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若いつばめが13時30分とんできました。 本当のつばめです。2羽だけですが電線に羽を休めてとんでいきました。 大分早いようですが、先発隊でしょうか。それだけで後は見ませんでした。 山桜は満開のようです。 くちばしに黄色をのこした鴨は人が来ると羽音たかく姿に似合わぬ奇妙な声とともに飛び立ちます。おとなになったんだといわんばかりに旋回します。 もうすっかり春のもようです。 久しぶりに炭焼き現場に行きましたら、小屋をたおして炭窯を半分こわしてありました。 竹を伐って竹炭と竹酢をとっていました。 最近、山の手入れがなおざりにされて、竹が繁茂して山が危機状態になっています。 よくぞがんばってくれると喜び励ましていましたのに3人組みは10年目にやめてしまいました。 炭はシックハウス対策、調湿に効果があり、竹酢は入浴ざい、土壌改良に効果があります。 なによりも竹を切ることが意義ありました。しかも竹は筍から3年したら成木になります。 日本で唯一の再生産原料です。 JAが率先して取り組まねばならない事業なのに、竹酢を農作物につかうことを禁止しました。 それで売れなくなったようです。 自分の販売する農薬以外は使わせないことは、利益確保以外に安全管理面もありましょう。 でも竹の繁茂状況から考えると、竹酢の効果テストぐらいやって考えるくらいの雅量がほしいものです。 若いつばめに快くしていた心が一遍に暗くなりました。 炭焼きの仲間はもっと暗いでしょう。
2007年03月30日
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「生き残りをかけた挑戦、春の七草、ナズナの戦略」と刺激的な新聞のコラムが目にはいりました。 七草を食べようと博物館の催しで、野外散策し雪の下にナズナを見、ロゼットと称する放射状に葉を拡げた形で地面に這うようにして、乾燥を防ぎ、寒さに耐えるのだと聞きました。 冬型1年草といわれ秋に芽生え冬に育ち夏には枯れて一生を終えます。 多くの植物は冬をすごすために種子や球根で春を待ちますのに変わった植物だなとは思いました。 冬のナズナは厳寒の中でもしっかり葉を拡げて光合成を行い、栄養をどんどん根に蓄え、多くの植物が芽を出す早春に蓄えた栄養を用いて一気に成長し、花を咲かせ、花を求める昆虫を独占するそうです。 又ナズナの花茎は無限に成長でき、種子を作りながら花茎をどんどん伸ばし次々花を咲かせます。つまり先んじて確実に種子をつくり、余裕があればさらに種子を作り続けるというナズナの戦略だそうです。 又、秋にすべての種子を発芽させずに一部は土の中に残し翌年の春から夏にかけて分散して発芽し危険回避をもしているそうです。 生命が誕生して35奥年、生命は幾多の逆境を乗り越えて進化してきました。 地球では適応できなかった生命は生き残れません。そういう意味では、生命は向上心のかたまりという言い方もできるでしょう。 これは県立博物館が自然資料紹介で案内したものです。 ナズナは別名ペンペン草といいます。 「ペンペン草もはえない」とは、どうにもならない最低のことをいいますが、どこにでも生える旺盛な植物ということでしょう。 ペンペン草にも生きる戦略があったんです。
2007年03月29日
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つわものどもが夢の跡と芭蕉翁が栄枯盛衰のあわれを詠いましたが、私たちの鳥取も日本史の代表戦士が次々やって来て活躍しています。 応仁の乱の西の大将で6分1殿といわれた山名氏が当地出だから、その流れが続いて尼子、毛利、秀吉とそうそうたる侍が椅子取り合戦をして歴史を積みかさねました。 大永4年(1524)山名家の内部紛争に立ち入る形で出雲の尼子が一気に進出してきました。 ”大永の5月崩れ”と語り草になってる程、尼子の戦力はつよく、地元の城はことごとく平定されました。 