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自分は人とは違うと言いたがる人、人と同じであることに安心する人。少数派を擁護する人、多数派に迎合する人。知らない人に共感できる人、知らない人を排除する人。いろんな人を思い描いてみるとすべてが自分自身だ。私はたくさんの矛盾を孕みながら、自分の手のひらで世界を語る。どんな常識にしばられ、どんな常識から自由でいられるのだろう。
2007年05月31日
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「六色の虹」虹は七つの色が集まってむこうとこちらをつなぐ不思議な橋。いつのころからか、この町の人々は七色の虹に希望を託すようになっていた。ある日、虹が、パソコンの画像を見ているとき、そこに赤がいるのを見つけた。虹はしばらく自分が何を見ているのかわからなかった。赤が黒と写っている画像だ。赤は黒にぴったりとよりそって眠っているように見えた。黒といっしょにいる赤は虹の知っている赤とはちがって、ずいぶんなまめかしく少し危険な感じに見えた。そのとき、突然、スポットライトが赤と黒を丸く照らした。黒が頭をもちあげて虹にむかって話し出した。ストリーミングの動画のようだ。「あなたはいつだって地面の手前で消えてしまう。虹の中の赤って悲しいと思わないか」虹は自分のからだを確かめた。六つの色しか数えられない。赤がいない。赤が黒にさらわれたのだと虹は思った。赤の居場所を求めて走り回る虹の足音が街中に響き渡った。「六つも色があれは、充分じゃないのか」と黒がしゃべりはじめた。「六つしか色のない虹なんてありえない」と虹は思った。虹にはここで語るべき言葉がみつけられない。そのとき、赤が黒の横でゆっくりと目をさました。虹は、赤の名前を叫んだ。しかし、悲痛な虹の声も赤にはとどかなかった。赤は、手のひらでスポットライトの光をさえぎりながら「光を消して」とつぶやいた。赤の声で世界からすべての光が失われた。風景は残像を振払うように闇につつまれた。光が消えてしまうとすべての色はかたちを失って、重い痛みの気配だけが世界をおおいつくした。闇の中では、黒さえも見えなくなった。
2007年05月30日
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早朝、胸のあたりが苦しくなって目覚めた。自分の体調が悪いときには、私の分身がどこかで、同じように苦しんでいるかもしれないと思う。むかし、球体だった人間は傲慢ゆえにふたつに切断された。それでもまだまだ傲慢なところも多い人間は、もう半分に切り離されても良いのかもしれない。夕方、ある画廊で、ワインをすすめられたので、今日はアトリエに行かない休息日にすることにした。写真を使った作品をつくる人の展覧会だった。たとえば、ドイツの街角のポスターに黄色い紙を貼って写真を撮影し、その紙の半分を切り取って持ち帰り、撮影した写真と一緒に展示するといった作品だ。紙の残りの半分は現地にそのまま残される。会場にいた心理学関係の出版者に勤める人、身近な友人のプライベートな場面や表情を描く画家、最近、ミクシィをはじめてもう負担になってきたという画廊のスタッフなどと時間と空間に関わるいろんな話などをした。
2007年05月29日
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ある人のことを思い浮かべて、その人と今までしたことのないことを考える。今までしたことのないことをできるだけたくさん思い浮かべて、そのなかで一番してみたいのはどんなことなのか決める。
2007年05月28日
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今日は、ジーンズとTシャツの上にしわしわの白いシャツ。京都文化博物館で「美しきシモネッタ」を見終わったところで、携帯が震えた。直観ギャラリーのオーナーのT子さんだ。「ごめんね。口紅の筆ありがとう」と言う。私がT子さんに送った筆が届いたらしい。ことの発端は、今週の火曜日、大阪に出て、最後に直観ギャラリーをまわったときに始まる。閉廊時間が来たので、展覧会中の中国の作家を最寄りの駅まで送り、オーナーをマンションまで送った。まず、中国の作家さんが、保冷パックの高級食材を車に忘れた。これはオーナーに託した。オーナーを降ろして少し走るとシートに細い口紅のようなものが落ちているのを見つけた。