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「毒を使った果実の散布戦略動物に食べてもらうことで種子を運んでもらう植物は多いですが、熟した種子を運ばせるため、未熟な果実には毒性物質を高濃度で凝縮させて食害を防いでいるものがあります。カキノキの果実は、未熟なときはタンニンの濃度が高く、食べると渋くて美味しくありません。またライチも未熟な果実は神経毒性のあるヒポグリシンを含みます。逆に熟した果実は、動物に食べてもらい、中の種子を散布してもらうため、毒性をなくし、甘みを増し、視覚的にも美味しそうに見せる仕組みをもっています。」「「緑色」の柿の木の果実は、熟すと「橙色」から「朱色」へ変化する。」「未熟なライチの果実未熟な果実に毒があり、インドやベトナムで未熟なライチを食したことによる急性脳障害で死者が出ています。」「カキノキの果実」。「カキノキ」の枝と花。「タヌキの糞タヌキが食べた果実の種子は、排泄物とともに散布されます。イチョウやカキノキの種子が含まれています。」果実を口に咥えた「タヌキ」。「未熟なウメの果実未熱な果実には青酸配糖体アミグダリンが含まれます。」「耐える毒に耐えるこれまで見てきたように、多くの生物が体に毒をもつことで捕食者から身を守ってきました。しかし、その毒さえ克服できれば、毒生物は競争相手の少ない魅力的な獲物となります。身を守る「毒」とそれに対抗する「耐毒」の終わることのない進化合戦は今も続いています。」「キョウチクトウ」の展示コーナー。「キョウチクトウ」。「キョウチクトウキョウチクトウは、全体に強い毒性をもちます。西南戦争で西郷隆盛軍が、本種の枝で箸を作り中毒したとされています。」「キョウチクトウVSキョウチクトウスズメ昆虫は植物の毒を克服することを進化の原動力として多様化した生物です。既知種の半数以上が食毒性とされ、青酸カリをも上回る強い毒を持つキョウチクトウでさえ克服した昆虫が存在します。キョウチクトウスズメはその代表で、幼虫は体内に毒を避ける機能をもつことで、キョウチクトウを食べて育つことができます。」「公園などに栽培されるキョウチクトウ」「キョウチクトウスズメ」。「コアラVSユーカリ」「コアラVSユーカリューカリの葉は繊維質が多くて硬く、消化しにくいことに加え、青酸化合物やテルペンなどの強い毒素を多く含んでいます。そのためほとんどの哺乳類はユーカリを食べることができませんが、コアラはシトクロムP450 (CYP)という解毒酵素が肝臓で強くはたらいているほか、長さ2mにもなる盲腸の中で腸内細菌によっても消化と解毒を行っています。」「ユーカリ」。「ユーカリ属の1種コアラの食樹となるユーカリ類は30種ほどありますが、そのうち主食になっている数種のなかの1つです。」「コアラユーカリを食物にできる哺乳類は、コアラ以外にはほとんどいません。」「タイワンコブラ」。「タイワンコブラコブラ類がもつ神経毒には、ラーテルのほかにマングースやハリネズミの仲間も耐性をもっています。」「ラーテルVSコブラコブラの強力な毒は狩りだけでなく防御にも役立ち、天敵はそれほど多くありません。しかし、ラーテルはコブラやクサリへビの毒に耐性をもち、積極的に捕食しています。毒を注人されても効果は一時的で、意識を失っても数時間で回復します。ラーテルの神経細胞にある受容体では、コブラの神経毒が効きにくいような遺伝子の変異が起こっていることが判明しています」。「ラーテルなど一部の哺乳類は神経伝達物質の受容体の棈造に変異があり、コブラのα神経毒に耐性をもつ」。「ラーテル」。「ラーテルラーテルはコブラの神経毒以外にもクサリへビやハチ、サソリの毒にも強い耐性をもちます。」「毒と人間毒と人類との関係は、時代と共に移り変わり、各時代の文化や科学技術を反映しています。人間とさまざまな毒との関わりから、どのような人類の歴史が見えてくるでしようか?毒を通して人類の歴史を辿りましよう。」「人が毒を利用した最古の証拠ヒトが毒を利用した最古の証拠は、南アフリカのボーダー洞窟で発見された「切れ目のある木の棒」で、約2万4000年前のものと推定されています。この切れ目に付着した成分から、トウゴマの種子に由来するリシノール酸とリシンレイド酸が検出されたため、リシンが毒として利用されていたことが分かります。」「彼は「若者を堕落させた」罪で、ドクニンジンの汁により死刑となります。」「ソクラテスの死(ルイ・ダヴィッド)」「ボーダー洞窟出土木製品似た道具は現代の採集狩猟民も使います。棒に団子状の毒を付着させ、矢じりで棒を切るように毒を塗布します。」「トウゴマの種子トウゴマ(トウダイグサ科)の種子には細胞毒のリシンが含まれ、ヒトの場合多臓器不全を引き起こし亡くなる場合もあります。」「人類が毒を利用した、最古の証拠です。」「トウゴマの種子」、「リシン分子」。「リシンの分子模型トウゴマの種子の毒成分。529個のアミノ酸がつながったタンパク質」。「ソクラテスの肖像(B.C470?~B.C399)ソクラテスは古代ギリシャの哲学者で「西洋哲学の父」と言われています。」「ドクニンジン」。「ドクニンジン(セリ科)ドクニンジンはコニインという神経毒をもち、服用すると筋肉が麻痺して呼吸不全や心不全で死に至ります。」「コニインの分子模型」。「コニインの分子模型ドクニンジンに含まれる神経毒。化学式: C8H17N」「プリニウスの肖像」。「プリニウスの肖像(Gaius Plinius Secundus : 23ー79 )プリニウスは古代ローマの博物学者で世界最古の百科事典「博物誌」を記しました。」「ルイ・フィギエ著Vies des Savants lllustres (著名な学者の生涯 )の挿絵「大プリニウスの死」「ルイ・フィギエ著Vies des Savants illustres (著名な学者の生涯)の挿絵「大プリニウスの死」硫化水素は「温泉の硫黄のにおい」のもとですが、神経毒で呼吸不全などで急死する原因になりえます。」「硫化水素の分子模型化学式:H2S」。「中世水銀は、自然界に自然水銀や辰砂としてみ存在し、強い毒をもちますが、」。「チェーザレ・ボルジアの肖像(Cesare Borgia : 1475ー1507)チェーザレはイタリアの野心的な政治家で、政治目的のためにはどのような手段も許されるという「マキャベリズム」のモデルと考えられています。」「方砒素華(三酸化ニ砒素の結品)arsenolite, AS203」「方砒素華(三酸化ニ砒素の結品)arsenolite, AS203亜砒酸はタンパク質合成などを阻害する細胞毒ですが、無味無臭で食物に入れても違和感がないため悪用されました。」「亜砒酸の分子構造」。「亜砒酸の分子構造三酸化ニ砒素が水と反応することで生じます.化学式: As (OH) 3」。「パラケルススの肖像(Paracelsus: 1493~ 1541)パラケルススは医師・化学者・錬金術師で、「医化学の祖」、「毒性学の父」と呼ぶれています。」「自然水銀」。「自然水銀native mercury , Hg水銀は常温・常圧で凝固しない唯一の金属ですが、触れると細胞の表面がただれる細胞毒でもあります。」「水銀の分子模型化学式:Hg」。「ウィリアム・パーマーのデスマスク(William Palmer : 1824ー1856)医師のパーマーは、保険金目当てに家族や知人11名以上を毒段しそれらの罪で処刑された人物です。」「マチンの種子」。「マチンの種子Strychnos nux-vomicaマチン(マチン科)の種子に含まれるストリキニーネは神経を過剰に興奮させる神経毒で、薬としても利用されています。」「ストリキニーネの分子模型」。「ストリキニーネの分子模型マチンの種子に含まれる神経毒。化学式: C21H22N2O2」。「フリッツ・ハーバーの肖像ハーバーは、空気中の窒素から肥料の原料であるアンモニアを作る「ハーバー・ボッシュ法」を開発し、1918年にノーベル賞を受賞しました。この方法は「空気からパンを作る」と称されています。また第一次世界大戦時、彼は塩素ガスなどの毒ガス兵器の開発に深く関わり、「化学兵器の父」とも呼ばれています。」「フルツ・ハーバー博士の来日第一次世界大戦に敗戦し、経済危機に陥ったドイツの化学研究を支援するため、星製薬株式会社および星薬科大学の創設者である星一(1873-1951)は、現在の価値にして20億円を超える私費を提供しました。1924年、その返礼もかねてハーバー博士は来日し、星薬科大学をはじめ日本各地で講演を行い、日本の化学界にも大きな影響を与えました。」「塩素ガス塩素は地球上に広く存在している元素ですが、単体は黄色い気体で、呼吸不全などを引き起こす細胞毒もあります。」「星薬科大学100周年記念写真集」。「星薬科大学100周年記念写真集ハーバー博士は、1924年に星薬科大学創始者であるを星一の招きで日本を訪問し、大歓待を受けました。写真は星一と記念撮影するハーバー博士と夫人。(二番目の夫人シャルロッテ)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.15
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「第3章 毒の進化毒の存在は、生物同士の日常の関係ばかりでなく、長期にわたる関係や、個々の生物の生き方に影響を与えてきました。その結果は進化として現れます。どのような毒がどのような進化の引き金になったのでしょう?いくつか代表例を見てみましよう。」「多様化と共進化」「毒が招いた多様化と共進化毒がある環境では、多くの生物が生きられません。しかし、逆にそのような場所で生きられれば、竸争を避けることができて、生存に有利です。また、毒の存在によって、生物同士の関係にも大きな変化が生じます。ここでは、毒が招いた生物の多様化と生物相互関係の共進化を紹介します。」「酸素多くの生物にとって、酸素は呼吸に不可欠です。しかし、呼吸に使われなかった余剰の酸素(活性酸素)はさまざまな化学反応を引き起こします。生体内にはビタミンをはじめとする抗酸化物質*や酵素があり、活性酸素を片付けてくれます。しかし、これらで防御しきれないと、短期には痙攣、目眩など、長期には老化や発がんを含むさまざまな障害が発生します。*酸素に反応して自らが酸化されることによって、ほかの物質が酸化される被害を 食い止める物質」「活性酸素の毒性と生体による抑制私たちが生命活動を営む上で酸素の利用は必須となります。活性酸素とは、呼吸によって体内に取り込まれた酸素の一部・余剰酸素が、通常よりも活性化された状態になることをいいます。ヒトを含めた哺乳類では、取り込んだ酸素の数%が活性酸素に変化すると考えられています。活性酸素は、体内の代謝過程において様々な成分と反応し、過剰になると細胞傷害をもたらします。タンパク質が変性したり、酵素が失活したり、過酸化脂質が生じます。遺伝子と反応すると分解や突然変異が生じます。結果として、老化や癌、動脈硬化などの原因となるわけです。」光合成に因って酸素を作り出す「シアノバクテリア」。「シアノバクテリアの1種シアノバクテリアは光合成によって、酸素を作り出しました。また、細胞内に取り込まれた葉緑体の祖先となりました。」「ダイズの根に形成された根粒」。「根粒菌とレグヘモグロビンマメ科植物の根粒菌は、根に「根粒」を作り、植物に空中の窒素を栄養として与えています。根粒菌も酸素呼吸をしますが、窒素を取り込む酵素は酸素に弱いため、レグへモグロビンというタンパク質によって酵素にとって邪魔な酸素を取り去る一方で、呼吸に必要な分だけ酸素を根粒菌に運搬しています。」「毒と共存する深海の熱水チムニー熱水域にはヒトに有毒な硫化水素や重金属が広がっていて、チムニーの噴出口周辺は100 ~ 400℃程の高温になる場合もありますが、周辺は冷水です。細菌は硫化水素や水素からエネルギー源を生み出し、その細菌を食べる動物たちが帯状に分布します。最も毒や熱に耐性の強い種は熱水の近場に生息し、特殊なタンパク質やストレスに強い細胞をもっています。」「熱水チムニー周辺の動物の分布の様子」。「鶏冠石・石黄海底熱水には砒素が含まれるものがあり、チムニーにも砒素の硫化鉱物である、鶏冠石や石黃が形成されます。」「ストロマトライト縞模様は、酸素を生成したシアノバクテリアが重層してできたもの。」「ゴエモンコシオリエビ」。「ゴエモンコシオリエビ硫化水素やメタンをエネルギーに変える細菌を腋毛に共生させ、餌として利用するヤドカリの仲間」。左から「スイヨウアルビンガイ熱水にすむ大型巻貝。硫化水素をエネルギーに変える細菌をエラの細胞内に共生させています。殻の表面に毛を生やす理由は不明です。」「熱水噴出孔に固有なウロコムシの1種構造色で輝くウロコをもち、エルヴィスワームと呼ばれるゴカイの仲間。脳が特殊な組織で保護されています。」「スケーリーフット(ウロコフネタマガイ)インド洋の熱水噴出域にすむ巻貝。体の表面に鱗をもち、体内に共生する細菌が代謝した硫黄を鱗に排出します。熱水中の鉄と反応し硫化鉄を作ります。」「マリアナイトエラゴカイ近似種(巣穴つき)動物界で最も高温耐性をもち、50℃付近を好んで生活します。体に黄橙色の無機砒素を大量に含みます。」「チムニー(海底熱水鉱床)」。「チムニー(海底熱水鉱床)海底には熱水が噴出する場所があります。さまざまな金属元素が溶け込んでおり、沈殿してチムニーとなります。」「シロウリガイ」?。「???」。「カイレイツノナシオハラエビブラックスモーカー上にすむ工ビ類。細菌をエラの周辺に共生させています。特殊化した目と脳をもっています。」「チューブワーム(サガミハオリムシ)硫化水素をエネルギーに変える細菌を細胞内にもち共生します。耐毒性をもち、酸素が少ない所で生活できます。」左「チューブワーム(サガミハオリムシ)の虫体」右「チュープワーム(サガミハオリムシ)の棲管」「水深5,500mの深海底とゼノフィオフォア(実物)伊豆小笠原沖の水深5,500mに生息する巨大な単細胞生物ゼノフィオフォアを海底ごとくり抜いた標本。」「ゼノフィオフォアの外部形態と内部の細胞物造内部には白と黒の細長い細胞部位が網目状に拡がり、それぞれ異なる重金属や放射性物質を濃縮させていますが、理由は不明です。」近づいて。「警告色有毒動物には明るい色と暗い色のコントラストが目立つ警告色をもっ種がいます。警告色には.自身が有毒動物であることを周囲に伝え、自身と外敵の双方が無用な争いによる傷などを負うことを防ぐはたらきがあります。」「オオスズメバチ」、「ゴンズイ」。「キオビヤドクガエル」。ズームして。「キオビヤドクガエル(黄帯矢毒蛙)「キオビヤドクガエルの警告色ヤドクガェル類は赤や黄色、青色などの鮮やかな警告色をもち、昼間に活動します。キオビヤドクガエルの黄色と黒のコントラストが強い体色は、薄暗い熱帯雨林の林床でもよく目立ち、捕食者に毒性をアピール.するのに役立ちます。」「アカハライモリ」。「アカハライモリの防御姿勢この姿勢は「スズガ工ル反射(Unken reflex)」と呼ばれ、イモリ類のほかにスズガ工ルの仲間にも見られます。」「アカハライモリの警告色アカハライモリの背中は褐色の目立たない保護色ですが、お腹はよく目立つ赤色です。天敵に襲われると背中を反らして丸くなる防御姿勢をとり、お腹の警告色をアピールします。」「ベイツ擬態」、「ミューラー擬態」。「ミューラー擬態とべイツ擬態ある生物が有毒であることを学習した捕食者は.その特徴をもつ生物を避けるようになります。複数の有毒生物種の外見が似る現象を「ミューラー擬態」、無毒の生物が有毒生物と似た外見をもっ現象を「べイツ擬態」と呼びます。ともに研究者の名前にちなんだ名称です。」「テントウムシの毒と警告色テントウムシ類は外敵に襲われると毒成分を含む液体を体から出して身を守ります。目立っ体色には警告色としての役割があり、テントウムシ同士による「ミュ一ラー擬態」やテントウムシ以外の昆虫がテントウムシに似せる「ベイツ擬態」が見られます。」「ベイツ擬態」、「ミューラー擬態」。「魚も擬態する魚類には、岩や砂、海藻、枯れ葉などに擬態する種がいることが知られています。なかでもカワハギの仲間のノコギリハギ(無毒)は、フグの仲間であるシマキンチャクフグ(有毒)に擬態をしていることで有名です。体形や色彩だけでなく遊泳などの行動もそっくりです。」「ノコギリハギ」と「シマキンチャクフグ」。「ノコギリハギとシマキンチャクフグの見分け方ノコギリハギの背鰭と臀鰭はシマキンチャクフグのものよりも幅が広い(基底が長い)ことなどで見分けられます」「ノコギリハギカワハギの仲間。無毒」。「シマキンチャクフグフグの仲間。有毒。」「盗用自身で毒を作れない有毒生物は、他者の毒を利用または盗用しているといえます。テトロドトキシンを自身で作れないフグや、ヒキガェル類の毒を防御用の毒として利用しているヤマカガシも毒を盗用しているのです。」「ムカデミノウミウシの盗刺胞毒の盗用のなかでも究極形の1つがミノウミウシ類やフウセンクラゲ類による刺胞の盗用「盗刺胞」です。ミノウミウシ類はヒドロ虫を主な餌としていますが、ヒドロ虫の刺胞を消化せず自身の防御に再利用しています。」「ムカデミノウミウシ」。「エダウミヒドラ属の1種ミノウミウシ類の餌となるヒドロの1種。展示物本ではムカデウミウシの摂食シーンも再現。」「第3章 毒の進化」の展示風景。「ハチの多様化と毒針ハチの毒針は卵を産むための産卵管が変化したものです。毒針は幼虫の餌となる獲物を狩るための武器として発達したと考えられますが、自身や巣を守るためにも使われ、攻めと守りの両面でハチの多様化を支える原動力となりました。さらに、幼虫の餌に花粉を使うようになったハナバチ類では、毒針は守り専用の武器へと変化しました。」「セイヨウミッバチ刺した針が抜けなくなる「カエシ」がついた毒針をもち、守リの最終手段として、命がけで毒針を使う。」ズームして。「毒針」と「先端部拡大」。「ミッバチ上科のハチ類①キンモウアナバチ②トラマルハナバチ」「ミッバチ上科のハチ類①キンモウアナバチ②トラマルハナバチミッバチ上科には毒針で狩りをおこなうアナバチ類(①)と毒針を防衛のためのみに使うハナバチ類(②)が見られます。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.14
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毒きのこの「特殊な中毒症状ドクササコを食べると手足の先端部が激しく痛み、赤く腫れあがるという症状が1ヶ月以上続きます。力エンタケは食べると致命的な症状が出るだけでなく、世界的にもまれな「触ってもいけない」という毒きのこです。」様々な「毒きのこ」&「食用きのこ」が展示されていた。「ドクササコ」と「カエンタケ」。「ドクササコ」。「ドクササコ手足の先端が激しく痛む症状から「やけどきん」とも呼ばれます。」形と色:傘:中型で橙褐色から黄褐色で中央部がくぼんでいる。傘のふちが内側へ巻く初め中央のくぼんだ まんじゅう形、後に開いてじょうご形となる。表面は平滑。傘よりうすい色で、密である。柄:繊維質で縦に裂けやすい。中実で一部中空のものもある。「カエンタケ」。「カエンタケ毒成分はトリコテセン類で、触ると皮膚の炎症を起こす可能性があリます。」形と色:表面はオレンジ色から赤色、細長い円柱状または棒状で、土から手の指が出ているように群生または単生する。中は白く、硬い。「カエンタケ」の写真。「間違えやすい毒きのこ国内で特に中毒例が多いのはツキヨタケ、クサウラベニタケ、カキシメジの3種ですが、最近はオオシロカラカサタケの中毒例も増えています。どのきのこによるものか、中毒の原因が特定できない場合も多くあります。」「毒きのこ」と「食用きのこ」の展示。毒きのこ「クサウラベニタケ」。毒きのこ「クサウラベニタケ中毒例がとても多く、ウラベニホティシメジやホンシメジなとと間違われます。」形と色傘 :灰色~黄土色(赤みを帯びるものもある)、茶色のものもある。 乾燥時は絹のような光沢があり、湿潤時は濡れたような色、ムラがあり、粘性がある。ひだ :白色から成熟すると肉色になる。柄 :柄にも絹のような光沢がある。比較的、細い。縦スジがある。 中空でもろく指でつまむと容易につぶれるものが多いが中実のものもある。食用きのこ「ウラベニホティシメジ」。食用きのこ「ウラベニホティシメジやや苦味があリますが、人気のある食用きのこです。」毒きのこ「カキシメジ」と食用きのこ「マツタケ」。毒きのこ「カキシメジ」。「カキシメジマッタケに似た外見ですが、ヒダに茶色いシミができるなどの違いがあります。」形と色:傘 :赤褐色~くり褐色またはうすい黄褐色。 湿っているとき粘性があり、葉や木くずが張り付いている。ひだ :柄に対してくっついており(湾生)、密である。 白く、古くなると赤褐色のシミができる。柄 :上部が白く、下部はうすいまだらな赤褐色を帯びている。 根もとがやや膨んでいる。食用きのこ「マツタケ」。「マツタケ日本を代表する食用きのこと言えますが、よく似た毒きのこは意外と多く存在します。」毒きのこ「ニガクリタケ」。「ニガクリタケ典型的にはレモンイエローで、生でかじると苦い猛毒きのこです。」形と色:傘 :まんじゅう形からほぼ平らに開く。表面は湿り気を帯び、やや吸水性で黄褐色。 中心部が黄褐色で周辺部が硫黄色を示す。周辺部に初めクモの巣状の被膜の名残を付ける。ひだ :柄に対してくっついており(湾生)、密である。オリーブ緑色柄 :細長く、下部は繊維状で光沢が見られる。食用きのこ「クリタケ」。「クリタケ典型的には栗のような赤茶色を帯びた美味しいきのこです。」毒きのこ「オオシロカラカサタケ」。「オオシロカラカサタケ以前は沖縄など亜熱帯地方でよく見られたきのこですが、最近は関東地芳にも発生するようになりました。」形と色:傘 :球形から饅頭型をへて平らに開く。ひだ :質は海綿状。色は白色で、ごく幼時には淡褐色の表皮に包まれる。のちに表皮は裂け、 白色のカサの上に不規則にやや大きな片鱗となって散在する。粘性は無い。 ヒダは離生し密。初め白色だがやがて、胞子により汚緑色に染まり、老成するとオリーブ 褐色になる。幅は広い。柄 :白色。中空。上部に可動性の厚いツバがある。肉は白色。 無味、腐植臭がある。ときに弱い赤変性がある。カサ、柄、ヒダともに傷つくと褐色に 変色する。「オオシロカラカサタケ」。食用きのこ「カラカサタケ」。「カラカサタケ昔から知られる食用きのこですが、最近はオオシロカラカサタケと同じ場所に生えることもあリます。」「アフラトキシンアフラトキシンはアスペルギルス・フラブスから発見されたことから命名されたマイコトキシンです。互いに類似していますが、紫外線で青く光るアフラトキシンBと緑色に光るアフラトキシンGがあり、さらにそれぞれに若干の化学構造が異なる複数の物質が知られています。」「鉱物」。「鉱物に由来する毒鉱物の多くは珪酸塩鉱物ですが、非鉄金属は主にマグマや熱水活動に伴う硫化鉱物として産します。硫化鉱物を焼くと酸化物に、酸化物と炭素を蒸し焼きにすると単体の金属が得られます。その金属が毒性をもっ場合も、副産物が毒性をもち、周辺環境を汚染する場合もあります鉱物由来の毒として代表的なものを下の表に示しました。」「鉱石」。「鉱石一般的な鉱石は混合物の状態で、堀り出されます。これを細かく、砕いた後に選別し、鉱物ごとに精錬を行ないます。」「砒素(As)火山の噴気孔周辺で自然砒や鶏冠石などの硫化物としても産しますが、商業的には硫化鉄鉱から得ます。三酸化二砒素は粉末状で、水に溶かすと水和して亜砒酸となります。無機砒素化合物は毒性が強く、無味無臭なのでかっては暗殺等に用いられました。一方で、海藻には有機砒素化合物が含まれていますが、その毒性は極めて低く、健康被害はありません。水銀(Hg)天然では多くが辰砂などの硫化物として産します。無機水銀の毒性、症状は砒素などと大差なく、消毒薬である昇汞(塩化水銀)は、自殺・他殺にも用いられました。一方で有機水銀の1種のメチル水銀は神経系に強く作用する強力な慢性毒です。戦後熊本などで、水保病が発覚して以降、水銀の危険性は周知され、代替物へ転換が進められています。」「硫化鉄鉱鉄と砒素の硫化鉱物。近代鉱山技術の発展以降は砒素のほとんどは硫砒鉄鉱から得られています。」「自然砒自然砒はさまざまな形状をとりますが、これはその形状から「金平糖」の俗称で呼ばれています。」「閃亜(せんあ)鉛鉱地殻中のカドミウム」の多くは亜鉛鉱物に「間借り」しており、閃亜鉛鉱も数%のカドミウムを含みます。「硫カドミウム鉱カドミウム鉱物の代表ですが、閃亜鉛鉱が分解して生じる二次鉱物に過ぎません。色はカドミウムイエローを呈します。」「辰砂」。「辰砂代表的な水銀の硫化鉱物。古くは赤色顔料(朱)として用いられました。」「カドミウム(Cd)カドミウムの化学的挙動は亜鉛と類似します。天然では閃亜鉛鉱に数%含まれます。力ドミウムは亜鉛と間違って体内に取り込まれますが、はたらかない上に体外に排出されにくく、その慢性中毒症状は、亜鉛欠乏症とも類似します。」「鉛(Pb)天然ではほとんどが方鉛鉱として産します。融点が低く柔軟で加工しやすいため、古くから用いられてきた金属で、古代ローマでは食器や水道管に使われていました。鉛中毒は、鉛を含む金属や顔料を扱う職人などの、職業病の側面がありました。大気中には、有鉛ガソリンを主な由来とする微量の鉛が含まれています現在は、有鉛ガソリンの使用禁止が進められ、大気中に含まれる鉛は大幅に減少しています。」「方鉛鉱鉛の硫化鉱物。地球上の鉛の多くを占めます。」「火山」。「火山ガス火山地下のマグマには、高圧下でさまざまな火山ガスが溶け込んでいます。大部分は水とニ酸化炭素ですが、有毒なフッ化水素、塩化水素、ニ酸化硫黄、硫化水素なども含まれます。これらのガス成分は噴火時にはマグマを泡立たせて膨張させることで爆発的な噴火を引き起こします。また活動的な火山では平穏期にも火山ガスが地表に放出されています。」「鹿児島県三島村硫黄島の硫黄岳山頂では800℃を超える非常に高温の火山ガスが活発に噴出している。1964 (昭和39)年まで自然硫黄の採掘が行われていた。」「人」。「元素体内でのはたらき 「毒」も量による?有害イメージが強い砒素やクロムなとも、実は体内では何らかのはたらきをもつ必須の元素です。しかし、これらの微量成分の「最適範囲」は広くはなく、取りすぎれば過剰症や中毒、不足すれば欠乏症になります。まさに、「薬と毒は紙一重」なのです。」「人体を構成する元素」。「人間が作った毒毒のなかには、人間が作り出したものがあります。身のまわりの化学製品が、実は毒であったこともあります。科学技術の進歩で生活が豊かになりますが、同時に人間や地球にとって未知の物質を環境中に放出していることも確かです。これまでに放出された汚染物質への対応や、新たな汚染物質の放出を防ぐには、国際的な協力が必要です。」第2章「毒の博物館」「人間が作った毒」。「POPs(Persistent Organic Pollutants)POPsとは生物蓄積性や長距離移動性をもつ残留性有機汚染物質です。POPsの1つであるDDTは、優れた殺虫剤であり、蚊が媒介するマラリアなどの感染症の撲滅に貢献しました。しかし、生態系への悪影響から、現在では各国で製造、使用が原則禁止されています。」「マイクロプラスチックプラスチック製品に含まれている添加剤には、有害なものや、ヒトへの有害性が疑われているものがあります。プラスチックごみのなかでも微細なものはマイクロプラスチックと呼ばれ、一度環境に放出されると回収はほぼ不可能です。」「クロツチクジラの胃から発見されたマイクロプラスチック2019年6月に北海道稚内市の海岸に打ち上がったクロツチクジラの胃から発見されました。クロツチクジラは2020年に当館職員により新種として学術誌で発表され、タイプ標本は当館に保管されています。」「マイクロプラスチック」を拡大していたはずだが・・・・「海岸環境にみられるマイクロプラスチック海浜の砂に含まれるマイクロプラスチック。水面に浮遊しています。」「海洋のプラスチックごみ銚子沖の海洋に浮遊していたプラスチックごみ」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.13
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次に訪ねたのは「菌類」。「菌類の毒カビやきのこなどの菌類も毒を生産します。毒きのこの毒も、カビがつくる毒も、植物と同様に体を守ったり、その生育場所と栄養源を守ったりする(食べられないようにする)ためと考えられています。」「カビがつくる毒 マイコトキシンカビは300種類以上のマイコトキシンと呼ばれる毒を生産し、これが食品に混入すると、ヒトを含む、さまざまな生物に被害を与えます。ここでは代表的な2つの生産菌を紹介します。アフラトキシンはアスペルギルス・フラブスが生産する発がん性をもつマイコトキシンです。互いに構造が類似した、アフラトキシンBとアフラトキシンGがあり、さらにそれぞれに類似した複数の物質が知られています。ナッツや穀物のアフラトキシン汚染が有名です。フザリウム・グラミネアルムは麦類赤かび病の原因菌で、トリコテセン類と総称される、嘔吐や下痢、がんの原因となるマイコトキシンを生産します。イネやトウモロコシなどさまざまな穀物に発生します。」「アフラトキシンの生産菌」と「代表的な赤かび病菌」。「フザリウム・グラミネアルムの胞子の顕微鏡写真」。「アスペルギルス・フラブスの顕微鏡写真」。「赤カビ病菌に汚染された小麦」。この病気に感染した麦は、菌糸から分泌される色素によって、うっすらと赤みを帯びる。「正常な小麦」。そして次に「毒きのこ」。「毒きのこ毒きのこには多くの「迷信」が存在しますが、派手なきのこは毒、などは全てウソで、きのこの食毒を見分けるための万能の方法は存在しません。さらには、地球上のきのこの大半は食毒不明なのです。きのこの毒は、食べられることに対する防御なのかもしれませんが、その進化的・生態的意義は厳密には分かっていません。毒きのこの中毒症状にはさまざまなものがあるので、本コーナーでは症例に基づき以下のアイコンを展示物に使用して紹介します。」「ヒカゲシビレタケシロシビンを含む典型的な幻覚性きのこ。所々青く変色する特徴があリます。」形と色:傘 :黄土色から褐色。円錐形で中央が盛り上がって尖っている。 表面は平滑。湿時粘性がある。ひだ :紫褐色で、密である柄 :細長く中空。つばはない。肉を傷付けると青く変色する。ズームして。「ワライタケ」。「ワライタケ毒成分にシロシビンを含み、日本では所持することは法律違反となります。」「ワライタケ」という名前については、食べたとき、各種中毒症状に加えて、顔面神経が刺激されることで顔が引きつって、笑っているかのように見えるから、という説があります。形と色:傘 :径2~4cm。半球形~まんじゅう形。表面は平滑だがしばしば亀甲状にひび割れる。 淡灰褐色~黄土色を帯びた灰色。ひだ :直生、やや疎、灰色~黒褐色。柄 :細長く、長さ5~10cm、径0.2~0.3cm、表面に微粉を帯び灰色~白色。「オオワライタケ」。「オオワライタケシロシビンは含まないとされています。大型ですがとても苦く、食用にはされません。」形と色:傘 :径5~15cm。まんじゅう形から平らに開く。表面は平滑で細かい繊維紋を持つ。 色は濃黄色~明るいオレンジ褐色。ひだ :直生、やや疎、淡黄色のちにさび褐色を帯びる。柄 :長さ6~12cm。中実。普通下部にいくにつれ太くなる。上部に淡黄色のつばがある。 表面は繊維状で傘より淡色。「痙攣などベニテングタケを含むテングタケ属に多く見られ、イボテン酸やムシモールなどの毒成分によって引き起こされますそのほか、若干の精神錯乱に加え、ムスカリンを含むきのこを食べた場合には発汗や呼吸困難などの症状が出ることもあります。」「毒きのこ」の展示。「サクラタケ」。「サクラタケ大根のような匂いのする小型で可憐なきのこですが、ムスカリンを含みます。」形と色:傘 :径2~5cm。 はじめ釣り鐘型から平らに開き、最後は縁部が反り返る。 表面は平滑。湿っているときに条線をあらわす。色は白色~ばら色~帯紫白色など。ひだ :直生~上生、やや密、お互いに脈でつながり、傘とほぼ同色。柄 :長さ5~8cm、中空できゃしゃ。傘と同色。「ベニテングタケ」。「ベニテングタケ致命的な毒きのこではありませんが、複数の毒成分を含み、さまざまな中毒症状が報告されています。」形と色:傘 : 赤色で表面には多数のイボがあるが,脱落していることもある。ひだ : 白色で密である。柄 : 白色で上部にツバがある。その下はささくれ状である。「ベニテングタケ」の傘は赤色で表面には多数のイボがある。「カヤタケ」。「カヤタケ毒成分としてムスカリンを含みますが、以前は食用とされてきました。」形と色:傘 :径4~8cm。中央部がへこんだ円盤形から平らになり、さらにおちょこ形に反りる。 表面は平滑、粘性を持たず、淡赤褐色。ひだ :垂生、密、白色。柄 :長さ3~5cm、基部は白い菌糸で覆われる。「悪酔い食用きのこなのに、お酒と一緒に食べるとひどい悪酔いをする、という変わった症状です。その原因はさまざまですが、キララタケなどのヒトヨタケ類ではコプリンという成分が、アルコール分解酵素の作用を阻害することが知られています。」「キララタケ」-1。「キララタケ」-2。「キララタケ成熟すると真っ黒なインク状に溶けるきのこです。」形と色:傘 :径1~4cm。幼菌時は卵形、のちに開いて釣り鐘形。チャイム形となり、表面ははじめ 淡色粉状の鱗片に覆われるが、これは失われやすい。地の色は淡黄褐色~淡橙褐色。 中央部でやや色が濃い。中心近くから放射状の溝線を表す。ひだ :はじめ白色、のちに黒色となり液化するが、傘は開けば肉が薄く、ササクレヒトヨタケ、 ヒトヨタケのように流れ落ちる程ではない。柄 :長さ3~8cm、中空、白色「ホテイシメジ」もアルコールと一緒に食べると悪酔いする。「ホテイシメジ本種を食べた後1週間ほどは禁酒したはうが良いとされています。」形と色:傘 :径3~7cm。円盤形から平らになり、さらにおちょこ形に反りる。 表面は平滑、粘性を持たず、淡クリーム色。ひだ :垂生、やや密、傘よりやや明色。柄 :長さ3~6cm、下方で膨らむことが多い。「コガネタケ」「コガネタケ独特の匂いがあり食用とされることもありますが、多くの場合腹痛、嘔吐などを伴います。」形と色:傘 :径5~15cm。まんじゅう形から平らに開く。表面は白い地に、黄土褐色の粉状鱗片に 厚く覆われる。ひだ :上生~離生。密。黄白色、のちに黄土褐色。柄 :長さ4~18cm。堅く締まった肉質で繊維質。表面は傘と同様。 つばは大型膜質で柄の上部にある。ひだの下面は傘と同様の粉状鱗片に覆われる。「ヒメカタショウロ」。「ヒメカタショウロ本種を含むニセショウロ属のきのこは一般的に毒きのことされます。」「クロハナビラタケ」。「クロハナビラタケキクラゲのように見えますが、チャワンタケの仲間の毒きのこです。」「細胞破壊毒きのこ中毒のなかで最も致死的な症状です。主成分はアマニタトキシン類で、主にドクツルタケを中心とするテングタケ属から知られています。タンパク質の合成が阻害され、賢臓や肝臓などの細胞が破壊されていくことで死につながります。」「ドクツルタケ」。「ドクツルタケ毒成分はアマニタトキシン類と総称され、タマゴテングタケなど複数種から知られています。」形と色:傘 :卵形~円錐形,のち中高の平らに開く。白色で、表面は平滑、湿時粘性がある。ひだ :白色で、やや密。柄 :白色で上部にはつばが付き、つばの下はささくれに覆れている。根もとは(基部)には 袋状のつぼの名残がある。「ウツロイイグチ」。「ウツロイイグチ毒成分はボラフィニン。牛が食べて死亡した例が報告されています。」形と色:傘 :饅頭形→扁平→浅杯形。表面は帯赤褐色~暗褐色、のち帯黄褐色で無毛平滑。 湿時は弱い粘性を帯びる。ひだ :白色。空気に触れても変色しない。柄 :太さ1 ~ 2cmで上下ほ(ま同径。表面はやや微粉状~ヒロード状で、頂部および墓部は白色、 その他は暗褐色~褐色で白色の条線がある。 「コレラタケ(ドクアジロガサ)」。「コレラタケ(ドクアジロガサ)小型のきのこですが、毒成分や中毒症状はドクツルタケと同様の猛毒きのこです。」「コレラタケ(ドクアジロガサ)」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.12
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「ズグロモリモズの展示」「伝説の毒鳥「鴆(ちん)」!?ズグロモリモズ1992年、パプアニューギニア産の鳥ズグロモリモズが、羽や皮膚にバトラコトキシン類の毒をもっことが見い出されました。この毒は、餌とするジョウカイモドキ科の昆虫に由来する神経毒です。ところで、中国の歴史書には「鴆」という羽に毒をもった鳥が記載されており、長く空想上の生物と考えられてきました。この鳥が鴆なのか、興味がもたれます。」「ズグロモリモズ」。「ズグロモリモズ頭部と胸部の羽毛や皮膚に特に高濃度で毒素が含まれます。」「ジョウカイモドキ本標本は実際にズグロモリモズが生息地で捕食している種とは異なリますが、ポルネオ島産の近縁種です。」大きな虫眼鏡が手前に。虫眼鏡越しに・・・・??。これであっただろうか?ネットより。「実は珍しい」!毒をもつ哺乳類有毒な哺乳類は数種しか知られていませんが、カモノハシ(単孔類)、スローロリス(霊長類)、ソレノドン(トガリネズミの仲間)など系統的には多岐にわたります。スローロリスは肘にある腺からの分泌液を舐め、唾液と混ぜて毒液を作り、体に塗ったり天敵に咬み付いたりして使います。ソレノドンは毒を含んだ唾液を分泌し、咬み付くことで相手に注入します。」「ベンガルスローロリス」。「カモノハシ」。「カモノハシオスの後肢には発達した蹴爪があり、脚基腺(毒腺)につながっています。」「海洋の有毒植物海洋には少なくとも3万種前後の有毒動物がいます。クラゲやイソギンチャクなとの刺胞動物は、全ての種が喇胞と呼ばれる毒の注入装置をもっています。毒銛を使って狩りを行うイモガイ類(軟体動物)や全身に毒の棘をもつオニヒトデ(棘皮動物)、魚類で最強の刺毒をもっオニダルマオコゼなと、実に多様な有毒種がいます。」「イモガイ類の毒銛(どくもり)イモガイ類は肉食性であり、歯舌歯を変化させた毒銛を使って狩りをします。イモガイ類の毒銛の形状や毒の成分は、餌の種類(魚や貝、ゴカイ類、ウミケムシ類)に合わせて実に多様化しています。」左に「アンボイナ」「アンボイナ魚食性。歯舌歯のカエシが非常に小さい。強毒。」右に「ニシキミナシ、ミカドミナシ、タガヤサンミナシ」「アカエイ尾棘が有毒。」近づいて。「アカエイ尾棘全長60cmの個体の尾棘」「ゴンズイ背鰭棘の拡大模型(約20倍)CTスキャンデータによる精密拡大模型」「ゴンズイ背鰭と胸鰭の棘および粘液が有毒」。ズームして。「ゴンズイ背鰭棘全長20cmの個体の背鰭棘」「ゴンズイ有毒部位背鰭棘、胸鰭棘、体の粘液が出る場所」「ゴンズイ背鰭棘(せびれきょく)全長20cmの個体の背鰭棘」「オニダルマオコゼ」「オニダルマオコゼ背鰭と腹鰭、臀鰭の棘が有毒。魚類で最強の刺毒をもつ種」「オニダルマオコゼ背鰭棘全長25cmの個体の背鰭棘。」「オニダルマオコゼ背鰭棘の拡大模型(約10倍)CTスキャンデータによる精密拡大模型。溝には毒腺があります。」「オニダルマオコゼ有毒部位背鰭棘、腹鰭棘、臀鰭棘」。「ミノカサゴ」。「ミノカサゴ背鰭と腹鰭、臀鰭の棘が有毒」「ミノカサゴ背鰭棘全長26cmの個体の背鰭棘」ズームして。「ミノカサゴ背鰭棘の拡大模型(約10倍)CTスキャンデータによる精密拡大模型。溝には毒腺があります。」「ミノカサゴ有毒部位背鰭棘、腹鰭棘、臀鰭棘」「ハコフグ体表粘液には魚に効く神経毒があります。」「オニヒトデ棘に毒腺があり猛毒をもちます。」「海岸で見られる有毒動物」の展示。「海岸で見られる有毒動物ガンガゼ 毒をもつ棘は長くて鋭く刺さリやすい。トックリガンガゼモドキ 短い方の棘は抜けにくく有毒スベスベマンジュウガニ 体内にフグ毒などをもちます。ウモレオウギガニ 体内にフグ毒などをもちます。クサフグ 体内にフグ毒などをもちます。ハオコゼ 背鰭と腹鰭、臀鰭が有毒。ヒョウモンダコ 唾液腺にフグ毒を含みます。ゴンズイ 背鰭と胸鰭の棘および粘液が有毒。」「ガンガゼ」。「カツオノエボシ」と「ハブクラゲ」。「カツオノエボシ」刺されると強烈に痛むことから、電気クラゲの別名が生まれるほどの猛毒をもつ。なお、その針は魚を刺し、毒で麻痺させて食べるために使われるものだが、誤って接触し、刺されたヒトの死亡例もある。「ハブクラゲ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.11
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「有毒爬虫類爬虫類の毒は唾液腺がもとになった毒腺から分泌され、毒牙を介して相手に注入されます。タンパク質が主成分で、血液や組織を破壊する毒や筋肉を麻痺させる神経毒などを含みます。毒をもつのはヘビ類の一部(クサリへピ科、コプラ科、ナミへピ科の一部など)とトカゲ類のドクトカゲ科とオオトカゲ科で、世界最大のトカゲ、コモドオオトカゲも有毒爬虫類の1種です。」「キングコブラ」と奥に「コモドオオトカゲ」。「キングコブラ(全身骨格)」。「キングコブラ(全身骨格)世界最大の毒ヘビ。毒液には神経毒や細胞毒が含まれ、一咬みの毒の量が非常に多いです。」近づいて。「キングコブラ」「有毒爬虫類の起源毒腺と毒牙をもつ複雑な爬虫類の毒の進化を説明する有力な学説の1つに「有毒類仮説」があります。この説はヘビ類と有毒トカゲが近縁であることが根拠となっており、毒がこれらの共通の祖先の段階で進化した特徴であるとしています。」「ヘビと有毒トカゲが親戚」「ヘビ毒の分類ヘビ毒は人々の生活とのかかわりの深さや被害の深刻もあって盛んに研究され、その作用により神経毒や出血毒などのタイプに分類されています。1種類のヘビが複数のタイプの毒成分をもっているのが普通です。」「代表的なヘビ毒の分類」「ニホンマムシ」。「ガボンアダーアフリカ最大のクサリへビ。大きな体では、毒牙は長さ5cmに達します。」「ブラックマンバ」。「ブラックマンバアフリカで最も恐れられている毒ヘビの1種。強力かつ即効性の高い神経毒をもちます。」「タイワンアマガサ毒液は神経毒のみが含まれ、咬まれても痛みはほとんどありませんが、徐々に全身の筋肉が麻痺して死に至ります。」「アズマヒキガエルを捕食するヤマカガシ」。近づいて。「アズマヒキガエルを捕食するヤマカガシヤマカガシはヒキガエル類がもつ神経毒に耐性があるため、むしろ好んで捕食します。」「ヒキガエルの毒とヤマカガシヤマカガシはロの毒腺と毒牙に血液毒を持ちますが、頸部の皮下にある腺(頸腺)にも、捕食したヒキガエルから吸収した神経毒(プファジェノライド)を蓄積しています。ヤマカガシはこの神経毒に耐性をもっており、頸腺毒は天敵からの防御に使われます。」「ヤマカガシはロの毒腺と背中の頸腺に全く異なる2種類の毒をもつ」「頸腺を剖出したヤマカガシ頸部の皮下に2列に並んだ類腺の列があり、ヒキガ工ルから吸収した毒を蓄積しています。」「有毒両生類両生類では多くの種が防御のために毒をもっています。ヒキガェルやイモリの仲間が有名で、アルカロイドなどの神経毒をもつものがほとんどです。ヤドクガェルの仲間は特に強力な毒(バトラコトキシン)をもち、1匹のカエルの毒が10人分の致死量になる種もいます。この毒は餌となる無脊椎動物から摂取していると考えられています。」「コモドオオトカゲ」。「コモドオオトカゲ唾液に血液凝固阻害や血圧低下を引き起こす成分を含みます。」近づいて。「メキシコドクトカゲ」「メキシコドクトカゲ唾液に痛みや血圧・血糖値の低下を引き起こす成分を含みます。」「メキシコドクトカゲ頭骨の拡大模型(約3倍)」。「メキシコドクトカゲ頭骨の拡大模型(約3倍)歯の前面には毒を効率よく送り込むための溝がついています。CTスキャンデータを用いた精密拡大模型。」ズームして。「アカハライモリ背面は地味な保護色で、腹面は毒をアピールする赤色になっています。」防御姿勢をとるアカハライモリ(腹面の警告色を見せている)。「ヤマトガエルの仲間」左からマネシヤドクガエル、アイゾメヤドクガエル、メグミヤドクガエル」。「マネシヤドクガエル」。「アズマヒキガエル東日本で一般的なヒキガ工ルの仲間。耳腺や背中の皮膚から白い毒液を分泌します。」「オオヒキガエル南米原産で、耳の後ろに発達した大型の耳腺(毒腺)をもちます。」「毒棘で刺すカエル毒をもつカエルでは、毒素を含む粘液を分泌して身を守るものがほとんとです。しかし南米産の2種類のカエル、ブルーノイシアタマガエルとドクイシアタマガエルだけは、頭部に発達した毒棘を突き刺すことで天敵から身を守る変わった生態で知られています。」ブルーノイシアタマガエルは鼻先の皮下に毒物をもち、天敵には頭突きで毒を注入する。「ブルーノイシアタマガエルの頭骨の拡大模型(約9倍)鼻先に多数の棘をもちます。毒の強さは南米産ヤジリハブ属の毒ヘビの約25倍です。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.10
