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少女の頃に開けてしまった扉を、自分の手で閉じて、誰も――人も獣も傷つけることなく、この苦境を乗り切ることができたなら・・・・・。熱い願いが胸にあふれ、エリンはつかのま目をつぶった。それから、ゆっくりと目をひらいた。(中略)「おかあさんは、見極めるわ。――王獣を武器として使ったら、なにが起こるのかを」ジェシが目を見開いた。その目を見つめながら、エリンはいった。「災いが起きるかもしれぬと知っていてもなお、王獣を使うことを望むのであれば、その結果は引き受けねばならない。戦を起こそうとしている人たちも、そして、その戦を止めることができなかったわたしも、その責任は、我が身で負わねばならない」そう言ってから、エリンはひとつ息を吸ってささやくようにつづけた。「・・・・・そういうことのすべてを、おかあさんは、みんなに知ってほしいのよ」(上橋菜穂子さん「獣の奏者(完結編)」P292)
2010年08月31日
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綿矢りささんの「勝手にふるえてろ」を買書。前著の「夢を与える」が、とても痛かったので、この本に期待しています。冒頭を読んだ限りでは、とてもいい感じです。ところで、綿矢さんの動画メッセージを紹介した、文藝春秋社の特設サイトがあります。メッセージそのものは、つまんないです(笑)。「著者3年ぶりの新刊は、不器用なOLが脳内と現実の2つの恋の間で右往左往しつつ自分の道を探していく様を描いた新境地。何とも思っていなかった同期に告白されて戸惑う良香。26歳まで恋愛経験のない彼女はこれを機に、中学からひきずってきた不毛な片思いの相手に会ってみようと行動に出るが……。時に暴走する遅咲きの主人公が愛しく思えて、切なくもコミカルな一風変わった恋愛小説です。」(文藝春秋の紹介)
2010年08月31日
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蠅の王は、依然として彼の眼の前に曝されたままこちらを向いていた。「おまえはたった一人で何をここでしているのだね?わたしが恐ろしくはないのかね?」サイモンは頭を横に振った。「おまえを助けようという者も一人もいないじゃないか?そうしようというのはわたしだけなんだよ。それにわたしは獣なんだよ」サイモンは口をしきりにもぐもぐしていたが、ついに明瞭に聞きとれる言葉を吐いて、いった。「うん、棒切れの上に曝されている豚の頭さ」「獣を追っかけて殺せるなんておまえたちが考えたなんて馬鹿げた話さ!」と、その豚の頭はいった。その一瞬、森やその他のぼんやりと識別できる場所が、一種の笑い声みたいな声の反響にわきたった。「おまえはそのことを知っていたのじゃないのか?わたしはおまえたちの一部なんだよ。おまえたちのずっと奥のほうにいるんだよ?どうして何もかもだめなのか、どうして今のようになってしまったのか、それはみんなわたしのせいなんだよ」笑い声が、また震えるように反響した。(ウィリアム・ゴールディング「蝿の王」P244)
2010年08月30日
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ブルーベリーが食べごろになってきました。でも、そうおいしいものでもない(笑)。
2010年08月30日
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真王セィミヤは、時をみてまた訪れると約して、宮へもどっていった。宮にもどるとすぐに、セィミヤは、エリンとともに書いた問いかけの文をオチワに託して神々の山脈(アフォン・ノア)へ送りだしたが、そのあと、もどってきたオチワの脚輪には、同じ文が入ったままだった。ただ、その文は、開くと、かすかに花の香りがした。きっとオチワは、神々の山脈(アフォン・ノア)の、どこか花が咲き乱れる谷でひととき休み、またもどってくるのだろう。神々の答えとは、このようなものなのだと、セィミヤは思った。(上橋菜穂子さん「獣の奏者(完結編)」P182)
2010年08月29日
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東雅夫さんの「遠野物語と怪談の時代」を買書つんどく。僕としては、「遠野物語」の本質は怪談だ、なんてことは、あまり意味のないことのように思えるのですが、なんとなく買ってみました。「刊行100周年を迎えた『遠野物語』。怪談スペシャリスト・東雅夫が、その誕生と時代の諸相を怪談史の視点から探究。明治後期に文壇を席巻した怪談文芸の潮流をひもとき、怪談実話としての『遠野物語』に迫る。」(角川書店の紹介)
2010年08月29日
