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橋下徹、個人的には嫌いではない。というのも自分と似たようなパーソナリティを感じるため親近感がわくからだ。「府債発行お断り」は政策として非常にわかりやすくていいと思う。大阪府の懐事情が芳しくないのは、歳出に占める地方債の割合が他と比べてダントツに高いからだ。客寄せのためにどこかの建物に金箔を大量に使うなど、以前から大阪府の金の使い方には疑問な部分が多かった。橋下がマニフェストを忠実に実行すれば、こうしたグレーゾーンは減るだろう。ただ、橋下は顔や言動からしてかなりの女好きとみた。頭のキレる政治家に限って、失脚するときは「英雄色を好む」になることが多い(ノックのような例外もいるが)。浮いた金でキャバクラばかり行っていてはまた財政破綻しかねない(行くなら私費で!)。いや、多分女絡みで失脚するんだろうな・・・(笑)それまでにどこか一つでも現状が改善されればいいと思う。その次は島田紳助ってのも・・・素敵やん
2008.01.28
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最近バスをよく使う生活をしているのだが、バス後方部分が「一人がけ」のシートになっているバスを散見する。元々、路線バスのシートは運転席近くの前方こそ一人がけであるが後方は二人がけになっていて、自分一人でバスを利用する場合、誰かが座っていると隣には座りづらいし、かと言って誰も座っていなくても自分が二人分占領している気がして歯がゆい思いをしていた。これは日本人のDNAに刻みこまれた「隣人警戒」の具象化であると考える。簡単にいうと「人を見たら泥棒と思え」というやつだ。これは先天的に決定された言わば「性(さが)」であり、意識しなくとも行動に現れてしまう習性といえる。よって路線バスは座席がセパレート(一人分のエリアがはっきりしている)の二人がけなだけに、座るときに慎重にならざるを得ない。さらに、座席でスペースを取っている分、混雑時には不合理な事態を招きかねない。こうした事情を受けての改善薬として、「一人がけ」政策は非常に有効だと思う。導入率としてはまだまだ低いが、これからのバスには一人がけの推進を熱望する。
2008.01.25
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mixiなどソーシャルネットワーキングサイトの隆盛により、Off会という奇妙なイベントが巷で流行しているらしい。共通の趣味、嗜好の人たちがサイト内の「コミュニティ」というもので結びつけられ、実際に居酒屋など(すなわちオフライン上)で会うというものだ。僕はこれまでそうした集会に参加したことはないし、するつもりもないのだが、こうした会を催す人たちの心境はわからないでもない。普通の社会生活を営んでいる人にとっては当たり前なのだが、人間関係というのは「まず組織ありき」が基本である。こうあるべきだ、というよりは普通にやっていたらそうなるという感じだ。大学のサークルなどは一見「趣味や嗜好」によって結びつけられているようにも思えるが、根本的にはその大学に属しているからそのサークルに入るのであり(わざわざ他大のサークルに行く人はいないだろう)、その意味で例外ではあるまい。一方Off会はこうした基礎的な紐帯をもたない。あるのはオンライン上での薄い紐帯である。それだけで飲み会を開けてしまう点が異質なのである。多少偏見めいた言い方にはなるが、Off会に集まる人たちは自分たちが属している基礎的集団から自然発生するコミュニティ(会社の飲み会など)では満足できない、ある意味悲しい人たちである。もう少し踏み込んだ言い方をすると、そうしたコミュニティで人間関係を健全に育めていない人たちである。集団内の特定の人と気まずい関係だとか、そもそも他人との人間関係の作り方を知らないとか原因は色々あるだろうが、Off会を開く原動力は「リアルな社会に溶けこめていない」というフラストレーションであるという点で共通している。 こうした傾向を社会が助長してしまっている点も否めない。一番よろしくないのはインターネット等によって「繋がっている」ということを執拗にアピールしていることだ。生きている以上現実社会に適応していかなければならないのは当たり前だ。それができない人たちにとってこうした「バーチャルな繋がり」は、まさに渡りに舟であるのだが、発想が建設的でなく単なる逃避である。 今NHKの英語講座「テレビで留学!コロンビア大学講座」を視聴しているのだが、そのテキスト中に"Technology is dividing us as much as uniting us."という一節がある。インターネット(広く捉えれば科学技術)が我々をdivideしてしまう感覚は、Off会族には理解できないだろう。だがこの英文はインターネットによる過剰な「つながり」に対して警鐘を鳴らしているいい英文だ。
