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昼。快晴。空はどこまでも高く。青く。その青の中を飛んでいる鳥は、気持ちよく高く突き抜ける声で鳴く。月夜も潤むような夕日の時間もどれも美しいと思うのに、昼間、太陽が出ている時間。晴れた高い空が視界に入ると、世界は何処までも美しいように感じる。辛く、気持ちが沈んでいても、それでも世界は美しい、と感じる。何処までも澄んでいるように感じる。明るい陽光のせいだろうか。気持ちが高揚する。昼餉少し前の村の喧騒は心地よく、長閑だった。時折すれ違う村人は此方を見て深く会釈をしてくるが、シャン、と胸を張りどこか楽しげに立ち働き、皆“華”がある顔つきをしている。広場を少し歩けば居並ぶ家屋からは子供たちの弾けるような笑い声と、台所からは昼餉を準備する小気味いい音が聞こえてくる。少し耳を澄ませば、教会からはかすかに異国の歌が聞こえてくる。雷霙【ライエイ】が村人たちに教えたのだろう。生命の讃歌だった。賛美歌はその言葉通り、生命を讃歌し生きる喜びを歌い・・・・・・・その歌の響きは力強く生命力に満ち溢れて、人の血が通い温かく、そして優しかった。「・・・・・・・・・・。」朝風呂に入ったばかりの身体はまだ少し火照っている。少し濡れている前髪をかき上げ、氷翠王【シャナオウ】は浅く息をついた。微かに頬にかかる前髪が柔らかく風に弄られる。昨夜まで降っていた雪は今はもう溶け始め、水に帰り始めている。子供たちが歓声を上げながらその景色の中で走り回っている。彼らが此方に気づき嬉しそうに両手をぶんぶん振ってくるのに片手を軽く振り返し、笑みを返した。そうして彼らがまた遊びに戻ってゆくのを見届けてから、氷翠王は手近にあった木に背を凭せ掛け軽く腕を組んで瞑想するように瞳を伏せた。そうすると鮮やかなまつげが、白く張り詰めたなめらかな頬の輪郭に濃く影を落とし凄絶な清やかさを添える。昨夜まで長かった黒髪をばっさりと切った今は尚更、露わになった首筋と顔の輪郭が氷翠王を非常な美貌に見せている。伏せられていてさえ微かに映るあえやかな、一切の光を跳ね返す宝石のような朱金の瞳。血の青いすじが透けて見えるような薄く、白い肌が、烏の濡れ羽のような漆黒のその中に蒼ささえ含む髪に映え、凄まじいばかりの清らかさ・・・・・・。「・・・・・・・・・・。」風が吹く音を聞き、周囲の空気を掴む。呼吸を深くし、己の気を拡散し同化させていく。少し不穏な空気を発している気を静める必要があった。内通者であったあの男・・・・・(恐らくはもう死んでいるだろうが)、あの男の殺気に当てられて氷翠王が自分の瞳に閉じ込めている神の怨念が騒いでいるのだ。放って置けば周囲の人間に毒素を振り撒くその念気を、特殊な呼吸法で再び自らの内に嵌め込んでいく。その過程は自らの心の内と向き合う作業と似ている。己の記憶と経験の根本であるものを何の抵抗もせず飲み込む。言葉で言うほど楽な作業ではない。楽しいものでもない。そうして徐々に押さえ込み終えると、氷翠王は伏せていた目を上げ木に凭れていた背を起こした。「疲れてるみたいだね。」瞳を上げた途端視界に入った姿に、温度の低い涼やかな声。黒髪も凛々しいその青年に氷翠王は柔らかく微笑みを返した。「霧破【ソウハ】・・・・・。」氷翠王のその笑みを見て霧破も優しくいたわる様な笑みを向ける。「今朝のことを聞いたけど、大丈夫かい?」万が一にも村人たちに内通者のことを聞かれぬように言葉を伏せるその気遣いを温かく思い、氷翠王は苦笑するような淡い微笑を浮かべ首を軽く傾げて見せた。その少年のような仕草にけれど氷翠王の瞳だけが寒い。大地を思うさま駆けるためにあるようなしなやかな肢体は、けれど今は華奢なように霧破の眼には映った。霧破は氷翠王の研磨された宝石のような瞳を見つめた。その瞳は他人の心に静かに響きすぎるのに、優しさを与えて包み込んでやるには何も欲してなさすぎる、と霧破はふと思った。だから霧破は氷翠王のその瞳に・・・・・・心に手が届くよう祈るように思いその髪に手を伸ばした。そのまま優しく梳くと、氷翠王は少し目を細め柔らかく息を呑んだ。心地よい、と言うように。「ずいぶん短く切ったようだね。」「ああ、・・・・・見苦しいか?」そう問う割には気にしていない口調に霧破は逆に、らしい、と思い微笑む。「いや、似合っているよ。」霧破のその言葉を静かに受け止めて、氷翠王はそうか、とだけ答えて返す。髪を梳いてくる霧破の手にまどろんでいる様子はまるで子猫のようで微笑ましかった。「でも少し不揃いみたいだね。・・・・・兵たちの訓練も終わって、今は昼休みだ。僕もいったん屋敷に帰るところだったんだが、君も来るかい?揃えてあげるよ。」「霧破が?」「ああ。紅丹【ボタン】の髪を毎週整えてやっているのも僕だが?」「知ってる。」その時の紅丹の満足そうな様子を思い出して、氷翠王は思わず微笑した。だが、今は乱れていた気を抑圧したばかりで、他の人間の傍に長く居ることは少し憚られる。その氷翠王の考えを読んだのか、霧破は珍しく揶揄するような笑みを向けてくる。「“人の好意は素直に受け取る”という言葉が君の美点だった筈だが?」「・・・・・・霧破・・・・・。」氷翠王は呆れたように声を上げた。ずいぶんと昔のことを言ってくれる。瀕死の重傷を負った霧破を助けた時のことを言っているのだろう。『人が分かり合えることはない、永遠に。にも拘らず触れ合おうとするからそこに摩擦が生まれる。』権力争いに巻き込まれて疑心暗鬼になっていたのだろう、そう言って霧破が助けの手を拒んだのを、『そんなことは承知の上で触れている。お前に。壊しても、壊されてもいいだろう。別に。私だけの意味、お前だけの声、私だけの思い、お前だけの祈り、・・・・・・それは全て生きている限り手にすることが出来る幸福だ。分かり合えずとも暖め合うことはできるかもしれないだろう?生きていれば。だから死にそうな今は、素直に人の好意を受け取っておけ。それで死んでしまったのならはなむけの言葉を手向けてやる。一人で死んでいくより気が向いていると思わないか?』と切り返した時の言葉を言っているのだろう。「来るだろう?」霧破が再び誘う言葉を向け、綺麗な長い指で髪を梳いてくる。その指先から触れた部分が澄み切っていくように感じた。自分の言葉を持ち出されれば、反論することも出来ない。「分かった。行こう。」負けた、と潔いばかりに思い。氷翠王はいつもの笑みを浮かべた。
