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「メルボルン恙無い会」という会を今年の初めに立ち上げてその5回目が昨夜だった。基本的には、私の知っている日本人方々に、こちらに一軒しかない居酒屋に来ていただいてそこで飲み食いをする会だ。女性は20代、30代、男性は例外を除くとすべて50代というなんとも形容しがたい会となっている。どうしてこうなるのかというと、答えはいとも簡単で、要するに私が知っている女性には若い人が多く、そして男性には中高年が多い、ということに尽きる。「本当に元気がいいね。」私と同い年の堀川さんが、若い女性たちの会話から大いに元気、エネルギーをもらったと嬉しそうに言った。いきなり「熱力学の第一法則」とかの口上を女性達に垂れてやや回りを煙に巻いていた宇根さんも、ほぼ毎回奥さんの許可を得て参加してくれている。ギリシャ人、イタリア人、中国人などの移民の例を出すまでもなく、海外から来ている人たちは概して同国人と助け合い群れる傾向がある。そこへいくと日本人は、日本にいるときは納豆社会とかいってベタベタネバネバしているのに、海外にくるとバラバラ感が強いように見える。もっとも、日本で群れることがあまり心地よくなかった方々が自らを海外流出させているのかもしれない。そういうタコ社長も、移住して来たての若いときは「俺は一匹狼だ。」とかいいながらやや肩肘張ってやっていたようなところがある。しかし、だんだん齢を重ねてくると気の合う人と群れていたくなってきた。ワイン持込で一人25ドルという設定で、高級料理ではないがお腹も一杯でお開きとなった。「何を言っても冗談でサラリとはぐらかすクールなタコ社長さんが、心から大爆笑しているのを見るのは嬉しかったです。」日本の高校18年後輩の森村さんが、今日そういってメールをよこした。何だか、幹事の私が一番楽しんでいるような、本当に気楽な会になってきているようだ。ようし、次回はカラオケで、なんて調子にのった企画が立ち始めている。
2008年07月31日
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「タコちゃん、それはきっとカマイタチよ。」小学校5年生のときに近所のオバサンから聞いた語彙は、まったく初めて聞くものだった。私は、半ズボン姿で太ももに可也の幅に包帯をしていた。実は、小学校の屋上で悪ふざけしていて、太ももを13針も縫う大怪我をした。その時、最初まったく血が出なかったといったら、近所のオバサンが「カマイタチ」という言葉を出してきたのだ。因みに、太ももといえばサラリーマン時代に付き合っていたアユミの親友ミユキちゃんが言っていたそうだ。ミユキちゃんの付き合っていた彼氏に、ミユキちゃんのどこが一番いいのかと聞いたら、太ももだと言ったそうだ。太ももに関しては、そんな記憶が瞬時に蘇ってくる。なんだイタチの仕業だったのか、などと思ったわけではないが、随分とあとになるまでカマイタチとは何だったのか知らなかった。子供のときから私は結構外傷が多い。体の中の手術は扁桃腺くらいで、あとは怪我が多かった。でもその中でも13針は抜きん出ていた。手術した近所の船見先生からは、「1週間から10日で抜糸するけど、走ったりしちゃ駄目だよ。」と釘を刺されていた。(この場合、釘を刺すという表現は生々しく感じる。)「どうしたのタコ君、大丈夫?」1学年上の6年生の松田さんに廊下ですれ違いざまにそう聞かれた。当時、1学年上の人といったら、それこそ雲の上の人。全く一言も口をきいたことがなかったが、その垢抜けした立ち居振る舞い、顔かたちにいたく傾倒していた松田さんに、向こうの方から、しかも心配の言葉をかけてもらったのだ。松田さん、エステなんかの受付とかにしたらいいと思えるくらいの抜群の笑顔の人だった。有頂天とはこのときのためにあった言葉か、と今思うと思えるくらい気持ちがハイになってしまって気がついたらしっかり走っていた。カマイタチもとんでもないことをしてくれたものだ。「どうしたのこれ?うまく塞がっていないじゃないか!」黒縁の眼鏡をかけていた船見先生が上目遣いにそう私に怒った。医者と先生に怒られることほど怖いものはない年頃だった。ということで、今でも右の太ももにV字型の傷跡が、抜糸の前に走ってしまった証拠を示しながら残っている。実はこの傷跡、その後の人生のいろいろな場面で、ズボンを下ろしかけているとき、「あまり有頂天になるなよ。」としっかりと冷や水をかけてくれている。
2008年07月30日
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オランダ系の連れ合いの義弟。そんなに寒くないときは、冬のバーベキューも結構人気だ。勿論ビールはつきもの。
2008年07月29日
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「屁、した ? 」 オランダ系の連れ合いは20年くらい前、日本に2年間住んでいたことがあり、時々鳥肌が立つような日本語を発して、私の人生を豊なものにしてくれている。彼女の両親は1956年にオランダから一族郎党で移民して来ていて、連れ合いは幼稚園に上がるまで、家ではオランダ語で生活していたという。時々、私に聞かれてはまずいことは暗号のようにオランダ語で話すことがある。 「トイレに岐阜大垣の喫茶店のマッチが置いてあるけど、あれ何 ? 」。ずいぶん前に疑問に思って、連れ合いに聞いてみたことがある。連れ合いは日本で2つの趣味を持った。1つは喫茶店、レストランなどのマッチを収集するというもので、今でも大きなガラスのビンにたくさん入れて居間に置いてある。もう1つの趣味は、街頭などで配っているティッシュを集めることだ。日本への出張の際などには、100円ショップでの購入品と一緒になってティッシュをスーツケースを所狭しと埋めて来る。というわけで、私の帰国の際も新宿辺りで同じ道を行き来してタダのティッシュを集めることが義務付けられている。「あのマッチね。用が済んだ後に燃やして、消臭するために使ってね。」マッチ収集は趣味と実益を兼ねていたようだ。この発想は先祖代々の伝承のようで、オランダに行くことがあったら、できるだけ多くのトイレにお邪魔して実態調査を試みたいと思っている。