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クロニクル 夏季五輪東京開催を決定1936(昭和11)年7月31日五輪の東京開催といっても、1964(昭和39)年の東京オリンピックのことではありません。日中戦争の激化の中で、ついに開催を返上せざるを得なかった、1940(昭和15)年の幻の五輪のことです。77年前のことです。この日ドイツの首都ベルリンで開かれたIOC(国際オリンピック委員会)総会で、4年後1940年に開催予定の夏季五輪を、日本の首都東京で開くことが決まりました。本来は、5年前のIOC総会で開催都市を決めるのですが、1940年五厘については、ローマ、バルセロナ、ヘルシンキなど、有力候補地が多く、開催都市を決めきれず、翌年7月31日の総会まで、開催都市の決定が延ばされたのです。こうした激戦の末、東京はヘルシンキとの決選投票で36票を獲得、27票のヘルシンキを敗って、開催地に選ばれたのです。しかし、軍部の暴走から拡大に拡大を続けた日中戦争が、益々激しさを増す中で、軍需物資への優先供給が続く、鉄やナマコンなど建設資材の不足から、会場設営が間に合わず、さらに軍部の強い開催反対の意思表明もあって、2年後の1938年、ついに開催を断念、開催権を断念するにいたりました。IOCは代替開催も検討したのですが、折から第2次世界大戦が勃発、40年大会は開催中止となりました。
2013.07.31
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クロニクル 日本プロレスリング協会発足1953(昭和28)年7月30日我々世代にとって、少年の日のヒーローだった力道山をご存知でしょうか。戦争に負けた日本人にとって、四角のリンクの中で、でかくて強そうな白人レスラーと死闘を演じながら、空手チョップで危機を脱してなぎ倒していく力道山は、実に胸のすく気分を味合わせてくれるヒーローでした。テレビ放送は始まっていましたが、まだ家庭への普及は程遠い時代。電気屋さんの店頭や、床屋さんの覗き見など、テレビのあるところは、どこも黒山の人だかりでした。そういえば、映画『always 三丁目の夕日』の子どもたちも、力道山と空手チョップが大好きでしたね。そんな力道山が、日本プロレスリング協会を結成し、記者発表したのが、ちょうど60年前の今日でした。今思うと、力道山はレスラーであると同時に、プロモーターの資質にも優れていたことが良く分かります。
2013.07.30
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クロニクル 桂=タフト協定調印1905(明治38)年7月29日桂=タフト協定というのは、日本の桂太郎首相と、来日中の米国陸軍長官タフトの間で、交わされた極東地域の安定を確保するための秘密協定です。時は今から108年前、日露戦争における最後の大きな戦いとなった日本海海戦が終了し、日本が樺太の占領を実行した直後、日露の講和交渉に関する米国大統領セオドア・ローズヴェルトの斡旋工作が、佳境に入りつつあった時でした。この日結ばれた協定は(1)日本は米国のフィリピン支配を認め、かつ歓迎する(2)米国は日本が韓国に対し、優越的地位にあり、かつその権限を持つことを承認する。(3)極東の平和と安全の維持は、日・米・英三国の協力によって実現するの3点を含み、日露戦争後の極東問題の処理についての密約でした。
2013.07.29
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クロニクル 初の民営鉄道開業1883(明治16)年7月28日ちょうど130年前のことになります。この日、日本で最初の民営鉄道会社である「日本鉄道会社」は、最初の営業路線として、上野~熊谷間を完成、仮営業を開始しました。同社は上野~青森、上野~高崎の路線建設を計画、政府の援助を得て、建設を続けて来ました。この日の午後1時からの試運転では、上野~熊谷の往復に、およそ5時間半を要したと記録されています。同社には、第15国立銀行が、積極的な融資を行ない、同社の株主には、華族たちが名を連ねるなど、民間と言っても、政府や支配層の積極的な関与がありました。こうなると、銀行も安心して、融資に応じてくれます。こうして同社は、この後も順調に路線の建設を続け、青森までの延伸は1899(明治32)年に完成。民間の鉄道熱を多いに盛り上げました。
