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この日は12月12日(月)、都内・五反田で卒業した会社の同僚、後輩、協力会社の社長との飲み会に参加しました。毎年、この時期に五反田に行くときには、途中下車して世田谷区内にある『等々力渓谷』そして『浄真寺』を訪ねることにしていますが、今年もいつものように。『等々力渓谷』、『等々力不動尊』を訪ねた後に、徒歩で20分強でここ東京・世田谷区奥沢にある『浄真寺』の参道の入口に到着しました。この地にはサギ科のシラサギ(白鷺)とラン科のサギソウ(鷺草)にまつわる悲話が伝わります。そのサギソウは世田谷区の花とされ、境内の「さぎ草園」では毎年8月上旬に多くの花を咲かせるそうです。「シラサギ」とは、ほぼ全身が白いサギ類の総称であり、シラサギという名前のサギがいるわけではないようです。山号は九品山(くほんざん)で、九品仏(くほんぶつ)とは後ほど触れるように、同寺に安置されている9躰の阿弥陀如来坐像のことを言うのです。最寄り駅は東急大井町線・九品仏駅。「浄真寺参道」碑。「九品佛参道界隈」案内碑。「九品佛参道界隈」案内図。文字がハッキリ見えるように、2枚の写真を繋げています。「浄真寺」のHPより。 【https://kuhombutsu.jp/guide/map/】より九品仏淨眞寺 境内図<昔> 参照:江戸名所図會。 【https://kuhombutsu.jp/guide/map/】より案内図にあった切絵図。「総門」の切絵図。「せたがや界隈賞世田谷区では、昭和59年から平成4年までの隔年で、区民の皆さんに愛され、親しまれている世田谷区の街なみ形成のモデルとなる、魅力的な界隈を「せたがや界隈賞」として表彰してきました。「九品仏参道界隈」は浄真寺境内と参道周辺で良好な界隈が形成されていることから、昭和63年に「第3回せたがや界隈奨励賞」として表彰しました。」絵の右下に書かれている「お面かぶり」とは、江戸の時代より3年ごとに、この寺で奉修される「阿弥陀如来二十五菩薩来迎会」のことで、無形文化財に指定されているのだ。「上野毛五島美術館一帯」切絵図。「おもいはせの路おもいはせの路とは、玉川地域の緑と水の資源や歴史・文化資源をめぐるルートを、散歩道として提案したものです。この路には季節や時の流れとともに表情を変える古代から現代までのさまざまな顔が見えます。この路を歩くとき、人はいろいろと思いをはせるということで、この名を付けました。友達と、恋人と、親子で、夫婦で、あるいは一人で歩いてみてはいかがですか。」五島美術館は、東京都世田谷区上野毛の閑静な住宅街の中にある私立(財団法人)の美術館。国宝「源氏物語絵巻」をはじめとする数々の名品を所蔵する美術館として、展覧会を中心に幅広い活動を展開している人気の美術館 と。「ニ〇一四~ニ〇三四年 浄眞寺「平成 令和」九品佛大修繕事業」大勧進」案内。「浄眞寺」のHPには「昭和三十八年(1963)に九躰の阿弥陀佛像と釈迦牟尼佛像の計十躰が東京都重要文化財に指定されました。保存状態として、各十躰の漆箔の浮き上がり、矧ぎ目の損傷や化佛の脱落割損が多く認められ、東京都と世田谷区の文化財関係者が綿密なる協議の上、平成二十六年(2014)より一躰ずつ、計十躰の修繕を公益財団法人「美術院」国宝修理所に遷座し二十年以上に亘る大修繕を実施する運びとなりました。つきましては、この仏縁により未来に引き継ぐ希代の大修繕事業(大勧進)の趣意をお汲みとり下さり、絶大なる御協力と御支援を賜りますよう懇願申し上げる次第でございます。」と。参道の入口右側にあったのが「玉川警察署 九品仏交番」。世田谷区奥沢7丁目34−1。「総門」に向かって参道を進む。右手には「禁銃猟 警視廳」と三面に刻まれた石碑があった。背面には建てられた年が書かれていて、明治32年(1899年)と。「この辺りでは銃を使っての猟は禁ずる」という警視庁が出した明治時代の告知であると。当時のこの地域一帯はほとんど人が住んでおらず、雑木林ばかりの土地であった。狩猟もやりやすかった時代。この石柱はそういった古い時代の名残なのであろう。この後、境内にも同様な石碑が建っていたのであった。ここにも「2014年~2034年 浄眞寺「平成 令和」九品佛大修繕事業」大勧進」案内が。九品仏の駅名にもなって親しまれる浄眞寺は、上品上生仏より下品下生の九品阿弥陀仏が奉安されております。この度、元禄以来の大修繕を行うこととなりました。未来に受け継ぐ、この大修繕事業に値遇を得ることは、稀代の勝縁と思し召し、大勧進に広く皆様のご協賛を賜りたく存じます。浄財を喜捨(きしゃ)された芳名は、結縁交名帳に記録し九品佛像の臺座内に永久保存します。詳しくは事務所、龍護殿にございます趣意書をご覧頂ければ幸甚です。 九品佛浄眞寺 住所 清水英碩」「総門」が前方に大きく見えて来た。約200mの長さの参道には黒松を中心に植栽されていた。入り口の参道は「二河白道(にがびゃくどう)」を表しているのだと。火の河と荒れ狂う河に挟まれた白い細い道、白道は浄土往生を願う信心の道で一心不乱に念仏を唱えて極楽浄土へ渡ろうということを意味していると。樹齢30年以上の黒松の間に次世代を担う黒松の苗木を植樹し成長しているのであった。参道の中程の右側には九品仏広場という公園があり、参道と調和した雰囲気のいい子供達の遊び場となっていた。その先左手には、三界萬霊塔・供養塔・庚申塔など8基の石塔・石仏が並んでいた。紅葉の樹の下に大小の石塔が並ぶ。中央に「奉寄進庚申供養塔」と刻まれた石碑が。「三界萬霊」と刻まれた石塔。文政五年(1822)造立の笠付三界萬霊塔。「お地蔵様」(左)と板状駒型庚申塔「・青面金剛像」(右)で、青面金剛像に三猿が彫られている。造立年は寛文十二年(1672)と比較的初期の庚申塔。その30年ほど前に鎖国となり、20年後には元禄文化の華が咲いた時代のものである。その先にも石碑が並んでいた。寛文十二年(1672)の「青面金剛像」の右は明和六年(1769)造立の角柱供養塔で正面に「信濃善光寺四十八願〇」の刻。中央は文化十一年(1814)造立の笠付供養塔で正面に「善光寺百番供養」の刻。その右は文化八年(1811)造立の「文字庚申塔」 であると。そして「浄眞寺 総門」前に到着。