神社仏閣も焼き払われ急進、急追、情け容赦なく蹂躙し大永の5月崩れと語り草になるほど凄愴をきわめた荒らし方であった。手段を選ばず文化財などを破壊しつくしたことは今日もなお人々から眉をひそめられる事跡である。と民談にのこしてあります。 安芸の吉田城から興った毛利が尼子の留守をねらって尼子の地に進出しました。 あわてて引き返す尼子軍、その手薄を当地負け連合軍が失地挽回すれど勝てず浪々の身になる者、服従する者時のあわれです。 周防の大内義隆が家来に殺されて、弱体した所を毛利が呑み込み一気に戦国大名の地位を確保しました。そして尼子が平定した山陰を今度は毛利が追ってきて、色をぬりかえました。 「我に7難8苦を与えたまえ」と尼子再興を祈った有名な山中鹿之助幸盛、とうとう毛利軍に捕まり、斬首されかけて、下痢腹痛を訴えて厠から遁走、京都に行き、信長の援助もうけて再度襲来し、鳥取城を奪取、次々と旬日に13も毛利の城を落とす勢いでした。吉川親子は郷里にかえり不在でした。 毛利吉川は大軍をもって乗り込んできて失地挽回、鹿之助又敗走、京都から播磨上月城で最後の決戦、尼子主従もろともここで毛利の手におち、最後を向かえました。 今度は羽柴秀吉が毛利の彩りに手を出してきました。 1年目は海岸の城を取り海を制し、翌年繰り出してきて世に有名な「鳥取城の渇殺作戦」兵糧攻めを展開しました。容易周到陸路海路輸送路遮断、篭城5ヶ月で食い物食いつくし、城中の全員の命を助ける約束の下、城守吉川経家は切腹し秀吉におちました。 応援に駆けつけた毛利軍、吉川元春は10里を隔て間にあわず、秀吉3万の大軍で出向き対峙しました。 吉川兵6千なれど自若として動揺することなく悠然として弔い合戦の意気軒昂、秀吉これをみて、2日をおいて退却しました。吉川も追いかけることをやめ富田城へかえっていきました。 街おこしの有志の講談は、関が原以後の色塗り替えの段で新しい登場人物が又やってきそうです。
2007年03月28日
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能登半島で地震がおきかなりの被害が起きています。 被災の方にお見舞いもうします。 日本列島どこに地震が起きてもおかしくないそうで、大きな地球のメカニズムの中に組みこまれていれば致し方ないことではあります。 地震が起きたときに被害が軽少であるように建物、生活を対処する心がけが必要でしょう。 M7級の地震は1000年位のサイクルでエネルギイを蓄積するようですので、記録もれのところが多くあることでしょう。いわゆる活断層なるものです。 鳥取地震の活断層跡が山林にのこっていますが不気味なものです。 被災地の余震が早く治まり復旧されることをおいのりします。
2007年03月26日
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散歩道で川床の改修された所に赤い金気が出てくるのをみつけました。 流れ出るでもなく、滲みだすように拡がっています。 その箇所から土手の内側は、3階建ての県営住宅です。 なにかの廃棄物だろうか、それとも石油か温泉の前兆なのかと毎日考えていました。 そのうちに改修箇所も草が生え赤茶げた湿地帯になりました。 その原因が今日わかりました。 川水は大部分が川を流れていますが一部分は土手の下部をくぐって、かつての氾濫源を浸透して、地下の川がながれています。 平坦になってわからなくなっていますが、大山からの火山砕屑地層がのびていて地下川水の流れを止めていた模様です。そこで雨水浸透を流す別系統の地下池が出来、それがオバーフロウの形で例の川岸に滲みでていたわけでした。循環が悪いので鉄分が酸化したわけでした。 今日散歩のコースを変えて川上に向かいました。 明らかに人為的に川の流れを土手で変えた所があり、昔の川の跡なども伺えました。 先人の苦労には頭が下がります。 気持ちはずんで先をいそいだので、帰りの道の長かったこといつもの倍でした。
2007年03月23日
