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「タコ社長、どうかしちゃったんですか。大丈夫ですか。一日に3回も日記をアップしたりしているじゃないですか。お連れ合いさんとはうまくいっているのですか。」日本の友人からメールが届いた。ここのところ、日記を書きまくっているので、何かあったと心配していただいている。嬉しい限りだ。書かないでいると心配されるし、書き過ぎるとまた心配していただける。何事も中庸が肝心なのだろう。でも、いつもこうして心配してくれている友人たちがいてくれるのは、何と素敵なことだろうか。私は凝ると、とことんいってしまう放っておくと危険なタイプ。異性に対しても然り、食べ物に対しても然りだ。こちらで、カツ丼に凝って昼に毎日食べていたことがる。シンガポールヌードルを一ヶ月毎日食べていたこともある。最近は、割とさっぱりしてきているが。というより昼を食べないことの方が多くなってきているので、しつこさに落ち着きが出てきている。異性に関しては、あまり具体的に書くことはここでは控えさせていただこう。頭とか背中も含めてかきたい事やところが山ほどあり、朝のウォーキングのときにどんどん浮かんでくる。問題は、ウォーキングを終えて戻ってくると忘れていること。そして、一生懸命思い出そう思い出そうとしているうちにその日が終わることもある。オランダ系の連れ合いは、SUDOKU,にはまっている。毎日、新聞のSUDOKUに挑戦している。朝起きると、朝食をとりながらやっている。従って、私との会話はない。何かに凝ることは、麻薬とかストリップ見物とか害になることを除けばそんなに悪いことではないと思う。バレーでもピアノでも、一日でも練習を怠ると力が後退してしまうという。因みに、バレーといえば小学校2年生の頃、バレーダンサーに憧れていたことがある。あの男性のタイツ姿に魅入っていた時期がこの私にもあったのだ。白黒TVの時代だった。中学の頃は、陸上部に所属していた。専攻は砲丸投げ。ここでも指導の先生から、毎日の練習の大切さを教えられた。「君たちね、筋肉を付けるのは大変な努力がいるが、失うにはちょっと練習をサボればすぐできる。」先生は、これに絡ませて勉強のことを言われたかったのだと思うが、私は筋肉の方だけに留まることにした。ということで、日記力も毎日書かないとつかないし、継続できないといわれている。だから書いているわけではなく、書くこと自体が楽しいのだ。しかし、本人が楽しいということと、読んでくださる方が楽しいと思われることには大きな差があることも多い。ということで大晦日。みなさんが、掃除やおせち料理に忙しいときに、こんな長ったらしい日記をアップすると、また連れ合いとの関係にご心配をかけそうだが、連れ合いはSUDOKUをやっているようなので安心だ。本年も皆様方に大変お世話になりました。世界中の方々とお友達になる可能性があるこのブログの世界、本当に宇宙的なパワーがある。来年も、皆様がたとの交流を本当に楽しみにしています。楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しい。これを私も実践してまいります。どうか良いお年をお迎えください。来年もよろしくお願い申し上げます。ポチッとクリックお願いいたします
2008年12月31日
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Mornington という海辺の町の友人宅に呼ばれて行ってきた。奥さんはタイ人で旦那さんがオージーのカップルだ。ご存知ない向きもあろうかと思うが、私はこれでも大学でタイ語を勉強している。しかし、在学中はギリギリで卒業でほとんど勉強らしき勉強をせずに卒業しているので、自慢じゃないがまったくといっていいほど話せない。奥さんのジャルナンは本当に料理人だ。十分にタイ料理を堪能させていただいた。クリスマスが終わると、ちょっとダレた感じになる。日本の年の瀬と本当に違う。明日の大晦日は、20人くらいの友人とレストラン飲み食い騒いで年を越す。私はどちらかというと、静かにこの一年を振り返り、年越し蕎麦でも食べるのがいいのだが、こちらにいてはそうもいかない。ポチッとクリックお願いいたします
2008年12月30日
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「ちょっと辛すぎるの。」私が作ったナス田楽のミソベースのソースがどうもいけなかったようだ。オランダ系の連れ合いはソースを除けて食べていた。ちょっと前の日記に、ナス田楽の写真をアップしたら急に作りたくなってやってみた。結果、ナスが脂ぎってグニャっとなってしまったこと、そしてソースがイマイチ。成せばナスではなくなさなかった。皆さんの秘伝のナス田楽の作り方、もしあったら教えていただけますか?連れ合いにアッと言わせたいもので。ポチッとクリックお願いいたします
2008年12月29日
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「タコさんね、こんなちっぽけなビジネスですけどね、これでも年商1億円はあるんですよ。」岩村文具のご主人が、西武池袋線東久留米駅の近くの小料理屋で食事をしているときに囁いた。1974年、私はその年の6月に初めてアメリカに海外旅行することになっていて、ちょっと前の大学の春休みにこの会社でバイトをしていた。従業員はパートが6人、バイトの学生が私を入れて4人だった。この頃の1億の価値はすごいものがあった。この会社の仕事は、小学校の文具、テストなどの卸だった。バイトは、粘土などの工作の教材なども含めすべての教材の運搬の仕事が主なものだった。毎日、軽自動車に乗って地域の小学校に教材を運搬していた。二人で回ることもあったが、すぐに慣れて一人で車を運転して、地図を頼りに学校周りの毎日だった。その頃、ラジオでほとんど毎日聴いていた曲がある。森進一の「襟裳岬」と、海援隊の「母に捧げるバラード」だった。♪ おまえも故郷を捨てて花の都へ行くかぎりは 輝く日本の星となって帰ってこいよ。 行って来い どこへでも ♪母に捧げるバラードの母親のこのセリフが強烈に脳裏に焼きついてしまった。海外移住を決めたときに、そして今も、この歌のセリフが時々思い浮かぶ。「輝く日本の星」にならないと帰れない。ハードルは可也高い。私は、あと3年半もすれば還暦なのに、未だタコを干す物干しくらいにしかなれていない。岩村社長は、当時70歳を超えていた。文具一筋の社長だった。21歳の春、この岩村文具での仕事を通して社長とお話させていただいたことと海援隊の歌に大いに刺激を受けた。そういえば社長、頭がツルツルでタコのような方だった。そこだけは将来、自信をもって踏襲させていただけそうな気もしてはいるが。無理して二つクリックお願いいたします!
