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【舟を編む】「馬締君、君は大学院で言語学を専攻していたらしいね」「はい」「それなら、“右”という言葉を説明できるかい?」「えっと、、、西、を向いた時、北にあたる方、、、が右。あ、他にも保守的思想を右という、、、」『舟を編む』は、ウィキペディアによると「女性ファッション雑誌CLASSY.に連載され、2011年9月16日に単行本」化された作品とのこと。著者は三浦しをんで、今や飛ぶ鳥を落とす勢いのある売れっ子作家である。この『舟を編む』では本屋大賞を受賞し、ベストセラーとなり、さらには2013年に映画化もされ、米アカデミー賞の日本代表として出品された。(この年の話題作に、『そして父になる』もあったが、結果として『舟を編む』が選出された。)そんな『舟を編む』は、内容が内容だけにとても地味な作品であることは否めない。小説を読んでいないため、原作にある深い味わいというものがどれほど映像から伝わって来るのか比較もできないが、少なくともほのぼの感は十分に味わえる。ただし、主役である松田龍平がインタビューに答えたように、「はじめに台本を読んだときは、ちょっと漫画的」だと思ったようで、私も映画を見た時、全く同じ感想を抱いてしまった。1995年の辞書編集部というものの状況がこうだったとして、そこに在籍する社員のキャラクター像が、絵に描いたようなマンガチックな面々で、見る側としては若干の戸惑いは隠せない。とはいえ、そこは役者魂を見せてもらいました!一人一人が気を使った演技で、極端に不自然なリアクションや無駄なセリフを省いた努力が見られ、静謐な日本映画の典型とも言える作品に仕上げられていた。 ストーリーは次のとおり。1995年、玄武書房の辞書編集部では、ベテランの荒木が定年退職を間近に控えていた。地味で単調な作業の繰り返しである辞書編集部に、すぐにも荒木の後継者を迎えなくてはならない状況となった。白羽の矢があたったのは、営業部に在籍する馬締光也で、名前のとおりマジメだけが取り柄のパッとしない人物だった。しかし、大学では言語学を専攻しており、荒木が「右について説明できるか」と質問したところ、その問いに答えられるだけのセンスを持ち合わせていた。こうして馬締は辞書編集部に異動となった。そこでは、新しく刊行する辞書である“大渡海”の編纂メンバーの一員として、辞書の奥深い言葉の世界に、日夜没頭していくのだった。 主人公・馬締光也に扮するのは松田龍平だが、さすがに人物像をよくよく研究し、表情一つ、セリフの一言にしても、丁寧に演じていた。また、この作品中、唯一のムード・メーカーである西岡役のオダギリジョーもとても良かった。チャラ系で明るく社交的、馬締とは対照的なキャラクターでありながら、この人物の役割は非常に効果的だと思った。さらには、国語学者であり“大渡海”の監修を務める松本先生役の加藤剛。もう何とも言えないベテランの演技を見せてもらった。俗語や流行語なども取り入れて、他の辞書にはない新しく進歩的な中型国語辞典を作るのだ、という意気込みが視聴者の胸にビンビン響いて来るような言い回しだった。お見事。 これだけ電子化が進む世の中で、あえて紙の辞書を作るという、いわばアナログな世界観がどれだけの人たちに感銘を与えるものなのか分からない。だが、古き良き昭和への感傷的な意味も含めて、たまにはこういうほのぼのとした映画も鑑賞してみたいものだ。~ご参考 「右」~三省堂 新明解国語辞典2013年公開【監督】石井裕也【出演】松田龍平、宮崎あおい
2014.06.30
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【産経新聞 産経抄】~晶子に賛成先日、愛知県津島市で未発表の短歌が見つかり、歌人の与謝野晶子が再び脚光を浴びている。晶子は実は、100編近い童話も残した。▼「ほんとに貧乏でしたから、玩具は買ってもらえなかった」。長男の光さんは、幼い頃をこう振り返る(『晶子と寛の思い出』)。夜、子供たちが寝る頃になると、床の中に入って即興のおとぎ話を聞かせてくれた。翌日それを書き直して、作品にしていたらしい。▼晶子には、光さんを頭(かしら)に11人の子供があった。それでも、仕事のペースが落ちることはなかった。「やは肌のあつき血汐(ちしお)にふれも見で…」。一世を風靡(ふうび)した名歌の数々は、今も輝きを失わない。詩や小説を書き、「源氏物語」をはじめとする古典の現代語訳に取り組み、評論活動にも力を注いだ。八面六臂(ろっぴ)の活躍で、収入の少ない夫の鉄幹(寛)を助けて、火の車の家計を支えた。▼「お札の顔ぶれをそろそろ変えてみてはどうか」。正論欄で、文芸批評家の新保祐司さんが提言していた。五千円札の肖像に、今の樋口一葉に代わって晶子を採用するのは、大賛成である。▼平成26年版「少子化社会対策白書」によると、25~29歳の未婚率は30年前に比べて男性は16・7ポイント、女性は36・3ポイントも増加していた。また結婚しても出産に踏み切れない女性の多くが、「子育てや教育にお金がかかりすぎる」ことを理由に挙げている。子育てと社会進出を両立させようとする、女性たちの応援団長として、晶子ほどふさわしい人物はいない。▼光さんによると、夫に先立たれた晶子は、毎日泣き暮らした。世の中の男たちは、お札の晶子の肖像を目にするたびに、こんなメッセージも受け取ることになる。「私のような女に、惚(ほ)れられてみなさい」(6月20日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~漱石の俳句(詳細はコチラ)といい、晶子の短歌といい、未発表のものが発見されるとワクワクする。「くれなゐの 牡丹咲く日は 大空も 地に従へる こゝちこそすれ」「春の夜の 波も月ある 大空も ともに銀絲の 織れるところは(ところぞ、とも読める)」晶子の歌は、内容もさることながら、文字にしたときに「綺麗」なのが特徴である。文字が実に見目麗しいのだ。もちろん口に出して読んだときの綺麗なことは言うまでもない。それが晶子の短歌であり、文学を芸術の域まで高めている。蛇足ながら、優れた短歌を詠んでも、芸術の域まで高められた方はそうはいない。小説、俳句もまたしかり。晶子はまた、自己の短歌を確立したように、自己の生き方も確立した。コラムから晶子の生き方を垣間見るのだが、自伝や文学アルバムを紐解くと、彼女の圧倒的な人生が満載である。そこに晶子の凄味を感じないではいられない。しかしそう思うと、そう簡単に「私のような女」がいるはずはない。そしてまた、そういう女性に愛された与謝野鉄幹という男性も、それはそれは飛びぬけて魅力的な人であったのだろう。つまり、お互いそうざらにはいない人であり、芸術同様に眺めているに限る域なのだ。ところでコラム中にある五千円札の肖像の件である。論文を抜粋した。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(前略)~お札の顔ぶれをそろそろ変えてみてはどうか。今、日本は大きく変貌しようとしている。政治や外交の面を見ても、第2次安倍晋三政権の誕生以来、日本の在り方が様変わりした感がある。それに伴い、日本の経済や社会の雰囲気もアベノミクス効果もあり、ずいぶんと活気と自信を取り戻しつつあるようである。日本の再生を象徴するものとして普段使っている紙幣の肖像が変わることは、人心に訴えるものがあるではないか。2020年東京五輪の開催も控えている。これを機会に世界中のさまざまな国から大勢の外国人が日本にやってくる。そして、彼らは日本の紙幣を手にすることになる。その時、このお札に描かれている人物はどういう人間であるかと思うこともあるに違いない。その問いに対して、日本人が誇りを持って説明できる人物であることが望ましい。もちろん、現在の野口英世、樋口一葉、福沢諭吉もそのような人物ではあるが、今後の日本の国家、あるいは国民としての進む方向性というものを勘案して、人物を一新することもいいことではないかと思う。あえて私案を示すならば、千円札は後藤新平、五千円札は与謝野晶子、一万円札は内村鑑三でどうだろうか。まず、千円札の後藤新平だが、後藤は満鉄初代総裁や内務大臣・外務大臣などを歴任した近代日本の大政治家である。東京市長にもなり、特に関東大震災直後、内相兼帝都復興院総裁として復興計画を立案した人物である。現在の東京という都市の骨格はその復興計画によるところが大きい。五輪の開催に当たって、今日の東京の基盤を作った人物として回想されるべきであろう。後藤は東北・水沢の出身で、東日本大震災からの復興という観点からも、注目されるべきだ。自治三訣(さんけつ)として「人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そしてむくいを求めぬよう」という言葉を遺(のこ)したこの人物は、日本人に「自治」の精神が求められる、これからの時代に偉大な先人として歴史に刻まれるべきである。五千円札の与謝野晶子は、いうまでもなく歌集『みだれ髪』の大歌人で、近代日本の代表的な文学者の一人である。一葉より6歳年下の晶子は、社会における女性の活躍が一層期待される今後の日本にとって振り返られるべき名前であろう。一葉に代わる女性としては晶子がいいように思われる。一万円札の内村鑑三には、明治41年刊行の『代表的日本人』がある。札幌農学校の同期生、新渡戸稲造の『武士道』や岡倉天心の『茶の本』などとともに、近代日本の代表的な英文著作である。この本は、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5人の人物をとりあげているが、上杉鷹山については、ケネディ米大統領のエピソードを思い出す。~(後略)(文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~新保先生の発想は見事である。私は、内村鑑三に関してかねて新保先生から学んだ。万札の内村鑑三は大賛成である。諭吉翁にはそろそろお退き願い、内村鑑三に載ってもらいたいと思う。デフレも脱却したことだし、万札の貫目が上がることであろう。そして樋口一葉にかわる与謝野晶子も大賛成だ。自身の生き方を確立した晶子は、まさにこれからの女性の手本ともなろう。願わくは、肖像画の脇に短歌の一つも載せてほしい。札の格調もあがるのではないだろうか。ときにこの時季、晶子はこんな楽しい歌も詠んでいる。鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな釈迦牟尼仏を「美男」を言い切るところが晶子らしいのだが、その胸中は、『でも我が鉄幹の方が美男よ』といったところであろう。晶子という女性はそういう人なのである!今日は雨の日曜となった。見ごろの紫陽花でも眺めながら晶子の歌に興じたいと思う。
