くと孤児を引き取って育てていたのでNは興味を持って、アーシャがNを好きになって密会場所に呼び出されるもののNは結婚するつもりはなかったのでガーギンと打ち合わせして適当に返事をしたらアーシャは傷ついて旅立ってしまう話。一人称の独白形式。「そのとき私は二十五でした、──とN・N・が話し始めた。」という冒頭で始まるものの、Nが誰に対して話しているのか、なんでいきなり20年前の話をしたのか不明で、語りの形式としては不完全。恋愛=結婚という時代の話のせいか友人という選択肢がなくて、告白失敗でいきなり絶縁というのは恋愛小説を読みなれた現代人にとっては唐突なオチで物足りない。そこからの駆け引きが恋愛小説の醍醐味だろうに、アーシャが初恋にのぼせ上がってから失恋するまでを書いた小ぶりな話になってしまった。「ファウスト」は故郷の村に戻ったBが昔好きだった幼馴染のヴェーラと再会して、ヴェーラは小説嫌いの母親の命令で小説を読んだことがなかったのでBがゲーテのファウストを朗読したらヴェーラは自分の恋愛感情に気づいてBが好きだと告白するものの、母親の亡霊を見て病気になって死んだのでBは後悔してるということをVに手紙を書いた話。Bの一人称の書簡体小説だけれど、Vからの返事がなくてBの手紙のみの形式。自由を制限されて育った純粋な女に自由な小説の世界を教えようとして失敗したというテーマはよいものの、母親の亡霊をみて死亡というよくわからないオチはなんとかならなかったのかと思う。「ファウスト」のあらすじを知っていないと理解できないような内容で、他の作品に内容の重要な部分を依存しているのはよくない。さて「ファウスト」のヴェーラの母親は「あなた、文学の本を読むのは、有益でもあれば、愉快でもある、とおっしゃるんですね……ところが、わたしはこう思いますの──この世のことは、有益な方か、愉快な方か、どちらか一つ前もって選ばなくちゃなりません。それから、永久にきっぱり決めてしまうのです。わたしも以前、その両方を結び合わせようとしたことがありますけれど……それは不可能です。そして滅亡でなければ、俗悪に陥るばかりです。」(p110)という意見で、娘に小説を読ませないようにして育てて娘を守っていたけれど、はたして小説は滅亡か俗悪につながるのか。エンタメは人間にとって役に立つのかについては前も考えたけれど、もうちょっとコンテンツの有害性と規制について考えることにする。日本で未成年が殺人事件が起こすとしばしば○○から影響を受けたと小説や漫画やゲームが槍玉にあがって、一時期はゲーム脳が云々と科学的根拠がないことを言い出してレッテル張りされた。しかしそもそも人間社会自体が多かれ少なかれ何かしら有害で、独裁だの汚職だの格差だの差別だのいじめだのドラッグだの殺人だの戦争だのなんやかんやの問題があるのだから、フィクションというジャンルが有害というよりは現実を模したものは何でも有害になりうる。それを丸ごと排除するよりも現実の有害性を疑似体験して免疫をつけるワクチンのようなものとして扱えば、有益と愉快が両立しうると私は思っている。逆説的だけれど、毒にも薬にもならない無害なものよりも愉快な毒のほうが使い道があるぶん役にたつ。もし社会の有害さを知らずにぬくぬく育った子供がそのまま社会にでるとかえってひどいことになりかねないので、どんな知識も知らないよりは知っていたほうがよいし、社会の暗部を知った上で知識の使い方を間違えないように理性を働かせればよい。理性を働かせてくだらないと思ったフィクションはそのうち読まなくなるし、知識が増えるにつれて間違っているものがなぜ間違いなのかを理解できるようになる。規制派は子供には理性がないから規制しようとするけれど、規制よりも理性を働かせる訓練をするほうが重要だろう。有益と愉快が両立しないものとして批判されるのは、子供がフィクションを娯楽として夢中になって消費して学校の勉強をおろそかにする一方で、フィクションにはっきりとした教養の効果が見られないのが原因だろう。間違いがなぜ間違いなのかを考えたり、くだらなくて役に立たないもののくだらなさに気づいて価値観を形成するのも勉強の一種だと私は思っているけれど、学校の勉強は正解があるテストを解くことに特化しているので、間違ったことや役に立たないことについて考えても評価しないし、受験勉強以外の勉強を時間の無駄として切り捨ててしまう。