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クロニクル NHKラジオ除夜の鐘を初放送1927(昭和2)年12月31日86年前の大晦日のことです。実はこの日の前日、86年前の12月30日は、上野~浅草間の地下鉄が開通した記念すべき日でした。地下鉄開通の記念という訳ではなかったようですが、この日NHKの前身の社団法人「東京放送局」は、上野寛永寺の除夜の鐘を、はじめて実況中継して、話題を集めました。以後、除夜の鐘の実況放送は、毎年の定番となって行きました。 今年も今日1日になりました。みなさんどうぞ良いお年を…
2013.12.31
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クロニクル 防衛費対GNP比1%を突破1986(昭和61)年12月30日27年前のことです。この日開かれた臨時閣議で、政府は62年度予算原案を閣議決定したのですが、そこでの注目点は、防衛費がGNPの1%枠を超える1.004%となったことでした。 膨張する防衛予算にどこで歯止めをかけるかは、当時の世相の中では、大きな国民的関心を集めており、1976年に当時の三木内閣は、防衛費の歯止めをGNPの1%を超えない範囲とすることを閣議決定し、それを内外に発表しました。当時の日本経済は第1次オイルショックからの回復過程にあり、GNPが増える範囲での防衛費の伸びは可能なわけですから、厳格な防衛費の緊縮予算とは趣が違うのですが、ともかく政府自らが目安を発表したこと自体が評価されました。 中曽根内閣はこの三木内閣の精神を踏みにじり、GNP比1%枠の突破に全神経を集中したのです。ここに、「日本は将来ともに、軍事大国にはならない」という「平和の国日本」の国民的合意のシンボルは、突き崩されました。 戦後も41年が経過し、戦争の記憶を持たない世代が圧倒的になる中、政界を取り巻く空気も大きく変わりつつあることを明かにした一齣でした。
2013.12.30
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クロニクル 第一次農地改革始まる1945(昭和20)年12月29日68年前のこの日、農地調整法が改正公布されました。ここに第一次農地改革がスタートしましたが、まだ地主制温存の雰囲気が強く、改革は不十分なままで、この時実現したのは、事実上小作料の金納化だけでした。そのため、GHQのダメ出しを受け、翌46年10月21日に自作農創設特別措置法が公布され、本格的な農地改革が進みはじめたのでした。
2013.12.29
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クロニクル 東洋拓殖会社設立1908(明治41)年12月28日105年前のことです。1945(昭和20)年の敗戦まで、日本の朝鮮経営の中核のひとつとして、大きなウェートを占め続けた国策会社、東洋拓殖株式会社が、この日関連法の成立を待って設立されました。時に,日本に拠る韓国併合=完全植民地化の2年前のことでした。東洋拓殖は,朝鮮における最大の大土地所有者となり、農業経営を業務の中心にしていったのですが、その土地の多くは、朝鮮農民の無知につけ込み、登記簿に登記されていない土地を次々に奪って、自分のものにしていったことが、今日では良く知られており、朝鮮農民の怨嗟の的となっていた会社でした。その後、支店を通じて、「満蒙」や「南洋」にも業務を拡大したのですが、日本の敗戦により、解体整理されました。
2013.12.28
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クロニクル 仲見世の誕生1885(明治18)年12月27日今日は明治のお話です。明治生まれの最もお若いでも、お生まれは明治45(1912)年ですから、101歳でいらっしゃいます。「明治は遠くなりにけり」どころか、追憶の彼方の出来事になってまいりました。その明治も前半期、明治憲法も帝国議会も、そして教育勅語もいまだ誕生していない、まさに「鹿鳴館」華やかなりし時代のことです。今日が浅草仲見世の128回目の誕生日です。そうなんです。この日浅草寺境内に、1度に139店の仲見世商店街が新規オープンしたのです。煉瓦造りのお洒落な建物でしたから、連日大いに賑ったそうです。惜しむらくは関東大震災とその後の火災で、この建物群は跡形もなくなり、その後鉄筋造りの建物に建て替えられました。
2013.12.27
