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クロニクル イラクで日本人青年殺害2004(平成16)年10月31日9年前の10月中旬、日本人青年香田証生さん(当時24歳)が、訪問先のイラクで、「イラクの聖戦アルカイダ組織」を名乗るグループに拉致され、人質とされました。拉致を実行したグループは、インターネットで犯行声明を出し、日本政府が48時間以内に、イラクからの自衛隊撤退に応じなければ殺害すると通告してきました。これに対し日本政府は、香田さんの解放を求めましたが、要求についてはテロリストとは交渉しないとして拒否しました。この結果、青年はグループにナイフによって首を切断される形で殺害され、9年前のこの日未明、バグダード市内で放置された香田さんの遺体が発見されました。当時私は、頚椎ヘルニアからくる左腕の筋無力症で入院中でしたから、病院でニュースを見ていたのですが、香田さんが拉致された3日後に、これは助からない。残念ながら香田さんは拉致グループに殺されるだろうと暗い気持ちになりました。香田さんがヨルダンからバスでバクダッドに移動したことは早くから報道されていましたが、どうやら香田さんは、ヨーロッパからイスラエルに渡り、そこから隣国ヨルダンに渡り、イラク入りしたらしいことが、分かってきたからです。イスラエルに入国した事実はパスポートに記録されます。多国籍軍に加わってイラクに自衛隊を派遣している日本人が、イラクの人々にとって不倶戴天の仇のような存在であるイスラエルからやってきた事実を、拉致グループが知ったらどうなるか、それは想像するに難くないことでした。少なくとも中東情勢に多少の知識があれば、イラク入りを考えながら直前にイスラエルに立ち寄るようなことはしないものです。その点香田さんは、あまりに無知でした。丁度検温にやってきた看護士さんと共にテレビニュースを覗きながら、思わず「これは助からない」とつぶやき、問われて事情を説明したことを、今でも良く覚えています。その想像は有り難くないことに、当たってしまいました。残念なニュースでした。
2013.10.31
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クロニクル 上信越自動車道全面開通1999(平成11)年10月30日14年前のことです。この日、関越自動車道の群馬県藤岡ジャンクションから、長野県長野市を通り、新潟県上越市の上越ジャンクションまで、上信越自動車道(正式名称は関越自動車道上越線)が全線開通しました。この高速道は、上越ジャンクションで北陸自動車道に接続しているため、単に長野県北信地方や新潟県上越地方と首都圏を結ぶだけでなく、関東と北陸方面を結ぶ動脈としての役割も持つ幹線道路の役割も果たしています。
2013.10.30
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クロニクル トルコ共和国誕生1923(大正12)年10月29日ちょうど90年前になります。関東大震災の約2ヶ月後という時期の出来事です。第一次世界大戦にドイツ側で参戦したオスマン帝国は、戦い敗れて大きく領土を縮小、屈辱的なセーヴル条約を押し付けられたのでした。この条約に納得できなかったムスタファ・ケマルらは、アナトリア高地中央部のアンカラに連合軍への抵抗政府を組織し、トルコ人のトルコ建設を目指して戦いを開始したのです。民衆の支持を得たケマルらは、次第に形成を挽回、英仏軍の支持を得てイズミール方面に侵入したギリシア軍との戦いに勝利し、ついにこの日トルコ共和国の成立を宣言するに至ったのです。トルコの独立を主導したケマルは、初代大統領に就任しました。 2020年の五輪開催を東京と競ったイスタンブールは、トルコ共和国最大の都市です。独立100周年を祝った翌年の五輪開催こそ、イスタンブールに相応しいように思うのですが、どうなりますか。
2013.10.29
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クロニクル ハチの一刺し1981(昭和56)年10月28日32年前になります。この日、元首相田中角栄被告に対するロッキード事件丸紅ルートの公判で、検察側証人として東京地裁に出廷した榎本敏夫被告(田中角栄被告の元秘書)の前夫人三恵子さんは、「榎本は五億円の受領を認める発言をしていた」と証言、当事者しか知り得ない受領の内幕を詳細かつ生々しく陳述しました。ここに田中被告の有罪への流れは決定的となりました。三恵子さんの発言は,「ハチの一刺し」という流行語と共に、当時の話題となりました。