2008年12月29日
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「聞いてよ!」英語教師のオランダ系の連れ合いが、夕食の鮭の切り身をきれいに箸で崩しながら言った。「私のクラスの16歳の中国人女子学生がいるんだけど、その子が中年の韓国人男性の学生に向かって、『あなたの国は昔中国の一部だったのよ。』って言ったのよ。」これを聞いた韓国人学生、冷静にではあるがはっきりと否定して、そんなことはないと言い張ったそうだ。その中国人は、学校の先生がそう学校で教えたのだから間違いない、と出張を決して曲げなかったとか。そして、香港から来た学生、台湾の学生を前に「あなたの国も中国の一部よ。」と言い切ったらしい。香港はともかくとしても台湾の学生はいい気持ちはしなかっただろう。相手が16歳ということで、喧嘩とかにはならなかったらしいが、本当に中国では学校でそんな風に教えているのだろうか。オランダ系の連れ合いが間に入って、いろいろな国の人が留学しているのだから、他人を挑発するようなことは控えるように言ってこの件は収めたとのこと。この学生の発言内容はともかくとして、もしこれが我が日本の16歳の女子学生だったらどうだろう。まずこんなことをクラスの前でいう学生は、皆無ではないとしてもほとんどいないだろう。世界史の授業は近代史で終わってしまうし、歴史をしっかりと勉強していない私たちには関心も薄いだろうし、自信をもって言えるような問題でもないことも確かだが、こういう喧嘩ごしの態度で臨むことは避けるのが日本人だろう。こういう留学生達に英語を教えている連れ合いも大変だと思う。「でもね、日本人学生は、何を聞いてもはっきりと答えない学生が多くて、白を白とはっきり言う中国や韓国の学生の方がいいこともあるけどね。」どうやら今度は、連れ合いの矛先が私にも回ってきたようだ。全く迷惑な話だ。せっかく私が焼いた鮭の切り身も冷め切って、久しぶりに我が家の夕食が国際問題で大揺れとなってしまった。無理して二つクリックお願いいたします!
2008年12月29日
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クリスマスが終わると、毎日しばらくの間は残りもので済ます。無理して二つクリックお願いいたします!
2008年12月29日
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「あなたほどかっこいい日本の男は始めてよ。」ニュージーランドの南島の更に南、フィヨルドで有名なクイーンズタウンのパブで、カナダから旅行にきていたセラという大柄な女性からそう言われた。この言葉、額にいれて東村山の実家のお祖父さんの写真の横にでも飾っておきたいと思えるほどだった。1985年の年越しは、普段は2千人の町が大晦日には3万人になるといわれているこの美しい町で過ごすことにした。バッパーに荷物を降ろすと、そのまま町にでてまずパブに入った。狭いカウンターでビールを注文すると、栗毛の髪を肩まで垂らしてビールを飲んでいる女性と目が合った。「どこから来たの?」話かけてきたのは彼女からだった。もう、だいぶビールが回っているようで、ややろれつも回っていないし、からだが前後に揺れる。背が180センチはあろうかと思えるほどの大きな美人だ。ショートパンツに、申し訳程度に着ている薄手のTシャツは上下に揺れる。夕方から飲み始めてしばらく一緒にいたが、その内セラは同じカナダ人と思われる人たちと一緒にどこかに行ってしまった。「ごめんなさいね。昨夜は酔ってからんだりして。」「私ね、カナダのカルグリーで好きな人に振られて、もうカナダには居たくなくて旅に出たの。」翌日、しらふのセラが神妙にそう言い出した。どうやら彼女は、失恋の痛手を背負った感傷旅行に来ていたようだった。それで、浴びるほど酒を飲んでいたのだろうか。「昨日のことはほとんど覚えていないの。気持ち悪くなって年を越す前に宿に帰ったし。私、何か変なこと言わなかった?」「可也酔っていたけど、変なことなんって言ってないよ。大丈夫だよ。ところでセラ、今までどんな日本の男と知り合ってきたの?」好奇心が抑えられなく聞いてしまった。「タコ、あなたが始めて話した日本人の男性よ。」どうやら、酔っていながらのきつい冗談だったようだ。どうりでおかしいと思った。東村山の額の話はご破算になった。パブで酔った女性なんかと話したらろくなことはない。「今、世界旅行に出ているの。オーストラリア、日本にも行くわ。そのときは連絡するね、タコ。」屈託のない笑顔だった。世界中のパブを同じように酔って飲みまわるのだろう。とんだ当て馬だ。私の笑顔は、ちょっとひきつった苦笑いになってしまった。無理して二つクリックお願いいたします!
2008年12月29日
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「See you later」とダーク・ブラウンの髪をショートにしたサラに言われて、後で彼女が来るものだとずっと待っていたことがある。タコ社長、高校1年生の頃のことだ。純情を絵に描いて飾っておきたいくらいの頃の話で、それに輪をかけて英語の理解力もなかったため、こういう悲劇が起きた。「どんなにネイティブに近いといわれる人でも、子どもの時にどっぷりとその言語に浸かっていなければネイティブにはなれない」。日本語ペラペラのカナダ人男性がテレビで言っていた。もっともだ、と言って英語が上達しないことを正当化するつもりはないが。「I’ll give you a ring」買い物をしていた日本人の奥さんが素敵な男性店員にそう言われ、旦那さんに知れたら大変だと、生きた心地がしなかったことがあったという。単なる商品の入荷確認の連絡だったらしいが、本当にこの店員に一目惚れされ、指輪をあげると言われたと思ったらしい。この話を聞いたこちらの英語の先生からの受け売りだが、ちょっと笑えない気もする。因みに、オランダ系の連れ合いはこちらの学校で外国人に英語を教えている。日本でも2年の教師歴があり、日本人に英語を教えるコツをつかんでいる。今の私に幸いしているのは、この調子で家に帰ってきてもゆっくりと英語を話してもらえることだ。もっとも、基本的には無口のタコ社長、ほぼ一方的に聴いていることが多く、あまり会話になっていないようではあるが。英語の表現上の問題もさることながら、発音、特に「R」は永遠の課題である。アメリカの旅行中に知り合った女性と会話していて、「recently」と言っても通じず、5回目で諦めて話題を変えたことがあった。「Rの悲劇」ではこんなこともあった。ある時、こちらの遊具メーカーと仕事をしていて日本への出張になった。そこで通訳の真似事をさせられたのだが、その会議中、どうも話がかみ合わなくなってきた。製品の不具合の話で、オーストラリア人の言ったLead(鉛)の浮き出てくる問題をRed(赤)と聞き違えて訳し続けて話がとんでも無い方向に飛んで行ってしまったのだ。このこじ付けの技術には自分でも感心した。しかし、正に赤っ恥の日となってしまったことには変わりなかった。そろそろリタイヤの近付いているタコ社長、連れ合いの学校に通って英語学習のやり直しの夢を見始めている。昔、私の日本語クラスの生徒だった連れ合い、今度は攻守交替で私の先生なんて人生の機微も味わえそうだし。無理して二つクリックお願いいたします!