2008.01.24
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フルマラソン完走を目指し、我流のトレーニングを始めてから4ヶ月。徐々にではあるが自分のスタイルが構築されつつある。一ヶ月後のフルマラソン(東京マラソン)デビューに向け、地道にトレーニングをする一方で、その道の「プロ」と言われる人からアドバイスを受けたい気持ちが強まり、駒沢公園で行われているランニングクラブの練習に参加するようになった。また、最近のマラソンブームの煽りを受けいつも行く書店でもマラソン関係の専門書が増えつつある。それらの中で「これは!」という一冊を購入した。「金哲彦のランニングメソッド」である。ランニングというものをシステマチックに説明してあり、新しい「気付き」が得られそうな気がした。本文中の写真の一部が時々上半身ヌードのお兄さんなので、カフェで読んでいると周りの目線を気にしなければならないことが唯一の欠点だが、買って損はなかったと思っている。中でも最も収穫のあった「気付き」はウォーキングについてである。僕の先入観ではウォーキングは、「ランニングができない人用の運動強度の低い運動」という位置づけだったが、本書を読むとウォーキングとランニングというのは不可分一体のものだと気付かされた。すなわちウォーキングとは正しいランニングフォームを身につけるための運動ということだ。ランニングをするときは、とかく「足」に注意がいきがちだが、本書では骨盤、肩甲骨、丹田(へそ下のこと)が重要であると説く。これらを重視すれば足が「勝手に前に出る」感覚を味わうことができる。早速ウォーキング開始だ。日々の生活はウォーキングをするシーンで溢れかえっている。わざわざジムでウォーキングをしなくても、普段着で出来るトレーニングというわけだ。電車に乗るのをやめてウォーキングにするほどの情熱はないが確かに今ウォーキングにハマりつつある。
2008.01.23
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今年もセンター試験が行われたようだ。僕が受験してから7、8年が経過しており当時とは状況が変わっているのだろうが、それでも毎年この時期になるとテレビニュースに出てくるこのイベントには注目し、受験生にエールを送っている。いつの間にやら、英語にリスニングが導入されている。高校のカリキュラムにオーラルコミュニケーションが不足しているという問題点を受けての改正なのだろう。リスニングを導入すること自体は間違っていないと思う。だが、「やっぱり!」という感じのトラブルが発生した。受験生のケータイが30秒鳴り続け「その受験生以外の」学生に再試験が認められたという例の件だ。これについて僕としては「再試験不要論」を唱えたい。まず何故再試験が必要か考えると、数ある試験場の中のある場所において、試験の進行を妨げるアクシデントが発生したことにより、その部屋で受験していた人たちが不利にならないようにするための救済措置という論点があげられる。この救済措置に求められるファンクションとして「受験生全員の公平を期す」というものが求められる。再試験をすることが必ずしもこのファンクションを満足すると言えるだろうか。確かに不利を被った受験生に対して二回目のチャンスを与えられれば彼らは救済されるだろう。しかし、再試験をするからには元々の試験問題と別の問題を作ることになる。難易に差が生じた場合、違う意味で不公平になるのではないか。さらに、この措置はケータイが鳴ったのとは無関係に「何となくダメだった」受験生を必要以上に保護することにもなる。結局何が言いたいかというと「公平にこだわりすぎるとキリがない」ということだ。この例だと、一つの不公平を解消しようとした結果、別の不公平が二つも生じてしまったことになる。テレビで見たが、リスニング試験の為に受験生に携帯ラジオのような端末が配られ、イヤホンで聞き取るシステムになっていた。このシステムで既にアクシデントへの対応にはなっている気がする。だからイチイチ再試験をする必要はないのだ。