2014.06.29
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【阿部和重/グランド・フィナーレ】◆行き過ぎた少女性愛と愛娘に対する異常なまでの執着たいてい小説というものは、読者が作中の主人公に共鳴することで成り立つ娯楽と言えるだろう。それはたとえば、主人公の持つ弱さや脆さであったり、あるいは正義感や勇気に読者自身が内包する共通のものを感じ取るという具合である。ところがその主人公に、どうやっても感情移入できなかったり、不信感や違和感を抱いてしまったら、その小説の役目はどうなってしまうのだろうか?『グランド・フィナーレ』は、そういう意味で全く共鳴できない小説だった。それなのに、なんでだろう?ものすごく気になる作品なのだ。 著者の阿部和重は、山形県出身の今年46歳。代表作に長編小説『シンセミア』などがある。経歴をたどってみると、『グランド・フィナーレ』以前に数々の小説を発表し、いくつもの文学賞を受賞している。芥川賞というものは、新人に贈られるものだと思っていたのだが、どうやらこの阿部のようにイレギュラーなことも起こり得るらしい。 それはともかく、『グランド・フィナーレ』のあらすじはこうだ。「わたし」は都内の教育映画製作会社に所属していたが、現在は無職の身である。「わたし」は妻と愛娘・ちーちゃんと3人で暮らしていたが、「わたし」の大変なしくじりのせいで、その幸せな家庭を壊すはめになってしまった。というのも、「わたし」は写真に執着し過ぎた余り、妻にポータブルストレージを没収されそうになり、妻を突き飛ばしてしまったのだ。「わたし」がそこに収めていた写真の被写体は、ちーちゃんだけではなく、10年間に撮り続けて来た大勢の子どもたちの肢体が写し出されていた。「わたし」のそんなロリコン趣味を、潔癖症の妻は許すはずもなく、離婚調停を突き付けられた。もちろん、愛娘・ちーちゃんに対しても近づかないでくれと言い渡され、「わたし」の全てを拒絶されるに至った。 主人公は沢見という37歳の男だが、「わたし」という一人称形式で物語はすすめられていく。この沢見は、少女ヌード雑誌のスチール写真撮影という、半ば自分のフェチシズムを満足させるような仕事も請け負っていた。ある時、本業である教育映画のオーディションにやって来た美江という小学5年生の少女と懇意になり、やがて肉体関係さえ結ぶのだが、そのあたりの沢見の勝手な思い込みとか、線の細い性質などがものすごく気になるのだ。(これは、私が、女性ならではの嫌悪感かもしれない。)それはおそらく、男性サイドから見た一方的な性愛であって、女児の秘められた羞恥心や恐怖心が、これっぽっちも表現されておらず、一体この主人公はどうしたいと言うのだろうと、私は歯がゆさに耐えられなかった。人には言えないような変わった性癖があることは、今さらどうすることもできない。百歩譲って、仕方ないとする。しかし、それもこれもボーダーラインというものがあって、その一線を越えてしまったらアウトというものがある。そのラインが“法”であろう。小説の中で、そのタブーは簡単に破られてしまうものだが、ちゃんとフォローがあって、読者は溜飲を下げる。ところがこの『グランド・フィナーレ』は、そういうものがない。後半に至っては、主人公のロリコン趣味における自省の念とか、行き過ぎたフェチシズムの述懐などまるで皆無で、完全に別のストーリーに切り替わっているのも気になる。 私のような本好きは、たいていの小説に長所を見つけては楽しめるものだと思うが、この小説に限っては、複雑な心境に陥ってしまった。そんなわけで、みなさんにもこの小説の一読をおすすめして、それぞれの感想をご友人などと話し合ってみてはどうかと思ったしだいである。ちょっとした話題づくりには向いている一冊かもしれない。 『グランド・フィナーレ』阿部和重・著 (芥川賞受賞作品)☆次回(読書案内No.132)は新田次郎/武田信玄~風の巻~を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.06.28
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紫陽花やはなだにかはるきのふけふ 正岡子規※はなだ:縹(はなだ)もしくは縹色(花田色、はなだいろ)とは、明度が高い薄青色のこと。 Wikipedia参照
2014.06.27
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【長崎新聞 水や空】~国会のやじ~2年ほど前の「時の人」を思い出す。民主党政権時の田中直紀防衛相。国会審議中、横にぴたりと付いた秘書官が、二人羽織さながらに模範答弁を耳打ちする。野党席から、やじが飛んだ。「腹話術をやめろ!」。 国民の代表の議論の場。品位が大事と分かっていても、記憶に残るのはこんな一幕だ。当意即妙のやじは、庶民感覚をユーモアでくるみ、政治家の失態、失言を一語で突くらしい。 東京都議会で、妊娠や出産の支援策を都に尋ねた女性都議に「早く結婚しろ」「産めないのか」などとやじが飛んだ。非難集中し、声紋分析まで持ち出されて観念したか、やじの主の一人という男性都議が謝罪し、会見で反省の弁を並べた。いわく「早く結婚していただきたいという思いがあった」。 応援や激励の意に取れなくもないが、議場では皆が笑ったというから、励ましと呼ぶのは苦しい。真意は置くとしても、二つのことは確かだろう。女性都議の発言の趣旨、内容に関心ゼロだったこと。性差別発言とは何か、まるっきり分かっていないこと。口は災いのもとだ。分からなければ言わないに限る。 痛いところを突くどころか、やじそのものが暴言になってしまっては、庶民感覚もユーモアも出る幕なしだ。他山の石とすべき人がいるかもしれない。(徹)(6月21日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~セクハラやじ事件は一件落着となるようだ。もちろん越前裁きにあらず、どうやら皆さんが寄ってたかってきめたようだ。「ではこのあたりで」という具合であろう。くだんの何某議員が深々と頭を下げた時に結果は見えた。この御仁は、若いのになかなかの老獪と読んだがどうであろう。深々と頭を下げてからはすべては茶番である。「早く結婚していただきたいという思いがあった」神妙な顔をして彼はそういった。信じる者は誰もいないはずだ。この一件について、知り合いの女性に感想をうかがうと、彼女は烈火のごとく怒っていた。同じ女性として、被害を受けた女性議員に共感を覚えたようだ。さもありなん、気持ちはおおいにわかる。地雷を踏んでも、いけしゃあしゃあと茶番を演ずる何某に同情の余地はない。とはいえ、私はなにか一つ釈然としない。報道自体が、というか話題の根本が間違っていないのか。私はそのことが気になってしかたがないのだ。ずっと以前から気になっていたことだが、そもそもどうして議会ではヤジが認められているのか、それが不思議でならず、だからセクハラやじ事件で「やじを認めないことにしよう」という意見がマスコミから出ない事に納得がいかない。マスコミ報道も茶番の延長線上にあるのではないか。「水や空」が突出しているわけではないが、マスコミは「まずはヤジありき」の論調である。ヤジはいいが内容がいけない、そういうことなのである。40年近く前の話だ。高校二年の一学期終業式、蒸し暑い体育館で校長は長々と演説をぶっていた。もちろん当時は熱中症対策などという概念はない。あまりの暑気で倒れる者もいた。たまりかねた友人が「はやくやめろ~」とヤジを飛ばした。体育館はヤンヤの喝采である。「諸君がそう言うのなら」と降壇した校長は、しかしヤジの主を突きとめ謹慎処分とした。友人は武勇伝のヒーローとして、こうやって後世まで語り継がれているが、処分を下した校長に対する敬意もいまだ抱いたままだ。我々はそれが正当な処分だと考えたからだ。なお余談がある。「はやくやめろ~」に続き別の場所から「そうだそうだ」のヤジも飛んでいる。ヤジとはそういうものなのだ。教育現場と議会を同列で語ることはできないかもしれないが、それでも私は人が何か話しているときに、そこがどこであれ話しを差し込むことは、それ自体がおかしいと思う。いわんやヤジをや、である。講話や訓示、そして演説も、まずは拝聴するのがスジというものではないだろうか。言いたいことはその後に言えばいいことだ。そもそも、それらにおけるユーモアとは発言者が起こすものである。受け手はそれを感じるものであって、決して自ら起こす(発する)ものではない、そう思うのだ。そして一番痛感していることがある。ヤジはコラムの指摘の通り『当意即妙』にある。字の如く、まずはその「妙」である。「妙」は社会を俯瞰してイキやオツやシャレをもってつかむわけだ。また「即」は「間」を意味する。その「間」は一瞬、それを逃せば気の抜けたビールになる。そうした「妙」と「間」のセンスを持ち合わせた者は、一流の世間師に他ならない。堅気がおよそ経験しないような豊かな人生経験を積んだ、いわばヤクザな人間なのだ。当節、そんな御仁はどこにいる?すでに過去の遺産であろう。ヤジを飛ばすに値する人は今や遠い昔なのである。それを、できないくせにやっている、そう思うのだ。時代が違うのである。コラム氏曰く、だから『分からなければ言わないに限る。』である。合わせて、ヤジを理解して受け入れる(ヤジも反応がヘンテコだと興ざめである)集団も、過去の遺産であることは言うまでもない。ときに、以前の結婚披露宴では、新婦のおじさんがいい味を出していた。酔っぱらったり歌(瀬戸の花嫁→娘よ)ってみたり、挙句にシクシク泣いてみせたり。そんな時には、間髪おかずひと声飛んだ。「いいぞ、日本一」あるいは「いよぉ、大統領」という具合だ。しかしそんな結婚披露宴はすでにない。仲人ももはや死語になった。つまり時代が違うのである。時代が変わり、ヤジを飛ばせる人も受ける人もいない。ここはしばらくヤジを封印しようではないか。いかがなものであろう。