2013.10.28
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クロニクル 日本軍武漢三鎮を占領1938(昭和13)年10月27日前年1937(昭和12)年の七夕の日の、盧溝橋での日中両軍の衝突によって開始された、日中全面戦争は、その後も日本政府の再三の早期収拾声明にもかかわらず、同年12月13日には南京占領と、いわゆる「南京大虐殺」事件を引き起こしました。そして、この年1月には、近衛首相の「国民政府相手にせず」という、かの有名な声明まで発表され、日中戦争は泥沼化の様相を呈しておりました。こうして4月には、『国家総動員法』が成立、5月には徐州を占領するにいたりました。そして75年前のこの日には、武漢三鎮を完全制圧と、日本軍は長江流域を遡る形で、占領地を拡大していきました。しかし、次第に広い占領地を支配しきれず、長く延びた補給線の維持に汲々とする、苦しい状況に追い込まれていくのでした。
2013.10.27
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クロニクル 朴韓国大統領暗殺1979(昭和54)年10月26日34年前のことです、この日、朴正煕韓国大統領が、側近の1人だった金KCIA部長の凶弾に倒れました。62歳でした。事件は韓国中央情報部(KCIA)の部長官邸に付設された食堂で催された政府要人の宴席で、午後7時40分頃のことでした。至近距離からの狙撃で、朴大統領は即死でした。金部長は政権末期の朴政権で、自らの地位に対する不安や、政権の腐敗振りへの批判などから凶行に及んだものと推測されています。朴大統領は1961年に軍事クーデタで政権を握り、65年には日本との国交を回復、漢江の奇跡と言われた経済成長の実現を背景に、72年には維新憲法を制定して,永久政権への道を開いたのですが、73年8月の金大中氏拉致事件など、強権的な反対勢力への弾圧などで、次第に国民の離反を招き、この頃は政権末期の様相を強めていました。朴大統領の死去後、韓国の政局はしばらく混迷しますが、年末の軍事クーデタで、全斗煥が実験を掌握、翌80年5月抵抗する光州市で、血の弾圧を強行し、8月に大統領に就任して、再び軍事独裁を樹立、安定に向かいました。
2013.10.26
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クロニクル レイテ沖海戦,連合艦隊潰滅1944(昭和19)年10月25日69年前のことです。前日24日からこの日にかけて行なわれたレイテ島沖の海戦で、日本の連合艦隊は米軍の機動部隊の攻撃により、空母4艘以下を失い、潰滅状態となって完敗しました。この作戦は、20日に米軍がレイテ島に上陸したと聞いた大本営の司令で始まりました。連合艦隊は22日に一斉に出撃、米艦隊をレイテ湾外におびき出すことには成功しますが、レイテ湾突入を図った艦隊は、米軍艦載機の波状攻撃に対応出来ず、圧倒的な航空機部隊の機動力の前に、大損害を受けて完敗し、狙いのレイテ湾突入は、果たせませんでした。特筆すべきは、このレイテ沖海戦に際して、虎の子の海軍航空部隊に、神風特別攻撃隊(神風特攻隊)が編成,組織されたことです。250kg爆弾を装着した零戦が、敵艦に体当たり攻撃すために出撃し、25日には敵の空母2艘を撃沈するなど、この時は一定の成果を上げました。しかし、レイテ湾に入れず、レイテ島の日本軍部隊との連絡もとれないままとなり、レイテ島の日本守備隊7万5千人は補給路を断たれて万策尽き、12月には、全滅の憂き目を見ることになりました。
2013.10.25