2008年12月28日
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「タコの本を是非一冊欲しい。出版したら教えてくれ。」オランダ系の連れ合いが、私の2月に日本で出版される「タコ社長日記(仮題)」の話をこちらでしまくるものだから、オーストラリア人からの注文が既に入ってくる。パーティーなんかの酒宴の席上のことだから冗談交じりではあるだろうが、この後に「済みません、日本語なんです。」というと「じゃ、翻訳しろ。」などと無理な注文が出てくる。私は、「日本でベストセラーになったらするよ。」と切り替えしてはいる。第一、「タコ社長」という言葉から厄介だ。どう訳したらいいのか、どう説明したらいいのか。「President Octopus」とかいってもまったく意味をなさない。こちらではタコはゲテモノだ。私がゲテモノだから、説明は簡単じゃないかという向きもあろうが、それにしてもいちいち困る。もうすぐ誕生する「President Obama 」に因んで「President Tako 」とかはどうだろうか。そして、Takoは一切説明しない。こんなことも昼寝をしていると思い浮かぶ。しかし、問題は翻訳本なんかが出た日にゃ、連れ合いがいろいろと余計なことを知ってしまって、我が家の世界平和に何らかの支障がでるのではないかという危惧だ。もっとも、こんなことは日本でベストセラーになったら心配すればいいことだ。分からない日本語でもいいから一家に一冊とかいっている家族、友人もいるので、出たら出たで内容説明を強いられることは間違いないので、2009年リタイヤ間近なタコ社長、急に多忙になることも予想されて大いに困る。日本で、大ベストセラーになって欲しいと思う所以である。無理して二つクリックお願いいたします!
2008年12月28日
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「タコちゃん、東京タワーに上ろうよ。」サラリーマン1年生の8月から付き合いだしたアユミが提案した。初めての二人のクリスマスをタワーで過ごそうというのだ。1976年7月1日に、3ヶ月の研修を終えて赤坂の本社勤務になっていた。建設機械の大松の海外事業本部に配属となっていた。同じ事業部の業務課の同期アユミは、山梨から出てきていて荻窪に一人で住んでいた。神田川のほとりで、3回目のデートで頬にそっと手を添えたとき大粒の涙を流し、私にはこの人のために生まれてきたと思う人がいるの、と泣き出したアユミ。とんでもない人を好きになってしまった。しかし、好きとか嫌いとかは、インコやクワガタとかなら別だが人間の場合は、はいそうですかと回れ右をして変えることはできないようにできている。「タコちゃん、今日からあなたのことを真剣に考えるわ。」10月のある日、荻窪の喫茶店で待っていたとき、腰まであった髪をばっさりとショートカットにして見違えるような笑顔でそういいながらアユミは現れた。その笑顔があまりに輝いていたので私は思わず言葉を失ってしまった。彼女がこの人と決めていた人には婚約者がいて、どう足掻いてもかなわぬ恋だったとのことを私も知っていた。それだけに、自分の恋の行き場がなくやるせない日が続いていた。私より、婚約者のいる人に恋をしている。しかも、その人はアユミが恋心を抱いていることを全く知らないというのだ。この時、その人が結婚するということを聞いてやっと踏ん切りがついたようだ。タワーのそばにあったフランスレストランに入った。イブの予約なしのカップルに最後の席が空いていた。メニューを見た。一番安いコースが一人6000円だった。学生時代は池袋のキンカ堂の地下とか、東武デパートの屋上とかが常連の私だった。ワインのリストを見て言葉が出ない。しかし、思い出の最初のクリスマスイブ。カードなんかのない時代で、私の財布は小銭で重かった頃のこと。(これは今も一緒だが)しかし、ぎりぎりセーフで支払いができる以内で収まった。帰りは心強い定期がある。赤いコートを脱ぐと、濃紺のセーターのワンピースが体の線をそのまま現して立っていた。なんといい服なんだろう、とか服に見とれたわけではない。でもその目に飛び込んでくる紺色が眩しい。もう少し目が大きかったら入れたいくらい可愛い。「タコちゃん、これからも毎年一緒にクリスマスをお祝いできたらいいね。」展望台でアユミがそう静かに言った。「東村山はどっちだろう。」私は、なんだか自分が幸せ過ぎてまともに返事ができなかった。12月23日で、東京タワー50周年だったという。あのイブの晩は、まだ18年と1日ということになる。東村山四丁目の夕日だろうか。無理して二つクリックお願いいたします!
2008年12月27日
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やっとクリスマスの酒が抜けた。私の場合、割と抜けた人生ではあるが、酒はどんどん抜けた方がいいように思う。昨日のボクシングデーの夜のパーティーでは、大好きな赤ワインを舐めるだけで終わった。「タコ、私8年前から瞑想を始めてね、今年インドのバンガロールに行ってきたの。」昨夜のパーティーで、フィジ出身のキャシーが言う。彼女の両親はインドで生まれフィジに移住して5人の子供をもうけた。今、その全員がフィジを去っている。アメリカ、ニュージーランド、そしてこのオーストラリアと、それぞれバラバラに移り住んでいる。「母は僧侶の出でした。」「ああ、バラモンですね。」キャシーがちょっと驚いたような顔をした。高校の世界史で4つのカースト制ということで覚えた。でも今は、バラモン、クシャトリアしか出てこない。これでは、バラモンじゃなく、バカモンだ。「不思議なもんでね、インド人なのにフィジで全員カトリックになったの。それで私もずっとカトリックだったんだけど、インドには住んだこともないのに、年を取ってきたらね自分の中のインドに目覚めたようなの。」50歳になるキャシーが悟りを得たように目を輝かせながら私に話してくれた。「また来年もね、有給休暇を取ってインドにいって好きなだけ瞑想するわ。」別れ際に挨拶のハグをしながらしっかりとそう言った。タコ社長、オーストラリア移住23年になる。どんどんとこちらのペースになっていく生活とは裏腹に、だんだんと日本の心の部分に触れたいという思いも強くなってくる。移民一世の宿命だろうか。もしかしたら、勝手に私が求めている日本の心は、もう「母さん、僕のあの麦藁帽子は」状態でどこにもないのかもしれない。キャシーは、インド、フィジー、そしてオーストラリアのそれぞれの文化を背負っている。私の場合は、秋田、東村山、オーストラリアとかいえるだろうか。本当は、流れ着いたところで心を見つけていかないとならないような気もする。移民の心は大きく揺れる。「キャシー、インドに住んでみたいと思ったことはあるんですか?」「Oh no, never !」強い調子の答えが返ってきた。無理して二つクリックお願いいたします!
2008年12月27日
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こちらの日本料理で嬉しいのは、大好きなナスが私の靴くらいの大きさだということ。これにご飯、味噌汁、お新香で十分な多きさ。ナスだけでお腹が一杯になってしまいそうだ。無理して二つクリックお願いいたします!
2008年12月27日
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連れ合いはオランダ系だけど、両親は生粋のオランダ人。年に一度は羊の脳みそを食べる。パン粉で揚げたもので、味はまあまあなのだが、これが脳みそかと思うとなかなか、喉越しに弾みがつかない。「コレステロールに良くないのであまり食べられないよ。」と連れ合いの父親がいうが、その割には食べている。私は、「これ、捨てろーる?」とかいいたいくらいだ。じゃ、ウニとかはオーストラリア人にはどうなのか。イナゴの佃煮なんかも足が喉に刺さってしまうような気もするという。それぞれに国にはそれぞれの面白い料理がある。羊の脳みそを食べるとクリスマスだなと体感できる。来年も、元気で挑戦したいものだ。無理して二つクリックお願いいたします!
