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ルイ14世の宮廷生活 (96) デュ・デファン夫人のサロンはどうなったでしょう。夫人のサロンは、当時の錚々たるフィロゾーフたち、啓蒙思想家を失いました。夫人がレスピナス嬢を許さず、自分を支えてくれた彼女を追い出してしまったことが、ダランベールをはじめとするフィロゾーフたちを、レスピナス嬢の下へ追いやる結果に繋がったのです。こうして、一時はデュ・デファン夫人のサロンは、火が消えたように寂しいものとなりました。夫人にとって、自分のサロンが見捨てられた事実を知ることは、耐え難い苦痛でした。その苦痛に盲目の彼女は、良く耐えました。夫人は、新思想とフィロゾーフたちに激しい憎しみを抱き、祖のことを広言するようになりました。その結果、デュ・デファン夫人のサロンには、新思想に敵意を抱く保守派の溜まり場として再生したのです。1770年の『文芸通信』に、夫人に関する記述が残っています。「デュ・デファン夫人は、およそ『哲学』と呼ばれるものに、激しい憎しみを抱いており、それを誇りにしています。このことは宮廷人の間で、彼女の評判と信用とを大いに高める結果に繋がりました。何しろこの人たちの目には、フランスで起こる悪いこと全ての直接の原因は、みなフィロゾーフたちのせいなのだから。」しかし、時代はフィロゾーフたちの勝利、啓蒙思想の勝利を指し示していました。晩年のデュ・デファン夫人のサロンは、来客の数こそ回復しましたが、新しい時代の息吹からは、取り残されてしまったのです。 続く
2012.05.31
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クロニクル 日韓ワールドカップ開幕2002(平成14)年5月31日ちょうど10念になるのですね。10年前の今日、待ち兼ねていた日韓ワールドカップが、韓国の首都ソウルで開幕しました。第17回サッカーワールドカップ、日韓大会です。1ヶ月後の6月30日、横浜で決勝戦が行なわれ、ブラジルの優勝で大会は幕を閉じました。地の利もあって、日本チームの活躍も見事なものでした。あれから10年、2年後の第20回ブラジル大会に向けてのアジア最終予選が、3日後に始まります。日本チームが本大会の出場権を獲得してくれるよ良いですね。
2012.05.31
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ルイ14世の宮廷生活 (95) 自分が加わっていたサロンについて、メモワールに記録を残したマルモンテルは、タンサン夫人やジョフラン夫人のサロンと共に、有り難いことにレスピナス嬢のサロンについても、記録を残してくれました。彼はこう語ります。「サロンの来客は、選びぬかれ、とても良く考えられて取り合わされていたので、まるで名手が調律した楽器のように、調和がとれていた。彼女はその楽器を、天賦の技で演奏しているようだった。彼女は、これから触れようとする弦が、いかなる音色を奏でるか、熟知しているようだった。言い換えれば、彼女は我々1人1人の精神や性格を良く知っていたので、彼女が一言触れれば、それで十分だった。」「彼女のサロンほど会話が生き生きと、そして華々しく均整のとれているところは、他の何処にもなかった。」レスピナス嬢のサロンの第1人者は、共にデュ・デファン夫人の下を離れたダランベールでした。共に私生児で、共に悲惨な厳しい生活に耐えて、知識人としての教養を身につけた2人は、いつしか互いに惹かれあい、頼り頼られる関係になっていました。レスピナス嬢のサロンの中心人物は、誰もが認めるようにダランベールでした。サロンが開かれた翌年1765年初めのことでした。毎回必ず顔を出していたダランベールが、都合で欠席すると召使に手紙を持たせて連絡してきました。心配したジュリーが召使を問い詰めると、「旦那さまは御病気のようです」という返事でした。ジュリーはダランベール家を訪ね、快癒するまでつきっきりで看病を続けました。快癒したダランベールは、その後ジュリーのアパルトマンの上階に引越し、2人の事実上の同棲生活が始まりました。2人は、この事実を誰にも隠しませんでした。盲目のデュ・デファン夫人を除いては…。そして、パリの社交界やブルジョワは、2人の同棲を好意的に承認したのです。 続く
2012.05.30
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クロニクル テルアビブ空港乱射事件1972(昭和47)年5月30日40年前のこの日、イスラエルのテルアビブ空港で3人の日本人ゲリラが自動小銃を乱射、手投げ弾数発を投げて、乗降客ら26人が死亡、73人が重軽傷を負う大惨事が起きました。3人は、パリ発のエール・フランス機にローマから乗り込み、午後9時45分にテルアビブ空港に降り立ち、税関のカウンター近くから乗降客で賑わう待合室へ向けていきない発砲、手投げ弾も投げ込みました。待合室は血の海となり、大混乱に陥りました。イスラエルによるパレスティナ人虐殺への報復でしたが、実行犯が日本人3名と言うのが驚きでした。3人中2人は現場で死亡、捉えられた1名が岡本公三(当時24歳)でした。岡本はよど号ハイジャック事件で北朝鮮入りした岡本武の実弟でした。取調べの結果、3人は日本赤軍内の重信房子をリーダーとするグループに属し、パレスティナ急進派のPFLP(パレスティナ解放人民戦線)と連携していることが明らかになりました。
2012.05.30
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ルイ14世の宮廷生活 (94) ジュリー・ド・レスピナスのアパルトマンは、質素で手狭でした。控えの間と客間と寝室と召使の部屋があるだけでした。装飾としては、壁に版画を飾り、ダランベールとヴォルテールの胸像が置かれているだけでした。それでも彼女のサロンには、パリ中の進歩派の知識人たちが好んでやってきました。ジュリーのサロンでは、進歩派の知識人たちが、何の気兼ねもなく自由に、彼らを悩ましている哲学的命題について、自説をぶつけ合い、迫真の討論を展開することが出来たからです。大勢の人は入れない小さなサロンであることが、改革派以外の人々の訪問を断る恰好のこうじつをとなったのです。このサロンでジュリーは、「百科全書の女神」と呼ばれました。財産もなく私生児の彼女が、やがてビッグネームになってゆく、若き啓蒙思想家たちのアイドルとして、多くの俊英たちを惹きつけたのです。小さなサロンを開いた頃、1764年32歳の頃のジュリーの肖像画を掲げておきます。思想家達がいかに彼女との交遊に熱心であったかは、コンドルセやテュルゴーが彼女と交わした文通によって、知ることが出来ます。サロンの会話がいかに生き生きとしていたか、同時にいかに刺激に満ちていたかが、そこから読み取れます。 続く
2012.05.29
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クロニクル レーガン・ゴルバチョフ会談始まる1988(昭和63)年5月29日24年前のこの日、モスクワにおいてレーガンとゴルバチョフによる、米ソ首脳会談が幕を開けました。この会談は、前年12月のワシントンでの会談を受けたもので、ゴルバチョフの新思考外交の展開を受け、米ソの全般的な軍縮を進めるための会談でした。会談では、中距離核戦力(略称INF)の全廃条約がまとまり、6月1日の批准書の交換に漕ぎつけました。またこれを機に,両国のミサイルの廃棄も始まり、米ソの雪解けは一挙に前進を見ました。こうした相互の信頼関係の増進が、翌89年12月のマルタ会談(ゴルバチョフ・ブッシュ)による、冷戦の終結宣言に繋がって行きます。
2012.05.29
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ルイ14世の宮廷生活 (93) 1764年、ジュリー・ド・レスピナス嬢は、遂にデュ・デファン夫人の館を出ることになりました。友人たちの紹介で、彼女はサン・ドミニク通りとベルシャス通りの交差する街角にある、ベルシャス修道院の傍らに居を構えました。デュ・デファン夫人の旧友、リュクサンブール侯爵夫人は、おおらかで穏やかな方でしたが、その夫人がデュ・デファン夫人のジュリーに対する仕打ちを咎めて、ジュリーの館で必要とする家具一切を贈ってくれました。当時最大のサロンを運営していたジョフラン夫人も、ジュリーを可愛がると同時に信頼しており、精神的・物質的支援を惜しみませんでした。ショワズール公爵は、彼女のために国王に頼んで、年金が支給されるように手配してくれました。ジュリーは友人に恵まれたおかげで、生活の苦労はしないで済むようになったのです。こうして、デュ・デファン夫人の下を離れたレスピナス嬢に対し、周囲は、もはやデュ・デファン夫人に対し、何の遠慮もいらないのだからと、本格的にサロンを開くことを勧めたのです。しかし、資金力のない彼女に、大富豪や名門貴族の夫人達が開くような贅沢なサロンを開く力はありません。そしてそのことは、彼女と親しい者なら、誰もが知っていることでした。ですから、彼女の友人たちは、会話の魅力を前面に押し出した、新基軸の質素なサロンを開くよう、勧めたのです。レスピナス嬢は、この忠告に従いました。彼女自身、サロンでの会話の魅力には抗いうことは難しいと感じていたのです。こうして、客人に食事を提供しない午後5時~9時までのサロンを開くことにしたのです。実際にレスピナス嬢の転居からしばらくして、彼女のサロンが幕を開けると、デュ・デファン夫人のサロンの常連たちは、デュ・デファン夫人とレスピナス嬢の2つのサロンのどちらかを選ばざる得ない立場に立たされたのです。猜疑心の強いデュ・デファン夫人が、レスピナス嬢のサロンと自分のサロンの、双方に出入りすることを許すとは思えなかったからです。先ず、ダランベールを初め、5時の訪問者達が、移ってきました。エノー院長もレスピナス嬢の味方になりました。デュ・デファン夫人のサロンには、たった1回しか出席しなかったディドロも、レスピナス嬢のサロンの常連となりました。 続く
