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ルイ14世の宮廷生活 (73) ランベール夫人は、作品集を残しており、その作品のいくつかは、当代一流の批評家や思想家から高い評価を受けるなど、高い教養に恵まれていました。1698年ヌヴェール館にサロンを開いた夫人は、洗練された礼儀作法と快適な趣味を、」そして同時に真摯な学問の追及を目指しました。彼女にとって、前年1697年に「科学アカデミー」の終身書記の座についたフォントネルと出会い、彼の熱心な参加が得られたことが、成功の第一歩になりました。フォントネルは、進歩派を代表する哲学者達の先頭を行く才人でした。彼にとっても、自らの地位を不動のものにするには、質の高いサロンの常連たちの支持を得ること、女性の読者を幅ひろく獲得することは、とても大事なことだったのです。夫人にとって、フォントネルの参加は、自らのサロンに「学問と文芸のサロン」としての大きな評判をもたらしてくれたのです。こうして、1710年頃には、夫人のサロンはパリ第一のサロンとしての評判を獲得し、それは彼女の晩年まで続きました。晩年には、彼女のサロンは、アカデミー・フランセーズの登竜門という評判を呼び、彼女のサロンの支持なしには、アカデミーの門はくぐれないとまで、言われるほどになっていました。夫人のサロンは、毎週火曜と水曜に開かれましたが、水曜は一般の社交界の人々が中心で、当代一流の学者や文人が招かれたのは、火曜日でした。サロンの会話に啓示を受けた作品も多いのですが、学者や文人が書きかけの作品を火曜のサロンで朗読し、皆の批評を参考に、思索を深めたり推敲を重ねて、作品を発表することも多かったのです。かのモンテスキューが、その著『ペルシア人への手紙』の最初の刷り上がりを、夫人に献呈していますが、それは著作の執筆にあたり、火曜の集まりでの議論が大きく貢献したことへの、彼の感謝の気持ちの表れだったのです。モンテスキューは、他にもいくつも原稿を持ち込み、フォントネルやラ・モットといったビッグネームの評価を仰ぎ、推敲を重ねる習慣を持っていました。青年モンテスキューやマリヴォーなどの若い作家や思想家は、フォントネルの推薦で、夫人のサロンの門をくぐり、サロンの批評の洗礼を受けて、大をなした人たちということも出来るのです。 続く
2012.04.30
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クロニクル 『日本の下層社会』出版1899(明治32)年4月30日113年前のこの日、横山源之助著『日本の下層社会』が教文館から出版されました。著者の横山は大阪毎日新聞の記者でした。横山は二葉亭四迷の門を叩いて、文学と社会問題の関係を深く考察する必要性を自覚したことから、1894(明治27)年に大阪毎日新聞に入社し、ルポルタージュ記者として、才能を開花させました。日清戦争後、社会の底辺で生活する貧しき人々の生態に関心が集まってきていたため、横山の現地からのルポは評判を呼び、貧しき人々の生活に焦点を合わせて、その生活の実際を素直に表現したものとして、高い評価を得たのでした。この著書は、関西や北関東、そして東京の3地点での調査を踏まえて記されており、貧民の諸階層の生活を冷静,沈着に調査、観察している点で優れていました。ここに、日本資本主義も、貧民問題は必然的な社会問題であることが、明確に理解される事となりました。
2012.04.30
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ルイ14世の宮廷生活 (72) ランベール夫人の遺産相続に絡む揉め事に、2回にわたりお付き合いいただきました。サロンの客人たちは、誰もこうしたいきさつには、まったく無関心で、サロンの豪華な調度や、趣味のよさばかりを話題にしていました。サロンの女主人たるもの、当然大勢の客人を唸らせるだけの、豪華で趣味の良い空間を、提供できる財力を身に備えていることは、あたり前のことだったのです。ランベール夫人は、1698年にヌベール公爵の屋敷の一部を借り受け、サロンを開きました。ヌベール公爵は、マザラン枢機卿の甥にあたり、リシュリュー通りとコルベール通りが交差する角地に立地する屋敷を、貸し出したいと考えており、親しい間柄のランベール夫人が借り受けることになったのです。義父の死後、母の遺産の全てを相続することが出来たランベール夫人は、借り受けた館を改装し、趣味の良さをかもし出すことに腐心しています。幸いなことに、改築を担当した技術者のメモや図面が発見され、具体的な中味が分かるのです。2階には、三つの部屋が一続きに並んでいて、廊下ではなく大きな扉によって、繋がっています。16世紀前半のランブイエ夫人のサロンと同じスタイルです。中央の最も重要な客間は、7,7メートルもある天井までの飾り板張りで、カーテンにも椅子にも緋色のタフタが使われていました。当時高価な貴重品だった窓ガラスや鏡も、ふんだんに使われており、壁には絵画を多く飾って、流行に対する敏感さも示していました。テーブルと椅子の配置にも工夫が施され、いくつものテーブルとそのテーブルを取り囲むようにして椅子が配置されていました。つまり夫人のサロンの客人たちは、三々五々自由に会話を楽しんだり、書き物に興じたり出来たのです。ランベール夫人のサロンは、パリで唯一賭け事が許されない場として知られていたのですが、それにも関わらず、2つの賭け事用のテーブルが置かれていました。これは客人の読書にでも使われたのだろうと、考えられています。 続く
2012.04.29
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クロニクル 一高と三高の誕生1886(明治19)年4月29日126年前の話です。この年4月10日に公布された中学校令によって、全国を5区に分け、夫々の区に1校、全国に5校(第一から第五まで)の高等中学校を置く事が決められました。夫々の区域は, 第一区 (関東+山梨、愛知、静岡、長野) 第ニ区 (東北) 第三区 (関西、中国、四国+岐阜) 第四区 (新潟、富山、石川、福井) 第五区 (九州) でした。北海道と沖縄は当時特殊な立場にありましたから、対象区域に含まれなかったのです。こうして誕生したのが、東京の一高、仙台の二高京都の三高、金沢の四高、熊本の五高という旧制高等学校です。ただ、このうち、中学校令が公布された、この年のうちに設置されたのは、この日4月29日に設置が発表された一高と三高の2校だけでした。4月29日は昭和天皇の誕生日として祝日になりましたから、明治時代には、平日だったのです。残りの3校は翌年設置されます。初等教育は明治6年から設置が進められましたが、なお日本の近代教育は黎明期にあったため、教育上のノウハウの蓄積がなく、初等教育と高等教育を繋ぐ中等教育校の設置はゆっくりとしか進められなかったのです。ところで、一高は、既にあった東京大学の予備門を第一高等中学校に改称し、三高は、大阪の大学分校を第三高等中学校に改称して、誕生させました。当初三高は大阪にあったのです。それが3年後に、大阪から京都に移されたのです。さて、高騰中学校の名称は、明治27年には高等学校と改称され、名実共に旧制高校の実質が備わっていきました。
2012.04.29
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ルイ14世の宮廷生活 (71) 義父のバショーモン氏は、義理の娘の養育に熱心な教養人でしたが、金銭や財産には異常な執着心を持つ人物だったようです。ですから、豊かな教養を身につけたクールセル嬢が実父から相続した遺産についても、彼女の実母から生前贈与されたことを口実として、引き渡そうとはしなかったのです。クールセル嬢を妻としたランベール侯爵は、当然生家の手元不如意を解決するために、資産家のブルジョワの娘を妻に選びました。ところが当てにしていた妻の資産は、義父が一向に渡そうとしません。あまりの仕打ちに、1680年ランベール夫妻は、夫人の義父を相手に遺産引渡しを求めた訴訟を起こします。ところが、訴訟は一向にはかどらず、結論が出ないままに引き伸ばされ、1686年に侯爵の夫が戦地で亡くなると、夫人は政府支給の僅かな遺族年金しか収入はなく、かなり手元不如意な生活をするしかない状態に、追い込まれたのです。ランベール夫人は、喪服のままで訴訟を継続し、ツテを手繰って判事に面会を求めたりと、強い執念で義父を追い詰めて行きました。近年ランベール夫人の遺産目録が発見され、彼女の実母(バショーモン氏の再婚の妻)の亡くなった1692年に、義父のバショーモン氏から夫人が142,000リーヴルを受けとった事実が、明らかになりました。訴訟の開始から12年を要して、ようやく夫人は、亡父の遺産を取得できたのです。金銭トラブルを長々と記したのは、この亡父の遺産を取得できたがゆえに、彼女がサロンを開くことが出来た事実を、説明したかったからです。彼女のサロンは、17世紀の最後の3年間の間に開設されています。亡父や亡母の資産の残りの部分は、1702年に義父のバショーモン氏が亡くなった時に、彼女が相続しています。この相続後に夫人は館を改築し、より快適なサロンを創り上げることに寄与したのです。ランベール夫人が、サロンの開設を強く願いながら、50代になって初めてサロンの女主人として登場することになったのは、こうした事情が背景にあったのです。夫人の肖像を下に掲げました、
2012.04.28