私もこのマッチの実験してみたのだが、とんでもない爆発でも起きやしないかとヒヤヒヤした。 ところで、私がまだ多感だった中学1年生の時、「ほうひ」という言葉を何かものすごくイヤラシイ言葉とすっかり誤解して、後に東大文学部に進んだAに「あれはイヤラシイ言葉だよな」と聞いたことがある。後で間違いに気づいた私だが、その時「うん、そうなんだよな」と返事をしたAもたいしたことないなと思った。しかし、もしかすると彼は「放屁」を「包皮」と思ったのかもしれず、やはりAはあの頃から私より一枚も二枚も上手だったのかも知れない。日本語の同音異義語は奥が深くて侮れない。 では英語ではどうなんだろう。こちらに来てから覚えた表現だが、Drop the guts. というのがある。カラオケで「あ~ガッツだぜ♪」なんて歌い出したくなる表現だが、日本語に訳すと「屁した」に近い表現なのかもしれない。しかし、英語の方はなんだか今にも臭ってきそうでロマンがないようにも思える。「屁した」にもロマンは感じられないが。興味のあることを英語で学ぶことが上達法と言われている。「ガッツ」を勉強した後に、じゃ「包皮」は何というのだろう、などという興味の連鎖が重要なのだ。タコ社長、今からでも日本の田舎の英語シニア助教師とかにならせていただいて、語感の鋭い連れ合いと二人三脚で「ガッツ英語辞書」とかの編纂で余生を送ったら、人生がもっとおもしろくなるのかも知れない。
2008年07月27日
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週末は、朝早く一人で起きて一時間歩く。今朝帰ってきたらオランダ系の連れ合いがウォーキングに出たいというので勢いでまた一時間歩いた。それから、ずっと庭の草取りなどの庭掃除。3ヶ月ほどやっていなかったので大荒れの庭。終わらないうちにガス切れになってしまった。やり始めるととことんいってしまう私だが体力がついてきてくれなかった。「私の父は、実はね47歳でギリシャでリタイヤしたんだよ。私は、今48歳。父に負けてるよ。」とジョージが言った。昨日の夜、連れ合いの同僚の英語教師たちと飲む機会があった。ジョージはその中の一人だった。英語教師は女性が多く、しかも定年もな誰もやめないので40代後半から60代前半の人が沢山いる。私も馴染んでしまう。因みに、連れ合いの父親は52歳でリタイヤしている。「父は80ちょっと前まで働いたから、私の場合は先が長いよ。」そう私がいうとジョージは本当だなと笑っていた。ジョージは、バイロンベイというオーストラリアの最東端の町に家を買っていて、リタイヤしたらそこに住むという。バイロウンベイはゴールドコーストから南に車で一時間くらい行くとある町で、私はまだ行ったことがないが昔はヒッピーが多く住んでいた所だという。気候もよく、とても美しい所らしい。そして、今は高級感もでてきていて、そして日本ではやりのロハスな町らしい。「そんな所でリタイヤして毎日何をするんだい?」「朝早く起きて海外を散歩して、軽い朝食をとり、海で泳いで、疲れたら家に帰って本読んだりして、昼寝して午後また海で泳ぐ。夜はワインと音楽を楽しんで早めに寝るね。」50歳を少し過ぎたら、父親には負けたが早めにリタイヤしてそこに住むというのが決まっているらしい。確かにロハスでスローライフになるのだろう。世の中は大きく変わってきていのだろうか。いや、ギリシャやイタリア、スペインというようなラテン系の国の人は昔からそうやって生きてきたのだろう。「タコ、いいかい。自分は80、90まで生きると思ってお金を貯めて、ずっと働き続けるのだろうが、どうしてそこまで生きるって分かるんだい。いつ死ぬかわかんないじゃないか。」だから、今日を楽しもうといいたかったのだろう。老後を、長い長い老後を思って、今辛抱して働く。そう慣らされてきているのが日本人とでも言われているような気がした。「働かざるもの食うべからず。」いったい誰が言い出したことばなのだろうか。「貧乏人は麦を食え」といった首相もいた。タコ社長、頭や動作はすでにスローになってきているが、生活もそろそろ表題に合わせてスローにするときが迫ってきているのかもしれない。残った庭仕事、来週以降にすることにしよう。
2008年07月26日
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オーストラリアでは料理で男の仕事というのがある。一つはバーベキュー。これは男がビールを片手にやる姿が本当に良く似合う。もう一つは、ローストビーフなどの肉を切り分けることだ。写真は、田舎に住んでいる友人のピーター、メリーローズ夫妻。やはり、肉を切っているのはピーターだ。私は、バーベキューはやるが、この肉を切り分けることはまだやったことがない。やらせてもらえないこともあるようだが、一応菜食主義者だからチャンスがないこともあろう。肉屋に勤めるベジタリアンなんていう人にも、探せばいるのだろうけど出会ったこともないし、そういう機会に巡りあっていないのかもしれない。恐らく、そんなわけで私はオージー男としては半人前の人生をおくりそうだ。子供のときから育った社会でない限り、こういうことはままあることだろう。そこで転じて日本の旦那さん方だが、まず食事に関して男の仕事、というものがあるのだろうか。瓶のふたを開けるとか、漬物石を持ち上げるとかいう力仕事はこの際おいておくとして、そういうものがあるのだろうか。それとも、男は唯食っているだけなのだろうか。昔は、鰹節を削るとかいうのは父はよくやっていた。やはりこれも力仕事の範疇に入るかもしれない。更に、食事以外でこれが家庭での日本の男の仕事というものがあるだろうか。きみまろさんじゃないが、妻はエステに夫はごみ捨てに、だろうか。皆さんの家で、ご主人の仕事、っていうのは何なのか、参考までに伺いって今後の参考にさせていただきたい。ということで、そろそろ伸びた芝刈りをせんとならない。冬の庭掃除はどうも気が進まないが、これは一応私の仕事になっているので。
2008年07月25日
