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(・・・・・・・・・・・・・・・・・。)世界中の全てが死に絶えてしまったかのように。耳がキン、と痛みを感じるほどの静寂の部屋。観音開きの大きな窓と真っ白い寝台。窓から逃げられないようにとの意図を込められたこの塔の天辺の石畳の部屋の中にはその二つしか置かれてはいなかった。(・・・・・・・・・。・・・・・・・白い。)日没前の弱い溶けた岩紅色の陽射しが窓から差し込む中に、ふ、とたった一つだけ異色のものが空から舞い込んで来たのが見えて、寝台に左手を鎖で繋がれていた幼な子は健気にもたどたどしくその身を起こした。(・・・・・・・白い・・・・・・・、白い、花・・・・・?)動きが鎖のせいでままならぬ身体で開け放っていた窓の縁に手を掛け、身を乗り出すようにして繋がれていない片手を空に向かって差し出す。「・・・・・・・・・・・・・・?」空から舞い落ちるその白がまるで自分の小さい手のひらにキスをするように堕ちて来たのを捕まえて、幼な子はそのくっきりした瞳を大きく見開いた。そして再びその手のひらを開き、驚いたようにその白を見つめる。「あ・・・・・・・・・・・。」舞い降りて来てなお、逃げていかない白に、幼な子は初めてはにかむように頬を綻ばせた。その雪のように窓から舞い降りた白は、桜の花弁だった。けれど幼な子は、それが桜だとは知らない。ただ、その綺麗なモノに純粋に惹かれただけだ。そして幼な子はその桜の花びらを宝物みたいにそっと寝台の上に置いて、壊れ物のように大事に扱い、飽きぬように眺める。五歳の時から外に出ることを許されていなかった“彼”にとって、桜は始めて見るに近いものだったから。だがその静寂は唐突に破られた。「やあ。待っていたよ。」その背に突然後ろから揶揄かうように声が掛けられた。“彼”の後ろには窓しかないというのに。鷹揚とした、けれど何もかもに関心がないような大人の悪艶のやどった男性の声。さっきの白が降って来たのと同じような驚きに、幼な子は振り返る。「・・・・・・・・・・・。あなた、誰・・・・・・・?」少し険しくなった瞳を突然の闖入者に向ける。けれど幼な子のその瞳は不審を現しているはずなのに、透徹としているように澄み切っている。全てを受け入れるように、もしくは全てを諦めたように。否、幼な子というよりはもう少年と呼ぶに近い歳かもしれない。「ほぉ・・・・・。いやはや、今回の君はずいぶんとちびっこだね。」“彼”が振り返った先には窓にゆるく身体を凭せ掛け、軽く傾けた背に腕組みをした変わった洋装の男が佇んでいた。その整った容貌に鷹のように鋭いけれど不思議と甘い金色の瞳が“彼”に、有り得ないほど高い塔の窓から現れたという事実も相まって『逢魔が時』という言葉を思い出させる。整いすぎた容貌に謀ったように幻想的に降りかかる夕闇とその有り得ない登場の仕方が男を妖魔のように見せていた。「・・・・・・誰。」愉快犯的な笑みを愉しげに浮かべている男に、今度は幼な子は強い口調になる。「君は?君はどうなのかな。・・・・・・・君は君自身の記憶を持っていると、そう言い得るのかい?」「・・・・・・・・何・・・・?」いぶかしみながらも今自分が抱えている問題を男に指されているようで、幼な子は胸元の服を両腕でぎゅっ、と握り締める。「君の名を教えてくれないか。」「・・・・・・・・・・・・。」「答えられたら君の聞きたいことを何でも教えてあげよう。」再度促される。訳が分からないながらも、人の名を聞くのならまずは自分が名乗るべきではないのか、と思ったことを見透かしたのだろう男は、交換条件でそれに返してきた。答えるべきだ、とは思わなかったが幼な子は律儀に答える。何故かこの男には嘘偽りなく相対しなければいけないような気がしたのだ。「小鳥遊【タカナシ】だ。」「他は?」「・・・・・・・・・・・・・・・。」すかさず返してきた男に幼な子は怪訝とした視線と名とは一つしかないものだろう、という憮然とした視線を返した。