九品山唯在念佛院浄真寺(くほんさんゆいざいねんぶついんじょうしんじ)は浄土宗寺院。越後国村上泰叟寺の珂碩(かせき)上人を請うて延宝6年(1678)に創建されたものであると。総門前の石段の中央の手摺には「舟の櫓」を表した手摺が。「掲示板」。「九品佛道」と刻まれた石碑が「総門」右手奥に。「筋塀(すじべい)」という種類の塀があり、そこには定規筋(じょうぎすじ)と呼ばれる白い線が5本引かれていた。もともとは門跡寺院(もんぜきじいん)の証として5本の線を引いたのが始まりと。定規筋の数が寺の格式を表すようになり、3本、4本、5本のうち5本が最高ランクとされていると。門跡寺院とは、皇室一門や公家の方が出家して住職を務める寺院のことをいい、古くより皇室と関わりのある格式高い寺院とされているのだ。「新東京名勝 選外十六景 奥沢 九品仏」と刻まれた石碑。「総門」に掲げられている扁額「般舟場(はんじゅじょう)」。常に行道念仏して現前に諸仏を見奉る「般舟三昧」する道場であり、参拝者に願往生の心を自然に発さんが為に書かれたものであるとのこと。「般舟三昧」とは浄土教で説く精神統一法。諸仏現前三昧、仏立 (ぶつりゅう) 三昧ともいう。7日ないし 90日間この三昧を行えば現前に仏を見ることができるのだと。「九品佛浄眞寺総門」と。書体は新篆書体か?「創建の由来当山はひろく「九品仏」の名で親しまれているが、正式には「九品山在念仏院淨眞寺」といい、浄土宗に属し、境内約12万m2 ( 3万6十坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂磧(かせき)上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝6年( 1678 )に、奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経の説相によって堂塔を配置し、この寺を創建された。「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とはほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺きを銅板葺に改修した。」そして「総門」下から、紅葉に輝く境内を。左手にあったのが「焔魔堂」。足元近くにも「浄真寺」碑。紅葉のモミジの下には石仏が並ぶ。石仏は. 落ち葉の絨毯にも囲まれて。「焔魔堂」を正面から見る。入り口の両側に「うそはつくな」「わるいことはするな」の真っ赤なノボリが立っていた。閻魔様はやる気十分なのであった。「焔魔堂」の前には「三途の川」が。向かって左が急流、右が深い淵、中央が橋で深い淵には「亀」がいた。「三途の川」。人は死ぬと七日目には三途の川の辺に到着するそうです。ここには、人が冥土に行く為には、渡らなければならない三つの川、「葬頭川(そうずがわ)」「三瀬川(みつせかわ)」、「渡り川」があります。川の流れは三つに分かれていて、前世の行為(業)にしたがって、それぞれにふさわしい流れを渡ることになるそうです。三途とは地獄・餓鬼・畜生の三悪道のことですが、この川の辺に上記の衣領樹 (えりょうじゅ)という木があります。木の下には「奪衣婆(だつえば)」という老婆がいて、木の上には「懸衣翁 (けんえおう)」というお爺さんがのっています。お婆さんが着ている衣類を脱がせ、木の上のお爺さんに渡し、木の枝に掛けると、その重みで枝が垂れる。枝の垂れ方で生前の罪の軽重が分かる仕掛けです。その「懸衣翁」と「奪衣婆」が、35日目の閻魔大王の裁判に陪席している ので、嘘の申告は出来ないのだとスピーカーから「閻魔様の声」☚リンク が聞こえて来た。「知らず知らずのうちに罪を犯してしまうのが人間じゃそれは、貪り、怒り、愚かさによる心 事は態度から生じておる包み隠さず罪を悔い改めよ」と。どうやら、お祈りしている人に向かって音声が流れているのだ。お賽銭を入れると、閻魔大王からのお告げがある仕組みとなっていた。幟「わるいことはするな!一月十六日 八月十六日 地獄の釜蓋開放 閻魔大王の斎日」と。1月16日と、7月16日は閻魔大王や地獄の鬼もお休みで、「地獄の釜開き」と呼ばれたり「亡者の骨休み」と呼ばれる地獄の定休日なのであろう。幟「うそはつくな!」。扁額「閻魔堂」。中央に「閻魔(えんま)大王」。「閻魔大王」は、仏教の地獄、冥界の主であり、冥界の王として死者の生前の罪を裁く神。閻王ともいう。インドにおける死者の主であるヤマが仏教に入ったものである。お顔をズームして。閻魔王は、地獄などのいわゆる冥界をつかさどる鬼神の王で、「地蔵菩薩発心因縁十王経」には、冥界で亡者の罪を裁くとされ、十人の王の裁判を受け、残忍な獄卒(地獄で亡者を苦しめるという鬼)を使って、すべての亡者を審判します。閻魔王の法廷には、「浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ)」という特殊な鏡が装備されている。この魔鏡はすべての亡者の生前の行為をのこらず記録(閻魔帳)し、裁きの場でスクリーンに上映する機能を持つ。そのため、裁かれる亡者が閻魔王の尋問に嘘をついても、たちまち見破られるという。それでもなお亡者が嘘をつき続けると、閻魔王によって舌を抜かれてしまうのだ。司録と司命(しみょう)という地獄の書記官が左右に控え、閻魔王の業務を補佐しているのだと。さらに。地獄の閻魔大王と言えば、死後に、生前犯した罪を裁く番人としてよく知られているが、実は、地蔵菩薩(じぞうぼさつ)の化身であるのだと。そもそも、地蔵菩薩は六道の世界「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天」の六世界に現れて、人々を救済する仏様として信仰されている。地蔵菩薩は、時には閻魔大王に姿を変えて私たちに、救いの手を差し伸べているのだと。地獄の十王一覧。十王は、道教や仏教で、地獄において亡者の審判を行う10尊の裁判官的な尊格。亡者は初七日を終えた後、死出の山を越え、賽の河原、三途の川に辿り着きます。三途の川には水が急流をなしている所を渡る、入江が深い淵をなしている所を渡る、橋を渡る、の三つの方法があり、生前の罪に応じて渡る方法が異なるとされます。