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クロニクル 両国に国技館完成1909(明治42)年5月31日104年前のことです。この日、東京両国の回向院境内に建設中だった、東京大角力(おおずもう)協会の相撲常設館(国技館)が落成しました。1907年の7月に、工事が始められていますから、およそ23ヶ月を要した大工事でした。収容人員は1万3千人でした。回向院の境内で、相撲が行なわれるようになったのは、江戸時代の天明年間(およそ1780年代です)のことで、野天の小屋掛け興行でしたから、雨が降ると休場となり、定員も2千人程度だったとされています。6月2日の落成式には、当時の大角力協会委員長の板垣退助を始め、内務大臣、東京府知事、東京市長以下、1万人余りが出席、国技館は東京の新名所となったのですが、この建物は、14年後の1923(大正12)年9月1日、関東大震災によって、残念ながら全焼してしまい、現在は残っていません。
2013.05.31
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クロニクル ジャンヌ・ダルク刑場に消ゆ1431年5月30日ジャンヌ・ダルクの名はご存知だと思います。英仏100年戦争の帰趨をフランス側優位に転換させた功労者、聖処女ジャンヌ・ダルクとして、その名は有名です。ジャンヌは当時のフランス側の領域の東部国境沿いの寒村に、1412年に生まれた農民の娘でした。夢見がちの性格だったのでしょう、13歳のときに突然「神の啓示を受けたので、国王閣下を助けに行く」と言い出して、周囲を慌てさせたのですが、結局領主のお墨付きを貰って出立。シャルル7世に謁見して、1軍を委ねられます。1929年17歳の時に、オルレアンの開放に成功して、一躍時の人となりました。しかし、その後戦力を再構築したフランス軍は、神の意志を楯に取るジャンヌを次第に持て余すようになり、30年のコンピエーニュの戦いで負傷したジャンヌは、イギリス軍に捉えられ、宗教裁判で死刑を宣告され、31年のこの日、19歳にして異端として処刑されました。13歳の少女が神の啓示を受け、国王を助けるという所に、ジャンヌ神話の特徴があります。ここに、当時のフランス王支配下の地域において。次第に国民意識が芽生えつつあったことが読み取れます。このフランス側における国民意識の覚醒が、100年戦争におけるフランス軍の勝利のポイントでした。
2013.05.30
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クロニクル コカ・コーラの宣伝始まる1886(明治19)年5月29日「スカッと爽やか コカ・コーラ!」という、コカ・コーラのコマーシャル・ソングはご存知ですよね。このコマーシャル・ソングではないのですが、コカ・コーラ社が、初めて自社のノン・アルコール飲料、コカ・コーラの宣伝を開始し、コカ・コーラの販売に力を入れるようになったのは、127年前の今日のことでした。といっても、テレビは勿論、ラジオもまた発明される以前のことですから、宣伝用のポスターを作って、販売店の店頭や街頭に張り出しただけでしたが…。場所は、ジョージア州のアトランタ。そうなんです。コカ・コーラは、1885年に、薬剤師で化学者でもあったジョン・ペンバートンの手によって、産声をあげました。ペンバートンは、うつ病やアルコール依存症に苦しむ人達用の調合役の研究をしていたのですが、1885年にアトランタとその周辺部で、禁酒法が施行されたのを機に、調合薬を元にして、ノンアルコールの代用品を作成したのです。学者肌のペンバートンには、大量生産や広告宣伝の発想はありません。ペンバートンが作り出したノンアルコール飲料に、コカ・コーラという名をつけ、ペンバートンの意見も聞きながら、宣伝用のポスターを作成したのは、友人のフランク・ロビンソンでした。こうして、1886年の今日、アトランタの町に、「おいしく、リフレッシュでき、スカッとして、爽快な」飲み物として、「頭痛を癒し、疲れを取り除いてくれる」コカ・コーラが、大量に投入されたのです。ただし、コカ・コーラの販売そのものは、1886年の5月8日でした。料金は1杯5セントでした。コカ・コーラがあの独特のボトルで売り出されるのは、1894年になってからですが、それは1888年にコカ・コーラの経営権を買いとったエイサ・キャンドラーの発案によるものでした。そのコカ・コーラ社の今日を築く、ロバート・ウッドラフの父、アーネスト・ウッドラフがコカ・コーラ社の経営権を買い取り、オーナーに就任するのは、1919年のことでした。現在のコカ・コーラ社が、創業を1919年としているのは、このためです。
2013.05.29