2012.05.28
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クロニクル 日本経団連発足2002(平成14)年5月28日10年前のこの日、財界本部とされた経団連と、財界の労組対策の司令塔とされた日経連とが合併し、日本経団連が発足しました。日経連は1時「戦う日経連」と称されるなど、主として総評系労組との交渉や切り崩しを担当しましたが、労使協調路線を取る連合の成長に伴い役割を終えたと判断、経団連との合併に踏み込んだのでした。初代会長には、日経連会長を務めていたトヨタの奥田碩会長が就任、2代会長は、キャノンの御手洗冨士夫会長が務め、現在は住友化学の米倉弘昌会長が3代目会長を務めていますが、過去の経団連・日経連の会長や奥田。御手洗両会長の、どっしりとした重量感に比べ、いかにも軽量の誹りを免れないように思えてなりません。
2012.05.28
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ルイ14世の宮廷生活 (92)デュ・デファン夫人とジュリー・ド・レスピナス嬢の関係は、ジュリーの部屋での秘密の語らいが露見してからというもの、極めてとげとげしいものになりました。デファン夫人のレスピナス嬢に対する非難は、大変ねちねちとしつこく続けられました。しかし、レスピナス嬢ジュリーには、夫人の家を出てしまうと、3階での語らいで親しくなった人たちとの、知的で機智に富んだ会話の楽しみも失うことになることが、夫人のネチネチとしたしつこい非難に堪える事よりも、もっと耐え難いことだったのです。夫人もまた、レスピナス嬢をしつこく非難しながらも、彼女に出て行けとは、決して言わなかったのです。こうして、2人の険悪な関係を包み込みながら、ジュリー・ド・レスピナス嬢は、1764年の春まで、1757年初頭の問題発覚から7年余の期間。デュ・デファン夫人の屋敷とサロンにかかわり続けたのです。2人の関係は1764年の春、遂に破裂しました。レスピナス嬢は、遂にデュ・デファン婦人の屋敷から立ち退くように、言い渡されたのです。それは淡々とした命令でした。ジュリーもすぐにその命令を受け入れ、デュ・デファン夫人の館から、立ち退いたのです。困ったのは、デュ・デファン夫人のサロンに出入りしていた面々でした。 続く
2012.05.27
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クロニクル 日本海海戦1905(明治38)年5月27日107年前のこの日、日本海軍は探し求めていた敵国ロシアのバルチック艦隊の船影を捉えることに成功します。場所は対馬沖の日本海でした。時に午後1時39分のことだったと記録されています。日本海軍連合艦隊司令官の東郷平八郎が、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」と演説をしたことで知られる、日本海海戦はこうして始まりました。 この時午後1時55分と記されています。 バルチック艦隊は、その名の通りバルト海や北海、北大西洋を主な活動場所とする部隊でしたが、ロシアの極東艦隊を支援するために、海路はるばるアフリカ南端まで迂回してインド洋を越え、シベリアの港ウラジオストークまで、あと一息のところまでやってきたところでした。。対馬沖に現れるまで、約7ヶ月を要した大遠征であり、船員も当然疲れ切っています。従って、この海戦は、ウラジオストーク到着以前に日本の連合艦隊が、バルチック艦隊を発見・捕捉することが出来るか否かに勝敗の鍵があったと言って、言い過ぎではないのです。現在のように高性能レーダーが完備しているわけもなく、せいぜい望遠鏡で視認する程度の監視ですから、仮に日本海を通ったとしても、必ずしも発見出来るとは限らないのです。それが海という世界です。まして、太平洋を迂回するルートもまた残っていたのです。東郷司令官の判断は、乗組員の疲れ、燃料事情などを総合的に判断する時、敵艦隊が太平洋へ迂回するルートを採るとは考え難い。日本海ルート1本に絞るということだったのです。107年前のこの日が、日本晴れだったことも幸いでした。雨天・濃霧といった気象条件であったら、果して見つけることができたかというと、これまた首を捻らざるをえなくなります。午後2時過ぎに、日本軍の砲撃で口火を切った戦闘は、日本海軍の圧勝に終りました。これは勝つべくして勝った一戦でした。発見し、砲撃し、一部の艦を犠牲にして逃げる敵をさらに追って、追撃戦を行い、これを繰り返して敵を殲滅したのです。翌日午前5時過ぎまでの戦闘を逃げ延び、ウラジオストーック港に錨を下ろした敵艦は、バルチック艦隊全38艘中、僅かに3艘に過ぎなかったのですから、まさに圧勝でした。ここに日本軍は、日本海の制海権を確保し続けることが出来ました。もし、戦い敗れて日本海の制海権を失った場合は、満州で戦う陸軍は孤立し、日本優位のうちに講和するというシナリオは画餅に帰していたところだったのです。
2012.05.27
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ルイ14世の宮廷生活 (91)デュ・デファン夫人の館のサロンは、彼女の居室のある2階で開かれました。ジュリー・ド・レスピナス嬢の居室は館の3階にありました。ですから、ジュリーとのしばしの語らいを楽しみたい人々は、5時に3階に集まり、6時に間に合うように2階に移動したのです。ジュリーの下に最も熱心に通ったのは、ダランベール」でした。タンサン夫人の項で書きましたように、ダランベールはタンサン夫人の産んだ私生児です。産みの母に捨てられ、修道教会に敷設された捨て子院の教育で才能を認められ、そこから這い上がった人物です。同じ私生児で、母をなくした後、同腹の姉の家で子守女のように扱われ、今またデュ・デファン夫人に、有能な秘書役として酷使されているジュリーの境遇に、ダランベールは世に出るまでの自分を重ね合わせたのでしょう。不倫は親の責任であり、生まれてくる子には、何の責任もありません。しかしながら世間の偏見のために白い眼で見られる苦しみは、生まれてきた子ども達が味わうことになるのです。共に私生児であるという2人の共通点が、2人を近づけたことは間違いありません。ジュリーは美人ではありませんが、聡明で魅力的な女性でした。こうして2人の間に生まれた共感が、いつしかより激しい感情に変わっていったとしても、それまたごく自然なことでした。それは1756年頃、ダランベール39歳、ジュリー・ド・レスピナス24歳の頃でした。ジュリーの部屋での集まりの時間は限られていましたが(それは夫人が宵っ張りで、自分が眠りに落ちるまで、ジュリーに本を読むことを止めないように命じていることを承知していたため、5時より前に来ることは、憚られたのです)、ダランベールを中心に、何の遠慮もない討論に、時間を費やしていたのです。盲目のデュ・デファン夫人は、盲目ゆえに猜疑心を研ぎ澄ましていましたから、いつしか自分の客人たちが、サロンの始まる前に3階に集まり、自分の秘書の部屋で語らっている事実に気付きます。1757年の初め頃のことでした。夫人は秘書役の姪に裏切られたと感じ、怒りの感情に打ち震えます。「何ということ」と激高し、ジュリーを呪ったり、激しく罵倒したりもしたようです。しかし、良く考えると、ジュリーを追い出してしまうと、自邸のサロンも開けなくなってしまいます。そうなっては困るのです。進退窮まった夫人は、身体の不自由な自分に、こんな思いを抱かせるとはと、益々ジュリーを呪い、深夜本を読ませながら、ネチネチとジュリーに嫌味を言い続けたのです。 続く
2012.05.26
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久々に原発関連友人に教えられ、中手聖一さんがまとめられた『「福島県の子ども」の病死者数について-政府・人口動態統計から分かった事故後の変化-』という報告を読みました。A4版2枚の短い報告ですが、政府報告という誰でも目にすることが出来る統計を使っての分析だけに、ギョットさせられる内容でした。PDFファイルになっており、どなたでもご覧になれますので、下記からご覧になり、よろしかったら、他のブロガーの皆様にも御紹介いただけると幸いです。 http://dl.dropbox.com/u/17135518/nakate.pdf ザビ
2012.05.26
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クロニクル 日本海中部地震 1983(昭和58)年5月26日29年前のこの日、正午過ぎに、秋田沖を震源とするマグニチュード7,7の地震が発生しました。この地震の被害は、遅れて襲ってきた津波の被害によって、大きくなりました。秋田県男鹿半島の加茂海岸に遠足に来て、海岸でお弁当を広げていた小学生12人や、能代港で護岸工事をしていた作業員34人などが、2メートルを超える高波にさらわれ、命を落としました。いずれも津波警報の伝達が遅れたための悲劇でした。死者・行方不明者は秋田・青森・北海道で104名。重軽傷者163名。住宅の全半壊3049戸、流出52戸などの被害があり、道路・鉄道の寸断も各所で起きました。この地震では津波情報の伝達に問題が残り、地震で無線の受話器が外れて既報が伝達できなかった所があったこと。気象庁の津波警報の都道府県への伝達から、15分後に津波が襲来したのですが、末端の機関への伝達に20分も要したことから、警報の届いた時には、既に手遅れとなっていたなど、大きな問題があったのです。「日本海側は、津波の被害はない」とする。勝手な思い込みも、遅すぎた伝達の原因を構成する、一つの要素として指摘されました。昨今は、懲りたのか、随分と伝達速度は上がっているようなのですが、失われた命は、返ってきません。
