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2016/04/30 土曜日昨日載せた写真をさらに抽象化するとこのようになる正確に言えば「抽象化」というよりは「イメージ」として突き詰めると言ったほうがいいのかも知れないいずれにしても写真になじみのないひとには違和感を感じさせる表現になってくるわたし自身あまり写真に興味が無かった頃にはなんでこんな風に画面を荒らしたり暗くしたりするんだろうって不思議に思ったものだそれをいま自分の意志で行っているそんな自分に驚きを感じるいま表現する意志の芽生えを自分の内面に感じ始めている今日の写真:”a pair of glasses on the desk 02”20160429-DSC01409-PO-5dfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.30
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2016/04/29 金曜日自分の思索の一部あるいは自分の思索の全てその表現としての「思想」崩壊しそうな自分を支えるための「価値観/思考システム/行動マニュアル」として導入されるレディメイドの「思想」 このふたつには根本的な相違があるそのことを理解していないそういうひとが増えているような気がする危機的な状況がある思想とは根源的に極めて個人的なものなのだそれはマニュアルでは無い思索を肩代わりする物では無い行動規範となるべきものでも無い今日の写真:”a pair of glasses on the desk”20160429-DSC01410-PO-2bdfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.29
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2016/04/28 木曜日なぜわたしはわたしを理解できないのだろうなぜあなた/あなたたちはわたしを理解してくれないのかこのふたつ欲求の挫折が現代世界を動かしているのかも知れないこれらが満たされるならそれがカルトであろうと致命的に病んだイデオロギーであろうと突き進んでしまう…それが現代の精神風土ではないのか荒廃した精神世界ふとそんなことを思った今日の写真:”未明の記憶”20160427-DSC01408-EMOfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.28
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2016/04/27 水曜日夕方に驟雨(しゅうう)なんだかほっとする雨は嫌いという人のほうが多いと思うがこういう大自然の中に20年以上暮らしていると雨の大切さ優しさ怖さどれも身に染みていまでは自分の身体の一部のようにいや自分が雨の一部のように感じるわたしはこの自然に含まれているのだと今日の写真:”驟雨・Sudden Rain”20160427-DSC01400-K25Pdfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.27
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2016/04/26 火曜日桜が咲きはじめてもうすぐ1週間になろうかもうすぐ有終の美を飾ろうとしている今週末ならまだその美しさを堪能できるかも知れない今日の写真:”SAKURA”20160418-DSC01259-Kodachrome64dfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.26
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2016/04/25 月曜日月はいったい孤独なのだろうかたくさんの星々を背景に輝き地球という惑星の間近をめぐる友として悠久の時を刻んでいるそれでもなお月は孤独なのだとわたしは思う最初から周囲になにも存在しなければそれは孤立であって孤独では無い誰かに対して孤独であることしかできない孤独の本質とはそのようなものだ孤独とは愛を求めつつ愛を拒む行為である恋はやがて終わる終わりのない恋など無いそれは破局かも知れないし次の段階に進んだ結果かも知れない恋の終わりと愛の始まりは同時かも知れない信じられないことだが終わりのない愛はじつは存在しない愛もまたいつか終わるのだその愛が宿命的な愛で無い限り運命を感じる愛である限り愛は終わりを迎えるそのような愛は関係性としての愛であるから関係性の消滅によって終わることになるひとの心の持つ志向性が変化するときそれは終わる経験的にわたしがひとつだけ知っていることはこの愛は永遠では無いかも知れないということその可能性があるということそれがじつに危ういバランスの上にクリティカルな関係性の上にその愛が成立しているということ永遠の愛を誓うことは出来ても永遠の愛を相互に担保することは出来ないひとの心は光の速度より速く変化し続けているのだから数学的にいうならば愛は微分することはできても積分することは出来ないこの愛はいつか終わるだろうそこに可能性としての選択肢があるとするならばどのような形で終わるのかの違いだけだしかしこんなことを言っても愛は美しく尊いことに変わりは無いわたしはそう信じている同時にいま・ここに・ある・この愛がいつ終わってもそれはしかたのないことなのだと覚悟を決めている愛は常に新たであるつまり毎朝目覚めとともにリセットされるのだから今日の写真:”MOON GREEN”20160423-P1150661-EMOdfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.25