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眼の前には、不思議な光を浴びて、豚の頭が楽しそうに笑いかけていた。自分にたかっている蝿も、積まれた臓腑も無視し、棒切れの先に晒し首になるという屈辱も無視して、平気なようすだった。(中略)例の猥雑なものがにたにた笑っては血を滴らせているこの空地からは、蝶々でさえ逃げ出していた。サイモンは、用心深く眼を閉じたまま頭を垂れ、片手で眼をおおった。木の下には影もなかったが、いたるところに真珠色の静けさがあった。現実的なものも、夢幻的なとりとめのないもののように見えた。(中略)サイモンの面前には蝿の王が棒切れの上に晒され静まりかえってにやにや笑っていた。ほど経てサイモンは絶望的になって、うしろを向いた。白い歯と霞んだ眼と血は、依然として眼中から離れなかった。そして、その彼の凝視は、あの古くから人間につきまとっている、のがれるすべのない認識の体験によって、釘づけにされたままだった。彼の右のこめかみの所がずきずき痛みだした。(ウィリアム・ゴールディング「蝿の王」P234)
2010年08月28日
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文豪怪談傑作選「幸田露伴集 怪談」を買書つんどく。この傑作選も、とうとう完結、のようです。ほんとかな?「仙人からマンモスまで、博覧強記の怪奇の世界。鏡花と双璧をなす幻想文学の大家露伴。神仙思想に通じ男性的な筆致で描かれる奇想天外な物語は圧巻。澁澤、種村の心酔した世界を1冊に纏める。」(筑摩書房の紹介)
2010年08月28日
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エリンを見つめ、セィミヤは笑みを消した。「そうやって、そなたは一人で、戦場で起こることの責任を負うつもりなのでしょう?」そよそよと渡ってきた風が、エリンの後れ毛をゆらした。エリンはセィミヤから目を逸らし、広い野を見つめた。「王獣の幸せは、王獣にしかわからぬと申しましたが」エリンはつぶやいた。「霧の民(アーリョ)が伝えたような、獣も人も死ぬような災いが起きるのであれば、それは王獣にとって不幸なことでしょう。・・・・・そうだとすれば、わたしは間違いなく、彼らを、不幸へと導くのです」セィミヤは首をふった。「そうすることで、そなたは、この国の民を救うのよ」エリンは野を見つめたまま、言った。「そうかもしれませんが、それは、王獣たちには、なんの関わりもないことですから」(上橋菜穂子さん「獣の奏者(完結編)」P158)
2010年08月27日
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奥泉光さんの「シューマンの指」を買書つんどく。これ、とても評判がよいみたいですよ。「シューマンに憑かれた天才美少年ピアニスト、永嶺修人。彼に焦がれる音大受験生の「私」。卒業式の夜、彼らが通う高校で女子生徒が殺害された。現場に居合わせた修人はその後、指にピアニストとして致命的な怪我を負い、事件は未解決のまま30年の年月が流れる。そんなある日「私」の元に修人が外国でシューマンを弾いていたという「ありえない」噂が伝わる。修人の指に、いったいなにが起きたのか。鮮やかな手さばきで奏でる“書き下ろし”長篇小説。」(「BOOK」データベースより) ↑ そっか。これ鍵盤か。
2010年08月27日
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王獣部隊をつくるということが、真王(ヨジェ)セィミアにとって、どういう意味を持つのかが、初めて、心に迫ってきた。長く、清らかでありつづけた真王(ヨジェ)が、とうとう、戦に関わろうとしているのだ。「・・・・・真に自由な者など、この世にいるだろうか?」ぼんやりと影のように見えるシュナンの顔の中で、目だけが哀しげな光を放っていた。(上橋菜穂子さん「獣の奏者(探求編)」P366)
2010年08月26日
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「語り」と「語りのための技法」を完備した小説を見よ!とばかりの、ペルーの作家バルガス・リョサの初期代表作です。大好きな作品でもあり、絶版状態にあることに歯がゆい思いをもっていましたので、このたびの岩波文庫での復刊が、ほんとうにうれしくて、紹介してみました。この機会に、ぜひ「つんで」(?)みてはいかがでしょうか?(笑)「インディオを手下に従えて他部族の略奪を繰り返す日本人、アマゾン奥地の村の尼僧院で暮らすインディオの少女、砂の降りしきる町に流れ着き、娼館「緑の家」を建てる盲目のハープ弾き……。広大なペルー・アマゾンを舞台に、さまざまな人間たちの姿と現実を浮かび上がらせる、物語の壮大な交響楽。現代ラテンアメリカ文学の傑作。(全2冊)」 (岩波書店の紹介)
2010年08月26日
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上田正昭さんの「日本神話」を買書つんどく。もともと、岩波新書で1970年に出て、絶版になっていたものの、新版らしいです。「古代史研究の第一人者であり、1300年の歴史をもつ神社の神主でもある著者が、日本神話の原像を追究した名著。現代人の多くにとって、神話とは『古事記』や『日本書紀』に描かれた神々の話となっている。しかし本来の神話はもっと素朴で、信仰に裏付けられながら、儀礼や祭式のなかで語り継がれてきたものではなかったか。地方の祭りの場に足を運び、文献のわずかな違いにも注目。徹底的に神話を再検討し、最新の考古学の成果も取り入れた待望の新版。」(「BOOK」データベースより)