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クロニクル 日本主権を回復1952(昭和27)年4月28日60年前のこの日、1951(昭和26)年9月8日に調印された、サンフランシスコ講和条約(対日平和条約です)が発効し、連合国の日本占領が終了、日本は正式に主権を回復しました。1945(昭和20)年8月15日に、連合国に降伏した日本は、ポツダム宣言に従って、連合国の占領下に置かれ、連合国軍総司令部(GHQ)の支配下に置かれました。幸いGHQは直接統治方式を避け、日本人による政府を認め、その政府をコントロールする間接統治方式をとったため、日本の主権はGHQに握られてはいましたが,日本人の政府の上に、GHQをいただく時代が7年近く続きました。サンフランシスコ講和には、世界52カ国が参加しましたが、ソ連圏諸国やインドが参加を見送るなど、全交戦国との講和には出来なかったのが,残念でしたが、ここでGHQによる対日占領は終了し、日本は占領からの独立を達成することが出来ました。ただ、講和と同時に日米安全保障条約も発効し、日本国内のあちこちに,米軍の基地が置かれることになりました。また本来同時に独立を祝うべき、沖縄と小笠原については、なお実質的に米軍の占領が続けられ、特に沖縄県民の皆さんと米軍との緊張関係は、この後も続いていくことになりました。太平洋戦争で、国内最大の犠牲を払った沖縄は、ここで再び大きな犠牲を払わされる結果になったのです。
2012.04.28
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クロニクル サントリービール発売1963(昭和38)年4月27日東京オリンピックの前年の話です。49年前のこの日、洋酒のサントリーがビールの生産に乗り出し、サントリービールを発売しました。何故サントリーがビールを?それには、同社ならではの事情がありました。サントリーのウィスキーが売れすぎ、洋酒業界では、ダントツのガリバーになりすぎたのです。このままでは独占禁止法による会社分割の対象にされてしまう。こういう危機感を同社は持ったのです。幸い、洋酒も酒類の分類でしたから、洋酒以外の売れない商品を出せば、サントリー全体の酒類のシェアは下がり、分割の畏れはなくなります。サントリーはこれを狙ったのです。当時の佐治敬三社長は、ビール部門に対し、「急いで売れる商品に仕立てなくてよろしい。時間はかかっても、良いものを育てて欲しい」と、訓示したそうです。こうして時間をかけて育てることが出来たからこそなのでしょうね。それこそ、初期の少しも美味しいと思えなかったサントリーのビールも、2000年代の中頃には良い味を出すようになり、矢沢永吉をCMに起用した「サントリープレミアムモルツ」など、、飲み応えのある美味しいビールになっていました。尤も、これは私が自由にアルコールを嗜めた、2010年夏の話ですが…。御存知の方、最近の味を、コメントしてください。
2012.04.27
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クロニクル 新政府政体書発表1868(慶應4)年4月27日秋に明治と改元した慶應4年のこの日、新政府は政体書を発表して、新制度の大綱を明かにしました。そこでは、総裁・議定・参与の三つの職の下に7科、8局の制を改め、太政官制を採るとしていました。太政官は、立法官(議政官)・行法官(行政官・神祗官・会計官・軍務官・外国官)・司法官(刑法官)の3官に分けられ、いわば三権分立の体制となっていました。立法を司る犠政官は、上局(諸侯・公卿)と下局(府藩県の代表)からなり、公議世論を尊重する形式をとっていましたが、実質的には、行法官が諸官の上位に立ち、天皇を補佐するとして、強力な権限を持つ形になっていました。
2012.04.27
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フランスの大統領選を読む(3)オランダの議会は、象徴的存在の第1院ではなく、第2院が中心的名ウェートを持っています。2010年の選挙後、第1党となった31議席の自由民主国民党(VDD)が、21議席のキリスト教民主アピールと組み、親ナチスを標榜する極右の自由党(PVV)の閣外協力を取り付けて、中道右派の少数連立政権をスタートさせました。オランダは、全ての移民にオランダ国民と同一の社会保障を賦与しているなど、移民の権利保障の最先進国として知られた国です。中道右派政権は、当然この制度を守る姿勢を持っていました。ところが、閣外協力を取り付けたPVVは、親ナチスの極右政党です。移民に対する非寛容、反移民政策を訴えて24議席を獲得した政党ですから、当然移民に手厚い社会保障を与え続けることに、賛成するはずがありません。当然の如くPVVは、移民に対する社会保障の継続を組み込んだ予算案に反対する姿勢を崩しません。かくて、オランダの国家予算は、半年以上にわたって宙ぶらりんの状態となったのです。一昨日明らかになったオランダ内閣の総辞職は、こうして起きたのです。これをフランスに当てはめるとどうなるでしょう。第1回投票の結果として明らかになったことは、極右の国民戦線の支持を得ない限り、当選は覚束ないという事実です。反移民を掲げる極右政党と、南欧の救済よりも自国の労働者に優しい政策をと、内向きな傾向を強める社会党候補が組む時、メルケルのドイツと組んで、メルコジ的政策を継続する可能性は、グンと小さくなることが、予測できます。そういうドイツでは、来年2013年に迫った連邦議会選挙を意識して、社会民主党が意気軒昂としています。ドイツ国内でも、南欧への支出を増やしながら、国内では緊縮策をとるメルケル与党は不人気なのです。社会党のオランド候補が当選し、ドイツ社会民主党と組む時、独仏揃って南欧救済に消極的な、内向きの政府コンビが出来上がります。ユーロの危機は、かつてなく深くならざるをえません。奇跡の逆転劇で、サルコジ候補が勝利したとしても、極右勢力への配慮を欠くわけにはいきません。来月以降、ユーロの将来には、かなり厳しい局面が続くことになりそうです。 この項 完
2012.04.26
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クロニクル 内務省に失業防止委員会設置1930(昭和5)年4月26日今日は、昭和前期の記録です。満州事変のおよそ1年5ヶ月前、今日から72年前のことです。 この日、政府は内務省に大きな社会問題となってきた失業問題を検討する委員会、その名も失業防止委員会を設置しました。内務省というのは、戦後解体されましたが、戦前の内閣制度の下では、最も力の強い役所で、内務官僚は官僚の中の官僚と呼ばれていました。それぐらい権限の大きい役所でした。そうした役所に失業を防止する委員会を立ち上げなければならなかったのですから、当時の失業問題がいかに深刻であったかが、分かります。昭和2年春からの金融恐慌。それに追い討ちをかけるように、4年の秋には米国が恐慌状態に入り、その余波を受けた世界は、世界恐慌に陥っていました。日本は、ダブルパンチを受けた形となり、企業倒産や生産の縮小による失業の増大が深刻化していたのです。当時の大学は、数も少なく、大学生は押しも押されもしない、社会的エリート予備軍だった(今とは、全く違いますね)のですが、その大学生すら卒業しても職につけない状態が広がってきていたのです。彼等は自嘲的に「大学は出たけれど...」とつぶやき合い、それが当時の流行語として今に残っています。しかし、こうした努力にも関わらず、失業防止対策はどれもうまく行かず、結局日本は歯止めの効かない無茶な戦争にのめり込んで行く事になります。
2012.04.26
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フランスの大統領選を読む(2)決選投票に残ったオランド候補とサルコジ候補は、共に極右や極左の票を取り込まない限り、大統領の座を射止めることは不可能です。国民のサルコジアレルギーの強さを考えると、オランド候補が逃げ切る可能性が高いように思えるのですが、そうなるとどういうことが起きるか。この場合、オランド候補は、極右勢力と連立を組むことに通じます。これは大変なことに繋がります。極右勢力は、現在のドイツ政府(メルケル政権)を厳しく批判しているからです。メルケル政権を否定し、親ナチスを広言する勢力と連立を組むオランド政権が誕生すれば、独仏連携による欧州救済プランは、雲散霧消するであろうことが、予測されます。第二次世界大戦でフランスは、ナチスドイツに占領され、一時的とはいえ国歌消滅の苦渋をなめたことは、まだまだ十分記憶されています。そんなフランスで、親ナチスを明言する極右勢力が18%を越える支持を得ているのです。実は、こうした親ナチス勢力に対する支持の拡大は、フランスだけの話ではないのです。フランスと同じくナチスに蹂躙され、辛酸をなめたオランダでも、事情は同じなのです。戦後のオランダの反ドイツ感情の強さを示す逸話は、いくつもあるのですが、ここでは私の友人の体験談を紹介します。商社マンと結婚した大学時代の同級生なのですが、ドイツに5年滞在して、オランダに移って間もない頃、夕方の買い物に出かけて、肉屋さんでついうっかりドイツ語を使ってしまったというのです。その時、一瞬混雑していた店の空気が凍りつき、彼女は、「あんたに売るものはウチにはない」と、店から追い出されてしまったというのです。帰って、日本人の知り合いに確認して、ようやく事態が飲み込め、以後は失敗はなくなったそうです。これだけ反ドイツ感情の強かったオランダでも、フランスと同じことが、フランスに先駆けて起きています。昨日の新聞で、オランダの少数与党の連立政権が総辞職し、近く解散総選挙になりそうだと報じられていました。何故そうなったか。オランダでは、2010年6月の総選挙で、定数150名の下院(第2院)で、親ナチスの極右政党PVV(自由党)が24議席を占め、キャスティングボートを握ってしまっているのです。欧州各国での、普通の国民の閉塞感はここまで強まり、まさにちょっとしたきっかけさえあれば、大爆発を起こし、堰を切って奔流のようにあふれ出すばかりになっているのです。 続く