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「動物の毒のいろいろ地球上には20万種を超える有毒動物がいます。これらの有毒動物には、身を守るだけでなく、獲物を捕らえるために毒を用いるものもいます。有毒動物の毒の成分や毒牙・針なとの毒の注入器は、その用途に応じて、多様に、そして巧妙に進化してきました。」「ハチ類 セグロアシナガバチ腹部末端に有する毒針を使って毒を注入します。毒針は出し入れすることができ、通常時は体内に隠されています。」「キバハリアリ属の1種アリはハチ目アリ科に属する昆虫であリ、ハチと同様に腹部末端に毒針を有する種も知られています。」「サシガメ類 ヨコヅナサシガメロ器は針状の口吻で、これを突き刺して消化酵素を含む唾液を送り込みます。人を刺すこともあります。」「クモ類 オオツチグモ科の1種(アメリカ大陸産タランチュラ)牙状の鋏角(きょうかく)から毒液を注入するほか、アメリカ大陸産の種は体にまとう有毒の刺激毛を飛ばします。輸入バナナに付着していた個体」近づいて。「クモ類(日本産①イトグモ②カバキクモチグモ日本に生息する有毒なクモ類。イトグモは近年有毒性が認識された種で、鋏角から注入される毒は皮膚壊死を引き起こします。」「”毒虫”人を咬んだり刺したりして、皮膚のかゆみやかぶれ、痛みなどを引き起こす生物をまとめて「毒虫」と呼ぶことがあります。ハチや毛虫といった有毒の昆虫のほか、ムカデやクモ、マダニやサソリのような節足動物がこれに含まれます。ひとくちに毒虫といっても毒を送り込むための体のつくりはそれぞれに異なっています。」「マダ二類 シュルツェマダニ針状の鋏角を皮膚に突き刺して吸血します。唾液には麻酔成分が含まれます。」「吸血昆虫類①ウシアブ②ヒトスジシマカ③ネコノミ尖ったロ器で皮膚を切り裂き、あるいは突き刺し、吸血します。唾液はアレルギーによるかゆみを引き起こします。」「毒虫ではない虫①ハサミムシの1種②ハナアブの1種サソリなとを連想させるハサミムシやハチとよく似たハナアブなど、見た目だけで有毒生物と間違われている虫もいます。」「コウチュウ類①マメハンミョウ②アオバアリガタハネカクシ体液にはカンタリジン、ペデリンなどの有毒成分が含まれ、皮膚に付着すると皮膚炎を生じます。」「ドクガ類 ゴマフリドクガ幼虫は激しいかゆみを起こす毒針毛をもちます。成虫(①)はこの毛を引き継ぎ、卵(②)にも毒針毛を付着させます。」レンズを通して。「イラガ類①ヒメクロイラガの幼虫②イラガの繭③クロシタアオイラガの成虫幼虫は電撃的な痛みを引き起こす毒棘をまとって身を守ります。蛹や成虫には毒棘がありません。」「サソリ類 キョクトウサソリ科の1種後腹部(尾部)末端の鉤状の毒針を突き刺し、毒液を注入します。」ズームして。「ムカデ類 トビズムカデ牙状に発達した顎肢(がくし)で咬みつき、セロトニンやヒスタミンを含む毒液を注入します。」「トビズムカデ」をズームして。「ヴェノム・トキシン・ポイズン日本語の「毒」にあたる英語は3つあります。動物が生産して、咬んだり刺したりすることによって体内に注入されるのはヴェノム(venom)と呼ばれ、そのために毒腺という器官をもつものもあります。トキシン(toxin)は、主に生物の毒を指します。ポイズン(poison)は最も広い概念で、毒性があるものの例えとして比喩的にも用いられます。」「ハチ毒ハチの毒は「毒のカクテル」とも呼ばれます。その毒液には痛みや腫れを引き起こすアミン類、細胞の破壊やアレルギーを引き起こす酵素類や低分子ペプチドが含まれますスズメバチ類の毒液には激痛を引き起こすハチ毒キニンが含まれ、最大の種であるオオスズメバチからはマングラトキシンという神経毒も見つかっています。」「スズメバチ類」。「スズメバチ類①コガタスズメバチ②チャイロスズメバチ③ツマグロスズメバチ④キイロスズメバチ⑤クロスズメバチ⑥キオビクロスズメバチ⑦モンスズメバチ⑧オオスズメバチ(日本産)⑨オオスズメバチ(東南アジア産)⑩ネッタイヒメスズメバチ(フイリピン産)⑪ヒメスズメバチ⑫ネッタイヒメスズメバチ(ネパール産)」「アナフィラキシーショックハチ毒はときに命に関わるほとのアレルギー反応(アナフィラキシーショック)を引き起こします。ハチはむやみにヒトを刺しません。しかし、最も遭遇しやすい有毒生物の1つです。複数回刺されることでその危険性が高まるとされています。」「シュミット指数」。「シュミット指数どのハチに刺されるのが一番痛いのか。自らハチに刺されてみることで痛みを数値化し、比較可能としたものがシュミット指数です。考案者のジャスティン・シュミット博士(1947- )はこの研究で「人々を笑わせ考えさせた研究」に対して贈られるイグノーベル賞を2015年に受賞しています。ここではシュミット指数のレベル別にハチを紹介します。」「ちなみに共同受賞したマイケル・スミス博士によると、刺されて一番痛い場所は「鼻の穴」らしいです。」『LV.1カッと熱くなるような鋭い痛み。まろやかなハヴァテイチーズだと思って食べたら、極辛のハラベーニョ入りチーズだったような』。「ハニービー」『LV.2焼かれるような、蝕まれるような痛みだが、どうにか耐えられる。燃えたマッチ棒が落ちてきてやけどした腕に、まず苛性ソーダをかけ、次に硫酸をかけたような』「カウキラー」『LV.3ガーンと来た爆発的な痛みが延々と続き、気が狂ったような叫び声を上げることになる。高温の油が鍋からこぼれて手全体にかかってしまったような』「タランチュラホーク」。『LV.4目がくらむほど凄まじい電撃的な痛み。泡風呂に入浴中、通電しているヘアドライヤーを浴槽に投げ込まれて感電したみたいだ』「マッドドーバー」「フグ毒の作用の仕組みフグ毒(テトロドトキシン: TTX )は、神経伝達に関わるナトリウムチャネルに結合し、神経伝達を阻害します。ヒトが摂取するとしびれ、麻痺なとの症状が発生し、重度の場合には呼吸困難によって死に至ります。フグ自身は、フグ毒が結合しにくいナトリウムチャネルをもっており、中毒死することはありません。」「フグ毒(TTX)の作用の模式図フグが持つ毒は、1900年代初頭に日本を中心として研究が始まり、テトロドトキシンと命名されました。人が間違って食べ、体内にテトロドトキシンを入れてしまうと、しびれや麻痺、運動不能、言語障害、呼吸困難などの症状が出て、最悪死に至ります。ヒトに対する最低致死量は2mg程度とされており、これは小さじ1杯(5000mg=5g)で2500人もの人を死に至らしめる可能性があるほどの猛毒です。ヒトを含めた動物の神経は、ナトリウムやカリウムのイオンを取り入れたり取り入れなかったりすることで信号を送っています。テトロドトキシンは、そんなナトリウムイオンの通り道であるチャネルにくっつくことで、正常に働けない状態にしてしまいます。そのため、上記に書いたような神経系の症状が出てくるのです。」そしてNaチャンネルは神経伝達を担う基本分子であるから、当然フグの神経や筋肉組織にも存在する。にもかかわらず、「フグはなぜ自分のフグ毒に中毒しないのか」👈リンク。この問いに対する現時点での有力な答えは、次の2つであろうと。第一は、Naチャンネルの分子構造がTTX感受性を示す他の動物とは異なっているとする考えであり、第二は、フグにはTTXと結合することによってその毒作用の発現を抑えるタンパク質が存在するとの考えであるとのこと。いろいろな「フグ」。「トラフグ」。「ヒガンフグ」。「シロサバフグ日本周辺の個体は無毒」。「フグはフグ毒が大好き」。「フグはフグ毒が大好きフグはテトロドトキシン(TTX)と一緒に存在することが多いTTX類縁体、を嗅ぎ分けることで、TTXをもっ餌を積極的に食べることが研究で明らかにされました。嗅覚を阻害すると餌の選択性も失われます」右は「クサフグ」(開腹)そして中央奥に説明図。左は「オオツノヒラムシ」。「オオツノヒラムシフグ毒をもちます。クサフグなどによく食べられることが研究で明らかにされています。」テトロドトキシン(TTX)はフグ毒といわれるが、フグの体内で作られるわけではなく、海底の細菌によって作られたものが食物連鎖によって濃縮されたものであり、その証拠に、問題の細菌を含まない海水を用いて人工の餌で育てた養殖フグにはテトロド トキシンは含まれていないとのことを再学習したのであった。しかし、この養殖方法は、完全に無毒化できると確立されたものではないので、残念ながら実用に至っていないのだとも。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.09
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さらに「植物の毒のいろいろ」の展示を追いかける。「根・茎・葉を守る植物にとって根・茎・葉は、体を支え、栄養分を作る大事な器官なので、棘などの物理的な方法やさまざまな毒で守ろうとします。ヒガンバナの鱗茎にはリコリン、ジャガイモに生じる新芽にはソラニンという毒性アルカロイドが蓄積されます。多くの植物で特に根に毒が多いのですが、たいてい葉や茎などにも同様の成分が含まれます。国内の食中毒で被害人数が最も多いのは実はジャガイモですが、理科の授業で栽培・収穫したものを学校で調理したこによる集団食中毒が多いのが要因です。」「日本における過去50年間の種子植物による食中毒」「ジャガイモの新芽」。「ジャガイモの新芽新芽を食害から守るたジャガイモはその部位にソラニンという毒を蓄積します。日に当たって、緑色になった部分にもあります。」「ザクロ」。「ザクロ(樹皮と根)古くから栽培されていますが、樹皮や根は有毒で殺虫剤に使われます。」「ウルシ」「ウルシ樹液は漆器の原料となりますが、皮膚につくと炎症を起こします。マンゴーやビスタチオもウルシ科で、人によってはかぶれることがあります。」「クワズイモ」。「クワズイモの根茎誤食するとシュウ酸カルシウムの針状結晶によって炎症を起こします。サトイモとの誤認や混入にも注意。」「ヒガンバナ」。「ヒガンバナ全草、特に地下部が有毒。誤食すると嘔吐、下痢のほか、ひどいと中枢神経が麻痺します。」「花・果実・種子を守る生殖器官である花や果実は、植物が最も守りたい代表的な部位です。レンゲツツジは花の蜜にツツジ科特有の毒成分グラヤノトキシンを含み、吸うと嘔吐や目眩、視覚異常などの症状を起こして中毒します。インゲンマメには、嘔吐や下痢を起こす毒成分が含まれるため、よく加熱して食べることが必要です。モロヘイヤやビワの種子にも毒があります。」「レンゲツツジの花」と「ハッショウマメの産毛状の棘」。「ソテツの種子」。「ソテツの種子種子に強い毒性があります。乾燥したものは「蘇鉄実」という生薬として、鎮咳、健胃薬なりますが、専門医の処方が必要です。」「ビワの果実」。「ビワの果実未熟な果実にはウメなどと同じアミダリンという成分があり、食べる部分も毒性をもちます。」「ビワの種子」。「ビワの種子熟すと食べる部分には毒性はなくなりますが、種子には毒性があります。」「インゲンマメの果実」。「インゲンマメの果実熟した豆は十分に火を通さないと中毒します。サヤインゲンも良く火を通す必要があります。」「モロヘイヤの種子」。「モロヘイヤの種子種子は熟すと有毒になります。飼料に混入した種子を食べた牛が死亡した例もあります。」「ハッショウマメ(ムクナ属)の果実」。「ハッショウマメ(ムクナ属)の果実果実は無数の剛毛で覆われていますが、この毛にはムクナインという酵素が含まれ、皮膚に作用して炎症を起こさせます。」「ムクナ属の1種」。「ムクナ属の1種ミャンマー産ムクナ属の1種。果実の毛に触れると炎症を起こします。」「アリストロキア・クレマティティス」。「アリストロキア・クレマティティスの種子」「パンコムギ」。「パンコムギの種子」。「ウマノスズクサとバルカン腎症ヨーロッパ東南部のバルカン半島のドナウ川流域の農家などには地域的に発生する腎疾患や尿路がんがあり、バルカン腎症と呼ばれています。原因は、この一帯に広がる小麦畑の周辺に自生するウマノスズクサ科のアリストロキア・クレマティティスの種子が収穫された小麦に混入し、その種子に含まれる毒性物質のアリストロキア酸が小麦粉に混入するためだと考えられています。」「ウマノスズクサ」をネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.08
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「第2章 毒の博物館この世界には、どんな毒があるのでしよう?本章では自然界に存在するさまざまな毒と、毒をもった生物を紹介します生物が毒をもっ主な理由は、「身を守るため」と「攻撃のため」と考えられます。生物以外の世界にも毒は存在します。また、人間が作った毒もあります。さあ、毒の多様な世界を探検してみましよう。」「攻めるための毒体長数mの巨大なヘビから体長数cmの小さな昆虫まで、動物には獲物を捕らえるために毒を使うものが数多く知られています。毒を使えば、俊敏な獲物や自身より大きく力強い獲物も容易に仕留めることが可能となります。毒の力を最大限発揮できるよう、毒を送り込むための注入器、そして毒液の成分がそれぞれに進化してきました。」毒を持つ巨大な生物模型は圧巻であった。近づいて。反対側に廻って。空からはオオスズメバチが狙っています。40倍のオオスズメバチの模型。針がすごい!これでもかとズーム。約30倍のハブの頭部模型(攻撃時)。大人も丸呑みされそうなほど大きな口、そして毒牙がすごい!「ハブの毒牙の拡大模型(約30倍)。注射針のように根元と先端に穴が開いた管状になっています。」本展には拡大模型がたくさんあり、監修統括の細矢剛先生は「3Dプリンタで新たに作成したモデルがたくさんあります。拡大してはっきりわかったこともありました」と。実物大のハブの姿。別の角度から。「ハブ長い毒牙は普段は後ろ向きに倒して収納され、口を開けると立ち上がります。」「ハブ頭部の解剖拡大模型(約6倍)」。「ハブ頭部の解剖拡大模型(約6倍)頭部の左右後方にある毒(唾液腺が変化したもの)で毒液を合成し、それを管を介して前方にある毒牙に送ります。次にあったのが「イラガの幼虫の拡大模型 (約100倍)」正面から。横から。ズームして。その後ろにあったのが「セイヨウイラクサの茎の拡大模型(約70倍)」。「セイヨウイラクサの茎の拡大模型(約70倍)セイヨウイラクサの茎葉には、毒成分を含んだ針状の棘(刺毛)がたくさん生えています。」「イラガの幼虫の拡大模型 (約100倍)」体を覆う毒棘で身を守ります。「イラクサイラクサの茎にある鋭い棘には、アレルギー反応を起こすとヒスタミンや神経伝達物質のアセチルコリンが含まれ、刺されると神経が刺激されるため痛みを感じます。また、ヒスタミンにより蕁麻疹(じんましん)を発症することもあります。」「セイヨウイラクサの標本若い葉や葉を食べる昆虫が通る葉柄には特に多く生えています。」「守るための毒動きが遅い動物や、動いて逃げることができない植物には、外敵から身を守るさまざまな方法があります。サボテンなどの鋭い棘など、棘があることによって触れられないようにするなどの物理的な方法に加え棘から毒性のある化学物質を注入し、食べられないように防御するものもあります。」「シュウ酸カルシウムサトイモ科植物の細胞にはシュウ酸カルシウムー水和物の針状結晶がたくさん含まれています。食べるとこれがロの中なとに刺さって炎症を起こします。また、この結品はタンパク質分解酵素と共存することにより耐虫害効果が高まります。この結晶は、植物体内でしか生成されず現在のところ人工的に合成することはできません。」「植物の毒のいろいろ植物はタンニン、シュウ酸カルシウム、アルカロイドや精油成分なとさまざまな毒性のある防御物質を生産して植物を食べる外敵から身を守っています。これらの防御物質は植物の成長、生殖や発生などとは関係がない物質で、ニ次代謝産物と呼ばれます。」「鷹の爪」。「俗に「鷹の爪」と呼ばれるトウガラシ属の植物にはカプサイシンが含まれ、痛覚神経を刺激します。これが辛味の原因ですが、カプサイシンに反応する神経はロの中ばかりに分布するわけではないので、熱さや痛みとしても感じます。」「日本の三大有毒植物日本列島は、植物の種類が豊富な地域として知られています。そのなかには、有毒な植物も多く自生しています。なかでもキンボウゲ科のトリカブト類、ドクウツギ科のドクウツギ、そしてセリ科のドクゼリは、日本産植物で最も毒性が強いことなどから日本の三大有毒植物として知られています。トリカプトを誤食すると手足のしびれ、嘔吐、痙攣(けいれん)などを、ドクウツギは重症の場合、全身麻痺を引き起こします。ドクゼリは目眩、呼吸困難などの症状が出ます。いずれも死に至る場合があります。」「日本の三大有毒植物」。「ドクゼリ」。ズームして。「ドクゼリ全草に神経毒を含んでいます。生育地には食用のセリも混在するため注意が必要です。」「和漢三才図会」。「寺島良安により江戸時代中期に編纂された日本の類書(百科事典)。正徳2年(1712年)成立。編集者は大坂の医師寺島良安で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭されたことが編集の動機であった。明の王圻による類書『三才図会』を範とした絵入りの百科事典で、約30年余りかけて編纂された。全体は105巻81冊に及ぶ膨大なもので、各項目には和漢の事象を天(1-6巻)、人(7-54巻)、地(55-105巻)の三部(三才)に分けて並べて考証し、図(挿絵、古地図[2])を添えた。各項目は漢名と和名で表記され、本文は漢文で解説されている。木版による印刷で版元は大坂杏林堂。空想上のものや、荒唐無稽な項目もあるが、博物学などにとり貴重な文化遺産といえる。後世の博物学者南方熊楠は、全巻を筆写したという。」とウィキペディアより。「和漢三才図会江戸中期の類書で、毒草を扱った95巻にはトリカブトも紹介されています。」「ツクバトリカブト」。「ツクバトリカブト全草、特に根に猛毒があり、誤食すると死に至ることもありますが、「附子」という重要な漢方薬になります。」「ドクウツギ」。ズームして。「ドクウツギ全草、特に果実が猛毒で、誤食すると重症の場合には死に至ることもあります。」「イヌサフラン」。「イヌサフラン全草にアルカロイドを含み有毒。葉をギボウシやギョウジャニンニクと誤認して中毒する例が起きています。」「イヌサフランの球根球根はタマネギと間違えて中毒した例が報告されています。」「ゲルセミウム・エレガンス」。「ゲルセミウム・エレガンス中国では「冶葛」「胡蔓藤」「胡満蔃」「鈎吻」と言い、奈良時代に日本へ伝わり正倉院にも保管されています。」「マチンの1種ストリクノス・ヌクスブランダの果実」。ストリクノス・ヌクスブランダも東南アジアに分布し、マチンと同様の成分を含んでいます。」「マチン」。「マチン別名ストリキニーネノキ。この標本は、ミャンマー半島部で採集されたものです。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.07
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「上野恩賜公園」の散策を終え、国立科学博物館・特別展『毒』のへの入館の為、予約時間の15時前にに向かう。左前方に「国立科学博物館」が姿を現した。「国立科学博物館」案内図。手前に本館・1号館、「日本館」と呼ばれている。「日本列島の自然と私たち」がテーマ。2007年4月17日にリニューアルオープン。展示エリアは地上3階、地上2階、地上1階、地下1階。奥に「地球館」。「地球生命史と人類」がテーマ。展示エリアは地上3階、地下3階。1998年に第1期工事完了。翌年4月24日から常設展示公開。第2期工事完了後の2004年11月2日にグランドオープン。2014年9月から北側展示場の改装工事を開始し、翌年工事が終わり7月14日にグランドオープンした。屋外展示の「シロナガスクジラ実物大模型 」。昭和30年に初代のナガスクジラが置かれて、現在は平成6年(1994年3月〜)に置かれた3代目のシロナガスクジラとなっている。2代目のクジラは、今より少し小さいザトウクジラという種類0。この実物大の模型は、体長30メートル、体重約150トンのメスの大人のシロナガスクジラが、海面での深呼吸を終えて急速に深く潜ろうとしているところ。1994年に製作され、現在3代目にあたる同シロナガスクジラは地球上に生息する最大の動物で、英語ではブルーホエールと呼ばれている。20世紀初めには20万頭以上いたといわれているが、1966年に捕獲が禁止されるまでに激減し、今では1万頭程度といわれている。開館時間は9時~17時(金曜は20時まで)。月曜休館。シロナガスクジラは常時閲覧できる。「旧東京科学博物館本館は、東京博物館の震災復興施設として建設され、昭和6年9月に竣工した。設計は文部省大臣官房建築課で、文部技師糟谷謙三が担当した。本館は飛行機型の平面をもち、構造は、鉄筋コンクリート造を基本とし、地上3階、一部4階、地下1階建である。内部には、展示室のほか、映写室付きの講堂や赤道儀室を備えており、我が国最初の本格的な社会教育施設としての博物館建築として、高い歴史的価値がある。また均整のとれた立面構成とともに、中央広間・貴賓室・館長室・講堂など室内意匠の密度も高く、震災復興期における文部省営繕の設計水準を示す建築作品として重要である。」現在に日本館は1931開館鉄筋コンクリート造一部鉄骨鉄筋コンクリート造、建築面積一九四九・四六平方メートル、地上三階地下一階建、正面中央塔屋及び屋上赤道儀室付、正面車寄附属東京都台東区上野公園7番20号重文指定年月日:2008.06.09独立行政法人国立科学博物館重要文化財上空からの写真をネットから。上空から見ると飛行機の形をしているのだと。理由としては、昭和6年(1931年)、当時の科学技術の象徴であった飛行機型のデザインを採用したと。屋外展示の「D51形蒸気機関車」。1939年(昭和14年)に製造され、1975年(昭和50年)まで走行していた。わが国の代表的貨物列車用蒸気機関車で1,115両造られた と。「D51231」と書かれた銘板。D51型蒸気機関車は、おもに貨物用として昭和11年より製造されましたが、そのすぐれた性能から日本国有鉄道で当時もっとも多く使われ、デゴイチの愛称で人びとに親しまれました。この231号は昭和14年7月に日本国有鉄道長野工場で製作されてから、東海道本線・山陰本線・その他で活躍し、昭和50年12月15日北海道追分機関区で休車するまで約216万km(地球を約54周)を走行しました。車軸配置1D1最長長19,730mm最大巾2,936mm最大高3,980mm動輪直径1,400mm機関車重量(運転整備)78.37ton炭水車重量(運転整備)47,40tonシリンダー(直径×行程)550mm×600mm最大動輪周馬力1,280馬力最大運転速度時速85km大煙管(直径×長さ×本数)140mm×5,500mm×28本小煙管(直径×長さ×本数)57mm×5,500mm×90本小タンク容量20m3燃料積載量8ton特別展「毒」券売所。私は既に、ネットで購入済みであったので、ここは通過。特別展「毒」券売所。そしてここで、スマホの予約済み「QRコード」を提示。「ART PASS」。そして特別展入口へ。特別展入口。特別展 毒(POISON)のポスター。2022.11.1~2023.2.19開催と。音声ガイドは600円でレンタル可能と。「会場内は写真撮影 OK!写真を撮ってSNSでシェアしよう」と。今回「鷹の爪団」👈リンクは、特別展「毒」を応援する”チーム毒”メンバーとして、世界征服に使えそうな毒を探索するついでに、展覧会会場内のあちこちに登場している と。「秘密結社鷹の爪とは千代田区麹町のとあるアパートをアジトとして、世界征服を虎視眈々と狙う秘密結社。でも、ほかに本気で世界征服を狙う集団があると、対抗して正義の集団になってしまう場合もある。リーダーの総統、部下で戦聞主任の吉田くん、雇われマッドサイエンティストのレオナルド博士、戦聞員のフィリプ、菩薩峠くんから構成される。今回の特別展では、世界征服に使えそうな毒を探索するついでに、展覧会のナビゲーターを務めてくれる。」「QuizKnockからの挑戦状QuizKnock(クイズノック)は、東大クイズ王・伊沢拓司が中心となって運営する、エンタメと知を融合させたメディアです「楽しいから始まる学び」をコンセプトに、何かを「知る」きっかけとなるような記事や動画を毎日発信中。会場マップの裏面にある、第にまつわるクイズに挑戦してみよう!※一部展示にないクイズもあります。」展示を見ながら解けるので、子どもたちはぜひ「QuizKnockからの挑戦状」をやってみよう!「お子さんとって展示は文字が多いと感じられるかもしれませんが、クイズの答えを探すという目線になると、たとえばあまり興味のなかった植物にも興味を持ってもらえるかもしれません。興味喚起の補助として使っていただき、特別展「毒」のおもしろさをクイズを通しても感じていただければと思います」と伊沢拓司さん。「展示構成第1章 毒の世界へようこそ第2章 毒の博物館第3章 毒と進化第4章 毒と人間終章 毒とはうまくつきあおう「会場マップ」。そして展示コーナーへ「第1章 毒の世界へようこそ毒ってちょっと怖いですね。しかし、だからこそ興味をそそるのでしょう。ちょうどお化け屋敷に興味がそそられるように。でも、そもそも、毒って何でしょう。どうして自然界には毒があるのでしよう?まず、身近なところから毒を考えてみましよう。」「毒の定義本展覧会では、ヒトを含む生物に害を与える物質を毒と定義します。通常では毒とならないもの(例:酸素)も、取りすぎれば毒になるため、毒として扱う場合があります。また、アレルギー物質など反応に差異があるものも毒としますが、最後には皆さん自身で毒とは何かを考えてみてください。」「生活のなかの毒」。「生活のなかの毒言いすぎかもしれませんが、私たちは毒に囲まれて生活しています。このイラストには、室内空間や身近な野外で私たちが出会いそうな毒を示しています。どんな毒になるか考えてみてください。この展覧会の最後に紹介します。」このイラストには、室内空間や身近な野外で私たちが出会いそうな毒を示しています。「ウイルスは毒?ウイルスは、遺伝情報を含む核酸がタンパクの殻に囲まれた粒子です。遺伝子をもつのは生物的な特徴ですが、細胞がなく、単独では増殖できないため、生物とはみなされません。ウイルスは、自分の核酸を宿主細胞に注入し、その細胞のカで自分自身を複製します。そして、宿主細胞を破壊して出てきます。これによって、宿主細胞が障害を受けます。これがウイルスの毒性の本質で、ウイルスが毒物質を作るわけではないため、この展覧会では毒として扱いません。」■コロナウィルスの構造 👈リンク■ウイルスの増殖 ウイルスは、宿主に自身の核酸(DNAやRNA)を送リ込み、宿主のシステムを利用して 自分の複製を作って増殖します。 この図は、コロナウイルスのバターンを中心に、ウイルスの増殖を高度に単純化して 示したもので、実際の増殖のしくみはこの図よりもはるかに複雑です。「毒の作用と症状毒の作用は多様で、整理(分類)するのは簡単ではありません。ここでは、毒を代表的な作用によって分類しました。しかし、これ以外にも成分の化学構造や効果の出る速さなど、いろいろな分類の方法があります。」「毒の作用と症状」「正常な止血血管が傷つくとフィブリンと血小板によって傷が塞がれ、血が止まる」1)一次止血血管が破れると血管の収縮が起こり、傷口を小さくします。次に血液中にある血小板が傷口に集まってきて、VWFを仲介して傷口と結合し、血小板による血栓(けっせん)を作り、傷口をふさぎます。これが一次止血(血小板血栓)と呼ばれるものです。2)二次止血血小板だけの血栓では、血を止めるには脆くて不安定です。そこで、一次止血に引き続き、血液中の凝固因子と呼ばれる一群のタンパク質が働き、最終的にはフィブリンの網の膜が血小板血栓の全体をおおい固めて、止血が完了します。これを二次止血(フィブリン血栓)と呼んでいます「正常な神経伝達感覚器や脳の情報は神経細胞により伝えられる。神経細胞と筋細胞との隙間(シナプス)では、伝達物質(アセチルコリン)が情報を伝える。」「正常なタンパク質合成細胞の核DNAからRNAポリメラーゼⅡがメッセンジャーRNAを作り.メッセンンジャーRNAからタンパク質が合成されている。」 ・・・つづく・・・
2023.03.06
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3月4日(土)の夜のニュースで「国土地理院は、日本にある島を36年ぶりに数え直した結果、その数は全国で1万4125島に上り、これまでに公表していた数の2倍以上に増えたと発表しました。日本の島の数は、これまでは1987年に海上保安庁が公表した6852島という数字が広く使われてきました。この数について、国土地理院が最新の地図のデータを使って36年ぶりに数え直した結果、これまでの2倍以上の1万4125島に上ったと発表しました。今回、島の数は、人工の島を除く自然の島で、外周が100メートル以上となることなどを条件に数えられたということで、島の数が倍増した要因について国土地理院は、近年は写真の画質が高まるなど測量技術が進歩したことで、地図の海岸線などを詳細に表現できるようになったためだとしています。」とネットから。そして私の住む藤沢市の江の島も島の数が増えたのです。江の島は、当時の技術から大きな島と小さな島の2島でしたがが、今回の数え直しで、新たに5の小さな島が加わり合わせて7島になるのだと。以前の2島の江の島。Googleマップで調べて見ると②の島に名前がついていることを今回、始めて知りました。「鵜島(うしま)」と。子供のころ、この江の島が遊び場だった妻も知らなかったと。全周100mはありそう!?そして今回の数え直しで7島に。都道府県ごとの島の数。多い順に▽長崎県で1479日本本土最西端に広がる「九十九島(くじゅうくしま)」は、複雑に入り組んだリアス海岸と大小208の島々からなる風光明媚な景勝地です。「九十九」とは“数えきれないほどたくさん”のという意味がある。▽北海道で1473▽鹿児島県で1256▽岩手県で861▽沖縄県で691などとなった と。これまでは下表の如くであったようだ。 【海洋法に関する国際連合条約では、「島とは、自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、高潮時においても水面上にあるものをいう」とされている。この規定を素直に解釈すれば、面積の大小は問うていないため、高潮時に水面上にある日本の陸地はまさに無数に存在することとなり、実数の把握はきわめて困難だとされてきた。昭和62年、海上保安庁は『海上保安の現況』において、北海道・本州・四国・九州を含めた日本の構成島数6,852島を発表している。海上保安庁の数え方は、関係する最大縮尺海図と陸図(縮尺1/2.5万)を用い、1. 周囲が0.1km以上のもの2. 何らかの形で本土とつながっている島について、それが橋、防波堤のような細い構造物で つながっている場合は島として扱い、それより幅が広くつながっていて本土と一体化している ようなものは除外3. 埋立地は除外 という基準にもとづいてカウントされたものだ (日本海洋データセンター「JODCニュース」34号、昭和62年)。また、令和5年2月28日、国土地理院は以下の条件のもと島を数えた結果、14,125島となったことを公表した。1. 法令等(離島振興法、有人国境離島法等)に基づく島を重複なく計数する。2 1.のほか、国土地理院の電子国土基本図を用いて、周囲長0.1km以上の海岸線で囲われた 陸地を対象に計数する。3 2.においては、自然に形成されたと判断できる陸地を計数の対象とする。 なお、湖沼等内水面にある陸地は、計数の対象外とする。あわせて都道府県別の島の数も公表、さらに、上記条件によらない電子国土基本図に描画された全ての陸地は120,729(令和4年1月時点)にのぼるとされた。この14,125島から一般的に「本土」とされる5島を単純に除けば、日本の島の数は14,120島ということになるが、この数字自体、あくまで上記条件にもとづいてカウントされた数であり、周囲0.1km以上などの基準=島の定義ではないことに留意してほしい。なお、どの島とどの島を足し合わせたかなど、その内訳については、現在のところ公表されていない。ただし、今回の数の変更で、日本の島の数は14,120島ということになるが、この数字自体、あくまで上記条件にもとづいてカウントされた数であり、周囲0.1km以上などの基準=島の定義ではないことに留意してほしい。なお、どの島とどの島を足し合わせたかなど、その内訳については、現在のところ公表されていない。】と良く解らない?説明がネットにはありました。 ・・・END・・・
2023.03.06
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そして「黒田記念館」まで戻る。「黒田記念館」は、洋画家黒田清輝(1866-1924)の遺言により、その遺産によって建てられ、昭和3年(1928)に竣工、同5年に帝国美術院附属美術研究所として開所した。当館では、黒田清輝の油彩画約130点、デッサン約170点、写生帖などを所蔵し、特別室と黒田記念室で展示されている。正面から。構造は鉄筋コンクリート造り、半地階・二階建て。「黒田記念館」は見事なスクラッチタイル貼りの外観。この入口から館内に入る。入口は、上部に半円形の窓をもつ扉と、それに呼応するような内部アーチを潜った。イオニア式オーダーの列柱。「黒田記念館新築設計圖 正面詳細圖」。「黒田記念館の建築について黒田記念館は、昭和3年(1928)に竣工。設計者は、当時、東京美術学校教授て建築を担当していた岡田信一郎(1883-1932)でした。岡田は、古今東西の建築様式に精通していたといわれ、和風の歌舞伎座(大正13年)や、古典主義オフィスビルの明治生命館(昭和9年)等、数々の建築で知られています。黒田記念館は上野公園内に建てられた旧東京府美術館(大正15年、現存せず)や旧東京美術学校陳列館(昭和4年、現、東京芸術大学陳列館)とともに岡田信一郎の美術館三部作と呼ばれています。外部には旧帝国ホテル(大正12年)に使用されて以来、流行したスクラッチタイルが用いられ、正面二階部分にはイオニア式オーダーの列柱がデザインされています、建物内部にも随所に装飾がほどこされ、とくに階段の手すりに見られるアールヌーヴォー風の装飾は、岡田信一郎の弟子で、後に東京美術学校で教鞭をとった建築家金沢庸治(1900-1982)のデザインです。開設当初より黒田清輝の作品が展示されていた二階の黒田記念室は、天窓からの自然採光となっており(現在は人工照明)、当時の美術館建築のありようを今に伝えています。平成14年(2002)に国の登録有形文化財に指定されました。」白い漆喰の壁と敷き詰められた赤い絨毯とが調和した、木製の階段を上って行った。アイアンワーク手摺はアールヌーヴォー風の装飾で、岡田信一郎の弟子で、後に東京美術学校で教鞭をとった建築家・金沢庸治のデザインであるとのこと。私にはト音記号の如く見えたのであった。この「黒田記念館」の裏は東京芸術大学音楽学部なのであったが。上って来たか階段を2Fから見下ろして。2F廊下の奥に「黒田記念室」があった。「黒田清輝について黒田清輝(1866ー1924 )は、近代日本の美術に大きな足跡を残した洋画家であり、美術教育者、美術行政家でもありました。現在の鹿児島県鹿児島市に生まれた黒田は、幼少時に伯父黒田清綱の養嗣子となり上京します。17歳で法律の勉強をするためにフランスに留学しましたが、2年後には絵画に転向し、フランス人画家ラファ工ル・コラン(1850ー1916)に師事しました。アカデミックな教育を基礎に、印象派風の明るい光の表現を取り入れた外光派の画風を学び、明治26年(1893)に帰国します。それまでの日本洋画にはなかった明るい色調と平易な表現は、その背景にあるリべラルな精神とともに、美術界のみならず文芸界に大きな変化をもたらしました。明治29年(1896)には美術団体の白馬会を結成、また同年東京美術学校に新設された西洋画科の指導者となり、多くの若い才能を育て、日本洋画のアカデミズムを形成していきました。制作においては「昔語り」にみられる構想画の取り組みや、「智・感・情」のような裸体画の推進など、日本絵画の近代化を図ります。その一方で文展設立に尽力、貴族院議員、帝国美術院長を務め、美術行政家として社会における美術の地位向上に貢献しました。」黒田清輝 略年譜。「黒田清輝先生」胸像。近づいて。彫刻:高村光太郎設立:1932年(昭和7年)と。「黒田記念室黒田記念室は黒田記念館設立当初から黒田の画業を顕彰するための部屋としてつくられました。部屋の扉の上部には画家中村不折の揮毫をとされる「黒田子爵記念室」の文字が刻まれています。この部屋のために遺族から寄贈された作品を中心にコレクションが形成され、日本絵画の近代化のために尽力した黒田の作品を鑑賞できる場となっています。」「黒田記念室」の展示状況。黒田清輝の描いた作品が壁一面に展示されていた。天井には明かり取りが。「花野カンパス・油彩明治40~大正4年(1907 ~15)「生涯の後半期に試みた大作の中で現存する唯一の作例。明冶40 (1907)年から制作を開始、大正4 (1915)年再度着手しましたが末完に終わりました。師コランの<庭の隅>(1985年、前田育徳会蔵)とも通い合う作風です。」「舟」。「舟」カンバス・油彩明治22 ~ 23年(1889 ~ 90)頃 赤松雅子氏寄贈」。「裸婦 ラファエル・コラン筆」。「裸婦 ラファエル・コラン筆黒田清輝の師であるラファ工ル・コランのパリ国立美術学校在学中の作。横たわる裸婦のポーズは、当時のアカデミックな教育の中でしばしば見られるものです。大正13(1924)年に日本へ招来、第3回仏蘭西現代美術展覧会に展示されました。」「コラン氏筆の部分(模写)」「コラン氏筆の部分(模写)カンバス・油彩明治40年代(1907 ~ 12)黒田の師であるラファ工ル・コランのサロン出品作《庭の隅》(1895年、前田育徳会蔵)の部分模写。原画は画商林忠正の旧蔵品で、明治43 ( 1910 )年、黒田の仲介により前田侯爵家が明治天皇行幸啓に備え、邸内を飾る西洋画として購入しました。」「野辺」 画稿。「野辺 画稿黒田は明治40 (1907)年の第11回白馬会展に、この画稿の完成作(ポーラ美術館蔵)を出品しています。本画稿は後に木下杢太郎が黒田から借り受け、北原白秋等とともに刊行した同人誌『屋上庭園』第1号(明治42年10月)の表紙を飾りました。」「ポーラ美術館」の「野辺」をネットから。「雪」「雪板・油彩大正11年(1922)」「黒田清輝の遺品(イーゼル、椅子、絵の具箱)」。「黒田清輝の遺品(イーゼル、椅子、絵の具箱)これらのイーゼルと椅子、絵の具箱は、黒田清輝が使用した品と伝えられています。H型のイーゼルはアトリエ用と推測されますが、絵の具箱は三脚付きで野外でも使用可能なつくりとなっています。」。「平河町邸アトリエにて」。「梅林」。「梅林板・油絵大正13年(1924)大正12年(1923)年末、黒田は狭心症を発しますが、翌年春には小康を得、病室をしていた麻布笄(こうがい)町の別邸の離れがら庭を見て本作品を描きました。しかしその年の7月に黒田は50歳の生涯を閉じ、本作品は絶筆となりました。」「映像室」。アーチ窓、アイアンワーク手摺の美を再び。この日は、鑑賞できなかったが、黒田清輝の代表作である「読書」(1891年)、「舞妓」(1893年)、「智・感・情」(1899年)、「湖畔」(1897年)をゆっくり鑑賞できる「特別室」を設け、年3回、新年、春、秋に各2週間、公開しているとのこと。今年2023年の春は3月21日(火)~2023年4月2日(日)に公開すると。よって特別室の展示品をそれぞれネットから。「智・感・情」(1899年)と「舞妓」(1893年)、「読書」(1891年)。「智・感・情」(1899年)。明治30(1897)年、第2回白馬会展に『智・感・情』の題で出品した三部作。のち、三画面とも加筆され明治33年パリ万博に『裸婦習作』として出品され銀賞を受けたとのこと。「舞妓」(1893年)、「読書」(1891年)。「舞妓」(1893年)。「読書」(1891年)。そして「湖畔」(1897年)。そして、再び赤い絨毯の階段を下る。そして「黒田記念館」を後にして、「東京国立博物館」まで来る。正面に「東京国立博物館 本館」。特別企画「大安寺の仏像」展が開催されていた。「インフォメーション」。「東京国立博物館 表慶館」の緑のドームが見えた。東京国立博物館には、さまざまな時代に建てられた5つの博物館がある。その中でただ一つ明治時代に建てられたのが、緑青(ろくしょう)色の丸屋根を持つこの「表慶館」。「表慶館」は、皇太子殿下嘉仁親王(後の大正天皇)の御成婚を祝って、市民からの寄付金によって奉献された美術館である。設計は、コンドルの弟子で宮内省の建築家・片山東熊によるもので、1901(明治34)年から7年の歳月をかけて1908(明治41)年に完成した。「東京国立博物館 本館」前から「上野公園 大噴水」を見る。「上野公園 大噴水」に近づいて。噴水の再スタートを待っていたがなかなか・・・。再び「東京国立博物館 本館」を見る。外観に石を張った煉瓦造りの「表慶館」は、中央に大ドーム、その両側に左右対称の小ドームが配置され、堂々たる威容を誇っていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.05
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東京都道452号神田白山線の交差点の角にあったのが「東京藝術大学 正木記念館」そしてこの門は「美術学部旧正門」。右手奥に見える和風の白き建物が「正木記念館」。東京美術学校第5代校長正木直彦先生の長年にわたる功労 (校長32年間在任、帝国美術院院長、各博覧会審査官など) を記念するため建設された。建物は、近世和風様式の鉄筋コンクリート造。 2階は正木校長の希望によって、日本美術を陳列するため書院造の和室が設けられました。鉄筋2階建 延534平米昭和10年(1935)7月竣工 金沢 庸治 設計「東京藝術大学」と。ここにも「買上展」のポスターが展示されていた。「正木門」から「藝大アートプラザ」に向かって進む。正面が「藝大アートプラザ」。右手にあったのが、東京美術学校の5代目校長・「正木直彦」像。沼田一雅作。「正木直彦は、1862(文久2)年に大阪の堺で生まれました。文久2年といえば皇女和宮(かずのみや)が江戸の徳川家茂(とくがわいえもち)のもとへ嫁ぎ、京都の伏見では尊王攘夷派の志士が暗殺される寺田屋騒動が起こった年です。幼少期に時代は幕末から明治へ。1884(明治17)年に旧制第一高等学校の前身である、東京大学予備門に入学します。同期には夏目漱石(なつめそうせき)、正岡子規(まさおかしき)、南方熊楠(みなかたくまぐす)などの姿がありました。1892(明治25)年に帝国大学(現在の東京大学)法学部を卒業した後は、奈良県尋常中学校に校長として赴任し、帝国奈良博物館の学芸員なども兼任でつとめています。その後、1897(明治30)年に文部大臣の秘書官に任じられて上京し、大臣官房秘書課長、大臣官房文書課長などを歴任しました。」と。作者の沼田一雅は正木先生の推薦で渡欧し、フランスのセーブルにある国立陶磁製作所で焼き物を研究したという経歴の持ち主。日本における陶彫刻の父と呼ばれています。その作品の中でも等身大の陶像というのは、とても珍しく貴重なものなのだ と。企画展「藝大アートプラザ大賞展 – GEIDAI ARTPLAZA FESTIVAL 2023」が開催されていた。「さあ、藝大アートプラザに年に一度の祭がやってきました!そう「藝大アートプラザ大賞展」開幕です。本年度で17回目を迎える藝大アートプラザ大賞は一年に一度開催される、藝大の学生であれば誰でも応募できるアートコンペティション。本展は藝大教授陣による厳正な審査の結果、入賞を果たした学生たちの作品を一挙に展示販売するという、年に一度の、藝大アートプラザによるアートフェアです。次のスター、あなただけのアートの卵と出会える最大のチャンスがやってきました!年に一度の、藝大アートプラザによるアートの祭典を一緒に楽しみましよう!」「大賞」苗青青「シープ」。「羊の英語「sheep」と寝るの英語「sleep」よく似ているので、眠れない時に羊を数えて眠リを誘う。このような羊と夢の不思議な関係に惹かれ、夢見る羊をモチーフとしてこの作品を描かれた。」と。「苗青青大学院修士課程 1年 美術研究科 文化財保存修復日本画雪肌麻紙 岩絵具 箔」「準大賞」「杉本ひなた「hopes」」。「hopes杉本ひなた 美術学部2年 絵画科油画専攻ミクストメディア(コラージュ)、キャンバス」今回新たな試みとして、画布を2種類使用し、絵具が染みる速度や表情を変化させました。予期しないものを期待して描くことは、矛盾があるようにも思います。しかし、意のままにしようとしない感覚は、今の私たちにとって大切なことだと思うのです。」「準大賞」「ヤマモトヒカル 「Here comes the Sun」(美術研究科 修士 1年 デザイン)」「オサムシタケ ~冬虫夏草~」「アートプラザ賞」「オサムシタケ ~冬虫夏草~野村俊介美術学部 3年 工芸科 陶磁専攻」「色脈/緋」「佐々木誉士 大学院修士課程 1年 美術研究科 デザイン専攻 布、TPU、染料、アクリル」展示風景。展示風景。「セラミックプリント 早野樹」「大学院修士課程 1年 美術研究科 工芸専攻陶芸研究分野手捻り」城の如き白き建物が「正木記念館」を振り返る。東京藝術大学 上野キャンパス 案内図。「東京芸術大学 美術部 正門」。「東京芸術大学 音楽部 正門」。「音楽部 掲示板」。「東京芸術大学 音楽部 正門」に近づいて。この先で引き返す。美術館・博物館案内用標識。先程潜った「正木門」を右手に見る。交差点の角にあったのが「旧博物館動物園駅」。博物館動物園駅は、かつて東京都台東区上野公園にあった、京成電鉄本線の駅(廃駅)。1933年(昭和8年)の京成本線開通に合わせ、東京帝室博物館・東京科學博物館・恩賜上野動物園や東京音樂學校、東京美術學校・旧制第二東京市立中学校などの最寄り駅として開業。老朽化や乗降客数の減少が響いたため、1997年(平成9年)に営業休止、2004年(平成16年)に廃止された。駅舎やホームは現存しており、京成電鉄は改修して2018年秋に公開した と。「博物館動物園駅跡 京成電鉄株式会社」。入口扉の彫刻。扉のデザインは日比野克彦氏によるもの と。その手前にあったのがこの後に訪ねた「黒田記念館」。「東京国立博物館 大安寺の仏像」案内ポスター。その先にあったのが「旧因州池田屋敷表門(黒門)」江戸時代、因幡(いなば)・伯耆(ほうき)32万石を治めた大名が、鳥取藩池田家(因州池田家)。徳川家とも姻戚関係にあり、江戸の地でも権勢を振るっていた。上野恩賜公園、東京国立博物館構内に移築現存するのが旧因州池田屋敷表門。東大の赤門(加賀藩・前田家屋敷門)に対して、堂々たる風格から「上野の黒門」と呼ばれている。もともとは、丸の内大名小路(現・中央区丸の内3丁目/帝国劇場・国際ビル)の鳥取藩池田家(因州池田家)上屋敷にあったが、明治25年に芝高輪台町の東宮御所正門として、さらに高松宮邸に引き継がれたものを、昭和29年に修復修理され屋外展示施設として国立博物館に移築している。国の重要文化財に指定。門の左右には向唐破風の屋根を持つ番所が備えられており、この様式は大大名の門にしか許されず、最高の格式を持つ門。左側の向唐破風の屋根を持つ番所。右側の向唐破風の屋根を持つ番所。「黒門 重要文化財旧因州池田屋敷表門。旧丸の内大名小路(現在の丸の内3丁目)にあった鳥取藩池田家江戸上屋敷の正門。明治時代、当時の東宮御所正門として移されたのち、高松宮邸に引き継がれ、さらに昭和四年( 195の当館に移築。形式・手法から見て江戸末期と考えられる。屋根は、入母屋造左右に向唐破風屋根の番所を備え、大名屋敷表門ではからは東京大学の赤門と並び称されるものである。黒門開放日土・日・祝・休日および1月2日・3日の10 : 00~ 16 : 00※天候により中止されることもあります。」「黒門」の全景を振り返って。そしてこのポスターで「黒田記念館」が無料開放していることを知り130m引き返したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.04