2006年10月07日
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縋る声を、上げてはいけない。 歯を喰いしばり、血が流れ続けても唇を噛み。 それと周囲に知らせぬ為に、顔には微笑を。 声には穏やかな思いやりという仮面を。 感じさせる“痛み”だけが私の命。 大丈夫。私は堪えられる。 (嘘だ・・・・・・・何一つ堪えられない。) *朝の光。いや、もう昼に近い。湯船から手を透かし、快い水音に身をゆだねる。あの男からした腐った血の匂いが不快で、洗い流したかったのだ。ぴたりと濡れた前髪が頬に掛かるのを気怠るげに梳き上げ、頬杖をつく。心地良さと気怠るさの狭間に思考をたゆたわせながら、氷翠王【シャナオウ】は今朝見た夢を思い出していた。片耳にだけ着けている薔薇の花と茨に雁字搦めにされている蝶の耳飾りにそっと触れる。母の形見だ。母の・・・・・・・ずいぶんと昔の夢を見た。『大好きよ、氷翠。あなたはどうしても欲しくて生んだ愛しい子。あの人を愛した、あの人に愛された証。私はね、氷翠が一番好きよ。誰よりも必要としているわ。あなたがいないとその後一秒も息をしないわ。氷翠が私の全て。あなたなしでは生きていけないわ。』呪いのように幾度も幾度も繰り返された言葉。その言葉の通り、母は氷翠王が少しでも自分の傍を離れれば自分の首筋を切り裂いた。血塗れた部屋を目にするのは一度や二度ではなかったが、それももう慣れてきた・・・・・と言うより麻痺し始めたころ(当時氷翠王はまだ五、六歳だった)。父に呼び出され庭園で話をしていた時(もちろん母が眠っている際に部屋を出たのだが)、朱樺【シュカ】家の継承権のことで話が堂々巡りしたぶん、かなりの時間を繰っていたのだろう、それとも父と言い争う声が離れにまで聞こえたのかもしれない。庭園に面する離れの一角に、かなりの遠目に氷翠王は母の姿を見たのだ。母は父と話す氷翠王の姿を静かに見つめていた。そして目が合った。母はこの世の者ではないほどに美しく・・・・・天使のように笑ったのだ。氷翠王が驚き、父との話を中断して『・・・・母、君。』と思わず呼びかけた時・・・・・・、それが言い終わる間も無く、母は持っていた懐刀で喉を切り裂いた。遠目にも血がまるで赤い花のように鮮やかに散るのが、見えた。その日の夜、母は自分の生涯をかけて愛した“最愛の人”・・・・・・・父の息の根を止め、自らもその喉を突いて、逝った。無理心中だった。父を庇って受けた傷が与える熱と激痛に堪えながら、生理的涙で霞む瞳で見上げ、見つけたものは天使のような悪魔のような美しい微笑の母の死に顔と、そして、黒。この時初めて血は黒いものだと知った。それからもう一つ。『あなたがいないとその後一秒も息をしないわ。あなたが私の全て。あなたなしでは生きていけないわ。』この時初めて、この言葉が言葉通り自分に向けられていたのではなく、父に向けられていたものだったのだと知った。「・・・・・・・・・・・?」ばしゃん、と突如響いた大きな水音に、氷翠王は伏せていた目を上げる。と、すぐ目の前に目が覚めるような湖面の碧色をした大きな瞳があった。そのまま数秒、それと見詰め合う。紅丹【ボタン】だった。「氷翠。私に何か言うことがあるでしょう。」じいいいいいっと音がしそうなほど見つめられながら、無造作にじっと視線を返すと、紅丹も負けじと食い入るように見詰めてくる。だから氷翠王は思いついたことを口にした。「お早う。いい夢は見れたか?」それは毎日寝台で目が覚めたとき、一番に紅丹の髪を梳きながら言ってやる言葉だった。今日はそれもなしに氷翠王が一人で出かけたことに、紅丹は拗ねているようだ。起きて仕事に出た時間が朝の四時だったため、起こさずにおいたのだがそれが裏目に出たらしい。「・・・・・うん。」こくり、と頷き紅丹は正面から抱きついてくる。それでもまだ気に食わないのかぐずるように押し黙る紅丹の頭をなだめるように撫でてやり、まだ幼い手の平を握って抱きしめる。昨日もほとんど一日傍にいてやることもできなかった上、今朝も目が覚めればいなかったのだ。どれだけ不安にさせたのか心中を察しても余りある。それでなくとも紅丹は、一度捨てられた記憶があるのだ。新しい保護者である氷翠王にも常に捨てられるかもしれない恐怖を抱いていてもおかしくない。「すまない。不安にさせた。」幾度も髪を梳いてやり、頼りない背を抱いてやる。何処までも真摯なまなざしで愛情を注ぎ、同じ言葉を繰り返し、約束と許しを請う。十ほどの子供に何をと言われるかもしれないが、これが氷翠王のやり方だった。上からものは言わない。必要なのは信じると言う真摯さと無償の愛情だけだ。謝罪と許しを請う態度と言葉も惜しまない。「最大限の努力をする。これから、お前を不安にさせたりしないと誓う。」徐々に紅丹の強張っていた肩が弛んでくるのが分かる。「・・・・・うん。」温かいその優しさに心が蕩けるように感じながら紅丹は瞳を閉じる。氷翠王からはいつも幸福の香りがした。紅丹はそれをいつも感じて、氷翠王だけが自分を幸せにしてくれることを知っていた。(黒髪の、私の天使。)だからいつも、むずがるように甘えてしまうのだ。この存在がなければ、生きていけない、と感じるほどに・・・・・・・・。