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クロニクル パキスタン核実験1998(平成10)年5月28日15年前になります。この日パキスタンが地下核実験を実施しました。これは、17日前の5月11日に、24年振りにインドが地下核実験を実施して、核兵器保有国宣言を行ったことに対する、危機意識の発露でした。いわば、インドの核実験と核保有宣言が、インドとの間にカシミールという係争地を抱える、パキスタンの危機感に火をつけてしまった結果でした。そしてこの決断は、パキスタンにとって、欧米の経済制裁を覚悟しなければならなかった点で、パキスタンにとって苦渋の決断でした。いかにインドの脅威がパキスタンにとって、死活問題であったかをまざまざと示していました。結局パキスタンに対する欧米の制裁解除は、9/11以降の、アメリカによるアフガニスタン攻撃に協力することと引き換えに、解除されることになりました。
2013.05.28
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クロニクル ミャンマーで総選挙1990(平成3)年5月27日23年前のこの日、ミャンマーで総選挙が行われました。この選挙は、何と30年振りに複数政党の参加が認められた民主的選挙として話題になりました。選挙の結果、反政府派の全国民主連盟が圧勝しました。この事態に驚いた軍事政権は選挙に不正が行われたとの理由をデッチあげて、選挙の無効を宣言し、全国民主連盟の指導者、アウン・サン・スーチー女史は軟禁して、彼女の行動の自由を奪いました。しかし、スーチーさんは、同国の建国の父として、国民の尊敬を集め、軍内部にも信奉者が多かった、アウン・サン将軍の息女でしたから、軍政もまたスーチーさんを処刑することはできませんでした。そして幾星霜、最近になってようやくミャンマーも民主化に向けて動き出し、スーチーさんも、行動の自由を回復、先般日本を訪れたのは、記憶に新しいところです。
2013.05.27
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クロニクル 日本最初のファッション・ショー開催1948(昭和23)年5月26日今から65年前と言えば、まだ焼け跡の残る、戦後の物凄いインフレの時期でした。いまだ、戦後の復興が軌道に乗ったとは、言えない時代でした。しかし、学制改革もスタートし、新憲法体制の下、民主主義の息吹が芽生えて、さぁこれからだの空気が漲り、頑張ればよくなるのだから、今は夜明け前のいちばん暗いときなんだ、と皆が思っていた、そんな時代でした。こんな時だからこそ、明るさをというわけだったのでしょう。この日、日本で最初のファッション・ショーが東京神田の共立講堂で開かれました。ファッション・ショーは、本来超富裕層を対象にオートクチュールの新作を発表し、気に入った顧客がその場で、デザイナーと契約する場としてパリで始まりました。今でもパリコレとして存在しますね。オートクチュール・コレクションは、現在でもパリとローマの2ヶ所でしか開かれません。これに対し、プレタポルテは、上流階級のセレブたちと共に、有力バイヤー、ファッション記者などが招かれ、バイヤーや記者たちは、会場には招かれない中流階級対象の買い付けや宣伝の役を果たすのです。この第1回ファッション・ショーも広く新聞などで報じられ、明るいニュースとして女性たちをときめかせました。以後毎年開催されるようになり、遂に東京は、世界5ヶ所でしか開かれない、プレタポルテ・コレクションの欠かせぬ開催場所となったのです。因みに5会場とは、ニューヨーク・ロンドン・ミラノ・パリ・東京を指します。
2013.05.26
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クロニクル 食堂車の登場1899(明治32)年5月25日19世紀の末のことです。今日から114年前のことです。この日、当時の山陽鉄道株式会社(現在のJR西日本)が、運行する山陽線(当時は京都~三田尻間を運行)の一等車に、日本で始めての食堂車を連結して、運行しました。これが、日本における食堂車の起源です。利用できたのは一等車の乗客だけでしたが、珍しさも手伝って、食堂車を連結した列車の一等車は、常に満席の盛況だったそうです。なお三田尻駅は、現在は防府と名を変えており、山陽線が下関まで延伸されたのは、この2年後の1901年5月27日のことでした。また、山陽鉄道は、鉄道事業に新しい付加価値をつけることに意欲的で、この翌年1900年には、やはり日本初の寝台車を、夜行列車に導入しています。
2013.05.25