しかし正しいとされていることだけをひたすら追求するのも一種の危険思想で、聖書やコーランでさえ殺人や戦争を正当化する理由になりうる。経典がある宗教でさえ解釈をめぐって対立して分裂するのだから、どうにでも解釈できて正しさがないフィクションはなおさら危険なものになりうる。空想が社会的規律を逸脱して危険であるがゆえに支配者や権力者は空想を禁止したがる。しかし自由な空想が許された社会と、空想が禁止された社会のどちらが発展しているかというと、当然自由な空想が許された社会である。有益な空想は認めるけど有害な空想は認めないというのは自由な空想を認めないのと同じで、有益さや有害さの基準を誰かが恣意的に決めるとその線引きが社会の停滞へとつながる。中世ヨーロッパは宗教で有害さを線引きして宗教への批判を禁じたせいでアレクサンドリア図書館が焼かれて学問を失って古代ローマや古代ギリシアに数段劣る暗黒時代を千年間抜け出せなくなったし、イスラム教は宗教上の制約が多すぎていくらアラブ諸国が石油で儲かったところで女性が能力を十分に発揮できないので先進国になれないでいる。日本のポルノ規制も少子化の原因なんじゃないかと私は思う。最近はsho-comiという少女漫画誌の付録が有害図書扱いされたり、ラブコメ漫画『ゆらぎ荘の幽奈さん』の水着シーンが抗議されたり、ミニストップでポルノ雑誌の取り扱いが中止されたりしているけれど、フィクションで性欲を刺激することはそんなに悪いことなのか。巷では純愛を賛美しているけれど、恋愛の先の子作りの方法を書いたら有害として目くじら立てて規制するのはおかしい。軍事国家スパルタだと子供のころから裸の男女が一緒に運動していたけれど、スパルタは性欲を有害だとはみなさずに富国強兵のために性欲を刺激して子作りを推進していたわけである。ウサーマ・ビン=ラディンの隠れ家にあったデータからポルノが見つかったけれど、いくら宗教できれいごとを言ったところで性欲のない人間はいないし、イスラム教がポルノを禁止しようがイスラム教徒は異教徒相手には容赦なく暴行事件を起こしている。キリスト教は性欲を否定するせいか神父がホモショタになってこっそり児童虐待する事件が多発している。本能を無理やり否定すると別のところに影響が出るので、それなら素直に性欲を認めたほうがよい。子供が思春期になれば恋愛感情を持つし、恋愛した先には子作りがあるわけで、性知識もないよりはあったほうがよい。女子は精神的な成長は早いものの性欲のピークは30歳ころで遅いけれど、男子のほうは精神的な成長が遅いのに性欲のピークが高校生の頃で早いので、男子は思春期に急いで性欲をコントロールする方法を身につける必要がある。学校で避妊具のつけ方を指導しているところもあるようだけれど、保健体育の授業だと間違った自慰の方法で病気や障害になることは教えないので教育としては不十分である。それに子供を監視して性欲から遠ざけたところで大学に進学にして親の監視がなくなってからヤリサーでやりやりするので、単純にセックスを禁止したりポルノを禁止したりするだけでは問題を先送りするだけで教育になっていない。ポルノが子供に有害だと言っている人たちは代わりに子供に性知識を教える手段を用意するところまでの責任を持たないし、何でも禁止すればきれいな世界が到来すると考えるのは教育の放棄である。昔は性病が蔓延していたし、処女でないと結婚できなかったし、男性社会で女性は自由恋愛できなかったし、不義の子を判別できなかったので、小説で恋愛感情や性欲や不倫を促すことを悪いこととみなして『ボヴァリー夫人』を裁判沙汰にしたり『チャタレイ夫人の恋人』を発行禁止にしたりすることにも正当性があったかもしれないものの、医療と科学が進歩した現代社会では避妊と性病予防ができていれば健康上の問題はないしDNA鑑定で不倫を判定できるので、色欲を禁止する理由が昔に比べて少なくなっている。少子化が進行中の日本ではむしろ性欲を刺激するべきだろう。性欲は本能の問題、恋愛は本能と理性の問題、結婚は理性と社会制度の問題で、異なる問題を段階的にクリアしないと子供は産まれない。不安遺伝子を持っている日本人はリスクに消極的で結婚に慎重になりやすくて学歴や年収や家柄の担保がないと結婚しようとしないのに、そのうえ性欲まで抑制したら少子化になって当然である。