2012.05.26
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ルイ14世の宮廷生活 (90) デュ・デファン夫人のサロンは、午後6時が始まりの時間でした。視力を失った夫人に代わって、客人を迎えることも、ジュリー・ド・レスピナス嬢の仕事の一つでした。ジュリーは、美人タイプではなかったのですが、若くて才気に溢れ、気の効いた会話を交わせるジュリーの出迎えを喜びました。ジュリー・ド・レスピナス嬢は、デュ・デファン夫人の眼の役割を忠実に果たし、書物を読めなくなった夫人にのために、求めに応じて書物を読む役割も果たしました。夜、夫人が眠りつくまで、読み続けなければならないこともしばしばでした。視力を失った夫人も辛かったでしょうが、眠れない夫人に付き合って、書を読み続けるジュリーも大変でした。デュ・デファン夫人が、客人たちに泰然自若とした姿をみせることが出来たのも、ジュリー・ド・レスピナス嬢の、こうした献身的な協力があったからでした。ジュリーに迎えられる客人たちは、次第にもう少し長くジュリーとの会話を楽しみたいとものと、考えるようになりました。誰かが6時5分前の訪問を、さらに5分早めると、抜け駆けをされた面々も、次の定例日には、皆6時10分前にはやってくるようになります。誰もが、快活で生き生きとした知性の持ち主であるジュリーとの会話を、少しでも長く楽しみたいと、」考えるようになっていたのです。こうした常連たちは、年月を重ねるうちに、デュ・デファン夫人のサロンが始まる1時間前、午後5時には夫人の屋敷を訪ね、6時までの1時間をレスピナス嬢の部屋で過ごすようになったのです。それはサロンと言えるものではありませんでしたが、常連客たちは、サロンの幕が上がるまでの1時間を、レスピナス嬢を囲んで楽しんだのです。この秘密の小サロンには、ダランベール、テュルゴー、マルモンテルらが加わっていました。とりわけダランベールは熱心でした。 続く
2012.05.25
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クロニウル 運動会事始1878(明治11)年5月25日皆さんの周囲での運動会はそろそろでしょうか。お子さんやお孫さん、近所の子ども達の幼稚園や小・中・高校等の運動会はお済みになりましたか。。きょうは、そうした学校運動会の始まりの話です。年配の皆さんは「少年よ大志を抱け(ボーイズ・ビー・アンビシャス!)」の語を遺したクラーク博士と札幌農学校をご存知だと思います。山」デジさんのホームグランド、北大の前身です。私も小学6年の国語の教科書で学んだことを覚えています。舞台は、134年前の北海道は札幌です。そうです。運動会の発案者はクラーク博士だったのです。博士の指導によって、本邦最初の運動会が札幌農学校の第1回運動会として開かれたのが、134年前のきょうでした。札幌農学校の運動会は話題を呼び、猛スピードで全国の学校に広まってゆくのですが、その話は機会があれば、あらためてすることにしたいと思います。
2012.05.25
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ルイ14世の宮廷生活 (89) 「好事魔多し」、良いことがあった時に、」浮かれすぎることを諌める言葉として知られますが、デュ・デファン夫人にも、この例えが当てはまりました。彼女のサロンが支援するダランベールガアカデミー会員に推挙された1754年、(それは新思想が保守思想に勝利してゆく一里塚となった記念碑的な出来事でもあったのですが)デュ・デファン夫人は、完全に視力を失ってしまったのです。前年の53年から、夫人は視力の減退を自覚していたのですが、失明を避けえぬ現実と理解した彼女は、自分の秘書役としてサロンの客人のもてなしを担当してくれることを期待して、遠縁にあたる(下記アルボン伯爵夫人の不義のお相手は、彼女の弟のシャロン伯爵でしたから、正しくは姪にあたります)レスピナス嬢を屋敷に招いたのです。1754年22歳のレスピナス嬢は、デュ・デファン夫人の申し出を受け入れ、彼女の下へやってきました。アルボン伯爵夫人の私生児で、16歳で孤児となり、親族の家で召使のような扱いを受けていた彼女は、母の存命中、修道院などで受けた教育のおかげで、彼女は、デュ・デファン夫人のサロンに適合し、来客たちとの会話を楽しむことが出来たのです。若い女性の存在、しかもその女性が機智と教養に富み、自分達の会話に加われることを知った客人たちは、当然活気づきます。デュ・デファン夫人も、彼女を招いたことに感謝し、サロンは更なる活況を呈したのです。デュ・デファン夫人のサロンの最盛期が訪れたのです。光を失ったデュ・デファン夫人が、泰然とした態度で客人をもてなし、何事もないかのように振舞う姿に、客人たちは感心し、その精神力の強さを、しきりに称賛したのです。下の肖像画は、失明後、1660年63歳の頃のデュ・デファン夫人の肖像です。 続く
2012.05.24
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クロニクル 大手銀行の不良債権残高過去最高に2002(平成14)5月24日ちょうど10年前の今日のことです。大手銀行の02年3月期の決算が、この日出揃い、各行が個別に発表した不良債権残高の合計が、過去最高の26兆7814億円に達していることが、明かになりました。この年、急に不良債権残高が急増したわけは、金融庁が従来の金融機関の体力に応じた不良債権の処理を、いつまでも認めていると、不良債権の処理は極めて緩慢にしか進まず、日本経済の国際的地位を著しく損なってしまうとの立場に立ち、不良債権の査定、並びに分類を各段に強化したからでした。10年後の今日、米国では、最も経営が安定していると見られていたJPモルガン・チェースのデリバティヴ取引に関する巨額損失が明らかとなり、しかもその損失の取引解消の反対売買が進まず、損失そのものがいまのところ青天井の如く広がり、米銀の第2の金融危機が囁かれだしています。そして欧州では、各国の大手金融機関の破綻を避けようとして、ギリシアのユーロ離脱を先送りし続けた無理が、遂に限界に達しつつあり、欧州の金融危機もいよいよ本番を迎えつつあるように見えます。こうしてみると、こと経済に限ってみると。、日本経済は、どうやらG7の先頭を走っていたのだと考えて良いようですね。
2012.05.24
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ルイ14世の宮廷生活 (88) ランベール夫人、タンサン夫人、そしてジョフラン夫人と、18世紀のサロンの中で、特に傑出したサロンについて、記してきました。当代随一のサロンの足跡を辿るとすれば、このルートに間違いはないのですが、ランベール夫人のサロンと、タンサン夫人やジョフラン夫人のサロンには、大きな違いがありました。それは、後者の2人の夫人のサロンには、女性の客人が僅かしかなく、とりわけ名流夫人の訪問者は事実上無きに等しかったことです。また女性ほどではないのですが、国王の宮廷に近い大貴族の訪問も、ごく限られていたことです。個人に関しては、タンサン夫人とジョフラン夫人のサロンには、ヴォルテールは決して近付こうとしませんでした。こうした点で、ランベール夫人のサロンの雰囲気を受け継いだとみなされるのが、マリー・デュ・デファン夫人のサロンです。デュ・デファン夫人のサロンが、一流サロンの仲間入りをしたとみなされるのは、1747年のことですから、ランベール夫人の死去から14年の歳月が流れています。デュ・デファン夫人のサロンには、リュクサンブール」元帥夫人、ミルボワ元帥夫人、エギュイヨン侯爵夫人ら、錚々たる名流婦人が常連に名を連ね、ショワズール公爵、ローザン公爵、ボーヴォー公爵、ダルジャンソン侯爵らが、頻繁に出入りしていました。ヴォルテールは夫人のよき相談相手でしたし、ダランベールはジョフラン夫人のサロンだけでなく、デュ・デファン夫人のサロンにも頻繁に顔を出し、後にルイ16世治世初期の財政総監に就任するテュルゴー、さらにグリムやコンドルセらも、常連に名を連ねています。デュ・デファン夫人のサロンは、名流のサロンでしたが、単なる貴族のサロンとの違いは、彼女の才気が、活発な議論や話題の転換をリードし、誰も彼もが退屈することなく、時間を過ごせる場を提供していました。保守派の貴族とヴォルテールやダランベールが、並んで食事をすることも稀ではなかったと記せば、およそ彼女のサロンの雰囲気をお察しいただけるのではないでしょうか。長く高等法院の院長を務めた、晩年のエノー院長は、彼女のサロンについて、次のように記しています。「女性で彼女以上に友達の多い人はいない」と。 続く
2012.05.23
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クロニクル 原子力発電所誕生す1958(昭和33)年5月23日54年前になります。この日イギリスのコールダールに、世界最初の商業用原子力発電所が完成を見ました。原子力の平和利用、原子の火として、日本でも大きく報道されたことが、かすかな記憶として残っています。しかし、当時は放射性の冷却水、使用済み核燃料等、原子力発電に絡む負の側面は、まだ意識されていませんでした。そして、東日本大震災。原発の暴走を止められなかった日本は、54年間で最大の原発事故を起こした国として、記憶されることとなりました。
2012.05.22