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クロニクル モスクワ五輪不参加決まる1980(昭和55)年5月24日33年前のことです。この日、日本オリンピック委員会(JOC)は、この年7月19日から、モスクワで開かれる予定の、モスクワ五輪に不参加を決定しました。これは前年12月末に開始されたソ連軍の、アフガニスタン侵攻に抗議する米国などの政治性の強い決定に、日本政府が同調する姿勢を示し、その意向を受けたJOCが、政府に従って、選手の気持ちを忖度せずに決めた、極めて政治性の強い決定でした。オリンピック出場を目指して、厳しい練習をこなし、モスクワ五輪への派遣が決まっていた選手たちや、選考会を間近に控えた選手たちの、気落ちした表情が、気の毒でなりませんでした。
2013.05.24
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クロニクル 日本で最初のキスシーン登場1946(昭和21)年5月23日67年前のことです。8/15からまだ1年も経たない時でしたが、戦争中抑圧されていた歌謡界、演劇界、映画界、そして学界や文壇などは、解き放たれた自由の息吹に、百花繚乱の賑わいを見せ始めていました。「赤いリンゴに唇寄せて…」と並木路子さんの『リンゴの歌』が、街頭に向けたラジオから明るい歌声を響かせ始めた頃でしょうか。この日、佐々木康監督作品『はたちの青春』が封切られました。そうなんです。この作品で大阪志郎さんと幾野道子さんのお2人によって、日本映画で初めてのキスシーンが銀幕に登場したのです。時間にして僅か5秒ほど、現在から見れば、頬をよせてそうみせかけているだけのようにも見える微妙なシーンだったそうですが、当時としてはちょっとしたセンセーショナルを呼び、各地の上映館は大入り満員の盛況となったそうです。上映した映画会社の思惑は、大当たりだったと言えましょう。ところが、あまりの反響に驚いたからなのでしょうか。GHQは、この映画の封切り後、映画でのキスシーンを禁止する旨の通達を出します。そのため、日本映画2作目のキスシーンは、今井正監督の『また会う日まで』で、岡田英次さんと久我美子さんが演じた、ガラス越しのキスシーンまでお預けになりました。
2013.05.23
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クロニクル 藤村 操 華厳の滝にて自殺1903(明治36)年5月22日110年前のこの日、第一高等学校生の藤村操が、日光華厳の滝にて自殺、16歳10ヶ月の若い命を断ちました。藤村は、滝の巌頭にあるミズナラの木を削って、「巌頭之感」と題した辞世の詞を残していました。 巌 頭 之 感悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。この世は不可解との語を残しての自殺は若者を刺激し、華厳の滝を死場所と定めた若者が増え、華厳の滝はトンダ形で、自殺のメッカとなったのでした。勿論、当時の華厳の滝には、野暮な囲いなど、影も形もありませんでした。
2013.05.22
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クロニクル スハルト大統領辞任1998(平成10)年5月21日15年前になります。この日スハルトインドネシア大統領が、民衆反乱に追い詰められて、辞任しました。スハルト大統領は、1966年3月に陸相として軍を掌握、建国の父スカルノ大統領を辞任に追い込んで権力を掌握、次第に独裁的権限を握って、32年にわたってインドネシアに君臨してきた人物でした。彼はインドネシアの工業化を進めましたが、その中で次第に身内や側近を優遇、スハルト一族が財界を牛耳るなど、経済不振に陥ると国民からの強い批判を受けるようになってきていました。そうした状況で、1997年タイを震源地として、あれよあれよという間に各地に広まった、アジア金融危機の荒波に、インドネシアも飲み込まれていきました。その結果、インドネシアルピアは暴落を続け、輸入物資は急騰して、国内の物価も急騰、不況下のインフレが発生して、国民の不満が爆発したのです。物価は年末年始にかけてやや落ち着きを見せましたが、2月末からまた急騰し、スハルト一族に対する国民の不満は頂点に達し、スハルト退陣を求める声と実力行使は、首都ジャカルタを覆いました。さしものスハルトも、ここに辞任を決断することになったのです。
2013.05.21
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クロニクル 大阪に地下鉄開業1933(昭和8)年5月20日昭和も一桁の時代、80年前の今日のことです。大阪市営地下鉄御堂筋線、梅田駅と心斎橋駅間が開通、この日営業を開始しました。
