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今年も、ゴールデンウイークに南側の窓下にゴーヤを植えた。この時期にゴーヤを植えると、7月から9月にゴーヤをたらふく食べることができるからだ。もう,ここ数年の夏のイベントである。毎年、違う種類のゴーヤを植えることにしている。ある年は白ゴーヤを植えてみた。デカくて、あまり苦くなくて、おいしかったが、なんとなく緑じゃないとゴーヤらしくないのが難点だった。ある年は、細長いキューリのようなゴーヤを植えてみた。姿はほそっこくて美しいのだが、料理をするときに、なんとなく迫力に欠けるのである。「俺はゴーヤだ!」的な自己主張が少ない。自己主張が強くてこそ、ゴーヤの存在感があると信じている私は、この種類も一回でやめた。今年は小ぶりな種類を選んでみた。見た目の迫力は確かに欠けるが、料理1回分に使うのにちょうどいい量のところが気にいった。ところが、、、毎年7月から実をつけ始めるのに、今年は一向に実がならなかった。実のならない苗を買ってしまったのか、、、それとも、これは何か悪いことが起こる前兆か、、、世界の終わりとか?!ゴーヤのように生命力が強い野菜が一切、実をつけないなんて!!!毎日やきもきして観察していたが、とうとう諦めた。とにもかくにも。2階の屋根に届くくらい成長して、夏の日差しをさえぎるのには十分だから、今年は「緑のカーテン」をつけたと思ってあきらめよう、、、と、思ったが食い意地の張った私は、一応、野菜用の肥料をたっぷり与えておいた。その成果!8月になると、まるで自分がゴーヤであったことを急に思い出したかのように、実をつけ始めた。まるで、狂ったように実がなりはじめたのだ。「良かった!」「やっぱり世界の終わりじゃなかった」と、私は小躍りして喜んだ!どう考えても、我が家の家族だけでは食べきれない。飼い猫はゴーヤを食さないしなあ。そこで、ご近所に配り、ゴーヤ好きの友人たちにも、惜しげもなく配り、それでも、まだまだ死ぬほどゴーヤを食べられるぞーと期待していたのに。今年は夏が呆気なく逝ってしまった。しかも9月に入ると、雨ばかり降って気温も低い。そのせいで、ゴーヤの成長は止まり、あるゴーヤは、小さい実のまま、腐り始め、、、9月に入ったら、急にゴーヤを収穫できなくなってしまった!私の夏は、ゴーヤと私の蜜月はこのままはかなく終わりを告げてしまうのか。暑い夏の恋も十分に体験しないまま、もやもやと終わってしまうのか。私のゴーヤよ~~~Come back again!!!今年はまだ「死ぬほどゴーヤを食べたぞ」という感慨がない。この感慨を胸に抱いてこそ、夏を見送ることができるのに、、、私のゴーヤよ~~~
2015.09.11
我が家の庭の柿の木に、鳥が巣を作った。冬の間は、葉っぱがすっかり落ちて、寒そうに枝をふるわせていたが、新緑がむくむくとおおいつくして、すっかり柿の木らしくなってきたなと、ある日、柿の木を真下から見上げたら、立派な鳥の巣が完成していた。どの鳥が我が家の柿の木に巣を作ったのかと、周囲を見渡すと、近くの電線にヒヨドリの夫婦が仲良く止まり、私の方をじっと警戒していた。あのヒヨドリ夫婦が我が家の柿の木の住人らしい。我が家の柿の木は、そんなに立派な木ではない。庭が狭いので、隣の家に枝を張らないよう、時々、枝を剪定しているからである。でも、鳥の巣は、都会にすむ鳥らしく、幅広のビニールテープをうまく生かして、枯れ枝とともに、きれいにできあがっている。でも、少しの風でも木全体が大きく揺れるし、台風でも来たら、落ちてしまいそうだった。ところが、めずらしく早めにやってきた5月の台風にも負けなかったようだから、きっと見た目より丈夫にできているのだろう。この鳥の巣のことを夫に話したら、「鳥が巣を作ると、蛇がやってくるから、それが心配だな」夫の実家では、よくあったらしい。ツバメが毎年、巣を作ったらしいが、ヒナを狙って、蛇がやってくるのだ。家族が警戒して、いつも蛇を追い払っていたそうだ。しかし、夫は極端なヘビ嫌いである。ある夏の朝のことだ。前の晩、大きな台風がやってきて、近所の川の水があふれそうになった。、河原にでも棲んでいて、避難してきたのか、大きなヘビが我が家の庭の片隅に大きくとぐろを巻いていた。毒のないミズ蛇(確かだ!)だと知っていたから、そっとしておいた。その日、夕方、家に帰ると、ねぐらにでも帰ったのか、蛇の姿は消えていた。その話を夫にすると、恐怖におびえていた。とにかく、蛇が苦手なのだ。ゴキブリは平気なくせに、テレビの画面に蛇が出てきてもチャンネルを変えてしまうくらい、蛇がダメらしい。私は蛇は平気だが、ゴキブリは大の苦手だ。ヘビがやってくるのは構わないが、鳥の巣を狙う姿は目撃したくないなあ、、、我が家の庭の平和共存を願いつつ
2015.05.20
うちの近所の桜はすっかり散ったけど、八重桜はぼったりと咲き出した。柿の木も薄緑の新芽を出し始め、生き生きと呼吸している感じがする。ウグイスも下手だった鳴き声がやっとウグイスらしくなり、美しい音楽を奏でるように鳴き始めた。小さな池に放ったメダカも元気に泳ぎ、「春だなあ~~」と、うっとりしてしまう。のも、つかの間、こんな春ののどかな情緒にいつまでも浸っている時間は今の私にはない!のだ。韓国語能力試験の期日がまじかに迫っている。今月末、4月26日。「もう、時間がないのだ」試験勉強と言えば、昔も今も、やっぱり過去問題集でしょ!(韓国語では「既出問題」と書くけれど)昨日もおとといも過去問題に取り組むも、、、集中力が30分しか続かないという、問題に直面。高校生の頃は、2時間は集中できたんだけどなあ、、、でも、何故わたしは誰に強制されたわけでもないのに、試験なんか受けようとしているのか!そういう疑問にも直面している。私が真面目だから?韓国語の実力を知りたいから?試験でも受けないと真剣に勉強に取り組まないから?そもそもなんで勉強なんか始めてしまったの?集中力が30分しか続かないから、ついつい心のボヤキが長くなるのだ!とにかく受けるからには、目標の級に合格したい!おばさんにだって、プライドもあれば、やる気もあるのだ。「あ~あ、なんで私は試験勉強なんてしているんだろ」という根本的な問いの答えは出ないけれど、こんなブログを書いている暇があったら、本当は1問でも多く、過去問題を解かねばならないのだ。だから、さっさと、こんな愚痴のようなブログは終わりにして机に向かおう!おばさんだって試験勉強中だ。家事がおろそかになっても、おかずが買ってきたお惣菜にもなっても、許してほしい!!!さあ、そろそろ、勉強に戻るか、、、。
2015.04.17
最近、お気に入りの喫茶店がある。カフェと書かずに、喫茶店と書くところに年齢が表れているかも。その店では、何故か紅茶が飲みたくなるから不思議だ。いつもはコーヒーしか飲まないのにね。しんとしてもいないが、うるさすぎることもない程よいざわめきの中に身をおいていると、何となくほっとする。周りの人々がみんな、幸福そうでもないが、さほど不幸そうにも見えないところに安心感を感じる。ボランティアで電話相談を始めてから、世の中の不幸の数々に圧倒されそうになる。みんな、そんなにも辛く苦しく生きているのかー。「生きていても仕方ない」とは、なんて、希望のない言葉だろうか。静かな、何てことのない、平凡な午後、そんな辛い言葉を聞かずにすむ時間が私をほっとさせる。紅茶ポットにおきすぎたオレンジペコは少し苦すぎるが、それでも人生の苦さには程遠い。「あなたにもきっと良いことがありますよ」と言えない私は、人生を知りすぎたのか、それとも、幸せ過ぎるのか。明日も、今日のような平凡な午後をすごそう、、、
2014.06.26
実は、大学時代、六本木のディスコに通い、徹夜で踊り通して、日比谷線の始発で帰る、なんて生活を一時期送っておりました。まさに「70年代ディスコブーム」の時代でした。ジュリアナ東京を頂点とするバブル時代のディスコブームの一つ前の時代です。懐かしすぎる時代ですね=その時代のディスコとサウンドを再現するというイベントに参加して来ました。1970~85年までのディスコサウンドで踊ろう!!というもの。ザ・テンプテーションズ、シュープリームス、ジャクソンファイブアース・ウインド&ファイヤー、フォートップス、ミラクルズスリー・ディクリーズ、スティービー・ワンダーこれを読んで、「ああ、懐かしい」と思うあなたはきっと同年代でしょう!70年代のディスコは「ステップの時代」とも呼ばれ、いろいろなステップが次から次へと生まれ流行していました。そこで、イベントの始まりには「ステップ教室」というのもあり忘れてしまったステップを思い出させてくれる心憎いサービス付きでした。チャチャ、ソウルCC、バスストップ、ベンツ、ブルックス、サンシャイン・・・これを読んで「そんなのあったよね」と思い出すあなたもきっと同世代でしょう!集まるのはおじさん、おばさんばかりだろうな、と思っていましたが、まさにそんな感じ、、、45歳から70歳ぐらいまでの年齢層が集まっていました。果たして、今の体力で、皆さん踊るのだろうか???(自分も含めて)もしかしたら、曲を聴きながら、飲んでるだけだったりして・・・な~んて思っていたのは、大間違いイベントが始まると、会場の照明が薄暗くなり2つのミラーボールがキラキラ輝き始め、DJが曲をかけると椅子から立ち上がった熟年男女たちがディスコフロアにわらわらと走り出したではありませんか!お孫さんが10人もいそうなおばあちゃんが背中に汗しながら踊り、ビヤたるのようなお腹で、白いスーツをばっちりと着こなし華麗なステップを踏むおじさん子育てが終わった=という感じのお母さんがラメ入りのミニスカートワンピでカッコよく、腰をふり、背広にネクタイという部長っぽいおじさんも音楽に身をゆだねて肩をふりふり、かつての時代を思い出したのか、中年おばさんをナンパするおじさんもいたし、陶酔したように踊り続けるおばさんもいて、それにターコイズブルーのスーツに帽子をかぶり軽~くステップをふみ、ターンをカッコよく決めるおじさんもいた。ミラーボールが回りだした途端、私もあの時代に瞬間的に戻りました。踊るのはもちろん楽しかったけど、疲れてビールを飲みながら、踊りのフロアを眺めているだけでも感動ものでした。「元気な日本」が、こんなところに生きていたとは!少し前に行った大病院の待合室と、なんて違っていることでしょう。私は「ディスコナイト」というイベントに初めて参加したのですが、このイベントが実は15年も続いていると聞いてビックリ!今回の参加者は250名くらいでした。ディスコナイトを満喫した私は、こう思いました。こういう元気いっぱいなおじさんとおばさん達が元気のない若者たちを支えていく時代がきたのだと五木寛之の最新刊『新老人の思想』によると体力・気力・能力は衰えず、アナーキーな思想を持った新老人階級が出現! しているらしいです。そこで、五木氏は、こう提言しています。●自分の面倒は自分でみる●若い世代に頼らず、同世代で支えあう●理不尽な税金でも、歯をくいしばって払う●所得の多い人は、年金も公的介護も受けない 等々刺激的な内容だなあ、と思っていたけれどディスコナイトに参加して、私も考えが変わりました。これからの中・老年層は自立して同世代の仲間を増やし、楽しく生きて、死んでいくべきだと!私も3時間30分のあいだほとんど座らずに踊っていたけれど次の日も、その次の日も膝も腰も痛くならなかったのでおおいに自信がつきました。また、参加しちゃおっと
2013.12.17
日本語では「すし詰めの電車」と言いますね!いわゆる、人がたくさん乗っていて、ギューギュー詰めな感じ、あの身動きとれない状態のことです。これを韓国語では、「もやし詰めの電車」と表現するのです!コーンナムル・シル・カトゥン・チョンチョル日本の代表的な食べ物のすしで、あの状態を表現するのも理解できるし、もやしをたくさん食する韓国人が、あの状態をもやしで表現するのも理解できるし、言葉というのは、本当に各国の文化・習慣・慣習を反映していて面白いと思います。そう言えば、今週こんなことがありました。1年ぶりぐらいに会った知り合いの男性が15キロもやせて、とってもカッコよくなっていたのです。しかも、韓国人の美男俳優のオ・ジホそっくりに変身!!!オ・ジホは超美形であるだけでなく、背が高く、肉体美を誇り、演技力もある俳優さんなので、私としては、とっても褒めるつもりで「二枚目の韓国人俳優、オ・ジホによく似てる=」と言ったのです。すると、「韓国が嫌いだから、うれしくないな」と言われてしまい・・・チョッピリ悲しかったなあ、、、少し前には、韓国語を勉強していると言ったら「そんなムダなことをするな」と、あるおじさんに言われ、絶句・・・日本と韓国の国家間には政治問題がいろいろありますが、未だ、民族間にも深い溝があるのだなあ、と思うわけです。でも、国家も民族も、なんなく飛び越えてしまうのが個人的関係ではないかと思うのです。こんなグローバルな時代だからこそ、他国の人のことは、個人レベルで語れるといいなと思います。SNSの発展で。どの国の人とも、隣人のお付き合いができる世の中になったのですから。
2013.12.14
ヨーガの先生が言ったさりげない一言にハッとしました。「ご飯を食べる時以外、奥歯は使わない」そうなんだよねー。奥歯をかみ締めて歯をいためた友人もいるし、電車に乗っていると、「あの人、奥歯をかみ締めてるな・・・」と思う表情をしている人を結構見かけます。ストレス社会では、ご飯を食べる時以外も奥歯を使ってしまうものなのです。行きつけの歯医者の先生が言ってたっけ。咀嚼が長生きにつながるから、奥歯は大事だ! と。私の場合、歯は立派で、アレレ形容詞が違うかな、歯はとても丈夫で、毎回歯医者さんにほめられるのですが、これは私のメンテナンスがよいわけではなく、まさに親からもらった宝物です。親知らずすら、あまりにまっすぐ大きく成長し、抜くときに本当に大変だったくらいです。先生に「こんなに立派な親知らずは珍しい」と感嘆されたほど。虫歯にならなければ、今でも咀嚼に一役買っていたことでしょう。なんだかんだで大事な奥歯なわけですがご飯を食べる時以外は使う必要がないということなのです。ご飯を一口、そして30回かむとダイエットにいいらしいけど、それはできそうにもない・・・とにかく!奥歯を不必要に使わずに生きていきましょう。ね、ね、ね