2010年08月25日
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「わたしは・・・・・」思わず、エリンは口を開いた。「生き物の理(ことわり)を学んでいます。この世に生きる膨大で多様な生き物が、どうして、このようにあるのか知りたくて」そっとクリウの本に触れながら、エリンは言った。「あなたがいま、おっしゃったことは、人という生き物の、それですね」(上橋菜穂子さん「獣の奏者(探求編)」P227)
2010年08月25日
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池内紀さんの「文学フシギ帖 日本の文学百年を読む」を買書。ブック・ガイド的に買ってみましたが、これ面白いです。「鴎外・牧水・百けんから三島・寺山・春樹まで、いずれ劣らぬ腕利きぞろい。様々な「フシギ」を秘めた作品に、当代随一の読み巧者が挑む。何度も読んだ作品を「発見」し、埋もれた作家の才能に震え、飛びかける想像をわがものとして経験する。読めば世界を見る眼がかわる、文学の魅力満載! 老若男女におすすめの文学フシギ入門。」(岩波書店の紹介)
2010年08月24日
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王獣規範が、王獣の生態を謎にとどめるためにつくられていた規範であったように、闘蛇の生態にも、きっと、謎にしておかねばならぬ理由が・・・・・。エリンは、じっと、膝においた手を見つめた。(ここが・・・・・)分かれ道だ。この道を進めば、自分はまたあけてはならぬ扉をあけてしまうことになるだろう。それでも、それがわかっていてもなお、熱い衝動がつきあげてきて抑えることができなかった。「牙」の死の謎をこの手で解き明かしたい。――母が、なにと自分の命を引き換えにしたのか、知りたかった。(上橋菜穂子さん「獣の奏者(探求編)」P33)
2010年08月24日
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あっけなく終わってしまった、というのが最初の印象です。樹木希林さん(?)の怪演(?)が、ひどく目立っていましたが、ただのお手伝いさんが、なぜあれほど勝手なことやってんだか理解に苦しみました。原作では、樹木希林さん(?)の位置を占めるのが、もうひとりのおばさんなので、それほど違和感がなかったし、あんなに勝手なこともしませんでした。一方で、アリエッティは、とてもよかったですね。原作よりもキャラ立ちしていて、鮮やかな印象が残りました。ヒロインが作品全体を照らし出しているようで、これはジブリの作品全般に言えることかも知れません。そういう意味では、「借りぐらしのアリエッティ」を見たというよりは、借りぐらしの「アリエッティ」を見た感じです。ただ、僕には、原作の、入れ子構造になっている枠の部分と語りの部分の交錯が、図抜けてすばらしく思えたので、この映画の印象としては、その語り部分を単純化したみたいで、ちょっと弱い感じがしてしまいました。蛇足ですが(というか、すべて蛇足みたいなもんですが)、スピラーというキャラは、僕が読んだ「床下の小人たち」では登場せずに、続編で出てくるようです。
2010年08月23日
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サイモンは、果物の木のある地帯を通って進んでいた。今日は浜辺で火燃やすのに忙しかったので、ちびっ子たちもそこまで彼の後を追ってはこなかった。蔓草の間を進み、やがて空地の傍の、大きく蔓草で編まれて蓆みたいになっている所へ出、その中にもぐりこんだ。帳のようになっている緑の葉の向こう側では、日光が強く照りつけており、その真ん中で蝶々がいつ果てるとも思えない踊りを踊っていた。彼はひざまずいた。光線が彼の頭上に突き刺さるように照りつけた。以前ここへきたときは、ここの空気は酷熱で揺れ動いているように思えたものだったが、今日は自分を脅かしているような気がした。まもなく汗が、長くのびたぼさぼさの髪から滴り落ち始めた。じれったそうにからだを動かしてみたが、太陽の光線を避けることはできなかった。ほどなく彼は喉の渇きを覚えた。時がたつにつれ、その渇きはいっそう激しいものになっていった。彼は、じっとそこに座り続けた。(ウィリアム・ゴールディング「蝿の王」P225)これも、サイモンの「てんかん」発作の場面だと思います。
2010年08月22日
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カレル・チャペック「絶対製造工場」を買書つんどく。絶版になっている、「絶対子工場」のチェコ語からの新訳です。「一人の男が「絶対=神」を製造する器械を発明。増殖する「絶対」により世界は大混乱に――『ロボット』『山椒魚戦争』の作者による傑作SF長編がチェコ語からの初訳で登場! 挿絵付き。」(平凡社の紹介)
2010年08月22日