2013.07.28
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クロニクル 栄光の3日間始まる1830(天保元)年7月27日183年前ですね。この日フランスで七月革命が始まりました。僅か3日間で、ブルボン復古王政を吹き飛ばしましたので、栄光の3日間と呼ばれました。フランスでは、ナポレオンの支配が崩れた後、フランス革命で刑死したルイ16世の弟が諸外国の力で王位に就いたのですが、所詮国民の支持はなく、外国の占領に比べればまだ我慢できるとされていましたが、ルイ16世の末弟シャルル10世は、そうしたフランス社会の動向への理解力を欠き、王権の強化を目指したため、この日遂に国民の怒りが爆発し、革命を誘発してしまったのです。始まってしまえば、王権への支持はごく一部に留まり、僅か2日半の抵抗で、ブルボン復古王政は、あっけなく瓦解してしまったのです。なお、七月革命は、ドラクロワの名作「民衆を導く自由の女神」を生み、さらに、ベルリオーズを世に出したことでも知られます。
2013.07.27
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クロニクル イラク特措法成立2003(平成15)年7月26日ちょうど10年前のこの日未明、国会でイラク特措法が可決成立しました。この法の正式名称は、「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」と言います。なんだか、やたらに長いですね。法律名から明らかな通り、目的は非戦闘地域における人道支援となっているのですが、要するに自衛隊の海外派兵、それも実際に戦闘が行なわれている国に派兵するための法律でした。そのため、国会でも、戦闘地域と非戦闘地域との区分が大問題となり、時の小泉純一郎首相は、「自衛隊がいるところが非戦闘地域である」とか、「どこが戦闘地域かなど私に分かるわけがない」という答弁を行なって、物議を醸しました。この法は4年間の時限立法だったため、07年3月に2ヵ年延長され、09年で廃止となりました。
2013.07.26
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クロニクル 初の試験管ベビー誕生1978(昭和53)年7月25日この日生まれたた女の子、ルイーズ・ブラウンは、今日が35歳の誕生日になるのですね。母となって、お子さんを育てながら、郵便局で働いているそうです。父ジョンと母レズリーは、9年間子が出来ず、婦人科医の診断を受けたところ。レズリーの卵管に異常があり、自然妊娠は不可能と診断されました。そこで、2人はケンブリッジ大学のエドワーズ教授らが研究中の体外受精に望みを託しました。前年11月10日に母から採取され、直ちに受精された受精卵は、2日半後に母の子宮に戻されて順調に成長、この日午前11時半過ぎ、元気な赤ちゃんが誕生しました。ルイーズは2004年に結婚、06年に元気な男の子を出産していますが、ルイーズの妹ナタリーも体外受精で生まれています。ナタリーは、ルイーズより早く1999年に元気な女の子を出産しており、体外受精で生まれた女性は、元気な赤ちゃんを産むことが出来ないとする、根強かった懸念を、事実をもって一掃しました。 なお、ルイーズとナタリーの父ジョンは2007年に、母レズリーは2012年に病死しました。
2013.07.25
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クロニクル 児島明子さんミス・ユニバースに1959(昭和34)年7月24日あれから54年ですか。アメリカ,カリフォルニア州のロング・ビーチで開かれた第8回ミス・ユニバース・コンテストで、日本代表の児島明子さんが、見事ミス・ユニバースに選ばれました。欧米人優位のミス・ユニバース・コンテストで、1953年の第2回大会で3位に入賞した、伊東絹子さんの成績を上回るグランプリの獲得に、日本中が沸きました。なにしろ、日本としてだけでなく、アジアとして初めてのグランプリだったのですから。児島さんの出身地の熊本では、10月の彼女の訪問に合わせ、最寄町での街宣パレードまで行なわれる騒ぎとなりました。それから48年後、2007年大会において、久し振りに日本人の森理世さんが、児島さん以来のグランプリに輝いたのですが、皆さんも森さんて覚えていらっしゃいますか?
