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祈りは、さらに現今を向上しようとの思いであり誓いです。 一国の首相が国のために命を捧げた先人に参拝し、今を感謝し、指導者とし平和の祈りをささげられたのは、日本人として当然です。 戦争は、良くないことです。 でも敵味方双方の言い分は、どちらも自分が正しいとの主張があったからのことです。 小国民の戦争は、喧嘩で、こぶを作る位ですが、国となると武器弾薬で相手がもう駄目だというまでの壊しあいになります。 勝った国の正義が正当で、負けた国の正義は消され、不当な汚点のみが残され喧伝されるのが常です。 戦争は勝たねばならぬと、「欲しがりません、勝つまでは」と飴玉もなく、夏休みの軍馬の乾燥食の草刈り、運動場開墾、いも植えをした小学生、父親の力が一番必要な時に出征され子育てに必死だった母親。 国の指導者も必死に考えた事でしょう。 今もそうですが、国の指導者によって、国民の命運が差配されます。 民主主義は、国民の総意とはいえ、なかなかその総意が真理に叶うとはいいがたいものもありますが。 まして、国と国になれば、利益が相反するので更に、その総意が困難になります。 歴史問題も、自分を正当化するものに用いられ、真実も歪曲されることが多いものです。 元来、勝った人が負けた人の正義を封殺するのが歴史でありますから、逆説などという状況判断で推論し、今までの定説が覆ることも多くあります。 今度の大戦でも、最後の一人まで戦うという戦意は良しとしても、青年を飛行機に乗せて体当たりさせて死なせる策、広島の原爆ではやく終わりをしなかった決断は、指導者としてよくないことでした。 でも長崎に落とした原子爆弾は、勝者のおごりです。 広島のあれだけの犠牲で日本の降参は必至だのに、わずか3日しての投下は、広島のウラン型からプルトニューム型の実験としか思えない投下です。 勝った国、負けた国、どちらにも非は多々あります。 ただ一方的に勝者の言分だけを残すは不当です。 お国で戦争で国に命を捧げた先人に敬意を払う事は、あたりまえです。 霊界にある先人に甲乙はありません。現界での贖罪で終了です。 戦争行為は、国民みながしたのですから。 最近、自分の歴史認識で、国際人事摩擦を過度に披露したり、相手の島を占拠したり、航空圏を設置したりする行為が横行し、てるのは遺憾なことです。 相手にどんな気持ちが与えらるかがわからぬ指導者がでると国際情勢も危うくなります。 内外含めて、もっと進んだ国交が出来る指導者がほしいものです。
2013年12月27日
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12月23日は、その日は酒1滴も呑まないのがしきたりの頃がありました。大方40年ちかくの間続けました。 みんなが、ジングルベルと歌って呑んでも、酔ったふりして実は呑まないを続けました。 それは、 あろうことか、東北の冬、12月23日に現地の地質調査にでかけました。 どうしても修業論文で調べねばならなくて。 リュック背負って鶴岡駅におりたら、山岳部の金子くんにあいました。 彼は、冬山合宿で折り返しの汽車で山形に向かうところでした。 「夕べ大きな雪が降ったから、大網にははいれんぞ」 と金子くんは、乗り継ぎのバス乗り場に行くつもりの私にいう。 「じゃやめるか」と一緒に折り返し山形にかえる事にしました。 「おい、鶴岡はおれの地だ、一杯やろうか」と金子君いう。 「クリスマスイブの繰り上げやるか」と話ははやい。頃は昼まえ。 1週間現地入りの予定ゆえ、ゲルピンの学生でも気はおおきい。〈親には申しわけない) 駅裏の居酒屋は、夕べ掃除したままで、まだテーブルに椅子がのっている。 椅子を自分らで下して酒を所望。 金子君は、よく駅裏を知っている。はしごにはしご。 2人して汽車に乗ったのはしってる。 餘部(アマルベ)とむつかしい呼び名の駅で乗り換えたのもしってる。 金子君は、眠っていた。 むしょうに車中が熱い、スチームが効きすぎで、デッキにでて涼もうと室外に出た。 当時の汽車は、デッキのドアは、最後の人が締めたものだが、なぜかその時開いていた。 いい空気が頬をかすめた。 当時の奥羽本線は、奔馬のように右に左に揺れた。 そのゆれも気持ち良く感じた。 なんでこんな所に俺は寝てるんだろう。あたりは真っ暗闇。 河原の石ころの上だ、手をのばすと冷たいものがある。レールだ。 列車の音もなにもない静寂の闇のなか。 しばし気絶していたよう。 もしかして、汽車からつき落とされた?。 なぜ?、山形で酒飲んでいたのに。(その時そう信じていた) 汽車に乗ったのが、おもいだせなかった。 汽車から落ちたと察知したら、闇の中で怖くなった。 闇の向こうにかすかな灯が見えた。 人恋しで、急に灯に向かってはしった。 つもりだった。 体が宙に浮きひっくりかえった。番線だった。 サクランボ畑があり、人が入らぬようにトゲトゲの番線を線路わきにはってあったのだ。 半分体は傾き、番線の刺が服にからみつきはなれない。 慌ててるので、からみつきの鉄線を素手で払いのけた。 そして、鉄線にそって、大分走り、たどり着いた民家。