2008.01.22
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参考までに、改革スタッフが標傍するビジョンと実態にどれほど乖離があるか、という点について「元学生」の立場から述べたいと思う。僕はおととしの春に理工学部を卒業した。ワセダに入って一番失望したのは英語の授業のあまりのレベルの低さだ。高校までと何が違うのかと問わざるを得ない、単なる「蓄語訳」の授業ばかりなのに閉口した。中にはビジネスレターの書き方といった多少はためになる内容もあったが、残念なことに「パンキョー(一般教養)」と罵られる範疇であった。こうした事情で僕の成績証明書は基本的にD(単位認定の中で最低評価)のオンパレードであるが、英語の授業成績だけはAかBである。ただ、「寝る間を惜しんで勉強した」というよりは「時間を惜しんでは寝ていた」と言った方が当たっている。本書によれば「英語教育」と「情報リテラシー」は改革の二大看板らしいが、少なくとも理工学部ではその一方が崩壊していると言わざるを得ない。理工学部だからナメられているという見方が一般的だが、文系学部の英語運用力が(少なくとも入学時と比較して)伸びているとは思えない。つまり、「入るのは大変で出るのはラク」という不文律にはいささかの変化もない。 本書を読んで何らかの新しい知見を・・・と意気込んだ僕だったが、悲しいことに内容そのものに関してはあまりピンと来なかった。だが、あまりピンと来なかったことで逆に「偉くなると実態をともわない浪花節を並べないと身がもたない」ということを学んだ。だがこの事実を踏まえても、僕はワセダが好きだしワセダを卒業したことを誇りに思う。このことには何の疑いもない
2008.01.21
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「早稲田はいかに人を育てるか」(白井克彦著・PHP新書)を読んでいる。愛する母校を卒業して早2年が経ち、ワセダの学校改革に取り組んだ当事者の思想に触れることで何か新しい知見が得られればと思いこの本を手にとった。最近のワセダは明るい話題が多い。ラグビー部日本一、ハンカチ王子君臨、フィギュアスケート荒川・村主の活躍などなど・・・。世間の注目が集まっているのは言うまでもない。僕が入学したころには、学生が起こした反社会的な事件をきっかけにワセダの学生というだけで「和田さん」と言われかねなかった。あれから5、6年経ってほとぼりが覚めるどころか、飛ぶ鳥を落とす勢いでワセダは成長している。「改革」を行う土台はかなりしっかりとしていると言えよう 改革遂行のためのアクターは教授、及び学生である。大学は改革のためにこの2者に働きかけることになる。このうち教授に関しては僕には説明能力がないので割愛させていただき、学生に対しての働きかけについて私見を述べたい 5万人の学生を抱えるマンモス大では仕方のないことなのだが、本書を読む限り学生について観察が足りない気がする。5万人全員を見ろと言うのはあまりに酷だが、「学生が夜も寝ないで勉強する早稲田」なる記述を始め、ややピンボケ感が否めない。結果、やることが天下り的になってしまっているという点に(筆者は否定しているが)やや不甲斐なさを感じる。 この不甲斐なさの源流は、筆者を始めとする改革スタッフの「学生をワセダ色に染めてやる」的な傲慢さにある。その心意気は素晴らしいが、本当にそうしたいなら小学校から一貫教育にするべきだ。早稲田大学に入ってくる学生は、「ほぼオトナ」の状態だ。始めから自分の「色」を持っている。こうした前提に立てば、大学のやるべきことは、学生をワセダ色にすることではなく、もともと色を持った学生に付加価値をつけ、発色をよくして社会に送り出すことではなかろうか。滑稽なことに本書のサブタイトルは「5万人の個性に火をつける」となっている。火をつけることを標傍している以上、消してはいけない。「一旦消してまたつけて」は学生のプライドが邪魔してうまくいかないだろう。(続く)
2008.01.18