2013.05.20
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クロニクル 地方分権推進法公布1995(平成7年)5月19日18年前になります。この日、地方分権推進法が公布されました。この法は、地方に権限を委譲することで、中央政府の財政負担を軽減する狙いも持っていました。しかし、自己の権限を手放したくない、官僚たちは翳に陽に抵抗し、現在もなお中央と地方のせめぎあいが続いています。 その結果、地方分権の推進は、掛け声のみで遅々として進まず、この面での改革は、遅れに遅れているのが現状です。
2013.05.19
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クロニクル 戊辰戦争終わる1869(明治2)年5月18日144年前のことです。この日、函館五稜郭に立て篭もっっていた、榎本武掲を指揮官とする旧幕府軍が、新政府軍に降伏し、戊辰戦争はようやく終結しました。前年8月に江戸を脱出した幕府海軍は、東北各地で兵を集め、12月に函館に入りました。ここで、士官以上の選挙を行ない、榎本を総裁とする代表機関を設置しました。西欧列強は、これを蝦夷地の共和国と見なし、日本は内乱状態にあるものとして、局外中立を宣言しました。政府軍は、続々と兵力を投入して、3月頃から攻勢に出、5月に入ると総攻撃を仕掛けました。兵力と軍備の不足に悩む榎本軍は、やがて万策尽き、この日遂に、政府軍に無条件降伏することを決意し、即日実行するに至りました。
2013.05.18
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クロニクル 参院に緑風会結成1947(昭和22)年5月17日今から66年前に当たるこの年は、5月3日に新憲法が公布されたことで知られますが、公布に先立つ4月20日に第1回参議院議員選挙が行われ、3日後の23日には、衆議院議員の選挙も行われた年でした。このうち参議院については、第1回であったため、定数1杯の250名が当選とされ、上位125名(「全国区50名、地方区75名」)が規定通り6年議員、下位125名が任期が半分の3年議員とされました。この第1回参院選では、参院の政党色は薄く、無所属議員が108名と断然多く、以下社会党47名、自由党39名、民主党29名、国民協同党10名、共産党4名、諸派13名となっていました。そしてこの日、無所属議員の一部47名が、議員集団を結成することで、議会活動上の便を図ろうと、統一会派参議院緑風会を結成したのです。この後も緑風会に加わる議員は、増え続け、最終的に無所属議員のうち92名が参加する、大統一会派に成長してゆきました。
2013.05.17
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クロニクル 十勝沖地震1968(昭和43)年5月16日45年前のことです。この日午前9時48分、北海道南部から東北地方北部にかけて、大きな地震が発生し、死者ならびに行方不明者52名、重軽傷者330名、家屋の全壊673棟、半壊3,004棟、一部損壊15,697棟という大きな被害がありました。被害が特に大きかったのは青森県で、死者・行方不明者の48名、全壊した建物のうち646棟など、被害の大半は青森県東部に集中していました。この地震の震源は、襟裳岬の沖合いで、十勝沖地震と命名されましたが、被害が青森県に集中したわけは、地震発生の前日まで、3日に荷わたって降り続いた大雨によって、地番が緩んでいたことに伴い、県内24箇所で、山崩れやがけ崩れが発生したことによるものでした。この自信のマグニチュードは、7,9と発表されました。 お詫びと訂正。十勝沖地震の発生時刻。午後7時39分と記しましたが、午前9時48分の間違いでした。タックンさんにご指摘いただき、その後の最大余震の時間を記入している誤りに気づきました。本文訂正させていただきました。タックンさんありがとうございました。
2013.05.16
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クロニクル 育児休業法公布1991(平成3)年5月15日4日間、ご無沙汰しました。大三島に隠棲した友人を見舞い、3日ほど滞在して来ました。あえてネット環境を求めず、テレビもない中、久しぶりにラジオを通じ、言葉の発する力、伝播力と、想像力の豊かさを味わってきました。有難い3日間でした。本日のクロニクルは、2007年と2008年に続けて掲載したブログの採録です。もう22年になります。22年前の14日に成立した育児休業法が、この日公布されました。