パンダの繁殖に一喜一憂していないで、将来絶滅危惧民族になりかねない日本人の繁殖にも取り組むほうがよい。日本人が少子化とポルノにどう向き合うか、ポルノを有害なものとして規制するか否かによって、恋愛小説やラブコメは今後のフィクションの中心的ジャンルになる可能性がある。筒井康隆や村上春樹なんかは文学を隠れ蓑にしてエロスをうまく取り入れているけれど、面白いプロットにエロスが加わったらたいてい人気になる。性欲、食欲、睡眠欲のうちで、フィクションでは食欲と睡眠欲は満たせないものの、性欲だけは満たすことができるので、食事と睡眠が生活に必須なように、恋愛小説もラブコメもポルノも生活必需品という扱いになれば出版業界も衰退を食い止められるんじゃなかろうか。★★★☆☆片恋・ファウスト(新潮文庫)【電子書籍】[ ツルゲーネフ ]「本文にわいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています。」と表示されて記事が投稿できなかったので、この場で楽天の言葉狩りに抗議しておく。しかも楽天の場合はどの表現が問題なのか公表していないので、問題の単語を特定するために文章を分けて投稿しなくてはならなくてものすごく面倒くさい。「セックス」はよくて「せい行為」はだめなようだけれど、この単語のどこがわいせつで公序良俗に反すると判断したのか意味がわからない。わいせつは社会通念に照らして性的に逸脱した状態のことだけれど、せい行為が性的に逸脱しているなら子供がいる人間は全員性的に逸脱しているということになる。なんじゃそら。そもそも文脈を無視して言葉狩りすることを判断とはいわない。これだから楽天は三流IT企業なんだ。
2018.01.20
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Logan PaulというYouTuberが日本で迷惑行為をやったり樹海で自殺した遺体を笑いものにしたりして世界中からバッシングされている。こういう迷惑行為は今に始まったことでもなく、YouTuberだけの問題でもない。フランスはレミ・ガイヤールという愉快犯が有名だし、日本ではコンビニのアイスケースに入ったり、飲食店の台所で体を洗うバイトテロがあったり、おでんをつんつんしたり、ドローンを飛ばして善光寺の法要を邪魔したり、迷惑行為だらけである。この人たちは注目をあつめて自己顕示欲や社会的承認欲求を満たすために迷惑行為の証拠をわざわざ写真や動画で残して公開している。さて我々はこうしたコンテンツをどう受け取ればよいのか。迷惑行為をする側の視点で面白がるべきか、迷惑行為をされた側の視点で批判するべきか、面白ければ何をやってもよいのか、ということについて考えることにする。・迷惑行為は面白いのか誰かが既にやったことをやっても既視感があって面白くない。そこで誰もやらないことをやると、新しくて面白い感じがする。しかし素人ではプロのクリエイターのようなアイデアや技術はない。ということで誰もばかばかしくてやろうとしないいたずらや迷惑行為をあえてやるわけである。自分が普段とは違う行動をして、相手が普段とは違う反応をするというのはコメディになりうる。では迷惑行為の動画は面白いかというと、面白くない。バラエティ番組でダチョウ倶楽部や出川の大げさなおでん芸を見たことがある人なら、おでんをつっつく一般人の動画なんてちっとも面白くない。ロンドンハーツで数週間かけてハニートラップを仕掛けたり偽コンサートを開催したりする大掛かりなドッキリを見たことがある人なら、通りすがりの人にポケモンボールをぶつけるいたずら動画はちっとも面白くない。コメディはボケとツッコミと客の反応が計算されていて、笑いどころがはっきりしているからこそどっと笑い声が湧き上がる。一方で迷惑行為をする人は自分が何かをやったという自己満足で終わっていて、相手が自分をどう思ってどう反応するかを計算していない。いわばメタ認知能力が低い。メタ認知能力が低いからこそ相手が迷惑していて、視聴者を不快にしていて、自分が嫌われ者になっていることも理解できず、くそつまらない動画や写真をインターネットに公開するわけである。