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僕を含め、死にたいと思ったことがある人は少なくないはずだ。学校でいじめられた、仕事がうまくいかない、恋人に悲惨なフラレ方をした・・・生きていれば凹むことは多々ある。その現実から逃げたいために死ぬことを考えることは別に不思議なことではない。これはEデュルケムの自殺の4分類中の「宿命的自殺」に該当すると考えられる。すなわち、抑圧の度合が自分の許容範囲を越え死に追いやられるパターンだ。 この種の自殺において共通しているのは自分以外に「抑圧者」が必ず存在するということだ。ウザい上司、いじめっ子、理不尽な恋人など。さらに言うと「ウザい、理不尽だ」という感覚は被抑圧者(自殺する本人)に特有なことが多い。開き直った言い方をすれば、その人の気持ちを他人が体感するのは無理なことなのだ。自殺した子供が通う学校の校長が出てきて「普通の子で自殺したのは正直驚きです」と言ったコメントをしているニュースをよく見るだろう。それがここでいう「開き直り」である。たとえ他人には分からない痛みでも、分かろうとするための努力義務を負うべきだ。「努力義務」とは「(無理かもしれませんが)やってみます」ということであり「どうせ無理なのでやりません」ということではない。ここで言う校長は明らかに後者だ。その証拠にどの事件でもコメントが大体同じで(ドラフト会議のときの高校生のように「雛形」コメントがあるのだろう)、事件が起こって間もなく発せられる。事なかれ主義は「事が起こった後」には全く無意味だ。 こうしたことにならないために僕は「遺書をよく読め」ということを提案したい。英語で遺書のことはwillという。遺書とは言わば「生前最後の意志表示」である。「よく読む」の意味は、自殺した人の気持ちに可能な限りアプローチするということだ。ただ字面を追うだけでなくその行間に込められた気持ちをできる限りくみとるのだ。ただ目で追いかけることでは決してない 個人主義が蔓延している現代では、自殺する人は「勝手に死んだ人」として扱われる傾向があると僕は考える。世の中に勝手に死ぬ人などいるわけがない。自分以外の人との関係の一部分がその人を死に追いやる。原因の一端は本人以外にある。
2008.01.17
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今、僕は携帯からこのblogをしている。正確にいうと、携帯で編集した文章を一旦「下書き用アドレス」なるところに転送して、自宅に戻りパソコンで管理ページにアクセス、転送された文章を手直しして正式な文章をアップするというプロセスを踏んでいる。以前はいきなりパソコンで「清書」をしていたのだが、論理的な文章が書けるようになるためには、自分の書いたものを第三者的な視点で見直すことが必要だと考え、今のやり方に行きついた。下書き無しのぶっつけ本番だと、初めは「筆が進む」感覚を覚えるので快感だが、それはただの自己満足で実際は感情まかせの冗長な(論理的なつながりを欠いた)文章になってしまっていることが多い。 こうした発想は学生時代の卒論発表の資料作成に端を発している。パワーポイントで資料を作るわけだが、当時は常に「あと何ページ」しか頭になかった。論理的思考ができる人は、全体としての訴求点が明確に分かっていて、そのためにはこの内容を大体3ページくらい、あの内容を4ページくらい書けばよいというのがはっきり見えている。僕の卒論は(内容的にも非常にお粗末だったが)この点が欠けていた。だから文章にしようとしてもうまくいかなかった。 今でも最初から論理的になりきれているわけではない。下書きの段階ではまだブレーンストーミングの状態である。ただ、それをあとで見直す知恵は身につけたつもりだ。blogなど文章にする場合に、パワポでいう「スライド」にあたるのは「段落」である。見直しの作業は、主に段落どうしの関係をチェックする作業といえる。 何故僕がこういうトレーニングめいたことをしているかというと、4月からの社会人生活を想定しているからに他ならない。前いた会社で上司から「お前は何がわからないのか自分で分かっていないから救いようがない」と言われたのを思い出す。少なくとも自分の頭の中にあることくらいは自分で説明できないと同じ失敗を繰り返しかねない。そんな危機感から僕はアホみたいに毎日blogしている。 まあこれも所詮自己満足です
2008.01.16