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「運の悪いものは、風呂より出んとして金玉をつめ割りて死ぬものもあり」手紙を書くのが好きだった坂本竜馬が姉の乙女に出した手紙の中の一節だという。本当に運の悪い死に方としかいいようのないことだろうけど、弟が姉に送る手紙の一節として隅に置けない、中央にどんと出したい表現だと思うのは私だけだろうか。私だけだろうなあ。しかし、そんなことで怖気づいてはいられない。実は、私は日本人なら誰でも知っている、知らなくても想像がつくだろう「金玉火鉢」という表現を何度かこの日記にも書いてきている。これは堂々と広辞苑にも載っている公用に耐える言葉だ。いったい、何が言いたいのかというと、この「金玉火鉢」と声に出して読みたい日本語彙といえる言葉だが、これは実際には寒い冬に男がまたぐ火鉢のことも指しているのだが、男が取るその動作そのものをも指しているということなのだ。こういう日本語の使い方は私の好きなところだ。旅行する、とかいった言葉と同列に金玉火鉢する、といってもぜんぜん違和感もないのである。たとえば、お茶を買ってくる、という表現とお茶にいってくるという表現があるが、前は単なる名詞で、あとのほうはお茶を飲むとか、お茶のお稽古事とかを指しているのだろう。「おい、昨日はえらく寒かったな。」「うん、それで俺は『金玉火鉢』したよ。」「そうか、おれもしたんだ。」こんな会話が昔はそこら中で聞かれていたのだろう。しかし、問題はこれを単なる普通名詞として考えた場合だが、ご主人の代わりに奥さんが雑貨店に言って、「すみませんがちょいと、そこの安い方の金玉火鉢を一つ下さいな。」などと実際に言っていたのかは疑問が残る。どなたか、実際にそういう場に遭遇したりご自分で使われたかたがあったらコメントをいただきたい。更に、一段深めて物事を考えてみたいのだが、現代では「頭が痒い」という表現と「金玉が痒い」という表現を、場所を選ばずにどうして同じように使えないかということだ。職業に卑賤なし、という表現を万人が認めるということを前提にするならば、人間の臓器に卑賤なし、といえないのだろうか。江戸時代の終わりに、坂本竜馬があっけらかんとして自分の実の姉に「金玉」といえたのが日本の社会だった。竜馬は特別だったのだろうか。否、「金玉火鉢」という普通名詞が「する」をつけて動作にも使えるような、そんな寛容な時代が江戸時代だったのだろう。そんな日本の寛容な文化が、いつのまにか窮屈な文化に変わってきてしまったのではないだろう。なんだか、この話題で一冊の本が書けそうな勢いいなってきたが、どんどん書いていったら寝られなくなりそうなのでこの辺にしよう。私は時々、生まれてくる時代を間違ったのではないだろうかと思うときがある。9割がお百姓だった江戸時代に生まれ、大工なんかが住んでいたら怒られそうな岡っ引き長屋なんぞに住んで、やれ金玉がどうしたこうしたなんてやっていて、時々かわら版とかに投稿したりしていた方が合っていたのかもしれない。日本がもっと陰にこもらずおおらかな国にもどってくれたらいいのだが。
2008年07月23日
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どうやって調べたのか分からないが、人間の胃袋は気分のいいときには美しい色をしているけど、怒っているときはどす黒い色になるそうだ。人によってはどす黒い色をきれいと思う人もままいるかもしれないが。でも、やはりきていな色とは桃色とかじゃないだろうか。怒っているより笑っている方が胃袋にもいいということだろう。年取ってきたら、外見よりも内臓をきれいにしていきたいと思う。特に私の場合は、腸なんか飾っておきたいくらいにしたいと励んでいる。日本には見合い制度といういい制度がある。私も、サラリーマン時代、行ったら見合いだったというのが2度ほどあった。でもそんな具合だったから写真とか見て臨んだ本格的なものではなかったが。いっそのこと人間の本質を見極めて、これからは胃とか腸のレントゲンなんかを添えて見合いしたらいいのではないだろうか。胃は第二の顔、腸なんかは第二の脳とか言われているくらいだ。顔や学歴なんかで決めないで、レントゲンで決めたら、世の中の見た目の美醜もそのうち平均化されてきてもっと住み易い世の中になるのではないだろうか。犬とか鳩とか、はたまたゴキブリとかは見た目なんか気にしているのだろうか。聞いてみる術はないが。人間だけなのだろうか。これも、アダムとイブが禁断の木の実を食べたのがいけないのだろうか。まったく、そう考えてみると人騒がせな連中だ。50を過ぎてくると、もう内面で勝負するしかない、いや勝負なんかする必要もなくなるけれど、人間をいろいろな角度から見ることができるようになって人生に艶は減ってくるが幅が増えてくる。明日も一日笑顔で臨みたいものだ。
2008年07月22日
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干した大根の匂いがほのぼのと漂う東京の練馬の、大工なんかが住んでいたら怒られそうな警察官住宅で私は育った。「そんなことしたら、タイホされるよ!」というような言葉が日ごろの挨拶代わりに似合うような環境ですくすくと育ってしまった。「タコ、面白い所に連れて行ってやるよ」。ある日、4歳年上で中学1年生だった茂男ちゃんが自転車でそこに連れて行ってくれるという。そこは「グラントハイツ」というバカでかいアメリカ軍の住宅地で、正に外国だった。私はこの日から、大根とは違った外国の匂いに魅せられて、勝手に入ってはいけないグラントハイツに、大きい声では言えないがたびたび勝手に入って遊んでいた。小学校6年の春のある日、いつものように外国見たさにこのグラントハイツに1人で遊びに入った。日系二世のマユミという女の子が家の外のコンクリートの階段にポータブル・レコード・プレーヤーを出して曲に合わせて踊っていた。ビートルズの「ツイスト・アンド・シャウト」だった。5年生の時からビートルズにかぶれていた私は、父が買ってくれたトランジスター・ラジオをトイレにまで持っていってビートルズを聴いて踏ん張ったりしていた。 「シャウトって何 ? 」。日本語が少し分かるマユミに聞いた。黄色い短めのワンピースを着たマユミは髪を振り乱してくねくね踊りながら、一生懸命説明しようとして日本語を探していた。彼女はう~んと唸りながら、だんだん赤くて怖い顔になっていく。私は小太りなマユミがなんだか爆発してしまいそうに感じて恐れをなして後ずさりした。