それを受け、男は大げさに肩をすくめる。大仰な格好に大仰なそのしぐさは妙にその男に似合っていた。「・・・・・・・まさか本当に記憶が失くしているとは思わなかったよ。・・・・・・・・・・・本当に厭な事をしてくれる。」「・・・・・・・・俺の記憶がない事を知っているのか。」少し目を見開いて返す幼な子に、男は嘆くように白い絹手袋を着けた手で額を押さえる。そのときにビロードのような柔らかな黒に近い茶色の髪が男の伏せた瞳にかかり、幼な子はふと触ってみたい衝動に駆られた。さっき、桜の花びらに初めて触れたときのように。「・・・・・・・・・うん?何かな。」その幼な子の視線に気づいた男は石壁に凭れていた背を離し、幼な子と視線が合うように床に膝をついた。そうする男にまるで警戒心を抱かない自然なしぐさで幼な子はその小さな手で男の髪に触れる。男は少し驚いたように身じろぎしたが、身体を離しはしなかった。幼な子の好きなようにさせている。そうして男の髪を梳いていた手を満足したように止め、幼な子はキツく閉じられていた口元を緩めた。その表情をすると幼な子の雰囲気は柔らかくなり、まるで微笑んでいるように見える。「・・・・・柔らかいな。」「・・・例え髪の毛一本でも君のお気に召したのなら、光栄だ。・・・・・・・以前は君に会いに行けば君に弓矢で射掛けられたからな。」妙にしみじみと言う男の言葉に、幼な子は微かに首を傾げる。「記憶がなくなる以前の俺のことを知っているの?」「うん?・・・・・いや?今生で会うのはこれが初めまして、だね。生憎と。」「・・・・・・?でも、記憶がなくなったことを知ってる。」「そりゃあ、君が私のことが分からないなんて記憶喪失でないと有り得ない。」事態の把握ができないように幼な子は少し難しげに眉を寄せ、問いかけようにも何を問いかけたらいいのか分からないように唇を悔しげに噛み締めた。それを安心させるように穏やかに男は幼な子に話しかける。「大丈夫だよ。すぐに戻る。・・・・・いつから記憶がないんだい?」「・・・・・・・此処に来てから。」「蒐【シュウ】家の屋敷に来てから?・・・・・・・なら、二日前ぐらいからだ。大丈夫。あと一ヶ月もすれば戻ってるさ。君のコレはいつもの年中行事だ。」「年中・・・・・・・・・?」一体どういう意味なのだ、それは。「そうだよ。いつものことだ。・・・・・・・次に私が分かるようになる頃には、今までの君の記憶と共に前世の記憶も戻る。・・・・・・・・・・・君が使命を違えないように。」「・・・・・・使、命・・・・・・・?」たどたどしく言葉を辿る幼な子を見、男は自嘲の笑みを浮かべる。「そう。・・・・・・・・それにしても、君は此処に来てから小鳥遊としか呼ばれていなようだ。それは君の名じゃないんだがね。・・・・まったく、不愉快なことをしてくれる。」「・・・・・・・・・・。」「君の今の名は、氷翠王【シャナオウ】。・・・・・・・・・全てが凍てつき死んでいく世界の雪の名だ。・・・・・・君の御父上は“分かって”おられたようだね。」「・・・・・・・・しゃ、な・・・・・・おう・・・・?」まるで慣れない、刺々しいものを舌の上で転がすようにたどたどしく自分の名を繰り返す幼な子に視線を向け、男はその小さい手元に瞳を下ろす。その手には先ほどからまるで本当に大切な宝物のように乗せられている小さな白い花びらがあった。それを見、男は自嘲の笑みを唇に佩き、何よりも危うげな自分の片翼が歩んできた今までの長い転生の日々のことを思い出した。そして幼な子には聞こえない声で低く呟く。「・・・・・桜、ね。狂い咲きもいいところだな。たしかに綺麗だ。君の好きな花だものな、コレは。・・・・・・・・・・・本当に酷い約束をさせたものだ、君は。・・・・・・君はこんな幼い君までも殺させようと云うのだから・・・・・・・・・。」男のその言葉は、夕闇と共に吹き込んできた風に、千切れて飛ばされていった。
2006年07月24日
