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昨日。 花の喜びで、高速を走らず鹿野から三徳山越えでのんびり帰ることにしました。 途中、もうけ神社という名の御宮もあり、秋の空は青く、暑くもなく、寒くもなく、対向車もまばらでルンルン気分でした。 谷も狭くなり山越えがはじまるぞ、と平地の最後の分岐点の橋を渡ったとたん、驚き。 通行止めの看板。道肩がくずれてとあります。 鹿野から、2・30分走ってきてう回路もなし。バックです。 途中に看板たててくれればいいのに。 帰りに、見落としたかもと注意しましたがみありませんでした。 真っすぐ行ったところに部落があるから通行止めの看板をたてなかったんだろうか。分岐はだめだとしてくれればいいのに。 やれやれ、鹿野にぎゃくもどり。 ご縁があるんで、温泉にでもはいるか。 なかなか、しゃれた温泉で一息つきました。 青山いや温泉至るところにありかな。 でも27日は三徳山の火祭りがあったそうだが、目的持って行き通行止めの駄目出し食った方は立腹してるかも。
2013年10月28日
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札幌市の雪だるま、岡山市のもも太郎、などいろんな都市の協賛出品も見事。水琴窟の音は流水の音が高くて神秘な音がいまひとつ。
2013年10月27日
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久しぶりの晴天、湖山池のほとりでの緑化フェアにいってみました。閑散とした湖畔が見事に緑化公園となっていました。 日曜の午後、大賑わいのひとだかりでした。 駐車場から遠いとの評判でしたが、20分ほどのシャトルバスにゆられ湖畔を走るのもロマンチックなものでした。 人が手をかけると楽園ができるものですね。 人の力はすごいです。きれいな花がいっぱいでした。 公園内を歩いてた人は、みな笑顔でした。
2013年10月27日
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里見忠義公が関東から、山陰伯耆の地にお国替え(1614)になってから、来年で400年となります。 毎年里見祭で、倉吉から関金に向かって武者行列で公を偲んでおりますが、公の実態は、様として分からず、里見八犬伝にベールを預けています。 400年の節目を記念して、伯耆の忠義公の本態像を糺すことも必要だと考えます。 400年昔の謎。 里見忠義公がこられた翌年(1615)、大阪夏の陣で南条元忠、大阪城西の丸で戦死、淀君、秀頼自決。 一国一城令で打吹城破砕。忠義公の指揮だったろうか。 元和二年(1616)二月北条山田八幡宮、九月に北野天満宮の社殿造営。 大岳院、東郷八幡宮寄進。 雄誉上人が、忠義公に面会に来られたのもこのころ。 元和三年(1617)池田光政因伯32万石領主となり、倉吉は家老伊木長門管掌となり、里見忠義は下田中に移されました。 不思議なのは、光政が8歳で姫路城は大任だとして国替えになったのに、家老伊木長門守が6歳でありながら倉吉を管掌させたのか?です。 家老の家臣が優れたものがいたのでしょうが、今に残る長門土手の堤防構築、勝入寺建立など非凡な手腕が見れます。 特に池田勝入斉は、秀吉の元で、家康軍と長久手で戦い戦死。 現党首は、勝入斉の子の輝政を始祖としているのに、その先代の菩提寺を倉吉に建立したのはなぜ。 伊木長門守には、謎が多い。 住民の率先協力があったからだろうが、就任してすぐ協力させる指導力の源泉があったのでしょう。 里見忠義が、下田中に行ったのも、もうひとつの暴れ川、天神川の千人波止作りを、伊木長門守から頼まれ、引き受けたのかも? だから、産土神社横に住民が居住を許したものでしょう。 400年目は、新しい市会議員さんが意気揚々と新時代を引き継ぎましょう。 今、倉吉は選挙選の真っただ中です。
2013年10月01日
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