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少なくとも焼飯の香気には、引寄せられる者が山にはいた。食物を供えて悦ぶ者のあることを、里人の方でもよく知っていた。そうして双方が正直で信を守ることは、昔は別段の努力でもなんでもなかった。従ってまず与えると働かずに遁げてしまうというのを、あたかも当世の喰遁げ同様に非難しようとしたならば誤っている。以前は山人はなんの邪魔もしなければ御幣餅をもらうことができ、またそれをくれぬ時にはあばれてもよかった。特に出てなんらかの援助を試みたのは、いわば好意でありまた米の味に心酔した者の、やや積極的な行動でもあった。もし私たちの推測を許すならば、それは或いは山人の帰化運動の進一歩であったのかも知れぬ。(柳田国男さん「山の人生」(「遠野物語」岩波文庫版)P224)
2010年01月31日
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池田雅之さんの「ラフカディオ・ハーンの日本」を買書つんどく。ハーンの「日本の面影」は、ほんとうに印象に残っています。「松江、熊本、東京…英語教師として日本各地を訪ね歩いたラフカディオ・ハーン。故郷のギリシアや仕事を求めたアメリカで傷ついたハーンは、特派員の職を得て憧れの日本にたどり着いた。日本人の善良さ、辛抱強さ、素朴な心と繊細な文化を愛する一方で、西洋化を推し進める新しい日本に幻滅し、批判を強めていく。彼が残した手紙や講義録、昔話に材を得た「雪女」「むじな」などの作品からその素顔と心の軌跡を描き出す。」(「BOOK」データベースより)
2010年01月31日
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しかし、どこにでもある平凡なもの、野辺のかたわらにうち棄てられたもの、名もなき忘れられたもの、そうした小さな人やモノや風景のなかにこそ、豊かな知の鉱脈は埋もれている――と最初に語った者は、疑いもなく革命の人であった。(赤坂憲雄さん「柳田国男の読み方」P9)
2010年01月30日
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佐藤正午さんの「永遠の1/2」を買書。27年前の、佐藤さんのデビュー作です。「27歳、田村宏。“失業したとたんツキがまわってきた”とはいうものの競輪の儲けで暮らす失業者……。競輪場でやけに脚のきれいな元人妻・良子と知り合うが、その頃から宏そっくりの男が街に出没、次々に奇妙な事件にまき込まれていく。青春の日の蔭りと明るさをとらえる今日的長編。すばる文学賞受賞作。」(「BOOK」データベースより)
2010年01月30日
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いわゆる大山祇命(おおやまつみのみこと)の附会が企てられた以前、山神の信仰にはすでに若干の混乱があった。木樵・猟人がおのおのその道によって拝んだほかに、野を耕す村人等は、春は山の神里に下って田の神となり、秋過ぎて再び山に還りたもうと信じて、農作の前後に二度の祭を営むようになった。伊賀地方の鉤曳(かぎひき)の神事を始めとし、神を誘い下す珍しい慣習は多いのであるが、九州一帯ではこれに対して山ワロ・河ワロの俗伝が行われている。中国以東の川童が淵池ごとに孤居するに反して、九州でミズシンまたはガアラッパと称する者は、常に群れをなして住んでいた。そうして冬に近づく時それがことごとく水の畔を去って、山に還って山童となると考えられ、夏はまた低地に降りくること、山の神田の神の出入と同じであった。紀州熊野の山中においてカシャンボと称する霊物も、ほぼこれに類する習性を認められている。寂寥たる樹林の底に働く人々が、わが心と描き出す幻の影にも、やはり父祖伝来の約束があり、土地に根をさした歴史があって、万人おのずから相似たる遭遇をする故に、かりに境を出るとたちまち笑われるほどのはかない実験でもなお信仰を支持するの力があった。ましていわんやその間には今も一貫して、日本共通の古くからの法則が、まだいくらも残っていたのである。(柳田国男さん「山の人生」(「遠野物語」岩波文庫版)P197)
2010年01月29日
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田辺聖子さんの「隼別王子の叛乱」を買書つんどく。この本は、日頃お世話になっているかたからの紹介です。「ヤマトの大王の想われびと女鳥姫と恋におちた隼別王子は、大王の宮殿を襲う。無残に潰されるはん乱。若者たちの純粋で奔放な恋と死。陰謀渦まく権力の頂点にあって、ふたりの恋の残照を生きる大王たち。「古事記」を舞台に、著者が二十年の歳月をかけて織りあげた鮮烈な恋の悲劇。」(「BOOK」データベースより)
2010年01月29日
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今も多くの農家で茶碗を叩き、また飯櫃や桝の類を叩くことを忌む風習が、ずいぶん広い区域にわたって行われていることである。何故にこれを忌むかという説明は一様ではない。叩くと貧乏する、貧乏神がくるというもののほかに、この音を聞いて狐がくる、オサキ狐が集まってくるという地方も関東には多い。多分はずっと大昔から、食器を叩くことは食物を与えんとする信号であって、転じてはこの類の小さな神を招き降す方式となっていたものであろう。従って一方ではやたらにその真似をすることを戒め、他の一方ではまたこの方法をもって児を隠す神を喚んだものと思う。(中略)いずれにしても迷子の鉦太鼓が、その子に聴かせる目的でないことだけは、かやせ戻せという唱え言からでも、推定することが難くないのである。(柳田国男さん「山の人生」(「遠野物語」岩波文庫版)P155)