2014.06.26
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紫陽花やきのふの誠けふの嘘 正岡子規子規は闇の中で紫陽花を見たに違いない、私はそう確信した。宵に雨があがった夜の紫陽花は、妖艶のひと言につきる。すべては、きのふの誠けふの嘘、なのである。
2014.06.25
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【東京新聞 筆洗】小学校で授業を取材していて目を見開かされたことがある。授業の課題は、小さな虫を観察し、なるべく詳細に描くこと。先生のひと言に、舌を巻いた。「この虫と同じ大きさの小人になったつもりで見て、描きましょう」。観察するということの基本を教わった気がした。 東京・神田の岩波ホールで上映中の映画『みつばちの大地』は、蜂と同じ大きさの小人の視点で、その世界を見たドキュメンタリーだ。小型ヘリコプターや内視鏡を駆使して撮影した鮮烈な映像は、蜂と共に働き飛んでいる気分にさせてくれる。 ミツバチは飛び回り、花を受粉させることで世界の農業生産高の三分の一を支えている。一匹の蜂が生涯で集める蜂蜜は小さじ一杯に満たぬほど。九百グラムの蜂蜜のために群れは地球を三周するほどの距離を飛ぶというから、あの甘さの何と貴いことか。 だが、そんな蜂たちの現在の労働現場はまるでブラック企業だ。米国の工業化した農業で受粉を担う蜂は、自然の生理を無視した働き方を強いられ、薬漬けにされ、外来の感染病におびやかされ、次々と大量死している。 コスト競争で大規模化を追求してきた米国の養蜂家は映画の中で「蜂を思いやり世話する養蜂の魂を失った。ミツバチとの絆を失ってしまった」と苦悩を打ち明ける。 ミツバチの大きさになって世界を眺めれば、その歪(ゆが)みもまた大きく見える。(6月21日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~コラムを読み、おおいに得心した。細かいことを突かせたら東京新聞(中日新聞)は一流である。常々、感心しながら目を通していた。そして今日、目から鱗が落ちたのだ。なるほど、そういうことであったのか!コラム「筆洗」の眼目は最後の一文につきるのだ。『ミツバチの大きさになって世界を眺めれば、その歪(ゆが)みもまた大きく見える。』これこそが東京新聞の根幹であろう。おそらくこの精神をもって記事を起こしているのだ。だから細部も歪みも見えてくるというものだ。だがしかし・・・細部や歪みしか見えない、そういうこともあるのではないか。そしてまた、それらは概ね大勢に影響のない場合が多いのではないか。コラム氏はミツバチになって世を眺めるという。でもガリバーのような大男になって世を眺めたらどうであろうか。ミツバチのように細部や歪みは見えないかもしれないが、それらの全体が見えてくるはずだ。そして全体が見えれば流れをつかむことができる。大男のガリバーはこう見るのだ。ぼんやりとしか見えない細部や歪みは、それがどんなに著しいものであっても事象に過ぎない。事象には必ず原因がある。事象は原因につながっている。そしてガリバーは気づくのだ。「これが真実である!」ガリバーとは少し違うが安岡正篤先生は「思考の三原則」を垂れておられる。第一、目先に捉われないで、出来るだけ長い目で見ること第二、物事の一面に捉われないで、出来るだけ多面的に全面的に見ること第三、何事にもよらず枝葉末節に捉われず、根本を考える謹んで筆洗氏に進言申し上げる次第だ。細部や歪みも結構であるが、「思考の三原則」をもって大局的な見地から真実を捉えてもらいたい。なお安岡先生は、加えてこう言っておられる。「目先だけで見たり、一面的に考えたり、枝葉末節からだけで見るのと、長期的、多面的、全面的、根本的に考えるのとでは大変な違いがある。物事によっては、その結論がまったく正反対になるということが少なくない。」ゆめゆめ忘れることなかれ!
2014.06.24
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【007スカイフォール】「なぜ死ななかったか、やがてそのわけが分かったんだ。それは、あんたにもう一度会うためだったのさ」「今、こうして会えたわ、、、ミスター・シルヴァ、身柄を王立刑務所に移します」この『007』シリーズが始まって、2012年にはなんと50周年を迎えたとな?!そしてこの50周年記念に公開された『スカイフォール』は、23作目となる。そういう節目の作品ということもあってか、何やら初期作品への回帰を計ったように見受けられた。これが見事に成功!「ジェームズ・ボンドのテーマ」が流れた時には体中がゾクゾクするような高揚感に見舞われたし、アシュトン・マーティンでブイブイ走らせていくところは、やっぱりコレだよと思った。前回の『慰めの報酬』が決して悪かったとは言わないけれど、完成度の点から言ったら、がぜん『スカイフォール』の方が優れている。 今回、ボンドの敵となったのは、元MI6の優秀なエージェントだったが、Mから見捨てられたことにより復讐の鬼と化したシルヴァである。このシルヴァに扮したのが、な、なんとスペイン人俳優のハビエル・バルデムである。ザ・悪役という役者さんだ。(笑)この役者さんの代表作に、『ノー・カントリー』があるが、この作品でも悪役だった。それもチョー悪役で、極悪非道という設定だった。 シルヴァのキャラは、とにかく濃い。元MI6ならもっとスタイリッシュでクールなイメージを描いてしまうところだが、このシルヴァという人物は、オカマなのだ。だから字幕スーパーは、オネエ言葉に直した方が良いのでは?(笑) 「伝説の007は消えちまったのか?!」→「伝説の007は消えちゃったの?!」 「あのバア様、まだくたばらねぇのか?」→「あのおばあさん、まだ健在なのね?」 という具合に。このキャスティングを、おそらくきっと二つ返事で引き受けたであろうハビエル・バルデムの、楽しそうな表情と言ったらない!「こんな役をやってみたかったのだ」と言わんばかりに生き生きと、しかも伸び伸び演じているではないか。目の輝き(?)が違うのだから。 ストーリーはこうだ。MI6エージェントのジェームズ・ボンドは、Mの指令に従い、トルコでテロの実行犯の一人を追跡していた。その途中、走る列車の上でボンドと犯人がもみ合いとなってしまった。車で追跡していた同僚エージェントのイヴは、道が行き止まりとなってしまったことで、これ以上ボンドが格闘する列車を追尾することができず、断念せざるを得ないでいた。ところがMは、イヴにその場から射撃をして逃すなと命令。イヴは銃を構えるものの、ボンドと犯人がもみ合っているため、誤ってボンドを撃ってしまうとMに伝え、ためらっているが、Mは構わずに狙撃せよと命令を下す。イヴは思い切って引き金をひいたところ、やはりボンドに的中。ボンドは走る列車から真っ逆さまに大河へ落下してしまう。その後、ボンドは死亡という処置がなされた。一方、Mは情報国防委員会のマロリーから引退をすすめられるものの、拒絶。仕事を中途半端なところで放棄するわけにはいかないという理由からだった。そんな中、Mのコンピュータが何者かにハッキングされてしまい、さらにはMI6のビルが爆破され、多くの職員が犠牲となった。そのニュースを、一命をとりとめたボンドが目にし、ロンドンに戻ることを決意する。こうして職務復帰を果たしたボンドは、犯人を再び追跡するため上海へ赴く。だがその間にも、盗まれた機密情報がネット上に公開され、事態は悪化していくのだった。 今回のキーワードはズバリ、「新旧のせめぎ合い」だろう。これまで司令塔であったMに代わり、マロリーが指揮を執り、ボンドとはへたをすれば親子ほど違いそうな、若い兵器開発のQが見事な新世代型の銃を開発し、コンピュータを操作する。その一方で、アシュトン・マーティンが登場したり、古めかしい猟銃やナイフを武器にして戦うシーンは、アナログの魅力を大いに引き出している。何事にもバランスの問題だと思うが、『スカイフォール』ではその新旧の使い分けを上手に解決できた作品だと思う。 ボンド役のダニエル・クレイグも、このシリーズでは3作目となり、いよいよ板について来た。深い味わいのあるジェームズ・ボンドに成長した。この『スカイフォール』がスパイ映画として優れたエンターテインメント作品に仕上げられていて、傑作であることは間違いない、おすすめの逸作だ。 2012年公開 【監督】サム・メンデス【出演】ダニエル・クレイグ、ハビエル・バルデム、ベン・ウィショー
2014.06.23