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生きていくうえで「なぜ」を問うことは重要である。自分のおかれた状況を稚拙ながらも解釈しようと努力する姿勢は、現在の自分から一歩前へ、上へ這い上がるための原動力だからだ。だが同時に、現在の状況のみで安易に決断をくださないということもまた重要である。現状に行き詰まると、逃避のためにこうした安易な決断をくだしやすい。この行動は、末期ガンの患者にモルヒネを注射するのと同じで、物事の根本的な解決には全くなっていない。 最近僕はマラソンを趣味としている。とは言っても、ハーフマラソンの大会に2回でたというだけのヒヨっ子ランナーなのだが。走り続けて疲れてくると、僕も「なぜ走るのか?」と自問する。こうした思考は、疲れと比例して自分に重くのしかかってくる。そして、今ここで走るのを止めればラクになれると考えるようになる。こうした問いかけをゴールまでし続ける。 誘惑に負けずゴールしたとき、疲弊感よりも何よりもまず「これでよかった」と思う。走るのを止めなかったことをよかったと思うのだ。「安易な決断」をくださなかった自分を正しいと思える、これすなわち「自信」というものだ。「何故走るのか」の答えも自ずと見えてくる。 気をつけたいのは、ここでいう「答え」は「最適解」であって「理論解」ではないということだ。あくまで実験的に得られた解でしかない。理論解が見つかってしまったら、もはや走る意味はないだろう。また新たな最適解を求め僕は走るのだ。若干散文的になってしまったが、2回目のハーフマラソンを終えての「気づき」を簡潔にまとめてみた。
2008.01.15
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僕は新聞(紙媒体)を読まない。新聞社のケータイサイトをブックマーキングしておいてそこからニュースを得るようにしている。ラッシュアワーの電車内であのバカでかい紙を広げる余裕と度胸がない、というのが根本的な理由だが、それでも一応考えるところがあってケータイでニュースを読むようにしている。まず、ニュースは生き物である。時々刻々ニュースは変化する。同じ内容を扱ったニュースでさえも時間が変われば「情報」としては別モノだ。そうした動的変化に紙媒体で対応できるだろうか。新聞にも一応「第版」というものがあり、全く対応できないわけではないだろうが、それはアナログ(離散的という意味で使っている)な情報でしかない。つまり第2版と第3版のあいだに起こったことは第3版に反映させるしかなく、リアルタイム更新は不可能だ。その点ケータイ新聞は時系列に従ってニュースが動的に更新されていくので、ニュースの「鮮度」をそこなうことなく入手できる。重宝するのは電車の遅延のニュースだ。家を出て最寄りの駅につけば電光掲示板で遅延の情報は手に入るが、ケータイ新聞を利用すればそれよりも早く遅延情報を入手することが可能である。リアルタイムでニュースが読めるというのは魅力だ。 さらにケータイ新聞は他のニュースとのリンケージという点で紙媒体をしのぐ。ニュースはある意味「点」ではなく「線」(そのニュースについて過去に報じられたこととの線)であり「面」(内容的に関連のあるものとの面)である。そのため、暗黙の了解としてその記事を読むために前提となる知識(過去のニュース及び関連のあるニュース)は読者が知っているものとして発せられるという、ある意味残酷な側面がある。だが我々読者も必ずしも万能ではないため、あるニュースを読んでいるときに過去のニュースをついでに読みたい衝動に駈られることがある。このとき紙媒体では以前に発行された新聞をわざわざ引っ張りだしてこなければならない。金を払って新聞を読んでいる上に、こうした「取引コスト」までかかってしまうのだ。これに対しケータイ新聞は簡単なボタン操作で過去のニュースに飛ぶことができる(記事上にリンクが貼られている方が親切な気もしないではないが・・・)。取引コストはこの点ではかからないことになる。 実質コストに着目しても、紙新聞は朝刊だけでも月に3000円前後かかるのに対し、ケータイはネットのアクセス料金のみだ。僕の場合DoCoMoの「パケホーダイ」をオプションとしてつけており、「純粋にニュースを読むためにかかるコスト」はゼロである。僕のような人だらけになると新聞社の経営状況が逼迫してネットニュースを流している場合ではなくなるかもしれない。これはあくまで新しいライフスタイルの提案である。