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クロニクル 国連憲章発効1945(昭和20)年10月24日68年前のこの日、国連憲章が発効し、国際連合が正式に発足しました。国際連合は、第1次世界大戦後に発足した国際連盟が、武力行使権限を持たなかったために、大きな力を発揮し得なかったことを反省して、安全保障理事会に国連軍の編成権限と、武力行使の権限を付与、さらに第2次世界大戦の当初の連合国である米・ソ・英・仏・中(中華民国)の5カ国を、安全保障理事会の常任理事国に指定いていました。この5ヶ国は安保理の議決に拒否権を持ち、5ヶ国中の1ヶ国でもが反対に回ると、例え反対が1票であっても、その決議案は否決されたことになったのです。最近の日本政府は、経済力の強化と、国連分担金の負担額の多さを理由に、ドイツなどと共に、この国連常任理事国に加わることに熱心なようですが、私は、本来公平であるべき国際社会の集まりであるはずの、国際連合において、1票の価値に不公平のある仕組みそのものに問題を感じます。なすべきことは常任理事国への加盟ではなく、常任理事国制度の廃止を提案し、その実現に努力することにあるのではないかと、考えています。 昨夜遅く、旅先から帰りました。
2013.10.24
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クロニクル 東京専門学校設立1882(明治15)年10月21日131年前のこの日、大隈重信は、都の西北の地に東京専門学校を設立し、政治経済学科、法律学科、英文学科、理学科の4学科を設置しました。入学者80名の小さな学校でした。20年後の1902(明治35)年、同校は早稲田大学と改称しました。この東京専門学校こそ、現在の早稲田大学の前身でした。 追記、明日から23日まで、ブログを休載します。24日から再開します。
2013.10.21
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クロニクル 愛国発~幸福往き1974(昭和49)年10月20日39年前ですが、この年4月に、北海道の国鉄(当事)愛国駅が発売した、幸福駅往き乗車券が、思いがけない大ヒットとなり、この日、累計で300万枚もの売り上げを達成しました。勿論愛国駅を訪れた観光客が、そんなに大きかったわけではなく、手軽なお土産とばかり、10枚、20枚と纏め買いする方が多かったようですが‥‥。時あたかも、第1次オイルショック後の不景気と物価上昇が重なり、国民生活はかなり厳しかった時でしたから、ちょっとした縁起担ぎをした世相に、幸福往きの切符は、まさにピッタリだったのですね。 やがて国鉄は分割民営化され、北海道の路線はJR北海道が引き継ぎましたが、経営の苦しい同社の下で、広尾線は廃線となってしまっています。そしてJR北海道のこんにちは、皆様ご存知のような体たらくとなっています。国鉄マンの誇りは今いずこ。残念ですね。
2013.10.19
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クロニクル 日本政府対独単独不講和宣言に署名1915(大正4)年10月19日これは、98年前、第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)中の出来事です。大戦勃発後、1ヶ月もしない内に、日本は対独参戦を決定し、9月には青島(チンタオ)のドイツ東洋艦隊の根拠地を陥落させて、こう(にかわという文字ですが、ここでは使用できません)州湾一帯を占領、さらに、逃げる東洋艦隊を追って、赤道以北のドイツ領南洋群島をも占領。日本にとっての占領目的を早々と実現していました。日本政府は、元々ヨーロッパ戦線への軍人の派遣を考えておらず、フランス、ロシア、イギリスさらにはベルギーなどからの、陸軍や海軍の派遣要請を、この時点ではすべからく拒否していたのです(1916年に入ってから、航続距離の長い駆逐艦を地中海に派遣します)。ところで、英・仏・露3国は、対独戦が長期戦になりそうな様相を強めていたことから、互いに相手がドイツと単独講和条約を結ぶのではないかと疑心暗義に陥っていたことから、1915年初め、英・仏・露三国は共同で単独不講和を宣言したのです。日本も戦後の国際会議での発言権の確保を考え、ここは列強に恩を売っておく必要があると判断し、三国の単独不講和宣言への参加を決定、この日署名にいたりました。
2013.10.19