2013.07.24
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クロニクル 長崎大水害1982(昭和57)年7月23日今年も各地で、集中豪雨による洪水や土砂崩れなどの被害が、各地から寄せられています。これ以上被害が広がらないと良いのですが…本日採り上げる長崎大水害は、31年前の出来事です。この年は梅雨入りが遅かったのですが、7月にはいると、九州北部を中心に雨雲が停滞、連日小雨が降り続け、坂の多い長崎では、たっぷり雨水を吸った土壌は、土砂崩れ予備軍となっていました。問題のこの日、31年前の今日も、夕方まで小雨が続いていたこともあって、気象庁発表の大雨警報は、事実上無視されました。それが惨事を招いたことも確かです。長崎大水害と命名されていますが、死傷者の多くは、この土砂崩れによるものでした。この水害による長崎市内の死者・行方不明者は299人、そのうちおよそ9割に当る262名が、土石流や土砂崩れによって、命を落としています。水害でいくつもの橋が流出していますが、その中には重要文化財に指定されていた「眼鏡橋」の流出も、含まれていました。
2013.07.23
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クロニクル 魚津で米騒動始まる1918(大正7)年7月22日第一次世界大戦末期の1918年の話ですから、今から95年前のことです。欧州中心の戦争ですから、今日のように不景気だったわけではありません。第一次世界大戦は、本質的にヨーロッパの戦争でした。そのため、漁夫の利を得たアメリカと日本の経済は大いに潤ったのです。しかし、工業の好調は、都市の工場や鉱山に向かっての農業労働力の流出を招き、コメの生産は不足気味になっていたのです。そこへ、ロシア革命への干渉戦争が組織され、日本軍も急遽シベリアへ大軍を送ることになったのです。出兵計画が明らかになると、米価の値上がりを見込んだコメ商人の買占めが始まり。米価の高騰を呼んだのです。コメ不足と米価の高騰に不安を感じた人々は、きっかけさえあれば、実力行動に立ち上がる、そんな雰囲気が強まっていたのです。そこへこの日、1918年の7月22日の夜間、富山県下新川郡魚津町の魚津港に、北海道への米の輸送を行うために「伊吹丸」が寄航。伊吹丸への荷積みを行っていた十二銀行の倉庫前へ魚津町の主婦らが集まり、米の船積みを中止し、住民に販売するよう求めました。この時は巡回中の警官によって解散させられたのですが、住民らは集会をはじめるなど、米の販売を要望する人数はさらに増加していき、翌月8月3日には中新川郡西水橋町で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう要求したのです。これが、名高い米騒動の発端でした。8月6日にはこの運動はさらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となったのです。住民らは米の移出を実力行使で阻止し、当時1升40銭から50銭の相場だった米を35銭で販売させることに成功したのです。この件は地方新聞を通じ、全国の新聞に「越中女一揆」として報道されました。米騒動は、こうして始まったのです。この事件が都市の庶民を刺激し、以後の東京、大阪などの大都市圏での住民の実力行動に繋がって行きました。
2013.07.22
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クロニクル 明石市花火大会歩道橋事故発生2001(平成13)年7月21日12年前のこの日、明石市の海岸での花火大会で起きた大惨事です。ご記憶の方も多いと存じます。前日の7月20日より、明石市の大蔵海岸で第32回明石市民夏まつり花火大会が開かれていました。この催しの2日目となる21日の午後8時半頃、西日本旅客鉄道(JR西日本)朝霧駅南側の歩道橋において、駅方面からの見物客と会場方面から戻る見物客とが合流する南端で、1平米あたり13人から15人という異常な混雑が生じたために、「群衆雪崩」が起きたのです。結果は、死者11名(内訳:1歳未満9名・70歳以上2名)と重軽傷者247名を出す大惨事でした。事故後、警察の対応や警備計画の問題点が次々と浮き彫りされました。それによると、前年2000年12月31日に行われた世紀越えカウントダウン花火大会でも、同じような滞留が起きていたというのです。この時も軽傷者が出ていたのですが、この問題点が全く生かされていなかったのです。また、明石市、兵庫県警(明石警察署)、警備会社のニシカン(現エヌ・ケイ・セキュリティ)との間で事前の警備計画の協議が不十分だったことも明らかにされました。特に警備計画は、問題の多かった世紀越えイベントの計画を、丸写しにしたお粗末なものだったにも関わらず、県警からは何の改善命令も出されていなかったのです。事件後、明石市民夏まつり花火大会は中止されました。
