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小川洋子さんの「猫を抱いて象と泳ぐ」を買書つんどく。表紙カバーがとても魅力的です。ちょっと「博士の愛した数式」なんかを思い出しながら買ってみました。「天才チェスプレーヤー、リトル・アリョーヒンの密やかな奇跡の物語。廃バスに住む巨漢のマスターに手ほどきを受け、マスターの愛猫ポーンを掻き抱き、デパートの屋上に閉じ込められた象インディラを心の友に、チェスの大海原に乗り出した孤独な少年。彼の棋譜は詩のように美しいが、その姿を見た者はいない。なぜなら……。海底チェス倶楽部、からくり人形、人間チェス、白い鳩を肩にとまらせた美少女、老婆令嬢……やがて最も切なく愛(いと)おしいラストへ。」(文藝春秋社の紹介)小川洋子さん(1962年生)1988年「揚羽蝶が壊れる時」海燕新人文学賞受賞1990年「妊娠カレンダー」芥川賞受賞2004年「博士の愛した数式」読売文学賞、本屋大賞受賞 「ブラフマンの埋葬」泉鏡花文学賞受賞2006年「ミーナの行進」谷崎潤一郎賞受賞
2009年01月31日
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五芒星(ごぼうせい、英:Pentagram)は、互いに交差する、長さの等しい5本の線分から構成される図形で星型正多角形の一種である。正五角形に内接し、対称的である。一筆書きが可能。5つの要素を並列的に図案化できる図形として、洋の東西を問わず使われてきた。世界中で魔術の記号として用いられ、扱い方一つで守護に用いることもあれば、上下を逆向きにして悪魔の象徴になることもある。悪魔の象徴としてとらえる際には、デビルスターと呼ばれることもある。また、外側の5つの三角形が星の光彩を連想させる事から、星を表す記号としてよく用いられる。五芒星は、陰陽道では魔よけの呪符として伝えられている。印にこめられたその意味は、陰陽道の基本概念となった陰陽五行説、木・火・土・金・水の五つの元素の働きの相克を表したものであり、五芒星はあらゆる魔よけのお札として重宝された。日本の平安時代の陰陽師、安倍晴明は五行の象徴として、五芒星の紋を用いた。キキョウの花の形との類似から、この紋は晴明桔梗紋などと呼ばれる。現在も晴明神社の神紋などにみることができる。六芒星(ろくぼうせい、Hexagram)とは、星型多角形の一種で、六本の線分が交差する図形で、六角形の各辺を延長することでできる。ユダヤ教では、この図形を神聖なものとして見ている。このため、ユダヤ人の国であるイスラエルの国旗にはダビデの星と呼ばれる青色の六芒星が描かれている。また現在では少なくなったが、日本でも魔除けとしてこの図形を用いることがあった。現在でも使用されている例として、伊勢神宮周辺にある石灯籠に刻まれた籠目紋が有名である。魔除けの意味はないが、家紋として「籠目紋」、「丸に籠目紋」などが使用されている。(共に「うぃきぺでぃあ」)六芒星が天空=「大宇宙」を意味するのにたいして、五芒星は「人間」という小宇宙を意味する。(ANIMA MYSTICAさんのホームページより。多謝!)
2009年01月30日
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桐山恵子さんの「境界への欲望あるいは変身 ヴィクトリア朝ファンタジー小説」を買書つんどく。ぱらりらしていたら、なんか語りかけてきたような気がしたので・・・・・。「ワイルドとコレリが愛したロンドン。お姫さまが働き、ゴブリンが飛び回り、サタンが紳士に、紳士がサルになる……著名な作品のみならず、ベストセラー作家コレリの小説におけるファンタジー的諸相を読み解き、19世紀イギリスの虚実をあばく。」(世界思想社の紹介) (目次)1 欲望(プリンセスでなくなるお姫さま―ヴィクトリア朝童話の五人のお姫さま/芸術としての殺人―『アーサー・サヴィル卿の犯罪』の手相占い分析/欲望の生産および達成メカニズム―マリー・コレリ『サタンの悲しみ』における世紀末ロンドン)2 境界(肖像画の軌跡―『ドリアン・グレイの肖像』におけるゴシック的空間/フラヌールの物語―『ドリアン・グレイの肖像』を都市小説として読む/紳士のような猿、もしくは猿のような紳士―『ジキル博士とハイド氏』における嫌悪の分析)3 変身(宿命の人魚、メアリ―『メアリ・バートン』のファム・ファタル考察/『不思議な訪問』の文明化された空の妖精―ヴィクトリア朝ゴブリン童話の比較考察/「終結」から「非・終結」の感覚へ―一九世紀末文学における「終結」の考察) (「BOOK」データベースより)
2009年01月30日
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湊かなえさんの「少女」を買書つんどく。僕には、恨み節みたいに感じられて気が重かったですけど、「告白」がすごく売れているようです。この本はどうでしょうか?「高2の夏休み前、由紀と敦子は転入生の紫織から衝撃的な話を聞く。彼女はかつて親友の自殺を目にしたというのだ。その告白に魅せられた二人の胸にある思いが浮かぶ――「人が死ぬ瞬間を見たい」。由紀は病院へボランティアに行き、重病の少年の死を、敦子は老人ホームで手伝いをし、入居者の死を目撃しようとする。少女たちの無垢な好奇心から始まった夏が、複雑な因果の果てにむかえた衝撃の結末とは?」(早川書房の紹介)
2009年01月29日
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一村征吾さんの「マジックランタンサーカス」を買書つんどく。「幻想的な光(マジックランタン)に彩られた物語」なのだそうで・・・・・。帯に「幻想小説の復活」みたいな、村上龍さんの推薦文が載っていました。「母の胎内の暗がりの中で三ヶ月もの間、すでに亡骸となってしまった双子の姉妹と過ごして生まれた少女ミユは、自ら、この世との交信と成長を断った。そして黙々とスケッチ・ブックに描いていくのは世界の図鑑。その少女が迷い込むのは暴力とセックスと頽廃が支配する街ZOO!図鑑が完成したとき、この世界は救済されるのか?大型新人のデビュー作!ランダムハウス講談社第二回新人賞受賞作。」(「BOOK」データベースより)「ZOOと呼ばれる貧民街で生まれ育ったニムとシバは、見た目には、他人からは見分けがつかないほどよく似ている双子であるが、内面は穏やかなシバに対して、ニムは暴力的という、正反対の性格をしている。シバは突然眠りに引き込まれ、記憶を失ってしまう奇病に罹っている。東京――CMディレクターの「僕」は、幼い娘のミユが家からいなくなったことに気がつく。ミユは、母の胎内で生命を失ってしまった双子の、もうひとりと隣り合わせで何ヶ月か暮らしたせいで、三歳になる頃、外部との交信を絶ち、自ら成長することをやめていた。そのミユはシバとニムの前に現れ、ニムとミユは、ピエロのコンビとしてサーカスで働く。ミユは、彼女の世界の図鑑を作るために、スケッチ・ブックに絵を描き続ける。夢と現実の境界線をこえ、空白を抱えた登場人物たちの幻想的な光(マジックランタン)に彩られた物語。ミユの図鑑は世界を救済できるのだ。」(ランダムハウス講談社新人賞受賞作紹介)