これはいじめ動画にも言えることで、いじめ動画を撮影してネットにアップロードする人は内輪のノリでいじめが面白いと思ってやっているけれど、他の人から見たら犯罪の証拠を自分で公開する馬鹿にしか見えないし当然面白くもない。・誰の視点で見るべきかテレビの企画でもいたずらやドッキリはあるけれど、テレビの場合は事前や事後に承諾を取っていてギャラも支払われている。視聴者としては当事者同士で話がついてるんだろうなと製作側の文脈を理解しているので、いたずらを仕掛けられた犠牲者の視点で同情したり怒ったりせず、製作者側の視点から犠牲者が慌てふためく様子を笑えるのである。Logan Paulの場合は相手が外国人でターゲットが日本人なので、たいていの日本人はいたずらを仕掛けられる日本人側の視点で動画を見て怒るわけである。それでもLogan Paulのファンはその迷惑行為を面白がって擁護していて、樹海動画は45万以上の高評価がついたようである。迷惑行為の動画は面白いかつまらないかの二択ではなく、面白いか非難されるかの二択になる。これはコンテンツ制作としてはリスキーな選択である。もしつまらない作品を作ってもいつか面白い作品を作れば公平に評価されるけれど、非難される作品を作ったクリエイターは次の作品の発表機会がなくなりかねない。Logan PaulはYouTubeアカウント廃止の署名運動が起きているし、ヒカルはvalu騒動を動画の企画にするつもりだったと言い訳したものの一時活動停止に追い込まれた。少数のファンが動画を面白いと思ったところでそれ以上の非ファンに非難されたら好感よりも反感のほうが多くなるし、スポンサーも離れて広告も剥がされてマネタイズの手段がなくなる。クリエイター側がこの視点を見誤ると、一度の失敗ですべてを失うことになる。たとえチャンネル登録者数百万人の人気のYouTuberだろうが、ファン以外は非ファンである。YouTuberは人気になってファンに囲まれてちやほやされるうちに、実社会には自分のファンでない人のほうが多いということがわからなくなるようである。人気のYouTuberでさえ天狗になって失敗しているのに、誰も名前も知らないような無名の素人が迷惑行為をしたところで面白いと思って擁護してくれる人はいない。つまりは迷惑行為で有名になろうとしてもほとんどメリットがない。・面白ければ何をやってもよいのか明治時代の自然主義エロ文学も当時の人にとってはけしからん話だったかもしれないけれど、性の解放というテーマがあれば芸術になりうる。芸術には社会の価値観を変える役割もあるので、表現の自由と規制との間で戦うことには社会的意義がある。日本が世界に誇れるコンテンツビジネスを持っているのも、暴力表現や性表現をめぐって先達が規制と戦ってきたおかげである。では迷惑行為には意義があるのかというと、注目を集めた本人が動画の再生が増えて広告収入で得をする一方で、周りは秩序を乱されて迷惑するだけで何の社会的意義もない。社会的意義がないどころか、誰かに迷惑をかけることや違法なことはやるべきではない。もし芸術や政治や宗教などに対してメッセージ性があれば迷惑行為でもまだ社会的意義があったかもしれない。たとえばグラフィティは迷惑行為であると同時に、ストリートをキャンバスにするという芸術表現でもある。私はグラフィティに賛成でも反対でもなく、10万円のシャッターには10倍返しで100万円の価値のある絵を描くべきだと思っているし、芸術的価値がない落書きでシャッターを汚したやつは自分の絵の責任をとって弁償するべきだと思う。たとえば文字もまともに書けないどこかのアホのタギングをシャッターに書かれても頭にくるだけだろうけれど、バンクシーの絵なら商店街の客寄せになるからシャッターに描いてもらいたいという人がいるかもしれない。そもそもクリエイターを気取るなら、他人を利用しないで道具は自分で用意するべきだし、動画に出演する人全員の許可を取ってギャラを払えない企画はボツにするべきである。胸に百科事典を当てて銃を撃って死んだ馬鹿なYouTuberがいたけれど、迷惑行為をやりたかったら自分を実験台にして自分で責任をとればよい。Logan Paulは行く先々でモンスターボールをぶつけられて、自分の車のトランクに魚を置かれて、自分の家の庭で自殺して自分の死体を晒せばいい。自分が他人に迷惑行為をやられたときに面白いと思えないくせに、他人に迷惑行為をするのを面白いと思ってやるのは卑怯である。