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クロニクル 三越の女帝逮捕1982(昭和57)年10月18日思えば、この事件が老舗中の老舗百貨店三越凋落の決定打だったように思います。もう31年前のことになるのですね。この日三越の岡田茂前社長の愛人で、ワンマン社長だった岡田氏の鶴の一声を利用しては、自らが輸入した商品について、三越への独占的商品納入権を手にしていた、通称三越の女帝竹久みちが、脱税容疑で逮捕されました。この当事、三越は岡田ー竹久ラインによる商品供給体制の乱れなどから、客離れが激しく、業績不振が続き、同年6月の株主総会を前に、取締役によるクーデタがおき、電撃的に岡田解任が決まり、新規まき直しに取り組み始めていたところでした。竹久逮捕も三越の新経営陣の警視庁への告発により、実現したものでした。当事の週刊誌を大いににぎわした事件でした。
2013.10.18
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クロニクル 初の近代的水道施設横浜に完成1887(明治20)年10月17日新橋汐留の再開発に伴う発掘調査で、江戸時代に木樋による上水施設が存在し、少なくとも江戸城や各大名屋敷に引き込まれていたことは、明らかになっているのですが、ここに記すのは開港場となった横浜の話です。横浜は寒村でしたが、用排水施設のないまま、江戸に最も近い開港場とされ、外国人居留地が作られ、人口が密集することになりました。そのため、衛生状態は悪く、コレラなどの伝染病がしばしば流行する羽目になりました。ここに衛生状態改善のために、上水施設の建設が計画され、木樋水道の建設が何度か試みられました。しかし、うまくいかず、1885年、イギリスに設計施工を依頼し、資材も全てイギリスから輸入する形で、津久井郡付近の相模川に取水口を設け、鉄管を用いた日本初の近代的な水道施設の建設が、始められたのです。この施設が完成し、126年前のこの日、横浜開港場への給水が始められました。
2013.10.17
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クロニクル 全米にヴェトナム反戦広がる1967(昭和42)年10月16日46年前のこの日、アメリカ全土30の主要都市で、一斉にヴェトナム反戦を訴える反戦デモが行われました。それは、アメリカにおけるヴェトナク反戦週間の幕開けを飾る行進でした。ニューヨーク、ボストン、ロスアンジェルス等々の都市で一斉にデモ行進が行われたのです。それはアメリカ政府には大きな衝撃になりました。 イラク戦争やアフガン戦争では、こうした大きな反戦行動は起きていません。 それだけ、米国にとって、ヴェトナム戦争は特別の戦争だったのかもしれません。
2013.10.16
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クロニクル 田中康夫氏長野県知事に2000(平成12)年10月15日13年前のこの日、作家の田中康夫氏が長野県知事選に勝利し、初当選を飾りました。長野五輪後の不況の中で、県財政の赤字が重くのしかかり、箱物行政に対する県民の不満が爆発した結果でした。この流れに乗った田中氏は脱ダム宣言で、ダム建設の見直しを公約として当選しましたが、地方の土建業界と連なる保守派の多い県議会と対立、やがて議会は田中知事に対する不信任決議を可決して、知事方針の撤回を強引に迫ってきました。このあたりの様子は、まるで政治ごろによる脅しのようにも見えました。田中知事はこの窮境を世論の動向を知るチャンスと捉える逆転の発想で、自ら辞職して、再度知事選に立候補する道を選んで、事実上の田中知事に対する信認投票であるかのように、位置づけることに成功したのです。こうして大差で当選すると、さすがに今度は議会もやたらに反対ばかりする理由には行かず、ダム建設は凍結されました。しかし、時間の経過と共に田中知事の政治手腕には疑問符がつき、氏の中央政界指向など、軸のブレる政治姿勢に、県民の不満は募り、任期満了後の知事選では、対立候補に敗れ、知事の椅子は、再び旧勢力の手に戻り、折角凍結されたダム工事も、次々に再開されることになってしまいました。なんだかなぁという感じですが、長野の事情に詳しい皆さんに、知事の功罪や昨今の事情を追加していただけると有難いです。
2013.10.15