2013.11.30
いのちの電話チャリティコンサート ご協力へのお願いです!いのちの電話は、50年以上活動を続けるボランティア団体で、無料の電話相談をおこなっています。1年半にわたるトレーニングを受け、認定されたボランティアの電話相談員が24時間365日、電話の前に座り、電話をかけてくる人の心の悩みに真摯に向き合い傾聴し、命をつないでいます。運営資金はおもに、寄付金やバザーの収益金チャリティでおこなう映画上映会やコンサートの収益金です。来月開催するチャリティコンサートのチケットに残席が多いと聞き、ここでご紹介することにしました。いのちの電話チャリティ天満敦子ヴァイオリンコンサート12月13日(金)開場 18:00 開演 18:30会場 銀座ブロッサム銀座中央会館チケット 3,500円 (全席自由)主な予定曲・望郷のバラード(ポルムベスク)・ジュピター(ホルスト)・アヴェマリア(シューベルト)・シチリアーナ(フォーレ)他いのちの電話の活動に賛同してくださる方天満敦子さんのストラディヴァリウスの音色に惹かれる方、ぜひチケットの購入をご検討ください。問い合わせ先東京いのちの電話 事務局03-3263-5794 (相談の電話番号とは違います)東京近郊にお住まいでなく、いのちの電話のチャリティ事業に興味がある方は、この情報をツイッター、ブログ、フェイスブックなどで発信していただけるとありがたいです。よろしくお願いします!m(_ _)m
2013.11.25
国は違えど、言葉は違えど、共通する意味のことわざがあって、驚きますね。人間の感情や考え方には国境がないということでしょうか。というわけで、韓国のことわざです。最近、韓国人の友人と日本と韓国の浮気事情について話をしていました。私が、日本には「釣った魚にエサはやらない」ということわざがあると紹介したところ、韓国にもまったく同じ(単語も意味も)ことわざがあると教えられて、大笑いしてしまいました。でも、韓国にあって日本にはないことわざもあるし日本にあって韓国にはないことわざもあります。また、微妙に意味が違うよね=と感じるものもあります。最近見つけたことわざで、そんなことを感じたので書いてみます。임도 보고 뽕도 딴다愛しい人にも会うし、桑の葉も摘む辞書に「一石二鳥」「一挙両得」と翻訳されているのを見て言葉に敏感な私は「違うでしょ!」と辞書にツッコミを入れてしまいました。確かに大きく違わないし、そう訳しても間違いとは思わないけれど桑の葉を摘む、牧歌的な情緒がふっとんでしまうではありませんか。まだ桑畑の残る田舎で高校まで育った私としては、どうしても納得いきませんでした。それから数日後、別のことわざに出くわしました。꿩 먹고 알 먹는다雉も食べるし、卵も食べる「一石二鳥」「一挙両得」そうそう、これなら、わかるわかる、という感じでこの翻訳には、納得です。やっぱり、愛しい人に会いに、桑畑まで出かけていく情景は「一石二鳥」とは違うんだよなあ・・・島崎藤村の「初恋」にも通じるし、この詩の舞台はりんご畑だったけど。。。辞書にツッコミを入れつつ勉強するのもまた一興です。
2013.11.23
大きな町の郊外に引っ越して暮らし始めてから、十数年・・・駅から遠いし、広い道路も、大きなスーパーもないしで大自然に囲まれているわけでもないのに、我が家周辺は、基本的に静かです。年齢のせいなのか何なのか静かな暮らしはいいなあ、と最近つくづく思うのです。真昼間、寝ている猫の寝顔を見ると、世界平和を感じるし、夜、窓の外を眺めれば、月光のささやきも聞こえてきそうです。なのに、なのに、です!人生は騒々しくて、かないません。何が騒々しいと言って、私の頭の中が常に騒々しいのですよ!大きなプラン、小さなプランがひしめき合って、私の人生設計をあーだこーだと言ってるし、「今日のお前はよくがんばった」とか「どうして未だに大人になれないんだ」とか私のことをほめたり、励ましたり、叱ったり心の声が頭の中を飛びかっています。あーあ、もう少し静かな暮らしがしたいものです、、、と、またまた心の声がつぶやいた時、こんな言葉に出会いました。万法帰一 まんぽういつにきすすべてのものは「一」に帰っていく・・・つまり、あれも、これも、それも、すべてのものは違うようで同じで、結局「1つのものである」というような意味(独自の解釈も入っているので、ご勘弁を)つまり、あれもこれもやっていて忙しい私の日常も、まるで多重人格のように、私の頭の中で議論しあう私の分身たちも、やっぱり「一個の存在」に過ぎないのであって多様に多角的に、いくつもの顔をもって生きているように見えて、やっぱり私は、たった一人の私を生きているだけなのです。などなどと、自分を言い聞かせてみても、やはり、私の人生は騒々しいのです。「無心」とはほど遠い日々を過ごしているわけですがぜーんぶを受け入れて、やはり「一心」に生きていくしかないのですねー!!!本当は上の禅語から連想して、「世界は一つだ」「人の心に境界線はないのだ」などとカッコイイことを書きたかったのですが、今の私の課題は、あっちにも行きたい! こっちにも行きたい!と騒々しく叫ぶ、私のなかの分身たちをなんとか一つにまとめまあまあ、とにかく一緒に行ってみようや、などと、なだめつつ少しでも穏やかな日々を送ることぐらいが目標です。ああーーー!!!静かに生きたい・・・
2013.11.20
月影のいたらぬ里はなけれどもながむる人の心にぞすむ法然上人(浄土宗 開祖)管理者名を「月讀(つくよみ)」とするほど月に心惹かれる私ですので、上に紹介した詩を見つけたとき、やはり、心にどきっとしたものを感じました。俳句、短歌、漢詩、禅語などは、書いた本人の意図を離れ、呼んだ人の心のそれぞれに少し違う形で響くものです。私が思うに、そのときに必要な形で、つまり必要とするメッセージを受け取ると思うのです。文学作品や映画もそうかもしれないけどそれでいいのではないですか?そこで、上の短歌ですが、、、月はつねに天空にあっても、昼は太陽に隠されて見えないし夜は煌々と輝いているけれども、その美しい月光をながめる余裕のない人が多いし、厚い雲におおわれて、月が見えない夜も多いですよね。でも、誰もが「心に月を抱いている」のでは・・・太陽と月の違いは、太陽はみずから光を発するけれども月は、太陽の光を受けて輝く存在です。つまり、とても受容的なのです。だから昔から女性にたとえられることが多いわけです。誰もが心に抱いている月とは・・・私には私の月があり、あなたにはあなたの月があるのでしょう。誰か愛する人、人生で一番大事なものゆずれない価値観自分の生きる道人生のそれぞれの過程で、胸に大切に抱いているものは変わってくるかもしれません。それでも、いつでも「胸に抱いた月」があることを忘れては生きることが苦しくなると思うのです。誰かにハグされるのもいいけれど、時には、自分の腕で自分を抱きしめてみるのもいいと思います。私の月にすむ私を、これからも感じて生きていきたいなあ
2013.11.10
最近、友人になった韓国人の方とたまたま宗教の話になりました。日本人同士だと、宗教の話はなんとなくしにくい感じがありますが、韓国人には苦手意識はないようです。というのは、韓国人には熱心なクリスチャンがとても多いからです。私が以前、お世話になった韓国語の先生も一家そろってクリスチャンで韓国に住んでいたころは毎週、教会に通っていたと話してくれました。それに、韓国に旅行に行って驚くのは、教会の数がとても多いことです。どうして驚くかというと、教会の屋根にある十字架が夜になると、まるでネオンサインのように、赤くピカピカ光るからとても目立つのです。日本の教会には、赤く光る十字架なんてないと韓国人の友人に話したら、逆に驚かれてしまいました。赤く光る十字架が普通だそうです。古い統計かもしれませんが、韓国人の30%はクリスチャンで、30%は仏教徒だそうです。私の友人は仏教徒だというので、私もそうです、といったところでも私は「무늬만 불교」だから、と笑って言いました。「ムニマン プルギョ」とは、「模様だけ仏教」という意味だそうです。つまり、一応、仏教徒だけど、洋服の模様だけ仏教で、中身が入っていないという意味。実に、面白い言葉ですねえ~日本人の大半もそうですよね!日本人の宗教に対する無関心さを表現する適当な言葉はないけれど、韓国人はうまい言葉を作ったものです。ちなみに、韓国人はことわざがとても好きなんですよ。だから、ドラマのセリフにもよく出てきますよね。私はムニマンプルギョにならないよう、仏教徒としての自覚を持って生きていきます。
2013.10.31
2013年9月23日付の朝日新聞 天声人語を読んでいて少し考えさせられました。近頃、「終活フェスタ」というのがあって、とても盛況だったとか、、、そこで、花で覆われたお棺に入ってみて、両手を組み、白い布団をかけてもらい、蓋をしめてもらう、、、まさに、生きながらの「入棺体験」がとても人気だったとか、、、この記事を読んで、日本人もなかなか進化しているなあ、と感じました。「就活」 「婚活」に続いて、「終活」という言葉を造語して活動にしてしまうところも、日本人らしいですね!寿命が長くなって、自分の死に方を余裕をもって考えられる時代になってきたのでしょうか?それとも長生きイコール成功で、死ぬことは失敗という西洋的思考から離れ、本来の東洋的思考に回帰しているのでしょうか?つい先日、身寄りのない人の死亡が増えて、国庫に納められる遺産が去年、過去最高だったという記事も読んだばかりです。死に方を考えるいい時期でしょう。死に方のことを考えるのは生き方を考えることと等しいと思うので、日本人は成熟してきたなあ、と感慨を持ったのでした。この記事を読んである本のことを久しぶりに思い出しました。『今日は死ぬのにもってこいの日』(めるくまーる)アメリカンインディアンの死生観を集めた本です。中でも、本のタイトルになっている一節は、泣けるほど、美しいものです。一読をお勧めします。大切な師を亡くして、悲しみにくれていた友人にこの一節をメールで送ったこともあります。今日は死ぬのにもってこいの日だ。生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせていている。すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。今日は死ぬのにもってこいの日だ。(『今日は死ぬのにもってこいの日』より抜粋)暑くもなく、寒くもなく、しなければいけない仕事もなく、なんとなく一人で過ごしている時間・・・時間が止まって、まるで世界には私一人しかいないように感じられる時間・・・こんな時こそ、自分の死に方について考えてみるのに、「もってこいの日」では?
2013.09.23
漢字を使う文化圏というのは、中国を中心に韓国、日本、そしてベトナムなど周辺国に広がっています。ベトナムは長らくフランス領であったため、漢字そのものを使う習慣はすでにすたれて、誰も漢字を書かないらしいけど、話言葉を聴くと元の漢字語の音が残っていて、意味が推測できたりするらしいです。日本人が韓国語を勉強していて感じるメリットは韓国語には多くの漢字語がつかわれていることです。日本語のように、漢字まじりのハングルは書かないけれど、日本語の音読みとほぼ同じ音を持つので新しい単語を増やすのにとっても便利です。ただし、中国に近いので、日本人とは違う漢字をつかったり、いわゆる旧漢字を使うので、すべてが同じというわけにはいかず覚える時には注意が必要ですが。そこで、日本とはまったく意味の違う韓国語のなかの漢字語というのを少しだけ紹介したいと思います。私が「へええーーー!!!」と最近感じたのは・・・● 「工夫」とは勉強するという意味 日本語の意味で工夫するというのは「窮理」と書く● 「愛人」とは恋人の意味。日本語の意味の愛人は「情婦・情夫」と書く● 「多情」とは優しいとか親しいという意味。日本語のような浮気性の意味はまったくない● 「飲食」とは食べ物の意味。日本語の意味なら、「食事」と書く● 「八方美人」とは、どこから見ても欠点のない人という意味で、ほめ言葉である。 つまり、日本語のように、誰にでもいい顔をするというようなネガティブな意味はない勉強していると、いろいろな発見があって面白いですね!時々、勉強とは「クエスト」であり、「冒険だ」と感じることがあります。まさに、剣ではなく「ペン」をもった世界旅行と言えるでしょう。皆さまもペンをもって、不思議の国へ旅しませんか?
2013.07.24
「業」(ごう)とは何なのでしょうか?日常の生活にもよく出てくる言葉ですが、いわゆる仏教用語であり、カルマと訳すことができます。この「業」や「カルマ」という言葉にはなんとなく暗い感じがつきまといますね。カルマには、悪いカルマしかない、と思っている方が多いからでしょう。でも、実は、それは違います。業とは何か。「業」には3つの性格があります。そこで、「三性の業」と呼ばれます。・善性の業とは・・・現在と未来にわたって、自分と他者に利益を与えるものです。・悪性の業とは・・・物事の道理にそむき、現在と未来にわたって、自分と他者に苦を招くものです。・無記性の業とは・・・善でも悪でもない性格のもの。一般的な生活から生じるものは、ほとんどが無記性です。では、業を生みだすものは何でしょうか?それは、「身口意(しんくい)の三業」です。・身業・・・身体的行為から生じる業のこと・口業・・・言語活動から生じる業のこと・意業・・・心の働きから生じる業のこと意業・・・心の働きから生じる業のこと私が思うに、三番目の意業、つまり心に思ったことから生じるものが一番多いのではないでしょうか?意識とはエネルギーです。とても強いエネルギーです。だから、思っただけで地球の裏側へも瞬時に飛んでいきます。ですから心のなかで何かを祈ったり、楽しいことを考えたりするのはとても大事なことなのです。行動にだしたり、口にすることは難しくても、考えたり、思ったりすることはどこでも、いつでも出来ることですよね。だから、なるべく楽しいことを考えて暮らしましょう!こうして善性の業をたくさん積んで、今も未来も、自分も他者も幸せに出来るといいなと思います。幸せの種を心の中にまきましょう!!!
