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1
窓の外は雷鳴。時折凄まじい音が空から迸(ほとばし)り、空調の効いた室内には激烈な光がただ走る。その鮮烈をリビングから横目で見ながら、手早くテーブルをセッティングする。雷は、嫌いではない。この早朝からいくら憚らず滝のような雨の奔流とともに砕け散るような轟音をあげようが不快になりようもなかった。手際良くセットティングを終え、キッチンへと戻ると柔らかいふんわりとした卵の温かな香りが咬(ぜん)を出迎えた。その香りの元である大皿を手に、先程作り上げた料理をリビングのテーブルに並べていく。作った料理を全て並び終え、抜かりはないかと視線をテーブルの上に滑らせる。マッシュルームソースがふんだんにかかったオムレツに、パプリカマリネ、見目の良いすっきりしたガラスの器に盛られたレタスとトマト、モッツァレラチーズ、生ハム、とどめにバジルの葉を飾ったカプレーゼサラダ、カツオのカルパッチョ、カボチャのポタージュ、グレープフルーツマリネ、よく冷えた軽いシャンパン・・・・・・・・・・・。手抜かりどころか、壮観にすら見えるそれらの料理を見て、咬は満足するどころか目元を引き攣らせた。それは料理の出来に、ではなく。室内からは、掻き抱くような情熱的で甘く気怠いアルゼンチン・タンゴ。響きの甘い、腰にクルように気怠い異国の言葉で歌われるソレはひどく扇情的で悩ましい。適温に保たれた、少し肌寒いくらいの室内。ここで流れるこの曲は嫌いではないが咬の趣味ではない。自分が作った料理を見、流れるアルゼンチン・タンゴを聴いて目元どころか口元までが引き攣ってきた咬は身に着けていた黒いエプロンを自分の腰から引き剥がし、自分の寝室へと踵を返した。エプロンを外せば、咬は伸びやかな身体のラインにぴったり沿ったジーンズと、目に痛いほどの白のコットンシャツを身に着けている。ラフでシンプルな格好だったが、逆にそれが本人独特の魅力を引き出しているようだった。陽の光を吸い込んだような褐色の肌に。激烈にキツイ、まなざし。大地を思うさま駆けるためにある様な伸びやかな足と、灼熱の太陽よりはるかに激烈な瞳とは裏腹な細腰に、思わず目を奪われる不埒な輩が後を絶たないのも頷ける。が、常にキツイその眼は今、いつもにも増してキリキリと鋭く切れ上がり、わずかに上気した頬が咬の不機嫌さと怒りを知らせている。ダンダン、と歩く歩幅は思いのほか大きく、荒い。ぶっちゃけ、ぶすくれていた。寝室のドアを蹴り上げるように押し開け、そのすぐ手元にあった額縁に手を掛け間髪を入れず自分のベッドの上に投げつけた。正確には。自分のベッドで遠慮も思慮も気遣い・・・・・・その他諸々の常識をも咬のマンションに来る前にドブに放り投げてくる万害の男に。「一人でぐだぐだ寝てんじゃねぇ・・・・・・・・!」ブスブスと焼け焦げる感情に声が低く地を這う。きっちりと寸分の容赦もなく、額縁の角を頭にぶつけられた男はけれど、常識を引っ掛けもせずマイペースでまったりと時間を満喫していた。のっそりと獲物を獲った後のライオンのような緩慢さと傲慢さで男は肩肘をつき、ゆるぅりと身を起こす。そして言った。「・・・・・一人で、ねぇ・・・・・。だったら添い寝をしてくれるんだな?」少し体をずらし、掛け布団をめくった後、男は露わになった海の底のように青いシーツの上を撫で擦った。殺したい。湧き上がった殺意に咬がギリギリと男を睨み据えたのも無理はないだろう。男・・・・・・良将(よしまさ)は咬のその様子を見、目をかすかに細める。嬉しげに。「どうした?眼が吊り上ってるぞ・・・・・・・・・昨夜の寝顔は可愛かったのになあ。」咬の口はひくひくと引き攣り。「その分輪郭がシャープになって、昨夜よりイイ男になっただろ?」その唇を歪めながらも笑みを作り、笑えないジョークで返した。昨日、映画を見ようと無理やり押し掛けて来た上に、『帰れ』と言っても帰らなかった男が今は咬のベッドに悠々と横たわっている。