すると、マユミは急に私に接近し、耳元で「ウアー」ととてつもない大声をあげて叫んだのだ。私は、びっくりして彼女を押し戻した。 「アメリカ人の女ってすごいヒステリーだね」。秋田出身の母は、時々TVのドラマで泣き叫ぶ女性を見て訛った英語で言っていた。日本の東北地方は「人間、辛抱だ!」を地で行く代表的な土地柄。母は、西洋の女性が自由にキレまくる姿に唖然としたのだろう。しかし、マユミが叫んだ時には母にいたく同意したい気がした。後で、兄から聞いてシャウトの意味が分かった。実はマユミは、この単語を全身で私に教えてくれたのだ。しかし、怖かった。 その後の人生で、右から左に遠慮なく耳を通り抜けていった英単語は数限りなくある。だが、限られた方々からこうして体で覚えさせていただいたような言葉は決して逃げてはいかない置き土産となっている。こうして私は小学校6年生の時、西洋女性のヒステリックな態度と、マユミという名前をしっかりと心に刻むことになり、同時に「shout」を深く理解した。ちなみに、この時の後遺症でタコ社長、金髪女性からの急接近は未だに苦手ではある。
2008年07月21日
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落ちた。予備校の試験にも落ちてしまった。東京の山の手線の大塚駅にあった武蔵予備校の午前の部に落ちたのだ。午後は無試験で入れる。しかし、どうせ入るならと受けてみた。1971年の3月の終わり、バカの一つ覚えのように一浪覚悟などと言って全く勉強もせず受けた大学全てに落ちて、予備校もそうなった。往復ビンタをくらったような毎日で、気持ちもどこまでも浮き上がらない。一つだけ救いだったのは、ベトナム反戦運動などで一緒に活動していた友人たち4人全員も落ちてくれたことだった。ここでも同士だった。内職しないとやっていけない安月給の警察官の次男坊だった私は、翌年は必ず国立に入るからとか言って両親に頼み込んでなんとか予備校生活を始まらせることができた。二度目に受けた午前部のコースにはかろうじてひっかかった。予備校の背もたれのないベンチは3人がけだ。私の左は、広島大学付属高校出身の高山、右は都立白鳳高校出身の佐川だった。佐川は、黒縁の眼鏡で髪こそしっかりと固めていたが、やや姿勢悪く座りふてくされたような態度を見せていた。この佐川と50年近くも付き合っていくとはそのときは全く思わなかった。一方の高山は優等生過ぎて、私の守備範囲からは外れていた。佐川とは大学生になってから、それぞれの付き合っていた女性の提灯持ちをつとめ合ったりもした。この件に関してはお互い、役不足を認め合う結果にはなってしまったが。「タコ、息子がメルボルンに留学に行くっていってるのでよろしく頼むよ。」数年まえに佐川がいって寄越し、18歳になろうとする息子を送ってきた。この息子、こちらで勉学をしっかりとしながら、なんと日本人中心のロックバンドでコンサートを開いたりもしている。文武ならぬ文芸両道だ。「タコさん、今度ライブに来てください。実は、オージーのオバサンなんですが、バンドの特に僕のオッカケまでできたんですよ。毎回、必ず来ていて舞台に飛び上がって来たりするんですよ!」ハードロックだというので、10代、20代の若者がひしめくライブには、還暦も射程距離のタコ社長、どうしても行けない。でも、皮ジャンに皮パンツで身を包み、このオッカケオバサンの方は見に行ってみたい気はした。佐川の息子、この3ヶ月ほど姿を見せなかったが先日久しぶりに遊びに来てくれた。「タコさん、実はバンドが解散になることになったんです。リーダーが東京で活動することになったもんで。それと、あのオッカケのオバサン、亡くなったんです。」51歳で亡くなったというオッカケオバサンの話はあまりに唐突で、一瞬会話が途切れた。バンドの連中は、彼女が病気であるのは薄々分かっていたらしい。そして、先日このオバサンのための追悼コンサートを彼女の家族、友人のために開いたという。オバサン、といっても私より若いが、彼女は全て分かっていてオッカケで一時全てを忘れていたかったのだろうか。いつもはしゃいでいたらしい。「いいことができたね。バンドやっててよかったじゃないか。」息子に私はそういった。彼は、腰まで届きそうな髪を揺らせて黙って頷いた。オバサンの死も、バンド解散の一つの理由であったという。彼女の最期に何か大切なプレゼントができたのではないかと思っているようだった。全員痔になりそうな硬いベンチに座って、あの予備校で佐川と初めて会ったのは私たちが19歳の時だった。ちょうど今の息子の年頃だ。予備校の生活は味の薄い水っぽいカレーライスを食べているようなものだったが、午前部の試験に2度目で受かってよかったことが今も続いている。
2008年07月20日
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「タコ、今晩土ボタル、見に行かない?」カリフォルニアから旅行に来ていたリサが言った。金髪の長い髪を束ねた彼女は、消防士だと自己紹介してくれた通り、見るからに筋肉質の引き締まった体をしていた。ニュージーランドの南島、マウントクックに近いフランツジョセフのユースに一泊した。1986年1月2日のことだった。クイーンズタウンで年を越してバスで北上したのだが、途中から黄色いジャンパーを羽織ったリサが乗ってきた。旅では、皆が会話に飢えている。旅行者のほとんどが外国人だから、放っておいても会話が始まる。タコ青年、自分の語学力を棚に上げ旅の恥は掻き捨てと奮闘。リサは、短いニンジンを10本くらい入れたビニール袋をそばに置き、その中から出したニンジンを乾いた音をたてて食べながら、左手で分厚い本を持って読んでいる。フロイトの自伝のようだった。こんなに沢山一度にニンジンを食べる人を見たのは初めてだった。今は、私もニンジンジュースとかを際限なく飲んだりしているが、その頃はやや異様に感じた。フランツジョセフのユースには、旅の途中で知り合ったカナダ人のジョンと、知らない女性が一緒に泊まっていたので、リサと私をいれて4人で土ボタルを見に行った。問題は、ここからだ。いったい、土ボタルがその時見えたのか、見えたのであればどんなだったのか、そして、ジョンと一緒だった女性は、本当に女性だったのか、顔はあったのかなど、基本的なことが全く思い出せない。