左手にいたのが「奪衣婆(だつえば)」三途の川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の姿。奪衣婆(だつえば)、正塚婆(しょうづかのばば)、姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言うのだと。右手にいたのが「懸衣翁(けんねおう)」。「奪衣婆(だつえば)」が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁(けんねおう)という老爺によって衣領樹(えりょうじゅ)にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって枝の垂れ方が異なるので、亡者の生前の罪の重さを計る事により死後の処遇を決めるのだと。罪の重い亡者は三途の川を渡る際、川の流れが速くて波が高く、深瀬になった場所を渡るよう定められているため、衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示されるのであると。また亡者が服を着ていない際は、懸衣翁は衣の代わりに亡者の生皮を剥ぎ取るという恐ろしい話。奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もあるのだと。前回のブログにも書いたが、私の衣類は枝が大きく撓る(しなる)のであろうか?カメラを持つ手が震えて・・・・。「極楽浄土」絵。「等活地獄」絵。八熱地獄の第一。南瞻部洲の下、千または五千由旬の所にあるという。獄卒により身を裂かれ骨を砕かれて殺されるが、涼風が吹くと生きかえってまた同じ責め苦を受け、これを繰り返すので、その名がある。殺生などの罪を犯した者がここに堕ちるという。「極楽浄土」絵。「大叫喚地獄」絵。叫喚地獄の下で、叫喚地獄までの四地獄の苦を一〇倍にした苦しみを受けるところ。五戒(ごかい)を破ったものがおちるとされる。五戒とは不殺生戒(ふせっしょうかい)・不偸盗戒(ふちゅうとうかい)・不邪淫戒(ふじゃいんかい)・不妄語戒(ふもうごかい) ・不飲酒戒(ふおんじゅかい)の仏教徒が守るべき基本となる5つの戒めのこと。各戒めはそれぞれ不殺生戒:殺生(生き物を殺すこと)してはならない。不偸盗戒:盗みを働いてはいけない。不邪淫戒:不貞行為(不倫)を行ってはいけない。不妄語戒:妄言(嘘)をついけはいけない。不飲酒戒:飲酒(お酒)をしてはいけない。という意味を持っている と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.19
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再び舞台(展望台)を見る。「舞台(展望台)」を歩く。この時は「舞台(展望台)」を独り占め。「等々力渓谷」からの参道にある「手水場」が眼下に。エピローグを迎えた銀杏の老木。しかし、青空に映えて、銀杏の広葉が輝く。再び「舞台(展望台)」前から。紅葉が「御護摩受付所」のガラスに映る。「御護摩受付所」前には「等々力不動尊」のジオラマが置かれていた。境内の「休憩所」。飲み物が買えるようであった。そして「等々力不動尊」の「山門」前へ。屋根には銀杏の葉が落ちて。「等々力渓谷」案内板がここにもあった。「等々力渓谷等々カ渓谷は谷沢川によってできた谷で今でも多くの動植物がみられ、四季折々には咲き乱れる桜、常緑の木立、秋の紅葉も不動滝(竜頭滝)に映え、深山の趣きがある。谷間は粘土、砂礫、赤土(関東ローム層)の層が重なって地層の移りかわりをものがたっている。不動滝は古くより知られ、清浄な渓谷にしぶきをたてて、とどろいていたことから、等々力の地名が起こったともいわれている。不動堂本尊は、新義真言宗の宗祖興教大師が山城国(京都府)よりこの地に移したとつたえられる。」山門の扁額も「瀧轟山」。「御礼トンガ王国緊急募金に澤山の御援助有難うございます。ウクライナ緊急募金始めました。」「弘法大師 空海 ご誕生 1250年令和5年(1923年)弘法大師空海様がお生まれになって1250年にあたる記念の年です。」と。空海は宝亀5年(774年)7月27日、讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県)で生まれたという説がある。父は郡司・佐伯田公、母は安斗智徳の娘で名は不詳。幼名は真魚。真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日と云われているが、正確には不詳である と。「山門」を外・都道332号線側から。ここにも「幸 先を 善く」と。石灯籠。「等々力不動尊」の紅葉を堪能して後にする、都道332号線を横断して。その先、「等々力不動尊」の向かいにあったのが「御岳山古墳」。「東京都指定史跡 御岳山古墳」碑。「東京都指定史跡 御岳山古墳(みたけさんこふん)所在地:世田谷区等々力1-18 指定:昭和55年2月21日御岳山古墳は、多摩川の左岸、標高31mの舌状台地先端部に位置しており、西側には等々力渓谷を臨んでいます。世田谷区野毛から大田区田園調布にかけて多摩川左岸の台地縁辺部一帯には、連なるように50数基から成る荏原台古墳群が形成されており、本古墳はこのうちのひとつです。西方には野毛大塚古墳(都指定史跡)があり、これに次ぐ規模を有しています。全長57m、現在高7mを測り、野毛大塚古墳と同じく帆立貝形です。河原石による葺石、円筒埴輪を伴い、5世紀後半から6世紀中葉の築造と考えられています。学習院大学の調査によって、埋葬施設である内部主体は。木棺を粘土で覆った粘土槨であると推定されています。副葬品として内行花文を文様とする七鈴鏡(都指定有形文化財)、短甲、直刀等が出土しており、特に短甲は二領分の破片があり、その製作時期が5世紀後半に位置づけられます。平成22年3月建設 東京都教育委員会」入口の扉は閉じられ、この日も中には入れなかった。古墳の斜面には多くの石碑が。「童女」の文字が。墳丘の参道沿いに並ぶ数々の石仏の1基。人の名前と日付が書いてあるので、墓標のようだ。しかも、童子、童女と書かれたものが多いのであった。