2013.07.20
今、K-POPが日本のみならず世界中で流行しているようですね。私は、いわゆるダンス系ユニットである少女時代やカラ、ビッグバン、11pmなどなどは聴きませんが、韓国ドラマの主題歌で素敵な曲を見つけるとよく聴いたり、歌詞を自分なりに翻訳して味わったり一生懸命覚えて、カラオケで歌ってみたりもします。最近のお気に入りは(少し古いドラマになってしまいますが)『シークレット・ガーデン』の主題歌、パク・チヨンが歌う「その女」です。そして最近、興味深い記事を見つけました。k-popの歌詞にもっともよく登場する3つの単語は、以下のようです。1位 サラン 愛、愛情2位 パボ ばか3位 ノッテムニヤ お前のせいだ、お前のために確かに韓国の歌詞にはストレートな表現が多いですね。韓国ドラマのセリフも、同じように直球勝負的な表現が多彩ですが。この記事について、私の韓国語の先生といろいろ話しました。先生によると、韓国の歌というものは、ほとんど100%が「愛」についての歌である。そして歌詞はとても直接的な表現が多い。そこが日本の歌と大きく違う。日本の歌の内容は愛ばかりではないし、歌詞もどちらかと言えば「ポエティック(詩的)」である。愛を自然に例えたり、愛情を遠回しに伝えようとしたりする。でも、先生は日本の歌のそんな詩みたいな表現が好き、だとか。2位の単語である「パボ 馬鹿」ですが、日本語の馬鹿とはだいぶニュアンスが異なるそうです。「愛する馬鹿」とでも付け加えたらいいのでしょうか。馬鹿だから愛さずにはいられない、馬鹿だからこそ愛おしい馬鹿みたいだから抱きしめたい、みたいな感じだそうです。だから「パボ」という単語には、あまりネガティブなイメージはないようです。3位の「ノッテムニヤ お前のせいだ」私には、何故この言葉が歌詞に頻繁に登場するのかちょっと理解しがたいのですが、そう先生に言ったら、先生は十分に理解できる、とのこと。つまり、恋人との関係があまりに密なので、つまりピタッとくっついた状態なので、(日本人なら重すぎると感じてしまうくらい)二人で一人、みたいな関係を理想としているので、お前のせいでこうなった、お前のためなら死んでも悔いはない、みたいな、愛する相手と自分との区別があまりない感じ、愛する相手は自分のもの、みたいな感じが普通なので、激しく責める感情が噴き出すのはよくあることなのだとか。ううう、、、超辛いキムチを365日食べ続けても、私は韓国人にはなれないだろうと思った瞬間でした。穏やかに愛することを願う日本人が、現在のように韓国ドラマにはまっているのは、やはり心の奥底に活火山のような感情を隠し持っているからでしょうか。記事には以下のような説明がありました。「直接的で臨場感があり、感受性にあふれた歌詞を心を絞り出しながら訴えかけるように歌う。心臓(!!)で愛そうとする韓国人の積極性と献身さは活火山のように噴き上がっては灰だけを残して消えてしまう場合も多いが、この活火山が歌の歌詞として登場するとき憐憫と言う感情が火種となって多くの人々に感動を与える。」言葉を勉強することは文化や歴史を知る作業でもあり、その言葉を話す民族の感情のひだにも分け入っていくことなのだなあ、と、あらためて感じている今日この頃です。アンニョン~~~
2013.06.27
年末になり、書棚を整理していたら、熱心に仏教の勉強をしていた頃の覚え書きの手帳が出てきました。久しぶりに見返していたら、我ながらうまく基礎知識をまとめているなあ、と感心してしまいました。そこで、私の努力の証としてその内容を少しずつブログにもアップしていくことにしました。そこで、第一回目の今日は「惑・業・苦」について。 惑業苦 とは生命あるものは、煩悩(惑)と、それに基づく行為である業によって、三界六道の苦の世界を輪廻し続ける。苦に対して、業が直接原因。惑(煩悩)が間接原因。苦を解決するためには、根本的に惑(煩悩)を断てば良い。惑が消えると、続いて業が消え、そして苦が消える。 惑(煩悩)とは・貪欲(どんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)あわせて、貪瞋痴(とんじんち)。 これを三毒の煩悩という。・貪欲とは・・・自分の好む対象を貪り求める心の働き・瞋恚とは・・・自分にとって都合の悪いもの、心にかなわないものを遠去けようとする。また、怒ること。・愚痴とは・・・おろかさ 業 とは行為、行動、作用のこと。そして、業には善・悪・無記の三性がある。・善性業現在と未来にわたって、自分と他者に利益を与える。・悪性業物事の道理に背き、現在と未来にわたって、自分と他者に苦を招く。・無記性業善でもない、悪でもないもの。一般的な生活は、ほぼ無記である。「身口意(しんくい)の三業」・身業・・・身体的行為・口業・・・言語活動・意業・・・心の働き つまり、言葉にしなくても、行動を起こさなくても心に思うだけで、「業」(カルマ)は生じてしまうのです。心の働きは、本当に重要です。心から、きれいなものを愛しましょう
2012.12.13
ここのところ、ずっと韓国語の勉強を熱心にしているせいか、韓国に関する記事を見つけると、すぐに読んでしまいます。そこで、最近見つけた記事の内容がとても印象に残ったのでここで紹介したいと思います。「日本人は心を読む文化を持ち、韓国人は心を表現する文化を持っている」私なりに日本人と韓国人の気質の違いを実感しているのでなんと、うまく違いを表現しているのだろうと感心しました。日本人は、心を読むというよりは「心を察する」といった方がより適切だとは思うけれど韓国人は心を言葉と態度で表現する民族だと、確かに思います。アジア的というよりは、欧米よりだなと思うのです。まず、彼らは言いたいことを言います。好きであれば好き、愛してるなら愛してる嫌なら嫌、文句があれば文句を言います。だから、日本人からすると感情や気持ちの表現がはっきりしていてついていけないというか、怖く感じたり、激しいなと敬遠したくなったりもします。だけど、辛いキムチのように、一度慣れてしまうと、その正直さが心地よくなるのです。彼らの感情表現は言葉だけでなく、ボディランゲージにも現れます。恋人同士は手をつないだり、腕を組んで歩くのが普通だし、夫婦は必ず同じ布団で寝ます。男同士でも、仲が良ければ握手したり、ハグしたり、女同士でも、平気で一つのベッドで寝たり(レズビアンではありません)とにかく「ふれあい」の好きな民族だなと思います。この濃厚さが反映している、韓国ドラマに、なぜか日本人は魅かれています。そこには、うらやましく思う気持ちがあるのでしょうか?私がここで言いたいことは、どちらがいいか悪いかではなくどちらもいいよね!! と言うことです。私も典型的な日本人の一人で、濃厚な愛情表現は苦手で、「黙契」を美しく感じてしまう方です。それでも、近頃は、もっと本能的に心を表現してきても良かったかな~とも思うのです。日本人の控えめさや、奥ゆかしさをいいと思う反面、時と場合によっては、ガツン! と表現するべきではと思い始めています。今からじゃ遅すぎかも、と思いつつ「心を察しつつ、心を表現する」人になりたいなと思います。長く欧米人と交流してきて実感するのは「言わなくちゃ伝わらない」ということです。「言わないけど、わかってよね」という日本人スタイルは100%通用しません。言わない意見や感情や思いは、この世に存在していないと考えるのが、一般的な欧米人の認識です。伝えたいことを全部言わなくちゃいけないのは面倒くさいことでもあるし、エネルギーがいります。でも、誤解されたくなかったり、理解してもらいたければ言葉で表現しなくてはなりません。韓国ドラマを見ていると、ドン引きしてしまうほどのストレートな表現が沢山出てきます。例えば、「君なしではただの一日も耐えられない」「今日から俺の女だ」などなど・・・ところが、日本語の字幕翻訳では、「君の事を思わない日はない」「今日から恋人になろう」などと、かなりマイルドな表現に変えられていたりもします。きっと字幕翻訳者もストレートすぎる表現は日本人には「臭いセリフ」になってしまうと考えて工夫されているのでしょうね。心を読む人、心を表現する人、どちらも素敵です!
2012.10.21
私の数秘術の先生であった、イギリス人女性のマンガラ先生がこの世から旅立たれました。その訃報を今朝、メールで知って、ずっと涙が止まりません。長くインドに暮らしていたせいか、悠々と流れるインドのガンジス河のような人でした。エネルギーいっぱいなのに、噴き出すような熱さを感じさせることはなく人を威圧する感じもなく、かといって母親のように包み込む感じかというとそうでもなく、あったかいけど厳しい父親のような威厳をまとい怖くはないけど、ちょっと近寄りがたい・・・そんな存在感のある人でした。大きなシフトを目の前にして逝かれたことを思うと病んだ肉体ではなく、自由な魂となって、これから起きる地球の変化を見守りたいのだなあという意図を感じました。「死」とは、旅立ちです。マンガラ先生は、インドのアパートを引き払いドイツでの治療にも見切りをつけ最後は生まれ故郷である、イギリスのマン島に帰り友人と家族に見守られて、安らかに旅立ったそうです。マンガラ先生は、決して悲しくはなかったはず、、、だけど、メールを読んでこんなにも泣けてしまうのはメールを書いた関係者の人々の悲しみのエネルギーが私に降り注いできたからでしょう。さようなら、マンガラ先生この世で、会えて本当に嬉しかった。いろいろなことを学んできたけれど、心から「師匠だ!」としたえる人は多くはありません。私にとって、マンガラ先生は、そんな貴重な出会いの人でした。遠く離れていても、その存在をどこかで頼りにしていたのに・・・今生では、さようなら。また、いつかお会いしましょう。今度は私に何を教えてくれるのでしょうか。とても楽しみです。私は、これからも学び続けていきます。「生きることは学ぶこと」ですから!!!Love, Love, Love
2012.10.17
セラピーワークの一種である「フォーカシング」を体験してきました。フォーカシングとは、直訳すると、「焦点を当てること」です。日本で定着しているカウンセリング手法の一つに、アメリカの心理学者、カール・ロジャースが提唱した来談者中心療法というのがあります。フォーカシングは、来談者中心療法の妹分みたいなものであり、ロジャースの弟子であったジーン・ジェンドリンが開発しました。自分の感情に氣づくことができない、思いを言葉にすることができない心の中にもやもやがあるけれども、それが何かわからない、、、そういうクライエントに向いた手法です。カウンセリングというのは、言葉による交流が中心となりますが、言葉による表現を不得手としている人々も大勢いるからです。何をするかといえば、身体のなかの違和感にただ氣づいてみる、というものです。氣づいてどうするのかといえば、何もしません。「ああ、今、こんな感じなんだな・・・」と氣づくだけで終わりです。分析もしないし、解決方法を考えたりもしません。身体の中の違和感に氣づくといっても難しく感じる人も多いでしょう。でも、日本人はとても繊細な感覚を持っているので、とても日本人に合った手法ではないかなと思います。例えば、胸のあたりがチクッとする首の後ろに凝った感じがある右の足首に痛みがあるそんな身体からのメッセージを受け取ったら胸のチクッに焦点を当ててみると、どんな感じがするか・・・首の凝りに焦点を当ててみると、どんな感じがするか・・・右足首の痛みは、どんな感じか・・・身体が発する違和感に意識を向けると、そこには必ずメッセージが隠されています。でも、そのメッセージを受け取ったからといって何かしなければいけない訳ではありません。「ああ、わかったよ。受け取ったよ。ありがとう」と、身体に伝えるだけでいいのです。人間の体は実はとても賢いのです。ヒトは頭で考えているだけではありません。何億個という細胞の一つ一つに思考能力があり感じる能力があり、癒す能力があります。だから、「受け取ったよ。ありがとう」と伝えれば身体の持ち主があれこれ何かしなくても身体が自然治癒能力を発揮して心と体の癒しを始めてくれます。自分の身体を信頼し、ゆだねるだけでいいのです。フォーカシングも教える人によって少しずつやり方が違いますが、私が体験した感想をいうと、なんとなくドリームワークにも似ているような少し夢見心地な感じでした。終わった後は、フワッと体全体が軽くなった感じがあったので、何か重い物を身体の中から吐き出したのでしょう。身体の声を聴くってどういうことだろう、、、と思っている人にはおすすめのセラピーだと思います。
2012.09.26
以前、夢日記をつけていた頃は、本当によく夢の内容を覚えていたものですが、少し離れてしまうと、無意識への扉が閉まるのかこのところ、夢を覚えていることがあまりありませんでした。(でも、夢は毎日見るものです!)ところが、少し前に久しぶりに鮮明な夢を見てその内容もよーく覚えていました。カエルとオタマジャクシが出てくる夢なのですが。普通に夢解釈をすると、これは変化の前触れです。その夢を見て以来、ふたたび無意識層への通路が開かれたのか、また、夢の内容をよく思い出せるようになりました。そこで、見た、とても印象的な気になる夢とは、、、昨夜、夢の中に訪問者が訪れたのです。夢の中・・・私は家のリビングのソファでうたた寝をしていました。(本物の、私の家です)私はなぜか、リビングの窓のカギをかけ忘れていたようで、、、ソファの横の窓が、家の外から、誰かによって開かれ(少しだけ)、そこから、右手がそっと差し出されたのです、、、驚いて、あわてて起き上がった私は、急いで窓を閉めたのですが、、、夢の中では、とても恐怖感を味わったのですが、起きてから、ずっと、あの訪問者は誰だったのだろうと考えています。なぜ右手だけだったのだろう。なんで、私はあんなに怖かったのだろう。夢の中で「あなたは誰?」と問いかけてみてもよかったのになあなどなどと、繰り返し思い出しては考えてしまいます。夢の中の訪問者、肉体をもったその人に、いつか現実の世界でも会えるのでしょうか?それとも、あの右手は単なる象徴なのでしょうか?とても気になるところです。これまでの経験からすると、気になる夢の意味はだいぶ経ってから「なるほど~」と判明するものです。この夢の意味もいつか、わかる時が来るでしょう。今から、とてもたのしみです!