正直のところ、この底抜けに明るくチャーミングなリサに得意の一目惚れで、私の正当な記憶を邪魔しているようだ。張り切っていたであろう土ボタルもいい迷惑だったろう。リサは1956年生まれだと言っていたから、このとき調度30歳。自分はFireman ではなくFirefighter だとしっかりした胸を更に張って言ってくれた。全てに自信がみなぎっている。途中のアーサーズパスの一泊をはさんで、クライストチャーチまでの3日間の浮きっぱなしの旅は続いた。アーサーズパスからは、ヒッチハイクで移動した。金髪の女性に止まる車は目白押し。どっこい、東村山の元相撲取りみたいな男連れと知っても後の祭りだった。「ニュージーランドを回ったら、1月の末に必ずメルボルンに行くから、その時は泊めてね。」それまでのユースとは違ってモーテルで、初めて一緒の部屋になった三日目の夜8時過ぎに、リサは突然行かないとならない所があるの、と言ってタクシーを呼んで去っていってしまった。まるでトンビに油揚げさらわれ然とポカンとしている私に、そう言い残してタクシーの窓を開けてゆっくりと味のない投げキッスをして消えていった。武士は食わねど、などといってみても誰も理解してくれない異国の地、モーテルのバーでビールをひっかけて部屋に帰ってそのまま寝てしまった。もうすぐ二月というある夜、住んでいたツーラックのフラットにいきなり尋ねて来た者がいた。ドアを開けると、あのカナダ人のジョンが、金髪の無精ひげを生やした顔で一人で立っていた。結局、リサはクイーンズランドから私に手紙をくれて、予定が変わってメルボルンには行けなくなったと書いてよこした。期待をしていけないことに期待することが得意だった30代前半のことだった。ジョンは、家を散々荒らして4日ほど投宿して出て行った。先日、中学時代の友人K島氏がメールをよこして、最後にこう結んでいた。―「錯覚いけない、よく見るよろし」升田幸三先生の名言です。私の人生、まだ錯覚が続いているように見えるのだろう、K島氏から忠告を受けた。
2008年07月17日
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「ハゲ」だった。生まれて初めて覚えた英単語のことだ。タコだから、別段驚くこともないのではあるが、これが警察官だった父親が持っていた国語辞書を使って出会った最初の英単語だった。この辞書には、それぞれの言葉に英訳が載っていて、カタカナで読み方が書いてあった。暇に任せて訳もわからずいろいろな単語を口ずさんでいた。お陰でタコ社長、英語の発音はしっかりとカタカナ調のクセがついてしまい今も自慢の種となっている。因みに、大正12年生まれの父は、英語は全くといっていいほどできないが、外国人に道を訊かれたときの回答英語だけは流暢で、酔うと訊かれてもいないのに自分は英会話ができると披露したりしていて威勢がいい。この初めての英単語の話は、私が小学校2年の頃のことだった。実はタコ社長、幼稚園に上がる前の冬に箪笥の上にあった一円玉を取ろうとして火鉢に乗って転倒、火箸に頭を強くぶつけて2針縫う大怪我をしてしまった。これが通称、「一円ハゲ」の由来。その一円玉で一体何をしようとしていたのかは記憶は定かではない。ところで、当時私にはケンちゃんという遊び友達がいた。ケンちゃん、今は東京を代表するある区の警察署長をしている。実は、このケンちゃんには三日月の形をした別称、「三日月ハゲ」があった。昔は、皆刈り上げでハゲが眩しい時代でもあった。私とこのケンちゃんが喧嘩になると、その喧嘩はお互いのハゲをののしり合って「何だお前は一円ハゲのくせに!」の言葉で終わることを常としていた。何せ、私のハゲが安いのだ。喧嘩の気持ちも萎えてしまう。今度、ケンちゃんに会う機会があったら、東京の治安の話しなどの際にちょっとあの頃の話しもしてみたいものだ。という訳で、タコ社長「ボールドパッチ(bold patch)」という英単語を完璧にカタカナで習得した。問題は、この英単語、その後の人生でほとんど使う機会がなかったことだ。こういう英単語って案外多くて、それをまとめて出版できるくらいだ。「役に立たない英単語集」とかいって。案外、オタク本として売れるかもしれない。こんなこと言っているようでは、これからもオーストラリアで英語での苦労が続きそうだ。
2008年07月17日
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オランダ系の連れ合いは時々仕事で街に出てくる。そういうときには、よく餃子屋に行って晩御飯にしていた。水餃子一皿、焼き餃子一皿、そのほか野菜やマーボー豆腐などを頼む。大きめの餃子がそれぞれ15個ずつ盛られている。そして、不思議でも何でもないのだが、二人でこれらを完食していたのだ。想像を超える元気な大食いの頃だった。先日、餃子屋には行かずに焼きそばで満足して帰った。
2008年07月15日
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今回の日本で、黒砂糖が体にいいと本で読んで、こちらで蜂蜜の変わりに黒砂糖にし始めている。今日、黒豆を黒砂糖で煮て、今も煮ている。ところで、黒砂糖、カルシューム、カリウムが大量に含まれていて、糖尿病の予防にもなるというのだが、それでも食べ過ぎたら砂糖だからよくないのだろうか。明日から毎日、黒豆の煮たのをがんがん食べようと思っているのだが。教えていただけたら助かります。
2008年07月13日