2012.04.25
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クロニクル 日劇レビューに幕1977(昭和52)年4月25日35年前のこの日、日劇ダンシングチームが最終公演を終えて、解散しました。日劇レビューは41年に及んだ歴史の幕を下ろしたのです。 レビューの誕生は1936(昭和11)年、当初は東宝ダンシングチームと呼ばれていました。黄金期は昭和30年代、石原裕次郎夫人の北原三枝さんもダンシングチームのスターから映画界入り、「狂った果実」で共演したのが、裕次郎との出会いだったそうです。しかし、テレビの普及にともなって、日劇レビューは次第に衰退、最盛期には、300人超を数えた団員も、最終公演では58人にまで減少していました。この日の公演には、最後のラインダンスを見ようとオールドファンが大挙押しかけ、劇場は立ち見客まで出る超満員でした。こうして有楽町の灯が一つ消えたのですが、この日劇、やがて有楽町マリオンとして再生します。
2012.04.25
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ルイ14世の宮廷生活 (70)18世紀のサロンは、ランベール夫人のサロンに、その起源を求めることが出来ます。夫人のサロンは、世紀の幕開けと共にいっせいに花開いたサロンのヒロインたちにとって、憧れの的の存在となり、パリを代表するサロンとして知られ、パリを訪れた各国の貴賓や外交官も出入りしたことで知られています。しかし、そんなランベール夫人のサロンも、開設までには沢山の紆余曲折があったのです。夫人は1647年に生まれ、1733年に86歳で息を引き取っていますから、当時としては大変長命な方でした。ランベール夫人、テレーズ・ド・クールセルは、裕福なブルジョワの家庭に生まれましたが、3歳で父を亡くしました。彼女の母は夫の死後間もなく、法服貴族の息子のバショーモン氏と再婚、クールセル嬢の取り分である父の遺産を、義父に当たるバショーモン氏に、生前贈与してしまったのです。このことが後に彼女を大変苦しめることになるのです。財産の管理と分与の点で、この義父は大変問題のある方だったのですが、義理の娘の教育には、大変熱心で、ランベール夫人の教育環境は、大変恵まれたものだったようです。クールセル嬢は、ギリシアやラテンの古典からデカルトに至るまで、幅ひろい教育を豊かに吸収して、育ちました。彼女は1666年20歳で結婚する(当時としては晩婚です)のですが、結婚後も1680年頃までは、義父の館で暮らしていたことが分かっています。 続く
2012.04.24
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フランスの大統領選を読む(1)昨日の夕刊に、フランス大統領選の第1回投票の結果が載っていました。「これは大変なことになった」というのが、私の正直な感想でした。別に1位が社会党のオランド候補で、現職のサルコジ候補が、現職の候補としては初めて2位に敗れたことをさしているのではありません。驚いたのは、3位と4位の候補の得票率にあります。新聞報道の数字をもう1度繰り返します。1位 オランド候補(社会党) 28,63%2位 サルコジ候補(国民運動連合) 27,08%3位 ルペン候補(国民戦線 極右) 18,01%4位 メランション候補(左派戦線 極左) 11,13%5位 ハイル候補(民主運動) 9,11%3位と4位の極右と極左の候補の得票率を足してみてください。合わせると29,14%で堂々の1位なのです。勿論、、極右と極左ですから、両者が連合を組むことはありえないのですが、リーマンショック以降の欧米の景気後退局面の中で、経済危機に何ら有効な手を打てないサルコジ政権は見捨てられ、同時に穏健左翼の社会党の政策にも、同調できず、左右の過激派を支持する人々が増えていることが、今回の第1回投票にくっきりと示されたいたのです。第2回投票に関する世論調査では、サルコジ候補はオランド候補に10ポイントの差をつけられており、これを逆転するのはかなり難しそうです。今後第2回の決選投票に向けて、極右と極左の票の奪い合いが行なわれるわけですが、極右国民戦線のルペン候補は、反移民、親ナチスを強く訴え支持を広げました。フランスに限りませんが、欧州の国々では、若年層の失業問題が移民問題に転嫁されてしまっています。若者に仕事がないのは、移民が職を奪っているからだ。だから移民を制限しろという移民排斥を求める世論が、広く形成されてしまっているのです。この動きは特に、旧植民地のアラブ世界からの移民に対して強く意識され、人種差別的な主張が支持される雰囲気が形成されてきています。そこから、親ナチスの言動までが生まれ、支持されることになってきているのです。あのフランスで、親ナチスの動きが広まりつつある。それだけ欧州経済のダメージは大きく、欧州から遠い日本から眺めている、我々が想像する以上に厳しい状況にあるらしいことが、今回の第1回投票から読み取れたのです。するとどうなるか。本論はこれからですが、明日以降数回に分けて記したいと思います。 続く
2012.04.24
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クロニクル ベ平連、初のデモ1965(昭和40)年4月24日日本の昭和史、特に戦後昭和史を語る時に、欠かすことのできないことの1つに、ヴェトナム戦争との関わりをあげることができます。そしてヴェトナム反戦の運動の中で産まれ、新しいタイプの市民運動の嚆矢となったのが、「ベトナムに平和を!市民連合」(略称ベ平連)の運動です。べ平連は、小田実、開高健、小中陽太郎らを代表世話人にして発足しましたが、がっちりした組織体を持たず、「参加者が暴力に走らない範囲で、自分達に可能な運動を出来る範囲でやる」ことをモットーにした運動体でした。ですから、英語が堪能な人達は、当時日本各地に多かった米軍基地に出かけて、英語でヴェトナム反戦を呼びかけ、米軍からの脱走を勧めたり、実際に脱走した米兵をかくまい、身の安全な北欧諸国への亡命を支援したりする運動を展開していました。勿論、広範囲に呼びかけてのデモ行進も頻繁に行われました。そして、47年前のこの日行われたのが、ベ平連が活動を開始したことを、世の中に周知するための、挨拶デモでした。当時の記録によると,高校生の参加も多かったとあります。これは政治運動ではなく、平和のための運動であるとする生徒達のアピールを受け入れた高校が多かったのですね。
2012.04.24
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クロニクル 創価学会政治に進出1955(昭和30)年4月23日1955年は、夏から秋にかけて、左右に分裂していた日本社会党の統一大会と、それを受けての自由党と民主党の合併による自由民主党の設立大会が開かれ、自社両党を中心とする55年体制が誕生した年として知られます。あれから57年が経過したのですね。この55年体制が完全に崩壊するのは、1993年の8党連立による反自民の細川連立政権の登場によってです。この間40年近く続いたことになります。この大きな変化の陰に隠れがちですが、実はこの年、もう1つ大きな政治的出来事がありました。それは、この年が創価学会が政治に進出した最初の年だったということです。57年前の今日、第3回統一地方選挙が行われ、創価学会が自前の候補を都道府県議選や市会議員選に立て、その全員を当選させることに成功したのです。創価学会は翌年56年の参院選は見送りましたが、慎重な準備の末に、59年の参院選には6名の候補を、当時の全国区に立て、6人全員の当選に成功します。こうして公明政治連盟から公明党へと、政治進出の歩みを着実に続けていきました。
2012.04.23
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クロニクル 1ドル360円体制の誕生1949(昭和24)年4月23日63年前のことです。この日、GHQ(連合国軍日本占領軍司令部)は、円に対する公式為替レート設定の覚え書きを、日本政府に交付しました。その結果、翌々25日から、1ドル=360円の単一の為替レートが実施されることになりました。1971年8月のニクソンショックまで続く、日本の輸出産業にとって、後年大変居心地の良いものとなった為替レートは、こうして決まりました。しかし、設定当初はかなりの混乱がありました。当時は、物品毎に異なるレートで取引されていたからです。例えば、塩の輸入は1ドル=103円、生糸の輸出レートは1ドル=420円、陶磁器のそれは1ドル=600円といった具合だったのです。この単一レートの設定で、輸入品は割高になり、輸出品は値下げしないと売れない状況になりました。ところで、この単一為替レートは、日本経済の健全化を目指すドッジラインに沿ったもので、超均衡予算の実現とインフレの収束を目指す上で、欠かせない一里塚でもあったのです。そして、この結果、日本経済とアメリカ経済との結びつきは非常に強固なものとなりました。 「アメリカ経済がくしゃみをする(軽い風邪の意でしょうか)と、日本経済は肺炎を患う」と自嘲的に語られるようになるのは、昭和30年代のことでした。