2006年10月06日
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数刻前まで。夜陰の藍、血の朱色、明けの橙に緩やかに空が染まり。空の光の色にゆるり、と染め上げられていっていた雪原は。今はまだ朝の空気を残しているとはいえ、高くなった太陽に徐々に雪は溶けかけている。・・・・・・・九時ごろ、だろうか。朝五時ごろに此処で鍛錬を済ませ神生【カミオ】と話したこの場所へ、補給部隊への指示を終えた氷翠王【シャナオウ】は再び戻って来ていた。一つ、確認をすることがあったからだ。禁足地を包んでいる結界の気が多少歪んでいるこの場所は、その道の人間ならば外へ抜け出すことは決して難しくはない。現に情報収集を旨とする隠密部隊はこの場所から禁足地の外へと向かわせていた。「・・・・・・・・・・・。」その場の状況を一端把握し直し、氷翠王は視線をざっと滑らせる。最初に目に映ったのは、こちらに向かって歩いてくる男の姿だった。剣戟は響かない。銃声も轟くことはない。だが、これほど離れた距離にありながらも男からは腐った血の匂いがした。その死臭に誘われたように、鞘に収められているはずの刃からは刃鳴りの音が響いたように感じた。冷めた眼でそれを見やった時、氷翠王の瞳には暗い愉悦の光がよぎっていた。だがそれに気づく者は此処にはいない。禁足地にある村の中では常に穏やかで慈愛に満ちた瞳は、今は氷翠王にはない。だからか、氷翠王が穏やかな中にも冷厳さを兼ねそろえていることを知る者は皆無に近い。敵には容赦がないことも。だんだんその姿が視認できるほどに男との距離が近くなる。だが氷翠王は刀を抜かなかった。裏切り者には制裁を、という認識がなかった、と言うより。小者に割く労力が惜しい。その氷翠王の視線に気づいたのか一瞬男は肩を揺らしたが、再び上げられた目には不逞の開き直った光が宿っていた。「これはこれは・・・・・・。誰にも気づかれず綺麗におさらば出来ると踏んでいたんですがねぇ。」飄々とした口調。悠然とした態度で男は刀の間合いがほんの少し届かぬ所で立ち止まった。“綺麗に・・・・・・”と告げた部分には誰も殺さずに、という意味が含まれている。「ですがねぇ、あなたも此処で待ち伏せていたからには私がどなたの命で動いているのか分かっている筈でしょう。」暗に、男に手を出せばどうなるか・・・・と脅してくる男に氷翠王は興味が失せた眼を向けた。「自らが駒になっている事も知らずに踊っているとは・・・・・・・、ものの道理も分からぬ田舎武者が欲を出すからこうなるのですよ、あなたも。この禁足地では王であるあなたも私たちの手の上で遊ばされていたに・・・・・・・・・。」浮薄な男だ。“この世で最高の悦びは他人の生死を握ること”という自らの理論に酔い、自らが他人の駒であることに気づいていない。自らが“どなたの命で動いているのか”と口にしたにもかかわらず・・・・。そもそも一社会に組み込まれて生きている以上、駒でない人間などいないだろうに。(哀れな男だ。)だがこの男は禁足地の情報を外部に流すに当たって、その論理を忘れたのだ。いや、元々気づいていないのか。そんなことはどうでもいい。このうるさい口を閉じさせたいだけだ。「黙れ。」呆れたように言葉を投げ捨てただけだが、少しの沈黙の後に男を取り巻く空気がガラリと変わるのを感じた。殺気と怒りだ。飄々とした人格を見せかけてはいるが、この男は自分が侮られることに関してはかなり気が短いのだ。今まで裏切りは知っていたが、背後関係を調べるために泳がせ、一応部下として使っていたのだ。性格の把握はしていたが、ここまで露骨に示されると驚きを通り越して相手をするのも面倒くさい。「うちの臣下でないのなら下賤と聞く口はない。去れ。」一瞬、氷翠王のその言葉を聴いて男は頭に血が上り刀を抜きかけたが、氷翠王の眼を見て手を止めた。悪魔のように冷然とした朱金の眼。ゆるく傲然と笑んだ紅く形のよい唇。此方を見てゆらりと無造作に瞳と頬にかかる前髪を梳きあげる様は傲慢なサタンの“それ”------凄絶な美しさだった。「・・・・・殺されなかったことを有り難く思ってください。」どこか捨て台詞めいた言葉を残して結界の外に消えていく男を見送って、氷翠王は軽く笑った。「“殺す”?・・・・・・・笑止。取るに足りぬ。」そして氷翠王は足元に視線をふと向けた。其処には癖のある足跡と武器を引き摺った跡があった。瞳を上げ、森の先を見据える。この先には、闘犬がすでにいるらしい。男は、その事実に気づいたかどうか。・・・・・・・・・どちらにしろ関係のないことだ。あの男は、すでに禁足地の手を離れた者なのだから。*男は先を急いでいた。結界を抜け出す時、氷翠王に気づかれたのは誤算だったが、慈悲深く甘いあの人物のこと。追っ手もなく、直に山を抜けるだろうと踏んでいた。だが、先程の氷翠王との会話を思い出し、ふつふつと腸が煮える怒りと憎悪を男は苦い口中で噛んでいた。『黙れ。』『うちの臣下でないのなら下賤と聞く口はない。去れ。』身の程も知らぬあの男でも女でもない半端者に思い知らせてやれば良かった。あの瞬間殺すつもりだったのだが、不意に見せた悪魔のような凄絶な表情に気が殺がれたのだ。今ならば一太刀で動かぬ肉塊にしてやったものを・・・・・・・。と、ふいに目の前に小山のような影が現れ男は立ち止まった。すぐ目の前である筈にもかかわらず、その場所だけ太陽が当たらぬように暗く影が濃い。(おかしい・・・・・・・。)氷翠王への怒りで今まで気づかなかったが、山中であるにもかかわらず何の音もしない。