宝永、正徳、亨保と18世紀初めのものが多いようだが、この頃この地域では災害か飢饉で子供が多く亡くなったのだろうか。「等々力村石◯之碑」と。そして次の目的地の九品仏駅近くにある「浄真寺」に歩いて向かう。環状8号線の「尾山台」交差点を通過。ここを進むと東急大井町線の「尾山台駅」に突き当たるのだ。「尾山台一丁目」交差点を左折して進む。世田谷区立九品仏小学校横を通過。東急大井町線の九品仏1号踏切を渡る。そしてその先を右折して、「等々力通り」を進む。「浄真寺」参道入口手前にあった黄金のポスト。東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会推進本部事務局は、日本郵便株式会社と協力し、東京2020大会において、金メダルを獲得した日本代表選手等にゆかりある地域の郵便ポストを金色に塗り替えることにより、選手等の栄光を称えるとともに、選手等を輩出した地域を盛り上げるプロジェクト「ゴールドポストプロジェクト」を推進していたのだと。 フェンシング エペ団体 青木雄介監督を称え、今年2022年2月17日に設置されたのだ と。 ・・・もどる ・・・つづく・・・
2022.12.18
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石段を上り、「等々力不動尊」に向かって進む。石段の先に「舞台(展望台)」が姿を現した。石段の途中、左横にも小さな社が。お顔のない石仏、いや両手で抱えられるほどの大きさだが祀られているのは「ガマカエル」のようであった。「神變(変)窟 」と刻まれた石碑。神変大菩薩は役の行者のおくり名であると。舒明天皇の六年(六三四)年、大和の国生まれ深く仏教に帰依。御岳山の洞窟に孔雀明王を祀って祈り大峰の山々などを修行の霊地とした。当山の本尊・不動明王は当初役の行者が彫(きざ)んだと伝えられる と。石碑の横に小さな洞窟があった。洞窟の内部は石でしっかり構築されて、線香の煙がただよっていた。「等々力不動尊」の本尊不動明王は当初、役の行者が彫んだと伝えられると。手前には多くの「松ぼっくり」が奉納されていたが。「ぼっくり」とはたしか「ふぐり」の事。ぶくっと卵型に膨らんだ袋、垂れ下がっているような袋を指す言葉。松の場合はよく見られるのが、2つ並んでぶら下がっている姿。よって、子宝にも御利益があるのだろうか??「神変窟」の上部にも小さなお堂が立っていた。真っ赤な炎、これも「不動明王」。「不動明王」の持物である羂索(けんさく・けんじゃく)は煩悩や魔物を縛り上げる武器としての面もある一方で、苦しみから救い上げるための慈悲の綱ともされているのだと。 もう一方の「利剣(三鈷剣)」についても、煩悩や苦しみを切り裂く武器であると共に、「知恵の象徴」とも言われているのだ。つまり、「羂索で捕らえた悪を宝剣で断ち切る」と。そして石段を上りきると、右側にが一面紅葉の世界が拡がっていた。正面に「手水場」。「吐水龍」に近づいて。これぞ「錦秋」!!。朱の燈籠とコラボも見事な光景。「御護摩受付」所。御朱印を頂きました。「等々力不動尊」の本殿。「等々力不動尊」は東京都世田谷区等々力にある満願寺(まんがんじ)の別院。宗派:真言宗智山派山号:瀧轟山(ろうごうさん)院号:明王院(みょうおういん)寺格:等々力満願寺別院寺紋:御本尊:不動明王像ご利益:子育て・学業成就札所:・関東三十六不動霊場17番・玉川八十八ヶ所霊場33番花ごよみ:紅葉、桜住所:東京都世田谷区等々力1丁目22-47「祝祷 七五三」と。「瀧轟山(ろうごうさん)」と書かれた扁額。中興は室町時代で、吉良氏の居城であった兎々呂(ととろ)城の一角(現在地)に祈願寺として移築された。常法談林三衣(じょほうだんりんさんね)の格式の寺で、学問所・教育機関・本山としての機能を有していた と。菊の懸崖作りが両脇に。懸崖造りは、1本の小菊を大きな株に仕立て、野菊が断崖の岩間から垂れ下がっている姿を表現する技法。紫はピークを過ぎて。左は黄色の懸崖菊。氏子の奉納品であろうか。手間暇をかけ、作りあげたものであろう。寺伝によれば、平安時代後期、真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖である覚鑁(かくばん=興教大師)が本尊の不動明王像を安置して創建したとのこと。本堂は江戸時代末期の建築で、拝殿は昭和27年、山門は昭和43年に満願寺から移築。不動の滝への途中には修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ=役の行者)が祀られ、古くからの修験の地である と。「不動尊」と書かれた巨大な真っ赤な提灯。絵馬掛(左)。五色で彩られている幕(五色幕)も。赤=火黄=土緑(青の場合もある)=木紫(黒の場合もある)=水白=金 を表すと。中国の陰陽五行説から来ていると。絵馬掛(右)。本殿から「三門」方向を見る。紅白の吹き流しが風に舞う。これが寺紋なのであろうか。「稚児大師」の絵馬。「本堂」前から木製の「舞台(展望台)」を見る。「舞台(展望台)」越しの見事な紅葉。境内には句碑も。「恋ほたる 風のふし目に 光りけり」喜寿 白雲 と。世田谷区在住の岡 白雲さんの句。紅葉に負けじと、燈籠も陽光を浴びて。常香炉越しに境内を見る。近づいて。廻り込んで。常香炉の脚は般若の顔の如し。「山門」に向かって進むと右側にあったのが「草木供養碑」。その横の社。内陣には六臂の青面金剛像が鎮座。神楽殿か。こちらが表参道の手水場。吐水龍。境内の小さな祠は玉川八十八ヶ所 等々力不動尊第十三番 「厄除大師堂(明王院大師堂)」真言宗・御詠歌 「わけのぼる はなのあらしの こずえより おむろのやまに 月ぞかがやく」内陣には石仏が。「弘法大師像」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.17