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故に、先ほどの台詞になる。『で、蒼炎。お前から見た“アレ”はどんなだ?』その焔蝶の言葉に、『・・・・・・・、健やかな方ですね。』ほんの少しの躊躇いを見せ、それでも、蒼炎は相手を尊重する響きを保ち、こう返した。“健やか”・・・・・・・・堅気ではない限り、それは褒め言葉にはならない。蒼炎も丁重な態度ではあるが、話に振られた相手を褒めてはいなかった。昨日の朝、九年ぶりに会った成長した“彼”・・・・・・・氷翠王の姿を焔蝶は再び思い浮かべる。『ほぉ・・・・・随分大きくなったな。小鳥遊【タカナシ】。』氷翠王という本名ではなく、九年前に侮蔑を込めて“彼”に与えた、他の呼び名である恙【ツツガ】、もしくは小鳥遊【タカナシ】、の内の一つの蔑称で呼ぶ。“彼”がどういう気性に育ったかのかを把握したかったからだ。九年前に与えられた蔑称・・・・・・・たかがそれだけと言えばそれまでだが、だがその蔑称のせいで名を呼ばれる度に真名をワザと避けられ、侮りと蔑みを込めてそう呼ばれる。朱樺家でいた時には、厳しい躾と次期宗主として育てられていたのだ“彼”のこと・・・・・・敬愛する父君のつけた名を我が名として名乗ることもできず、わずか五歳の時から毒のある蔑称に日々堪えてきたとは言え、幼い“彼”には酷い打撃だったであろうことは想像に難くない。その発端を起こした人物が憎くないわけはなかろう。そうしてその本人がまた、その名で呼ぶのだ。蒐家の屋敷に“彼”が移ってきたその初日に。それはこれからも“彼”の呼び名が此処で定着することを示す。激怒して掴み掛かるか、悲しげに目を伏せるか、諦めの表情を浮かべるか、卑屈な追従で擦り寄ってくるか、皮肉で切り返すか、逆に冷笑を浮かべるか・・・・・・・・。色々な思惑の孕んだこの問いに“彼”がどう反応を返すかでその人となりが分かる。例に挙げた一番前なら先を読めぬ愚物、前から二つ目と三つ目なら覇気がないどころか自分のことすら何を成そうともせぬ怠惰ぶり、後ろから四つ目なら論外・・・・・・。これが一番こちらとしては都合が良いが・・・・・・・これなら思う様朱樺の地を食い潰せる。だがこの場合正妻にはせず、朱樺の地に丁重に送り返した後、取り潰すが。後ろ二つなら、焔蝶にとっては面白いが、“彼”の先は失われるだろう。だが、氷翠王の態度はこのどれとも違った。『御目を汚し、申し訳ありません。先の年と変わらず御健勝とのこと、数ならぬ身ながら影より嬉しく思っておりました。』奥ゆかしい、殊勝なその言葉は一歩間違えれば卑屈なものとして映っていただろう。だが、氷翠王の瞳にはまっすぐなまなざしと微笑が浮かんでいて、そのようなマイナスの印象を微塵も寄せ付けはしなかった。見事だった。簡潔な挨拶を乗せる口唇と顔には無表情一歩手前のストイックな涼やかな真顔。肩にも掛からない短い、けれど艶やかな黒髪は細い首に掛かっている。少し長めな前髪はけれど目を伏せた時に瞳に掛かる程度でしかなく。男でもなく女でもないと云われる無性体という割には、見た目は少年には見えるが少女には見えない。恐らく、その涼やかさ故に。綺麗に通った眉と鼻筋。睫は長く、目元に深い影を落としている。それに彩られた瞳はくっきりとしている。色は燃え立つ溶岩のような狂おしいまでの強い紅蓮に、それを押し込めるような蕩ける様な琥珀。その二つが交じり合った瞳は朱金。その激しい二つの色の鬩ぎ合いが、見る者に身体に直接触れられているようなセクシャルな興奮を与える。それらの硬質な綺麗さを与えている顔のパーツとは唯一異なった、少しぽてっとした唇は幼く可愛らしいような、欲情してはれぼったくなった後の何とも云えない艶があるような、危うい色気がある。陽の華やかな印象と、生粋の硬質な綺麗さ、美しさの両方を兼ねそろえた顔立ちだった。それに合いまい、出だしの冷静で丁重な挨拶の切り返しと今まで見たこともない美貌に焔蝶は驚いたが、それだけだった。悪印象など受けようもない、水の澄んだような涼やかさと爽やかさ、高い好印象な若者。