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クロニクル 2・26事件収束1936(昭和11)年2月29日4年に1回の2月29日ですね。76年前になります。この日2・26事件が収束しました。2月26日のクーデタの発生から4日目。この日午前5時過ぎに、「反乱部隊を鎮圧せよ」との天皇の厳命が下り、日本軍同士の同士討ちを嫌う軍幹部は、反乱部隊に原隊復帰を命じました。軍部は、8時48分から香椎か威厳司令官の名で、NHKの関東地方局を使って「兵に告ぐ」というラジオ放送を流し、同時に飛行機から、放送内容を簡略化した「下士官兵に告ぐ」というビラを投下しました。ビラには、以下のように記されていました。原文の縦書きを横書きにしていますが、文は原文の通りです。「下士官兵ニ告グ 一、今カラデモ遲クナイカラ原隊ニ歸レ 二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル 三、オ前達ノ父母兄弟ハ國賊トナルノデ皆泣イテオルゾ 二月二十九日 戒嚴司令部 」また、「勅命下る 軍旗に手向かふな」と大書されたアドバルーンも揚げられました。勅命がくだされ、逆賊とされたことを知った兵士は動揺し、約5時間後の午後2時過ぎ、反乱部隊は原隊に復帰し、2・26事件は、幕を下ろしました。
2012.02.29
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ルイ14世の宮廷生活 (25)歴史の大きな転換期には、混乱は付き物です。既得権を失うことになる旧勢力の必死の抵抗を押し切らないと先へ進めないからです。日本の近代化には、幕末の動乱と戊辰戦争が避けられず、最後に西南戦争もありました。徳川幕藩体制の安定は、長い戦乱の世の結果として誕生しました。戦後の変革は、GHQという外部の力を利用して勧められました。ご質問、ご疑問をいくつもいただいているのですが、フロンドの乱は、中央集権体制確立の最終段階で起きた、既得権擁護派の最後の抵抗でした。中世ヨーロッパの歴史では英仏百年戦争(1337年~1453年)などと言いますが、当時のフランス王権は、パリを中心としたイル・ド・フランスとその周辺を支配する一地方政権に過ぎなかったのです。イギリス王もまた然りで、彼はフランスにも所領を持っていたのです。こうした時代から、ゆっくりと王権の強化が進み、逆に帯剣貴族(地方領主)層の力の衰えも進行してゆきます。その結果として、中央集権体制が進行してゆきます。その流れが避けられないことは、さすがに17世紀の中頃になると、抵抗勢力の側も理解しています。しかし、「自分の名誉を保つための保障ぐらいは付けてほしい」。これが抵抗の原理でした。フランスの中央集権体制は、アンリ4世の時代に一応の形を整えますが、リシュリューとマザランという2代続いた名宰相によって確立され、ルイ14世の親政期に完成しました。ところで、リシュリューとマザランは、並び賞されるのですが、2人の政治手法は180度違っていました。あえて例えれば、リシュリューは抵抗勢力は力で粉砕する、コワモテの宰相でした、まさに信長型の宰相です。対するマザランは、秀吉級の人たらしの名手です。将来使えそうな人材は、時間をかけて仲間に引きずりこむのです。少年王を連れて、パリを放棄したのも、人目につきやすいパリを避け、密かに寝返り工作を展開するのに、都合が良かったからにほかなりません。ですから、第3波の反乱に対しても、少年王rルイ14世を伴って、パリ近郊の城を数ヶ月づつ経巡りながら、和戦両睨みで対策に余念がなかったのです。この時期の彼の胸中を忖度すれば、王権に対する旧勢力の反乱を、この機会に根絶したいという一点にあったように思います。 そして彼はまさにそれに成功したのです。パリに戻ったルイ14世は、間もなく当時の成人年齢の満14歳に達します。ルイ14世の言として有名な、「朕は国家なり」というフレーズが誕生するきっかけとなった出来事は、その少年王ルイ14世が17歳になる直前の1655年にありました。 続く
2012.02.28
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クロニクル 吉田首相のバカヤロー発言1953(昭和28)年2月28日59年前のこの日、吉田茂首相は、衆院予算委員会での質疑の際に、質問者の右派社会党、西村栄一議員に対し、「バカヤロー!」と発言し、物議を醸しました。当然、この発言で国会審議はストップしました。翌々日の3月2日には、衆院で吉田首相懲罰動議が可決されました。それでもなお、強気の姿勢を崩さない吉田首相に対し、発言から丁度2週間後の3月14日、野党三派は吉田内閣不信任案を衆院に提出しました。この時与党の1部も賛成に回り、不信任案は可決されました。吉田首相はただちに衆院解散に踏みきりました。このため、この解散劇は、バカヤロー解散と命名されました。麻生太郎元首相は、当時の吉田首相のお孫さんに当たりますし、バカヤロー発言を引き出した、西村栄一氏は、後に民主社会党(民社党)の委員長を務められました。
2012.02.28
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御礼 皆様有難うございました所用で外出していたのですが、本日夕方、私のブログが50万アクセスに達しました。2006年の10月2日にブログを書き始めて、5年と5ヶ月になろうかという時期でした。はじめた時はこんなに長く続くとは思いもしなかったのですが、皆さんのおかげで続けることが出来ました。有難うございました。感謝しております。楽天からの知らせのメールが、午後5時12分となっていますので、おそらく4時台の後半に届いたものと思われます。ジャスト50万のキリ番を踏んでくださったのは、「山野草則利写真館」と題して、南信州の自然を愛情をもって切り取られた写真ブログを、毎日2,3回更新されている「のりちゃん4752」さんでした。のりちゃんさんは、コメント欄をずっと閉じられたままなので、直接彼のブログに御礼の書き込みが出来ませんので、ここで御挨拶させて戴きます。良く存じ上げている方が、キリ番を踏んでくださるというのは、嬉しいものですね。のりちゃんさん、有難うございました。よろしかったら、皆さんものりちゃん4752さんのブログを覗いてみませんか。ステキな写真のオンラレード、則利ワールドが待っていますよ。http://plaza.rakuten.co.jp/noritoshisan/ へどうぞ。
2012.02.27
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ルイ14世の宮廷生活 (24) フロンドの乱は、不思議な反乱でした。反乱ですが、どこかのどかで、まるでお祭りであるかのような、陽気で悲壮感の全くない反乱でした。私の言葉が足りなかったせいで、昨日いただいたコメントでは、戦とサロンの関係についての質問をいくつも戴きました。こういう事は、私の説明が舌足らずで分かり難い時にしか起きません。御迷惑をおかけしました。この乱は1波、2波、3波と三つの波があるのですが、民衆階層は何処にも加わっておらず、ただワーワーと見物しているだけだったのです。第1波は、財政難からマザランに既得権を侵され、俸給を減らされた法服貴族(官僚層)の乱でした。続けて起きた第2波は、戦勝への論功行賞に不満な帯剣貴族の乱でした。いずれも王政打倒を目指すような、或いは王位の簒奪を目指すような乗るか反るかの大乱ではなく、条件闘争に過ぎないものでした。反乱側も国王側も、そうした事情は分かっていますから、一方で拳を振り上げながら、もう一方では妥協点の探りあいが続いていたのです。お祭り気分の参加者が多かった所以はここにあります。いくらか激しかった第3波は、1650年1月に始まりました。この乱は、マザランの財政・経済政策に不満な、パリや港湾都市の大商人層(王権から特権を付与された金融家や貿易商人)が中心となって、起こしたものでした。そこに第1波や第2波でワリを食った貴族たちが加わったものでした。そのため規模も大きく、地方の反乱も加わりましたから、騒ぎは大きかったのです。特に反乱開始時、ルーブル宮の警備が薄かったことから、摂政の母后アンヌと宰相のマザランは、眠っていた11歳の国王を起こして、先ずはフォンテーヌブローの離宮へ、次いでヴェルサイユに避難することになりました。国王をルーブル宮に幽閉して、良い条件を引き出そうとした反乱側の作戦は失敗し、やがて形成は国王側が圧倒的優位に立つようになるのですが、夏の離宮であるフォンテーヌブロー宮に、着のみ着のままで辿り着き、寒さに震えた経験は、ルイ14世にとって、忘れがたい屈辱として、記憶されました。1652年9月、国王と母后はパリに凱旋し、パリの叛乱は終息したのですが、地方の反乱が収束して、フロンドの乱が最終的に収まるのは、1653年3月のことでした。そして、この反乱の体験が、ルイ14世をして、偏屈なまでのパリ嫌いにし、ヴェルサイユ宮殿の造営に走らせたのでした。 続く
2012.02.27
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クロニクル NEC国産初の電算機発表1962(昭和37)年2月27日50年前のことです。この日日本電気(NEC)は初の国産大型電子計算機NEAC2206を発表しました。 記憶容量は1万語でしたから、業界の巨人IBMの背中はなお遠くにありましたが、IBMを追撃する最初の足がかりが出来たと話題になりました。それから半世紀、スパコンでは世界最大の演算スピードと規模を誇るところまで、日本のコンプーター産業は発達しましたが、コンピューターの世界は、さらに遠くへと進化を続けています。10年後の2022年には、一帯どうなっているのでしょうね。 ザビ
2012.02.27
