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1級河川が3本ながれてその間にはさまれた平野が私たちの街です。 そして3本が一つになって日本海にそそいでいます。 祖先はこの川の氾濫で大分泣かされ苦労してきたものとおもわれます。 今では立派な堤防がせきて大雨にも大丈夫です。 この一番西側の川が意識的にコースが人為的であり、昔舟が来て米を積んでいたとの民話があり、又国分寺の米倉庫の跡があったり、米積み歌も残ってるといいます。 古老にきくと昔の川はまっすぐ日本海に向かっていたとおしえてくれました。 その方角に山の間をいってみました。今は平野部は耕地整理で判断はつきませんが谷間にいくとそれらしい段丘がみえてきます。 まもなくいくと上流はないのにかなりの水量の川がでてきます。湧き出たような水です。 畑で作業していたお爺さんにこの川はと聞くと小さな時に聞いた話をおしえてくれました。 やはり探していた川でした。耕地整理の時に丘のうえに80軒の屋敷跡があったそうで、今は山の中だがその頃は川をはさんで栄えたらしいことを教えてくれました。どんどという淵もありました。 堤防で川の流れを変えても地下の水流は田んぼの下を流れていました。 88歳で今そんな話だれもしんようしないし、聞こうともしない。金にならぬからなとさびしそうに笑います。わしらが死んだらもうわすれられますわ。 水害がひどいので流露を変えて、平野を耕作地に変えたようです。 先人の水利にはかなりの理知と苦労に敬意を評します。 先人の功を知ることにより現代人も見習うようにの意で幻の川をさがしているんですというと老人はフーンといいました。 幻の川発見ですが、文献をさがしてみます。
2007年04月30日
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鎮守の森は鬱蒼と木々が茂り、半月の明りもとどきません。 夕餉をすましてからの散歩は、郊外にある北野天満宮に届いた時は真っ暗でした。 鳥居をくぐり歩を進めると中ほどの敷石に足をとられ危うく転びそうになりました。 いつも参拝口にある電灯が故障なのかついていません。 歩を進め賽銭箱にポケットから貨幣をだし、おもむろに横のほうにいれました。 キュルキュルキュルキュルキュルキュルキュルキュル 闇をつく甲高い音がひびきわたりました。 一瞬なにごとが起きたのかわかりませんでした。 時間にして1-2分だったと思います。 UFOか! 賽銭泥棒よけの装置がしてあったんです。 多分お金の取り出し口が横の方にあり、そこにしかけてあったんでしょう。 そこに金を入れたんで音が鳴り出したわけでした。 菅原道真公もなげいておられましょう。 誰かが飛び出してくるのかなと思ったけど何事もありません。 拍手を打ち大きな声で祝詞奏上しました。 人騒がせな春の世の珍事でした。 森からでたら半月が明るく感じました。
2007年04月29日
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世はきょうから黄金週間に突入です。 夕暮れの散歩道を帰ってくると老人介護施設から勤務をおえた若い女性がでてきました。 「こんばんわ」 「お勤めごくろうさんでした」 「ありがとうございます、さようなら」 笑顔で駐車場の方へいきました。 幼稚園か小学校の子供さんがいる若いおかあさんのようです。 きっと施設のおじいさんおばあさんにやさしい人でしょう。 見知らぬものへの挨拶でわかります。 子供さんもやさしい母さんを待っていましょう。 あしたはやすみだったらいいのにな、子供さんと遊んであげてください。 そんな想いがする後ろ姿でした。 祭りがあるのでゴールデンウィークには帰らないと孫から電話がありました。 地元になじんだらしく友達もできたようです。 明日は腕白相撲大会見学にでもいこうかな。
2007年04月28日