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サイモンは、幕のように垂れている木の葉の茂みをもとのとおりにした。斜めに射してくる幾条もの蜜色の夕日の光も、しだいに淡くなった。それらの光線は、潅木をこえ、緑の蝋燭のような蕾の群れをのりこえ、天蓋のような梢へと移動していった。茂った木の下では、暗闇が濃くなった。光が褪せてゆくにつれ、眼もくらむような多彩な色合も死んでゆき、酷熱も、喘ぐような雰囲気も、しだいに涼しくなっていった。蝋燭のような蕾がびくびく動いた。緑のその蕚片(がくへん)が少しめくれ、花の白い先端が、ほのぼのと大気にむかって開いていた。もう日光はきれいにこの空間から去り、空からも姿を消してしまっていた。暗黒が漂い、木々の間の道をかき消し、あたりはただ海底のような、漠々たる、そして、奇怪な、雰囲気に包まれていた。蝋燭のような蕾が大きな白い花となって開き、それが宵の明星に続く星々のちかちかするような光芒をうけて輝いていた。花の芳香が大気いっぱいに流れ、島全体をおおっていた。(ウィリアム・ゴールディング「蝿の王」P92)サイモンの「てんかん」発作の場面だと思うのですが、すごいですね。
2010年08月21日
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エリンという<獣の奏者>へと続いてきた道と、その先に続いていく道。人という生き物の群れの、滔々たる流れのようなものが見えた瞬間、これを書きたい、と思ったのでした。(中略)<I 闘蛇編><II 王獣編>が「人と獣」の物語であるとすれば、<III 探求編><IV 完結編>は、「人々と獣たちの歴史の物語」なのかもしれません。(上橋菜穂子さん「獣の奏者(完結編)」あとがき)
2010年08月21日
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ラーフはいらだった。そして、ふっと、ある敗北感に襲われた。はっきりつかめない何ものかに直面していることを、直感した。自分を食い入るように見ている相手の眼には、ユーモアはなかった。「でも、獣はいないったらいないんだ!」自分にも思いもよらなかったある感情が、胸中に生じてきて、彼は、問題を大声で繰り返し明瞭に指摘せざるを得ない衝動を感じた。「でも獣はいないったらいないんだ!」会衆は、黙っていた。(ウィリアム・ゴールディング「蝿の王」P57)「もちろん、そんなものいないさ」「なぜ、いない?」「だって、そんなもの意味ないもの。家だとか街だとか――テレビだとかなら別だが――そんなもの意味ないだろう」踊ったり歌を歌ったりしていた少年たちも、踊りつかれ歌いつかれ、今はその歌も、言葉にもならないただのリズムだけのものになっていた。「しかし、かりにそんなのが意味ないとしても?つまり、ここでは、この島の上では意味ないとしても?かりにそんなのが、どこからか、ぼくらを見張っていて待ち伏せしているとしたらどうなんだ?」(ウィリアム・ゴールディング「蝿の王」P154)「未来における大戦のさなか、イギリスから疎開する少年たちの乗っていた飛行機が攻撃をうけ、南太平洋の孤島に不時着した。大人のいない世界で、彼らは隊長を選び、平和な秩序だった生活を送るが、次第に、心に巣食う獣性にめざめ、激しい内部対立から、殺伐で陰惨な闘争へと駆りたてられてゆく……。少年漂流物語の形をとりながら、人間のあり方を鋭く追究した全世界衝撃の問題作。」(新潮社の紹介)
2010年08月20日
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新訳された、ダシール・ハメット「ガラスの鍵」を買書つんどく。「ガラスの鍵」も、出ては絶版になり、復刊されては絶版になる定番メニューです。「賭博師ボーモントは友人の実業家であり市政の黒幕・マドヴィッグに、次の選挙で地元の上院議員を後押しすると打ち明けられる。その矢先、上院議員の息子が殺され、マドヴィッグの犯行を匂わせる手紙が関係者に届けられる。友人を窮地から救うためボーモントは事件の解明に乗り出す。」(「BOOK」データベースより)
2010年08月20日
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その顔を見たとたん、胸の底で、哀しみに似たなにかがゆれた。エリンは顔をゆがめながら、それでも、あえて、言葉をついだ。「闘蛇を殺戮する武器として使われても、きっとリランは苦痛には感じない。――それを耐えがたい苦痛に感じているのは、リランではなくて、わたくしです」(上橋菜穂子さん「獣の奏者(王獣編)」P363)というわけで、再読になりますが、上橋菜穂子さん「獣の奏者(闘蛇編、王獣編)」を読みました。王獣とエリンの交感を縦糸に、真王(ヨジェ)と大公(アルハン)の関係を横糸に、織り上げられたこの物語は、全編がエリンの心情に強く彩られています。しかし、今回再読してみて、思いのほか、政治や制度のことがくっきりと描写されていると感じました。王獣と心通わせるによって、否応なく政治に巻き込まれていくエリンの姿は、この闘蛇編、王獣編において中心のテーマのひとつになっています。このことからも、「歴史」と「闘争」の続編が書かれる必然性があったのだと思いますが、なんといってもエリンとリランのその後が知りたい、という声が強かったようですね。この2巻をもってしても、傑出したファンタジーになっていると思いますし、僕自身、初読時よりも、興奮しながら読んでしまいました(笑)。引き続き、探求編、完結編を読んでいきます。