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【北國新聞 時鐘】ブラジルとの時差(じさ)は12時間。午前7時の試合開始(しあいかいし)は、現地では午後7時になる。応援(おうえん)で疲れたノドに、おいしいアルコールが待つ。 テレビ応援は、そうはいかない。我慢(がまん)して一日を始めることになる。時差が何とも恨(うら)めしい。小文も、読者の目に触(ふ)れるまでに紙面づくりや配達(はいたつ)という「時差」がある。大一番(おおいちばん)の行方(ゆくえ)を予知(よち)する魔法(まほう)があれば、と痛切(つうせつ)に思う。 それでも確かなことが一つ。ギリシャ戦の後も、大勢の日の丸応援団がスタンドのゴミ拾(ひろ)いに汗を流し、注目を集めるだろう。褒(ほ)められて悪い気はしないが、確か16年前のW杯初出場でも、ゴミ拾いは「世界の注目を浴びた」はず。もう連続5度目の出場なのに、まだ珍(めずら)しいものを見るように報(ほう)じられる。何を今さら、と思うが、わがゴミ拾いマナーは、ホンダやカガワほどの知名度(ちめいど)を得てはいないのだろうか。 「日本は礼儀(れいぎ)では多くの点を得た」といった褒め言葉には、何かが奥歯(おくば)に挟(はさ)まっている。試合の得点も自慢(じまん)できる強豪(きょうごう)に、早くなりなさいよ、という励(はげ)ましか。 強くなってこそ、立派なマナーも有名になる。勝ってナンボの厳(きび)しい世界、と思い知る。(6月20日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~勝負の結果はすでに知るところである。時鍾氏は大我慢をして一日を始めたことであろう。想像するに難くはない。さて、第一線終了時からマスコミがこぞって日本人サポーターの「ゴミ拾い」について報じているが、どうも釈然としないでいた。そうなのだ、以前のワールドカップで『ゴミ拾いは「世界の注目を浴びた」はず』である。まさに『何を今さら』なのである。どうしてそれを言わないのか、だから釈然としないでいたのだ。よくいう「グローバルスタンダート」としては、ゴミ拾いは『珍しいもの』なのであろう。だから海外のメディアが何度も報じることはやむを得まい。だがしかし、日本のマスコミがこぞって美談のごとくそれを報じるのはスッキリしない。というか疑問を感じないではいられない。本当に、海外メディアの報道に『何かが奥歯に挟まっている』と感じないのであろうか?穿って見たとき『試合の得点も自慢できる強豪に、早くなりなさいよ』そういう声が聞こえないのであろうか?それ以前に穿った見方を放棄しているのだろうか。もしくは恣意的に、あえて「美談」として扱っているのであろうか。時鍾氏は正鵠を射た!『強くなってこそ、立派なマナーも有名になる。勝ってナンボの厳しい世界』いつもながら、当たり前のことをたんたんと語る時鍾氏に、私は真の大人を見る思いである。おせっかいながらA社やM社のコラム氏は三歩さがって時鍾氏の教えを乞うべきである。(自社の思想をお仕着せするばかりのコラムに未来はない。おせっかいついでにそう申し上げる次第だ。)それにつけても、時鐘氏の真の大人の所以は先のコラムで納得した。以下は6月19日付の「時鐘」である。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「互(たが)いに譲(ゆず)らず」。サッカーW杯で強豪同士(きょうごうどうし)のブラジル対メキシコ戦が引(ひ)き分(わ)けになったのを見て思い出した言葉(ことば)だ。 スポーツ面の見出しをつける仕事をしていたことがある。野球やサッカーで引き分けになった名勝負(めいしょうぶ)を、こう表現(ひょうげん)して年配(ねんぱい)デスクに注意された。勝(か)ち負(ま)けを決めるスポーツに「勝ちを譲る者(もの)などいるわけがない」というわけ。 スポーツに限(かぎ)らず勝負ごとは戦(たたか)いである。皆(みな)が命(いのち)がけなのだ。戦後派(せんごは)の君たちは認識(にんしき)が甘い、という話にまで展開(てんかい)するのだった。そんなオーバーなと思わぬでもなかったが、厳(きび)しく言葉を選(えら)ばなければならないことを知った。 平和(へいわ)な戦いであるスポーツは国と国が戦争(せんそう)をしないために役に立つ。政治は最高の「平和のための戦い」である。国民(こくみん)の生命財産(せいめいざいさん)を預(あず)かっている政治家は国際間(こくさいかん)の戦いで譲るわけにはいかない。最初から譲歩(じょうほ)する姿勢(しせい)を感じさせては勝負にならないのである。 日本の国会(こっかい)でも「双方(そうほう)譲らず」が続いている。いや、そう見えるだけなのか。政治家と政党は自らの命をかけているのか。この試合(しあい)に政治的(せいじてき)引き分けはない。ファンが許(ゆる)さないだろう。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~真の大人の影にはさらに真の大人(年配デスク)がいたわけである。当たり前のことであろうが、妙に納得した。現時鐘氏は、その手法から気概までを旧時鐘氏から学んだわけである。『スポーツに限らず勝負ごとは戦いである。皆が命がけなのだ。』旧時鐘氏の唱えたこの絶対真理は、現時鐘氏によって『勝ってナンボ』と言葉がわかり、今もコラム「時鐘」に受け継がれているのだ。私は現時鐘氏同様、戦後派であり『認識が甘い』世代である。ここは謹んで旧時鐘氏の薫陶を仰ぎたい。話しは変わるが老父(齢八十六)はテレビ観戦しながらこうつぶやいた。「技術も体力も日本人が劣っているわけではないのだから、死ぬ気で戦えば負けるはずはない」「死ぬ気」とはもはや死語であり、何とも大げさな感じはするが、それもまた真理であろう。それこそが日本人のスタイルであったはずだ。いわく、死ぬ気でばんばる、である。旧時鐘氏や我々の父の世代は、政治も経済もスポーツもそうやって世界に近づき、そして勝ってきたはずだ。「楽しんだ」とか「勇気をもらった」という感覚は『認識が甘い』と一蹴したであろう、そういう世界だ。幸い、昨日のニュースを見ているとゴールキーパーが吠えた。「死ぬ気でやる!」その覚悟やよし。彼は日本のゴールを文字通り死守してくれるはずだ。攻撃陣は何憂うことなく攻めに徹してほしい。さすれば一縷の望みもつながることであろう。頑張れ日本。とはいえ、私は試合よりも時鐘氏が試合結果をどう扱ってくれるのか、それが楽しみである。
2014.06.22
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【本谷有希子/ぬるい毒】◆一見、恋愛小説のようで、実は闘争ドラマこんなことを言ったら、歴代の女流作家と呼ばれる諸先生方に失礼かとは思うが、ここはあえて言ってしまおう。最近の女性作家は、カワイイ!ちょっと小説家にしておくのはもったいないような容姿である。昔、女流作家と言ったら瀬戸内晴美(寂聴)とか、山崎豊子とか有吉佐和子あたりを思い浮かべてしまい、テレビでお顔を拝見した日には、何やら残念な(?)気持ちになったものだ。それがどうだ、今どきの女性作家はオーラが出ているのだ。例えば柳美里。彼女はスタイルも良いし、美人である。作家であり歌人でもある俵万智。彼女も実にチャーミングだし。最年少芥川賞作家の綿谷りさも、知的な可愛さに溢れている。いくら書くことが商売で、顔を出すことが仕事ではないとはいえ、多くの人々に夢を与えるライターという職業に就く者が、実はブスだったとなると、がっかり感は拭えない。その点、本谷有希子も可愛い部類だ。なんで作家なんかになったの? と聞きたくなってしまうところだ。 本谷有希子は石川県出身で今年35歳。“劇団、本谷有希子”を主宰し、舞台の脚本なども手掛けている。ラジオ番組『本谷有希子のオールナイトニッポン』のパーソナリティーを務めたりして、マルチな才能を誇る新鋭だ。正直、こういう作家が世に出て来た時点で、その他大勢の作家志望者がその道をあきらめることになる。どだい、こういう新鋭と争うこと自体、ムリな話ではあるけれど。 私がこの人物はスゴイと思う理由に、確固たる独自の世界観があることだ。つまり、オリジナリティーだ。二流、三流の作家にありがちなのは、どこかで聞いたような物語を、さも自分のオリジナルであるかのように、ちょこっとだけ作り直している器用さである。ゴミのリサイクルは大歓迎だけど、表現の世界に二番煎じはあまりいただけない。 その点、本谷有希子は表現方法を確実に我が物としている。しかも、誰のマネでもない本谷有希子ワールドを小説という手法の中で、私たちにグイグイと主張して来るのだ。 『ぬるい毒』のあらすじはこうだ。ある日、突然、熊田由理に向伊という男から電話がかかって来る。向伊は、高校時代に借りたものを返したいと言うが、由理には全く身に覚えがない。とりあえず会って、よくよく話を聞いてみると、何となくからかわれているような気がする。それでも向伊の魅力たっぷりの雰囲気に呑まれてしまいそうな気持ちになる。結局、由理が再び向伊と再会するのは一年後。待ち合わせに指定された居酒屋には、向伊の他に奥出と野村もいて、由理と同じ高校の同級生と言うが、全く覚えていなかった。そこでは他愛もない会話を交わし、そうとう複雑な気持ちにさせられるものの、やはり向伊のことが気になった。その一方で、由理は、好意の対象としていない原という男と付き合っていた。初体験の相手として原を拒むことはしなかった。キスが吐きそうなほど気持ちが悪かったけど、これは由理の自分自身への罰のようなものだった。 一見、恋愛小説のような体裁は取っているものの、これは主人公・熊田由理の闘争劇である。優しげで社交的で、世界を味方につけたような、軽薄で薄汚い男の本性を上回る手段で、尋常ではない鬼気迫る信念を持った、女の復讐ドラマとでも言おうか。こういう小説は何度も読む気はしないが、それでもけじめとして最後まで読まずにはいられない。本谷の描く恋愛(?)があるのだとしたら、これまでの男女関係は音を立てて崩れるに違いない。あえて独断と偏見で言わせてもらうと、可愛い女性の書いた、闘いの小説は、ジャンヌ・ダルクみたいで魅力的だ。なんだか頼もしくて仕方ない。本当の小説を読みたいと思ってる人におすすめだ。 『ぬるい毒』本谷有希子・著☆次回(読書案内No.131)は阿部和重の「グランド・フィナーレ」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.06.21
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人近く来るや雀の親心 正岡子規なおご参考まで、俳句では子規門下となる夏目漱石の「雀」に関する句である。某(それがし)は案山子にて候雀どの※画像付きはコチラ猫になったり案山子になったりと、漱石先生も実にご苦労なことである。
2014.06.20