2012.07.13
昨日、自分で作る酵素ジュースの講習会に参加してきました。春は、野草で作る酵素ジュース夏は、梅で作る酵素ジュース。秋は、果物と根菜で作る酵素ジュースということで、今回は梅をメインに、少し季節の果物も加えた酵素ジュースを教わりました。何百個という梅を集団で黙々と切り刻んでいると、なんだか集団で瞑想をしているような、心穏やかな気持ちになりました。そう言えば、誰かが書いていたっけ、、、家事は、つまり掃除や洗濯などを無心ですることは一種の瞑想であると。だから、家事が機械化されて、家事労働では瞑想できなくなったので皆、道場などに出かけて、わざわざ瞑想するのだと。私はこの一節を読んだ時に、なるほどと思ったのです。何故かというと、気持ちを落ち着けたいときには台所に立って、大量の野菜をひたすら刻んでシチュウーなどを作るからです。野菜をひたすら刻んでいると、座禅のように無心な感じになれます。昨日も、そんな気分を楽しみました。実は、作業をする前に先生が一年前に仕込んだ梅ジュースを飲ませていただいたのですが、たかが紙コップ半分くらいだったのですが、身体がすぐに反応して、不思議なことがおきました。とにかく身体が芯から熱くなって汗は出るし、頭も少しボーとしてなんだかお酒を飲んでほろ酔い加減のような、、、そんな感じが数時間続いたのです。先生によると、身体が浄化されている人は反応が早いそうな、、、私も、一応、玄米菜食主義者なもので、こんな好転反応的なものがすぐに出たのでしょうか。でも、頑張って何とか作業は終えたものの、、、作業後の講義の時間になったら、死にそうなほどの眠気に襲われ、ついに隣の和室で、休ませていただきました。参加者に内科のお医者様がいて、デトックスが急激に起きたので身体が睡眠を要求したのではないか、と言ってくださいました。そうかもねええーーー!教わった通りに、酵素ジュースを作るのはいろいろな事情から少し難しいけど、なんとか似たものを作りたいなと思っています。身体全部で体感しました。恐るべし! 酵素ジュース
2012.07.06
アメリカ人の友人から、とってもfunnyなサイトがあると紹介されました。それは、日本にとても長く住む外国人が知らずに身につけてしまった日本人特有の癖や習慣を101種類紹介するサイトです。http://www.japan-talk.com/jt/new/the-101-signs-you-have-been-in-japan-too-longこれらの多くにあてはまるとあなたは外国籍であろうとも、「すでに基本的に日本人である」と認識しなさいというものです。確かに笑えるネタが多いので、少し紹介しますね。1 日本以外の外国に旅行しても「自分はガイジンだ」と思ってしまう。2 震度3の地震があっても、平気で仕事を続けてしまう。3 写真を撮られるときに、思わずピースサインをしてしまう。4 バーに沢山のガイジンがいると、なんとなく緊張してしまう。5 変な日本語英語を耳にしても、変だと感じない。6 カバンに財布を入れたまま、カフェなどで席取りをしてしまう。7 春になると、花見がしたくなる。8 ガイジンを見ると、じっと見つめてしまう。9 ブックカバーなしでは、電車の中やカフェで本を読むことができない。10 自動販売機に向かって、話しかけてしまう。11 電話をする時、うなづきながら頭を下げてしまう。12 「どこでもドア」が欲しいと思う。13 カラオケで演歌を歌う。14 外国に行っても、タクシーに乗った時、ドアが自動で閉まると思って待っている。15 カレーを週に一度は食べる。16 ドンキホーテのテーマソングを無意識に口ずさんでいる。17 知り合った相手の血液型が気になる。18 変な英語の入ったTシャツを平気で買ってしまう。19 デパートの「OIOI」を見て、「オイオイ」と読まずに「マルイ」と読める。笑えませんか?私の友人、米国人男性は少し当てはまるところがあると言い、日本人化していることを心配していました!まあ、グローバル社会だから、いいのでは? と思うのですが、、、
2012.02.20
スッタニパータ より 音声に驚かない獅子のように網にとらわれない風のように水に汚されない蓮のように犀の角のようにただ独り歩め(『ブッダのことば』 岩波書店)「スッタニパータ」は原始仏典のなかでももっとも古い物の一つです。「ええー!!」と思われる方もいるかもしれませんが星の数ほどる仏典のどれ一つもお釈迦様、つまりゴーダマ・シッダールタの直筆によるものはありません。つまりブッダは一言も書き遺してはいません。インド各地で説法をおこなったことは歴史的事実ですが。では、今残っているものは何かというと、お弟子さんたち、あるいは仏教研究者たちが書き表したものです。その中でも、原始仏典と呼ばれる一群の書物はお釈迦さまの直弟子たち、つまりブッダの言葉をその耳で直接聞いたお弟子さんたちが釈尊の死後、ブッダの言葉をなるべく正確に後世に残そうと覚えたいたことをまとめて書きました。ですから、原始仏典を読むと、ブッダの人としての雰囲気や息遣いが伝わってきます。スッタニパータの中でも、私が大好きな「犀の角の章」を読むと、お釈迦様は偉大な詩人だなあ、と素直に思うのです。アーユルヴェーダもそうですが、原始仏典には詩篇として残されているものが多いのです。つまり、学のない、言葉の読み書きができない一般大衆にもわかりやすく教えをつたえようとしたからです。そして、上に紹介した一句ですが、、、なんて美しい言葉の集まりでしょうか。人間は一人で生まれて一人で死んでいくのですから一人で生きていく覚悟というものがいつも必要ではないでしょうか?「孤独」という言葉には、深さと潔さがあると感じるのは私だけなのでしょうか?とはいえ、人は家族や友人も含め、実は一人では生きていません。人間関係やコミュニケーションも大切にしなければならないことは事実です。ただ、「人にとらわれてはならない」「関係性の罠にはまってはいけない」ということを、上の一句は教えているように思えます。人間関係のネットワークのなかに生きていようとも、それに手足をからめとられて生きるのではなく、「網にとらわれない風のように」生きていきたいものです。 感謝、感謝、感謝
2012.02.16
タイム誌で、とても気になる記事を見つけたので、要約して紹介したいと思います。あなたの朝の時間の過ごし方はたとえば、こんな感じですか?目覚まし時計がうるさく鳴って、あなたはベッドから飛び起きます。急いでシャワーを浴び、その日の服に着替え、ほとんど何も考えることなくドアを開けて会社に向かいます。通勤電車はいつものように込み合っていて、あなたの血圧は不快感から急上昇します。会社の自分の机に座ると、新聞に目を通すか、ネットで最新ニュースをチェックします。どのニュースを見ても、気が滅入るものか、ため息をつきたくなるようなものばかり・・・そして、あなたはコーヒーを喉に流しいれ、いよいよその日の仕事に取りかかります。つまり、問題解決を促すような、何か創造的で独創的な頭の運動にはいります。こうしたよくある朝の習慣のすべてがあなたの一日を台無しにしているとつまり、あなたの創造性を壊していると神経科学や心理学の専門家による、最近の研究結果が警告しているのです。人間が真にクリエイティブになり、柔軟で開放的な脳の働きをするのは頭がフル回転していない時らしいです。つまり、まだ眠りから目覚めずに布団のなかでうとうとしている時間、ボーとしている時、疲れきって頭が働かないとき、などなど。そんな頭の状態の時、人間の脳は頭に詰め込まれた知識のネットワークの海を自由自在にサーチして創造的な問題解決方法を見つけ出すらしいのです。そして、当の本人が驚くような、つまり考えもしていなかった答をふと思いつくようです。通勤電車で不快感を感じている時にはストレスホルモンのコルチゾンの供給量が上昇するし、悲劇的な、あるいは不愉快なニュースを読んでもコルチゾンが増えます。このストレスホルモンはミエリンという神経間の情報伝達に重要な物質にダメージを与えるため、考えるスピードを遅くしたり、うまく考えがまとまらなかったりするようになります。ですから、研究者は新聞を読むのは仕事を終えてからにするべき、と忠告しています。では、新聞を読む代わりに朝の時間をどう過ごすか実験者にさまざまな動画を見せて、どのような内容がもっとも頭に良いか、リサーチしました。その結果は・・・・・・朝のコーヒーだけは、続けても良い習慣のようです、なぜなら、コーヒーに含まれるカフェインが脳内のドーパミンのレベルをあげるからです。ドーパミンは神経伝達物質の一つで、「あなたにやる気を起させ、発想力をアップさせて」くれます。 研究者がすすめる理想的な朝の過ごし方とはまず、目覚ましは少し早めにセットし、布団の中で15分20分まどろむ時間の余裕を作ります。そしてこの時、最近気になっている問題やしなければならない仕事のことをふと考えてみます。(もしかすると凄いアイデアが思い浮かぶかも!)そして、通勤電車の中ではなるべくイライラせずに深呼吸を繰り返すことでコルチゾンのレベルをあげないように気をつけます。会社に着いたら、コーヒーを飲みながらネットでユーチューブにアクセス!なるべく楽しくて明るい動画をしばし楽しみます。研究者の発表によると、「笑っている赤ん坊」を映した動画が、人間の脳と感情にもっとも良い影響を及ぼしたようです。と言う訳で、片手にコーヒー、そしてユーチューブで赤ちゃんの動画を検索!というのが、もっともクリエイティブな朝の過ごし方であるという結論です。 、皆さん、ハッピーな一日を!!!
2012.02.07
お経と一口に行っても、実に実に膨大な数の経典が存在しています。仏教に慣れ親しんでいない方にとってはお葬式や法事などで、お坊さんが何やらモゴモゴ言っているものという印象しかないでしょう。何を言っているのか全然理解不能なのは、ほとんどの場合、読経はサンスクリット語でおこなわれているからです。但し、経典は漢訳といってサンスクリット語から漢字語訳にされているので日本人なら、書かれた経典を見るとなんとなくその経の意味するところはイメージできるかもしれません。お経の中身と言うのは、壮大な旅の物語であったり(ドラゴン・クエストのような)、智慧を教えているものだったりします。英語を日本語に訳す翻訳者がいるようにサンスクリット語から(あるいはパーリ語やチベット語から)中国語に訳す翻訳者が大勢いたわけです。「孫悟空」の物語で有名な三蔵法師は偉大な僧であると同時に偉大な学者であり、仏典の三大訳者の一人です。そこで、本日のテーマに触れていきたい訳ですが、、、お経の数は膨大なので、日本の各宗派はそれぞれ公式に「これを公的に採用する」というお経をいくつか定めています。つまり、宗派によって毎日のお勤めや行事で読経するものは違っています。有名な「般若心経」は、ほとんどの宗派で正式に採用されていますが。そこで日本の禅宗ではどのようなものが採用されているのでしょうか。(日本の禅宗には三大宗派があり、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗です。)それは、金剛般若経や法華経などです。但し、禅宗というのは、公式のお経を定めつつもお経を教義のよりどころとはしていません。もともと何故禅宗が発祥したかと言えば、経典など、文字に書かれたものにとらわれない、文字に書けないところに真実がある(不立文字)というような、「以心伝心」的な精神を大事にしているからです。ですから、禅宗にとってお経は絶対的なものではなくそのなかのエッセンスをくみ取るために存在しているものと言えるのではないでしょうか?その辺のところを、曹洞宗の道元禅師は以下のように表現しています。「心迷えば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ず」(心が迷っているときには、法華経の森の中で迷ってしまうが、心が静まっているときには、手のひらで法華経を転がすことができる、と言った感じかな?)と、こんなことを書きつつも本日は禅宗で大事にされているお経を紹介しようとしています。お経は基本的に長いので、般若心経のように短いものが流布してきた訳ですが般若心経に負けず劣らず短いものがあるので以下に書き記してみました。 十句観音経観世音 かんぜおん南無仏 なむぶつ与仏有因 よぶつういん与仏有縁 よぶつうえん仏法僧縁 ぶっぽうそうえん常楽我浄 じょうらくがじょう朝念観世音 ちょうねんかんぜおん慕念観世音 ぼねんかんぜおん念念従心起 ねんねんじょうしんぎ念念不離心 ねんねんふりしん(なぜ十句と呼ばれているかは一目瞭然ですね!)・・・・どういう意味かというと、観世音菩薩にすがります仏に従います私たちは仏と同じ「因」をもって生きています私たちは仏と同じ「縁」をもって生きています (つまり因縁の世界です)そして、仏、仏の説いた教え、僧(教団)という三宝につながっていますこの世界は、永遠であり、安楽であり、絶対であり、清浄です。朝に観世音菩薩を念じ日暮れにも観世音菩薩を念じますこの一念一念は悟りから生じたものです悟りの世界から離れたものはありませんお経は全部、インドやシルクロードのあたりや中国で作られたものばかりではありません。ここで紹介する「十句観音経」は日本で作られたものと推定されています。臨済宗の有名な白隠禅師も親しんでいたものらしく短いながらも、なかなかパワーがあって霊験あらたかなものらしいですよ。日本人は観音様が好きで、わりあいに観音信仰が強いので仏像も観音様が多いですよね。お寺巡りで観音像に出会ったときちょっと口にしてみてください。何か好いことがあるかも、、、です。
2012.02.04
「身体と友だちになる」ためのワークショップを主宰しています。あなたも、気軽に参加してみませんか?内容は、心と体のヒーリングセンターであり、氣のエネルギーの中継地点であるチャクラを中心に構成しています。チャクラについて興味がある方、身体の声を聴いてみたい方、健康の維持に関心がある方などどなたが参加されても楽しめる内容になっています。 ≪内容≫ ・チャクラについての講義 ・チャクラ発声法 ・チャクラ瞑想 ・セラピューティックタッチ ・靈氣ヒーリング ・直観と遊ぶ など ・場所 東京都内 某所 但し、交通費(実費)をご負担下さり、場所を提供して頂けるなら、地方出張も可能・日時 平日午後及び日祭日午後 1時から5時まで4時間(途中休憩あり)・料金 2人で 7,000円 3人で 10,000円 4人で 12,000円 5人以上の場合、お一人様2,500円 2人以上の参加者がいないと開催できませんので、2人以上の参加人数を揃えて、お申し込みください。 お問い合わせ、お申し込みはメールにてお願いいたします。 vajra-dharma@mkkmorozumi.comチャクラについて知りたい方は、以下のサイトへ www.mkkmorozumi.com
2012.01.28
久しぶりに、直伝霊氣の交流会に参加してきました。ちなみに、直伝霊氣は西洋レイキと違います。どこが違うか書くのは大変なので一言で簡単に説明するなら、日本発祥の霊気が西洋から逆輸入されて日本に入ってきたのが西洋レイキであり、日本にずっととどまって秘かに伝承されていたのが、直伝霊氣です。まあ、カタカナと漢字表記の違いを見ても、そのへんは明らかだと思うのですが。昨日の東京は一日雪か雨まじりの雪でとても寒かったけれど、霊氣を施したり、霊氣を受けたりするうちに身体が芯から暖かくなって、「この感じだよね」と身体が喜ぶのがわかりました。空から降り注ぐ実際の太陽光は見えないけれど、(厚い雲におおわれて)身体はしっかりと太陽エネルギー、氣のエネルギーを受け取りました。世界中にパワースポットがあります。たとえば、近年有名なアメリカのセドナとか。そういう場所にはボルテックスがあって、地球エネルギーが噴出しています。でも、実は人間の身体自身がボルテックスなのです。そのように機能していない人がほとんどだけれど。それは心と身体のつながりを忘れているから。まあ、エンジンが錆びついて動かない状態とでも言いましょうか、あるいは使い方を忘れて長いので、機能が退化しているとでも言いましょうか。病院や薬に時間とお金をかけるならその分の労力を自分の身体と向き合う時間にそそいだ方がいいのになあ、と思うのです。今の日本には薬事法があるので、霊氣のような代替療法を説明するときに病気が治るとか、改善するとかの表現は使用することができません。(戦前は、許されていたんだけど、、、)そのかわり、病気になりにくい身体作りのための健康法としては堂々とお勧めすることができます。私が実際に試して感じるのは、免疫力をアップさせる最短の方法は食事療法だと思うけれど身体が「気持ちいい!」と喜ぶのは、身体のエネルギーに直接アクセスする、つまり意識を向けることですね。去年の震災以降、私の場合、エネルギーが低下、あるいは停滞していたので今年はまた、霊氣療法に関わっていきたいなと思っています。「歩くパワースポット」を目指して! お知らせ 友人とともに、「話して元気になろう」という、お話会を主宰しています。そろそろ、この会を始めて一年になろうとしています。地味に活動を続けてきましたが、そろそろ、いろいろな方に来ていただいても大丈夫かな、ということになり、ブログでお知らせすることにしました。参加資格: 誰でも。お話したいなという思いがあれば、どなたでもオーケーです。開催日時: 月1、2回。 平日昼間。 2時間程度。開催場所: 東京都内 某所参加費: 500円聞き手: カウンセラー資格者ご興味・ご関心がある方は、まずは、メールでお問い合わせくださいませ。vajra-dharma@mkkmorozumi.com
2012.01.22