女性の社会進出をより確実なものにするためには、いわゆる産休のみでなく、少なくとも保育所に子どもを預けられるようになる、生後3ヶ月否4ヶ月ぐらいまでは、後顧の憂いなく子育てに専念出きる環境を確保しなければならない。こうした考え方が、女性問題の後進国日本でも、ようやく受け入れられた結果でした。こうして、産後1年までの期間で(期間は雇主と従業員の交渉)育児休業がとれるようになったのですが、育休期間は無給とされたために、生活上収入が必要な場合には、せっかく法が制定されたというのに、その成果を利用することが出来ないとか、利用出来たとしても極めて短い期間しか活用できないなどの問題点が指摘されたことが、ついこの間のことのように鮮明に記憶に残っています。その後の少子化の急進展が、大企業の態度を劇的に変え、3年間の育休とか、小学校入学までの育休とか、超ロングの育児休業を認める会社が現れたり、社会保険等の天引き分に限って給与を支給したり、休業中の給与として、休業前の2割を保障する社が現れたりと、最近の変化は、目を見張るものがあります。こと、女性の社会進出の促進のためには、少子化も捨てたものじゃないな、というのが私の感想です。それでも、まだまだなすべきことは数多く残っていますね。
2013.05.15
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クロニクル インド24年振りの核実験1998(平成10)年5月11日15年前のこの日、インドが24年振りの核実験を地下実験として行いました。29年前の1974年の核実験は、なお中印国境紛争がくすぶっており、既に核大国への道を歩み始めていた中国への対抗意識からのものでしたが、今回の核実験は、カシミールの帰属を巡って対立関係にある、隣国パキスタンへの圧力の匂いの強い、核実験でしたから、核の拡散を招く怖れが強いととして、各国から非難を浴びました。果せるかな、17日後の28日、パキスタンもまた地下実験として、最初の核実験を強行しました。インドの脅威に対抗するためには、経済制裁を覚悟の上で、核実験を強行したのです。核兵器の製造技術は、長い年月の間にすっかり知れ渡り、今や陳腐化した技術となっている現実を思い知らされた出来事でした。 追記、明日から三日間、PCからはなれます。次回の更新、ご訪問は、14日夜から15日になると思います。
2013.05.11
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クロニクル ルイ16世即位1774( 安永3)年5月10日フランス王ルイ15世は、この日天然痘によって崩御しました。当時のフランスの慣例に従い、20歳の皇太子ルイが、ただちに新王ルイ16世として、この日のうちに即位しました。このルイ16世は、およそ19年後の1793年1月、フランス革命の激化の中で処刑されたことは、ご存知の通りです。
2013.05.10
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クロニクル 母の日事始1948(昭和23)年5月9日65年前のことになりますが、この日、東京日比谷の日比谷公会堂で、米国の母の日にちなんで、母親大会が開かれました。この大会を記念する意味も込めて、翌年から5月の第2日曜日を、母の日にすることになりました。今年は12日ですね。母の日といえば、カーネーションですが、これは米国における母の日制定に関係の深かった女性の母が、生前白のカーネーションが好きだったことから、この日に母親に白のカーネーションを贈る習慣が生まれたことを、日本でも踏襲したからでした。ところで、欧米の母の日は、年に一度は離れて暮らす母親に会いに行こうというニュアンスから生まれたのでした。そこからすると、母の日の持つニュアンスやイメージというものは、ところによって、かなり異なるようですね(そもそもの始まりは、17世紀のイギリスにあります。この日は年に一度、復活祭の40日ほど前の日曜日に限って、奉公に出ている子供たちが、教会で母親達に会える日として、始まった風習でした)。
2013.05.09
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クロニクル イタイイタイ病公害病に…1968(昭和43)年5月8日45年前のこの日、厚生省(現在の厚生労働省)は富山県の神通川流域で多発したイタイイタイ病について、三井金属鉱業神岡鉱業所の垂れ流したカドミウムが原因であることを認め、三井金属鉱業の責任を明示すると共に、正式に公害病に認定しました。イタイイタイ病の存在が知られたから、10年に近い歳月が流れ、学会でカドミウム原因説が承認されたからでも、かなりの歳月が過ぎている遅きに失した決定でした。もし速やかに三井金属鉱業の責任が認定されていたなら、後発の同じ三井金属の群馬県安中精錬所における、イタイイタイ病の発祥は防げた可能性もあっただけに、厚生省の企業よりの姿勢は、もっと糾弾されてしかるべきだったと、私は考えています。その点は、新潟県阿賀野川の中流にある昭和電工鹿瀬工場を原因とする第二水俣病(新潟水俣病)の公害病認定が、水俣病が既に公害認定されていたことから、イタイイタイ病より遅れて発見されたにもかかわらず、先に認定されていた事実をあげることで、理解していただけると思います。
2013.05.08
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クロニクル ドイツ降伏1945(昭和20)年5月7日68年前の今日、フランスの古都ランスの西側連合軍司令部において、ドイツ軍の全権代表が無条件降伏文書に署名、ここに全ドイツ軍の降伏が決まりました。ドイツ軍の劣勢は、前年夏以降には既に被い難いものとなっていましたが、45年に入ると東部戦線でのソ連軍の奔流のような攻勢が続き、3月にはグダニスクを解放、ハンガリーからオーストリアへと向かって、4月13日にはウィーンを占領と、着々とドイツ包囲の環を縮めつつありました。4月28日には、ヒトラーの盟友ムッソリーニが逃亡中をパルチザンに捕らえられ、北イタリアの寒村ドンゴで銃殺刑に処せられます。こうして、ソ連軍のベルリン包囲が次第に狭められる中、追い詰められたヒトラーは、愛人エヴァ・ブラウンと共に自殺します。4月30日のことでした。2日後、ソ連軍はベルリンを占領。ヒトラー亡き後、首班の座を受け継いだカール・デーニッツ元帥は無条件降伏を決意、彼の命によって、この日の降伏文書への署名となったのでした。しかし、東部戦線で戦うソ連軍の代表は、この署名に立ち合っていませんでした。対独戦で最大の犠牲を出し、なおかつドイツの首都ベルリンを占領するなど、誰が見ても対独戦の最大の功労者はソ連軍でした。そのソ連軍代表を招かず、しかもベルリンのソ連軍司令部を、降伏文書の調印の場としなかったことは、米英軍の大きな失態でした。米英の姑息なやり方に怒ったソ連軍は、この日の文書を黙殺して、ドイツ攻撃を続けたため、困ったドイツは再度9日に、ベルリンのソ連軍司令部において、無条件降伏文書に再度署名する事態となりました。何やら戦後における米ソ対立を暗示するような一齣です。ところで、同じ5月9日、日本政府は[ドイツの降伏に関係なく、日本の戦争遂行の決意は変わらない]との宣言を発表、破滅への道を走り続けました。大局を見、自ら責任をとる決意を持った政治家と軍人の不在が、日本人の無益な犠牲を大幅に増やした事実は、忘れるわけには行きません。
2013.05.07
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クロニクル 英仏海峡トンネル開通1994(平成6)年5月6日来年で20年になるのですね。この日ドーバー海峡をまたぐ、英仏海峡トンネルが開通しました。全長50,5km、海底部38kmの長いトンネルですが、鉄道専用トンネルとして作られました。これにより、イギリスとフランス並びにフランス経由で西欧各地(とりあえずはベルギーのブリュッセル)を結ぶ鉄道網が整うことになりました。工事は英仏側から、海峡中央部へ向かう形で、1986年5月にスタート、フランス側の工事に、日本の川崎重工業が参加し、シールド工法の掘削機は同社製のものが使われました。この掘削機の性能は良く、イギリス側の工事に比べ、フランス側の工事の進捗率はかなり高く、同社は面目を施しました。このトンネルをユーロトンネル会社が所有し、鉄道会社に貸し出す形(新幹線と同一の方式)を取り、鉄道会社は列車の運行毎に、定められた使用料を支払う形で運用されています。工事の資金としては、80年代に絶好調だった日本の金融機関の融資が目立っていましたが、バブルの崩壊で状況が変わり、不良債権のヤマを抱えて行き詰まった日本の金融機関は、採算がとれずに困っていた「ユーロトンネル会社」に追加出資することが出来ず、損失覚悟で欧州の金融機関に、海峡トンネル会社の債権を譲り、手を引かざるをえない一幕もありました。時は移りて、さらに数年、リーマンショックとそれに続くユーロ危機で、かつての日本の金融機関以上の損失を抱えた欧米の金融機関が、今度は損失覚悟で、日本の金融機関に手持債権を投売りせざるえない状況に陥っているのですから、まさに因果はめぐっているようです。この因果、いったいどこまでめぐるのでしょうね…。
2013.05.06