2009年01月28日
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シェイクスピア「マクベス」を買書つんどく。何種類の訳を買えば気が済むのか?もう、こんなことしていてどうしましょ・・・・・。「卓越した武勇と揺るぎない忠義でスコットランド王ダンカンの信頼厚い将軍マクベス。しかし荒野で出会った三人の魔女の予言はマクベスの心の底に眠っていた野心を呼びさます。夫以上に野心的な妻にもそそのかされ、マクベスは遂に自分の城で王を暗殺。その後は手に入れた王位を失うことを恐れ、憑かれたように殺戮を重ねていく…。悪に冒された精神が崩壊する様を描くシェイクスピア悲劇の傑作。リズムある名訳でおくる決定版。」(「BOOK」データベースより)
2009年01月27日
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「モネは目にすぎない。しかし何と素晴らしい目だろう。」ということばを、「シャングリ・ラ」の中で読んで、見覚えのあることばだけど、どこで読んだのだろう?ひょっとして、小林秀雄さんの「近代絵画」の中かもしれない、と思い、本をひっぱりだしてひろい読みをしてみましたが見つかりませんでした。どなたのことばだったでしょうか?しかし、それはそうと、小林さんの文章は、なんと深い教養というかなんというかに裏打ちされた文章なのか、とためいきが出ました。ひろい読みをしただけなのに・・・・・。小説を読んでいても、こんな文章に出会えることはめったにあるものではありません。小林秀雄おそるべし。※ウェブで検索していたら、これはセザンヌのことばであると知りました。 昔、どこで目にしたのかは、やっぱり分かりませんが。
2009年01月27日
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以前、アマゾンから洋書の案内がきたことを書きましたが(「The Curious Case of Benjamin Button」(?))、今になってその理由が分かりました。種明かしは、映画化で、これにあわせて今まで未訳だったスコット・フィッツジェラルドの「ベンジャミン・バトン」の翻訳が同時に2種類出ましたので、角川文庫版を買書。やっぱり映画化の影響はすごいです。ところで、この角川文庫版のカバーの絵は、トルーマン・カポーティの「叶えられた祈り」(新潮文庫版)とまったく同じ、エドワード・ホッパーの「ナイト・ホークス」です。で、「ベンジャミン・バトン」の映画のオフィシャルサイトです。「老人として生まれ、若者へと時間を逆行して生きるベンジャミン・バトン。しかしその心は同世代の人間と変わらず、青春時代の苦悩や恋愛や結婚を経験し、戦争などの逆境に果敢に挑んでいく。不思議な人生を歩みつづける彼を、最後に待つものは…(「ベンジャミン・バトン」)。20世紀を代表する伝説的な作家による、ロマンあふれるファンタスティックな作品を集めた傑作選。収録作品 ベンジャミン・バトン―数奇な人生/レイモンドの謎/モコモコの朝/最後の美女/ダンス・パーティの惨劇/異邦人/家具工房の外で」(角川文庫版の「BOOK」データベースより)
2009年01月26日
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ドゥオーモ(Duomo)はイタリア語で、イタリアでの街を代表する教会堂の事である。ローマ以外での司教座聖堂の大聖堂にほぼ同じ。 ラテン語のDomusが語源で、神の家を意味する。旅行ガイドなどにはドゥオーモとそのまま書いている。また、ドゥオモ、ドウモウとも表記される。 ドゥオーモと呼ばず司教座聖堂の意味のカッテドラーレと呼ぶ地方もある。(うぃきぺでぃあ)
2009年01月25日
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恩田陸さんの「ブラザー・サン シスター・ムーン」を買書つんどく。「ブラザー・サン シスター・ムーン」といえば、僕にとってはアッシジのフランチェスコなのですが、この本はそれと何か関係があるのでしょうか?恩田さんはオマージュ好きですし・・・・・。「ねえ、僕たちはなんで出会ったのだろう? 本と映画と音楽……それさえあれば幸せだった奇蹟のような時間(とき)。『夜のピクニック』から4年、恩田陸が贈る、青春小説の新たなスタンダードナンバー誕生!書き下ろし。」(楽天ブックスの紹介)
2009年01月25日
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笙野頼子さんの「おはよう、水晶 おやすみ、水晶」を買書つんどく。笙野さんの本も、デビュー作からひたすらつんでいます。いずれ読むこともあるでしょう。「世界と対峙する内面の静かな朝……。悲しみを超克する水晶の覚醒。猫と暮らす「私」。作家生活の日々の中で、時に可視化する「ヒトトンボ」「権現」の存在。生命、言葉、他者に取り巻かれた「私」とは? 笙野ワールドへの誘い!」(筑摩書房の紹介)
2009年01月24日
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クリスチャン・ローゼンクロイツ(Christian Rosenkreutz)(1378~1484)ローゼンクロイツは秘密結社薔薇十字団の開祖と言われています。ローゼンクロイツの遺体はローゼンクロイツの死後120年目に発見されたとされ、その発見されたローゼンクロイツの遺体は腐敗していなかったと言われています。ローゼンクロイツはアラビアの秘学が書かれている『Mの書』をラテン語に翻訳したとされ、その書はパラケルススも目にしたと言われています。(「オカルト・超常現象」というホームページから引用させていただきました。多謝!)