2008.01.11
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「一人飲み」という娯楽をたしなむようになって2、3年がたつ。場所は大体決まっていて、都内某所の焼き鳥屋だ。店内は狭く、グループで来ている人も多くて4、5人。一人で来ている人が店内の約半数を占めている。そこで焼き鳥を頬張り芋焼酎を飲みながら自分だけの時間を過ごす。頻度はひと月かふた月に1回とそれほどでもないが、行かなくなることはない。 みな一人で来ているのでたまに隣に座っている人に話かけられたりする。如何せん焼き鳥屋なので容姿淡麗なレディーに話しかけられることはほぼないが、始めから「それ」を目的としていないから、よほど悪酔いしてカラんでくる酔いどれ爺でないかぎり話すようにしている。 こういうときは不思議と話が弾むものだ。自分の殻に閉じこもりたいから行っているのに、そこで他人とのコミュニケーションが成立してしまう。話が弾むのは、損得感情が一切ないからだろう。例えばどっかのマセガキがバーに行って女の子に声をかける場合、多かれ少なかれ「夜」のことを考えている。一人飲みは、そうした功利を得ることを目的としていないという点で高次の娯楽だ。焼き鳥屋にいる一人飲み集団はそのことをよくわかっている。わかっている同士だから話が弾む。不思議ではなく必然だ 社会に出ると、やれ協調性だやれチームワークだと水と油のような分子同士が中途半端な接着剤で結びつけられている。そうした不自然な力が全くはたらかない空間が都内にもある。
2008.01.09
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今流行りの「スタバではグランデを買え」(吉本佳生・ダイヤモンド社)を読んでいる。タイトルの割にスタバの話は1章分しかなく、「ホームレス中学生」と同じ商法かと考えるのは邪推でしょうか。 まあそれはさておきスタバでグランデを頼むと、店と客の双方が得をするという話。ショートサイズ(容量240cc)とグランデサイズ(容量はショートの2倍の480cc)とをそれぞれ頼む場合、売価は100円しか違わない。店サイドとしては100円収益が増すわけだが、原価はどうなるだろう。原価の値上がりが100円以内なら店は得をすることになる。実際あの茶色の液体(及び付属品の砂糖やミルク)の原価というのはそこまで高くもないらしく、たかだか240cc増量したところで原価は20円ほどしか違わないらしい。確かに店は得をしている。 では我々客サイドはどうだろう。こちらに関して僕は筆者と異なる意見である。筆者の主張は「量が倍になるのに値段が100円しか上がらないから(注、ショートの値段は250円)得だと考える。 しかしコーヒーを480cc飲んだとき期待される効用は単純に240ccの時の2倍となるだろうか?僕は別段コーヒーが好きな訳ではない。仕事をしていると朝シャキっと目を覚ます必要があるので半ば「義務」として飲んでいる。つまり僕はあの茶色の液体にそこまでこだわりがない。金を払ってカフェに居座るのも、汚い自室よりは読書が捗る気がするからというのと合法的にタバコが吸えるからという理由でしかない。コーヒー自体よりもカフェのアメニティの高さに価値を見出しているのだ(自分一人のときにオール禁煙のスタバにステイすることはまずない)。そんな僕にとってコーヒーが240ccだろうが480ccだろうが大差はない。まあ割と長時間ステイするので一番小さいサイズでは申し訳なく、その次のサイズ(よく行くエクセルシオールではミディアム)をいつもオーダーする。 結論、客が本当に得をしていることなど滅多にない。得をした気分に浸ることはかなりあるけど。それに対して店はきっちり得をしている。当たり前だ。死活問題だもの。
2008.01.08