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クロニクル 長島選手引退1974(昭和49)年10月14日39年前のこの日、ミスター・ジャイアンツとして野球ファンに親しまれた長島茂雄選手が、選手生活に幕を閉じ、引退しました。長島選手は、1957年秋にジャイアンツに入団。58年の新人としての開幕戦で、国鉄スワローズの金田投手と対戦、4打席4三振と封じられて、プロの洗礼を受けましたが、持ち前の明るさと積極性から、スタンドを沸かせ、一年目から本塁打、打点の2冠を達成。打率も阪神タイガースの田宮選手に続く2位という好成績を収め、新人王に輝きました。2年目からは、3年連続で首位打者に輝くなど、74年の引退までに首位打者6回、打点王5回、本塁打王2回を獲得。華麗な守備とダイナミックな動き、勝負強い打撃、天真爛漫な性格で、プロ野球のファン層を大きく広げる役割を果たしました。引退の日のこの日は、中日ドラゴンズとのダブルヘッダーが組まれていました。生憎の平日でしたが、長島選手の最後の勇姿を一目見ようというファンが殺到、超満員となりました。長島選手は2試合ともフル出場し、9打数4安打と活躍し、本塁打も放ちました。試合後の引退セレモニーで、「わが巨人軍は、永遠に不滅です。」という名せリフを残しました。今年、愛弟子の松井秀樹選手と2人並んで、国民栄誉賞を受けましたが、今でも、いかに見せるかを意識している様子が、印象に残りました。
2013.10.14
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クロニクル 財田川事件に再審の道1976(昭和51)年10月13日この日最高裁は、1950(昭和25)年に起き、1957(昭和32)年に死刑判決が確定していた財田川事件の被告、谷口繁義さんの再審請求を受理し、高松地裁に審理のやり直しを命じました。この決定は、最高裁が死刑囚の再審請求に道を開いた最初のケースとして、知られています。財田川事件は、1950年に香川県三豊郡財田村で、闇米ブローカーが就寝中に刺し殺され、現金113,000円(当事、30才前後の会社員の月額給与は、なお1万円に達していませんでした)が盗まれた事件です。別件で逮捕されていた谷口さんが犯行を自供したとして、死刑が宣告されたのです。これに対し、自白は強要されたもので、自白の内容と事実との間に相当の疑問がある。自白調書の筆跡にも疑問があること等をあげて、何度かの再審請求が出され、最高裁に特別抗告されていたのですが、37年前のこの日、再審決定の通知となって、を結んだものでした。しかし、審理に時間を要し、高松地裁が谷口さんの無罪判決を下し、即時釈放を決定したのは、それから8年後の1984(昭和59)年の3月12日、死刑判決から28年目のことでした。長すぎた裁判の問題と、道が開かれたとはいえ、なお再審請求のハードルが高いものであるなどの点で、げんざいでもなお、問題は残っているように思います。
2013.10.13
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クロニクル 浅沼委員長刺殺1960(昭和35)年10月12日53年前の出来事です。戦後日本で最大の反政府闘争だった、日米安全保障条約改訂反対闘争(通称安保反対闘争‥‥全共闘世代は、良く70年安保と口にするようですが、70年のそれは、10年後からは、1年の猶予で、当事国のどちらからも、更新拒否を通告してこなければ、自動延長となる、自動更新制になっているため、この自動延長阻止を主張した運動で、盛り上がりからいっても、60年の安保闘争に遠く及ばないものでした)が、6月19日に参議院が何も議決しないまま、自然成立(予算と条約案件は、衆院の議決が優先し、参院の審議期間も、他の法案が2ヶ月のところ、1ヶ月に制限されています)したことで、敗北に終わり、学生運動や労働運動に挫折感が漂っていた時期でした。運動に押され、反主流派の協力を取り付けるために、安保条約成立直後に退陣を表明した岸信介首相に代わった。池田隼人首相は「寛容と忍耐」を掲げて低姿勢を貫き、やがて「所得倍増政策」を掲げて、国民の目を政治から経済に移していくことに成功しつつあったのが、60年の10月という時期でした。