2008年12月26日
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オランダ系の連れ合いの妹の家で行われて今年のクリスマス会は、24日の夜からの泊り込みの2泊3日の大宴会となった。車で2時間弱のところにあるソレントという避暑地だった。妹のダンナはとんでもなく酒好きで、ここで行われる会は地獄の一気飲みが続く。おかげで後半以降はよく覚えていないほどの一日になってしまった。「本当に飲むから駄目なのよ。私みたいに飲んだ振りして芝生に捨てるのよ。」連れ合いの発言は正しい。しかし、こと酒に関しては振りができないタコ社長。もったいな、と思う気持ちが 命取り戦後すぐ派は、なんでももったいない。もらったものをすべて食べ、すべて飲む。ということで、しっかりと二日酔いで戻ってきた。おまけに、インターネットにまったくアクセスできずの日々。今日は、こちらでいうボクシングデーだ。デパートなどでの大安売りの日。本日、6時から「ボクシングデーの飲み会」が友人宅である。もう酒はいいのであまり行きたくないがそういうわけにもいかない。では、いってまいります。行けば何とかなるもので。無理して二つクリックお願いいたします!
2008年12月26日
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皆様、メリークリスマス!!!クリックするとタコが踊ります。良いクリスマスイブ、クリスマスデーをお過ごしください。
2008年12月24日
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パイもこう化粧するとぐっと上品に。味も変わってくる。クリックお願いいたします
2008年12月23日
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美尻。こんな言葉をご存知だろうか。私は本日、生まれて初めて出会った単語だ。いったい、誰がいつからこんなとんでもない表現を使い始めたのだろうか。しかも、読み方は「びじり」なのだそうだ。この「音」は、文字と逆にまったく美しくない。こう見えても元日本語教師の端くれの私だが、どうもこの単語の尻馬には乗れない。じゃ、元横綱栃錦とかは「汚尻」とか言えるのだろうか。また、醜尻とかの基準はどう設けるのか、というよりこの表現はありか。日本語は奥が深く、寛容な言語だが限度があるだろう。たとえば、こういう表現を会社の会議中に使ったり、国会中継の際にNHKのアナウンサーが使ったりはできるのだろうか。新聞にも登場しているようだ。「美尻コンテスト」なんて。もう、社会に受け入れられているようだ。因みに、広辞苑には出ていない。あ~嫌だ嫌だ、いろんなものの前に「美」を付けて造語しようとしている自分がいる。勘弁して欲しい。日本語教師には想像がたくましくないとやっていけないという職業病がある。「尻」のついた苗字の方も多い。「尻」がいけないとかいっているのではない。安易な造語に注文を付けたいだけだ。じゃ、タコ社長なら何というだろうか。「バケツ」をもじって「美ケツ」なんて更によくない。「ナイスでん部」で「ナスデン」。これもミソでもつけて食べたくなってしまいそうでボツ。私の造語力は先が見えている。ということで、どなたかに挑戦していただきたい。他にもっと綺麗な表現はないものだろうか。クリックお願いいたします
2008年12月23日
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記録に残っている日本人の初めてのオーストラリアへの入植者は、1871年にサーカスの一団の一員として入植した曲芸師だったという。そして、オーストラリアを最初に訪れた日本人、日本人の一団もやはり曲芸団だった。メルボルンに1867年(慶応3年)に来た12人から成る人々で来たのだそうだ。タコ社長の曽祖父が栃木でかんぴょうでも作っていた頃のこと。しかし、明治維新の真っ最中、よくこんな所まで来られたもんだと驚く。我が大先輩移住者がサーカスの一員ということで、私も肩の力が抜けて親しみが感じられる。そう言わなくてもタコ社長、昔から演芸部長、宴会幹事長、その他関連名誉会長の職歴がツルツルと光ってまぶしいといわれている。してみると、元々オーストラリアへの入植の道ができていたことになる。さ~て大晦日まで飲み会のレンチャンだ。先輩入植者の方々を思いながら曲芸タコ踊りで乗り切りたい。クリックお願いいたします
2008年12月23日
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「すごく、いやらしいの。」タコ社長の話ではない。因みにタコ社長、高校2年のときのあだ名は「スケタコ」。スケベなタコ、という意味らしいがまったく迷惑千万な話で、当時となりの町の立川警察署に勤めていた父に言いつけたいくらいだった。しかし、「名は体をあらわす」なんていう親切な言葉もあるくらいで、完全には否定できないあだ名であり、それが一人歩きを始めていた。「タコね、私のバイトをしているレストランのマネージャー、私を上から下までなめるように見て、肩や腰に手を回してきたりするんだから。」東村山四丁目かなんかの駅前の蕎麦屋とかで働いていた人との会話ではなく、アメリカはワシントン州のシアトルのステーキレストランで働いていた金髪娘18歳のマーラのコメントだったからすべて英語だった筈だ。もしかしたら、まったく違ったことを言っていたのかもしれないが、22歳になったばかりの私にはそう聞こえた。自分のことはしっかりと3メートルくらいの棚の上にあげながら、アブラムシといやらしい男は大嫌いだなどと大口をたたいていた頃の話だ。このときもマーラのマネージャーには鳥肌が立つほど嫌悪を覚えた。ちなみに、今はこういう感覚が完全に麻痺してしまっていて、人類皆兄弟の笹川状態になってきている。年を取るということはいいことなのか、時々分からなくなる。もう少し、分からなくなるころには極楽からしっかりとお迎えがくるのだろう。若いということは、激情の度合いが大きいということなのだろうか。しかし、だかといってこのアメリカ人のマネージャーを呼び出して、などということは一切考えなかった。私の激情は昔から割りと浅いような気がする。「そうだね、そういう奴は本当に良くないね。」簡単な英語でそう言うのが精一杯で話題を変えた。薄暗いタコマ湾を眺めながら、という文句のない素晴らしい設定は出来上がってはいたが、マーラの肩や腰に手を回すなどということはとてもじゃないがその時の私にはできなかった。クリックお願いいたします
2008年12月22日
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隣近所の一品持ち寄り食事会。私は、こういうシンプルな食事が体に合ってきている。経団連の元会長故土光さんが、晩年は「めざし」三昧だったとか。一説によるとあの「めざし」、産地直行便で結構高かったらしいが。いずれにしても、最近は胃が、以外にも小さくなってきてもいるらしい。クリックお願いいたします
2008年12月22日