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2016/04/24 日曜日もしこのブログが自分の経営するペンションの集客のためのものであったならば、もっと多くの桜の観光写真を載せるべきなのだと思う。しかし、このブログは、というか、私が20年以上書き続けているブログはそのような位置づけには無いのだ。商売が下手なのだろう、間違いなく。私は私の感じたことを個人的に正直に書きたいだけなのだ。「人生とは、好きな場所で好きなヒトやモノやコトそして好きな犬や猫と友に暮らすことだ。」そんなことをある作家が書いていたことを思い出す。そうなのだ、一生を通してというのが無理ならば、せめて人生の一時期だけでも思い通りに生きてみたいではないか。勤め先の社長の価値観や勤め先の会社の企業文化に一体化して同調していきることが人生の全てになってしまうのは間違っていると私は考えた。30代半ばのことだ。それが誰にとっても良くないことだなどとは考えていない。そのほうが向いている人だって大勢いるし、私のように考えたり感じるひとの方が圧倒的マイノリティなのかもしれない。しかし、人生は統計では語れない。人生はそのひと個人のものだからだ。なにからなにまですべてがそのひとのためのものだからだ。「私の人生は私のものだ。」そう語れなくなっているのならば、あなたは危険領域に入っているのかも知れない。わたしの場合はそうだった。わたしはある決断をし、その延長線上に私がいまここにある。人生は思い通りにならないことばかりだけれど、私は一切後悔していない。いまや「後悔」とか「自己嫌悪」とか「羨み(うらやみ)」などというものとは無縁に生きている。こうなるまでにはあれから20余年を要したけれど。今日の写真:”SAKURA SKY”20160423-DSC01358-K25-2dfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.24
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2016/04/23 土曜日蓼科高原の桜がいっせいに開花した山麓の茅野市に降りる途中の蓼科湖の桜が8分咲きになっているなんと平年より10日も早いすでにたくさんのひとが訪れていて広い駐車場が満車に近い状態300本近い桜が咲きこぼれる聖光寺の境内では蓼科観光協会主催の桜祭りが催されているあと1週間が見ごろかと思うほんとうに美しい今日の写真:”蓼科湖の桜”20160423-DSC01366-E100GX-Cinefrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.23
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2016/04/22 金曜日ときとして絶望的な気分でこのブログを書くことがわたしにもある。単に気分が落ち込んでいるときもあるけれど、そうではなくて人生上の死活問題に遭遇したときなど、結構シリアスなケースもあったり。生来の楽天的な性格のため、結局なんとかなっていくのだけれど、この絶望的な気分は結構きついことが多い。そんなときにそばにこころから信頼できる誰かがいてくれるというのはじつに心強いということをこの歳になって知った。若いころから、いや子供の頃からかも知れないが、ずうっとずうっとそんな誰かを求め続けてきた。結局見つからずに自分自身でひとり二役をこなして危機を乗り越えたこともある。じぶんに人徳や人望がないことを晒すようなものだが、これはほんとうのことだ。いや、じつは数え切れないほど多くの人たちに支えられ危機を乗り切ってきたのかも知れないことは感じている。わかっていて、そのたびにこころから感謝している。しかし、わたしがここで言いたいのは、私のように弱い人間にはそれだけでは足りないのだということ。必要に応じて力を貸してもらい、その借りを返そうとするだけでは完結しないタイプの人間がいるのだということ。だらしないといわれればそうですねと認めるほかない。弱いなあといわれれば、じつにそうなのだと確信するほか無い。しかし生き続けると決心した以上、誰にどう思われようとなんとを言われようと生きていくのだ。さいわいにもこころから信頼できるパートナーを迎えることが出来たいまわたしは"ONE UP"出来たのかも知れない。多少は強くなれた自分を感じている。今日の写真:”PAST LIGHT”20130116-DSC00345-Edit-7from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.22
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2016/04/21 木曜日同じだけ頑張っても高収入を得られるひととそうでないひとに別れているそれは現代社会のルールの問題であって、本人の資質の問題では無い知識集約型生産 > 労働集約型生産 という賃金格差は非論理的につくられている努力は努力であって労働は労働であってなんの区分も区別も無いその方向性によって格差が生まれているというような言説はまやかしである世間的に要領の良い悪いはあるが世事に長けていることと労働賃金とは論理的になんの関係もない資本主義はまやかしである「資本家」が裕福であり労働者が搾取されるという図式は分かりやすい実感であるがたしかにそれは公正公平でないという点で致命的にまちがっているしかし同時に共産主義はかなわぬ夢である現世にユートピアなど無いあるのは資本家や富裕層のためのタックスヘイブン(tax haven)のみ結局のところ人類社会は有史以来あるいはそれ以前から「力(balance of power)」という基本的ルールを公理として動いてきた資本主義も共産主義もその他のイデオロギーもあまねく「力(balance of power)」のシステムに過ぎないあるいはそのメタファーに過ぎない映画「マトリックス(MATRIX)」を再度見てそんなことを思った以上、メモだから適切でない表現や論理的破綻ばかりだそのことは認識しているから議論はご容赦のほど今日の写真:”FLOWERS AND FACTORIES”20160418-DSC01295-UC100dfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.21