社会党委員長の浅沼稲次郎氏は、その超人的な行動力から、社会党の機関車と言われ、ヌマさんの愛称で親しまれていた人気の高い政治家でした。この日、国会議事堂に近い、東京の日比谷公会堂で、自民党、社会党、民社党の3党首の立会演説会が開かれました。近づく総選挙の一貫として、東京都の選挙管理委員会などが主催した催しで、テレビで全国中継もされていました。3時ごろに演壇に立った浅沼氏の演説が終わりに近づいた頃、突然抜き身の短刀(後に刃渡り35cmと発表されました)を持った少年が壇上に駆け上がり、身体ごとぶつかるように浅沼氏の胸を刺し、さらにもう一度刺しました。浅沼委員長は、搬送先の日比谷病院で、午後3時40分に死去されました。61歳という早すぎる死でした。この模様は、テレビ中継中でしたから、全国の午後の茶の間にしっかり届けられたので、右翼少年の凶行は、しっかり国民の目に焼き付けられ、左翼に対する厳重な警戒に比較しての、右翼に対する警視庁や警察庁の警備の甘さに、強い批判が巻き起こりました。刃物を持って壇上に上がろうとする挙動不審の少年を阻止できなかったのですから、これは明らかに警備上のミスでした。後日談です。犯人の17才の少年山口二矢(おとや)は、警視庁の取調べ後、練馬の少年鑑別所に送られましたが、そこで、事件の21日後の11月2日に首吊り自殺し、背後関係等の一切は、闇の中に葬り去られました。後味の悪い、残念な事件でした。
2013.10.12
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クロニクル 荒船清十郎運輸相辞任1966(昭和41)年10月11日47年前のこの日、荒船清十郎運輸相が辞任しました。荒船氏は埼玉3区(当事の中選挙区)選出のベテラン議員で、衆議院予算委員会委員長として辣腕を振るい、名委員長として評判でしたが、党人派のべらんめえ議員で、言動に問題があり、大臣にすると舌禍事件を起こしそうだという点がマイナス評価され、ようやく運輸相として初入閣したばかりでした。辞任の理由は、自らの選挙区にある深谷駅に、国鉄のダイヤ改正に当たって、職権を利用して上信越線の急行を停車させようとしたことにありました。深谷駅に近い熊谷駅には急行が停車していましたから、これはかなり無理な注文でした。この事実が新聞にすっぱ抜かれ、大臣の職権乱用が強く批判され、国会対策上、彼の辞任は不可避となりました。荒船大臣に引導を渡したのは、荒船氏の所属派閥の長だった川島正二郎氏。彼の「やはり野に置けレンゲソウ」は、当事の流行語になりました。その後荒船氏は党の要職を歴任しましたが、二度と大臣の椅子につくことはありませんでした。そして国鉄は、ダイヤ改正で、1日2本だけ、深谷駅に急行を停車させることにし、辞任した荒船氏に塩を送ったのです。
2013.10.11
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クロニクル 東京五輪開幕1964(昭和39)年10月10日7年後に再度の東京五輪が開催されることになったのですから、今日はこの記事しかありませんね。49年前になります。高度成長真っ只中の日本も、そして私自身も若くて元気いっぱいな良い時期でした。それだけにいまだに、つい先日のような気分が抜けません。困ったものですね。ロンドンで、銀メダルを獲得した、女子重量挙げの三宅選手の伯父にあたる、三宅正信さんが金メダルの第1号でした。卒論の準備で超多忙な時期でしたが、つい見てしまうのですね。まるで自分も一緒に担いでいるような力の入りようで、優勝の決まった後、はじめて肩が凝っているのに気づきました。テレビを見ていて、肩が凝ったのは、このときだけでした。そうです。49年前の今日、東京オリンピックが開幕したのです.環7通り、国立体育館、国立競技場、東京モノレール、そして新幹線と、矢継ぎ早に様々な施設や交通手段が完成して、国をあげて成功を目指していた、まさしく全国民的ビッグプロジェクトが、幕を開けたのが今日でした。
2013.10.10