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彼岸の中日です。 線香の煙の中にありし日の知人の思い出がうかびます。 だれでも生あるものはいつかは彼岸に行かねばならぬ運命です。 先日、知人が2人彼岸に旅立ちをしました。 一人は肺がんで、手術して1年めに再発、抗がん治療を4年続けた後他界しました。 子供のことがきがかりで、生えの執着断ち切れず意識も最後まで明瞭で、痛みに苦しみみまかりました。 もう一人は、定年退職して経済的には安定しているのに、鬱症状で精神的に不安定で、家族も注意していたんですが、人里からはなれたところで、我と我が命を葬りました。 子弟を教導してきたベテランも、己の道はみえなかったものでしょう。 なにも自分で死なずとも100%寿命がやってくるものを。 人それぞれ、死にたくないのに死ぬ運命、持てる命をもてあまし捨てる運命があり皮肉なものです。彼岸にわたっては、せめて安堵の域に収まってほしいものです。 、
2007年03月21日
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ボンバルディアの聞きなれぬ飛行機があることを高知空港の胴体着陸でしりました。 ボルトの不具合で車輪がでないなんて、安全の初歩的な単純ミスと憤り感じました。 そして天草空港にも同機種がいることを知りました。 本日の正午頃、天草発熊本行き天草エアラインが熊本空港に侵入中、3本ある車輪がすべてでなかくなり、手動で車輪を出して着陸できたようです。 怪我人はなかったようでまずは安心、一時このトラブルで熊本空港は約5分間滑走路を封鎖しました。 高知の事故の時天草エアラインは、同日夜緊急点検を行い異常なしだったとしています。 点検はOKで故障があるとはどういうことでしょう。 操作ミス? 原発でも事故にならなかった操作ミス隠しがバレタようです。 重大な人命にかかわる仕事の従事者は、万が一の失敗も許されません。 初心わするべからず。なれっこ、にせべてらんがおおすぎます。 ニヤミスは惨事があったと同じで対処せねばなりません。 事故にならなくてよかったは、事故の裏表です。 離島の天草に橋がかかり、便利になった反面、小さな道が混雑渋滞しました。 漸く飛行機便ができ新しい息吹がイルカの絵柄を載せて燃え始めました。 徹底的に事故検証してほしいものです。
2007年03月20日
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「作って学ぼうひな祭りの菱もち」と今日は博物館普及事業で参加しました。 いろいろ時期に応じて、七草、地元の地質、化石の採集、渡り鳥の観測、星座をみる、野いちごを食べるなどその道の達人が先導して教えていただけるとてもすてきな会です。 植物博士の元中学校の校長先生が講師でした。 博物館の若い担当者も資料を集めて、準備万端、予習をしてきたのかとても手際がよかったようです。 菱もちとはひな祭りに備えるひし形の下から緑、白、紅色のもちが重なってつくられています。 江戸時代初期にはすでに縁起物としてひな飾りにそなえられていたようです。 緑が大地、白が雪、紅が桃の花を表していたり、健康、清浄、魔よけなどの願いが込められてるようです。現に、色づけに使う緑のよもぎは造血作用があり、白のひしの実は血圧低下紅のくちなしは解毒作用があることはしられています。 菱もちといえば菱型ですがこれは植物のひしの形にちなんだもので、その繁殖力の高さから子孫繁栄の願いが込められてるそうです。 そこで菱のみをみんなに配って、植物博士のひしの実の生態について説明がありました。 先生と担当者のHさん、料理担当者が池にひしの実とりにいってきたそうで、写真も紹介されご苦労がしのばれました。 説明がすむと、菱もちつくりの講習会です。 白玉粉100g上新粉100g砂糖60g水200ccをまぜあわせて、電子レンジで3分加熱、これを3等分して食紅をまぜてつくります。今日はレンジで予め作ったものからの作業でした。 子供にかえって、粘土細工のようで懸命になってる自分を発見しました。 4月19日が旧のひな祭りだそうです。 爺さんの腕をふるってやりましょう。 楽しい1日でした。