どころか、生きている物の気配もない。静寂が重く。揺らめくものがない。まるで話に聞く死者の国のように。が。唐突に何処からか息苦しいほどの殺気が急速に湧き上がり、それと同時に何かが風を切る音と男の首筋あたりに凄まじい衝撃が走った。辛うじて急所を避けたものの、それに吹き飛ばされ男は雪にまみれた地面に叩き付けられる。衝撃に息が詰まりながらも、幾度も修羅場をくぐって来た男は周囲に気を払い立ち上がった。「九鬼【クキ】、・・・・・・・。」小山のような影、と感じたのは鍛え上げられた恐ろしいほどの屈強な肉体を持つ隻腕の男であった。その黒眼はぎらぎらと陽光を蹴散らし、闇の中の白刃のように爛々と輝いている。七尺ほどはあろうかと思うほどの体躯。九鬼の左手にはそれと同じほどの長さの鉄の太い棒があった。それに男は吹き飛ばされたのだ。掠っただけであろうのに。その高さ、その眼で上から睥睨されれば凄まじいほどの威圧を感じる。だが驕りと相手への侮りをその心に飾り立てている男は慎重さを忘れ、刀を抜き放った。「哀れな半端物の主が所有の闘犬が、たかが一人のために相手の身分も読めず牙を向けるかっ。この阿呆共が!」その怒鳴りに、九鬼は静かな声音で言葉を返した。「己の代わりなど幾らでもいる。」「・・・・・・何だと?」「貴様と我等は同じだ。何故それに気づかぬ。唯一無二は仕える者にはなく仕えられる者にある。それを守る我等は壁だ。死んでも死んでも代わりはいる。むしろ死ぬためにいると言えよう。」「ぬかせ、闘犬がッッ。」「然り。考える能力など要らぬ。」考えるのは上の人間だ。武人は君主を守る為戦う。それのみに終始していればよい。九鬼はその執念のためだけに生きている。「お喋りは仕舞いだ。・・・・・我が主君の御為、その命貰い受ける。」その九鬼の言葉を合図に、男は切りかかって来る。それを避けもせず、待ち・・・・・。九鬼の戦い方は徹底している。一切を防御には払わないのだ。それは氷翠王の戦い方が徹底しているのと同じく、九鬼も目的のために手段を選んでいるのだ。先程、男に述べた目的のために。「才と貴に溺れ、心なく我が主を愚弄した愚物。相応しい惨めさで死ね。」襲い掛かってきた男の刃を鉄の棒で叩き上げる。その九鬼の動作に男の刃は高く浮き、そのため男は敵の踏み込みを許し・・・・・・・九鬼はそのまま深く踏み込み男の下方から切り上げる。そして正眼から、男の喉を狙って突き刺した。踏み込みを許し、己の刀が宙に浮いた状態では男はまず防御は不可能だったのだろう。あっけなく息絶えた男は今際の叫びを上げることも不可能だった。それを見下ろし、九鬼はやや雑な動きで男の喉から鉄の棒を引き抜く。ごぼごぼと厭な音を立てて血が湧き出し、雪を汚す。同じく血で汚れた棒を振り血を弾けば、周囲にはもう山中の音は戻り九鬼の周りの闇も消えていた。
2006年10月05日
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私の魂を表す名を彩る文字は、どちらも“赤”を内に秘めている。 けぶるような砂埃、カラカラと渇いた喉がゴソゴソとした厭な音をたててた。 三年前、七歳だった頃の夏。 戦場に捨てられた私はその暑さをひどく憎んでいた。 私の神である男に捨てられた私はそれでも守人の本能から主である男の下へ戻るため、死に かけていた身体を生に繋ぎ止める為、飲むものも食すものもない荒野の戦場で戦死者の肉と 臓腑を貪り、血を啜った。 主の下へ帰るために。神を命を賭して守るために。その一心で。 その本人に捨てられたというのに。 歩いては食し、這いずっては飲み啜り、けれどそれは長くもたなかった。 騙し騙し酷使していた身体はピクリとも動かなくなった。 降りそそぐ灼熱の太陽に耳が痛くなるような沈黙。 死をまじかに感じた私の前にふ、と太陽が翳った。 太陽光にいたぶられていた身体にその影は心地よかった。 神様の死に逝く私への素敵な贈り物のように思えた。 頬に何か冷たいものが触れた。 それは頬を伝ってひび割れた唇へと染み入って来る。 それはとても甘かった。 (水だ。) 顔を地から上げようと思ったが動けなかった。 (欲しい。) 心臓から突き上げる衝動に私は砂を掻いた。 爪がもげる音がしたが頭にはそんな瑣末なことは入ってこなかった。 耳元で音がした。 靴が砂地を噛む音だった。 人がいたのだ。 こんな吐息がかかるほど近くに。 水はこの人間のものだったのかもしれない。 陽光を遮ってくれた影はこの人のものだったのだ。 肩に手が掛けられるのが分かった。 優しく抱き起こされその水のかかった涼しい心地よい手を身体に感じる。 逆光でよく顔は見えない。 その人は再度水を飲ませてくれようとした。 けれど私には水を飲む力はなく唇の端を冷たい水が滑り落ちていった。 それをとても悲しく思い目を瞬かせる。 ふ、と影が再び濃くなった。 唇にひやり、とした体温を感じる。 そう自覚した時、喉の奥に冷涼で爽やかな水が沁みた。 それを二度三度繰り返してから、口移しで水を飲ませてくれた人の身体は 私から離れた。 普通こんなに暑ければ近寄られていたら苦しいほど熱いと感じるのにその人の 周囲の空気は何故かひやりとして涼やかで心地よく、逆にその人が身体を離すと 私は苦しい暑さに襲われた。 いつの間に太陽が雲隠れしたのか先程まで死にそうになるほど自己主張を繰り返していた 太陽は空から消えて見えなくなっていた。 だから逆光になっていたその人が唇を袖口でぬぐう姿が見えるようになる。 その人の水に濡れた唇は整っていて紅く形よい。 けれど下唇には噛まれた痕があり、少し血が滲んでいる。 たぶん、私が水にがっついた時に付けてしまったのかも知れない。 けれどその血だけではない。 