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昭和天皇元侍従卜部亮吾氏の日記がみつかり新聞に「A級戦犯合祀が御意にめさず」と大見出しで出ました。 1988年4月28日、「お召しがあったので吹上げへ長官拝謁のあとでたら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言の事」。 2001年7月31日、「靖国神社のご参拝をおとりやめになった経緯、直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」 長官とは冨田朝彦氏で先日菊のカーテンをすりぬけた富田メモとして一騒動あったものです。 1988年4月28日。「私はある時に、A級が合祀され、その上、松岡、白鳥までもが」「だから、私はあれ以来参拝していない、それが私の心だ」 奥野発言は奥野誠亮国土庁長官が「日本の中国侵略を正当化する発言をし中国と韓国の反発をまねいたことです。 昭和天皇は敗戦後靖国参拝は8回なさっています。1975年11月が最後です。 1978年10月にA級戦犯合祀がなされています。 合祀に至る経過もいろいろあるようです。 側近がなぜメモで仕舞わず意を伝えなかったのか、すればこんな負けて恥塗りをし合うことなかったろうに残念。 戦争責任は日本人皆があるとおもいます。 体制を導いた指導者には勿論大きな責任はあります。 詔勅がどんな意味、どんな威力があったのか侍従も考えるべきです。 不敬罪で苦しめられた個人、団体もあります。 戦後無罪になって、国の貧窮に賠償を放棄した団体もいました。 お国のためにと戦場で亡くなった父さん、おじさん、兄さんの出征して行った姿はまだ忘れられません。 祀る祀らないの議論より、国の行き先を二度と過たない方に行くことを考えましょう。
2007年04月27日
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ホンシャクナゲの群落があると聞きでかけました。 平成17年2月に市の保存樹として指定されたと看板がありました。 民家の裏山にあり、お家の方に案内を乞い見せてもらいました。 今年は裏年だようで花つけが少ないそうでしたが、初めて見る者にはそんなものと思ってみるので見事でした。時期的には盛りを過ぎたようで花の色が少しあせていました。 一番大きな木が100年の樹齢があるそうで、満開時の林内はまるで電光のごとく明るく近郷まれな群生と緑を守り育てる会の会長さんが折り紙をつけていらっしゃいます。 ホンシャクナゲは本州、四国の深山に自生するつつじ科で常緑低木、細葉石楠花、白山石楠花、東石楠花などの石楠花の種類の一つで最も美しいという意味だそうです。 因みに石楠花の花言葉は威厳だそうです。 種が落ちて芽が出た小さな木が一冬雪の下を耐えて来たと言ってるように緑が威厳を示しているようでした。お家の方が我子のように管理されていました。 100年の木があるのに市の指定が一昨年とはちと遅いようです。 さあ来年はも少し早く見学に来させていただきます。
2007年04月26日
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植木等さん、肺気腫、今はCOPD慢性閉塞性肺疾患。これが別名「たばこ病」と言われるほど喫煙者に多い病気であると健康歳時記の丸山先生が追加されました。 慢性気管支炎の未病者であり、タバコ止めれますの旗振り張本人であれば、とり上げないでいるというわけには参りますまい。先生今日も手記借用します。 植木さんはタバコも酒も呑まなかったがなぜCOPDになったのか? 以前はすっていたのか? 喫煙以外のcopdの原因としては大気汚染、職業性(粉塵の多い職場やほこりを吸って仕事をするような環境)、住居性(かまどとかいろりとかの煙を吸い続ける)などがあげられる。 つまり、花や口から吸い込み続けた微少粒子によって、機関紙や肺胞(肺の中で酸素と炭酸ガスの交換をする袋状の組織)に慢性的炎症が生じ、肺胞の壁が壊れて弾力性を失い、肺の中の空気が吐き出しにくくなる「空気制限/気流閉塞」が起こる。 慢性閉塞性肺疾患という病名のゆえんだ。 先生ありがとうございました。 タバコ喫煙しなくても起こる病気copd、ましてたばこ吸ったら三十◎の確立で起きます。 まだタバコすいますか?