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ルイ14世の宮廷生活 (87) ポーランド旅行から10年が経過した1776年、それはアメリカの独立戦争が進展し、独立宣言が出された年でした。この年ジョフラン夫人は脳卒中で倒れ、周囲の献身的な看病で1年生き延びましたが、1777年10月、帰らぬ人となりました。彼女のサロンは、昼食と午後の集まりでした。大勢の参加者に出来るだけ平等に発言の機会を保障する必要から、1人1人の発言時間は厳しく制限されていました。他に方法がなかったからでもありますが、自由な討論という点では、出席者に不満が残ることも、また止むを得ないことでした。ところが、サロンは夕食の時間には閉会になります。彼女の優しい口調で、発言を制限されると、抵抗のすべを失って頷いてしまう客人たちは、2階のサロンから辞した後に、階下の部屋で待ち合わせ、気楽に夕食を取ったり、おしゃべりできる場所に腰を吸え、考えているテーマについて、自由で活発な議論を交わしたのです。寒い時は、カフェや居酒屋で、気候の良い時は、チュイルリー公園の並木道に、車座になって座ってと、季節によって様々な場所が選ばれたのですが、この時代に、思想家や哲学者が集まり、各自の思索を深め合った場は、サロンとカフェがその中心だったのです。 続く
2012.05.22
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クロニクル サザエさん連載始まる1946(昭和21)年5月22日今日から66年前のことです。今も日曜夜のテレビアニメでお馴染みの故長谷川町子さんの4コマ漫画、「サザエさん」の連載がスタートしました。 敗戦からなお1年に満たず、食糧不足は深刻の度を増し、それに悪性インフレが猛威を振るうなど、厳しい状況が続いていましたが、もう戦争はしなくて良いのだという解放感は、何物にも代え難く、苦しさの中にも明るさが求められていた世相に、サザエさんはピタリと嵌まったのです。それにしても、作者の長谷川町子さんも、こんな大人気を得るとは、思わなかったでしょうね。
2012.05.22
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ルイ14世の宮廷生活 (86) ジョフラン夫人の夫、ジョフラン氏は、既に鬼籍に入られていましたので、ジョフラン夫人は、サロンの常連たちに、しばらくアロンを閉じてポーランドに出かけてくる旨を伝え、度に出たのです。ジョフラン夫人は爵位を持たないブルジョワに過ぎません。その彼女が、ポーランド王から礼を尽したお招きを受けたのです。当然夫人のポーランドへの旅は、パリ中の話題となりました。あちこちのサロンでは、今日は彼女は何処まで行ったのだろうか。お年だけれどもお元気だろうかと、様々なことが話題となりました。18世紀も60年代です。サロンはパリ中のあちこちで開かれていましたから、ジョフラン夫人のサロンが休止されていても、サロンの寵児たちが行き先に困ることはなかったのです。さて、ジョフラン夫人の一行は、行く先々で大歓迎を受けました。ウィーンではオーストリアの大女帝マリア・テレジア夫妻が彼女を宮廷に招き、親しく食事を共にした上で、宮廷の貴賓室以外に泊まることを、許そうとしないほど歓待したのです。オーストリアもまたポーランド国王の関心をひくことを意図していたのでしょう。この出来事によって、パリの耳目は、益々遠く離れたジョフラン夫人の行動に、注がれたのです。ワルシャワに到着した夫人は、宮殿から数里離れた街道沿いで、首都在住の全貴族揃っての出迎えを受け、国王自らも宮殿の玄関に出迎える歓迎を受けたのです。しかし、ジョフラン夫人は政治に口出しするタイプの女性ではありませんでした。しばらく滞在した彼女は、ポーランド国王の仕事振りに満足したのでしょう。パリへ帰ることを選んだのです。帰国の旅もまた、熱狂をもって伝えられました。名士たちは皆伝手を求めて彼女のサロンへ出入りを求め、彼女の旅行談を聞きたがったのです。こうして再開された彼女のサロンは、さらに輝きを増したのです。 続く
2012.05.21
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クロニクル 翼よあれがパリの灯だ1927(昭和2)年5月21日85年前の今日、午後10時24分、米国人飛行士チャールズ・リンドバーグの操縦するスピリット・オブ・セントルイス号が、パリのル・ブールジュ空港に着陸しました。史上初めて大西洋横断飛行に成功した瞬間でした。ライト兄弟の初飛行で知られる飛行機は、第1次世界大戦中に兵器として使われるようになり、なお航続距離の短かった開戦初期には、敵陣の視察程度に使われる程度でした。操縦も大変難しく、空中で出会う敵軍機とも、共に手を振って挨拶を交わすほど、飛行機野郎同士の連帯感も強かったのですが、大戦の終盤には航続距離も伸びてきていました。戦後、アメリカでは大西洋横断飛行への関心も高まり、最初の成功者に賞金を贈るというスポンサーまで登場していたのですが、これまで成功者は出なかったのです。リンドバーグも飛行機に魅せられ、ウィスコンシン大学を中退して、飛行士資格を取り、郵便飛行士の仕事をしながら、準備を進めていたのです。彼は地元セントルイスの有力者に、広く出資をお願いして、ようやくスピリット・オブ・セントルイス号を完成させたのです。こうしてリンドバークはパリ到着の前日20日の午前7時52分、ニュヨーク郊外のルーズヴェルト飛行場を飛び立ったのでした。それからおよそ38時間30分に及ぶ飛行で、いままさに飛行場いっぱいの10万人に及ぶ見物が出迎える中、彼はついにパリの地に降り立ったのでした。この時リンドバーク25歳。彼はパリまでの所用時間を24時間と想定し、24時間分の燃料を積み込むために、燃料計や無線機まで取り外して貰うなどして、燃料を積込み、睡魔と戦いながら、飛行を続けたのです。大西洋を超え、英仏海峡を通過すると、遥かに大都会パリの夜景が眼に入ります。表題の語は、その時彼が叫んだとされる言葉です。帰国したリンドバークは、パリ以上の大歓迎をうけることになります。ブロードウェイでの凱旋パレードでは、大量の紙吹雪が撒かれました。こうしてリンドバーグはアメリカンドリームの体現者として、繁栄の20年代の英雄に祭り上げられたのでした。
2012.05.21
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クロニクル 翼賛政治連盟結成1942(昭和17)年5月20日70年前のことです。年2月に翼賛政治団体協議会が発足、4月30日の総選挙では、同会の推薦者が、当選者の8割以上を占める大勝利となりました。こうして、軍上層部は、いよいよ軍部独裁の総仕上げにかかりました。この日、翼賛政治団体協議会は、大政翼賛会を改組して翼賛政治連盟に衣替えし、議会では事実上の一党独裁体制を、完結させたのです。
2012.05.20
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ルイ14世の宮廷生活 (85) ジョフラン夫人のサロンには、今までと異なるいくつかの特徴がありました。その一つは、客人に正餐を出したことです。当時のフランスでは、朝昼兼用の正午前後の食事が正餐でした。彼女は、月曜日も水曜日も、正午に客人を招いたのです。様々な議論は昼食後に行なわれ、午後9時過ぎが普通だった夕食の前には、解散するのが常でした。夫人は、夕食にはごく親しい5~6人の人しか引き止めなかったのです。2番目の特徴は、外国人の参加が増えたことでした。先王ルイ14世の時代から、パリとヴェルサイユは全ヨーロッパの中心でしたから、フランスを訪れる各国の貴賓や外交官は多かったのですが、彼らは主に王宮に顔を出し、サロンに顔を出す頻度は、そう高くなかったのです。ところがジョフラン夫人のサロンには、数多くの外国人の名士、高官が顔を出しています。イギリスの思想家、ヒューム、後の英首相ウォルポール、そしてアメリカ独立戦争当時に駐仏大使を務めたフランクリンらは、パリに立ち寄ると必ず夫人に連絡し、サロンに顔を出しています。また、モーツァルトは8歳の時に、夫人のサロンで演奏し、サロンの客人を大いに感動させたことも記録されています。ランベール夫人やタンサン夫人のサロンには顔を見せなかったヴォルテールも、ジョフラン夫人のサロンには良く顔を出し、ディドロやグリムのサロンデビューも、夫人のサロンでした。外国の若者で、夫人の世話になり、夫人を「ママン」と慕った若者も数多かったのです。その1人ポーランド人の若者スタニスラス・オーギュスト・ボニアトウスキは、1753年21歳の時にパリに出て、夫人の手厚い保護を受けたのです。夫人は、この青年の品格と天分を見込んだのでしょう。ポーランドは、王位の世襲制を取らず、国王が亡くなると貴族たちの投票で、次の国王を決める習慣を、長く保持してきた王権よりも領主権の方が強大な国でした。やがて1766年、国王の死去による次代の国王選びが行なわれ、ジョフラン夫人の世話になったボニアトウスキ氏は、ロシア皇帝エカチェリーナ2世の支援によって、ポーランド王位に就いたのです。ボニアトウスキ国王は、ただちにジョフラン夫人に手紙を書きました。「ママン、あなたの息子は国王になりました。ママン、どうぞ息子の国を見にいらしてください」と、彼女をワルシャワに招いたのです。この手紙は現存しています。こうして、1699年生まれ、67歳のジョフラン夫人は、2300kmの道のりをワルシャワに出かけました。 続く
2012.05.19