(後でお礼に行った時現場検証した) 親切なおじさんだったが、びっくりしてあとすざりした。 「ここはどこですか?」が第1声でした。 煤で顔は汚れ、服は破れ、手、頭から番線キズで血みどろ。 「汽車から落ちた」と聞いて、びっくり、軽自動車で病院に連れていってくれた。 診察室で治療受けた。 なんかおかしい椅子があるなと思ったら、産婦人科医院だった。 おじさん、汽車から落ちて、血だらけなので、はやく、とにかくお医者さんへだったらしい。初めて産婦人科に行った次第。 診察料を払おうとポッケに手を入れたら、山形行きの切符が出てきて、鶴岡行きの全貌を思い出した次第。 おじさんは、なぜに汽車にのったかわからんといったじゃないか」といったが、その時は本当にわからんだった。記憶喪失ってありますね。 次の便の汽車でもよりの神町の駅から帰りました。 金子君はというと、山形について、どこにいったんだろう先に帰ったのかなと、私のリュックと自分のリュックを担いで寮にかえり、布団で眠っていた次第。焼酎11杯呑んだ記録もちの豪傑。俺も酔っ払ってたとわらっていた。 あくる日が大変。こめかみが痛くて口が開かない。 厚着してたので、鉄線のトゲの被害はズボンと服の間の下腹に1個、右額に1個、払ってついた手の甲の傷ですんだ。でもそれが痛かった。 かくして、もう一生酒はやめることに決心しました。 正月は、寮ですることにしました。家に帰れない。 晴れ着のお姉さんが、屠蘇をもってきた。 正月だからとすすめた。 つい、口をつけてしまった。 屠蘇とて酒だ。意思の弱い男だ。 じゃ、これから12月23日だけは、酒は飲むまいとしよう。 それから、40年近く守りました。 暦還えてから、もういいだろうってことで解禁しました。 すっかり忘却の彼方にいってたこの事件、たまたま12月23日の忘年会に思い出すしくみに出会ったってことです。 関金に行くのに、乗ったことがないバスで行こうと、バス停で待ってたら日曜日の時間割で、今日の休日は月曜だった。だから来ないはず。 みんな我が家の運転手はで払い応援望めず。 時間がないので自己運転で出席。 ノンアルコールビールなんて、すごいものが世の中にあるものだと知りました。 気分は上々。 感心してたら、クリスマスの話がでてる、おや何日かな、そうだ天皇誕生日、12月23日。昔禁酒の日だ。 最近、忘年会を望年会というんだ」なる名言にうつつぬかした小生に喝がかかったんだと反省。 でも、笑いのような「このしくみ」で思い出させられ、回顧にしたりました。 明日の望年会は本当の良き年を望む会にしましょう。
2013年12月23日
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山陰伯耆の国の関金温泉の若女将の地域おこしのお話を聞きました。 聞いてびっくり、浪速っ子で、初めての地で、地域に自信を持つ原動力を生み出す仕事をしてみたいと来たとか。 小さな1石かもしれないが、地域の人が集まって、何かやろうと話し合い、文化祭、放置温泉場の修復と動きはじめている。 静かでどうにもならない地に小さな波紋が置きかけてる事は事実のようだ。 聞くと、温泉場が賑やかで人が多く来るのが目的でなく、自然の恵みを生かして、誇りある産物を堂々と作り、信頼の人の集まりの地にするお手伝いがしたいという。この地が限りなく好きだそうだ。 スクリーンに写された活動の数数をみて、参加してる住民の笑顔がとても美しい。 この地は、遠く房総半島から、時の権力に振り回されて、配流してきた里見忠義公の終焉の地であり、浜砂鉄の技術を伝授された評があり、「アワノカミサマ」と人々も慕った模様。 1614年、里見忠義公が当地に来られてから来年で400年め、何かが起こりそうだ。 地域の片隅でなく、市民全体が協力して、梯子をはずさないように協力してやろう。
2013年12月23日
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新聞の上に乗ると足を叩かれ、怒られた。 新聞を作った人の記事に失礼だという事だった。 又、ラジオニュースの時間、囁きごとすると叱られた。 黙っていないといけないと思うと、なんだか可笑しくなり笑って叱られたものだ。 大東亜戦争の進展状況ニュースが大事であった。 新聞とラジオが唯一の情報源。 学校の校門に立つと右手に奉安殿がありまず、拝礼して入校した。 奉安殿には天皇陛下の写真が奉納されていた。 学校の式典には、奉安殿から講堂に写真がかざられた。 真っ白の手袋で正装して運ばれた。 当日は、朝から別人のような人に父はみえた。 「畏れおおくも」という言葉が発せられると、皆襟を正し、気をつけをして次の言葉を待ったものだ。 「天皇陛下におかれましては、----」 が発せられた。 お国のためにが第一の考えだった。 命がなんなのかわからなくても捧げる気持ちはあった。小学生でも。 12月8日。やってきました。 思いだします。特別の日です。 打ちてしやまん。ほしがりません勝つまでは。 物のない時代、それでも育ちました。 でも2度とあんな戦争の思いはしたくない。させたくないものです。
2013年12月09日
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