2010年08月19日
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はい、今年もモミジアオイが咲きました。しかし、つくづく、おおづくりな花だなあ・・・・・。もともと、このモミジアオイは、道路の植栽帯にあったのを、種を失敬することにより、わが家にやってきました。今や、その植栽帯は撤去されてしまい、跡かたもありません。
2010年08月18日
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シェイクスピア「じゃじゃ馬馴らし」を買書つんどく。松岡和子さんの「シェイクスピア全集」も20巻目になりました。「ヴェローナの熱血紳士ペトルーチオがパドヴァのじゃじゃ馬娘キャタリーナと結婚し、その「調教」に乗り出す。軽快な喜劇。」(筑摩書房の紹介)
2010年08月18日
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ふっと、脳裏に、ずっと昔、目にした、蜂の分封の光景がよみがえってきた。女王蜂と生きるために、一気に飛び立っていったあの黒い群・・・・・。人もまた古い女王を捨てて、ああして群を分けていく。蜂は、ただ分かれていくだけだが、人は古い女王を押しつぶさずにはいられないのだ。エリンは深く息を吸った。――胸にこみあげてきたのは、哀しみによく似た、しかし、それよりも虚ろな、なにかだった。(上橋菜穂子さん「獣の奏者(王獣編)」P391)
2010年08月17日
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高楼方子さんの「十一月の扉」を買書つんどく。これまた、無花果。さん、のブログで見て、買書してみました。「中学二年の爽子は、偶然みつけた素敵な洋館「十一月荘」で、転校前の数週間を家族と離れて過ごすことになる。「十一月荘」の個性あふれる住人たちとの豊かな日常の中で、爽子は毎日の出来事を自分の物語に変えて綴り始めた。のんびりしているようで、密度の濃い時間。「十一月にはきっといいことがある」―不安な心を物語で鎮めながら、爽子はこれから生きて行く世界に明るい希望を感じ始めていた。」(「BOOK」データベースより)
2010年08月17日
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エリンは、うつむいて、ダミアの胸もとをぼんやりと見ていた。(王獣で闘蛇を制御する。――音無し笛で、王獣を制御するように・・・・・)なるほど、人という生き物は、こういうふうに思考するのだな――そう思ったとき、これまで心を重く締めつけていたものが、砂のように崩れ、代わりに、味気ない、冷え冷えしたものが心に広がっていった。(上橋菜穂子さん「獣の奏者(王獣編)」P297)「人というものが、こんなふうに物事を考えて、進んでいく生き物であるのなら、そのまま行ってしまえばいい。人という生き物が殺し合いをしながら均衡を保つ獣であるのなら、わたしが命を捨てて「操者の技」を封印しても、きっと、いつかまた同じことが起きる。そうやって滅びるなら、滅びてしまえばいい・・・・・」こういう殺伐とした思いは、きっと、ずっと 、心の底に潜んでいたのだ。口に出してみると、これが本音であることがよくわかった。それなのに、その言葉を吐きだしても、胸の底にある怒りは、消えていかなかった。(上橋菜穂子さん「獣の奏者(王獣編)」P342)
2010年08月16日
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百田尚樹さんの「永遠の0」を買書。みなさんのブログやら、なにかと評判よさげなので・・・・・。「「娘に会うまでは死ねない、妻との約束を守るために」。そう言い続けた男は、なぜ自ら零戦に乗り命を落としたのか。終戦から60年目の夏、健太郎は死んだ祖父の生涯を調べていた。天才だが臆病者。想像と違う人物像に戸惑いつつも、一つの謎が浮かんでくる─。記憶の断片が揃う時、明らかになる真実とは。涙を流さずにはいられない、男の絆、家族の絆。」(「BOOK」データベースより)
2010年08月16日
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ほんとうに幸せだった。あれは、なにものにも代えがたい、宝物のような日々だった。(大人になったら、夏の小屋があったカショ山の、あの花畑へ行こう)ジョウンが大好きだったあの花畑に寝転がって、天に向かって話そう。どんなに、あなたに感謝しているか、どんなに、あなたに会いたいか。どんなふうに日々を過ごし、どんなふうに大人になったか話そう。・・・・・そうか、よくがんばって生きてきたな、とジョウンに微笑んでもらえるような生き方をしよう。空一面にたなびいている雲が、淡い菫色から群青色へ変わっていくまで、エリンは草原にたたずんでいた。(上橋菜穂子さん「獣の奏者(王獣編)」P65)