2007年03月18日
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中国山地の麓の関金宿に安歩(あぶ)なる地名があります。 役小角(えんのおずぬ)が大山に行く時に腹がいたくなって歩けなくなりました。 そこで地元の人が薬として飴を差し上げました。飴をなめたら腹痛がなおり、安楽に歩けたそうな。 そこでここを安歩というようになったそうです。 今も大山の祭りの日には、飴を神棚にお供えするそうです。 大鳥居なる地名もあり、聞いてみたら、大山山岳を神として東西南北に鳥居を建ててあり、その東が関金の大鳥居だそうです。西は日野の方、南は蒜山岡山県、北に淀江に鳥居があったそうで、直接いけなくても遠くから参拝できるようにしたそうです。 その範囲たるや平成の合併など微々たるものです。先人の信仰姿勢の度肝におどろかされます。 三朝の三徳山の投入堂を作った役の行者が関金にたちより大山に行かれたお話に興味をもちました。 地名にこもる言い伝えは興味をひきます。 矢櫃(やびつ)、矢送(やおくり)などあります。 この地方は、中国山地の風化花崗岩から砂鉄採集した製鉄業が昔から盛んなところです。 製錬するのに必要な木炭、これを作る山子、当時は人が多くにぎやかだったようです。
2007年03月16日
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エコツーリズム憲章ひとびとが、自然や環境、文化を発見する旅に加わり、自然のために、小さくても何かを実践し、そうした旅人を受け入れる地域を、みんなでつくっていけば、この国土のすみずみにまで、個性に満ちた自然や文化があふれ、もっとゆたかないのちを楽しむことができる。一人ひとりが自然を守り、考え、慈しむ。自然の中にあたらしい光を見る、「エコツーリズム」はそのための提案です。 ゆっくりと見回してみよう。見えなかった色がみえてくる。気がつかなかった香りに気づく。聞こえなかった歌がきこえてくる。季節が移っていく。あざやかに、大地がここにある。森がどこまでもひろがっている。どこまでも空が、海がひろがっている。風がそっと通りすぎる。水が落ちて、土を潤す。生きものたちが息づく。人間のふるさとは、ここにある。自然はやさしい。温かい。大きくて、物知りだ。時に荒々しい。時にはひどく荒々しい。人のくらし、歴史や文化は、そうした自然とともに育ってきた。大自然から里山や都市の小さな自然まで、自然のいのちと人のいのちを共振させる。そういう旅をしよう。ゆったりと呼吸し、ゆっくりと見回し、おおらかな一歩をしるしたい。 「エコツーリズム」は次の3つを実現し、それがずっと続いていくことをめざします。 地域の自然と文化を知り、慈しむ。元気な地域が自然を守る。自然と文化を受け継いでいく。 観光もたんなる物見遊覧から意義のある共感を味わう旅行をめざすようになったようです。 エコツーリズムの講習ニュースを報じていました。 ガイドの方も自分の街の文化、特異性など勉強することで郷里に愛着を覚えることになりましょう。 先日、まちずくりの会のかたが歴史、民話を講談で演じていましたが、おらが町の先人の偉業、語り話などする顔は誇りにみちていました。 野辺の道を車で走っていても山すそに大山火山砕屑泥流の分布がみられ、河岸段丘あり、遺跡があり、その時々の人々はどんな暮らしをしていたか考えると心ほのぼのとしてきます。 真贋は別にして俵藤太藤原秀郷、平将門、山本勘助のそれぞれの屋敷跡、墓地もあるこの地は最大の資源地域であります。 大山の僧兵が三徳山の寺社を破壊炎上させた時どの道を通って押しかけたのか探しています。 中間のわが部落の道を通ったのかと思ってたら、当時は湖だったようで違いました。 用足しにでても、車を郊外に遠回りして帰るエコツーリズムの心酔者です。