2009年01月24日
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松岡和子さん個人訳シェイクスピア全集(18)「冬物語」を買書つんどく。このシリーズはそろえるつもりなので。「シチリア王レオンティーズは妻のハーマイオニと親友のボヘミア王ポリクシニーズの不義を疑い嫉妬に狂う。しかし侍女ポーライナから王妃の死の知らせが届き、後悔と悲嘆にくれる。時は移り、十六年後一同は再会、驚くべき真実が明かされる。人間の再生と和解をテーマにしたシェイクスピア晩年の代表的ロマンス劇。」(「BOOK」データベースより)
2009年01月23日
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僕は、「レキオス」を単行本(日記の写真は文庫本にしてありますが)で読みましたので、文庫本には収録されている巻末の大森望さんと豊崎由美さんの対談を読んでいなかったのですが、今日、本屋さんで文庫本をぱらりらと読んでいると、「レキオス」はもともと1500枚あったものを編集によって1000枚に短縮された、というようなことが書いてありました。これは、良くも悪しくも、とてもよく分かる話だと思いました。
2009年01月22日
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池上永一さんの「レキオス」を読みました。「風車祭」と較べると、「数千年の悲願である(魔の)王国の復活」やら「地霊・地神(?)による防衛」やら、テーマ的にはより荒唐無稽度が上がっているのですが、僕としてはこちらのほうが、抵抗感なく読めてしかも面白かったです。ところが、「風車祭」が無軌道に増殖していく物語で、ゴミ部分と思えるところも含めて、原初的な魅力が感じられたのに対し、「レキオス」では結末への道筋がしっかりしていて、僕にとってしんどい部分が少なくなった反面、そういう魅力が少なくなっていたように思えるのがややこしいところです。「お前はどっちを望んでんねん!」と突っ込まれたら、答えられないようなものですが、「どっちも」というのが本音です。池上さん、よろしくお願いします。もう一つ、この物語がホーチミン市におけるレキオスの復活の場面で終わるのが象徴的であるように、特に沖縄が舞台である必然性はなかったという意味では池上さんらしからぬ、とも思ったのでした。で、この流れからいうと「テンペスト」に進むのが良いのかな?(「レキオス」の150年前の話になっているようなので・・・・・)とも思ったのですが、やっぱり刊行順どおり「シャングリ・ラ」を読むことにしました。「基地の島に住む人びと、アメリカ人でもなく日本人でもない少女、夫に裏切られ怨霊となった女、娘を捨てた父親、パイロットに憧れる空軍将校,才能に限界を感じる科学者、自らのありようを知らないコギャルたち…すべての人の祈りもむなしく、異端者の魔術によってレキオスの封印は解かれてしまう。(中略)過去と現在、夢と現実が交錯する異色のファンタジー。」「舞台は西暦2000年の沖縄。米軍から返還された天久開放地の荒野に巨大な魔法陣が出現する。1000年の時を経て甦る伝説の地霊「レキオス」を巡り、米軍、学者、女子高生、ユタたちが入り乱れ、ついにその封印は解かれてしまう―。大いなる魔法が完成するとき、人々はそこに何を見るのか?時空を超えて弾け飛ぶ壮大な物語世界。」(「BOOK」データベースより)
2009年01月22日
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ニッキ・フレンチ「記憶の家で眠る少女」を買書つんどく。これも桜庭一樹さんの「続々・桜庭一樹 読書日記」で知った本です。「残虐な殺人事件がロンドン郊外の裕福な家庭を襲った。二つの無残な死体と、喉を掻き切られた一人の娘―一体誰の仕業か。犯人は再び襲ってくるのか。少女の保護にと抜擢されたのは精神分析医のサマンサ。女に手の早い恋人、手のかかる幼い娘、進まない論文―それでなくても手一杯の中、医師の信念と誇りから新しい住人を受け入れた。「この家は安全だから」捕まらない犯人に怯えながらも、少女に安らぎを与え立ち直らせてゆくサマンサ。だがその努力も空しく、突然の悲劇が彼女を襲う。確かな安全などどこにも無い。自分を守れるのはただ自分だけ…。終わりの無い恐怖が渦巻く心理サスペンス。」(「BOOK」データベースより)
2009年01月21日
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斎藤慶典さんの「知ること、黙すること、遣り過ごすこと 存在と愛の哲学」を買書つんどく。斎藤さんは現象学の研究者で、デカルト、フッサール、デリダ、レヴィナスなどに関する本を書いておられます。正直いって、僕の手に負えるようなものとも思えないのですが・・・・・。「徹頭徹尾、世界は現象する。現象すなわち表現は、ある過剰さを端緒とし、「受け取る」ことはすでに反復である。では、世界が存在としておのれを表現にまでもたらす「そのこと」は、いったいどこへ向けて、なのか。現象学に立脚する精緻強靭の哲学者が、「私たちのこの現実」という事態を考え抜く。」(講談社の紹介)
2009年01月20日
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ピポ子さんのブログで見染めたネコのぬいぐるみが、定点観測さんのところからわが家にやって来ました。わが家の旧のメンバーの中に仲間入りの写真です。迎えた仲間はもっとたくさんいて、みんな大歓迎しているのですが、いっしょに写真におさまることができたのはちょっぴりです。まんなかに立っているのが、この度仲間入りした二匹と+αです。 ↑ もっときれいに写真に撮れたらよいのですが・・・・・。ごちゃごちゃしてますね。
2009年01月19日