2010年08月15日
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ボストン・テラン「音もなく少女は」を買書つんどく。書店の新刊書コーナーで見かけて、ひとめぼれしました。「貧困家庭に生まれた耳の聴こえない娘イヴ。暴君のような父親のもとでの生活から彼女を救ったのは孤高の女フラン。だが運命は非情で…。いや、本書の美点はあらすじでは伝わらない。ここにあるのは悲しみと不運に甘んじることをよしとせぬ女たちの凛々しい姿だ。静かに、熱く、大いなる感動をもたらす傑作。」(「BOOK」データベースより)
2010年08月15日
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今年は、ヒマワリちょっと失敗しました(なんでだろ?)が、細々と咲いた中から撮ってみました。
2010年08月14日
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舞城王太郎さんの「獣の樹」を買書つんどく。舞城さんは、なんだか、けったいな小説を書かはりますなあ。「ある日ある朝、西暁町で、十四歳くらいの僕が馬から生まれる。記憶も名前もない。でも名前なんかいらない、と僕は思う。自分が誰だってどうでもいい…のに、正彦が僕を弟にする。それからヒトとしての生活にようやく馴れてきたところに蛇に乗る少女楡が現れ、僕を殺人現場に誘う。冒険が始まる。失踪した父親。地下密室。獣の大革命。そして恋。混乱と騒動の中、僕は暗い森を駆ける駆ける駆け抜けていく。舞城王太郎が講談社ノベルスに舞い戻り投下する、新しい小説。」(「BOOK」データベースより)
2010年08月14日
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エサルは、にこりともせずに言った。「王獣も、闘蛇も、ふつうの獣ではない。この国の根幹に関わる、いわば、政治的な獣よ。これらに深く関わる者たちは、いやでも、政治に関わらざるをえない。」(上橋菜穂子さん「獣の奏者(闘蛇編)」P275)王獣は闘蛇を食らう王権の象徴。そして、それを操ることができる自分は、真王(ヨジェ)にとっても、大公(アルハン)にとっても、大きな存在になってしまったのだと、エサルは言った。リランと心を通わせることが、そんな意味を持つとは、思ってもみなかった。まえに、エサルが、王獣は政治的な獣だと言った意味が、初めて、実感となって迫ってきた。(上橋菜穂子さん「獣の奏者(王獣編)」P53)はるか昔、人の手で飼われている王獣と闘蛇が繁殖することがないよう、誰かが巧妙に抑制する手段を作りあげたのだ。それも、世話する者たちでさえ気づかぬように、意図の隠蔽をはかりながら。(上橋菜穂子さん「獣の奏者(王獣編)」P147)
2010年08月13日
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保立道久さんの「かぐや姫と王権神話 『竹取物語』・天皇・火山神話」を買書つんどく。「竹取物語」は短かくて読みやすいということもあって、いつか読んでみたいと思っていましたが、「竹取物語」全文も収録されたこんな本が出版されましたので買ってみました。「ミカドのモデルは天武天皇、かぐや姫のモデルは宮廷舞踏会に動員され、天皇と同衾させられる舞姫たちだった。しかも同物語には、『古事記』『日本書紀』のアマテラス神の登場により抹殺された“火山神”たちの原始神話の世界が隠されていた。『竹取物語』の新翻刻全文を収録。」(洋泉社の紹介)
2010年08月13日
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母が残していった言葉の意味を――母がなぜああいうことをしたのかを知りたかった。それができたら、きっと、冷たい疑いの欠片に邪魔されることなく、まっすぐに母を思うことができる・・・・・。目の奥に、雛を慈しむように抱いていた、美しい獣の姿が浮かんだ。あの王獣は我が子を救うために闘蛇を操ることを、天の上で、ためらっただろうか。枝の隙間から見える、淡い黄昏の色に染まりはじめた天を見上げながら、エリンはそんなことを思っていた。(上橋菜穂子さん「獣の奏者(闘蛇編)」P165)
2010年08月12日
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倉橋由美子さんの「暗い旅」を買書つんどく。いずれ絶版になりそうなかんじがするので、その前に買っておきました。「恋人であり婚約者である“かれ”が突如謎の失踪を遂げた。“あなた”は失われた愛を求めて、東京から、鎌倉そして京都へと旅立つ。切ない過去の記憶と対峙しながら…。壮大なるスケールの恋愛叙事詩として、文学史に燦然と輝く、倉橋由美子の初長編。「作者からあなたに」「あとがき」「作品ノート」収録。」(「BOOK」データベースより)
2010年08月12日