きっと私が口にした臓物と血がこびり付いたのだ。 この時私は背筋が凍るような罪悪感と心臓が震えるような歓喜が走ったのを覚えている。 私が触れた場所からその人が汚れていってしまうように感じたのだ。 この時はその激しい感情の意味が分からなかった。 けれど今はその意味が分かる。 「疾風(ハヤテ)。」 その唇が小さく笑みを形作り、涼やかな声をもらす。 その声に一体何時から其処にいたのか黒の良馬がその人に忠実に近寄った。 そして甘えるようにその首をその人の手に寄せる。 彼らの間にはお互いに対する信愛と敬意があった。 それを見、不意に羨ましく思う。 私と私にとって唯一無二の主の間にはそんな情はなかったから。 だから、捨てられたのだろうか。 いらないから、捨てたのだろうか。 と、その人が馬の背に乗せていた荷物の一部をほどいてそれを手に此方に再び近寄る。 “何・・・・・”と思ったときにはその人は私の前に膝をつき、起こされた私の幼すぎて 細い・・・・・・・というには聞こえが良すぎる虚弱な身体を、始めて見たような綺麗な 着物で包まれた時・・・・・・・・・・・。 その人の顔を私は始めて見、そして認識した。 (・・・・・・・黒髪の、天使・・・・・・・・。) その時、どうして異国の本で一度しか見たことのない天使を思いついたのかは分からない。 けれど思ったのだ。 水を含んだような綺麗な瞳に、私が汚してしまっても・・・・・否、だからこそ美しい ゆるく笑みを刻んだ紅い唇。 硬質な綺麗さとその眼に映る光の渦の悪流、凄烈で凛と冷涼な空気。 黒髪の、私の天使。 そして、その人はその着物の紅が私に良く似合う、と再度瞳で笑んだのだ。 その時から私の中で紅が私を表す色になった。 その人の瞳と同じ、・・・・・・“赤”の色が・・・・・・・・・。 *鳥の鳴き声がして、紅丹【ボタン】は眼を覚ました。寝台から身体を起こし、未だぼんやりとしている瞳をこする。けれど頭は可笑しいほどに冴えていた。今まで見ていた夢のせいかもしれない。氷翠王【シャナオウ】と初めて出会った頃の夢を見ていた。そこでふ、と思い出し紅丹は隣を見る。昨夜、紅丹を抱いて眠ってくれた氷翠王の姿は既に其処にはない。布団を触ってみたが、其処にはもうほとんど熱は感じられず冷たい。だいぶ前に起きたらしい。寝台の横のサイドテーブルを見る。時計はまだ午前七時を指していた。ずいぶん早く氷翠王は起きたらしい。と、寝室から続く扉の隣室から物音が聞こえた。たぶん給仕の者が食事の準備でもしに来たのだろう。紅丹は眼をこすりながら隣室に続く扉を開ける。やはり其処には氷翠王の給仕を担当している者の姿があった。美味しそうなパンの柔らかい香りがする。「・・・・・氷翠【シャナ】は?」給仕の女性に声を掛けると、彼女は少し驚いたように眼を見張ったがやがて朗らかに笑みを向けてくる。「お早うございます。氷翠王様なら、五時ごろに鍛錬に出掛けられてそのまま補給部隊の方にお仕事に行かれましたよ。医師殿と薬師殿の所によってから戻るとおっしゃっていましたから、もうすぐお戻りになられると思いますわ。」「・・・・・・・そう。」少女・・・・・・・紅丹は何か考えるように瞳を窓の外へと逸らせた。少女の白銀の髪は朝陽を綺羅綺羅と撥ね返し、血の青い筋が透けそうなほど白い肌もそれと同じ風情を感じさせる。相反するようにそっと紅に濡れた口唇が、はんなりと美しい。思わずこちらがゾッとするような感情を宿す瞳は、目が覚めるような湖面の碧。とても十歳には見えない。その紅丹の貌は神の悪戯のように恐ろしいほど整い、肌や瞳、髪の色と相まって人形のような冷たさと無機質さ、小奇麗さを見る者に与えている。その紅丹の瞳がある一点で留められた。「・・・・・・あれ、何?」「あれ?」紅丹が指差す先には丹精に作られた鏡台があり、その前には懐紙に包まれた艶やかで美しい黒髪が置かれてあった。「・・・・・ああ。あれは氷翠王様が朝に・・・・・。」「氷翠のっ!?」察しがついて微笑みながら口にする給仕の女性の言葉を切り裂くように断ち切って紅丹は声を飛ばす。だが、もう慣れている給仕の女性は笑みを絶やさずまるでその光景を思い出すようにうっとりと言葉を続けた。「ええ。とても似合っておいででしたよ。短い御髪も。」その女性の言葉に紅丹は逆に頭を抱えた。思い出した、この村の者たちは氷翠が何をしようが諸手を振って賛成するのだ。髪を短くすることが継承権の放棄になろうがなんだろうが、氷翠が笑って幸せそうならそれでいいのだ。そこではた、と気づく。自分も何も慌てる必要もないのだ。(そうよ。何を慌てる必要があるのよ。私はいいのよ、氷翠の味方だから。氷翠がなにしたって全部許す。狗王【クオウ】みたいに説教なんてしてらんないわ。氷翠が何をしようともうそう決めているならそれが一番大事だから。あとのことなんか、私は知らない。)いきなり寝起きの所に遺髪のように置かれている黒髪を見てしまったから動揺し、慌ててしまったのだ。「もう。人騒がせなんだから。」そっと息をついて朝食の用意されたテーブルにつく。よく気のつく給仕の女性は、すかさずコーヒーを注いでくれた。香りよいそれをぼんやりと飲みながら、紅丹は考える。(けど、もう氷翠の長い髪を弄れないのは残念ね・・・・・・・・・。)何にせよ、夢に出てきた三年前とは比べ物にならないほど、紅丹の今の日常は平和そのものだった。
2006年10月03日