2013.07.21
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クロニクル 沖縄海洋博開幕1975(昭和50)年7月20日1972年の沖縄の本土復帰を記念する記念事業として計画され、3年の準備の上に、沖縄国際海洋博覧会(略称、沖縄海洋博)が、38年前のこの日開幕しました。会場は、沖縄県国頭郡本部町で183日間の会期(1975年7月20日 - 1976年1月18日)でした。「海-その望ましい未来」をテーマとし、日本を含む36ヶ国と三つの国際機関が参加しました。期間中は県内の至る所に「めんそーれ沖縄」と書かれた歓迎の垂れ幕類が立っていたのが、印象的だったと聞いています。しかし、入場者数450万人が目標とされたのに対し、最終的な入場者数は約349万人にとどまりました。このため、海洋博をあてこんでさまざまな商売を目論んだ人たちは、当てが外れて落胆することになりました。また、海洋博に合わせて行なわれた開発は、赤土の海への流出を招き、サンゴ礁に被害を与えるという海洋汚染も引き起こしました。
2013.07.20
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クロニクル 「青い山脈」封切り1949(昭和24)年7月19日64年前のことになります。この日東宝系から今井正監督作品「青い山脈」第1部が公開されました。石坂洋二郎の同名の小説の映画化でした。映画化権は、東宝と松竹が激しく争い、松竹は木下恵介監督を、東宝は今井正監督と、共に当時の有名監督を前面に出して、作者の石坂氏の軍配を仰いだのですが、石坂氏は東宝を選んだというわけです。当時の日本は、戦後の悪性インフレを是正すべく導入されたドッジラインいよる、厳しいデフレ政策がとられていたのですが、そうした暗い世相を吹き飛ばす、明るい作風、明るい作品として、大変な人気を博しました。主役の寺沢新子には杉葉子、六助に池辺良、島崎先生に原節子、そして沼田校医に龍崎一郎という顔ぶれでした。 映画の公開に先立って、発売された主題歌は、藤山一郎と奈良光江のデュエットで発売され、これまた大ヒットとなりました。ご存知ですよね、「若くあかるい歌声に 雪崩は消える 花も咲く 青い山脈 雪割桜 空のはて 今日もわれらの夢を呼ぶ」作詞の西條八十と作曲の服部良一の名コンビによる、明るい曲は、映画を知らない人たちにも、好んで歌い継がれました。映画はその後、57年、63年、75年、88年と都合5回も製作されました。
2013.07.19
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クロニクル 光化学スモッグ発生1970(昭和45)年7月18日43年前のことです。この日、午後1時頃、東京杉並区堀の内の立正高校で、40数人の生徒が突然吐き気などを訴えて倒れ、近くの病院に運ばれました。都公害研究所は、新種の公害の可能性が考えられるとして、調査に乗り出し、光化学スモッグの発するオキシダントと、高湿度の中で発生した硫酸の微粒子による、世界初の複合汚染が原因と発表しました。発生地附近は、(1)急に気温が上がった(2)天気が良く紫外線が強かった(3)風が弱く空気が澱みやすかったと、被害の出やすい条件が揃っていたことも指摘されました。この発表を受け、東京都を中心に全国の大都市では、観測態勢を強化し、オキシダント濃度が一定量を越えた場合に、住民に対して屋外に出ないように呼びかけるなどの対策を進め、学校に対しては屋外での体育や部活動などを、一時的に休止するように求めるなどの対策を講じました。自動車の排ガス規制が強化されるようになるのも、この時以降のことです。今ではお馴染みの光化学スモッグ注意報や光化学スモッグ警報の発生、43年前のことだったのですね。
2013.07.18