2012.04.23
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クロニクル 第1回ミス日本コンテスト1950(昭和25)年4月22日62年前になります。敗戦から、間もなく5年。戦後のハイパーインフレを、ドッジラインと呼ばれたデフレ政策で乗り切ろうとしていた日本は、経済的には1番苦しい時局を迎えていました。2ヶ月後に朝鮮戦争が始まり、その戦争に依る特需で、日本経済が息を吹き返し、短期間にデフレを克服するなどとは、知る良しもない当時でした。暗い世相だからこそ明るい話題をと......考えたのでしょう。この日、第1回『ミス日本』コンテストが行われ、後に大女優となる山本富士子さんが、ミス日本に選ばれました。
2012.04.22
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クロニクル ペルー大使公邸人質解放1997(平成9)年4月22日ちょうど15年になるのですね。15年前のこの日、前年12月17日に発生したペルーの首都リマでの日本大使公邸人質事件の解決のために、ペルー軍特殊部隊が公邸の地下まで穴を掘って突入、トゥプクアマル解放戦線のゲリラ14名を全員射殺、残されてた人質全員を解放しました。 事件発生から4ヶ月以上が経過していました。ペルー政府は、事件発生後、人質の無事救出を願う日本と、ゲリラへの譲歩を嫌うアメリカの板ばさみとなっていたため、問題の長期化によって時間を稼ぐしか方策がなかったのですが、それがたくまずして膠着状態の長期化によるゲリラ側の油断を招き、この日の突入は、見事にその隙をつく結果となって、作戦は成功しましたが、人質のうち、 ペルー最高裁判事1名が死亡し、突入した特殊部隊隊員2名も死亡する犠牲を生んでいます。
2012.04.21
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クロニクル 十五銀行休業へ1927(昭和2)年4月21日85年前のことです。この年3月14日、片岡蔵相が衆院で漏らした「東京渡辺銀行が危ない」の一言で、翌15日東京渡辺銀行とあかじ銀行が休業する大騒ぎと成り、各地で銀行の取り付け騒ぎが起きました。日銀は市中銀行に非常貸し出しを行うなど、事態の沈静化を目指しましたが、4月18日には、台湾銀行が休業するなど、危機は沈静化しませんでした。そしてこの日遂に、殿様銀行として有名になった、十五銀行までもが休業に追い込まれる、事態となったのです。
2012.04.21
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クロニクル 指揮権発動1954(昭和29)年4月21日58年前のことです。この日、吉田茂内閣の犬養健法相は、造船疑獄との関連がかねてから噂されていた、佐藤栄作自由党幹事長に対する検察庁からの逮捕許諾請求に対し、法相の検察に対する指揮権を発動し、佐藤逮捕を阻止しました。汚職事件に連座した与党の有力政治家の罪を握り潰したとして、世論とマスコミは強く反発、翌日22日には、犬養法相は自発的に辞任して、幕引きを目指したのですが、世論は納得しませんでした。佐藤幹事長が池田勇人氏と並ぶ、吉田門下生であったことから、指揮権発動には、総理の意向が強く働いていたに違いないと、国民は考えたため、吉田内閣の支持率は急落、1部の自由党議員は、政党再編に動き出します。ここに鳩山一郎・岸信介・石橋湛山氏等と改進党の重光葵氏らは、民主党を結成して、吉田内閣不信任案を可決成立させます。ここに、同年12月7日、吉田内閣は総辞職のやむなきに至ります。指揮権発動で子飼いの部下を救済したがために、逆に政権の命脈は尽きたのでした。ただし、指揮権発動の結果、造船疑獄事件に対する検察の調べは、中途半端に終りを迎え、疑獄事件の追及は政治の壁に阻まれて頓挫し、事件の真相は闇に葬られてしまいました。ところで造船疑獄とは、当時の日本政府が戦争で打撃を受けた海運業界の再建を図るために、造船業界をも巻き込んで、新船の建造を計画的に進めるため(計画造船)に、政府が計画に従う企業に低利の融資を行い、同時に一定額まで海運業界に借り入れ金の利子補給を行うという政策をとっていたのですが、この法案の制定、及び低利融資を受けるために、運輸省幹部や政治家に対する収賄工作が幅広く行われたことを指します。
2012.04.21
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ルイ14世の宮廷生活 (69) ポンパドゥール夫人の事跡の紹介が済んだところで、ルイ14世の最晩年、そしてオルレアン公の摂政時代に再び花開いたサロンの紹介をすることにしましょう。18世紀のサロンは、17世紀のサロンとは大きな違いが二つあります。その一つは代表的なサロンの主催者が、大貴族、名門貴族の婦人達から、ブルジョワの婦人達に代わったことです。それも必ずしも大富豪の夫人とは限らない人たちにです。ポイントは、サロンの主催者の教養と包容力にありました。この点は、17世紀のサロンとの大きな違いの2点目にも関係するのですが、サロンの客人たちの話題の中心が、文学、音楽、演劇、絵画といった芸術一般から、哲学・思想に移ったことです。当時関心を集め始めていた新思想、「王権神授説」に対抗する「自然法」や「天賦人権説」を読み込み、理解する能力に恵まれた才女にして、しかも慎み深く、大勢の客人たちを飽きさせない、客あしらいの妙を身につけている女性のサロンに、人が集まったのです。やがて、18世紀末にフランス革命を導くことになる革命の思想=啓蒙思想を育んだのも、こうしたサロンと18世紀に大流行したカフェだったのです。貴族のサロンからブルジョワのサロンへの変貌は、大御世と謳われたルイ14世の世紀の間に、コルベールらの重商主義政策の恩恵を受けて、ブルジョワの経済力が大きく伸びたことを背景としています。勃興するブルジョワ階級には、まさに昇り竜の勢いが備わっていたのです。 続く
2012.04.20
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クロニクル 最初の女子大学校創設1901(明治34)年4月20日111年前のこの日、東京目白台の地に、本邦最初の女子の高等教育機関として、日本女子大学校が創設されました。創立者の成瀬仁蔵は、「女子を人間として、婦人として、国民として教育する」ことの必要性を説き、夫たる男性の留守を守り、家の跡取を立派に教育する役割を担う女性たちは、高い教育を受ける必要があると説き、良妻賢母教育の場としての女子大学校の創設を目指しました。この目標の下に、成瀬は三井財閥本家の協力を取りつけ、苦心の末に、この日の開校を迎えました。
2012.04.20
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ルイ14世の宮廷生活 (68) ここで、ポンパドゥール夫人について、記しておきたいと存じます。彼女は1745年から51年頃までは、確かに国王ルイ15世の寵妃でした。しかし、自らの容色の衰えを意識したのか、50年代に入ると、若い王の好みそうな女性を見つけては、新しい愛人として推薦する役割に徹し、国王の信頼を繋ぎとめています。国王に深く愛され、国王の好みを熟知するに至ったからこそ、出来たのでしょう。銀行家の娘として育ち、徴税請負人の妻として過ごした日々から、現実の金融市場の動きや経済の動きも、ある程度承知していたことから、次第に経済政策のアドヴァイスをするようになり、王が異常な関心を持って実践していた、国王のひそやかな外交交渉にも、意見を求められるようになります。台頭するプロイセンとの戦いにしのぎを削っていた、オーストリア女帝マリア・テレジアに手を差し伸べ、宿敵オーストリアと手を結ぶプランを推進したのも彼女でした。スペインと和し、今またオーストリアと和したことで、フランスの国境の安全は、大幅に強化されました。フランスで外交革命と称される、このオーストリアとの和解の推進者は、ほかならぬポンパドゥール夫人だったのです。 もう少し後になりますが、王太子ルイ(後のルイ16世)とオーストリア王女マリ・アントワネットの縁組は、この延長線上に実現しました。そしてまた、開明的な彼女は、啓蒙思想の擁護者でもあり、18世紀のサロンの女王達、タンサン夫人、ジョフラン夫人、デファン夫人らとも交友があり、『百科全書』の出版を全面的にバックアップしたことでも知られているのです。私は、こうした彼女のプラス面の功績は、金遣いが荒かったなどのマイナス面を補って余りあると、高く評価しています。 続く
2012.04.19