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人妻に恋してしまうほど切ないものはない。因みに、日本語にはどうして「人夫」という言葉がないのだろう。これは、「にんぷ」と読めてしまって、力仕事にかり出される人一般の意味になる。してみると、男は人妻を欲していて、女は単に力仕事人を欲しているということだろうか。なんだか、やるせなくなる。因みついでに、切ないといえば、人をお茶や食事に誘ってから十分な手持ちがないことに気づき、相手に払ってもらうハメになることほど切ないものはない。昔、カードとかがあまりない時代、会社の同期の男性を喫茶店に誘い30円しか財布にないことを思い出し、出るときに「俺が払うよ。」とか「割り勘だな。」などということさえ言えず黙って出てしまったことがあった。どうして、「30円しかないんだよ。」と素直に言えなかったのか後悔したが、それからその同期とは疎遠になってしまった。男で良かったとかの問題でもない。なかなか、本題に入れない。日本で知り合ったオーストラリア人のパットには素敵な旦那様がいた。パットは日本語が堪能で、英語で話す必要のない人だった。久しぶりにシドニーで会ったとき、旦那のケントと3人で食事になった。1981年のことだった。車で、ホテルまで送ってもらった。カーラジオからGrover Washington JrのJust the two of us. が流れてきた。するとパットが後部座席から、「Just the three of us. ね。」と笑いながらいった。助手席にいた私は苦笑いした。彼女は私の気持ちを嫌というほど知っていてそう言ったのだろう。私は急に気持ちが高ぶってくるのが分かった。「済みません、ケント。車を止めてください。」どうしても我慢できなくなってケントにそう叫んだ。ケントもビックリしたようだったが、車を公園の脇で止めてくれた。「どうしたんだタコ?」英語ではうまく言えなかった。私は、車から出て公園の中に走りこんだ。レストランの後にロックスにあったパブに行きビールを飲みすぎて、トイレに行きたかったが我慢して車に乗ったのがいけなかった。もう我慢の限界を超えていた。決まらない。そう、心で叫んで車に戻り、キングスクロスのホテルまで送ってもらった。満面笑みのパットと、苦みばしってかっこういいケントに別れを告げホテルに入った。人妻への叶わぬ恋と、切ない生理現象のダブルパンチの夜となった。クリックよろしく
2008年12月21日
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「お父さんがね、自転車にまた乗れるようになったよ。」もうすぐ83歳になる東村山の母が、やや言葉を弾ませながらそういった。父は来年の3月で86歳になるが、2年前に前立腺癌を患い3ヶ月ほど入院している間に、足の筋肉が弱り歩行が困難になっていた。長い間、リハビリしたおかげでゆっくりだが、歩行もできるようになっていた。「石井先生がね、自転車に乗っても大丈夫っていうんでね、サドルをずーと低くして、三輪車みたいにして乗ってるんだよ。」病気をする前は、父は一日に何度も自転車で買い物に行ったり、母が作った料理をいろいろな所に分けてやったりしていた。元警察官の父は自転車乗りは板についていた。父は今、病気と共存ということではあるが、本当に元気になっている。入院中、私が見舞いに行ったとき、生まれて初めて父の泣く姿をみた。正直のところ、日本の短期滞在を終えて退院できないでいる父と別れることは、ない後ろ髪をしっかりと引かれる思いだった。それがどうだろう、もう二度と自転車には乗れないものと思っていたら、また乗って買い物なんかに行っているというのだ。「じゃ、来年の2月に帰ったときは、オヤジとまた一緒に自転車だね。」「駄目だよ、古いのは売っちゃったからもう一台しかないんだよ。」「そうか、じゃ俺がオヤジを後ろに乗っけて買い物だ。」母のしわ枯れた笑い声が受話器の向こうから伝わってきた。クリックよろしく
2008年12月20日
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メルボルン一高いビル、ユレイカタワーの展望台に行って来ました。ザ・エッジといわれる地上300メートルの所でせり出す世界で一つの移動展望台体験もしました。すべて、オランダ系の連れ合いが誕生日祝いにもらった只券での体験でした。一瞬にして全体が曇りガラスから、透明ガラスに変わります。下半身がビビリます。タコ社長、やや風邪気味。昼ごはんは、これも誕生日のお祝いの只券で、メルボルン一高い日本食レストランNOBUで生まれて初めての豪華昼食でした。赤ワインも1本空けました。全部、只の一日でした。連れ合いの誕生日は年に2-3回あるといいと思います。
2008年12月20日
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「タコ君、北京にきたら一週間、毎晩違ったレストランで中華料理を堪能させてやるんだけどな。」サラリーマン時代、北京駐在の先輩の茅野さんがそういって私を羨ませがらせた。本当にまだまだ食い意地の張りっぱなしの頃のことで、いつかは行ってみたいと思ったものだ。あれから30年、まだ中国行きは実現していない。「一月二日から中国に出張するからね。」オランダ系の連れ合いが先日突然こう言い出した。別に、書初めの日が台無しになるとかじゃないのだが、正月が一人になってしまう。もっともこちらは、クリスマスの賑やかさに比べ、正月はまったく何もない。多くの会社が2日からスタートする。我が家の老猫ルーシーも昨年極楽に出向いて旅立ったので、連れ合いも安心して出張ができる環境にある。ということで、二日から一週間だけど、ベットを横に使うとか、蕎麦に生卵を落としてズルズル食べるとか、普段できないことをしようかと思案中だ。
2008年12月19日
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今、日本では小さな子供にプチ整形をさせる親がいるという。将来の芸能界デビューなどを目論んでのことなのだろうが。子供には逆さまつ毛の手術をするとかいってさせるらしい。ちょっと考えてみると怖い。タコ社長、こう見えても逆さまつ毛。オランダ系の連れ合いに言わせると、ほとんどないまつ毛、それが逆さに生えていて眼球に突き刺さったりする。小学校4年のときの身体検査で眼科の先生にべろっと瞼を裏返していただき、「はい、逆さまつ毛。」と部屋中に聞こえるように診断していただいた。あっ、自分は逆さまつ毛だったんだ、と周りの学友と共に確認させていただいた。というわけで、私の場合はプチ整形とかじゃなく、正真正銘の逆さまつ毛での手術となった。手術はいとも原始的な縫合手術で、目だからよそを向いているわけにいかず大きく開けば何をしようとしているのか嫌でも見えてしまう。5年生のときの扁桃腺炎の手術のときもよく見えた。恐怖のときだった。このころからだろうか、マゾっぽい「ぶって、ぶって」の危ない世界に目覚め始めそうになったのは。「いっぺんに両目をやるとまったく見えなくなって大変だから、一つずつやるね。」先生はそういってまず左目からやってくださることになった。内側に曲がったまつげを瞼に縫い付けるというものだった。一週間ほど不便な日々をおくり抜糸となった。まだまだ、探せばナイーブな気持ちを持ち合わせていた頃のことで、抜糸後の目の周りの「四谷怪談」状態に心が大きく揺らいでしまった。自分でも怖くて鏡が見られないのだ。あっ、もうこれで結婚は無理だな、などと思ったかどうかはまったく覚えていないが、可也のショックだった。そして、自ら右目の手術は断った。しかし、一ヶ月もすると全く手術の痕もなくなり右目もやればよかったかなとチラッと後悔した。今考えると一つだけ不満が残る。今のプチ整形と同じ苦労をしたにも拘わらず、やる前もやった後もまったく同じつぶらな一重瞼だったということだ。今度の帰国で、右目に挑戦してみよかとも考えないわけでもないが、往年の歌手が変に目だけが引きつったようになっているのを見ると、やはり大きくしり込みすべきところだろう。ということで、これから残された人生も逆さまつ毛との共存でやっていくことにする。