2007年03月15日
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又わすれな雪がふりました。 暖冬だ、春だと騒いだわりには思い切りのわるい天候です。 夜の散歩も歩き始めは上着の襟をたてる寒さでした。 でも春は春です、途中から上着は脱ぎ手に持ち汗だくだくでかえってきました。 桜開花宣言が今日花が咲く予定だったのに入力ミスだったと気象庁の方があやまっていました。 花は咲くときに咲く、予想は予想でええじゃないかと思ったら、この予想で弁当やさんなどあてが外れて大損害だとか、大変なことです。 あわや大事故と言うことになりかねない車輪がでない飛行機の胴体着陸がありました。 火花をちらしての映像をみてぞっとしました。 ボルトがはずれていたのが原因で車輪の格納庫がひらかなかったとか。。 整備は毎回やってるはずなのに、単純なるミス。 天候、操縦能力、指示、判断どれかひとつでも間違うと大事故になりました。 なれること、まさかこんなことが命とりになります。 インフルエンザがまだ流行したり、ノロウイルスの食中毒も発生したり、てんやわんや。 大臣が水道代がおお過ぎると諌めた野党に又水道代が多すぎる仲間がいたようで、一蓮托生の政治家達のようです。これも天候不順のなせる業でしょうか。 早く花がさいて、パアット一新したいものです。
2007年03月14日
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ゴーンと鐘の音が笏賀華蔵さんからあたりの山々に響きました。 館長が鐘を突きながら涙をながしました。 どの人も汗にまみれた顔から涙が止めどなく流れ出て、越し方をおもいおこしていました。 30貫目もある大鐘を部落総出で担ぎ、山上の神社までもちあげました。 道から一旦谷に降りそこから千尋の断崖を持ち上げます。数人が前から縄をつけて引き上げ、両脇から押し上げ、足元が定まらぬ道をみんなで力をあわせました。 でも今日の仕事は、つらいけどみんなの心はとっても明るいものでした。 それは太平洋戦争も後半苛烈を極め、鉄砲、戦車、軍艦など軍需用品材料が足らなくなり、銅像、家庭の金属品はお国のためにとみな供出しました。 昭和18年の夏、この鐘も赤いたすきをつけて同じこの道をかつぎおろしました。 そのときも今日を最後にと別離の情をこめて鐘を打ちならしました。 韻韻たる鐘声を残して供出されていきました。 その鐘が広島の鋳造所で潰されずに残っていて終戦になり返還を受けてかえってきたのです。 みんなが忘れていた梵鐘の帰還だったのです。 戦争の時の別れの鐘の音、平和の時の帰還の鐘の音、同じ鐘の音なのに人の心には大きな違いがありました。 そして担ぎだした仲間で戦争で亡くなってしまい、担ぎ上げには参加できない人もいました。 そのかわり当時の子供だった新しい若者が多く参加していました。 権現号の銘があったために早急に鋳潰すのをためらい後回しにされ、終戦を迎え無事に残った次第です。山本勘助の木花咲耶姫を祭神とした華蔵権現のおかげかもしれません。 蛇足ながらこの梵鐘は天保13年(1842)の銘があり、人々は102歳のお別れと供出の時は名残を惜しんだそうです。 神社に鐘、めずらしいものですが何事もなかったかのように梵鐘は深山の参籠殿に釣りさがっていました。
2007年03月11日
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中国山地には風化した花崗岩が多くいたるところに砂鉄を採取して鉄のかたまりにするタタラを作っていた跡があります。 砂鉄の溶鉱に木炭を使ったので火力の弱い炭の量は莫大なものだったようです。 数年間タタラを継続すればその近辺の山は、すっかりはだかになりかなり遠方から馬を使って木炭の集荷をしなければならなかったようです。 山子と呼ぶタタラに使用する炭を焼く専門職が木を求めて歩き、村下という職人が火を燃やしてタタラつくりにはげみました。 