2010年01月28日
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舞城王太郎さんの「ビッチマグネット」を買書つんどく。芥川賞は逃したみたいですけど・・・・・。「なんだか妙に仲のいい、香緒里と友徳姉弟。浮気のあげく家出してしまった父・和志とその愛人・花さん。そして、友徳のガールフレンド=ビッチビッチな三輪あかりちゃん登場。成長小説であり、家族をめぐるストーリーであり、物語をめぐる物語であり…。ネオ青春×家族小説。」(「BOOK」データベースより)
2010年01月28日
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昔は七歳の少童が庭に飛降って神怪驚くべき言を発したという記録が多く、古い信仰では朝野ともに、これを宣託と認めて疑わなかった。それのみならず特にそのような傾向ある小児を捜し出して、至って重要なる任務を託していた。因童(よりわらわ)というものがすなわちこれである。(柳田国男さん「山の人生」(「遠野物語」岩波文庫版)P127)
2010年01月27日
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万城目学さんの「かのこちゃんとマドレーヌ夫人」を買書つんどく。「ちくまプリマー新書」の中では数少ない小説本が出ました。そういえば、やはり「ちくまプリマー新書」の中では数少ない小説本である天童荒太さんの「包帯クラブ」もつんだままでした。「元気な小学一年生・かのこちゃんと優雅な猫・マドレーヌ夫人。その毎日は、思いがけない出来事の連続で、不思議や驚きに充ち満ちている。書き下ろし長編小説」(筑摩書房の紹介)
2010年01月27日
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マタギは東北人およびアイヌの語で、猟人のことであるが、奥羽の山村には別に小さな部落をなして、狩猟本位の古風な生活をしている者にこの名がある。例えば十和田の湖水から南祖坊に逐われてきて、秋田の八郎潟の主になっているという八郎おとこなども、大蛇になる前は国境の山の、マタギ村の住人であった。(柳田国男さん「山の人生」(「遠野物語」岩波文庫版)P102)へ?なんじゃこりゃ?
2010年01月26日
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京極夏彦さんの「数えずの井戸」を買書つんどく。今度は「お菊さん」。いつか「累」を書いていただけるでしょうか?それにしても、例のごとく、本がどんどんぶっとくなっていく・・・・・。「怪談となった江戸の「事件」を独自の解釈で語り直す人気シリーズ、待望の三作目は「皿屋敷」。誰もがそれぞれに自分らしく生きようとし、どうしようもなく歯車は狂う――儚くも美しい物語。」(中央公論新社の紹介)
2010年01月26日
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なんの頼むところもない弱い人間の、ただいかにしても以前の群とともにおられぬ者には、死ぬか今一つは山に入るという方法しかなかった。従って生活の全く単調であった前代の田舎には、存外に跡の少しも残らぬ遁世が多かったはずで、後世の我々にこそこれは珍しいが、じつは昔は普通の生存の一様式であったと思う。(柳田国男さん「山の人生」(「遠野物語」岩波文庫版)P101)
2010年01月25日
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トニ・モリスン「マーシイ」を買書つんどく。「ビラヴド」も、新たに早川で文庫化されたりしてますし、なにかあったのでしょうか?「奴隷の娘フロレンスは、主人の借金の形として北部の農場主に譲り渡された。フロレンスの母が彼女を差し出したのだ。母の真意はどこに?ジェイコブの農場で育ったフロレンスはやがて、自由な黒人の鍛冶屋と激しい恋に落ちるが…。時は十七世紀末。アメリカがまだ未開の植民地だった時代を舞台に、ノーベル賞作家が逞しく生き抜く女性たちの姿を描き上げる、傑作長篇。」(「BOOK」データベースより)
2010年01月25日