・迷惑行為のマネタイズはよいのかこれは当然だけれど迷惑行為で金儲けをしてはいけない。YouTubeのポリシーにも不快なコンテンツや有害で危険なコンテンツは不適切だと言っている。もしYouTuberの迷惑行為で被害がでたら、ちゃんと動画を削除したりアカウント停止したりせずに広告料を払っているGoogleが責任を取るべきだろう。人種差別を煽る動画に大手企業の広告がついていたことがきっかけで、YouTubeに広告を出していた大手企業はブランドイメージの低下を懸念して撤退して、googleは監視人員増加などの対策を出したけれど対応し切れていないようで、人気YouTuberが迷惑行為をしても野放しな一方で、まっとうに動画を作っている人が誤BANでアカウントを停止されたりしているようである。表現の自由か検閲による規制か、規制の基準をGoogle一社が決めてよいのかという問題もある。世界の各国では法律や宗教が違って表現の自由で認められる表現範囲が異なるけれど、YouTubeは全世界からアクセスできる。不快なコンテンツというあいまいな尺度で線引きされてもクリエイター側は納得できない。ちゃんと動画を作っていたYouTuberも意味不明な基準で広告を剥がされたと文句を言っていた。YouTubeがポリシーを明確にしないと、クリエイターや広告主が離れていって、再生数だけ稼げれば迷惑行為でも何でもやるという馬鹿や善悪の判断がつかないキッズのたまり場になってしまう。・迷惑行為の動画を面白がると自分も馬鹿になるLogan Paulの1500万人の登録者のうちの大半は子供のようで、事件以降は親が子供に見せるチャンネルを吟味する流れになっているようである。子供は善悪の判断基準が確立していないので、面白ければいたずら動画もいじめ動画も見るし、真似をしようとする。人間にはミラーニューロンというのがあるので、Logan Paulのような馬鹿の言動を見て育った子供は馬鹿な大人になってしまう。本来はSNSはインターネットで世界中の人をつなげてコンテンツを共有するすばらしいサービスなのに、ツイッターがバカッターと呼ばれるようになったように馬鹿が注目を集めるツールになってしまった。今まで様々な目立ちたがりの馬鹿が逮捕されたりアカウントBANされたりしてきたのに、それでも次から次へと馬鹿が出てくる。自分が馬鹿だと理解していない人には、あなたは馬鹿なのですよ、他人に迷惑になることをやめて勉強して社会の役に立たないといけませんよ、と誰かが教えてあげないといけない。しかし親からまともな教育を受けずに馬鹿な大人になって迷惑行為をする人を他人が矯正できるものでもない。となると、迷惑行為をする人をサイト運営者や警察に通報してBANや逮捕して社会から退場してもらうしかない。馬鹿を退場させて、子供に馬鹿を見せないようにすることで、馬鹿の再生産サイクルを断ち切ることができるようになる。YouTubeやニコニコ動画で馬鹿な大人を見ているキッズは、自分が馬鹿な大人になってしまうことの危険性を理解していない。少年老い易く学成り難しということわざがあるけれど、子供のころから馬鹿な動画を見ているとあっちゅうまに馬鹿な大人になってしまう。少年老い易く馬鹿に成り易しである。大人になって働き始めると仕事が生活の中心になってまとまった勉強時間はとれなくなるし、そのうえわずかな余暇をパチンコやゲームで無駄に浪費していると、もはや一生馬鹿から抜け出せなくなる。ウーマンラッシュアワーの村本は朝まで生テレビで非武装中立を主張して批判されたら開き直ったけれど、馬鹿な大人になってしまうともうまともな人からは相手にされなくなる。そんな馬鹿な大人になりたくないキッズは馬鹿な大人を手本にせずに知識や人格が自分より優れている大人を手本にして、動画を見ずに本を読むとよい。
2018.01.11