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「朱樺の地に戻る気ですか。」神生は氷翠王が髪を切った理由に思い当たりその確信を突いた。脳裏に二人の守人とという客人の姿を思い浮かべながら。正しくは神生の言葉は間違いである。実際、神生が思い浮かべた言葉は、『蒐家の追っ手の手がこちらに掛かる準備をしているのか』だった。その言葉を自粛し、遠まわしにけれど的を得た応えを神生は返したのだ。「ああ。」氷翠王の返事は簡潔だった。わざわざ何者かに追われている者たち・・・・・・・・(しかも二人とも守人である)を禁足地に連れて来たのだ、居場所を突き止められても不思議ではない。その可能性も考えずに連れて来た訳もなかった。それに、追っ手の手が伸びてきても此方には大した損害は無いのだ、実際。追手の大本であるはずの蒐家の宗主が此方に加担しているのだから。まあ、義兄と義兄に結託している蒐家の一派に見つかれば危ういが。元々氷翠王が出奔したのはやむにやまれぬ事情もあったが、主に義兄に蒐家の心臓を握らせ朱樺家を取り戻しその結束を磐石のものにするという目的を達成するためにあった。氷翠王が蒐家に人質になっていた十三年間にその基盤を立ててあったし、蒐家の内部のほとんどを氷翠王は既に掌握していたのだ。一揆に傾いて滅びかけていた蒐家を救い、立て直したのも氷翠王なのだから。蒐家と血の契りを交わしその政に関与する権利を九年掛けて得た後、氷翠王が一番にしたことは蒐家傘下の財閥の総入れ替えをし、事業の拡大を図ることだった。この前代未聞の働きかけに蒐家の貴族連中は腰を抜かし、全員反対したが病床にあった宗主が氷翠王に賛同し有無を言わさず強行した。皆あの明らかに氷翠王を軽んじていた宗主が何故、と目を見張ったが、それも無理のない事だった。だが氷翠王は一年ほど前病床についた宗主と周りがおかしくは思わない程度に接触をしていたのだ。平時ならばどんな思いやりに満ちた言葉でも気にも掛けず嘲笑で返すであろう宗主の傲慢さも、病床という自分の先への不安と心細さからすっかりなりを潜めていた。まして氷翠王は甲斐甲斐しかった。絶妙のタイミングで与えられる奇跡の様な思いやりに満ちたまなざしと手、それから不安と自分が何もできぬというもどかしさを包んで否定してくれる温かくも優しく柔らかな物腰。実の子供達が臣下の者に任せっきりにし碌な看病もしない事も拍車を掛けただろう。毎日毎日、自分の看病に明け暮れてその白く繊細な綺麗な氷翠王の指が少しずつ荒れていくのを宗主は見ていたのだ。これが宗主でなくとも誰でもほだされただろう。氷翠王が自分を救いにきた自分だけの菩薩にでも見えたに違いない。すぐに宗主の氷翠王に向ける眼差しは親愛と信頼、情愛へと代わっていった。蒐家の人質である、という氷翠王の自分に対して弱い立場もそれに一役買っているだろう。絶対的な信頼を向けている氷翠王の選択に宗主が否を言う筈もなかった。そうして氷翠王は事業を選別して拡大していった。それが着実に利益を上げ、段々と蒐家が立ち直り始め蒐家の臣下や他貴族の信頼を得るようになった頃、羊毛を主としている蒐家の紡績を氷翠王は他貴族に売却した。この紡績はかなりの利益を上げていて、今後もその利益は伸びるだろうと思われていたので蒐家の者はかなりの反発をした。が、氷翠王が『今でこそ羊毛を主とした紡績は行っている者が少なく利益も高いが、他の多くの財閥もそれに目をつけ始めている。もうすぐ嫌でも価格は驚くほど下がるだろう。ならばその前に他に高く売却した方が利益は比べ物にならないほど高い。』と説得すると、氷翠王の意見に傘下の財閥は誰も反対する者はいなかった。これには蒐家の者は度肝を抜かれた。ほとんど独断のような提案に傘下の財閥はもはや反論もしなかったのだ。いつの間にこれ程の信頼を得たのか。実際数ヵ月後には氷翠王の言うとおりになり、被害を受けなかったのは蒐家と朱樺家だけだった。誰もが氷翠王に厚い信頼と情愛を向けた。誰も氷翠王無しでは蒐家が立ち行かぬ事になっていると気づいた者はいない。これで氷翠王が人質として責を逃れ、自分の臣民の待つ故郷に帰りその上で蒐家の政と財政を動かしても誰も文句など言えぬ程に。蒐家の者は氷翠王の手によって蕩ける程に甘やかされた事に気づいていなかった。自分達が何もしなくてもまるで神の手が蒐家の建て直しを図っている様に、どんどん氷翠王の手から与えられた。気づいた時には誰もが氷翠王の指示なしには何もできない者になっていた。逆に朱樺家の者は君主である氷翠王がいない間、領地を支えなければと鉄の団結を示し奮起していた故に、一人一人の才覚が尖るように際立ち磨かれ凄まじい団結力であった。後に、恐らくこの人質時代があってこその朱樺衆と言われる程に。朱樺家を取り込もうとして逆に取り込まれたのは蒐家の方だった。五歳の頃から人質生活を送っていた氷翠王は猫の子ではなく、まさしく朱樺家の前宗主であった父と同じく猛々しい虎の子であったのだ。とんだ薮蛇をつついたのだ、蒐家は。唯一の誤算は、他国に追いやられていた色狂いの蒐家の長男が氷翠王の帰郷の時に戻り、『君のために俺は全てを捨てたんだ。』と迫りそれを氷翠王が断れば『お綺麗な顔をして俺の親父まで咥え込んだ淫乱のくせに、俺を拒む気かっ!?』と真も実もない言葉で氷翠王を貶め、挙句の果てには刃傷沙汰になり、それでも飽き足らずこの長男は氷翠王が蒐家に謀反を企てていると嘘ばかりの言葉を流したのだ。氷翠王が十四の時に強姦して子供を生めない身体にしておいて、何が“全てを捨てたんだ”なのかは氷翠王にはさっぱり分からなかったが。蒐家の者は誰も信じなかったが、氷翠王の腹違いの兄だけは違った。氷翠王と兄にはかなりの因縁があった。兄の拷問にも堪えながら氷翠王はそれでも出奔などするつもりはなかった。こんな事がこのままにされて置く筈もないと分かっていたのだ。すぐに、助けと蒐家からじかに手が入れられる事も分かりきっていた。それ程までに蒐家は氷翠王の手を必要とし、無くては生き残る事すら危うい。長男と引き換えにしても手放す筈が無かった。そうでなくともこの男は蒐家の足を引っ張る事しかしていないのだ。