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クロニクル ボストンマラソン初優勝1951(昭和26)年4月19日昨今は、ボストンといえば、米大リーグのボストン・レッドソックスの町として有名になりましたが、古くは英国からの独立戦争のきっかけになるボストン茶事件の舞台として知られ、戦後はボストンマラソンの開催地として知られた町でした。そうなのです。61年前の今日行われたボストンマラソンに、日本は初参加し、田中茂樹選手が見事、初参加・初優勝を飾ったのです。翌52年の大会でも山田敬三選手が優勝し、マラソンは日本のお家芸と見る空気が強まりました。こうして夏のヘルシンキ五輪のマラソン競技に期待が寄せられたのですが、ボストンのようには行かず、優勝はチェコのザトペック選手、日本代表の3選手は、20位台後半と平凡な成績に終りました。
2012.04.19
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クロニクル バンドン会議開催1955(昭和30)年4月18日57年前のことです。この日、インドネシアのバンドンで、アジア・アフリカ会議(AA会議)が29ヶ国の参加で開かれました。通称バンドン会議と呼ばれるこの会議には、アジアから15ヶ国、中東から8ヶ国、アフリカから6ヶ国が参加しましたが、そのほとんどが植民地の状態から、第2次世界大戦後に独立したばかりの新興国でした。参加国のほとんどが、政治的独立に続いて植民地型の経済状態からの、経済的自立を目指しており、そのため、東西対立の緩和と平和共存の実現を待望する姿勢を鮮明にしていました。会議は24日に、前年6月にインドのネルー首相と中国の周恩来首相が発表した「平和五原則」をさらに充実させた、「平和十原則」を発表して閉幕しました。十原則の内容は、反帝・反植民地主義、民族主義、領土主権の尊重、相互不侵略、相互不干渉、平等互恵、平和共存、人種差別撤廃、各国の相互協力などとなっていました。米ソ対立と距離を起き、世界の緊張緩和を目指す新勢力の誕生を見て、世界のマスコミは,第3世界の誕生として大きく報道しました。あれから57年が経過、国際政治の経験の浅いAA諸国は、欧米の旧宗主国に良い様に操られて、経済的自立を達成できず、長く苦しめられてきたのですが、最近になってようやく経済の自主性を獲得しつつあり、バンドン精神が日の目を見る日が近付いてきたように思えます。さて、日本はどうするのでしょうねぇ…
2012.04.18
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クロニクル 霞ヶ関ビル開館 1968(昭和43)年4月18日44年前のこの日、東京霞ヶ関に、三井不動産が建設中の本邦初の超高層ビル、「霞ヶ関ビル」が開館、営業を開始しました。地震の揺れは、建物全体が揺れに身を任せながら吸収する、柔構造方式を採用した最初の建物でもありました。霞ヶ関ビルの成功から、70年代に入ると、日本も本格的な超高層ビルの時代に入ってゆきます。しかし、超高層ビルは、中国の方が圧倒的に多いですね。ともかくどこもかしこも凄い数の超高層マンション群です。 大丈夫だと良いのですが......
2012.04.18
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続々・「北朝鮮」の変化に注目を 「北朝鮮」のリスクは、以前にも書いたことがありますが、米・韓・日の支援がストップしていることによって、いまだに軽水炉に転換できず、旧ソ連製の重水路の原発が使われていることにあります。軽水炉の、(ということは比較の問題ですが、「北朝鮮」の原発よりは安全性が高いと考えられていた)日本の原発でも、大型の地震や津波には脆さを露呈したくらいですから、チェルノブイリと同型の「北朝鮮」の原発は、イツメルトダウン事故を起こすかもしれないのです。フクシマ第一は、日本国内のみでなく、世界にまで多大な迷惑を及ぼしてしまいました。とりわけ、日本に最も近い、ロシアや朝鮮半島の皆さんには、大きな迷惑をかけてしまったことは、肝に銘じておく必要のあることです。核兵器よりも、制御不能になった原発が恐ろしい。私はこう感じています。次に、「北朝鮮」の核は、防御兵器である理由を補足しておきます。もし仮に、「北朝鮮」に限りません。どこかの国または団体が、日本を攻撃しようと考えた時に、最も有効な方法は何かを考えて見ましょう。人工衛星を打ち上げ、静止軌道に乗せたり、観測衛星として利用する実績をしっかり残している、米・中・ロ3国であれば、ミサイルに核弾頭を装着して、日本を攻撃することもありえるでしょう。しかし、それ以外の国や団体は、核兵器など使わずに、使ったのと同じ効果をあげることが、十分可能なのです。それは、得意とする自爆攻撃で、爆弾を積んだタンクローリーなどを、原発の建屋に突入させれば済むことです。海岸線の広い日本です。夜陰に乗じて、どこかに上陸し、先遣隊が用意しておいた車で、集結地点に向かい、盗んだタンクローリーで、原発の拠点に運び込み、ゲートを入ったところで正体を現すなら、建屋に到達できる確率はかなり高いと、私は考えています。それだけ、日本の原発に関する危険度の認識は低いように思えます。ですから、何処に飛ぶか分からない運搬手段での核攻撃よりは、原発を襲撃して爆発させる作戦の方が、ずっと成功確率が高いのです。こう考えていますので、私は「北朝鮮」の核兵器にも、地政学リスクは感じませんし、リスクを考慮する必要もないと考えているのです。 この項終り
2012.04.17
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ルイ14世の宮廷生活 (67) 銀行家の娘に生まれ、20歳の時に徴税請負人の妻となったポンパドゥール夫人は、幼ない頃から贅沢な暮らしに鳴れ、銀行家の父の方針で、高い教育を受け、パリの超一流のサロンに出入りして、ヴォルテールやダランベールといった啓蒙思想家と交わり、何事につけ、優れたものを見抜く眼を養っていました。ルイ15世は、彼女の美貌と共に、常に贅沢ではあっても超一流のものを好む、彼女の審美眼を愛しました。1744年に彼女と出合ったルイ15世は、翌年彼女にポンパドゥール侯爵夫人の称号を与え、正式に愛妾としたのです。一流のものを好むポンパドゥール夫人は、やがてデュボワ兄弟の磁器の美しさに魅せられ、自らの館のあるセーヴルに招いたのです。セーヴルはパリとヴェルサイユの中間に位置する地位さな町でした。デュボワ兄弟はこの地に移り、ここにマイセン窯から独立したフランスの窯元として、セーヴル窯が誕生することとなったのです。ポンパドゥール夫人は、セーヴル窯への支援を惜しまず、やがてセーヴル窯は王立窯として、国家の支援を受けることで、さらに飛躍を遂げてゆきます。セーヴルの磁器は、豊かな彩色を駆使したロココ様式の装飾に特徴があり、マイセン同様高級磁器として、ブランドが確立しており、現在でも値段の高い磁器として知られています。セーヴルの窯は、王立窯であったことから、フランス革命期に一時閉鎖されましたが、セーヴル焼きの美しさを知るナポレオンによって再興され、1820年代には、国立セーヴル陶磁器製作所となって、今日にいたっています。なお、セーヴルにあったポンパドゥール夫人の屋敷は、現在はフランス国立陶芸美術館となっています。 続く
2012.04.17
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クロニクル 解放勢力ブノンペン制圧1975(昭和50)年4月17日37年前のこの日、カンボジャの解放勢力、ポルポト派がブノンペンを制圧、右派のロンノル派の政府軍は降伏し、解放勢力がカンボジャの支配権を手中にしました。ヴェトナム・ラオス・カンボジャの旧フランス領インドシナ三国の中で、カンボジャはシアヌーク国王の個人的な人気もあって、最も政治的に安定した国家だったのですが、手前勝手に南ヴェトナムの解放に反対してヴェトナム戦争を作り出しておきながら、民族の抵抗に苦戦を強いられていた米国が、戦線をカンボジャにまで拡大、ヴェトナムとの国境に近いカンボジャ東部一帯を無体にも空爆するに及んで、情勢は一転、米国寄りの右派(ロンノル派)とヴェトナムに呼応して民族解放を叫ぶ左派(ポルポト派)が激突、中庸を旨とするシアヌーク派の立場は弱まり、この日遂に解放勢力によるブノンペン制圧となったのです。米国の血迷った行動がなければ、カンボジャはシアヌーク王政が続いていたでしょうから、まさにアメリカのお節介が作り上げた社会主義カンボジャの誕生でした。アメリカは、今また同じようなことをアフガンとイラクで演じ、困った状態を作り出しています。。超大国の驕りというか、歴史に学ばない傲慢さは、何とも愚かとしか、言いようがありません。
2012.04.17
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続・「北朝鮮」の変化に注目を マスコミでは、相変わらず「北朝鮮」の地政学リスクが話題になっています。今度は、ロケット(先端に爆弾をつければミサイルの発射になり、衛星をつければ人工衛星の打ち上げになります)の打ち上げに失敗したので、核実験をやるのではと、不安を煽り立てています。困った人たちです。「北朝鮮」の核兵器は、防御のためのものであって、攻撃用の兵器ではありません。私はそう考えています。日本列島も、朝鮮半島もひょろ長く狭い国土でしかなく、幅というか奥行きがありません。アメリカや中国、ロシアのような国土が広く、奥行きが十分にある国なら、一部の国土が核で汚染されても、何とか人の住める地域を確保できるかもしれません。しかし、日本や「北朝鮮」はそうではありません。「北朝鮮」の核実験場や核兵器の貯蔵所が、いずれも中朝国境に近い、黄海に近い地域に集中していることを思い出してください。この場所に核兵器を置けば、アメリカに核の貯蔵所を攻撃されることがないからです。「北」の核を爆破すれば、かつての「南満州」が汚染され、市の町になります。それはアメリカが中国を攻撃したのと同じ意味を持ってしまうのです。今や対中貿易はアメリカ経済の生命線です。中国のアメリカ国債保有も同じです。今のアメリカには、対中関係を悪化させる行動は取りえないのです。ですから、爆破は不可能なのです。こうして、「北朝鮮」にとって、核兵器の保有は、自国の安全のために欠かせないことになっているのです。核は防衛兵器です。ですから、「北」の核保有は、リスクと考える必要はないのです。リスクは別にあります。