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まず、日本のプロ野球は「半鎖国状態」であること。1990年に野茂がメジャーに渡ったのを最初に、この15年で日本とアメリカの距離は一気に縮まり、来季メジャー入りする日本人選手は、ロッテの薮田・小林雅、楽天の福盛、中日の福留など20人を越えるらしい。こういうニュースが飛び交うと、日本の球団は「戦力の流出」などと非常に悲しいことを言う。流出させるだけだからつまらなくなる。向こうの逸材を採ってこようとしないのだ。なぜだ? 答えは「カネがないから」の一点に尽きる。日本球団のカネの無さは凄まじい。メジャーと比較してみれば明らかだが向こうは「3年で40億」みたいな、こっちからすると「破格」の契約更改が当たり前のように行われているのに対し、日本は阪神・金本の5.5億(1年単位で)が最高だ。この事実自体は仕方のないことだ。実際カネがないのだから「ない袖は振れぬ」の状態だ。 僕自身はアメリカのスタジアムで野球を観る経験をしたことがないので、人から聞いた話になってしまうが、それによると少なくともアメリカと日本でスタジアムの入場料に大きな差はない。どちらも平均して2500円前後(外野内野などでバラつきあり)だ。「生」で観戦する場合は日米で興業収入に差はない。だが、アメリカはテレビで観戦する人は基本的にケーブルTVに個人的に契約するという形態が定着している。かたや日本はどこかのテレビ局が巨人戦の中継を激減させたとかいって騒いでいる。日本はあくまで「ストリーミング」がメインなのだ。結局球団にカネが入ってくるのはテレビ局からの放映権収入のみで、アメリカとは大きな「格差」があるのだ。 この状況の打開策は「みなさんCSで野球を観ましょう」というところか。僕のファンチームである東京ヤクルトスワローズは、ここ数年成績が奮わないからか中継はほとんどない(あっても巨人戦くらい)。昨年はどうしても野球が観たかったので神宮球場に足繁く通った。スタンドでビールを飲みながら観戦もなかなかオツなものだが、今年4月に生活環境が変わるのを機会に僕もスカパーにでも加入しようとおもっている。
2008.01.06
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コンセプト変更記念として「ブログ」について考えたいと思う。 まず、そもそもブログとは何なのだろうか?あるサイトの定義を抜粋してみると「個人や数人のグループで運営され、日々更新される日記的なWebサイトの総称。内容としては時事ニュースや専門的トピックスに関して自らの専門や立場に根ざした分析や意見を表明したり、他のサイトの著者と議論したりする形式が多く、従来からある単なる日記サイト(著者の行動記録や身辺雑記)とは区別されることが多い。」・・・とある。 前半(~「他のサイトと議論したりする形式が多く・・・」あたりまで)は、ブログの本来あるべき姿を示しているといってよい。インターネットというものが一般人にも十分浸透し、自分と他人を区別する障壁はほぼ完全に無くなり「ガラス貼り」の状態となった。その結果ブログというものを用いて、前述の定義中の「他のサイトや著者と議論し」やすい状況が生まれたことは納得できる。 ただ、現実はどうだろう。試しに検索エンジンでブログの検索を行ってみると、ただの「一人よがり」なブログが多く辟易させられる。定義に反するが、実際のところ「単なる日記」がものすごい多いのだ。中には優れたものもあるのだろうが、検索に引っかかるブログは玉石混交、「優れたもの」にありつくためには相当な労苦を強いられる(大抵それらにありつくことなく諦めてしまう)。 どうしてこういうことになるのだろう。考えてみると、ブログが誰でも簡単に開設できてしまうのがいけない気がする。早い話「タダ」なのがいけないのである。ブログ1つにつき数百円でもいいから課金すれば、企業サイドの懐は潤いサービスの質を高められるし、使用者サイドも「わざわざ金をかけて」ブログを開設することに価値を見出す人、すなわちそこまでしてブログに何かをしたためたい人以外はブログをしなくなるだろう。そうすれば自然とブログの質が収斂されて、素晴らしい内容のブログにありつける確率も増える。 もうひとつ考えられるのは「タレント気取り」が多いことである。眞鍋かをりなどタレントのブログはヒットしやすい。「普段テレビにでているあの人はこんなことをかんがえていたのか」といった新鮮な発見があるのがその要因だ。しかしそれはタレントにのみ言える話で、どこの誰かもわからない「一般人」が、スーパーの安売り広告の裏にでも書けばいいようなどうしようもない戯言をブログにしたところで新鮮な発見はない。 まとめると、「誰でも気軽に(=金をかけずに)タレント気取り」が出来るのがブログなのだ。これが私の考えるブログの定義である。
2008.01.05
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