オーナーの携帯を鳴らして確認したら、私のじゃないから、彼女のかもしれないと言うので、翌日、画廊宛に郵送しておいた。次の日、電話したら、中国の作家さんは見ればわかると言ったらしい。「口紅みたいな筆みたいなのです」と言ったら、「そう言えば、朝、化粧するときに筆がなかった、それ私のかしら」と笑い出した。新しい定義が生まれた。「女性は、車に化粧品を落とす生き物である」新しい定義と「化粧品には名前を書いておいていただけませんか」という控えめなお願いは声には出さずにのみ込んだ。「展覧会展の会期は、7月24日から8月お盆の手前当たりまでにしようね」と直観オーナーが言う。美術館のロビーで「わかりました」と静かに答えた。
2007年05月26日
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京都国立近代美術館の「福田平八郎展」と京都文化博物館のボッティチェリの「美しきシモネッタ」が出品されている丸紅のコレクション展を自転車でまわった。作家の回顧展で、晩年の作品がよくないと悲しくなる。画壇で名声を得て、作品が高価で取り引きされるようになってからの晩年の作品がよくない場合と、晩年が不遇で失意の中でよい作品がつくれなくなる場合があるが、どちらも悲しい。福田平八郎の場合は、晩年まで自らのスタイルを変革しようとしているが、同時代の西洋の前衛への追従と評価の確立したなかでの革新でしかない弱点が気になり始めた。かっこいい作家の晩年とは何かと考えたら、なかなかよいイメージが浮かばない。夕方から、ひさしぶりにプールで泳いだ。アトリエを少しだけのぞいて、今日は早くに帰宅。読んでおきたい本、書いておきたい文章、整理しておきたい資料が山積している。やらないで放っておくとストレスを感じるけれど、放っておくと本当に必要な仕事なのかどうかが見えてくるというメリットもある。必要のない仕事は捨ててしまおう。
2007年05月26日
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ゆううつではないが、そんなに浮かれてもいない。 深夜に、サルに電話した。名前は、別に、ネコでもかまわない。ひざにたまった水の 話や若冲についてなど、少し甘い声でぶっきらぼうに話す声が聞こえた。 サルは、私の不器用さをよく知っている。電話して退屈しない程度には、口も悪い。 「元気なうちに、しっかり作品作りなさい」と笑っている。 努力して作品をつくっているだけでは意味がないが、努力しないで、評価されている 人はいない。努力を見せられるくらいなら、楽しんでいることを見せられる方がまし だ。いつからか、誰かの才能に嫉妬することはあっても、誰かの作品が評価されてい ることに嫉妬することはなくなった。嫉妬できるような作品に出会えたことに感謝す る。他人の幸運に嫉妬しているヒマなどない。
2007年05月25日
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夕方、陽が落ちる前に裏庭で黄色い花をつけた菊菜を何本か抜いて、何日か前に買ってきたゴーヤの苗を植えた。
2007年05月24日
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アトリエから帰って、いくつか届いたメールを読んだ。ひとつは、発送した作品が無事到着したという連絡メール。ひとつはブログの友達からの私信メール。
2007年05月23日
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歳を重ねると一日が短くなると言うけれど、一日が一ヵ月のように感じられることがある。自分の中の子どもはますます子どもになり、大人の私は少しずつではあるが、熟練していく。2時過ぎに自転車を立ちこぎして帰宅し、そのまま車で大阪に走った。画材の購入と直観ギャラリーが、夏に常設スペースで企画してくれる個展の打ち合わせなど。大阪に向いながら、ドラマのシナリオ作家のようにいろんな物語が思い浮かんだ。なんでもない出来事から、突飛な物語が生まれる。ある物語は人を狂わせ、ある物語は妄想をしずめる。夜、アトリエにもどって、依頼のあった夏の展覧会のためのキャンバスを張った。友達にもらったていねいに焙煎されたコーヒーをいれて飲んだ。時間は穏やかに流れて、呼吸はゆるやかに深い夜。
2007年05月22日