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ルイ14世の宮廷生活 (23) 1642年末にリシュリューが没し、半年後の43年5月には、まるで後を追うかのようにルイ13世も世を去りました。父の後を継いで即位したルイ14世は、まだ4歳の幼児でしたから、母后のアンヌ・ドートリッシュが摂政となり、リシュリューの推挙によって宰相(兼枢機卿)の地位についたマザランが、2人を支えました。マザランは、亡命イタリア人でしたが、フランス国王に忠誠を近い、能力の高い者であれば国籍を問わないというのが、当時のフランス国王と政府の方針でした。その点は、ルイ16世に仕えフラン革命当時の財政総監が、スイス人の銀行家ネッケルだったことにも、見てとれます。マザランは、リシュリューから引き継いだドイツ中心の三十年戦争を、フランス・スウェーデン連合の優位を認めさせる形で決着させます。1648年のウエストファリア条約の締結は、彼の外交手腕の卓抜さを、物語っています。ところが、対外戦争の終結で、戦争に功のあった帯剣貴族たちが恩賞を求め、また戦費の負担に苦しむ国民所階層からも、不満の声が噴出し、フランスは1648年~53年初頭まで、フランドの乱という、内戦を経験します。ここでは、高位の貴族たちも叛乱派と国王派に分かれて争いました、ランブイエ侯爵夫人のサロンの常連だった貴賓たちも、2派に分かれて争うことになったため、この時期サロンは一時閉鎖されています。それというのは、サロンの常連だった夫人達の中に、イヴニングドレスを乗馬服に着替え、愛馬に跨って男たちを叱咤する、まさに男勝りの女性たちが存在したのです。戦禍が収まり、一時的にパリが落ち着くとサロンは復活し、つい最近まで敵味方に分かれていた人たちが、呉越同舟よろしく、何事もなかったかのように、にこやかな会話を交わすのですが、再び戦乱に戻るとまた休止されるのです。フランドの乱は、1653年の初めには最終的に終息し、結果的には王権の更なる強大化に繋がりました。 続く
2012.02.26
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クロニクル 東京高裁女性の定年差別に違法判決1975(昭和50)年2月26日37年前になりますが、この日、東京高裁は女性の定年を男性よりも若い年齢に設定することは、憲法の男女平等並びに労働の権利の規定に照らして、違法であるとの、画期的な判決を下しました。 いまだ男女雇用機会均等法が準備もされず、話題にもなっていない時期でしたから、この判決は働く女性たち、とりわけ働きつづけたい女性たちにとって、間違いなく朗報でした。 裁判闘争は、地味で息の長い戦いになります。相当に費用もかかります。その上日本の裁判は政治や大企業に著しく有利で、庶民には不利に働くことが多いのです。そうした中で提訴し、定年差別の現実を静かに訴え続けた女性たちの勇気と信念が,遂に定年差別違法判決を引き出したことに、私は大いなる敬意を表します。
2012.02.26
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ルイ14世の宮廷生活 (22) ランブイエ侯爵夫人らの努力で、1620年代に入ると、フランスの上流階級にとって、サロンはなくてはならないものになってきます。先ずは、ランブイエ夫人の「青の館」のメンバーになれなかった人たちや、身分の点で「青の館」の招待者になれないことが分かっている人たちが、自分達のサロンを開きます。自分達のグループの楽しみの場として、自宅の客間、応接間を提供する人たちが出てきたのです。そして、ランブイエ邸に集まる貴賓たちは、サロンの居心地の良さを、週1度しか味わえないことが、次第に物足りなくなってきます。かといって、大勢のお客の間を取り持ち、その全ての人たちに満足と居心地の良さを味わってもらうことは、大変気骨の折れることです。ランブイエ夫人ほどの人であっても、客人を送り出した後は、へとへとに疲れぐったりしていたことは、夫人の2人の娘さんが証言しています。「私たちが母と共に、サロンの切り盛りを受け持つようになったのは、疲れ切っている母の手助けをしたいと考えたからです。こうした流れから、夫人のサロンの常連となった女性たちの何人かが、異なる曜日に自邸を開放してソロンを開くようになったのです。その結果、1630年代になると、サロンの客たちは、月曜日は◎◎邸、火曜日は◎◎邸と、何箇所かのサロンに顔を出すようになったのです。殿方の中には、週に5日はどこかのサロンに顔を出しているといった豪傑もいましたが、さすがに主役を演じる夫人達には、疲れすぎるためにそれは無理で、多くても週に3日だったと指摘されています。 続く
2012.02.25
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クロニクル あぁ食糧が!買出し列車転覆1947年2月25日1945年8月15日の敗戦後、日本の食糧危機は戦時中よりも深刻化していました。台湾、朝鮮半島、中国東北(旧満州)等々からの引き上げ者や復員軍人など、現地で食糧を調達していた人々が帰国した分、食糧の需給が大きく崩れていた上に、農地改革が進行中で、新秩序はまだ未完成でしたから、現時点で考えると当然といえば当然でした。しかし、当時は皆生きるために必死でした。食糧を自給する術のない人々は、不足する食糧を求めて、近在の農村へと交換物資(婦人の着物などが多かったようです)を携えては、買出しに出かけていました。帰路ともなれば、夫々が入手した食糧を担いでとなりますから、復路の列車は往路に比べ、荷物分だけ荷重が増え、混雑も増し、列車のスピードも鈍ります。事件は関東平野の一角ですが、東京の外れ八王子と群馬県の高崎を結ぶ八高線で起こりました。65年前のこの日午後、買出し帰りの乗客で超満員の列車が、荷重に耐え切れず、高麗川駅付近のカーブで脱線、4輛が転覆する大惨事となったのです。買出し客を中心に乗客184人が死亡、800人が怪我をする大惨事となったのです。そうでなくても暮しの厳しい、多くの国民が常にひもじさに耐えていた時代でしたから、働き手を失った遺族達は、余計に厳しい状況に追い込まれました。それにしても、電話などはまだまだ普及していなかった時代です。マスコミの機動力もなければ、ラジオも各家庭にまで普及していない時代です(玉音放送を自宅で聞いた人が少ないのは、自宅にラジオがなかったからでもあります)。遺族に報せが届くのは、しばらく後になってからでした。「今日は食糧を抱えてトウチャン(カアチャンまたはアンチャン)が帰ってくるから、サツマイモのご馳走が食えるかも…」と空腹を抱えた子どもたちが、帰らぬ家族を空しく待っていた姿を想像すると、今でも辛くなりますね。
2012.02.25
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ルイ14世の宮廷生活 (21)17世紀や18世紀においては、一流の評判をとった画家以外の芸術家の地位は、極めて低いものでした。モーツァルトやベートーベンと言った大作曲家の生活が、決して恵まれたものではなかったことは、良く知られています。作家が職業として成り立ち、文筆1本で財を成した最初の人物は、啓蒙思想の先駆者であり、伝道者であると称されたヴォルテールです。彼以前に、文筆で生活できた人物として挙げられるのは、かの宗教改革者マルティン・ルターと同世代で、当時ヨーロッパ最大の知性と称されたエラスムス、ただ1人でした。そんなわけですから、詩人たちや劇作家たちにとって、サロンに招かれ、夫人達や紳士たちに評価され、その庇護を得られることは、とても重要だったのです。その点は、17世紀フランスの悲劇作家として並び立ったコルネイユとラシーヌにとっても同じでした。当時の演劇界では、脚本家(劇作家)や俳優の地位は極めて低く、全ては演出家が』取り仕切って」いました。ルイ14世の親政期前半に活躍したフランス古典悲劇の巨匠ラシーヌとて、例外ではなかったのです。ラシーヌの劇作家としての活動は、1664年~77年(ラシーヌ25歳~38歳)までの13年間に限られています。それは、彼の作家活動の最終年1677年に、ラシーヌが結婚して身を固めたからでした。彼の妻は、フランス北部の都市の役人の娘で、妻となる女性の父は、ラシーヌに対して、劇作家というヤクザな仕事から足を洗い、まともな職に就くことを、娘との結婚を許可する条件としたのです。妻の持参金を期待したラシーヌは、この条件を飲み、サロンのパトロンの推薦で、ルイ14世の史料編纂官の地位を得、ようやくにして生活の安定を得たのです。この後ラシーヌは、1699年に亡くなるまで、この地位にあったのです。サロンが芸術家たちを必要としたと同様に、芸術家達が喜んでサロンに出入りし、サロンでの評判に気をもんだ事情は、こうした点にありました。
2012.02.24
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クロニクル 足尾銅山閉山1973(昭和48)年2月24日39年前のこの日、古河鉱業は、ようやく足尾銅山を閉山しました。足尾鉱毒事件を起こし、同鉱山近くの下流域では、未だに草の生えない地域も残っています。日本における最初の公害事件として知られる足尾銅山は、この日、その歴史の幕を閉じたのです。現在、足尾鉱山は鉱山の歴史を学ぶ博物館として存続し、鉱山の1部、トンネルの崩落が起きない場所が、見学出来るようになっております。群馬県の桐生と繋ぐ足尾線は、第3セクターの渡良瀬渓谷鉄道として、観光客の誘致による生き残りを目指しています。東京大空襲で焼け出された我が家族は、桐生の親戚と共に、都市部は危ないからと、45年末までを、この路線の4駅目、上神梅で過ごしました。雷が怖かった記憶が、うっすらと残っています。
2012.02.24
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ルイ14世の宮廷生活 (20) ランブイエ侯爵夫人のサロンに招かれるのは、名門貴族や外国からの賓客、選ばれた高級官僚に限られていました。いやこうした身分に属する人々でも、少しでも場にそぐわぬと思われる人物は、招かれませんでした。当然下級貴族やブルジョワが招かれることはありません。どんな大富豪であろうと、夫人のサロンの門をくぐることは、出来なかったのです。ただし例外がありました。それが高い教養を身につけた詩人や学者、芸術家たちでした。サロンの貴賓たちは、女性も男性も、文芸や新知識にまつわる会話を楽しみ、詩人は新作を披露して、批評を頼み、コルネイユやラシーヌといった劇作家は、構想中の新作のあらすじを語って、サロンの意見を求めたりしたのです。世界で最初の心理小説と評判をとった、ラ・ファイエット夫人(彼女もランブイエ館の常連の1人でした)の『クレーヴの奥方』も、このサロンで朗読され、皆から出版を勧められたことが、世に出るきっかけになったと言われています。当時の常連たちの、ランブイエ館の評を聞いてみましょう。詩人のシャブランは、友人のバルザックに宛てた手紙で、次のように書きました。「ランブイエ館ほど、価値ある物事に興味を持つところはありますまい。あそこでは学者風に話す分けではありませんが、皆さんが理に適った話し方をしますし、あれ以上良識的で、衒いの少ないところは、外にないでしょう。」サン・シモン侯爵も、『回想録』でランブイエ館に触れています。「ランブイエ館は、美しい精神、艶治の精神、美徳と知識の一種のアカデミーであった。」と。司教のフレシエ師は、「まだこれほどの敬意をもって、見られている場があることを思い出してください。そこでは精神が純化され、美徳が尊重され、高位の人々や才能ある人々が出入りしています。大勢なのに混乱もなく、気兼ねなしに語り合い、知識があっても驕らず、丁寧でありながら気取りのない、エリートのサロンが作られているのです。」 続く