そうでなくともこの部屋は悪い。以前、数年前になるか・・・・・・高校に入学した年の誕生日。この部屋にあるキングサイズの馬鹿でかいしか能がないようなベッドはその時に良将が贈って寄越したものだった。その前に『余分な布団もなく、ベッドも小さくて寝る所がない』といった理由で泊りを拒否したことを三つも年上のこの男は皮肉り揶揄って半ば嫌がらせ的に贈ったのだろう(それ以外の理由は思いつかない・・・・・というよりは薮を突付いて蛇を出したくない・・・・・・のもあるが考えなくもなかった)。それ以来、拒否する理由がなくなった咬の元へ来た時は、必ず良将は何日か泊って行くようになった。気に入った(もしくは食べてみたい)食材持参で。自分で作るのではなく、咬に料理させるために。今朝作った料理も、それだ。「咬・・・・・。」良将が掠れたような低い声で名を呼んだ。ソレを耳に捕らえ、その眼差しを瞳に受け、それまで良将を睨み据えていた咬はその視線を苦々しげに逸らした。そうすると良将の眼は動脈に直接毒を注ぎ込むような怖い光を宿す。(こいつは時々こんな眼で俺を見る・・・・。)堪えられないような光と熱・・・・・。そのめまぐるしい悪流の渦に息の絶える心地がする。死んでしまう・・・・・・・。そう感じるぐらいに。「・・・・・・・・・っ。」ふいに手を引かれた。そのまま強い力で引き寄せられ、青いシーツの上に仰向ける。「何考えてる。」低い声。その声に掻き抱くアルゼンチン・タンゴが重なる。その甘く気怠い歌は痕を引き・・・・・・・・・・・・。覆いかぶさっている男からは香水の“エゴイスト”の香りがした。ふいに息が苦しくなり、顎が上がった。上から視線を余すところ無く這わしてくる男に眼を眇める。無意識に首を振り、片耳をシーツに押し付けることで塞いだ。まるで追い詰められた者が最後の最後にする弱弱しい足掻きのように。その姿は哀れな子供のようだった。(嫌だ。)やめてくれ。その先は聞きたくない。堪え切れず、瞳を閉じ。「・・・・・・・・・・・・・・・。」すっ・・・・・と男の気配が離れた。夢から覚めたように咬が瞳を開くと、良将はその頭を掠めるように柔らかく撫で、立ち上がった。「・・・・・・いい匂いがするな。朝飯が出来たから呼びに来てくれたんだろ。」楽しみだ、と心底嬉しそうに口元を綻ばせ良将は寝室を出て行った。「・・・・・・・・・・・。」分かっている。本当は何を言われずとも分かっているのだ。三歳年上のこの幼馴染は咬のこととなると、大学どころか家族までも笑って突き放し、見向きもしなくなる。飄々としていつも遠くから見ているだけのあの男は、けれど咬が声にしない悲鳴を聞き逃すことはない。そしていつも咬を助けようと無償でこちらに手を伸ばす。其の手はいつも一番辛い時に差し出され、だから思わず其の手に掴まりたくなる。けれど結局、いつも咬の延ばした手は良将の手に触れる前に凍りつく。空恐ろしくて。良将が、ではなく、自分の甘さと狡さが。一度其の手に縋ったら、一度其の楽さと味を知ってしまったら、自分はもう手放すどころか、一人で立てなくなる。それは死ぬことより怖かった、そしてあの狂夢より。だから今度もこれ以上関わられる前に有刺鉄線を引いた。唯一の助けの手を振り払うことで、痛みと負う傷はかなり深くなることは経験上知っていた。けれどそうでないと駄目だ、そうでなければならない。だが・・・・・・・・。長いと言えば長すぎる良将との付き合いに、感情はドロドロと溶けていく心地がするのだ。全部無し崩しにして、ぐずぐずとした甘えに浸りたくなる。「・・・・・・咬。」リビングから名を呼ばれる。いつものタイミングの良さで。それに返事を返し、立ち上がる。だが、いつまでもアルゼンチン・タンゴの甘い響きと、“エゴイスト”の気怠い香りが・・・・・・、痕を引いた。
2006年09月14日
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