だが、代目を継ぐ人物としての印象としては普通すぎた。小奇麗な顔をしたただの子供。これが過不足のない焔蝶の感想だった。そのまま、その日の夜が明けるまで氷翠王と過ごしたがその印象は変わらなかった。曲がりなりにも朱樺家宗主の・・・・・・あの男の血を引いているのだから、こちらの心の臓に響くようなカリスマなり気概なり見せてくれるものと踏んでいたが、肩透かしだった。良くも悪くも普通の若者だ。素直な喋り方と慎み深い面、拗ねたり怒ったり時折照れるような素振りを見せたりという面も、共に時間を過ごせば、まあ、可愛らしくはある。しかし、裏世界の人間をそんなもので従えられるわけもない。だが、あの初めの言葉の切り返しなり、落ち着いた冷静な態度なりを見せられていたので、逆にこのあまりの普通ぶりは演技のように思え、本性を引き出してやろうと押し倒して構ってみたが反応は変わらない。(まあ、俺の身体に傷を入れたのは多少は刺激的だったがな。)左手の親指の付け根を焔蝶は軽くなぞった。硬い歯の感触がよみがえる。意外と咬み痕は深く、血はなかなか止まらなかった。本気で噛み千切ろうとしていたのかもしれなかった。その時を思い出す。その瞬間の時、“彼”の眼に強すぎる色【感情】が宿ったのだ。身体中の血が滾るような。リアルすぎて息の根が止まりそうな強い、色【感情】が。決して、“普通”の子供が浮かべる種類のものではない類の危ういながらも獰猛な“何か”が。だがそれは、焔蝶の氷翠王を見つめる眼差しが険しく色を変えた刹那の一瞬に失せて無くなった。「・・・・・・蒼炎。」それに、幼いながらもあんな波乱万丈な生き方を強要されながら、あの不自然なほどの普通な育ち方はあまりにもおかしいように思うのだ。「何ですか?焔蝶。」焔蝶が名を呼ぶと間を置かず、蒼炎は応えを返す。蒼炎がその柔らかい口調で自分の主である男をクヌギ、と名前を呼ぶのは二人きりの時だけである。長年の旧友である蒼炎に敬称で呼ばれるのが慣れず、焔蝶がそう命令したからだ。その蒼炎に視線を据え、焔蝶は愉しげに笑って見せた。「“アレ”をおまえに預ける。」「・・・・・氷翠王殿をですか。」少し驚いたようだが、蒼炎の穏やかな表情は揺らがない。だが少しは困ったように眉を上げた。そして微かな遠慮も無しに言う。「困りますね。」「だが、断らねぇだろ。」にやり、と笑う焔蝶に蒼炎もにっこりと笑って返した。「ええ。僕は焔蝶の犬ですから。」それに視線を返す焔蝶は実に愉しげだった。「“アレ”をどんな風に扱ってもいい。うちの育ちすぎた愚物の長男はもうどうにもならん。人の性なんざ変わるもんじゃねぇからな。だが“アレ”はまだ幼い。育て直しもできるだろ。」「猛る虎の風格でも、抗えない白蛇の淫らな色香でも、慈愛に満ちた菩薩でもなんでもいい。荒くれ者どもが納得するほどの風格ならなんでもいい。おまえのいいように色をつけてみろ。刺青でも何でもお前好みにすればいい。ただし、愚物と獅子【王者】の風格はいらない。」焔蝶の険しくも愉しげな眼差しは煌々と強い光を宿している。実に、愉しげに。
2006年07月19日
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螺鈿細工や漆器、壁には水晶末で描かれた画が掛けられえもいわぬ静謐な雰囲気を醸し出している室内に襖から射し込む陽射しが、ふっ、と翳った。まるで部屋内の重たい空気を察したように。「で、あの阿呆の部下は何人殺された?」焔蝶【クヌギ】のうっすらと口元に笑みを浮かべた問いかけに、さらに部屋の温度がすうっと下がる。「さあ・・・・・、六、七人、という所でしょうか。」焔蝶の陰惨な空気に負けず劣らず穏やかではなさ気な雰囲気を漂わせながらも、蒼炎【ソウエン】は静かに穏やかな微笑みを浮かべ、応えを返す。只ならぬ空気が満ちている中二人の笑顔だけは本物で、もしこの光景を見る者がいたならそこはかとない恐ろしさに肝が冷える所か腰を抜かしたかも知れなかった。何より、口にしている内容と笑顔が噛み合っていないのが更に恐ろしい。