2008年12月18日
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「リンの靴、見た?」オランダ系の連れ合いが、結婚式で会った友人のリンについてコメントした。宝石の散りばめられた素敵な靴だったそうだ。私は記憶がない。「女の人たちが、みなコメントしていたわ。」確かに男と違ってパーティーの際は女性はスカート姿で靴が目立つ。女性は女性の靴に目が行くという。でも、私たち男性はどうも靴以外の方に目線が向いているように思われる。というより、私がそうなのかも知れないが。女性同士では、まず靴から品定めするのだろうか。「タコ君、いいネクタイしてるじゃないか。」サラリーマン時代、直属の上司谷口課長と銀座の高級クラブで飲んでいるときに言われた。やや酔いが回っている課長は、そういいながらネクタイに触り裏返してどこ製か確認していた。男同士の品定めは、サウナの中とかは別としてネクタイなのだろうか。皆さんのご意見を伺いたいところだ。
2008年12月17日
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長生きするにはどうしたらいいのか。メルボルンの朝日新聞The Ageに統計が出ていた。1 勝利者になる。何かの賞などで優勝した人、一番になった人は、二番以下の人より長生きするという。2 チョコレートを適量食べる。特にダークチョコレート。3 沢山セックスする。週二回以上の人は月一回以下の人より早死にのリスクが半減する。4 宗教をもち礼拝に通う。友達をもつ。5 肉を控える。6 活動的になる。7 ワインを飲む。8 血圧、コレステロールに気をつける。9 高学歴10 健康的な食事 ダークチョコレート、アーモンド、フルーツ、野菜、ガーリック、ワイン、魚11 減量12 積極志向 楽観的に生きる13 禁煙14 健康的なライフスタイル15 経済的な安定 安定した人が多い地域に住む もっともなことが多い。ストレスが少ないライフスタイルだろう。金持ちでいいライフスタイルといわれると、我々貧乏人は早く死ぬといわれているようでいい気持ちはしないが、事実を述べているだけなのだろうから怒っても仕方ない。ただ、お金に関係なくできることも沢山あるので嬉しい。ところで、この新聞の切り抜きは、酔って仕事から帰ってきたときに私の机の上に置いてあった。我が家の老猫ルーシーも他界して久しいし、オランダ系の連れ合い以外に心当たりはない。連れ合いは、私に何かいいたいのだろうか。
2008年12月16日
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この前の金曜日、大雨の日に友人の息子の結婚式があった。金曜日の4時はからで披露宴を終えて帰ってきたら1時だった。このウエディングケーキ、既にお持ち帰りできるようになっている。初めて見た。赤ワインを飲みすぎて帰宅して、空腹を感じて食べてしまった。
2008年12月15日
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「タコさん、もう一人女性を入れて三人で中華料理でも食べにいきましょうか。」国分さんは、私の母と同じ年の60歳、還暦の方だった。1985年12月に私は住んでいたメルボルンからNZに旅に出ていた。最初オークランドで出会った国分さんに、その約一月後偶然にクライストチャーチの街中でばったりと再会。その夜一緒に会食することになった。メルボルンでは移住を求め、日本食レストランでバイトをしていた。ビザの延長のためには一度海外に出ないとならないというので、じゃNZを回ってみようと思って旅にでていたのだ。国分さんと初めて出会ったのは、オークランドの一泊30ドルの簡易ホテルだった。全く英語を解さない国分さんをチェックインのときに助けてあげたのがそのきっかけだった。自分の母の年代の方だったから、私も何かにつけてできることはさせていただこうと考えていた。「まったく偶然によく会えたものね。」北海道にお住まいという国分さんは、訛りのない素直な日本語で嬉しそうにそう言った。「この人、橋口さんっていうの。今年41歳でね、子供はいないけどNZに移住したいんだって。」いきなり人の年を言ってしまったりするのは日本人に多い。橋口さんは、結婚しているのだが、ご主人を日本に置いて一人でNZに来て永住の可能性を追っているとのこと。国分さんもつい先日知り合ったらしいが、なんだかもう何年来の知人のように話をする。本当に誰とでもすぐに知り合ってしまう方だ。海外旅行も、これで20カ国以上になると大きな声で笑いながら言っていた。こんなに逞しい日本のおばあさんもいるんだと、なんだか誰かに伝えたくなるくらいだった。「ねえあんた、この人の永住権、なんとかならないかしらね。」永住権は、そこらの魚屋とか売っているわけではない。自分のオーストラリアの永住権もままならず、毎日手が真っ白になりふやけて皮がむけるほどレストランのキッチンで皿を洗いながら必死でやっていても先の不確かな毎日。奇跡でも起きない限り永住権は見えてこない。でも、不思議と国分さんにそういわれると、自分の分かる範囲で一生懸命橋口さんに話させてもらっていた。ご主人はいるが、どうやら訳ありで、日本での結婚生活を清算するためにNZに来られていたのがわかった。髪に昔のスタイルのパーマをかけ、丸顔で色黒の飾らない橋口さん、始終笑顔で話しを聞いてくれていた。しかし、結論など出るわけもなくマーボー豆腐を突っつきながら話が空回りしてしまうことが多かった。「タコさん、ありがとうございました。私も観光ビザで、あまり長居はできませんが、なんとか永住の糸口でもつかめるようにやってみます。」クライストチャーチのビルの2階にあった中華料理屋を出て少し外で立話をした。私も彼女と立場はそんなに変わっていなかった。同じ言葉を、そのまま橋口さんに返したかった。NZに一ヶ月ちょっと滞在した。北島の北端ワンガレーという日本人はおろか中国人でさえほとんどいないような田舎町の、ある小学校の日本語教師の面接を受け、5%もないであろう可能性にも賭けてみた。私は33歳になっていた。それからしばたくして、私はメルボルンに戻り日本食レストランで再び働き始めた。あらゆる年代層の人が、こんな風にして日本での生活に見切りをつけて当てもなく永住を求めて彷徨っていた。これは今も変わらないだろう。もっと多いかもしれない。二度目、三度目の人生のやり直しの場を、あらゆる国籍の人にオーストラリア、NZが無表情に差し出してくれていた。もう少しすると私もあのときの国分さんの年になる。
2008年12月13日
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久しぶりに、学生、ワーホリの方々を中心に業後パーティーを開催する。日本人、韓国人などが50人以上が集まった。若い方々と話すことほど楽しいことはない。私も、ついつい調子にのってしまったが、大いにエネルギーをいただいた。
2008年12月11日