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クロニクル 桶狭間の戦い1560(永録3)年5月19日 452年前のこの日、戦国時代史でも有名な史実、戦国の雄織田信長の名を、一躍有名にした桶狭間の戦いが行われました。時間は午後2時からの長くて1時間程度だったようです。戦国の雄、駿河の今川義元は、この年上洛をこころざし、5月12日に駿府(現静岡市)を出発、織田方の出城を攻略しながら、この日午後2時頃桶狭間の北方約2kmの田楽狭間で小休止をとりました。太り過ぎの義元は、長時間馬で行くのが苦手だったようで、通常の武将に比べると、小休止する機会はずっと多かったらしいのです。この田楽狭間での小休止が義元の命取りとなります。信長は、彼我の戦力を冷静に分析して篭城戦では満に一つも勝利の道筋を描けないことを悟り、野戦に一縷の可能性ありと、城を後にしたのです。野戦に出た信長は、斥候から田楽狭間での休息の報を聞くと、義元の本営を急襲する旨を決定、ただちに兵を動かします。折りからの雷雨に助けられた織田方は、今川方に知られることなく、本営を急襲することに成功、義元を討ち取ることに成功します。以後、今川氏の勢力は後退するのですが、対する信長は以後の10年を美濃攻めに終始し、美濃攻略にようやく成功した1570年以降、急速に勢力を伸ばして行くのです。
2012.05.19
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ルイ14世の宮廷生活 (84)写真の追加下の絵画が、jジョフラン夫人のサロンです。月曜日のサロンに招かれていた、ルアン出身の画家、ガブリエル・ルモニエが1760年頃に発表した作品です。18世紀のサロンを叙述する際に、良く引用されますので、ご覧になられたことのある方も、いらっしゃると思います。出席者のほとんどが男性で、これだけの人数が集うとすると、発言のタイミングを掴むのに、誰もが必死になるでしょうね。それゆえ、サロンの女王は、当日作品を発表する人物は別にして、また夫人の介添え役よろしく、進行係を務めるサロンの数人の重鎮を除く、大勢の出席者の発言の公平を図るために、数分毎に話を遮り、別人に話を振る才覚に長けている必要のあることが、ここから理解できます。そして、背景になっている壁に架けられた絵画の数々。画家達が集う月曜日の催しの際は、常に壁イッパイに絵画が架けられ、鑑賞と批評に時間がかけられていたのです。それにしても、絵画の点数も半端ではありません。 続く
2012.05.18
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クロニクル 軍部大臣現役武官制復活1936(昭和11)年5月18日76年前の話です。この日陸・海軍省官制の改正が公布され、陸軍・海軍大臣及び同次官の現役武官制が復活しました。復活の直接的原因は2・26事件にありました。事件後陸軍の主導権を握った統制派は、粛清されて現役を退き、予備役に編入された皇道派勢力が、予備役でも務めることが出きる、大臣や次官として復活する道を封じる狙いで、軍部大臣の現役武官制の復活を求めたのです。 陸・海軍大臣は、大正2(1913)年に憲政擁護運動の成果として、官制の改正を経た上で、予備役の将軍でも就任できることになっていたのです。軍部はこの大正デモクラシー運動の成果を否定し、その廃止を要求してきたのです。皇道派の息の根を止めるためという大義名分をかざしての要求に、内閣も議会もそしてマスコミも、なるほどそれならばと簡単に軍の要求を認めてしまったのです。その結果、陸・海軍大臣は現役の大将・中将から、同次官は現役の中・少将からと定められました。ここに軍部は自らの意に添わない内閣には、大臣の派遣を拒否することで、その存亡を左右することが出来ることになったのです。大臣の派遣拒否というこの作戦は、翌1932年の宇垣一成内閣の流産、及び1940(昭和15)年の米内光政内閣の総辞職という形で効力を発揮し、東条英樹による軍部独裁政権の誕生に繋がったのです。
2012.05.18
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ルイ14世の宮廷生活 (84)こうしてジョフラン夫人は、タンサン夫人のサロンの後継者となりました。フォントネルやモンテスキューも、初期のジョフラン夫人のサロンの常連として、彼女のサロンの評判を高め、その隆盛に一役買ってくれたのですが、モンテスキューは1755年に亡くなり、高齢のフォントネルも、1757年に100歳の誕生日を前にして亡くなっています。こうして、ジョフラン夫人のサロンの最盛期には、文人中心の水曜日のサロンでは、マリヴォー、ダランベール、エルヴェシウスなどの錚々たるメンバーが集い、画家が招かれた月曜日のサロンでは、プーシェ、ヴァン・ローなどの売れっ子画家が、やはり常連として顔を出していました。ジョフラン夫人は、生粋のブルジョワでした。貴族身分を有する常連も多かったのですが、議論が行過ぎるのを嫌って、穏やかさを好み、政治に深入りすることを慎重に避けていたと言われます。しかし、その溢れる財力で、これと思う支援は何もためらわず、温かくかつ十分な支援を惜しみませんでした。ディドロとダランベールの共編になる『百家全書』の刊行が、政府によって一時停止され、やがて時の出版局長マルゼルブの尽力で、刊行停止処分が解けた時、出版のために必要な費用など10万エキュ(約200万リーヴル)をポンと提供したことは、後々まで語り草になりました。 続く
2012.05.17
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クロニクル サリドマイド系医薬品出荷停止に1962(昭和37)年5月17日ちょうど50年前の出来事です、この日、サリドマイド系催眠剤「イソミン」の発売元、大日本製薬は、自主的に出荷を停止し、発売を中止しました。これはあくまで製薬会社の自主判断として行なわれ、厚生省は自らイニシアチブを取る事を避け続けました。これは奇怪なことでした。「イソミン」は、副作用が少ない催眠剤という触れ込みで、売り出されたサリドマイド系医薬品でした。西ドイツで売り出された「コンテルガン」と同じ種類の薬でした。この「コンテルガン」について、前年1961年の11月に、ハンブルグ大学のレンツ博士が、妊娠初期に服用すると、副作用から奇形児を出産する可能性が高いと警告を発したのです。この発表を受けて、西ドイツなどでは、ただちに同剤の販売を中止し、製品全てを回収する措置が取られました。ところが日本では製薬会社が奇形との因果関係を否定すると、厚生省は具体的な措置を取らず、この日まで、いたずらに販売が続けられていたのです。それだけではありません。厚生行政は、あからさまに企業の都合ばかりを慮り,国民の健康には注意を払っていなかったのです。厚生省はレンツ警告を受けても、何ら有効な対策を取ろうとしなかったばかりか、この年2月には、他の製薬会社のサリドマイド系新薬にまで、製造許可を与えていたのです。後、薬害エイズや薬害肝炎で行なわれていたのと、全く同じ厚生行政の悪質な作為がそこにありました。未必の故意どころではない、確信犯的な行動でした。この遅れで、厚生省発表によれば、309人のサリドマイド被害児が誕生したとされていますが、サリドマイドの副作用によると思われる死産児(3000名とも、4000名とも言われています)数を加えると、国民の受けた被害は、10倍に拡大するのです。
2012.05.17
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ルイ14世の宮廷生活 (83) ランベール夫人のサロンを受け継いだタンサン夫人のサロンは、1749年12月、彼女の急死によって閉じられます。夫人の死後、彼女の隣人ジョフラン夫人が、彼女のサロンを受け継ぎました。ジョフラン夫人は、裕福なブルジョワで、タンサン夫人の誘いで、隣家のサロンに出入りするようになったのは、1699年生まれの彼女が、30代半ばの頃でした。上の肖像画がその頃の彼女を写したものですが、実際の彼女にそっくりだといわれていますので、類まれな美貌の持ち主であったようです。タンサン夫人は、名流夫人の出入りが欠けている自らのサロンに、若さと美貌という取柄を持つジョフラン夫人が、華を添えてくれることを期待したのです。年齢も経験も異なる彼女が、自らのライバルになることはないと、見越していたのです。ジョフラン夫人は、裕福なブルジョワ家庭に生まれましたが、幼くして事故で両親を亡くし、祖母に育てられます。祖母は、孫娘に読書の楽しみを教え、人との接し方、言葉遣いなどを、厳しく躾けました。彼女は14歳で、サン・ゴバンのガラス製造会社を経営して巨万の富を築いたジョフラン氏と結婚、この時、祖母が彼女に持たせた持参金は、18万5千リーヴルに及んだといわれます。結婚と同時にジョフラン氏は、サントノレ街に屋敷を構えたのですが、この時の隣家が、タンサン夫人の屋敷だったのです。1730年以降、タンサン夫人が屋敷でサロンを開くようになり、ジョフラン夫人の美貌と知的センスに注目した彼女が、自邸のサロンに彼女を招くようになると、ジョフラン夫人の才知も、当時の超一流の知識人たちの口蓋に接して、大きく羽ばたき始めたのです。やがて彼女は、いつの日かタンサン夫人のサロンの客人を、そっくり自邸に招けないかと夢想するようになったのです。この彼女の願いを慧眼なタンサン夫人も見抜いていましたが、祖母の訓育をしっかり受けたジョフラン夫人は、決して無理をするタイプではなかったため、2人の間に大きな波が生じることはありませんでした。ジョフラン夫人は、タンサン夫人のサロンの常連1人1人と親交を結び、いずれサロンを開いた時には、是非とも常連になってほしいと頼んでいたのです。穏やかなジョフラン夫人の、無理のない願いはただちに聞き入れられ、タンサン夫人に何かあれば、ジョフラン夫人の下へ出かけるという、暗黙の合意が出来上がっていたのです。こうして1749年12月、タンサン夫人の訃報を聞いたサロンの常連にして長老のフォントネルは、「ではこれからはジョフラン夫人のところで、夕食をいただくことにしよう」と、何の躊躇もなく、呟いたのでした。 続く