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「紙ある?紙!」近所の中島さんお爺さんが来る。東京の練馬区、大工なんかが住んでいたら怒られそうな警察官住宅で家族4人で生活していたときの話だ。警察官の給料では生活が厳しく、母は近くにあったニチバン工場でからの膏薬の袋詰内職をしていた。中島さんのお爺さんは70歳くらいだったのだろうか、やや背を曲げて白髪の坊主頭に丸めがね。膏薬の袋詰めに使う紙を取りにきて縁側に座ってお茶を飲んでいる。この頃、母も兄も、そして私も膏薬の匂いが体に染み付いていた。あの頃は、アパートは別にしてどんな家にも縁側があった。家に入るほどの用はなく、玄関で立ち話にでは満たされないくらいの用のときにこの縁側がとても役立った。何時間も家の中でねばられそうな人を縁側までにしてもらう、なんてこともできたのだろうか。ただ、そういっても古い二軒続きの長屋でそんなに大きな縁側ではなかったので、茶飲み友達なんかが10人も来た日にはそこ対応は難しくなる。更に縁側は、横向きだったり、または体を大きく度回転させて話さないと、家の中の人と話ができない。初めから、斜に構えて話すしかない。もっとも日本人はアイコンタクト、目と目と見合わせて話してはいけない文化でもある。大名行列しかり。だから、縁側に腰掛けて顔をみないで世間話をする植木職人のおじさんかんかが絵になったように思える。1980年の初め頃だったろうか、故松田優作主演の「家族ゲーム」という映画が大ヒットした。みんなこちらを向いて食事するテーブルだった。縁側スタイルだろうか。ギリシャ人やイタリア人の多い郊外のショッピングセンターにいくと、10人以上の中高年そして老年の男性がカフェで歓談する姿に出会う。茶飲み友達だろうか。買い物は奥さん方に任せて話しこむその集団にやや嫌悪感を感じたこともあった。しかし、自分が中高年になってきて、なんだか少し羨ましくもあるようになった。日本の男性は、コーヒー一杯で何時間も沢山の人と歓談することはあまりないだろう。文化の違いと言ってしまえばそれまでだ。女性は友達のネットワークもあり、話すことも得意だが、男は私も含めてやや度し難いところがある。日本では縁側のない家も増えているし、こんなカフェで皆で集まって話したりすることもない。そうこう考えていたら、月刊文言春秋7月号に、森永卓郎さんが書いていた。ヨーロッパの人は一日も早くリタイヤを願っているという。なぜかというと老後が楽しいからに尽きるというのだ。でも、お金をかけて海外旅行をするとか特別な楽しみではなく、友達と会って話したり食べたりすることが楽しみだからなのだそうだ。「海外のカフェに行けば、何時間も話し続けている老人たちを山ほど見つけることができます。」と書いていた。自分の老後を楽しくするのはやはり、洋の東西を問わず友達、仲間のようである。こちらの家に縁側を作るわけにはいかないが、今から茶飲み友達の輪を広げていくのがいいようだ。ネットもこれから更に大きな意味をもってくるだろう。そして、もっと日本からこちらに移住してくる方も増えるように願っている。
2008年07月13日
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今朝のウォーキング、暗がりからショッピングセンターのある場所に入ると、何やら薄汚い格好の人たちが行列している。寒くなったメルボルン、ホームレスの人たちも固まって暖をとっているのかと思ったらどうもおかしい。可也の数の人なのだ。分かった、今日発売のiPhoneを買おうという人たちの列だったのだ。世界中での現象なのだろうが、早朝ウォーキングの私を震撼とさせてまったく人騒がせなことだ。ところで、薄々は感じていたのだが、やはり人生は下半身であったようだ。人間の衰えに筋肉が大きく影響しているらしい。その筋肉の70%はへそから下に集中しているという。こう言われたら、どうしてもへそから下に注目せざるをえない。だから、歩くことがいいのだそうだ。足、尻の筋肉を年代を越えて鍛えないとならないという。ダビデ像の尻を思い出す。全ての病にとって歩くことがいいらしい。こんな朗報もない。経済的に健康になれる。因みに、物の本に拠ると人間の体の70%は水だという。そして、その99.9%は1年前とは入れ替わっているというのだ。物の本という本は本当にいろいろな事を示唆してくれてありがたい。そして、残りの30%も可也替わるらしい。ここで、私の仮説。してみると、筋肉も入れ替わっているのだろうから、人間は歩き続けて新しい筋肉を鍛えないとならない。そういうことなのだろうか。昨年鍛えた私の筋肉は今はどこにもない。どうだろうか?「先生ね、あの子の胸がね、本当にいい形になっているのよ。ぶったまげたは。」昨日、日本語教師だった頃の元同僚3人で昼食となった。不思議なもので、みないまだに「先生」と呼び合う。私も、「タコ先生」になる。いろいろと学術的な話に花が咲いた。その延長線上で、東北出身の才女K先生が発言された。これまた、元同僚のJさんのことを言われているのだが、泊りがけで旅行したK先生とJさん、風呂上りで話しが弾んだという。Jさん、昔は洗濯板のようだったが今は、ふっくらと大きく形よくなっていたのでその理由を質したのだという。「実は昔は、ノーブラだったんだけど、母に言われてこの数年着けるようにしたらこうなったのよ。」と言われたとのこと。ここでの私の仮説は控えさせていただくが、これも筋肉の成せる技なのだろうか。へそから上も大切だと言われたような気がしないでもなかった。教育界の話も含め、楽しい話が尽きなかった。というわけで、へその下、へその上、それぞれの思惑を大切にしながらやっていくのがい一番いようだ。私の場合は、ダンベル運動もしたほうがいいのだろう。
2008年07月11日
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「社長に、『お前は、三百代言だな。』って言われたよ。どんな意味だろうね。」大きな声で安藤部長が社長室から帰って来た。技術屋あがりの能代社長は、新任当時より何かと物議をかもすことの多い人で、私の所属していた海外事業本部の部課長は戦々恐々としていた。私は、1976年に建設機械メーカーに入社して78年に、海外営業部の豪州亜細亜課に配属になった。担当は、インドとパプアニューギニアだった。当時、安藤さんは副部長でべらんめ調で話したり、また急に慇懃無礼になったりして人を翻弄する名物上司だった。昭和7年の生まれで、当時の崎田部長より4つ年上だった。ちなみにこの崎田部長、後に社長、会長になった人だった。「すみません。」ある朝、空いている応接室を探して部屋を開けたら安藤部長が寝ていた。安藤部長はウイスキーの水割りを、それこそ注いだはしから水のように飲むことを常としていた酒豪で、毎晩のように社外、社内接待で飲み歩いていた。そんな訳で、よく午前中は部内が酒臭いことが多かった。勿論、部員も私を含めて同じような状態だったが。