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クロニクル ルーマニア革命成就1989(平成元)年12月26日24年前のことです。ベルリンの壁崩壊に驚かされた一連の東欧革命の殿(しんがり)は、ルーマニアが勤めることとなりました。12月16日に西部の都市ティミショアラで起きた民衆反乱は、軍をも巻き込んで次第に拡大にし、21日には国防軍が革命戦線に加わることを決定し、大勢は決しました。こうしてルーマニアの共産党政権が崩壊し、革命の指導部救国戦線は、チャウシェスク夫妻を軍事裁判にかけ、銃殺刑に処しました(25日)。こうして翌日の26日、ルーマニア革命は成就し、救国戦線評議会が新指導体制を発表して、暫定政権が樹立されました。
2013.12.26
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クロニクル トウ小平路線確認1990(平成2)年12月25日23年前のこの日、中国共産党の第13期7中全会は、トウ小平の改革・解放路線を正式に確認しました。ここに中国共産党は、共産党1党独裁の政治体制を堅持したままでの、経済発展の大胆な導入に、大きく舵をきりました。それはいわば、社会主義体制の下での資本主義経済の導入ともいうべき試みでした。こうして中国は、先に豊かになるものがあっても良いという、トウ小平路線の下で、社会主義市場経済と銘打って、広州から上海にかけての沿岸地帯の経済特区を中心に、大胆な外資の導入なども組み込みながら、驚異的なスピードで経済発展を続け、いまや蘇州、大連、北京、天津、重慶などでも工業化が進み、押しも押されもしない経済大国の一角に名を連ねる勢いを示しています。昨今は、さすがにその勢いも減速気味ですが、世界経済に占める中国のウェートは、以前に比べ格段に大きくなっており、中国経済が何とかバランスをとり続けることが出来るのかどうかは、来年以降の世界経済の大きな関心事となりそうです。
2013.12.25
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クロニクル 新宿クリスマスツリー爆弾事件1971(昭和46)年12月24日42年前の事件です。この日、新宿三丁目の警視庁四谷署追分交番近くで、買い物袋に入った高さ50cmほどのクリスマスツリーが爆発し、警察官2人と通行人7人が重軽傷を負う事件がおきました。クリスマス・ツリーに偽装して、時限爆弾が仕掛けられていたのです。この事件の6日前には、土田警視総監邸でピース缶爆弾が爆発する事件があったばかりでしたから、いよいよ新左翼の爆弾テロが、市井の人々を巻き込んだ無差別テロにまで広がり始めたのかと、世間の注目を集めた事件でした。
2013.12.24
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クロニクル 石橋内閣成立1956(昭和31)年12月23日57年前のこの日、石橋湛山内閣が成立しました。石橋氏は、9日前の14日に行われた自由民主党の総裁選において、石井光次郎、岸信介両氏と激しく総裁の座を争いました。総裁選では、派閥抗争で優位に立ち、本命視されていた岸信介幹事長(当時)の総裁就任を阻止すべく、投票前日に石井光次郎氏との間で、2,3位連合を作り上げることに成功しました。 こうして翌日の投票では、過半数を確保できなかった岸氏に次いで2位となり、決選投票に持ち込むことに成功したのです。この結果、決選投票では、見事岸氏を逆転することに成功したのです。こうして誕生した石橋内閣でしたが、翌年早々病に倒れ、首相としての職責が果たせないという理由で、2月23日に、在任僅か63日で、総辞職して退任するに至ります。引き際は見事でした。 石橋氏の辞任により誕生したのが、岸信介内閣でした。
2013.12.23
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クロニクル 伊籐博文初代首相となる1885(明治18)年12月22日128年前になります。この日内閣制度が発足して、伊藤博文が初代総理大臣に就任することが決まり、同日伊藤が組閣を完了して、第一次伊藤内閣がスタートしました。外務大臣井上馨、大蔵大臣松方正義、内務大臣山県有朋、陸軍大臣大山巌、海軍大臣西郷従道、文部大臣森有礼、司法大臣山田顕義と長州から4人、薩摩から4人と、薩長出身者を仲良く4人づつ配した、完全な藩閥内閣でした。他に土佐藩出身の谷干城が農商務大臣、幕臣だった榎本武暢が逓信大臣となっています。それだけにバランスが取れていましたので、この内閣は1888(明治21)年4月30日まで、2年4ヶ月と、この時期にしては長続きした内閣でした。
2013.12.22