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クロニクル ポツダム会談始まる1945(昭和20)年7月17日68年前になります。ドイツの降伏から、2ケ月と少々が過ぎたこの日、ベルリン郊外の保養地ポツダムで、米・英・ソ三国首脳によるポツダム会談が始まりました。2月のヤルタ会談に出席した、F・ローズヴェルト米大統領は、4月に心臓発作で死去、副大統領から昇格したトルーマン大統領が初参加しました。イギリスとソ連からは、この戦争を指導したチャーチルとスターリンが出席していましたが、総選挙中のイギリスでは、生活苦に追われる民衆は、チャーチルの保守党にノーを突きつけ、チャーチルはアトリーの労働党に完敗、イギリスの代表もアトリーに替わりました。さて、この会談は、日本の降伏条件を煮詰め、26日にポツダム宣言が発表されるのですが、このほかに戦後の枠組に関する議論もまた、重要なテーマとしていました。
2013.07.17
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クロニクル 夫婦同姓か別姓か1898(明治31)年7月16日「夫婦別姓か同姓か」などと、妙なタイトルを掲げました。実は115年前のこの日、明治民法に家族法に関する部分が書き加えられ、日本で始めて、夫婦同姓の原則が定められました。婚姻の届出時に、夫または妻の姓のどちらかを選び、届け出なければならないと、定められました。国際結婚の場合は、この限りではなく、特に申し出がない限り、夫婦別姓でOKとされていました。夫婦同姓が法的に強制されるようになったのが、1898年で、それ以前はごく自然に夫婦の姓に関する規定はなかったのです。世界的には、当時夫婦別姓が主流で、ドイツ民法の影響を受けた日本やトルコなどが、夫婦同姓を選択していたのですが、本家筋に当るドイツ、それにトルコなどは、夫婦別姓を求める世論に押され、法改正を経て、現在は夫婦別姓も認めています。そのため、夫婦同姓が定められているのは、いまや世界広しといえども、日本とオーストリアだけになっています。
2013.07.16
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クロニクル 三鷹事件1949(昭和24)年7月15日64年前の出来事です。この日、午後9時24分、国鉄中央線の三鷹車庫から、無人の電車が暴走したのです。電車は車止めを突破し、駅改札口と階段をぶち抜き、駅前の派出所を全壊して、民家に突入、ようやく止まりました。死者6名、重軽傷者は20名を超える大惨事となりました。この年、政府は経済再建のための行政整理の一環として、国鉄の人員整理を計画して実行。7月1日に30,700人、12日に63,000人の整理を発表したのです。。当然組合は、この計画に強く反発、国鉄労使の関係は、こじれにこじれていたのです。そうした中で事件はおきました。7/5の下山事件、8/17の松川事件と並ぶ、国鉄争議をめぐる3大事件の1つです。吉田首相は、社会不安の源は、武装革命路線をとる共産党にあると、共産党を強く非難したのです。その結果、9人の共産党員と1人の非共産党員が、逮捕されました。首相の共産党非難に悪乗りした捜査当局の勇み足でした。それでも非を認めない、捜査当局は、証拠がないにも関わらず、公判維持に奔走しました。そのため9人の共産党員の無実が確定するまでに、6年もの歳月を要したのです。
2013.07.15
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クロニクル 東京スカイツリー起工式2008(平成20)年7月14日5年前のこの日、東京スカイツリーの起工式典が行なわれました。東武鉄道が本社に隣接する貨物駅跡地を提供し、その地に建設されました。スカイツリーは、完成前から、新たな観光名所となっており、まさに東武鉄道は「損して得とれ」を地でいったといえましょう。東京スカイツリーの建設目的は、東京都心部の超高層ビルの増加によって、東京タワーからの送信が電波障害を生じるようになったため、TV各局が代替施設の建設の必要を痛感したことにありました。ですから当初は、地上デジタル放送のために、建設が計画されたわけではなかったのです。ところが、建設計画案作成期間中に地上デジタル放送が次第に普及し、2011年7月24日には地上アナログ放送が終了することになったため、地上デジタル放送用の電波塔に切り替えられましそしてスカイツリーは、2012年2月に当初の予定通りに竣工しました。その後試験放送などを経て、これまた当初の予定通りに、2012年5月22日に開業しました。開業初年度の来場者数は、東武鉄道の予想を大きく超えました。事業主体は東武鉄道が筆頭株主の「東武タワースカイツリー株式会社」。事業費は約500億円。このために、同社は500億円のユーロ債のCBを発行して資金調達を行いました。発行後に円高=ユーロ安が進行しましたから、同社はかなりの為替差益という恩恵も受けらました。