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会ったばかりの私にむかって、はたしてどこまでの事実を語る気でいたのかはわかりません。まずは生い立ちから、ミチルの長い話ははじまりました。幼いころ母に死なれた身の上からです。(佐藤正午さん「身の上話」P333)というわけで、佐藤正午さんの「身の上話」を読みました。まずは、人に頼まれて購入した宝くじが、高額賞金に当選してしまった女性が、巻き込まれる心理や事件が丁寧に描かれていきます。これが逆に、読む人によったら、なにをくどくどと細かいことを書いているのだ、と感じるかも知れませんし、「身の上話」としての「ですます調」が鼻につくかも知れません。しかし僕は、夫と称している語り手が、いったい何者なのかが、終盤になって明らかにされ、古川ミチルと語り手の「身の上話」が重なった瞬間、思わずためいきをついてしまいました。たしかに、契機となった最初の殺人の動機が、よくわからないまま放り出されていたり、そもそもフライパン殺人の、この不可思議な人はなんなの、とか、ミステリとしては多々弱点があると思いますが、この本のメインテーマからすれば些細なことだとも思えます。ともかく、最後に語り手がくだした決断に、僕は深い感銘を受け、静かなカタルシスを感じました。そして、バスターミナルに座って、放心している古川ミチルの姿を、これから何度も、僕は思い起こすことでしょう。
2010年01月24日
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私が電話をかけたとき、ミチルは宿にはいませんでした。母の説明では、赤ん坊が夜泣きをして、ほかの泊まり客に迷惑がかかるので、抱いて外へ散歩に出たということでした。私はそれを聞いて、なぜか、理由もなく心が落ち着きました。彼女に無断で下そうとしている決断が、まちがいではないと確信することができました。深夜の一時にひとり、温泉街を赤ん坊をあやしながら歩いているミチルの姿がまったく哀れにも、危うげにも感じられず、むしろ私は心静かに、現実としてありうる未来を見通すことができました。私はミチルがおなじように赤ん坊を抱いて、実家のそばの海岸沿いの道を歩いているのを想像しました。その様子がはっきりと見えました。そこに私はいません。(佐藤正午さん「身の上話」P372)
2010年01月23日
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E・ブロンテ「嵐が丘(上)」を買書。僕は、訳者の違う4種類の「嵐が丘」を持っていて、それぞれ1回は読んでいますから、少なくとも4回は読んでいることになります。今回も下巻が出たら、さっそく読もうと思っています。「ヨークシャの荒野に立つ屋敷“嵐が丘”。その主人が連れ帰ったヒースクリフは、屋敷の娘キャサリンに恋をする。しかしキャサリンは隣家の息子と結婚、ヒースクリフは失意のなか失踪する。数年後、彼は莫大な財産を手に戻ってきた。自分を虐げた者への復讐の念に燃えて…。」(「BOOK」データベースより)
2010年01月23日
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口数が少なく、何事にもひかえめな若い娘の素顔。それが母や祖母や食堂の客にはリアルに見えても、私には、当座しのぎの仮面を一枚かぶっているように見えました。もとはこんなに地味な表情の娘ではない、以前ならこんな顔をして笑わなかったはずだと思われてなりませんでした。そう思う根拠はなにもありません。しかし初めて出会った十二月の晩、朝までかけて身の上話を聞いている最中にも私はふと思ったのです。以前なら、この娘はこんな分別くさい顔で私のまえにすわることはなかっただろう。(佐藤正午さん「身の上話」P339)
2010年01月22日
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平出隆さんの「鳥を探しに」を買書つんどく。659ページ、3990円の本を、わけも分からず買ってしまった・・・・・。そういうこともある。「「瞬間を丹念に記憶の中からすくいあげ、連記し、その世界すべての命をよみがえらせた散文の力に、快く屈した」と辛口の評論家に言わしめた名文を、「本物」を待ちわびた読者に。散文・詩集においても数々の賞を受賞した著者が描く二冊目の小説。」(双葉社の紹介)
2010年01月22日
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「子供のころ、母と行った教会でね」とミチルは言いました。自分でも唐突だと思いながら口にしてしまったのですが、でもこれは、ことによると十月末ではなく、別の機会にもういちど初山さんと電話で話したときだったのかもしれません。初山さんはただ「うん」と応えて聞いてくれました。「母がとなりで必死に祈っている姿を、最近よく思い出すんだ」「うん」「あれはあたしのために祈ってくれてたんだなって」「やさしいお母さんだったんだね」「そいうんじゃないの。母はね、たぶん、これ以上、娘が悪の道に進まないように祈ってたんだと思う」(佐藤正午さん「身の上話」P306)
2010年01月21日
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佐藤亜紀さんの「陽気な黙示録 大蟻食の生活と意見これまでの意見編」を買書つんどく。大蟻食殿下こと佐藤亜紀さんのエッセイについては、そのあまりにも挑発的な論調に、ちょっと敬遠してきたのですが、このたび、「これまでの意見編」というかたちで、文庫にまとめられましたので、イヤイヤなのかどうなのか(笑)、とりあえず買書してみました。「「賢くあることで大損するくらいなら、我々は愚かなままでいるべきなのだ」(『我々は愚民である』)、「アメリカの大統領選、あれくらい全世界に迷惑を及ぼすものはない」(『アメリカに帝政を!』)…戦争、9・11、メディア、論客、文学から現代美術、美食、近所の犬についてまで、辛口批評で知られる著者が本音で語り尽したエッセイ集。文句のある奴は前へ出ろ!単行本未収録作多数を加えた増補版。」(「BOOK」データベースより)