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GAOTUGreat Architect of the Universe「宇宙の偉大なる建築者」の頭文字。フリーメイソンの教理では、宇宙を創造した神こそは最も偉大なる建築者であり最高階位にあたる。 「フリーメイソンの基礎法」第19条には次の如くある。「宇宙の偉大なる建築者」としての『神』の存在を信じることは重要である。 この崇高な神の支配を否定するものは、入社(入会)できない。 (出典はなんだかわからない)
2009年01月18日
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最近復刊された二冊の紹介です。一冊目は、天沢退二郎さんの「光車よ、まわれ!」です。この本は、ブッキングから2004年に一度復刊されており、今回は正確には復刊ではありませんが、この文庫化を機会にもっと読まれて欲しい本だと思っていますので、紹介してみました。「はじまりは、ある雨の朝。登校した一郎は、周囲の様子がいつもと違うことに気づく。奇怪な事件が続出する中、神秘的な美少女・龍子らとともに、不思議な力を宿すという“光車”を探すことになるのだが―。“光車”とは何か。一郎たちは「敵」に打ち勝つことができるのか。魂を強烈に揺さぶる不朽の名作が、待望の文庫版で登場。」(「BOOK」データベースより)二冊目は荒俣宏さんの「プロレタリア文学はものすごい」です。これは以前日記に書かせていただいていますので、見ていただけるとうれしいです。
2009年01月18日
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本日は1月17日。もうすぐ5時46分です。僕らにとっては、今でも特別の日、特別な時間です。
2009年01月17日
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根井雅弘さんの「経済学はこう考える 」が、僕にピッタリの「ちくまプリマー新書」で出ましたので買書。根井さんは、経済学思想史の専門家として営々と自らの歩みを歩んでいるように思います。「なぜ経済学を学ぶのか?「冷静な頭脳と温かい心」「豊富のなかの貧困」など、経済学者らは様々な名言を残してきた。彼らの苦闘のあとを辿り、経済学の魅力に迫る。」(筑摩書房の紹介)
2009年01月16日
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「沖縄の米軍は最優先に公共設備を使用することができる。電気もガスも水道も、嘉手納基地が存続するためにはあらゆるものを犠牲にしてもよいことになっている。要塞化した基地はたとえアメリカ本土が焦土と化しても、数年間は最前線出撃を続けられるように弾薬、工場、エネルギー施設を完備している。嘉手納基地は単なるアジアの地方基地ではない。単独でもその威力を発揮し、周辺諸国の軍隊を凌ぐ火力と世界中に派兵できる充分な機動力をもっている。そして嘉手納の絶妙な地理的条件が加味されると意味は一段と重くなる。中距離ミサイルで北京、上海、香港、平壌、ソウル、東京、台北、マニラ、までを射程圏内に収めることができる。東アジアの中心にちょうど嘉手納基地があるので。米軍がフィリピンのクラーク基地は放棄しても、嘉手納基地を手放さないのは、この理由からである。基地が沖縄にあるというのではなく、沖縄は島ごと要塞でありその中枢部に嘉手納が位置し、まわりに人も住んでいる、というのが米軍の認識である。」(池上永一さん「レキオス」本文より)
2009年01月16日
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芥川賞津村記久子さん 「ポトスライムの舟」(群像11月号)直木賞天童荒太さん「悼む人」山本兼一さん「利休にたずねよ」とのことです。いや、おめでとうございます!
2009年01月15日
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フィリップ・クローデルの「ブロデックの報告書」を買書つんどく。「灰色の魂」は持っていたかな?と思って確かめてみたら、持っていました。自分のことながら、もうやってることのわけがわかりません。「『灰色の魂』で読書界を驚かせ、『リンさんの小さな子』で多くの人の心を震わせたクローデルによる、待望の長編小説。「僕はブロデック、この件にはまったく関わりがない。僕は何もしなかったし、何が起こったのかを知ったときでも、できればいっさい語らず、自分の記憶に縄をかけ、金網の罠にはまった貂(てん)のようにおとなしくさせるためにきっちり縛り上げておきたかったのだ。」戦争が終わって間もない小さな村の住民による「よそ者」の集団殺人。事件を記録するように命じられたのは、強制収容所を生き延びるためにした人間の尊厳を賭けた体験のトラウマから今も逃れられないでいるブロデックであった。彼自身と村の人々の傷ついた記憶と現在が巧みに入り交じるこの物語は、人間心理の深部に潜り込み、強い印象を残す挿話を語り継ぎながら、謎めいたラストに向かって力強く突き進んで行く。文学の底力を見せた、2007年高校生ゴンクール賞受賞作。」(みすず書房の紹介)
2009年01月15日
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レキオス(Lèquios)ポルトガル出身の薬種商であり、同国のインド・東南アジアの商館員トメ・ピレス(1468年頃~1524頃)が、その著書「東方諸国記」で「琉球人」を指す言葉として使用した。原意は古ポルトガル語で「扇の要」(主として戦略上の要衝)を意味するのだそうです。(池上永一さん「レキオス」より)「琉球・日本の節では、まずもって琉球人が取り上げられる。彼らは、マラカではレケオ人とかゴーレス人とか呼ばれていた。彼らは、独特の形をした小船の他に「ジュンコは3、4隻持っているが、かれらはそれをたえずシナから買い入れている……かれらはシナ〔福建〕の港で取引をする。それはシナ本土にあり、カントンに近く、そこから一昼夜の航海のところにある」という(諸国記、p.248)。なお、琉球船の指定入港地が福州とされているので、それらは密貿易船ということになる。 