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「グラント将軍植樹碑」の前の道を進んだ場所に見えたのが「上野動物園」の正門。白い字で大きく「上野動物園」という文字とシンボルマークのタンチョウが掲げられていた。タンチョウは頭のてっぺん(頂)が赤い色(丹)をしていることから漢字で「丹頂」と書く。この部分は羽毛がなく、皮膚・肉瘤(にくりゅう)から血の色がすけて赤く見える。この赤い部分は、興奮すると血管が拡張して血流量が増えるので大きくなり、落ち着いている状態では小さいまま。またダンスや求愛の際には赤い部分が大きくなるので、タンチョウ同士のコミュニケーションや繁殖に役立っていると考えられているとのこと。つぶつぶとした小さな突起がややグロテスクなのだが・・・。正面から。「上野恩賜公園案内図」。現在地をズームして。上野公園近辺の「催し物ご案内」。それぞれの博物館、美術館で様々な催しが行われているのであった。パンダのベンチが上野らしいのであった。次に訪ねたのが「東京都美術館 企画棟」。入口左の赤レンガの壁には「東京都美術館」と。「展覧会のご案内」。「19世紀末ウィーンを代表する画家「エゴン・シーレ(1890-1918)」は、28年という短い生涯のなかで数多くの作品を残し、独自の表現を追求しました。本展では、ウィーンのレオポルド美術館の所蔵品を中心に、シーレの初期から晩年までの絵画、素描のほか、ウィーン世紀末の芸術家たちの作品を紹介し、画家の生涯とその作品、同時代の芸術の諸相を展観します。」と。「エゴン・シーレ展」👈リンク は2023年1月26日(木) ~ 4月9日(日)の開催と。敷地内の展示品・堀内正和「三本の直方体 B」。「井上武吉 『my sky hole 85-2 光と影』 1985年 ステンレススチール・鉄」。「穴の開いた大きな銀色の球体。彫刻家、井上武吉の『my sky hole 85-2 光と影』の作品です。《my sky hole》とは作家の造語で、「天をのぞくための穴」を表しているといいます。まるで鏡のような球体の表面には常に、前後左右の景色だけでなく、頭上に広がる果てしない空の「青」が映っています。作品に映しだされた「青」を是非お楽しみください。」と。エスカレータ・石段を下りた正面が「東京都美術館 中央棟」。「東京都美術館 入口」。1F 企画展示室で「エゴン・シーレ展」で開催されているようであった。この日の目的地は「国立科学博物館」であったので「東京都美術館 入口」で引き返した。そして再び『my sky hole 85-2 光と影』を見る。そして「上野公園 噴水広場」に向かって進む。週末2月10.11.12日に「第6回酒屋角打ちフェス開催」が開催されるのでその準備中であった。「東京小売酒販組合と、都内酒販店の若手経営者らが主催するイベント酒屋・飲食・ステージ3つのエリアで構成され、酒屋厳選の日本酒・焼酎・ワインを飲み比べでき、お酒に合う食べ物が多数出店する他、アーティストがステージパフォーマンスを披露し会場内を盛り上げます!お酒のプロでがセレクトした選りすぐりの日本酒や焼酎、ワインなどを「角打ちスタイル(杯売り)」で提供。個性ある酒販店ブースを巡り、飲み歩きを自由にお楽しみでき、気に入ったお酒をその場で購入できます」とネットから。ここの桜はほぼ満開状態であった。「初代歌川広重 東都名所上野東叡山全図記念碑」。近づいて。「初代歌川広重 寛政9年(1795)~安政5年(1858)東都名所 上野東叡山全図図の左:根本中堂 中央:二ツ堂 右:文殊楼(山門)いずれも慶応4年(1868)に彰義隊の戦争で消失」「寛永寺根本中堂跡台東区上野公園八番江戸時代、現上野公園の地は東叡山寛永寺境内で、堂塔伽藍が建ち並んでいた。いま噴水池のある一帯を、俗に「竹の台」と呼ぶ。そこには廻廊がめぐらされ、勅額門を入ると、根本中堂が建っていた。根本中堂は中堂ともいい、寛永寺の中心的堂宇で、堂内に本尊の薬師如来が奉安してあった。斎藤月岑作『武江年表』元禄十一年(一六九八)の項には、「八月、東叡山寛永寺根本中堂、文殊楼、仁王門並びに山王社建立。ニ十八日中堂入仏あり。九月六日、瑠璃殿の勅額到着」とある。瑠璃殿は中堂の別称で、本尊を薬師瑠璃光如来ともいったのにちなむ。瑠璃殿は坂東第一といわれたほど、荘厳華麗であった。瑠璃のように美しかったであろう。中堂前両側には、近江延暦寺中堂から根わけの竹が植えられ、「竹の台(うてな)」と呼ばれた。竹の台はその名によるものである。慶応四年(一八六八)五月十五日、彰義隊の戦争がこの地で起こり、寛永寺堂塔伽藍はほとんどが焼けた。 平成四年十一月 台東区教育委員会」「東都名所 上野東叡山全図 歌川広重(初代)画 天保年間(1830~1844)刊 」の原画をネットから。奥にあったのが林 昭三作「ボードワン博士像」。「オランダ一等軍医ボードワン博士は医学講師として一八六ニ年から一八七一年まで滞日した。かつてこの地は、東叡山寛永寺の境内であり、上野の戦争で荒廃したのを機に大学附属病院の建設計画が進められていたが、博士はすぐれた自然が失われるのを惜しんで政府に公園づくりを提言し、ここに一八七三年日本初めての公園が誕生するに至った。上野恩賜公園開園百年を記念し博士の偉大な功績を顕彰する。」さらに近づいて。そして上野公園「大噴水・竹の台噴水」。「ここ大噴水・竹の台噴水のある場所には、幕末まで、東叡山寛永寺の中心で、竹の台と呼ばれ、根本中堂というお堂が建っていたそうですが、上野戦争の際に、焼失しました。竹の台とは、慈覚大師が唐の五台山から竹を根分けして持ち帰り、比叡山に移植したのを、更に根分けして、寛永寺の地に植えられたことから、竹の台の地名になりました。竹の台の根本中堂の跡地に、造営されたのが噴水です。現在の竹の台噴水は、以前の噴水の高さ等の規模はちょっと小さくなってしまったようですが、以前にも増して様々なパターンの噴水の形を楽しめるようになったそうです。確かに、噴水の水の噴き上がる場所、高さ、間隔、組み合わせ等がいろいろなパターンがあり、順次、変わっていく様は、とても面白いです。上野公園に訪れる人々に噴水を楽しんで見て貰おうと、噴水に、様々な工夫がされていることがわかります。」とネットから。東京都は「上野恩賜公園」にて東京藝術大学と協働して、園内に「芸術の散歩道」を設け既存トイレを『上野トイレミュージアム』として改修。2020年9月7日(月)リニューアルしたのだと。トイレ個室内はパンダやキリンなど動物の壁画が描かれ、また、流水音の代わりに学生が作曲・演奏した動物の鳴き声や生息地域の環境音を模す音が流れるようになっていたのであった。さらに「芸術の散歩道」を北西方向に進む。「国際子ども図書館」案内板。「国際子ども図書館は、国内外の児童書を所蔵する国立の図書館です。子どもも大人も児童書の楽しさに触れられるレンガ棟と、児童書の専門図書館の役割を果たすアーチ棟のニつの建物があります。レンガ棟は、1906年に創建されたルネサンス様式の歴史的建造物です。」「藝大コレクション2023 買上展」案内板。会期:2023年3月31日(金) - 5月7日(日)「企画概要「買上」とは、東京藝術大学が卒業および修了制作の中から各科ごとに特に優秀な作品を選定し、大学が買い上げてきた制度です。遡って、前身である東京美術学校でも卒業制作を買い上げて収蔵する制度がありました。本学が所蔵する「学生制作品」は1万件を超えますが、本展ではその中から約100件を厳選し、東京美術学校時代から現在にいたる日本の美術教育の歩みを振り返ります。第1部 巨匠たちの学生制作明治26年(1893)に最初の卒業生を送り出して以来、東京美術学校では卒業制作を中心に自画像などを含めた学生たちの作品を教育資料として収集してきました。本展では、卒業後に日本近代美術史を牽引した作家たちを各分野から選りすぐり、その渾身のデビュー作を一堂に会します。第2部 各科が選ぶ買上作品東京藝術大学では昭和28年(1953)より買上制度がはじまり、卒業していく学生たちを勇気づけてきました。今年で創設70年を迎えるこの制度は、現在では多くの科で首席卒業と位置づけられています。近年は先端芸術表現、文化財保存学、グローバルアートプラクティス、映像研究など研究領域も広がり、表現方法も多様化してきています。今回、各科による選定意図などを添えて展示することで、各科が特に優秀と認めてきた買上作品の傾向が浮かび上がることでしょう。」と。「上野恩賜公園 芸術の散歩道」案内板。「上野恩賜公園の中に芸術作品を展示し、芸術の香り高い上野恩賜公園の実現を図ることを目的として、東京都と東京芸術大学との協働により平成十八年から始まった事業です。東京芸術大学美術学部の卒業・修了制作作品の中から、上野恩賜公園に展示するに相応しい優秀な作品を選出し、制作者に「東京都知事賞」を授与するとともに、作品を上恩賜公園内旧奏楽堂前園路広場に展示し、来園者に鑑賞していただくものです。」展示品の案内。「Y O C A 三澤萌寧 2022」。心地よさそうに寝転がっている人の作品は見ているこちらも思わずほっこりする空間。「YOCA」とは「余暇」の事??近づいて。身体が蕩けていくような空間なのであった。「うずくまる少年 永井遼太朗 2022」膝を両手で抱えて、頭を垂れて座り込むポーズ。「落胆・傷心」のポーズか。哀愁漂う後ろ姿がうまく表現されていた。そして前方に見えて来たのが「台東区立旧東京音楽学校奏楽堂」。本館は、東京藝術大学音楽学部の前身、東京音楽学校の校舎として、明治23年(1890)に建築され、日本における音楽教育の中心的な役割を担ってきました。2階の音楽ホールは、かつて瀧廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある舞台です。創建から80年近く経過した昭和40年代(1965~)に入ると、建物の老朽化が目立つようになり、校舎を都外へ移設する構想が持ち上がりますが、昭和58年(1983)に台東区が東京藝術大学から譲り受けることとなりました。そして、昭和62年(1987)に現在の地へ校舎を移築・復原し、「旧東京音楽学校奏楽堂」として一般への公開を開始しました。さらに、昭和63年(1988)には、日本最古の洋式音楽ホールを擁する校舎として、重要文化財の指定を受けました。以来、旧東京音楽学校奏楽堂は、「生きた文化財」として、建物の公開のほか、演奏会や音楽資料の展示を行ってきました。平成25年(2013)4月より保存活用工事のため休館していましたが、平成30年(2018)11月にリニューアルオープンいたしました と。「旧東京音楽学校奏楽堂(重要文化財)台東区上野公園八番四十三号この建物は、明治二十三年(一八九〇)東京音楽学校(現東京芸術大学)本館として建設された。設計は山口半六、久留正道で、わが国初の本格的な音楽ホールであり、音楽教育の記念碑的な存在である。中央天井をヴォールト状(かまばこ型)に高くし、視覚、排気、音響上の配慮がなされている。また、壁面や床下に藁や大鋸屑が詰められ、遮音効果をあげるなど技術的な工夫があり、貴重な建築物である。この奏楽堂からは、滝廉太郎を始めとする幾多の音楽家を世に送り出してきたが、老朽化が進み取壊しの危機にひんしていた。しかし、音楽関係者を始めとする多くの人々の保存に対する努力が実り、昭和六十ニ年三月、歴史と伝統を踏まえ、広く一般に活用されるよう、この地に移築復元された。また、移築工事とあわせて、日本雎一の空気式パイプオルガンも修復され舞台中央に甦った。昭和六十三年一月十三日付で国の亜要文化財に指定された。 平成六年三月 台東区教育委員会」正面入口を見る。左右両翼を携えた中央の棟の正面玄関上にはバロック様式を思わせる装飾が施されており、瓦葺きの屋根との和洋折衷となっていた。「奏楽堂」碑。そして「旧博物館動物園駅」近くにあった「東福寺」展覧会のポスター。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.03
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正面に「上野東照宮唐門」を見る。上野東照宮は徳川家康公(東照大権現)を神様としてお祀りする神社で、危篤の家康から高虎と天海に、「自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしい」と遺言され建造。現在の社殿は慶安4年(1651年)に家康の孫である徳川家光が改築し、徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜を祀ります。唐門の造りについては、「向唐門(むかいからもん)」と表現されます。向かいというのは「妻入り」のことで、唐門(唐破風)が門の前後に向かって付いている門のことを「向唐門」と言います。屋根は、社殿や透塀と同じ銅瓦豊となっています。ちなみに、平入りの唐門は「平唐門」と言います。「上野東照宮」の中で最も有名な彫刻は、「唐門の両脇」にある左甚五郎(ひだりじんごろう)作の「昇り龍」と「降り龍」。「昇り龍」と「降り龍」唐門の表側と側にそれぞれあるので、合計4枚の龍の彫刻があります。作者は、日光東照宮の「眠り猫」の作者と伝えられる、左甚五郎(ひだりじんごろう)です。左甚五郎の彫刻はあまりに素晴らしいため、作品に魂が宿ると言われていました。上野東昭宮の龍たちも、夜になると龍が飛び出して、不忍池まで水を飲みに行くと言われ、「水呑み龍」とも呼ばれました。さて、龍はこのように2体ペアで描かれ、「昇り」「降り」と命名されることがあるのですが、実際は、両方空を飛んでいる姿ですし、どちらが昇り龍でどちらが降り龍なのかということやその理由・意味については諸説あります。一説には、昇り龍は悟りを求めて「昇天」する龍、降り龍は、仏教の守護神・龍神となって、何でも願いを叶えるという如意宝珠を携え、天から「降臨」する龍を描いていると言われています。「昇り龍」。三代将軍家光が上野寛永寺の鐘楼建立にあたり四隅の柱に甚五郎をはじめ木彫の名人4人を選んでそれぞれ1匹ずつの龍を彫らせる甚五郎の彫った龍だけがなぜか夜な夜な柱から抜け出して不忍池に水を飲みに降りるようになり騒動となる。そこで甚五郎が「可愛そうだが足止めをする」と言って金づちで龍の頭へくさびを打ち込むと、その夜から龍は水を飲みに降りなくなった」と。偉大な人ほど頭を垂れるということから、頭が下を向いている方が昇り龍と呼ばれています。「降り龍」。人の映らない瞬間に。「向唐破風」をズームして。徳川家の紋章・「三つ葉葵」が様々な場所に。破風には大棟にある「入母屋破風」、そして、「出し」に付けられた「唐破風」が。破風の下には「懸魚(げぎょ)」と呼ばれる華麗な装飾が施されていたのであった。上野東照宮本殿は唐門から「透かし塀」でぐるりと囲まれていた。透かしの上と下は豪華な彫刻、匠の技が。そして、手前には巨大な「銅燈籠」が並んでいた。「親子虎の石彫」。「親子虎の石彫 作者・奉納時期不明虎の親子の石彫。家康公の生まれ年の干支である壬寅(みずのえとら)にちなんだ彫刻と考えられますが詳細は不明です。家康公は天文11年(旧暦1452年)、十干の「壬(みずのえ)」十ニ支の「寅」の年のお生まれです。同じ干支は60年で再び巡り、それを還暦と言います。令和4年(2022年)に8度目の還暦となりました。壬は新たな命の始まりを示し、寅は人の前に立つ、成長するという意味があるとされます。壬寅は「新たに生まれ成長する」年とされ、天下人から神になった家康公らしい干支です。家康公は幼いときに母・於大の方と生き別れとなりましたが、於大の方は家康公を忘れることはなく、家康公も母への気持ちを持ち続け、後に再会します。母虎の乳を飲む子虎、それを優しくなでる優しい母虎の眼差しは、親子の絆を大切にした家康公の心と重なります。」「唐門」手前の参道右側の「銅灯籠」群。「御拝観のご案内(有料一般500円 小学生200円)文化財保護へのご協力ありがとうございます。拝観料は全額重要文化財(金色殿、透塀、唐門)の修繕に使われます。塀の内側にて重要文化財の金色殿を間近でお参りできます。拝観をなさると以下をご覧になれます。・御神木 ・静心所・栄誉権現(御狸様) ・金色殿(社殿) 文化財保護のため金色内部は非公開←左の神符授与所で拝観券をお受けになり、神符授与所の奥からお進みくださいませ。※拝観内は飲食をお控え頂いております。」と。そして「御三家灯籠」案内板。御三家灯籠これら唐門両側の六基の鋼灯籠は家康公3 6回忌てある慶安四年(1651年)四月十七日に奉納された。尾張・紀伊・水戸の「徳川御三家」よリ2基ずつ奉納されたもので、すべて重要文化財に指定されている。笠の龍が舌を巻いているようなモチーフは「蜃(しん)」という想像上の動物で、口から気を吐き蜃気楼を作るといわれている。火袋の天女の装飾が美しく精巧である。灯籠の奉納者は唐門より順に以下のように並んでいる。・紀伊 従ニ位大納言 徳川頼宜(家康の十男)・水戸 正三位権中納言 徳川頼房(家康の十一男)・尾張 従三位兼右近衛権中将 徳川光義(家康の孫、家康の九男義直の子)御三家の中では尾張・紀伊・水戸の序列が一般的なので、通例だと兄弟の順からも九男が興した尾張家が一番唐門側に来るのであるが、奉納の前年に義直が他界し、子の光義(後の光友)が家督を継いだばかりでまだ官位も低かったため、唐門から最も遠い場所に奉納し、このような順になったと考えられる。 調査協力 代田照彦氏」この灯籠の奉納者は「紀伊 従ニ位大納言 徳川頼宜(家康の十男)」。この灯籠の奉納者は「水戸 正三位権中納言 徳川頼房(家康の十一男)」。この灯籠の奉納者は「尾張 従三位兼右近衛権中将 徳川光義(家康の孫、家康の九男義直の子)」。この日の御朱印。そして参道を引き返す。銅灯籠の火袋越しに紅梅を。再び「旧寛永寺五重塔」を追う。この五重塔の塔身をじっくり見ると、上から下までの屋根の大きさは均一となっている。逆に、世界最古の木造建築物群の代表格となる奈良・法隆寺の五重塔は、初層部(1階)から上層に上がるにつれて屋根の大きさ(面積)が減少し、最上階と1階の屋根の大きさを比較すると約半分くらいになっているのだ。これらの屋根の大きさは、時代を経るにつれての造営技術の向上と共に均等化されていくことになり、江戸時代に差し掛かる頃には、屋根の大きさがほぼ均等化されて造営されているとのこと。つまり、この「旧寛永寺五重塔」の塔身が初層部から上層部まで均等であると言うことは、近代建築を示す証拠ともなり、また特徴の1っとも言えるのだ と。建築の造りとしては、2層目から上層部までは、憫干(らんかん)を回しており、初層部の周囲を「縁」が取り巻いている。1531年(寛永8年)に、江戸幕府の老中で、後に大老となる土井大炊頭利勝(どいとしかつ)の寄進により、上野東昭宮の塔として建てられた。しかし1639年(寛永16年)の春に花見客の過失によって焼失してしまい、現在見ることのできるこの五重塔は、その年のうちに再建された時のものであると。再建は日光東宮の造営に際して大棟梁として現場指揮をとった甲良豊後守宗広が担当した と。屋根の「瓦」には最上層(第5層)のみ、「鋼板葺(とういたぶき/銅製)」で葺かれており、他の層の屋根は瓦葺(かわらぶき)になっている。ここにも「浮世絵行燈」が置かれていた。「歌川広重 名所江戸八景 蒲田の梅園」。「歌川広重 名所江戸百景 湯しま天神坂上眺望」。この日のぼたん苑は、「国立科学博物館」への予約時間もあり、残念ながらパス。入口に展示されているぼたんを。「上野東照宮大石鳥居」越しに、歩いて来た参道を振り返る。向かって左側の柱には、「寛永十年 酉四月十七日 厩橋侍従酒井雅楽頭源朝臣忠世」と刻まれてた。寛永十年四月十七日に酒井忠世が奉納したことが解るのであった。4月17日という日付が重要で、この日は徳川家康が亡くなられた日。「「生まれることはおめでたいこと、亡くなることは悲しいことなので、なぜ家康の生まれた日(12月26日)に奉納しないのか」と不思議に感じる人がいるかもしれません。しかし、4月17日は徳川家康が人間・家康から神・東照大権現に成った日であり、おめでたい日なのです。」とネットには。再び「上野東照宮」案内板。再び「上野東照宮 ぼたん苑」案内板。「春のぼたん祭牡丹の花は「富貴」の象徴とされ、「富貴花」「百花の王」などと呼ばれています。日本には奈良時代に中国から薬用植物として伝えられたと言われています。江戸時代以降、栽培が盛んになり数多くの牡丹の品種が作り出されました。上野東照宮ぽたん苑は、1980年(昭和55年)に日中友好を記念して開苑し、現在は中国牡丹、アメリカ品種、フランス品種を含め500株以上の牡丹があでやかに咲き誇ります。■開苑期間: 4月中旬~ 5月上旬■開苑時間:午前9時~午後5時(入苑締切)冬ばたん牡丹にはニ期咲き(早春と初冬)の性質を持つ品種があり、このうち冬咲きのものが寒牡丹と呼ばれています。寒牡丹の花は自然環境に大きく左右され、着花率が低く、ニ割以下といわれています。そこで、花の少ない冬に、お正月の縁起花として抑制栽培の技術を駆使して開花させたものが冬牡丹です。春夏に寒冷地で開花を抑制、秋に温度調整し冬に備えるという作業に丸ニ年を費やし、厳寒に楚々とした可憐な花をつけます。■開苑期間: 1月1日~同年2月中旬■開苑時間:午前9時30分~午後4時30分(入苑締切)入苑料:一般(中学生以上) 1000円・団体(15名以上) 800円・小学生以下無料」現在開催されている「冬ぼたん」ポスター。「2023 1 .13 (日)~ 2.23(木)く開苑期間中無休〉」と。よって、既に閉苑しているのである!!「上野東照宮大石鳥居」方向を振り返る。次に訪ねたのが「小松宮彰仁親王像(こまつのみやあきひとしんのうぞう」。「小松宮彰仁親王は、伏見宮邦家親王(ふしみのみやくにいえしんのう)の第8王子。幕末には仁和寺第30門跡を務めていましたが、還俗を命ぜられ、仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみや よしあきしんのう)と名乗って奥羽征討総督として官軍の指揮を執り、明治3年に東伏見宮に改めて、明治7年の佐賀の乱では征討総督、明治10年の西南戦争にも旅団長として出征。明治15年、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで小松宮に改称しています。ヨーロッパの王族が進んで軍務に就いていることを倣い、明治23年、陸軍大将に昇進し、近衛師団長、参謀総長を歴任、日清戦争では征清大総督に任じられ旅順に出征しています。日本赤十字社、大日本水産会、大日本山林会などの総裁を務めるなど、社会事業にも貢献。明治36年2月18日、57歳で没(墓所は豊島岡墓地)。銅像は、佐野常民(さのつねたみ)が、明治35年、日本赤十字社設立25周年の記念としての建立を提案したもの(佐野常民は、明治35年没)。小松宮彰仁親王が旅団長として出征した西南戦争の際に負傷者介護にあたる公的機関として博愛社の設立を提唱したのが佐野常民です。この博愛社は、日本赤十字社の前身で、初代の博愛社総長は、東伏見宮嘉彰親王(小松宮彰仁親王)だったのです。銅像の制作は、東京国立博物館表慶館前のライオン像も手掛けた彫刻家・大熊氏廣(おおくまうじひろ)。」とネットから。「小松宮彰仁親王銅像台東区上野公園八番彰仁親王は伏見宮邦家親王の第八王子。安政五年(一八五八)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応三年(一八六七)勅命により二十二歳で還俗、仁和寺宮と改称した。同四年一月の鳥羽・伏見の戦に、征討大将軍として参戦。ついで奥羽会津征討越後ロ総督となり、戊辰戦争に従軍した。明治十年五月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、九月その総長に就任した。同十五年には、小松宮彰仁親王と改称。同二十年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同三十六年一月十八日、五十八歳で没。銅像は明治四十五年二月に建てられ、同三月十八日、除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。『下谷區史』は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。 平成八年七月 台東区教育委員会」敷地内には早咲きの「ソメイヨシノ」が。写真を撮っていると、外国人ご夫妻から声をかけられたのであった。「この花は梅それとも桜か?」と。「桜であり、早咲きのソメイヨシノがあなた達を歓迎している」と片言の英語で答えた。タイ王国・バンコクから観光に来たのだと。立派な台座の上の「小松宮彰仁親王像」を斜めから。隣にあったのが「グラント将軍植樹碑」。「グラント将軍と通称されるユリシーズ・シンプソン・グラント(Ulysses Simpson Gran)は、南北戦争時の北軍の将軍、そして第18代アメリカ合衆国大統領(任期1869年3月4日〜1877年3月4日)。大統領職を2期務めた後に、グラント将軍は2年間世界中を旅していますが、その途中、日本にも立ち寄っています(アメリカ合衆国大統領経験者で、訪日した初の人物)。明治12年8月25日に上野公園で行なわれた歓迎会では東京商業会議所会頭・渋沢栄一が御臨幸委員総代を務めて対応。植樹した木は、グラント将軍がローソンヒノキ(米檜)、夫人がタイサンボク(泰山木)でした。昭和5年5月30日のグラント将軍植樹碑の除幕式にも渋沢栄一が出席し、式辞を述べ、上野精養軒で茶会を催しています。グラント将軍植樹碑には、英文で将軍の言葉Let us have peace. (平和を我等に)が刻まれています。」とネットから。「グラント将軍植樹碑明治十年(一八七七)から同十三年にかけて、グラント将軍は家族同伴で、世界を周遊した。その際、来日。同十二年八月二十五日、ここ上野公園で開催の大歓迎会に臨み、将軍はロウソン檜、夫人は泰山木を記念に植えた。植樹の由来が忘れられるのを憂い、昭和四年八月、この碑を建設。碑は正面に将軍の胸像を刻み、向って右側に和文、左側に英文で、将軍の略歴・日本滞在中の歓迎の模様、植樹の由来を記している。胸像下部には、英語で、将軍の言葉「平和を我等に」の文字を刻む。グラント将軍のフルネームはユリシーズ・シンプソン・グラントという。北軍の義勇軍大佐として、南北戦争に従軍。戦功を重ね、のち総司令官となり、北軍を勝利に導いた。明治二年、アメリカ合衆国大統領に選ばれ、同十年まで二期在任した。いま、将軍植樹の木は大木に成長している。 平成四年十一月 台東区教育委員会」真ん中に厳めしい髭をたくわえた顔のレリーフが。英文で将軍の言葉「Let us have peace. (平和を我等に)」が下に刻まれていた。「グラント将軍植樹の碑明治十二年、米国前大統領ユリシーズ・シムプスン・グラント将軍来航セラル。 明治天皇勅使ヲ遣シ、軍艦ヲ派シテ将軍ヲ長崎ニ迎接セシメ給ヒ、其入京スルニ及ビテハ浜離宮ニ館セシメ、待ツニ国賓ノ礼ヲ以テシ、備ニ懇願ヲ極メ給フ、蓋シ特例ナリ、将軍ハ西暦千八百二十二年米国オハイオ州ノ農家ニ生ル、南北戦争起ルニ及ビ、奮闘剣ヲ提ゲテ北軍ニ投ジ、力戦シテ殊功アリ、挙ゲラレテ其総指揮官トナリ、騒乱ヲ平定シテ南北一統ノ基ヲ成シ、偉勲ニ依リテ米陸軍ノ総指揮ニ任ゼラル、シテ衆望ノ帰スル所千八百六十八年、遂ニ第十八代ノ大統領ニ推サレ、能ク戦後ノ国政ヲ総当リシテ亦大ニ治安成績ヲ挙ゲタリ、千八百七十五年再任ノ期満ツル後、夫人及ビ末男ヲ伴ヒテ世界周遊ノ途ニ上ル、我邦ニ渡来セラレタルハ故ニ此時アリ、将軍資質真率重厚、深キ東洋ノ平和ニ意ヲ察シ、我邦ノ内治ニ臨ンデ屡当路ニ言進スル所アリ、為ニ現在運ノ伸張ヲ助クモノ甚ダ多シト云フ、此年七月三日将軍ノ入京セラルゝヤ、上下挙シテ熱烈之ヲ迎エヘ、尋デ或ハ夜会ヲ開キ、マタハハ演劇ヲ催セシガ、八月廿五日ニ至リ府民ノ名ヲ以テ上野公園ニ車駕ノ臨幸ヲ仰ギ、将軍オヨビ夫人ヲ招請シテ槍術・剣術・騎射・犬追物等ヲ観覧ニ供シ、還幸後、盛宴ヲ張ッテ以テテ大ニ歓迎ノ意ヲ表シ、此処ニ当時ノ国民交際ノ端ヲ啓キタリ、此日将軍ハ記念ノ為メ手ヅカラ此処ニ扁柏ヲ植ヱ、夫人モ亦玉蘭ヲ植ヱラレタリ、爾来春風秋雨五十年、二樹歳ト与ニ成育繁茂セリト雖モ、人ノ其ノ由来ヲ知ルモノ漸ク稀ナリ、予等親シクコノ盛況ニ与レル者深之ヲ憾トシ、乃チ碑ヲ建立ゝ事ノ茎概ヲ叙述シ、以テ永ク後人ヲシテ聖主英出逢イノ跡ヲ偲バシメントス昭和四年 八月 子爵 渋沢栄一 男爵 益田孝」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.02
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早いもので今日から3月・弥生。弥生の漢字「弥(いや)」は、ますます・いよいよという意味があり、「生(おい)」 には、草木が芽吹くことを意味する漢字が使われています。語源としては三月になる と少しずつ春が近づき始め、冬の間は縮こまっていたたくさんの花や木草が一斉に成長する月なので「木草(きくさ)弥(いや)生(お)ひ茂る月」が「弥生(やよい)」 と詰まって呼ばれるようになったと言われる説が有力とのことです。 日ごと春めき、いよいよ生い茂る草木とともに、まもなく沈丁花の香りが漂いはじめるころ。三月をあらわす呼び名はいろいろあるようです。桜月(さくらづき)、花月(かげつ)、さはなさきつき(早花咲月)、うげつ(桃月)はなみづき(花見月)、はるをしみつき(春惜月)、ゆめみづき(夢見月)などなど様々な呼称があるとのことです。今朝も6:10過ぎに起床し、雨戸を開けると、東の空が見事に赤く染まっていたので、そのままカメラ片手にパジャマ姿で外に出ました。そして東の空にカメラを向けて、弥生初日の東の空をデジカメで追いかけました。これぞ朝焼け・morning glow!!そして西の方向には富士山の姿が。富士山もやや赤く染まって来ました。そして我が家の前からの今朝の日の出です。時間は6:18。そして刻々と大きくなって行く太陽。家の近くの農家の温室にも絶景が映り込んでいました。そして太陽が完全に姿を現したのでした。マスクもせず無防備で外に出ましたので、部屋に戻ると、鼻水が・・・・。 ・・・完・・・
2023.03.01
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「上野大佛」の近くに建つ「パゴダ薬師堂」への石段を上って行った。「幾多の難を乗り越えた上野大仏この大仏は寛永八年(一六三一)、越後国村上城主であった堀丹後守直寄公がこちらの高台に、戦乱に倒れた敵味方の冥福を祈るために建立した「釈迦如来」です。京都・方広寺の大仏に見立てられ、当初は漆喰で作られましたが、明暦・万治の頃(一六五五~六〇年)木食浄雲(もくじきじょううん)という僧侶により高さ六メートルの銅仏に改められました。また元禄11年(1698)には輪王寺宮公弁法親王により大仏殿が建立され、伽藍が整いました。しかし大仏は江戸時代以来、地震や火災といった災難に何度も見舞われました。幕末の上野戦争では辛くも被害を免れましたが、明治六年に大仏殿が解体され、さらに大正十ニ年の関東大震災でついにお顔が落ちてしまったのです。その後、寛永寺で保管された大仏は再建される計画もありましたが、残念ながら復元されることなく、お体は第二次世界大戦時に供出されてしまいました。昭和四十七年春、再び旧地に迎えられた大仏は、建立当初より大きくお姿を変えましたが「これ以上落ちない合格大仏」として広く信仰を集めています。 寛永寺教化部昭和十五年「幻の東京オリンピック」にあわせて再建されようとした大仏でしたが、お体の部分は戦時中の金属類回収令により供出されました。穏やかなお顔のなかで戦争悲惨さとおろかさをお論し下さるかのようです。大仏を 埋めて白し 花の雲 子規」露座となった明治期の大仏を正面から。大正十ニ年の関東大震災前の在りし日の大仏殿「頭部が落ちた上野大仏」👈リンク大仏様の隣り、丘陵上の正面にある建物は、「パゴダ」(仏塔のこと)と呼ばれている。大仏再建の願を込めて上野観光連盟が上野公園の名所のひとつとするために建設したもので、昭和42年6月に完成した。高さ15メートルとのことだが・・・。内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置。この薬師三尊像は、江戸末期まで東照宮境内にあつた薬師堂の本尊。薬師堂は現在、東照宮の牡丹園になっているところにあった。明治になって、神仏分離令により東照宮から寛永寺に移管された。その後、さらにパゴダの本尊として迎えられた。そして「上野大仏」。1972年(昭和47年)、旧跡に寛永寺に保管されていた顔面部がレリーフとして安置された。胴体を失った顔面は「これ以上落ちない」ということから「合格大仏」と呼ばれ、合格祈願の受験生に人気なのだとか。「合格大仏」に近づいて。唇の一部は赤くなっていたが。ここにも往時の写真が。多くの水晶も。「合格祈願の絵馬」。お顔を「青」色にした経緯は?石段を降りて再び「パゴダ」を振り返る。「上野精養軒(うえのせいようけん)」を見る。上野精養軒は、東京都台東区の上野恩賜公園内にある老舗西洋料理店で日本におけるフランス料理店の草分け。築地精養軒の後身。明治期には国内外の王侯貴族や名士達が馬車で駆けつけるなど、鹿鳴館時代の華やかな文明開化を象徴する存在であった。夏目漱石や森鷗外の文学作品にも登場する。株式会社精養軒によって運営され、本店のある上野公園内の博物館などに系列店を出店している とウィキペディアより。東側に廻り込むと「東叡山寛永寺 上野大佛」案内板があった。「上野大仏とパゴダ正面の丘は、かつて「大仏山」と呼ばれ、丘上にはその名のとおり大きな釈迦如来坐像が安置されていた。 最初の大仏は、越後(現、新潟県)村上藩主堀直寄が、寛永八年(一六三一)に造立したニメートル八十センチ前後の釈迦如来像であったが、粘土を漆喰で固めたものであったため、正保四年(一六四七)の地震により倒壊してしまった。明暦~万治年間(一六五五~一六六〇)には、木食僧浄雲が江戸市民からの浄財によって、三メートル六十センチをこえる青銅製に堂々たる釈迦如来坐像を像立した。その後、元禄十一年(一六九八)輪王寺宮公弁法親王が、同像を風雨から覆うための仏殿を建立。天保十ニ年(一八四一)の火事によって大仏・仏殿ともに被害を受けたが、一年半後の天保十四年(一八四三)には、最初の造立者堀直寄の子孫堀直央が大仏を修復、幕府が仏殿を再建した。さらに、安政ニ年(一八五五)の大地震では大仏の頭部が倒壊したものの、間もなく堀家が修復している。しかし、明治六年上野公園開設の際に仏殿が取り壊され(年代については他に同九年・同十年の二説あり)、大正十ニ年の関東大震災では大仏の面部が落下、さらに、第二次世界大戦における金属供出令により大仏の体・脚部を国へ供出したため、面部のみが寛永寺に遺った。寛永寺では、昭和四十七年丘陵上野左手に壁面を設け、ここに「上野大仏」の顔をレリーフ状に奉安した。なお、江戸時代の大仏は、いずれも南に向かって造立され、丘陵の南側には当時の参道(石段)が現存する。また、同じく丘陵上の正面にある建物は、「パゴダ」(仏塔のこと)と呼ばれている。上野観光連盟が上野公園の名所のひとつとするために建設したもので、昭和四十ニ年三月着工、同年六月に完成した。高さ十五メートル、内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置している。この薬師三尊像は、江戸末期まで東照宮境内にあった薬師堂の本尊で、明治初期の神仏分離令により寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として迎えられた。 平成十三年三月 台東区教育委員会」「トーテムポール」。「トーテムポールLIBERTY,INTELLIGENCE,OUR NATIONS,SAFETY WE SERVE自由と知性はわれらの国の安全 われらは奉仕するこのトーテムポールは我々上野ライオンズクラブの会員が手に手を取りあってつくりあげたものである。トーテムポールは昔、北米西北海岸からアラスカに至るインデアンの家の前に立っていた風変りな高い木の柱である。その柱には彼等の信仰と制度のシンボルとして動物と人間らしいものが彫られ部族の安全と繁栄を祈願したものである。やがて19世紀後半世界各地にかかる風習が広まった。これにちなみ1964年今日、都民の平和と繁栄を願ってここに恒久的な鉄筋コンクリート造りのトーテンポールの建立を見たのである。(高さ:7.0M 翼の長さ:4.0M)製作者:三坂 耿一郎先生(日本芸術院会員)1964.3.23TOKYO UENO LIONS CLUB東京上野ライオンズクラブ」。次に訪ねたのが「お化け燈籠」。「お化け燈籠台東区上野公園四番佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の燈籠で、 奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之 東照大権現御宝前石燈籠 寛永八年辛末孟冬十七日と刻字し、寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永八年(一六三一)当時、東照宮は創建して間もなく、社頭には、現存の大鳥居・銅燈籠・石燈籠などは、まだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけて、この燈籠を寄進したのである。勝之は、織田信長の武将佐久間盛次の四男。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北条氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え、信濃国川中島ほかで一万八千石を領した。燈籠の大きさは、高さ六・○六メートル、笠石の周囲三・六三メートルと巨大で、その大きさゆえに「お化け燈籠」と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大燈籠とともに、日本三大燈籠に数えられる。 平成八年七月 台東区教育委員会」その先に「国指定重要文化財 上野東照宮」、「上野東照宮 ぼたん苑」案内板。右手には大きな石灯籠が並んでいた。「上野東照宮 ぼたん苑」案内板。「上野東照宮」の「水舎門」が左手に現れた。「水舎門」は、社殿脇にあった手水舎(1651年建立)を第二次大戦後に移築改造した と。「水舎門」を潜り40mほど進むと左手が「ぼたん苑」入口。その先にも両脇に石灯籠が並ぶ「上野東照宮」への「参道」が延びていた。上野東照宮には石灯籠が約200基あるとのこと。右手には、上野動物園内にある「旧寛永寺五重塔」が青空に聳え立っていた。明治の神仏分離令で上野東照宮の五重塔も取り壊される運命にあったが、五重塔の破壊を免れるために、仏教施設として寛永寺に所属させることにしたのだと。以後、寛永寺の五重塔として存続したが、管理が困難であることから、1958年(昭和33年)、東京都に寄付された。「参道」右手脇にあった「句碑」。「乱世を酌む 友あまたあり 酌まむ 三柳」と。背面には「尾藤三柳は一九二九年東京生れ その川柳活動五十年を記念して 全国の有志門下 これを建つ 平成九年五月三日」と。ここにも句碑が「盃を 挙げて 天下は 廻りもち 周魚」背面には「川柳の碑 村田周魚先生は本名泰助 明治二十二年下谷車坂に生る 川柳を志してより五十有余年 その間川柳きやり吟社を興し 遠く海外にまで斯道の発展に尽くす 社人その徳を慕いて この碑を建つ 昭和三十二年四月吉日」と。再び「旧寛永寺五重塔」を見上げる。「旧東叡山寛永寺五重塔(旧東照宮五重塔)Five storied Pagoda寛永八年(1631年)土井利勝により上野東照宮(寛永四年(1627年)創建)の一部として五重塔が建立、寄進されました。寛永十六年(1639年)火災により焼失、甲良宗広らにより同年再建されたのが現存する五重塔です。以前、この場所には五重塔への参道がありました。ですから五重塔の正面は今ご覧になっている面です。明治時代に神仏分離令が発令され、五重塔は仏教施設であることから全国の神社所有の五重塔は多くが破壊されました。当宮の五重塔も取り壊しの対象となりましたが、美しい姿を何としてでも残したいと考えた当時の宮司は熟慮を重ね、五重塔を手放すこととし、塔は寛永寺の所属であると国に申し出ました。東照宮五重塔は寛永寺五重塔と名前を変えましたが、その機転により取り壊しは免れました。寛永寺の所属となったものの、寺からは距離があり管理が難しいことから昭和三十三年(1958年)東京都に寄付されました。現在は動物園の敷地内にございます。塔の高さは約32m、江戸時代の多くの五重塔が初層から第4層までを和風、最上層のみを唐様風とするのに対し、この塔は、全層が和風様式です。建物内部には心柱が塔の土台の上にしっかりと建てられ、塔の頂上にある青銅製の相輪まで貫いています。心柱が釣られた懸垂式と呼ばれる建築構造が江戸時代の五重塔に多く見られるのに対し、この塔は土台にしっかりと建てられた桃山時代建築の五重塔に良く見られた構造で建てられています。屋根は初層から第4層が本瓦葺、最上層は銅瓦葺を使用しています。初層上方には十二支の彫刻が、各層の軒下の角隅部には4頭ずつ龍の彫刻が配されています。関東大震災でも倒壊せず、戊辰戦争や第2次大戦でも焼失を免れた、江戸初期の建築様式を伝える優れた建築の1つとして、明治四十四年(1911年)国の重要文化財に指定されました。以前塔の初層内部には心柱を大日如来に見たて、それを中心にして東寺大仏師職法眼康猶の作と伝えられる弥勒・薬師・釈迦・阿弥陀の4体の仏像が安置されていました。第ニ次大戦中、五重塔は管理が行き届かず扉は壊れた状態でした。その内部に仏像が置かれたままになっているのを発見した当時の宮司は、仏像の破損や盗難を防ぐため、急いで東照宮内に四体を引き取って大切にお守りし、戦後寛永寺にお返ししました。現在 この四体の仏像は東京国立博物館に寄託されています。 上野東照宮」手前の桜が咲けばさらに・・・・と。相輪にズームして。関東大震災、上野戦争、第2次世界大戦を免れた江戸初期の貴重な建築物。松崎鉄之介の句碑「富貴には 遠し年々 牡丹見る」「上野東照宮(国指定重要文化財)台東区上野公園九番藤堂高虎は(一五五六~一六三○)は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。これが上野東照宮の創建といわれている。あるいは寛永四年(一六二七)宮祠を造営したのが創建ともいう。もとは「東照社」と称していたが、正保二年(一六四五)に宮号宣下があり、それ以後家康を祭る神社を東照宮と呼ぶようになった。現在の社殿は、慶安四年(一六五一)、三代将軍家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経ているが、ほぼ当初の姿を今に伝える。社殿の構造は、手前より拝殿、幣殿、本殿からなり、その様式を権現造りという。社殿は都内でも代表的な江戸時代初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。唐門、透塀は社殿とともに構造、様式が優れており貴重であることから、参道入口の石造明神鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠四十八基と合わせて国の重要文化財に指定されている。 平成二十一年三月 台東区教育委員会」「東照宮略記[祭神] 徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜[縁起] 元和ニ年ニ月見舞いのため駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は危篤の家康公の病床に 招かれ、三人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しいと遺言された。そこで高虎の 家敷地であるこの上野の山に寛永四年(一六ニ七)に本宮を造営した。 その後、将軍家光はこの建物に満足出来ず、慶安四年現在の社殿を造営替えし、江戸の 象徴とした。[文化財] 唐門(左甚五郎作龍)透塀拝殿(金色殿)幣殿、本殿棟札、銅灯篭表参道大石鳥居、 以上重要文化財 紅葉山鳥居(寛永参年)石燈籠ニニ〇基主に(慶安四年)水舎門(慶安四年)、お化け燈籠 (寛永八年)茶室(明暦弐年)、新門辰五郎水舎(明治六年)神楽殿(明治七年勾配の美 都下随一)陣羽織(都重宝)、辻ヶ花染胴服(都重宝)」 更に参道を進む。「金色殿」が前方に見えて来た。「境内案内図」。解りやすい「境内略図」をネットから。「冬ぼたん」ポスター。「第41回 上野東照宮 冬ぼたん」と。「銅燈籠台東区上野公園九番東照宮社殿から門前と参道に、五十基の銅燈籠が並んでいる。燈籠は神事・法会を執行するときの浄火を目的とするもの。照明用具ではない。浄火は神事・仏事に使う清めた火。燈籠は上部から、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇で構成されている。火袋は、八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けている。火袋下部の長い部分を竿といい、ここに銘文を刻むことが多い。これら銅燈籠は、諸国の大名が東照大権現霊前に奉納したもの。竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職名・奉納年月日等が刻字されている。それによると、伊勢国(現三重県)津藩主藤堂高虎奉献の寛永五年(一六ニ八)銘一基をはじめ、慶安四年(一六五一)正月十七日奉献ニ基、同年四月十七日奉献四十五基、同五年孟夏十七日奉献ニ基となっている。慶安四年十七日は東照宮社殿落慶の日。その日の奉献数が最も多い。これら銅燈籠は、東照宮社殿とともに一括して、国の重要文化財に指定されている。 平成八年七月 台東区教育委員会」左手の「銅燈籠」。右手に「神楽殿」。「水舎」。「水舎」の先にも銅燈籠が並ぶ。「阿吽の狛犬」を取り巻くように建つ「銅燈籠」は 全部48基在って寛永・慶安年間に 諸大名が奉納したものだと。右手に「大鈴」。「大鈴」 は、「東照宮狛犬」を彫った「井亀泉 石屋(酒井)八右衛門」が明治七年・1874年に奉納をしたもので、この 「井亀泉」 は 「廣郡鶴 ・ 窪世祥」と共に「江戸三大石匠」 と云われるそうです。水鉢には慶応四年と。「狛犬」(右)。江戸三大石匠の 「井亀泉・酒井八右衛門」 の作と。「狛犬」(左)。「狛犬(高麗狗)奉納 1914年(大正三年)南側(社取向かって左)吽形(閉ロ) 北側(社取向かって右)阿形(開口)狛犬自体の大きさ 高さ115cm 前後120cm 幅60cm狛犬は三大石工の一人とされた「井亀象」酒井八右衛門の作で、筋骨隈々の力強さが特数てある。台座の字は隷書を得意とした書家中根半湖の書。当時の社司(現在の宮司に相当する役戦)は子爵松平頼安。三島由紀夫の曾祖母の兄にあたり、三島の著作「神官」などいくっかの作品に登場する.狛犬とは犬に似た日本固有の想像上の生物。古来より、神社仏閣を守ると信じられ、左も一対で奉納されることが多い。古代インドで仏像の守護獣としてライオン像が置かれたものが起源とされている。それが中国で獅子の形となり、仏教とともに朝鮮半島を経て日本に伝わった際に、犬のように表現されるようになったと言われている。当宮の狛犬は左が閉ロした吽形、右が開口した阿形で、左右て阿吽(あ・うん)の形となっている。阿はロを開いて最初に出す音、吽はロを閉じて出す最後の音てあることから.「阿吽」は宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされ、狛犬や獅子、仁王など、一対で存在する神社仏閣の像には阿吽の形が良く見られる。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.01
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「動物園通り」を不忍池にそって北に歩くと「五條天神社(ごじょうてんじんしゃ)」の入口があった。社号標石「五條天神社」。「医薬祖神 五條天神社行事大祭 五月二十五日特殊神事 宝舟の神事 一月一日・ニ日鷽替えの神事 一月二十五日うけらの神事 二月節分日医薬祭 毎月 十日 病気平癒・無病健康祈願月次祭 毎月 二十五日諸祈願 初宮詣・合格・交通安全 厄除結婚式等 申込は早目に受付まで教養部 弓道・花道・茶道 入門希望の御方は受付まで」 大きな医薬石鳥居が迎えてくれた。こちらの鳥居は大正15年(1926)に奉納されたものだが、東日本大震災の際に亀裂が入ってしまい、支柱のみ新しく修繕されたとのこと。なるほど、支柱と上の部分の色合いが違うのであった。狛犬(右)。狛犬(左)。正面に「拝殿」の姿が。「七福社この七福社は江戸時代上野の繁栄を願い山内各門に祀られていた祠の一つと云われています。神像の背に千穐萬来(せんしゅうばんらい)の文字が刻まれています。」七福神が祀られていると。「手水舎」。「紅梅」。ズームして。「拝殿」創建年 垂仁天皇17年(BC13)~景行天皇60年(130)創建者 日本武尊(やまとたけるのみこと)御祭神 大己貴命(おおなむしのみこと) 少彦名命(すくなひこなのみこと) 菅公(すがわらのみちざね)「拝殿」手前にも狛犬が。「内陣」。「五條天神社縁起縁起書は受付にあります。御祭神主神 大己貴命 少彦名命(医・薬相神)相殿 菅原道真命(寛永十八年に合祀・約三五〇年前)御由緒 第十ニ代景行天皇の御代・日本武尊が御東征の際、上野の忍岡で薬師神ニ柱の大神が 奇瑞を現し給い難を救われたので、ここに両神をお祀りしたと伝えられ平成二十二年 五月御鎮座、一九〇〇年大祭が行われる、東都屈指の古社であります。江戸初期、 社地は神職の瀬川屋敷(上野公園下・旧五條町)に遷り、御創祀に近い現地には 昭和三年九月に御遷座になりました。御祭日 例大祭 五月ニ十五日 医薬祭 毎月十日 病気平癒祈願・無病健康祈願月次祭 毎月ニ十五日特殊神事 宝舟の事一月一日とニ日、うそ替えの神事一月ニ十五日うけらの神事 ニ月節分の日の午後三時以下 省略」「世の中のことは すべて心の持ちよう一つで どうにでもなる 渋沢栄一」と。「「薬祖神二柱」とは、わが国で医薬の祖神と言われているのは、大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で、共に国土経営に尽力され、薬の術や医道、酒造諸々を教えたと「古事記」や「日本書紀」「風土記」等に述べられています。大己貴命は須佐之男神(すさのおのみこと)の子孫で、大国主命と同じ神様です。神話や童謡でも親しまれ、特に「因幡の白兎」の神話は有名です。(いなば:現在の鳥取県)少彦名命は神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子で蛾(が)の皮の着物に豆の実のさやの舟に乗っていたという大変小さな神であったようです。ということで、医薬祖神五條天神社は、御祭神が 大己貴命(おおなむじのみこと)と 少彦名命(すくなひこなのみこと)が主神で相殿が菅原道真命となっています。 御利益 無病健康・病気平癒 学業成就」とネットから。「穴稲荷」。伊藤博文による「神徳惟馨」の扁額が掲げられていた。かつては石窟の上に社殿が建っていたが、明治の再建の時に南向きになるよう現在の位置に建て直されたと。社殿が移転した後に残った石窟は現在「お穴様」と呼ばれていると。「五條天神社」の隣にあったのが「上野花園稲荷神社」。由緒正式名称は「忍岡稲荷」。石窟の上にあったことから「穴稲荷」とも呼ばれていました。一時廃絶していましたが、承応3(1654)年、本覺院の住僧晃海僧正が霊夢を見て再建し、上野の山の守護となりました。「穴稲荷門の戦」と呼ばれる彰義隊の最後の激戦の後、明治6年に再興され「花園稲荷」と改称しました。このとき五條天神社が当地に遷座したのに伴い、石窟の上にあった社殿は南向きになるよう、元の場所から移築されています。祭神 倉稲魂命創建 不詳年月の経った素木造りの社殿に朱塗りの賽銭箱が映えていた。扁額「花園稲荷神社」。そして次に訪ねたのが「穴神社」。「穴神社」の朱の鳥居。奥に入って行った。「穴稲荷正しくは忍岡稲荷(しのぶがおかいなり)云い花園稲荷の旧跡である。左奥のお社は、寛永の初め天海が寛永寺を草創の際に忍ケ岡の狐の住み處を失った事をあわれみ一洞を作りその上に祠を建てて祀ったと云われている。」祠の先にも社殿が鎮座。古書に弥佐衛門狐と記され、寛永寺が出来る時忍岡の狐が住む処が無くなるのを憐み、一洞を造り社を祀ったと云われます。ここが「忍岡稲荷[穴稲荷]」。外に出るとその前が「花園稲荷神社」の参道であった。「花園稲荷神社」の石鳥居を潜り振り返って「花園稲荷神社」の参道を見る。再び「花園稲荷神社」の参道を進む。この先右手に「穴稲荷」があったのだ。そして手水舎の角を右手に折れ別の参道を出口に向かって進む。朱の鳥居が次々と。「稲荷坂花園稲荷神社は「穴稲荷」「忍岡稲荷」とも呼ばれ、創建年代は諸説あるが、江戸時代初期には創建されていた。これにより江戸時代から「稲荷坂」の名がある。享保十七年(一七三二)の『江戸砂子』にその名が見え、明治二十九年(一八九六)の『新撰東京名所図会』には「稲荷坂 忍ヶ岡の西方に在りて、穴稲荷社へ出る坂路をいふ。」とある。」「花園稲荷神社 五條天神社 参道」の「石鳥居」を見る。ここにも「花園稲荷神社の御縁起」。この案内板は歴史が感じられるのであった。その先にあったのが「摺鉢山古墳(すりばちやまこふん)」。上野公園にある古墳。形状は前方後円墳。紫竹川古墳群を構成する古墳の1つ。史跡指定はされていない。墳丘の規模は次の通り(現存規模)。墳丘長:70メートル後円部 直径:43メートル 高さ:5メートル前方部 幅:23メートル と。引き返して進むと「上野東照宮 ぼたん苑」入口案内板が。その先にあったのが「精養軒」案内板。「寛永寺時鐘堂(時の鐘)」👈リンクを見上げた。上野精養軒近くに建つのが、この「寛永寺時鐘堂(時の鐘)」。「上野の時の鐘」として、時を今も告げる歴史的な時鐘 と。「寛文6年(1666年)に設置された鐘で、往時は江戸市中に9ヶ所の時の鐘があったが、現存、現役では唯一の時鐘になっている。現在の寛永寺・時鐘堂(時の鐘)は、天明7年(1787年)に改鋳されたもの。谷中・感応寺で製造され、正面には「東叡山大銅鐘」、裏側に「天明七丁未歳八月」と刻まれています。現在も6:00、正午、18:00の1日3回、上野界隈に時を告げているので、上野恩賜公園にいるならぜひ耳を澄ませましょう。「花の雲 鐘は上野か 浅草か」は、生類哀れみの令が出された貞亨4年(1687年)、松尾芭蕉44歳の句。深川の草庵で鐘の音を聞き、東叡山寛永寺の鐘だろうか、浅草・浅草寺の鐘だろうかという春の句(芭蕉前期、最高傑作のひとつ)。寛永寺には時鐘堂のほか、根本中堂前に鐘楼堂があり、2ヶ所で除夜の鐘を撞いていますが、冥加料を払って参加も可能(破魔矢や御札を授与/例年12月1日から受付)。環境省の「残したい日本の音風景100選」にも選定。「時の鐘」と言えば蔵の町・川越の時の鐘が有名ですが、現在も時を告げる関東の鐘では、岩槻城下(埼玉県さいたま市岩槻区)が最古で、享保5年(1720年)の改鋳。天明7年(1787年)に改鋳の上野・寛永寺、明治27年改鋳の川越・時の鐘と続きます」とネットから。「掲示板」。左側に「東叡山寛永寺の『疫病退散』古来より感染症などの未知の病が世に蔓延すると、先人たらは「疫病退散」のお札(おふだ)を家々に貼り、その鎮、静を皆て祈ったと言われています当山にも、江戸の昔から伝わる疫病退散の護符がございます皆様にも、今般のコロナ災禍の早期終息をご一緒にお祈り頂けますようご紹介申し上げます。」右手には「東叡山 山内散策マップ」。次に訪ねたのが「大仏山」下の「八角宝塔」。「地蔵尊」。後方に見えた塔が「大佛パゴタ」。昭和42年、上野観光連盟が願主となり、大成建設の寄進により薬師仏を祀るパゴダ様式(ミャンマー様式の仏塔)の祈願塔(大仏パゴダ)が建立され、さらに昭和47年、寛永寺に安置されていた大仏の顔面部をレリーフとして安置した と。「萬霊供養塔」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.02.28