数秘術で考えると、2012年は「5の年」になります。数秘術のルーツは2500年前にさかのぼります。ギリシャの学者で思想家でもあったピュタゴラスが「それぞれの数字には固有のエネルギーがある!」と発見したことに始まると言われています。欧米では西洋占星術と同じくらいポピュラーですが、日本では、まだまだマイナーな存在かもしれないですね。ここでは詳しく書きませんので、興味のある方は、以下のサイトを訪問してみてください。www.mkkmorozumi.comというわけで、数秘術で考えると2012年という年は、5のエネルギーで満たされている年。別の言い方をするなら、5のエネルギーを体験する一年。または、5のエネルギーに触れるチャンスが多くなる一年と言えるでしょう。5という数字のエネルギーについて書く前に少しだけ、昨年のことをふりかえってみましょう。2011年は「4の年」でした。4という数字はとても安定していて、安全や安心感とも関係があります。人生にたとえるなら、「地に足の着いた生き方」を象徴しているともいえます。但し、それらの裏を返せば、安心感の基礎や安全であることを脅かされ、自分の生き方や自分の価値観など根本的なことを揺すぶられ、あらためて「自分の中心」について考えさせようとする数でもあります。つまり、「まやかしの安心感」や「砂のお城のような家」は崩壊し、本当の意味で、あなたが安定するため、お試しのような出来事がやってきます。そこで、思い込みでなりたっていた幻想はくずれ、現実に直面し、ようやく自分の足元をじっと見つめ、自分がどこに立っているのか、どこに行こうとしているのか、考えます。まわりの環境や人間関係なども再考します。そうして、ようやく真の安全を手に入れるのです。昨年3月の東北大震災をきっかけに、多くの人々が生き方を考え直してみたのではないでしょうか?日本列島が大きく揺すぶられ、日本人全体が「生きる」ことの意味を問われました。私からすると、本当に日本人は昨年、4の年のエネルギーを体感したなあと思うのです。そして、2012年という「5の年」を迎えました。5というのはまずは奇数。偶数が陰性で内向的で内省的で受容的である一方、奇数は陽性で、積極的で行動的。とにかく内向きではなく、外へ外へと向かっていくエネルギーです。その中でも5というのは放射状にエネルギーが広がっていく感じ、拡散していく感じ、なのです。ですから、とっても好奇心旺盛なエネルギーで何にでも興味をもってすぐにとびついていく感じがあります。「その瞬間のエネルギー」と関係が深いので、ある意味、衝動的なエネルギーとでも言えるでしょうか、目的を見つけて一途に向かっていくタイプのエネルギーではないので継続力、持続力には欠けています。つまりマラソンのような長距離走向きでなく100メートルに賭ける瞬発力です。4の年に本当の意味で安定を手に入れた人はこの5のエネルギーをおおいに利用して今年は好奇心のおもむくままに生きてみるべきでしょう。やってみたいことは何でもやってみてその場の気持ちや感情に忠実になってみましょう。可能性を見つけたり、新しい世界の扉を開いてみたりするのに最適な年です。そこから何が生まれるかは、来年以降のお楽しみでしょうね。但し、昨年大きく揺すぶられてまだまだ足元が固まっていない人、安全が脅かされたまま、立ち直っていない人、真の安心感を得られていない人は要注意!安全な基地のないまま、飛び立ってはいけません。4の年の宿題を終えていないと思う人はまずは安定という課題に取り組むべきです。まだ1月なので、昨年の宿題を終えるには遅くありません。しっかりと昨年の問題を解決し、基礎固めをしてから、好奇心の翼を手に入れましょう。皆さんが、5の明るい無邪気なエネルギーをしっかり吸収していろいろな場所へ羽ばたいていけることを祈っています お知らせ 友人とともに、「話して元気になろう」という、お話会を主宰しています。そろそろ、この会を始めて一年になろうとしています。地味に活動を続けてきましたが、そろそろ、いろいろな方に来ていただいても大丈夫かな、ということになり、ブログでお知らせすることにしました。参加資格: 誰でも。お話したいなという思いがあれば、どなたでもオーケーです。開催日時: 月1、2回。 平日昼間。 2時間程度。開催場所: 東京都内 某所参加費: 500円聞き手: カウンセラー資格者ご興味・ご関心がある方は、まずは、メールでお問い合わせくださいませ。vajra-dharma@mkkmorozumi.com
2012.01.18
つい最近、台湾人の知り合いの女性から魂には3種類あるという話を聞きました。とても面白いので、ここで紹介することにしました。それが、主魂(しゅこん)、覚魂(かくこん) 生魂(せいこん) です。 主魂とは核となる魂のことで、この魂は永遠不滅のものであり、何度生まれ変わろうとも、姿・形が変化しても同じ主魂をもって、人間になります。 覚魂とは人間だけがもつものであり、他の動物にはないものです。つまり、「智慧」と言い換えてもよい、頭脳的な魂をあらわしています。 生魂とは肉体をつかさどる魂のことです。つまり、魂は精神あるいは心だけでなく、身体にも宿る、という考え方を示していると思います。「魂とは何か」と問われれば答えるには、あまりに大きな命題ですが、上のような説明も面白いなと思いました。他にもいろいろお話を聞いたのですがこの知識の源は、仏教であり、少し道教も入っているかなというのが正直な感想です。仏教は世界宗教なので、各国の仏教には違いがあり、それぞれ独特の智慧をもっていると知っておいてください。3というのは、いろいろなものを象徴的に表現するときによく使われる数字ですね。宗教的なカテゴリーで、もっとも有名な「3」とは、キリスト教の教義である「三位一体」説でしょう。三位一体の三者とは、「父と子と精霊」のことです。創造主としての父なる神、キリストとしてこの世に現れた、子としての神、そして、信仰者として現れる精霊としての神。神には3つの人格があり、その間に優劣はありません。数秘術でいえば、1と2に続くのが、3です。(当たり前ですが、、、)象徴的に書けば、1が男性であり、2が女性であり、そこから生まれるのが「子」である3です。ですから、3というナンバーは誕生を表現し、あらゆる創造性の象徴であり、とてもクリエイティブな数字です。ですから、たとえば、誕生数に3をもつ人を見ると、「自己表現」するために生きているなあと感じます。 お知らせ 友人とともに、「話して元気になろう」という、お話会を主宰しています。そろそろ、この会を始めて一年になろうとしています。地味に活動を続けてきましたが、そろそろ、いろいろな方に来ていただいても大丈夫かな、ということになり、ブログでお知らせすることにしました。参加資格: 誰でも。お話したいなという思いがあれば、どなたでもオーケーです。開催日時: 月1、2回。 平日昼間。 2時間程度。開催場所: 東京都内 某所参加費: 500円聞き手: カウンセラー資格者ご興味・ご関心がある方は、まずは、メールでお問い合わせくださいませ。vajra-dharma@mkkmorozumi.com
2012.01.14
この三次元世界には、3種類の時間の流れがあるのを知っていますか?それは、石の時間植物の時間ヒトの時間です。石の寿命(石、岩にも寿命があるのだ!)というのは、何万年という長い長い単位です。植物というのは、一年草のような植物もありますが屋久島の屋久杉に代表されるように、年百年、あるいは何千年という単位です。それに比べてヒトの寿命と言うのは、長くて100年。つまり、ヒトの時間には何十年という単位しかありません。つまり、石の時間は超スローに流れ、植物の時間は、ゆ~~っくりと流れ、ヒトの時間は、いつもせかせかと流れています。ここずっとパワーストーンが人気で若い女性たちだけでなく、おじさんやサラリーマン、おばさんたちもパワーストーンのブレスレットをするのを普通に見かけるようになりました。もちろん、浄化や開運、恋愛運アップなどそれぞれ目的があるのでしょうが、私は人気の秘密は、実は、皆さんは気がつかないうちに「石の時間」に魅かれているのではないかと思うのです。つまり、石のアクセサリーを身につけることで、心に時間のゆとりを持とうとしているのではないでしょうか?以前、社会人類学者の「聖地とは何か」という講演を聞いた時その方は、「聖地とは石である!」と断言していました。つまり、聖地と呼ばれる場所には、西欧、アジア、日本を含めて必ず不思議な力をもった石(岩)があるからだそうです。その方によると、日本の有名な神社も、実は奥の奥に、必ず強い力をもった岩があって、誰もその岩をお参りしないけれど、(知ってる人だけしているが)本当のご神体は、実は神殿内に安置されているものではなく、その岩なのだと言っていました。水は、つまり川や海や湖は「情報を伝え」、石、岩は、「情報を蓄積」します。つまり、岩は太古からの歴史を知る「時の図書館」なのです。心を開いた人間には、その図書館の扉を開いてくれるとか。。。とにかく、そんなこんなで、私は石のアクセサリーが大好きなのです。ブレスレット、イヤリング、ネックレスなど高い、安いに関わらず、石を素材とするアクセサリーが好きでよく身につけています。私の場合、パワーをもらいたいというよりも、「石の時間」に憧れているからです。喫茶店で本を読むのに疲れ、一人ボーとしている時など無意識に石のネックレスに触っています。きっと身体が安心するのでしょう。 お知らせ 友人とともに、「話して元気になろう」という、お話会を主宰しています。そろそろ、この会を始めて一年になろうとしています。地味に活動を続けてきましたが、そろそろ、いろいろな方に来ていただいても大丈夫かな、ということになり、ブログでお知らせすることにしました。参加資格: 誰でも。お話したいなという思いがあれば、どなたでもオーケーです。開催日時: 月1回。平日昼間。2時間程度。開催場所: 都内某所参加費: 500円聞き手: カウンセラー資格者ご興味・関心がある方は、まずは、メールでお問い合わせくださいませ。vajra-dharma@mkkmorozumi.com上は中国で買い求めたもの。馬蹄型が気に入ってます。
2012.01.12
「愛しているよ」 今年は韓国のドラマをよく見ました。なるほど、こうやってみんな韓国ドラマにはまっていくのだなあ、と実感しています。最初はアクション系時代劇に圧倒されました。男優の肉体美がすばらしく、テコンドーのようなアクションシーンも迫力があり、時代劇特有の衣装や装身具には目を見張るものがあり、いろいろな要素が合わさって魅了されたような気がします。その後、現代劇も見るようになりましたが、見れば見るほど感じるのは韓国人の愛情表現は欧米的だということです。基本的には儒教の国なので、スキンシップのようなシーンは抑えめですがとにかく「愛しているよ」をよく口にします。男性は恋人にいつも「死しているよ」と言い時には母親にも「愛しているよ」と言い、恋人の両親の前でも「愛しています。結婚させてください」と堂々と言うのです。似たような顔をした隣人であってもまるで違うなあと、とにかく感心させられます。日本では「草食系男子」が増えているようだけど、韓国人の男性は完全に「肉食系」であり、臆面も無く「愛に命をかける」タイプですね。現在も続く「徴兵制」の影響もあるのではないでしょうか。国を守り、家族を守り、愛する人を自分の手で守る、という意識がとても強いと感じます。私たち日本人は一生の間にいったい何回「愛しているよ」と口にするでしょうか?もしかしたら指を折って数えるくらい、、、「言わなくても察する」ことを美徳とする国なのでそれもいいのでしょうが、「察する」ことが難しくなってきている現代では愛情表現を小出しにしていていいのか! と思うのです。母親から子供へ 「愛しているよ」子どもから親へ 「愛しているよ」恋人同士で 「愛しているよ」夫から妻へ 「愛しているよ」妻から夫へ 「愛しているよ」まるでバーゲンセールのように連呼しても誰も困らないのだから。「口に出さない深い愛情」もあるのではないかと信じていましたが最近は韓国ドラマに洗脳されたのか「言葉で表現しなくちゃ、伝わらない」と思うようになってきました。誰から言われても、つまりどんな関係であっても「愛しているよ」と言われたら少し照れても、嬉しいはず、、、魔法のような言葉です。「愛しているよ」「愛しているよ」「愛しているよ」「愛しているよ」「愛しているよ」なんとなく心が温まってきました。アンニョン~。
2011.12.27
猫を3匹飼っています。動物と暮らしている人なら、よくご存じでしょうが、猫も犬も夢を見ます。つまり、人間のREM睡眠のようなものが猫にもあるのです。猫は、もともとよく寝ます。24時間のうち、18時間は寝ているのではないかと思うくらい。3匹のうち、2匹はすでに15歳をすぎた老猫です。年老いた猫というのは、また実によく寝るのです。とにかく、とにかく、いつも寝ています。寝る時間が長くなったせいか、夢見る時間も長くなったようで最近ひんぱんに猫の寝言を聞くようになりました。猫も寝言を言うだけでなく、いびきもかくし寝ながら目玉もぐりぐり動かすし、ひげもピクピクさせます。そんなこんなで、「ああ、今夢を見ているのだなあ」とわかるのですが、そこで、いつもの疑問!!!猫はどんな夢を見ているのだろう、、、きっと食べ物の夢に違いないと思いつつも、何かすごい夢を見ているのではと、想像を膨らませてみます。私が猫を好きなのは自分勝手な自由さと気ままさとマイペースなところ。最近、猫の幸せそうな寝顔を眺めて私も平和な気持ちに浸りながら、ふと、ある禅語を思い出しました。「足るを知る」これは、短いバージョンで長く書くと、「知足の法は即ち富楽安穏の処なり」わたしなりに翻訳すると、「自分は十分に持っているとわかると、幸せに暮らせる」あるいは、「自分には欠けているものが何一つないと思うと、人生ハッピー!」または、ぐっと噛み砕いて、「私は私でいいんだから、気楽にいこうよ」てな、感じでしょうか。仏教では、欲望こそが苦しみの根源であると説きます。「欲しい、欲しい、自分にはこれが足りない、あれが足りない」と渇望することで、自分を苦しめて生きているのです。でも、本当にあなたには何かが欠けているのでしょうか、、、そこで、「足るを知る」ことが、安穏に生きる一つのキーワードとなります。猫の気楽なマイペースさを見ていてこんなことを考えていました。猫たちを眺めていると「人生の達人」にも見えるし、「哲学者」にも見えてきます。動物と暮らすことの面白さですね。いつか、いつか、空を飛びたい、、、じゃなく、私の夢は、、、猫の夢のなかに入ってみたい! です。私のもう一つのパワーの源、友人からもらった写真を、皆さんにも!!!一足早く、メリークリスマス
2011.12.21
日本人は密教好きです。密教というのは、仏教の一番新しい子どものような存在で、原始仏教とくらべると、実はまったく似ても似つかぬものです。身分制度のある、不平等のバラモン教を否定するような形でブッダが仏教の教えを説いたわけですが、バラモン教の流れをくむ、ヒンドゥ教の影響を色濃く受けているのが密教だからです。だから、とってもインド的。たくさんの神様が登場するし、現世利益的だし、何より、カルマとか、輪廻転生を信じています。仏教=イコール=生まれ変わりを信じると思っている人が多いようですが、必ずしもそうではありません。ブッダの悟りとは、、、因縁を切ることに他なりません。つまり、悟った人は生まれ変わらないのです。という訳で、、、原始仏教好きで、密教にも魅かれる私ですが、いずれにしろ「悟れていない」のでまた、この世に生まれ変わってしまいそうです。輪廻転生を信じるということは過去生を信じるということです。人は誰でも多くの過去生をもって今の現世を生きていますが、その中のいくつかの過去生の影響を強く受け、宿題を持ちこしたり、才能を引き継いだりしています。私の場合、ネイティヴアメリカンの過去生が一回ではないので、その影響をだいぶ受けて生きてきた気がします。だから、インディアンジュエリーのお店を見たり羽飾りをつけた戦士の写真を見たりすると、心臓がばくばくして、非常に落ち着かない感じになります。友人から送られてきた(上に紹介した)グランドキャニオンやアマリカ西海岸あたりの大自然の写真を目にするとクラウンチャクラが開くようでそこからエネルギーがどっと流れこんでくるようで、頭がくらくらします。そんな日の夜は、ネイティブアメリカンの夢でも見ているのでしょうか。。。私の中の虹色の戦士に敬意をこめてパワー全開の写真を皆様にもお送りします。
2011.12.15
明日は、3日は、牡羊座で新月を迎えます。時間は、23:32です。でも、この時間の前後24時間はいずれにしろ、新月パワーに包まれます。新月のエネルギーは何事においても、何かを始めるのに適しています。しかも、今回は牡羊座での新月です。牡羊座は、12星座の始まりのサインです。ですから、スタートの機運に満ち満ちていることになります。今回の震災を受けて、卒業式、入学式、入社式、いろいろなイベントが延期になったり、中止になったりしています。仕方のないこととは思いますが、こういう儀式がうやむやになってしまい、新しくスタートを切るという気持ちの切り替えができない方、そういう気分になれない方、自分だけ何か新しいことを始めることに対して、罪悪感を感じている方もいらっしゃるでしょう。でも、それでも、私たちは歩いていかなくてはなりません。直接、震災の被害を受けなかった人々が明るい気持ちを持ち続けることで、その生命力や生きるエネルギーが、長期的にみれば、多くの震災者の今後の幸せにつながっていくのです。春を迎える気持ちになれない人もぜひ、今回の牡羊座での新月を祝ってください。そして、1センチでも気持ちを切り替えて、スタートラインについてください。牡羊座の新月は勇気をもたらします。新月エネルギーに背中を押してもらい、勇気をもって踏み出しましょう。あなたが幸せなら、必ずいつか、すべての人々が幸せになります。元気になること、明るく生きること、希望をもつこと、未来を信じること、幸せになることを、ためらないで!