2010年01月21日
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生みの母親の葬儀の日に、よそゆきのワンピースを着せられて、家族や親戚にまじって火葬場の待合室にいるのです。言いつけどおりにおとなしくして、うつむいていると、そのうちに心がほどけて旅をはじめます。頭の中にあれやこれや映像が浮かんできてミチルはそれらとひとつひとつ丹念につきあってゆきます。母親の火葬がしあがるまでの時間。私の想像では最初はそこなのです。大人たちと同じ椅子にちょこんとすわって放心している女の子の姿です。そのときから、ミチルのその悪い癖ははじまったのだと私は見ているのです。(佐藤正午さん「身の上話」P38)
2010年01月20日
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大塚ひかりさん現代訳「源氏物語(第6巻)」を買書つんどく。これで完結です。「中の君は匂宮と結ばれ二条院に迎えられるが、匂宮はほどなく右大臣家の婿となる。一方死んだ大君を忘れられない薫は、中の君に面影を求めて迫るが、かわされる。そんな二人の前に現れた、中の君の異母妹・浮舟。二人の貴公子の欲望に翻弄される浮舟が、絶望の果てに選んだ道は…コミュニケーションがうまくできない男と女。長い物語の最後はあまりに唐突ながら、深い余韻を残す。」(「BOOK」データベースより)
2010年01月20日
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昔話や伝承などのお話しは、村の中でだけ語り継がれていると考える人が多いのですが、狭い範囲で閉じられた世界の中では、伝承は育ちません。その点、遠野は山深い盆地の中の集落でありながら、城下町として古くから開けたところでした。そのために、にぎやかな市が立ち、たくさんの人や物が行き交う中継地となり、さまざまな話が流通し蓄えられていったのです。(三浦佑之さん/赤坂憲雄さん「遠野物語へようこそ」P24)というわけで、三浦佑之さん/赤坂憲雄さんの「遠野物語へようこそ」を読みました。今回は、こういう入門書を読みなれてしまっている自分を感じました、というのが正直な感想です。また、この本は、共著ということもあるのかも知れませんが、どういう層をターゲットにしているのか、よけいに分からなくなってしまっているのではないかと思いました。なるほど分かりやすいという所があるものの、反対にひどく専門的で、この本を読もうと思うような人は、これには関心ないんじゃないか、とか。で、結局、三浦さんも、赤坂さんも、それぞれピンで書かれたほうがよいんじゃないか、という思いをもちました。
2010年01月19日
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遠野のデンデラ伝承は、遠野という土地に語り継がれてきた、老いやケガチなどが絡まりあった記憶の結晶であったのです。そして、そこには鮮やかに、生/老/死をめぐるコスモロジーが写像されていました。ムラという空間のうえに、可視的なイメージとして投影されている、ということです。老いをデンデラ野に、死をダンノハナに振り分けることで、生ける者たちの世界がくっきり浮かび上がります。老いと死に挟み込まれながら、生の諸相はそこに繰り広げられていたのです。わたしたちは姥捨てを残酷なものとして非難します。それが「目前の出来事」としたありえたかもしれない、という可能性すら認めることができないのです。だから、それはじつは、親孝行を勧める話だった、などという牧歌的な解釈をもてあそんできたのです。しかし、「遠野物語」のなかの棄老伝説は、その乾いたリアリズムの力によって、そうした、やわなヒューマニズムへの退行に対して冷水を浴びせかけています。(三浦佑之さん/赤坂憲雄さん「遠野物語へようこそ」P153)
2010年01月18日
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円城塔さんの「烏有此譚」(ウユウシタン)を買書つんどく。なにより買書意欲を掻き立てるような装丁の本です。「灰に埋め尽くされ、僕は穴になってしまった─目眩がするような観念の戯れ、そして世界観─。不条理文学のさらに先を行く、純文学。」(「BOOK」データベースより)
2010年01月18日
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高橋源一郎さんの「大人にはわからない日本文学史」をぱらりらしていたら、その中で赤木智弘さんの「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」のことに触れていました。ずいぶんと論議を呼んだものだそうで、そうなるとムラムラと興味が湧いてきたので、ネットを検索していると本文を見つけましたので、紹介してみました。読みやすい文章です。ちなみに、「大人にはわからない日本文学史」の中では、この「ひっぱたきたい」を石川啄木の「時代閉塞の現状」にからめて論じています。
2010年01月17日