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2016/04/20 水曜日たまに理屈っぽいことを書かざるを得ないけれど基本的にこのブログでは理屈は避けたいと思うしかし論理的に語らなければ伝えられないこともあるからそのときにはめいっぱい論理的に書くわたしの生業とするペンションのホームページからリンクを張ってあるけれどブログではあまり宣伝したくないしそれはFacebookでも同様わたしは商売下手センスがぜんぜん無い嘘と本当とを使い分けるのが嫌いだからというわけでもないけれどただ正直に淡々とペンションを続けていますお客様に笑顔でチェックアウトしていただければそれがうれしいただそれだけ今日の写真:”SAKURA BALL”20160418-DSC01255-Noir2dfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.20
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2016/04/19 火曜日この桜の老木はわたしにとってなにゆえにこんなにも特別なもの感じられるのかこの桜の樹との出会いはいまから3年前寒風吹きすさぶ秋の午後だった陽射しは凶暴なほど強いのに風の中ではその熱量は微塵も感じられない湖畔に佇むこの樹はそれに耐えて凛としてそこにあった満開の花をつけやがてそれを散らすところを3年かけてようやく記録することが出来たとてもうれしい今日の写真:”桜・散る”20160418-DSC01247-PH-EMOdfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.19
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2016/04/18 月曜日諏訪湖の桜は満開の時期を過ぎ散り始めていた満開の桜も美しいが散り始めの桜が最も美しいと感じたこれは初めての体験だったいままで密かにこころを温めていた想いなのか私の心が変わったのか美しさを越えたなにかが魂に響く春今日の写真:”SAKURA”20160411-DSC01218-PHdfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.18
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2016/04/17 日曜日春の嵐台風ほどの風が吹き本降りの雨午後には陽が射すことが増えやがて収まった風はその後も残ったがゆっくりと収まる諏訪のサクラはそろそろ見納め桜前線はGWにかけて高原部に登ってくる明日は諏訪湖のサクラを見送ってこようもちろんカメラを携えて今日の写真:”SAKURA”20160411-DSC01054-2dfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.17
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2016/04/16 土曜日外で活動していると汗ばむほどの陽気しかし長袖シャツじゃないとまだ寒い家の中や日陰では暖房が欲しくなる気温じっさいに毎朝気温は氷点下だし最高気温も10℃以下だし標高1700メートルの春は寒暖差が大きく町の人の感覚からすると信じられないほど気温が低いウグイスの声で目覚める朝シジュウカラやキジバトの声のする昼ホトトギスやアカハラの声を聴く夕方野性の鹿は普通に道路際で草を食んでいるしキツネやタヌキも普通にそのへんを闊歩しているおとぎ話みたいな日常風景だが生存競争、生きる事の厳しさがそこにある教えられ見習うこと多し今日の写真:”SAKURA”20160411-DSC01074-LomoX-pro200-2dfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.16
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2016/04/15 金曜日孤独ではない孤立してはいない寂しくはないしかしある地域とか組織とかグループの中では孤立しているかも知れない孤立するかも知れないそれがわたしの立ち位置それがわたしの生き方の結果なら引き受けようと思うしすでに引き受けている非社交的というのではないそこに暗黙の強制力が存在しないならば共通の目標や目的に向かって汗を流すことにやぶさかではないというかすでに20数年前からわたしはわたしの立ち位置から誰の力も借りずに自発的に夜に昼を継いで地域のために努力してきているそれを評価するかしないかはわたしの問題ではないから自己主張はしないけれど今日の写真:”solitude”DSC00583FP1dfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.15