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クロニクル 首都高と東名の接続なる1971(昭和46)年12月21日42年前ですね。この日、首都高速3号渋谷線の渋谷~用賀間が開通しました。これで渋谷線は全線開通となり、首都高速と東名高速とが接続されました。ちょうど30代前半の74年から75年にかけ、組合の役員をやっていた関係で、都心からこの道を通って、当時住んでいたよみうりランド前まで、深夜のご帰還というのが、何度もありましたので、この道は懐かしい道です。深夜でも渋滞が多かったですね。
2013.12.21
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クロニクル マカオ中国に1999(平成11)年12月20日14年前のこの日、中国はポルトガルの領有を黙認していたマカオを回収、マカオにおける中国の主権を回復しました。イギリスの香港返還から2年と5ヶ月後のことでした。マカオは、珠江のデルタ地帯にある、南北約5kmの小半島で、16世紀にポルトガルが来航、マラッカ、ゴアと共にポルトガルのアジア貿易の拠点として繁栄しました。この間、ポルトガルは中国当局に多額のワイロを送っては、マカオにおける交易の独占を続けたのですが、19世紀半ばから植民地支配に転じました。第二次大戦後に成立した中華人民共和国政府は、ポルトガルにマカオの返還を要求しました。そのときポルトガル政府は、流入する難民に反中国、親台湾の活動を一切させない方針を貫き、1965年には台湾政府とも断交するなど、親中国の姿勢を貫くことで、99年のこの日まで、中国政府に領有を認められてきました。そしてこの日、香港と同じく、ポルトガルの領有期限の満了をもって、中国政府に返還されるたのです。
2013.12.20
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クロニクル 日本の第9次越冬隊南極点に到達1968(昭和43)年12月19日45年前のことです。村山雅美越冬隊長率いる、日本の第9次越冬隊が、日本人としては始めて、南極点に到達しました。高度経済成長も後半に入り、日本の工業化の進展の中で、砕氷船その他の性能も、格段に進歩した結果でした。 時は、全共闘運動の最盛期。東大と日大の全額ストライキはなお勢いを保ち、翌年の東大入試の中止が発表となる、少し前のニュースでした。 ピリピリした世相にあって、このニュースは一服の清涼剤でした。
2013.12.19
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クロニクル 日本と韓国国交を回復 1965(昭和40)年12月18日48年前の事です。この日、日本と韓国との間に日韓基本条約が結ばれ、日韓両国は国交を回復しました。ここに両国の経済は結びつきを強め、やがて韓国経済は飛躍の時を迎えるに至ります。岩波書店の『漱石全集』は、活版印刷の活版を韓国で組み、日本に空輸して校正、印刷にあたった第1号として、知られています。 日韓両国は、古代から密接な関係を持ち、言語的にも大変近い関係を持ちます。何しろ主語の次に動詞(述語)が来ない言語は、世界広しといえども、日本語と朝鮮語しかないのですから。そして漢字も仏教も含めて、中国の文物の多くは、みな朝鮮半島を経由して日本にやってきたものです。現在のギスギスした両国関係が、早期に改善されることを願ってやみません。
2013.12.18
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クロニクル ライト兄弟初飛行1903(明治36)年12月17日110年前のこの日、ライト兄弟が人類史上始めて、エンジンを備えたプロペラ飛行機で空を飛びました。兄弟は自転車修理業を営みながら、自作の自転車も販売するなどして、貯めたお金を飛行機製作につぎ込み、この日の成功に至りました。3日前の12月14日に1度飛行を試みましたが、兄のウィルバーが操縦を誤り、失速して失敗、部分的な破損を修理して、この日に再度の挑戦となったのです。今度は弟のオービルが乗り込み、12秒間120フィートの飛行に成功しました。午前10時半頃でした。2人は交互に飛行を繰り返して、距離と時間を延ばし、この日最後の4度目の飛行では、59秒と言いますから、約1分の飛行に成功、距離も852フィートに伸びました。この飛行機、フライヤー号は、この日昼頃から強まった大風で、4度目の飛行の後、大破してしまい、この日の飛行実験は、そこで打ち切りとなりました。
2013.12.17