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上野「不忍池辯天堂」の散策を続ける。「弁天堂寛永ニ年(一六ニ五)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、上野台地に東叡山寛永寺を創建した。不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島(ちくぶしま)に因んで、常陸(現茨城県)下館城主水谷(みずのや)勝隆が池中に中之島(弁天島)を築き、さらに竹生島の宝厳寺(ほうごんじ)の大弁才天を勧請し、弁天堂を建立した。当初、弁天島へは小船で渡っていたが、寛文年間(1661~1672)に石橋が架けられて、自由に往来できるようになり、弁天島は弁天堂に参詣する人々や行楽の人々で賑わった。弁天堂は、昭和20年(1945)の空襲で焼失し、昭和33年(1958)9月に再建された。弁天堂本尊は、慈覚大師の作と伝えられる八臂(はっぴ)の大弁才天、脇士は毘沙門天、大黒天である。本堂天井には、児玉希望(こだまきぼう)画伯による「金竜」の図が画かれている。また、本堂前、手水鉢の天井に、天保3年(1832)と銘のある谷文晃による「水墨の竜」を見ることができる。大祭は、9月の巳の日で、巳成金(みなるがね)という。平成十年三月 台東区教育委員会」今年の絵馬「開運招福」。今年・2023年は「癸(みずのと)卯(うさぎ)」の年。卯年(うさぎ年)は毎年変わる十二支の一つで、十二支の中で4番目。蓮の花の絵馬「心願成就」。「聖天島(不忍池弁天堂)」。「不忍池辯天堂」裏にあったのが「幕末之劔豪櫛淵虚冲軒之碑」。「幕末之劔豪櫛淵虚冲軒之碑」。向かって左側面に「昭和五十三年七月吉日」、右側面に「上州利根郡月夜野町」と刻まれていた。櫛淵虚冲軒(櫛淵彌兵衛宣根)の生没年は、西暦1748年~1819年で71歳の生涯。神道一心流の創始者。「寛政2年(1790年)2月、42歳にして江戸へ進出、下谷の御徒町に稽古場を創設した。15年後、文化3年(1806年)の江戸の大火で道場を小川町広小路に移し、文化12年(1806年)6月まで華々しい活動を行った。全盛期の門人は451名を数え、深川八幡前にも出張稽古場を創設した。寛政4年(1792年)には一橋徳川家に御徒並として召し抱えられた。その後、小十人格御広敷添番まで昇進し、遂に一橋家剣術師範役を勤めるまでの深い関係の礎を築いた。」とウィキペディアより。石碑の文字は解読が困難な状態。上部に大きな文字の二行書きで「虚中軒先生碑」と刻まれていた。その下に多くの漢字が刻まれていたが、風化が進んでいるのか、読み取り不可能であった。しかし裏面は、一部表面が剥がれ落ちている場所を除けば、しっかりと刻まれているため、何とか読むことができた。「建碑幹事門人 山内宗馬安豊 山崎孫四郎紹平 櫛淵幸作盛従 今井吉兵衛昭甫 紀元二千六百年昭和十五年十一月十◯◯ 宣根五代裔 鍹一」「不忍池辯天堂」を裏側(西側)から見る。小さな神社。名前は?「鳥塚」碑。「東京都知事 東龍太郎 書」と刻まれていた。台座の石の正面には右から左の横書き三段で「東京食鳥鶏卵商業協同組合 東京都食鳥肉販売業環境衛生同業組合 社団法人日本食鳥協会東京支部」と朱記されていた。左側の小さな碑には「鳥塚の由来」が記されていた。「鳥塚の由来この鳥塚は東京都内に店舗を有する食鳥肉の販売業者が組織している東京食鳥鶏卵商業協同組合及び東京都食鳥肉販売業環境衛生同業組合の組合員有志が生活の糧であり子孫の繁栄に寄与する諸鳥類霊魂を永久に慰めるため淨財を集め合つて昭和三十七年三月二十四日この聖域に建立したものである建立の儀が起こつたのは昭和三十五年四月五日の両組合の役員総会の時であって満場一致建立することに決定したがその場所については永くこの塚を後代の同業者が守つて行く為にはこの際都内の中心部であり有名地に建立することを一同が希望した.その後談合の結果東叡山寛永時不忍池辧天堂境内に内諾を得たので正式に両組合の役員会総会にこの経過を報告し満場一致で決定七十三人の鳥塚建立実行委員が選ばれその委員会によって実行運動が続けられた結果寄進組合員総数三九五名の淨財の喜捨を得たので昭和三十七年一月より石材彫刻を依頼し同年三月二十四日にこの地に塚を立て前記吉日を選んで盛大なる開眼法要を執行したのであるその下には「昭和三十七年三月二十四日發願人 森田正四郎 武田喜久雄 小林繁三 高島邦三郎 他有志一同 」と。「蓮華の歌碑」不忍池の蓮花を詠んだもの。江戸後期の文政11年(1828年)司馬乃屋嘉明が建立したのだと。「色々に 花はさけども くれ竹の それにもまして 蓬のしら糸」と刻まれているのだ と。「不忍池」の先の地上3 5階地下1階建3 6 1戸のタワーレジデンス「ブリリアタワー上野池之端」も見えた。「包丁」塚。「上豊調理師会」により建立された、料理人の魂・包丁を納める塚であると。この石碑は「高久藹崖筆塚」。江戸時代後期に活躍した画家高久藹崖(たかく あいがい)の筆塚とのこと。寛政8年(1796年) - 天保14年4月8日(1843年5月7日))江戸時代後期の文人画家。下野那須郡杉渡戸(現 栃木県那須塩原市黒磯)に生まれる。諱は徴、字は遠々のちに子遠、通称秋輔。号は靄崖のほかに石窟、如樵、石窠学、梅斎、疎林外史、学梅斎、晩成山房など と。「暦塚」。「暦塚」は、第73代首相中曽根康弘氏による碑文が刻まれており、全国カレンダー出版協同組合連合会等により建立された。台座の上に、日時計が置かれ、その上に地球が取り付けられていた。弁天島の暦上のデータのみならず暦塚の緯度経度上の位置、時刻、各都市の方位角、時差表等の天文学上のデータが示されていた。日時計は、真北を指し、時刻、時差や各都市の方位角を示していた。「不忍池辯天堂」を1周して。境内の白梅の蕾ももようやく膨らんで来ていた。境内参道両脇の「五色吹流し(五色絹)」。五色絹の「五色」は、古代中国に成立した「五行説(ごぎょうせつ)」という学説に由来。 五行説とは木・火・土・金・水の五つの要素により万物が組成され、自然現象や人事現象の全てを解釈し説明するもの。その説にのっとって木・火・土・金・水を色で表現すると、木の色は緑、火の色は赤、土の色は黄、金の色は白、水の色は紫となる。土の色が黄となる理由としては、中国の大地の色が黄色であるからともいわれている とネットから。 「天龍橋」を渡って入口方向に戻る。そして「不忍池弁天門前広場」を歩く。「駅伝の碑」駅伝の歴史ここに始まる池我が国、最初の駅伝は、奠都五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競走」が大正六(一九一七)年四月ニ十七日、ニ十八日、ニ十九日の三日間にわたり開催された。スタートは、京都・三条大橋、ゴールは、ここ東京・上野不忍池の博覧会正面玄関であった。「不忍池辯天堂」・「参道」を振り返る。「かなりや」歌碑。「うたをわすれたかなりやは、ざうげのふねにぎんのかいつきよのうみにうかべれば わすれたうたをおもいだす 西條八十」と、西條八十の代表的な童謡「カナリア」の4番の歌詞が刻まれていた。裏の碑文には「この詩は大正7年秋、不忍池畔にあった上野倶楽部というアパートの一室を仕事部屋にしていた西条八十が朽葉散る上野の山、東照宮のあたりを逍遙しているうちに得られた作品と記されています。」とあった。 そして次に訪ねたのは「博士王仁碑」。「博士王仁碑台東区上野公園一番「古事記」などによると、王仁(わに)博士は古墳時代前半に百済国から渡来し、「論語」・「千字文」を伝えた学者であり、後に帰化したとされる。また、その子孫は文筆をもって朝廷に仕えたといわれる。この「博士王仁碑」ニ基は、王仁博士顕彰会により、昭和十五(一九四〇)年及び昭和十六(一九四一)年に建立された。 平成ニ十五年三月 台東区教育委員会」「博士王仁碑」1940(昭和15年)、王仁博士顕彰会が王仁博士を記念した石碑。左隣の副碑・「流芳萬古」は1941年建立。「王仁博士 青銅刻画碑」。「王仁博士は、4世紀末大韓民国全羅南道霊岩で誕生されたと伝えられている。『古事記』『日本書記』などによると、応神天皇の招請により論語と千字文を携え渡来、皇太子の師匠となられ忠信孝悌を教えられたという。博士は孔子と比肩され、日本の飛鳥文化を花咲かせた学者として崇められている。」そして「博士王仁碑」の東側にあったのが「天海僧正毛髪塔」。「天海僧正毛髪塔(都指定旧跡)台東区上野公園一番天海憎正は、江戸初期の天台宗の高僧で諡号を慈眼大師という。天文五年(一五三六)に奥州会津郡高田郷(福島県)で生まれた。十一歳で出家、十四歳で比叡山に登り実全に師事して天台教観を学び、さらに三井寺や奈良で諸教学を学んだといわれる。のちに江戸崎不動院(茨城県江戸崎町)、川越喜多院(川越市)などに住し、徳川家康の知遇を受けた。元和二年(一六一六)家康が没すると、その神格化にあたり権現号の勅許を計り、合わせて日光廟の基本的構想をたて造営を指導した。その後も将軍秀忠・家光の帰依を受け、江戸城鎮護のため上野忍岡に寺院の建立を進言し、寛永二年(一六二五)に寛永寺を建立した。寛永二十年(一六四三)に子院の本覚院にて一〇八で示寂。遺命により日光山に葬られ、この地(旧本覚院跡)には供養塔が建てられた。後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになった。 平成十五年三月 台東区教育委員会」「時忘れじの塔」東京大空襲で両親と兄弟を亡くした故林家三平さん夫人の海老名香葉子さんが建てた塔で、「東京大空襲」の犠牲者を悼む慰霊碑だと。母と子を模した像ですが、空襲で亡くなられた自身の家族がモデルだそうで、戦争の悲惨さが思い起されるのであった。「時忘れじの塔関東大震災(大正十二年)東京大空襲(昭和二十年)東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の目印として、この時計台を寄贈しました。」次に訪ねたのが「しのぶ川」。「不忍池」から延びる川が「忍川(しのぶがわ)」。大正時代初期には暗渠になったと。「しのぶ川」碑。そして再び「動物園通り」まで下る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・
2023.02.27
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「動物園通り」への石段の途中から「不忍池」方向を見る。正面に「不忍池辯天堂」が見えた。その左奥には高層マンション「ブリリアタワー上野池之端」が。そして石段下に「動物園通り」が。「動物園通り」を横切って進む。右手に見えたのが「上野動物園 弁天門」。「不忍池辯天堂」への参道を進む。この日の屋台の出店の数は少なかった。「東叡山寛永寺辯天堂」碑。石造銅製燈籠(右)。石造銅製燈籠(左)。前方に「天龍橋」。「不忍池」(左)の蓮は枯れて。近くからの蓮の開花時の写真をネットから。「不忍池」(右)。「中根半僊(なかねはんせん)碑」。「半僊先生衣幘之藏(はんせんせんせいいさくのくら)」と刻まれていた。「衣幘」とは衣と頭巾の意と。よって故人の生前の衣と頭巾が藏められていることが下部に刻まれているのであろうか?江戸時代後期の漢学者(1798-1849)。寛政10年生まれ。江戸の人。越後(新潟県)高田藩医。漢詩で名をあげる。巻菱湖(まきりょうこ)に書道をまなび,篆刻(てんこく)にもひいでた。嘉永(かえい)2年8月4日死去。52歳。名は容。字(あざな)は公黙。別号に閑徒老人、玄石、訒斎(じんさい)。著作に「詠物百首」「詩韻自在」など。「不忍池」碑。「めがね之碑」。「徳川家康所持の眼鏡」と。「眼鏡がはるかに海を越え我が日本に渡来したのは420余年前のことであります。文化の発達につれてめがねの需要も増大し、文化政治経済に貢献した役割は誠に大なるものがあります。その間業界先覚者の研鑽努力により今日の発展をみるに至ったことを回想する。明治100年を記念してその功績を顕彰し慈眼大師ゆかりの地上野不忍池畔にこの碑を建立し、感謝の念を新たにするものであります。」長谷川利行の歌碑。「人知れず 朽ちも果つべき 身一つの 今がいとほし 涙拭わず」「己が身の 影もとどめず 水すまし 河の流れを 光りてすべる」「利行碑」「長谷川利行放浪の画家・日本のゴッホ一八九一年(明治ニ四) 七月九日京都に生まれる。一九ニ一年(大正十) 上京・博文館にて生田蝶介を知り小説を発表。岩田専太郎、 矢野文夫等を知る。一九ニ三年(大正十ニ) 関東大震災起こる。震災を歌った歌集「火岸」を発行、京都に帰る。一九ニ六年(大正十五) 再び上京、日暮里の寺に住む。第七回帝展に「廃道」入選。 第十三回ニ科展に「田端変電所」初入選。一九ニ七年(昭和ニ) 第十四回ニ科展に「酒売場」「麦酒室」「鉄管のある工場」入選、 樗牛賞を受賞一九ニハ年(昭和三) 里見勝蔵・藤川栄子・靉光・井上長三郎・麻生三郎・吉井忠・ 寺田政明等後の自由美術化協会の画家達を知る。一九三ニ年(昭和七) 浅草今戸に仮住まい。浅草・千住・三河島・荒川放水路界隈を放浪す。 天城俊彦(高崎正男)を知る。一九三六年(昭和十一) 新宿・天城画廊で個展五回開催する。一九三七年(昭和十ニ) 伊豆大島に遊ぶ、天城画廊で個展十回、喫茶店「エルテル」等で 数回開催。ニ科展を去る。一九三九年(昭和十四) 胃潰瘍に苦しむ。千葉県太海、勝浦に写生旅行。一九四十年(昭和十五) 三河島救世軍宿泊所に住む。 五月十七日、三河島駅付近の路止で倒れ、行路病者として東京市立 養育院板橋本院に収容される。 十月十ニ日胃癌で死去、満四十九歳。遺品類(絵も含む)すべて 破却される。一九六九年(昭和四四) 熊谷守一先生・洋画家揮毫の「長谷川利行碑」、有島生馬先生洋画家 揮毫の歌碑が台東区不忍池弁天島に建立さる。 十月十五日羽黒洞主催の除幕式行われる。 正像院利行日描居士 羽里洞主遺作展数回開催「養育院第五病室ニ胃ノ手術デ居リマス。午前中ニ一度ミニ来テ下サイ。詩集一冊下サイ。午後三時頃デモ何時デモヨロシイノデス。(至急来テクレナイト死亡スル、動ケナイノデス)。市電板橋終点ヨリニ丁ホドノ処デス。何カ見学ニナルデシヤウ。氷サトウ、ゴマ塩一ケ忘レズニ持ッテ来テ下サイ。オ願ヒシマス。何カ甘イ菓子一折リ下サイ。死別トシテ。」矢野文夫宛昭和十五年十月十ニ日 満四十九才没」「手水舎」。青竹の樋が施されていた。正面に「不忍池辯天堂」。ここにも「東叡山全景」案内が。「芭蕉翁」碑。正面に大きく「芭蕉翁」の文字があるだけで、裏にも側面にも文字はなし。いつ、だれが、何の目的で、立てたものなのか?「ふぐ供養碑」。供養碑には「岸信介謹書」と。「ふぐ供養碑」の上には大きな河豚(ふぐ)が。トラフグであろうか?「ふく供養碑建立趣旨世俗に「ふぐは食いたし命は惜しし」という文句がありますが昔は相當多くの中毒死者を出したものであります 私共ふぐ料理業者はこの天下の珍味のふぐを安心して都民の皆様に料理して提供したい念願から昭和五年ふぐ料理連盟を結成し古来秘密にされていた料理法も講習會などを開催してふぐの毒素を除去する調理法を組合員に公開 完全調理したふぐは安心であることを世人に認識せしめたのであります大東亜戦争の折り 食糧難のため東京都に於て雑炊食堂開始にあたり當連盟は率先之に加わり各漁場に今迄廢棄していたふぐを中央市場に出荷するよう要請し完全除毒したふぐの雑炊を一般都民の方々に供し食糧難の一端に寄與したのであります 斯くしてふぐの需要は年々増加の一途をたどり中毒者は極限されてきたのであります 昭和二十四年東京都衛生局より當連盟に對しふぐ調理師試験實施について協力方の要請があり連盟は社會公共福祉のため全幅の支持をもってこれが實現を圖り努力を續けた結果今日では東京都のふぐ中毒者は皆無になった次第であります私共はこの天與の玉饌として天分を果たした幾千萬のふぐの霊に満腔の感謝をささげ今後絶對安心してふぐを召し上がられることを祈念し茲に別記會員有志の協力によってふぐ供養碑を建立した所以であります昭和四十年九月 日建之東京ふぐ料理連盟會長 宮崎 登識」「杵屋六翁」碑。江戸時代末期、長唄中興の祖だった杵屋六三郎を賛辞するために作られたもので、石碑手前左の石柱には「六翁の歌碑」が刻まれていた。「初代六翁 歌碑たるまねば どなたもよしや 綱よりも 細き三筋の 糸の世渡り」明治28年建立と。「八橋検校顯彰碑」。八橋検校(1614-1685)は、生田流、山田流などの箏曲の祖と言われている。箏組歌13曲、段物3曲などを制定し、現在の箏曲の基礎を築いた。この顕彰碑は昭和41年(1966)に建立。顕彰碑の下方には石造りの箏も置かれていた。「八橋検校顯彰碑」左右の手前に曲がっている部分には、小さい字で文章が書いてあった。右側には「八橋検校史傅俗箏の開祖八橋検校(やつはしけんぎょう)は慶長十九年奥州磐城平(現福島県平市)に生る(別に九州小倉生の説あれども多くの文献による)盲目にして音楽を志し未だ在世中の摂州堺の石村検校 虎沢検校 山野井検校の伝を受けて 摂津に加賀都(後の柳川検校)と城秀(後の八橋検校)の二人の座頭の三味線名手ありと称された人物であった その加賀都三絃独自の本手を作って独立一流を樹てた そこで先鞭をつけられた城秀は潔く三絃を捨てて一念発起 自らの進路を箏に求めて 従来の雅箏楽箏に着目 それをやさしく俗箏として開発し 一般庶民の音曲として世俗に投ぜんことを念願して 転向邁進する事を決意した即ち当時江戸に在った元善導寺の僧法水を慕うて江戸に下り 筑紫流の筝を学んだ その後更に九州に下り肥前諫早の慶巌寺の玄恕(九州筑紫の善導寺の賢順の門弟)に随身して奥儀を習得したとの説もある その後寛永十三年(八橋二十三歳)京都に上り 寺尾検校札下として職格を得て山住勾当となる 同十六年(二十六歳)昇進して上永検校となり 名を城談と称し後に八橋検校城談と改む若き座頭の三絃名手の一人加賀都は京に上って柳川検校となり 座頭の一人城秀は江戸に下り 後京に上って八橋検校となり 俗箏の開山として一流をひらいた その八橋の流れを酌む者相ついで三百余年 箏の音と八橋の名は永遠に絶えないであろう 八橋検校 慶長十九年生 貞享二年六月十二日歿 享年七十二歳 法号 鏡覚院殿円応順心居士 墓碑は京都市左京区黒谷山内常光院(浄土宗)に在る」と。左側には「頌辞箏は古来雅箏や楽箏で知られていたが 概ね高雅に過ぎて庶民階級の音楽としては縁遠いものであった そこでこの箏を通俗化して民衆の音楽とすることを念願した八橋検校は 盲人の音感性能と全身全霊をそれに傾注して箏曲の民衆化を企図した 即ち俗耳に入り易い箏曲として 筑紫楽の曲を或は増補改訂し或は編曲して俗箏の新調(平調子)に乗せ 別に新作を加えて 箏絃の十三本に因み十三曲を俗箏の本曲として世に出した 歌詞も古雅の格調の高いを選び別に調子を雲井にして当時流行の弄斎節を唄った雲井弄斎と 外に歌詞のない平調子の「しらべもの」六段八段乱輪舌を 箏の調べの真行草の純器楽曲とし 合わせて 十七曲を今に伝承しておる 中でも六段は整然とした形式で 前奏の外格段何れも定規の拍子数で三百年来些かの狂いもなく 現代まで流行をつづけている箏曲の代表曲である そしてそれは八橋検校の魂のこもった音霊そのものの伝統である かくして脈々三百有余年声楽万能の徳川期に 敢然として器楽性に富む箏曲を固守して 盲人独特の官能をもって 箏の真韻を得て 生田山田その他の各流を生み 今も尚わが民族の楽心をあたためているその功 は日月と共に消えないであろう斯くして非凡の卓見による八橋検校の抱負は筑紫箏に育ち俗箏として根を下ろし 三曲としての花を開き 邦楽に結実して今や国際的にまで進出している その筝曲の根幹は 実にわが八橋検校の偉大なる功業に成るものである 昭和四十年は八橋検校生誕三百五十年祭に相当するので 日本三曲協会はその功績を讃して記念演奏会を催し それを機会に輝かしい検校の偉功を表彰して永遠に伝え 更に三百幾十年前の八橋検校の音霊と相通ずるものを 六段に求めて 八橋精神こその風格芸魂を敬仰することにした 敢えて顕彰碑を建立する所以であろう 昭和四十一年八月二十一日建之」。更に手前には「六段塚」と刻まれた石も。かの有名な「六段の調」👈リンク を作曲したとも言われており、また京都のお菓子「八つ橋」の名前の元となったとも伝えられている。 「地蔵尊」。「扇塚」碑。石碑の形は、扇には見えませんが、日本舞踊の名手と言われた初代花柳家の花柳寿美の舞扇を納めた塚と伝えられている。扇塚の碑面には、作家佐藤春夫氏の詩文が刻されていた。尾上菊五郎、花柳寿輔、花柳章太郎氏らの手によって建てられたとのこと。碑面には、佐藤春夫の名が刻まれた「あゝ 佳き人のおも影を、志のばざらめや、不忍の、池のばほとりに香を焚き、かたみの阿ふぎ、納めつゝ 佐藤春夫」と。そして「スッポン感謝之碑 蘇叟九十二」と。徳富蘇峰氏92歳の時の揮毫。裏には、スッポンへの感謝が書かれている と。こちらは「いと塚」。「いと塚」は、三味線の糸の供養塚。その隣に「五輪塔」。「東京自動車三十年会記念碑」景色が映り込んでしまったが。「親友の碑」。 上田碩三(電通社長))とマイルス・ボーンUPI副社長が東京湾の突風で亡くなったことを悼み建てられた記念碑である と。そして「不忍池辯天堂」を左側横から。「不忍池」の西側を見る。ほころび初めた梅を・・・・。「不忍池辯天堂」前から。東京都台東区上野公園2−1。「東叡山 寛永寺 不忍池辯天堂■辯天堂の縁起このお堂は、江戸初期の寛永年間に、東叡山寛永寺(天台宗)の開山、慈眼大師天海大僧正によって建立されました。天海大僧正は、「見立て」という思想によって上野の山を設計していきました。これは、寛永寺というお寺を新しく建立するにあたり、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てたことを意味します。不忍池は、辯天さまの持つ琵琶の形に似ている滋賀県の琵琶湖に見立てられ、また元々あった聖天(しょうてん)さまが祀られた小さな島は竹生島に見立てられ、さらに水谷伊勢守(みずのやいせのかみ)勝隆(かつたか)公と相談して、島を大きく造成することで竹生島の「宝厳寺/ほうごんじ」を見立て、このお堂を建立したのです。太平洋戦争の空襲で一帯は焼けてしまいましたが昭和33(1958)年に復興し、また昭和41(1966)年には芸術院会員であった児玉希望(こだまきぼう)画伯による龍の天井絵が、また門下による季節の花の絵が奉納されました。■辯才天の縁日「巳の日」辯天堂にお祀りされるご本尊さまは秘仏「辯才天」です。学問や音楽と芸能の守り神として広く信仰され、また「辯才天」とも書くことから、金運上昇といったご利益があります。なおこのお堂の辯才天は、8本の腕それぞれに悪や災難を遠ざける徳の象徴である仏具を持つ「八臂辯才天/はっぴべんざいてん」さまです。辯才天は、もともとインドのサラスヴァティー河の神格化から生まれたインド伝来の女神です。そのため河川が曲折して土地を「蛇行」することから、水と蛇と深い関わりがあると古来より考えられました。そのためこのお堂では毎月の「巳の日」を縁日としています。またこのお堂のご本尊さまは、顔が翁で体が蛇というお姿の「宇賀神」を頭上にいただいています辯才天と宇賀神はいずれも水と深く関わり、水は豊かな産物の元であることから、どちらも五穀豊穣につながる福神として古来より信仰されてきました。毎年9月に行われる「巳成金(みなるかね大祭」では、年に一度の秘仏ご本尊の関係と、小判のお守りや福財布をお授けしています。■七福神のはなし不忍池の辯天さまは江戸最古の七福神とされる「谷中七福神」のひとつです。七福神への信仰は江戸時代に大変に盛んになりましたが、これを広めたのが天海大僧正であったと言われています。当時は七福神が宝船に乗った絵を正月に買い求め、枕の下に敷いて「よい初夢」を期待するという風習が広く行われていました。現在も谷中七福神めぐりの期間は多くの参詣者を集めています。 寛永寺 教化部」 本堂内部。折り畳まれた巨大な提灯には「辯才天尊」と書かれているようだ。堂内にあった「龍の天井絵。」「御朱印授與所」。「辯天堂御真言辯才天 オン ソラソバテイエイ ソワカ大黒天 オン マカキュラヤ ソワカ毘沙門天 オン ベイシラマナヤ ソワカ宇迦神社 オン ウガヤジャヤ ギャラベイ ソワカ一字金輪 ボロン」御朱印。八角形の屋根の「如意宝珠」を見る。「宇賀神」弁天堂再建60年大黒堂再建50年を記念して2018年に造立され、開眼法要が行われた。こちらの「宇賀神」は、おじいさんの頭をして、身体は蛇のとぐろを巻く、人頭蛇体のお姿。ご本尊・弁財天さまの頭の上に乗っているが、その「宇賀神」さまだけの尊像が造立されているのだ と。「辯天堂」本堂前には、弁財天のシンボルである青銅製の「琵琶」が。「五番組」と書かれた石塔?が本堂石段の途中の両脇に。江戸町火消「五番組」が奉納したものであろうか?「不忍池辯天堂」前から参道を振り返る。弁天堂の右側に「大黒天堂(護摩堂)」があった。「東叡山 寛永寺 不忍池 辨天堂 大黒堂■大黒天とはこのお堂は、豊臣秀吉公が大切に護持したと伝わる大黒天が祀られる、東叡山寛永寺(天台宗)の伽藍の一つです。大黒天はもともとインド古来の「マハーカーラ」という戦争の神、時間を支配する恐ろしい神と考えられてきました。やがて日本に仏教が伝わり、民間信仰の対象となってからは、日本古来の福神の大国主命と同体である(大黒と大国は同音であるため)という考 えが生まれて武神から福へと変化し、広く親しまれるようになりました。打ち出の小槌や米俵に乗って福袋を担ぐお姿で知られる大黒天のご利益は、開運招福や家門繁栄、富貴をもたらすなどであり、また寺院の食料の守護神として祀られるようになりました。この大黒堂は太平洋戦争で焼失しましたが、ご本尊の大黒天は安泰で、昭和43年に旧位置に再建されました。■大黒さまの縁日「甲子(きのえね)」大黒天の縁日である「甲子の日」は、毎日に千支を当てはめると最初に当る日です。そのため物事をはじめるのに縁起を担ぐ習慣が昔からあり、大切にされてきました。また大黒天が食料の守護神とされたことから、鎌倉時代にはその使いが鼠(ねずみ)と考えられるようになりました。子(ね)を鼠と結びつかせ、鼠を大黒天の使者みなして甲子の日に大黒天祭(甲子祭)が行われ、甲子侍(かっしまち)と言って子の刻(23時頃)過ぎまで起きて大豆、黒豆、二股大根などをお供えし大黒天を祀るという習慣に通じました。■辯天さまと大黒さま辯才天を祀る辯天堂の境内になぜ大黒天が祀られているのでしょうか。これは、大黒天と毘沙門天と辯才天が合体した「三面大黒」にその淵源を探ることが出来ます。大黒天は「食料や富を授ける」、毘沙門天は「武力や勇気を授ける」、辯才天は「美や才能を授ける」福神とされ、六本の手には衆生を救済し福徳を授けるとされる様々な道具を持っており、合体することでよりご利益が増えると考えらえました。この三面大黒を最初に信仰されたのが日本天台宗の宗祖である伝教大師最澄さまであり、また豊臣秀吉公も出世を願って三面大黒を信仰したことで「豊太閤」となったと伝えられています。江戸最古の七福神とされる「谷中七福神」の大黒天は、寛永寺の旧釈迦堂である護国院に祀られています。 ☆江戸最古の七福神とされる「谷中七福神」の大黒天は、寛永寺の旧釈迦堂である護国院に祀られています。 寛永寺 教化部」 「豊太閤護持大黒天堂」と。「大黒堂」を正面から。右手にあったのが「魚塚」。「魚塚」。「建立趣旨四海を海に囲まれた我が国では、古来から魚介類が海の幸として、また國民の蛋白補給源として、食生活の上に重要な役割を果たしている。因に東京都における魚市場の歴史は徳川家康が幕府を開いた慶長八年に始まり、いわゆる魚河岸と稱され、當時魚屋の心意気氣を表徴した一心太助の人情噺は魚河岸の発展とともに江戸の華としてその活躍が人々に云い傳えられた。私共水産小売業者は、水揚げされる水産資源に感謝し慎んで魚の霊を悼み、組合創立五十周年を機に供養のためこの塚を建立して慰靈の念を新たにする。昭和五十一年九月吉日建之」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.02.26
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そして次に訪ねたのが「彰義隊戦死者碑」。江戸時代には東叡山寛永寺の境内地だった上野恩賜公園、西郷隆盛像近くにあるのがこの「彰義隊戦死者碑」。慶応4年5月15日(1868年7月4日)の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争で戦死した彰義隊士を荼毘に付したのが、西郷像のあるここ山王台。高さ6.7mの墓石には旧幕臣・山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)の筆によって「彰義隊」の文字はなく「戦死之墓」とのみ書かれた墓石は、官に憚る賊軍の墓であることを物語っていたのであった。そして入口への扉には彰義隊の紋・「義」が。「彰義隊の墓(台東区有形文化財)台東区上野公園一番江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政泰還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(一八六八)ニ月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遣体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。正面の小墓石は、明治ニ年(一八六九)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)十ニ月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。 平成八年三月 台東区教育委員会」「彰義隊の墓十五代将軍徳川慶喜の一橋藩時代の側近家来であった小川興郷らは、慶応四年(一八六八年)、大政奉還 をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命懇願のために同士をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊 」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦五月十五日の上野戦争 は、武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた。生き残った小川ら隊士は、明治七年(一八七四年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦士の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。以後、百二十年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。」「彰義隊奮戦之図小川興郷が画家に指示して描かせたもので、他に存在する錦絵と違って、史実に忠実な絵と伝えられている。」「彰義隊の墓」に向かい合うように立つ「彰義」碑。「彰義」と。「彰義」とは「義を明らかにすること・義をあらわすこと」。「彰義隊墓標の来由」と。「彰義隊墓標ノ来由夫レ皇国時運ノ沿革ヲ観ルニ、昔、天網紐ヲ解キ、相家権ヲ執リ、保平ノ乱、政権部門ニ遷リテヨリ、徳川公ノ治世実ニ二百有余年、四民此沢ニ浴セザルモノナシ。然リ而シテ時運循環終ニ嘉永六年中、北亜米利加合衆国ノ使節、相州浦賀ニ渡来スルヤ以降、世間紛擾、尊王攘夷ノ士四方ニ起コリ、殺気天ヲ覆ヒ、腥風地ヲ捲キ、人心恟々其堵ニ安ンゼズ。茲ニ於テ徳川将軍宇内ノ形成ヲ洞察セラレ、方今、外国交際日々頻繁ニ及ブニ就イテハ政権一途ニ出デザレバ皇国ノ綱紀相立チ難シト従来ノ旧習ヲ改メ、東照公爾来兵馬ノ大権ヲ一朝ニ廃棄シ乃チ政権ヲ朝廷ニ帰サセラレ広ク天下ノ衆議ヲ尽シ聖断ヲ仰ギ、上下同心協力共ニ国家ヲ富岳ノ安キニ置キ宸襟ヲ安ンジ奉ル可シトノ宏遠ノ深慮ヨリ断然此議ヲ奉聞セラレタルニ朝廷聞召サレ外夷一条ハ衆議ヲ尽シ其外諸侯ノ進退ハ両役取扱イ自余ノ義ハ召ノ諸侯上京迄ノ処、支配地市中取締等先ズ是迄ノ通リト仰セ出サレタリ。然リ而シテ慶応四年正月三日、徳川将軍召ニ依リ上京ノ先途、豈図ラン突然鳥羽伏見ノ変起リ、尋デ東征ノ師下ルト聞クヤ実ニ憂憤戦ヲ主トナス者アリ、和ヲ主トナス者アリ、両議紛々鼎座密議ヲ凝ラシ、偏ニ君家ノ寃雪ガズンバ止マズ、所謂辱カシメラレバ臣死スルノ時ナリト寝食ヲ忘レ日夜焦慮実ニ慨然ニ堪エザルニ我君固ヨリ時世ヲ深ク鑑ミラレ、万民ノ為ニ畏レ多クモ過失ヲ一身ニ受ケセラレ、只管恭順ヲ旨トセラレ、一般ニ令シテ曰ク、東征ノ師来ルモ必ズ謹ンデ此レヲ迎フベシ、若シ然ラズシテ抗スルモノアラバ尚我身ニ刃ヲサスモノナリト説キ万石以上ノ者ノ役ハ悉ク免ジ其以下ト雖モ近畿関西ニ知行アルモノハ聊カ懸念ナク速ヤカニ上京シ帰順ノ大義ヲ尽スベシト布告シ、又或イハ暇ヲ請ウモノハ不本意ナガラ其意ニ任ズベシト厚ク示サレタリ。而シテ大城ヲ出デラレ東台ニ屏居セラルルニ至ル。嗚呼臣子ノ分トシテ之ヲ如何ニセンヤ。然レドモ君命ノ重キ復之ヲ如何トモ為ス能ハザルヲ以テ該命ヲ遵奉シ斯ニ同志ノ士相謀リ即チ彰義隊名ノ認可ヲ得テ浅草東本願寺ヘ会合シ死ヲ盟ヒ飽クマデ君家朝敵ノ汚名ヲ雪ガンモノト哀訴ノ議起ル。然ルニ我君猶水戸表ヘ退カルル趣ニ付、随従ノ議ヲ請願シタルニ容レラレズ而シテ千住駅本陣ニ於イテ懇篤ノ命ヲ蒙リ、以テ輪王寺宮殿下ヲ始メ奉リ、上野山内一般ノ護衛ヲ謹而奉仕セヨトノ儀ニ付、命ヲ奉ジ更ニ東台ニ移リ屯集シタルモノトナリ。而シテ夜、大総督府ヨリ輪王寺宮殿下ヲ始メ徳川家累代ノ宗廟、勅額、宝器等守衛ノ段、マコトニ精忠ニ思召サレ、ナオ勉励イタスベシトノ感状ヲ賜ハリタリ。是ヨリ先、各藩士中ニ我々ト同感ノ士漸次集リ来リテ我付属隊トナルモノ多ク。随テソノ勢ヒ益々熾ナルニ因リ、図ラザリキ遂ニ嫌疑ヲ蒙リ、畏レ多クモ天然ニ触レタル趣ヲ以テ追討ノ不幸ニ逢ヘリ。実ニ慶応四年五月十五日昧爽、突然官軍ノ攻撃ヲ蒙レリ。蓋シ大小ノ侯伯、都テ二十八藩、其ノ勢凡ソ二万八戦人ナリト。夫レ素ヨリ衆寡当ルベカラザルハ論ヲ俟タザルノミナラズ、業己ニ事斯ニ究リ剰ヘ自然君命ニ悖リ、国賊ノ叛命ヲ蒙リタリシヲ今ヤ如何セン。然リト雖モ素心確固トシテ動カラザル所以ノモノハ蓋シ他ナシ。元来君命ニ乖キ叨リニ錦旗ニ抗スルモノニアラザルハ勿論ナレドモ己ニ此期ニ臨ミ、豈順逆正邪ヲ議論スルノ暇アランヤ。夫レ然リ乃チ武門ノ本意、忠ト義ト以テ一死アルノミ。親王ヲ補翼シ禦戦ス。而シテ親王、当山ヲ避ケ、会津若松城ヘ成ラセラルルニ付、各〇従ス。此時砲弾ノ下ニ斃ルルモノ是レ皆善ク武門武士ノ道ヲ尽シタルモノナリト謂可シ。故ニ官又特別ヲ以テ其遺骸ヲ悉ク此ノ所ニ埋メラレタリ。爾来王政維新ノ洪業全ク成リ、益々開明ノ域ニ進ムニ際リ、爰ニ墓碑建設ノ聴許ヲ得ルニ至ル。茲ニ於イテ一朝王師ニ抗シタルモノナリトハ雖モ、然レドモ時ニ洵ニ止ムヲ得ズ、骨ヲ柳営墳墓ノ地ニ留メタルモノナリ。豈敢テ其弧忠ヲ憐ミ、其義列ヲ称セザルモノアランヤ。夫レ誠ニ然リトス。然ルガ故ニ旧薩洲候ヲ始メ其他ノ諸君ヨリ墓碑建設費ノ内トシテ多少寄付セラレタルモ工事発起者ノ為ニハ大事業ナリシニ該工事央ニシテ種々ノ障碍起リ頗ル困難ナリシヲ当時小石川白山前日蓮宗大乗寺住職目今大本山池上本門寺貫主権大僧正鶏渓日舜上人ノ大慈善ヲ以テ大イニ是ヲ補助セラレタルニヨリ此碑全ク成ル。爾来年年歳歳ニ参拝者多キヲ加フルニ至ル。便チ一視同仁、天恩ノ厚キ、諸君ノ賛助ニ由ルト雖モ慈愛深キニアラザルヨリハ安ンゾ能ク此ニ至ランヤ依ッテ恭シク地価ノ忠魂ヲ聊カ慰センガ為ニ併セテ参拝諸君ノ参考ニ併セント欲シ謹而是ヲ識ス。明治十五年五月建、旧彰義隊分隊天王寺詰組頭小川漳椙太事、当墓碑発起担当者静岡県士族小川興郷謹白」碑文の上部のみをズームして。次に訪ねたのが「清水観音堂」境内の「秋色桜(しゅうしょくさくら)」。根本の部分。「秋色桜」の開花時の姿をネットから。上野は、江戸のはじめから桜の名所として知られていた。数多くの桜樹の中には、固有の名を付せられた樹も何本かあり、その代表的なものが、この「秋色桜」である。ヤエベニシダレザクラ(八重紅枝垂れ桜)という種類であると。現在の桜は樹齢40年程度の若木で、1978年に植え接がれたもので9代目位であると言われていると。「秋色桜」の近くには歌碑があった。「井戸ばたの 桜あぶなし 酒の酔」。「秋色桜台東区上野公園一番上野は、江戸のはじめから桜の名所として知られていた。数多くの桜樹の中には、固有の名を付せられた樹も何本かあり、その代表的なものが、この「秋色桜」である。井戸ばたの 桜あぶなし 酒の酔この句は元禄の頃、日本橋小網町の菜子屋の娘お秋が、花見客で賑わう井戸端の様子を詠んだものである。桜の枝に結ばれたこの句は、輪王寺宮に賞せられ、一躍江戸中の大評判となった。お秋は当時十三歳だったと伝えられている。俳号を菊后亭秋色と号した。以来この桜は、「秋色桜」と呼ばれている。ただし、当時の井戸は摺鉢山の所ともいい正確な位置については定かでない。お秋は、九歳で宝井其角の門に入り、其角没後はその点印を預かる程の才媛であった。享保十年(一七二五)没と伝えられる。碑は、昭和十五年十月、聴鴬荘主人により建てられた。現在の桜は、昭和五十三年に植え接いだもので、およそ九代目にあたると想像される。平成八年七月 台東区教育委員会」「秋色桜」の近くの石灯籠。「東叡山全景」「東叡山全景」では、上野公園までが領域となっている。天台宗別格大本山、徳川将軍家菩提「東叡山寛永寺」、天台宗関東総本山の寺院、開基は徳川家光、開山は天海、本尊は薬師如来である。 徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川将軍15人のうち6人(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が眠っている。また、本堂裏手にある書院には、徳川慶喜が水戸退去の前に2か月ほど蟄居(ちっきょ)していた部屋(葵の間、あるいは蟄居の間)が保存されている。寛永寺墓地には、常憲院霊廟勅額門(重要文化財)がある。(非公開)「東叡山 寛永寺 清水観音堂■清水観音堂の縁起清水観音堂は、寛永八(一六三一)年に慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正により天台宗東叡山寛永寺の参堂として建立されました。初めは摺鉢(すりばち)山に建てられ、その後、元禄初期に現在地に移築されました。上野の山に現存する、建年時が明確な最古の建造物です。天海大憎正は寛永ニ(一六ニ五)年に、ニ代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開きました。これは、比叡山が京都御所の鬼門(艮東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したのてす。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と境内に建立していく中で、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずてら)を見立て、同じく舞台作りで建てられています。平成ニ年から文化財保存修理が行われ、平成八年に竣工、元禄移築時の面影を再現するに至る、国指定重要丈化財です。■ご本尊「千手観世音菩薩」の伝説京都清水寺からご遷座された秘仏御本尊・千手観世音菩薩は、平安時代の比叡山の高僧・恵信僧都の作と伝えられています。合掌したお手・禅定印を結ぶお手の他に小さなお手が仏教で考えるあらゆる世界の生きとし生けるもののすべてに、慈悲の手をさしのべるお姿を表しています。また、『平家物語』に述べられる、主馬判官(しゅめのほうがん)平盛久(たいらのもりひさ)にまつわる伝説があります。盛久は常日頃より清水寺へ参拝を続けていましたが、源平の合戦で敗れ、鎌倉で斬首されそうになります。その際に刀が折れて盛久の命が助かり、また北条政子の夢に清水寺の高僧が現われて盛久の赦免を願ったので、驚いた源頼朝は盛久を助命しました。後に盛久が清水寺に参拝すると、盛久が斬首されそうになった際に観音像が倒れたという話を聞きます。こうして観音像に護られたことに気づいた盛久は感涙にむせんだ、という物語です。この奇跡が午の年・午の日・午の刻に起きたことに因み、ご開帳は年に一日、二月の「初午(はつうま)法楽」の日に行う縁起となっているのです。」■脇尊の子育て観音様お堂の右に祀られる脇尊の仏さまは「子育て観音」で、子授け・安産・子育ての観音さまとして多くの信仰を集めています。観音さまのご利益により子を授かった人々から、子供の健やかな成長を願って多くの身代わり人形が奉納されており、これら人形の供養が、かわいがっていた人形に感謝する人形供養となって長年続けられています。人形供養は毎年九月二十五日十四時から行われます。 寛永寺教化部」「人形供養碑」。「人形 それは人の心を明るく楽しく豊かにし子どもを優しく美しく健やかにする」と。「人形供養碑清水観音堂に安置されている子育観音は子宝に恵まれない人々が信仰すると願いが叶うと言い伝えられています。そして子供が授かると丈夫に育つようにと人形を奉納します。その奉納された人形と家庭で飾ってよごれたり、子供と遊んでこわれたりした人形を秋の彼岸の終わりにここに集めて読経のうえ荼毘に付します。それらの人形を回向し供養するためにこの碑が建てられたのです。 清水観音堂」そして「手水舎」。龍の水吐口と水盤。子育観音の絵馬。「恋愛成就」と書かれた「秋色桜」の絵馬。合格祈願の絵馬には「桜咲く」の「秋色桜」の花弁の形が。2012年12月、150年ぶりに復活した「月の松」を舞台から。独特の枝ぶりが特徴の「月の松」。江戸時代から庶民に親しまれており、江戸の名所を描いた歌川広重の連作浮世絵シリーズ「名所江戸百景」には「上野山内月のまつ」「上野清水堂不忍ノ池」の2枚に描かれている。しかし、明治初期の台風で消失したままとなっていた。この復活について同寺では、「江戸の風景を取り戻し、新たな観光名所として上野公園を盛り上げたかった」と。「歌川広重 名所江戸百景 上野山内月のまつ」がこれ。「歌川広重 名所江戸百景 上野清水堂不忍ノ池」がこれ。現在のものがこれ。「松の月」の中心部近くに、この後訪ねた「不忍池辯天堂」の姿が見えた。歌川国貞「中古倭風俗旧幕大藩の姫君上野清水御花見之図」(寛永寺長臈浦井正明氏蔵)清水堂の舞台から不忍池の弁天島そして山桜を楽しむ女性たちの姿が。扁額には「施無畏(せむい)」と、その手前に鰐口。「施無畏」とは仏・菩薩 (ぼさつ) が衆生 (しゅじょう) の恐れの心を取り去って救うこと。内陣。舞台からズームして。扁額は御本尊の「千手観世音」。本堂への連絡回廊。雪吊り。舞台隅から「本堂」を振り返る。舞台から手水舎を。「人形供養」案内。「重要文化財 寛永寺 清水観音堂 江戸時代寛永8年建立」。石段を下る。「清水坂この石段坂を「清水坂」という。坂の上には、東叡山寛永寺清水観音堂があり、坂の名はその堂の名称にちなむ。清水観音堂は寛永八年(1631)に京都の清水寺を模し摺鉢山の上に創建され,元禄七年(一六九四)に現在地へ移転した。国の重要文化財に指定されている。 平成十二年八月 台東区教育委員会」ここにも「大江戸 上野清水堂 不忍池」が。渓斎英泉作・『東都花暦 上野清水之桜』。東都花暦十景と銘打った錦絵。清水観音堂の山桜(当時はまだソメイヨシノがなかった)と。「清水坂」を下って、懸造りの「清水観音堂 本堂」、「月の松」を見上げた。「月の松」にズームして。更に不忍池に向かって進むと道路脇には「浮世絵行燈」が設置されていた。。春を待つ桜の古木の根元にちょこんと可愛らしい行燈。両脇ではなく、片方だけに設置されていたのであった。江戸から明治にかけての華やかな上野が描かれた浮世絵を絵柄にした「浮世絵行燈」120基がここ上野恩賜公園に並ぶ「うえの華灯路」。この催しは、上野に新しい賑わいを創り出し、観光客などの回遊性をさらに高めようと、区観光課が企画してスタートしたもの。設置場所は、大噴水広場北側から清水観音堂階段下にかけての園路で、約300メートルの「華灯路」。行燈は底面が23センチ四方、天井面が19センチ四方、高さ30センチの台形。枠の鉄フレームに浮世絵シールが添付されたアクリル板を3面(背面は保護用のスチール板)にはめ込んでいる。夜間は行燈内部の20ワット電球が点灯し浮世絵を照らし出すのだと。こちらは「東京上野不忍競馬之図」。設置されている浮世絵行燈は歌川広重の「名所江戸百景」をモチーフにした120種類と、上野の「花見の様子」「不忍池」「東照宮」などの浮世絵をモチーフにした10種類の合計130種類と。「名所江戸百景」をモチーフにした120基が置かれた行燈の絵柄(浮世絵)は以下の10種類であると。上野清水堂不忍ノ池上野山下上野黒門前花見連上野山王山上野東照宮東京名所上野停車場之真景上野公園奠都三十年祭祝賀会上野公園美盛桜之景東都上野花見東京上野不忍競馬之図「猿わか町よるの景」「湯しま天神坂上眺望」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.02.25