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本日は、15回目の117です。5:46に更新をしようと思ったら、なんとメンテナンス中でした。で、またまたメモです。行き隠れた女たちは、一度は村の人々の前に惨めな姿をさらさなければならなかったらしいのです。ほとんどそれは、神隠しにつきまとう儀礼的な作法であったようにも思われます。柳田は「山の人生」のなかに、神隠しの特徴として、永遠にいなくなる前に、かならず一度だけは親族や知り合いの者たちにちらりとその姿を見せるのが法則であるように、ほとんどどこの地方でも信じられている、と書き留めていました。(中略)「遠野物語捨遣」の神隠し譚が、旧家の何代か前に起こった娘や嫁の失踪事件となっていることには、なにか秘められた意味があるのかも知れません。やはり柳田が「山の人生」のなかで、こんなふうに書いていたことが思い出されます。すなわち、たとえ、ただひとりのまな娘を失った淋しさは忍びがたくとも、同時に、それによって「家の貴さ、血の清さ」を証明できたばかりか、「眷属郷党(地縁・血縁の深い一族)の信仰」を統一できたのではないか、それが神隠しではなかったか、と。そうであるとすれば、神隠しをめぐる物語の群れは、家や村という共同体のアイデンティティを維持・更新してゆくための、たとえば語りの仕掛けであったのかもしれません。神隠し譚はそのとき、女や子どもをイケニエとした供犠の現場と化してゆくことでしょう。そこには、共同体の暴力の記憶が沈められています。(三浦佑之さん/赤坂憲雄さん「遠野物語へようこそ」P61)
2010年01月17日
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開高健さんの「輝ける闇」「夏の闇」を買書つんどく。これは、alex99さんご推奨の開高さんということで買書しました。「輝ける闇」「銃声が止んだ……虫が鳴く、猿が叫ぶ、黄昏のヴェトナムの森。その叫喚のなかで人はひっそり死んでゆく。誰も殺せず、誰も救えず、誰のためでもない、空と土の間を漂うしかない焦燥のリズムが亜熱帯アジアの匂いと響きと色のなかに漂う。孤独・不安・徒労・死――ヴェトナムの戦いを肌で感じた著者が、生の異相を果敢に凝視し、戦争の絶望とみにくさをえぐり出した書下ろし長編。」(新潮社の紹介)「夏の闇」「ヴェトナム戦争で信ずべき自己を見失った主人公は、ただひたすら眠り、貪欲に食い、繰返し性に溺れる嫌悪の日々をおくる……が、ある朝、女と別れ、ヴェトナムの戦場に回帰する。“徒労、倦怠、焦躁と殺戮”という、暗く抜け道のない現代にあって、精神的混迷にかざす灯を探し求め、絶望の淵にあえぐ現代人の《魂の地獄と救済》を描き、著者自らが第二の処女作とする純文学長編。」(新潮社の紹介)
2010年01月16日
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「旧約聖書」の「創世記」のように、あるいは「古事記」のイザナキ・イザナミによる国生み神話のように、始まりの時にさかのぼり、どのようにして「それ」が生じたのかを語るのが起源神話です。始源以前には、今とは逆の世界が存在し、ある出来事によって今の姿に変容したのだというふうに語られます。この話でいえば、「現在の遠野は豊かな大地に恵まれているが、大昔は湖水が広がっていた。」その水が流出するという出来事が生じて、はじめて大地が出現したのだ」と語ることによって、遠野の大地は永遠に変わることなく存在することができるのです。神話というのは一湯の存在証明ですから、そこで語られる始源の出来事に保証されて、今も、未来も、遠野という土地は豊かにあり続けることができるわけです。ここに語られる湖水流出の神話は、本来のかたちから見れば欠落があるようにみえます。それは、「どのようにして水が流れ出たのか」という、神話にとっては肝心の部分が語られていないためです。(中略)湖の水が流れ出た「始まりの出来事」を語ることは、肥沃な大地に生まれ変わった土地を授けられ、先祖代々住み続ける根拠でもあったのです。そして、その謂われを、神々の時代にさかのぼって確認し続けるために、神話は語り継がれる必要がありました。この大事な部分を柳田国男が書きもらしたとか、語り手であった佐々木喜善が語り忘れたとは考えにくいでしょう。おそらく十のでは、「どのように」の部分がはやくに忘れられてしまい、その痕跡だけが本文のようなかたちで遺されたのでしょう。(三浦佑之さん/赤坂憲雄さん「遠野物語へようこそ」P27)
2010年01月16日
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岐路。分かれ道。・・・・・あの夜は、必然的にそうなるしかなかった通過点ではなく、分岐点だったというのか。(米澤穂信さん「ボトルネック」P67)というわけで、米澤穂信さんの「ボトルネック」を読みました。女友達を弔いに東尋坊を訪れた主人公が、自分の代わりに、生まれなかったはずの姉がいるパラレルワールドに紛れ込み、そこで否応もなく、自分の存在がもたらしたもの、もたらさなかったものに気づかされる過程は、ほんとうに痛々しいものです。ミステリについては、あまり内容に触れるとややこしいのですが、ただ、最後の一行について、「・・・・・なら・・・・・だ。」という文章は、必然的に両義性を帯びるということだけは強調しておきたいと思います。要は、このお話しは、「切られなかったイチョウ」「切られたイチョウ」にたびたび言及されることが象徴するように、「ボトルネック」をどう排除するかというお話なのではなく、最後の一行の両義性が語る「岐路」についてのお話だというのが、僕の感じたところで、したがって最大の目くらましは、そのタイトルにあるのではないか、と考えています。