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クロニクル 小作争議で仮執行(新潟県北蒲原郡木崎村)1926(大正15)年5月5日新潟県北蒲原郡の木崎村(現豊栄市<とよさかし>)では、1922(大正11)年11月に小作人組合を作って、集団の力で高過ぎる小作料の減額を勝ち取ろうと運動を始め、翌23年には、創設間もない日本農民組合にも加盟し、この年までに一定の成果を上げていました。 ところがこの年、一部の地主が小作料未納の小作地の耕作禁止の仮処分を裁判所に申請して反撃に出、農民側は裁判闘争を受けざるをえなくなりました。しかし、所有権の保護を大前提とする日本の既成社会の中では、地主の権利擁護が当然の如くに自明の理とされ、地主側が申請した仮処分があっさりと認められてしまったのです。こうして、87年前のこの日小作料未納農民の小作地への立ち入りを阻む、仮執行が行われたのです。小作農達は、なお頑張り、子ども達も学校に行かずに、親たちの運動に参加したのです。この行動は大きな反響を呼び、全国から応援団も集まり、賀川豊彦、大矢壮一ら知識人の遠来の応援も多かったのですが、物量の差は遺憾ともし難く、2年後未納小作料の全額支払を条件に調停が成立、農民側にとってほろ苦い体験となりました。
2013.05.05
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クロニクル チトー大統領死去1980(昭和55)年5月4日33年前のこの日、ユーゴスラヴィア連邦のチトー大統領が死去しました。87歳でした。チトー氏は、第2次世界大戦中に、パルチザンを指揮してファシスタ党のイタリアやナチスドイツにゲリラ戦で抵抗し、ソ連軍の支援や解放を待つことなく、自力でユーゴの独立を獲得したパルチザンの英雄でした。そのため、戦後はソ連の干渉を排して独自の社会主義への道を歩むと共に、戦前・戦中のクロアチアとセルビアの対立を、持ち前のカリスマ的指導力で克服、諸民族の寄り合い所帯のユーゴスラヴィアをまとめて、連邦という形で統一を維持した稀有の指導者でした。それだけに氏の没後、ユーゴは次第に分極化傾向を強め、90年代には遂に分裂、記憶に新しいあの血塗られた内戦を経験することになってゆきます。
2013.05.04
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クロニクル 江戸城明け渡し1868(明治元)年5月3日145年も前になるのですね。この日、徳川幕府は江戸城を新政府軍に明け渡しました。徳川幕府第15代将軍慶喜は、水戸に蟄居することとなり、ここに徳川幕府は崩壊し、明治政府が正式に誕生しました。なお。この日は旧暦では、明治元年4月11日に当たります。江戸城明け渡しに関する物語は数多いのですが、その白眉が西郷ー勝会談にあったことは、間違いないのですが、会談には幕府側から会計責任者の大久保一翁、それに会談の下慣らしをした山岡鉄舟らが、新政府側から村田新八と桐野利秋らが同席していたと、考えられています。
2013.05.03
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クロニクル ソ連軍ベルリン占領1945(昭和20)年5月2日68年前のこの日、ソ連軍はベルリンを占領しました。ヒトラーのドイツが独ソ不可侵条約を破棄して、ソ連侵攻を開始した1941年6月22日から3年10ヶ月余、ソ連軍が反転手攻勢に出て、スターリングラードの死闘を制してから、約2年3ヶ月が経過していました。45年に入ると、ソ連軍は1月にポーランドの首都ワルシャワを解放。2月にはハンガリーの首都ブタペストを解放と,進撃の速度を速めており、万策尽きたことを認めたヒトラーは、2日前の4月30日に、愛人エバ・グリーンと共に自殺して果てていました。第二次世界大戦もようやく終わりに近づいた時でしたが、なお自らのメンツに拘る日本軍部は、ドイツ降伏後も勝算の立たない戦闘を継続する愚を、あえて選択し続けると共に、その旨を表明していました。 その結果、国民の犠牲は雪ダルマ式に、膨らんでいきました。
2013.05.02
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クロニクル 第一火災破綻 2000(平成12)年5月1日13年前の話です。この日、戦後初めての損害保険会社の経営破綻が現実のものとなりました。第一火災海上保険株式会社が、事業継続を断念して破綻したのです。同社は、バブルの崩壊で保険資産(掛け金収入)の運用に失敗。多額の損失を出していましたが、その損失を複雑な経理操作で隠し続けてきたのです。こうした自転車操業が、遂に限界に達し、この日経営再建を断念することになったのです。規模は違いますが、損失隠しを長年続けた構図は、山一證券らとまったく同じでした。
2013.05.01
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