2013.07.14
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クロニクル 都教委学校群制度導入1966(昭和41)年7月13日47年前のこの日、東京都教育委員会は、高等学校の入試改革の一環として、都立高入試に学校群制度の導入を決め、同時に試験実施強化を5教科(国・社・数・理・英)から3教科(国・数・英)に減じ、受験生の負担を軽減する方向に踏み出しました。志は悪くなかったと思うのですが、この制度によって、受験する群は選べても、郡内の学校のどこに入学するかは、自らの意志で選べなかったことから、いきおい学校を選べる私学への志願者が急増することになりました。その結果、私立校受験がヒートアップするなど、入試改革としては、決して成功したとはいえない結果になりました。
2013.07.13
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クロニクル 源頼朝征夷大将軍に1192(建久3)年7月12日古い事になります。821年前になります。源平の合戦を制した源頼朝は、鎌倉に根拠地を構えて、武家政府の体裁を整えはじめると共に、京都の朝廷の実験を握る後白河法皇に対し、征夷大将軍への任官を強く求めました。しかし後白河法皇は、武家政治の樹立を念願する頼朝の狙いを察して、これを認めませんでした。この年、後白河法皇が病を得て亡くなり、短時日の内に、朝廷内の後白河派は一掃され、この日行なわれた新たな人事の一環として、頼朝は念願の征夷大将軍の地位を手にすることが出来たのです。ここに頼朝は、名実共に武家の棟梁となり、鎌倉幕府体制はここに一応の完成を見ることになりました。
2013.07.12
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クロニクル 御木本幸吉、真珠の養殖に成功1893(明治26)年7月11日120年前のことです。日清戦争が始まる1年前のことです。この日、後に真珠王と呼ばれるようになる御木本幸吉が、初めて真珠の養殖に成功したのです。彼が、「私は、いずれ世界中の女性の首を絞めてみせる」と豪語したのは、この数年後のことでした。この発言は、御木本真珠のネックレスを、世界中の女性が憧れる商品、しかも誰もが身につけることが出来そうなリーズナブルな価格帯の商品に、育ててみせるという、並々ならぬ決意の表明でした。
2013.07.11
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クロニクル 『ぴあ』創刊1972(昭和47)年7月10日41年前のこの日。雑誌『ぴあ』が創刊されました。『ぴあ』社は社長の矢内廣が中央大学在学中に起業したもので、学生起業の走りとなリました。『ピア』は、当初は映画情報・コンサート情報をまとめた雑誌でしたが、昨今では、雑誌にチケット情報はなく、『ぴあ社』はインターネットを利用したチケット販売に主力を移しています。
2013.07.10
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クロニクル 後楽園遊園地開園1955(昭和30)年7月9日58年前のこの日、当時の後楽園球場の脇に、後楽園遊園地が開園しました。話題の中心は、日本初のジェットコースター。野球場へ通う傍ら、横目で見ながら通り過ぎる人も多数おりました。何しろ当初は、日本でここだけ、ナイターの始まる直前の時間でも、行列に切れ目はなく、ナイター観戦前にチョット乗っていこうなんて、とても出来かねる大盛況でした。それが今では……、人間の欲望、贅沢にはキリがないですね……
2013.07.09
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クロニクル マッカーサー、警察予備隊創設を指令1950(昭和25)年7月8日63年前の1950年は、プロ野球が2リーグ制に移行した年であり、また6月25日に、朝鮮戦争が始まった年です。一方で、日本はまだ第二次世界大戦の連合軍の占領下にありました。それゆえ、当時の最高権力は、連合軍総司令部(GHQ)にありました。GHQの総司令官マッカーサーが、日本統治の最高権力者だったのです。そのマッカーサーが、この日、吉田茂首相宛て書簡の中で、警察予備隊の創設と、海上保安庁の拡充を指令しました。警察予備隊は、後の自衛隊の前身です。このマッカーサー指令に従って、政府は大慌てで、警察予備隊の創設準備を開始、8月10日に警察予備隊令を公布するに到りました。7月8日は、日本の再軍備への歩みが始められた日です。