2010年01月15日
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「後狩詞記」は、柳田の書いた序文と、中瀬淳が記録した狩りに関する記録、「狩之巻」という古文書によって構成されています。柳田がみずから書いたのは少し長めの序文だけなのです。それに対して、「遠野物語」はどうなっているのかというと、柳田の書いた序文に続いて、佐々木喜善から聞きとり、一から一一八の番号を付けた遠野の伝承が並んでいます。そして、最後の一一九には、「百年あまり以前の筆写」になる「獅子踊り」の歌詞が載せられています。「遠野物語」の本文は、喜善が語った話を柳田が筆写したものですから、中瀬淳が筆録した狩りの記録と対になっていることに気づきます。末尾に古文書があるのも同じです。おそらく、柳田にとって、この二つの書物は並べて置かれることによって意味をもつ、そのような書物として編まれていたと考えられるのです。(三浦佑之さん/赤坂憲雄さん「遠野物語へようこそ」P19)
2010年01月14日
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梨木香歩さんの「村田エフェンディ滞土録」を買書つんどく。「困った時の梨木さん」用に、買ってつんどくことにしました。先に読んじゃいそうでもありますが。「時は1899年。トルコの首都スタンブールに留学中の村田君は、毎日下宿の仲間と議論したり、拾った鸚鵡に翻弄されたり、神様同士の喧嘩に巻き込まれたり…それは、かけがえのない時間だった。だがある日、村田君に突然の帰還命令が。そして緊迫する政情と続いて起きた第一次世界大戦に友たちの運命は引き裂かれてゆく…爽やかな笑いと真摯な祈りに満ちた、永遠の名作青春文学。」(「BOOK」データベースより)
2010年01月14日
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[ボトルネック]瓶の首は細くなっていて、水の流れを妨げる。そこから、システム全体の効率を上げる場合の妨げとなる部分のことを、ボトルネックと呼ぶ。全体の向上のためには、まずボトルネックを排除しなければならない。ぼくは笑った。まず排除しなければならない、とはいい言葉だ。無論、そこが問題点とはっきりしている以上、そうするしかないだろう。排除されるのが一番いい。(米澤穂信さん「ボトルネック」P153)
2010年01月13日
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長島有里枝さんの「背中の記憶」を買書つんどく。この本は、鴻巣友季子さんの書評を見なければ、決して僕の意識の中に入らなかったし、手に取ろうとも思わなかったでしょう。書評おそるべし。「写真家の目に刻まれた過去の瞬間─記憶の奥にしまわれた原風景が鮮やかに甦り、置き忘れてきたいくつもの感情が揺り起こされる、珠玉の物語、全13篇。」(「BOOK」データベースより)
2010年01月13日
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「アバター」の感想を書いた後で、今読んでいる「遠野物語へようこそ」の中で、「遠野物語」第九六話「芳公馬鹿」に触れているところの、こんな文章を見つけたので、メモってみました。神話や伝説の中では、心やからだにマイナス記号を帯びた者たちが、しばしばヒーローに選ばれている。芳公馬鹿はいわば、それら欠けたるヒーローの系譜につらなっているのである。(中略)わたしたちの時代は、聖なるフールへの愛を忘却しようとしている。(三浦佑之さん/赤坂憲雄さん「遠野物語へようこそ」P115)
2010年01月12日
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アバター ●「自分の分身となるキャラクター」。 ●インド神話や仏教説話の文脈で「(神や仏の)化身」の意味。(うぃきぺでぃあ)というわけで、今話題の、ジェームズ・キャメロン監督作品「アバター」を見ました。冒頭から、ナヴィ族との接触、地球人(?)との確執、戦闘、ラストの大ボス大佐の胸に二本目(二本ですよ!)の矢が突き刺さるまで、息をもつかせぬ展開で、時間がほんとうに短く感じられました。そういう意味では、エンターテイメントとして、とてもよくできていると思いました。また、この映画の売りの一つである3D映像というのは、今までテーマパークなんかで、ごく短い時間のものしか見たことがなかったので、このスケールには、いやはやビックリしました。ただ、一方で、映像というものがいったいどこへいっちゃうのか疑問にも思いました。これが映像の未来だというのなら、いやだなあ、とも・・・・・。そんなこんなで、僕も、「アバターも笑窪」的に見ることができたらよかったんですけど、どうしても気になったことをいくつか書きますので、映画を見た人だけ見てください(なんか、ケチつけてるので)。●ジェイクを下半身不随の設定にする必要性がどこにあったのか。それが、アバター計画に加わる動機であるのはわかりますが、強い違和感がありました。●地球人(?)を「滅び行く」地球に強制的に送還してしまったのはなぜなのか?これやったら、「放射能除去装置」受け取りに失敗した宇宙戦艦ヤマトみたいなもんや、踊らなしゃーない。なんとかならんかったやろか?あと、小さなことですが、●パイロットのトゥルーディ(ミシェル・ロドリゲス)を死なせちゃったのはなんでやろ?もし、そうならば、近くにジェイクがいて、看取るべきで、このままでは、お約束違反や!でも、まあ、ナヴィは猫系なのでうれしかったんでした。
2010年01月12日
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鈴木貞美さんの「戦後思想は日本を読みそこねてきた 近現代思想史再考」を買書つんどく。こういうのも読まなきゃと思って、買うんですけどね・・・・・。「戦後の民主主義思想は、第二次世界大戦へと至る過程を帝国主義侵略戦争と規定し、断罪してきた。まるでそのように規定さえすれば、すべての問題が解決するかのようにふるまってきたのだ。しかし、なぜ、その時、「近代の超克」が唱えられたのか、その内実を明らかにすることは、実質的に放棄されたままだ。「近代の超克」をめぐる評価を軸に、日本の近現代思想史を読みかえる。」(「BOOK」データベースより)
2010年01月11日
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ここらで写真を一枚。また、玄関のミニバラです。カメラのストラップが、うっかり写りこんでいますが、愛嬌ということで(笑)。
2010年01月11日
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楊逸さんの「すき・やき」を買書つんどく。「金魚生活」も、もちろんつんだままです。「21歳の中国人留学生・虹智は、日本人と結婚した姉のきびしい監督のもと、高級すき焼き屋でアルバイトをはじめる。紐だらけの拘束着みたいな着物。リズムが肝心な肉の焼き方。わけありの常連さん。スマートな店長…。留学生仲間の韓国人・賢哲に猛攻勢をかけられても、虹智は、ただただ店長にひかれてゆく。すき焼き屋でくりひろげられる老若男女の人間模様を、おおらかな筆で描きだす、心あたたまる物語。」(「BOOK」データベースより)
2010年01月10日
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三浦佑之さん、赤坂憲雄さんの「遠野物語へようこそ」を買書。僕にぴったりの「ちくまプリマー新書」で、しかも三浦佑之さんと赤坂憲雄さんの共著となれば、買ってしまいます。「『遠野物語』は、ものすごくゆたかで鮮やかな世界を秘めている。河童の子を産む女に、馬と恋に落ちた女、狼との死闘、神隠し、座敷わらし、山男、臨死体験、姥捨て…。不思議な物語を読み解き、そのおもしろさの秘密に迫る。」(「BOOK」データベースより)
2010年01月10日
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(mouse。ハツカネズミ、小ネズミ・・・・・臆病者。内気な女の子・・・・・それと、かわいい子、魅力ある女の子)(村田沙耶香さん「マウス」P232)というわけで、村田沙耶香さんの「マウス」を読みました。小学生の内気な女の子「律」は、自分の殻に閉じこもったきり仲間はずれにされているクラスメイトの「瀬里奈」を、「くるみ割り人形」を無理やり読んで聞かせることによって、外の世界に引っ張り出します(催眠作用みたいなもんかな)。本の世界にはまり込んでしまった「瀬里奈」は、その本の主人公「マリー」に成りきることによって、普通の生活が送れるようになったように見えるようになります(ああ、ややこしい)。時は流れ、大学生となった「律」は、自分を無理やり何かの枠(レッテル)にはめ込むことによって、かろうじて自己維持を図り、安定性を保っています。クラスの同窓会で、永らく会わなかった「瀬里奈」に会い、今でも毎日「くるみ割り人形」を読まないと生活できないことを知った「律」は、またおせっかいにも、今度は、「瀬里奈」が本を読まなくても生活できるよう訓練しようとします。「瀬里奈」は徐々に、「くるみ割り人形」を読まなくても生活できるようになっていきますが、ここで「律」は、「瀬里奈」のありようが、自分の弱さを逆照射していることに気づかされてしまいます。という、「生きにくさ」と「成長」にかかわるお話しで、「瀬里奈」はあまりに極端な例だとはいえ、「強さ」や「弱さ」とはなんなのか、考えさせられるところがあります。結末は、ちょっとひよっているかな?と思わなくもないですが、印象的な小説でした。
2010年01月09日
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文句を言いながらいつもこうして近寄ってくるのは、瀬里奈はどこかで異世界につながる扉を信じているのかもしれない。「どうする?本当につながっているかもよ」そういうと、瀬里奈は顔をしかめた。「そんなこと、あるわけないじゃない」「つれないなあ。マリーのくせに、そんなこと言っていいの」「また、それをいう。もう読まない。もう絶対に読まないから」瀬里奈はますます仏頂面になった。「それとも、中ですごく背の高い女の子がしゃがみこんでたりして。そのほうが怖いけどね」「もういい。帰る」瀬里奈は台詞とは正反対に、扉へと近づいてゆっくりとドアを引き、中を覗き込んだ。「ほら、やっぱりただの非常口だ」瀬里奈の声がどこかがっかりしているような気がして、私は声をあげて笑ってしまった。(村田沙耶香さん「マウス」P236)