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この日は2月9日(木)、上野の「国立科学博物館」で開催されている特別展「毒」を訪ねるために小田急線を利用して新宿駅へ。そしてJR山手線に乗り換える。そして上野駅に到着し、不忍口に向かって進む。特別展「毒」は15:00入場にてネットで事前予約していたが、久しぶりに「都立 上野恩賜公園(通称は上野公園)」の散策を計画し、自宅を早めに出たのであった。線路下を南に向かって歩く。右手に「中央通り」を見る。正面に見えたのが「UENO3153(西郷さん)ビル」。「UENO3153(西郷さん)ビル」は上野公園の西郷さんの銅像前を屋上とする商業施設で、JR上野駅と京成上野駅に挟まれた上野の要所に位置。楽しい飲食や便利な買い物の場として、地域の発展に貢献する古くて新しい東京下町、「UENO3153(西郷さん)ビル」である と。JR上野駅方向を振り返る。そして正面に「京成上野駅」が。その横に「上野恩賜公園」への大きな石段を上って行った。右手にあったのが「黒門」のモニュメント。「黒門(くろもん)この壁泉は、かってこの地にあった「黒門」の姿を表現しています。「黒門」は、寛永寺の総門です。かつては現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の境内でした。公園入口付近には「御橋」または「三橋」と呼ばれる橋かあって寺の正面入口となっておりその先に「黒門」がありました。幕末の上野戦争で、最も激しい戦闘が行われたのは、黒門付近です。戦いは主として銃撃戦でした。そのため、黒門にも多くの銃弾が当たり、門にはその痕が無数に残りました。焼け残った黒門は明治40年(1907年)、東京都荒川区の円通寺に移築されました。円通寺には彰義隊の墓所があり、黒門とともに幕末の歴史を今に伝えています。」円通寺に移築した黒門をネットから。「東京名所四十八景」「上野黒門前花見連」都立中央図書館特別文庫室所蔵絵の前方に黒門の姿が解るのであった。「上野ミュージアムマップ」① 下町風俗資料館② 上野の森美術館③ 国立西洋美術館④ 国立科学博物館⑤ 東京国立博物館⑥ 東京都美術館⑦ 東京芸術大学美術館 他があると。「上野恩賜公園案内図」。案内図に近づいて。「蜀山人(しょくさんじん)の碑」。「蜀山人の碑台東区上野公園四番一めんの花は碁盤の 上野山 黒門前にかかるしら雲 蜀山人碑面には、大書してこの歌を刻む。ついで、蜀山人についての説明、碑建設のいきさつを、細字で刻んでいる。歌の文字は蜀山人の自筆であるという。蜀山人は姓を大田、名を覃、通称を直次郎といった。蜀山人はその号である。南畝(なんぼ)・四方赤良(よものあから)など、別号多く、一般には大田南畝と呼ぶ。幕臣であったが、狂文・狂歌を良くし、漢学・国学を学んで博識であった。江戸文人の典型といわれ、狂歌の分野では唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)・朱楽管江(あけらかんこう)とともに、三大家と評された。文政六年(一八二三)没。江戸時代、上野は桜の名所であった。昭和十三年、寛永寺総門の黒門跡に、その桜と黒門を詠み込む蜀山人の歌一首を刻み、碑が建てられた。郷上色豊かな建碑といっていい。平成四年十一月台東区教育委員会」多くの手形が並んでいた。ネットで調べて見ると、国民栄誉賞の人の手形であると。王貞治。「王 貞治(プロ野球)ホームランの世界記録を達成、多くの人に夢を与え、又球界発展に貢献した。」古賀政男。「故・古賀政男(作曲家)昭和の歌謡曲を通して大衆に日本の心を語り続けた。」長谷川一夫。「故・長谷川一夫(俳優)戦前・戦後を通じてその演技は、多くの国民を魅了し、感激を与えた。」日本文化スポーツ栄誉賞広場と呼ばれていると。石柱は全部で15。設置は上野観光連盟だが、財政的にひっ迫。以降の12名の受賞石柱設置は宙に浮いているのだと。「国民栄誉賞 受賞者一覧」👈リンク上野公園前の交差点方向に歩くとあったのが「上野恩賜公園」碑。「日本の都市公園100選 東京都立上野恩賜公園」碑右手にあったのが「警視庁上野警察署 公園前交番」。そして前方にあった噴水。横から。噴水が、蛙の口から出ていた。この時は、円形の中心ではなく、手前に噴出されていた。「カエルの噴水」と。平成12年(2000年)3月完成。作者不明 と。そして「黒門」跡を左に見て更に石段を上って行った。「旧町名由来案内下町まちしるべ旧上野恩賜公園江戸時代の初期、この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永ニ年(一六ニ五年)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応四年(一八六八年)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治六年一月の太政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。恩賜公園のいわれは、大正十三年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模・景観はもとより施設など我が国有数の都市型公園として整備された。面積六十ニ万平方メートル余り。上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言して実現したものである。」そして「西郷隆盛像」。「上野の西郷さん」は、身長370.1cm、胸囲256.7cm、足55.1cmという、大変大きくて立派な像。明治23(1890)年に銅像建立の話が起こり、明治26(1893)年から銅像を建てるための募金運動が始まり、その寄付金によって銅像が制作され、明治31(1898)年12月18日に除幕式が行なわれた とのこと。明治維新の指導者である西郷隆盛は、明治10(1899)年の西南の役で、天皇や朝廷に敵対する勢力である朝敵となり死亡しますが、5年後には許されて朝敵ではなくなった。その後、明治22(1889)年には大日本帝国憲法発布に伴う大赦で復権している。大赦の翌年という早いタイミングで銅像をつくる話が出ているのは、隆盛を慕う人がそれほど多かったということ。なお、銅像建立の募金の際は、明治天皇も金一封を出していると。西郷隆盛像は鹿児島県霧島市溝辺町の西郷公園や鹿児島市の像も有名で、それぞれ風格のある雄姿を見せているのであった。西郷隆盛像の銘板。制作の経緯などが書いてある と。「西郷隆盛君の偉功は、人の耳目にあれば、すべからく復、賛述すべし。前年勅により、特に正三位を追贈さる。天恩優渥(情け深いこと)にして、衆感激せざる莫(な)し。故に吉井友実同志と謀り、銅像を鋳して以て追慕の情を表す。朝旨(朝廷の意向)ありて、金を賜りて費を佽(たす)け、資に捐(あた)ふ。此の挙に賛ずる者二万五千余人。明治二十六年に起工し、三十年に至りて竣(おわ)る。乃ち、之を上野山王台に建て、事の由を記し、以って後に伝ふ。」とネットから。顔をズームして。足元には薩摩犬の「ツン」が。「敬天愛人西郷隆盛と銅像の由来」碑。「西郷隆盛と銅像の由来西郷隆盛は文政十年(一八ニ七年)十二月七日薩摩藩士として鹿児島加冶屋町に生まれた。通称吉之助、南州はその号である。若くして、藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されることニ回、元治元年(一八六四年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応三年(一八六七年)ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦火から救ったことは余りにも有名である。その後は故郷に退隠したが、明治四年(一八七一年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて状上京、参議に昇任し、廃藩置県その他の近代国家建設のための主動的役割を果した。然るに、明治六年六月いわゆる征韓論が閣議に上がるや断乎反対して、大使派遣による平和的修好を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷、私学校を興して後進青年の育成に努めた。明治十年ニ月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦七カ月余、ついに敗れて城山に自刃した。九月二十四日、享年五十一才。そのため一時逆賊とされたが、明治二十ニ年ニ月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同志と共に追慕の情を表わすべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志ニ万五千人の醵金を得て、明治二十六年起工、同三十年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村高雲の作である。西郷隆盛の偉大な功業は、その心情たる敬天愛人の至誠没我な精神に発した愛と所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以は実にここに在るのである。」そして「摂政殿下大震災視察碑」。「大正十二年九月十五日 摂政殿下大震災ノ惨状御視察ニ際シ、畏クモ此地ヨリ御展望遊サレ被害ノ情況ヲ聞召サル。越エテ七歳昭和五年三月二十四日 天皇陛下此ニ臨御アラセラレ親シク街衢ノ復興ヲ曫ハセ給フ。乃テ石ヲ此處ニ樹テ以テ 聖恩ヲ不朽ニ傳ヘントス。」裏面には「昭和十年 東京市」と。上野山上での視察中に説明を聞く摂政宮(後の昭和天皇)の写真をネットから。皇太子(摂政宮)は、大正12年9月15日上野公園山王台に赴き、被災状況の説明を受けた。写真に登場しているのは、左から摂政宮、永田秀次郎(東京市長)、湯浅倉平(警視総監)、3名挟んで後藤新平(内務大臣)、2名挟んで福田雅太郎(関東戒厳司令官)。「河鍋暁斎の錦絵」。「東京名所之内 上野山内一覧之図 明治期日本で最初の博覧会、第1回勧業博覧会は上野公園で明治10年8月21日から11月23日にわたって開かれました。開場式には明治天皇皇后両陛下が臨幸されました。陳列館は、東西本館の外、美術館、機械館、農業館、園芸館の6館に分けられ、出品数8万4353点、出品者1万6000余人、入場者は45万人を超えたといわれています。絵図は第2回の勧業博覧会(明治14年)のものとされ、上野はこれ以後、明治期日本の国家的行事の開催常用地となり、博覧会や公式行事が繰り広げていきます。」「東都名所 上野東叡山 全図 江戸期寛永寺の開基は「江戸城の艮(うしとら)すなわち東北の鬼門を守り、天下泰平の祈願所を」と家康・秀忠・家光三代に信任の厚かった大僧正天海が家光に進言したことに始まります。西の比叡山に対して、東の比叡山だから東叡山、寛永寺という寺号は当時の年号をとったもので、大変格式の高い寺院にしか認められないものでした。寛永寺は老中土井利勝を総奉行に、寛永元年(1624)に起工、16年までに本地堂が竣工し、関東天台宗本山となりました。絵図からはその壮厳なたたずまいと徳川の権勢をうかがい知ることができます。この寛永寺の創建によって、上野は歴史的に重要な地として歩んでいくことになります。」西郷隆盛像を振り返る。「Cafe KARMIA」上野公園の隠れ家サロン&カフェ。上野駅から徒歩3分 西郷さんのすぐ目の前。 ・・・つづく・・・
2023.02.24
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「菜の花」、「富士山」をこれでもかと楽しんだ後は、「吾妻神社」に向かって「芝生広場」を南に向かって進む。「案内板」が前方に。「縁結びの神様 吾妻神社 工学博士 伊東忠太氏 設計の社殿」と。「吾妻神社」案内板がここにも。二宮の海は「梅沢海岸」と呼ばれているのだ。階段の小路を下って行った。1分ほどで「吾妻神社」の境内に到着。「奉納 吾妻社 改築寄附 金参阡五百圓」と刻まれた石碑。「吾妻宮」碑。以前は石鳥居に掲げられていた石扁額であろうか?こちらが「吾妻神社」の境内入口に立つ「二の鳥居」?か。狛犬(右・阿形像)。昭和5年(1930)建立。狛犬(左・吽形像)。石鳥居越しに「拝殿」を見る。左手に「手水場」。「拝殿」を正面から。石鳥居(右)。「吾妻大權現御寶前」と刻まれた正徳4年(1714)造立「灯籠」一対、右奥に享和3年(1803)六本木奥惣女中により奉納された「手水鉢」、更に奥東に三武社、奉納額を刻んだ石塔が。石鳥居(左)。「吾妻神社 由緒吾妻神社は梅沢の氏神でその創建は第十二代景行天皇の朝に始まるという。弟橘媛命を祭神とし 日本武尊を配祀する。日本武尊は景行天皇の第三皇子であり、天皇にそむく部族を征伐するため東北におもむく途中、三浦半島走水から海路上総に渡るとき暴風突如に起こり、命は夫にかわり 海神の怒りを鎮めるため夫の武運を祈り、別れに臨んで往事を回想され「サネサシ相武ノ小野ニ燃ユル火ノ ホナカニ立チテ問ヒシ君ハモ」と海中に身を投じた。するとたちまち海は穏やかになったと云う。その七日後に命の御櫛が海辺に 流れつき埋めて御陵を造り、この地を埋沢といい神社前下一帯を梅沢という。この海岸に命の 小袖が磯辺に漂いこれを山頂に祭ったことから、袖ヶ浦海岸と呼んでいる。また日本武尊は東北戦 が終り帰路相模の国から足柄を通り甲斐に出る途中、峠ではるか東方の海をながめ、「ああ吾が妻」と嘆かれたと云う。弟橘媛命の御神像は木彫の千手観音で、既に千数百星霜を経過し、御神像は現在梅沢山等覚院に安置されている。吾妻神社は「縁結びの神」として知られ例祭日は 例大祭 一月 第三日曜日 例祭 八月 十五日」「脇障子」には中国故事に因む彫刻、題材は不明だが、左側「岩山で右手に木枝の杖、腰に2つの瓢箪を下げた翁」、右側「満開の琵琶の花、下の方で実を採る仕草の翁」。「吾妻神社の由来吾妻神社は、二宮町吾妻山の山頂(標高百三十六m)にある神社で、創建は第十二代景行天皇の時代と伝えられています。皇子である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が三浦半島の走水から上総の国に船で渡る時、突然荒波に遭い、妃である弟橘媛命 (オトタチバナヒメノミコト)が身代わりとなって海に身を投げられ波浪を静めたと伝えられています。後に今の梅沢の海岸に妃の櫛が流れ着き、その櫛を埋めて御陵を造ったことから、この地を埋澤と呼び、現在は梅沢地区の氏神様となっております。また、弟橘媛命の小袖が浜辺に漂着し、これを山頂に祭ったと伝えられており、この辺の浜を 袖ヶ浦海岸と呼ばれています。吾妻神社の主神は弟橘媛命で、【縁結びの神様】として有名です。 ~境内に置いてあった資料~より” 」「吾妻神社 社殿について」。1930年(昭和5年)設計社殿の設計者 工学博士 伊東忠太東京帝国大学名誉教授(慶応3年~昭和29年)代表的設計建築物橿原神宮(奈良県)平安神宮(京都府)弥彦神社(新潟県)築地本願寺(東京都)など多数拝殿の彫刻は、有名な彫刻家である小林直光氏によって手掛けられたものと。歴史110年 (景行天皇)頃 弟橋媛命を祭神として創建741年 (天平13年)頃 僧行基が千手院、東光寺を創立824~834年 (天長)頃 僧空海の弟子杲隣が神願寺梅澤山を建立1218年 (建保6年) 源実朝 雄剣を拳納1580年 (天正)頃 本社を修造(小田原城主 北条氏直)1714年 (正徳4年) 石灯寵 奉納(現存)1750年 (寛延3年) 再建改築1883年 (明治16年) 吾妻神社奉納和歌額 奉納(拝殿内現存)1930年 (昭和5年) 吾妻神社 社殿設計完了 社殿改築等奉賛会 発1942年 (昭和17年) 上棟1943年 (昭和18年) 完成内陣。「拝殿」前から境内を見る。境内の石碑群。「吾妻神社 奉納 御神楽」碑。「奉納 金百五拾圓也」。「奉納 金五百圓也」。「三武社」碑。歌碑「 吾妻山純情 」二宮町 梅沢 袖ヶ浦に伝わる 日本武尊と弟橘姫の神話「白峰紅葉清秋を飾る 敵兵野原火謀を図る 建命静かに草薙剣振るい 救軍迎え火平定仇せり 暴風遮断す走水の浜 愛妃鎮座す水神の前 さねさし相武の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問いし君はも 風凪ぎ全軍雄途に発す 静謐夕陽関津に映ゆ 建命人を恋う吾妻山 探訪漂着山関に到る 愛姫静立主君を迎う 相い約す両人永遠の綸」帰路は「梅沢海岸」方向の参道を下る。参拝者の姿はほとんどなく。竹林を見ながら進む。右手の石段の上には「神明社」が鎮座。神奈川県中郡二宮町山西844。近づいて。小さな社。祭神は大日孁貴(おおひるめむちのみこと)。社の下の右側の石碑群には五輪塔もあった。左側の石碑群。道祖神・石仏が。文字「道祖神」碑。碑型: 兜巾型高さ: 58センチメートル造立年月日: 明治42年(1909年)1月15日「地神」碑。「馬頭観世音」碑。「双体道祖神」碑。「妙法道録神」碑。碑型: 兜巾型高さ: 37センチメートル造立年月日: 昭和10年(1935年)9月参道の紅葉。「一の鳥居」が見えて来た。「一の鳥居」を潜って。「吾妻山公園 梅沢登り口」と。「吾妻山公園」案内図。JR二宮駅まで700m と。道路沿いの水仙。「カップ咲きスイセン」。コスモス。そしてJR二宮駅北口に到着し、歩いたルートを地図で振り返る。この後、二宮にお住まいの先輩に久しぶりにお会いし、喫茶店で近況、体調を語り合う。そして二宮駅南口に立つ「ガラスのうさぎ」を最後に訪ねた。『太平洋戦争終結直前の昭和20年8月5日、ここJR二宮駅(当時国鉄)周辺には艦載機P51の機銃掃射を受け、幾人かの尊い生命がその犠牲となりました。この時、目の前で父を失った12歳の少女が、その悲しみを乗り越え、けなげに生き抜く姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」(高木敏子さん著)は国民の心に深い感動を呼び起こし、戦争の悲惨さを強く印象づけました。この像は、私たち二宮町民が平和の尊さを後世に伝えるために、また少女を優しく励ました人たちの友情をたたえるために、多くの方々のご協力をいただき建てたものです。少女が胸に抱えているのは、父の形見となったガラスのうさぎです。』「ガラスのうさぎ」像記念碑文よりそしてこの日の吾妻山からの菜の花と富士山を堪能した4時間を終了し13時過ぎには帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.01.14
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私の住む地域の「どんど焼き」が昨日1月9日(月)8:00から近くの公園で行われました。今年も、コロナ禍の中、この行事を中止する自治会が多くあるとのテレビ報道でしたが、我が地域ではアルコール飲料少々、マスク完全着用にて、例年より行事規模を縮小して今年も執り行われました。「どんど焼き」という不思議な名前の由来は、■どんどん燃えるから■燃やし始めに青竹がはぜて「どんっ!!」と音がするからなど諸説あり、音の響きからついたようです。我が家の正月飾りも火の中へ。勢いよく燃え上がる炎。正月の我が地区の「恒例」いや『高齢』行事なのであった。知人からの「パクリ」ですが・・・・」。ご自宅の正月飾り、牛蒡注連等を火の中へ投げ込む方々。三々五々に「門松」、「しめ縄」を持って集まって来られる人の数も増えて。「門松」「しめ縄」「破魔矢」などの正月飾りを処分するにはいくつか方法がありますが、最も一般的なのが神社やお寺の「お焚き上げ」や「どんど焼き」で焼くというもの。我が住む地域には近くに神社・仏閣が無いので、私が子供の頃には近くの農道の路地、そして現在は近くの公園で毎年継続してどんど焼き」が行われているのです。小正月になると、塞の神(サイノカミ)を祀り、旧年の災いを払い、これから一年の平穏と農作物の豊作を願う「どんど焼き」。正月飾りや書き初め、だるまやお守りを燃やした火で繭玉を焼いたり、酒がふるまわれたりしながら、無病息災を願う昔からの行事なのです。かってはどんど焼きが行われるのは小正月の「1月15日」が主でしたが、現在はそれよりも早く行われる場合が多いのです。これはかつて1月15日だった成人の日・祝日がハッピーマンデー制度により、日にちが移行してしまったことが大きな理由 。このハッピーマンデー制度により祝日が1月第二月曜日に変更され、1月15日が平日になる年もでてきました。そこで『どんど焼き』に参加しやすいように、成人の日(1月第二月曜日)またはその(前)後の土曜・日曜日に「どんど焼き」の日にちを移すようになったのです。妻が今年も「門松」、「しめ縄」等を一つに纏めておいてくれました。8時からの開催とのことで8時過ぎに公園に着くと、既に火は勢いよく。しかし、火力がまだ強すぎるので、近くに寄る人の姿は少なし。既に「しめ縄」や「正月飾り」が燃やされていました。そして今年も、妻が前夜に上新粉で造った3色の団子も準備しておいてくれました。三つ叉の木は、趣味の養蜂場のある畑の木の枝を切り準備しておきました。最近は、三叉のある枝を探すのに苦労しています。「どんど焼き」の火で焼いた餅、または三色団子を食べると、その年の病を除くと言われているのです。地元の国会議員の方?の姿も。炎も小さくなり、団子焼きのスタートです。煙たくないように、風上側から。この場所での、最高記録の団子の数ではないでしょうか?前日の新年会に来た長男も娘(我が孫)を連れて参加しました。火勢も落ち着いて団子を火の近くに。様々な大きさ、形の団子が。「どんど焼き」の如き日本の伝統行事をしっかりと引き継ぎ、次世代に繋いでいく事は非常に大切である事を今年も感じながらの「どんど焼き」だったのです。御神酒も少々いただきました。そして、自宅に戻り、今年の健康を祈願しながら焼いた団子を一家で食べたのでした。 ・・・END・・・
2023.01.10
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正月の風物詩となっている大学対抗の「箱根駅伝」。「第99回東京箱根間往復大学駅伝」は2023年1月2日・3日に開催されたのだ。繋がれていくタスキ、長く熱い戦いが繰り広げられる箱根駅伝を見ないと新年が始まらないといっても過言ではないのだが・・・。そして今日も復路の応援にバスで向かう。降車駅「遊行寺前」の近くにあった「読売新聞藤沢中央サービスセンター」の入口のガラスに貼ってあった今年の箱根駅伝のポスターが2枚。こちらにも。「未来へ続く一歩を踏み出せ」と。バスを降り進むと、ここにも「箱根駅伝のため戸塚茅ヶ崎線は一時通行止めになります」と。県道30号の全区間が箱根駅伝のコースになっているのだ。(往路3区、復路8区)藤沢バイパス出口交差点 - 藤沢橋交差点間は、旧東海道である。藤沢宿が遊行寺・藤沢橋付近にあった。なお、旧東海道は藤沢橋の北側で西に曲がり、遊行寺門前で南へ折れ、遊行寺橋(江戸時代の名称は大鋸(だいぎり)橋)を渡って国道467号、神奈川県道43号藤沢厚木線方面に進む鍵の手が設けられていた。藤沢橋が架橋されるのは関東大震災以降である。復路(6区~10区)のコース。6区~7区の高低差。6区:5区の「山上り」に対して、「山下り」と呼ばれる。 下りは平均すると100mを17秒前半、時には16秒前半までスピードアップすることもあり、 ペースが速い分、テクニックが必要になる。 また下りでは腿に平地の何倍もの負担がかかり、下りきってからの3キロで脚が止まる選手も 少なくない。7区:10区間の中で一番気温差が激しい。 スタートする9時前後は、“山”から来る冷気もあってかなり冷え込むが、太陽が高くなるに つれて気温も上がる。 コース自体は比較的平坦なのだが、それだけにペース配分が難しくもある。 近年、この7区で復路の仕切り直しを狙い力のある選手を起用するチームが増えてい る。8区~9区の高低差8区:レースもいよいよ終盤。優勝&シード権争いも次第に熱をおびてくる区間。 スタートから平坦なコースが続くが、浜須賀交差点で海岸線に別れを告げ、残り9キロあたり から徐々に上り坂に入る。 特にラスト5キロに待ち受ける遊行寺の坂が最大の難所。また後頭部への陽射しがスタミナを 奪い、後半の失速へと繋 がる。意外にもタフで侮れないコース。9区:準エース級の「復路の要」が配される。襷を受けすぐに急な下り坂に入るため、 勢いよく飛び出す選手も多いが、起伏の多い長丁場、冷静なペース配分が要求される。 優勝&シード権争いにとっても重要な区間。近年、多くのドラマがこの9区で生まれている。10区:平坦なコース。 泣いても笑っても、明暗が分かれる最終区間。追われるランナーには重圧が圧し掛かり、 追うランナーには焦りが襲い、ペースを狂わせる。気温の上昇、ビル風…、 ブレーキの要因となるポイントが多く、波乱を巻き起こす。 各校、勝負強い選手を配し、逃げ切り、または逆転を狙う。そして今日は、例年の遊行寺坂の途中の固定カメラの前は、人気の応援スポットであり大混雑、過密が予想されるため、これを避けて、「藤沢橋」交差点直後の「藤沢橋」の中央付近の場所に陣取る。ここは復路8区、平塚中継点から15.4km地点。この場所から100m程で、遊行寺急坂の難所が始まるのである。「藤沢橋」から選手が下って来る、平塚方面を見る。「藤沢橋」交差点。「藤澤橋」橋柱。三輪の白バイであっただろうか。競技者係バス①。「大会会長車」。「技術総務車」。「広報車1」。「規」:交通規制開始を指示するパトカー。「広報車2」。あと、7分ほどで選手が通過すると。反対側の歩道にも見物客が所狭しと。坂の上に「テレビ中継車」が姿を現した。「藤沢橋」を通過する「テレビ中継車」。時間は10:47。1位 駒澤大学 赤星 雄斗 選手 区間記録1:04:37 区間順位4位。 駒澤大学 伴走車。大会本部車。報道車。テレビバイク1。ニ位 中央大学 中澤 雄大 選手。1位と38秒差 区間記録1:04:58 区間順位7位。中央大学 伴走車。報道車。上空にヘリコプター。坂の上に「ラジオ放送車」。「ラジオ放送車」。3位 國學院大学 高山 豪起 選手 1位と6分22秒差 区間記録1:05:32 区間順位13位國學院大学 伴走車。4位 早稲田大学 伊福 陽太 選手 1位と6分28秒差 区間記録1:05:20 区間順位10位。早稲田大学 伴走車。5位 創価大学 桑田 大輔 選手 1位と6分32秒差 区間記録1:05:07 区間順位9位。創価大学 伴走車。6位 順天堂大学 平 駿介 選手 1位と6分50秒差 区間記録1:04:17 区間順位3位。順天堂大学 伴走車。「テレビ中継車」。7位 法政大学 宗像 直輝 選手 1位と6分56秒差 区間記録1:04:16 区間順位1位。法政大学 伴走車。8位 青山学院大学 田中 悠登 選手 1位と7分12秒差 区間記録1:04:50 区間順位5位。青山学院大学 伴走車。緊急対応車①。坂の上に2人の選手の姿が。テレビバイク車。9位 明治大学 加藤 大誠 選手 1位と9分6秒差 区間記録1:05:06 区間順位8位。10位 城西大学 櫻井 優我 選手 1位と9分7秒差 区間記録1:05:35 区間順位14位。明治大学 伴走車。城西大学 伴走車。11位 東京国際大学 宗像 聖 選手 1位と10分4秒差 区間記録1:06:32 区間順位19位。 東京国際大学 伴走車。12位 東洋大学 木本 大地 選手 1位と10分28秒 区間記録1:04:16 区間順位1位東洋大学 伴走車。緊急対応車②。二人の激しい競り合いが。13位 山梨学院大学 伊東 大暉 選手 1位と13分4秒 区間記録1:05:24 区間順位11位。14位 日本体育大学 廣澤 優斗 選手 1位と13分4秒 区間記録1:05:28 区間順位12位。山梨学院大学 伴走車。日本体育大学 伴走車。15位 東海大学 神園 竜馬 選手 1位と13分10秒差 区間記録1:07:00 区間順位20位。東海大学 伴走車。16位 帝京大学 山中 博生 選手 1位と13分18秒差 区間記録1:04:52 区間順位6位。帝京大学 伴走車。17位 大東文化大学 木山 凌 選手 1位と13分40秒差 区間記録1:06:19 区間順位18位。大東文化大学 伴走車。18位 立教大学 山本 羅生 選手 1位と13分54秒差 区間記録1:05:50 区間順位15位。立教大学 伴走車。そして次の選手が坂の上に。19位 専修大学 野下 稜平 選手 1位と15分28秒差 区間記録1:06:17 区間順位17位。専修大学 伴走車。懸命に藤澤橋への坂を下る選手。20位 国士館大学 鈴木 伸弥 選手 1位と17分48秒差 区間記録1:06:07 区間順位16位。国士舘大学 伴走車。OP位 関東学生連合 佐藤 碧 選手 1位と19分16秒 区間記録1:08:18 区間順位OP位。関東学生連合 伴走車。そして総ての選手が通過し「医務車」。緊急対応車③。警備車。交通規制解除「C」のパトカー。最終車両の白バイ。そして再び「藤澤橋」の橋柱を。帰宅してテレビでゴールまでを観戦。往路を制した駒沢大がトップを譲らず、2年ぶり8回目の総合優勝を果たした。駒沢大は、去年の出雲全日本大学選抜駅伝と全日本大学駅伝も制していて、これで史上5校目の大学駅伝三冠を達成した。さらに2日の往路に続き、復路も優勝し完全優勝。胴上げされた駒沢大学・大八木監督。連覇を狙った青山学院大学は復路の遅れで3位。総合順位は以下の通り。我が母校は総合6位と健闘し、シード権を確保した。復路順位。青山学院大学は復路9位。復路での総合順位の推移。総合順位の推移。各区の区間賞。駒沢大学は、6区のみの区間賞で完全優勝したのであった。選手層の厚さが優勝をもたらしたのであった。そして、箱根駅伝は次回大会(2024年1月2、3日)で100回目を迎える。記念大会として全国に門戸を開放するとのこと。10月の予選会には全国の大学から参加が可能。従来の「関東学生陸上競技連合男子登録者」から「日本学生陸上競技連合男子登録者」へと門戸を開放。変更点はこの一点のみで、選考方法は変わらず、各校12人以内が出走してハーフマラソン(21・0975キロ)を一斉に走る。上位10人の合計タイムで出場権を争う。本大会は、シード校10校、予選会を勝ち抜いた10校、さらにオープン参加の学連選抜チームが参加する形で行われるのだと。関東以外の大学が何校予選会を通過するのかが、楽しみなのである。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.01.03
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今日は恒例の「第99回東京箱根間往復大学駅伝競走」の応援にバスで向かった。バス停「遊行寺前」で下車し、往路3区(21.4km)の5.8km地点の「藤沢橋」近くに陣取る。往路のコース・区間・距離。「藤沢橋」交差点。既に多くの係員の方々が。陣取った場所から「藤沢橋」交差点を見る。「遊行寺」本堂の大きな屋根が見える場所。荷物車①が通過。競技者用バス①が通過。競技者用バス②も。先行パトカー。上空には日テレのヘリコプター。???警備車両。いよいよテレビ中継車が来る。そして10:261位 中央大学 中野 翔太 選手。区間記録1:01:51 区間順位1位 中央大学 伴走車。 テレビ オートバイ。2位 青 学 大 横田 俊吾 選手。1位と8秒差 区間記録1:02:23 区間順位8位 3位 駒沢大学 篠原 倖太朗 選手。1位と8秒差 区間記録1:01:58 区間順位2位青学大 伴走車。駒澤大学 伴走車。大会本部車。ラジオ放送車。4位 國學院大学 山本 歩夢 選手。1位と1分14秒差 区間記録1:02:07 区間順位5位國學院大学 伴走車。5位 創価大学 山森 龍暁 選手。 1位と1分18秒差 区間記録1:02:58 区間順位14位6位 山梨学院大学 村上 大樹 選手。 1位と1分19秒差 区間記録1:04:31 区間順位19位創価大学 伴走車。山梨学院大学 伴走車。テレビ中継車。7位 順天堂大学 伊豫田 達弥 選手。1位と1分40秒差 区間記録1:02:22 区間順位7位 順天堂大学 伴走車。8位 東国大 白井 勇佑 選手。 1位と1分42秒の差 区間記録1:02:44 区間順位12位9位 東海大 花岡 寿哉 選手。 1位と1分42秒の差 区間記録1:02:21 区間順位6位東国大 伴走車。東海大学 伴走車。10位 法政大学 川上 有生 選手。1位と1分44秒差 区間記録1:02:52 区間順位13位法政大学 伴走車。緊急対応車①。報道車。白バイが集団で。11位 日本体育大学 漆畑 徳輝 選手。1位と2分12秒差 区間記録1:02:36 区間順位10位日本体育大学 伴走車。12位 国士舘大学 山本 龍神 選手。1位と2分14秒差 区間記録1:04:40 区間順位20位国士舘大学 伴走車。13位 早稲田大学 井川 龍人 選手。1位と2分26秒差 区間記録1:01:58 区間順位2位早稲田大学 伴走車。14位 明治大学 森下 翔太 選手。1位と2分34秒差 区間記録1:02:05 区間順位4位明治大学 伴走車。緊急対応車②。15位 城西大学 キムタイ 選手。1位と3分8秒差 区間記録1:02:41 区間順位11位城西大学 伴走車。16位 帝京大学 小林 大晟 選手。1位と3分46秒差 区間記録1:04:12 区間順位17位帝京大学 伴走車。上空に別の?ヘリコプター。17位 立教大学 関口 絢太 選手。1位と4分28秒差 区間記録1:04:01 区間順位16位18位 東洋大学 小林 亮太 選手 1位と4分28秒差 区間記録1:02:33 区間順位9位立教大学 伴走車。東洋大学 伴走車。19位 専修大学 成島 航己 選手。 1位と4分30秒差 区間記録1:03:45 区間順位15位OP位 関東学生 内野 李彗 選手。 1位と4分30秒差 区間記録1:06:17(参 ) 区間順位OP 連合専修大学 伴走車。関東学生連合 伴走車。20位 大東大 入濵 輝大 選手。1位と5分58秒の差 区間記録1:04:25 区間順位18位大東大 伴走車。医務車。パトカー。そして最終パトカー。今年は、アッという間に全選手が通過したのであった。この係員の帽子、ベンチコートが欲しかったのであったが・・・・。「箱根駅伝 The99th」と。東海道・藤沢橋の橋柱。往路の結果は以下の通り。大学駅伝3冠を狙う駒沢大が、19年ぶりに往路優勝を果たした。駒沢大は1区で2位と好スタートを切ると、その後も安定した走り。4区でトップに立ち、そのまま首位を守った。復路は3日午前8時、箱根・芦ノ湖駐車場をスタートし、東京・大手町までの5区間で熱戦が繰り広げられるのだ。2位中央大学、3位青山学院大学。往路の順位推移そして帰路のバスの時間まで直ぐ近くにある「遊行寺」を訪ねたのであった。 ・・・つづく・・・
2023.01.02
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今日は恒例の「第99回東京箱根間往復大学駅伝競走」の応援にバスで向かった。バス停「遊行寺前」で下車し、往路3区(21.4km)の5.8km地点の「藤沢橋」近くに陣取る。「藤沢橋」交差点。既に多くの係員の方々が。陣取った場所から「藤沢橋」交差点を見る。「遊行寺」本堂の大きな屋根が見える場所。荷物車①が通過。競技者用バス①が通過。競技者用バス②も。先行パトカー。上空には日テレのヘリコプター。???警備車両。いよいよテレビ中継車が来る。そして10:261位 中央大学 中野 翔太選手。区間記録1:01:51 区間順位1位中央大学 伴走者。 テレビ オートバイ。2位 青 学 大 横田 俊吾 選手。1位と8秒差 区間記録1:02:23 区間順位8位 3位 駒沢大学 篠原 倖太朗 選手。1位と8秒差 区間記録1:01:58 区間順位2位青学第 伴走車。駒澤大学 伴走車。大会本部車。ラジオ放送車。3位 國學院大学 山本 歩夢 選手。1位と1分14秒差 区間記録1:02:07 区間順位5位國學院大学 伴走車。4位 創価大学 山森 龍暁 選手。 1位と1分18秒差 区間記録1:02:58 区間順位14位5位 山梨学院大学 村上 大樹 選手。 1位と1分19秒差 区間記録1:04:31 区間順位19位創価大学 伴走車。山梨学院大学 伴走車。テレビ中継車。6位 順天堂大学 伊豫田 達弥 選手。1位と1分40秒差 区間記録1:02:22 区間順位7位 順天堂大学 伴走車。7位 東国大 白井 勇佑 選手。 1位と1分42秒の差 区間記録1:02:44 区間順位12位8位 東海大 花岡 寿哉 選手。 1位と1分42秒の差 区間記録1:02:21 区間順位6位東国大 伴走車。東海大学 伴走車。9位 法政大学 川上 有生 選手。1位と1分44秒差 区間記録1:02:52 区間順位13位法政大学 伴走車。緊急対応車①。報道車。白バイが集団で。10位 日本体育大学 漆畑 徳輝 選手。1位と2分12秒差 区間記録1:02:36 区間順位10位日本体育大学 伴走車。11位 国士舘大学 山本 龍神 選手。1位と2分14秒差 区間記録1:04:40 区間順位20位国士舘大学 伴走車。12位 早稲田大学 井川 龍人 選手。1位と2分26秒差 区間記録1:01:58 区間順位2位早稲田大学 伴走車。13位 明治大学 森下 翔太 選手。1位と2分34秒差 区間記録1:02:05 区間順位4位明治大学 伴走車。緊急対応車②。14位 城西大学 キムタイ 選手。1位と3分8秒差 区間記録1:02:41 区間順位11位城西大学 伴走車。15位 帝京大学 小林 大晟 選手。1位と3分46秒差 区間記録1:04:12 区間順位17位帝京大学 伴走車。上空に別の?ヘリコプター。16位 立教大学 関口 絢太 選手。1位と4分28秒差 区間記録1:04:0117位 東洋大学 小林 亮太。 1位と4分28秒差 区間記録1:02:33立教大学 伴走車。東洋大学 伴走車。18位 専修大学 成島 航己 選手。 1位と4分30秒差 区間記録1:03:4519位 関東学生連合 内野 李彗 選手。1位と4分30秒差 区間記録1:06:17(参) 専修大学 伴走車。関東学生連合 伴走車。20位 大東大 入濵 輝大 選手。1位と5分58秒の差 区間記録1:04:25大東大 伴走車。医務車。パトカー。そして最終パトカー。今年は、アッという間に全選手が通過したのであった。この係員の帽子、ベンチコートが欲しかったのであったが・・・・。「箱根駅伝 The99th」と。東海道・藤沢橋の橋柱。往路の結果は以下の通り。大学駅伝3冠を狙う駒沢大が、19年ぶりに往路優勝を果たした。駒沢大は1区で2位と好スタートを切ると、その後も安定した走り。4区でトップに立ち、そのまま首位を守った。復路は3日午前8時、箱根・芦ノ湖駐車場をスタートし、東京・大手町までの5区間で熱戦が繰り広げられるのだ。2位中央大学、3位青山学院大学。そして帰路のバスの時間まで直ぐ近くにある「遊行寺」を訪ねたのであった。 ・・・つづく・・・
2023.01.02
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江の島海岸での「初日の出」、「元旦の白き富士山」の光景を楽しんだ後は、地元の駅まで戻り、地元の神社の初詣に妻と向かう。自転車で5分ほどで到着。神社の名は「亀井神社」。この隣にあるのが、我が母校・六会小学校。所在地:藤沢市亀井野553−5鳥居を潜り「亀井神社」の境内へ。新たに平成五年六月に建った「御由緒」碑。「不動ヶ岡の先住民族は此の地に定住すると農地の開拓にのりだした。そして彼等の中には信仰心の厚い者もいた、即ち不動の森を霊山ときめ法華の教を信じた。當時の信仰「の流れとして経文一文字を一石に書き塚を作る之が経塚であり水に因んで不動明王を祭り不動堂を作った。それが不動様の初めである。天正十八年(一五九〇年)明治のはじめ日本は神国なりと時の政府は各村落に社を作り神を崇拝するように命じた。私達のお不動様も亀井神社と名を改め村の鎮守社となる。祭神 天軻句突知命(あめのかくつち、火の神様)。當社は源義経四天王亀井六郎の祈願せし所にして天正十八年堂宇建立 宝永年中岡部和泉守崇敬厚く社殿を改築せりと傳う。大正十二年大震災により社殿鳥居等崩壊せしを後日氏子中にて再建す。」「社務所」。「お焚き上げ場」に昨年の「破魔矢」を納めた。「亀井神社」の「拝殿」に向かう。「手水場」。龍の吐水口からは水が。亀の像も。右手池のほとりのに石鳥居。参道の石段の先に「国旗・日の丸」が2本。参拝の順番を待つ。扁額「亀井神社」。扁額にある「亀」の異字体。「亀」の字の成り立ちは「かめ」の象形文字から と。下の中央の文字が似ているが、ネットからは上の写真と全く同じものは見つからなかった。内陣。「拝殿」横から境内を見下ろす。社殿脇には「身代わり不動尊社」。こちらの蟇股の彫刻も見事。扁額「不動明王」。「不動明王」と「地蔵さま」。「身代り不動尊」への参道と両側には真っ赤な「幟」が。「社務所」で今年の破魔矢を頂き、「亀井神社」を後にする。最後に地元のもう一つの神社「地神社」に参拝。「地神社」の参道。所在地:藤沢市亀井野2丁目36−4。参道の先に社殿が。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。「山之神」と刻まれた石碑が右手に。素朴な「手水舎」が左手に。「社殿」御祭神は「埴山姫命(はにやまひめのみこと)」。日本神話に登場する土を司る神。肥沃な(ひよく)田畑の土、陶器を作る粘土もその支配の範疇で、農業・陶磁器製造業・造園業・土木関係の職業などに縁の深い神様であると。『古事記』によると波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ)と波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ)という男女二柱の神が存在する とネットから。扁額「地神社」。石灯籠とその横にも石碑が。「地神社」と刻まれた石碑。そして元旦の「初日の出」、「富士山」そして地元の神社2社に詣でて帰宅。我が家の家の前の畑の「自然アート」を発見。農家の温室の影の場所だけ「元旦の初霜」がピラミッドの如く白く残されて。半世紀前に訪ねたエジプト・ギザのクフ王のピラミッド、カウラー王のピラミッドの如くに2基並んで。いやその先にはメンカウラ王のピラミッドも。「亀井神社」で頂いた「破魔矢」。絵馬には「親子の兎」そして「開運招福」と。我が家の神棚にお供えして。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.01.02
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国道134号の「片瀬橋」を渡りながら、小田急線の「片瀬江ノ島駅」を見る。左手に「江の島」を見ながら、国道134号の歩道を進む。「江の島シーキャンドル」をズームして。ヤシの木越しに富士山の勇姿を。相模湾越しの富士山。ズームして。更に。♫「真白き富士の嶺、緑の江の島」♫「真白き富士の嶺」を見つめて、この女性は何を想う??片瀬西浜からの富士山の勇姿。箱根の山々。茅ヶ崎、平塚方面。元旦の湘南海岸は波も静かに。片瀬西浜にはサーファーの姿はなく。小田原方面。金時山をズームで。再び元旦の富士山に勇姿をカメラで追って。大山の姿も。「江ノ島西浜海岸特設ステージ」。「片瀬漁港鮮魚直売所」であるが、現在は閉鎖されていると妻から。「片瀬漁港」の漁船もこの日は正月休み。親松英治の作品・「海の詩」。そして小田急線「片瀬江ノ島駅」に戻る。「竜宮造り」の新駅舎は2020年5月に完成。正面の望楼の窓には天女が描かれ、周囲には金色に輝く龍の像やレリーフ調のオブジェが見える。また、屋根上には金のしゃちほこならぬ金のイルカ像が5か所に配されていた。海の中から姿を現す龍(右側)。海の中から姿を現す龍(左側)。駅舎の外から「ミニ水族館」を見る。そして駅舎内の「ミニ水族館」にはクラゲの姿が。新江ノ島水族館とコラボレーションした大型の「クラゲ水槽」を設置。クラゲの姿をカメラで追う。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.02
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さらに「井伊家墓所」の散策を続ける。14代井伊直憲・正室(春照院殿)の墓。「春照院殿宜室妙貞大姉」井伊直憲継室、有栖川宮幟仁親王王女・宜子。「井伊正弘家代々之墓」。井伊直弼の曾孫となられる井伊正弘氏。井伊美術館館長等を歴任。「清操院殿福賢貞順大姉」の墓。井伊直忠夫人・斎藤ふく。「直心院殿忠山琴堂大居士」と刻まれた墓石。14代井伊直憲(忠正院殿)の墓。「忠正院殿清莭怒堂大居士」。「柳村院殿翆顔智性大姉」と刻まれた墓石。井伊直弼側室・里和(直憲生母)。「覺正院殿端操常道大姉」と刻まれた墓石。14代井伊直憲継室/蓮池・鍋島直紀娘。「柳江院殿心月明◯大姉」と刻まれた墓石。「徳應謙道首座塔」と。これは、井伊直弼の墓所を生涯守り、明治34年に79歳で没した元彦根藩士・遠城謙道の墓なのだと。「櫻田殉難八士之墓」。安政 7年 3月 3日に登城中の大老・井伊直弼が桜田門外で水戸浪士等の襲撃を受けた際、主君を護衛し殉難した 8人を顕彰した碑「桜田殉難八士之碑」。殉難した 8人 ( 即死者 4人、後に死亡した者 4人 )、日下部三郎右衛門、河西忠左衛門、沢村車六、小河原秀之丞、越石源次郎、永田太郎兵衛、加田九郎太、岩崎徳之進。裏面には以下の名が順に刻まれていた。(1)日下部 三郎右衛門 ⇒ 森五六郎(水戸浪士)によって、真っ先に切られた人物(2) 河西 忠左衛門 ⇒ 井伊家の剣豪・二刀流、現場で死亡(3) 沢村 車六 ⇒ 森五六郎(水戸浪士)によって、真っ先に切られた人物(4)小河原 秀之丞 ⇒ 有村治左衛門を切るも返り討ちに遭い、腕を切られ眼球が飛び出る(5)越石 源次郎 ⇒ 負傷、帰邸後死亡(6)永田 太郎兵衛 ⇒ 井伊家の剣豪・二刀流、現場で死亡(7)加田 九郎太 ⇒ 斎藤監物(水戸浪士)と切り合い、現場で死亡(8)岩崎 徳之進⇒ 伊賀奉行。負傷、帰邸後死亡ちなみに、命が助かった他の武士達だが、彼らには後年、主君を守れなかった罪を問われ、重傷者は流罪、軽傷者は切腹、無傷だった者はなんと斬罪が言い渡されたのだと。左に「清純院殿誠徳玄意大居士」と刻まれた墓。右に井伊智ニ郎「清霜院殿真月智梅大居士」 井伊智ニ郎正室「清心院殿梅莟慧香大姉」中央に「清明院積操里○大姉」と刻まれた墓。井伊智ニ郎は井伊直弼の三男、井伊直咸(いいなおとも)。最後の藩主井伊直憲の同母弟。近衛文麿の妻・近衛千代子の外祖父。明治時代は士族に列し、智二郎と名乗り滋賀県で過ごしたという。修復中の墓石が並ぶ。そして国指定史跡の井伊家墓所を後にして入口に向かって戻る。参道左手のドウダンツツジの紅葉。近寄って。「招き猫」の後ろ姿を。「高橋瑞子彰功之碑」高橋 瑞子(たかはし みずこ、1852年12月5日〈嘉永5年10月24日〉 - 1927年〈昭和2年〉2月28日)は、日本の医師。荻野吟子、生沢クノに次ぐ、日本で第3の公許女医である。当時の唯一の私立医学校でありながら、女子の入学を許可していなかった済生学舎に、女性である自身の入学を認めさせることで、女性の医学への門戸を開かせた。「日下部家墓」、元彦根藩士で書家、太政官大書記、近代書道確立者の日下部 鳴鶴(東作)(くさかべ めいかく)右隣には「日下部東作 徳配琴子之墓」。「日下部鳴鶴(くさかべ めいかく)」夫妻の墓、題字は呉昌碩。日本の書家である。本名は東作。字は子暘。別号に東嶼、翠雨、野鶴、老鶴、鶴叟などがある。中国、特に六朝書の影響を受けた力強い筆跡が特徴であり、それまでの和様から唐様に日本の書法の基準を作り変えた。加えて数多くの弟子を育成、彼の流派を受け継ぐ書道家は極めて多い。芸術家としても教育者としても多大な功績をあげたことを称えて「日本近代書道の父」と評されることもある。鳴鶴の流派は鶴門と呼ばれ、その門下生は3000人を数えたと言われる。また生涯で1000基の石碑を書いたとも言われ、現在も全国に300基以上の碑が残されている。中でも大久保公神道碑は鳴鶴の最高傑作といわれる と。墓の背面には、「清閑院殿鳴鶴徳音居士/大正十一年一月廿七日歿 享年八十五」と記されていた。近づいて。「鳴鶴先生碑銘」「昭和8年に建てられ、鳴鶴の楷書碑から比田井天来が苦心して集字したもの。綺羅星のごとく居並ぶ門弟の中で、なかなか書き手が決まらずに、 月日が経ち結局集字することになったのだという。碑文は、47字33行、1429字に及び、 若干の文字の不揃いは見えるものの全体としてみれば整然とした楷書が連ねられていて天来の労苦がしのばれる。撰文は、内藤湖南。 篆額は、西園寺公望。篆額を、城所湖舟氏は、「天来書と見ました」と雑誌「凌雲」で述べている」 とネットより。再び「三重塔」を見上げて。「今月の写経の会」案内。そして左に「彦根藩 井伊家の刀剣」展示会のポスター。モミジの黄葉をこれでもかと。陽光を浴びてこれぞ黄金の輝き。「仏殿」を再び正面から。「仏殿」の巨大な屋根。屋根の頂部・大棟には曹洞宗 大谿山(だいけいざん)豪徳寺(ごうとくじ)の寺紋が。この寺は彦根藩の井伊家の菩提寺でもあるので、寺紋も橘紋の中でも彦根橘と呼ばれるもの。井伊家の旗印である「井桁(いげた)」紋。仏殿を振り返って。枝垂れ桜も美しいのであろう。ネットから。「久昌殿」。豪徳寺開基、井伊直考公の戒名「久昌院殿豪德天英大居士」に由来。 檀信徒会館として、写経の会をはじめ、法事法要など各種行事に利用 と。「東門」に向かって進む。紅葉を見上げながら。「東門」は閉まっていたが。引き返して「久昌殿」の東側の真っ赤な紅葉。「久昌殿」横にあった「招き猫」の自販機。「寺務所」前の枝垂れ桜。再び「地蔵堂」を。扁額「地蔵堂」。そして「表門」、袖塀は5本の筋がある「筋塀」。「不許葷酒入山門」。移動して「表門」を振り返る。「城山通り」からの豪徳寺参道の松並木を見る。そして東急世田谷線の「宮の坂」駅から三軒茶屋駅に向かう。「東急世田谷線」の「下高井戸」駅行きの電車。沿線案内の駅名がふだん聞き慣れない駅名ばかりなのでやっぱり旅情が湧いてきます。下高井戸駅 → 松原駅 → 山下駅 → 宮の坂駅 → 上町駅 → 世田谷駅 → 松陰神社前駅 → 若林駅→ 西太子堂駅 → 三軒茶屋駅。線路には雑草が生えて。そして「三軒茶屋」行きに乗る。東急田園都市線の三軒茶屋駅への通路の壁にあったモニュメント。そして東急田園都市線の三軒茶屋駅のホームのポスター。「八代目市川新之助初舞台」の襲名公演のポスター。12月5日に東京・歌舞伎座で開幕した。昼の部は、新之助が9歳で粂寺弾正役に挑む歌舞伎十八番の内「毛抜」で締めくくられた。中村梅玉演じる小野春道の屋敷を舞台に、新之助は粂寺弾正(くめでらだんじょう)役で各見せ場で見得を切り、愛嬌あふれる弾正を持ち前の明るさとおおらかさで表現しているとのこと。「市川海老蔵改め十三代市川團十郎白猿襲名披露 十二月大歌舞伎」ポスター。令和2(2020)年、新型コロナウイルス感染症の拡大を防ぐため、政府からの緊急事態宣言を受け、5月から7月までの3カ月間にわたり歌舞伎座で予定していた「十三代目市川團十郎白猿襲名披露」の公演を延期。この度、約2年6カ月の時を経て延期していた「十三代目市川團十郎白猿襲名披露 八代目市川新之助初舞台」の公演を、令和4(2022)年11月、12月の2カ月間にわたり歌舞伎座にて開催するのだと。そしてJRで渋谷駅経由で目的地の五反田駅に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.01.02