その交易について、トメ・ピレスによれば「かれらはシナに渡航して、マラカからシナへ来た商品を持ち帰る。かれらはジャンポン〔日本〕へ赴く。それは海路7、8日の航程のところにある島である。かれらは、そこでこの島にある黄金と銅とを、商品と交換に買い入れる。レキオ人は自分の商品を自由に掛け売りする。そして代金を受け取る際に、もし人々がかれらを欺いたとしたら、かれらは剣を手にして代金を取り立てる」とある(諸国記、p.249)。 琉球人が、マラッカに持ち込む「主要なものは、黄金、銅、あらゆる種類の武器、小筥、金箔を置いた寄木細工の手筥、扇、小麦である。それらの品物は出来がよい。かれらは黄金を多量に携えて来る。かれらはシナ人よりも正直な人々で、また恐れられている。かれらは多量の紙と各色の生糸を携えて来る。また麝香、陶器、緞子を携えて来る。また、かれらは玉ねぎやたくさんの野菜を運んで来る。かれらはシナ人が持ち帰るのと同じ商品を持ち帰る」という(諸国記、p.250)。 琉球が中国船とともに自国製の船を併用していたこと、そして来航するジュンコは3、4隻、段では1隻ないし2、3隻としていることが注目される。そして、琉球の海上交易が中国と日本に対する中継交易であったことが、それなりに示されている。 琉球人の気質について、トメ・ピレスは「われわれの諸王国でミラン〔ミラノ〕について語るように、シナ人やその他のすべての国民はレキオ人について語る。かれらは正直な人間で、奴隷[や娼婦]を買わないし、たとえ全世界とひきかえでも、自分たちの同胞を売るようなことはしない。かれらはこれについては死を賭ける。レキオ人は偶像崇拝者である。もしかれらが航海に出て、危険に遭遇したときには、かれらは、『もしこれを逃れることができたらと、1人の美女を犠牲として買い求め、ジュンコの舳で首を落しましょう』とか、これに似たようなことをいって〔祈る〕。かれらは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い」とまとめている(諸国記、p.248-9)。 琉球は、Webページ【2・3・2 東アジア、朝貢と密貿易、琉球の世界】において述べたように、15世紀半ばから16世紀初めにかけて、朝貢交易に名を借りた中継交易国として登場し、中国の明とその朝貢国のダミーとなる。しかし、16世紀に入ると、海寇と密貿易がはびこりだし、そしてポルトガルが進出するようになると、琉球の役割は終わる。こうした琉球人が活躍した一端を、トメ・ピレスは書き留めたといえる。 こうした琉球の情報の付けたりとして、ジャンポン島が示される。以下が、そのすべてである。「すべてのシナ人のいうところによると、ジャンポン〔日本〕島はレキオ人の島々よりも大きく、国王はより強力で偉大である。それは商品にも自然の産物にも恵まれていない。国王は異教徒で、シナの国王の臣下である。かれらはシナと取引をすることはまれであるが、それは遠く離れていることと、かれらがジュンコを持たず、また海洋国民ではないからである。 レキオ人は7、8日でジャンポンに赴き、上記の[シナに持ち込むのと同じ]商品を携えて行く。そして黄金や銅と交換する。レキオ人のところから[マラッカに]来たものは、みなレキオ人がジャンポンから携えて来るものである。レキオ人はジャンポンの人々と漁網やその他の商品で取引する」という(諸国記、p.251)。」(篠原陽一さんのHP「海上交易の世界と歴史」の「トメ・ピレス『東方諸国記』を読む」より。多謝!)
2009年01月14日
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二階堂奥歯さんの「八本脚の蝶」の2001年6月30日(土)の記事です。「池上永一『風車祭』読了。読後満足の溜め息。読み終えたときに夢から醒めたような気持ちになる本は大人になるとなかなか出会えない。死ぬまでにあと何百回出会えるのだろうか。(そんなに出会えない?)この前にそんな思いをしたのはクロウリー『リトル・ビッグ』で、その前が山田正紀『ミステリ・オペラ』、だから……まあ月に一回は出会えているのね。しかし、それだって約三十分の一の確率だということになる。多いのか少ないのか。いずれにせよ。池上永一はマジックリアリズムの優れた作家として高らかに称揚されてしかるべきです! (しかし『レキオス』の方が面白いと思います)。」ちょっと「風車祭」持ちあげすぎ?という気もしますが、しかし確かに、今読みかけている「レキオス」のほうが面白いように感じています。一作ごとに面白くなってくるようです。
2009年01月13日
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鹿島田真希さんの「女の庭」を買書つんどく。知らなかったですけど、鹿島田さんてロシア文学の影響で(おぉ?)ギリシャ正教に入信したクリスチャンなのだそうです。「私は、普通の主婦なのだ。普通が怖いのだ。子供を持たず、マンションに住む主婦。居心地の悪さを感じながらも井戸端会議に参加する日々。隣に外国人が引っ越してきて……。三島賞作家が描く、ありふれた者に訪れる奇蹟。」(河出書房新社の紹介)
2009年01月12日
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桜庭一樹さんが東京創元社ホームページの「続々・桜庭一樹 読書日記」を更新してたので、見ていたらこんなことを書いていた。「しばらくばたばたしてたけど、そろそろつぎの長編を書きたいな……。04年に書いた『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の海野藻屑は中学生で殺されたけど、06年から07年に書いた『私の男』の腐野花に転生して20代半ばまで生き延びた。さらに『ファミリーポートレイト』のコマコになって、フラフラだけど30代まで生き、家族を作って子供を産もうと、似合わないことをしてる。 あの子はこれからどうなるのかな?」ふ~ん。ほんとに、どうするおつもりですか?