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今日、岡崎から相国寺まで、裏の通りを選んで、自転車で走った。目的は相国寺の美術館の若冲展。「釈迦三尊像」3幅と「動植綵絵」(どうしょくさいえ)30幅が、一つの展示室に並ぶ様は壮観だった。これだけの展示はもう、この先ないだろう。大胆にして繊細。執拗な観察眼で描かれているが、単なるリアリズムでもない。細部にいたるまでフォルムが美しく、重層的だ。身の引き締まる思いがした。
2007年05月21日
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岡山のコレクターへの作品の運送について、今日、再度、営業所をのぞいて、集荷の時間を伝えた。アトリエで梱包をしているとY運輸からの携帯が鳴った。店長らしき人物。依頼の荷物が運送できないとの内容だったので、見にきてもらうことにした。理由は配送車のコンテナのサイズの関係で受けられないとのことだった。運んでくれそうなところを教えてくれるように頼んで、S急便に来てもらうことになった。30分後でよければ集荷できるとのことだったので、慌てて箱を組んだ。ところが実物を見たS急便の運転手が、作品の受け取りに難色を示した。大きすぎるし一人で運べないものは無理だと言う。長く会話して頭を下げて、今回だけですよと言う約束で積み込んでもらうことになった。なんとか作品が発送できて一安心。日没まで、アトリエの駐車場の草を抜いた。一仕事して、スーパーにセールで出ていた安い赤ワインを買って帰った。零時を超えて、誕生日。買ってきたワインをあけて、一人で呑み切った。不思議なくらいに美味しかった。
2007年05月20日
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「20年前につくった150号の作品」145.5×227.3cmの油彩。この作品が岡山のコレクターの所蔵となることになって、画廊と電話で作品の発送についての打ち合わせをした。美術専門の運送業者に頼んでチャーター便になるとコストがかかりすぎるので、普通のY運送を使うことになった。そこで、作品の安全のために輸送用の箱を自分でつくることにした。閉店間際のホームセンターで、箱造りのための木材を買った。車に材木を積んでアトリエに入った。手順はまず、作品は手持ちのエアキャップでしっかりとくるむ。そして、木の箱をつくって、くるんだ作品を入れる。そして、運送屋さんに集荷を頼むという流れになる。今日は、まず、箱をつくった。明日は、ふたをつくる予定。一人では動かせないくらいの重さになるかもしれないので、箱はすのこ状にして軽量化も考えた。身体を動かして労働すると頭も動き出す。
2007年05月19日
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誰かに送れば、迷惑メールになりそうな携帯メールを自分のメールアドレスに送った。 こんなメールは翌朝見ると燃やしてしまいたくなる。たとえば、こんな言葉だ。 「自分を納得させるために、相手にしんどい思いをさせるようでは、何もしないほう がよい」 「この頃、相手の都合を考えずに自分の都合だけで行動していた」 「とっさに返信してしまった携帯メールは、思いやりを欠いていて恥ずかしい」 「険しい城壁を見ると登ってみたくなる。しかし、なぜ、城壁が高いかを考えられる くらいには賢くなりたい」 「謝罪のメールを読み返してみるとたいてい、一言多くて謝罪になっていないことに 気づく。訂正して送り直せないのが謝罪メール」 「考えて見れば、会わなくたって、嫌いになるわけではない。私の中の動物の私が下 品に会いたがる気持ちを沈めよう」 「一番確かなのは、何の約束もしがらみもないのに出会えた時間の記憶」 タイトルはすべて「一番ダメな自分」 人間関係では相手のことを思いすぎた側が弱者になる。弱者になると相手の気苦労な んて考えられなくなる。そして、ますます弱者になる。やさしく強い自分を目指そう。 「相手に負担をかけない自分」というのはどうだろう。目標はシンプルなほうがよい。 人を諭したリ、責めたりできるほど、正しい自分はどこにもいない。
2007年05月18日