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元旦の朝、妻と湘南海岸・片瀬東浜からの初日の出を愛でに行って来ました。地元の駅まで自転車を利用し6:05発の小田急線に乗る。コロナの状況から、2重にマスクを付け乗車。久しぶりに満員の電車に乗り藤沢駅で乗り換え、片瀬江の島駅に到着。時間は6:32。「片瀬江ノ島」駅。「弁天橋」から境川の上流を見る。「弁天橋」から国道134号に架かる「片瀬橋」越しに「江の島」を見る。「湘南海岸・片瀬東浜」への地下道を進む。そして「湘南海岸・片瀬東浜」に到着。久しぶりに、すでに多くの見物客の姿が。時間は6:40。殆どの方々がマスク着用、これぞ日本!!片瀬東浜から「江の島」そして「シーキャンドル」を見る。「シーキャンドル」をズームして。三浦半島方向の東の空もオレンジ色に染まっていた。「江の島」に車で渡る「江の島大橋」の下にも多くの人の姿が。今朝は、大潮であったのだろうか。海が引き砂浜が現れ、東浜から繋がっているようであった。先程のNHKテレビ・『「ブラタモリ」×「鶴瓶の家族に乾杯」新春スペシャル』でも「江の島」は陸繋島(りくけいとう)。陸繋島とは、砂州で大陸や大きな島と陸続きになった島のこと。普段は海の底だが、干潮時に海底が現れて、「江の島」と対岸の片瀬の浜が繋がる・「トンボロ現象」が発生しているのであると紹介されていたが。わずかな砂浜に多くの見物客が日の出を待っていた。振り返ると、富士山の姿も確認できた。ウインドサーファーの姿も。そして三浦半島の山の端の上の雲の上端が筋状に輝き始めた。時間は6:49。雲の上端の筋状の輝きも刻々とその姿を変えて行った。「初日の出」を待つ多くのサーファーの姿も。波、風も穏やかな元旦の相模湾。益々筋状の輝きが鮮やかに。「初日の出」もカウントダウン。そして「初日の出」。時間は6:55。見る見る家に、円形の太陽の姿が大きくなってきた。相模湾の水面も赤く染まり出して。そしてオレンジの帯が水面に現れ始めた。半分姿を表した初日。そしてオレンジ色の帯も輝きを増して。説明は不要な景色・空間であった。そして初日が完全に姿を現した。赤く染まった水面をズームして。「シーキャンドル」にも朝の陽光が射し込んで。手を合わせたくなる神秘的な光景そして時間。波打ち際まで何とか辿り着いて。国道134号沿いのマンションの壁も赤く染まって。富士山の頂にも初日の陽光が射し込んでズームして。そして、富士山の勇姿を見に片瀬西浜海岸に移動したのであった。 ・・・つづく・・・
2023.01.01
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「寺務所」に向かって進む。「受付」案内。招福猫児の置き物は寺務所で購入することが可能で、2センチほどの豆サイズから30センチほどの特大サイズまで、いろんな大きさが揃っていた。絵馬やお札、お守りも購入できるほか、御朱印もいただける。御朱印の受付時間は8:00~16:30で、300円。御朱印を頂きました。「本堂」、「納骨堂」を見る。見事な「相輪」を持つ「納骨堂」。「開祖堂」。「書院」前の石庭。紅葉、老松も美しく。「仏殿」の内陣を横から。井伊家の墓地に向かって進んで行った。「三重塔」を振り返る。左手にあったのが「無名戦士慰霊記念碑」。太平洋戦争における戦歿者の慰霊顕彰・平和祈願碑であると。「碑歌」(表面)「いくさの旅に さまよい果てたる はらからよ ここにかえりて やすらい たまえよ 日本大学教授 山田孝雄」「碑文」(裏面)燕が一羽とんできたからといって春がきたのではない。この記念碑が人々の情で生まれたからといって、永遠に平和がきたのだともいえない。けれども深く憂と悲しみの中にたおれた不幸な同胞の御霊の冥福と祖国が再び過ちを犯さないことを私どもは祈りつゞけたい。区内戦没者五千三百余柱の御霊並に九十三柱の御遺骨の供養のために有志相はかり、区民多数の心からなる浄財を集めて慰霊記念碑を建立した次第である。 昭和29年5月3日 平和紀念無名戦士慰霊記念碑建設会 建立」黄葉もエピローグの銀杏の樹の下が墓地への入口。「鳴鶴先生碑銘」。日下部 鳴鶴(くさかべ めいかく、天保9年8月18日(1838年10月6日) - 大正11年(1922年)1月27日)は日本の書家である。本名は東作。字は子暘。別号に東嶼、翠雨、野鶴、老鶴、鶴叟などがある。「鳴鶴先生碑銘は、 昭和8年に建てられ、鳴鶴の楷書碑から比田井天来が苦心して集字したもの。綺羅星のごとく居並ぶ門弟の中で、なかなか書き手が決まらずに、 月日が経ち結局集字することになったのだという。碑文は、47字33行、1429字に及び、 若干の文字の不揃いは見えるものの全体としてみれば整然とした楷書が連ねられていて天来の労苦がしのばれる。撰文は、内藤湖南。 篆額は、西園寺公望。篆額を、城所湖舟氏は、「天来書と見ました」と雑誌「凌雲」で述べている」 とネットから。墓門の前に明治34年に建てられた「遠城謙道( おんじょうけんどう) 師遺蹟碑」。遠城謙道は、旧彦根藩士で文政6年(1823年)に彦根で生まれた。15歳で鉄砲隊に入るが、藩医・堀田道策に医術を学んだのを始め、儒学や画を学ぶなどして、特に禅の修行を積んだことで武士の魂を磨いた。桜田門外の変における井伊直弼の死後、悲憤のあまり主君の旧恩に報じようと同志と老中に抗弁するも果たすことができなかった。その後、僧となり墓守を勤める決心をし、井伊家菩提寺の清凉寺の元で仏門に入り、名を謙道と改める。慶応元年(1865年)、妻と6人の子どもを残した謙道は、江戸における井伊家の菩提寺の豪徳寺に移り、井伊直弼の墓側に庵を建て、読経をして霊を慰めたといわれている。(彦根観光協会HP「石碑 遠城謙道師の碑」より)揮毫は、従二位勲二等伯爵井伊直憲卿。墓地の入口が正面に。背の高い石灯籠が両側に。銀杏も葉を落とし始めていた。「彦根藩主井伊家墓所」の門の手前右側に「六地蔵」があった。石仏。ズームして。漢字で・・・・。門柱の手前に案内板が。「国指定史跡 彦根藩主井伊家墓所 豪徳寺井伊家墓所」案内板。「国指定史跡 彦根藩主井伊家墓所 豪徳寺井伊家墓所」案内板。井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。井伊家二十四世とされる直政は天正三年(一五七五)、十五歳で徳川家康に仕え、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。合戦後、直政は近江国などに十八万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。続く二代直孝も大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて三十万石を有する譜代大名の筆頭格となった。以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間に控えて将軍に近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。寛永十年(一六三三)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が普提寺に取り立てられた。直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、十三代直弼(宗観院殿)墓がある。直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院般・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。墓所内で最も古い墓は、直時(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元年(一六五八)に建てられた。直孝が没したのは万冶二年で、どちらの墓石も唐破風笠付位牌型で造られている。以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。また、幕所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。これらを合わせると、墓所に所在する墓石の総数は三百基余になる。彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺(滋賀県彦根市)、永源寺(滋賀県東近江市)の三ケ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成二十年三月二十八日、国史跡に指定された。」「豪徳寺 井伊家墓所全体図」墓地の中に門から入り進む。右手前方に多くの墓石が現れた。右手の墓石群。右奥にもズラッと墓石が並ぶ。理解のために「井伊家 略系図」を。下図の代数は1代ズレているが、以下の表記は「豪徳寺 井伊家墓所全体図」に従う。「普光院殿運峰◯錦禅童女」と刻まれた墓石。「榮壽院殿圓通智光大姉」と刻まれた墓石。「秀月院殿瑚岳凉珊禅童女」と刻まれた墓石。「普明院殿松月林庭大姉」と刻まれた墓石。「◯珠院殿◯能了◯大姉」と刻まれた墓石。「陽光院殿梅巖淳香大姉」と刻まれた墓石。「實性院殿凉室妙清大姉」と刻まれた墓石。正面に、2代井伊直孝(久昌院殿)の墓。豪徳寺中興開基で、法号は「久昌院殿豪徳天英大居士」。これも右手に6代井伊直恒(円成院殿)の墓。「圓城院殿從四位下前拾遺徳岩道隣大居士」第4代藩主井伊直興の十男。母は大橋氏。第5代藩主井伊直通の異母弟。井伊直矩・直惟・直定の兄。その右側に、9代井伊直禔(いい なおよし)(見性院殿)の墓。[1727~1754]江戸時代中期の大名。井伊直惟の次男。叔父井伊直定の養子。宝暦4年近江彦根藩主井伊家10代となる。在任2ヵ月余の同年死去。「見性院殿従四位下前拾遺観刹了因大居士」井伊直孝(久昌院殿)の墓の左側に10代井伊直幸世子・直富(龍泉院殿)の墓。写真右に2代井伊直孝・側室・春光院殿の墓。左に「青松院殿榮覺祖春大姉」と刻まれた墓。中央に「本光院殿瑞岩禅大姉」と刻まれた墓。井伊直弼の墓に向かって進む。右から10代井伊直幸(いい なおゆき)(大魏院殿)の墓。中央 10代井伊直幸・正室(梅暁院殿)の墓。左 9代井伊直禔・継室(清蓮院殿)の墓。継室は、最初の正室との死別や離婚を受けての当主の正式な再婚により迎えられた後妻を指す。そして13代井伊直弼(いいなおすけ)(宗観院殿)の墓。墓石に近づいて。井伊直弼は井伊直中の子で、兄を継ぎ藩主となり、ついで寛永3年(1850)4月大老になる。勅許を待たず日米修好通商条約など安政五ケ国条約に調印。また紀伊藩主徳川慶福(十四代将軍徳川家茂)に決定し、反対派の一橋慶喜(のちの十五代将軍徳川慶喜)らを抑えるという強い政策を実施。さらに安政の大獄を断行するに及んで、常に暗殺の危険にさらされ、遂に万延元年(1860)3月、江戸城外桜田門外において、水戸・薩摩の浪士らに暗殺された。石碑には「宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士」の文字。因みに以前、世田谷区と東京工業大学が墓の下3 mまで調査したところ石室がないことが判明したとのこと。遺骨は何処に?「彦根城十三代藩主 直弼公募所」。「井伊直弼墓井伊直弼は、文化十ニ年(一八一五)、彦根十一代藩主・直中の第十四子として生まれた。青年期は部屋住みとして城外の埋木舎(うもれぎのや)に閑居したが、兄・直元の死去により十ニ代藩主・直亮(なおあき)の跡継ぎとなり、嘉永三年(一八五〇)に十三代藩主となった。安政五年(一八五八)四月、大老職に就いた直弼は、天皇の許可を待たず日米修好通商条約に調印し、ついで、十三代将軍・家定の後継者を紀伊の徳川慶福(よしとみ)(後の家茂)とすることで決着をつけた。こうした直弼の強い政策に異を唱える者たちを処罰し安政の大獄をはかったが、遂に水戸浪士らの襲撃をうけ、安政七年(万延元・一八六〇)三月三日、桜田門外で暗殺された。享年四十六。」歩いて来た参道を振り返って。13代直弼正室(貞鏡院殿)墓。左は12代藩主井伊直幸・三男、井伊直富・正室(守真院殿)の墓。「守真院殿滿光貞詮大姉」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.01
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今日は2022年の大晦日、今年1年を振り帰ってみたいと。キャプション・写真等の前半部分はネットから転載させていただきました。読売新聞の2022年十大ニュースは下記のごとし。[ネットから]【1位】安倍元首相撃たれ死亡安倍晋三・元首相が7月8日、奈良市の近鉄大和西大寺駅前で参院選の街頭演説中、背後から近づいた無職の男に銃撃され、死亡。男の母親は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に1億円以上を献金して破産しており、男は「つながりがあると思った安倍氏を狙った」と供述。事件は世界中に衝撃を与え、各国から弔意が寄せられた。警察庁は8月、現場の不手際と計画段階の不備が重なったとする警護の検証結果を公表した。同庁の中村 格 (いたる)長官と、奈良県警の鬼塚友章本部長が辞任し、要人警護の全面的な見直しが行われた。9月27日には東京・日本武道館で安倍氏の国葬が営まれ、岸田首相ら「三権の長」や皇族方、海外要人を含む4183人が参列した。岸田首相は、歴代最長政権を築いた安倍氏の功績や経済再生、外交での実績などを踏まえて国葬を行うことを早々に決めたが、実施を巡って世論が二分し、内閣支持率下落の一因にもなった。逮捕された男は殺人容疑で送検され、刑事責任能力を調べるため鑑定留置となった。【2位】W杯日本代表16強サッカーのワールドカップ(W杯)カタール大会で、森保一監督率いる日本代表は、強豪のドイツ、スペインを撃破し、日本中を熱狂の渦に巻き込んだ。初の8強入りはならなかったが、世界に日本サッカーの進化を示した。7大会連続7度目の出場となった日本は、11月23日のグループリーグE組初戦でドイツから堂安律、浅野拓磨が得点し、2―1で逆転勝ちした。27日の第2戦はコスタリカに0―1で敗れたが、12月1日の第3戦でスペインを相手に堂安と田中碧がゴールを決め、2―1で逆転勝ち。E組首位で2大会連続4度目の決勝トーナメント進出を決めた。5日の決勝トーナメント1回戦では、前回大会準優勝のクロアチアと対戦。前田大然が先制点を決めたが同点に追いつかれ、1―1のまま延長戦でも決着がつかず、PK戦で惜敗した。スペイン戦では、三笘薫のゴールライン際からのアシストを巡り、ボールの端がわずかにライン上に残っていたことが、ビデオ・アシスタントレフェリー(VAR)による判定で認められ、話題を集めた。また、観客席の清掃を行う日本サポーターの姿に称賛の声が寄せられ、大会組織委員会から表彰された。【3位】知床観光船 沈没事故北海道・知床半島の沖合を航行していた観光船「KAZU I(カズワン)」が4月23日、「船首が沈んでいる」との通報を最後に消息を絶ち、6日後に水深約120メートルの海底で船体が見つかった。沈没事故により、乗客乗員のうち20人が死亡し、6人の行方がわかっていない。運輸安全委員会は今月、経過報告書を公表。船首甲板のハッチに不具合があり、高波の揺れで開いたハッチから海水が流入し、沈没に至ったとする分析を示した。カズワンが航行していたのは、半島西側の約80キロをめぐる所要3時間のコース。出航当日は強風・波浪注意報が出されていて、天候の悪化が予想されたが、船長は同業者からの助言を無視して出航に踏み切っていた。運輸安全委は、カズワンの運航会社「知床遊覧船」(北海道斜里町)の社長らが中止の判断をしなかったことも事故の一因と判断。第1管区海上保安本部が社長らを業務上過失致死容疑で捜査している。この事故では、同社のずさんな安全管理が次々と判明しており、国土交通省は6月、同社の旅客船事業許可を取り消した。【4位】大谷 2桁勝利2桁本塁打米大リーグ・エンゼルスの大谷翔平が、8月9日のアスレチックス戦に先発投手兼2番指名打者で出場して10勝目を挙げ、「野球の神様」と呼ばれたベーブ・ルース以来、104年ぶりとなる「2桁勝利、2桁本塁打」を達成した。10月5日の試合では、現在の大リーグ史上で初めて、規定投球回(162)と規定打席(502)の両方に到達した。メジャー5季目の大谷は、投手として15勝を挙げ、防御率2・33で219奪三振。打者としては打率2割7分3厘、34本塁打、95打点をマークし、投打ともにア・リーグトップクラスの成績を収めた。最優秀選手(MVP)への選出が期待されたが、ア・リーグ最多記録の62本塁打を放ったアーロン・ジャッジ(ヤンキース)が選ばれ、大谷の2季連続受賞はならなかった。【5位】村上 56本塁打・三冠王プロ野球・東京ヤクルトスワローズの村上宗隆が10月3日、横浜DeNAベイスターズ戦で、シーズン56号となる本塁打を放ち、1964年の王貞治(読売巨人軍)の55号を超え、日本選手の最多本塁打を更新した。村上は打率3割1分8厘、56本塁打、134打点と、全てリーグトップの成績を残し、史上最年少(22歳)の三冠王に輝いた。8月にはプロ野球新記録となる5打席連続本塁打も達成した。その活躍ぶりから「村神様」の呼び名がインターネットなどで広まり、「2022ユーキャン新語・流行語大賞」(「現代用語の基礎知識」選)の年間大賞に選ばれた。【6位】円安1ドル150円突破日米の金利差拡大を背景にドルを買って円を売る動きが優勢となり、10月20日の東京外国為替市場で円相場が一時、1ドル=150円台まで下落した。バブル期の1990年8月以来、約32年ぶりの円安水準を更新した。政府・日本銀行は急激な円安を食い止めるため、円買い・ドル売りの為替介入を実施。9月下旬から10月末にかけて、総額で約9兆円を投じた。【7位】北京五輪 冬季最多メダル2月4日に開幕した第24回冬季五輪北京大会で、日本選手団は、冬季大会で最多となる計18個(金3個、銀6個、銅9個)のメダルを獲得した。2018年平昌大会の13個を上回った。スピードスケート女子の高木美帆は金1個と銀3個、スキージャンプ男子の小林陵侑は金1個と銀1個、スノーボード男子ハーフパイプの平野歩夢も金に輝いた。同女子ビッグエアで、17歳で銅を獲得した村瀬心椛は、冬季大会で日本女子最年少メダリストとなった。【8位】旧統一教会 政治問題化安倍晋三・元首相の銃撃事件をきっかけに、「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)による高額寄付被害が明らかになった。選挙などを通した政治家と旧統一教会との接点も相次いで浮上し、政治問題に発展した。9月に自民党が公表した調査結果では、所属国会議員179人と旧統一教会との接点が判明。国会でも連日、この問題が取り上げられ、岸田首相は10月、相次いで発覚した関係について曖昧な答弁を繰り返した山際大志郎経済再生相を更迭した。11月22日には永岡文部科学相が宗教法人法に基づく質問権を初めて行使。国会では12月10日、高額寄付被害救済・防止法が成立した。【9位】藤井竜王 最年少五冠将棋の藤井聡太竜王が2月12日、王将戦七番勝負で、渡辺明名人に4連勝してタイトルを奪取した。19歳6か月で、史上初となる10代での五冠を成し遂げた。10~12月に行われた竜王戦七番勝負では初防衛に成功。王位、叡王、王将、棋聖とあわせ、五冠を堅持した。来年1月から羽生善治九段と王将戦七番勝負を戦うほか、今期の棋王戦や名人戦でもタイトル挑戦の可能性が残っており、史上初の八冠への期待が高まっている【10位】コロナ感染 1日10万人新型コロナウイルスの「オミクロン株」が年明けから流行し、感染拡大の第6波のピークを迎えた2月5日、国内の1日の感染者数が初めて10万人を超えた。夏には、感染力の強い同株の新系統「BA・5」が猛威を振るった。7月14日には感染者の累計が1000万人を突破し、同23日に1日の感染者数が初めて20万人を超えた。一方で、ワクチン接種が進んだことなどで重症化リスクや致死率は大きく低下した。政府は9月、全ての新型コロナ感染者を把握する「全数把握」を見直した。10月には水際対策も大幅に緩和された11位以下は次の通りと。11位 物価高騰、商品値上げ相次ぐ 8,761(32.9%)12位 改正民法施行、成人年齢18歳に 8,411(31.6%)13位 五輪汚職、組織委元理事ら逮捕 8,220(30.9%)14位 3歳女児、通園バスに取り残され死亡 7,413(27.9%)15位 ロッテ・佐々木朗希が完全試合 6,773(25.5%)16位 北ミサイル発射相次ぐ 6,215(23.4%)17位 山口・阿武町が4630万円誤給付 4,754(17.9%)18位 夏の甲子園で仙台育英優勝、東北勢初 4,308(16.2%)19位 アントニオ猪木さん死去 4,241(15.9%)20位 宮城・福島で震度6強、新幹線脱線 3,498(13.1%)21位 オリックス26年ぶり日本一 3,348(12.6%)22位 作家・元都知事の石原慎太郎さん死去 3,335(12.5%)23位 沖縄本土復帰50年 3,313(12.5%)24位 大学入学共通テスト、問題流出 3,032(11.4%)25位 辞任ドミノ、閣僚更迭相次ぐ 2,976(11.2%)26位 羽生結弦、プロ転向を表明 2,867(10.8%)27位 iPS細胞で慶大が世界初の脊髄治療 2,648(10.0%)28位 KDDI、全国で通信障害 2,636(9.9%)29位 「ドライブ・マイ・カー」が米アカデミー賞 2,548(9.6%)30位 北京パラ、日本勢メダル7個 2,323(8.7%)【その他】 2022年「今年の漢字」は「戦」2022年の世相を表す「今年の漢字」に「戦」が選ばれ、世界遺産・清水寺(京都市東山区)で12日、森 清範貫主が揮毫 した。「戦」が選ばれるのは、米同時テロがあった2001年以来、2度目。公益財団法人「日本漢字能力検定協会」(同)が公募し、応募総数22万3768票のうち「戦」が最多の1万804票を集めた。ロシアのウクライナ侵略や、北朝鮮のミサイル発射など、戦争の恐怖や不安のほか、新型コロナや物価高など生活に身近な戦い、サッカーのワールドカップ日本代表の熱戦などを理由に挙げる人が目立った。2位は安倍晋三・元首相に対する銃撃事件などを受けた「安」、3位は「楽」だった。そして個人的には順不同であるが★市民病院に2回の手術入院8月には、【耳下腺腫瘍】の切除手術で8日間の市民病院での入院、12月末には【大腸ポリープ】の切除手術で1泊2日の入院であった。★4泊5日の沖縄格安旅行。全行程を車でそして旅友の巧みなハンドリングで沖縄本島をほぼ一周したのであった。青い空に白い砂浜、エメラルドグリーンの海をこれでもかと楽しむことが出来たのであった。しかしながら、遠くない昔、悲惨な戦争があったことに目を背けることは出来ない「沖縄戦を学び、平和を考える旅」でもあったのだ。★今年もコロナで始まりコロナで終わった1年 そしてマスク着用で始まりマスク着用で終わった1年「新型コロナウイルス感染症の現在の状況 2022年12月30日現在」今後の感染状況については、全国及び大都市の短期的な予測では、地域差や不確実性はあるものの、横ばいから増加傾向が見込まれるとのこと。年末・年始に向けて社会経済活動の活発化による接触機会の増加等が、地域の感染者数の推移に影響すると考えられるため注視が必要とテレビでは。全国的には、病床使用率は上昇傾向にあり、ほとんどの地域で3割を上回り、感染者数が多い地域などでは5割を上回っている。限りある医療資源の中でも高齢者・重症化リスクの高い方に適切な医療を提供するための保健医療体制の強化・重点化を進めることが必要。また、国民一人ひとりの自主的な感染予防行動の徹底が必要であり、高齢者等重症化リスクの高い方を守るとともに、通常医療を確保する必要に迫られているのだ。★1万世帯以上の自治会連合会の役員として、今年も参加今年は3年ぶりの【ふるさと祭り】、【イルミネーション2022】開催。【ふるさと祭り】【イルミネーション2022】★我がブログも今年も皆勤にて600万回アクセスを通過。 去る10月18日(火)夕方に、我がブログアクセス数も600万回を超えました。 皆様の日々のアクセスに感謝申し上げます。1 そして今日・大晦日2022.12.31の13:00過ぎのカウンターは『6134129』を示していました。 これからも毎日の出来事を 『つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、 そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 の精神で、あくまでも「備忘録」を主眼として、「継続は力なり」の精神でこのブログを 「毎日」書き続けて行きたいと思っています。 文章の表現力も乏しく、誤変換や、内容を理解しにくい表現箇所も多々あると思いますが、 我が儘にもあまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』 『学びのツール』そして「備忘録」として日々のブログを書き続けて行きたいと 思っているのです。★隣接市内の寺社旧蹟巡りを全て完了私の住む神奈川県藤沢市と市境を接している6市1町鎌倉市、横浜市戸塚区・泉区、大和市、綾瀬市、海老名市、茅ヶ崎市、寒川町、の寺社旧蹟巡りを全て完了したのであった。★旅友の運転で『続日本100名城』巡りを行う。沖縄県:座喜味城、勝連城栃木県:唐沢山城群馬県: 沼田城、名胡桃城、岩櫃城9月に沖縄県:「座喜味城」👈リンク御城印。沖縄県:「勝連城」👈リンク御城印。11月に1泊2日で栃木、群馬巡り栃木県:「唐沢山城」👈リンク御城印。群馬県:「沼田城」👈リンク御城印。群馬県:「名胡桃城(なぐるみじょう)」👈リンク御城印。群馬県:「岩櫃城(いわびつじょう)」👈リンク御城印。★今年も都内・市内の秋の紅葉を楽しむ。「等々力渓谷」「等々力不動尊」「浄真寺」「豪徳寺」「天嶽院」そして二人暮らしの我が家の重大ニュースは唯一つ①今年の私達夫婦は自宅で風邪や発熱等で寝込むことも全くなく、大晦日の今日の日を 迎えられた事に感謝。 唯一私の2回の良性腫瘍切除の手術入院があったが、術前の違和感や痛みもなく、術後も 全く痛みもなく順調に快復し、早期発見・切除に感謝しているのある。 唯一シンドかったのは、大腸ポリープ手術前の「2L+追加1L」の下剤服用なのであった。 そして私は6回目の『年男』を無事乗り越えたのである。 妻は今年もパートの仕事を皆勤、毎週末は趣味を楽しむために、横浜に張り切って行く 日々であった。 独立している子供たち家族もコロナにかかったものの元気に越年、来年も1月9日に長男、 長女家族が我が家に来ると。久しぶりの家族【全員集合】なのである。そして我が家の正月飾りの準備も昨日に完了しました。門松は12月28日までに飾るか、12月30日に飾るのが良いとされています。その理由は、 29日に飾るのは語呂合わせで「29(二重苦)」に通じ縁起があまりよくないとされているからです。また、12月31日に飾るのは「一日飾り」といい、一日前にぎりぎりで飾ると、神聖な気持ちでゆっくりと正月を迎えられないので、その日には飾らないことにするのだと、半世紀以上前に亡き父より。鏡餅は今年も2個購入し組み立てました。神棚。全てを下し濡れタオルで1年の埃を落としました。そして牛蒡注連も新たに購入し奉納しました。橙(だいだい)、裏白(うらじろ)、ゆずり葉のセットも。裏白は長寿、ゆずり葉は子孫の繁栄、橙は家系の繁栄を願ったもの。玄関のしめ飾り。今年もシンプルなものに。そして門飾り。松と輪飾りを。短かかった?2022年、大晦日の「年越しそば」と「除夜の鐘」に、コロナに打ち勝ったことを確実に実感できる新たな年2023年へ!! との願いを込めて。本日も我がブログへのアクセスありがとうございます。アクセスいただいた皆様も元気に良き新年をお迎えください。そして来年も我がブログをご笑覧いただきたくよろしくお願い申し上げます。そして元旦は!! 2022年 完了
2022.12.31
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「招福殿」前にあった「招福猫児」像。「招福猫児の由来東京都世田谷区豪徳寺二丁目所在の豪徳寺は幕末の大老井伊掃部頭直弼公の墓所として世に高く寺域広く老樹爵蒼として堂宇荘厳を極め賓者日におおく誠に東京西郊の名刹なり、されど昔時は至って貧寺にして二三の雲水修行して漸く暮しを立つる計りなりき、時の和尚殊に猫を愛しよく飼いならし自分の食を割て猫に与へ吾子のように愛育せしが、ある日和尚猫に向かい「汝我が愛育の恩を知らば何か果報を招来せよ」と言いい聞かせたるが其後幾月日が過ぎし夏の日の午さがり俄に門のあたり騒がしければ和尚何事ならんと出て見れば、鷹狩の帰りと覚しき武士五六騎、門前に馬乗捨てゝ入り来り和尚に向かい謂えるよう「我等今当寺の前を通行せんとするに門前に猫一疋うずくまり居て我等を見て手をあげ頻りに招くさまのあまりに不審ければ訪ね入るなり暫く休息致させよ」とありければ和尚いそぎ奥へ招じ渋茶など差出しける内天忽ち雲り夕立振り出し雷鳴り加りしが和尚は心静かに三世因果の説法したりしかば武士は大喜びいよいよ帰依の念発起しけむやがて「我こそは江州彦根の城主井伊掃部頭直孝なり猫に招き入れられ雨をしのぎ貴僧の法談に預かること是偏に仏の因果ならん以来更に心安く頼み参らす」とて立帰られけるが、是れぞ豪徳寺が吉運を開く初めにしてやがて井伊家御菩提所となり田畑多く寄進せられ一大伽藍となりしも全く猫の恩に報い福を招き寄篤の霊験によるものにして此寺一つに猫寺とも呼ぶに至れり。和尚後にこの猫の墓を建ていと懇ろに其冥福を祈り後世この猫の姿形をつくり招福猫児と称へて崇め祀れば吉運立ち所に来り家内安全、営業繁昌、心願成就すとて其の霊験を祈念する事は世に知らぬ人はなかりけり。 曹洞宗 大谿山 豪徳寺」訳は「東京都世田谷区豪徳寺二丁目にある豪徳寺は幕末の大老井伊直弼の墓所として名高く、寺の所有地は広く古木に囲まれ荘厳な伽藍は東京西部の名刹である しかし以前は二、三人の雲水が修行する事でようやく暮らしが成り立つ貧乏寺でした。寛永年間の和尚は猫好きで自分の食事を減らしてでも猫に与え、わが子のように可愛がっていました。ある日和尚さんはこの猫に向かって「おまえを愛でる私の気持ちがわかるなら何か良い事を招いてはくれないか」と言っ聞かせました、そんな事があってから数ヶ月たった夏の昼下がり山門の外で人が寄っているようでなにやら騒がしい、和尚はどうした事かと外に出て様子を見ると、鷹狩りから帰りと思われる装束の騎馬武者が五、六人門前で下馬している、そのうち一人の武士が話すには「この寺の前を通り過ぎようとした際に門前に猫が一匹うずくまり私たちの様子を伺って手をあげてしきりに手招きするではないか、不審に思ったがすこしの間、休息させてくれないか」といっているそれはそれはと和尚がお茶の用意をして堂に上がらせると、にわかにかき曇り夕立が降り出して雷まで鳴り始めた、一息いれるつもりが雨宿りとなり和尚が仏教の説話をしているとその武士は大層喜んでこの寺が気に入った、やがて「自分は彦根藩二代目藩主井伊直孝です、猫に招かれるままこちらの寺に雨宿りをさせて頂いた上、和尚から結構な法話を聞かせて貰ったのは、仏さまの導きである、今後はこの寺で色々お世話になりたい」と残して帰られたこれが豪徳寺に運が向いてきた、事の起こりです、やがて彦根藩井伊家の菩提寺として、所領地の寄付をうけ名刹となる事は、猫が和尚への恩返しとして福を招き入れた不思議な出来事であり、巷では此の寺を猫寺と呼ぶようになった。和尚はこの猫が亡くなった後墓をつくり、ねんごろに冥福を祈った 後世、この猫の形を模した招き猫をまつると家内安全、商売繁昌、心願成就のご利益があると言われるようになった。」とネットより。「招福殿」の「山門」。扁額「招福殿」。「庚申塔」が鎮座する社。三面八臂の青面金剛像。地蔵尊であろうか。「招福殿」を正面から。提燈「招福観音」。内陣。「招福殿」前、境内にあった「井戸」。「招福殿」横の紅葉も見事であった。「招福殿」の周囲には無数の「招き猫」が奉納されていた。招福殿横に所狭しとばかりに並べられている大量の招き猫。びっくりするくらいの沢山の招き猫は圧倒的であり、一見の価値ある風景であったのだ。招き猫の基本手:右手を挙げたら「お金招き」、左手を挙げたら「人招き」、両手は「お手上げ」と 敬遠する人も。目:大きな目の常滑系からリアリティーのある瀬戸系まで目の大きさもさまざま。前掛け:赤い首輪と鈴のついた前掛けが主流。九谷焼の招き猫のように鈴が肩のところに のっているものも。持ち物:大事に抱えた小判は、千万両、億万両と時代とともにインフレ傾向!?色もいろいろ青:学業成就、金:金運満足、赤:健康長寿、黒:厄除安全、グリーン:家内安全、ピンク:恋愛成就招き猫の大きさと志納料・豆(約2cm) : 300円・豆(ケース付き): 500円・2号(約6cm): 500円・3号(約9cm): 800円・5号(約12cm ): 1,000円・6号(約15cm ): 1,800円・7号(約18cm ): 2,300円・8号(約25cm ): 3,500円・尺(約30cm ): 5,000円「菩薩」石像。半跏思惟像に似た姿で。両肩の上には「如是畜生 發善提心(にょぜちくしょう ほつぼだいしん)」と刻まれていた。「是(か)くの如く畜生、菩提心を発(おこ)す」.畜生に対して、おまえは畜生であるが菩提心を起こせと教える言葉であると。古いものなのか、苔むして、鼻ももげているが、なんともゆったりした笑みに、思わず近寄ってしまったのであった。再び「招き猫」を追う。大小さまざまな招福猫児は圧巻! ここは招福猫児の奉納所で、願いが成就したあとに返納すると、さらに御利益がいただけるといわれている。つまり、ひしめき合っている招福猫児の数だけ願いが叶っているわけなので、それだけでも縁起のいいスポットといえそう。招き猫といえば、小判を持っている姿をイメージする人も多いのではないでしょうか。ここ豪徳寺の招福猫児は小判を持たず、右前足をすっと上げた上品でかわいらしい佇まい。「招福観世音菩薩」とその前に「招き猫」。「赤門」。通称「赤門」と呼ばれ、明治18年(1885年)井伊家より江戸屋敷の新中雀門が寄進され、現在の東門の場所に建てられた後、現在の場所に移築された。そして「本堂・法堂」前の青銅「八角燈籠」。美しい装飾が施されている外観をよく見ると、8つの面を持つ燈籠の火を灯す空間を覆う「火袋」と呼ばれる部分には、東西南北4面には獅子の透かし彫りが、また北西・南西・北東・南東側の4面にはそれぞれ「音声菩薩」が彫られており、北西側のものは尺八を吹き、南西側のものは横笛を、北東側のものは銅鈸子(どうばつし)と呼ばれるシンバルのような楽器を、南東側のものは竽(う)と呼ばれる細い竹の部材を集めて作った楽器を奏でる姿が描かれていたのであった。北東側のものは銅鈸子(どうばつし)と呼ばれるシンバルのような楽器を。東西南北4面には獅子の透かし彫りが。東側。南東側のものは竽(う)と呼ばれる細い竹の部材を集めて作った楽器・笙を奏でる。南側。南西側のものは横笛を。西側。北西側のものは尺八を吹き。北側。再び紅葉の下の「招き猫」を追う。そして「本堂・法堂」。天水桶には、井伊家の旗印である「井桁(いげた)」が。扁額「豪徳禅寺」と。内陣。世田谷区文化財の木造仏像が5体安置されているとのこと。左手にあったのが「納骨堂」。この先は工事中であり、立入禁止になっていた。八角形、白い漆喰壁の「納骨堂」。見事な「相輪」。上から順に宝珠:仏舎利(釈迦の骨)が納められる。竜車:奈良時代から平安時代の高貴な者の乗り物水煙:火炎の透し彫り。火は、木造の建築物が火災に繋がるため嫌われ、水煙と呼ばれる。 お釈迦様が火葬されたことをあらわす。九輪(宝輪):五智如来と四菩薩を表す。9つの輪からなる。受花(請花):飾り台。蓮華の花。伏鉢(覆鉢):鉢を伏せた形をした盛り土形の墓、ストゥーパ形。お墓を表している。露盤:伏鉢の土台。扁額「◯◯◯」か?「納骨堂」近くの石庭廻りは工事中であった。「寺務所」、「庫裡」、「書院」方向を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.31
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「浄真寺」を後にして、次の目的地の「豪徳寺」に向かう。東急大井町線の「二子玉川」駅まで戻り、東急田園都市線で「三軒茶屋」まで行き東急世田谷線を利用して「宮の坂駅」駅で下車。「宮の坂駅」横の踏切を渡って「豪徳寺」方向に進む。東京都世田谷区宮坂1丁目24。そして徒歩で5分ほどで「豪徳寺」の「山門(総門)」前に到着。「都史跡 井伊直弼墓」碑。寛永10年(1633年)に、世田谷が彦根藩の所領地となり、文明12年(1480年)に建立されていた「弘徳院」を、彦根藩主井伊家は江戸菩提寺と定めました。その後、万治2年(1659年)2代藩主井伊直孝の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」に因み、豪徳寺と改称され、大名家墓所に相応しい伽藍を整え現在に至ります。江戸時代の大名墓所の形態をよく保存し、周辺では最大規模の国指定史跡となっています。井伊直弼を始めとする彦根藩主や井伊家ゆかりの墓地があり、文化財が数多く所蔵。「山門」越しに「仏殿」を見る。明治17年(1884年)1月上棟の記録があり、関東大震災後、昭和初期に再建された。「山門」の扁額には「碧雲關(へきうんかん)」と。この扁額、室町時代にはこの豪徳寺のあたりに、世田谷城という城郭があり、それが青い雲のような建物と呼ばれたそうで、そこからこの名前になったという説があるようだ。「大谿山 豪徳寺(曹洞宗)寛永10年(1633年)にここ世田谷が彦根藩 の所領地となり、既にそこにあった文明12年(1480 年)に建立された「弘徳院」を、彦根藩主井伊家 は江戸菩提寺と定めた。その後、万治2年(1659年)2代藩主井伊直孝の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」に因み豪徳寺と改称され、大名家墓所に相応しい伽藍を整え現在に至る。それは、江戸時代 の大名墓所の形態をよく保存し、江戸周辺では最大規模の国指定史跡となっている。そこには仏殿、灯篭、鐘楼は創建当時のもので、広大な敷地内に法堂、開祖堂、書院、招福殿、三重の塔、地蔵堂、種月園(枯山水)や井伊家歴代の墓があって、世田谷を代表する古刹でもある。また、この寺には、2代藩主井伊直孝が鷹狩り の折、住職の愛猫「たま」の招きで、落雷を逃れたという伝説があって、豪徳寺の「招き猫 」は幸運を招くとされ、家内安全、商売繁盛、心願成就を願う招福殿への参詣者が多い。なお、豪徳寺の境内(1万5千坪、約5万m2)には四季折々の草木があり、梅・桜・牡丹・つつじ・アジサイや晩秋の紅葉などが楽しめる。そして石門から山門に至る参道の松並木、さらに野鳥が飛び交う奥深い森林もまた見所である。」かつて東京には滋賀県の飛び地があったのだと。1633年(寛永10年)に、江戸屋敷賄料として井伊家の「彦根藩世田谷領」となった現在の東京都世田谷区の一部。1871年(明治4年)の廃藩置県の時に「彦根県」となり、その後「長浜県」に統合された後、1872年(明治5年)に、東京府と神奈川県に移管され、その後、神奈川県に移管された土地も東京になることになり、その飛び地は、完全に消滅しましたのだが、一時的にでも東京に滋賀の飛び地があったということに驚きなのです。「山門」を潜って参道を進むと、正面に見えて来たのが「仏殿」。「仏殿」前にあった「豪徳寺境内案内図」。「境内配置図」をズームして。豪徳寺の広大な境内(1万5千坪、約5万m2)には多くの建築物や構築物があります。それらを、ぜひ鑑賞願います。参考までにその配置図と主なものについて概要を記します。1⃣山門 明治17年( 1884年) 1月上棟の記録があり、関東大震災後、昭和初期に再建 された。掲げられた額には「碧雲関」(へきうんかん)とある。2⃣三重塔 平成18年(2006年) 5月落慶、高さ22.5米で仏舎利、釈迦如来像、迦葉尊者像、 阿難尊者像、招福猫児観音像が安置され、塔に施された十二支の彫り物に 「招き猫」が飾られている。3⃣仏殿 仏殿の正面に篆額「弍世佛」があり、それは現在・過去・未来の三世を意味している。 それを表す釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像、弥勒菩薩坐像の外、多くの諸怫が安置 されている。4⃣招福殿 井伊家2代藩主直孝が鷹狩の折、住職の愛猫「たま」の招きで落雷の難を逃れた「招き猫」 という伝説があり、幸運を招く「招き猫」の元祖とされる。家内安全、商売繁盛、 心願成就を願う参詣者が絶えない。堂内には招福観音菩薩立像が安置されている。5⃣井伊家墓所 井伊家墓所募所には幕末の大老13代直弼募、豪徳寺中興開基2代直孝の墓をはじめ、 歴代藩主や正室らの墓が整然と並んでいる。平成20年(2008年)に国史跡に 指定された。6⃣ 法堂 昭和42年(1967年)に落慶、法堂には聖観世音菩薩立像、文殊菩薩坐像、普賢菩薩 座像、地蔵菩薩立像が安置され、さらに寺宝の「井伊直弼肖像画」(井伊直安作)が 飾られている。7⃣開祖堂 平成11年(1999年) 11月落慶、門菴宗関椅像(当寺開山)、天極秀道椅像(当寺 中興開山四世)、承陽大師(道元)椅像、常済大師(瑩山)椅像、聖徳太子椅像、 そして歴代住職、藩主の位牌や檀家の位牌が安置されている。8⃣赤門 通称「赤門」と呼ばれ、明治18年(1885年)井伊家より江戸屋敷の新中雀門が 寄進され、現在の東門の場所に建てられた後、現在の場所に移築された。9⃣梵鐘 鐘は延宝7年(1679年)藤原正次(釜屋六右衛門)により鋳造され、区内最古のもので、 美術的にも高い評価がある。平成12年(2000年)に世田谷区指定有形文化財となる。⑩地蔵堂 令和2年( 2020年) 9月落慶、地蔵菩薩半跏像が安置されている。⑪種月園・ 枯れ山水の庭園で、その中に井伊直弼遺愛の茶室「無二庵」がある。(非公開) 茶室□境内の石碑 境内や墓所に多くの顕彰碑がある。それは「忠正公神道碑」、「遠城謙道師遺跡碑」、 「鶴日下部先生碑銘」、「高橋瑞子彰功之碑」、「首塚碑」、「当山旧開基碑銘」 などの外、山門入口の右に「結界石」がある。「大谿山豪徳寺(曹洞宗)豪徳寺は、世田谷城主吉良政忠が、文明十二年(一四八〇)に亡くなった伯母の菩提のために建立したと伝える弘徳院を前身とする。天正十二年(一五八四)中興開山門菴宗関(高輪泉岳寺の開山)の時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。 寛永十年(一六三三)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の娘掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。仏殿とその三世仏像、達磨・大権修理菩提像、石灯籠ニ基、梵鐘な井伊家ゆかりの文化財のほか、同寺の草創を物語る同春院(吉良政忠)と高徳院の宝篋印塔も残されている。平成ニ十年三月境内西側にある井伊家代々の墓所が国史跡に指定された。ここには二代藩主井伊直孝を初め、桜田門外の変で落命した直弼など、江戸で亡くなった歴代藩主とその家族の墓がある。ほかにも、直弼の死後、墓守として一生を終えた遠城謙道や桜田殉難八士之碑等の石碑もある。 令和ニ年三月 世田谷区教育委員会」「せたがや百景 ㉑招き猫の豪徳寺」案内板がその下に。紅葉の参道を歩く。参道左側の紅葉。右奥にあったのが八角形の屋根を持つ「地蔵堂」。令和2年(2020年) 9月落慶、地蔵菩薩半跏像が安置されている。そしてその先に「鐘楼」。鐘は延宝7年(1679年)藤原正次(釜屋六右衛門)により鋳造され、区内最古のもので、美術的にも高い評価がある。平成12年(2000年)に世田谷区指定有形文化財となる。「山門」を振り返る。紅葉のモミジの先にあったのが「三重塔」。 平成18年(2006年) 5月落慶、高さ22.5米で仏舎利、釈迦如来像、迦葉尊者像、阿難尊者像、招福猫児観音像が安置され、塔に施された十二支の彫り物に「招き猫」が飾られている。「三重塔」を別角度から。「常香炉」、「仏殿」を正面から。再び「三重塔」。2006年に落慶した木造の三重塔。高さ22.5mの立派な建築。正面から。ズームして。「忠正公神道碑」。碑主の忠正公は井伊直弼の次男井伊忠正(直憲)。近江国彦根藩最後(第14代)の藩主であるようだ。碑は、逝去の翌年明治38年(1905)12月に建てられ、井伊直安篆額、谷鐵臣謹撰、日下部東作書、井亀泉刻字とある。 力強い楷書である。角度を変えて。正面に巨大な「香炉」。真っ黒で大きな「香炉」。とても存在感のある「香炉」。足元をよく見ると「香炉」を3体の鬼?が持ち上げて支えていた。線香の煙をあびることのできる「香閣(こうかく)」とも呼ばれるものであろう。彦根藩の井伊家の菩提寺でもあるので、寺紋も橘紋の中でも「彦根橘」と呼ばれるもの。狛犬が黄金の手毬に手をかけていた。大きな香炉に献香した後、香炉やこの獅子が手を置いている手毬を撫でるとご利益があるとのことで勿論私も。角度を変えて。狛犬を正面から。球には「星七宝(ほししっぽう)」の模様が。「七宝繋ぎ」の部品のつなぎ目に、小さい円を重ねた連続模様。「星」の名称は、日本では古来から星を丸で表すことによるとのこと。「焼香偈戒香定香解脱香 光明雲臺遍法界 供養十方無量佛 偏満普薫証菩提豪徳鐵禪袖 維持平成元年十一月三日」法要などで、焼香を行う場合などに唱える偈文(げもん)であると。偈文とは、仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの。「豪徳寺仏殿附(つけたり) 棟札一枚 石灯篭ニ基指定年月日 平成ニ年ニ月十五日規模 桁行(間ロ)五間(実長十七・七六メートル) 梁行(奥行)六間(実長十五・八ニメートル)豪徳寺仏殿は、寛文から延宝年間(一六六一~一六八〇)にかけて行われた伽藍整備事業の中心的建造物である。棟札によると延宝四年(一六七六)掃雲院(直孝公長女)の弟で藩主直澄が早世したのち仏殿の建設に着手し、翌五年には完成をみた。造営には豪徳寺第四世・天極秀道、エ匠星野市左物門尉積則らが当たった。仏殿には江戸時代期から日本にもたらされた黄檗宗の影響がみられる。禅宗寺院の仏殿は一般的に正画と側面の柱間数を同じとするが、この仏殿では柱間数が異なっている。吹き放ちの裳階(もこし、下屋(げや))や柱下の方形礎盤などに黄檗風の意匠がとりいれられ、特に紙状の絵様肘木(えようひじき)は中国や朝鮮の建築には良く使われるものであり、日本ではあまり一般的でない。区内に現存する最も古い建造物であり、建築史学上、価値の高いものであることから、区有形文化財に指定された。」。「豪徳寺仏殿像 五軀木造大権修利菩薩倚像 総高 百一 センチメートル木造弥勒菩薩坐像 像高 八十 センチメートル木造釈迦如来坐像 像高 七十二 センチメートル木造阿弥陀如来坐像 像高 七十二 センチメートル木造達磨大師坐像 像高 六十四・八センチメートル本像五軀は、仏殿に右記の順に安置されている。胎内銘札によると、延宝五年(一六七七)、井伊直孝の娘掃雲院が、父の菩提を弔うために「洛陽仏工祥雲」に、五軀一具として造らせたものであることがわかる。祥雲は黄檗宗の鉄眼(てつげん)の弟子で、のちに本所五百羅漢寺(現、目黒区)の五百羅漢像を彫造した松雲元慶(一六四八~一七一〇)のことである。当寺仏殿建立を初め豪徳寺の復興に努めていた掃雲院は、鉄眼ら黄檗僧に深く帰依し、その影響を受けていた。このような関係から仏殿像造立に当たって、祥雲は推挙されたものと考えられる。本像は、江戸時代の代表的な仏師祥雲の早期の作例として、また黄檗風仏像彫刻の数少ない遺例として貴重である。」「鐘楼」を見上げる。正面から。「梵鐘」。「制作者の太田近江大掾藤原正次(おおたおうみだいじょうふじわらのまさつぐ)は 江戸時代に幕府御用を務めた鋳物師の名跡(みょうせき)。出身は近江国(おうみのくに)栗太郡辻村(現・滋賀県栗東市辻)。代々「太田六右衛門」と称し、江戸深川(ふかがわ:東京都江東区)で梵鐘や天水桶、鍋、釜などを鋳造(ちゅうぞう)した。江戸町民からは「釜屋六右衛門」や「釜六」の俗称(ぞくしょう)で知られ、江戸の長者番付にも名を連ねた。「太田近江大掾」の称号を受領し、享保2(1717)年からは将軍家の「御成(おなり)先御用釜師」を勤めた。代表作に、台東区浅草寺の梵鐘や、墨田区回向院(えこういん:浄土宗の寺院)の銅造「阿弥陀如来坐像」がある。」とネットから。「世田谷区指定有形文化財(工芸品) 豪徳寺の梵鐘所在地 世田谷区豪徳寺二丁目二十四番七号所有者 世田谷区豪徳寺二丁目二十四番七号指定 平成十ニ年十一月二十八日制作年代 延宝七年(一六七丸)作者 近江大藤原正次材質・構造 鋼鋳造総高 一四七・五センチ本梵鐘は、延宝七(一六七九)年に完成の後、今日まで移動なく当寺に伝えられてきた。形姿は、比較的細身で均整のとれた優美な姿を呈し、吊手の竜頭は力強くメリハリのきいた雄渾(ゆうこん)な造形で、細部の表現も精巧な出来栄えである。撞座(つきざ)の意匠(いしょう)も独創的であり、工芸的に優れた完成度の高い梵鐘といえる。制作者の藤原正次(ふじわらのまさつぐ)は、別に釜屋六右衛門とも名乗り、当時江戸で名のあった鋳物師である。また世田谷代官大場市之丞吉寛が幹事となっている。本梵鐘は、この時期の梵鐘の一典型として、さらには著名な鋳物師の力量を窺う作品として、美術工芸的に貴重である。また、区内に伝わる梵鐘としては現存最古であり、世田谷に縁ある人物がその制作にかかわるなど、近世世田谷の歴史を知るうえでも貴重な遺品である。」「鐘楼」脇のモミジ葉が真っ赤に輝く。別の角度から。「地蔵堂」に近づいて。さらに。扁額は青い文字で「地蔵堂」。地蔵堂には二体の立派な「地蔵菩薩像」が納められており、奥の大きな仏像の上にはきらびやかな天蓋が飾られていた。「地蔵菩薩像」は左手に如意宝珠、右手に錫杖を持つ。そして「仏殿」に近づいて。扁額「弐世佛」。内陣。ここにも境内と同様な香炉が置かれていた。「豪徳寺仏殿像」をネットから。小さな社。その中にも石仏・三面六臂像が。再び「三重塔」を見上げて。「絵馬掛け」干支の動物と一緒に必ず招き猫が描かれているようであった。「招福観世音菩薩絵馬」には観音様と一緒に招き猫が描かれていた。平成18年竣工の「三重塔」一層目の四面には、干支(十二支)の彫刻が順番に施されているのだが、なんとネズミの部分に猫が彫られているのであった。しかも、子(ねずみ)と一緒。設定を変えてズームして。子(ねずみ)は、天敵であるはずの猫に小判を口に咥えて渡そうとしているようにも見えるのであった。こちらはイノシシ。至る所に招猫の姿が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.30
