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ホテルにチェクインする前に予約しているおかもと鮮魚店へ・・混むと嫌なので早めの午後5時の予約を取りました・・予定通り5時前に到着・・クマさんお疲れのようですね・・しんどそう・・このときはまだ空いていましたが・・この後からどんどんお客様が入ってきました・・早めにきてて正解・・揚出し白子豆腐・ホタテのグラタン・クジラの竜田揚げ・・海鮮丼・・揚出し白子豆腐・・めっちゃふんわりしてて美味しかったぁ・・グラタンは私が食べたかったから・・お味は普通・・クジラの竜田揚げはお店の方のおすすめ・・まだ車の運転をしないといけないのでアルコールはなしです・・海鮮丼はここの一番の人気メニュー・・ご飯は酢飯でなく白ごはんでした・・とにかくたくさん乗っててもうお腹ぱんぱん・・お店から車手10分の下関グランドホテルに向かいます・・チェックインして荷物をおいてからコンビニにビールを買いに・・おフロアがりにぐっと飲んで爆睡・・2022年11月25日(金)晴れ朝食は今回は洋食に・・結構なボリュームです・・食後・・目的の唐戸市場に・・まずはふぐのお店の雄次商店へ・・今回は真ふぐがなくてとらふぐ・ふぐ刺しを・・長男のところにはとらふぐ・ふぐ刺し・ふぐの唐揚げを発送・・たくさん買い込んで鰻の三代目さんのところに・・長男のところにも鰻をとらふぐと一緒に梱包してもらって送りました・・そうちゃんが鰻大好きなんです・・段取りをしてもらっている間に関あじ・カレイ等を購入・・いつも開いている漁師の奥様のお店がない・・海が荒れてて漁にでられないからだそうです・・何やかやと買っていると馬関街のほうが賑やかないなってきて・・あとはクマさんに任せて私は馬関街の方へ・・9時半スタートの前からすでに並んでいますたくさんの種類が並んでいます・・ここでお店の方にお願いしてパックに入れてもらいますマグロの色んな部位を詰めてもらいました・・海辺には馬関街で購入したお寿司を頬張っている人たちがたくさん・・今回は凄い人出でした・・私たちはさっさと退散・・クマさん運転してて同じ姿勢をしていると足が痛むみたい・・高速に入ってから私が運転を変わりました・・ヤリスクロス・・前について運転していると気がつくと120キロオーバーしてる・・120キロオーバーしても安定した走り・・そんなにスピード感がないんです・・プリウスなら振動して来るのでちょっと怖くなるスピード・・視界も広いし運転し易い車です・・買い替えて大正解・・後半はクマさんが代わってくれました・・帰宅したのは17時半・・お汁だけ作って買ってきたお寿司で夕食・・どれもとっても美味しかったぁ・・o(*^▽^*)o~♪FC2・・はこちらから
2022/12/28
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香山公園をあとにして向かったのは常栄寺 雪舟庭常栄寺は1563年毛利元就によって息子隆元(たかもと)の死を弔うため広島県の吉田郡山城内に建てられました・・しかし関ケ原の戦いに敗れて吉田郡山城を失った毛利氏は長州の萩城へ移されます・・その際に当時山口にあった国清寺(現・洞春寺)に寺を移して合寺し常栄寺としました・・さらに1863年長州藩が萩城から山口城へ移された際に常栄寺も現在の地に移され隆元の夫人・尾崎局(おざきのつぼね)の菩提寺である妙寿寺と合寺したのです・・しかし大正15年には火災によってほとんどが焼失してしまいました・・本尊である千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)や宝物などわずかに搬出されたものだけが焼失を逃れます・・そして昭和8年から27年にかけて再建整備され火災から40年以上もかけて復興されました・・無隠(前庭)境内の入り口を入ってすぐにある前庭は「無隠」と呼ばれています・・常栄寺二十二世である今井任桃(いまいにんとう)老大師がこの寺の新しい住職になった晋山式を記念して平成24年に作られた新しい庭です・・砂利を用いた枯山水で円形に造られていて滝を表す石組みを設置・・入り口である山門から庭を眺めながら歩くと左側には地蔵堂・右側には鐘楼門を見ることができます・・鐘楼門は大正時代の火災を逃れることができたため当時のままの建物です・・無隠という名の由来は今井任桃老大師の室号である「無隠窟」から摂られたものです・・本堂常栄寺の本堂には本尊である千手観音菩薩が安置されています・・もともとは山口市水の上町にあった国清寺の本尊でもあります・・千手観音菩薩は千の手と千の眼を持ち苦しむ人々を見つけ救いの手を差し伸べる大きな慈悲を持っている観音様です・・またそれぞれの手に様々な道具をもっていてあらゆる方法で私たちを救ってくれるとされています・・本堂の中には千手観音像の他に昭和天皇も祀られています・・そしてこの本堂から北側の雪舟庭と南側の南溟庭を眺めることができます・・雪舟庭もともとこの地にあったのは室町時代の有力大名である大内政弘(おおうちまさひろ)の別邸がありました・・そして別邸を立てる際に大内正弘は水墨画で有名な雪舟に庭を造るように命じ寺の北側に雪舟庭が作られました・・常栄寺が移転されてもこの庭はそのまま維持されたのです・・本堂の北側に約900坪の広さがある雪舟庭は中央に大きな池があり・・周回する遊歩道を歩きながら景観の変化を楽しむことができる池泉回遊式の庭園です・・本堂側からは石組みや地形を生かした枯山水の雄大な景色が眺められます・・庭園の周囲は木々に囲まれていて・・西側からは激流の滝を表した石組みを見ることができます・・南溟庭南溟庭は本堂の南側に広がる枯山水の庭園です・・昭和43年に常栄寺二十世である安田天山(やすだてんざん)老大師が重森三玲(しげもりみれい)に命じて造らせた庭です・・重森三玲は作庭家だけでなく日本庭園史の研究の基礎を築いた研究家としても功績を残している人物です・・安田天山は重森三玲に「雪舟より下手な庭を上手に作ってほしい」と依頼したエピソードもあります・・雪舟庭と見比べてみるのも面白いですね・・庭は雪舟が中国王朝の明から帰国まで渡った大海をイメージして造られました・・また北溟が陰の世界や北の暗い海を意味するのに対し南溟は陽の世界や光明の世界を意味しています・・雪舟が航海した旅路を想像しながら眺めてみるのもいいですね・・毘沙門天様が上のほうに・・外に出て登りかけたのですがクマさん・・この登りは止めておくとここで待っててもらうことに・・階段を登っていくと薬師如来様が・・更に登っていくと弘法大師様・・上を見るとまだまだ階段が続いています・・気合を入れて・・毘沙門天様・・毘沙門天様のお顔を拝見しているとここまで登ってきて良かったぁ・・しばらくキリッとしたお顔を眺めていました下に降りて本堂を裏側から・・クマさん・・結構時間がかかってたから登りがきつかったん?クマさん登らなくて正解!!階段ばっかりできつかったわ・・登っていたら足をもっと痛めていたと思う・・山口タウンを堪能して下関に向かいます・・続く・・FC2・・はこちらから
2022/12/17
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保寧山 瑠璃光寺を見学して更に奥に進むと香山墓地があります・・この墓地は萩藩主(毛利本家)の墓所で13代毛利敬親が居城を萩から山口に移して以降の墓地として使用するために造成されたものです明治4年(1871年)に敬親公が山口で亡くなってこの地に葬られ14代毛利元徳夫妻・15代元昭夫妻の墓があります・・うぐいす張りの石畳このあたりで手を叩くか強く足踏みをすると美しい音が返ってきます・・「うぐいす張りの石畳」と呼ばれ親しまれています・・人為的に造られたものではありませんが前方の石垣や石段等に反響して美しい音色を出すものと思われます・・手を叩いたり強く足踏みをしてみるとあら不思議・・反響して美しい音色が聞こえました・・更に奥に進むと洞春寺山口県庁の北に位置する第16番札所の洞春寺・・洞春寺は元々「三本の矢」の訓で有名な毛利元就公の菩提寺として開基されたのが始まりです・・山門や観音堂は国の重要文化財で本尊は聖観音・・本堂洞春寺は毛利元就の菩提寺で元亀3年(1572)に孫の毛利輝元によって現在の広島県安芸高田市に創建されました・・その後毛利氏とともに広島市・萩市・山口市へと移り明治4年(1871)に現在の地に移りました・・現在の地は応永7年(1400)に大内盛見が創建した国清寺があった地です・・観音堂この観音堂は上宇野令滝の観音寺にあったものです・・観音寺は大内義弘の子持盛が豊前国篠崎で戦死した後菩提寺としたところです・・観音寺は後に勝音寺と改まりさらに毛利氏の時代になってからは大通院と称していました・・堂は朽廃が著しかったのですが大正4年に洞春寺境内に移建しました・・桁行三間・梁間三間・一重もこし附入母屋造り銅板葺(修理前こけら葺)の建物です・・永享2年(1430年)建立ということが厨子裏の板銘にあります・・床は禅風の四半敷瓦です・・須弥壇は束の間に格狭間が入っていて純粋な禅宗様式とはいえません・・蹴込板には色彩を施した蓮の彫刻があり室町時代の特徴をよく出しています・・岩屋造り厨子も当初のままと思われます・・現在山門とともに重要文化財となっています・・山門山門は前後に控え柱のある四脚門で切妻造・屋根は檜皮葺です・・建立年代は明らかではありませんが室町時代中期に国清寺の山門として建立されたものと考えられていて昭和29年9月に国の重要文化財に指定されました・・昭和61~62年(1986~1987)の解体修理の際に調査が行われ建立当初の姿に近づける形で復原整備されました・・この際に屋根が修理前の桟瓦葺から建立時の檜皮葺に復原されました・・その後約33年が経過した令和2年に檜皮葺の摩滅や劣化が進行し修理を要する状態となったことから国・県・市の支援のもとで保存修理事業が実施されることとなり令和3年(2021)1月末 保存修理工事が完了しました・・修理工事が完了しても通り抜けはできませんでした・・続くFC2・・はこちらから
2022/12/13
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数日前からバラ鉢の土の入れ替えを始めました一気に寒くなったから日中のお日様のあたる暖かい日を選んで・・昨日はクマさんは朝から秋ジャガの収穫に・・私は風の当たらない暖かい場所にゴザを敷いて黙々と鉢バラの土の入れ替え・・お昼前に畑から戻ってきたクマさん・・今年の秋ジャガはいいのが入ってるわ・・とお昼前に収穫籠に入れた秋ジャガを一輪車で運んできて・・結構な量の収穫です・・桑切れ(掘るときに鍬があたって切れたジャガイモ)や青い(日に当たると青くなって毒素を含みます)を取り除いてゴザを敷いて数時間乾かします・・私も土替え作業を終わらせて片付けたのが1時前・・お昼ごはんを済ませて3時過ぎには庭に出てクマさんはジャガイモの片付け・・ご近所さんにもおすそ分けをして回ってました・・長い時間をかけて黙々と剥いていた黒豆もあと少し・・クマさんがジャガイモの整理をしている間に私が終わらせました・・黒豆の豆剥きは本当に地味でしんどい作業・・やっと終わってホッとしました・・と言ってもほとんどクマさんがしたんですけどね私は時々手伝っただけ・・ヾ(≧▽≦)ノギャハハ☆私が鉢バラの土の入れ替えをしていたとき・・知り合いのおばあさんがやってきて・・おばあさんが畑の横を通りかかったとき・・クマさんが大根をあげたようです・・ジャガイモの整理をしていたときだったのでジャガイモもあげていました・・誰もくれへんよ・・クマさんだけや・くれるの・・と言ってました・・いつももらってばかりでこれ気持ちだけやけど・・コンビニのシュークリームを持ってきてくれましたもうね・・脊椎狭窄・頸椎狭窄で車を押して歩くのが精一杯・・クマさんは何歳になったの?いつも畑を綺麗にしてて次々と野菜を植えて元気やね・・おばさん(おばあさんは失礼だからね)はいくつになったの?いくつに見える?いくつに見えるって言われても困ったなぁ・・90前後って感じだけど本人さんは若いつもりのようだし・・おばさんくらいの年齢になってくると全くわからないわ・・o(*^▽^*)o~♪って言葉を濁したら・・90歳になるんよ・・90歳なら車を押したらどこにでも行けるってお若いやん・・いくつに見える?って聞くってことは自分では実年齢より若いつもりでいるんだなって思います・・女は灰になるまで女・・以前通っていた美容院・・毎月・老人ホームに訪問していたんですが・・髪をカットして口紅を薄く塗ってあげると鏡に写った自分の顔を見てすっごく素敵な笑顔になるって話してくれました・・普段にこりともしないおばあさんのお顔も笑顔になるんだそうです・・いくつになってもそんな気持ちを持ってるって素敵なことですね・・o(*^▽^*)o~♪FC2・・はこちらから