2007年04月25日
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「無責任」を演じた誠実男、植木等さんは、10前から「肺気腫」の療養中だったと、健康歳時記の丸山先生が紹介されていました。 植木等さんがお忍びで温泉病院に来ておられるときいていました。 その病院は私の先輩が「肺気腫」で入院していて肺が傘をしぼめたようになって空気を吸えなくなるんだと説明してくれたのを思い出しました。それからまもなく亡くなりました。 先生の説明では中高年の呼吸器の病気で最も多いのが慢性気管支炎と、それが進行した肺気腫だそうです。この病名は昔のもので今は両方あわせせて「COPD(慢性閉塞性肺疾患)」とよぶのが一般的だそうです。 この病気の始まりは、冬の間ほとんど毎日、湿性咳嗽(がいそう たんがからむせき)が続き、温かくなると治まる。しかし次の冬にはまた同じ症状がぶり返し、やがて春になってもグズグズで続ける。 そして 1、軽度の息切れ(平地では同年代の人と同じように歩けるが坂や階段はきつい) 2、中等度の息切れ(平地も健康人波には歩けないが、自分ノペースなら1キロ以上歩ける) 3、高度の息切れ(休み休みでないと50メートルも歩けない) 4、きわめて高度の息切れ(話しをしたり、服を脱いだりなど身のまわりのことをするのでも息切れがする) というように次第に重症化する。 だが、早く適切な治療を受けると、病気の進行を止めることができる。呼吸器科へー。 丸山先生のご説明を引用させていただきました。 いつも風邪をひくと喉がいたくなり、それから咳がでるのですが、喉は痛くないのに時々、咳が胸をついて出て、しばらくすると嘘のように静まり、思い出したように又咳がでるのが2週間まえ頃からあるのでおかしいと思っていましたが、用心がいりそうです。 いつも読ましていただいてる健康歳時記こんな時とてもありがたいものです。 でもまだ未病ですから、自力で健康域にたどり着きます。
2007年04月24日
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有機栽培で野菜を作ってたいたYさんが止めるとおっしゃる。 聞くと野菜を出荷したら虫の穴があったらしく、値段が最低で、農薬でみかけが良い野菜が飛ぶように売れその方が値段がたかかったそうです。 環境汚染を考えて、虫も手でとり、堆肥でそだてていたそうだが、隣の畑から、殺虫剤を撒かないとこちらに来ると文句をくったようです。 でもそれは反対で消毒しない方に虫は集まるんだとおもうんですが、 農薬も購入し、指導を受けないと仲間にいれてもらえないらしく、会計もなりたたぬらしいです。 有機栽培が微生物との共生で、超ミネラルが野菜に戻り現代病が治ると聞きほしいとおもってたが、どうも早急には有機野菜はひろまらないようです。 有機野菜は高いというだけで、なんで有機栽培が必要なのかはあまり論じないようです。 ところがスクエアーガーデン、コンテナ ガーデンと手軽に有機菜園が出来ることを知り意を強くしました。簡単に自分で自分の野菜ぐらい作れるようです。世界の食料事情も有機農業で解決すると論じています。 一見してみられたら参考になります。 手つくり企画
2007年04月23日
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いろいろ考えてみたが やっぱりそうだ その瞬間瞬間に ベストだと信ずることに 自己を捧げつくすことより ほかに幸福はない むろん 前のベストは 後のベストでなく 今のベストは 未来のベストではあるまいが それでいいのだ ベストの内容は 無限に変化していっても いまの自分に 忠実でありさえしたら 悔いというものはないのだ 「生き甲斐の創造」出口日出麻呂より
2007年04月22日
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詫び茶の世界利休展があるというので見学にいってきました。 受付で芳名録に名を記しはいっていきました。京都の名あるコレクションを借りてきての展示、利休書状や信長朱印状、羽柴秀吉件くだり状、茶道具の細工技術に目をみはりました。 皇女和宮の打ち掛けまで展示してあり、奥の間では和服、反もの、ぞうりまで展示してあり、主催が呉服屋さんであることを知りました。 新聞社が後援なので、来訪者はおおくなりましょうが侘びが少しうすれました。 秀吉の肖像画の軸が利休の肖像画の軸と仲良く並んでいました。 特に秀吉は、鳥取城渇殺作戦で吉川経家を自害に追い込み、本家毛利から救援に来た吉川元春とここの地で対峙しています。 吉川勢6000、秀吉勢30000。吉川毛利軍は背水の陣で橋津川を背に舟は陸にあげ、櫂は折り、橋をおとして弔い合戦に備えました。 大将元春泰然自若として動揺することなく兵馬も悠然としていたといいます。 秀吉は、これをみて戦わずに兵を引き、鳥取城を家臣に託し姫路に帰りました。 吉川元春も退く秀吉軍を追うという重臣を止め島根富田城へ引き上げました。 大人同士の戦いとして語りつがれています。 今から400年前のことを偲んだことで今日の展示会はよしとしましょう。 呉服の販売の策を喜ぶ人もいましょうから。