2012.02.23
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クロニクル ローマ教皇初来日1981(昭和56)年2月23日31年前になるのですね。この日、ローマ教皇ヨハネ=パウロ2世が、ローマ教皇として初めて来日しました。日本とローマ教皇庁との出会いは、天正の遣欧使節としてローマに赴いた少年キリシタンを嚆矢とするのですが、ローマ教皇の来日は始めてのことでした。ヨハネ=パウロ2世は、平和の使徒の志が高く、高齢を厭わず各地を訪問しては、宗教的和解と平和を訴えて歩く、信念の人でした。ギリシャ正教会の総大主教との会談、南米訪問、そしてその一環としての日本訪問でした。日本では24日に昭和天皇と会見、25日には広島を訪問して、平和のアピールを発表、翌26日には長崎も訪問するなど、過密スケジュールを精力的にこなしました。
2012.02.23
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ルイ14世の宮廷生活 (19) さて、ランブイエ侯爵夫人のサロンは、1614年に幕をあげました。当初は親しい宮廷人を招いて、午後の時間を語らう場を提供することから、始まりました。そこでは二つもこと、「礼儀正しいこと」と「知的であるこ」が求められました。ランブイエ夫人の館は、天井も壁も青を基調に統一されていたために、当時から「青の館」とか「青の部屋」と呼ばれました。宮廷のがさつな雰囲気を嫌う夫人が、親しい人を招くのですから、当然といえば当然ですが、客人たちは一も二もなく、彼女の方針を受け入れ、機智に富んだ話術を楽しみ、、歓談の花を咲かせたのです。ローマ教皇庁、バチカンの雰囲気に慣れた夫人は、人と人の間を取り持つ「座持ち」の上手な人でしたから、客人たちは誰もが気分良く過ごすことが出来たのです。こうして、二ヶ月も過ぎる頃には、客人たちは誰もが、次の訪問日(翌週のサロン)を待ち遠しく感じるようになり、「青の館」の評判はいやおうなく、高まっていったのです。「青の館」の評判を聞きつけた宮廷人達は、何とか自分も招待を受けたいものと、自薦他薦とあの手この手を使って、サロンのメンバーに名を連ねたいと、思うようになります。人間の望みというものは、簡単には叶えられないものであればあるほど、益々手に入れたくなり、手に入った時の感激もまた、大きなものになります。こうしてランブイエ夫人は、「礼儀正しさ」と「知的な会話」の条件に適う人のみを選んで、少しづつサロンの招待者を増やしていったのです。ですから、夫人のサロンでは、宮廷での世敵同士や恋敵と言った男性陣も、まさに呉越同舟よろしく、しばし敵味方であることを脇において、ひと時を共に語らったのです。貴婦人達もまた、夫人のサロンに招かれることを喜び、サロンに花を添えていました。サロンの開始から10年も経った、1620年代半ばになると、パリにやってきた各国の高官や貴賓たちも、先ずは前任者の紹介状を携えて、「青の館」を訪れるようになったのです。ランブイエ夫人は、夫との間に7人の子を成していますが、やがて成長した彼女の長女が、母と共にサロンの女主人として、サロンを守り立てています。こうしたこともあって、「青の館」は、彼女の亡くなる1年前、1654年までの40年間、フロンドの乱の内戦期を含めて、パリ随一のサロンとして、パリの社交界の中心であり続けたのです。 続く
2012.02.22
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クロニクル ドコモ「iモード」発売1999(平成11)年2月22日まだ13年しか経っていないのですね。13年前のこの日NTTドコモは、携帯電話にインターネットに接続する機能をつけた「iモード」を発売しました。 便利さが受けて、発売と共に爆発的に売上げを伸ばし、ドコモのケータイ電話の契約数は大きく伸びました。ケータイの普及と共に、電車内の通話騒音が新たな社会問題になっていたのですが、「iモード」の普及と共に、車内通話は激減し、代わってケータイの画面を見つめて、ひたすら親指を動かす、物言わぬ「iモード」族が急増したのでした。 しかし、この物言わぬ族の急拡大は、言葉による意志伝達という人間本来の対人関係円滑化手法を著しく衰えさせてしまい、すぐ切れたり、些細なことで人を殺したり、いじめたりと、人間の社会集団にとって、別の大きな問題を生み出しました。最近はスマホの登場で、さらに姿を変えていますね。
2012.02.22
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ルイ14世の宮廷生活 (18) 突然ですが、今日は妙な話からはじめることをお許しください。19世紀に入り工場制度が普及する以前のヨーロッパ社会は、イタリアやスペインからロシアやスウェーデンまで、何処も朝食をとる習慣はなく、食事は1日2食が一般的でした。そんなわけで、とりわけ大貴族や大富豪は、夫も妻も麻はゆっくり目覚めた後も、ベッドでゆっくりとくつろいで過ごすのが常でした。勿論寝室は別々で、子作りに励む時も召使を通じて相方の都合を聞いた上で、訪問するのが常でした。当然、麻には自らの寝室に引き上げて、夫婦は別々に目覚めるのです。訪問者はどうするか。一家と特別に親しい友人のみが、朝のうちの訪問を許されるのです。それも特別に親しい人物を覗けば、事前に召使を通じて訪問の許可を得てからです。そしてこの午前中の訪問者は、親密な間柄であることの証として、女性は夫人のベッドルームに通され、部屋着のままでベッドに横たわっている夫人に会うのです。男性もまた、同じようにベッドでくつろいでいる主人の下に通されるのです。これは限られた人だけでした。勿論夫人に愛人がある場合、その愛人だけは男性の唯一の例外として、ベッドルームにも招じ入れられましたが、夫人同士の付き合いに支障が出るような頻繁な訪問は、礼儀上できない不文律がありました。さて、夫妻が午前中の訪問を受け入れる親しい友人は、召使たちが門番を含めてしっかり把握しています。ですから、不意の訪問者は、門前払いされるのが常でした。手紙は門番や執事が受け取りますが、朝のうちに主人のお目にかけるか否かは、親しさの度合いによるのでした。特別の人以外の手紙は、主人が食堂に姿を現してから、手渡されたのです。夫妻の子ども達は、乳母や召使達にかしずかれ、5~6歳になるまでは、両親とあまり接触することなく育てられるのですが、5~6歳からは、一通りの礼儀作法を身につけた存在と見られ、両親と食卓を共にすることが出来るようになります。朝、目覚めた妻や夫は、排泄の用を足すと、召使にかしずかれて部屋着に着替え、ゆっくりと化粧を整えているところで、召使や家庭教師に伴われた子ども達から、朝の挨拶を受けるのです。客人の訪問はその後になります。お昼に、朝昼兼用の食事をとるまでに、口にするのは軽いビスケット1枚くらいで過ごすのが普通のことでした。サロンが誕生する頃の上流階級の世界は、こんな感じだったのです。日本では、『源氏物語』の世界にあるように、宮廷に出仕する上流の貴族たちは、皆午前中に勤務して午後には退出し、さて今日はどの女性の下へ通おうかと思案する。こんな生活でしたから、洋の東西で随分と違っていたのですね。サロンでどこまで通されるかは、こういう世界だったからこそ、とても重要で意味のあることだったのです。 続く
2012.02.21
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クロニクル ニクソン訪中1972(昭和47)年2月21日今年がちょうど40周年なのですね。この日、米国のニクソン大統領は専用機で中国を訪問、キッシンジャー補佐官、ロジャーズ国務長官らを伴って、北京空港に降り立ちました。朝鮮戦争で戦って以来、始めての訪問でした。一行は熱烈な歓迎を受け、毛沢東主席、周恩来首相等と米中関係正常化を目指して、トップ会談を続け、6日後の27日、両国は上海で米中共同コミュニケを発表しました。内容は、1、アメリカは、台湾を中国の1部と認め、「2つの中国」政策に終止符を打つこと2、台湾から、アメリカの軍事施設とアメリカ軍を、全て撤退させることを最終目的とする こと3、中国はヴェトナム戦争に軍事介入しないことを確約する この3点が中心でした。他には両国は日米安全保障条約が,日本の軍国主義の台頭を抑えるためのもので、中国に向けられたものでないこと確認し合いました。また米中両国は、反覇権主義を掲げ、ソ連の拡張主義を封じるため、アジア・太平洋地域で覇権を求めず、他国の覇権確立にも反対することを盛り込みました。ニクソンは、泥沼のヴェトナム戦争の幕引きを狙って、中国との関係の改善を図ろうとしたのです。
2012.02.21