2022/12/11
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保寧山 瑠璃光寺中門には保寧山と山号が大きく掲げられています・・中門の両側には袖回廊が巡っています・・中門の左手前に大内弘世の銅像が建っています・・大内氏の始まりは百済国聖明王の第3皇子・琳聖太子と伝えられ推古天皇19年周防国(今の防府市)に着岸し聖徳太子より周防国大内県を賜り多々良を氏としたといわれています・・「大内」と称し始めたのは平安時代で16代盛房の頃で本拠地が「大内」という地名だったことが由来とされています・・長門・周防国の守護に任じられた24代大内弘世は1360年頃・政庁を山口に移し京に模した街づくりを始めたといわれています・・中央に本拠を置き街を縦横に区画・街路名を大路・小路と京風にしました・・一の坂川は京の鴨川に見立てられました・・第31代大内義隆はキリスト教宣教師サビエルに日本で最初に布教の許可を与えましたが重臣陶氏の反乱で自刃に追い込まれ大内氏は断絶・・山口市内には大内氏ゆかりの神社仏閣が数多く残り大内文化が色濃く香る街とされますがその大内文化の始まりが大内弘世ということです・・こちらの右側には最初にご紹介した国宝である五重塔・・中門のすぐ右手前に瑠璃光寺の鎮守石殿があります・・瑠璃光寺は古く吉敷郡仁保の地にあリましたが元禄3年(1690)にこの地へ移ってきました・・この石殿は当寺が仁保にあった頃当山16世重堂専宗和尚が寺の鎮守として慶安3年(1650)に造立したと刻銘からわかります・・石殿の右手に梵鐘の案内があります・・回廊の奥に鐘楼がありそこに吊るされている梵鐘は当寺が仁保から移転する前に瑠璃光寺の末寺であった光明禅寺が廃寺になったときに移ってきたもので天文元年(1532)に鋳造されています・・撞座の蓮華座の中房に花弁を造る作風は珍しいといわれています・・本堂の廊下のところにおいてあった鐘・・これなのかな?生前の罪過を懺悔し・世の為・人の為・善行を尽くすことを約束し「後生ですから、極楽浄土の道へお導き下さい」と後生車を回します・・1回廻す毎に罪過が浄化されるといわれています・・身代わり地蔵・・身代わり地蔵は本人に代わり悪縁・病気・縁談・不幸等に対して御身体を3つに切って身代わりになってくれるというあり難いお地蔵さんです・・さっさと上に上がっていっちゃうクマさんにクマさ~~~ん・・身代わり地蔵様に足の痛みをお願いすればぁ~~~クマさん降りてきて身代わり地蔵様の足を擦ってお願いしていましたあら不思議・・クマさんの足の痛みがなくなった!!なんてことにはなりませんでしたが・・ひどい痛みにならなかったことには感謝ですね・・水かけ地蔵水掛地蔵は水をかけながら心願をお願いすると叶うということでお地蔵さんに水をかけながらお願いをします・・クマさんはぼけないように頭を擦ってお願いしていました本堂本堂入り口の正面に向かって左には「布袋和尚」右には「寶頭廬善者(びんずろぜんじゃ)」像が出迎えてくれます・・本尊は薬師如来・・知足の手水鉢「吾唯足知」は釈迦の最後の説法の中で言われたことばです・・真ん中が口という文字ですがこれは「吾唯足知」でお経の中にある言葉です・・今の自分はこれ以上我欲を求めないで足ることを知るという意味でむやみな贅沢を戒めてます・・我欲を求めない・・足ることを知る・・心に響く言葉です・・以前ブロ友さんが書いてらした言葉を思い出しました私は人を羨まない・・決して人を羨まない・・その方はガンで亡くなってしまったのですが最後まで素晴らしい生き方をなさってました・・その言葉が頭の中に浮かんできて気がつくと手を合わせていました・・続く・・FC2・・はこちらから
2022/12/04
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