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やっと上がってきた。最近、落ち着きかけてきているタコ社長の血圧とかの話ではない。血圧といえば、今まで毎日飲んでいた薬を一日置きにすることにした。薬に頼らず血圧を下げようとしている。前立腺肥大を抑える薬は飲み続けている。いつかは手術することになるだろう。手術といえば先日、暇に任せて今まで何回手術とかをしてきたのか数えてみた。怪我なども交えるとなんと不吉な13回。中には大きい声で言えないものもあるが。オランダ系の連れ合いにきいてみた。ないのだそうだ。だから連れ合いは入院とかを異常に恐れている。私は、日常化しているので病院の匂いも気にならない。話が大きくずれた。上がってきたのは2月の初めに刊行することになっている「タコ社長日記」のゲラのことだ。業界用語では、これを「初校ゲラ出し」というらしい。ちょっと日本語の響きとして面白い。音韻的には、「所長ベロ出し」とかと変わりない。待ちに待ったものが出てきたのだ。これで、本当に本が出そうだ。今まで、人生で何度か人に裏切られてきた経験のある東村山の母は、出版が遅れると言うと「本出すなんて、お前、騙されてるんじゃないかい?」とドキッとするようなことを言って私を脅かしてくれていた。初校ゲラは、すべてを読み直して誤りや訂正を正して戻すことになる。これが終わると、「再校ゲラ出し」があり「再校ゲラ赤字直し」があり最終確認がされる。この作業には私は加わらず、出版社の方で完了する。そして、下阪、印刷、製本、刊行と続く。目次の内容だけを書き出してみよう。連れ合いはオランダ系(仮題)目次まえがき「はじめまして、タコ社長です」 ~自己紹介~オランダ系連れ合いとのナレソメ第1章 楽しむ・タコ社長・オーストラリアン・ハズバンド・家のリフォーム・趣味は踊る・オーストラリア的就労のススメ・オーストラリアの運動会・国際男女関係への一考察・四苦八苦症候群のタコ社長・健康がイチバン!・メルボルンの楽しみ方・刺激充満、日本への帰国・タコ社長の過去・現在・未来 タコトリビア1:オーストラリアに日本の領土がある タコトリビア2:ハエ大国、オーストラリア 第2章 驚く・タコ社長・オーストラリアのサービス業あれこれ・食欲の秋、読書の秋、メルボルンの秋・オーストラリアの子づくり、子育て事情・オーストラリアの家庭訪問・恐るべし日本語パワー・オーストラリアのアイコンNO.1・南半球はなんでも逆?・オーストラリアの警察物語・元気な動物の多い不思議大陸オーストラリア・「個人的な接触紹介」!?・夏休み大移動 タコトリビア3:ホームステイ顛末記 タコトリビア4:オーストラリアの開放的な性 第3章 悩む・タコ社長・我が家の食事・オーストラリアは平等社会?・夏のクリスマスパーティー三昧・謝る社会と謝らない社会・斬れる語学への道・これも、節約のうち?・奇異な国民?日本人・発明に母、発明に連れ合い・2つの祖国・異国の医者通い・豪州的単身赴任の心構え・酒豪への道・終の棲家 タコトリビア5:ブルーム タコトリビア6:オーストラリアの国定忠治 第4章 出会う・タコ社長・最後の引っ越し!?・タコ社長と愉快な動物たち・恐ろしくも面白い国、ニッポン・楽しい近所付き合い・メルボルンは花粉症のメッカ・変わった日本・変わらない日本・移民の街・オークレー・パブに行こう!・よき隣人・ジムのある生活・ウチとソトの文化国家ニッポン タコトリビア7:ストロマトライト タコトリビア8:RSL 第5章 考える・タコ社長・リタイヤ間近な日々・チャイニーズレストランの謎・日豪2ヶ国で贅沢に・恨めしや独身生活・メルボルンも温暖化?・脱日本人的気質・オーストラリアで、日蘭関係に思いを馳せる・ほめる文化の効用・たまにはマジメに人種的考察・オランダ系の連れ合い語録・永住権取得の頃を振り返る・2つの文化の狭間で・アバウトな国オーストラリア・人種のごった煮、メルボルン・多難な移住を乗り越えてタコトリビア9:淋しいオーストラリア人 以上、立ち読みにもしっかりと耐える内容になっている。タコ社長、子供はどこを探しても今のところいながい、子供に一張羅を着させるような気持ちで初校ゲラと取り組んでいる。
2008年12月10日
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「タコさん。」暗闇から声がした。毎朝7時に会社に出ていた頃の話だ。道路工事の交通整理の人が私の名前を呼んでいる。黄色と白の目立つ蛍光色の上着姿だ。「アンソニーです。タコさん、お元気ですか。」日本語だった。以前、キャンバウエルというところで一室を借りて日本語を教えていた。そのときの生徒のアンソニーだった。アンソニーは同僚のコリンと二人で学んでいた。実は、この二人はメルボルンの公園遊具の会社の社員だった。この会社が、日本の千葉県の柏市にある同業の会社と提携して、日本語を習うように会社から言われて学んでいた。そして、この私もこの会社から頼まれてチームの一員として日本に何回か行くことになったのだ。1989年のことだった。アンソニーは社内でも注目されていた若手のITエンジニアで、私も2度ほど一緒に日本に行った。陽気な性格で日本人、日本にも馴染んですぐに人気者になった。一時期、青森の工場に半年駐在していたこともある。私は、この会社でずっと一緒に仕事をしていたわけではなく、プロジェクト毎に必要に応じて雇われて仕事をしていた。日本語学校もやっていたので、私にとってはその方がありがたかった。この仕事のおかげで2年間に9回も日本に行くことができた。「アンソニーがみえませんね。」久しぶりに呼ばれたとき、私はコリンに尋ねた。「実は、もうアンソニーはこの会社にはいないんです。辞めたんです。いや、辞めたというよりクビになったんですよ。」元キリスト教会の牧師さんという変わった経歴のコリンさんがやや寂しそうにそう言った。「優秀で会社としても期待していた人材だったんですが、真面目さに欠け酒におぼれるところがあったんです。日本でもちょっと問題になってしまって。」柏の居酒屋で一緒に飲んだことが頭を過ぎった。バカ騒ぎして確かに心配なところはあった。オーストラリア人は酒に強く、仕事関係では人前で乱れたりしてはならないという不文律がしっかりとあるが、彼は大いにハメをはずしていた。「タコさん、今私はTraffic Officer なんですよ。」アンソニーは、昔のまんまの明るい笑顔で、今度は英語でそう言った。交通整理をしいる警察官とかじゃないので、この言葉はやや大袈裟だったが、彼はおどけてその言葉を使ったのだろう。もしかしたら、彼のプライドがそう言わせたのかもしれないが。元気で頑張ってください、と私が言うと彼は、「No worries !」と大きな声で応えた。「今度、コーヒーでも飲みましょうタコさん。」アンソニーのその言葉を背にしながら私は事務所の方に向かって歩き出した。東村山の母はよく言っていた。「今度」と「お化け」は出たためしがないと。その言葉の通り、アンソニーにはあれ以来会っていない。
2008年12月09日
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昨夜は6時から12時まで、ジャーマンクラブのクリスマス会に参加。オランダ系の連れ合いの両親に誘われて出かけた。平均年齢は70歳に近いだろう。もうすぐ還暦のわたしにでも若手で通せる200人以上が集まり、一晩中踊りまくる。ワルツがやや苦手のタコ社長はロックンロールではがんばった。問題はドイツ語。分かるようで全く分からない。
2008年12月07日