2012.05.16
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クロニクル テレビの受信契約世帯100万軒突破1958(昭和33)年5月16日今から54年前、私が高校1年生の時です。この日、NHKは、テレビの受信契約が100万軒に達したことを発表しました。丁度、日本経済が上潮にかかり始めた時期であり、大量生産による、テレビ受像機の値下がりが、値頃感を呼んだのか、前年暮のボーナス時期から、好調な売上げが続いたことから、時間の問題とされていたところへ、この日の発表となりました。映画「三丁目の夕陽」の第1作に出てきますが、勿論カラーテレビはまだ発売されておらず、白黒テレビに後生大事とばかりに、ビロードの布がかけられて、宝物扱いされている時期でした。そして、この年秋11月27日には、当時の皇太子(現天皇)と正田美智子さんとの婚約が発表され、やがてご成婚は翌年4月10日と発表され、当日馬車によるパレードが行れ、テレビが実況中継すると、発表されると、テレビ受像機の売上げはさらに伸びました。こうして、翌年4月10日のパレードの実況中継は、およそ、1500万人が視聴したと推計される、大ヒット番組となりました。
2012.05.16
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ルイ14世の宮廷生活 (82) モンテスキューは、刷り上った『法の精神』の最初の仮綴本を、タンサン夫人に献呈しています。それは、この書物の出版に関する夫人の献身に対する、モンテスキューの心遣いでした。それは、夫人にとっても誇らしいことでした。夫人は、すぐに礼状をしたためます。「これは、まだパリ中でただ1冊だけの本です。誰もが、この本を読みたがっています。サロンにいらっしゃる、読みたいという方みんなに貸していたら、私の手元に戻る頃には、千切れ千切れになっているでしょう。」と。パリでの評判振りが分かりますね。アカデミー・フランセーズで確固たる地位を築いていたフォントネルも、すぐに読みたい1人でした、夫人は次のようにも書いています。「この書物を読む楽しさといったら。今までのどんな書物にも比べられません。…でも、読みたい気持ちを犠牲にして、フォントネルさんに貸して差し上げました。もし貸して差し上げなかったら、あの方私の眼を食べてしまうとおっしゃるのですもの。」モンテスキューも、夫人に手紙を書き、かつまたサロンの女性たちの意見を求めたりしていました。ソルボンヌの神学部から、同書の叙述に関する弁明を求められたモンテスキューは、弁明書の下書きをタンサン夫人やギュイヨン夫人に送って、批評を求めています。「あなたのところに、私の弁明や意見をお届けしますので、どうぞ直してください、この表現は好ましくないとか、こういう点を書き加えては…とおっしゃってください」と、夫人達の意見を求めているのです。『法の精神』は、歴史を扱った『ローマ帝国盛衰原因論』や、社会の現状を分析した『ペルシャ人の手紙』と違い、理論編として描かれた書物ですから、3作のなかでは最も難解な書物です。この書物を読み込み、理解し、批評する読解力をサロンの女性たちが持っていたことが、ここから読み取れます。本日の最後に、眼を悪くしたデュ・シャトレ夫人の夫君が、モンテスキューに送った手紙を紹介します。「妻は、あなたの書物を繰り返し読みたいのに、眼が悪くて絶望しています。私が出来るだけ手助けしているので、御本が手に入ってからというもの、われわれはあなたが書物のなかで提供してくれた思想のことしか、考えられずにいるのです。」 続く
2012.05.15
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クロニクル セブン・イレブン1号店誕生1974(昭和49)年5月15日コンビニといえば、現在では生活の一部。若者だけでなく、高齢者の利用も増え、昼時に弁当を選んでいる年配の方をよく見かけます。自分史の資料と思しきものを、あれこれコピーしている姿も定番の一つでしょうか。我家の周辺でも徒歩圏内に4軒ものコンビニを数えるほどの隆盛ぶりです。ところで、このコンビニ1号店である、セブン・イレブン豊洲店がオープンしたのが、38年前の今日だったのです。 ところで、アメリカ直輸入のコンビニですが、米社と提携したイトーヨーカ堂が、僅か12名のスタッフによる子会社を設立、直営店とフランチャイズ店の併用で、店舗網を充実させようと計画したのです。子会社の設立から半年、直営店のオープンに先だって豊洲にフランチャイズ店がオープンしたのです。コンビニの最大の売りは利便性、朝7時から夜11時の16時間営業は、当初目指した終夜営業が近隣の迷惑と小売り店等の反発を考慮して縮められた結果でしたが、それでも、年中無休と長時間営業で話題を集め、共働き夫婦や単身者、夜更かしの若者らの生活スタイルにフィットし、「開いててよかった」のキャッチフレーズと共に、利用者を拡大、現代社会に地歩を固めていいました。イトーヨーカ堂系のセブンイレブンに続き、旧ダイエー系のローソン、西友系のファミリーマートなど、現在では「人も歩けば、コンビニに出会う」ともいうべき状況ですね。皆さんのお宅の周辺ではいかがですか。
2012.05.15
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ルイ14世の宮廷生活 (81)1748年出版の『法の精神』の場合を見ましょう。皆様御承知の通り、この書は政治権力は、立法権、行政権、司法権の三つの分野に分割できること、国王の専制を防ぐには、王権を行政権に限定して、立法権と司法権を王権から独立させることだと説き、三権分立を提唱した書として、知られています。それゆえ、当然この書物の出版には、王権による検閲が重くのしかかってきます。ルイ15世の王権が、なお睨みを利かせていた当時のフランスにおいて、この書がフランス』国内で出版できる可能性は、限りなく小さかったのです。モンテスキュー自身、フランス国内での検閲を避けるために、国外での出版を考え、当初はオランダで出版する話を進めていたのです。そこへ起きたのが、オーストリア継承戦争(1740~48年)のオランダへの飛び火でした。そのため、『法の精神』の出版先は急遽、スイスのジュネーヴに変更されたのです。このジュネーヴでの出版の労を取ってくれたのが、ジュネーヴ共和国政府を代表して、フランスに駐在していた駐仏大使のミューサール氏でした。モンテスキューは、タンサン夫人のサロンでミューサール大使と会い、夫人の紹介で大使の知己を得たのです。夫人を介してモンテスキューの意向を知った大使は、そこは都市共和国の大使です。原稿を見せられた大使は、『法の精神』の主張を絶賛、ジュネーヴでの出版を確約したのです。原稿は、大使自らがジュネーヴに運びました。1747年のことでした。貴重な原稿を預けられた感激を大使自らモンテスキューに書き送っています。ジュネーヴでは原稿の到着と同時に版組みが開始され、すぐに出版に向けた作業が開始されたのです。こうして、ジュネーヴで出版される形で、『法の精神』は世に出たのです。世に出ると同時に、同書は大変な評判を呼び、サロンの知識人たちは、先を争って同書を読みふけったのです。 続く
2012.05.14
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クロニクル 蛮社の獄始まる1839(天保10)年5月14日この日、蛮社の中心人物、三河田原藩家老の渡辺崋山が、江戸北町奉行所に召還されました。3日後の17日には、小関三英が逮捕を予期して自刃し、18日には、一時身を隠していた高野長英が奉行所に自ら出頭しました。これが、[蛮社の獄]の始まりです。事の起こりは、2年前に米国船モリソン号が、遭難民の送還と通商の権を求めて、浦賀に強引に入港したことにありました。この事件に危機感を持った老中水野忠邦は、江戸湾防備のため、江川太郎左衛門と鳥居耀蔵の2人に江戸湾巡視を命じました。江川は蘭学に通じた開明派であり、一方鳥居は蘭学嫌いの保守派でした。鳥居は、江川が渡辺崋山らの意見も入れて、巡視の復命書を作成したことを聞きつけ、噂や伝聞に基づく程度の根拠の怪しい話を基に、崋山らを老中に告発、江川の失脚を図ろうとしたのです。水野は江川を信頼していたのですが、一応蛮社に属する崋山や長英の家宅捜索を命じたのですが、崋山の著書に幕政を誹謗する箇所が見つかったことから、崋山に田原の自宅での蟄居を命じ、長英はより激しい幕政批判を展開していたとして、永牢となったのでした。当時はなお、保守派の勢いが勝っていたのですが、その後の20年で様相は様変わりすることになります。 現在の日本では、民主党の保守回帰で、すっかり保守派が跋扈する後ろ向きのご時勢ですがら、さしづめ現代版[蛮社の獄]時代なのかもしれませんね。
2012.05.14