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クロニクル 田中角栄元首相死す1993(平成5)年12月16日ちょうど20年になるのですね。20年前のこの日、元首相にして、ロッキード事件の刑事被告人でもあった田中角栄(通称カクさん)元首相が、死去しました。75歳でした。1972(昭和47)年に、54歳の若さで首相に就任。小学校卒の学歴から、今太閤と囃されて人気も沸騰、日中国交回復に成功するなど、治世の前半は順調でしたが、石油ショックの到来と狂乱インフレに悩まされ、田中金脈を追求されて、74年11月、辞任を余儀なくされました。その2年後の76年2月、ロッキード事件が勃発、7月末に逮捕されました。逮捕された田中元首相は、自分を逮捕させた自民党政治への報復を目指して、数は力とばかり、自派閥の拡大に熱中。50~60人規模だった派閥の適正規模を無視して、100人を超える超大派閥に育てて、キングメーカーに徹して、党内に隠然たる力を振るいました。金権体質に染まりきった自民党と日本政治という図式は、ここに出来上がりました。その後、85年に脳梗塞を煩い、その後は政界を引退。一審で有罪判決を受けて、直ちに控訴していたロッキード裁判も、被疑者病気で開店休業状態になりました。そして、この日、8年9ヶ月の闘病を経て、田中元首相は死去。ロッキード裁判は、最終結論を出すことなく、ウヤムヤの終わりを迎えたのでした。
2013.12.16
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クロニクル 第1回レコード大賞発表1959(昭和34)年12月15日「黒い花びら 静かに散った あの人は帰らぬ 遠い夢……」、悪童の雰囲気を漂わせた水原弘が、独特の野太い声で歌った『黒い花びら』は、確かにこの年を代表するヒットナンバーでした。レコード大賞、通称レコ大は、54年前に始まった流行歌の音楽賞でした。スタートしたこの年は、誰もレコ大の存在を知らず、受賞曲の発表を知った時に、あちこちで「レコ大って何?」という囁きが聞こえたものでした。レコード大賞の主催団体は、社団法人日本作曲家協会と日本レコード大賞制定委員会で、TBSが後援する形で、50年以上にわたって続いてきました。ただし、第1回から第10回までは、審査発表と授賞式は別々になされていましたので、この日即ち15日は、受賞曲、受賞者が公表された日でした。第1回の授賞式は、12月27日に行なわれました。時移りて、人かわり、今日ではレコードを知らない世代が、増えてきました。まさに昭和も遠くなってきましたね。
2013.12.15
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クロニクル 日本OECD常任理事国に1965(昭和40)年12月14日今から48年前のことです。丁度戦後20年が経過し、東京オリンピックが終了して1年が経過した時でした。世界的にはヴェトナム戦争へのアメリカの介入が泥沼化の様相を強めていた時期です。そういう状況のこの日、日本がOECD,経済協力開発機構の常任理事国に推挙され、満場一致に近い支持を得て、就任することになりました。以後ODA(政府開発援助)も年々増額され、日本は次第に援助大国になっていったのですが、2000年代以降財政難を理由に、ODA予算が減らされているのが残念です。日本の平和的支援が必要な国はなお多く、そういた支援が将来の日本の国際的な発言力の向上に、舞い違いなく大きなプラスになるのですから…。
2013.12.14
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クロニクル ポーランドに戒厳令1981(昭和56)年12月13日32年前のこの日、ポーランド政府は戒厳令を発して、自主管理労組連帯のワレサ議長を軟禁しました。ポーランドでは、前年8月14日に、グダニスクの造船所で大規模なストライキが発生し、そのストの指導機関として、9月22日に自主管理労組「連帯」が発足、ワレサ委員長が誕生していたのです。しかし、1968年に、プラハの春を謳歌し、「人間の顔をした社会主義」を標榜したチェコ・スバキアのドプチェク指導部が、ソ連軍の戦車に踏み潰された例に見られるように、東欧圏の国々の自由化運動に、ソ連指導部の警戒感は、ことのほかに強いことは、良く知られておりました。このことを熟知するポーランドでは、ヤルゼルスキー将軍がクーデタで政権を掌握。ソ連の介入を避けるために先手を打ち、戒厳令を発令して、ワレサ議長を予防的に軟禁状態に置いたのです。それは、連帯運動の広がりを一時的に抑えることにはなりましたが、それ以上にソ連に介入の口実を与えることを、用心深く潰した行為でもあったことを、見落とすことは出来ません。 やがて、ソ連でゴルバチョフ書記長が登場、ソ連指導部の方針転換がはっきりすると、ワレサ委員長は禁を解かれ、連帯の運動も復活。ポーランドが東欧革命のフルンロランナーを務めることになりました。、
2013.12.13