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「天嶽院」の南側高台には大きな墓地が拡がっていた。この日は徒歩にて、境内から-----のルートにて石段を上って行った。「境内・霊園案内図」境内の周囲に大きな霊園が囲んでいることが判ったのであった。ズームして。新しく整備された霊園中央には大きな地蔵が祀ってあった。「永代供養塔・地蔵菩薩」を正面から。お顔をズームして。「○地蔵」。お顔をズームして。「地蔵嘆喝(じぞうたんげ)」👈リンク地蔵菩薩を讃え捧げる経文であると。霊園の隅から藤沢市の本庁舎を見る。江の島の姿は片瀬山で隠れていた。そして「富士山」の姿が見えた。山頂をズームして。そして来た道を引き返す。石段の上から「天嶽院」の境内を見下ろす。そして再び「山門」からのモミジのトンネルを歩く。「参道」の脇に廻って「山門」近くのモミジを追う。そして再び「山門」、「金剛力士像・仁王像」を振り返る。「金剛力士像・吽形像」と「山門」そしてその先の紅葉を。安政二年火災では、大伽藍はことごとく焼失。焼失を免れたのが、現存するこの「山門」と。白壁に松の影が映って。そして道路脇の巨大な「六地蔵」を訪ねた。「温顔和楽」と刻まれた碑。「和楽」とは なごやかに楽しむこと。互いにうちとけて楽しむこと。常にこのお地蔵様のごとくに「温顔和楽」の日々でありたいが。通りに面し通行人に語り掛けるような優しいお顔で並んでいたのであった。右から、「ほかほか地蔵」と名前が刻まれていた。「らくらく地蔵」。「ふくふく地蔵」。「にこにこ地蔵」。「すくすく地蔵」。「いきいき地蔵」。塀の角にあった石碑。これも前回、訪ねた際のブログにて高校時代の友人から教えて頂きました。「古松談般若(こしょうはんにゃを だんじ)幽鳥弄真如(ゆうちょう しんにょ をろうず)」👈リンク という一対の禅語の言葉であると。古い松の木が風に吹かれて悟りの智慧を説き、山奥に棲む鳥が真実の教えを説きながらさえずっている。すなわち、周囲を見渡せば森羅万象が等しく尊い教えを説いている。この世界そのものが悟りの世界にほかならない と。(下の写真は以前のもの)ドウダンツツジの紅葉もエピローグへ。古そうな石灯籠。この先にも石碑が。この石碑には「純未生流之碑」と刻まれていると師匠から。道路沿いのフェンスの影が地面に映り込んで。こちらは近くにある「藤沢市立藤ヶ岡中学校」。城のような水色の三角屋根が印象的な校舎は、創立40周年を翌年に控えた2000(平成12)年に完成したと。「山門」右手の大きな台座に鎮座する「聖観世音菩薩立像」を見る。ズームして。右手に開蓮と未開蓮を刺した水瓶を持つ。「慈光遍照」と刻まれた石碑。「お大師様(空海)は、常に私どもにお救いの御心「慈光(じこう)」を遍(あまね)く照らされておられますので、いつでもお大師様の存在を感じる心をお持ちください。そしてお大師様を心に念じながら合掌して『南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)』をお唱えすることにより、本来自身に備わっている穢(けが)れのない清浄なる心の鍵が開き、御仏に包まれ抱かれている境地と共に、どんな場面でも常に仏様と共に歩んでいるという安らぎと喜びを実感できると思います。」と。ズームして。左手は、親指と人差し指を合わせて輪を作る「来迎印(らいごういん)」と呼ばれる印相で。「山門」を見る。再び「金剛力士像・仁王像」を。こちらは墓地への坂道にあった「曹洞禅寺 天嶽院」と大きく書かれた柱。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.12.29
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「参道」の右手にあったのが「不動殿」。「参道」には「狛犬」、その手前に「八角青銅燈籠」が。狛犬(右)。狛犬(左)。「不動殿」を正面から。露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の不動殿。身舎正面に庇を設けた向拝。「内陣」を見る。不動殿には「不動明王像」、「大黒天像」、「愛染明王像」を安置。「天蓋」。中央に「不動明王像」。火焔を背負って鎮座する宝剣と羂索を持つ濃い青色の「不動明王像」。「愛染明王像」。「大黒尊天像」。この美しい線刻の如き絵画が描かれていたのは、これも燈籠であろうか。「不動殿」前には、石舟の如き鉢?の上に乗った「聖観音菩薩像」が。巨大な手水鉢なのであろうか。龍の吐水口(とすいこう)。日本では昔から龍神が水を司る神さまとして崇められてきた。水はすべてのいきものにとって命の源。命をつなぐ水は尊いものであり、神道(自然信仰)では穢れや邪気を祓う神聖なものとされた。神社の手水舎で、左手、右手と水をかける行為は、心身を清めるために行うもので、この水を「龍神から出ている水」と見せることで「神聖な水である」ことを表現しているのである と。ズームして。鉢に「感応」の文字が刻まれていた。仏教の語で「感応」とは 「信心が神仏に通じること」であると。二人の童子が支える蓮華座に結跏趺坐で鎮座する「聖観音菩薩像」。「聖観音菩薩像」をズームして。二重円光を背負い、左手に開蓮を持つ、右手の印相は来迎印。「葛龍池不動尊」碑とこれも師匠より。「本堂」の北側、「鶴夢堂」の東側に「葛龍(ヶ)池」があるようだが、許可なしでは入れないようであった。「昭和平成伽藍恢興之碑」「昭和」の文字がひっくり返した鏡文字のようになっていたが、「昭和」の『異字体』であると師匠より。「山門」方向を振り返る。「道元禅師御道詠の碑」「峰の色 渓(たに)のひゞきも 皆ながら 我釈迦牟尼の 聲と姿と」。【季節の移ろいとともに変わってゆく峰々の色、そして聞こえてくる谷川のせせらぎ、自分を取り囲んでいる自然の姿そのものの中に仏(釈迦牟尼)の姿を見る、道元禅師の澄んだ心の有り様を素直に感じさせてくれる歌。仏は、お経やお堂の中だけにいるのではありません。山や川や海や雲や、世の中全てのなかに仏はいます。】とネットには。石庭。左手に「庫裡」。花頭窓の格子模様が美しかった。右手に入母屋造銅板葺で妻入の「淨聖殿」。大棟と向拝の唐破風に獅子口、軒廻りは一軒繁垂木で組物は舟肘木、拝は猪目懸魚で唐破風の兎毛通も猪目懸魚、妻飾は狐格子。両開きの桟唐戸と上に菱格子欄間、脇間に花頭窓本尊の「千手千眼観世音菩薩坐像」を安置。「浄聖殿」内に安置されている本尊「千手千眼観世音菩薩像」をパンフレットから。像高34.5センチメートル、総高83センチメートル、玉眼、金色相、寄木造の坐像。室町後期の作と。扁額「淨聖殿」。そして切石敷の参道を進んで行くと正面に切妻造銅板葺の「中雀門」。左右に白壁の築地塀のような回廊を設けた中雀門を通して本堂(法堂)が見えた。「功徳山 早雲禅寺 天嶽院」と。扁額は「湘中早雲禅寺」。「常香炉」越しに「本堂・法堂」を見る。中雀門の真ん中に「常香炉」が置かれ、香炉に乗っている鞠を踏む唐獅子と、左右の取っ手部に取り付けられた阿形吽形の龍が参拝者を迎えてくれたのであった。「常香炉」には寺紋の「北条鱗」が。鎌倉の北条と小田原の北条(後北条)。家紋も同じ三つ鱗のようでいて微妙に違うらしい。「正三角形の三つ鱗」は、「鎌倉時代の北条氏(特に得宗家)」が使用していたと言われている。一方、「二等辺三角形の三つ鱗」は得宗家以外の北条氏や「戦国時代の後北条氏」が使用しており、「北条鱗紋」と呼ばれる事がある。ただ、得宗家が二等辺三角形の三つ鱗を使用していた形跡もあるのだと。こちらに関しては厳密にどちらが使用していたかを区分するのは難しいと言えるのだ と。「法堂」をパンフレットより。法堂の前は基本的に白砂で構成するのも、昔の儀式用の礼の場という名残であると。「本堂・法堂」の内陣をパンフレットから。佛師松久宗琳謹作 一佛両祖を奉安する。(釈迦牟尼佛、道元禅師、螢山禅師)。「相中留恩記略所載」もパンフレットより。天嶽院の歴史は真言宗の古寺「不動院」から始まる。源頼朝公が治承四年(1180年)、伊豆に兵を挙げ鎌倉を目指す途中立ち寄り、 不動明王様に大願成就の祈願をされたとの伝説がある。明応四年(1495年)、北条早雲公によって伽藍の一寺が創建され、「不動院」を改め曹洞宗の禅寺とし、虚堂玄白禅師を迎えて開山とした。天正四年(1576年)四世住職の代に伽藍は焼失するが、玉縄城主北条綱成・氏繁公父子によって伽藍が復興された。 更に紀伊大納言徳川光貞卿の信仰篤く、六世住職の代に七堂伽藍が完成された。この姿が上の写真「相中留恩記略」巻之十八に記載されている。なお天正十九年(1591年)十一月、家康公から三十石の朱印地を賜った事実がある。安政二年(1855年)二月二十六日、二十二世住職の代に再び火災にあい、大伽藍はことごとく焼失した。焼失を免れ現存する総門(山門)は江戸中期に水戸光圀公が建立したと伝えられる。昭和五十一年(1976年)春伽藍復興に着手、二十年余を経て平成十年(1998年)七堂伽藍を室町時代の様式に統一して復興した と。「本堂・法堂」の右手に入母屋造桟瓦葺の僧堂(座禅堂)があった。寺号の早雲禅寺から扁額の書は「雲堂」であろうか。「不論上智下愚、莫簡利人鈍者」の文字が。「上智下愚(じょうちかぐ)を論ぜず、利人鈍者(りじんどんしゃ)を簡(えら)ぶこと莫(なか)れ。」と。道元禅師が、正しい坐禅をあまねくすべての人々に勧めるために記した「普勧坐禅儀.」の一文であると 。(ふつう世間では思い(アタマ)の智愚ばかりを問題にしているわけだが)坐禅するということにおいては、まるきり人間的智慧・才能の世界ではないのだから,人間の利口・馬鹿、学問のあるなしは問題ではない。)と。中雀門の前、淨聖殿の対面に建つ入母屋造銅板葺の「寺務所」があった。参道側入口玄関前には「掃除小僧」の姿が。「掃けば散り 払えばまたも塵積る 人の心も庭の落ち葉も」。「木々の色鮮やかな紅葉に目を奪われ、葉が落ちる様子に少しの物悲しさを覚えます。はらはらと庭先で積もる落ち葉は、日々増えて毎日掃いてもきりがないように感じます。今月のことばは、そんな落ち葉の様子を人の心になぞらえた道歌です。心は常に清浄でありたいと願うものの、人との小さな摩擦や日々の出来事で、簡単に人の心はささくれ立ちます。苛立ちや怒り、自分の価値観で凝り固まった自尊心は少しずつ塵のように自分の中に溜まっていくのかもしれません。宮城顗先生のことばに、次のようなものがあります。「いつとはなしに積もってしまう塵とは、自分の体験のみを絶対的なこととして誇る自負心、驕慢心であります。どこからともなくにじみでてきて肌をおおってしまう垢とは、自分のしたことや考えについての執着心であります。その塵と垢とを払い除かないかぎり、努力すればするほど人をへだて差別し、軽蔑する人間になってゆくのです。人々への愛に生きているつもりが、いつしらず、愛に生きている自分自身への自己満足と自己固執にすりかわり、人々がその愛に生きる自分を理解しないときには、逆にその人々を軽蔑し、憎みさえしてしまいます。」自分では気づかないそのような心を掃き清めるのは、一日の終わりの感謝のことばではないでしょうか。静かに一日を振り返り、真摯にわが身を問いかける、そして他者にかけてもらったあたたかいことばや出来事を思い出し、一日が無事に過ごせたことに感謝の思いを抱きます。「ありがとう」の思いでその日を閉じ、「ありがとう」の心を明日へと繋ぎます。感謝とわが身を振り返る生活が、知らず知らず積もっていくわが身の塵に、少しでも気づくきっかけを与えてくれるのではないでしょうか。」とネットには。「参禅会」、「写経会」が毎月行われているようであった。御朱印の案内はこの日はなかった。これは、2020年に訪ねた時の写真です。御朱印を頂くために「庫裡」の玄関の内部に。そして寺の奥様?から御朱印・「浄聖殿」を頂きました。記念スタンプも。御朱印を入れて下さった袋の中には、山号の「功徳山」そして「三つ鱗」が焼き付けられたお煎餅が2袋入っていました。御朱印を入れて下さった袋の中には、「天嶽院の歴史」👈リンク も。「開山堂」をパンフレットから。「葛籠ヶ池と鶴夢楼」をパンフレットから。「参道」を戻ると右手にあったのが「相生松」。「相生松」碑。「事務所」の白壁には格子付きの「火灯窓」が並んでいた。そして寺の上、南側にある墓地を訪ねることにする。墓地への急な階段を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.28
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この日は12月16日(金)、この秋も多くの場所の黄葉・紅葉を楽しんで来たが、地元市内にある「天嶽院」の参道の紅葉も美しいので、今年も訪ねたのであった。駐車場に車を駐め、この日も散策開始。「天嶽院」の「山門」は西向きに建っているので、紅葉の参道に陽光が入りこむのは15時前後からが良いのである。この日も15時過ぎに到着。「功徳山 早雲禅寺 天嶽院(てんがくいん)」。所在地:神奈川県藤沢市渡内(わたうち)1丁目1-1頂いたパンフレットから「天嶽院境内案内図」を。「嶽」の字について学びました。 【https://okjiten.jp/kanji342.html】より「---北条早雲公開基の古刹--- 天嶽院」文明年間(1469年 - 1487年)に「虚堂玄白」が草庵を営んだ。この草庵を「玉縄城主、北条綱成」が「北条早雲」を弔うために寺院として創建。虚堂を開山、早雲を開基とした。 天正19年(1591年)11月、徳川家康より朱印地30石を賜る。パンフレットより。「功徳山早雲禅寺 天嶽院」。パンフレットより。「参道」入口の門柱。この門柱に書かれている文字は、一昨年?我が高校時代の友人Sさんから教えて頂きました。「雨花知佛境 流水識禅心」と。「雨花佛境を知り 流水禅心を識る」と。「雨花知佛境」(右側)の門柱。「流水識禅心」(左側)の門柱。「山門」とその前の「寺号標石」と「金剛力士像・仁王像」。寺号標石「天嶽院」。・真言密教の古寺「不動院」から始まる。・治承四年、源頼朝公は、伊豆で挙兵、鎌倉を目指すが、途中「不動院」に立ち寄り 不動明王様に大願成就祈願をされたとの伝説がある。・明応四年、北条早雲公によって伽藍の一宇が創建され、「不動院」を改めて曹洞宗の禅寺とし、 虚堂玄白禅師を迎えて開山。・天正四年、火災に遭い伽藍は全焼。・中興開基 玉縄城主北条綱成公、氏繁公父子。・再中興開基 紀伊大納言徳川光貞卿。・昭和平成伽藍復興。向かって右側の「阿形像」。上半身をあらわにした2体は、筋骨隆々。カッと両の目を見開いて、睨みをきかす迫力たっぷりの表情。左手に長い金剛杵(こんごうしょ)を抱え、右手の五指を下に向けて大きく開いて。長い金剛杵(こんごうしょ)。この金剛杵はあらゆるものを打ち砕けるほど硬く、金剛力士はこれを用いて仏敵や業魔を粉砕するのだと。お顔をズームして。向かって左側の「吽形像」。左手に短い金剛杵(こんごうしょ)を抱え、右手の五指を正面に向けて大きく開いて。短い金剛杵(こんごうしょ)。お顔をズームして。「掲示板」。「利に群がるな 心で集え 目先の欲は 分裂のもと」と。「山門」前から「参道」の「モミジトンネル」を望む。そして「山門」を額縁にして、モミジの参道を。「山門」を潜りながら。モミジのトンネルに続く切石敷の参道....石畳とその左右に敷き詰められた苔の緑が絨毯のようで美しいのであった。「参道」を歩く。モミジのトンネルの中から眺めた石段上の堂宇境内。言葉はいらない!!そして苔生した参道を進み、石段の上から「山門」を振り返る。午後3時の逆光にモモジ葉が輝く。「山門」をズームして。自然石を刳って作ったのであろうか、「手水場」が。「舟落葉」が一枚(ひとひら)。正面に「中雀門」を見る。「不動殿」横の道沿いに建っていた祠。三体の石仏が祠の中に。右の小さな2体の石仏。左の大きな石仏。「鐘楼」。梵鐘をズームして。安永3年(1774年)の銘のある梵鐘。総高161.8センチメートル、口径81.6センチメートル、鐘身111センチメートル。銘文の文中には「功徳山早雲禅寺天嶽院北条氏繁公草創」とある と。「鐘楼」の先、右手にあった「六地蔵」。「庫裡」を横から。この奥に「鶴夢楼」があった。「早雲閣」。「早雲閣」の玄関。「東司」は手洗い。手洗の中の額に書いてあった言葉を紹介させて頂きます。「禪寺では御手洗のことを東司(とうす)と申します。一、佛殿(ぶつでん)ニ、法堂(はっとう)三、僧堂(そうどう)四、庫裡(こり)五、山門(さんもん)六、東司(とうす)七、浴室(よくしつ) 以上が禪寺に於ける七堂伽藍であります。」と。休憩所「黄楳亭」。そして引き返して再び「鐘楼」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.27
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「九品山 唯在念佛院 淨眞寺」の「本堂・龍御殿」を後にして、「山門・仁王門」に向かって進む。左手にあったのが「仏足石」。天保年間(1830~1844)造立の仏足石。「仏足石大聖釈尊の御入滅後、仏陀礼拝の形式として、その御足に対して、接足作礼(せっそくさらい)により人々は哀心慕情の誠を示した御入滅後およそ六百年、仏像が創まり、それが広範におこなわれるまでの永い年月、仏足石礼拝は重く用いられたのである。当山の仏足石の中央に千福輪相(法輪)が刻されているが、磨滅している。天保年間のもので、近年その土台を補修した。」植松壽樹(ひさき)歌碑。「掃きよせて 落葉焚く間も 銀杏の樹 やまずしこぼす 黄なるその葉を 壽樹」大正昭和期の歌人。歌誌『沃野(よくや)』を創刊・主宰した。墓所はここ浄真寺。裏面には、短歌一首が冒頭に。『雷鳥は いろ(色)まぎらはし 指さして をし(教)ふる方(かた)に さ霧のうごく 壽樹』歌碑銘植松壽樹 明治二十三年二月十六日東京四谷に生れ長じて慶應義塾大学理財科を卒業実業界に入り 後に芝中学校(現芝学園)に職を転じ 爾来歿するまで教職にたずさわる 歿年 昭和三十九年三月二十六日明治三十八年窪田空穂の十月会に参加 若くしてすでに歌人としての風格を備え 大正三年「国民文学」創刊と同時に参画したが 昭和二十一年自ら「沃野」を創刊し主催する 著書のうち 歌集には碑面の一首を含む「庭燎」(大正十年八月)を始め 「光化門」「枯山水」「渦若葉」「白玉の木」など 研究には「近世万葉調短歌集成」其他 近世歌人の研究書数冊がある また能書家であった父千春に学び 若きより壽樹もまた書をよくした ここに頭刻の一首をのこして永くとどめることとする 碑面の一首は「庭燎」所収のもので 当時好んでこの地を逍遥した折の所産である 昭和四十五年六月吉日 植松壽樹歌碑建設委員会 編」と。上記の植松壽樹氏の歌は、我が学友が地元の市民図書館から、「植松壽樹全歌集」の本をレンタルして、第四歌集「渦若葉」所収の歌であることを、見つけて下さいました。彼女の調査力に驚愕、敬意、感謝です。「都天然記念物 九品仏のイチョウ」碑。総ての葉を落として冬の到来を待つ「都天然記念物 九品仏のイチョウ」。枯山水の庭を再び。奥には「山門・仁王門」の屋根が見えた。本堂前の「さぎ草絵馬」を振り返る。「白鷺の足に結んだ常盤姫の願いが成就した事に由来し、龍護殿前の白鷺の像に結ぶことが。皆さまも常盤姫にあやかり、お願い事を白鷺に結んで下さい。」と。「山門・仁王門」に向かって進む。境内側には、以前は風神雷神像が鎮座していた記憶がある。2018年の写真。2018年の写真。これらの像は何処に?「山門・仁王門」から「東門」方向を見る。「もみじ回廊」をどこまでも楽しむ。左手前方に「開山堂」の「中門・薬医門」。山門越しに振り返って。総門への参道。赤のカオス。立ち去り難い空間。そして「東門」へ。「九品佛浄真寺東門」。東横線・自由が丘駅から来るとこちらの門に辿り着くようだ。東門の扁額。『釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心』と。これは『 おシャカさんが説法を説く所であり、ここが極楽の東門の中心である』の意と。また、この額は箕の形をしており、塵取りのように全ての願いをすくいとって漏らさない阿彌陀如来の本願を現しているのだと。「東門」越しに「山門・仁王門」を。「山門・仁王門」をズームで。ズームして。さらに。赤・黃葉が輝き続けていた。「総門」に向かって進む。「焔魔堂」を再び。総門手前。石仏群周辺。「焔魔堂」前の「三途の川」とも、しばし!?の別れ。そして「九品山 唯在念佛院 淨眞寺」の「寺粧う」「照紅葉(てりもみじ)」を堪能して、「九品仏駅」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.26
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そして「九品山 唯在念佛院 淨眞寺」の「本堂・龍御殿」を正面から。「九品仏」の名で親しまれているが正式名称は「九品山唯在念佛院淨眞寺」と号し、浄土宗に属する寺院である。開山は江戸時代初期の高僧「珂碩(かせき)上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝六年(1678)に奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典「観無量寿経」の説相によって諸堂宇を配置し、九躰(九品)の阿弥陀佛像を安置し創建された。諸堂宇は「江戸名所図絵」(1836発行)に描かれている配置とほとんど変わりなく現在に至っている と。「御朱印 縁起 御守 御祈願随時 受付」案内。「常香炉」九品仏浄真寺の寺紋は源頼朝の紋で知られる 「竜胆車(りんどうぐるま)」「本堂本尊に珂碩上人御自作の釈迦牟尼如来(文化財)を安置し、当山第ニ世珂憶上人代、元禄11年(1698年)三仏堂ともども上棟した。世に珂憶造りと称せられ、雄大壮重なる茅ぶきの大殿である。近時、往昔の面影そのままの銅板葺に大修築を完了した。本堂はまた「龍御殿」ともいわれ、浄土(彼岸)を表象する三仏堂に対比し、西面して穢土(此岸)をあらわす。当山独特の行事である「おめんかぶり・来迎会」は、この本堂(此岸)と三仏堂中央の上品堂(彼岸)とのあいだに橋をかけ、阿弥陀仏とニ十五菩薩が、来迎・往生・還来と3回橋を行道するものである。」扁額「龍護殿」。「向拝」の見事な彫刻。正面五間で中央間は両折両開で格狭間を入れた桟唐戸、内側に明障子。正面に「御本尊」の「釈迦牟尼仏」が。内陣に鎮座する法界定印(禅定印)を結ぶ釈迦如来坐像。浄真寺の開祖の珂碩上人の作と伝わる像で、江戸時代の作 と。「御本尊」の「釈迦牟尼仏」をズームして。左側から。ズームして。反対側から。御本尊の左側の部屋。扁額は「霊瑞(れいずい)」と。「霊瑞」は浄土宗京都知恩院の僧。号は鳳誉。日野氏。信濃更科郡の人。蓮光寺仁説の下に投し、後江戸に出遊し増上寺学寮主慈専に学び、寮主となり学頭に進む。文政3年下総生実大巌寺に住し、後上野新田大光寺に転住し大教正に補せられる。明治19年増上寺に進み、21年知恩院に昇る。明治21年(1888)歿、70才。「賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)」「病が治ります。自分の患部と賓頭盧尊者の同じ所をくり返し撫でて下さい」と。私も頭をしっかりと撫でて。三体の仏様が御鎮座。中央に世田谷区指定有形文化財・「五劫思惟像」。左に「三尊仏像」。右に「地蔵菩薩像」。右側に「宗祖 法然上人像」祈りの姿で。左には多くの「位牌」が祀られていた。そして「本堂」北側の回廊からの景色。「五社殿」も見えた。大正2年に建造された奥沢神社の前代の本殿も五社殿として浄真寺に移築されているが、覆屋内に納められており見ることはできないのだと。淨眞寺の鬼門を守護する御社で、伊勢神宮、春日大社、石清水八幡宮、住吉大社、熊野大社の五社の御分身をお祀りしている と。本堂内の欄間の「極彩色の見事な彫刻」を追う。鳳凰の姿。「天蓋」。下から見上げて。再び「御本尊」を正面から。「本堂」の右側の部屋。牡丹の花、龍の見事な彫刻。扁額「松露斎」と。開山の「珂碩上人」の遷化法名が「大蓮社超譽珂碩松露大和尚」ということから来ているのであろう。「開山 珂碩上人倚像」。ズームして。位牌には「開山大蓮社超譽上人珂碩松露大和尚 位」と。右手には「阿弥陀仏像」が奥に。左側には「高祖 善導大師像」。そして「本堂」の南側回廊から「枯山水の庭」を見る。波紋も美しく。写真右の銀杏の落葉時であれば、波紋に浮かぶ黄色の銀杏の葉が・・・と。再び欄間の彫刻を。この先で御朱印を頂きました。「御朱印」を頂きました。中央に九品仏のお姿が。こちらは、平成三十年(2018)九月十四日に頂いた御朱印。御本尊の「釈迦牟尼仏」を再び。欄間の彫刻とその上の観音様像。「観音様」をズームして。再び「天蓋」を。「風鐸」を銀杏の木を背景に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.25
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「三仏堂」を後にしてその奥の墓地の中にある「開山歴代上人御廟」に向かって「中品堂」の先を左に折れてて進む。「中品堂」の北側の墓地への参道を進む。「淨眞寺境内墓地 檀家使用区画見取図」。突き当りの左側にあった石碑・石仏。「本堂石墻(せきしょう・塀)建立供養塔」(左)、右の石仏には「延宝丁巳(5)年(1677)ニ月四日 浄譽一廟?元水居士」他多くの戒名が刻まれていた。「開山珂碩大和尚第参百年遠忌追恩寶塔」。「延命地蔵尊」であろう。「延命經日 一者女人泰産」と刻まれた石仏。女人泰産とは、女性がやすらかなお産が出来ること。「先祖代々一切精靈 清智院大譽浄倫超運居士 大智院觀譽照妙壽善女」と。「南無阿弥陀仏」碑。横には「文化十酉年七月二十日」と。正面に「開山廟」・「開山珂碩大和尚」墓地。墓石・「無縫塔(むほうとう)」に近づいて。ここにも「南無阿弥陀仏」。その横にも大きな「無縫塔」が。「歴代上人の墓石」が並ぶ。基礎の上に請花をのせ、その上に丸みをおびた長い卵形の塔身をのせた「無縫塔」が並んでいた。「兼齋大人之塚」。歴史を感じる多くの墓石が並ぶ。こちらの無縫塔墓石は?こちらは比較的新しかったが。墓誌碑には「中興十五世、中興十六世」 と。歴代上人の墓石を反対側から。こちらにも無縫塔が並ぶ。墓地を望む。「中品堂」裏の墓地には「名木百選 イヌシデ」の老木が。そして墓地入口に向かって引き返す。この場所には火灯窓・花頭窓(かとうまど)の建物が建っていたが。これが、以前の建物の写真であるが。「中品堂」前から「本堂」への参道を進む。これぞ紅葉のトンネル。「本堂」の北側の林も紅葉のカオスが拡がっていた。角にあったのが「河口慧海師碑」。「我国最初のヒマラヤ踏破者 日本西蔵学の始祖 在家仏教の首唱者雪山道人河口慧海師は慶応二年堺市に生る 十五歳釈迦伝に感激精進に入り哲 学館に学ぶ 廿五歳得度 仏典の正解は原典乃至西蔵訳によるに如かずと悟り 渡印入蔵を志し明治卅三年単身ヒマラヤの嶮を越え秘境西蔵に入る セラ大学 に学び傍ら医療を施す為に声名高く法王の知遇を受く 帰国に際し西蔵蔵経を 将来す 後再び入蔵梵蔵両蔵経並に仏像仏具博物標本等多数を携えて大正四年 帰朝 爾後諸大学に西蔵学を講ず 神足其許に集る師持戒堅固肉食妻帯を退け 在家仏教の宣揚に努む 信者其門に参ず 梵蔵仏典の和訳西蔵文典西蔵旅行記 等の著あり 昭和十五年将来蔵経を東洋文庫に寄贈し蔵和辞典編纂会を起す業 半ば戦禍国中に及ぶ 廿年二月廿四日円寂寿八十昭和三十二年二月二十四日 文学博士 椎尾弁匡撰 日本芸術院会員 桂月松林篤書」塔身部237×136×22cm、真鶴の石とのこと。「和」と刻まれた球状の石碑。「平和の塔(へいわのとう)」であると。台座には「超世無倫」と刻まれていた。「經日」とは一日、また一日と時がたつこと、「超世無倫」とは世に比べるものがないこと。昭和四十年(1965)建立と。本堂前の「花供養塔」。母の日が終わった5月第3日曜日に、ここ浄真寺で花供養が行われると。戦後から長く続く法要で、お花屋さんの有志が1年間お花にお世話になった、花の生命を使わせて商売をさせて頂いたことへのご供養であると。「本堂」の北側の林の中にも石仏や庭石が並んでいた。石仏をズームして。左前方に「本堂(龍護殿)」が見えて来た。輝く紅葉を見上げて。「南無阿弥陀佛 傳通院四十九世」と刻まれた石碑。「本堂(龍護殿)」前には「さぎ草絵馬」がニ体。白鷺の足に結んだ常盤姫の願いが成就した事に由来し、龍護殿前の白鷺の像に願い事を結ぶことができるようであった。「常盤姫伝説今から400年以上も昔、世田谷城主吉良頼康には奥沢城主大平出羽守の娘で常盤という美しい側室がいました。常盤姫は頼康の愛を一身に集めていましたが、それをねたましく思った側妾たちは、つくり話によって頼康につげ口をしました。度重なるつげ口から頼康もそれを本気にして常盤姫に冷たくあたるようになりま した。愛情を疑われ、悲しみにくれた姫は死を決意し、幼い頃からかわいがってい た白さぎの足に遺書を結びつけ自分の育った奥沢城へ向けて放しました。白さぎは奥沢城の近くで狩をしていた頼康の目にとまり、矢で射落とされてしまいました。白さぎの足に結んであった遺書を見て初めて常盤姫の無実を知りいそいで世田谷城に帰りましたが、すでに姫は息をひきとっていました。その時、白さぎの血のあとから、一本の草が生え、サギに似た白いかれんな花を 咲かせました。これがサギソウと呼ばれるようになったのです。」とネットから。こちらの白鷺の像は口を開けて。この白鷺の像も阿吽像の如し。「本堂(龍護殿)」前から「三仏堂」の「上品堂」を見る。「本堂(龍護殿)」前の「半跏思惟地蔵菩薩」。歩いて来た、「本堂」前の参道を振り返る。「本堂」前に「金千五百圓」と刻まれた大きな石碑が鎮座。再び「河口慧海師碑」の方向を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.24
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九品仏浄真寺 中央の「三仏堂(阿弥陀堂)」本堂の対面に3つの「三仏堂(阿弥陀堂)」があり、それぞれに3体合計9体の阿弥陀如来像が安置されている。元禄11〜12年に建立された三仏堂は、安政・大正の地震で被害を受け、その都度修復をしたが、昭和58年に大修復工事が行われ、創建当時の姿を取り戻した。3つの御堂の9体はそれぞれ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生を表し、これをあわせて九品(あるいは九品往生)といい、この九品の仏から通称「九品仏」と呼ばれている。まずは左から「下品堂(げぼんどう)・下品阿弥陀堂(げぼんあみだどう)」に向かって進む。下品上生、下品中生、下品下生と書かれたそれぞれの扁額が。3棟とも同じつくりで、内部に阿弥陀如来像を3体ずつ安置する全国的にも珍しい形式である と。このような九体阿弥陀は、他に京都の浄瑠璃寺にしかないとのこと。正面にある「三仏堂」の「下品堂」に向って進む。斜めから「下品堂」を見る。「三仏堂」は真東に向いて建っている。という事は、浄土、彼岸に当たる区域という事なのであろう。彼岸の地においては全て生前の行いにより三つの品階に区別され、それが又それぞれ三ランク、計九ランクに分類されるのだと。そしてそれぞれ専任の阿弥陀如来が付き、上のランクに引き上げて呉れるのだと。最終的には全員が上品上生に達するそうですが、子孫の供養の仕方、行いによりスピードが異なると。境内の「三仏堂」の配置図。阿弥陀如来の九品来迎印。阿弥陀如来が西方極楽浄土から臨終の人を迎えに来るのに、人の段階によって印が異なるとされ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょう)までの九つの印がある。下記はネットから。 人差指 中指 薬指「下品堂(げぼんどう)」。「東京都有形文化財 下品阿弥陀如来像 三體」。正面の扁額は「下品上生」。しかし、仏様のお姿はなし。「下品上生佛像 御遷座中令和四年からニヶ年間」と。向かって左側には薬指を曲げた「下品下生」仏。九品仏は坐像で、像高は、すべて2.8m(所謂丈六)。お顔をズームして。向かって右側には中指を曲げた「下品中生」仏。「新補化佛は化佛の背面に寄進者芳名等を墨書した後に後背に奉祀いたします。」「祝 下品中生佛大修繕完了 下品堂本座還着」と。お顔をズームして。「九品仏と三仏道珂碩上人(1617~94)は、念仏行者として一代の高僧であるとともに、また非常に彫刻に秀でられ、その彫刻された仏像も多数におよんだ。なかでも、18歳で発願、51歳のとき完成した九体の阿弥陀如来像(九品仏)は上人畢生の結晶といわれる代表作で、未代衆生化益の尊い御仏像である。九体とも文化財の指定をうけ、上品堂(中央)・中品堂(右)・下品堂(左)の三つのお堂(三仏堂)にそれぞれ三体ずつ安置してある。上品堂のうち、中央を上品上生仏、右を上品中生仏、左を上品下生仏とする。中品堂、下品堂と同様で、したがって阿弥陀さまには、上品上生から下品下生まで九つの名があり、、それぞれ手の位置および印契が異なっている。なにゆえに阿弥陀さまに九品の差別があるのか、一つには私たちの浄土教入信の過程・段階を、二つには念仏によって浄化される私たちの心の様態を示し、三つには往生人たるわれわれの機根を分類したのであって、私たちが念仏信仰に入るときの動機から、段々念仏によって身と口と意の三つが浄化されてゆき「生けらば念仏の功つもり死なば浄土にまいりなんとてもかくてもこの身には、思い患うことぞなき」という念死念仏の心境に至る道程を示したものということができる。京都府下の浄瑠璃寺(九体寺)とともにわが国における東西の九品仏像の双璧である。」「下品 阿弥陀如来像 三體」大勧進 案内。「下品堂」前の黄葉も輝く。手摺には「紫雲」が施されていた。「三仏堂」前の広場の紅葉。「上品堂」に向って進む。「三仏堂」の前の参道沿いには、モミジが陽光を浴びて黄金の「九品仏」の如くに輝いていた。こちらは紅葉のプロローグの黄葉。こちらはエピローグへと。「上品堂」が前方に。桜の時期も美しいのである。右手への参道の先に有るのが「本堂・龍護殿」。次に訪ねたのが、「三仏堂」の中央にあった「上品堂(じょうぼんどう)」。上品堂の中央の扁額は「上品上生」。「上品 阿弥陀如来像 三體」。「上品上生」仏。両手を膝の上で組み合わせ親指と人差指で輪を。「上品上生 手印」阿弥陀様が組んでいることでも有名な「上品上生(じょうぼんじょうしょう)」は、九品往生(くほんおうじょう)と呼ばれている9つの印相の1つ。九品、また3つある上品往生(じょうひんおうじょう)の中でも最上級に値している。印の組み方は、親指と人差し指で輪を作るようにして合わせ、他の指は伸ばして重ね合わせる。そのまま胡座(あぐら)をかいた上に置けば完成。「上品上生」は、「人々の中でももっとも早く極楽浄土へ行きたい」と願うこと。慈悲の心・真の心を持ち、経典を読破し理解して仏を信じる人が上品上生を組み祈りを捧げることで、極楽浄土への道が開かれるのだと。両脇には献花が。名前があるのか?花纏?花万灯にも似て。お顔をズームして。そして「上品中生」仏。お顔をズームして。「上品下生」仏。お顔をズームして。「来迎会(おめんかぶり)当山には、ひろく「おめんかぶり」の名で親しまれる行事がある。これは三年ごとに奉修される阿弥陀如来ニ十五菩薩「来迎会」のことで、無形文化財に指定されている。念仏業者が臨終の夕ベに、阿弥陀さまがニ十五の菩薩さまをしたがえて西方浄土よりご来迎になるという、浄土の教えを行事にしたもので、その日は三仏堂から本堂への懸橋を信者の方々が菩薩のお面をかぶって行道する尊くもまた厳粛な儀式である。このおめんかぶりは、三年に一度の行事であり、5月5日の午前11時・午後4時の1日2回おつとめする。関東においては、当山のみの行事であり、ぜひ一度御結縁あらんことをおすすめする。なお、毎年8月16日当山の法宝物を一般公開しているので御来観ください」「上品堂」前の紅葉。ここにも「大勧進」の案内が。加藤楸邨の句碑。「しづかなる 力満ちゆき 螇蚸(ばった)とぶ」「人の気配を感じてか、草むらにじっと動かない螇蚸がいる。こちらも動かずに息をひそめ目を凝らしている。動かないのは力が抜けているのではなく、全身に力を漲らせているのだ。と、次の瞬間、螇蚸は勢いよく跳躍、飛翔したのだった。昆虫の思いがけない力強い飛翔に、作者は心を打たれたのではなかったろうか。内への充実と外への飛躍、静と動の鮮やかな対比が螇蚸の命の輝きを捉えている」とネットから。石碑の裏面には「しづかなる 力満ちゆき 螇蚸とぶ「螇蚸(はたはた)」は昆虫のバッタの異称 と。しかし、虫偏の漢字、“虫”のある漢字って意外と多いので調べて見た。以下、ネットから「手元の歳時記で、秋の季語/動物編に出てくる虫偏の漢字または“虫”のある漢字を含む季語を拾い上げてみましょう。・秋の蛇(へび)・秋の蛍(ほたる)・秋の蠅(はえ)・秋の蚊(か)・秋の蜂(はち)・秋の蝶(てふ、ちょう)・秋の蝉(せみ)・蜩(ひぐらし)・法師蝉(ほふしぜみ:ツクツクボウシのこと)・蜻蛉(とんぼ)・蜉蝣(かげろふ、かげろう)・虫(むし:秋鳴く虫の総称)・蟋蟀(こほろぎ、こおろぎ)・蛬(こほろぎ、こおろぎ)・蛼(こほろぎ、こおろぎ)・螽蟖(きりぎりす)・螇蚸(ばった)・飛蝗(ばった)・蟿螽(はたはた:バッタのこと)・蝗(いなご)・螽(いなご)・蟷螂(かまきり)・螻蛄(けら)・蚯蚓鳴く(みみずなく:ケラの鳴き声のこと)・秋蚕(あきご:秋に飼い育てるカイコのこと)」と。以上25件、30種類の漢字があるのだと。その奥にあったのが「阿育王塔(あしょかおうとう)」。「阿育王塔」は、分骨した釈迦(シャカ)の遺骨を納めるために作られた仏塔。阿育王は、紀元前三世紀のインドの王で、仏教を国教とし、慈悲の教により国民を臨(のぞ)み、その恩徳国内に満ちたという。日本様式の塔。天保年間(1831~45)のもの。「上品堂」前の広場の紅葉。「上品堂」の前の参道を振り返る。そして「中品堂」に向って進む。「中品堂」。「中品上生」の扁額。「中品 阿弥陀如来像 三體」。「中品三仏」を見る。中央に「中品上生」仏。両手を前向き上方に。親指と人差指で輪を。お顔をズームして。「中品下生」仏。親指と薬指で輪を。お顔をズームして。「中品中生」仏。親指と中指で輪を。お顔をズームして。「三仏堂修覆元禄11年~ 12年にかけ建立されたこの三仏堂も、安政・大正の地震の災厄により甚大な損害をうけ、そのつど補修したが、昭和58年10月7日珂碩上人の第290年忌の勝縁に際し、大修覆工事をおこない、創建当時の偉容を再現した。九品の阿弥陀如来像を奉祀してあるのは、九躯寺(浄瑠璃寺)と当山のみである。(都有形文化財)」「中品堂」前から「本堂」への参道。紅葉に溢れて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.23
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「本堂」脇の枯山水の庭の先の「銀杏」の老木は、既に完全に葉を落としていた。紅葉も、陽光が射さない場所は・・・・。この方向は陽光を浴びて輝く。参道の左側には大小の石が配置されていた。陽光を浴びたモミジ葉を追う。銀杏の葉の黄色の絨毯の上でモミジ葉が光る。これぞ「紅葉&黄葉」のカオス。「本堂」の参道の突き当り。右に進むと「本堂」へ。これぞ「銀杏落葉(いちょうおちば、いてふおちば)」。与謝野晶子の歌「金色の ちいさき鳥の かたちして 銀杏ちるなり 夕日の丘に」を想い出したのであった。銀杏の黄落。明るく散り敷いた銀杏落葉は、路上や寺社の境内などを美しく染め上げる。葉の形も独特で、古くから日本人の好む意匠なのである。こちらの銀杏は未だ上部には多くの葉を纏って。しかし根本には「銀杏落葉」が拡がる。小さな銀杏も混じっていた。以前訪ねた時は、オバチャンがこの銀杏を拾っていたが。五重石塔。陽光に輝くモミジ葉を追う。陽光を浴びて美しく垂れ下がる紅葉のモミジ葉そしてもみじ葉。この場所は、これぞ「秋光」溢れる「もみじ回廊」。ここ「もみじ回廊」では木々の色づくタイミングに微妙な差があり、赤のほかに黄色や緑も交じっている。様々な色が織りなす紅葉は、いつまでも佇んでいたい空間なのであった。ここにも「大勧進」案内板。この寺の「人気の猫」の姿が。人の姿にもマイペースで境内の紅葉見物を。裸になった銀杏の大木越しに「本堂」を見る。俳句の世界では「銀杏(いちょう)散る」は秋、「銀杏落葉(おちば)」は冬の季語となる と。「本堂」参拝は帰路にとする。正面に「下品堂」が姿を現した。正面に「阿弥陀仏」の姿はなく。この時のこの場所は独り占めの空間。そして右側には小さな舞台が。「華蔵菩薩」の文字があったが・・・。「二十五菩薩」の一体であろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.22