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【太宰の桜桃忌に寄せて 栗木京子】太宰は死に際して、遺書と1枚の色紙をしたためており、色紙には、「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」という短歌が書かれていた。「水」「濁り」「影」「雨」といった言葉が暗い心情を表しているようで、太宰自身の詠んだ辞世の歌と誤解されがちだが、実は彼の歌ではない。明治から大正にかけて活躍した歌人・伊藤佐千夫の歌なのである。佐千夫は正岡子規に師事して「馬酔木」や「アララギ」を発刊した人物。小説「野菊の墓」の作者でもある。「池水は」の歌は、佐千夫が世をはかなんで詠んだものではない。現在の都内江東区に住んでいた彼は、近くの亀戸天神にたびたび足を運んだ。その折に境内の藤の花の美しさに魅了され詠んだのがこの句の歌なのである。(6月16日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~本日、6月19日は太宰治の桜桃忌である。毎年、女性を中心にした熱心なファンで墓前に人垣の花が咲く。鬱陶しいなぁ、などと漏らしたら叱られそうだ。彼岸でも、ニヒルな薄ら笑いを浮かべる太宰なのである。それにしても何故、太宰は伊藤佐千夫の短歌を残したのだろうか。太宰ほどのナルシストには、少し不自然な気がする。ましてや、作者の意図を無視した用い方である。そしてなにより辞世の一つや二つを詠めない太宰ではないはずだ。あれこれ考えをめぐらしていると、また太宰の薄ら笑いが見えてきた。やはり一筋縄ではいかない御仁である。死してなおその影響力や大、何か太宰の術中にはまったようでくやしい。ときに画像の『恥の多い生涯を送って来ました。』は「人間失格・第一の手記」の冒頭である。太宰の直筆原稿から一部を拝借した。「人間失格」は太宰の黙示録と言えなくもないのだが、私の書架には時を経て三冊となった「人間失活」がある。私は決して太宰のファンではないが、その時の表紙(装丁)に興味がわいて求めたものだ。薄い文庫でも同じ背表紙が三冊並ぶと存在感がある。そしてその奥にはいつも太宰の薄ら笑いが見える・・・バー「ルパン」で三島由紀夫が太宰にかみついたという話は有名だ。「僕はあなたが大嫌いだ!」私には三島の胸中を察するに難くはない。(ただし、その後の太宰の薄ら笑いも容易に推察される。)栗木さんのエッセーを読み、私は37年前にもとめた初代の「人間失格」を紐解きしばし読み耽った。そして気がついた。また太宰の術中にはまってしまったのだ。「僕はあなたが大嫌いだ!」いくら毒づいても太宰は薄ら笑いを浮かべるだけである。さて、太宰が用いた伊藤佐千夫はすばらしい短歌をたくさん残している。子規門下だけあり、写実の効いた歌がとても多いのだ。そして健全で生き生きしている。伊藤佐千夫は私の故郷に縁があり、故郷を詠んだ歌が多数あることからとても身近に感じている。『み仏に 救はれありと 思ひ得ば 嘆きは消えん 消えずともよし』伊藤佐千夫太宰は伊藤佐千夫のこの短歌を知っていただろうか。薬と女性に溺れた人間は、この歌をどう読むであろうか。それにつけても、太宰が伊藤佐千夫を引いたのはなぜだろうか・・・桜桃忌に際し、なにはともあれ太宰のご冥福を心よりお祈り申し上げる。
2014.06.19
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行き行きてひらりと返す燕哉 正岡子規
2014.06.18
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【河北新報 河北春秋】「元来、国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありやしません。詐欺をやる、ごまかしをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶(めちゃくちゃ)なものであります」。夏目漱石の有名な講演『私の個人主義』の一節。今、読み返しても、脳裏に幾つかの国々を浮かべながら「確かに」と納得する。日本人は今でも漱石を喜んで読み、共感し、時に発見をしている。難解さとは無縁でテンポのいい文章も好まれる理由だ。小説、随筆、漢詩、評論。仕事は多岐にわたったが、意外にたくさんの俳句も作っている。〈腸(はらわた)に春滴るや粥(かゆ)の味〉は、大量吐血で生死の境をさまよった「修善寺の大患」の後の作。ようやく食べ物らしい食べ物にありついて、春が滴るようだという。未発表の俳句2句が見つかったという記事が、きのう載っていた。同僚の教師に宛てた手紙に添えられていた。〈花の朝 歌よむ人の 便り哉〉〈死にもせで 西へ行くなり 花曇〉。親友の正岡子規の影響で、さかんに句作に取り組んでいた時期の作らしい。長い小説でも無駄なことは一行も書かなかった人と評される。再来年は没後100年。記念事業や回顧展などの準備が、既に各地で始まっている。これまで縁遠かった人も文豪の作品に親しむいいきっかけになりそうだ。(6月12日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~小説は読んでいなくても「夏目漱石」の名前を知らないものはまずいない。深夜の繁華街をたむろするアンちゃんたちも、おそらく安倍晋三は知らなくても夏目漱石は「聞いた事ある」くらいに言うはずである。しかし「こころ」を読んだことがある人でも、漱石が俳句を詠んでいたことを知らない人は実に多いのだ。漱石の俳句は写実がきいた素晴らしいものである。その実、師匠格の正岡子規も「これは俺よりうまい」と心胆を寒からしめたのではないか。ご参考まで、漱石の句は吟遊映人でも扱った。『某(それがし)は 案山子にて候 雀どの』(コチラ)『日あたりや 熟柿の如き 心地あり』 他四句(コチラ)『秋暑し 癒えなんとして 胃の病』(コチラ)脱線するが漱石はもちろん小説は外せない。定番中の定番『坊っちゃん』の記事はコチラから。そてにしても、冒頭の一文は正鵠を射ている。「詐欺をやる、ごまかしをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。」この、物事をうがつ見方が大作家たる所以であろう。それにくらべ、『脳裏に幾つかの国々を浮かべながら「確かに」と納得する』とは、コラム氏は実に控え目だ。ここはガツンと言ってほしいところなのだが・・・さて、漱石の未発表の句がふたつ見つかったという。物騒で暗い話題と勝った負けたの軽薄な話題が多い中で、誠にほのぼのとして明るく健全で、そして知的好奇心を満たす話題ではないか。コラムに付け加えると、「同僚の教師に宛てた手紙」とは、漱石が五高に赴任する折、「同僚の教師」は俳句付きの手紙をよこし、そこに宛てた礼状である。漱石も応えて句を詠み添えたわけだ。寺田寅彦を読むと漱石のひととなりはよくわかるが、こうやって手紙をしたため一句添えるところに、漱石の丁寧で真面目な人柄がわかるのである。■花の朝 歌よむ人の 便り哉■死にもせで 西へ行くなり 花曇何より句自体が平明で直截ではあることがよい。達筆な筆は読めないが、俳句の内容はわかりやすいのだ。没後100年は再来年とか。今から期待したら鬼と漱石ともに高笑いされそうだが、東京、松山、熊本では官民が一体となって100年を記念する一大イベントを企画してほしいものだ。こちらは、事あるごとに全集を紐解き、作品をおさらいしていきたいと思う。
2014.06.17
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婆さん蛙ミミミの挨拶地球さま。永いことお世話さまでした。さやうならで御座います。ありがたう御座いました。さやうならで御座います。さやうなら。 草野心平
2014.06.16
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【96時間/リベンジ】「こっち側がヨーロッパで、向こう側がアジアだよ。2500年に及ぶ征服の歴史の中で、西洋から東洋へ、東洋から西洋へ、誰もがこの海峡を通ったんだ」「なぜそんなこと知ってるの?」「歴史について? それはこっちに来る飛行機の中で読んだのさ。その本を貸してあげよう」「ええ、貸して」ああ、やっぱりリーアム・ニーソンはスゴイ!この役者さんは、ブルース・ウィリスやスタローンのような肉体美を誇るアクション・スターではないけれど、頭脳と精神面での強さに定評のあるアクションを披露してくれる。とはいえ、格闘シーンのキレキレの技を、ぜひ見て欲しい!あの年齢でまるでヨタつくことのない安定性のある足腰と、しなやかに動く手と腕。お見事!一作目の『96時間』がとても良かったので、もしも裏切られる内容だとイヤだなぁと心のどこかで不安を抱いていた。ところが今回の二作目(続編)『96時間/リベンジ』は、アクション・サスペンスとして申し分のない出来映えだと思った。 今回の舞台はイスタンブールとなっているのだが、この東洋と西洋をつなぐエキゾチックな街並みが、実に効果的に作用している。市場やら商店が所狭しと並ぶ路地を、まだ運転免許取得前のキムがハンドルを握り、敵の追跡を振り切ろうとするカーチェイスは、もうドキドキハラハラの連続だ。やっぱり本物のアクションはこうでなくちゃいけない。 ストーリーはいたってシンプル。だがこれこそアクション映画の醍醐味であろう。元妻のレノーアが、再婚相手との関係が悪化していることを知ったブライアン(元CIA諜報員)は、イスタンブールへの旅行に誘った。ちょうど要人警護の任務で、イスタンブールへ出張の予定だったからだ。イスタンブールでレノーアと娘のキムと合流したブライアンは、家族でのんびり過ごすつもりでいたのだが、レノーアと二人でバザール見物に出かけたところ、自分たちの乗ったタクシーを尾行する不審車に気付く。一方、キムは、両親に気を利かせたつもりで一人ホテルに残り、プールで泳いでいた。レノーアは、ブライアンの機転により、タクシーから先に降り、買い物するフリをして人ごみに紛れてホテルに戻る算段だったのだが、狭い路地を右往左往しているうちに行き止まりにぶつかってしまい、結局、何者かに捕えられてしまう。ブライアンもさんざん敵を倒し、振り切ったのだが、レノーアを人質に捕えられてしまったことで、万事休す。二人は、頭に黒い麻袋を被せられ、拉致されてしまう。二人を襲ったのは、以前ブライアンが殺害した男の父親である、アルバニア人ムラドたちの仕業だった。 『96時間』シリーズは、リュック・ベッソンが製作・脚本を担当し、スタンダードなストーリー展開ながらも、視聴者を飽きさせない構成に仕上げられている。代表作に『レオン』や『トランスポーター』シリーズがあり、フランスのアクション・サスペンスとしての品質は抜群のセンスを誇る人物だ。 見どころはいろいろあるが、ブライアンが頭から黒い麻袋を被せられ、拉致された際に、細かく秒数まで計りながら周囲の状況や物音を聴き取り、アジトまでの道のりや場所を推測するシーンがカッコイイ!元CIA諜報員の本領発揮みたいな場面だ。そして言うまでもなく、全編に渡って感じられる、娘を想う父の愛情が(時には過保護にも感じられるけれど)なみなみと溢れていて、微笑ましい。 『96時間/リベンジ』は、シンプルでオーソドックスだが、皆の期待を裏切らない、最高にして良質のアクション映画なのだ。 2012年(仏)、2013年(日)公開【監督】オリヴィエ・メガトン【出演】リーアム・ニーソン、マギー・グレイス前作『96時間』はコチラから