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クロニクル GHQ新聞の事前検閲を開始1945(昭和20)年10月9日68年前のこの日、GHQは、朝日、毎日、読売等、東京の新聞に対する事前検閲を開始しました。5日前の人権指令にも明らかなように、GHQの対日統治方針は、日本社会の徹底的な民主化を図ることで、日本を再び軍事大国にしないことにありました。この観点から、この段階のGHQは、左翼勢力の統制と並んで、復古調の右翼や旧体制を温存しようとするグループなど、民主化方針に陰で抵抗する勢力の言説を、全てチェックすることに、したのです。
2013.10.09
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クロニクル ビスマルクの登場1862(文久2年)10月8日文久2年は、日本で言うと森鴎外の生まれ年です。そんな151年前のこの日、ドイツ統一の父と謳われたビスマルクが、プロイセン王国の首相に就任しました。当時ドイツは、なお50余の国々に分かれたままで、プロイセンとオーストリアという2国が統一へのヘゲモニーを巡って互いに牽制し合っていました。首相になったビスマルクは、ただちに予算の組み替え案を議会に提出、国防費の大幅アップを画策します。首相の強引なやり方に議員達は、激しい怒りをぶつけました。会議に呼ばれたビスマルクは、その席で有名になった処女演説をぶち上げたのです。「現下の大問題は(というのは、ドイツ統一を指しています)、言論によって解決されるものではなく、プロイセンの鉄(軍需工業)と血(兵士の流す血)によってこそ、達成されるのであります。」と。これが有名な「鉄血」演説です。
2013.10.08
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クロニクル 中国人民解放軍チベットに侵攻1950(昭和25)年10月7日63年前のことになります。今年が中華人民共和国建国64周年にあたりますから、ほぼ、建国1年後の出来事ということになります。この日、中国人民解放軍がおよそ2万人の規模で、チベットに侵攻しました。当時のチベットはなお中世的な封建体制が支配的で、チベット農民の多くは農奴制度によって土地に縛りられており、1部の宗教指導層が領主として、農奴農民を支配していたことが知られています。そのため農民層は、規律と統制が取れ、略奪や暴行を加えない人民解放軍を解放者として受け入れたため、チベット軍の抵抗は散発的なものに留まり、翌51年にはチベットは中国に併合されました。この中国の行動に対し、当時の国際連合は、何一つ具体的な行動をとりませんでした。アメリカはこの年6月に始まった朝鮮戦争に忙殺され、正式な国家でないチベットに関心を示しませんでした。何よりも当時米国の保護を受けて、国連の議席を確保していた台湾政府(自称中華民国)が、中国政府と並んで、チベットを独立国と認めていなかったため、チベットは国連に直接訴えるすべもなく、安保理で審議することさえ、台湾政府の拒否権発動で、不可能となっていたのです。 これが、今に続くチベット問題の発端でした。
2013.10.07
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クロニクル 四人組逮捕1976(昭和51)年10月6日もう37年も経ったのですね。この日、文化大革命を主導したとされる江青、張春橋、姚文元、王洪文の中国共産党政治局員4人、いわゆる文革4人組が逮捕されました。4人は、後ろ盾だった毛沢東主席が亡くなった後、影響力を失っていましたが、逮捕はプロレタリア文化大革命の終わりを象徴する出来事でした。
2013.10.06
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クロニクル 東久邇内閣総辞職1945(昭和20)年10月5日68年前になります。この日、8月17日に成立した皇族の東久邇宮稔彦内閣が、GHQの人権指令を実行できないとして、総辞職しました。4日後の9日、幣原喜重郎内閣が成立します。人権指令とは、政治犯の釈放、思想警察の全廃、治安維持法の廃止などとならんで、天皇に関する自由討議を指令したもので、皇族内閣が受け入れ、実行するには荷の重いものでした。
2013.10.05