山子が山で伐採する時にカツラの木だけは、神聖な木として残しておくのがしきたりだったそうです。 山子の守護神である山の神様が、その昔犬に追いかけられた時、カツラの木にかけ登って難をのがれたという言い伝えがあるそうです。 残されたカツラの大木の根元には、山の神を祀った石の祠や自然石がたてられてるといいます。 カツラは1里4方の水を集めるといわれ、根元から多数の幹を株だたせる萌芽力が強く、又香の木として仏像にも利用されています。 山本勘助の里、笏賀(つが)もタタラの里で、いたるところにカナクソという鉱賽があります。 先日訪問した時、タタラの子孫が話してくれたお話でした。
2007年03月10日
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活字の数行で判断するしかないが、日朝会談の仕草は断腸の憤怒が充満します。 自分勝手な言い分で盗人猛々しいものです。 文明の開けた世界に拉致されて自分の国から救助してもらえぬ人がいるんです。 異国の空で届かぬ思いを馳せている同胞を早く帰国さしてあげたいものです。 水道代云々も結構、人間機械も結構、そんな嘘っぱちな人は早くやめればいいんです。 そんなことより堂々と連れ去られた国民を取り返すことに鋭意団結してほしいもの、アメリカが交渉で勝手な行動すればNOをつきつけてほしいものです。 威信をかけて国会議員、政府要人はたらいてほしい。 無茶が通る世の中じゃないことをはっきり知らすべきです。 くだらぬ卑猥なブログ書き込みする輩が同国民にもいることを腹立たしく思う矢先、日朝会談中止はいや増しにはらだたしいものです。
2007年03月09日
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山本勘助を追って早速でかけました。 啓蟄をすぎ一転して朝から雪が舞う冴え返りの天気です。 木花咲耶姫を祀った、花蔵さんと呼び親しんでいる神社が笏賀(つが)部落の人家をはなれた山中にありました。 武田の武将が崇拝した富士浅間神社の祭神も木花咲耶姫です。 鳥居をくぐとすぐ谷底にくだり、谷川で手を清め、口そそぎ、こんどは一転して鼻に迫る崖道を登ります。 岩にからみついたおおきな幾本かの木の根が足がかりです。その木の根の造形にみとれてふいと横をみると左手下に今来た谷川がみえます。右手下にも別の谷川がながれています。 切り立った山稜を登っていました。足をすべらすと大変。 樹齢数百年の木々が岩場と思われる峯にそだっています。 砂鉄を採りたたら製鉄をしていたところですので岩石が土壌化がすすんで植生に敵地化してるんでしょう。石楠花神社というだけあっていたるところにしゃくなげがはえています。4月ごろの開花はみごとでしょう。 やっとたどりついた神社はなにも説明はなく、戸口には鍵がかけられてあり勘助さんらしきものは伺えませんでした。神社には珍しい大きな梵鐘が篭もり堂のなかに安置してありました。 下山して村の長老に聞くことにしました。 「山本勘助さんの屋敷跡はどこですか?」 「あそこが屋敷跡で、墓がその横の丘です」 いとも簡単に向うの丘を指さして教えてくれました。 花崗岩の原石を積み上げたものや石碑に字が書いたものがありますが、判読困難です。 山本家累代の墓とかいたものは自然石にありよめました。 その近所に子孫である山本さんをたずねました。 おばあさんがおられて聞くと、あまりしらないがお爺さんが子供たちに墓を大事にせよといっていて家来が15人いたといってたのを思い出すともうされました。 その家の裏手に昔の屋敷跡が2段の畑地になってあり山際に大きな榊の木があり、ならんで梅が盛りと花をつけていました。 「ここを昔から勘助やしきとよんでいます」 おばあさんは、おじいさんがいたら喜んだろうにとおっしゃいました。平成6年になくなったそうです。 戦乱に倦んで隠棲をもとめた平和を愛する山本勘助像が私の心を充実さしてくれました。 いい日でした。
2007年03月07日