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・・・・・もう一度箱を開くと、内箱の下にカードがピンで留めてある。それをはずし、水茎の跡もうるわしい文面に目をはしらせる。「そして、愛はとこしえに甘美なり」ぼくは身をふるわせた。抑えようがなかった。彼女の最後の言葉だ、という思いが重くたれこめてくる。(リチャード・マシスン「ある日どこかで」P403)というわけで、リチャード・マシスン「ある日どこかで」を読みました。僕もそうなのですが、この小説の読者は、昔、映画「ある日どこかで」を見て感銘を受けた人で、その原作として意識しながら読む人が多いと思います。そこで、映画がどうだったか、記憶をたどってみることになるのですが、「大好き」なことは覚えていても、なんせ20年以上も前(ビデオで見ました)のことで、断片的な記憶しかないということに気づくわけです。この本を読むということは、そういうことでした。で、小説としては、「時を超えた愛」が、はたして報われているのか、報われていないのか、また、主人公にとっても、エリーズにとっても、めぐり合い、そして再会(どっちがめぐり合いで、どっちが再会なのか?)することがよかったのかどうなのか、迷うところの多い小説ですが、なにか理解を超えた「永劫」を感じることは確かです。これは、「幸せ」の本質論にかかわることだと思います。また、映画ではどうだったか覚えていないのですが、原作を読むことで、エリーズを通した女性の覚醒の物語でもある、という印象を強くしました。ただ、時空を超える方法が、こんなんでいいわけがないということも、はっきり感じました(笑)。
2010年08月11日
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交響曲第9番ニ長調は、「大地の歌」を含めると、グスタフ・マーラーの10番目の交響曲となる。交響曲第10番が未完成のままマーラーが死去したため、この曲が完成された最後の交響曲となった。この曲は、なんらの標題も用いられていないにもかかわらず、全曲が「別れ」や「死」のテーマによって貫かれていることが印象づけられる。 また、この曲でマーラーは、過去の自作、他作から多くの引用をしており、これらが過去の追想や別離の気分を高めている。この引用を含めて技法的には、これまでの諸作品の集大成であることを超えて、新たな境地を開こうとする意欲が認められる。多くの場合、音楽とテーマの普遍性、独自性、書法の大胆さ、表現の崇高さなどにおいて第9番はマーラーの最高傑作と見なされている。(うぃきぺでぃあ)
2010年08月10日
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・・・・・「ああ、信じられない」エリーズは不安でいっぱいのようだった。心に秘められていた強烈ななにかが噴出しようとするなか、その破壊力を心配し、解き放つのを恐れていた。「あなたを驚かせたくないの、リチャード。もしもこれが、あなたを焼きつくしたらどうするの?これはとても、とても強烈なのよ。いままでは、その気配さえ表に出さずにいたのに。いままでの人生でずっと押し殺してきた、凄まじい飢えのようなものなのよ」(リチャード・マシスン「ある日どこかで」P420)
2010年08月10日
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文豪怪談傑作選「芥川龍之介集 妖婆」を買書つんどく。この傑作選も、あと「幸田露伴集」を残すだけ・・・・・となるのだろうか?「本所七不思議に育まれ、身近な怪談の蒐集筆録に熱中するかたわら、西欧の怪奇幻想小説を愛読、ときに河童図や化物絵の筆を執った怪異の文豪芥川龍之介。夏目漱石、泉鏡花、柳田國男らに早熟な才能を愛でられ、大正怪談黄金時代の申し子として多面的に活躍した芥川の怪談文芸作品を初めて一巻に集大成。極めつきの名品から知られざる珠玉作、秘蔵の怪談実話ノートたる「椒図志異」も完全収録。」(「BOOK」データベースより)
2010年08月09日
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母は、水の冷たささえ感じていないように、ただ、じっと闘蛇を見つめていた。母の目に浮かんでいるのは哀しみの色だけではなかった。なにかをこらえているような、苦悩の色があった。奥の岩房のほうから岩を伝わって虚ろに響いてくる、なにを言っているのかもわからない闘蛇衆の声を聞きながら、エリンは長いこと、母と、死んだ闘蛇たちを見つめていた。(上橋菜穂子さん「獣の奏者(闘蛇編)」P19)
2010年08月09日
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2010年08月08日
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阿刀田高さんの「闇彦」を買書つんどく。阿刀田さんのでは、「新トロイア物語」しか読んだことがありません。こういうのも面白そうです。「幼いころから「私」の眼前に見え隠れする不可思議な存在〈闇彦〉。それはどこから来て、何を伝えようとしているのか。お婆あの言葉、死んだ少女、海沿いの温泉宿、ギリシャの血をひく美貌の女……。人生の要所要所に現れる〈闇彦〉に導かれるように、「私」は神話と物語の淵源に遡っていく。国際ペン東京大会2010記念特別書下ろし作品。」(新潮社の紹介)