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ルイ14世の宮廷生活 (17) ランブイエ侯爵夫人カトリーヌは、1588年に父の任地のローマで生まれ、その地で育ちました。12歳にして(当時としては珍しくありません)ランブイエ侯爵と結婚、しばらくローまで過ごして、1年後にフランスに帰り、アンリ4世の宮廷に顔を出すようになりました。彼女がそこで眼にしたのは、粗野で乱暴で下品な男たちの世界でした。およそ教養とは無縁で、礼節や洗練された立ち居振る舞いは見当たらず、機智トエスプリに富んだ会話など、カケラもない世界だったのです。まだ幼かった彼女は、最初のうちは、何をどうすれば良いのか分からず、ただ粗野な宮廷の雰囲気に違和感を感じているだけでした。やがて1610年にアンリ4世が暗殺されて、9歳のルイ13世が即位し、母后のマリー・ド・メディシスが摂政になると、カトリーヌの期待は高まります。イタリアのメディチ家出身の母后なら、イタリア風への変更を率先してくれるに違いない。彼女はこう考えたのです。しかし母后は動こうとはしませんでした。数人の女性仲間と相談した彼女は、夫の理解の下にサン・トマ・デュ・ルーヴル通りの自邸を大改造し、そこに週に1度、客人を招くようにしたのです。フランスのローマ教皇庁駐在大使の娘に生まれた彼女は、当時のローマの雰囲気そのままにフランス語の外にもイタリア語とスペイン語を話し、ヨーロッパの共通語であったラテン語も読みこなす教養を身につけていました。自邸の改造計画図面も自ら引いたと言割れますから、美的感覚にも優れていたのでしょう。屋敷の2階が彼女の居室だったのですが、そこには客人に供されるいくつもの部屋があり、彼女の広い寝室まで、その一郭にあったのです。これは当時としては珍しい作りでした。当時の大貴族や大富豪の家では、一つの大きな部屋があり、大きな部屋が寝室nも客間でにも宴会場にもなるように作られていたのです。彼女は、そうした機能を分離し、自ら開くサロンに招く客人を選ぶと同時に、客人にもランクを設けて、客間までしか出入りできない人、継ぎの間までの人と、厳しいルールを定め、召使にもそれを徹底したのです。それが何を意味するのか、明日以降に記したいと思います。 続く
2012.02.20
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クロニクル 丸ビル完成1923(大正12)年2月20日89年前のこの日、東京駅丸の内口前に丸の内ビルヂング(通称丸ビル)が完成、披露されました。丸の内の錬兵場跡地等の払い下げを受けた三菱グループは、1894(明治27)年の年末に、皇居のお堀端に沿って8階建ての三菱一号館を建設、以後総力をあげて、丸の内にビル街の建設を進め、1911(明治44)年までに、同地に煉瓦造りのビル18棟を建設しました。この日完工した丸ビルは、三菱財閥の、丸の内ビル計画の一応の完成を告げるものとなりました。丸ビルは、昭和の戦前期では、日本で最大のビルであり、東洋一のビルと称されました。オフィスビルの低層階を一般客に開放し、ショッピングモールを展開するなどいずれも、丸ビルが日本の草分けでした。近代的なイメージから1929年(昭和4年)に発売された歌謡曲『東京行進曲』など多くの歌や、小説の舞台になりました。丸ビルの完成から、およそ半年が経過した同年9月1日、東京は関東大震災に襲われ、大変な被害に合いました。丸ビルも外壁や構造などに一部被害が出ましたが、三菱一号館など丸の内地区の三菱所有の建物は、一つとして倒壊した建物はなく、被災者救援活動の拠点として、活躍しました。
2012.02.20
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ルイ14世の宮廷生活 (16) アンリ4世の治世が安定した17世紀の初頭は、前世紀末まで続いた宗教戦争の影響が残り、殺伐とした空気が、貴族社会を覆っていました。そこでは武勇を誇るもの同士、何か事あると剣で決着をつけたがる風潮が、色濃く残っていました。要するに決闘です。1601年~10年にかけて、決闘で命を落とした貴族は4,000名をくだらなかったという統計が、現存しています。これは尋常な数字ではありません。以下はある貴族のメモワールからとったものですが、彼は後見人を務めている姪との結婚を願い出た若者に対して、次のように諭したというのです。「君が結婚したいというのは、まだ早すぎる。まだ一人前じゃないからだよ… まずは1対1の勝負で、2~3人は刺し殺してこなけりゃーね。それから結婚して3人も子供を作れば、君は世間に損も得もさせなかったことになるんだから…」と。これが当時の貴族社会の空気でした。アンリ4世もルイ13世も、そして宰相のリシュリューも、何度も決闘を禁止する布令を出しているのですが、こればかりは国王や宰相の威厳をもってしても、思うようにはいかなかったのです。そこへ一石を投じたのが、ランブイエ侯爵夫人がはじめたサロンだったのです。 続く
2012.02.19
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クロニクル 米軍硫黄島に上陸1945(昭和20)年2月19日太平洋戦争中の出来事ですが、67年前のこの日、米軍は硫黄島に上陸しました。上陸後の戦いは、クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」で、すっかり有名になりました。司令官の栗林中将は、将兵の全滅を覚悟しながら、なるべく長期に米軍をこの島に釘付けにすることで、本土攻撃を遅らせることが出来ると考え、他の島々で行われたような玉砕突撃を排して、地の利を生かして粘り強く戦いました。残念ながら米軍は、硫黄島の戦いの最中にも、マリアナ群島からB29爆撃機を飛ばして、死闘の最中にも東京を焦土と化す,激しい爆撃を敢行していたのですが…硫黄島の守備隊は、圧倒的な兵器不足の中で、3月17日までの約1ヶ月間、米軍を釘付けにして戦い、23,000人の守備隊は全滅しました。栗林中将のご健在のご息女は、しかしマスコミの取材を断り、「父も私達も、父の下で戦い,命を落とされた方々とそのご家族に申し訳ないという気持を持ち続けています。人様の前に出られる立場ではありません」とコメントを寄せられたと報じられました。「祖父は靖国に奉られて当然。戦犯とした裁判がおかしい」と居直り続ける、最大の戦犯東条英機の孫の女性に比べると、実に清々しいと感じたのは、私だけでしょうか。
2012.02.18
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ルイ14世の宮廷生活 (15) ルイ13世とリシュリューのコンビは、1642年12月のリシュリューの死まで続きます。そしてルイ13世自身もまるでリシュリューの後を追うように、翌1643年に亡くなります。王妃が吸うどの流産を克服して、後にルイ14世となる皇太子を出産したのは、1638年でしたから、4歳の幼帝がルイ14世として即位することになりました。摂政は母后アンヌ・ドートリッシュ、後見役はリシュリューの推挙を受けた亡命イタリア人の、マザラン枢機卿でした。ルイ13世は、戦場には率先して出かける武人タイプの国王でしたが、16世紀の君主のように、国内各地を巡幸して歩くことはせず、パリ近郊の城に数日狩りのために出かけることはあっても、政務はパリで行なうスタイルを貫いたため、フランスの政治は基本敵にパリで動くスタイルは、ここに確立したといえます。そして、ルイ13世のフランスで、もう一つ特筆すべきことは、後世フランス文化の特徴の一つに数えられるサロンの誕生です。サロンの創始者、それはランブイエ侯爵夫人カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌその人でした。教皇庁駐在の外交官の娘として、ローマで成長した彼女は、夫と共に帰国したフランスの宮廷の雰囲気が、なお粗野で荒々しく、洗練された教皇庁の雰囲気とあまりに違うことに驚き、この雰囲気を変えたいと思い立ったのがきっかけだったと、晩年になって当時を回想しています。ルイ14世時代を記す前に、サロンの誕生のいきさつを、しばし綴らせてください。 続く
2012.02.18
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クロニクル 韓国で地下鉄火災2003(平成15)年2月18日本日は、比較的新しい出来事を取り上げてみました。9年前のことです。この日、韓国大邱市で放火による地下鉄火災が起き、192人が死亡する大惨事が起きました。閉ざされた空間である地下鉄空間での火災、日本でも、もし起きたとすると、大変な惨事になるでしょうね。起きない事を祈りたいですね。
2012.02.18
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『東日本大震災と学校教育』を推薦します。この本は、かもがわ出版から今月刊行されたばかりです。新刊で1470円です。昨年の10月に、日本学校教育学会主催の公開研究会「震災時の学校の可能性と課題」が、200余名の方の参加を得て開かれました。この本は、その時の報告や論議を中心にしてまとめられたものです。第1部は現地からの報告、第2部は震災は何を投げかけたか、第3部は学校という可能性として構成されています。サブタイトルーー震災は学校をどのように変えるのかーーに相応しい問題提起の書になっていますが、なんといっても本書の第1部が素晴らしいのです。第1部の内容を紹介しますと、1、宮古市立鍬ケ崎小学校校長 笹川正「それでも地域の中の学校であり続ける」2、宮城県立石巻高等学校養護教諭 千葉久美子「生命を守る砦として~震災時における保健 室と養護教諭の役割~」、3、福島県大熊町教育委員会教育長 武内俊英「大熊の子どもは大熊町民で育てる~自治体の 集団移転と学校~」の3本の報告となっています。どの報告も震災時の事実を冷静に書き綴っています。当時2歳半だった私には、東京大空襲の記憶はないのですが、私同様本書を手にした70代半ばの先輩は、焼け野原の東京に立った時のことが脳裏に浮かんだと、話してくれました。震災に原発事故、そして放射能汚染という三重苦からどう這い上がっていくのか、課題は尽きないのですが、本書の第1部を読む限り、人間まだまだ捨てたものでないという希望が湧いてきたことを、ここに記します。皆さんもよろしかったら、人を信頼できる気持ちにしてくれる本書を、手にとって見ませんか。
2012.02.17