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「日本庭園」の中の竹林の中を歩く。飯田十基という作庭家による、竹林や池などが造られた庭園。前方下に見えて来た「冠木門」。「冠木門」を出て振り返る。「等々力渓谷」案内板。「日本庭園 周辺案内図」。「冠木門」そしてその奥の竹林を外から見る。「冠木門」右前にあった「東京都指定 名勝 等々力渓谷」碑。再び日本庭園内に入り反対側から「冠木門」を見る。ズームして。先程の石碑が見えた。日本庭園の奥にはみかん林もあった。「甘夏」に似ていたが。再び「冠木門」に向かって進む。屋根には落ち葉が積もって。「冠木門」を潜り、「谷沢川」に沿って進む。竹林が左手に。前方に「不動の滝」への橋が見えて来た。橋の名は「利剣の橋(りけんのはし)」と。「利剣」とは、鋭利なつるぎ。よく切れる刀剣。仏語では煩悩(ぼんのう)や邪悪なものを打ち破る仏法や智慧のこと。「弥陀の利剣」と。ここを渡り、煩悩や邪悪なものを捨て、「不動の滝」や「等々力不動尊」に詣でるべし と?。「利剣の橋」の先、左手にあったの「不動の滝」。その手前に石仏が2体。「観音様」像。近づいてお顔を。「弘法大師」像。近づいてお顔を。正面に2本の滝が。二つの龍の口から湧水が流れ落ちていた。そして壁面からも水がにじむように出て、壁が濡れていたのであった。左の瀧は湧水量が多く。平安時代からこの場所は霊場として関東一円に知れ渡り、各地から修行者も多く訪れていたと。すぐ近くに都の史跡となっている野毛大塚古墳などの大きな古墳がある地域なので、古くからこの地域が開け、またこの滝が広く世間に知れ渡っていたのであろう。また、戦国時代には吉良氏の戦勝祈願所になっていたとも言われているとのことだが、吉良氏は戦をした記録が一度しか残っていなく、戦争をしない大名だったのでは??・・・と。この日の右の瀧は湧水量は少なかった。瀧の上の斜面には「不動明王」像が。その下の両脇にも仏像が。別の場所から。「不動明王」像をズームして。滝の上の番人といった感じで滝を見守っていたのであった。そしてその先にも社が鎮座。「南無不動明王」と書かれた幟。一番右に祀られていたのは石仏?石?中央に「不動明王」。近づいて。その左隣に「正一位稲荷大明神」。「奉納 正一位稲荷大明神」と書かれた幟。社の横には「狐様」が3体。「正一位稲荷大明神」から「不動の滝」方向を振り返る。「利剣の橋」を振り返る。橋の袂にも石碑が。こちらにも。いずれも解読不能。「利剣の橋」を渡って右手にあったのが「甘味処 雪月花」。深い緑の中で、不動の瀧の音を聞きながら休憩できる「甘味処 雪月花」。お菓子付きの抹茶をはじめ、おしるこ、甘酒、くずもち等が楽しめるようであった。以前に訪ねた夏には、ところてんやかき氷にラムネも用意されていたと記憶しているが。「雪月花」👈リンク は、白居易が長安にいた時、部下に送った詩に含まれていた「言葉」であると。外のベンチは無料で利用できる??いや!!赤の「野点傘(のだてがさ)」はこの場所に溶け込んで。「甘味処 雪月花」の店内には畳の部屋が。「さいさきをよく 初めを善く を大切にしましょう幸先を善く」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.16
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「渓谷の水、湧水」案内板。「渓谷の水、湧水等々カ渓谷を構成する谷沢川は、現在の上用賀6丁目付近を水源とし、用賀・中町を貫流します。そして等々カ駅付近から渓谷の様相を呈しはじめ、渓谷内で不動の滝も合わさり、その後、一部が六郷用水(丸子川)へ、残りは多摩川と流れていきます。この谷沢川には、平成6年( 1994年)より仙川浄化施設からの導水が始まり、水質の改善がおこなわれました。また、等々カ渓谷には約30箇所以上の湧水が発生し、一部は窪地に集まって湿地を形成しています。谷沢川の水質は、ゴルフ橋から下流に行くにしたがって改善されていることから、この谷沢川に流れ込む湧水が、水質や水量の維持に大きく寄与していることがうかがえます。等々カ渓谷の湧水は、東京都により平成15年(2003年)に「東京の名湧水57選」に選定されています。」「等々力渓谷 案内図」。「おもいはせの路(国分寺崖線散歩道)「おもいはせの路」は、国分を川線周辺を歩いて楽しむ散策ルートです。季節や時の流れとともに表情を変え、古代から現代までの様々な顔を見せる路で、歴史に「おもいをはせる」ということから名付けられました。「等々カ渓谷公園」のみどころは、全長約1キロの23区内唯一の渓谷で、都指定名勝として文化財指定されており、途中には8世紀ごろのものと言われる横穴古墳があります。さらに川下へ降りて歩いて行くと、「不動の滝」がとどろいています。等々力不動の本尊の不動明王は役の行者の作といわれ、様々な願い事にご利益があると言われています。」更に遊歩道を進む。前方に工事現場らしき場所が見えて来た。崖崩れの復旧工事のようであった。そして「稚児大師御影堂」が前方に見えて来た。「稚児大師御影堂弘法大師御誕生一千二百年記念慶讃大法要昭和五十年四月六日 奉修稚児大師尊像 制作芸術院会員 清水多嘉示堂宇 設計 畠山博茂 慶讃大法要大導師満願寺第二十六世 龍文」と刻まれていた。境内に入ると御影堂の中に稚児大師像が見えた。「稚児大師像」。近づいて。以前に訪ねた時の写真。「稚児大師さま」小さい手を合せているお姿は弘法大師の幼いときのお姿です。弘法大師の時代は、大学としては高位の貴族の師弟が官僚になるための大学が唯一つでした 弘法大師はこれに対して、庶民のだれでもが学べる庶民のための大学である綜芸種智院を創設しました。綜芸とは総ゆる学芸を統合すること、種智とは、智恵を植えることです。その智恵はやがて大きく成長し、色々な局面や難しい事態に出会った時正しい判断をする決断力となって発揮されます。智恵とは密教では決断力のことです。知識だけでは物事の判断は出来ません。その智恵を養うのがあらゆる学問 技術 文学 芸術 書思想を広く学び総合することです。弘法大師の創った大学は、月謝もなく教校から学生まで宿舎も完備して給食付でした。弘法大師は幼いとき、土で仏さまを造って草や木の枝で造った御堂に祀って手を合せました。この稚児大師像は 芸術院会員清水多嘉示先生につくって頂き お子様にも拝みやすいように低く安置いたしました尚 弘法大師の幼少期は奈良時代ですが古くからの多くの稚児大師像のように平安時代の服装で製作していただきました。」「稚児大師御影堂」近くのモミジも赤く染まっていた。「手水場」には柄杓はなく、これも新型コロナの影響であろう。