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ルイ14世の宮廷生活 (80)5月6日の(79)に、タンサン夫人について、「そんな夫人の最大の功績は、当時売り出し中の思想家、モンテスキューの著作の出版に、大きく貢献したことだと、私は考えています。そのいきさつは明日記します。」と記したきり、1週間も経ってしまいました。大変申し訳ありません。もうしばらく、続けさせて戴きます。タンサン夫人がモンテスキューに宛てた手紙、モンテスキューが彼女に宛てた手紙が、何通か現存しています。このうち、夫人がモンテスキューに宛てた手紙の(現存する)最初のものは、彼の著作『ローマ人盛衰原因論』の出版に関する、1734年5月のものです。この書物は、モンテスキューの歴史論を示す不朽の名著です。同書は、出版に関する規制が厳しいフランスを避け、この年にオランダで出版されたのですが、タンサン夫人は、同書のパリでの出版に拘り、モンテスキューに対し、政府の出版物の発行許可の責任者に、会いに行くように勧めていたのです。ところが、モンテスキューはそうした役人風を吹かす男が苦手です。一向に勧めに従おうとしないモンテスキューに対して、夫人は叱責の手紙を書いたのです。「あなたは、(発行許可の責任者の)ルイエさんにお会いになったのか、彼が何と言ったのか、私に報告してくださらなくてはいけませんわ。だって私は、ご本人のあなた以上に、関心をもっているのですもの。」…「彼に何か手をうってもらうことがあるのなら、私はそのための確実な方法も、もっているのですよ。」ここには、当時のナンバーワンサロンの女王が、いかなる力を持っていたかが、あますところなく示されています。モンテスキューは、夫人の叱責に背中を押されて、絶対王政の出版局を訪ね、不快な思いもするのですが、翌年同書は、パリでも出版されています。以後しばらくの間ですが、夫人は、モンテスキューという大学者を、「私のローマ人さん」と、親しそうに呼んでいたと、何人ものサロンの客人が証言しています。 続く
2012.05.13
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クロニクル トヨタ自動車の経常利益1兆円を突破2002(平成14)年5月13日ちょうど10年前のことです。この日、トヨタ自動車は、2002年3月期決算を発表しました。事前に予想されていたことではありましたが、発表された2002年3月期の経常利益は、日本企業として始めて、1兆円の大台を超えました。日本の自動車産業は、典型的な後発産業でした。ですから、1960年代の中盤から後半にかけて、資本自由化が課題となった際には、自動車産業が最も外資に飲み込まれる危険の高い産業として意識されていました。潮目の変化は、オイルショックによってガソリン価格が高騰し、米国の中・低所得者を対象に燃費効率の高い日本の小型車が爆発的に売れるようになって、訪れました。90年代には、攻守ところを代え、日米自動車摩擦は、日本の自動車メーカーの自主規制という形で、ようやく解決をみました。以来、現地生産の拡大という形で各メーカーは対応し、さらに利益を伸ばしてきました。そして遂に経常利益が1兆円を突破したのです。2003年4月の大底へ向けて、日本売りともいうべき、株式市場の暴落が続いている最中だっただけに、特に目につく、成果だったと言えましょう。それから僅か5年後の、2007年の経常利益は2兆円を突破しました。米国でトヨタ叩きのあった一昨年、東日本大震災とタイの大洪水の影響を受けた昨年は、さすがのトヨタも利益を減らしましたが、今年はまた反転攻勢に出るようです。凄いですね。
2012.05.13
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クロニクル 5人の長州藩士イギリスへ密出国1863(文久3)年5月12日文久3年というのは、森鴎外の誕生の1年後のことです。この日の2日前、長州藩は下関で米国船を砲撃するなど、一方で攘夷を実行ししていたのですが、もう一方で海軍の建設や洋式工業の研究のため、密かに英国へ留学生を送る計画も進めていたのです。そしてこの日、伊藤俊輔(博文)・井上聞多(馨)等5人が、横浜港で ジャーディン・マジソン商会の持ち船に乗り込み、英国へ向け密出国しました。渡航費用は1人1000両、合計5000両が同商会に支払われました。ロンドン着は9月23日でしたから、4ヶ月と11日の長旅でした。彼等はロンドンで英語を学びつつ見聞を広め、攘夷の愚かさを覚りました。しかし1864年に入って、下関の砲撃事件に鑑み、列強が事件の報復のために、4国連合艦隊による砲撃を計画していることを知り、伊藤・井上の2人は、急遽帰国を決意、6月10日に横浜に帰着しました。この5人組、伊藤博文は千円札にもなりましたし、どなたも御存知の人物です。井上馨は初代外務大臣として欧化政策を推進、条約改正に尽力しましたが、志なかばに倒れました。イギリスに残った3人はどうだったでしょうか。その1人 遠藤勤助は、造幣事業に一生を捧げ、お雇い外国人から独立した、日本人自身の手による貨幣鋳造に成功した、造幣事業の父と讃えられました。2人目の山尾庸三は、グラスゴーで造船技術を学び、明治4年に工学寮(後の東京大学工学部の前身です)を創立、日本の造船業の生みの親となりました。3人目の野村弥吉(後、井上勝)は、新橋~横浜間の日本最初の鉄道敷設を指揮し、その後も全国の鉄道建設事業に辣腕を振るった、鉄道の父です。晩年小岩井農場を創設したことでも知られます。イギリスに残った3人も、近代日本の礎を築く上で、大きな貢献をしています。こうしてみると、長州藩がジャーディン・マジソン商会に支払った5千両、決して高かったとはいえないようですね。幕末日本の裏話の一つです。
2012.05.12
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クロニクル 米軍アッツ島上陸1943(昭和18)年5月12日69年前のことです。この日、米軍は太平洋のアッツ島に上陸しました。これに先立つ4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機がブーゲンビル島上空で、米軍機に撃墜され、同長官は戦死しておりました。司令官を失うぐらいですから、日本海軍は太平洋海域での制海権を失っています。そのため日本側には、上陸を阻止する手だてはなく、かつまた増援軍を送る選択肢もなく、アッツ島に残された2500人の守備隊には、降伏か玉砕しか選択肢はありませんでした。降伏を潔しとしない当時の日本軍の空気の中では、当然玉砕の道しかありません。こうして、同月29日、2500人が全滅の憂き目を見たのです。参謀本部の無能と損傷の少ない内に戦争を終結させる勇気の欠如が、この後を含め、いたづらに被害を拡大し続けたと言えましょう。
2012.05.12
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クロニクル コンスタンティノポリス ローマ帝国の首都に330年5月11日西暦330年ですから、日本でいうとようやく古墳時代でしょうか。この日、コンスタンティヌス大帝の念願だった、新首都コンスタンティノポリスへの移転が行われ、ローマ帝国の首都はボスフォラス海峡を見下ろす要地に移転したのです。以後オスマン帝国によって、ビザンツ帝国が滅ばされる1453年までの、1120年間ローマ帝国そして東ローマ(ビザンツ)帝国の首都はこの地コンスタンティノープルにありました。現在はトルコ共和国最大の都市で、イスタンブールと名を改めています。
2012.05.11
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クロニクル 大津事件1891(明治24)年5月11日ロシアの皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)は、帝王学の一環として世界漫遊中だったのですが、1891年3月17日、父の皇帝アレクサンドル3世から、「シベリア鉄道のシベリア側起工式に出席せよ」との手紙を受け取り、日本訪問後にシベリアに向かう計画を立て、4月28日に日本に降り立ちました。121年前のことです。長崎に上陸したニコライは、京都を訪れ、この日は琵琶湖の遊覧を楽しみ、従弟のギリシャ皇子と共に帰路につきました。馬車が大津にさしかかったところで、警備の巡査津田三蔵が、突如抜刀して皇太子に切りつけたのです。警備中の巡査の行動だけに、事件は防ぎ得なかったのです。驚いた皇太子は、ただちに馬車を降りて逃げ、追おうとした津田巡査は、逃げたニコライよりも肝っ玉の太かったギリシャ皇子に、ステッキで打ち据えられ、取り押さえられました。幸い皇太子ニコライの怪我は軽傷で済みましたが、大国ロシアの皇太子に怪我をさせたとあっては大変です。翌日には明治天皇が自ら、皇太子を入院先の京都の病院に見舞うなど、ロシアとの関係悪化を食い止めようと必死の努力を重ねました。津田巡査は、皇太子の来日を知り、大国ロシアが、日本を侵略する布石として、調べに来たのだと思い込み、この日の凶行に及んだのでした。この時の皇太子ニコライは、ロシア帝国最後の皇帝として、ロシア革命後の内戦期に、ボリシェヴィキによって、家族と共に処刑されました。
2012.05.11
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クロニクル フランス大統領に社会党のミッテラン氏1981(昭和56)年5月10日社会党のオランド氏が、つい先日社会党候補として、2人目の大統領に決まりましたので、このニュースも記すことにしました。31年前のことです。この日行なわれたフランスの大統領選で、フランス社会党のミッテラン氏が当選。第二次世界大戦後のフランス政治において、はじめて左翼出身の大統領が誕生しました。ミッテラン大統領は、アメリカのレーガン大統領や、イギリスのサッチャー首相など、新保守主義を掲げる指導者に対して、断乎としてフランスノ立場を主張して譲らず、国民の支持を得て、7年後の1988年の大統領選にも勝利し、2期14年に亘って政権を担当、1995年に任期満了で政界を引退するまで、国際政治の世界で重きをなしました。引退の翌年、1996年に80才で亡くなりました。
2012.05.10