2013.07.08
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クロニクル サミット東京で開催1993(平成5)年7月7日20年前の今日、1975年のランブイエから数えて19回目のサミットが、東京で開幕しました。次ぎの日本開催が、2000年の沖縄サミット。その次が2008年の洞爺湖サミットです。洞爺湖サミットもまた7月7日が開幕日でした。この93年サミットのホスト役は宮沢首相が務めたのですが、彼は、前月18日に、衆院での内閣不信任決議案の可決成立を受け、解散総選挙に踏みきっておりました。その結果はご存知の通りで、サミット開幕から11日後の18日の総選挙に破れ、退陣することになりました。その7年後の沖縄サミット直前の4月2日には、時の小渕首相が脳梗塞に倒れて退任、急遽密室の幹部談合で選ばれた森首相が、ピンチヒッターを務めたことは、ご存知の通りです。
2013.07.07
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クロニクル 下山事件1949(昭和24)年7月6日64年前の出来事です。当時私は小学校の1年生。日本がまだGHQの占領下にあった時代の事件でした。当時の下山国鉄総裁が、前日の7月5日の出勤途上で行方不明となり、翌日(つまり64年前の今日)未明(午前0時30分頃)に、轢死体で発見されたのです。国鉄常磐線の北千住・綾瀬間でした。下山総裁の死をめぐっては、自殺説と他殺説が激しく対立しましたが、遺体の損傷が激しく、解剖によってどちらと特定することが難しかったこともあり、警視庁は公式の調査結果を公表することなく、捜査をうちきりました。
2013.07.06
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クロニクル 後楽園球場の初ナイター1950(昭和25)年7月5日日本でのナイターの始まりは、1948年にの横浜タイカップ球場(当時)で行なわれた巨人対中日戦だったのですが、この成功で各地の球場は、競ってナイター設備の建設に力を入れるようになりました。その結果、設備が整った1950年から、ナイトゲームがその数を増やします。後楽園球場のナイター設備が完成し、初めてのナイターが行なわれたのが、63年前の今日のだったのです。パリーグの毎日オリオンズ対大映スターズの対戦でした。当時の新聞記事を紹介します。「8基の自慢の投光器から放たれる70万燭光、光が緑の芝生をホワイトグリーンに浮かび上がらせ、インフィールドの赤土は国技館ほどの明るさだ。スポーツセンターの後楽園にまた一つ加えられた新名所… ファン層も昼のゲームと違って、天下晴れてのサラリーマンや学生もいるし、OLも多い。晩飯を済ませ、爪楊枝を加え扇子を持ったユカタがけもチラホラ。売店のビール、ホットドックも飛ぶように売れ、売り子はホクホク顔だが、アイスクリームやアイスキャンデーは昼間ほど売れない。……… なおナイトゲームなので、審判も5人付ける慎重さである。」当時日中や薄暮のゲームの審判は3人でした。何となく、当時の雰囲気が見えるようですね。
2013.07.05
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クロニクル 新空港、成田に決定1966(昭和41)年7月4日442年前のこの日、政府は閣議決定という形をとって、新東京国際空港の建設地を、千葉県成田市(三里塚)に決定しました。それまでは、千葉県木更津市沖の埋立地などが、候補にあがっていたのですが、急転直下成田に決まったのは、予定地内に皇室の御料牧場があり、土地買収が比較的容易であろうという理由によるものでした。しかし、この政府判断は、予見に基づく極めて甘い判断であったことが、間もなく露見します。 ご料地が中心部分を占めるといっても、この地に先祖伝来の農地を持ち、代々農業や牧畜を営んできた人達もあり、その人達が、揃って頭越しの決定に大きな怒りを示して、反対運動に立ちあがったのです。ここに、三里塚・芝山空港建設反対期成同盟が結成され、長く続く空港反対運動が幕を上げたました。その結果、成田空港は、建設決定から13年もかかった1978(昭和53)年になって、ようやくひっそりと開港を迎えるという、大難産となったのです。しかも横風用の第二滑走路を欠いた片肺の飛行場として……。
2013.07.04