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2016/04/14 木曜日自分の撮ったものを含めて最近良いなあと感じる写真の傾向が変わってきたように感じます自分に限るならば撮って出しは無しかなあとかそこに捉えることの出来たもののなかに何かを発見できるかどうかとか発掘できるかどうかとかいろんな事を考え始めていますこの写真が良いかどうかはまだ分かりませんプリントして自分の部屋に飾って1年たってもそこにぐっと来るなにものかを感じられたならきっと良い写真が撮れたということなのかも知れません。今日の写真:諏訪湖畔の桜の老木は信じられないほど多くの花をつけた20160411-DSC01145-PGdfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.14
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2016/04/13 水曜日先日木落が済んで来月の里引き・建御柱の祭事を待つ秋宮一から秋宮四と春宮一から春宮四の都合8本の御柱が下諏訪町・注連掛(しめかけ)に安置されている柱の周囲には結界が切ってあるので触れることは出来ない90ミリレンズで秋宮一の御柱を撮った御柱の中で最も大きく重い御柱だその威厳とある種のオーラに圧倒されるそれを全身全霊で受け止めながら畏敬の念を持ってシャッターを切る当地に移住して23年にも関わらず曳航途上の御柱を拝見するのは初めての経験だったこの巨大な檜がやがて「神」になるというそれはきっと本当なのだ氏子のひとびとの思いが神を呼びその思いが神になるのかも知れない今日の写真:下諏訪町・注連掛(しめかけ)に安置されている「秋宮一」の御柱20160411-DSC01069-Edit-5dfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.13
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2016/04/12 火曜日今朝の冷え込みは厳しかった記録式寒暖計を見ると氷点下13℃こちらに移住して23年珍しくはないがちょっと驚く記憶では4月16日に氷点下16℃なんていう年もあった昨日あの桜の樹に会ってきたほぼ満開になっていたこの樹がこんなに花をつけたところを見たのは初めてのこと自宅から1時間ほどの距離なのでこれまでタイミングが合わなかったがようやくこの老木の華やぐ姿を見たこの老木とわたしといったいEMOどちらが長く生き続けるのだろうこれはたとえ話だ今日の写真:”桜咲く”20160411-DSC01145-EMOfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.12
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2016/04/11 月曜日諏訪湖界隈の桜はようやく満開になっていたようやくとはいっても平年並みではあると思うのだがいつもで遅れてしまうので心持ち早めに諏訪湖畔を訪ねてみた数年前から撮る続けている桜の老木のはぼ満開の花をつけた姿を撮すことができたそのことはまさに「ようやく」といって良い3年かけて「ようやく」撮れたのだからこの樹を撮り続けて3年以上になるが大きな湖ゆえの寒風や湿気や雪などの厳しい環境の中であと何年立っていられるかとても危うい”Old Friend”を思うように四季折々会いに行く桜の樹昨日も書いたが写真を学びたいと思ったのもこの樹を撮るためだったなぜここまでこの樹にこころ惹かれるのかそれはいまだにわからないしかしこころ惹かれるものにカメラを向けてそれを撮ることには深い意味があるわけで写真は極めて個人的な表現作業ではないかとわたしは感じている今日の写真:”御柱祭の町に桜咲く”20160411-DSC01145-Noir3dfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.11
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2016/04/10 日曜日諏訪湖界隈の桜はそろそろ満開になっているんじゃないかということで明日は出かけることにしたカメラは持っていくが作品撮りというような気概も積もりもない数年前から撮る続けている桜の老木の満開の花をつけた姿をまだ撮っていないただそれだけが動機と言えば言えるかなり朽ちてきておりあと何年花をつけられるかあと何年立っていられるかそれすら危うい状態だからわたしが本気で写真を撮りたいと思ったのはあの樹との出会いがそうさせたといってもいい写真を学びたいと思ったのもあの樹を撮るため記録し記憶し忘れないでいたいあの姿をあの美しい佇まいを我が心の友の姿を残したいただそれだけのためレンズを向けシャッターを切る今日の写真:”御柱祭の町”20160406-DSC00996FP-PinHolefrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.10
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2016/04/09 土曜日わたしにとって写真を撮ることはその日を記録するというよりは日課というかルーティンとなっているそのことによってより仔細に日常に目を向けなんでもない風景やモノやコトを見ることができるような気がするのちに見返すならばそのとき時の自分の視線の行方そこに何を見たのか何を見ようとしていたのかそんなことがわかってはっとすることも多いだから作品撮りという気持ちはあまりないそういうことを狙わない方がむしろわたしの場合はある種の存在や本質に触れる機会が多いようだ素人の写真だからこんなことも言っていられるそれはよくわかっているだからこそ好きなときに好きな場所でこころ惹かれるものを撮るいわゆる写真撮影ではなく終わりなき作務(work)としてそんなわたしの悪路の道しるべ闇夜の灯台となってくれている卓越して優れた先人の作品に感謝今日の写真:”水仙 / jonquil”20160406-DSC01002FPRollei Retro 80s dfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.09