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クロニクル サンウェーブ工業倒産1961(昭和36)年12月12日52年前のこの日、台所の流し台の大手メーカー、サンウェーブ工業が会社更生法を申請、事実上倒産しました。現在のような、システムキッチンのまだない時代でしたが、ステンレスの流し台は、同社が開発し、高度経済成長の波に乗って、倍々ゲームで既存住宅にまで、販路が広がりつつあっただけに、年末の倒産劇は、意外感を持って受け止められました。強気になりすぎての、過剰な設備投資が倒産の原因だと報じられました。同社の社長令嬢が、大学の同級生だったのですが、気の毒なほど落ち込んで、しばらくはクラスメートが声をかけるのもはばかられるほどでした。
2013.12.12
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クロニクル 100円銀貨登場1957(昭和32)年12月11日56年前の今日のことです。この日初めて100円銀貨が、日本の貨幣史に登場しました。しばらくは、自由民権運動の産みの親として知られる、板垣退助の肖像を刷り込んだ100円札と併用されましたが、この日以後、紙幣は刷り増しされることはなく、時間の経過と共に紙幣は姿を消して行きました。100円玉もまた、銀貨は製造原価が割高なため、10年後の1967年には、現在も使われている白銅貨に代えられました。100円玉にまつわる、神父の個人的な思い出話で恐縮ですが、1962年の8月に約1カ月、北海道をYHを巡りながら、時折友人宅に泊り込んだりもして、1人旅を楽しみました。この北海道旅行で、千円札を出してのつり銭に、100円玉を手にしたのは、札幌でのたった1回しかなかったことが、強烈な印象として残っています。銀貨の発行から5年にしてなお、北の大地には、いまだ100円銀貨は行き渡っていなかったのです。通貨の流通にも地方色があることを、旅の実感として学びました。これは意外な発見でした。
2013.12.11
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クロニクル 電気釜の登場1955(昭和30)年12月10日それは記念すべき日でした。58年前のこの日、東芝は自動式電気釜を製品化し、大々的に売り出しました。1度電源をONにすれば、後は炊き上がれば自動的にスイッチが切れるので、炊飯中に見張っている必要もなく、あっという間にクチコミで主婦の間に広まり、大ヒット商品になりました。家庭の電化と、主婦労働の軽減化の第1歩は、炊飯器=電気釜によって記し付けられたのです。やがて60年代入る頃には、掃除機、テレビ、二層式洗濯機、そして冷蔵庫と、電化製品のヒット商品が勢揃いするにいたります。 こうした製品群が、主婦労働を軽減し、時間に余裕の出来た主婦たちは、パートタイムの労働力として、不足がちの労働力を下支えし、かつまた消費の刺激剤にもなるなど、二つの面で高度経済成長に、プラスの効果を齎したのです。
2013.12.10
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クロニクル 自衛隊のイラク派遣計画決定2003(平成15)12月9日ちょうど10年前のことです。この日、自公連立の小泉内閣は、自衛隊のイラク派遣に関する基本計画を決定しました。1947(昭和22)年5月3日に施行された昭和憲法は、その前文において、「日本国民は、恒久の平和を念願し、……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と正々堂々と宣言し、この前文を受けて、平和主義を掲げる9条を設けたのでした。9条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と述べ、さらに2項において、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」とはっきりと述べています。武力紛争が続く時代にあって、この戦力不保持を宣言した憲法は、国際的に見て異彩を放つ立派な憲法だったと私は思います。しかし、だからこそ、日本国憲法が拠って立つ平和主義は、理想主義の旗を高く掲げた世界平和主義の視点に立つ、攻めの憲法にして行く責務が、日本国民には科せられていたのだと、思うのです。惜しむらくは、敗戦日本国民は、世界に対して広く訴えるという、世界平和主義の視点に立つことが出来ないできました。そのため、狭い一国平和主義に閉じこもる道を選んで良しとしてきてしまいました。そのため、身勝手だと世界から指摘され,遂にその指摘に尻押しされて、遠く離れたイラクに兵を派遣せざるをえなくなってしまいました。そして今日、特定秘密保持法まで成立させて、集団的自衛権の行使容認へと、進もうとしているのです。この方向は、国際紛争の解決に武力を用いないとする憲法の規定に、明らかに反する暴挙です。我々は、そういう政府に対して、もっと強く抗議する必要があるように、思います。