湧水を引いているのであろう。陽光を浴びて輝くモミジの樹、葉をカメラで追う。「東京都指定名勝 等々力渓谷所在地:世田谷区等々力2丁目外指定:平成十一年三月三日等々力渓谷は、国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する約1キロメートルの都区内唯一の渓谷である。谷沢川が国分寺崖線に切れ込んで浸食したもので、台地と谷との標高差は約10メートルある。渓谷の斜面には、武蔵野の代表的な樹木であるケヤキをはじめ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラ、イロハカエデなどとともに、常緑シダ類のような湿性植物が繁茂しており、渓谷内には至るところから湧水の出現が認められる。等々力不動の滝右手の露頭では、武蔵野台地の武蔵野台地の基盤を形成する地層を観察することが出来る。地層は上から黒土層、立川ローム層、武蔵野ローム層、武蔵野礫(れき)層、東京層の順で、武蔵野ローム層の中には東京軽石層が白くベルト状に認められる。国分寺崖線の湧水である。不動の滝は、武蔵野礫層と東京層との境から湧き出した地下水によるものである。稲荷不動の右手の石段下には、この滝に打たれて行をする修行僧が各地から訪れたと言われており、役(えん)の行者(ぎょうじゃ)ゆかりの霊場と伝えられている。等々力渓谷は、東京都指定名勝「真姿(ますがた)の池湧水群(いけゆうすいぐん)」(国分寺市西本町)とともに国分寺崖線名勝群を形成する一つであり、東京を代表する自然地理的名勝として、植生学、地質学及び地形学上重要である。 平成十一年九月 東京都教育委員会」この橋を渡ると等々力「不動の滝」があったが、後ほどとして、「等々力渓谷内日本庭園・書院」に向かって進む。こちらの石段を上って「等々力渓谷内日本庭園・書院」の正門方向へと進む。「日本庭園入口(正門)」と。石段途中の北門から「日本庭園」に入る。「日本庭園」案内図。モミジの黄葉。別の場所から見上げて。モミジの紅葉。更に庭園の路を書院に向かって上って行く。ズームして。枯れモミジ葉と山茶花の花びらが。そして「書院」が前方に姿を現した。「書院」に到着。昭和36年に建築された書院建物であると。「書院」の内部。床の間の掛け軸。四季折々の「等々力渓谷」の写真も展示されていた。再び書院前の紅葉を追う。これぞ「紅落」そして「黃落」。日本庭園の石庭の中の紅葉を楽しみながら「書院」を後にした。日本庭園の池には水は殆どなく。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.15
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石橋を渡ると、案内板があった。進行方向、下段の案内板を確認して進む。前方上部に橋の姿が。「玉沢橋」。次の目的の「等々力渓谷 横穴墓群」まで230mと。環状八号線・「玉沢橋」。橋の下には岩がゴロゴロと積まれて?いた。「谷沢川」の水面に触れられるようにウッドデッキが設置されていた。1998年より25年続く、等々力渓谷沿いにあるカジュアルなイタリアンレストラン「199 OTTO」の看板。「野毛大塚古墳」👈リンク に行くにはこの石段を上って行くのだ。急な石段を見上げて。「谷沢川」にある仮設の如き木橋があった。そして前方に目的の「等々力渓谷 横穴墓群」への石橋が見えて来た。石橋を渡って1段高い場所に向かって進む。周囲の樹々の黄葉が始まっていた。「野毛大塚古墳(東京都指定史蹟)」👈リンク 案内板。「等々カ渓谷近くの玉川野毛町公園内にある野毛大塚古墳は、現在の大田区から世田谷区にかけて展開する荏原台古墳群のひとつ、野毛古墳群の中心となる5世紀初頭に築かれた大形の帆立貝形古墳です。帆立貝形古墳とは、前方後円墳の前方部が小さくなリ、上から見たときに帆立貝のような形に見える古墳を言います。古墳の規模は、周濠を含め全長104m、墳丘長82m、後円部直径68m、高さ10m、前方部幅28mで、前方部の脇に造出部がひとつあリます。墳丘上からは、4基の埋葬施設が確認され、多くの武具等が発見されました。前方部と造出部は削られていましたが、現在は復元整備されています。古墳の主は、出土した副葬品などから、当時の政治の頂点であった畿内王権と直接的な交渉があったことがうかがえ、南武蔵(現在の東京都と神奈川県の川崎市、横浜市の一部) の小豪族たちの上に立つ大首長であったと考えられています。等々力渓谷とその周辺には、等々カ渓谷3号横穴、この野毛大塚古墳、御岳山古墳(等々カ1-18 )、狐塚古墳(尾山台2-17 )、などの遺跡が国分寺崖線沿いに分市しています。」広場の時計は11:05過ぎ。「等々カ渓谷、武蔵野台地の南端に位置する延長約1kmの渓谷です。谷沢川が多摩川と合流する手前で、多摩川が形成した河岸段丘、いわゆる国分寺崖線の優食によってできた、東京都区内でもめずらしい渓谷として知られています。『等々カ』の地名は、渓谷内の『不動の滝』の音が響き渡り『轟いた』ところからついた、との言い伝えがあります。滝の上部には、平安時代に役の行者の場とされた等々力不動尊があり、かってはこの滝にうたれて行をする修行僧が各地から訪れたといいます。渓谷内には、『等々カ渓谷第3号横穴古墳』があります。これは谷沢川の東斜面の崖に群集している横穴のひとつで、古墳時代末期から奈良時代のものと推定されています。この渓谷は、昭和8年(1933年)、国から風致公園として指定されました。世田谷区では、昭和49年(1974年)に渓谷の河川と斜面地の一部を風致公園として開園しました。等々カ渓谷では、四季折々の多くの植物や生物を見ることができ、都会とは思えないような自然に触れることができます。」「皆様からお預かりしました「郵便貯金」と「簡易保険」の資金が、この等々カ溪谷公園の建設、整備に役立てられています。 世田谷区 あなたのまちの郵局」こちらの紅葉はピークに向かって。陽光を浴びて紅葉の葉が輝く。「等々力不動尊」案内板。「瀧轟山明王院等々力不動尊は平安時代の末(1100年頃)に、真言宗中興の祖、興教大師覚鑁上人が開かれた霊場で等々力の「お不動様」として親しまれています。戦国時代には世田谷城主の蒔田吉良氏が戦勝析願を祈り、村人は厄難招福を祈りました。