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クロニクル 人工衛星宇宙へ1957(昭和32)年10月4日56年前、私は中学校の3年生でした。この日、ソ連政府は、スプートニク1号と命名した人工衛星の打ち上げに成功し、衛星が軌道に乗ったことを発表しました。まだ自宅にテレビがなかったので、朝食をとりながら、耳を傾けていた7時のNHKのトップニュースで、この報道が飛び込んできたのです。米ソの宇宙開発競争で、ソ連が米国を1歩リードしたことが明らかになった瞬間でした。ませたタイプの多かった私のクラスメートたちは、米ソ競争はソ連の優位で進むのか、米国が巻き返すのかと、そんな議論に花を咲かせました。
2013.10.04
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クロニクル 東京・大阪の穀物取引所閉鎖1930(昭和5)年10月3日83年前のことです。この日、東京・大阪の清算米取引所(米の先物市場ですね)で、米価が大暴落。両取引所は勿論、全国の米穀市場が休止に追い込まれました。前年10月の米国の株安を端緒とする世界恐慌の影響が、ついに日本にも及んできた結果の一幕でした。
2013.10.03
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皆さん、今晩は。台風が去り、先ほどまで西の空にきれいな虹が見えました。このブログ、2006年の10月2日にスタートしましたので、ちょうど7歳の誕生日を迎え、8年目に入ったことになります。まだしばらく続けられるかなと思うこの頃、今後ともお付き合いのほど、よろしくお願いします。
2013.10.02
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クロニクル 東証ダウ1851円49銭の最高値つける 1968年(昭和43年)10月2日45年前の今日は、日経ダウ平均が1851円49銭と、この日までの東証のダウ平均で、史上最高値を記録した日となりました。因みにこの値が抜かれるのは、翌年のことになります。2000円到達は69年、5000円到達は1972年、1万円到達は84年、2万円は87年、そして3万円は翌88年でした。翌89年大納会の38915.87円が最高値です。バブルがはじけたのは、翌年1990年のことでした。
2013.10.02
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クロニクル 戦後初の国債上場1966(昭和41)年10月1日47年前になります。この日、敗戦後はじめて、国債が東京・大阪両証券取引所に上場されました。戦争中に戦費調達のために乱発された戦時国債は、戦後の悪性インフレで紙くず同然となりました。その反省から、戦後の日本は、歳出を歳入に合わせる緊縮財政をとり、財政収支の赤字を極端に嫌う財政規律を重視した政策運営を続けてきました。しかし、1964年のオリンピック特需が消滅した後の、戦後最大といわれる不況の中で、財界の要望に押された佐藤栄作首相と福田赳夫蔵相は、65年11月、補正予算編成に必要だとして、2,590億円の赤字国債の発行を盛り込んだ補正予算案を,国会に提示しました。この案は翌66年1月19日に国会を通過、諸手続きを経て、同月29日、戦後初の国債が発行されました。最初は僅かでも、一度口にした禁断の実は忘れられず、国債発行額は瞬く間に増え、とりわけ73年秋の第一次石油ショック以降、急増に次ぐ急増を続け、79年に大平首相が、財政再建を掲げて大型間接税の導入を主張し、その10年後の竹下内閣の下で、消費税の導入が決定しても、なおも増え続け、今では1000兆円の大台を意識するようになるところまで、膨張してしまっています。ところで、10年前の2003年、金融危機の中で、100兆円に近い国債を発行して景気刺激を試みながらも、景気浮揚に成功せずに、赤字ばかりを膨らませました。今年はその100兆円の国債の満期が来るのです。米国発の世界金融危機の最中、100兆円もの国債、すんなり返せるわけもなく、政府は借り換えでしのぐつもりなのでしょうが、この金融逼迫のご時勢の中、果たしてうまく借り換え出来るのですかねぇ。 アメリカの心配も結構ですが、お膝元もかなり危なげに見えます。皆さんもどうぞご注意を‥
2013.10.01
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