2009年01月12日
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キャロル・エムシュウィラーの「カルメン・ドッグ」を買書つんどく。なにかけったいなお話のようですが、この人は世界幻想文学大賞、ネビュラ賞、フィリップ・K・ディック賞を受賞しているかたで、邦訳では「すべての終わりの始まり」という短編集があります。これも欲しいな~(読みたいな~ではないのか?)「女が動物に、動物が女に変わる現象が発生。若い娘に変身中のセッター犬・プーチは、カルメンを演じるオペラ歌手になる夢を抱き、主人の元から家出するが……。奇想の女王がおくる不可思議とおかしみと愛に満ちた現代の変身譚。」(河出書房新社の紹介)
2009年01月11日
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池上永一さんの「風車祭」を読みました。予想以上に時間がかかってしまったのは、長かったからというよりも、読み進まなかったというのが正直なところです。物語の駆動力と叙述がアンバランスなのか、語りたいことが多すぎて本来あるべき姿に較べて過剰なのか、とにかくその語りかたが僕にとっては腑に落ちなかったということだと思います。それと、ネタ先行型といえばよいのかどうかわかりませんが、物語を面白くしようという意気込みは感じるのものの、ごく通常のレベルにおいて「そんなやつおらんやろ」とか「そんなわけないやろ」と感じられることが僕には多かったということです。呪術と日常がからみあう物語は、うまくいけば沖縄発マジック・レアリズムとも成り得たと思われるのでちょっと残念な気がしました。ハツオバァではないけれど、「だからよー」とつぶやき続けた読書体験だったのでした。というわけで、引き続き池上さんの「レキオス」を読み始めたのですが、冒頭、なぜか「幻魔大戦」(石森章太郎さんのコミックのほうです)を思い出しながら、期待に胸ふくらませているのでした。「だからよー」・・・・・。「長生きに異常な執念を燃やす島のオバァ、フジは、九十七歳の生年祝い「風車祭」を無事に迎えようと、家族や島人を混乱の渦に巻き込む。一方、神事を怠り危機に瀕した島の運命は?島の祭や呪術を背景に、オバァや巫女、六本足の妖怪豚が大活躍する、生命力とユーモア溢れる壮大な物語。98年度直木賞候補作。」(「BOOK」データベースより)美ら島物語に「風車祭」のページがあります。参考までに。
2009年01月10日
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天童荒太さんの「悼む人」を買書つんどく。天童さんの本では、「家族狩り」と「永遠の仔」を読んだことがありますが、良い意味でも悪い意味でも、かなりのヒューマニストではないかと思いました。これは作家としての弱みかもしれないので、たとえば浅田彰さんが「天童荒太はやはり優しく悲しい眼をした大型草食動物のように鈍重で、自分たちの発言が他人を傷つけないか気を使ってばかりいる」なんて書いていて、これはあきらかに批難の言葉なのですが、僕も天童さん自身はそういう人なんだろうなという印象を持っています。そして、執筆に7年も8年もかけたこの本も、紹介文を読む限りでは、やはりヒューマニズムにあふれていそうな気がします。天童さんが、そのあたりをどう処理しておられるのか興味あるところです。「全国を放浪し、死者を悼む旅を続ける坂築静人(さかつき・しずと)。彼を巡り、夫を殺した女、人間不信の雑誌記者、末期癌の母らのドラマが繰り広げられる 週刊誌記者・蒔野が北海道で出会った坂築静人(さかつき・しずと)は、新聞の死亡記事を見て、亡くなった人を亡くなった場所で「悼む」ために、全国を放浪している男だった。人を信じることが出来ない蒔野は、静人の化けの皮を剥(は)ごうと、彼の身辺を調べ始める。やがて静人は、夫殺しの罪を償い出所したばかりの奈義倖世と出会い、2人は行動を共にする。その頃、静人の母・巡子は末期癌を患い、静人の妹・美汐は別れた恋人の子供を身籠っていた――。 静人を中心に、善と悪、愛と憎しみ、生と死が渦巻く人間たちのドラマが繰り広げられる。著者畢生(ひっせい)の傑作長篇がいよいよ登場です。」(文藝春秋社の紹介)
2009年01月09日
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なんだか無性に、秋山亜由子さんのコミック「虫けら様」「こんちゅう稼業」を紹介してみたくなったので。他に類のないようなコミックです。虫たちがかわいいですよ。「虫けら様」「その余りある画力で、虫や小動物の不可思議な生態をベースに、古典文学のエッセンスと民俗学的色彩で、自然に包まれた虫の魂を丁寧に描く著者初の作品集。◎巻末対談:近藤ようこ×秋山亜由子」(青林工藝舎の紹介)「こんちゅう稼業」「「虫けら様」に続く待望の第二弾! 昆虫の世界を舞台に、滑稽で愛らしくてそしてはかない魂をファンタジックなタッチで描き、人間の心の美しさとは何か? と素朴に問いかけてくる秀作短編集!」(青林工藝舎の紹介)
2009年01月08日
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津村記久子さんの「アレグリアとは仕事はできない 」を買書つんどく。アレグリアとは、大判の図面を複写するときに使うコピー機の名前で、スペイン語で「喜び」という意味なんだそうです。なんで、コピー機にこういう名前があるんだろう・・・・・。というのがこの小説のミソになっているのか・・・・・。「コピー機が憎い!どうしてこんなに使えない機械を入れたんだ!?OLの日常のいらだちは思いもがけない方向に発展し……。書き下し「地下鉄の叙事詩」も収録。」(筑摩書房の紹介)
2009年01月07日
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今年最初の読書日記は、小松和彦さんの「百鬼夜行絵巻の謎」です。新書ですが、内容はまるで研究誌に発表される専門家向けの論文のようでした。といっても難しいというのではなく、特に最初から4分の3(160ページくらい)を過ぎるまでは、たぶん専門家かよっぽどマニアックな人でないと興味を持てないようなテクニカルな論考のように思われる、といったような意味です。ただ不思議なことに、なんの興味もなかったこのテクニカルな論考につきあっていく過程で、絵巻物なんてじっくり見たこともなかった僕自身にしてからが、逆に絵巻物に対する興味がどんどん湧いてきたというのは、まんまと小松さんの手の内にはまってしまったというところでしょうか。自分でも、ちょっとびっくりしているくらいです。絵巻物に興味のあるかたは、この本を読むのもよいかとは思いますが、まずは、小松さんが勤めておられる国際日本文化研究センターが公開している絵巻物のデータベースの中の「吉光 百鬼ノ図」を覗いてみられることをおすすめします。「信貴山縁起絵巻」なんかもありますし。ところで、今までメモってきたのはテクニカルなところを除いた部分で、大半はそういうことを書いた本ではありませんので、念のため。