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ルイ14世の宮廷生活 (14)アンリ4世に仕えたシュリー卿は、常々「農耕と牧畜はフランスの両の乳房」と語っていたのですが、その言葉通り、長期の戦争で荒廃した農村と農業の再生に力を注ぎました。その甲斐あって、フランスの農業事情は大きく改善しました。しかし、農業収入だけでは、肥大化した常備軍や官僚組織を養い、対外戦争の出費を賄い、さらに宮廷費などまで、支出するとなると、歳入は大幅に足りません。売官制は、この窮状を緩和するために考案されましたが、それでも焼け石に水です。そこでリシュリューやマザランは、商工業の育成に踏み込んだのです。やがてコルベールが集大成し、彼の名をとってコルベールティスムとも呼ばれた重商主義政策がそれです。重商主義とは商業を重視する政策ですが、結構奥は深いのです。当初、スペインなどが重商主義と呼んだのは、実際には重金、または重銀主義と言った方が正しく内容を捉えた表現になるような、金銀強奪に近いやり方だったのです。しかし、それでは国内にインフレを招き、しかも金銀を掘り尽し、奪い尽せば後に何も残りません。リシュリューはスペインの弱点に気づき、やらずぶったくり方式を改め、貿易差額に注目したのです。輸入をしない輸出はありえない。貿易は相互関係だ、というわけです。ですから彼は、必要な物はいくらでも輸入して良い。国内で作るより安上がりな物は輸入しろ。ただし、輸入した以上に輸出することを忘れるなと、こう叱咤激励しているのです。17世紀の前半に、彼は貿易収支を問題とし、とりわけ輸出を奨励したのです。当然、商品の輸出には、輸出に耐えるだけの工業生産力の充実が必要です。ですから貿易収支の黒字定着を目指すリシュリューは、経済関係に明るいブレーンを使って、国内産業の保護と奨励に力を入れたのです。2日前に紹介した20分の1税は、そのための秘策の一つでもあったのです。国家の検査に合格した商品以外は、輸出しません。どうぞ御安心くださいというわけなのです。今で言うJIS規格のようなものでした。商業の繁栄には、港湾の整備、航海の安全と共に、基礎となる産業の育成が欠かせない。17世紀の前半に、この事実に気付いていたことに、驚かされますね。 続く
2012.02.17
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クロニクル 新円切換え1946(昭和21)年2月17日敗戦から半年、66年前のことです。この日、悪性化しつつあったインフレ退治のためとして、新円への切換え、預貯金の封鎖が発表され、即日実施されました。正式名称は金融緊急措置令・日銀券預け入れ令といういかめしい名称でした。預貯金は最低限度の生活資金・事業資金を除いて封鎖する。市場で流通中の日銀券は、強制預入れと新円との交換で回収する。この2点を強行することで、流通する通貨量を削減し、インフレに歯止めをかけようとしたのです。新円との交換は25日からとされ、しかも交換限度額は1人100円、残りの旧円は強制的に預金に組み入れ、封鎖されました。封鎖預金からの払い出しは、生活資金等に限られ、世帯主は300円家族は1人当たり100円のみとされました。この後、戦後の最も不自由な時代がしばらく続くことになります。紙幣が足りないため、農地をもたずに食糧を自給できない疎開住民は手持ちの衣類等で、農家に食糧を頒けてもらうしかない、みじめでひもじい時期を過しました。しかし、こうした荒療治にもかかわらず、悪性インフレは収まらず、かえって悪化を続けました。続いて行われた農地改革は、地主層の土地を強制的に買い上げたのですが、旧地主たちが、亡くなるまで「農地改革で土地をとられた」と言い続けたのは、インフレのために、代償として受け取った新円が、ただ同然といって良いほどの安値になってしまったからだったのです。 このインフレの最大の受益者は、戦中に乱発した巨額の戦時国債を債務として持つ日本政府でした。現在の巨額の国債を抱える政府も常にインフレの誘惑に駆られているだろうことは、想像がつきますね。 ところで、このインフレはGHQの依頼で来日し、インフレ退治に取り組んだドッジ公使の、ドッジラインと呼ばれる徹底したデフレ政策の実施によって、ようやく終りを迎えることになります。1949年~50年にかけてのことでした。
2012.02.17
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ルイ14世の宮廷生活 (13)宰相リシリューは、国王ルイ13世の変わらぬ信頼を得て、国内における王権の強化と、大陸ヨーロッパにおけるフランス王国の地位強化に、邁進したことで知られる人物です。彼は語ります。「私の第一の目標は、国王の尊厳であり、第二の目標は王国の盛大である。」この観点から、彼は国内の反対派を制圧し、さらにドイツの三十年戦争(1618年~48年)に介入し、スペインとオーストリアの両ハプスブルグ連合に楔を打ち込むことに全力を傾けました。リシュリューはカトリックの枢機卿でしたが、彼にとって、重要なのは宗教よりも政治であり、国王と王権の強化でした。そのため、彼はカトリックでありながら、プロテスタントのスウェーデン(当時のスウェーデンは北方の大国でした)と組み、ドイツの新教徒並びにオランダの独立派を助けて、この戦争に介入したのです。その結果、オランダはスペインから独立し、スペインは遂に没落、オーストリアはドイツ全土を支配する夢を諦め、関心をハンガリーやクロアチアなど東方に向けてゆくことになるのです。そうです。リシリューこそが、ルイ14世の時代のフランスがヨーロッパ最強の覇権国として欧州に君臨することになる土台を築き上げたのです。そのリシュリューは、こうも語っています。「大臣たちに奉仕させる能力というものがあるが、それは国王の資質としては、文句なしに大変重要なものだ。」と。実はルイ13世の父、アンリ4世も財務卿シュリーという、ユグノー戦争で荒廃したフランスの経済を見事に再生した側近を持ちっていました。そして息子のルイ14世も、成人するまではマザラン、そして親政開始後はコルベールという、これまた史上に名高い側近を得ていたのです。では、リシュリューやマザランは、経済にどのような手を打ったのでしょうか。 続く
2012.02.16
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クロニクル 記憶にございません1976(昭和51)年2月16日36年前のこの日、2月4日に発覚したロッキード事件に関して、衆議院予算委員会で証人喚問が行われました。この日喚問されたのは、小佐野賢治国際興行社主、若狭得治全日空会長等でしたが、喚問の中で小佐野社主は質問が核心に迫る度に「記憶にございません」を連発、事件の真相究明を目指す議会の努力をかわしました。証人喚問には、偽証罪や証言拒否罪について、検察当局に告発出来る権利があるため、嘘の証言や証言を拒むことは許されないのです。そこで「記憶にない」は、唯一の逃げ道であったといえます。小佐野は、このセリフを連発することによって、証人喚問制度の限界を見事についたのです。この限界は最近でも変わっていないことは、5年前の姉歯事件の喚問でも明らかになりました。
2012.02.16
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ルイ14世の宮廷生活 (12)ルイ13世に登用された官僚たちが眼をつけ、すぐに実施に踏み切ったのが、封建時代にはあたり前のように存在していた官職の世襲を禁じることでした。この点フランスは、日本の江戸時代、徳川幕府体制と決定的に違っていました。日本では、官職は基本的に家代々の世襲であり、この伝統は明治政府によって禁じられるまで続いていました。ルイ13世の政府は、1618年に官職世襲制を廃止し、2年後の1620年には、歳入の増加を目指して、官職を売買する売官制を導入したのです。富裕な大ブルジョワを登用し、しかも増税せずに歳入の増大を計ることが出来る。一石二鳥を狙った計画でした。さすがに最高位の官職は、売官制の対象になっていませんが、かなり広範な官職が売官制の対象となっていました。国王課税の取立てを任せる徴税請負制も、その一つでした。計数に明るい金融業者に、タイユ(一種の人頭税です)であるとか、20分の1税(工業製品から粗悪品を排除し、輸出産業を育成することを目的に導入された税で、工業製品の検査料として製品の売価の5%を徴収したので、この名がつけられました)の徴収を、一任したのです。この場合、最初に税収はこれぐらいあるはずと見込みを立て、請負うことを希望する業者を入札で選びました。例えば、この地域のタイユ収入は10万リーヴルであると。政府が見積もっている場合、政府は10万リーヴル以上の額を提示した業者から、最高額を提示した業者に、請け負わせたのです。1度、請負が成立すると、その業者が辞退を申し出ない限り、その業者の死まで契約は継続しました。つまり、業者は国家に納める税額以上の税を徴収し、差額を懐に入れることで、利益を上げていたのです。この制度は、国民の怨嗟の声を浴びましたが、国家の側にもメリットは大きかったのです。それは徴税役人の数を、ごく少数に抑えることが出来たために、徴税に要する人件費の節約効果が大変大きかったからです。成人したルイ13世の政府は、こうした改革を導入したのですが、そのルイ13世の最大の功績は、1624年に枢機卿リシュリューを宰相に登用したことでした。 続く
2012.02.15
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クロニクル ソ連軍アフガニスタンからの撤退完了1989(平成元)年2月15日23年前の今日、ソ連軍のアフガニスタンからの撤退が完了しました。 1979年の12月末に、アフガニスタンで発生した親ソ派のクーデタに乗じて、アフガニスタンに侵攻したソ連軍は、山岳ゲリラ化したアフガン諸勢力の抵抗に苦しみ、アフガニスタンはソ連にとってのヴェトナムと言われる大苦戦に陥りました。85年に政権についたゴルバチョフは88年に撤退を決意、同年5月に開始されたソ連軍の撤退は、89年2月のこの日に完了しました。 その後のソ連側の発表によると、79年12月以降のソ連軍兵士の戦死者13,310人、負傷者35478人、行方不明者311人ということでした。これに対しアフガン側の死傷者は住民を含めると100万人を超えるとされ、この他に故郷を追われて難民化した住民は600万人を下らないとされています。 しかもアフガン住民の悲劇はなお続き、ソ連撤退後、諸部族間に分かれた反政府各派の内戦が続き、90年代を通じて戦禍の収まる気配を見せませんでした。この内戦状態をようやく終息させるかに見えたのが、90年代後半から台頭したタリバーンだったのです。9/11テロを経験したアメリカは、このタリバーン政権を攻撃して崩壊させ、アフガンを再び諸部族割拠の状態に戻してしまいました。 アメリカの擁護するカルザイ政権に民衆の支持はなく、軍部にもソッポを向かれたカルザイ政権は、風前の灯でした。