2013.12.09
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クロニクル 14才から刑事罰2000(平成12)年12月8日13年前のことです。この日、刑事罰の対象年齢を、16歳から14歳に引き下げる少年法の改正が施行されました。多発・悪質化・低年齢化する少年犯罪にどう対応するかを議論した結果でした。バブル期以降の日本では、終身雇用の伝統に風穴があき、自信を失った大人たちの姿が目立ち、社会規範の衰えが感じられました。そうしたいきさつが少年達にも現れ、学校や家庭の教育力の衰え、テレビゲームに嵌まり過ぎた思考のデジタル化などが複合的な要因となって、様々な少年犯罪の増加が目立ったのでした。こうした経過から成立した改正だったのですが、現在までのところ一向に抑止効果を発揮しているようには見えません。問題の根を断ち切る本質の改善を目指さない限り、状況の改善は難しいのですが、安倍内閣の目指す教育改革の方向は、こうした問題の解決に逆行しているようにしか見えないのが、残念です。
2013.12.08
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「貧乏人は麦を食え」発言を巡って 昨夜記した、「貧乏人は麦を食え」と言う、池田発言について、補足させていただきます。彼は、広島のつくり酒屋の息子で、決して先祖代々のエリートではありませんでした。東大から大蔵省に入り、吉田首相の秘書官として官邸に出向、運輸省から出向した佐藤栄作と共に、吉田に進められて政界に入りました。そして、1年生議員にして蔵相に抜擢されたのです。同じく運輸相に抜擢された佐藤と共に、吉田学校の優等生とやっかみをかねて自由党内で囁かれていました。2人の1年生議員を、いきなり重要閣僚にするなど、今では考えられないことです。ちなみに池田もまた、薫陶を受けた吉田首相を見習って、優秀な秘書官を政界入りさせ、子分として育てる手法をとり、大平正芳や宮沢喜一を育て上げています。ところで池田は直言居士で、ストレートに物を言い過ぎる傾向がありました。この発言がまさにそうでした。当時なまだ、食糧難が解決せず、3度の食事を満足に取れない家庭も残っており、貧しい家庭は麦飯が主流でした。せめて銀シャリ(白米のこと)を腹いっぱい食べられるようになりたい。これが貧しき人々の願いでした。食い物があることが幸せな時代だったのです。今では、遠い昔のことになりましたから、ご存じない方も多いのですが、日本の米の自給率が100%を越えてくるのは、東京オリンピック後の1965年のことでした。それまでは米の生産量は、国内需要を満たせずに、外米を輸入して間に合わせていたのです。日雇い労働者の日給が240円。彼らが自嘲的にニコヨンを自称していたのは、1954年頃から60年にかけてですが、この頃の彼らの憧れの昼食が、中央に梅干を1個入れた銀シャリ弁当、日の丸弁当でした。それは、毎日はとても無理だったのです。底辺の労働者の暮らしが、ようやく麦飯を卒業して、毎日白米になっていったのは、60年代に入った頃からでした。美輪明宏が歌う「ヨイトマケの唄」の母さんが食べていた弁当も、週の大半は麦飯だったとお考えください。「貧乏人は麦を食え」は確かに失言でしたが、今のような低レヴェルな、実情についての無知が言わしめる失言とは、だいぶ趣が違っていました。それはストレートに事実を言い過ぎたことにあったのです。米の生産はとても足りません。当時冷害に強い品種の稲は、なお試作の段階に過ぎなかったからです。外貨も不足がちで、輸入も外貨の割当を受ける必要のある、許可制の時代でした。ですから、全世帯に米をいきわたらせることは、当面できないが、せめて麦は行き渡るようにする。食い物がない世帯は無くす。麦でもないよりは良いはずだ。池田蔵相は、ストレートにそうした思いを表現したのです。1年生議員らしい、表現を工夫しない直言でした。それは目の前の現実を指摘したものでした。しかし、この発言はストレート過ぎました。いずれ銀シャリを腹いっぱい食べられるようになりたいという、歯を食いしばって頑張っている、戦禍からの復興にようやく目鼻をつけつつある国民の神経を逆撫でしてしまったことも事実でした。同じことを言うにしても、表現を工夫せよ。これが吉田が池田に与えた注意だったと聞き及びます。2年後の「中小企業の一つや二つの、倒産、自殺はやむをえない」発言も、同じ脈絡にあります。丁度共和党のアイゼンハワーが、朝鮮戦争の終結を公約に大統領選に勝利した直後で、朝鮮特需が大きく減少を初め、日本経済に不況色が濃くなりつつある時でした。