2009年01月06日
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しかしながら、たとえば「十二類歌合」や「鼠草子絵巻」などの異類物の絵巻や絵本は、「妖怪」の物語ではありません。なぜなら、物語は異類の世界内での出来事として語られ、人間世界がそこに関与していないからです。 擬人化の物語が幻想化され、その登場人物である異類が妖怪化もしくは神秘化されることになるのは、異類もしくは異類世界と人間もしくは人間世界が、なんらかのかたちで接触・交渉をもったときです。たとえば、「調度歌合」の物語は、ある人が、調度たちの語らいを聞くことがなかったら、それは人間のあずかり知らぬ「調度」(器物)という異類世界内での出来事に過ぎません。したがって、その世界と人間世界とが接触しないような物語を作れば、「十二類歌合」と変わらないような異類の物語となったはずです。「付喪神絵巻」の物語も、古道具たちが人間をさらったり関白一行と遭遇しなければ、いい換えれば、人間世界と接触することがないような物語にすれば、やはり異類世界の物語となったのではないでしょうか。幻想・妖怪化の要点は、人間世界と異類世界との接触にあるのです。それを物語的コンテキストでは、「化ける」と表現したのです。(小松和彦さん「百鬼夜行絵巻の謎」本文より)
2009年01月05日
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「鳥獣人物戯画」では、鳥獣たちの<楽園>は、「蛇」の出現で終止符を打たれます。逃げる蛙たちは、魔法がとけたかのように、普通の蛙の姿になっています。真珠庵本の妖怪たちの<楽園>は、「巨大な火の玉」(陀羅尼の火)の出現で終わりとなり、京都市芸大本では、「朝日の出現」によって終止符が打たれました。また、詞書をもった国会B本でも「朝」の到来とともに妖怪たちは逃げ去っていきます。「鳥獣人物戯画」の巻末の場面から想像すると、百鬼夜行絵巻にはそこまで描かれていないのですが、その最後はきっと擬人化された動物や器物も、魔法がとけたかのように、普通の動物や器物に戻っておとなしくなったのではないでしょうか。(小松和彦「百鬼夜行絵巻の謎」本文より)鳥獣人物戯画京都市右京区の高山寺に伝わる紙本墨画の絵巻物。国宝。鳥獣戯画とも呼ばれる。成立については、各巻の間に明確なつながりがなく、筆致・画風も違うため、12世紀―13世紀(平安時代末期~鎌倉時代初期)の幅のある年代に複数の作者によって別個の作品として制作背景も異にして描かれたが、高山寺に伝来した結果、鳥獣人物戯画として集成したものとされる。(うぃきぺでぃあ)
2009年01月05日
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「付喪神絵巻」は起承転結をともなった物語を絵巻にしたもので、その便概は次のとおりです。立春に先だっての煤払いのおりに、人家では古い器物を捨てる習慣があった。付喪神となって災厄をなすと信じられていたからである。康保年間(964~968)のころ、京都中の捨てられた古い器物が一所に集まり、多年にわたって家具として奉公したにもかかわらず、なんら感謝の年を表されることなく捨てられたことを恨み、妖物(妖怪)となって復讐することを相談した。数珠の入道一連上人のみがこれを戒めたが、かえって手棒の荒太郎に叩き出されてしまう。古い器物たちは古文書の古文先生の教えにしたがって、節分の夜、妖怪に変じることに成功し、船岡山背後の長坂に居所を定め、夜な夜な京の白河あたりに出ては人畜をとり、肉の城、血の泉の享楽にふける。さらに、人の祭をまねて、山奥に変化大明神を祀り、その祭礼と称して四月五日、一条通り東に向かって祭礼行列に繰り出した。 たまたま夜に参内することになった関白の行列は、この付喪神の一行と遭遇してしまうが、尊勝陀羅尼のお守りの力でことなきを得る。妖怪横行の話を聞いた帝は、高僧たちにすぐさま妖物退散の祈祷を行わせたところ、護法童子が付喪神たちの居所を襲い、ことごとく降伏させる。妖物一同は、この敗北を契機に発心し、数珠の入道一連上人を訪ねて出家する。付喪神たちは上人に従い、修行を積んだ末に、成仏することができた。(小松和彦さん「百鬼夜行絵巻の謎」本文より)
2009年01月04日
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付喪神(つくもがみ)とは、長い年月を経て古くなった対象(その多くは何らかの道具や器物であることが多いが、稀に動物などの生物も含まれるとされる)に、魂や精霊などが宿るなどして妖怪化したものの総称。「付喪」自体は当て字で、正しくは「九十九」と書き、この九十九は「長い時間(九十九年)や経験」「多種多様な万物(九十九種類)」などを象徴し、また九十九髪と表記される場合もあるが、「髪」は「白髪」に通じ、同様に長い時間経過や経験を意味し、「多種多様な万物が長い時間や経験を経て神に至る物(者)」のような意味を表すとされる。「付喪神記」(室町時代の成立)の冒頭に「陰陽雑記に云ふ。 器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑かす、これを付喪神と号すと云へり」とある。日本の風俗においては、古来より万物八百万(やおよろず)に魂(神)が宿る、とするアニミズム的な世界観が定着している(八百万の神、汎神論)。付喪神もまたこの世界観に漏れることはなく、作成ないし誕生してより長い時間を経てその役目を果たし、あるいは単に長い年月を経て健在でありつづけた古物などには魂が宿り付喪神となるとして、これを畏怖し供養する、あるいは忌避するといった習慣・価値観は、日本各地に普遍的に存在するものである。これらの価値観をもたらす合理的な背景としては、古道具などを大切に扱い手入れを絶やさぬようにという教訓的なものや、手入れの疎かな古道具を安易に用いることによる破損や事故の回避、長く身の回りの役に立ってくれた道具などに対する感謝の情などとして解釈される。付喪神となりうる対象物は、およそ身の回りに存在する万物と言っても差し支えなく、人工的な器物や建造物の他、家畜や愛玩動物、樹木や地形などに対しても適用される例がある。付喪神となった物・者たちは、必ずしも人に災厄をもたらすとは限らないが、本来の器物としての範疇を越え、また人ならざる神として振る舞うようになるため、もはや本来の道具としての用に供することはなく、人を混乱させ時に恐怖させる妖怪や祟り神などとして語られる例も多く、このような典型例の一つとしては妖怪から傘などが挙げられる。一方、魂が宿る以前に道具などとして丁重に扱われ、あるいは廃棄される際に供養されてきた器物が付喪神となった場合には、生前(?)の恩を所有者や使用者に返すなどした伝承もある。また粗末に扱ったり供養を絶やしたりした道具は付喪神となり祟るとする考えから、役目を終え廃棄される各種の道具などに対する供養を行う習慣につながるとする捉え方もある。道具(や、一般に人格を認められることのない家畜・動物など)に魂が宿り意志を持つといった価値観は、戯画や漫画などの擬人化の一環として捉えることも可能であり、現に妖怪唐傘などは目・鼻・口・手足をもって描かれ、猫又などの動物をベースとする妖怪も広義の付喪神に含めることが可能であり、長命によって魂(人格)を獲得するとする図式に漏れない。これは山や川などのヌシなどの成立に際しても同様の構図を持つものであり、付喪神もまた日本古来よりのアニミズム的な価値観や、人格や生命すら持ち得ない対象でさえ時にこれらを獲得し得る、あるいはそのように見立て、解釈して楽しむといった擬人観が、普遍的な価値観としてこれらのベースに存在するということである。(うぃきぺでぃあ)