2012.04.16
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クロニクル 初の革新都政誕生1967(昭和42)年4月16日45年前の話です。この日は戦後6回目の東京都知事選の投票日でした。選挙は自民・民社両党推薦の松下正寿前立教大学総長、公明党推薦の阿部憲一氏、そして社共両党推薦ながら無所属で出馬した美濃部亮吉東京大学名誉教授の3人の争いとなりましたが、テレビの「優しい経済学」でお茶の間に親しまれていた美濃部氏が、ソフトな語り口と、東大の教え子たちの「先生を落すな」の肩入れ、そして「物価の美濃部」の知名度から、革新票の他に、浮動票を大量に獲得、松下候補に大差をつけて、早くも午後8時前には当選を確実にし、圧勝したのです。美濃部氏はその後、3期12年にわたって都政を担当、公害、福祉、物価問題に焦点を当て、弱者保護の都政の実現に腐心しました。無認可保育所への公費助成を実現するなど、地方自治の新展開をリードするなど、いくつもの業績をあげましたが、歳出を膨らまして、都財政の赤字が膨らみ、美濃部後を革新都政で繋ぐことは出来ませんでした。
2012.04.16
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クロニクル 川端康成自殺1972(昭和47)年4月16日ちょうど40年前になるのですね。この日、作家で日本初のノーベル文学賞受賞者の川端康成氏が、神奈川県逗子市の仕事場でガス自殺し、72歳の生涯を自ら閉じました。川端氏は1968年に日本人初の、ノーベル文学賞を受賞しました。受賞の感想を問われた氏は、自分は日本の伝統を書いてきただけ、受賞は自分の作品を各国語に翻訳、出版してくださった翻訳者の皆様のおかげと、謙虚に語っていたことが注目を引きました。受賞理由には、『雪国』『千羽鶴』『古都』などの作品で、「日本人の心の精髄」を鋭い感性で巧みに描いたことが、あげられていました。
2012.04.16
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クロニクル 自由学園開校1921(大正10)年4月15日91年前のこの日、羽仁もと子さんが設立した、自由学園が東京豊島区の雑司が谷で開校しました。自由学園は当時の高等女学校令に依らない学校でした。ここでは26人の生徒を五つの家族になぞらえ、用務員をおかず、全ての日常生活を、この小集団で自立的に管理する方針が取られました。羽仁もと子さんは、夫君と共に『家庭之友』(のち『婦人之友』と改題)誌を編集発行していたのですが、日本の家庭の近代化は、教育を通して実現できると考えるようになり、学園の創設を考えるに至ったのです。そして自らの信じる、キリスト教精神に基づき、「思想しつつ、祈りつつ」を標語に、自由と自治に依る教育を目指しました。自由学園は、大正自由教育運動の主旨に賛同して出発した学校の中でも、異色の学校として知られています。
2012.04.15
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クロニクル 本邦初の本格的ターミナルデパート開店 1929(昭和4)年4月15日83年前のこの日、大阪梅田に日本初の本格的ターミナルデパート、阪急百科店が開業しました。地上8階地下2階からなるビルのうち、1階が阪急梅田駅、2~6階が商品売り場、7、8階が客席数4,000、ライスカレーを最大の目玉商品とする大食堂という構成でした。阪急電鉄の小林一三社長が、梅田に5階建てビルを建てたのは、1920年のことでした。この時は2階に自社経営の食堂をおきましたが、1階は百貨店の白木屋(今の居酒屋チェーンとは関係ないですよ)に任せ、デパート経営の採算やノウハウをじっくりと観察したのです。そこから自信を持った小林は、1925年に同ビル内に阪急マーケットを開店、27年から新しい高層ビルの建築にとりかかったのです。当時の日本は経済不況に苦しんでいたのですが、不況下をものともせず、百貨店の経営は順調に伸び、数度の拡張工事を経て、3年後の阪急百科店は、大阪随一の大百貨店に成長していました。
2012.04.15
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「北朝鮮」の変化に注目を衛星の打ち上げか、ミサイルの発射実験かと、日本のマスコミは喧しかったのですが、私は、「北朝鮮」の地政学リスクは、外への暴発ではなく、内部での原発や核関連施設の制御失敗による内での暴発にあると、考えていましたので、今回の行動には、正直ほとんど関心を持っていませんでした(この点は、過去に何度か書いてきました)。ただ、今回「北朝鮮」が諸外国の報道陣に、実験施設を公開し、プレスセンターまで設けて公開での打ち上げを目指す行動をとった事に、新鮮な驚きを感じて、俄然関心を持つようになりました。金正日体制の秘密主義、唯我独尊体制の後継体制としては、あまりに好対照の行動だったからです。長距離ミサイルにもなりうる衛星の打ち上げは、金正日が生前アメリカに通告済みの事実であり、儒教国家でもある「北朝鮮」では、遺言の実行は残された者の義務ですから、実験の停止は、出来ない事柄でした。しかし、実施施設や機器を公開し、秘密主義と縁を切る姿勢を示して、先代との違いを強調してみせたのです。しかも、実験は見事な失敗に終りました。首都平壌に設けられたプレスセンターには。発射の1分後に、打ち上げが告げられ、中央のスクリーンが作動したのですが、そこには何も映し出されず、やがて実験の失敗が公表されたと、報じられました。今までの「北朝鮮」ならどうだったでしょうか。失敗の事実は認めず、何らかのこじつけを伴った説明をしたでしょう。それを思い切って失敗として、国民にも説明したのです。独裁国歌は、都合の悪い事実は隠す。国民に対してだけではなく、支配層内部でも一部の人間だけで真実を独占し、他には伏せるのが常でした。今その体制は、大きく変わりつつあるように思えます。大切なのは、「北朝鮮」が見せ始めた好ましい方向への僅かな変化を見逃さず、変化を後押しして、後戻りしないように仕向けていくことだと、私は受け止めています。その点で私は、「北朝鮮」が示す変化よりも、諸外国の中止要請を無視して、「発射実験」を強行したことだけを強調して、対「北朝鮮」制裁の発動をと叫んでいるTVや新聞、そして政府の論調に、大きな危惧をもっています。大切なのは、「北」が示した小さな変化を、さらに拡げて行く事にあると、私は考えています。
2012.04.14
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クロニクル アフガン和平協定調印1988(昭和63)年4月14日24年前のこの日、ソ連は、アフガニスタンとの和平協定に調印しました。この結果、1979年以来多くの犠牲を払ってきた、ソ連軍のアフガニスタン侵攻は、アフガンに安定した親ソ政府をつくることに失敗し、具体的な成果無しに撤退することになりました。まさに、アフガンはソ連にとって、米国にとってのヴェトナムと同じ意味を持ったのです。ソ連軍のアフガンからの撤退は、1ヶ月後の5月15日に始まりました。そのアフガンに、今度はアメリカがのこのこ出かけ、こちらもまた、ソ連同様不毛な戦いに消耗し、不名誉な撤退に追い込まれそうな雲行きですね。
2012.04.14
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ルイ14世の宮廷生活 (66) ここで、ルイ14世の時代には残念ながら間に合わなかった、フランスの高級磁器、セーヴル焼きについて、記すことにします。フランスに磁器生産が導入されたのは、ルイ15世の親政が始まっていた1738年のことになります。この年、ドイツはザクセン公国のマイセンから、マイセン窯の名工デュボワ兄弟を引き抜くことに成功したのです。ヨーロッパにおける磁器生産は、中国、朝鮮、日本など東アジアの陶磁器に魅せられ、何とか欧州でも同じものを作れないかと悪戦苦闘を繰り返す中、1709年にザクセン公国の首都ドレスデンに近いマイセンで、初めて製造に成功したことに始まります。こうして、マイセンがヨーロッパにおける磁器生産の根拠地になったのですが、前述したデュボワ兄弟の引き抜きに成功したフランスが、パリ東端に位置するヴァンセンヌに、兄弟のための窯を用意して、フランスも磁器生産に参入したのです。このヴァンセンヌのデュボワ兄弟の窯場が、セーヴルに移設されるに当たっては、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール(侯爵)夫人の口添えと援助が」ありました。1721年生まれのマダム・ポンパドゥールは、1745年に国王の愛妾となり、1764年に43歳の若さで亡くなるまで、国王の信頼厚く、政治上の助言役を務めたことでも知られています。一方で、大変贅沢で金遣いの粗いことでも知られ、国王にねだっては、いくつもの屋敷を作ってもらったことでも知られ、現在のフランス大統領官邸エリゼ宮も、彼女の屋敷の一つだったのです。その彼女がデュボワ兄弟の作るヴァンセンヌの磁器に興味をそそられたのが、セーヴルに窯場が築かれるきっかけとなったのです。 続く