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クロニクル シャウプ税制使節団来日1949(昭和24)年5月10日63年前になります。この日、日本の税制を新時代に相応しい内容に改革し、破綻状態にある日本財政を再建するプランを提言してもらおうと、マッカーサー司令部が三顧の礼で招いた、コロンビア大学のシャウプ教授を団長とする、シャウプ税制使節団が来日しました。シャウプ使節団は9月まで日本に滞在して、精力的な国内視察を続け、有名なシャウプ税制勧告をGHQに提出、現在の日本税制の基礎を築きました。所得税の源泉徴収制度や地方交付税交付金の仕組みを考案したのも、シャウプ使節団でした。このシャウプ税制を改悪し、所得税の累進性を緩和して、高額所得者への課税を緩め、逆進性の強い消費税を導入したことが、現在の歳入不足に繋がったことが、忘れられているようなのが、気になるところですね。
2012.05.10
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フランスとギリシアの選挙から (3)ギリシアの選挙結果も驚きでした。実はギリシアでは、連立を組んでいた中道左派の全ギリシア社会主義運動(PASOK)と中道右派の新民主主義党(ND)が、交互に政権を担当し、両党の獲得議席数は、合計で総議席の3分の2を越えるのが常だったのです。ですから、今回の下院選で、第1党のPASOKの敗北は予想されましたが、連立与党の獲得議席が過半数を割るとは、予想されていなかったのです。これは日本で言うと、衆院選で民主・自民両党の総獲得議席が過半数割れを起こしたようなものなのです。第2党になった急進左派連合(SYRIZA)は、共産党よりも左の極左の勢力ですし、共産党も勢力を伸ばしました。また極右の勢力も議会に議席を獲得しています。従って、今まで連立を組んできたPASOKとNDは、どこか別の政党に連立に加わってもらわないと、多数を確保できません。しかし、連立政府の緊縮政策の評判は、地に落ちています。国民がノーと言ったからこそ、世界も驚く選挙結果が出たのです。迂闊に連立に加わることは、次の選挙での敗北に繋がってしまいます。ですから、第3極の政党でこのままの形で連立に加わる政党は、出てこない確率が高いのです。かといって、極左と極右が連立を組めるかといえば、これも不可能でしょう。ギリシアでは、第1党から第3党まで、順繰りに大統領が組閣を要請します。各党に与えられる期間は3日です。この間に内閣が組織できない時は、再選挙となる決まりです。旧連立与党が、何とか組閣に持ち込めるとすれば、それはEUやECBと約束した、緊縮政策や財政条約の見直しを盛り込んだ政策協定を、結ぶことが最低限必要です。これは出来るのでしょうか。出来ないとすれば、再選挙です。再選挙でNDとPASOKが過半数を確保できる可能性はありますかね。 さらに議席を減らす可能性も十分あるのですから、両党は再選挙には持ち込みたくないと見ているのです。となると財政規律の見直しに、手をつけるのでしょうか。こちらも注目です。
2012.05.09
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クロニクル 日本登山隊マナスル山頂に立つ1956(昭和31)年5月9日56年前のこの日、日本山岳会のマナスル登山隊(槇 有恒隊長)が、3度目の挑戦で、世界7位の高峰であるヒマラヤのマナスル(8156メートル)登頂に成功しました。過去2回はいずれも天候に恵まれず断念していました。日本の登山隊が、世界の8000メートル級の高峰の登頂に成功したのは、これが始めてでした。当時の通信事情は、現在とは大きく違っていましたから、このビッグニュースも、その日の内に日本に届けられることは無理でした。それゆえ、当時中学生だった私が、このニュースを最初に知ったのは、翌朝のラジオでした。学校でも専ら、このニュースで持ち切りだったことを、懐かしく思い出します。
2012.05.09
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フランスとギリシアの選挙から (2)オランド候補の政策は、フランス左翼の伝統的な政策である高福祉・高負担です。元々フランスは、欧州の中でも突出して政府支出が多く、サルコジ政権の下でも、GDPのかなりの部分が、政府支出によるものでした。オランド新大統領は、この政府支出をさらに大きくするという公約を掲げてきました。『景気対策として、教員を6万人増員する」というのです。相当な人件費増になりますが、その分は、高額所得者に対する増税で賄うと、いかにも社会党候補らしい主張を、展開して当選を果たしたのです。彼のマニフェストには、苦心の末に成立した「ユーロ協定」の見直しまで入っています。日本のマスコミは、日本における民主党政権のいい加減さを手本に、オランド大統領も、政権を担当すれば、現実の厳しさを知って、方針を転換するだろうとしていますが、これはどうでしょうか。「マニフェストでは約束したけれど、実行までは約束しなかった」などという、ふざけた談話をぬけぬけと発表することなど、フランスに限らず、欧州ではありえません。イギリスのキャメロン連立内閣は、大変苦しい状況に追い込まれていますが、歯を食いしばってマニフェストを死守しています。オランドもまた、マニフェストを守る姿勢は、絶対に変えないでしょう。替えることが自分と社会党にとっての自殺行為に等しいことを知っているからです。これは日本の選挙民である,我々の責任でもあるのですが、欧州の国民は、各党派や個人のマニフェストを熟読して、マニフェストに書かれた政策を支持して、大統領や議員を選ぶのです。もし、マニフェストの政策を実行せず、言い訳でもしようものなら、怒った国民に大変な目に合わされても、文句は言えないのです。議会制(代議制)民主主義とは、まさにこういうものなのでは、ないでしょうか。オランド新大統領は、、自らのマニフェストに掲げた政策を、実効に移す可能性は、極めて高いように、わたしは考えています。「脱ユーロ協定」の動きは、先ず間違いなく加速するでしょう。オランド新大統領は、確かに最初のマニフェストに書いてあった「原発の即時廃止」の姿勢を、「時間をかけての漸進的な廃止」改めていますが、これは、あくまで雇用対策に絡んでの決定で、自らそのような事情をはっきりと述べて、国民に説明した上での政策転換でした。そしてギリシアです。 続く
2012.05.08
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クロニクル パソコン時代の幕開く1979(昭和54)年5月8日33年前のこの日、日本電気(NEC)は、最初のパーソナルコンピューター(略称パソコン)PC-8801を発表しました。この最初のパソコンは大きな反響を呼び、発売と同時に最初のパソコンブームの口火を切ることになりました。しかし、何といっても、当時はオフィスコンピュター(オフコン)の全盛期です。パソコンブームが巻き起こっても、当時の巨人IBMは、将来の強敵にして、遂には自社を経営危機にまで追い込むことになるパソコンを無視して、なお泰然と構えていたのです。
2012.05.08
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フランスとギリシアの選挙から (1)フランスとギリシアの選挙結果が明らかになりました。フランスでは予想通りサルコジ大統領が敗北し、社会党のオランド候補が勝利しました。オランド候補は、IMF専務理事で、出馬を嘱望されていたストロスカーン氏が、米国で婦女暴行容疑で逮捕されるというスキャンダル(後に濡れ衣であった事が確定)に巻き込まれて、出馬辞退に追い込まれたために、玉突き的に社会党候補になった人物で、閣僚経験すらまったくない、政治的には未知数の人物です。そんな人物を当選させてしまうほど、今のフランスには広い範囲で国民の不満のマグマが溜まっているのです。その不満の爆発が、現職大統領のサルコジ候補を追い落としたのが、今回の結果でした。国民はサルコジノンを実現したのです。ストロスカーンのスキャンダルは、彼さえ追い落とせばサルコジが勝つだろうと考えた勢力によるサルコジに対する強力な支援策だったのではないかと、私は疑っているのですが、そうした梃入れを受けてもサルコジは勝てなかったのです。フランス大統領選の第1回投票の結果は、4月24日に紹介しました。その時、極右の票も左翼である社会党のオランド候補に、流れるかもしれないと書きました。オランド候補の掲げた反ユーロ、反グローバリゼーションのスローガンに、1部の極右が共鳴したのです。これは、何が何でもユーロを維持し、ユーロを守るための緊縮財政を維持するという、サルコジ政権に対するアンチテーゼです。これは、強硬に緊縮財政を主張するドイツのメルケル政権にとっては大きな痛手です。政権に就けば、強硬な主張の軌道修正を図るだろうという声も、特に日本では聞こえますが果たしてどうでしょうか。 続く
2012.05.07
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クロニクル 英国客船ルシタニア号撃沈1915(大正4)年5月7日97年前のことです。第1次世界大戦中のこの時期、海軍力に劣るドイツは、イギリスの海上封鎖によって、海外からの物資輸入の道を閉ざされ、物資の不足に悩まされていました。そこで、ドイツはイギリスによる海上封鎖に対抗する方策として、英国周辺を交戦海域と指定し、その海域に入った船舶をUボートで攻撃すると警告しました。この年2月のことでした。それから約3ヶ月。この日、ニューヨークからリヴァプール港に向かう、英国客船ルシタニア号が、無警告のまま魚雷によって撃沈されたのです。乗客の6割以上の1198人が死亡しました。この死者のうち、128人が米国人でした。ここに米国の世論は、一挙にドイツ非難の大合唱となり、大統領ウィルソンは、強い調子の抗議文を送りつけました。米国で、対独開戦を求める声が、強まり始めたのは、この事件ががきっかけです。
2012.05.07
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