「進退窮まってる朱樺【シュカ】の連中にしちゃあ上出来じゃねぇか。」己の血筋の者が殺されたというのに、手酌で酒を飲む焔蝶の口元に浮かぶ笑みは心底本物だった。数日前になって、行方不明になっていた蒐【シュウ】家の長男の取り巻きである参謀の男たちが死体で帰ってきた。一気に同じ派閥の男が十人近くも姿を消すのが普通でなければ、死に様も普通ではなかった。焔蝶も今朝それを見て来たが、その死体を見ただけで殺した者の思惑が理解でき、その暴挙の意味に堪え切れず哂った。死体を前に哄笑する主を見てしまった部下たちは、さぞ肝を潰しただろう。群れをなす死体共は全て、骨魚のような有様だった。骨と心臓だけを残して血肉を削ぎ落とされて水槽の中を泳ぐ骨魚のように、男たちの死体は全て皮膚を剥がれ肉を削り落とされていた。しかもその切り口は尋常ではなく奇麗であり、部分部分の出血は少ない。恐らく、男たちは身体中を肉を削ぎ落とされるまで生きながらせられたのだろう。骨魚のように。一番最初に見つかった死体だけは鼻を削ぎ落とす特に失敗したのだろう、傷口がいきなり深くなり多量に出血したようだった。だが、彼は一番幸せであっただろう。地獄の恐怖と激痛から最も早く抜け出せたのだから。だが、その後からは手元が狂ったような傷口は見つからなかった。二人目からはそのような失敗は見つからず、あまりに見事な切り口だった。哀れな死に方をした男たちは、全て蒐家の長男の取り巻きである。その顔に焔蝶も蒼炎も見覚えがあった。長男が市井のゴロツキばかりから集めてきた男共はどれも蒐家の宗主である焔蝶や参謀である蒼炎が気に留めるほどの者たちではなかったが、ある事件を皮切りにその全ての人となりを知ることとなった。“蒐家の長男が朱樺の御子を強姦して、犯し殺し掛けた”などという実のある噂が響き渡り蒐家内だけではなくよりによって“朱樺”の地まで届いてからは。長男が相手にしたのがただの村娘などなら問題はなかった。蒐家は何の問題もなく、その件を揉み消しただろう。だが、そうはできなかった。その相手はよりによって、九年間もの間、人質として捕らえていた朱樺【シュカ】家の幼い宗主の御子・・・・・氷翠王【シャナオウ】だった。九年前、朱樺から奪いそのまま今の年の春まで北の地で監禁されていた“彼”である。“彼”を此処に置いているのは大義名分とは言え、九年前の朱樺家との確約の書には“今は幼年の宗主しか持たぬ朱樺家を他家から守るため”とある。条件を拒めば朱樺の地を我らが攻めるという暗なる脅しと共に・・・・・・・・、それを拒める力を宗主とその御母堂を亡くした朱樺家は持っていなかったのだ。そうして朋友の契りを結んでいた朱樺家を、今度は蒐家の国であるという血族の契りを結んだのだ。そうして半ば以上一方的に結んだ契約だが、唯一つ朱樺家が提示してきた条件がある。曰く、“亡父の御形見、現宗主の絶対の無事を約すること”。つまり、氷翠王【シャナオウ】だ。そうして氷翠王が成人するまでの間の朱樺の地を有する権利を蒐家は得たのである。その“彼”の無事を約するどころか、“蒐家の長男が朱樺の御子を強姦して、犯し殺し掛けた”のである。そしてそれに加担していたのが、今回死体で発見された男たちである。しかも長男には隠して、“彼”を輪姦(マワ)していたのだ。とくれば殺された男たちは、証拠など残されていないが朱樺家の報復であろう。そして何より、あの骨魚を模した殺し方は、朱樺の地に伝わっている主に背いた大逆を負った罪人に対する極刑とまったく同じやり方だった。隠しもしないこの朱樺家のやり方は、蒐家に事後の相応の始末の仕方を求めているのだ。今、朱樺家は蒐家の支配下にあるとはいえ、この後の事後処理の仕方を誤れば朱樺家は叛旗を翻すだろう。朱樺衆が今の今まで逆らわなかったのは人質になった宗主の忘れ形見である遺児、氷翠王の無事を慮っていたからである。その保証が今回、長男とその取り巻きの行動によって覆されたのである。“彼”の安全が保証されないのならば、大人しくしている理由は朱樺にはない。