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タコ社長、芸名ではなく一応本当の社長。会社を興して12年。やっと、ポータブルクーラーを入れることができた。古いビルでクラー設備がないのだ。メルボルン、日本の夏と比べものにならないくらい過ごしやすいのは確か。しかし、それでも真夏45度になるような日もあり、扇風機が生暖かい空気を一日中送ってきては気分も萎えてくる。PCも多い部屋は本当に不快指数が限度を超える。入っているビルは40年くらい前の建造だろう、当時メルボルンはクーラーは要らないほどの夏だったのだろうか。やはり地球温暖化の影響で暑くなってきている。クーラーのあるような普通のビルに引っ越すこともままならない規模の事業が続いている。先日、同室のITマネージャーが暑さのためにダウン寸前。本格的な夏前にポータブルクーラーの購入を決めた。そして昨日、始動した。なんと快適なんだろう。ずっと仕事がしていられる。会社経営の基本は、スタッフに給料を支払うことができること。確かにお客様はカミサマであるが、スタッフはそのカミサマの二乗。経済危機で会社の行く末に暗雲が、先が見えないほど垂れ込めているが、創業12年目にしてやっと仕事環境が一歩改善された。
2008年12月06日
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シドニーの新宿歌舞伎町、キングスクロスが私のオーストラリアでの生活の出発点だった。日本から、わけも分からず予約をいれた簡易ホテルに1ヶ月ほど投宿した。1985年の6月のことだった。ヨーロッパのカフェ文化が少しずつ浸透してきていた。宿から歩いて1分くらいのところにBourbon & Beefsteak Barというステーキレストランとバーが一緒になったよう店があった。24時間営業だ。バーの奥にはピアノの弾き語りなんかがあって、割と落ち着いたムードを出していた。週末にはすごい賑わいだったがウィークデーはゆったりと飲めた。好奇心も手伝って、毎晩一杯ひっかけに行っていた。黒人のピアニストがビリー・ジョーの「ピアノマン」を奏でていた。「どっからきたの?」金髪を素直に伸ばした、年のころでいうと30代後半の地味な女性が話しかけてきた。こういうことは、滅多にないことだ。「東京から。」私は、日本とは言わずいつも「東京」ということにしていた。秋田、とかだったらそうもいかないが、なんだかいつも「日本」というのが面倒くさくなっていた。「私はカルフォルニアから来ているの。ニッキー、よろしくね。」このバーは、おつまみが無料で出た。大体は、鶏の手羽で、味は濃くそしていつもといっていいほど肉がついていない貧弱なものだった。レストランでは出せないものが回ってきているようだった。「この手羽、食べられないわね。」「僕は、タコ。一ヶ月、このキングスクロスに住むことにしてるんだ。」「変わった名前ね。」簡単な英会話で十分通じる。ハイボールをチビチビとなめながら、音楽に聴き入った。ほんのちょっと前までは、東京は東村山にいて、押入れから冬物を出して渡豪の準備をしていた。今は、観光ビザで将来のあてもなく、シドニーのバーでアメリカ人の女性と話している。でも、この開放感がたまらなかった。先の見えない将来への不安がなかったといえば嘘になる。それと裏腹に、これからの人生なんでも可能なんだ、みたいな変な自信もあった。不安と自信が、ハイボールの中でぐるぐる回って酔いが早い。ニッキーとは、このバーでそれから2,3回出会った。いつも、同じ席に座って、時々ピアニストの黒人にニコッとしたりする他は、ほとんど動かない。一度だけ、ニッキーとハシゴをしたことがあった。モスマンという所にあった「ピクルドポッサム」という、やはり弾き語りのあるバーに連れて行ってくれた。ピクルスは漬物のことだが、この場合は酔っ払った、という意味だと教えてくれた。彼女もオーストラリアに移住を求めてやってきているらしい。でも、なんだか影がありとっ突き難いところがあって、会話がうまく運ばない。永住権取得もうまくいっていなかったようだ。せっかく行った二軒目の店で私は息苦しくなって先に帰ることにした。それから、Bourbon & Beefsteak Barでは彼女を見かけなくなった。そして、私は6月の末にはメルボルンに移動した。永住権を求めて根無し草のように漂っている人が多くいることを知った。私もそのうちの一人に仲間入りした。シドニーからメルボルンに向かうや夜行バスの窓ガラスに映る自分自身を見つめながらそんな風に思い始めていた。
2008年12月04日
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誰が調べたか知らないが、金魚の記憶は3秒までだという。じゃ、私は金魚だったのかとタコの名前を返上したくもなる。これが本当の、きんぎょ迷惑だ。さっ、今月も気を抜いてやっていくことにする。
2008年12月03日
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なにしろ、邪魔なのだ。オランダ系の連れ合いの姑とかの話ではない。街中を猛スピードで走る自転車のことだ。ガソリン代高騰などもあり、自転車通勤がものすごい勢いで増えている。世界的な傾向なのだろうが。車との接触事故も多発している。自転車を登録制にしようという動きさえある。自転車といえば、日本に帰ると車のない両親宅ではこれが唯一の足となる。私は、小学校1年のときから26インチの自転車に乗っていた。足は短かったが、背が高かったのだ。「飴屋の自転車みたいだって言われたよ。」と父が我が家の自転車の話をした。その26インチの自転車のことだ。昔は自転車で飴を売り歩いている飴屋という職業があったらしい。おでん屋、紙芝居屋、焼き芋屋、アイスキャンディー屋、金魚屋、包丁砥ぎ屋、豆腐屋、竿竹屋なんかは分かるが、飴屋は知らなかった。確かに、ぶち壊したら戦車でも作れそうな、大きくて頑丈な自転車だったから、飴でも何でも積んで運べる。子供の時から考えてみると、我が家にもいつも何台かの自転車があった。8段ギアーのサイクリング車を買ってもらったときは本当に嬉しかった。でもギアーチェンジのバーの鋳物の質が悪く、すぐ折れてしまったりして慌てさせられた。チェーンもよく外れた。85歳になる父は足を悪くしてもう自転車には乗れない。数年前に購入した自転車は乗り手がいない。今では、帰国時に私が乗っている。「お父さんったらね、スーパーで知らない人に話かけてね、これは7万円もする自転車だって言ったらしいの。」あるとき、帰国したら母がそう言い出した。まだ父が自転車で買い物に行っていた頃だった。「何も、そんなことまで言わなくてもいいのにね。そうしたらね、その人『あら、そうですか。私のは15万でしたよ。』って言ったんだって。だから言わんこっちゃないのよ。まったくね。」父はそれ以来、自転車の価格の話はしなくなったという。一昨年、両親がそれぞれ入院したときには、私の帰国時この7万円の自転車が大いに活躍してくれて有難かった。次の私の帰国は、来年の2月になりそうだが、またこの自転車の厄介になる。
2008年12月02日
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また12月がやってきた。サラリーマン時代、残業していたクリスマスイブ、部長と二人で飲みにいったことなどを思い出す。今週からパーティーが続く。5日は会社のクリスマス会。6日はジャーマンクラブのクリスマスダンスパーティー。(60代、70代が主流の会)7日は、オランダ系の連れ合いの一族郎党140人の公園クリスマス大会。そして、午後4時からは隣組のクリスマス会。最近、ウォーキングで健康を維持はしているのだが、酒量が増えてきている。腹回りの勢いも復活の兆し。この時期、セルフコントロールがなんとも難しい。心して臨みたい。
2008年12月01日
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