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次男を誘拐された母親が長男を愛さなかったせいで長男がぐれて、次男が発見されたあともなじめなくて家族がばらばらになる話。●あらすじプロローグ1995年11月、写真家のベスは次男のベンが行方不明になる前に撮った写真を見る。ベスは神経質な長男のヴィンセントと活発なベンは好きでなく、好きなのは末っ子のケリーだけだった。第一部1985年6月、ベスは自分より金持ちになった同級生にマウンティングするために同窓会に子供たちを連れて行くものの、ヴィンセントにベンを預けてホテルで手続きしている間に3歳のベンが行方不明になる。警察を呼んでホテルを捜索するものの見つからず、ベスは酒を飲み、夫のパットと夫の両親とべスの父親と兄弟もホテルに集まり、ベスは急に狂乱してパットの手を噛んで拘束される。ベンの運動靴が見つかったことで誘拐事件になり、身内も取調べをうけるものの、警察犬が駐車場まで臭いをたどったのでホテルにいた同級生の犯行の疑いが濃くなり、ベスはテレビに出て犯人を罵る。ベスは教会で祈り、ボランティアがチラシを配ってベンを捜索する。刑事のキャンディとベスが霊媒師と会うとベンが棺桶にいる霊視をして、子供の死体が見つかったので顔を確認するとベンではなかった。ベスは家に帰っても日常生活に戻れず、子供を亡くした親たちの同情サークルに行ってみるもののそりが合わない。1985年12月、ヴィンセントは大人たちが異常に気を使うのを見て、ベンはもう死んでいるのではないかと疑う。クリスマスに親戚たちがベンが戻ってくる希望を持ってベンのプレゼントも用意するものの、べスはそれが気に入らずに孤立し、ヴィンセントがサンタクロースにベンをほしいと打算でお願いしたらベスが泣き出して育児放棄したので、ヴィンセントがケリーのおむつを換える。ベスはマスコミを敵視していて友人のローリーが雑誌に誘拐事件を話したことが気に入らない。キャンディが気分転換にベスを買い物に連れ出すもののベスは着替えようとしない。ローリーは妊婦の写真撮影の仕事を持ってきて、ベスは相手を人間でなく単なる被写体として見れるようになって今までよりいい写真が取れるようになる。1987年10月、ヴィンセントはパットがセックスしたがってベスが拒絶する夫婦喧嘩を止めようとしてケリーの口をふさぎ、パットはヴィンセントを連れて家を出る。1990年5月、ヴィンセントはパットがベスからの電話を聞いて倒れたのを見つけて救急車を呼んで、パットは一命をとりとめる。キャンディが結婚してベスが写真を撮ることになっていたものの、ホテルで20回目の同窓会が開かれたときにベンの靴のもう片方が見つかる騒ぎがあってキャンディは披露宴に出ずに捜査していた。ヴィンセントはベスがパットを殺したがっていて、ベスがあのことを知ったら自分を殺すだろうと思う。1990年10月、ベスはパットが倉庫を改装したレストランに案内される。ベスは5ヶ月前にホテルでベンの靴が見つかったときに元彼ニックとエッチしていたことを回想する。ベスはパットが倒れたことでニックとの不倫をやめて、シカゴに帰ることにしたのだった。1991年10月、シカゴに引っ越して13歳になったヴィンセントは同級生に名前をからかわれてリースとあだ名をつけられてからはリースと名乗るようになり、同級生と下水に大量の炭酸カルシウムをいれて爆発させて、精神科医キルゴーのカウンセリングを受ける。キルゴーがヴィンセントのカウンセリングのために家族を集めると、ベンが死んだことにしたいベスとまだベンが生きている希望を持っているパットたちが対立する。ヴィンセントはキルゴーに老婆がベンを連れて行く夢を見ると打ち明ける。第二部1994年5月、ベスは芝刈りのバイトにきたサム・カラスがベンだと気づいて写真を撮ってパットに確認させ、キャンディに連絡してジョージ・カラスの家を捜査すると、カラスの妻はベスの同級生のセシルで精神病院に入院していて、ジョージは誘拐事件を知らないままサムを養子にしていたというのでサムがベンだと確定してセシルが起訴される。ヴィンセントは近所にベンに似た子供がいることを知っていたのにベスには黙っていた。ヴィンセントはサムとバスケをするものの怪我をさせてパットに怒られる。ヴィンセントはバスケのコーチから態度を注意されてチームに入れてもらえない。ベスはセシルの裁判に行くと、前はやせた女優だったのに鬱病ですっかりデブになっていた。セシルの母親のサラはセシルが流産したことを捜査員に話さなかったと証言して、弁護士ペローも初耳で弁護できなかった。