2012.02.15
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ルイ14世の宮廷生活 (11)一昨日の第9回に、フランスの絶対王政は、ブルボン朝と共に始まると書きました。ブルボン朝の始祖アンリ4世の治世が、完全に安定したのはナントの勅令を発した1598年のことでした。日本史でお馴染みの関が原の戦いが1600年ですから、徳川幕府とブルボン王朝(= フランス絶対王政)は、ほぼ同時期に出発したとお考えください。さて、アンリ4世(1589年~1610年)も、その子のルイ13世(1610年~43年)も共に、その治世の間に、16世紀の国王たちのような国内巡幸は行なっていません。戦場にはたびたび出かけ、危険を顧みず戦場を駆け回って、兵士たちを鼓舞して廻っても、パリを留守にするのは、戦地に趣いている時のみだったのです。帯剣貴族の不満を吸収し、彼らを手なずけるためには、その生活を安定させる必要があります。こうして、中央や地方に様々な軍務が設けられ、軍備の増強が図られました。長い内乱に勝利した王権は、その後も拡大を続け、ブルボン朝3代目のルイ14世(1643年~1715年)の治世下に絶頂を迎えることになります。さて、王権の強大化で内乱は減り、あっても王権を転覆しようというような大規模なものではなく、せいぜい自分を国王に高く売り込もうと目論む、地位獲得の条件闘争がせいぜいでしたから、多くの子分や家臣を抱える必要はありませんでした。そのため帯剣貴族の多くは、国王の保護に期待せざるを得なくなり、結果として王権がさらに強化されることに繋がりました。しかし、武闘派の帯剣貴族は、中央集権化するに従って肥大化する行政官(=官僚)としては役に立ちません。彼らを中央や地方の行政官にすることは不可能です。それゆえ中央の統治機構を地方に拡げ、徴税機構をはじめとする住民統治手法の徹底を司る行政官には、王権の強大化をビジネスチャンスの拡大と捉え、積極的に王権を支持するようになった上層ブルジョワ夜一部聖職者を登用するしかありませんでした。能力のない者を、王国の重要な部署の役職につけるわけに行かない。この辺の判断は、野田現内閣などより、はるかにシビアでした。行政官となるブルジョワは、法服貴族(=新貴族)として、古くからの帯剣貴族と並んで、税制や法整備の面でフランスの王権を支えてゆくのです。帯剣貴族は武人です。それゆえ軍務につく限りは、それなりの能力を発揮します。そして彼らの面倒を見るためには、大勢の軍人を抱える費用が必要です。アンリ4世を継いだルイ13世は、この費用の捻出に悩むことになりました。 続く
2012.02.14
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クロニクル 変動相場制スタート1973(昭和48)年2月14日1971年12月のスミソニアン合意は、つぎはぎだらけの妥協でした。ドル切り下げに円とマルクの切り上げをセットして、固定相場制を維持しようとしたのですが、所詮無理な話でした。 72年12月に、西ドイツでの猛烈なドル売りが各国に広がり、再びドルの危機、国際通貨危機が発生したのです。2月に入り、各国は相次いで外国為替市場を閉鎖、円・ドル・マルクのレートの調整に入りました。その過程でアメリカは貿易収支の赤字幅の縮小のためには、ドルの威信を捨てても構わないという、捨て身の姿勢でいることが判明し、日本も西ドイツも一定の譲歩はやむなしということになっていったのです。こうして、日本は1ドル=308円の固定相場に別れを告げ(といっても、前年12月からは、投機筋のドル売りを日銀が買支えに動く事で、辛うじて308円=1ドルを人為的に支えていたのですが)、39年前のこの日2月14日から、1ドル=277円のレートから始まる変動相場制に移行すると、発表したのです。 翌3月には西欧各国の通貨も対ドルのフロート制に移行、ここにスミソニアン体制は完全に崩壊、各国通貨の固定相場制は終焉を迎えたのです。さて、日銀の介入もあり、スタート当初の円の値動きは、しばらく前の人民元の動きに似た小波も立たないような静かな動きに終始し、10月に入っても、1ドル=260円台の取引が続いてました。大蔵省と日銀の介入による人為的な為替操作によるもので、各国からはダーティフロートだとの手厳しい批判を浴びたのでした。現在では70円台なのですから、270円など遠い昔のことのように思えますが、当時も今も輸出企業は、円高に過剰反応する習性があるようです。私にとって自国の通貨が高いのは、気持ちの良いものです。
2012.02.14
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ルイ14世の宮廷生活 (10)ダルタニアンのことを記しましょう。彼の父はガスコーニュと言いますから、ピレネー山脈のフランス側、スペインに最も近いフランス南西部の州の貧乏貴族でした。退役軍人の年金と僅かな所領の経営で辛うじて生活を支えていましたから、子息のダルタニアンが15歳に達すると、パリに出て、国王の恩寵に預かる道を探せとばかりに、1通の紹介状を持たせて、パリに旅立たせました。ダルタニアンは貧乏貴族の子息として就職運動をするために、パリを目指したのです。当然当時の貴賓の館や宮殿に出入りして、チャンスを掴む必要がありましたから、当時のリクルートルックとも言える正装だった、フロックコートに身を包む必要があったのです。しかし、ダルタニアン家の財力では、息子にフロックコートを新調してやることは出来ず、母は夫のフロックコートを手直しして、息子に着せるしかなかったのです。馬は替えませんから、年老いたロバに跨り、これまた年老いた従者を1人連れて、彼は旅立ったのです。幸いダルタニアンの父は、今をときめく銃士隊(日本の近衛軍、国王の身辺を警護するエリート軍人の部隊です)の隊長と戦友同士だったので、ダルタニアンは父から銃士隊長トレヴィル卿に宛てた、紹介状を抱えていたのです。軍務に着くのだとすれば、これ以上はない強力なコネがあったのです。こうしてダルタニアンは、すぐには正式の銃士にはなれなかったのですが、トレヴィルさんのポケットマネーで、首尾よく銃士見習いとして、職を確保することが出来たのです。『三銃士』は小説の世界です。現実の貧乏貴族たちは、そう簡単に職を得ることは出来ませんでした。アンリ4世によって平和が訪れ、戦争の時代が過去のものになってゆくと帯剣貴族たちは、一握りの大貴族を除くと暮らしに困るようになったのです。この人たちをどうするか。それが次の国王ルイ13世に残された大きな課題だったのです。 続く
2012.02.13
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クロニクル 公明党大会開催1967(昭和42)年2月14日45年前のことです。この年1月29日の衆院選に初めて候補者を立て、一挙に25名を当選させた公明党は、この日正式に党大会を開き、竹入委員長、矢野書記長のコンビを選出しました。創価学会は1959年の参院選に初めて候補者を立て、6名全員を当選させ、3年後の62年参院選では9名全員が当選、公明政治連盟として、参院で15名の勢力を築き、6名が改選を迎えた65年の参院選ではプラス5議席の11議席を獲得するなど、宗教団体を母体として目覚しい躍進を遂げました。この余勢をかって、67年総選挙で衆院への進出を図り、大量当選を果したのです。いまでは当然のことなのですが、1955年結党の自民党は、それまでの選挙では毎回50%以上の得票率を達成していたのですが、公明党の進出で足元を脅かされ、この選挙で初めて得票率50%を割りした。なお、竹入委員長は1972年日中国交回復に際し、日中間のパイプ役を務め、日中国交回復の影の立役者の一人として知られる人物でもあります。
2012.02.13
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ルイ14世の宮廷生活 (9)1589年、ヴァロワ朝最後の君主アンリ3世も死去によって、ブルボン朝の始祖アンリ4世が王位を継承しました。時あたかもフランスの宗教戦争(ユグノー戦争)の最中の出来事です。王位を継いだブルボン家のアンリは、こともあろうに新教徒(ユグノー=フランスのカルヴァン派)のリーダーとして、カトリックの宿敵でしたから大変です。当時のパリは、カトリック過激派の牙城だったのです。市政を掌握するパリ市参事会のメンバーの多くが、カトリック過激派の熱心な支持者だったのです。当然、新国王アンリ4世を国王と認めず、王のパリ帰還を認めようとしなかったのです。困ったアンリ4世は、どうしたか。彼は優れた武人でもあったのですが、政治家としても大胆な決断の出来る傑物でした。1593年、彼は「パリはミサに値する」という有名になった一言を残して、ユグノーからカトリックへ改宗することを決断したのです。自らの改宗をもって、30余年に及ぶ宗教戦争に終止符を打とうというのです。この決断に、さすがのカトリック強硬派も度肝を抜かれます。最初は、見せ掛けの改宗ではないかと、猜疑の眼を向けていたのですが、やがて1人また1人とアンリ4世の王位を認めるようになります。こうしてアンリ4世は改宗から5年後の1598年に、ようやくパリへの帰還が適い、名実共に全フランスの王とみなされるに至ったのです。このアンリ4世の治世後半から、フランスは絶対王政の時代に入ったとされます。長い内乱は、帯剣貴族没落を招き、彼らをして国王の自費によって、国王直下の常備軍の平氏に取り立ててもらい、官費による給金で生活するしかない立場に追いやってしまったのです。『三銃士』のダルタニヤンの立場が、まさにこれにあたります。 続く
2012.02.12