2014.06.15
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【古井由吉/杳子】◆精神を病む女性を好きになった男性の苦悩ずいぶんと古い小説だが、この30数年の間に何度となく版を重ねられている。芥川賞受賞作品である。つい先日、街の書店でこの小説を見つけたのだが、なんと、目立つ位置に5~6冊も積んであるではないか?!リアルタイムの小説じゃないのに、一体なぜ? と不思議に思って調べてみると、何となくその理由が分かった。お笑い芸人ピースの又吉が、この『杳子』を愛読書の一冊として取り上げているのだ。“ピース又吉がむさぼり読む20冊”という中の一冊である。ピース又吉が芸能界きっての読書家という話は、何かのトーク番組で知っていたが、それにしてもこの『杳子』をエントリーするなんて、にわかに信じられない。と言うのも、この『杳子』は、ある特殊な恋愛小説だからだ。もっとストレートに言ってしまえば、異様で病的な世界観をかもし出したもので、深淵で濃密だ。 著者は古井由吉で、東大文学部独文科卒のドイツ文学者である。そのためなのかどうかは分からないが、れっきとした日本語の小説でありながら、しみったれたジメジメ感がなく、思索的で格調高い。この小説を読んでつくづく感じたのは、恋愛というものは“魔物”であるということだ。捉え方は様々で、私の『杳子』に対する感想が的を得たものであるかどうかは疑わしいけれど、精神を病む女性を好きになってしまった男性の苦悩とか違和感を表現する描写に、著者の作家たるテクニックを見たような気がした。 あらすじはこうだ。山登りの途中でSは、精神を病む女子大生の杳子と出会う。杳子が下山できずに立ち往生しているところを、Sが付き添って麓まで降りたのだ。その後、Sは駅で杳子とばったり再会し、なんとなく付き合い始める。ところが杳子は、自閉症みたいに同じ順序で同じ行為を同じ時間帯にやらなくては、みるみるうちに不安になり、不機嫌になっていった。何を言われても同じ表情で同じ返答を、意固地に繰り返すのだ。そして、そういう病的なものを杳子の実姉も持ち合わせていて、Sはいつも不安定なものを杳子から感じ取っていた。二人は肉体関係も持ったが、いつも距離感があり、杳子の身体が遠く、つかみがたい存在に思えた。 主人公のSは、杳子という存在を愛おしむ一方で、もてあましてもいる。その病気についても畏れを抱いているし、軽く狼狽もしているのだが、杳子と離れることができない。それが男性としての抑えがたい情欲によるものなのか、それとも杳子に対する素直な恋愛感情からなのかは微妙である。だが私が着目したのは、この杳子という精神の病気を内包した人物を、作者の巧みな筆致によって、一つの個性として浮かび上がらせている点である。そのことにより、杳子の神経過敏より世間の鈍感さを憎むべき対象としてシフトさせているのだ。さらには、主人公Sの口を借りて、次のような分別を述べている。 「癖ってのは誰にでもあるものだよ。それにそういう癖の反復は、生活のほんの一部じゃないか。どんなに反復の中に閉じ込められているように見えても、外の世界がたえず違ったやり方で交渉を求めてくるから、いずれ臨機応変に反復を破っているものさ。」 誰かを好きになり、同時にその人の特異性にも気づいてしまったら、迷わず『杳子』を読んでみるべきだ。その特異性が、実は自分の中にも内在していることを認めざるを得ないであろう。恋愛とは、きっとそういう矛盾した失調の上に成立しているに違いないのだから。 『杳子』古井由吉・著☆次回(読書案内No.130)は本谷有希子の「ぬるい毒」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.06.14
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だんだん似てくる癖の、父はもうゐない 山頭火
2014.06.13
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生える草の枯れゆく草のとき移る 山頭火
2014.06.12
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【北國新聞 時鐘】サッカーW杯本番(ほんばん)が近づき、「高まる緊張(きんちょう)」が報じられるが、今回は緊張も並大抵(なみたいてい)ではないらしい。現地の日本総領事館(そうりょうじかん)が治安(ちあん)説明会(せつめいかい)を開いた、という小さな記事が出ていた。 大事なのは強盗対策(ごうとうたいさく)で、「もし襲(おそ)われても抵抗(ていこう)するな」。新興国(しんこうこく)の優等生(ゆうとうせい)としてW杯や五輪を誘致(ゆうち)した国に、いつのまにか「問題児(もんだいじ)」が増(ふ)えた。命あっての物種(ものだね)という物騒(ぶっそう)な緊張が、大会に加わる。 仲良(なかよ)きことは美しきかな。話せば分かる。そう教わってきた私たちには悲(かな)しいことだが、広い世界には話しても通じない物事が幾(いく)らもある。W杯前夜の小さな記事が、そう教える。 地球の反対側だけでなく、近ごろは、隣近所(となりきんじょ)からも「問答無用(もんどうむよう)」というけんか腰(ごし)の声が絶え間なく飛ぶ。だから、国のリーダーの「握手会(あくしゅかい)」を急げ、というもっともらしい意見が出るが、話しても分かり合えないことだってある。そう腹(はら)をくくる方が、賢(かしこ)いようにも思えてくる。 幸(こう)か不幸(ふこう)か、今回も治安対策無用の自宅観戦(かんせん)。「テレビ漬(づ)け」と文句が出そうだが、競技場外に渦巻(うずま)く国際情勢を学ぶ良い機会にもなる。そんな屁理屈(へりくつ)を用意して、声援(せいえん)を送ることにする。(6月8日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~『仲良きことは美しき哉』久しく目にすることも耳にすることもなかった。おかげで日曜の午後は武者小路実篤を紐解いて過ごすことになった。幸か不幸か小生、齢半世紀を遠に過ぎても、武者小路に辟易するほど人生に毒されてはいないようで、三読しても感動がわき、胸に熱いものがこみあげるのであった。まずはその機会を与えていただいた時鐘氏に感謝である。余談であるが武者小路は『君は君 我は我なり』とも書いている。白樺派が誤解されるむきがあるが、その本質はこういうことなのだ。自己を確立した大人の世界なのである。コラムを読んで思った。つまり、君子危うきに近寄らず、である。してみると時鐘氏は君子である!(だからいつも安心して読んでいられるわけだ!)このたびも正義ぶることなしに正鵠を射てみせた。そしてまたどこぞのコラムのように、高みから見下ろすような視線も、卑下するような情けない視線も微塵もない。武者小路の「大人の世界」である。何より安心できるのは、時鐘氏が醒めていることであろう。文章を書く上で最も必要な態度であることはわかっていても、それがなかなか難しいことである。(こうやって、熱くなって持ち上げてしまうのだ・笑)ただし時鐘氏、冷たい人間ではない。寅さんの機微を、行間から感じるものである。決して「それを言ったらおしまいだよ」ということはないのだ。さて、前にも書いたのだが私は石川県には縁もゆかりもなく、北國新聞にも何の関係もない。だがコラム「時鐘」は「たてコラム」を通して毎日読んでいる。(「たてコラム」はスマホのアプリ。新聞の休刊日以外は毎日必ず使っている。小生のスマホで一番頻度の高いアプリである。)「たてコラム」に登録したコラムは三十、その中で「時鐘」は日本一の新聞コラムであると私は思う。そしてこのたびその認識を新たにした。それにしても、石川の人々は目覚めのひとときを、知的満足を満たしながら過ごすことができるのだから、なんと幸せなことであろうか。その一点だけでも石川に住む価値があると真剣に思う。残念ながら私の住む地では、多くの目覚めを不平不満で過ごさなければならない。朝一の興ざめは、論説主幹がA新聞から招聘された所以である。ときに武者小路。志賀直哉に送った色紙にこう書いている。『君も僕も獨立人、何年たつても君は君 僕は僕』小生、君子には程遠く、残念ながら武者小路と志賀の関係のような友人もいないが、独立人たる大人ではあるつもりだ。時鐘氏、もとい、時鐘師、を見習いなまじりを決して世の中をしかと見つめていたいと思のである。
2014.06.11