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「歴史は生者必滅の繰り返しである。 きのう華やかに栄えた寺院も、今日はその名称さえ忘れられて、わずかに礎石や瓦礫を残しているものが数しれずある。」 この書き出しではじまった廃寺を偲び伝説、言い伝えを書いた町史の一部に驚きました。 5、甲州武田家の軍師であった山本勘助が、戦乱に倦んで笏賀の山中に隠棲し、卿国浅間神社の祭神木花咲耶姫を華蔵権現として祀った。今も山本勘助の屋敷跡がある。 今大河ドラマで主人公を演じてる山本勘助が山陰の三朝の地に名を残しているとは驚きました。 独眼流の野趣充ちあふれた勘助に毎週画面に釘付けになってるものとして快哉です。 早速因果関係を調べて見ます。 俵藤太藤原秀郷の墓に先日おまいりしてきました。 俵原部落にあり、畑をたがやしてる老婆に「俵さまのお墓はどこですか?」と聞いたら老婆は、丁寧に頭をさげ、「お参りくださいますかありがとうございます」と教えてくれました。 鹿児島で西郷さんを呼び捨てにしたら怒られるように、ここでも俵さん、秀郷さんと言わねば怒られると聞きました。 でも俵原の部落は、人がいなくなって数軒しかいません。 でもお墓はきれいに掃除してありました。 一山越えたら平将門のお墓があるようです。 勿論今後の楽しみです。いってみます。
2007年03月06日
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新潟中越地震の地、小千谷市に戊辰戦争の史跡があります。 志が違ったために国を2分し新政府軍と佐幕諸藩軍の戦いを強いられ命をおとした若者たち、これを哀れみ、地元の人は「死ねば皆仏」と手厚く葬り、東軍、西軍隔てなく供養をしてきました。 星霜140年の流れ。 地震の際、東軍墓碑の倒壊修復をもいち早く行いました。 その礼をかねて安倍総理が訪問し感謝をのべておられました。 長州人をふくめ200柱余の霊が眠っておられるそうです。 八甲田山雪中行軍での犠牲者も手厚く慰霊祭が行われてきましたが、大東亜戦争で敗戦してからとりやめになり、手入れする団体も一時なくなりました。 でも地元のかたが、行軍初日にあたる1月23日と8月18日のお盆には欠かさずおまいりを続けてきました。 星霜100余年の流れ。 時流れ、歴史の一齣として片隅に追いやられぬように、尊い誠を偲ぶ日本人は美しいものです。 記憶が薄らぎ語り継ぐ人々も代変わりしますが良き心は残したいものです。
2007年03月05日
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八甲田雪中行軍は、軍事演習中に遭難があったことは映画やお話で知っていました。 遠い東北の地で明治の昔のことと思っていたのが三朝温泉に当時青森歩兵第5連隊隊長の津川謙光中佐後に少将の住まいがありました。昭和を代表する作庭家重森三玲作の庭園のある「庭園の宿」として旅館となっていました。 それがこの度取り壊し中です。 名園を惜しむ記事と津村少将が倉吉出身で、八甲田山事件の証言者として三朝温泉に余生を送られたこと、取り壊しと前後して八甲田山でスキー客の雪崩事故があったことを新聞が報じました。 急に八甲田山事件が身近になってきました。 1902年明治35年日露戦争勃発の2年前のこと、ロシアとの交戦を覚悟しての耐寒訓練と研究をかねての雪中行軍でした。 弘前からの部隊は37名で成功して、青森からの部隊は210人中199人が遭難しています。 統率のありかた、状況判断、寒中の処し方いろいろの問題提供があり、次の日露大戦に貢献しましたが、あまりにも犠牲が大きかったようです。 津村連隊長の心境はいかばかりだったでしょう。 重森三玲氏の作庭が津川少将時代とどのように接点があったのかわかりませんが小説より奇を感じます。
2007年03月04日
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