2007年04月21日
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「趣味がないのがとりえ」といってたWさん、会社の部長で、仕事の鬼といわれたまじめな人でした。休みの日は家の中でごろごろと休養をして仕事に備えました。 定年になってから、時間の配分ができず困っています。 奥さんが出かけると「どこにいくのか」と気になります。 奥さんもでかけるのが何か気になって空気が穏やかでありません。 グランドゴルフにさそわれたがあんな遊びは趣味じゃないと断りました。 夕方散歩にでてコゴミを又とって帰ったら彼が来ました。 どこで採って来たか不思議がります。 散歩は散歩、山菜とりは山菜取りと分離した行動に考えてたようです。 庭のカリンの木が屋根まで伸びて今花盛りですが、10年ほど前に80cmぐらいの苗木だったことを教え、玄関のメダカにえさをやり、大きくなっていく楽しさ、通信教育で掛け軸造りしてることを話すと興味深々やりたいとのたまう。 教材用のテープを持っていって勉強するといいます。 床の間に掛けていた五風十雨の尺8寸の掛け軸が気にいったのか、あんたができるなら俺も出来るとふんだのかわかりませんが、やる気になったのはいいことです。 会社勤めでも何か心の安らぎを感ずる趣味を持つことが必要です。 人使いは上手でしたが、会社をやめると糸が切れた凧のようです。 もの作りでも今は至れり尽くせりのDIY市場があります。
2007年04月20日
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新入行員教育に高齢者の身体と心理を擬似体験させる地元の銀行がありました。 どんな顧客に対しても適切な接客、心遣いができるようにとの研修でした。 社会福祉協議会スタッフが講師となって「高齢者擬似体験プログラム」が実践されたようです。 高音域が聞き辛くなる耳栓、白内症や視野の狭さが再現された眼鏡、前かがみの姿勢に近づける重さ入りのベスト着用、サポーターや手袋をつけての体の動きを制限した研修会でした。 研修用のお札や通帳をかぞえる。 鳴り出した目覚まし時計をとめる。 使われてるいろんな届け用紙を記入。等々。 一枚のお札をめくるのに時間がかかる。 用紙の罫線や枠が全くみえず途惑った。 言ってもらわぬと書く場所がわからない。 時計の音も話しかけも全く聞こえない。 などの意見がでて、高齢者の不便や不安に驚き戸惑った表情を浮かべていた模様です。 人事課の先輩たちもプログラムを体験してみたようで、新人だけでなく企業全体のレベルアップにつながるのではとの評価でした。 相手の目線で考えることはどの世界にも共通する大事なことです。 希望に漲る新行員の前途に栄えあれ。
2007年04月19日
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時間繰上げて散歩を試みました。 星空を眺めて歩き、音を聞き飛行機の飛行燈を探す楽しみの散歩も乙ですが、ツバメの飛行を眺め、淡い緑の野山を眺めるのも又格別によいものです。肌寒い気候がまだありツバメも大変です。 今日は土手から河原に入って中洲の藪をあるいてみました。 なんと枯れて倒れた芦の間から、コゴミが頭をもたげています。 先日採りに行った場所の川下だから、同じ系統が流れてきて繁殖したものでしょう。 車で時間かけていかなくても脚下に宝がありました。 ビニールの買い物袋をポッケに入れてたので都合OK. 瞬く間にいっぱいになりました。 散歩の途中で山菜取りができるなんて田舎ならではの恩典です。 コースをかえればやまもももあります。まだ時期ではありませんけど。 秋にはウマブドウの青い真珠のような実も山イチゴもあります。 足らぬをなげくより、足るを喜ぶと幸せなものです。 近所におすそわけしました。 ゆがいて辛子ミソで食べると高級な味が楽しめます。 みなさんにはお話だけですみません。