キャンディは以前ミネアポリスでベンを連れているのを目撃された老婆が事件にかかわっていると感じて、セシルが中絶した子供の墓を探すためにベスと一緒に出かけて、セシルが住んでいた下宿のローズマリーを訪ねると、彼女の夫のフォックスは警察は誘拐事件について尋ねなかったといって捜査がずさんだったことが判明する。墓を調べてセシルが早産して子供が死んだことがわかり、ベスはセシルが小柄で白髪で老婆に見えることを思い出す。翌日、ベスは家族旅行で前に住んでいた家に行ったときにサムと二人で出かけてセシルについて話して、墓で写真を撮っていると墓守のホルト老人と知り合ってホルトの息子が精神病で死んだ話をしたときのサムの反応がおかしくて、ベスが問いただすとヴィンセントに嫌われているのが嫌で、セシルは病気になりたくてなったのではないと擁護する。家族の物語が儲かるので出版社に売ろうとするパットと喧嘩になり、ベスはニックとランチしてパットとサムについて相談して、ベスはニックにパットと別れたいのかと聞かれてもパット以外の何かがほしいだけで自分がほしいものがわからない。ベスは帰ってパットとセックスする。サムは夜中に家を抜け出してジョージの家で寝ていたことをヴィンセントは黙っていて、サムはジョージと暮らしたいと言って、パットとベスは口論する。ヴィンセントはサムが一週間ずつ家を行き来することになったとキルゴーに言う。キルゴーはヴィンセントが非行で注目を集められないからサムを嫌がったのだというと、ヴィンセントはベンが誘拐された日に消えろと言って手を離したことを思い出したと告白する。ヴィンセントはバスケのコーチの車を盗んで壊して酔って警察官と喧嘩して捕まって、サムがヴィンセントに会いにきて昔かくれんぼしたこと思い出したと話す。1994年9月、ベスはパットと別れることを考える。サムはジョージと暮らして週に一回だけベスとパットに会うことになる。パットはヴィンセントの更生に専念して、ベスはウィスコンシンの芸術学部の修士課程に行くことにして、子供を連れて行って親子関係をやり直そうとするものの子供を連れて行くことはパットに断られる。夜中にサムがヴィンセントに会いにきてバスケをして仲良くなる。●感想三人称で、ベス視点とヴィンセント視点を交互に展開する形式。女性作家はたいてい構成がよくないというとフェミニストに怒られるかもしれないけれど、やっぱり構成があまりよくない。これが著者の処女作のようで、ちゃんと長編を書ききるのは立派だけれど、700ページ弱あってだいぶボリュームがあるのだからそのぶん構成を練る必要があるのに、構成が未熟なせいで面白さを損ねている。まずはベスとヴィンセントの視点を書いているのにパットの視点がないことがおかしくて、構造的に父親を家族から除外してパットの考え方はベスには理解できないものとして扱うせいで家族の物語にならず、母子関係の物語に矮小化されてしまっている。母親と息子の不和は普通の家庭でもあるし、誘拐事件が起きなかったとしてもベスはニックと不倫してパットと喧嘩してただろうというような夫婦関係なので、誘拐事件をテーマにする必然性が乏しい。ベンの誘拐を書いた第一部とベンがみつかってからを書いた第二部に分かれているけれど、前半での伏線の仕込みが不十分で後半の展開はだれている。ホテルで靴が見つかった事はセシルの裁判では言及されず、セシルが子供を亡くして精神病だからしょうがないということで片付けられて靴を残していった動機がうやむやになっている。靴に関しては細かいところもおかしくて、304ページだと同窓会が行われたホテルの食堂のテーブルにベンの靴が残されていたことになっているのに、328ページでは演壇で靴が見つかったことになっている。これは原文がおかしいのか翻訳ミスなのかわからないけれど、いずれにせよ齟齬がある。精神病の誘拐犯を許すか否かという点では、誘拐された当初は120ページで「あなたは病気で、人間の心のない、唾棄すべきやつ」と敵意をむき出しにしていたのに、セシルをあっさり許していて葛藤がない。産みの親と育ての親のどちらがよいかという問題はとってつけたようなありきたりな展開。プロローグでベンが行方不明になったことをネタばれしているので、ベンの捜索シーンを書いたところでベンはすぐには見つからないんだろうと読者は先の展開が予想できてしまってサスペンスとしての緊迫感が薄れる。