全3件 (3件中 1-3件目)
1

小説の中に、アイドルグループの総選挙のようなものが出てくる。 「総選挙」はテレビでもたまに流れているから、そのことは僕も知っている。 CD1枚買うと、投票権利を1票もらえる、みたいなシステムで、「推し」をセンターに押し上げるために、同じCDを何枚も買ってたくさん投票しようとする子供たちが続出するという、あれ。 結果的に、大量のCDがただゴミになっている、というあり得なさだけじゃなくて、子どもたちを熱狂させて小遣いを巻き上げるやり口が腹立たしくて、この手の総選挙とやらは僕は大嫌いだ。 なのに、「推し、燃ゆ」には、バイト代をつぎ込んで「推し」に投票する女子高生が主人公として登場したから、僕は少し戸惑い、時々立ち位置を見失いながら読み進んだ。 その結果、僕にとってはまったく受け入れられない「推しを推す」世界を、それにどっぷりはまっている女子高生の目を通して見る、という経験をすることになった。 そしてその結果、「推しを推す」世界の景色がちょっと変わった気がする。 たまたま出会った好きなものにどんどんのめり込んで、バイト代もつぎ込んで(と言うより、つぎ込むためにバイトして)、学校の勉強にも付いていけなくなる。傍目には一時の気の迷いでアイドルを追いかけているうちに道を踏み外した残念な人にしか見えないのだけど、ただ、彼女はそれでいいと思っている。 誰に何を言われようと、この世界が彼女にとっては最高の居場所で、彼女自身もきっとそのことを自覚している。 自分がいるべき場所を自覚できている人ってそうそういないのではないだろうか…。 そう考えると羨ましくもなってきた。 例えば、韓流ドラマに熱を上げているおばさま方は、彼女のマインドに近いだろうか。 韓流スターへ注ぐ愛は100パーセント一方的だけど、そんなことはお構い無しに、おばさま方はドーンと構えて派手に着飾って盛大にキュンキュンしている。 逆に、そのおばさま方を韓流スターに奪われて、家に取り残されてポツンとしているリタイヤ後の夫たちこそ、「推しを推す」彼女をむしろ見習って、自分を見失うほど没頭できる何かを探すべきなのではないか。そんなことを、ふと思った。 「推し、燃ゆ」は、芥川賞受賞作を読んでみたくて手に取った。芥川賞=純文学は難解、という先入観があったけど、読み進むこと自体は難しくなかった。 ただし、もちろんエンターテイメント的な作品ではないとも思った。
April 23, 2021
コメント(0)

アイはシリアで生まれ、アメリカに住む米国人と日本人の裕福な夫婦の養子になり、小学6年生の時に父親の転勤で日本に移り、東京で暮らし始める。 アイは日本の中学生として、日本の高校生として、日本の大学生として、他愛もない学生生活をみんなと一緒に送りたいと願うけど、彼女のくっきりとした目鼻立ちや周りの同級生たちとは違う姿かたちが陰に陽に壁になる。 みんなと同じようになりたい。目立ちたくない。 そう願っても、そうはならない。 努力しても本当の日本人とは認められないアイ。シリア人だけどシリアの記憶も両親の記憶もないアイ。アメリカで裕福な子供時代を過ごしたけど、実はたまたまそこに貰われてきただけのアイ。 自分はどこにいるんだろう。とアイは思う。 「この世界にアイは存在しない」 ずっと、この言葉がアイの胸に刺さり続ける…。 これはおそらく、「i」の物語全体からみると一部分に過ぎないのだろうと思うけど、僕にはすごく響いた。 日本で暮らしていると、学校名とか学歴とか職業とか、僕たちはそういうことで細かく人を区別したり差別したりしているけど、ひとたび外国で暮らし始めると、それは何かの会員組織にでも属さない限りほとんどどうでも良い話になり、自分で選んだ訳でもない「日本人」という国籍と「東洋人」という見た目が、何よりも先に自分のアイデンティティになってしまう。 この町の一人として空気のように暮らしたくても、僕は良くも悪くもこの町に来たアジア人として扱われる。そういう存在にしかなれない。人の集まる場所で、という但し書き付きで、大げさに僕に親愛の情を寄せてくれるその土地の偉い人もいれば、コンビニやファストフード、郵便局などローカルのお店では、しばしばあからさまに邪見に扱われる。 僕=日本人、僕=東洋人という事実と常に向き合う毎日。 僕がアメリカで暮らしたのはたった一年だけだったけど、外国から日本を見ると、コンプレックスとプライドが入り混じった卑屈で屈折した人たちが密集して排他的に暮らす小島。そんな風にしか見えなくて、とてもじゃないけど、僕=日本人の扱いは耐え難かった。 かと言って、アメリカ社会の一員になれているわけでもない。 いったい僕は誰なんだろう…。 そんなことを考えていた遠い日々を、「i」を読みながら僕は思い起こしていた。
April 17, 2021
コメント(0)

太宰治展示室(三鷹駅前)の余韻に浸りながら、国立駅近くの書店で「斜陽」を買った。 旧華族の没落。 第二次世界大戦後、貴族的な特権を奪われ、収入も途絶えた旧華族の母と娘と息子の日々を太宰は書き綴った。 うろ覚えながら、すべての華族が戦後没落したわけではなく、華族の同窓会のような組織は今も東京にしっかりあると記憶している。 とは言え、斜陽を読みながら、歌と恋に明け暮れてやがて武士に乗っ取られた平安時代の貴族たちの姿、そして栄華と共に貴族化し滅亡した平家の姿を僕は思い浮かべた。 長い間特権に守られて、生きるために必要な力を身に着けることなく年齢を重ねた彼らが、突然、終戦直後の混沌とした市井の中に放り出される。隠すことのできない気品と教養を負い目と感じ、おままごとのように暮らし、おままごとのように努力し、おままごとのように苦しみ、それら懸命に大衆に溶け込もうとする「おままごと」は結局実を結ばず、失意とプライドと狂気をはらみながら堕ちていく。 驕れる者久しからず… 一言でいうとそういうことなのだけど、ただ、これが太宰作品の魔力なのだろうか、無縁のはずの旧華族の心の動きに僕の心は吸い寄せられた。この感覚に驚きつつも、彼らの境遇はきっと誰もがどこかで経験しているはず、そんな風に思った。 例えば、多くのサラリーマンが経験する定年退職はこれに近いだろうか。 何十年もの間、一日の大半を仕事に費やし、コツコツ働き通した結果それなりの肩書きを得て、部下もできて、権限もあって、ずいぶん偉くなったような気がしていても、退職した瞬間、すべては過去になる。偉そうにしゃべってみても、もう誰も本気で聞いてはくれないし、自分が動かしていると思っていた組織は、後任が難なく回している。何者でもなくなった自分を受け入れられずに不満を募らせる老人の見苦しいこと、そして傍迷惑なこと…。 こうして書いてみると、定年退職は華族の没落と比べようもなくどうでも良いことだったけど、とにかく「斜陽」が描く世界は、特権階級だった人たちだけの物語では決してないと、僕は感じた。 災害とか感染症とか、次々と大きな災難に見舞われ、文学にも明るい未来や救いを求めたくなる今の時代に、太宰の小説の多くは不向きかもしれない。 時代と合わない。 正直そんな気もしているけど、なぜだろう、「人間失格」を読み終えた時、すぐにに「斜陽」を読みたいと思った。そして、太宰作品をもっと読みたいと今の僕は思っている。 太宰治の文章には謎の魅力があると思う。
April 5, 2021
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1