2012.04.13
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クロニクル 日ソ中立条約締結1941(昭和16)年4月13日私の生まれる前年ですから、71年前のことです。この日、モスクワで日本全権松岡洋右外相がソ連側との合意に達し、日ソ中立条約に調印するに至りました。2年前の8月反共の立場をとるナチスドイツと、社会主義国ソ連とが、独ソ不可侵条約を結んだ時、「国際情勢は複雑怪奇」という笑えないセリフを残して平沼麒一内閣が総辞職したのですが、日本もまた互いの利益のために、社会主義のソ連に接近、日ソ中立条約を結びました。この当時日本は、対中国侵略戦争の長期化に伴う物資の不足に悩み、戦争継続のためにはと、対米開戦をも覚悟しながら、資源確保のための南進作戦(インドシナやフィリピン、インドネシア等への侵略の拡大)へと、歩を進め初めていたところでした。対米戦争を覚悟した日本にとって、腹背に敵を受ける事になるソ連との開戦は、何としても避けたいところです。一方のソ連も、独ソ不可侵条約を結んでいるとはいえ、ドイツ軍のバルカン半島への侵入を機に関係は悪化、ソ連もまた対独戦への備えとして、後方の安全確保のために、日本との中立条約の締結は渡りに船だったのです。こうして両国の思惑は一致し、ソ連は対独戦のため、日本は対米戦のために、日ソ中立条約が結ばれました。実際、ドイツは6月22日に、ソ連への侵入に踏み切り、対ソ戦を開始、日本もまた8ヶ月後の12月8日にハワイ真珠湾の米軍基地を攻撃して、対米開戦に踏み切りました。この条約は、両国は互いに、1方の国が第3国と戦闘状態に入ったときに、他方は中立を守ることなど、4ケ条からなっていました。
2012.04.13
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クロニクル 上野に初の喫茶店誕生1888(明治21)年4月13日124年前の話です。この日、本邦最初の喫茶店、可否(カツヒー)茶館が上野の下谷黒門町にオープンしました。店主は中国人の鄭永慶。コーヒー壱杯は1銭5厘、牛乳入りは2銭でした。店内には各種新聞や遊戯具を備え、更衣室もあり、さらに文房具類を備えた部屋まで用意されて、気軽にひととき、ふたときを過ごすことが出来るようになっていたそうですから、この時期には廃れていたロンドンのコーヒーハウスや、なお隆盛を保っていたパリのカフェの雰囲気を持ったコーヒー館だったといえそうです。目新しさと、お客へのきめ細かなサービスが評判となり、翌年の第3回内国勧業博覧会会場に、コーヒー店や喫茶店が設けられて、大いに普及するきっかけとなりました。女性の給仕(女給)がサービスを担当する手法を最初に取り入れたのは、1911年に東京京橋に開店した、カフェ・プランタンです。この新風俗も瞬く間に広まったそうです。
2012.04.13
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ルイ14世の宮廷生活 (65) しかし、王や王妃がいくら身内だけのこぢんまりした生活を好んだとしても、ルイ14世の創り上げた宮廷の作法は、個人の好悪の判断を超えて、絶対王政という政治システムを支える強力な武器になっていました。そのため、国王の意志をもってしても、このシステムを廃止することは出来なかったのです。ヴェルサイユ宮での細かな作法に馴染めず、ヴェルサイユの片隅に建てたプチ・トリアノンに逃避し、田舎の水車小屋を模したプチ・トリアノンで、自らも農婦の姿になってくつろいだというマリ・アントワネットは、まさにそれゆえに、フランスの貴族社会までをも敵に回し、四面楚歌の状況に陥ってしまったのです。ルイ15世やルイ16世が、先君の残した宮廷作法と格闘している間に、フランスのサロンは、17世紀とはまた違った姿を見せて、揺籃期を脱して、華々しい隆盛期を迎えていたのです。 続く
2012.04.12
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クロニクル F・ローズヴェルト大統領死去1945(昭和20)年4月12日67年前のこの日、米国のフランクリン・ローズヴェルト大統領が、63歳の生涯を閉じました。米国の大統領は、リンカンやケネディのみでなく、何人も暴徒の凶弾に倒れていますが、ローズヴェルトは病死でした。彼の死により、後任に副大統領だったトルーマンが就任しました。日本への原爆投下を決断したのは、このトルーマンです。ところで、この日病死したF・ローズヴェルトは、1921年39歳の時に重い小児麻痺を患い、一命は取りとめたのですが、以後車椅子生活を余儀なくされました。障害を持つローズヴェルトは、しかし、ハンディを克服してニューヨーク州知事となり、1932年の大統領選では、現職のフーヴァーを破って、大統領に当選、車椅子の(障害を持つ)大統領となったのです。彼は、ニュー・ディール政策を推進して、恐慌からの脱却を目指し、2期目の後半に始まった第2次世界大戦の指導者としても、名を知られています。そのため、米国史上初めての多選大統領となり、44年秋に4選を果たしたところでした。障害を持つ身でありながら、4選を果たし、激務をこなし続けた13年の無理が、大きな原因となって、この日を迎えたのです。こうして、ローズヴェルト以後の米国では、大統領の任期を2期8年までとし、大統領の連続3選を禁止する、憲法修正条項が成立したのです。
2012.04.12
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クロニクル 地球は青かった1961(昭和36)年4月12日51年前のこの日、日本時間午後3時7分頃に、ソ連は人類初の有人人口衛星ボストーク(東方)1号の打ち上げに成功しました。ボストークは地球軌道を一周した後、午後5時5分前頃、地球への帰還にも成功しました。この間約1時間50分でした。「地球は青かった」はボストーク1号に搭乗していた、ユージ・ガガーリン少佐(当時27才)が、帰還後の記者会見で、宇宙から見た地球の印象を聞かれて答えた言葉です。「空はとても暗かったけれど、地球は青かった」と...。この言葉は、この年世界の流行語となりました。宇宙飛行士は、その後随分増えましたし、飛行時間どころか、飛行日数も飛躍的に増えましたが、ガガーリン氏は、宇宙飛行士のパイオニアとして、その後、地球環境問題などで、米ソの宇宙飛行士が手を携えて発言し、行動してゆくまとめ役として、活躍しました。「青と緑の美しい星を守れ」と......。 その彼は1968年3月飛行訓練中に事故死しています。34歳の若さでした。
2012.04.12
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ルイ14世の宮廷生活 (64) ルイ14世の死去後、5歳の曾孫アンジュー公がルイ15世として即位します。摂政には、ルイ14世の甥、フィリップ・ドルレアンが就任します。摂政のオルレアン公は、彼の居宅パレ・ロワイヤルで執務し、幼い国王はパリ中心部のテュイルリー宮に居住することになりました。オルレアン公は、頭の上がらなかったルイ14世を意識せざるを得ないヴェルサイユを嫌ったのです。後、1722年に国王ルイ15世は、ヴェルサイユに移り住み、以後終生ヴェルサイユを居城とするのですが、彼の時代も息子のルイ16世の時代も、太陽王ルイ14世の時代のように、ヴェルサイユがフランス文化の中心となることはなかったのです。ルイ15世やルイ16世を筆頭に、ルイ14世以降の王族達は、ルイ14世の宮廷で成熟した礼儀作法、内面心理の読み合いの文化を好まず、もっと親密な一握りの取り巻きとの身内的な語らいを好み、こぢんまりとした離宮での生活を好んだのです。その結果はどうだったのでしょう。 続く
2012.04.11
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クロニクル 春闘で空前の交通スト1974(昭和49)年4月11日38年前のこの日、総評系を中心とした春闘共闘会議は、諸要求の実現を目指して、交通機関を中心としたストライキに突入しました。国鉄(現在は分割民営化されてJR各社になっています)は史上始めて、全路線で全面運休となり、他に大都市圏の私鉄も加わって、スト参加者は全国で600万人に達する、大規模なものとなりました。当然、各地の学校は休校または、自宅学習の措置をとり、企業もまた社員が出社できず、開店休業の状態におかれる会社が続出しました。このストは、48時間に渡ってぶち抜かれ、3日目に入った13日の早暁、経営側の一定の譲歩を得て、収拾されました。労働運動が大きく、かつ輝いていた時代のことでした。春闘では、JRや私鉄といった交通機関のストがつきものの時代で、気楽な身分の学生や生徒は、ストになれば休みになると、責任のない立場にあることを良い事に、ストを期待し、国・私鉄の労働者に{頑張って!」とエールを送っていた、あくせくしない時代でもありました。今は労働者にも元気がないですねぇ。「ストは何処に行った」なんて歌が、そのうちはやるのでしょうか?