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なんとなく目にとまったローズヒップをはじめて買った。干して砕いたのがそのまま袋に入ったもの。マグカップにローズヒップを入れて熱湯を注いで5分ほど待つ。スプーンでかきまぜて、小さなカップに移して飲んでみた。淡い黄色、かすかな酸味で、すっと気持ちが落ち着いた。ネットで調べたら、美肌効果があるらしい。貧血、風邪の予防、イライラ解消、生理痛、眼精疲労、花粉症、二日酔い、利尿作用などにも効果があるといわれているそうだ。ローズヒップって、バラのお尻。刺があっても魅力的なバラ。
2007年05月15日
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バリュウムを飲んで、血を抜いた。採血は苦手ですと言葉にできるようになって随分、楽になった。10号の作品を1点だけ出品した京都のデパートでのアートフェアをのぞいてから、大阪へO氏がパネラーの絵画についてのシンポジュウムに出かけた。流行の極私的ポップに反旗を翻して、制度的かつ歴史的絵画を擁護する内容。二次会のテーブルの女性は、すべてO型とB型。O氏はAB型。そのなかに映画マニアがいて、ホラー映画で一席。ブライアン・デ・パルマ監督の『キャリー』とダリオ・アルジェント監督の『サスペリア』の映像は私も何故か気になりつづけていたので、しばし意気投合した。
2007年05月14日
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音信がないときのある人は日常と言う名の角砂糖を積み上げているのかもしれない。角砂糖に見える立方体の半分は岩塩を角砂糖に似せて固めた立方体なのだ。そう言えば、最近、角砂糖を見たことがない。音信がないときのある人はどこか旅にでも出ているにちがいない。旅に出たときの私は、いっしょに旅する人のことしか考えないようにする。旅に出ているときのあなたは何を考えているのだろう。現実の私はアトリエで一枚のキャンバスを見つめつていたりする。現実のあなたは、どこかで言葉の文字列と格闘などしているのかもしれない。それはそれで知的な旅に違いない。部屋の明かり越しに見える風景は窓の明かりの点在に変った。昼食を終わって、どこかに出かけようと迷っているうちに眠ってしまった。毎日、画廊に通ったので少し、疲れていたのかもしれない。個展の会場でたくさんの人に会って、たくさんの話をした。個展の時にしか、会えない人もいる。はじめてお会いする人もあれば、これが最後の出会いになる人もいるかもしれない。展覧会には旅に出るためのたくさんの伏線が隠されている。
2007年05月13日
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遠くの山まで風景にぺったりと貼り付くように晴れている。ソックスをはかない足の裏がちょうど温度を感じないくらいの心地良い温度になった。屋根裏の窓から風が吹き込むと少しすずしい。1週間だけの個展が昨日、無事に終わった。「抽象画」ではなく、はじめての「風景画」の展覧会。記憶をたよりにありそうで実在しない「風景画」を描いた。絵を見ながら記憶のなかにある実在の場所を思いだす人がいて、これはどこそこの風景だろうといろいろな感想をいただいた。尾瀬、雨期のラオス、昔の靫公園、京都の植物園・・・。なんとなく懐かしい場所が今ここにあらわれたのだとしたら素晴らしいことだ。
2007年05月13日
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個展会場から帰って、アトリエに出かけた。新作の出払ったアトリエで、20年前につくった150号の作品の埃をはらった。過去の作品にもかけがえのない今があると思った。
2007年05月09日
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連休が開けて、古巣の画廊でのひさしぶりの個展が始まった。 新しい、懐かしい、意欲的、引き込まれる、飛び出してくる、外国の風景、 言葉はいろいろだけれども、おおむね好評だ。 発表してしまえば、作品は作者からはなれる。なぜか作品を言葉で補う必要もなく、 訪れる人の言葉に耳を傾けている。
2007年05月08日
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ある美術館での個展が決まった。部屋の掃除をした。 旅する人のことを思った。
2007年05月05日
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