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2016/04/08 金曜日今年は諏訪大社御柱祭の年先週上社の山出し・木落・川越という前半の神事が終わり今秋は下社の山だし・木落という前半の神事が行われている上社は本宮・前宮、下社は春宮・秋宮を指す詳しくは御柱祭公式ホームページを参照されたいhttp://www.onbashira.jp/もっと語りたいけれど御柱祭の概要を理解しないことにはなにをいっているのかわからないとおもうかつてのわたしがそうであったように…この祭りの神事のひとつひとつが理解できると俄然興味深くこの祭りの意味と内容が見えてくる1本の御柱につき千人とも3千人とも言われる参加者すなわち「氏子(うじこ)」たちがこころと力を一つにして一つの共同作業それもとんでもない大事業を成し遂げる様は祭りの概要を理解していなくても強く深くわたしたちの心を打つ今日の写真:”This World”DSC01098FP1dfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.08
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2016/04/07 木曜日さて今日は予報通りの春の嵐になった自宅は標高1700メートルの山岳部なのでこの程度の風雨には慣れているどうということはなかった風が吹き高さ20メートルはある大木が大きく揺れる雨が降りまだ新緑が芽吹いていない森の下草を打つ枯れ葉が土に戻る前に積雪するのでこの季節の地面は秋のように枯れ葉に覆われているここで聴く風の音が好きだここで聴く雨の音が好きだ自然の発する音しか聞こえない自然の気配しかない樹木が水を吸い上げる気配森の小動物野性の鹿野鳥たちかれらの息づかいを感じる今年も春がやって来た今日の写真:”This World”20160330-DSC00774-NIKfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.07
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2016/04/06 水曜日正直に言おう「わたしは自分が傷つきたくないからひとを傷つけたくない。」そうなのだ、わたし個人に関する限り、これは間違いない。その延長線上に次のような行動様式が現れる:わたしは自分が傷つきたくないからひとを攻撃しない。攻撃しないですむように出来るだけひとと関わらない。もちろんわかっている社会はひととひととの関わりで成立しておりひとそれぞれであるからそこには異なった立場や見解や利益やらがある当然のこととして日常でも対立が生じて闘争となり摩擦や軋轢が生じるそれを解決するのが「知恵」というものだがわたしにはその「知恵」が欠けているようなのだだからやられっぱなしになるこれは経験則だ叡智あるひとがどれほど道を説こうとも明瞭な形を取らないまでもなんらかの「力(power)」が最終的には問題を解決するそれを「正義」と呼ぶここともあるし「権力」と呼ぶこともあるし「権威」と呼ぶこともあるし「民衆の力」と呼ばれることもあるしもっと明確に「暴力」といえるものもあるこれがわたしの第2の経験則だひとを抑圧するもの言論や行動や行為を抑圧するものそのように考えることすら抑圧するものNOと言うことを抑圧するものそれらはすべて暴力であるどのような形を取ったとしてもたとえそれが言動であったとしてもひとの何かを否定するもの抑圧するものそれらはすべて間違いなく「暴力」であるそれがどうとでもとれる暗黙のサインであったとしてもやはり「暴力」である人を無視してかかることマウンティングすることそれは明確な暴力の行使であるそれが自らに向けられた自分自身の力であったとしてもやはり「暴力」であるそして暴力を行使する側の人間は得てして自分の行使した暴力がどれほどひとを傷つけ抑圧するかと言うことに驚くほど無頓着でありその効果に悦に入っているものだまさにゲスの極みというものか「人はひとりでは生きられない。」それは数少ない真理のひとつかもしれないうんそうであるならばなによりも「暴力」の本質を考えなければならない誰もが暴力を携えて生きていること誰もがその暴力を知らず知らずに行使しているかも知れないこと行使されているかも知れないことそのことにもっと敏感にならなければならない偉そうなこと言っちゃうけどふとそんなふうに思っている自分を発見した今日という日カモの親子(諏訪湖畔にて)DSC00811FP1from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.06