2012.04.11
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クロニクル 老兵は死なず、ただ去り行くのみ...1951(昭和26)年4月11日61年前のことです。この日、マッカーサー元帥が国連軍最高司令官兼GHQ綜司令官の職を解任されました。1950年に始まった朝鮮戦争に、アメリカ合衆国は参戦を決意、ソ連がベルリン封鎖(1948年)に対する国連の対応に抗議して、国連ボイコット戦術をとっていたスキをついて、安全保障理事会において、北朝鮮を侵略者と規定し、韓国救援のために国連軍を派遣する決議を採択することに成功したのです。しかし、米本土から兵士や武器弾薬を輸送するのでは、時間がかかり過ぎます。そこで、米国は日本に駐留するGHQ輩下の米軍を朝鮮半島に送り込み、GHQ総司令官のマッカーサーを、自国が中心をなす国連軍の最高司令官に据えたのです。国連軍という衣をまとっても、実質は米国の丸抱えでしたから、マッカーサーが国連軍最高司令官を兼務したのです。 米軍の参戦で形勢は逆転、北朝鮮軍はたまらずに敗走を重ねましたが、勢いに乗った韓国・米国の連合軍は勢い余って、中朝国境の鴨緑江を越えてしまい、結果として中国義勇軍の参戦を招いてしまいます。ここで再度形勢は逆転、北朝鮮と中国の連合軍が盛り返し、結局戦闘は38度線に沿う形で膠着状態に入りました。この状態にいらだったマッカーサーは、中国領への越境攻撃を再三ホワイトハウスへ進言、ソ連の参戦という最悪の可能性を何としても避けたいトルーマン大統領との対立は決定的になったのです。そしてこの日、大統領トルーマンはマッカーサーの解任を発表、後任にリッジウェイ中将を任命したのです。こうしてマッカーサーは兼務していたGHQ総司令官の地位をも失い、1945年の着任から続いた日本滞在からも離れることになったのです。日本の国会は衆参両院共に、マッカーサーに対し、感謝決議を贈って、彼の対日統治の功績を称えました。冒頭に記した「老兵は死なず、ただ去り行くのみ...」の語は、やや気取り過ぎの感はありますが、マッカーサーの日本国民に対するお別れ演説の1節です。
2012.04.11
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クロニクル 日本映画グランプリ獲得1954(昭和29)年4月10日58年前のことです。この日、フランスのカンヌで開かれていたカンヌ映画祭において、衣笠貞之助監督作品『地獄門』がグランプリに輝きました。戦後の混乱を抜け出しつつあった当時の日本では、映画は手軽な娯楽として人気が高く、映画館も乱立気味でしたが、それでも観客は集まり、映画産業の全盛期の入り口にありました。そんな時のグランプリの報に、日本中が沸き立ち、3月のビキニ環礁での第5福竜丸の被爆事件で、暗くなりがちだった世相も、明るさを取り戻しました。51年秋の黒沢明監督作品『羅生門』のヴェネツィア国際映画祭での、グランプリに続く、衣笠作品の受賞で、日本映画に対する世界の注目度も、大いに高まりました。
2012.04.10
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クロニクル 女性参加の総選挙1946(昭和21)年4月10日66年前のこの日は、日本の女性史上、忘れられない日です。この日は、初めて女性に選挙権、被選挙権が認められた、男女完全平等の国会議員選挙の投票日だったのです。第22回衆議院議員選挙がこの日投票日を迎えました。初めて選挙に参加し、投票する女性たちには、晴れ着姿も目立ちました。その姿には、ようやく手に入れた投票権に対する女性たちの熱き思いが込められていたように、私は受けとめています。この選挙は、その後の衆議院の中選挙区制や、現在の小選挙区制とは異なり、全国を53の選挙区に分ける選挙区制で行われたのですが、投票形式は、4~10人区(当選者が4人~10人)では2名、11人以上区では3名の制限連記制(2名以上、3名以上を連記すると全て無効となる)がとられました。立候補者を出した政党は258にのぼり、小党乱立の選挙ででしたが、全立候補者は2770人に留まり、10名以上の候補者を擁立した政党は11しかありませんでした。選挙の結果、日本自由党が140議席、日本進歩党が94議席、日本社会党が92議席と3党で過半を占めたのですが、戦前弾圧され、壊滅状態に追い込まれていた日本共産党も5議席を獲得しました。日本の共産党が議席を得たのは、この選挙が初めてでした。被選挙権をも獲得した女性の中から、79人の立候補者があり、その多くは11人以上区で立候補し、3人連記の3番目に私の名をと訴える作戦で票を伸ばし、39人が当選するという成果を上げました。
2012.04.10
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ルイ14世の宮廷生活 (63)ルイ14世は、造営中もヴェルサイユ宮殿を、しばしば使っていたのですが、王族や貴族それに大臣や官僚、聖職者といった統治機構に属する人々を従えて、本格的にヴェルサイユに移転したのは、1682年のことでした。以後国王は、パリには戻らず、戦場に出かける時や、気分転換の小旅行に出かける時を除くと、ヴェルサイユを離れることはありませんでした。ルイ14世は派手好きで、金遣いの粗い国王でしたが、執務には熱心で、決済が必要な書類には、全て目を通して、疑問があれば書き直しを命じることも、少なくありませんでした。午前の執務時間では足りず、夜遅く書類に目を通すことも、かなり頻繁な光景だったのです。国王や王族と共に、貴族たちもまたヴェルサイユに集結しました。商品経済の発達で経済的に苦しくなった帯剣貴族たちは、国王に認められ、その寵を得ないことには暮らしが立ち行かず、宮殿内に住まいを下賜される幸運を求めて、ヴェルサイユに屯したのです。当然、大陸ヨーロッパの中心となった太陽王の宮殿です。各国からやってくる外交使節や王族もまた、ヴェルサイユの王の下に集まります。こんな状態でしたから、大貴族の夫人達がコアの部分を構成しているサロンは、ヴェルサイユ宮殿の輝きに、その座を譲り、しばし休眠状態に入らざるを得なかったのです。日本の元禄時代に重なるルイ14世の全盛期、サロンの灯は、貴族風を真似て登場した貿易商人や金融家といった、パリの大ブルジョワジーの夫人達のサロンとして、新たな命を紡いでいました。1715年9月1日、ルイ14世は77歳で世を去ります。太陽王は、長生きをし過ぎました。その晩年は、最愛の王太子(王の孫にあたります)にも先立たれるなど、晩年の伴侶だったマントノン夫人ですら、「どうお慰めすれば良いのか、私には分からなかった」と記すほどの、深い悲嘆に沈んでいたのです。ルイ14世が太陽王の精彩を失うにつれ、貴族たちはヴェルサイユの陰鬱な雰囲気を嫌って、パリの屋敷に戻ります。この頃から、サロンは輝きを取り戻し始めたのです。 続く
2012.04.09
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クロニクル 無党派知事当選1995(平成7)年4月9日17年前になります。この日行われた東京・大阪の知事選挙で、東京では青島幸男氏が、大阪では横山ノック氏が当選しました。2人は、共に政党の推薦を断り、無党派で出馬して風に乗り、共に大差で対立候補を破って当選を果たしました。2人は共に参議院議員を務めていましたが、その参院選挙の経験を生かし、政党推薦を受けるよりも、無所属を貫いた方が、多くの支持を得られる事を直感し、若者を中心に支持を広げ、見事に当選を果たしました。しかし、共に行政経験を持たなかった上に、行政経験豊富な参謀格の人物(黒子)を持たなかったために、やがて行き詰まり、青島は1期で野に下り、横山は当選はしたものの、選挙期間に女性の運動員に破廉恥行為に及んだとして逮捕され、辞任せざるをえなくなり、共に知事として大きな功績を上げることは出来ませんでした。
2012.04.09
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