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そして銀杏のモミジの「紅葉」、銀杏も「黄葉」の先に巨大な「仁王門」が。私のカメラでは逆光時の太陽の放射状の光を捉えるのは難しい。再び燈籠の窓に描かれた可憐な純白のサギソウを。ズームして。巨大な「仁王門」が目の前に。楼門形式ということで、 ニ階建ての門で、一階部分に屋根(下屋)を持たない門。ニ階部分には高欄が配置されていて二層に分かれ、下層は通路の両側に金剛力士像が。桁行3間(8.1mメートル) 梁間2間(4.2メートル)、入母屋造、銅板葺。石段中央の手摺は「金剛杖」を表していると。扁額は「紫雲楼」と。「紫雲楼」脇の樹々の合間から、「本堂」の巨大な屋根が見えた。「金剛力士像(右・阿形像)」。像容は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにして。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表わしているのだと。「阿」には「物事の始まり」、「吽」には「物事の終わり」という意味がある。そのため、阿形像は口を開けて「物事の始まり」を表現していると。「金剛力士像(左・吽形像)」。吽形像は怒りを内に秘めた表情。吽形像は口を閉じて「物事の終わり」を表現していると。「仁王門重厚荘重なる仁王門(山門)は別名「紫雲楼」とも呼ばれ寛政5年(1793)の建立である。一対の仁王像、桜上に阿弥陀如来とニ十五菩薩像が安置されているほか、風神・雷神の像もあって、寺域全体の安全が意図されている。」「紫雲桜(仁王門)楼上のニ十五菩薩当山に参詣される人々は、この桜上に安置してある阿弥陀如来とニ十五菩薩に迎えられて、三仏堂へと足を運ぶことになる。すなわち紫雲の門より内は荘嚴の浄上(彼岸)であることを示している。この楼門は寛政年間の建立である。当山の伝統相続行事である「ニ十五菩薩来迎会」(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この桜上のニ十五菩薩は、来迎の真髄を示現していることになる。」「おめんかぶり 二十五菩薩来迎会」案内板。三年に一度行われる九品仏の二十五菩薩来迎会、通称「おめんかぶり」👈リンクは5月5日に開催。来世に見立てた本堂と、浄土に見立てた上品堂との間に橋を架け、浄土から二十五菩薩が迎えに来る様と、西方極楽浄土へと往生人を救う(連れていく)様を表しているのだと。「楼門」を潜り、左手奥の「鐘楼」を見る。入母屋造銅板葺の鐘楼....宝永五年(1708)の建立。ズームして。軒廻は二軒扇垂木、組物は三手先で中備は台輪上の中央に詰組と両側に蟇股。「梵鐘」。梵鐘は深沢村の谷岡重頼が父母の菩提のために寄進したもの と。鐘楼の四周に刻まれた十ニ支は見事な彫刻。木鼻と飛貫に獅子・龍・兎・虎・鳥・花などの精緻な彫刻が施されていた。「鐘楼仁王門とは対照的に、流麗な建築手法を示す鐘楼は関東でも名楼の誉れ高く、宝永5年(1708年)の建立である。梵鐘は文化財に指定されており、今に残る深沢の名家谷岡氏の御先祖がニ親菩提のために鋳造され(宝永5年)当山に寄進されたものである。また楼の四周に刻まれた十ニ支は作者不詳であるが、名作として特に有名である。毎年大晦日より元旦にかけて、除夜の鐘に遠近の参拝者でにぎわっている。」して「鐘楼」の手前、左手にあったのが「奥沢城跡」碑。奥沢城は、吉良氏によって築かれたと言われる平城。世田谷城の出城として用いられた。昭和62年(1987年)12月18日に世田谷区の区指定史跡に指定されている。天文 - 永禄年間頃、吉良頼康により築かれ、家臣の大平氏が守った。天正18年(1590年)、小田原征伐の後廃城となった。延宝6年(1678年)、珂碩により九品仏浄真寺が開かれた。周囲の平野部に南の台地から北方に突き出た舌状台地上に占地し、台地上の九品仏浄真寺境内に方形の郭跡が認められる。九品仏駅前から台地東麓に掛けて城郭由来の地名が残ることから、城域は九品仏駅付近から台地端まで拡がっていたものと考えられる と。陽光の中で、紅葉、黄葉の波が。仁王門(楼門)の北側(右手)に4基の「庚申塔」が並んでいた。この石碑には「玻璃魔権現」と刻まれていたが、左の庚申塔との関係は?一番右の「青面金剛像」は違う場所から移されたものらしい。世田谷区の庚申塔の資料にも載っていなかった と。 造立年は享保6年(1721)とこの中では最も新しい。新しいと言っても都内の庚申塔の中ではかなり古い部類に入る。青面金剛、邪鬼、三猿が彫られており、「奉青面金剛講中…奥沢村」とある。「武州荏原郡世田谷領」という文字もあるので、奥沢村のものである。左から3番目は、同じく板状駒型で青面金剛と三猿、造立年は元禄17年(1704)である。ここの庚申塔は1690年から1721年という造立で、実は山門よりも相当古い。後からここに設置されたにもかかわらず、寺域の中では一級の場所を与えられているのはその時代の古さからであろうか。左から二番目の庚申塔は青面金剛、邪鬼、三猿がきれいに描かれている板状駒型。造立は享保4年(1719)、等々力村の銘があり、8人の願主の名前がある。高さは112㎝あるが、この庚申塔だけでなく4基ともが高さ1mを超えている大きなものだ。一番左の庚申塔は、青面金剛像に三猿、元禄3年(1690)の造立である。板状駒型のこの庚申塔は以前は等々力6丁目24-18にあったもので、民家の建替えにより浄真寺に移された。この庚申塔だけでなく、左から3基目までが同じ場所にあったものであるとのこと。そして本堂への境内の参道を更に進む。「境内境内周囲の土手はこの地がかって奥沢城であたときからの名残りで、鎌倉期における築城学上「土塁」の形態を示すものとして貴重な史料である。境内には古木が多く、カヤ(天然記念物)の大木は推定樹齢七百年以上、またトチ・高野マキ・菩提樹およびイチョウ(天然記念物)、など古大木があり、つねに参拝する人々が絶えない、武蔵野の面影を残存する霊域である。参道・総門・閻魔堂・仁王門・鐘楼・開山堂・本堂・三仏堂・書院・食堂などいわゆる七堂伽藍の完備した僧房として少ない寺院である。また、寺域全体が極楽往生の様相に形どられ、弥陀三六の願いに即して、境内3万6千坪、三仏堂各堂丸柱三十六柱、本堂ケヤキ社三十六柱、さらに三仏堂と本堂のあいだ三十六間というように、細部にわたって往生にちなんだ数字があてはめられ、いちど九品仏境内に歩をはこび参拝結縁したならば、往生浄土の信心を得ることができるいう願いがこもっているのである。このような緑の境域は周囲の変化にともない次第に失なわれてゆく都内の現状の中できわめてたいせつなものである。将来ともこの風致を永く保存したいと念願いたしておる次第である。」「本堂」を「枯山水庭園」越しに見る。「世田谷区立鷺草園」碑。右手奥に「手水場」と句碑。「手水場」。どなたかが写真撮影用に・・・?しかし、これぞ「落葉舟」。沈んでしまっていたが。紅葉のモミジ葉とともに。鷺草を詠んだ鎌倉の物故俳人・吉岡富士洞の「句碑」があった。『天碧き 日は鷺草の 天に翔つ』。「楼門」が右手前方に。その奥、本堂の裏手に「鷺草園」が。池には菖蒲や水草も植栽されているのだと。「サギソウ(鷺草)」案内板。「花を見た人はきっと名前にうなずいてしまうサギソウ。花が鳥のサギが羽根を広げた様子にそっくりなのでこの名前がつきましたが、これは3枚ある花弁のうちの1枚で、ラン科植物に独特の唇弁(しんべん)とよばれるものです。がく片は緑色で3枚あり、花のうしろに長い距がつき出します。地下に小さな球根があり、花の頃から数本の匐技(ふくし)をのばし、その先新しい球茎をつくり、繁殖します。斑入りの銀河という園芸品種もあります。サギソウの自生地は、現在少なくなっていますが、おもに本州~九州の低地の湿地に生え、食虫植物のモウセンゴケ類、ミミカキグサ類などとともに生育しています。かっては世田谷区にも自生があったと言われています。花期は7月中旬~ 9月上筍で、地域によって違いがあり、南に行くほど遅くなると言われています。」ズームして。背がく片側花弁がフード状となります。唇弁は3裂して側裂片は大きく縁が細裂します。唇弁の基部に3 ~ 4cmの距があります。「鷺草(さぎそう)について鷺草(昭和43年8月1日、区の花に指定)=[ラン科]は陽の当たる湿地原野に生える多年生草本で7~8月頃、高さ20~30センチの茎に純白の花を咲かせ、その形が飛んでいる鷺の姿に似ているところからこの名前がついたものと思われます。区内では大正の末頃まで九品仏周辺の奥沢田甫に自生し奥沢には「鷺の谷」・また地続きの目黒区自由ヶ丘には「鷺草谷」という小字の地名がありました。この鷺草にまつわる悲話もいくつか伝えられておりますのでその一つを御紹介します。「室町時代世田谷城主吉良頼康には、家臣の奥沢城主大平出羽守の娘で常盤姫という美しい側室がいて頼康の愛を一身に受けていたが、古くからいる側室達が、これをねたんで常盤が不義をしたとあらぬ告げ口をしたので遠ざけられた。悲しんだ常盤は幼い頃から愛育した白鷺の脚に遺書を結びつけ、両親の住む奥沢城に放った。たまたま奥沢城附近で狩をしていた頼康が白鷺を射落したところ脚に手紙が結んであったので開いてみると常盤の遺書であった。頼康は驚いて急いで帰館したがときすでに遅かった。白鷺の射落された場所から一本の草がはえ、やがて鷺に似た可憐な花をつけたのです。」。「鷺草園」に繋がっている枯山水の池。この写真は5年以上?前に、この場所で撮った「サギソウ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.21
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「閻魔堂」前の陽光が降り注ぐ「赤の世界」。手前には三途の川に架かる朱の太鼓橋。そして「六地蔵」への小径へ。近づいて。六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天)の入口に立ち、衆生の苦を救うと言う有り難い地蔵様たち。左側の三地蔵。左側の三地蔵。「六地蔵」への小径を引き返して右側を見る。この「六地蔵」の前方の場所が「賽の河原」を表しているのだと。「六地蔵」への小径の角の地蔵像・「三つ子地蔵」。「総門」方向を見る。「賽の河原」を右手に見ながら「総門」からの道を進む。前方、左側に石碑が。「愛心講 講元 鳥海はま先生 頌徳碑十六世 正阿順碩」。「鳥海はま先生 頌徳碑」を振り返って。両脇に並ぶ燈籠には、白い「サギソウの花」が。別の燈籠。「延命地蔵」が乗っている江戸十夜講の「三界万霊塔」。「三界万霊塔」とは、路傍や寺の入口、あるいは墓地によくみかけるもので、次のような意味を持っている。三界とは仏教の言葉で、欲界(食欲、物欲、性欲の世界)、色界(物質の世界)、無色界(欲も物もない世界)の三つの世界をいう。また、過去、現在、未来をいうこともある。これらの世界の霊、この世の生きとし生けるものすべての霊をこの塔に宿らせて祀りするために建てられた塔である。多くは寺の境内や墓地に建てられて、万霊の供養や無縁仏を供養するものとされている。「延命地蔵」をズームして。「総門」方向を振り返って。参道は、丁字になっており、正面に「2014年~ 2034年 浄真寺「平成令和九品佛大修繕事業」大勧進」と。九品佛像(上品上生仏より下品下生仏)及び釈迦如来像、計十躯の大修繕が始まりました。ー躯ずっ修理所に搬出し、一躯当たり一年半からニ年の修繕となります。この稀代の「平成九品佛大修繕事業」広く浄財の勧募(大勧進)をお願いしております。浄財を喜捨された方の芳名は、結縁高名帳に記録し、九品佛像の臺座内に永久に奉安されます。何卒この勝縁に、格別のご協賛を賜り度く存じます。詳しくは、寺務所、龍護殿にございます勧進趣意書をご覧項ければ幸甚てす。浄真寺」 と「未来に残す『貴方の化佛』2881軀の化佛寄進をお願いしております。三百年前の寄進者芳名が背面に記録されております。」左側の「仁王門」を見る。赤いモミジと黄色の銀杏のコラボ。陽光に輝いて。「十三重石塔」。右手に「開山堂」への「中門・薬医門」が。その手前には石碑が。「珂然和尚編珂碩上人行業記に曰く元禄七年六月二十ニ日に珂硯上人疾有り日と共に進む 九月二十三日高弟珂憶上人河内国より来る 師珂憶上人に告げて曰く九品佛像造佛の本誓已に成就せり 堂宇荘嚴志有って遂げず老朽体疲れて今往生の素懐を遂げんとす 汝宜しく修立せよ 身後の事は皆汝に付嘱す汝それ忽にすること勿れ 又門人に告げて曰く我が後に珂憶あり憶はわれに異なる所なし 汝等謹みてその教命に従ふべしと 十月七日夜半合掌し弥陀の宝号を唱し寂す珂憶上人師の遺命を奉じ力を林碩上人に協せ材木一式を河内王手山にて切り舩にて下し、元禄十一年十月十五日現本堂三佛堂の揚棟を成し給えり閲世二百七十年十方有縁の合力により諸堂の大修築成る これを昭和大修理と称しいさゝか祖恩に酬いんとす 即ち昔日の血汗の御労苦を偲び 之を碑面に刻し以って記念とす 乞ふ来山の諸氏弥陀の名号を唱し 恭敬礼拝し給はん事を 昭和四十一年五月七日佛歓喜日 九品山唯在念佛院浄眞寺第十六世 心譽順碩」「開山堂」への「中門」を正面から。「珂碩上人 安産厄除開運」(右)と「九品山事務所」(右)「御霊燈」と書かれた提灯。「開山堂当寺開山珂碩上人のお像を安置する。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳のときのものである。この像も文化財に指定されており、万治元年( 1657年)上人が、如来のお告げ三度により、水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運としてひろく信仰をあつめている。なお、開山堂では、上人のご命日に当る毎月七日の開山忌に開扉して、午後一時より法要とご法話及び写経が催されており、一般の方の参加を望んでいる。上人は元禄7年(1694年) 10月7日、御年七十七歳にて示寂され当山の西北にその御廟がある。」「開山堂」。「開山堂」には浄真寺開山珂珂碩上人のお像を安置。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳の時のものであると。この像も文化財に指定されており、万治元年(1657年)上人が、如来のお告げ三度により、水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運としてひろく信仰をあつめている。「開山堂」の内陣。「開山堂」の屋根の「宝珠」。「宝珠」とは方形屋根の頂点部分や塔の頂部等に置く玉のこと。放射状の物は何を表すのであろうか?「開山堂」の「手水舎」。「手水鉢」には寺紋の「龍胆車(りんどうぐるま)」が刻まれていた。「サギソウ(鷺草)」。浄真寺は鷺草の寺と呼ばれ、シーズンには鷺草の鉢が本堂脇に並ぶのだと。純白のさぎが翼を広げているかのような可憐で繊細な花、さぎ草。この花が世田谷区の花となったのは1968(昭和43)年で、区民から公募して決まったと。実は世田谷区には、さぎ草にまつわるこんな伝説があります。ときは16世紀後半。世田谷城主・吉良頼康(きら よりやす)は家臣にして奥沢城主である大平出羽守(おおひらでわのかみ)の娘・常盤姫(ときわひめ)を側室にしていました。その美しさゆえ、頼康に寵愛された常盤姫でしたが、妬む者がいました。頼康の側室たちです。彼女たちは常盤姫を陥れるため、姫が不義を犯したかのような話をでっちあげ、頼康に告げます。最初は気に留めていなかった頼康でしたが、何度も聞かされるうちに姫を疑い、遠ざけるようになります。死を決意した常盤姫は、幼い頃から可愛がっていた白さぎの足に身の潔白を記した遺書を結び、実家の奥沢城へと放します。飛び立った白さぎはやがて、奥沢城近くで狩りをしていた頼康の矢で射落とされてしまいました(一説には足に結ばれた遺書の重みで力尽きてしまったとも)。白さぎの足に結ばれていた遺書を読んだ頼康は、常盤姫の無実を知り、急いで世田谷城に戻りますが、時すでに遅し。姫は息を引き取っていました。後に白さぎを奥沢城の近くに埋めて供養したところ、なんと翼を広げた白さぎに似た花が咲きました。白さぎに似ている花…。「鷺草(サギソウ)」です。常盤姫が放った白さぎが射落とされた場所といわれるのが、この「九品仏 浄真寺」。姫の実家である奥沢城址に建てられ、今も境内の鐘楼の後方にある土塁跡が奥沢城の微かな面影を伝えます。裏側には蕾も。「開山堂」への参道の右側の紅葉。「水子(子育)地蔵尊」。稚児と花に囲まれて。お顔をズームして。「水子(子育)地蔵尊像建立趣旨」碑。「九品佛幼稚園を創立してより満三十年の星霜を閲した。この間仏教保育の網領である。一、慈心不殺(生命尊重の保育)一、仏道成就(正しきを見て絶えず進む保育)一、正業精進(よき社会人をつくる保育)の三網領に則り、園の関係者一同力を戮せて保育の聖業に精勤して今日に至っている。近時世相の変移は、身籠れる胎児の扱いにつき真に遺憾の念を禁じ得ない。嬉々として遊ぶ園児に接する毎に生れるべくして、その小さな尊い命の絆を絶たれた闇冥に叫ぶ水子に思いを致し、憐憫の情、転、切なるものがある。茲に、多くの水子の菩提を薦め、併せて、可憐なる幼児の健全な成育を祈念しつつ、本地蔵尊像建立、発願の趣意を述ぶと云爾。維時昭和五十五年十二月七日 九品佛浄真寺第16世 心譽順碵 合掌」「浄大供養 地蔵」。お顔をズームして。「開山堂」を振り返る。正面に「観音堂」。「西國三拾三番札所供養塔」。西国三十三所は、観音巡礼の一つ。観音菩薩を祀る近畿地方2府4県と岐阜県の三十三箇所の札所寺院と三箇所の番外寺院からなる観音霊場。日本で最も歴史がある巡礼であり、現在も多くの参拝者が訪れている。「三十三」とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。文化庁の令和元年度「日本遺産」の16件(累計83件)の一つに、『1300年つづく日本の終活の旅〜西国三十三所観音巡礼〜』が認定された とのこと。「観音堂」前の低い石垣上に整然と鎮座する三十三躰の舟後光型観音菩薩石仏群。左側の「三十三観音」。「観音堂」前の低い石垣上に整然と鎮座する三十三躰の舟後光型観音菩薩石仏群。右側の「三十三観音」。この石仏の名は?「千手観音像」。「如意輪観音像」。「観音堂」。扁額「観音堂」。「仁王門」方向を見る。「中門」に向かって戻る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.20
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この日は12月12日(月)、都内・五反田で卒業した会社の同僚、後輩、協力会社の社長との飲み会に参加しました。毎年、この時期に五反田に行くときには、途中下車して世田谷区内にある『等々力渓谷』そして『浄真寺』を訪ねることにしていますが、今年もいつものように。『等々力渓谷』、『等々力不動尊』を訪ねた後に、徒歩で20分強でここ東京・世田谷区奥沢にある『浄真寺』の参道の入口に到着しました。この地にはサギ科のシラサギ(白鷺)とラン科のサギソウ(鷺草)にまつわる悲話が伝わります。そのサギソウは世田谷区の花とされ、境内の「さぎ草園」では毎年8月上旬に多くの花を咲かせるそうです。「シラサギ」とは、ほぼ全身が白いサギ類の総称であり、シラサギという名前のサギがいるわけではないようです。山号は九品山(くほんざん)で、九品仏(くほんぶつ)とは後ほど触れるように、同寺に安置されている9躰の阿弥陀如来坐像のことを言うのです。最寄り駅は東急大井町線・九品仏駅。「浄真寺参道」碑。「九品佛参道界隈」案内碑。「九品佛参道界隈」案内図。文字がハッキリ見えるように、2枚の写真を繋げています。「浄真寺」のHPより。 【https://kuhombutsu.jp/guide/map/】より九品仏淨眞寺 境内図<昔> 参照:江戸名所図會。 【https://kuhombutsu.jp/guide/map/】より案内図にあった切絵図。「総門」の切絵図。「せたがや界隈賞世田谷区では、昭和59年から平成4年までの隔年で、区民の皆さんに愛され、親しまれている世田谷区の街なみ形成のモデルとなる、魅力的な界隈を「せたがや界隈賞」として表彰してきました。「九品仏参道界隈」は浄真寺境内と参道周辺で良好な界隈が形成されていることから、昭和63年に「第3回せたがや界隈奨励賞」として表彰しました。」絵の右下に書かれている「お面かぶり」とは、江戸の時代より3年ごとに、この寺で奉修される「阿弥陀如来二十五菩薩来迎会」のことで、無形文化財に指定されているのだ。「上野毛五島美術館一帯」切絵図。「おもいはせの路おもいはせの路とは、玉川地域の緑と水の資源や歴史・文化資源をめぐるルートを、散歩道として提案したものです。この路には季節や時の流れとともに表情を変える古代から現代までのさまざまな顔が見えます。この路を歩くとき、人はいろいろと思いをはせるということで、この名を付けました。友達と、恋人と、親子で、夫婦で、あるいは一人で歩いてみてはいかがですか。」五島美術館は、東京都世田谷区上野毛の閑静な住宅街の中にある私立(財団法人)の美術館。国宝「源氏物語絵巻」をはじめとする数々の名品を所蔵する美術館として、展覧会を中心に幅広い活動を展開している人気の美術館 と。「ニ〇一四~ニ〇三四年 浄眞寺「平成 令和」九品佛大修繕事業」大勧進」案内。「浄眞寺」のHPには「昭和三十八年(1963)に九躰の阿弥陀佛像と釈迦牟尼佛像の計十躰が東京都重要文化財に指定されました。保存状態として、各十躰の漆箔の浮き上がり、矧ぎ目の損傷や化佛の脱落割損が多く認められ、東京都と世田谷区の文化財関係者が綿密なる協議の上、平成二十六年(2014)より一躰ずつ、計十躰の修繕を公益財団法人「美術院」国宝修理所に遷座し二十年以上に亘る大修繕を実施する運びとなりました。つきましては、この仏縁により未来に引き継ぐ希代の大修繕事業(大勧進)の趣意をお汲みとり下さり、絶大なる御協力と御支援を賜りますよう懇願申し上げる次第でございます。」と。参道の入口右側にあったのが「玉川警察署 九品仏交番」。世田谷区奥沢7丁目34−1。「総門」に向かって参道を進む。右手には「禁銃猟 警視廳」と三面に刻まれた石碑があった。背面には建てられた年が書かれていて、明治32年(1899年)と。「この辺りでは銃を使っての猟は禁ずる」という警視庁が出した明治時代の告知であると。当時のこの地域一帯はほとんど人が住んでおらず、雑木林ばかりの土地であった。狩猟もやりやすかった時代。この石柱はそういった古い時代の名残なのであろう。この後、境内にも同様な石碑が建っていたのであった。ここにも「2014年~2034年 浄眞寺「平成 令和」九品佛大修繕事業」大勧進」案内が。九品仏の駅名にもなって親しまれる浄眞寺は、上品上生仏より下品下生の九品阿弥陀仏が奉安されております。この度、元禄以来の大修繕を行うこととなりました。未来に受け継ぐ、この大修繕事業に値遇を得ることは、稀代の勝縁と思し召し、大勧進に広く皆様のご協賛を賜りたく存じます。浄財を喜捨(きしゃ)された芳名は、結縁交名帳に記録し九品佛像の臺座内に永久保存します。詳しくは事務所、龍護殿にございます趣意書をご覧頂ければ幸甚です。 九品佛浄眞寺 住所 清水英碩」「総門」が前方に大きく見えて来た。約200mの長さの参道には黒松を中心に植栽されていた。入り口の参道は「二河白道(にがびゃくどう)」を表しているのだと。火の河と荒れ狂う河に挟まれた白い細い道、白道は浄土往生を願う信心の道で一心不乱に念仏を唱えて極楽浄土へ渡ろうということを意味していると。樹齢30年以上の黒松の間に次世代を担う黒松の苗木を植樹し成長しているのであった。参道の中程の右側には九品仏広場という公園があり、参道と調和した雰囲気のいい子供達の遊び場となっていた。その先左手には、三界萬霊塔・供養塔・庚申塔など8基の石塔・石仏が並んでいた。紅葉の樹の下に大小の石塔が並ぶ。中央に「奉寄進庚申供養塔」と刻まれた石碑が。「三界萬霊」と刻まれた石塔。文政五年(1822)造立の笠付三界萬霊塔。「お地蔵様」(左)と板状駒型庚申塔「・青面金剛像」(右)で、青面金剛像に三猿が彫られている。造立年は寛文十二年(1672)と比較的初期の庚申塔。その30年ほど前に鎖国となり、20年後には元禄文化の華が咲いた時代のものである。その先にも石碑が並んでいた。寛文十二年(1672)の「青面金剛像」の右は明和六年(1769)造立の角柱供養塔で正面に「信濃善光寺四十八願〇」の刻。中央は文化十一年(1814)造立の笠付供養塔で正面に「善光寺百番供養」の刻。その右は文化八年(1811)造立の「文字庚申塔」 であると。そして「浄眞寺 総門」前に到着。九品山唯在念佛院浄真寺(くほんさんゆいざいねんぶついんじょうしんじ)は浄土宗寺院。越後国村上泰叟寺の珂碩(かせき)上人を請うて延宝6年(1678)に創建されたものであると。総門前の石段の中央の手摺には「舟の櫓」を表した手摺が。「掲示板」。「九品佛道」と刻まれた石碑が「総門」右手奥に。「筋塀(すじべい)」という種類の塀があり、そこには定規筋(じょうぎすじ)と呼ばれる白い線が5本引かれていた。もともとは門跡寺院(もんぜきじいん)の証として5本の線を引いたのが始まりと。定規筋の数が寺の格式を表すようになり、3本、4本、5本のうち5本が最高ランクとされていると。門跡寺院とは、皇室一門や公家の方が出家して住職を務める寺院のことをいい、古くより皇室と関わりのある格式高い寺院とされているのだ。「新東京名勝 選外十六景 奥沢 九品仏」と刻まれた石碑。「総門」に掲げられている扁額「般舟場(はんじゅじょう)」。常に行道念仏して現前に諸仏を見奉る「般舟三昧」する道場であり、参拝者に願往生の心を自然に発さんが為に書かれたものであるとのこと。「般舟三昧」とは浄土教で説く精神統一法。諸仏現前三昧、仏立 (ぶつりゅう) 三昧ともいう。7日ないし 90日間この三昧を行えば現前に仏を見ることができるのだと。「九品佛浄眞寺総門」と。書体は新篆書体か?「創建の由来当山はひろく「九品仏」の名で親しまれているが、正式には「九品山在念仏院淨眞寺」といい、浄土宗に属し、境内約12万m2 ( 3万6十坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂磧(かせき)上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝6年( 1678 )に、奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経の説相によって堂塔を配置し、この寺を創建された。「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とはほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺きを銅板葺に改修した。」そして「総門」下から、紅葉に輝く境内を。左手にあったのが「焔魔堂」。足元近くにも「浄真寺」碑。紅葉のモミジの下には石仏が並ぶ。石仏は. 落ち葉の絨毯にも囲まれて。「焔魔堂」を正面から見る。入り口の両側に「うそはつくな」「わるいことはするな」の真っ赤なノボリが立っていた。閻魔様はやる気十分なのであった。「焔魔堂」の前には「三途の川」が。向かって左が急流、右が深い淵、中央が橋で深い淵には「亀」がいた。「三途の川」。人は死ぬと七日目には三途の川の辺に到着するそうです。ここには、人が冥土に行く為には、渡らなければならない三つの川、「葬頭川(そうずがわ)」「三瀬川(みつせかわ)」、「渡り川」があります。川の流れは三つに分かれていて、前世の行為(業)にしたがって、それぞれにふさわしい流れを渡ることになるそうです。三途とは地獄・餓鬼・畜生の三悪道のことですが、この川の辺に上記の衣領樹 (えりょうじゅ)という木があります。木の下には「奪衣婆(だつえば)」という老婆がいて、木の上には「懸衣翁 (けんえおう)」というお爺さんがのっています。お婆さんが着ている衣類を脱がせ、木の上のお爺さんに渡し、木の枝に掛けると、その重みで枝が垂れる。枝の垂れ方で生前の罪の軽重が分かる仕掛けです。その「懸衣翁」と「奪衣婆」が、35日目の閻魔大王の裁判に陪席している ので、嘘の申告は出来ないのだとスピーカーから「閻魔様の声」☚リンク が聞こえて来た。「知らず知らずのうちに罪を犯してしまうのが人間じゃそれは、貪り、怒り、愚かさによる心 事は態度から生じておる包み隠さず罪を悔い改めよ」と。どうやら、お祈りしている人に向かって音声が流れているのだ。お賽銭を入れると、閻魔大王からのお告げがある仕組みとなっていた。幟「わるいことはするな!一月十六日 八月十六日 地獄の釜蓋開放 閻魔大王の斎日」と。1月16日と、7月16日は閻魔大王や地獄の鬼もお休みで、「地獄の釜開き」と呼ばれたり「亡者の骨休み」と呼ばれる地獄の定休日なのであろう。幟「うそはつくな!」。扁額「閻魔堂」。中央に「閻魔(えんま)大王」。「閻魔大王」は、仏教の地獄、冥界の主であり、冥界の王として死者の生前の罪を裁く神。閻王ともいう。インドにおける死者の主であるヤマが仏教に入ったものである。お顔をズームして。閻魔王は、地獄などのいわゆる冥界をつかさどる鬼神の王で、「地蔵菩薩発心因縁十王経」には、冥界で亡者の罪を裁くとされ、十人の王の裁判を受け、残忍な獄卒(地獄で亡者を苦しめるという鬼)を使って、すべての亡者を審判します。閻魔王の法廷には、「浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ)」という特殊な鏡が装備されている。この魔鏡はすべての亡者の生前の行為をのこらず記録(閻魔帳)し、裁きの場でスクリーンに上映する機能を持つ。そのため、裁かれる亡者が閻魔王の尋問に嘘をついても、たちまち見破られるという。それでもなお亡者が嘘をつき続けると、閻魔王によって舌を抜かれてしまうのだ。司録と司命(しみょう)という地獄の書記官が左右に控え、閻魔王の業務を補佐しているのだと。さらに。地獄の閻魔大王と言えば、死後に、生前犯した罪を裁く番人としてよく知られているが、実は、地蔵菩薩(じぞうぼさつ)の化身であるのだと。そもそも、地蔵菩薩は六道の世界「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天」の六世界に現れて、人々を救済する仏様として信仰されている。地蔵菩薩は、時には閻魔大王に姿を変えて私たちに、救いの手を差し伸べているのだと。地獄の十王一覧。十王は、道教や仏教で、地獄において亡者の審判を行う10尊の裁判官的な尊格。亡者は初七日を終えた後、死出の山を越え、賽の河原、三途の川に辿り着きます。三途の川には水が急流をなしている所を渡る、入江が深い淵をなしている所を渡る、橋を渡る、の三つの方法があり、生前の罪に応じて渡る方法が異なるとされます。左手にいたのが「奪衣婆(だつえば)」三途の川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の姿。奪衣婆(だつえば)、正塚婆(しょうづかのばば)、姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言うのだと。右手にいたのが「懸衣翁(けんねおう)」。「奪衣婆(だつえば)」が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁(けんねおう)という老爺によって衣領樹(えりょうじゅ)にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって枝の垂れ方が異なるので、亡者の生前の罪の重さを計る事により死後の処遇を決めるのだと。罪の重い亡者は三途の川を渡る際、川の流れが速くて波が高く、深瀬になった場所を渡るよう定められているため、衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示されるのであると。また亡者が服を着ていない際は、懸衣翁は衣の代わりに亡者の生皮を剥ぎ取るという恐ろしい話。奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もあるのだと。前回のブログにも書いたが、私の衣類は枝が大きく撓る(しなる)のであろうか?カメラを持つ手が震えて・・・・。「極楽浄土」絵。「等活地獄」絵。八熱地獄の第一。南瞻部洲の下、千または五千由旬の所にあるという。獄卒により身を裂かれ骨を砕かれて殺されるが、涼風が吹くと生きかえってまた同じ責め苦を受け、これを繰り返すので、その名がある。殺生などの罪を犯した者がここに堕ちるという。「極楽浄土」絵。「大叫喚地獄」絵。叫喚地獄の下で、叫喚地獄までの四地獄の苦を一〇倍にした苦しみを受けるところ。五戒(ごかい)を破ったものがおちるとされる。五戒とは不殺生戒(ふせっしょうかい)・不偸盗戒(ふちゅうとうかい)・不邪淫戒(ふじゃいんかい)・不妄語戒(ふもうごかい) ・不飲酒戒(ふおんじゅかい)の仏教徒が守るべき基本となる5つの戒めのこと。各戒めはそれぞれ不殺生戒:殺生(生き物を殺すこと)してはならない。不偸盗戒:盗みを働いてはいけない。不邪淫戒:不貞行為(不倫)を行ってはいけない。不妄語戒:妄言(嘘)をついけはいけない。不飲酒戒:飲酒(お酒)をしてはいけない。という意味を持っている と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.19
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再び舞台(展望台)を見る。「舞台(展望台)」を歩く。この時は「舞台(展望台)」を独り占め。「等々力渓谷」からの参道にある「手水場」が眼下に。エピローグを迎えた銀杏の老木。しかし、青空に映えて、銀杏の広葉が輝く。再び「舞台(展望台)」前から。紅葉が「御護摩受付所」のガラスに映る。「御護摩受付所」前には「等々力不動尊」のジオラマが置かれていた。境内の「休憩所」。飲み物が買えるようであった。そして「等々力不動尊」の「山門」前へ。屋根には銀杏の葉が落ちて。「等々力渓谷」案内板がここにもあった。「等々力渓谷等々カ渓谷は谷沢川によってできた谷で今でも多くの動植物がみられ、四季折々には咲き乱れる桜、常緑の木立、秋の紅葉も不動滝(竜頭滝)に映え、深山の趣きがある。谷間は粘土、砂礫、赤土(関東ローム層)の層が重なって地層の移りかわりをものがたっている。不動滝は古くより知られ、清浄な渓谷にしぶきをたてて、とどろいていたことから、等々力の地名が起こったともいわれている。不動堂本尊は、新義真言宗の宗祖興教大師が山城国(京都府)よりこの地に移したとつたえられる。」山門の扁額も「瀧轟山」。「御礼トンガ王国緊急募金に澤山の御援助有難うございます。ウクライナ緊急募金始めました。」「弘法大師 空海 ご誕生 1250年令和5年(1923年)弘法大師空海様がお生まれになって1250年にあたる記念の年です。」と。空海は宝亀5年(774年)7月27日、讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県)で生まれたという説がある。父は郡司・佐伯田公、母は安斗智徳の娘で名は不詳。幼名は真魚。真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日と云われているが、正確には不詳である と。「山門」を外・都道332号線側から。ここにも「幸 先を 善く」と。石灯籠。「等々力不動尊」の紅葉を堪能して後にする、都道332号線を横断して。その先、「等々力不動尊」の向かいにあったのが「御岳山古墳」。「東京都指定史跡 御岳山古墳」碑。「東京都指定史跡 御岳山古墳(みたけさんこふん)所在地:世田谷区等々力1-18 指定:昭和55年2月21日御岳山古墳は、多摩川の左岸、標高31mの舌状台地先端部に位置しており、西側には等々力渓谷を臨んでいます。世田谷区野毛から大田区田園調布にかけて多摩川左岸の台地縁辺部一帯には、連なるように50数基から成る荏原台古墳群が形成されており、本古墳はこのうちのひとつです。西方には野毛大塚古墳(都指定史跡)があり、これに次ぐ規模を有しています。全長57m、現在高7mを測り、野毛大塚古墳と同じく帆立貝形です。河原石による葺石、円筒埴輪を伴い、5世紀後半から6世紀中葉の築造と考えられています。学習院大学の調査によって、埋葬施設である内部主体は。木棺を粘土で覆った粘土槨であると推定されています。副葬品として内行花文を文様とする七鈴鏡(都指定有形文化財)、短甲、直刀等が出土しており、特に短甲は二領分の破片があり、その製作時期が5世紀後半に位置づけられます。平成22年3月建設 東京都教育委員会」入口の扉は閉じられ、この日も中には入れなかった。古墳の斜面には多くの石碑が。「童女」の文字が。墳丘の参道沿いに並ぶ数々の石仏の1基。人の名前と日付が書いてあるので、墓標のようだ。しかも、童子、童女と書かれたものが多いのであった。宝永、正徳、亨保と18世紀初めのものが多いようだが、この頃この地域では災害か飢饉で子供が多く亡くなったのだろうか。「等々力村石◯之碑」と。そして次の目的地の九品仏駅近くにある「浄真寺」に歩いて向かう。環状8号線の「尾山台」交差点を通過。ここを進むと東急大井町線の「尾山台駅」に突き当たるのだ。「尾山台一丁目」交差点を左折して進む。世田谷区立九品仏小学校横を通過。東急大井町線の九品仏1号踏切を渡る。そしてその先を右折して、「等々力通り」を進む。「浄真寺」参道入口手前にあった黄金のポスト。東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会推進本部事務局は、日本郵便株式会社と協力し、東京2020大会において、金メダルを獲得した日本代表選手等にゆかりある地域の郵便ポストを金色に塗り替えることにより、選手等の栄光を称えるとともに、選手等を輩出した地域を盛り上げるプロジェクト「ゴールドポストプロジェクト」を推進していたのだと。 フェンシング エペ団体 青木雄介監督を称え、今年2022年2月17日に設置されたのだ と。 ・・・もどる ・・・つづく・・・
2022.12.18
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石段を上り、「等々力不動尊」に向かって進む。石段の先に「舞台(展望台)」が姿を現した。石段の途中、左横にも小さな社が。お顔のない石仏、いや両手で抱えられるほどの大きさだが祀られているのは「ガマカエル」のようであった。「神變(変)窟 」と刻まれた石碑。神変大菩薩は役の行者のおくり名であると。舒明天皇の六年(六三四)年、大和の国生まれ深く仏教に帰依。御岳山の洞窟に孔雀明王を祀って祈り大峰の山々などを修行の霊地とした。当山の本尊・不動明王は当初役の行者が彫(きざ)んだと伝えられる と。石碑の横に小さな洞窟があった。洞窟の内部は石でしっかり構築されて、線香の煙がただよっていた。「等々力不動尊」の本尊不動明王は当初、役の行者が彫んだと伝えられると。手前には多くの「松ぼっくり」が奉納されていたが。「ぼっくり」とはたしか「ふぐり」の事。ぶくっと卵型に膨らんだ袋、垂れ下がっているような袋を指す言葉。松の場合はよく見られるのが、2つ並んでぶら下がっている姿。よって、子宝にも御利益があるのだろうか??「神変窟」の上部にも小さなお堂が立っていた。真っ赤な炎、これも「不動明王」。「不動明王」の持物である羂索(けんさく・けんじゃく)は煩悩や魔物を縛り上げる武器としての面もある一方で、苦しみから救い上げるための慈悲の綱ともされているのだと。 もう一方の「利剣(三鈷剣)」についても、煩悩や苦しみを切り裂く武器であると共に、「知恵の象徴」とも言われているのだ。つまり、「羂索で捕らえた悪を宝剣で断ち切る」と。そして石段を上りきると、右側にが一面紅葉の世界が拡がっていた。正面に「手水場」。「吐水龍」に近づいて。これぞ「錦秋」!!。朱の燈籠とコラボも見事な光景。「御護摩受付」所。御朱印を頂きました。「等々力不動尊」の本殿。「等々力不動尊」は東京都世田谷区等々力にある満願寺(まんがんじ)の別院。宗派:真言宗智山派山号:瀧轟山(ろうごうさん)院号:明王院(みょうおういん)寺格:等々力満願寺別院寺紋:御本尊:不動明王像ご利益:子育て・学業成就札所:・関東三十六不動霊場17番・玉川八十八ヶ所霊場33番花ごよみ:紅葉、桜住所:東京都世田谷区等々力1丁目22-47「祝祷 七五三」と。「瀧轟山(ろうごうさん)」と書かれた扁額。中興は室町時代で、吉良氏の居城であった兎々呂(ととろ)城の一角(現在地)に祈願寺として移築された。常法談林三衣(じょほうだんりんさんね)の格式の寺で、学問所・教育機関・本山としての機能を有していた と。菊の懸崖作りが両脇に。懸崖造りは、1本の小菊を大きな株に仕立て、野菊が断崖の岩間から垂れ下がっている姿を表現する技法。紫はピークを過ぎて。左は黄色の懸崖菊。氏子の奉納品であろうか。手間暇をかけ、作りあげたものであろう。寺伝によれば、平安時代後期、真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖である覚鑁(かくばん=興教大師)が本尊の不動明王像を安置して創建したとのこと。本堂は江戸時代末期の建築で、拝殿は昭和27年、山門は昭和43年に満願寺から移築。不動の滝への途中には修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ=役の行者)が祀られ、古くからの修験の地である と。「不動尊」と書かれた巨大な真っ赤な提灯。絵馬掛(左)。五色で彩られている幕(五色幕)も。赤=火黄=土緑(青の場合もある)=木紫(黒の場合もある)=水白=金 を表すと。中国の陰陽五行説から来ていると。絵馬掛(右)。本殿から「三門」方向を見る。紅白の吹き流しが風に舞う。これが寺紋なのであろうか。「稚児大師」の絵馬。「本堂」前から木製の「舞台(展望台)」を見る。「舞台(展望台)」越しの見事な紅葉。境内には句碑も。「恋ほたる 風のふし目に 光りけり」喜寿 白雲 と。世田谷区在住の岡 白雲さんの句。紅葉に負けじと、燈籠も陽光を浴びて。常香炉越しに境内を見る。近づいて。廻り込んで。常香炉の脚は般若の顔の如し。「山門」に向かって進むと右側にあったのが「草木供養碑」。その横の社。内陣には六臂の青面金剛像が鎮座。神楽殿か。こちらが表参道の手水場。吐水龍。境内の小さな祠は玉川八十八ヶ所 等々力不動尊第十三番 「厄除大師堂(明王院大師堂)」真言宗・御詠歌 「わけのぼる はなのあらしの こずえより おむろのやまに 月ぞかがやく」内陣には石仏が。「弘法大師像」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.17
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「日本庭園」の中の竹林の中を歩く。飯田十基という作庭家による、竹林や池などが造られた庭園。前方下に見えて来た「冠木門」。「冠木門」を出て振り返る。「等々力渓谷」案内板。「日本庭園 周辺案内図」。「冠木門」そしてその奥の竹林を外から見る。「冠木門」右前にあった「東京都指定 名勝 等々力渓谷」碑。再び日本庭園内に入り反対側から「冠木門」を見る。ズームして。先程の石碑が見えた。日本庭園の奥にはみかん林もあった。「甘夏」に似ていたが。再び「冠木門」に向かって進む。屋根には落ち葉が積もって。「冠木門」を潜り、「谷沢川」に沿って進む。竹林が左手に。前方に「不動の滝」への橋が見えて来た。橋の名は「利剣の橋(りけんのはし)」と。「利剣」とは、鋭利なつるぎ。よく切れる刀剣。仏語では煩悩(ぼんのう)や邪悪なものを打ち破る仏法や智慧のこと。「弥陀の利剣」と。ここを渡り、煩悩や邪悪なものを捨て、「不動の滝」や「等々力不動尊」に詣でるべし と?。「利剣の橋」の先、左手にあったの「不動の滝」。その手前に石仏が2体。「観音様」像。近づいてお顔を。「弘法大師」像。近づいてお顔を。正面に2本の滝が。二つの龍の口から湧水が流れ落ちていた。そして壁面からも水がにじむように出て、壁が濡れていたのであった。左の瀧は湧水量が多く。平安時代からこの場所は霊場として関東一円に知れ渡り、各地から修行者も多く訪れていたと。すぐ近くに都の史跡となっている野毛大塚古墳などの大きな古墳がある地域なので、古くからこの地域が開け、またこの滝が広く世間に知れ渡っていたのであろう。また、戦国時代には吉良氏の戦勝祈願所になっていたとも言われているとのことだが、吉良氏は戦をした記録が一度しか残っていなく、戦争をしない大名だったのでは??・・・と。この日の右の瀧は湧水量は少なかった。瀧の上の斜面には「不動明王」像が。その下の両脇にも仏像が。別の場所から。「不動明王」像をズームして。滝の上の番人といった感じで滝を見守っていたのであった。そしてその先にも社が鎮座。「南無不動明王」と書かれた幟。一番右に祀られていたのは石仏?石?中央に「不動明王」。近づいて。その左隣に「正一位稲荷大明神」。「奉納 正一位稲荷大明神」と書かれた幟。社の横には「狐様」が3体。「正一位稲荷大明神」から「不動の滝」方向を振り返る。「利剣の橋」を振り返る。橋の袂にも石碑が。こちらにも。いずれも解読不能。「利剣の橋」を渡って右手にあったのが「甘味処 雪月花」。深い緑の中で、不動の瀧の音を聞きながら休憩できる「甘味処 雪月花」。お菓子付きの抹茶をはじめ、おしるこ、甘酒、くずもち等が楽しめるようであった。以前に訪ねた夏には、ところてんやかき氷にラムネも用意されていたと記憶しているが。「雪月花」👈リンク は、白居易が長安にいた時、部下に送った詩に含まれていた「言葉」であると。外のベンチは無料で利用できる??いや!!赤の「野点傘(のだてがさ)」はこの場所に溶け込んで。「甘味処 雪月花」の店内には畳の部屋が。「さいさきをよく 初めを善く を大切にしましょう幸先を善く」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.16
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「渓谷の水、湧水」案内板。「渓谷の水、湧水等々カ渓谷を構成する谷沢川は、現在の上用賀6丁目付近を水源とし、用賀・中町を貫流します。そして等々カ駅付近から渓谷の様相を呈しはじめ、渓谷内で不動の滝も合わさり、その後、一部が六郷用水(丸子川)へ、残りは多摩川と流れていきます。この谷沢川には、平成6年( 1994年)より仙川浄化施設からの導水が始まり、水質の改善がおこなわれました。また、等々カ渓谷には約30箇所以上の湧水が発生し、一部は窪地に集まって湿地を形成しています。谷沢川の水質は、ゴルフ橋から下流に行くにしたがって改善されていることから、この谷沢川に流れ込む湧水が、水質や水量の維持に大きく寄与していることがうかがえます。等々カ渓谷の湧水は、東京都により平成15年(2003年)に「東京の名湧水57選」に選定されています。」「等々力渓谷 案内図」。「おもいはせの路(国分寺崖線散歩道)「おもいはせの路」は、国分を川線周辺を歩いて楽しむ散策ルートです。季節や時の流れとともに表情を変え、古代から現代までの様々な顔を見せる路で、歴史に「おもいをはせる」ということから名付けられました。「等々カ渓谷公園」のみどころは、全長約1キロの23区内唯一の渓谷で、都指定名勝として文化財指定されており、途中には8世紀ごろのものと言われる横穴古墳があります。さらに川下へ降りて歩いて行くと、「不動の滝」がとどろいています。等々力不動の本尊の不動明王は役の行者の作といわれ、様々な願い事にご利益があると言われています。」更に遊歩道を進む。前方に工事現場らしき場所が見えて来た。崖崩れの復旧工事のようであった。そして「稚児大師御影堂」が前方に見えて来た。「稚児大師御影堂弘法大師御誕生一千二百年記念慶讃大法要昭和五十年四月六日 奉修稚児大師尊像 制作芸術院会員 清水多嘉示堂宇 設計 畠山博茂 慶讃大法要大導師満願寺第二十六世 龍文」と刻まれていた。境内に入ると御影堂の中に稚児大師像が見えた。「稚児大師像」。近づいて。以前に訪ねた時の写真。「稚児大師さま」小さい手を合せているお姿は弘法大師の幼いときのお姿です。弘法大師の時代は、大学としては高位の貴族の師弟が官僚になるための大学が唯一つでした 弘法大師はこれに対して、庶民のだれでもが学べる庶民のための大学である綜芸種智院を創設しました。綜芸とは総ゆる学芸を統合すること、種智とは、智恵を植えることです。その智恵はやがて大きく成長し、色々な局面や難しい事態に出会った時正しい判断をする決断力となって発揮されます。智恵とは密教では決断力のことです。知識だけでは物事の判断は出来ません。その智恵を養うのがあらゆる学問 技術 文学 芸術 書思想を広く学び総合することです。弘法大師の創った大学は、月謝もなく教校から学生まで宿舎も完備して給食付でした。弘法大師は幼いとき、土で仏さまを造って草や木の枝で造った御堂に祀って手を合せました。この稚児大師像は 芸術院会員清水多嘉示先生につくって頂き お子様にも拝みやすいように低く安置いたしました尚 弘法大師の幼少期は奈良時代ですが古くからの多くの稚児大師像のように平安時代の服装で製作していただきました。」「稚児大師御影堂」近くのモミジも赤く染まっていた。「手水場」には柄杓はなく、これも新型コロナの影響であろう。湧水を引いているのであろう。陽光を浴びて輝くモミジの樹、葉をカメラで追う。「東京都指定名勝 等々力渓谷所在地:世田谷区等々力2丁目外指定:平成十一年三月三日等々力渓谷は、国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する約1キロメートルの都区内唯一の渓谷である。谷沢川が国分寺崖線に切れ込んで浸食したもので、台地と谷との標高差は約10メートルある。渓谷の斜面には、武蔵野の代表的な樹木であるケヤキをはじめ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラ、イロハカエデなどとともに、常緑シダ類のような湿性植物が繁茂しており、渓谷内には至るところから湧水の出現が認められる。等々力不動の滝右手の露頭では、武蔵野台地の武蔵野台地の基盤を形成する地層を観察することが出来る。地層は上から黒土層、立川ローム層、武蔵野ローム層、武蔵野礫(れき)層、東京層の順で、武蔵野ローム層の中には東京軽石層が白くベルト状に認められる。国分寺崖線の湧水である。不動の滝は、武蔵野礫層と東京層との境から湧き出した地下水によるものである。稲荷不動の右手の石段下には、この滝に打たれて行をする修行僧が各地から訪れたと言われており、役(えん)の行者(ぎょうじゃ)ゆかりの霊場と伝えられている。等々力渓谷は、東京都指定名勝「真姿(ますがた)の池湧水群(いけゆうすいぐん)」(国分寺市西本町)とともに国分寺崖線名勝群を形成する一つであり、東京を代表する自然地理的名勝として、植生学、地質学及び地形学上重要である。 平成十一年九月 東京都教育委員会」この橋を渡ると等々力「不動の滝」があったが、後ほどとして、「等々力渓谷内日本庭園・書院」に向かって進む。こちらの石段を上って「等々力渓谷内日本庭園・書院」の正門方向へと進む。「日本庭園入口(正門)」と。石段途中の北門から「日本庭園」に入る。「日本庭園」案内図。モミジの黄葉。別の場所から見上げて。モミジの紅葉。更に庭園の路を書院に向かって上って行く。ズームして。枯れモミジ葉と山茶花の花びらが。そして「書院」が前方に姿を現した。「書院」に到着。昭和36年に建築された書院建物であると。「書院」の内部。床の間の掛け軸。四季折々の「等々力渓谷」の写真も展示されていた。再び書院前の紅葉を追う。これぞ「紅落」そして「黃落」。日本庭園の石庭の中の紅葉を楽しみながら「書院」を後にした。日本庭園の池には水は殆どなく。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.15
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