一族郎党討ち死にの勢いで蒐家に向かってくるだろう。“鉄の結束”とも謳われた朱樺衆の宗主への忠誠は生半可なものではない。ただでさえ蒐家に鬱憤の溜まっていた上、一騎当千の武者である朱樺衆のこと・・・・・・・、想像に難くない。故に、事後処理と朱樺家への面子のために、九年間朱樺から奪いそのまま今の年の春まで北の地で監禁されていた“彼”をやっと蒐家の本家の地と屋敷に入ることが許したのは、朱樺に“彼”を然るべき対応をし迎えていると知らしめるためである。・・・・・・そうして、もう数ヶ月か数年もすれば“彼”には蒐家の中でも然るべき身分が与えられる。これは決定事項である。こうしなければ朱樺家は納得すまい。その事情がなければ、いまだ“彼”は北の地で監禁されていただろうが、恐らく死ぬまで。だが今や“彼”は蒐家の十二代目候補だ。否、正確には蒐家の宗主の番【つがい】・・・・・・・・・正妻である。神人である“彼”は、女でもないが男でもない。子ができないことを除けば問題はない。すでに我が子が何人もいる焔蝶からすれば問題は皆無に等しい。ただ一つ、問題は、氷翠王の“格”である。妾などなら、そんなものは構わないし、焔蝶は“彼”を中枢に喰い込ませる気など端からなくお飾り程度にしか据える気はないが、仮にも正妻である限り、こっち側の世界の人間たちが動かされない人物では困るのだ。宗主がいない時、その血筋の者を総括するのが宗主の番である正妻だ。要するに、裏で立ち回る賢さはいらないが、愚物にもようはない。“彼”に要求するのは、荒くれ者ばかりの裏世界の人間を納得させるだけの風格か、人を魅了するだけの妖しい血である。頭は回らずとも良い。否、その立場から回られると困る。下手を打てば内から朱樺の血筋である“彼”に蒐家を篭絡されるかも知れぬからだ。だが、代目を引き継ぐだけのカリスマ性だけは欲しいのだ。
2006年07月19日
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「ねえ、何が食べたい?」 「君以外。」 「・・・・・・・・・・・。」 「ん?他の言葉を待っても、駄目だよ。何も出てこないから。 だからいい加減、出て行ってくれる?」 文句の付け所もない笑みを浮かべながら、 彼は舌どころか身体中が痺れて震える毒のみを吐く。
2006年07月19日
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障子越しの柔らかい陽ざしの中、静けさを壊さないよう保たれた室内には更に螺鈿細工や漆器、壁には水晶末で描かれた画が掛けられえもいわぬ静謐な雰囲気を醸し出している。その室の上座に、貫禄のある体躯をした和装の男が端坐していた。男の髪はその肌から滴る血潮のように紅く、腰の辺りまで無造作に伸ばしたそれは豪奢で獅子のたてがみのように見える。上座に端坐していた男は目の前に縮こまる自分の部下を鼻で笑い、おもむろに足を崩して立て膝になった。そうして足を崩して畳の上に坐すと、男のその紅い髪は畳に音を立てて滑り落ちて軽い渦を巻き、獲物を屠った後昼寝にまどろむ獅子の余裕と愉悦の哂いを男は見る者に与えた。そのまま午餐を楽しむように男は間を置き、ここ一週間からの“ある人物”絡みの報告をしていた部下をおもむろに遮り、裏腹の笑みを唇に浮かべた。「・・・・・・そうか。面倒を言ってすまんな。」目元に凄みのある男の笑みは堅気ではない。だがその笑みは、真実紛い物などではなかった。男から見れば小指の先ほどにもみたない蟻が、か弱い牙を突きたててきたからといって、即座に捻り潰すようでは、狭量とそしりを免れまい。男の目の前で怯えている部下は、ただ一度、引き際を間違ったのだ。勝つために闘うならば、勝ち目を失った時点で終えるべきである。個々人を見れば闘う理由は理想であったり、夢想であったり、意地であったり、狂気であったり、自棄であったり、綺麗事であったり、ただの無知であったりした。この愚かな部下の場合は、ただの無知であったのだ。