全3件 (3件中 1-3件目)
1
七月二〇日小鴨神社三六歌仙額について、博物館出張講座が、小鴨公民館でありました。期待をこめて参加しました。 「それからどうした?」 ブログに謎など不穏な意味深なこと書いておいてとおしかりをいただき恐縮です。 それからを報告します。 藤原公任が11世紀初頭に撰した「36人撰」は万葉集の時代から平安時代中期までの優れた歌人36人を集めて歌合せ形式にしたもので、これら36人を三六歌仙と称するようになりました。 そして、三六歌仙の肖像画と、その略歴、代表歌を添えた歌仙絵を神社建築様式の変化にあわせて拝殿に奉納がされるようになりました。 一枚の額に一歌仙を書いたもの、複数の歌仙を書いたものが各地にみられるようで小鴨神社の歌仙額は一枚に複数の歌仙が書いてあるものです。 講師の先生が、ちょうど本日、小鴨神社の祭日で、三時ごろから本殿に展示してる三六歌仙額のレプリカを公開するとの報告あり、講演終了と同時に神社に直行しました。 米子高専の先生が写真撮影でレプリカを作り展示されており、拝殿で見学できました。 くわしくは、三十六歌仙額をご覧ください。 天文六年(1537)に播磨の宍粟山崎八幡神社に奉納されたものが、寛永九年(1632)に鳥取光政、岡山光仲お国変えのその年に、伯耆小鴨神社に持ってこられたのはやはり謎。裏書きに「寛永九年八月一四日大ミヤ(大宮)ーーー候便相とらせ申候」が判じられます。 宍粟から輝澄(輝政4男、光仲の伯父)が幼少の光仲(3歳)の後見として因幡へ諸事仕置きに来た。のちに宍粟藩は寛永17年(1640)には68000石となるが、家中騒動で改易となり、輝澄は家中不取締で鹿野に光仲預かりとなります。 初発時、後見として来た輝澄が、宍粟から来た事で糸はつながりますが、何故鳥取でなく、倉吉の小鴨にとなると?。宍粟は良質なたたらの産地千種鋼の地、小鴨も菅原、岩倉弓削で産鉄、刀工がいた関係があるやも?。 神社に奉納となると、ある祈念をもって願主が届けている。 たとえそれが、美術価値があっても転出して、新たな祈念をもってそれを奉納をするものであろうか疑念がわくものです。
2013年07月31日
コメント(0)
山口島根に大雨の被害がでました。 先日は山形で大雨の被害がでました。 東京でもゲリラ豪雨で、隅田川の花火も中止となるなど、今までにないような天変がおきています。 被害にあった所はまことに気の毒であり、お見舞い申し上げます。 と同時に、次はどこに被害があるのかわかりませんし、該当地にいつなるともわかりません。 ゲリラ豪雨で、被害を受けた地が、水源である利根川水系には少雨でダムが干上がり、節水という、水の過剰と不足の相矛盾の同時現況をも直視させられました。 今メディアの発達で、瞬時に世界の事象が知ることができるようになりましたので、災害が多く起こる事を感じるようになったのもありますが天災、人災が多くなりましたs。 天災は宇宙進化の一態の変化であって、有史か否かの違いで、海が山となり、山が海となっており、次に何がおこるかはわかりません。 今までの経験の上の知識が通用しない次元のものが到来することも覚悟せねばならないでしょう。 1000年クラスの災害といっても50億年有余の宇宙の歴史からは、頻発という事かもしれないし、これらに対し防御というより、順応をいかにするかを考える事が大切でしょう。 原発災害問題も、活断層かどうかを小資料で論ずるより、事象が起きた時、終息可能な能力を持つことのほうが先です。 とりあえず今までの活断層としてる第4期の地層以外に断層ができない保証はないわけですから、あんまり、小部分の検証だけでは意味はないでしょう。 これが断層と信じれば、コンクリートの破片も断層粘土に見える場合もあるようですから。議論のための議論にしないように。
2013年07月29日
コメント(0)
夏草は茂りにけりな玉鉾の 道行き人も結ぶばかりに 藤原元真 倉吉小鴨神社に三十六歌仙額が見つかり美術工芸品として、今年一月、市の有形文化財に指定されました。中の一部です。 歌仙額は、室町時代に寺社に奉納されるようになったようで、奉納時期、願主名がはっきりと記されているようです。 兵庫県宍粟市の八幡宮に、天文六年(1537)播磨国守護赤松氏の家臣、宇野備後守村直が奉納したものです。 なぜ鳥取の倉吉の小鴨神社にあるのか? 謎です。どうして倉吉に来たのか不思議です。 結果だけが現実で、由来については、いろんな憶測しかないもの。 蛇足だが、桜の大日寺の梵鐘が、島根平田の鍔淵寺にあり、文化財指定となっています。これも銘がはいってるので明らかで、返還を願ったことがあるがだめだったとか。 壱岐で仏像が盗まれ、昔はうちのもの故返さないと韓国で保留になってることもあります。 山崎藩主池田輝澄と鳥取藩池田家との密接な交流をうかがえるとしていますが、博物館の出張説明会が20日あります、楽しみです。興味の数数、知りたい事。1、元和元年(1615)池田輝澄 山崎藩主となる。{輝政の4男。母督姫(家康の次女)}2、元和3年(1617)姫路城主池田利隆(輝政長男、母は先妻)死亡。子、光政8歳。鳥取藩へ移封。 倉吉は家老伊木長門守忠貞6歳の管掌となる。3、寛永9年(1632)お国変え岡山光仲3歳、鳥取光政24歳と交代 倉吉は家老荒尾嵩就管掌。4、寛永17年(1640)輝澄68000石となるも騒動あり、家中不取締で改易、 鳥取光仲預かり、鹿野堪忍料1万石あたえる。寛文2年(1662)他界。5、光政、光仲も藩祖として輝政をし、勝入斉(信長と乳兄弟)としていない。 (輝政の父恒興(勝入斉)が小牧、長久手の戦いで家康軍とたたかい戦死して るためか。)6、藩主は、藩祖としていない勝入斉の菩提寺を倉吉に何故持ってきたのか。伊木長門守の6歳の年齢の家老職とその統括の謎とあわせて知りたいものです。7、幼少なる故、統治能力理由で藩主は、姫路から移封されたのに、6歳の家老伊木長門に倉吉を移管したのは何故。しかも長門土手をはじめ水害対策の大工事実績は顕著。家老の家臣団、住民の協力の真相がしりたいもの。
2013年07月19日
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1


![]()