2010年08月08日
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「また桜庭一樹読書日記」が更新されていますので、ご紹介。今回は、萩原朔美さん「劇的な人生こそ真実 私が逢った昭和の異才たち」。「女流作家ぎりぎり世界アンソロジー」と題して、桜庭さんとF嬢が選定した実在しないアンソロジー(シャーロット・パーキンズ・ギルマン「黄色い壁紙」、シャーリィ・ジャクスン「くじ」、吉田知子さん「お供え」、エリザベス・ボウエン「魔性の夫(つま)」、ミュリエル・スパーク「ポートベロー通り」、山口年子さん「誕生」(幻想と怪奇8号)、ウニカ・チュルン「ジャスミンおとこ」、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「そして目覚めると、私はこの肌寒い丘にいた」など、アンナ・カヴァンの作品は分からなかった。「ジュリアとバズーカ」だろうか?)。それから、マーガニータ・ラスキ「ヴィクトリア朝の寝椅子」、また、遠藤周作さん「海と毒薬」のことなんかが書いてあります。アンソロジーの選定には、なにか、いっちょがみしてみたい気がしますね(笑)。
2010年08月07日
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貴志祐介さんの「悪の教典」を買書つんどく。なんだか、あの、そらおっとろしい「黒い家」の再来めいたものを感じます。「黒い家」怖かった・・・・・。文藝春秋社の特設サイトもあります。「「俺には感情がないらしいんだ」。生徒からの絶大な人気を誇り、職員室やPTAの間でも信頼の厚い教師、蓮実聖司(はすみ・せいじ)。好青年の貌(かお)をもち、高いIQを誇る蓮実の正体は、決定的に他者への共感能力に欠けた反社会性人格障害(サイコパス)だった――。暴力生徒やモンスターペアレント、集団カンニングに、淫行教師。現代の学校が抱える病理を自らも内包する私立学園に起きた惨劇とは。ピカレスクロマンの輝きを秘めた、狂気と戦慄のサイコ・ホラーの誕生です。」(文藝春秋の紹介)
2010年08月07日
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ケイトは、顔をふせて、しばらくだっまっていましたが、「そう、それで、ほんとにおしまいなのね。」と、ようやくいいました。「まあ、」と、メイおばさんがいいました。「そういったもんだね。でなけりゃ、はじまりといえるかもしれないけど・・・・・」(メアリ・ノートン「床下の小人たち」P250)というわけで、メアリ・ノートン「床下の小人たち」を読みました。凡百の「剣と魔法」のファンタジーなんか、この、むしろリアリズムといったほうがふさわしい、しかし、まぎれもなくファンタスティックな物語の前に膝を折りたまえ、といいたくなるような上質のファンタジーです。シリーズは、全部で5冊あるので、もちろん、続編にも気が惹かれますが、それはさておき、これで、「借りぐらしのアリエッティ」を見に行きましょう、と思っています。
2010年08月06日
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高橋由太さんの「もののけ本所深川事件帖 オサキ江戸へ」を買書つんどく。軽く読めるように、買書しました。なにか、「しゃばけ」みたいですよね。読んでないけど・・・・・。「江戸・本所深川で、献上品の売買を行う、献残屋の手代として働く周吉。彼はオサキという妖狐に憑かれたオサキモチであり、いつも懐にいるオサキに、恋に仕事にと、やることなすことからかわれている。ある夜、辻斬りに襲われ、殺人も起きる中、店の一人娘・お琴がいなくなった。周吉はオサキモチの不思議な力を使い、お琴を捜しに夜の町へ出て行く。おとぼけ手代と妖狐一匹の妖怪時代劇。」(「BOOK」データベースより)
2010年08月05日
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「時計が、とまってるよ。」って、おとうとがいったんだね。ドライヴァおばさんが、くるっとふりむいたよ。いちばん上等の黒い上着に、帽子をかぶって、おとうとを駅までつれていくかっこうをしていてね。いつもとちがって、きちんとして、教会にでもいくように見えたもんだよ――「ドライヴァ」っていうのは、馬車の御者の意味なんだけど、そうは、ちっとも見えなかったよ。「なるほど、とまってるね。」といって、あごをおとして下をむいたんで、両ほおが、重そうにぶらさがって見えたのさ。「場所をかえたからね。」と、しばらくしていうと、つづけて、「ちゃんとなるさ、」といったっけ。「もとのとこへもどせばね。フリスさんが、月曜にはくるから。」そういって、また、おとうとのひじの辺りをつかまえて、ひっぱっていったのさ。(メアリ・ノートン「床下の小人たち」P241)う~ん、うまいなあ。
2010年08月05日
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