大企業の倒産は、雇用を守るために何としても避ける。しかし、なお貧しい日本の財政事情では、中小企業全てにまでは、手がまわりかねる。そちらはいくらか潰れるかも知れないが、そこまでの財政の余裕はないので、勘弁してほしい。こんな趣旨だったのです。通産相として打ち出す、当時の不況対策としては、間違ったものではありません。しかし、この発言もストレート過ぎました。この時は吉田も庇いきれず、辞任したのです。54年吉田は首相の座を降り、鳩山、石橋、岸の3人を挟んで、池田は1960年7月に首相となり、64年11月に咽頭癌の悪化に拠り辞任するまで、3期4年4ヶ月弱を務めあげました。東京オリンピックは池田首相の下で開催されました。かつての直言居士、高姿勢は影を潜め、相変わらずストレートな物言いではありましたが、放言壁は翳を潜めた見事な変身振りを見せたていました。「つくり酒屋の息子に過ぎない、自分のようなものが、首相になって良いのか」と随分と政界の先輩達に話していたという逸話は有名です。また私が特に感心するのは、首相に就任後、大好きなゴルフと、高級料亭通いを完璧に封印し、一度として禁を破らなかったことです。宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」の事故のときに、ゴルフ場からすぐに戻らなかったアホ首相や、ホテルのバー通いに居直るライオン丸首相などと、同じレヴェルで比較する気に、私はなれません。安保条約の改訂をごり押しした岸首相の後を受け、国民との和解を目指して、「寛容と忍耐」をスローガンに、国民と野党に対する低姿勢と対話路線を貫いてブレなかった政治姿勢を、私は高く評価します。所得倍増政策を掲げ、物価上昇率を上回る経済成長と賃金の増加を打ち出した政策も、当時は広く受け入れられたものでした。かつての失言を生かし、首相としての実績で、見事に汚名を挽回したと、私は考えています。
2013.12.07
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クロニクル 貧乏人は麦を食え1950(昭和25)年12月7日63年前のことです。この日、衆議院での委員会審議の席で、食糧問題に関する質問への答弁で、池田勇人蔵相が「貧乏な人は麦を食べればよい」とう趣旨の答弁をし、大きな政治問題となりました。この時は、吉田首相が庇い通したのですが、池田は2年後の11月27日、今度は通産相としての答弁において、「中小企業の倒産、自殺もやむをえない」と放言し、今度は吉田首相も庇いきれず、2日後の29日に、辞任するに至りました。
2013.12.07
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クロニクル 蓄音機の誕生 1877(明治10)年12月6日136年前になります。この日エジソンの製作した第1号の蓄音機が稼動しました。そこでこの日が蓄音機の誕生の日とされています。ただし、かつてブロ友のkopandaさんがブログに書かれたと記憶しますが、厳密に言うとエジソンは蓄音機の発明者ではありません。彼は蓄音機を人気商品に仕立てた普及者の役割を担ったと言えるようです。現在では、エジソンの2年前の1875年にフランス人エドワード・レオン・スコットが発明したフォノトグラフが蓄音機およびレコードプレーヤーの前身だったと認められています。しかし惜しいことに、スコットのフォノトグラフは音を紙の上に図形として記録する器械でした。そのため再生機能を持たなかったため、通常の意味での蓄音機ではなかったのです。それでもエジソン以前に録音された音楽が存在したことは否定できません。エジソンが発明したのは、錫箔を巻いた円筒式レコードです。ここに再生可能なレコードが出来、蓄音機とセットで販売されました。このレコードは後に蝋(ろう)管式になり、1889年頃にエミール・ベルリナーにより円盤式レコードへと改良されたのです。円盤式レコードの登場により、蓄音機の販路も拡大しました。日本ではいつ頃登場したのかというと、1910年(明治43年)に国産蓄音機ニッポンノホンが発売されたのが最初です。この時は、軍艦マーチなどが収録されたレコードが付属品としてセットになっていたそうです。
2013.12.06
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クロニクル 東京女子医大誕生1900(明治33)年12月5日113年前のこの日、吉岡弥生女史は、東京至誠会医院の一室に東京女医学校を創立しました。現在の東京女子医科大学の前身です。やがて新宿区河田町の現在に移るのですか、医学校に病院を併設したのは8年後の1908(明治41)年のことでした。女性が医師の世界に進出する道の第1歩が、ここに開かれました。成瀬仁臓が日本女子大学校を創立したのは、翌1901(明治34)年、女性の高等教育機関が、この時期に揃って誕生したことが分かります。なお、東京女子医学校並びに東京女子医大の校友会が至誠会で、至誠会病院は校友会の系列病院にあたります。