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クロニクル 津田左右吉博士の著書、発禁に1940(昭和15)年2月12日72年前のこの日、日本古代史の碩学.津田左右吉博士の著書『神代史の研究』『古事記・日本書紀の研究』『上代日本の社会及び思想』などの著書が発禁処分を受けました。 記紀の記述には、史実と神話が混じっており、神武以下数代の天皇は実在の人物ではないと指摘した津田博士の研究成果は、日本が神国であることを否定する不敬な思想であるというのがその理由でした。この措置に加えて、当時の政府は、3月に入ると津田博士の図書を出版した岩波書店の岩波茂雄社長と共に、津田を起訴するに至るのです。良心的な学者の研究さえも力づくで葬りさらないと、学問的な裏づけのない皇国史観は存続できなかったのですね。この皇国史観そのもののような展示を、今でも続けているのが、靖国神社の遊就館です。そこだけ戦前で時計の針が止まってしまっているような、古色蒼然としたカビの生えた空間が丸ごと残されているのです。珍妙かつ少々気味の悪い空間です。 石原都知事と意識を共有する「新しい歴史教科書を作る会」の歴史観は、この皇国史観の焼き直しバージョンです。
2012.02.12
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ルイ14世の宮廷生活 (8)フランソワ1世を継いだアンリ2世(在位1547~1559年)は、ひろく全国を巡幸することはせず、軍事遠征を除くとパリに近い、シャロン、ランスそれにpリ近郊のコンピエーニュのシャトーに短期滞在する程度でした。ところが、アンリ2世の不慮の死を経て、急遽即位した彼の子ども達の時代になると、摂政となった母后のカトリーヌ・ド・は、メディシスは、幼王を伴って、またまた長い巡幸の旅に出ています。病弱だった兄の死を受けて、10歳で即死したシャルル9世(在位1560~74年)は、母后と共に、1564年1月から66年5月まで2年3ヵ月余の間、完全にパリを留守にしています。名高い「フランス大巡幸」です。宮廷は、820日を超える巡幸のなかで、巡幸先での逗留は628日、残りの200日は旅の空で過ごしています。この間、最も長く滞在したのは、90日滞在したムーランでした。その他の各地は大体30日前後の滞在でした。シャルル9世の時代に、フランスの宗教戦争(1962~98年)が始まっていますが、戦局が深刻になるのは、次のアンリ3世の時代ですから、シャルル王の巡幸を戦争のためとするには、無理があります。彼が巡幸しなかったのは、中央山地(リムーザン一帯)とブルターニュ、ノルマンディなど英仏海峡沿岸地域だけでした。シャルル9世が24歳の若さで没した後、弟のアンリ3世(在位1574~89年)が即位しますが、彼の時代は、宗教戦争が激しく燃え広がっており、戦地を転戦する国王として、パリ滞在は必然的に短くなるしかなかったのです。それは、アンリ3世亡き後に、王位を継承したブボン家出身のアンリ4世(在位1589~1610年)の治世前半も同じでした。
2012.02.11
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クロニクル イラン・イスラム革命成就1979(昭和54)年2月11日第1次オイルショック後の原油価格の高騰(といっても、1バーレル=2~3ドルだった原油が15~18ドル程度に上がったのですが)によって、高額の資金を手にした産油国の中で、イランは突出して、工業化と国内のインフラ整備に邁進する姿勢を見せていたのですが、その結果、国内の貧富の差が著しく開き、工業化の恩恵に預かれない国内各層の不満は抑え難いところまで高まり、前年88年後半から反王政運動は日ごとに勢いを増してきていました。 この流れに抗すことは出来ず、パフレビー朝の国王モハンマド・レザー・シャーは1月16日に国外に退去、2月1日には、シャーによって国外に追放されていたシーア派の最高指導者ホメイニ師が亡命先のパリから帰国、歓迎の国民と軍隊に対して共にシャーの内閣を打倒しようと宣言したのです。 そしてこの目標が、33年前の2月11日のこの日、内閣総辞職という形で実現をみたのです。こうしてこの日から革命イランの全権力はホメイニ師の下に集中、イランイスラム革命は成就ししました。
2012.02.11
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クロニクル 憲政擁護運動高まる1913(大正2)年2月10日来年が100周年ですね。99年前のこの日、高まる憲政擁護を掲げる都市中間層の圧力の前に、桂太郎内閣は、就任僅か50日で総辞職を決意、翌日正式に総辞職しました。世に言う大正政変です。 ことの起こりは、前年12月5日の西園寺公望内閣の総辞職でした。西園寺内閣が朝鮮における2個師団の増設を認めなかったため、これを不満とした陸相が天皇に直接辞表を提出して辞任、陸軍が後任陸相を出さなかったためでした。当時陸・海相は現役武官から選ぶ決まりになっていたため、陸・海軍は我が意に添わない内閣を辞任に追い込む特権を実質的に握っていたのです。後任が出てこない以上、西園寺内閣は総辞職するしかありませんでした。組閣の大命は長州閥で軍人出身の桂に下ったのですが、陸軍の横暴で西園寺内閣が倒れたことに、明治の45年間、政治経験を積んできた国民は大きな衝撃を受け、ここに藩閥と軍閥の二大閥による、閥族政治の打破と責任内閣制の実現を求める憲政擁護運動が全国的に始められ、またたく間に全国に広まったのです。 民衆運動に背中を押され、衆議院の多数派である政友会は桂内閣の不信任案を提出、内閣は天皇の仲裁に期待したのですが、民衆運動の支援を受ける政友会は応じる気配を見せず、ここに民衆運動の圧力に屈する形で、桂内閣は総辞職に至ったのです。明治23年の議会政治の開始以来始めてのことでした。大正デモクラシーと呼ばれる新時代の幕が上がったのです。 次の山本権兵衛(ごんのひょうえ)内閣は、陸・海相の現役武官制を改め、予備役や退役した大将・中将までを大臣に任命できる形をとり、一時期み限られましたが、軍部の横車を抑えることに成功したのです。
2012.02.10
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クロニクル 沖縄に恒久基地建設1950(昭和25)年2月10日62年前のことです。GHQはこの日、占領中の沖縄に、米軍の恒久的基地を建設すると発表しました。当時、沖縄に限らず、日本全土がGHQの占領下にありましたが、やがて来るであろう、対日講和を考える時、GHQの占領地からの撤退は、当然考えておくべきことでした。従って、この日の「沖縄に恒久基地建設」という発表は、対日講和後も沖縄は日本に返還せず、日本に割譲させるか、そうしないまでも占領を続けるという、米国の決意を明確に表明したものだったのです。沖縄で基地建設反対の島ぐるみ闘争が起きるのは,これ以後のことでした。
2012.02.10
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ルイ14世の宮廷生活 (7)16世紀の国王達も、ルイ14世のヴェルサイユ宮殿ほどではないにしても、各地に姿の美しいsシャトーを造営しました。フランソワ1世が狩りの足場にと建設を命じたロワール河畔のシャンポール城は、1981年に世界遺産にも登録されています(現在はロワール渓谷一帯の城館や寺院、修道院をあわせた歴史的建造物群のひとつになっています)が、部屋数は440、当時大変高価でパリでも数が少なかったガラス窓が300以上も設けられ、階段が63ヶ所もあり、調理場や暖炉の煙突が356本も設けられている、広大壮麗な城でした。さらには、ブロワ城や、パリに近いフォンテーヌブロー宮など、既存の館の増改築も、盛んに行われたのですが、いずれもイタリア人の建築家を招いて、ビザンツ世界から伝えられたルネサンス様式を、フランスに導入することに貢献したのです。そしてまた、「宗教改革よもやま話」に記しましたが、16世紀は宗教改革の世紀でもありました。そんなわけですから16世紀は、ヨーロッパ精神史の激動の時代でもありました。フランスも例外ではなく、ルターの改革に先立つ1512年に、ルフェーヴル=デターブルは『パウろ書簡註解』を出版して、「神の恵みのみによる救い」を強調して、ルターの信仰義認論と同質の主張をしています。彼と彼の支持者は、福音主義者とと呼ばれ、カトリック教会への内部批判を、積極的に行なう勇敢さを持っていました。自らも詩作をよくしたフランソワ1世は、姉のマルグリット・ド・ナヴァール(アンリ4世の祖母)と共に、ある時期までは新しい思潮に好意的で、ユマニストや文芸の保護者の役割も果たしていたのです。後に宗教改革者の道を歩み、フランスを追われてジュネーヴに移り住んだカルヴァンも、フランソワ1世に期待して、1536年には、主著の『キリスト教綱要』を献呈しています。後のコレージュ・ド・フランスの前身にあたる王立教授団を創設したのも、王家の図書室の基礎を築いたのも、共にフランソワ1世でした。 続く
2012.02.09
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クロニクル 原水爆実験の禁止を…1956(昭和31)年2月9日56年前のこの日、衆議院は原水爆実験禁止要望決議案を満場一致で可決しました。翌10日には参議院も異議なく可決し、ここに原水爆実験の禁止、そしてその先にある核兵器の廃絶は、唯一の被爆国としての日本の悲願であるとして、世界にアピールすることになりました。1954(昭和29)年の第5福竜丸事件は、原水爆の被害を体験している日本の国民感情を刺激し、翌55年には杉並区の主婦達の署名運動がきっかけとなって、原水爆禁止運動がスタートを切り、8月6日の広島原爆の日の記念行事として、原水爆禁止世界大会が広島市で開かれました。こうした活動の延長として、この日の国会決議となったのでした。
2012.02.09