毎日、8時前には会社を出ることがないような部で、そらから接待と称して赤坂、六本木をくまなく探索していたが、仕事は忙しく週末も結構出ていた。そんなある土曜日、柿の木坂にあった安藤部長の家に業務報告に出向いた。「タコさんですか。いつもお世話になっております。」お茶を出してくれた部長夫人は、部長とは正反対の上品で女優のように綺麗な方だった。「タコさん。」どういうわけか、部長は部下を「さん」付けで呼んでいた。「タコさん、これがわたしの愚妻です。どうしようもなくてね。」そういいながら、顔は思いっきり笑顔だった。会社では見せない、裏のない笑いに見えた。1983年のクリスマスイブ、私はインドの仕事が片付かなくて安藤部長と二人で残業となっていた。クリスマスイブということで、直属の上司である広田課長も先に帰っていた。この年の3月、広田課長はインドとの政府系の会社との技術提携で長期に出張していた。私は、安藤部長と広田課長の間に入って連絡係だった。技術提携の商談が決裂しかかり、課長はある意味では独断で条件を変更してしまった。それを知った部長が怒りだした。「タコさん、広田さんにテレックスを打ってくれ。私は、そんなこと承認しないってね。」私は、そんなことできないと言った。部長は益々怒って、じゃ私が出すと言って出してしまった。課長は、当然、部長名のテレックスでも慣例で部下が出していると思うだろうし、どのような気持ちでこのテレックスを読むのかと思うと何も考えられなくなってしまった。この話には続きがあって、その直後、私は別件でインドに出張となり、広田課長とバンガロールで会うことになった。夕食の時、課長は最初から最後まで不機嫌で、「何で、君は梯子をはずすようなことができるんだ。俺が、あのテレックスをもらってどんな気持ちだったか分かるだろう。」といって部屋に帰ってしまった。私は、何の反論もできずに席にいた5,6人の同僚の前で不覚にも泣いてしまった。こんな切ない思いがあるだろうか。部長も、課長も私にとっては尊敬している上司だった。「タコさん、広田さんね、すごくノイローゼになっちゃってね。そばにいてあげないと何をするか心配なんですよ。」赤いターバンをまいた現地のスタッフのシンさんが流暢な日本でそういった。これが、私が会社を辞めたいと思い始めた一つの理不尽なきっかけになった。「タコさん、ご苦労さん。クリスマスイブだけど二人で飲みに行こう。タクシーを呼んでくれ。」安藤部長とまったく二人で飲みに行くのは初めてだった。本当は、池袋あたりで一人で飲んで帰りたかったのだが。イブに男二人で飲みに行ったちょっと違った記念にはなったが。「昇級試験受けなかったんだって!どうしてなんだ。」すごい剣幕で安藤部長が私を応接室に呼んで問いただした。1984年の1月、私は初めての昇級試験を受けることになっていた。しかし、そのとき私は退職を考えていて試験を受けなかった。「辞める? 辞めてどうするんだ。絶対に駄目だ。広田さんとしっかり話してくれ。一緒に仕事をした人が、何をするか分からないで辞めるなんて駄目だよ。」部長はややうろたえたようにそういい残して出て行った。一度、会社を辞めると思い出したらそういう思いが募って止まらない。部長、課長には悪かったが、残ることにして週末に日本語教師になる勉強を始めた。そして、半年後にもう一度申し出て退職した。「秋山専務に挨拶にいってください。どういうわけかタコさんのこと気に入っていてね。私がいじめたから、タコさんが辞めるんじゃないかって言うんだよ。仕事もできないし、その年で独身のタコさんなんだけど、専務どうして気にいってるのかね。」辞めることが決まった後、安藤部長とは何か吹っ切れて何でも言えるようになっていた。でも私は32歳の若造であったことには変わりないが。こうして私は、この建設機械メーカーを1984年9月16日付けで退職した。送別会は、静かなものになってしまった。二次会のカラオケで、一年後輩の通伝が涙を流しながら歌ってくれた「なごり雪」が辛かった。のらりくらりしてつかみどころのない安藤部長ではあったが、数字にだけはものすごく強くて、いつも怒鳴られていた。あんなに仕事上では対立した広田課長とも、その後何もなかったようにやっていた。今でも、私は一緒に仕事をした上司の人たちには敵わない気持ちに変わりはない。いつまでやってもタコ社長だ。
2008年07月08日
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たまにはデカイ話をしてみよう。タコ社長、1960年にアメリカの大統領に選ばれたとしたら、副大統領は絶対にジョンソンは選ばなかったと思う。テキサスの寝業師のようなジョンソンは、ケネディーのイメージに全く合わない。どうしてジョンソンが副大統領になれたかは、今は周知の事実。親しいFBIのフーバー長官からケネディー兄弟の弱みを聞かされていて、ジョンソンはこれを使ってケネディーを脅迫していたというのだ。ケネディー兄弟の最大の弱点は、「女性問題」だった。私の憧れ、東村山の母と同じ年生まれのマリリンモンローを初め、さまざまな方々とお付き合いがあったという。それら全てをフーバーはしっかりとファイルしていた。FBI,は、興信所の親玉みたいなものだった。子供の時、兄といつも楽しみに見ていた「アンタッチャブル」という白黒TVドラマでは、ロバート・スタックの演じるエリオット・ネスが格好よくてしびれていた。勿論、日本語の吹き替え、日下武史さんの声にしびれていたのかもしれないが。あの頃のFBIは違っていたのだろうか。でも、確かあの頃から長官はフーバーだった筈。大きくなると、世の中の裏が見えてきて夢がしぼむ。ところで、ジョンソンも自力ではなく、こういうことで副大統領になったなんて後ろめたいことはなかったのだろうか。恐らく、全くなかっただろう。そんな繊細な気持ちの持ち主は初めから政治家なんかには向いていない。そして、あろうことかジョンソンは大統領にまでなってしまった。ジョンソンは、間違いなくケネディーの暗殺計画を知っていただろうから、ケネディーは本当に「女性問題」で墓穴を掘ったといえなくもない。もしも、一山越えてケネディーが「男性問題」を抱えていたとしたら墓穴ではなくオケツだったかもしれない、なんて冗談をいっている場合ではない。一国のトップの存在がこのようなことで左右されているという現実が実に恐ろしい。警察官の息子に生まれたタコ社長、ゆめゆめ人様に脅迫されて誤った判断なんかしないよう心しないといけない。もっとも私は「女性問題」そして「男性問題」も関係のない人生になっているから安心してはいられるが。