「お不動さま」から渓谷に降りると開創由来の「お瀧」(不動の滝)があり、古来から今日まで瀧に打たれ行をする人が各地から訪れています。この瀧の轟く音が、「等々力」の地名の由来という言い伝えもあります。境内は数多くの桜や紅葉も美しく、等々カ渓谷を代表する自然豊かな樹林地となうています。」「日本庭園・書院」案内板。「等々カ渓谷谷沢川の下流部、等々力不動尊の対岸に、昭和36年(1961年)に建築された書院建物とそれをとりまく日本庭園があります。池、流れ、石畳の階段園路などがある庭は、昭和48年(1973年)に著名な造園家により作庭されたもので、当時のままの姿で保存されています。園内には陽当たりのよい芝生広場があり、併せて、渓谷散歩の休憩にご利用いただけます。また、庭園周辺には、竹林やみかん畑があり、子どもたちによるたけのこ掘り体験やみかん狩り体験が、地域の等々カ渓谷保存会によって行われています。日本庭園・書院は夜間、年末年始は休園です。」広場にはトイレもあった。ここにも「等々力渓谷」案内板があった。「等々カ渓谷は、武蔵野台地の南端を谷沢川が浸食してできた、延長約1 kmの東京2 3区内唯一の渓谷です。東急大井町線の等々カ駅から南に歩いて3分ほどの、谷沢川に架かる「ゴルフ橋」脇の階段を下りると、下流に向かって谷沢川沿いに散策路があります。夏でもひんやりとした渓谷内はケヤキ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラなどの樹木が鬱蒼と茂り、川のせせらぎや野鳥の声が聞こえ、渓谷のいたる所から水が湧き出て、都会とは思えない自然に触れることができます。散策路を下流に進み、玉沢橋(環状8号線)を越えると、古墳時代末期から奈良時代の頃の横穴墓である「等々カ渓谷3号横穴」があります。さらに、渓谷の南端には日本庭園・書院や、桜の名所として知られる等々力不動尊があります。不動尊から渓谷に下りた所に「不動の滝」があり、古来から今日まで滝に打たれて行をする人々が各地から訪れています。「等々力」の地名は、渓谷内の「不動の滝」の音が響き渡り「轟いた」ところからついた、との言い伝えがあります。等々力不動尊の敷地を含む、渓谷一帯の約3.5ヘクタールの区域は、平成11年3月に東京都文化財保護条例によって「名勝」の文化財指定を受けました。」「等々力渓谷」案内地図。「等々力渓谷3号横穴(東京都指定史蹟)」案内板。「渓谷の東側崖面では、古墳時代末期から奈良時代にかけて構築された横穴墓が6基以上発見れています。中でも昭和48年(1973年)に発見された3号横穴は、典型的な横穴基の形態を留めていて、埋葬人骨や副埋葬品も良好であったことから保存処置が講じられました。横穴墓は奥行き約13mで、内部は徳利を半分に割ったような形をしています。玄室(遺体の安置場所)と羨道からなる墓室と、これに至る墓道に分かれており、この間を凝灰岩で組まれた羨門で区画しています。横穴墓からは、須恵器の平瓶、横瓶、刀子、金銅製耳環、などが出土しました。本横穴群の被葬者たちは、いずれも副葬品が豊富なことから、後の武蔵国荏原郡の等々カ周辺を治めていた有力者であると推定されています。」「等々力渓谷公園で見られる野鳥」。ハシプトガラス、キジバト、コゲラ、アオジ、メジロ、ウグイス、スズメ、ジョウビタキ、ヒヨドリ、キセキレイ、ムクドリ。そして「等々力渓谷横穴墓群」に向かって進む。「等々力渓谷横穴墓群」案内板。そして石段の先にあったのが「等々力渓谷3号横穴」。等々力渓谷横穴(墓)群は、等々力渓谷6基以上からなる横穴墓群のひとつで、昭和48年に発掘された。横穴墓は全長が13メートルで、崖に横穴を掘った墓室=玄室(げんしつ)・羨道(せんどう)の部分とそこに至る通路である前庭部(ぜんていぶ)にわかれ、横穴部は羨門で区画されていた。墓室内には3体以上の人骨が埋葬され、静岡県湖西地方産の須恵器(すえき)や土師器(はじき)、耳環(じかん)=イヤリング、ガラス小玉などが副葬されていたと。第1号、第2号も発見されていますが現在、ほぼ完全な形で保存されているのはこの第3号のみ。「都史蹟 等々力渓谷3号横穴」案内板。「都史跡 等々カ溪谷3号横穴等々カ溪谷の周辺では野毛大塚(玉川野毛町公園内)、御岳山、狐塚などの古墳群が造られた後、古墳時代末から奈良時代(7 ~ 8世紀)にかけて横穴群が造られるようになります。等々カ溪谷横穴群は野毛地域の有カな農民の墓で、これまでに3基の横穴が調査され、現在は3号横穴が完全な形で残っています。横穴は谷間の崖地に横に穴を掘って造られていて、玄室と羨道で構成されています。泥岩の切石でふさがれた玄室の床には河原石が敷かれ、3体の人骨とともに1対の耳環(イヤリング)と土器が副葬されていました。その前面には斜面を切り通して造られた墓道が延びています。ここには、土器が備えられたり、火を炊いた跡があり、墓前祭が行なわれたことがわかります 1989年3月」等々カ溪谷3号横穴のイラスト図。石段を上って行った。ガラスの中の墓をカメラで覗く。次に「等々力渓谷1号・2号横穴跡」を訪ねた。第1号、第2号も発見されていますが現在、ほぼ完全な形で保存されているのは上の写真の第3号のみ。こちらが「等々力渓谷1号横穴跡」。「等々力渓谷1号横穴跡」碑。こちらが「等々力渓谷2号横穴跡」。2号横穴から出土した土師器は、当時都であった大和(奈良県)で使われていたもので、この横穴に葬られた人物が、都(みやこ)に遥役(ようえき)で働きに行ったことが推定される貴重な資料であると。「等々力渓谷2号横穴跡」碑。「等々力渓谷1号・2号横穴跡」前の真っ赤なモミジを見る。日光を浴びて輝く。紅葉と黄葉の競演。そして来た遊歩道を戻る。再び谷沢川に架かる橋が前方に。橋を渡りながら谷沢川を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.14