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【パニック・ルーム】「一体、金庫に幾ら入ってるんだ? ・・・おい、俺の質問に答えろ!」「わかったよ。とにかくデカい額だ」「俺たちにそれを秘密にしてたのか?」「今更、関係ねぇだろ? 全部忘れな!」ジョディ・フォスターという女優さんは、少女時代から今日までトップ・スターの座を射止めるまで、着実に右肩上がりで歩んで来た人だと思う。衝撃的だったのは『告発の行方』で、レイプ被害者の役を演じた時の、あの迫真の演技だ。その後、『羊たちの沈黙』では、女性FBI捜査官クラリスの役で、名俳優アンソニー・ホプキンスと互角に渡り合った。だが『コンタクト』に出演したころから少しずつ雲行きが怪しくなって来るのだ。こういうキャスティングはいかがなものかと思うような、素人目から見ても違和感は隠せなかった。だがこの『パニック・ルーム』では完全にジョディ・フォスターの持ち味が復活したように思われる。夫の浮気が原因で、離婚を余儀なくされたシングル・マザーという設定は、正にジョディ・フォスターのハマり役でもある弱者だからだ。メグは、夫の浮気が原因で、11歳の娘・サラをつれて離婚。慰謝料としてニューヨークの大邸宅を夫に購入させ、そこに親子で引っ越すことにする。 その晩、強盗が侵入。緊急避難用の密室である、パニック・ルームへ逃げ込む。だが、強盗らの目的は、そのパニック・ルームに隠された財産だったのだ。この豪邸の前の持ち主は資産家で、莫大な財産を屋敷に隠してあったため、それを知っていた強盗らは人手に渡る前に財産を奪うことを計画していた。しかし、メグたちがこの屋敷に引っ越して来たことで、強盗らの計画が大きく狂ってしまったのだ。さすがにフィンチャー監督の手がけるサスペンス作品には、鬼気迫るものがある。ブライアン・デ・パルマ作品にも似て(あるいはヒッチコック監督かもしれない)、ストーリーを重視せずに、密室でのパニック状態をこれでもかこれでもかと、煽るのに成功している。強烈なインパクトという点ではやや弱いかもしれないが、11歳の少女サラが、持病の糖尿病の発作のため、一刻も早くインシュリン注射を打たなくてはならない時の緊迫感は、申し分ない。娘を守ろうとする必死な母親と、顔面蒼白になり、痙攣に苦しみながらも耐え忍ぶ健気な娘に、思わず感情移入してしまう。手に汗握る映画とは、こういう作品のことかもしれない。正統派のサスペンス映画だった。2002年公開【監督】デヴィッド・フィンチャー【出演】ジョディ・フォスター、フォレスト・ウィテカー
2014.06.10
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【神戸新聞 正平調】自由律の俳人、尾崎放哉(ほうさい)は一時期、須磨寺でお堂の番人をしていた。「仏にひまをもらつて洗濯してゐる」。そのころの作だ。参詣客相手に忙しい日が続いたのだろうか。たまの休みを「仏にひまをもらう」と詠むおかしみに、口元が緩む。先日、梅雨入りのニュースを聞き、そういえば梅雨の晴れ間の青空は、お天道さまからの頂き物のようだと思いながら、曇天を見上げた。予報では6月は雨が少なく、7月に入ると長雨に転じるそうだ。大雨、ゲリラ豪雨、土砂災害。最近の各地の被害が連なって、頭の中で危険信号をともす。この夏は異常気象をもたらすエルニーニョ現象発生の可能性が高い。梅雨明けが8月にずれ込む恐れもあり、南の海上では積乱雲の発生がやや活発になるという。ということは台風の数も増えるのだろうか。「天気図の衣替え」というのを、気象予報士のコラムで読む。天気図には夏用と冬用があり、5月1日から夏用に変わる。紙面を繰ってみるとその通りだった。列島が移動し南の海が広くなっている。これからそこに、台風の記号を書き入れる機会が増える。「氷店(こおりみせ)がひよいと出来て白波」(放哉)。気がつくと、須磨の浜で氷屋が商売を始めた。沖に白い波と青い海。あれこれ気をもむばかりでなく、夏の風景を楽しむ心も持ちたい。(6月6日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~『それはまことに山林独住の、しづかといへばしづかな、さびしいと思えばさびしい生活であった。』放哉を慕う山頭火は、実は放哉が西光寺南郷院に入るより前の三月に、瑞泉寺に入っていた。望月義庵(人物なり!)を導師に出家得度し、法名を耕畝(こうほ)と言った。山頭火は味取観音堂(みとりかんのんどう)の堂守生活を『しづか』で『さびしい』と綴っている。山頭火を代表する一句はその時のものだ。松はみな枝垂れて南無観世音ときに放哉はコラム氏の説明によると「参詣客相手に忙しい日」と、実に勤勉に過ごしているようであるが、山頭火はというとこうであった。ひさしぶりに掃く垣根の花が咲いているどうやら融通坊主(或は八五郎坊主)であったらしい。そして大正十五年の四月、山林独住の生活に耐えかねて観音堂を去り、一鉢一笠(いっぱついちりゅう)の旅に出るわけである。最も知られた一句はこうして詠まれた。分け入つても分け入つても青い山なお、添え書きには「大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅にで出た。」とある。山頭火の無限のさみしさにふれると、はたして放哉の「仏のひま」にもおかしみを感じることはできない。(ちなみに放哉は同月、西光寺南郷院で逝去している。)コラムの放哉ネタに接し、我が脳にある山頭火スイッチが入り、全集を紐解いてはしばし時間を費やした次第だ。記事がコラムに関係なく恐縮、南無観世音菩薩(^人^)話しは変わるが尾崎放哉が番人をした須磨寺の坊さんの話。相撲好きが高じ還俗して「すてごろも」という相撲取りになったというのは本当だろうか。雀枝師の落語(宿屋仇)に出てくるのだが・・・出家に耐えかね出奔する山頭火ともども、誠に楽しい御仁である。余談の余談であるが、この期に及んでというか、満を持してというか、桂枝雀師のDVDシリーズが新たに発売されるという。小生、関係者ではないが、これは揃えて損はない。
2014.06.09
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【ヒッチコック】「規定違反だよ。女性の体にナイフが刺さるなんて、、、」「ご心配なく。私の映画に出る殺人鬼は、思慮分別があるので」私の最も尊敬する、サスペンスの巨匠ヒッチコック監督の自伝的な作品という予告を見て、少なからず期待に胸を膨らませていた。ヒッチコック作品は、ずいぶん初期の頃のものも見ているし、自叙伝や作品解説などをせっせと買い集めては読んでいた。とにかく大好きなのだ。 今回の映画『ヒッチコック』は、あの名作『サイコ』の製作における舞台裏を描いたものだというので、それこそドキドキワクワクと、TSUTAYAの店頭に並ぶのを待っていたしだいである。(封切られた時、近所のシネコンでは上映されなかったので、あきらめた。)そういう並々ならぬ思い入れを持ってこの作品を見たことが、果たして良かったのか悪かったのか、、、結論から言ってしまうと、見終わった後、がく然としたのは事実である。しかし、私自身も重要なポイントを忘れていたので、今はもう、一つの作品として受け入れることができる。なので、これからこの『ヒッチコック』を視聴される多くのヒッチファンのために、いらぬお節介だがご忠告申し上げたい。 この映画の主役はヒッチコックだが、『ヒッチコック』という作品のメガホンを取ったのはヒッチコックではなく、別人であるということ。さらには、『ヒッチコック』の原作となった同名著書の翻訳を読んでおられる方は、この映画を別モノと見なした方が良いのでは?ということだ。 とりあえず、あらすじを紹介しておこう。1959年、ヒッチコックは『サイコ』のモデルとなった、大量殺人者エド・ゲインの事件を描いた本を、夢中で読んでいた。次回作はこれで行こうと決意したヒッチコックだったが、資金繰りに難航。配給会社であるパラマウント社が、猟奇的で奇抜な『サイコ』には出資できないとのこと。だがヒッチコックはどうしても『サイコ』を撮りたいと思い、自宅を手放すことで資金を調達し、撮影に挑む。そんな中、妻・アルマは、ずっとヒッチコックを支え続けて来たのだが、ヒッチコックの独断と異常なまでの嫉妬深さに辟易し、魔が差してしまう。ヒッチコックは、自分の最大の理解者であると信じていた妻の心変わりにショックを受け、体調を崩してしまうのだった。 ヒッチコックに扮したアンソニー・ホプキンスは、特殊メイクで限りなくヒッチコックの体型を再現していたし、雰囲気も抜群。この人の演技に申し分はない。一方、妻・アルマに扮したヘレン・ミレン、こちらはどうだろう?オスカー女優のヘレン・ミレンの演技には何の問題もないが、イメージがちょっと、、、いや、かなり違う。私がヒッチの自叙伝に登場するアルマをイメージするに、例えばキャシー・ベイツなどが頭に浮かぶのだ。代表作に『ミザリー』などがある女優さんなのだが、ものすごく庶民的な外見とは対照的に、個性的で圧倒的な存在感を誇る人物だ。(つまり、ヘレン・ミレンは上品すぎるというわけだ。) とはいえ、キャスティングのことはまだ我慢できる。作品のピーク、つまり盛り上がりであるはずの、映倫の検閲と闘う場面が、あまりにもあっさり過ぎるではないか!『サイコ』の影には、この映倫の問題を解決することで成立したという経緯があり、その部分こそが山場でなければならないのに、あまりにも稀薄すぎる。まったく悔しくて仕方がない。 さらには、演出上のこととはいえ、ヒッチコックが妄想の中で大量殺人犯であるエド・ゲインと会話する意味がよく理解できなかった。このストーリー展開に、なぜエド・ゲインの幻が登場するのだろうか? 私は、天国の淀川長治に、この作品のご意見・ご感想を伺いたい。かつてヒッチコックと親交のあった淀川長治ならば、どのような論評を下したことだろう?私は、ヒッチコックがなぜ「サスペンスの巨匠」と言われるかを、この作品にもっともっと盛り込むべきだったと思う。映画に対する情熱と先駆的な挑戦。これにしぼったテーマなら、熟年夫婦の危機的な三流メロドラマに陥ることは、なかったと思われるからだ。 2012年(米)、2013年(日)公開【監督】サーシャ・ガヴァシ【出演】アンソニー・ホプキンス、ヘレン・ミレン~吟遊映人『映画/ヒッチコック作品』~ヒッチコックの『サイコ』 コチラヒッチコックの『白い恐怖』 コチラヒッチコックの『レベッカ』 コチラヒッチコックの『裏窓』 コチラヒッチコックの『ダイヤルMを廻せ』 コチラヒッチコックの『北北西に進路を取れ』コチラヒッチコックの『バルカン超特急』 コチラヒッチコックの『汚名』 コチラ