2009年01月04日
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ようするに、魚介類や器物類を擬人化することはとても難しいのです。しかも、擬人化しただけのつもりでも、その造形がそれ自体で気味の悪い造形物になってしまうのではないでしょうか。いい換えれば、頭や四肢のある動物たちとは違い、擬人化しただけで幻想化・妖怪化してしまうのです。 鳥獣人物戯画は、頭や四肢が備わった動物たちが擬人化されています。そのために「戯画」とみなされてきました。しかし、そのなかに、擬人化した魚介類や器物たちを加えると、絵師はたんに擬人化した魚介類や器物を加えたつもりであっても、見る者には、「戯画」なのか「妖怪画」なのかが判断しにくくなります。(中略) すなわち、魚介類や器物が擬人化されると、その時点で幻想度(変形の度合)が高いために「妖怪」とみなされやすく、逆にいうと、そうして擬人化された”器物の妖怪や鬼たちの仲間”として、狐や兎、鮭などの頭や四肢をもった動物たちが擬人化されて描かれると、それらも「妖怪」としてみなされることになる、もっとはっきりいえば「百鬼夜行絵巻」と総称される絵巻の中に描きこまれたときに、はじめて妖怪に変貌する、つまり図柄の意味が変わる、というわけです。後の百鬼夜行絵巻諸伝本に登場する妖怪の起源の一つは、このあたりにあったとみることができるのではないでしょうか。(小松和彦さん「百鬼夜行絵巻の謎」本文より)
2009年01月03日
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千早茜さんの「魚神」(いおがみ)を買書つんどく。2009年初めての買書は、第21回小説すばる新人賞受賞作品です。書店をとろとろ歩いていたら、宇野亜喜良さんのカバーイラストが突然目に飛び込んできて、これは買わなくてはしょうがない、と思ったのでした。「遊女屋が軒を連ねる、文明から取り残された小さな島があった。島には身分証を持たない人間が住みつき自分達の島を自治地域と称して、工業化した本土とは別個の文化を営んでいた。昔、この島には絢爛豪華な一大遊郭があったが廃れ、その過去は島の遊女の御伽噺となっていた。その島で捨て子として育った伝説の遊女と同じ名を持つ少女、白亜と弟のスケキヨもいつかは島の廓に売られていく運命にあった。他に心許せる存在の無い二人にとって、お互いだけが感情を通じ合わせることのできる唯一の人間だった。ある日、スケキヨは化け物が棲むと恐れられている祠の中に大量に書物があるのを見付け、薬草の知識を身につけていく。そして、渡し守の男、蓼原を病から救ったことで島の人間達に頼られるようになる。しかし、スケキヨは悪評高い裏華町に売られてしまう。突然離れ離れになり動揺した白亜とスケキヨは、過ちを犯し仲違いをしてしまう。数年後、大きな遊廓・更津屋に売られた白亜は島でも評判の美しい遊女に成長する。だが、スケキヨを忘れられず、何に対しても心惹かれない虚ろな生活を送っていた。そんな白亜にスケキヨらしき謎めいた薬売りの男に出会ったという遊女、新笠が近づいてくる。また、スケキヨを追っている裏華町の男、蓮沼も白亜の周りに現れるようになって──。」(小説すばる新人賞受賞作の紹介より)
2009年01月03日
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PIXARの「ウォーリー(WALL・E)」を観てきました。ウォーリーとイヴの愛情(?)の物語であり、人類の地球への帰還の物語でした。単純といえば単純なお話ですが、冒頭の荒廃した地球にそびえるビルディングの廃墟に並び建つゴミの建造物の姿(これは圧巻でした)とその中で黙々と作業を続けるゴミ処理ロボット=ウォーリーの孤独な姿から、最後の人類の劇的な地球への帰還まで、話は息もつかせず進んでしまいます。ウォーリーの動作や表情の一つ一つが気持ちの動きをよくあらわしていて、ノスタルジーにふけるウォーリー、イヴの気を惹こうとして一生懸命のウォーリー、イヴと手を繋ぐ機会をとらえようとしては失敗ばかりしているウォーリー、とにかくあのガラクタみたいなロボットがほんとにチャ-ミングに見えるのには驚きました。中でも、宇宙空間をダンスするように飛び回るウォーリーとイヴのシーンは美しく、とても印象に残りました。僕にとって「モンスターズ・インク」が大好きなアニメ映画になったのと同じように、大好きな映画になりました。お正月にもぴったりの映画だと思います。しかし、CGがアニメーションの手法としてすっかり定着し、とうとうアメリカでは従来のようなセルアニメが見られなくなったように思いますが、これはどうなんでしょうか? ↑ こんなシーンありましたっけ?
2009年01月02日
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朝また朝が来てぼくは生きていた夜の間の夢をすっかり忘れてぼくは見た柿の木の裸の枝が風にゆれ首輪のない犬が陽だまりに寝そべってるのを百年前ぼくはここにいなかった百年後ぼくはここにいないだろう当たり前の所のようでいて地上はきっと思いがけない場所なんだいつだったか子宮の中でぼくは小さな小さな卵だったそれから小さな小さな魚になってそれから小さな小さな鳥になってそれからやっとぼくは人間になった十ヶ月を何千億年もかかって生きてそんなこともぼくら復習しなきゃ今まで予習ばっかりしすぎたから今朝一滴の水のすきとおった冷たさがぼくに人間とは何かを教える魚たちと鳥たちとそして僕をころすかもしれぬけものすらその水をわかちあいたい(谷川俊太郎さん「空に小鳥がいなくなった日」より「朝」)あけまして おめでとうございます!そして、本年もよろしくお願いいたします。昨年の同日の日記にも書きましたが、もうちょっとましな日記にしたいと思います。しかし、昨年も相変わらずでしたので、今年も相変わらずだと思います。なにはともあれ、これから初詣に行ってきます。
2009年01月01日
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