2007年04月18日
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三徳山世界遺産登録推進本部が昨日吉田町長本部長で発足されたようです。 昨年継続審議扱いになってたのを更に価値を高めて、行こうとするものです。 三徳山は慶雲3年(706年)役の行者が投入れたという投入堂、行者顕現の神仏、日本誕生の蔵王権現さんが眼光すざましく現世の悪行を正しておられます。 役の行者のご活動は単に三徳山だけに留まらず、伝説として各地にあるようです。 関金の大鳥居には大山に向けて鳥居が建てられていて、ここから大山への道は役行者が歩かれた道だといいます。 三徳山からふた山はなれた同町内の笏賀(つが)の華蔵山(花蔵山)を役の行者が行場にして小河内に鳳台寺を建てたという伝説があります。今はその跡に谷昌寺がたっています。 花蔵山は道なき道の岩場を登りつめたの上に神社があり、谷間のせせらぎと自生檜の葉すれの音以外に何も聞こえない閑静な所です。もうすぐ石楠花が往時を偲ぶかのようにさきみだれましょう。 話しは時代を下って、甲州武田の軍師山本勘助が戦乱を倦んでこの笏賀の山中に隠棲し卿国浅間神社の祭神木花咲耶姫を華蔵権現として祀ったという言い伝えがあり、山本勘助の屋敷跡もあります。15の石を回りに配した自然石の石碑も小高い丘の上にあります。 作州岡山の方からも山を越え勉学を学びに徒弟がきたようです。 先日笏賀から曹源寺にトンネルができましたので、勘助さんの弟子さんも近くなったと地下てよろこんでる事でしょう。 余談となりましたが、大河ドラマで今をときめく山本勘助、史実では川中島できつつき戦法の失敗で世を去ったことになっています。 でも義経がジンギスカンになったという話もあります。 ここの山本勘助さんももしや本物かも。 三朝町内の中津に来た平将門を追って俵藤太がこの地の俵原に住みつきました。 ここでは恩讐をこえて決着はつけてないようです。藤太の妹が将門の嫁になった話になっています。 藤太の墓は俵原にあり、地元では、俵さま、秀郷様と敬称でよんでいます。 鹿児島でも西郷隆盛と呼ぶと怒られるそうです。それに似た現象でしょう。 役の行者が法力で投入堂を投げ込んだ土地だけあって殺伐な歴史の主人公が平和な暮らしの伝説になって残っています。 史跡、資料を広く求め世界遺産として充実させて資格を取り、平和の心とロマンを世界に伝播して欲しいものです。 ラジウム温泉関係でキュリー祭を世界に発信してる町です。 ご成功を祈ります。
2007年04月17日
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食物アレルギイーの児童が多くなって学校給食の対処が大変だと朝のテレビが報じていました。 40人に一人の割合で食物アレルギイーの児童がおり、アレルギイー反応をみせる対象がそれぞれ異なるとあってそれを判定するのに又大変なようです。学校の84%がなんらかの対策に大あらわだそうな。 特別の食材でなく卵、ソバ、バナナ、りんごにまで反応する子供もいる模様とか。 食がなく生きるために食物を探した環境から考えると、全く贅沢な心配事です。しかし命がかかってることを考えるとどちらも大変なことです。 代替食の模索は勿論しなければならないことですが、原因究明は火急を要することでしょう。 残留化学物質の汚染も当然ありましょう。 農薬による汚染も最近厳しくなりましたが、それまでの経過は如何ともできないことです。 住宅金融公庫の査定にはシロアリ対策が条件でした。今は禁止になってる薬品です。何十年も前のこの家の床下に潜ると確実に頭が痛くなります。 DDT,DHCなる薬剤はノミ、シラミ、蚊 をよく殺しました。 今は禁止されていますが、海の底に残留して魚が被害を受けているようです。 勿論、その当時は救世主でしたから今更恨みばかりはいえません。 害が分かったら早くそれを除去することを考えねばならないでしょう。 食物で体の調整を図ることが基本です。 作物の根自身は直接ミネラルは吸収できなく根の周りにいる根菌からミネラルを水溶にして供給してもらってます。これが農薬で死滅してることが問題のようです。 みせかけは新鮮で立派でもミネラル不足の野菜となってるといいます。 有機栽培はこの根菌等の微生物の共存を計ることにあることを熟知すべきです。 消費者として、安全な作付けの農作物を求めることを心掛けるべきです。 地産地消の原点は、有機栽培にあると信じます。 これにより病気が減り、地域に活力がでます。 生産者も安心して、自分が食べてるものと同じものを作れ、売上も確保されます。 農薬も飛散がすくなくなります。 アレルギイも減っていくことになりましょう。