2011.04.02
無事是貴人 但莫造作 ぶじこれきにん ただぞうさすることなかれこの禅語は、臨済宗の開祖、臨済禅師の言葉です。わたしなりに簡単に現代語訳するなら「何も求めない人こそ美しい。あふれる情報にうろたえるな。振り回されるな!」といったところでしょうか。 我が家も計画停電が実施される地域内にあり、停電情報には注意しています。でも、懐中電灯を2基とラジオを2台用意して、私としては準備万端ととのったという心境です。それにしても、計画停電が発表されてから、スーパーから物が次々と消えていく状況には驚くばかりです。確かに現在は物流が不備ですが、一時のことです。日本にはまだまだ物資がたくさんあります。我が家の台所状況を説明すれば、米と味噌が一カ月分以上あるので、あとは野菜が少しあれば問題なし! という感じです。禅寺の食事はといえば、「一汁一菜」が基本ですから、まさに米と味噌と野菜があれば事足りる訳です。粗食に耐えなければならないほど、首都圏から食べ物がなくなっているわけではありませんが、この際、臨時に粗食に甘んじてもいいのではないかと思うのです。粗食を続けると、絶食するのと同じくらい、腸をきれいにする効果がありますし、それによって肌がきれいになり、アレルギーが改善されたり、免疫能力が高まることも考えられるし、なんといってもダイエット効果が見込まれます。被災地の状況を考えれば、今こそ「欲しがらない人になる」ことが求められていると思います。亡くなられた皆さまのご冥福をお祈りして・・・合掌
2011.03.15
スッタニパータ より妄執の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、こころをとどめ、理法を明らかに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。『ブッダのことば』 岩波文庫より 短い教えの後に、必ず「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉がつく、蛇の章のなかの「犀の角」の節が、わたしは大好きです。いろいろな人との交わりから学ぶことは多いけれど、そして大事だけれど、一人生まれて死んでいくという真実。そして自分の人生は自分しか歩めないし、誰かをうらやましいと思っても、その人の人生を歩ける訳ではないし、たとえ家族がいようと、友だちがいようと、恋人がいようと、私たちはやはり、自分だけの道を一人歩いているのだと思います。そう考えると、他者の人生や生き方を尊重できるし、考え方に違いがあっても、人はそれぞれだと思うことができるのではないでしょうか?そして、自分の人生を生きられるのは自分だけだから、人と違った道を行っていいと思うし、やりたいことをやるべきだと思うのです。今日、紹介した部分で深く共鳴するのは、「学ぶこと深く、こころをとどめ」のところですね。「学ぶこと深く」学校に行くだけが勉強ではないし、とにかく人生は学ぶことだらけで、一生勉強は続いて行くと思います。同じことを学んでも、年齢を重ねた後に学ぶと、その意味が深まります。同じ映画でも、若いころに見たときと、だいぶ後になってみた時では、全然感想が違うのと同じこと。年齢を重ねれば重ねるほど、多くの経験があるから、小さなことから深く学べると思うのです。「こころをとどめ」とは、わたしは集中することだと解釈しています。日々を投げやりにせずに、生きることに集中すること。そうすることで、迷いの雲も晴れていくのでは・・・本当の自分を見失わないためにも、「こころをとどめる」ことが必要でしょう。学んで、学んで、学んで、犀の角のように、ただ一人歩んでいきたいものです。合掌
2011.03.11
照顧脚下 しょうこきゃっか とは照顧とは、よく見ること。脚下とは、足元のこと。だから、禅宗の寺院の玄関にこの言葉が書いてあるのは、「足元をよく見なさい」玄関先で靴を脱いだら、きちんと揃えるか、下駄箱にきちんと納めなさい、ということ。足元をおろそかにしてはいけません、ということを言いたい訳です。もちろん、この禅語は玄関で靴をそろえさせるために作られたものではなく、生き方に対する指針を示しています。つまり、足元を良くみなさい。「あなたの立っている場所はどこですか?」「立っている場所をよくわかっていますか?」「立ち止まって、もう一度、足元をよく見なさい」「立っている場所がじゅうぶんに把握できたら、また歩きだしなさい」 わかっているようで、わかっていないのが、自分の今いる場所。しっかり立っているつもりが、安定の悪い場所で足を踏ん張ろうとしているかもしれないし、間違った場所に立っているかもしれない。あるいは、今いる場所が分からないままに、次の一歩を踏み出そうとしているかもしれません。春はスタートの季節ですが、前向きに大きく一歩踏み出す前に、まずは足元を見つめてみる必要があるかもしれません。安定して、自分の両足で立っていることを確認してからでも、何かを始めることは遅くないと思います。立ち止まっていることは休憩ではなく、充電である場合も多いのです。足元をよーく見つめてから、ゆっくりと大きな一歩を前へ!!!桜が咲くころには、地面が固まっていますように
2011.03.08
ターミナル・ケアというものを考える時、最終的に直面するのは「死とは何か」という問いではないでしょうか?死を迎えるプロセスのなかで、その人なりの死に対する答が見つけられたときに建設的な、発展的なターミナル・ケアが始まるような気がします。一般論として、「死」とはどのようなものなのでしょうか。ヨーロッパ的な観点と日本のようなアジア的観点では、歴史を振り返ってみても死に対する考え方に大きな違いがあります。『死の歴史』『死を前にした人間』(by p.Aries)によると、ヨーロッパにおいては死のとらえ方において、時代変遷があるようです。古代においては、人々にとって死は身近なものであったが、死者が近くにいることは畏れ、死者を遠ざけようとしていた。キリスト教文化が浸透した中世になると、死はさらに馴染みあるものとなり、老人や病んだ人々は自分の死が身近に迫っていることを知っており、宗教的な儀式を通じて、穏やかに死を待っていた。近代に近づくにつれ、12世紀ころには、個人と言うものが尊ばれるようになり、死とは、ある人が生涯をまっとうするための特別な機会であり、人の一生というものを死の瞬間からさかのぼって考えるようになった。16世紀以降は、ペストの流行などによって、大量の死者を目にするようになり、死の醜い面や恐怖感情がかきたてられるようになり、『死の舞踏』の図像に示される通り、死とは荒々しく残酷なものととらえられるようになり、死と生との断絶が始まった。18世紀以降は、それ以前の反動からか、死を美化する風潮が起きてきた。人生の醜さ、残酷さから目をそむけ、自分の死についてなるべく考えないですむようにするためである。死は誰かのものとなり、自分の死のみならず、家族や親しいものの死すらも受け入れ難くなっていく。そして、19世紀以降は、死のタブー化が始まる。死に場所が家族の住む家から病院という他人の家へと移行し、人々が死に直面するのを避けるため、医者は患者に真実を告げなかった。つまり、死とは生の続きにあるのではなく、生とは対極のものとなり、幸福を壊すもの、幸せを破壊するものと考えられるようになったのである。現代でも、病気や死を「人生の失敗」ととらえる欧米人は多い。 フランクルの実存分析アウシュビッツのユダヤ人収容所体験を基にして書いた『夜と霧』で有名な心理学者フランクルが創始した心理学派は実存分析あるいはロゴセラピーと呼ばれています。根底にあるのは、「人間とは生きる意味を求めて生きる存在である」という考え方であり、生きる意味が見つからない時、あるいは見失ったときに、人は精神的に病んだ状態になるのであり、だからロゴセラピーを通じて、人が生きる意味を見つけられる手助けをしようとしました。生きる意味を見つめるなかで「苦脳と死」に直面することは重要な過程であり、この二つの現実を知ってこそ、受け入れてこそ、人間の実存ははじめて一つの全体的なものとなる、といいます。「運命が人間にある苦脳を課すかぎり、人間はこの苦脳の中にも一つの課題を見なければならない。苦脳に満ちた運命とともに、この世界でただ一度だけ、一人で生きているという意識に到達しなければならない。誰も彼から苦脳を取り去ることはできないのであり、誰も、彼の代わりにその苦脳を苦しみぬくことはできない」(『夜と霧』より) では、アジアや日本ではどうでしょうか?死者をとむらう儀式は数多くあり、残された人々にとって死は身近なものとなりますが、生きている人々にとって、死はどのように考えられているのでしょうか。戦後、長寿社会を謳歌する日本人にとっては、長寿が幸せであり、人生の目標のようになった感じがします。人生は長ければ長いほどいい、という風潮がある気がします。果たして、そうなのでしょうか?日本でも、「畳の上での死」から「病院のベッドでの死」が当たり前というか普通になってしまったので、死について考えなくてもすむようになっています。誰かの死ではなく、自分の死というものについて考えみるとき、人は自分に対して優しくなり、人生に対してもっと謙虚になれるような気がします。死なない人はいないのだから・・・後ろを振り返りながら生きていると、死に対しても後ろ向きになりそう・・・「生も明るく! 死も明るく!」
2011.03.05
いよいよ般若心経も最後になりました。冒頭部分が有名だけど、本当のクライマックスはラストの部分です。ここに、般若心経の真髄が隠されています。 般若心経 続き故知般若波羅密多 こちはんにゃはらみった是大神咒 是大明咒 ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ是無上咒 是無等党咒 ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ能除一切苦 真実不虚 のうじょいっさいく しんじつふこ故説般若波羅密多咒 こせつはんにゃはらみったしゅ即説咒曰 そくせつしゅわつ羯諦 羯諦 波羅羯諦 ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 はらそうぎゃてい ぼじそわか般若心経 はんにゃしんぎょう ゆえに次のことを知ろう「仏の智慧の完成」とは、力強い真言であり偉大な真言であり無上の真言であり、他に類のない真言であり一切の苦を取り除く 真実で偽りのないものであるでは、仏の智慧の完成の真言を唱えようぎゃてい ぎゃてい はらぎゃていはらそうぎゃてい ぼじそわか般若心経黒字で示した部分は、いわゆる呪文です。現代語訳されていないと、お経のすべてが呪文のように聞こえてしまいますが、実は、「ぎゃてい、、、」からの二行の部分が本当の意味で呪文でありご真言です。 かの有名な真言宗の開祖、空海は「般若心経」の解説書を書きその中で、このお経は密教であると断言しています。そして、「ぎゃてい、、、」からの前の部分は単に前説にすぎないものでありたいして意味もないし、重要でもない、と。たが、真言があまりに短いために、それを長ーく修飾したにすぎない、という説を主張して、当時の仏教界を驚かせ、かつ反発をくらいました。そこまで過激な説でなくても、たしかに般若心経というのは最後の呪文のために、前の部分が書かれているのは確かなようです。般若心経を解説する本の中では、呪文の部分も訳されていることが多いですが呪文は呪文であり、音そのものに意味があるので、そのまま唱えることが真に重要であって、意味を知っても価値はありません。音とリズムに秘密があり、とにかくこの部分だけ唱えても効果はあります。ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃていはらそうぎゃてい ぼじそわかいろいろなご真言を知っておくと便利ですが、般若心経を暗記したい方は冒頭部分から覚えるのではなくまずはこの部分だけ覚えてもいいでしょう。つかめそうでつかめない真理・・・ありそうでなさそうな空の思想・・・こだわりと執着を捨てて生きるために何ができるのか・・・まずは、ご真言を唱えて準備でもいたしましょう 合掌