・・・・が、その前に朱樺家の古参の臣下が氷翠王のために反乱を起こした。実際、後一歩遅れていれば氷翠王は兄に殺されていたかもしれない。だが現実に起こしてしまった反乱は、はいそうですかと取り下げられる訳もない。このままでは一族郎党が滅びてしまう危険があった。だから氷翠王は反乱組に助け出された後、拷問で負わされた傷と痛みに立つこともままならない身体を駆使して陣頭で指揮をとり、わざと兄と敵対して見せた。そうして反乱組にも兄の郎党にも被害を負わせない程度で引き下がり、反乱組を連れ出奔した。こうすれば兄達だけは身内と敵対してでも蒐家に変わらぬ忠誠をたて、命を削る覚悟もあると言い訳もたつ。朱樺家を半分に割ってしまうが、全滅はしない。氷翠王を見つけて曳き立てるまでは目は向かない。そうして禁足地に来た。これらを指揮し実行したのは氷翠王とその腹心たちだったが、これには蒐家の宗主も手を貸していた。義兄と結託をしていた蒐家の者たちの反対にあい、氷翠王への助けが間に合わぬと判断した蒐家の宗主が朱樺家古参の臣下が朱樺家の今の実権を握っている義兄に叛乱を起こしたと聞いて出奔の用意を整えたのだ。宗主は実際、養子にした氷翠王を後継者にするつもりだった。病床の宗主は長女が政に向かぬこと、才がないことを知っていたし、蒐家の名に泥をぬった長男は既に【貴】の名を返上させてあった。後二人の息子はいたが、どちらも家名を継ぐ気はないと継承権を放棄していた。氷翠王が居ない今、傘下の財閥を動かせる才を持つ者は蒐家にはなく朱樺家に在る義兄しかいないことを氷翠王は知っていた。自分がそのように仕組んだのだ。財閥の選抜と事業の拡大、立て直しに関しては蒐家の部下を育てず手を一切触れささなかった。蒐家と朱樺家、領地と領民の細かい管理も少しずつ時間は掛かったが独裁するようになっていた。蒐家の者は蒐の領地に関する書類すら何処にあるか分からないだろう。権利書も氷翠王が手に入れていたのも知らなかったのだ。そうしながら氷翠王は義兄にだけは情報を流していた。財閥のほうも義兄の思う通りに動かせるまでになっていた。最初から氷翠王は蒐家から朱樺家を取り戻した後は全て義兄に譲るつもりでいた。その過程の進み方は考えていたものとは異なったが、実際、今義兄はその実権を全て握っていることだろう。それが氷翠王が出奔して二年経った今、ひるがえされても困るのだ。氷翠王が見つかって一番立場が危うくなるのは義兄である。蒐家の宗主がいまだ亡くなっていないならば。義兄の一派が先に氷翠王を見つけたならば氷翠王を殺せばいいだけだが、宗主が見つけてしまった場合は。氷翠王とて今更義兄に譲ったものを脅かすつもりはない。髪を短く切ったのはその表明だった。長い髪は貴族の特権であったからだ。実際的ではないその風習をどうと思ったことはないが、表明としては一番分かりやすいだろう。この短い髪は。朱樺の跡を継ぐ気はないが、死ぬ気はないのだ。「あなたは本当に仕方がない人ですね。」氷翠王の考えていることを察したらしい神生はやはり呆れたような声を漏らした。それに氷翠王は瞳だけで微笑む。「“アレ”はあなたが自分を犠牲にしてまでも守る価値があるものだとでも?」冷ややかなその言葉の割りに、神生の声は暖かく優しかった。「----------------------。」その声に、氷翠王は悪戯を思いついた子供のように朗らかに笑った。
2006年10月02日
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早朝。夜陰の藍、血の朱色、明けの橙に緩やかに空が染まり。雪原をも空の光の色にゆるり、と染め上げていく。耳は森の息吹の音を感じ取り、己の身体もそれに同調し呼気はだんだんと深く静かになっていく。翡翠王【シャナオウ】は己の呼気が整ったことを知ると伏せていた瞳を上げた。その右片手には刀がただぶらりと下げていた。だが、刀を抜き身で持っているにも関わらず翡翠王の立ち姿は一見して戦闘的ではない。無造作にただ、なんの予備動作もなしに、ただ、立っている。・・・・・・・だが。翡翠王は脳裏に敵の姿を思い浮かべる。翡翠王にとってはこれで、戦闘態勢として過不足ない。この状態からほぼ一挙動で攻撃できる自信を翡翠王は持つ。その体勢のまま、持っている刀を鞘に納めた。刀を抜き身にしていたのは、ただ己の間合いを確かめるためだ。その体勢のまま納刀をすれば一層、翡翠王のその状態は無防備に映る。この状態で何ができるというのか。決まっている。居合いができるのだ。納刀状態からの即攻撃。抜刀が、即ち斬撃となる。基本用途は不意打ち、奇襲にあるが居合いには刀が鞘内にあるため攻撃の間合いを把握されにくい。それにこそ意味があった。翡翠王をよく知る人物であったならたいていはこう聞けば驚くが、翡翠王は奇襲攻撃を得意とする。というより、後手後手に回るのを嫌うのだ。相手の先の先を取る。知り合いは翡翠王の戦い方はと言えばその性格から相手が討ってきたところを迎え撃つ、というように思っているが、それは違う。氷翠王の戦い方は今まで置かれていた立場上、一人で多くの敵と戦うことを前提としているため、後手に回る・・・・・・と言う事は即、死を意味する。それ故に、氷翠王の型は奇襲を旨としたものが多い。剣の最も重要なものは太刀筋である。振り上げた刀で敵の首を断ち、そのまま下ろした反動で二人目の腹を掻っ捌く。夜闇の中、奇襲の上流れるようなその太刀捌きと容赦の無さでは一人で十を殺す時も三分とかからない。居合いもその術の一つである。それだけではなくあらゆる体術を駆使した氷翠王の戦い方は、剣を極めた朱樺【シュカ】家の血筋とは思えないほど、素人目にはトリッキーに映る。が、それは間違いである。