2007年04月16日
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コゴミとりに午後でかけました。 源流の岸辺に昨年来たところです。 4月になって寒が戻ったので中々芽を出しませんでした。 ところが滋賀に行ってる間にコゴミの一番芽は出たようでした。 次の元気な芽が藪を突き抜けて生えていました。 昨年、この地に案内してくれ、面白い冗談をいって笑わせてくれたYさんはいません。 肺がんが嵩じて3ヶ月前に世をさりました。 また行きましょうと話していましたが、今年の正月にはコゴミとりにはもう行けないと弱音吐いていましたがその通りになってしまいました。 コゴミの芽、小川のせせらぎも昨年となにも変わらぬ景観ですが、Yさんの声がないのが淋しいものでした。 会者定離。定めとは厳しいもの。 Yさんの仏前にコゴミを持って行き供えてきました。 友の顔 胸去来して コゴミ採る
2007年04月15日
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おや変だぞ、体がぞくぞくしてきて鼻がつまり頭が痛くなってきました。 昨夜です。慌てて床の中に入りました。 腰の右脇が冷たく手をあててても治りません。のどが変です。 ウマブドウ液を口にふくみ喉にたらしこむようにして沁みこませました。 人出の中にさらされて、もしやインフルエンザかも? すると熱があるような気になります。 さあ、どうなるやら、 そのうちにねてしまいました。 今朝目をさますと喉の痛みはありません。 頭も痛くありません。 しめた、病体突入回避です。 今までの経験では、きょうは風邪に突入のはずです。 中学生の仲間とブログのやりとりをすませたところです。 秋には河原に行ってウマブドウ採集しようとおもいます。
2007年04月13日
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只今帰還仕りました。 5日不在者投票済ませて滋賀の引越し手伝いにいっておりました。 大企業が社員住宅を分譲造成販売したようで、交通、校区、買い物も便利なため好評で、区画いったいが建築ラッシュです。 新学期が始まり、転校生が20数人もいたようで、学童減少で弱音はいてる田舎ではうらやましいものです。公園も広場確保もかねて諸所に作られてあり至れり尽くセリです。 孫の手をひいて散歩していたら町内の方が車で出かけるところでした。 黙礼して通り過ぎふとみると車をとめてこちらの方を眺めています。みるとカメラのようです。 すぐさま車にのっていってしまいました。 どうやらまさかの時の証拠写真なのかも知れません。私が見知らぬものだから気になったんでしょう。熱心ではありますが、疑われた方はあんまりいい気はしません。 ちょっと歩くと昔からのお家があり、農家の方もあります。 新興地の住宅は、サッシの雨戸が皆ついていて安全面も完備しており、こちらの農家はむかしながらの開放です。 そのなかを選挙カーが回っていましたが森閑としたものでした。 新幹線駅を作るのか作らないのかの正念場もあんまり関心ないようでした。 言い分はどちらにもありましょう。もったいないのか、大事をなすために必要なものなのか。 京都から特急スーパー白兎にのったら1両に20人位しか乗っていませんでした。 便利でも用がなかったら乗らないんですね。静かで気楽ですがなんだか気の毒のよう。 新しい知事さん、県会議員さんが決まりました。 生き生きとした田舎をつくりましょう。
2007年04月10日
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5日から滋賀に孫の引越し手伝いにいきます。ブログしばらく休業です。
2007年04月04日
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重森三玲庭園はまだ残っていました。 解体中止で機械も移動しています。どうしたんでしょう。 瓦礫のかなたに桜の花が白く、手入れが遅れた松に寄り添っているのが痛ましく感じました。 昨日はあたかも満月、まさに荒城の月でした。 そしてここは津川少将の邸宅でもありました。 八甲田雪中行軍遭難事件で有名な青森第5連帯の連隊長でした。 事件の責任をとって退官を申し出ましたが、戦雲急をつげる日露戦になくてはならぬ人材として登用されました。 退官して、養子先の親御さんに孝行するとして、三朝温泉にこられたそうです。 地元の青年に剣道を教えたり、寄り合いにはすすんで来られたようです。 八甲田山と日露戦戦死者の墓参りはかかされなかったようです。 「少将、ご在宅か?」 「おお、吉岡の大将か、あがれや」 街の青年も気楽に遊びにいったようです。 「おれは大将、先生は少将、おれの方がえらいぞ」 こんな冗談もあったと88歳の老人が聞いた話を教えてくれました。 月はまだ春の暖かさになりきってない大地を冷たく照らしていました。 八甲田山と津川少将