なれば、蟻が自ずから無力さを知るまで好きにさせ、微笑とともに見守る度量あってこその絶対君主であろう。それでも蟻が自らの落ち度に気づかぬ場合は・・・・・・・・、仕方ない、蟻は死ぬだろう。「下がれ。」男は最後通牒を突きつけ、部下は転がるように部屋を出て行った。「・・・・・・焔蝶【クヌギ】様。」部下が下がるのを見計らっていたように、部屋の外から男に声が掛けられる。男・・・・・・・・・、蒐【シュウ】家の宗主である焔蝶は間を置かず自らの参謀に室内に入るよう促した。外に居た黒髪も美しい青年は室内に入ると、その涼やかな美貌を下げ襖の前で丁重に礼をする。先ほどの礼儀も欠いた部下のあたふたとした退出の非礼を詫びるように。そしてそのまま青年は頭を上げない。主の許しが与えられるまでは動かぬ心積りだろう。「こっちに来い。」焔蝶の許しに、青年は顔を上げ機密の話が出来る距離まで詰め、主の正面に座す。「先ほどの者の情報の継ぎ足しに参りました。」ここ一週間からの“ある人物”絡みの報告をしていた先ほどの部下の情報が、情報と呼ぶにもおこがましいほど慎ましいものだったことを青年は指摘せず、悪魔で丁重な態度を崩さない。それを見とどけ、焔蝶は報告しかけた青年の言を遮り、一気に切り込んだ。「で、蒼炎【ソウエン】。お前から見た“アレ”はどんなだ?」「・・・・・・・、健やかな方ですね。」ほんの少しの躊躇いを見せ、それでも青年、蒼炎は相手を尊重する響きを保った。“健やか”・・・・・・・・堅気ではない限り、それは褒め言葉にはならない。蒼炎も丁重な態度ではあるが、話に振られた相手を褒めてはいなかった。その返事を受け、焔蝶はすうっと目を細めた。凄みのある眼が更に凄みを増し、ただそれだけで蒼炎は室内の温度が二、三度下がった心地を覚えた。「・・・・・・・そう思ったのはお前だけじゃねぇだろうがな。」そう言って蒼炎を見据えた焔蝶は、かと思うと話の人物を思い描くように遠くへと眼を這わせた。九年間もの間、人質として捕らえていた朱樺【シュカ】家の幼い宗主の御子・・・・・氷翠王【シャナオウ】のことであった。九年前、朱樺から奪いそのまま今の年の春まで北の地で監禁されていた“彼”がやっと蒐家の本家の地と屋敷に入ることが許され、“彼”の姿を見ることが出来るようになったのは、蒐家のほとんどの面々にとって九年の年月が経った今が初めてだ。その“彼”・・・・・氷翠王を蒐家の中枢に喰い込ませる事を決めるやむにやまぬ事情が出来てまだ日が浅い。その事情がなければ、いまだ“彼”は北の地で監禁されていただろうが、恐らく死ぬまで。だが今や“彼”は蒐家の十二代目候補だ。候補は候補で実際に成るかと言えば、それは零に近いとしても、焔蝶は一つのヤマを“彼”に任せる気でいる。朱樺家の人間であり、いまだ成人の儀も済んでいない“彼”を焔蝶は信頼した訳ではない。その仕事が成せるとも思っていない。だが、これは決定事項でもある。その理由の一つは朱樺家に対する面子だ。“彼”を此処に置いているのは大義名分とは言え、九年前の朱樺家との確約の書には“今は幼年の宗主しか持たぬ朱樺家を他家から守るため”とある。条件を拒めば朱樺の地を我らが攻めるという暗なる脅しと共に・・・・・・・・、それを拒める力を宗主とその御母堂を亡くした朱樺家は持っていなかったのだ。そうして朋友の契りを結んでいた朱樺家を、今度は蒐家の国であるという血族の契りを結んだのだ。そうして半ば以上一方的に結んだ契約だが、唯一つ朱樺家が提示してきた条件がある。曰く、“亡父の御形見、現宗主の絶対の無事を約すること”。つまり、氷翠王だ。そうして氷翠王が成人するまでの間の朱樺の地を有する権利を蒐家は得たのである。ほんの数ヶ月前までこの契約には問題が生じたこともなかった。“蒐家の長男が朱樺の御子を強姦して、犯し殺し掛けた”などという噂が蒐家内だけじゃなくよりによって“朱樺”の地まで届くまでは。
2006年07月03日
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