2011.03.01
私は、以下に紹介する般若心経の部分に差し掛かるといつも井上陽水の歌「傘がない」を思い出してしまいます。「傘がない」は大変な名曲です。歌詞を紹介したいですが、著作権の関係上無理なのでどこかで見つけたら、味わってみてください。 般若心経 続き是故空中無色 ぜこくうちゅうむしき無受想行識 むじゅそうぎょうしき無眼耳鼻舌身意 むげんにびぜっしんに無色声香味触法 むしきしょうこうみそくほう無限界 乃至無意識界 むげんかい ないしむいしきかい無無明 亦無無明尽 むむみょう やくむむみょうじん乃至無老死 亦無老死尽 ないしむろうし やくむろうしじん ゆえに「空」のなかに物質はない感覚も想うことも意志も認識もない 眼も耳も鼻も舌も体も心もない形も声も香りも味も触覚も思考の対象もないそれぞれを分けて識別することもない無智もない 無智が尽きることもない老いや死もない 老いや死から逃れることもない まさに「あれも無いよ」「これも無いよ」「あれもこれも幻だよ」とすべてを否定しています。どうしてここまで否定するのか。それは「これもある」「あれもある」と思うことでこだわりや執着が生まれるからです。こだわるな、こだわるな そぎおとせ。そぎおとせとまるで呪文のように、無い無い尽くしが繰り返されています。 般若心経 続き無苦集滅道 むくしゅうめつどう無智亦無得 むちやくむとく以無所得故 いむしょとっこ菩提薩? ぼだいさった依般若波羅密多故 えはんにゃはらみったこ心無?礙 無?礙故 しんむけげ むけげこ無有恐怖 遠離一切 むうくふ おんりいっさい?倒夢想 究竟涅槃 てんどうむそう くきょうねはん三世諸仏 依般若波羅密多故 さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ得阿耨多羅 三藐三菩提 とくあのくたら さんにゃくさんぼだい 苦集滅道の四諦もない智慧もない 悟りもない悟らない、ということもない菩薩は仏の智慧の完成を目指している心にこだわりがなく 何物にもとらわれないだから畏れることもなく 一切のものから遠く離れている物事をさかさまにとらえたり 妄想を抱くこともないそして、永遠の安らぎの境地に入った現在・過去・未来の仏たちは智慧を完成させて最上なる仏の境地に至ったこの部分でもっとも凄いところは、「智慧もない 悟りもない」と言いきっているところです。仏教に魅かれる人は、多かれ少なかれ「真実を知りたい 真理に至りたい」と思っているはずです。修業したり、出家したりするのは、「悟りを得たい」からです。ところが、般若心経は「智慧も悟りもない」と言うのです。まさに、この部分は「無い無い尽くし」の続きです。なぜ、智慧も悟りも無いというのかなぜ、すべてを否定するのかそれは「こだわり」から離れろ! ということなのです。智慧自体は素晴らしいし、悟りも素晴らしい境地です。しかし、一旦そこにとらわれると、「こだわりの心」が生まれるともう、どうやっても「智慧も悟り」も手に入れることはできません。仏の境地に至る第一歩は、一切のこだわりを捨てることにあります。それこそが、まさに「無我」=私がない状態、であり「空」=何もない、ことを知ることへの大きな一歩となります。「こだわり」を言い換えれば、執着です。執着すればするほど、苦しむことになるのに、人は何かに執着せずにはいられません。まさに、好んで「苦の道」を歩いています。わかってはいても、いっぺんにすべてのこだわりを手放すことは難しいです。まずは、容易なものから、一つだけ手放してみましょう。それが本当に手放せたなら、また一つ、また一つ、また一つ、、、私は最近、「なんちゃって菜食」から、完全なる菜食へと切り替え、肉と魚を手放してみました。今のところ、調子がいいです。でもまだ、続けていく自信はないので、次のものは手放していません。さて、次に私の身から離れていくのは何になるのでしょうか・・・ 合掌
2011.02.27
般若心経がどれほど日本でポピュラーかといえばその証拠の一つが「絵説般若心経」が日本の各地に残されていることからわかります。江戸時代、文字が読めなくても般若心経が唱えられるようにと音に絵をあわせたものが、そうです。たとえば、はんにゃの文字には、般若の面の絵をかきた、という音には田んぼの絵をかき、はら、には、お腹の絵をかき、というように。これが、なかなか楽しいです。遊び心満載です。日光東照宮には、復元したものがお土産で売っていますから機会があれば、購入してみてくださいね! 般若心経 続き舎利子 しゃりし色不異空 空不異色 しきふいくう くうふいしき 色即是空 空即是色 しきそくぜくう くうそくぜしき受想行識 亦復如是 じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ舎利子 しゃりし是諸法空相 ぜしょほうくうそう不生不滅 不垢不浄 不増不減 ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん サーリプッタよ物質には実体がない 実体がないからこそ、物質として認識できる物質とは「空」であり、「空」は物質として現れる同じように、精神作用のすべてが「空」であるサーリプッタよすべての存在が「空」という「すがた」をしているたとえいろいろな姿に見えたとしても、実は生じていなければ、消えたりもしていない汚くもなければ、清らかでもない 増えたり、減ったりもしていない サーりプッタとは、釈迦の十大弟子の一人で、釈迦の行脚に同行し、釈迦の説法をもっとも多く聞いたと言われています。この部分をもっと簡単に言ってしまうと、物質も精神も「空」である。すなわちどこにも実体がない。肉体と言う物質も空ならば、心も意識も感覚も思考も、すべて空であるというのです。物質が空である証拠は簡単に示すことができます。たとえば、眼の前にパソコンが置いてあったとしても、目を閉じればパソコンは消えます。つまり肉眼で確かめなければ見えないものなど、空なのです。心とは、もともと肉眼で見えないものです。ところが、皆、心の動きや感情に日々惑わされています。見えないけれども、肉体よりも強烈な存在感があります。感情は感じるし、心は確かに動かされるし、何かをありありとイメージすることもできるのだから、精神作用は見えなくても、ありそうな感じがします。でも、釈迦は、そのすべてが空であるというのです。実体のないものに、惑わされるな、と説きます。しかし、人間とは悲しい生き物です。この、実体のないものに、突き動かされ、執着し、煩悩を膨らませていきます。毎朝、この般若心経を唱えるのが習慣ですが、ほぼ暗記しているといえども、そのエッセンスはなかなか身に付かず、今日もまた実体のないものに、追いかけられ、逃げ回っている気分です。「空」を悟るのは、修行です!合掌
2011.02.22
般若心経といえば、中身を知らなくても、仏教のお経だということくらいはおそらく誰もが知っていることでしょう。このお経の正式名称は「仏説魔訶般若波羅密多心経(ぶっせつまかはんにゃはらみたしんぎょう)」と言います。向こう岸にわたるための、仏の大きな知恵を説いた教え、という意味。仏さまの知恵によって、こちら側の世界(欲望の世界)からあちら側の世界(悟りの世界)へと渡るための、教えの真髄を説いています。このお経が凄いのは、智慧のエッセンスがたった262文字に凝縮されているところです。お経はもともと、インドのローカル言語であるサンスクリット語かパーリ語で書かれているため、中国語に漢訳されたものが、日本に入ってきています。この漢訳をしたのが、中国人の僧侶であり、いわば翻訳者です。その偉大な翻訳者の一人が「西遊記」で有名な、玄奘法師三蔵です。般若心経にはほかに、やはり有名な翻訳者である鳩魔羅什によって訳されたものがありますが、日本で普及しているのは、玄奘訳です。それでは、冒頭から読み解いていきましょう 般若心経 玄奘訳観自在菩薩 かんじざいぼさつ行深般若波羅密多時 ぎょうじんはんにゃはらみったじ照見五蘊皆空 しょうけんごうんかいくう度一切苦厄 どいっさいくやく観音さまが仏の智慧を完成させて彼岸にわたる修行をされたとき肉体も心もすべては「空」であることを見極め一切の苦を克服していた。 「空くう」とは、無常ともいえるもので、常に移り変わっているので、確かな実態がある訳ではなく、夢まぼろしのようなもの、ということ。あるようでない、見えてはいるけど、実際には実体がない。確かにそこにあるように、思いこんでいるもの、でも実際はそうではない。あるようでないものに捕らわれ、執着しているから「生きることは苦しい」のであって、すべては空であると知ってしまうと、そこには何の苦しみもなくなる。この真実を知った時こそ、悟りの完成であり、あちら側に渡る準備がととのった、ということになります。 もともと楽天的で、前向きな私ですが、このごろため息まじりに思うのです。たしかに、人生は苦しみに満ちている、と。それは何故か!それは、やはり人間は煩悩の塊だからです。煩悩、すなわち、欲望のこと。この欲望が次から次へとやってきて、私たちを駆り立て、責め続けるのです。欲望を捨て去ることは本当に難しい。どこにも確かな実態などない、「すべては空である」と悟るのは、やはり絶対に難しいことです。「欲望のかけらもない自分になりたい」と思うことも、すでに欲ですから!ですが、「迷いの只中にこそ、悟りはある」と言います。「悟ったと思った瞬間から迷いは始まる」とも言われています。つかみどころのない「空」を捜し求めて、迷い続け、いつかメーテルリンクの童話「青い鳥」のような結末を迎えるといいのですが。ある禅師は漢詩に書いています。空とは、空中に吊り下げられ、気ままな風にゆられている風鈴のようなものだと。そして、ちりりん ちりりん ちりりんりん と鳴り続けているのだと。時折、この音が聞こえたような錯覚に瞬間とらわれることもあるのですが、それも幻かもしれませんね。実体のない音を手で掴むため、今日も苦しみの世を生きるしかなさそうです。合掌
2011.02.20
心と身体は、いつも相関関係にあります。心の状態が身体の健康状態に影響を及ぼし、身体の状態が、心の健康状態に影響を及ぼすのです。こういう心身の相関関係についての研究は心理学の分野において長年行われてきました。「心と身体は一つである」ことが科学的研究によって実証される時代になったということです。こうした研究分野の一つが精神腫瘍学 psycho-oncology です。 精神腫瘍学とは心と身体の相関関係について、癌という病気に焦点をあてて研究しています。つまり、癌の発症や進行にかんする心理的背景についてさぐろうとする研究で、80年代の後半に誕生しました。癌は、正常な細胞がウイルスなどによって突然変異をおこし、ほかの正常な細胞を異常な細胞に変えて増殖していく病気です。通常であれば、ナチュラルキラー細胞が働いて癌細胞を攻撃し、増殖をおさえます。しかし、精神腫瘍学の研究が進むにつれてわかったことはストレスなどによって免疫機能が低下していると、ナチュラルキラー細胞が正常に働かず癌の発症が起こりやすくなることがわかってきました。精神腫瘍学によって、ストレスに対する心身の反応と癌などの病気との関係がより理解されるようになりました。「病は気から」が、科学的に実証され始めています。 タイプCパーソナリティとは精神腫瘍学の流れでがん患者になりやすい性格傾向というのが研究されました。そして、タイプC(cancer)と命名されています。リディア・テモショックらによる、タイプCの行動パターン・対人関係で傷つきやすく、孤独に逃げ込みやすい・不快な感情を無理に抑えて、周囲に過剰に合わせようとする・抑うつ的で、幸福感が低いテモショックによるとタイプCの人々は癌にり患しやすいだけでなく予後の状態も悪く、また癌の再発を招きやすいリスクがあるということです。 心を健康に保つことは、日常生活における人間関係そして物事の見方に大きく影響されます。「今を生きる」こと「自分を過小に評価しない」ことタイプC型性格から抜け出して明るく、明るく、生きていきましょう!