2007年04月04日
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ソロモン諸島の地震情報、選抜高校野球のをくわしくコメントをはさんで解説した情報が到達しました。中学生の視点といいながら、私よりはるかに的確な判断をもって論じています。 いつも読ませていただいています。 学業が妨げにならないか心配に思うほど充実したものです。 心配いらないのかな。 天は2物を与えることもあるんで。 ご紹介します。けいえもん君です。
2007年04月02日
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今朝マグニツード8,0、震源は10キロのかなり大きな地震が南太平洋ソロモン諸島沖で起きたようです。被害が大きくないようにいのります。 昨日ソロモン諸島東隣にあるさんご礁の島が海進が進み、潮満ち時には地中から海水が噴出して広場にプールがでているツバルの島を報じていました。畑のタロ芋も枯れていました。 普段でも海水面が陸地を凌駕しているのに津波が襲ったら大変なことになったでしょう。 海進の理由は温暖化の影響だとしていました。 京都議定書を守ってほしいと住民が訴えている姿と他の島に移住する人々の涙があわれでした。 移住にも人数制限があり一家の中で取り残される人もありました。 地下プレートが押し合いエネルギイが蓄積して今が発散期になっているので致し方ないものです。 先日能登半島でも大きな被害があったばかりです。 動かないこと大地のごとくも小説の形容詞でいつ動くかわかりません。 次はどこにひずみがいくのか。安定するための大地の自浄作用です。 マグニチュード7,8クラスの地震は1000年でエネルギイが蓄積するそうですから、1000年前の記録は定かででありませんのでどこも用心が必要です。。 問題は、被害があったときみんなが助けあっていくことです。 もう戦争している場合じゃありません。 自国の都合ばかり考えないで大国らしい考えを大国は考える時期にきています。
2007年04月02日
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健康ウォークに参加しました。 町内の活性化に取り組む若者が計画して、先回は城跡散策、第2回の今日は廃止になった鉄道跡の道をつたってのウォーキングでした。 参加者は50人ほどで中々にぎやかでした。小学校のこどもさん連れのお父さんが多くほほえましい光景が随所にみられとてもいいことでした。 昨夜の雷鳴と強風に心配したさくらの花びらも7分咲きのため被害が少なく安心です。 「今年の桜はなんだか薄いなあ」 「そめいよしのは60年で寿命らしいぞ」 「公園の桜も60年すぎとるぞ」 話しはつきません。 Aさんは、もうすぐやってくるツバメ一家の話しをしました。 車庫の蛍光灯の横に巣つくりして車の上に糞が落ちるのでダンボールを乗せておくといいます。 巣立ちの時を思うと巣をこわせないとといいます。 おや鳥が前を走っている電線にとまります。 元気のいい子ツバメが1羽、2羽、3羽とんでいき親ツバメと同じ向きにとまります。 最後のおもいきりの良くないコツバメが巣からでてはひっこみなかなか飛び立てない。 はては蛍光灯のかさにつかまり、やっとおもいきってみんなが待っていっる電線まで飛んでいきました。 みんなが揃うのをまって親ツバメが飛び立ち、子ツバメ面々が飛び立ちました。 歩きながらAさんのお話をききました。 小学校のYちゃんがそばによってきて聞いていました。そしてニッコリして前の組の方えはしっていきました。 わずか6キロほどでしたが春の田園は英気満面やがてくる稲つくりに備えてるようでした。 公民館につくと留守隊の若者が炊き込みご飯を用意してくれて、ご馳走になりました。 我が公民間もなにやら新しい息吹がめばえたようです。 時は4月、そろそろ私もまんねりのブログを立て直さねばなろますまい。
2007年04月01日
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