2008年07月07日
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何年ぶりだろうか、パラーンのマーケットに。
2008年07月05日
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こちらに戻ってから、なんとなく体調がイマイチでふくたいちょうだ。妊娠を考慮にいれてしばらく測っている基礎体温はやや高め。急に寒いところに戻ってきたせいだろうか。草津の帰りに立ち寄ったドライブインで昼食をとった。食べる前にトイレに行った。お土産を買って昼食。念のため父にもう一度トイレに行くように言った。不自由な足を引きずるように杖をついて歩く父は、さっき行ったばかりのトイレの場所が分からず反対方向に歩きだした。私は慌てて食べかけのきつねそばを置いて外へ出た。帰りの飛行機の中で、そのうろうろする父の姿が何度も何度も思い出されて涙が止まらなくなってしまった。自分はいったい何でオーストラリアに戻るのだろうか。自分の可能性を試すとか、金髪狂いに徹するとか、若い30代に勝手に日本を飛び出したわけだから、何の後悔もないし幸せで恵まれた人生を歩んでいるけれど、この人生の黄昏期をさまよう両親のことを思うときだけは、その移住の決意が揺らぐときが出てきている。今からでも妊娠ができるくらいのしっかりとした体力をつけて、元気に明るくやっていくのがいいのだろう。こちらに戻る日にこの父に、「タコ家の日記」と表紙に書いて一冊のノートを父にあげた。「毎日寝る前に、今日食べた朝ご飯、昼ご飯、そして晩ご飯の内容をできるだけ思い出して書いて。できるだけ思い出してね。それから、会った人がいたらその人のことも。でも、簡単にね。沢山書く必要はないよ。」「うん、分かった。」父はそう言った。おととい、日本に電話した。「タコ、毎日、日記書いているよ!」父が、今までになく明るくそう言ってくれた。
2008年07月04日
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「週末、シドニーを案内してくれませんか。」初めてのシドニー出張のとき、現地事務所の女子社員ジュリーに声をかけた。一緒に出張した某丸紅の私より少し若い橋本さんを誘って日曜日にシドニーのバーベキューレストランに入った。ジュリーはスーザンという、私より一回りも年上の女友達を連れてきていた。どうしたものかこのスーザンは右手を怪我していて首から三角巾で吊っていた。スーザンの顔は全く覚えていないが、この妙に白すぎる三角巾にことを覚えている。私は小学校2年のときに人妻に恋してからの年増好み。しかし、橋本さんは童顔で少女趣味のあるような人で、初めから心底居心地が悪そうだった。私だけが心から楽しんだ昼のひと時だったようだ。「タコ君、知らない所の出張で寂しいだろうと思ってホテルに何度も電話したんだよ。我が家に来てもらいたくてね。」翌日の月曜日現地事務所の高山マネージャーがいってきた。「ジュリーを誘って食事に行ったんだったね。今までいろいろと出張に来た人がいたけど、いきなり現地スタッフを誘ったりする君みたいのは初めてだよ。」と半ば呆れ顔で言われた。オーストラリアのシドニーでも、夜と週末になると元気になるタコ、と東京本社でいわれていた面目躍如といったところだった。結局、この出張で褒められたのはこの一事だけで、挙句の果て帰りに寄ったパプア・ニューギニアでは裸族に脅かされたりして散々な結果となった。タコ28歳の夏だった。仕事以外には物怖じしない、というタコ家の家訓は今もずっと守られてきているようではある。
2008年07月03日
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日本でのある週末、西武池袋線に乗って池袋まで出た。社内は昔よりずっと空いているように思えた。これはウイークデーでも同じだった。若い人が積極的に席に座る社会行動には全く変化はないことが確認できた。ふとそういう若い人たちを見てみた。寝ている男性、刑法の本を読んでいる長い黒髪の女性、大きな鏡を出して化粧中の10代後半の女性。皆、別なことをしながらも、一つだけ共通点がある。それぞれの手にはしっかりと携帯が握られていることだった。隣にいる人とは繋がっていなくても、携帯を握っているだけで遠くの人と繋がっている。私たちが子供のときは、強く引いたら切れてしまう糸電話だった。もしかしたら、今の若い世代の人は握力だけはは強くなっているかもしれない。更に車内全体を見渡すと、なんと自分より年上に見える人がいない。土日の昼に外に出る世代は圧倒的に自分より下の年代になっているとかじゃなくて、自分の年齢は平均を大きく上回る年代になってきているのだ、と誰に言われるまでもなくはっきりと実感できた。誰が何と言おうと中高年。因みに、56歳は中年なのか高年なのか議論となった時があった。できたらこういう分け方はしないで、中高年で括り続けて欲しい。ところで、ずっと化粧のオンパレードをしている女性については、もう誰も見てもいない。すっかり、あたりに溶け込んでいて爪楊枝を使ってスースーいっているオジサンくらいの行為レベルになってしまっているようだ。思い余って私が鏡を取り出して鼻毛でも抜いていたとしても、もう誰も関心を示してくれない、そんな社会に日本はなりつつあるようだ。携帯さえあれば、それがキーワードの無関心社会というのだろうか。一人ぽつねんと余りに寂しく立っているのもなんだから、もう一度あたりを見回したところやっと同年代らしき人を発見。見ると、腕を組んで口元を怖くして優先席に座っている男性だった。中高年らしく隣に座ってお話でもすればいいのだろうが、とりつく島もないような岩のような顔をしている人で遠慮させていただいた。日本では、タコ社長、海中ではないがそれでも宙に浮いているような毎日だった。
2008年07月01日
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