氷翠王があみ出す奇襲攻撃の術は全て朱樺の剣術の基礎を踏襲している。若干異なるとすれば、戦に出た際に太刀筋が少し変わったぐらいのものだろう。この皓【コウ】国の良き風習か悪しき風習か、武家や軍部の戦い方は正々堂々を基とし、弓矢や銃器などの飛び道具を使うことと果ては夜陰に紛れての奇襲や火矢による火責めなどは卑怯者のやり方と蔑まれ使う者は滅多にいないが。使うとすれば形振り構っていられない盗賊や農民、地下に潜っている反逆者ぐらいだろう。と言っても、上の者・・・・引いては皓国にその風習が無いため、それを思いつく者、思い至る者は皆無に近いが。そのため氷翠王は戦の際、反発と驚き畏怖を多いに買ったが手法は変えなかった。己個人の戦い方も、兵に指揮した戦略も基本は奇襲。そして軍にはかなり少ない弓兵を手ずから育て、五倍の人数に増やした。銃兵の人数はそれほど増やしはしなかった。金が掛かり過ぎるからだ。氷翠王の直属の部隊は弓兵が主となっていた。奇襲に弓兵は欠かせなかったし、真正面から戦う時も出だしで少なからずの敵の戦意を殺ぎ、数を減らすことができるからだ。戦はただ勝てばいいと言うものではない。勝ちはしたが手勢の半分以上を失った、では話にならない。最小限の被害の上、最大限の効果を挙げた者のみが勝者と呼ぶに相応しい。名誉を重んじ負け戦をするより、卑怯者の汚名を面に引っかぶって勝ち戦をする方が氷翠王の目に適っている。実際、人質として蒐【シュウ】家によって戦に狩り出されている朱樺家の者たちの犠牲を大きくしたくなかったのだ。彼らを戦で指揮する権限を与えられたのなら尚更。その時から氷翠王の戦の指揮はもちろん個人の戦い方も奇襲に特化していったのは自然の理であろう。それは今でも変わっていない。否、さらに磨きがかかったと言えるだろう。当たり前だ。男でも女でもないこの“無性体”の氷翠王の身体は膂力、脚力共に鍛えてあるが故の凄まじさを兼ね揃えているが、相手が女であれば比べるべくも無いが男であったなら真正面からの力比べなど勝てるわけも無い。それ故に今まで培って来た・・・・否、あみ出してきた戦術は身体的にも氷翠王には合っていた。「・・・・・・・・・・・・。」キツイ眼で前を見据えていたがその視界に濡れたような黒が映る。風によってなびく己の前髪を掻き上げ、自然なしぐさで瞳を上げた。もうその時には氷翠王の瞳には厳しい光は消え失せ、代わりに潤むような琥珀の色と穏やかで凛、としたひやりと涼やかな気品があった。「一体何をしているんですか、あなたは。」その背に冷ややかなけれど低音の美声が掛けられる。その声に氷翠王は驚いた風もなく、乱れぬ挙措でゆっくりと振り向く。そして声の主に一点の非もない優雅な公子然とした笑みを向ける。聡明で誇り高い生まれながらの【貴】の血筋の者の微笑を。「お前こそどうした、このような場所で。」他人との対話も先手を打った方が優位だと氷翠王は無意識下で知っていたからだ。そうしておいて個というものを認識する上で最も重要な“名”を、呼ぶ。「神生【カミオ】。」「・・・・・・・・・・・あなたという人は・・・・・・。」男は呆れたような苦々しいような眼差しを返してきたが、瞬時にその声音からは先ほどの冷ややかさが消え失せた。そして男・・・・・・・神生の眼差しからも徐々に凍て付いたような色は溶け落ちていく。他の者が神生のこの様子を見れば驚き、腰を抜かしたであろうが、神生の生来の気質である冷ややかさは瞳から消えてはいない。ただ、この二人が揃っている時は別の感情の色が互いを尊重し気遣い合い、色を代えるのみである。故にこの呆れたような神生の一言は今までの意思疎通であり、手段であり確認であり、事後の確認であった。それ故に氷翠王もそれに確認の言葉を返す。「お客人が眼を覚ましたのか。」「ええ。後は放っておいても勝手に回復するでしょう。」氷翠王の問いに答えを一言だけ返し、神生はそれきりその件に興味をなくしたようにその美しい黒髪を肩から払い、冷たい印象を与えるほど整った美貌を氷翠王に向けた。そして訝しげにその流れるような柳眉を顰める。「その髪は何です。」「悪くは無いと思うが。変か?」そう聞く言葉は殊勝だが氷翠王の態度には“別にそれでも構わない”という傲然としたものが表れている。「いえ。ですが昨夜まではその艶やかな御髪が腰ほどまであったように思いますが?」“では残りは何処にいったのでしょうね”と続けながら神生はその肩にも掛からないまでの長さになった氷翠王の黒髪を梳いた。その柔らかい感触は当然見た目のまま、細い首筋に掛かっているまでしかない。前髪は昨夜と同じほどで少し長めだが、分けているので見た目は全く鬱陶しくは無い。逆に分けた前髪が少し伏せた瞳に掛かるのがそこはかとなく凄絶な瞳の強さがより強調されている。横髪が白い頬に掛かるのもそれと同じだ。顔の輪郭が髪が長かった時より露わにはっきりとなったせいで、氷翠王の硬質な綺麗さにより一層磨きが掛かったように見える。まるで職人が技術の粋をかけて作り上げたドールのようだ。前は髪に隠れていた細い首筋が露わになっているため、危うげな色気までがある。そのため肩の細さと薄さも強調されている。今、氷翠王が身に着けている服のせいもあるだろう。銀ボタンの白いシャツをゆるく第二釦まで開け、黒のズボンという軽装である。髪が長かった時なら“無性体”という性別の無い身体でも女性に見えたが、今は中性的な観が強く少年に見えないことも無い。ただ、凄絶な瞳の光の強さと硬質で清廉な美しさが、細い身体の線でありながらも弱弱しさと侮りを寄せ付けない。故に神生は口を開いた。「朱樺の地に戻る気ですか。」、と。
2006年10月02日
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