9章でもヴィンセントがクリスマスプレゼントにベンをほしいとお願いするつもりだと冒頭でばらしてしまっているので、実際にベスに言う場面で衝撃がなくなってしまう。オチを先に言ってしまってから蛇足のようにだらだら話すのは女性によくある欠点で、どこにプロットの伏線を仕込んでどこにタメを作ってどの場面を盛り上げるのかという演出を理解していない。シリアスな物語なのに作者が自分でネタばれして緊迫感をなくす語り方をしてしまっては台無しである。ヴィンセントがベンがいなくなったときに香水の匂いを嗅いだり、老婆がベンを連れて行く夢を見たりしたことは捜査にもプロットにも反映されておらず、思わせぶりな描写をしておいて伏線になっていない。1章で同窓会の友人たちと再開する場面ではジル、ニック、セシルとかの脇役の名前や背景情報や昔のエピソードが一気にどっちゃり出てきて、さらにベンとパットの家族もぞろぞろ出てきて、読者は名前や肩書きを覚えきれない。こういう情報の詰め込みすぎは同窓会ネタで起きがちな欠点だけれど、一気に全員のエピソードを出すと登場人物の印象が薄れるので、物語と絡める形で段階的にエピソードを出すなりして脇役の存在感を印象付けて、ひとつの場面に情報を詰め込み過ぎないように情報量を調整したほうがよい。たとえば同級生の犯行の疑いが出た時点でだれが犯人なのか推理しつつ過去のエピソードを回想するというやり方もある。我慢できずに最初に手札を全部公開してしまうのは素人くさいやり方。説明文で全部説明してしまわないで、会話にあてこすりを混ぜたりして人間関係に含みを持たせて主人公はあいつとは過去に何かあって仲が悪いのかなと読者が推測できる余地を持たせるほうが小説としては面白みが出るけれど、そういう読者との駆け引きがない。人物造詣の点ではベスが自分勝手で欠点だらけで、ヴィンセントもかわいげがない子供で、魅力がない登場人物を延々と見せられてもしんどい。女性のマウンティングの心理や3人の子供の中で長女だけが好きだという母親の心理や元彼とつきあったら別の人生だったかもと思って不倫する心理を書いているあたりは女性作家らしいと好意的に見ることもできる。しかし主人公に魅力がないのは読者を選ぶやり方で、子供を誘拐されて落ち込んでいるアテクシに共感しないやつはみんな敵というベスの態度だと読者さえも共感できずに敵になってしまう。欠点がある登場人物を主人公にするならせめて困難を経て成長する様子を描くなりしてほしい。プロローグでベスがケリーだけが好きだと言っていたのにケリーは家族との絡みがほとんどなくて存在感がない。主要登場人物の一覧に書かれているベスの兄弟のポールとビッグに至っては主要登場人物どころかいなくてもいいレベル。誘拐事件の被害者としての心理もおかしくて、警察が同級生の犯行を疑ったのにベスが同級生を疑うそぶりがなく、自分に恨みを持つ人を思い出そうともせず、ベンの捜索も他人任せで、関係者は無能ぞろいかというくらいぼんやりしていて不自然。ベスはベンが見つかった後になってセシルが白髪だったことを思い出すけれど、思い出すのが遅すぎてミステリーになっておらず辻褄あわせの蛇足になっている。誘拐事件が起きても犯人探しのサスペンスにならずにうんこビッチ化したベスが全方位を敵にして暴れまくる変な展開になっていて、事件の真相解明への好奇心よりも技術的に下手で誘拐と結婚と親子関係のどのテーマを書きたいのか焦点が定まっていない小説を読まされるストレスのほうが勝ってしまって、半分も読まないうちに私の中の海原雄山がこの小説を作ったのは誰だあっと怒ってしまった。処女作だから下手なのはしょうがないとなんとか雄山をなだめて我慢して最後まで読んでも、ベスが何をしたかったのか、ベスが求めていた幸せはなんだったのかという本質を書かずオチがないまま終わっていて、ついに雄山もさじをなげてしまった。ベスの子育て失敗に対する救済がなくて、アメリカ人は離婚するべくして離婚するという現状を追認するだけの話になっていて、わがままに生きたいんだったら最初から結婚しなきゃいいんじゃねーのとあきれてしまう。★★☆☆☆【中古】 青く深く沈んで 新潮文庫/ジャクリーン・ミチャード(著者),長野きよみ(訳者) 【中古】afb
2018.01.05
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