2011.02.16
臨床心理学の分野では、ケーススタディと呼ばれるクライエント一人一人に関する個別の事例研究がとても大切になります。診断された病名、症状がたとえ同じであったとしても人間一人ひとりは完全に個別の存在であるためまったく同じ事例など、この世に存在しないからです。ケーススタディを通して人間理解を深めていくことがカウンセラーにとっては大きな経験や財産になりひいては、これからクライエントになるかもしれない人たちがいつか、大きな恩恵を受けることにつながっていきます。カウンセリングにも守秘義務というのがあるので事例研究の具体例が世の中に出回ることは少ないのですがある臨床心理学の本に紹介されていたので興味あるケースを短くまとめて紹介しますね。 20代男性の場合小学校のころ、学校の成績はよくいつもクラスで一番だった。性格は大人しく、一人で本を読むのが好きだったので友だちはいなかった。気がつくと、いじめを受けるようになっていた。最初は、勉強ができるからねたまれて、いじめを受けるのだと思っていた。いじめはだんだんエスカレートしていって殴られることもあった。だが、いじめがひどくなるにつれて、さらに勉強を頑張るようになった。中学校のときも同じような感じであいかわらずいじめを受けたが成績は相変わらずトップクラスだった。そして、有名な進学校に入学した。このまま、一流大学に進むものだと信じていた。高校ではいじめがなかった。ある日ふと、「自分には心から話せる友だちがいない」と感じるようになった。それから、彼のはりつめていた心はじょじょに壊れ出していった。「自分はどうして人と交流できないのか」という劣等感が生まれた。それから、学校の成績はみるみる下がっていった。不安が高まり、学校を休みがちになっていく。高校はなんとか卒業できたが、どの大学にも合格できず、予備校に通いだした。しかし、「頭が馬鹿になったのか」と思うほど以前には簡単に解けていた問題すら分からなくなっていた。しかし、「自分は他の人より優れているはずだ」という意識が抜けず、そのまま3年間も浪人生活を送ってしまう。しかし、遂に限界を感じ、美術の専門学校に入学を決めた。絵を描くことが好きだったからである。しかし、入学から3カ月たち退学することを考え始めている。集中力が低下しているのか授業の内容が理解できずクラスメートとも気軽に話せず、友だちができない。いじめ体験が根っこにあるためこれまでずっと「仲間関係」というものに価値をおかずむしろ避けてきた。そして、仲間が大事だと気づいたときには問題が大きくなりすぎていて自分ではどうしようもできなくなっていた。「友だちが一人もいない」自分に劣等感をだき、その思いに苦しめられている。「優等生で勉強ができて、頭のいい自分」から「時には失敗もするし、挫折することもある自分」へと自己イメージを修正する必要があった。その後、彼は退学を考え直すようになった。少しづつクラスメートと話をするようになり、受け入れられているという感覚が生まれてきたからである。以前はくだらないと思っていた仲間との馬鹿話も意外と面白いと思えるようになってきた。ある時、友だちに誘われて授業をさぼりゲーセンに行った。授業をさぼるなんて以前の優等生だった自分には考えられない行動である。不思議に罪悪感を感じず「こんなこともあっていいんだ」と思えた。授業で理解できないことは相変わらず多いがわからないところを友だちに聞けるようになった。わからなくても、授業が楽しくなってきた。これまでずっと「自分は他の人間と違い、優秀なんだ」と信じてきたが「平凡な人間かもしれない」と思うようになってきて、それでも良かった。仲間と一緒、という感覚を経験するまで彼には長い道のりが必要だったのだろう。カウンセリンは約2年間続き美術学校の卒業を待たずに終了した。(『はじめての臨床心理学』北樹出版 より抜粋)劣等コンプレックスを初めて提唱した個人心理学のアドラーによると優越意識と劣等意識は表裏一体であり、過度の劣等意識と同じく過度の優越意識も、適応障害のもととなっています。自己を正しく評価することが劣等感克服への道なのです。ありのままの自分を見つめることは本当に苦しいですが鏡の曇りをきれいに拭いたときに案外、マシな自分が見えてくるものです。「もっと自分を愛そうよ!」
2011.02.12
フロイトに次いで有名な精神分析家といえば、スイス出身のユングです。日本ではとくにユングの心理学の信望者が多いですね。フロイトの古典的精神分析に対してユングは「分析心理学」と呼ばれています。ユングの提唱した概念のなかでも重要なものは集合的無意識です。個人的無意識のさらに深層部にはすべての人類に共通する無意識があるという考え方で多くの民族の神話、伝説、寓話などに共通点が多いのはこの集合無意識(普遍的無意識)を共有しているからだと主張しています。この集合的無意識のなかにあるのが元型(アーキタイプ)と呼ばれる個性で自分のパーソナリティを形成しているその元になっている元型を見つけることがユングのいう「個性化の過程」です。元型にはさまざまなキャラクターがいるのですがその中でも重要な役割を果たすのが「アニマ・アニムス」です。 アニマ・アニムスとはそもそもアニマ・アニムスとはラテン語で、「風・空気・呼吸・魂・生命力・精神」という語源をもっています。そして、心の中に存在する異性のイメージを象徴しています。男性の心のなかの異性像はアニマ、女性の心のなかの異性像がアニムスです。アニマは、男性の心にある、すべての女性的傾向が人格化されたものです。漠然としたムード直観力非合理的なものへの感受性愛する能力自然への愛情無意識との関係性、が含まれます。男性一人ひとりがもつアニマが心のなかでどのように成長するかというと、素朴で生命力にあふれたアニマからロマンティックで性的魅力のあるアニマ、そして性を超えて、聖なる愛を実現するアニマとなり最終的にはもっとも聖なる叡智のアニマとなります。ただし、すべての男性のアニマがこのように成長していくかというとその男性の全体的な成熟によります。つまり性的対象となるアニマで成長が止まることも大いにあるわけです。一方、アニムスは女性の心の中にあるすべての男性的傾向が人格化された存在です。例外を信じない強固な意志、確信をもった行動力論理的思考意見、が含まれます。女性のなかのアニムスがどのように成長するかというと筋骨たくましい力の象徴であるアニムス、から強い意志で計画を遂行する、行動力のアニムスそして理念や思想を表現するアニムス最終的には性の対象を超えた精神的な導き手であるアニムス、へと変貌を遂げます。ただし、アニムスもその女性自身の成熟の度合いによってどこまで成長するかは、人によって異なります。男性・女性がこころのなかにもつアニマ・アニムスという異性像は夢やイメージのなかにあらわれるだけでなく現実に出会う異性のうえに投影されていきます。ですから、初恋の相手憧れるアイドル理想の恋の相手好きな芸能人やハリウッド俳優などあなたの心の歴史をふりかえってみれば自然に、あなたの心のなかの異性像がどのように成長してきたかがわかります。つまり、あなたが現実に好きになる異性はあなたのこころのなかの異性像そのものなのです。「ラブアゲイン症候群」とか「セカンド・バージン」など「子どもあり、夫あり、恋人あり」という女性誌の記事を見ても異性像が性の対象を超えて聖なる相手に変わる、というのは難しいなと思います。でも、恋愛なくしていきなり、その至上の境地に至ることもできない訳ですから恋愛もおおいにするべきでしょう。昔から恋や愛に多くの人々が振り回されてしまうのはきっと心の中のアニマ像、アニムス像にぴったりくる人との出会いがないからなんだろうなと思います。「ビビッときた」とか「初めて会った気がしない」という運命の相手は、きっと心の中のアニマ・アニムスに出会ったからではないかしら、、、そういう幸運をめざして婚活中の皆さん、あきらめずにがんばって!!!
2011.02.08
「時とは何か」と聞かれれば、大変に難しい問題です。客観的に、理性的に応えるならそれは物理的時間ということで、1年が365日、1日は24時間、1時間は60分ということになります。でも主観的に考えると心理的時間というのもあります。アインシュタインの相対性理論でも明らかにされたように、楽しいことをしている時間は短く感じ、苦しいことをしている時間は長く感じるものです。つまり、心理的空間においては、1時間の感覚はひとしくないのです。そこで、今日のテーマは「宗教的時間」について、です。曹洞宗の開祖、道元禅師の思想・哲学書である『正法眼蔵』に「有時(うじ)」の巻があり、道元が考える時間論について書かれているので、かな~り簡単に、私なりに紹介したいと思います。 道元が考える時間とは・・・一瞬のなかに、永遠がある。時には、今しかない。今、今、今、が続いていくのみ。時は去っていくものではなく今の私にすべての時がある。過去の時も、私の中にある。未来の時も、私の中にある。今しかなくて、そこにすべてがある。「時とは、行である」行為のなかに時間はある。行為をしていない時間はない。 一方究尽(いっぽうぐうじん)これは、道元が考える修行者の生き方をあらわす言葉です。意味は、花を見る時は、全世界が花となる。月を見る時は、全世界が月となる。花から月への移り行きは全世界から全世界への移り行きである。一瞬のうちに、一つの事を究めつくしていく。だから、道元禅師は言うのです。時とは、行である、と。行である時を無駄にせずになんとかかんとか(これが本音・・・)一瞬一瞬を大事にして生きていきたいものです。難しい、難しい、ことですが。だからこその修行でしょう、、、
2011.02.05
人は、「死ぬ」という事実を前にしたときそれを、どのように受け入れていくのでしょうか?アメリカの精神科医、キューブラー・ロス博士は面接を通して、その受容過程を5段階にわけて説明しています。『死ぬ瞬間』(読売新聞社)より 死の受容過程・第一段階 否認ほとんどの人が「違う! 事実ではない」「私のことではない!」という反応、つまり事実を否認しようとします。そしてセカンド・オピニオンを得ようとしたりします。否認は、最初の衝撃をやわらげてくれるものであり、一種の自己防衛法になります。・第二段階 怒り否認の状態から抜け出し、どうやら自分は死ぬらしい、、、という事実に直面しだすと、今度は「どうして私が?」「私は何も悪いことをしていないのに!」という怒りや恨みの感情がわいてきます。この怒りの気持ちを周囲にぶつけるためこの段階にある患者は、とても扱いづらくなり看護する家族も辛い気持を味わいます。・第三段階 取り引き苦しみの緩和や、延命の希望をつなげるため人々は、神と契約を結ぼうとします。「娘の結婚式の日まで、生き延びさせてほしい」「全快することができたら、全財産を寄付します」恐怖感を克服したり罪悪感を開放するためにこうした「約束」をすることはとても役にたちます。・第四段階 抑うつ身体の衰弱が激しくなってくると人は大きな喪失感に襲われます。もはや否認はできないし、怒る気力もなくなってきます。この段階で、人は愛する対象すべてを失う心の準備にはいります。静かな悲しみにひたっている状態ともいえるでしょう。・第五段階 受容ほとんどの感情が消え、心のなかの闘争が終わりを迎え静かに、やがて来る自分の死を見つめている状態です。ある意味では「最後の休息」のときを迎えています。世界に対する関心が薄れるので一人きりになりたい一人で静かに過ごしたいと望む人も多いようです。この時期、家族は拒絶されたように感じて辛くなることもあるようですが、死への旅路は、結局、一人で向かうものようです。それは、この世に一人で生まれてくるという事実と同じです。家族の最後の瞬間をみとれず後悔にさいなまれて生きる人が多いことは事実ですが、あの、江原さんも言っていました。「みとられずに一人であの世に逝きたい、という人もいます」そういう人は、周囲の状況を操作して、わざと一人きりになった時間を選んで旅立つらしいです。残された家族にすれば最後の瞬間をともに過ごしたいと思うのが普通でしょうが死にに行く人々には、死に方を選ぶ権利があるのでしょう。こうして見てくると、死というのは、儀式のようなものだなあ、と思います。でも、突然亡くなる方も大勢いらっしゃいますよね。そういう人たちはどうなのでしょう、、、私が思うには、死後、身体を抜け出て、魂の状態になっても意識というのはあるので、やはり、同じような受容の過程を体験するのではないかと思います。でも、受容できずにこの世にさまよっておられる魂もいるのでやはり、儀式という段階をふむのは生きていても、死んでいても重要ですね。私は、人生にはいくつもの通過儀礼が必要だと思っています。
2011.02.03
健康志向は日本のみならず世界中で高まっていますがその一方、がん患者は増え続け災害や騒乱による死者も連日報道され「死」が、とても身近になっています。とくに、友人や家族など、身近な人の死を経験すると人は、死というものについて考え始めます。この世の中の絶対の真実は、誰もが必ず死ぬ、ということですから。そこで、限りある生を生きるために限りある時間をどう生きていくかを考えるために積極的に死について考える「死生学 thanatology」やデス・エデュケーション(death education 死への準備教育)が注目され始めています。では、死への準備教育とはどのようなものなのか、以下に、その教育目標についてご紹介します。 デス・エデュケーションの目標・死へのプロセスについての理解を促す・生涯を通じて自分自身の死を準備し、自分だけのかけがえのない死を全うできるように 死についてのより深い思索を促す。・悲嘆教育・極端な死への恐怖をやわらげ、無用な心理的負担を取り除く。・死にまつわるタブーを取り除く。・自殺を考えている人の心理の理解と、いかにして自殺を予防するかを教える。・末期患者の知る権利についての認識を徹底させる。・死と死へのプロセスをめぐる論理的な問題への認識を促す。・葬儀の役割について理解を深め、自分の葬儀の方法を選択し、準備できるように援助する。・時間の貴重さを発見し、人間の創造的次元を刺激し、価値観の見直しと再評価を促す。・死の芸術(アルス・モリエンディ)を積極的に習得させ、第三の人生を豊かなものにする。・個人的な死の哲学の探求。・宗教における死のさまざまな解釈を探る。・死後の生命の可能性について積極的に考察するよう促す。太字にした個所は私が個人的に、とても大事だと感じたところです。死は失敗ではないし、長く生きなければ負け、とも思いません。誰もが、死に向かう長い長い助走を生きているのだと思います。「魂の永遠」を信じているので、今生の死は、一つのステージの終わりであり、新しいドアを開けて次のステージに向かう、つなぎ目のようなものだと思っています。だからといって今生をないがしろにしていい訳ではありません。ある意味では「たった1回の人生」なのでつまり、今持っている容姿、キャラクター、アイデンティティをもって生きるのはたった1回限りなのでやはり精一杯生きるべきなのだと思います。でも、生きることは死ぬこと、なのでタブーをとりはらって一人ひとりがよりよい死を考える時代がきたのではないでしょうか。日々を、より良く生きるためにも!
2011.01.31
仏教のなかでも特に禅宗について書くことが多いのですが今日は、密教的なことについて書きたいと思います。密教というのは、加持祈祷に代表されるように現世利益的な要素が強いですね。野球選手などがシーズンが始まるまえに護摩炊きの修行を受けたりするのをスポーツ番組で見たりします。精神修行と言われていますが要は「厄払い」だと思います。つまり、厄を払って、一年間怪我なく元気に活躍できますようにと、お願いしているのでしょう。護摩炊きの修行のように、激しいものを経験しなくても日常生活のなかで密教由来のものをいろいろ利用することが可能です。その最たるものが「ご真言」です。「陀羅尼(だらに」という場合もあります。厳密に分けると、両者は違うものですが、まあ、ほぼ同じものと考えてよいでしょう。ご真言は短い呪文なので、自分のために一つだけ覚えておくことをおすすめします。呪文を、人を呪う言葉と勘違いしないでください。呪文の本来の意味は「祈りの言葉」ですから! 十二支ごとのご真言子年・・・千手観音菩薩おん ばざら だらま きりく そわか丑・寅・・・虚空蔵菩薩おん ばざら あらたんのう おん たらく そわか卯年・・・文殊菩薩おん あらはしゃ のう辰・巳・・・普賢菩薩おん さんまや さとばん午年・・・勢至菩薩おん さん ざん ざん さく そわか未・申・・・大日如来おん ばざら だど ばん酉年・・・不動明王のうまく さまんだ ばざらだん かん戌・亥・・・阿弥陀如来おん あみりた ていぜい から うん 不安なとき、困ったことがあった時、何か決断したいとき自分の生まれ年の仏のご真言を唱えてみたらいかがでしょう。密教には、他に「印契(いんげい」というものがあります。印契とは、左右10本の指を組み合わせてさまざまな形をつくることで略して「印」ともいいます。だから、形を作ることを「印を結ぶ」と表現します。仏像を見ると、両手でいろいろな形をとっていますね。あれらが「印契」です。代表的なものとしては、右手を胸の前にあげて、手のひらを見せて「ストップ」みたいにしているのは「施無畏印(せむいいん」といいすべての人々に「何も怖がることはありませんよ」と説いているのです。そして、左手を下げて手のひらを見せているのは「与願印(よがんいん」といいすべての人々の「願いをかなえてあげますよ」と言っているのです。ほかに、忍者が術を使ってドロン(消える)する前に胸の前で両指を縦に組みますね。あれも、実は印でして「智拳印(ちけんいん」といいます。本来は、大日如来が結ぶ印で「最高の智慧」を表しています。忍者というのは、修験道の人々の末裔らしいから密教の修行者でもあったのでしょうね。私は、ある場所を訪れて、なんとなく嫌な感じがするときあるいは、ふと憑かれたような感じがするとき「剣法印」を結んでバサバサと切ります。読んで字のごとく、指で剣を表現するもので、人差し指と中指だけを突き立てて、剣に見立てます。そのとき魔をはらう力の強い不動明王のご真言「のうまく さまんだ ばざらだん かん」を一緒に唱えると、もう百人力ですね。すっと安心します。これは、世界中、どこでも使えます。観光旅行で、洞窟や地下に入ったときに背筋に嫌なものを感じたことはありませんか?そういう感覚を軽視しないほうがいいです。何も見えなくても、身体は感じていることがありますから。印とご真言で身を守ってください。見えない世界をやたらに畏れる必要はありません。見えない世界には豊かなものがたくさん存在しています。でも、見える世界に「善と悪」があるように見えない世界には、魔もいます。理由もなく怖がったり、拒否したりするのではなくうまくお付き合いしていくのがいいと思います。誰もが、選択して友だち付き合いをしているように、、、見えない世界三次元以上の高次の世界すべての世界に心を開いて生きましょう・・・(身を守りつつ)何も畏れることはありません
2011.01.28
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