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2016/04/05 火曜日今日の写真のタイトルは「デジャビュ(Déjà Vu)」一般的には「既視感」と邦訳されているようだ初めて訪れる場所なのに以前にも来たことがあるような気がする初めての出来事なのに前にもまったく同じことがあった記憶があるしかもそれは曖昧な不確かな記憶ではなく明瞭に「YES!」と言える確信をともなっているそれが「デジャビュ」だそれは前世の記憶なのだという者もいればある種のタイムスリップの結果だという者もある我々の脳機能の単なるトリックだと言う考え方もあるわたしはこのデジャビュ(体験)がとても多いその場所の詳細な地図を思い浮かべて辿ればじつにそのとおりだったという経験もあるまさにその点が「デジャビュ」を単なる「思い違い」と区別する最大の特異点といってもいい「デジャビュ」多くのひとが自身で実際に体験したことの多い不思議謎解きはいいその「意味」を考えるべきだと思う「デジャビュ」と「シンクロニシティ(意味のある偶然)」はわたしにとっては人生における最も大きなクイズかもしれないそれに出くわすたびにそれを楽しんでいる"Déjà Vu"(デジャビュ)20160404-DSC00899-Edit-dfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.05
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2016/04/04 月曜日わたしがこんなふうに人物の写り込んだ写真を撮ることは少ないだからといってわたしは人嫌いということではないむしろ人を撮りたくてしかたがないこうした風景写真においても人物は風景の一部とは考えないあくまでも人間存在としてその重みを感じつつシャッターを切るしかしご承知の通り相手が個人となると様々な配慮が必要となる最終的には法的問題とコミュニケーション能力の問題になるわたしがしりごみしているのはコミュニケーション能力の問題もちろん経験を重ね精進を続ければ向上する部分はあるかも知れないしかし向き不向きあるいは生来の器ようなものはいかんともしがたい人としての器量ばかりはどうしようも無いということはわたしは人生から学んだ数少ない教訓のひとつだしかしあきらめずにひたすら願い続けたことでかなわなかったことはないというのもわたし自身の人生においては事実として確かな原理なのだあきらめずに願い続けようと思う"FRIENDS"DSC00645FP-Cross_dfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.04
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2016/04/03 日曜日今日の夕方撮った写真空がとても良い感じの光になっていた思うにわたしは風景そのものより光そのものにこころ惹かれる者のようだ極端なことをいうなら風景を見ないでそこにある光を見ているその光を撮っているその結果として風景が現れる私の写真の成り立ちはそのようなものそんなふうに考えるとどこか合点がいく光こそが世界の元素光こそが美の根源そこまで思い込んでいるのかどうかそれは自分でもまだよくわからないTWILIGHT IN GREENDSC00865FP-EMOfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.03
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2016/04/02 土曜日いうまでも無いことだけれどわたしは写真のプロではないしかし写真鑑賞にはいささか経験がというか母方の祖父が写真館をやっていたので物心ついて以来かれこれ60年近く写真好きなひとである小さな時から現像の現場や暗室で多くの時間を過ごしながら成長したしかし自分で写真を作品として撮ろうそんなふうには考えなかったきっとあまりにも身近だったためだろうそれが日常だったためだろう絵を描くのは好きで県の展覧会レベルではよく特選を受賞したがそれも小学生時代までじぶんにはその方面の才能とでもいうべきものはきっと無いのだと信じたそのような流れの裏に実業に従事させようという親の画策そんなものがあったことなど想像もしなかった失われた夢のかけらを拾い集めるようなそんな想いで写真を撮る日々でもこれはこれで悪くないと思っているおそらくわたしは生粋の趣味人なのだプロフェッショナルにはなれないTWILIGHT IN GREENDSC00785FP-EMOdfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.02
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2016/04/01 金曜日概ね昨日何を書いたか覚えていない人なので整合性がないかも知れないけれどご容赦の程”MONOCHROME”は「無色」でも「無色彩」でもないそこには「色(しき)」があるそれは「空(くう)」が「空っぽ」でもなく「無」でもないのと同じである「空(くう)」とは何も無いけれどすべてが有るそんな状態ないしは世界であると、般若心経は語っていると、わたしは考えているさて、”MONOCHROME”の話の続きだ「もう一つの”MONOCHROME”」とでもいうべきモノクロ写真があるこれは”MONOCHROME”というよりは"BLACK AND WHITE"というべきかも知れない黒と白だけで表現されるべき写真それこそが最上の表現手段であるような写真色彩を排除することによってのみ成立する光と影の世界白黒ならではの美そして芸術そのような写真が確かに存在するちょうどわたしの”TWILIGHT IN GREEN”の空が”GREEN”の光の中でしか現れえないのと同様に最後の二行は蛇足だったかBLACK AND WHITEDSC00811FP-CMS20dfrom 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.04.01
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