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クロニクル ザビエル鹿児島に到着1549(天文18)年7月3日464年も前のことになります。この日、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが、日本人ヤジロウの案内で、鹿児島に上陸しました。当時43歳でした。そうすると、464年前に43歳だったのですから、ザビ神父を名乗る私は507歳ということになります。となると『日本書紀』に出てくる非実在の神武天皇に比べても、その2倍以上生存していることになります。まさにありえないですね。(苦笑)ザビエルはスペインバスク地方の貴族の出身で、イグナティウス・ロヨラらと共に、プロテスタントに押されっぱなしのカトリックの改革を推進しようと、1533年にパリでイエズス会を創設します。そして、自ら好んで遠いアジアの地での布教活動を通じて、新たなカトリックの信者を獲得することに、生涯をかけました。その点、イエズス会の代表に納まり、1度もパリを離れることなく、王権と結託してカトリック界での影響力を増そうとしたロヨラの生き方とは、180度異なる生き方をした、世俗権力とは無縁の人でした。ザビエルは1442年にインドのゴアに到着、ゴアを中心に布教に励んでいましたが、1547年にマラッカでの布教中に、日本人のヤジローと出会い、ヤジローに聞いた日本に興味を抱いて、日本での布教に乗り出す決心を固めたとされています。鹿児島に上陸したザビエルは、領主の島津貴久に謁見することを許され、布教の許可を得たのですが、布教上のライバルとなる仏教を激しく攻撃したため、住民の反発をかって鹿児島にいられなくなり、肥前平戸、周防山口、京都などに活動の場を移しました。2年後1551年、日本での布教を成功させるには、中国での布教が重要であるとの結論を得て、中国にわたり、1552年マカオで客死しました。 享年46歳でした。
2013.07.03
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クロニクル 雪印乳業製品で集団食中毒2000(平成12)年7月2日もう13年になるのですね。まだ記憶に新しいところですが、この日、雪印乳業の大阪工場から出荷した乳製品で、集団食中毒が発生しました。食中毒患者は1万人を超え、大きな社会問題になりました。その結果発生から5日後の7月6日、同社社長が引責辞任を発表しましたが、失われた信用は、簡単には回復せず、同社の業績は大きなダメージを受けました。ここで、食品会社にとって、特に消費者の信用が大事だということは、良く分かったはずなのですが、同社の系列会社の雪印食品は、食中毒の記憶がまだ強く残る1年半後の2002年の1月に、牛肉偽装事件を起こし、懲りない雪印として、社会的糾弾を受け、遂に会社解散に追い込まれました。それにしても、この時期は食品にまつわる偽装事件が続きました。船場吉兆からウナギの偽装、伊勢の赤福から北海道の白い恋人たちまで、食品偽装のオンパレードでした。日本の商売人の誇りであった商道徳はいったいどこへいったのかといった、趣でした。最近は大丈夫なのでしょうね…。
2013.07.02
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クロニクル EC発足1967(昭和42)年7月1日もう46年も前になるのですね。この日欧州共同体(EC)が発足しました。ECの前身は、1958年発足のヨーロッパ経済共同体(EEC)です。そのEECの前身は、1950年にフランスの外相が提唱し、ドイツの外相が積極的に賛意を表明したことから具体化し、1952年に実現をみた、ヨーロッパ石炭・鉄鋼共同体(ECSC)でした。このECSCが経済の全分野に広がり、それが経済のみでなく、政治面にまで広がり、さらには通貨統合にまで踏み込んだ欧州連合(EU)にまで、成長するとは、まだこの時点では、考えもしませんでした。参加国も、当初はフランス、ドイツ、イタリアにベネルックス三国を加えた6ヶ国。そこにイギリス(通過統合には未参加)が加わり、スペイン、ポルトガルが加わりと、次第に参加国も増えていったのですが、その中心は、長く争いの続いたフランスとドイツの連携にあります。世界が驚いた独仏の連携でしたが、そのアジア版となると、日中の和解と連携が不可欠なのですが、独仏に比べると対立期間は短いのですが、小異を捨てて大同につくのが苦手な、双方の国民性からすると、こちらの方はまだまだ難しそうですね。
2013.07.01
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