2010年01月08日
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大江健三郎さんの「水死」を買書つんどく。今に始まったことじゃないけれど、どんどんつんどくがたまってく。「終戦の夏、父はなぜ洪水の川に船出したのか?母が遺した「赤革のトランク」には、父親関係の資料が詰まっているはず。それらを手がかりに、父のことを小説に書こうとする作家・長江古義人(ちょうこうこぎと)。過去を持つ若い劇団女優との協同作業を通じて、自らの精神の源流としての「深くて暗いニッポン人感覚」を突きつけられる長江――。そして、やがて避けようもなく訪れる、壮絶で胸を打つクライマックス!」(講談社の紹介)
2010年01月08日
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「また桜庭一樹読書日記」が更新されていました。今回は、佐藤正午さん「身の上話」、ケイト・モートン「リヴァトン館」、沼田まほかるさん「彼女がその名を知らない鳥たち」、佐野洋子さん「クク氏の結婚、キキ夫人の幸福」、辻原登さん「抱擁」、アティーク・ラヒーミー「悲しみを聴く石」などが紹介されています。
2010年01月07日
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「別に、特別どうするってこともないんだよ。そのままで、行きたいところへ行って、したいことをすれば」「私、そういう欲望って、小さいころからあんまりなかった気がする」瀬里奈は首をかしげたまま、「私の矢印って、外に向かってないの・・・・・身体の内側に向かってるの、常に」と言った。(村田沙耶香さん「マウス」P185)
2010年01月07日
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私は、あの日、こつぜんといなくなったように見えた瀬里奈のことを、思い出していた。私はあんなふうにいなくなることはできないと思った。雪が降ってきていた。「ねえ、これが積もって、景色が変わるまで、ここにいていいかな」そういうと、瀬里奈は素直に頷いた。「うん」雪は乾いた地面を少しずつ白く染め上げていった。私は息をついて、横を見ると、瀬里奈は「くるみ割り人形」を読み始めていた。もう、その中へいってしまったのか、何もしゃべらなくなっていた。(村田沙耶香さん「マウス」P125)
2010年01月07日
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私はゆっくりとスペルを思い出しながら、分厚い辞書をめくっていった。時間をかけてやっと、「マウス」の欄を見つけることができた。(mouse。ハツカネズミ、小ネズミ・・・・・臆病者。内気な女の子・・・・・)叔父さんの言ったとおりの意味が、そこにもはっきりと書かれていた。(村田沙耶香さん「マウス」P117)
2010年01月06日
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「家守綺譚」には、マイナーと思うのですが、ロセッティの詩が出てきます。僕には、この詩がどこで読めるのかわかりませんでしたが、そのほか、日本語で読めるものを集めてみました。ダンテ・ゲィブリエル・ロセッティ(兄)わかっている。自分はあの場所へ行き、魔女の歌を聞き、林檎を手に取らねばならぬ。(「林檎の谷」(ちくま文庫「イギリス恐怖小説傑作選」))部屋の中にいたのは、手の先から足の先まですっかり緑と灰色の、その時代の衣装をまとった女だった。かれが心の中に発見した最初の考えははじめ彼女の眼から生まれたかのようであったし、かれはその髪がそれをとおしてかれが夢を見る金色のヴェールであることを知った。(「手と魂」(新人物往来社「怪奇幻想の文学 啓示と奇蹟」))(「召された乙女」(国書刊行会「英国ロマン派幻想集」世界幻想文学大系35))ああ、この本は持ってないや。これかもしんない。また、兄ロセッティは画家さんで、「ヴァーチャル絵画館」(多謝!!)で作品を観ることができます。クリスティーナ・ロセッティ(妹)朝ごとに夕ごとに、むすめらは小鬼の呼ぶ声をきいた「おいで おれたちのの果物を買いにおいで おいでりんごに まるめろレモンに オレンジつぶらなさくらんぼメロンに 木いちご・・・・・」(「妖魔の市」(ちくま文庫「ヴィクトリア朝妖精物語」))なんか、妹の詩のような気もするなあ。
2010年01月06日
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米澤穂信さんの「ボトルネック」を買書。米澤さんは、「さよなら妖精」に続き2冊目です。「亡くなった恋人を追悼するため東尋坊を訪れていたぼくは、何かに誘われるように断崖から墜落した…はずだった。ところが気がつくと見慣れた金沢の街にいる。不可解な思いで自宅へ戻ったぼくを迎えたのは、見知らぬ「姉」。もしやここでは、ぼくは「生まれなかった」人間なのか。世界のすべてと折り合えず、自分に対して臆病。そんな「若さ」の影を描き切る、青春ミステリの金字塔。」(「BOOK」データベースより)
2010年01月06日
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