2014.06.08
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【田中慎弥/切れた鎖】◆究極の孤独の中に見出される独創性芥川賞受賞会見でのあの不敵な態度には、マスコミも一瞬ざわついた。だが次の瞬間には「おもしろいヤツが出て来たぞ」的な好奇心に変わっていた。2012年に『共喰い』で芥川賞を受賞した田中慎弥は、私より一つ年下で今年42歳。山口県出身の高卒。(工業高校卒)作品の傾向としては、自己を破壊的に表現する技法を採用しているような気がする。(あくまでも私個人の感想だが。)その点、解説に書かれていた田中慎弥についての分析が的確だと思うので、ここに引用しておく。 「通常であれば、誰もが目を背けてしまうであろう自己の奥底に秘められた“おそましきもの”に田中は向き合」っていると。 実力作家のことだけはあり、これまでの受賞歴は華々しい。新潮新人賞を皮切りに、川端康成賞、さらには三島由紀夫賞も受賞している。すごい。とはいえ、純文学としてはなかなか購買部数が伸び悩むのも否めない。曖昧で読み辛い作風は、玄人受けはするかもしれないが、一般読者にはいびつなイメージしか残らないからだ。 『切れた鎖』は、表題作の他に「不意の償い」「蛹」がおさめられた短編集である。私が一番好きなのは「蛹」で、この作品には同世代として迷わず共感できる。私たちバブル世代がその末期に味わった閉塞した環境や、漠然とした不安がそこかしこから漂っている。 「蛹」のあらすじはこうだ。一匹のカブトムシの雄が、やっと出会った雌と交尾に成功し、やがて死んでゆく。雌が死の直前に産み落とした卵からは、幼虫が生まれる。だがその幼虫がたまたま見たものは、自分を産んでくれた母親の残骸だった。幼虫はひたすら食べ、理由のわからない肥大に初めて体の重さを感じ、惨めに思った。ところがそのうち、食べる量が減り、やがて空腹も覚えなくなった。それから幼虫は、自分に力を与えられたような気がして、上を見てみると角が輝いていた。そうして初めて、幼虫はちょっと前まで自分が幼虫と呼ばれる状態であることを知った。 私はこの小説に、本物の純文学を見たような気がした。究極の孤独の中に見出される独創性を、この短いカブトムシの一生に投影させているのだ。父の不在、母の死、子の自立、現実を超えたカブトムシの社会に、本能的で生臭く、醜い交尾の後、人知れず訪れる静かな死。この物語に冷酷な表現者の視線を感じる。田中慎弥は、これからも“売れる小説”を書いてはならない。誰にも理解されることのない自己満足と孤独の中に、真のオリジナリティーを追求せよ!心から健闘を祈る。 『切れた鎖』田中慎弥・著☆次回(読書案内No.129)は古井由吉の「杳子」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.06.07
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太陽のもとに物みな汗かきて力を出だす若き六月 与謝野晶子
2014.06.06
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思うこと為さねばならずさりながら成るべき時を待ちてこそ成る 関口江畔
2014.06.05
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黄なる麦一穂ぬきとり手にもちて雲なきもとの高原をゆく 若山牧水
2014.06.04
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若葉よなあゝら花恋し人恋し 正岡子規
2014.06.03
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【デイライト】「1,2,3で持ち上げよう! みんな、いいか? みんなでやりゃ何でもできるんだ!」数いる役者さんのうちでもスタローンほどイメージが固定してしまった人は少ないだろう。本人も、おそらく甘いラブ・ロマンスの主役や極悪非道な悪役を演じるつもりは、毛頭ないだろう。スタローンは下積み時代が長く、生活のためにポルノ映画はもちろん、アダルト劇のステージにも立っているとのこと。(ウィキペディア参照)そういう苦節を味わっているからこそ、自分というキャラクターに副わない役は、決して受けないつもりでいるのかもしれない。代表作である『ロッキー』や『ランボー』シリーズでは、肉体・精神ともに強靭なキャラクターを見事に演じており、興行成績も大成功を収めた。年齢とともに衰えゆく肉体美にも一層の磨きをかけ、精進している姿は、プロの役者としても見上げた根性の持ち主であり脱帽だ。そんなスタローンが『デイライト』でも正義感の強い、勇敢な男としてイメージ通りの主役を演じている。ストーリーはこうだ。ニューヨークのマンハッタン島とニュージャージーを結ぶ海底トンネルが事故現場となった。晩のラッシュアワーに暴走車が起こした事故がきっかけで、トンネル内で大爆発が発生したのだ。多数の死傷者が出る中、現場付近に居合わせたタクシー・ドライバーのラトゥーラは、トンネル内に閉じ込められた人々を救出しようと、救助隊のチーフに談判する。というのも、ラトゥーラは元救助隊のチーフをしていた経験があり、今回の救出作戦も自分の経験が役に立つと思ったからだ。しかしラトゥーラは、以前にも大惨事に遭遇した際、他の隊員たちを死亡させてしまったという過去があり、相手にされないのだった。スタローン出演作品に、最悪のラストなどあろうはずもなく、最終的にはスタローン扮するラトゥーラの自己犠牲の精神とタフな肉体が、被災者たちを救出することに成功する。とはいえ、そのプロセスではラトゥーラの努力も虚しく、何人かの人々が絶命する。私はこの作品を【パニック】のカテゴリに分類してみたが、アクション性に富み、臨場感溢れていることからも、アクション映画としても充分見ごたえはある。有毒ガスと火災による煙がまん延する中、死と隣り合わせの人は何を思い、どう行動するのか。様々な想像をめぐらせてこの作品を見ると、より一層パニック状況下での人の真価を追及できるかもしれない。1996年公開 【監督】ロブ・コーエン【出演】シルヴェスター・スタローン
2014.06.02
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【ハーモニーベイの夜明け】「彼は出て来ないよ。この檻から出られるのに。塀一つ向こうには自由があるのに、自由が匂うのに、出ようとはしない。あきらめているんだ。自由とは夢見るだけのものだとね」「あなたもそうなんですか? あきらめてるんですか? あそこを出られるかもしれない。私ならあなたが正常だと証明できる。自由は夢じゃない。実現できる」動物の生態学者というのは、とかく変わり者が多いのかもしれない。人里離れた密林にテントを張って、何日も何週間も人と隔絶されたところでひたすらに動物の生態を調査するのだから。普通なら人とのコミュニケーションが途絶えた時点で発狂してしまいそうだが、人類学者ともなれば、かえってその分動物と密接な関係を結ぶことができて、有意義でさえあるのだろう。昔からこういう設定のお話は多くある。もちろん対象はゴリラとは限らないが、オオカミだったりライオンだったり、そういう自然界の動物の群れに属して共生する特別な人も実際にいるので、話題には事欠かない。『ハーモニーベイの夜明け』は、人が動物との共生によって何を学んだかというテーマには着地しない。というのも、主人公イーサン・パウエルが収容されたハーモニーベイ刑務所内における様々な問題点さえも、告発しようとする意図が見え隠れするからだ。そう考えると、単純なストーリー展開のように思える作中には、製作者サイドの複雑な思惑がてんこもりに載せられているわけだ。舞台はルワンダの密林。人類学者であるイーサン・パウエルは、ゴリラの生態を日々記録していた。最初は警戒していたゴリラの群れだったが、イーサンは根気強くその距離を縮めていった。ゴリラの群れとすっかり打ち解けたころ、イーサンを捜索する森林警備隊がゴリラに発砲。それを目の当たりにしたイーサンは激怒し、数人を撲殺してしまう。その後、イーサンは精神異常とされ、重犯罪刑務所であるハーモニーベイに服役することとなる。そして貝のように押し黙ってしまったイーサンを精神鑑定することになったのが、若くて有能な精神科医であるテオ・コールダーであった。主人公イーサン・パウエルに扮するのはこの人、アンソニー・ホプキンスだ。さすがの貫禄と存在感で、視聴者を飽きさせない。『羊たちの沈黙』におけるレクター博士の持ち合わせていたような超人的な性質を、ここでも存分に発揮し、限りなく野性味を感じさせる人物を演じている。また、テオ・コールダーに扮するキューバ・グッディングJr.も、出世への野心を抱く若き精神科医というキャラを地味ながらも好演。アンソニー・ホプキンスと互角に渡り合う演技にひとまず納得だ。ただ、一つ難を言えば、やっぱり最後のオチだろう。最後の最後に来てあれれ?という展開になるのだ。にわかに雲行きが怪しくなるのは、うん、あのシーンだ。それはきっと視聴者のほとんどが感じるのではなかろうか。「あれ? 『ショーシャンクの空に』のラストに似てるなぁ・・・」とはいえ、その部分を差っぴいても充分に見ごたえはある映画だ。1999年(米)、2000年(日)公開【監督】ジョン・タートルトーブ【出演】アンソニー・ホプキンス、ドナルド・サザーランド、キューバ・グッデイングJr.
2014.06.01
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