2013.12.05
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クロニクル ラオス王政を廃止1975(昭和50)年12月5日38年前のことです。この年、4月30日、南ヴェトナムの開放が実現し、ヴェトナム戦争は、ヴェトナム人民の勝利に終わりました。その上、米軍は地上戦の範囲を、隣国のカンボジャにまで拡大していたため、カンボジャでもシアヌーク王政が崩壊し、ポル・ポト派による社会主義政権が誕生しました。こうなると、旧フランス領インドシナの残された一郭ラオスの動向に注目が集まります。そして、そのラオスで、この日革命が成就しました。革命派は、王政の廃止を決定し、さらにラオス人民民主共和国への国名変更を発表しました。こうして、インドシナ3国は、揃って社会主義国への道を歩みだしたのです。それにしても、この頃は、ラオスに関する報道が、見られませんね。ミャンマーの報道が増えた現在、ラオスはどのような状況にあるのでしょうね。東南アジアに残された唯一の謎の国、ラオスの開国は、いつになるのでしょうね。
2013.12.04
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クロニクル スプートニク2号打ち上げ 1957(昭和32)年11月3日56年前のことになります。この日、ソ連は機内にライカ犬を乗せた人工衛星「スプートニク2号」の打上げに成功しました。。史上初の生物打上げ実験に成功したのです。打ち上げられたライカ犬は、実験の犠牲とされました。当初は、打ち上げ10日後にクスリ入りの餌を与えられ、安楽死するに至ったと報じられていましたが、その後、打ち上げ4日後にキャビン内の気温がコントロール不能となって上昇し、死亡していたことが明らかにされました。一方で死亡はもっと早かったという情報もあって、正確なことはわかっていません。分かっていることは、この日以前の動物を乗せた打ち上げ実験は、米ソ共に全て失敗に終っており、この日の打ち上げが、間違いなく最初の打ち上げ成功例だったということだけです。
2013.12.03
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クロニクル 水俣病顕在化1959(昭和34)年11月2日54年前の現実です。この日、水俣病に苦しむ不知火海の漁民等、約1500人が、新日本チッソの水俣工場に抗議のために押しかけ、工場内への立ち入りを拒む会社側と対立、怒った漁民達が工場内に乱入して、警官隊と衝突、双方に怪我人が出る騒ぎとなりました。足尾鉱毒事件に続く、大きく、かつ悲惨な公害病となった水俣病の存在が、世に知られるきっかけとなった事件でした。その後水俣病については、石牟礼道子さんの『苦海浄土』を始めとする,優れた作品群によって、全国に紹介され、世の注目を集めました。静かな内海の不知火海を公害の海に変えたのは、チッソの水俣工場が垂れ流した水銀でしたが、当時ようやく高度成長期にさしかかりつつあった日本経済の腰折れを懸念した政府は、企業を守りたい通産省の立場に配慮して、チッソ工場を養護する姿勢に終始し、チッソの廃棄水銀との有為な関係の立証責任を漁民側に求めるという、公害無策振りを発揮したのです。公害に対する当時の日本の国家や社会の姿を、今の中国の国家や社会、なにやらそのまま写しているように、思えてなりません。
2013.12.02
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クロニクル 壱万円札発行1958(昭和33)年12月1日55年前のこの日、初めで1万円札が発行されました。肖像は聖徳太子、すかしに法隆寺の夢殿が使われ、裏面は鳳凰でした。折から高度経済成長の初動を迎える時期でしたから、1万円札の発行は、まさに時宜を得たものでした。この聖徳太子の1万円札は、1984年11月1日に文化人シリーズの新紙幣として、福沢諭吉の肖像を用いた1万円札が登場するまで、26年間に渡って役目を果たしました。新1万円札の裏面は雉で、偽札防止用の技術として、特殊発光インキが使われました。20年後の2004年11月に、再度紙幣は更新されたのですが、1万円札に限って、同じ福沢諭吉が使われていますが、裏面は雉から平等院の鳳凰像に変りました。
2013.12.01
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