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ルイ14世の宮廷生活 (6)16世紀のフランスの宮廷は、旅する宮廷として各地を巡りました。その点で確かに落ち着かなかったのですが、その分新しいフランス文化の伝道者の役割を果たしたともいえます。16世紀前半は、イタリアルネサンスの全盛期でした。1453年のビザンツ帝国の滅亡、コンスタンティノープル の陥落は、ビザンツ帝国の知識人のイタリア諸都市への大量亡命を招きました。彼らと共に、貴重なギリシア語の文献も到来します。こうした変化が、16世紀にかけて一挙に花開くこととなったのです。ではどのようにして、イタリアルネサンスの成果は、フランスに伝わったのでしょうか。それはメディチ家の出身で、フランス王アンリ2世(フランソワ1世の長子)妃となった、カトリーヌ・ド・メディシスの存在によります。フィレンツェから輿入れしたカトリーヌは、イタリア戦争に参戦して、洗練されたイタリア文化に接し、粗野な荒くれたちの闊歩するフランス宮廷の遅れを痛感したフランソワ1世の、たっての願いで、息子の嫁に選ばれたのです。それは、レオナルド・ダ・ヴィンチを招くことに執念を燃やしたことと並んで、フランソワ1世の、フランス文化に対する大きな貢献でした。西洋料理といえば、ナイフとフォークとスプーンでと誰もが思い浮かべますが、実はこの風習、15世紀半ばにビザンツ世界からイタリア諸都市に齎され、16世紀になってようやく普及し始めたのです。勿論フランス宮廷では、全て手掴みです。汚れた手をナプキンで拭くこともなく、全て衣服の袖口で拭っている始末でした。こうした風習は、アンリ2世妃カトリーヌと、彼女に従ってイタリアからやってきた侍女たちによって、時間をかけてフランスに根を下ろし、やがてドイツにも伝えられるのです。イングランドは、フランス経由ではなく、こちらはジェノヴァ経由でスペイン王室に伝わり、スペイン経由でイングランドに伝えられます。こうした王室の役割のひとつに、国王が各地に建設したシャトー(城館)があります。16世紀フランスでは、もはや教会の勢威は衰えており、見るべき建築物は、国王や財力に余裕のある大領主の建造したシャトーに限られたのです。 続く
2012.02.08
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クロニクル 日劇でウェスタンカーニバル開催1958(昭和33)年2月8日54年前、私がまだ中学3年生だった時でした。この日、日劇でロカビリーの人気ミュージシャンが一同に会した、第1回ウェスタンカーニバルの初日の幕が上がりました。出演は平尾昌晃、ミッキー・カーティス、山下敬二郎のロカビリー三人衆。この日は早朝から2000人以上の若者の列が出来、有楽町界隈は大混雑、初日の入場者は9500人に達し、1週間の開催で計45,000人を動員する大盛況、大成功の興行になりました。 そういえば、学校サボッテ出かけていった、ドラムに凝っていた友人もいましたね。今はどうしているのかなぁ…。当時の日本では、ロックンロールもカントリー&ウェスタンもリズム&ブルースも、どれもごちゃまぜの未分化状態でした。それらすべてを総称してロカビリーと呼んでいたのですね。
2012.02.08
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ルイ14世の宮廷生活 (5) 国王一行の巡幸を迎える側は、どうだったのでしょうか。夫々の地方の州都が多いのですが、そういった都市の幹部達は、国王一行を迎えるにあたって、莫大な予算を使って、色々な趣向を盛り込んだ歓迎イヴェントを行なうのが常でした。実際そうすることで、都市の上層部は、国王の廷臣たちの末席に並んで、拡大した宮廷の一部に連なることが出来たのです。その効果は絶大でした。市民たちは、大人数を引き連れてやってきた国王の勢威と、豪華絢爛たる装束に感嘆し、廷臣たちに伍して国王一行に加わる幹部達に、尊敬の念を抱くことで、彼らの支配を是認するからです。都市役人達、都市の上層部は、突然の都市の膨張や大イヴェントに伴うテンヤワンヤの大騒ぎの中で、騒ぎに紛れて起こりがちな盗みや略奪といった犯罪の防止にも、気を配る必要がありました。都市の商人や手工業者、とりわけ贅沢品を扱う商人や親方たちは、やってきた王族や廷臣たち、さらにはその従者といった新しい顧客の関心を惹こうと、熱心に創意工夫を凝らしました。こうした熱意は、フランス各地の手工芸品の技術を、大いに洗練させることに役立ったのです。そしてまた、都市の市民たちは、国王一行を身近に迎えて、間近で一行の様子を観察する機会を得たことを、素直に喜び、一生の語り草にしていったのです。「あれは15◎◎年のことだった。王様と王妃様がワシらの前をお通りになったのさ、王妃さまは馬車の窓から手を振られて、わしらに微笑んでくださったんだ…」と、何かにつけて、自慢話が延々と続けられたのです。こうして、国王一行の巡幸は、16世紀のフランス王権にとって、支配の安定のために欠かすことの出来ない、一部となっていたのです。 続く
2012.02.07
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クロニクル 仇討ち禁止となる1873(明治6)年2月7日139年前のこの日、明治政府は「仇討ち禁止」を決定、即日勅令として公布しました。興味深いのは、この仇討ち禁止について、政府が「仇討ちを認めることは、さらにその反対の仇討ちを呼び、仇討ちの連鎖に繋がる。よって、その連鎖を断ち切るために、今後は仇討ちを禁じ、すべてを法による裁きとする。」と発表していることです。仇討ちに優先する法の裁きの規定が、ここに誕生しました。これは法治国家にとって当然のあり方です。私達も、被害者感情に訴える事はあっても、法に依る裁きそのものを否定することは、ありません。ところで、米国のブッシュ前大統領が決定した9・11事件の報復行為は、まさに仇討ち原理を復活させた行為でした。近代の法治国家が明確に否定したことを、米国は実行したわけです。これは到底認めて良いことではないし、認められる行為でもないと私は考えます。驕る平氏は久しからず… そんな眼で私は現代アメリカを見ています。
2012.02.07
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クロニクル 米軍、北爆を開始1965(昭和40)年2月7日47年前になります。この日米軍機は、大統領リンド・B・ジョンソンの命令の下、北ヴェトナムのドンホイにある軍事施設を爆撃しました。いわゆる北爆の開始です。 米政府は、この措置に関して、南ヴェトナム解放民族戦線が、この日未明に南ヴェトナム中部のプレーク米軍基地に攻撃をしかけ、米兵9人が死亡、79人が負傷したことへの報復であるとの短い声明を発表しました。しかし、その後の米国マスコミの調査で、ホワイトハウスは、前年9月の時点で、1965年の早い段階で北爆を開始するとの大綱を決定していたことが明らかにされました。 プレーク基地攻撃を絶好の口実と考えたのでしょうね。
2012.02.07
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ルイ14世の宮廷生活 (4)国王のご一行は、王族を筆頭に大勢の廷臣を従え、各国の外交官をも従えて各地を巡幸したことを記しました。この巡幸には、大法官府が保管する国王の印璽や重要書文書、王室の宝物類や美術品(フランソワ1世がダ・ヴィンチから寄贈された『モナ・リザ』の絵もその1つです)類、さらには書物の類までもが、行列の中に携えられていたのです。一行は近衛兵によって警備され、日々の必要を満たす手工業の親方、さらには召使たちまで連れていましたから、その行列は、さながら1つの都市が丸ごと移動するような感じだったと言われています。それゆえ、こうした巡幸に要した費用がいかに莫大であったかは、参勤交代がいかに諸大名家の財政にとって、頭痛の種であったことを知る日本人には、容易に想像のつくことです。それでも、この時期の国王達は、費用のかかる巡幸を止めようとはしませんでした。その事業のいくつかは、昨日の(3)に記しました。ですが、その最も本質的な事情は、以下の点にあったのです。実は17世紀に入ってもそうなのですが、14世紀~16世紀にかけてのフランスは、パリを含む北フランスを中心に、全国的に戦乱相次ぐ殺伐とした世紀が続いていたのです。1330年代からの百年戦争は、英仏戦争と呼ばれますが、実質的にはフランスの内乱でした。そしてその後も、1598年にようやく終るユグノー戦争まで、戦乱が相次ぎました。こうなると、各地に食い詰めて野党化したはぐれ者や、野盗化した傭兵隊など、山賊海賊川族の類が各地に現れます。当然物資の安全な搬送などは、夢のまた夢だったのです。一方で、この事実は地方領主権力の弱体化を物語っていますから、中央権力たる宮廷のウエートは大きくなる一方です。こうして規模拡大した宮廷が必要とする食糧や日常物資は、大変な量に上ります。それを、首都に搬送するには、どれだけの警備とコストがかかるのか。移動にコストがかかっても、貢納された物資を現地にとどめ、消費する側の国王以下のご一行が、現地に出かけて消費する方が、よほどロスは少なく合理的だったのです。その血で食べつくし消費しつくすと、次の領地へと向かうのです。そしてまた、トイレ設備の不十分なこの時代にあっては、長く同一箇所に大人数で逗留するのは、衛生的にもよろしくありません。一地域への逗留は、伝染病予防の観点からも、程ほどに留めることが善しとされたのです。 続く
2012.02.06
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クロニクル 初の女性知事誕生2000(平成12)年2月6日12年前のことです。この日行われた大阪府知事選で、太田房江候補が当選を決め、本邦初の女性知事が誕生しました。 日本国で、女性が始めて選挙権を行使したのは、1946(昭和21)年4月10日の戦後最初の国会議員選挙でした。この時、同時に被選挙権も賦与され、女性議員も誕生したのですが、それから54年を経て、ようやく女性知事の誕生を見たのです。 70年代のウーマンリブ、80年代の男女雇用機会均等法の施行などを経て、女性の社会進出は次第にスピードを早めながらも、なおゆっくりとしか進んでいなかったのですが、それでも確実に歴史の歯車が回っていることが実感できる一齣でした。 それにしても、少子化=労働力不足=経済停滞などと旧態依然としたカビの生えた議論を悠長に述べ合って深刻そうな顔をしているのなら、さっさとあらゆる分野での男女差別、雇用の年齢制限を取り払ってしまえば良いのに…と、話題の少子化は、男女差別の完全撤廃には、まさに絶好のチャンスなのだがと、私は静かにしかし、公然と主張しています。早く、女性首相が誕生しないかな…。 安倍首相以下6人の首相よりも、少しはマシな仕事をなさる方なら、随分いらっしゃるように見えますが…
2012.02.06
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