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この日は12月12日(月)、都内・五反田で卒業した会社の同僚、後輩、協力会社の社長との飲み会に参加しました。毎年、この時期に五反田に行くときには、途中下車して世田谷区内にある『等々力渓谷』そして『浄真寺』を訪ねることにしていますが、今年も!!小田急線を利用して「中央林間駅へ」。乗り換えて「田園都市線」で「二子玉川駅」に。そして「東急大井町線」で「等々力駅」で下車。「等々力」の名は、等々力渓谷に流れ落ちる「不動の滝」の轟く音に由来するという説が有名だが、ほかにも渓谷の崩落する音から来たという説、現在の都立園芸高校の地にあった「兎々呂城」(「とどろじょう」の読みが「とどろき」と変化)を由来とする説などがあり、いずれが正しいのかは詳らかではない とのこと。「等々力駅」。等々力駅(とどろきえき)は東急大井町線沿線の駅。東京23区の中で唯一の渓谷である「等々力渓谷」や「等々力渓谷公園」の最寄り駅となっており、自然豊かで落ち着ける環境が魅力で、休日も家族連れなど多くの人々で賑わう駅。「現在のロゴは1973年から使用されており、創立50周年を記念して東急グループの統一マークとして制定されたました。マーク中央の楕円は「グローバルな企業集団を目指す東急グループ」という意味を込め、地球を表現しているそうです。さらに「TOKYUU」の頭文字「T」を図案化したものが内部の白抜きの部分です。交通・開発・流通・健康産業の4事業部門それぞれが拡大・発展するようにという願いが下の曲線に表れているように見えます。」とネットより。「等々力駅」周辺案内図。東京都世田谷区を流れる多摩川水系の一級河川である谷沢川(やざわがわ)にある「等々力渓谷」を訪ねたのであった。環八通りが渓谷を横断していることが解るのであった、「➡等々力渓谷」と。その先には「等々力渓谷への道順」。歩道上にも「ゴルフ橋 等々力渓谷」案内石板が埋め込まれていた。 「東京都 世田谷区 汚水 マンホール蓋」マンホール蓋のデザインは「桜(都の花)、イチョウ(都の木)」そして右手にあった民家の庭には紅葉した欅の木が。「目黒通り」。「成城石井等々力店」の駐車場の隅にあった茅葺き屋根の古民家。世田谷区の有形文化財に指定されている「鈴木家住宅穀倉」。東京都世田谷区等々力2丁目39番。「世田谷区指定有形文化財(建造物)鈴木家住宅穀倉 一棟指定年月日 平成二十一年十一月十六日構造及び形式 木造平屋建 寄棟造 茅葺 扠首組構造規模 桁行 四・五四五m(一五尺) 梁間 四・八四八m(一六尺)建築年代 明治八年(一八七五年) (内壁に「明治八年 亥年」墨書銘)鈴木家は旧等々力村学宿(現在地)に古くから住む旧家で、屋号を「新家(にいや)」といいました。明治時代には農業のかたわら店を営み、炭や薪、木材などを商っていました。商品は青梅や五日市辺りから多摩川を下る筏流しに運ばせ、野毛と玉堤境にある通称「炭河岸(すみがし)」で荷揚げされました。大正時代からは材木店を本業とし、鈴銀材木店として深川の木場と本格的な取引をするようになりました。この木造穀倉は穀物の収納を目的に伝統的な建築構法で建てられました。人口の錠前、内部の壁や天井のていねいな張板に穀倉の特徴が見られます。また、軒下を広くとり風雨をしのぐ工夫がされています。さらに、小屋染を省略し天井裏にも収納ができます。区内にあった木造穀倉は多くが取り壊され、現存する事例が極めて少なくなっています。鈴木家住宅穀倉は江戸時代末期から明治初期の農家の屋敷構えや生活形態、地域の歴史を伝える貴重な建造物です。 世田谷区教育委員会」奥には「木造穀倉」もあった。斜めから。「成城石井等々力店」の店頭にあった黄色の巨大な果物。税込みで1個1070円と。「ショーンさんのオレンジシュガーメロン」と。表面が明るい黄色で網目状の模様がない、一風変わったビジュアルのメロン。サイズは縦 20cmほど。正式な品種名は『オレンジキャンディ』と。調べてみると2018年新品種としてオーストラリアの一般市場に出回るようになり、同時に日本でも輸入解禁。まだまだ知名度は高くない品種ですが、評判は上々である と。皮が明るいイエローなら熟していると。ネットから断面を。特徴は・網目がなく滑らかな皮・鮮やかな黄色をした皮・濃い味・控えめな甘さで少し酸味あり・香りが良く色は薄め・シャキッとした食感 と。そして角に大きな欅のある路地を右に曲がる。正面に『ゴルフ橋』が。大井町線の等々力駅近くの等々力渓谷の入口にあるこの橋は、「ゴルフ橋」と呼ばれている。これは、昭和の初めに旧下野毛、等々力村に広大なゴルフ場があったことに由来している と。「ゴルフ橋」の入口左の小さな広場。「等々力渓谷公園入口」の看板と反対側には階段があった。東京都世田谷区の閑静な住宅街の一角に、ひっそりたたずむ等々力渓谷。豊かな緑と清らかな水に恵まれ、東京であることを忘れそうな、まさに都会のオアシス。「ゴルフ橋」の入口左の小さな広場の「案内板」に近づいて。「等々力渓谷と周辺のご案内」。「等々カ渓谷は、武蔵野台地の南端を谷沢川が浸食してできた、延長約1 kmの東京23区内唯一の渓谷です。東急大井町線の等々カ駅から南に歩いて3分ほどの、谷沢川に架かる「ゴルフ橋」脇の階段を下りると、下流に向かって谷沢川沿いに散策路があります。夏でもひんやりとした渓谷内はケヤキ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラなどの樹木が鬱蒼と茂り、川のせせらぎや野鳥の声が聞こえ、渓谷のいたる所から水が湧き出て、都会とは思えない自然に触れることができます。散策路を下流に進み、玉沢橋(環状8号線)を越えると、古墳時代末期から奈良時代の頃の横穴基である「等々カ渓谷3号横穴」があリます。さらに、渓谷の南端には日本庭園・書院や、桜の名所として知られる等々力不動尊があります。不動尊から渓谷に下りた所「不動の滝」があり、古来から今日まで滝に打たれて行をする人々が各地から訪れています。「等々力」の地名は、渓谷内の「不動の滝」の音が響き渡り「轟いた」ところからついた、との言い伝えがあります」。「等々力渓谷」案内地図。この時の気温はこの場所が9.9℃、渓谷内が8.6℃との表示が。「等々力渓谷」の「名勝」に関する「指定書」。平成十一年三月三日 東京都教育委員会 の文字が。「東京都指定名勝等々力渓谷所在地 世田谷区等々力二丁目外指定 平成十一年三月三日等々力渓谷は、国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する約一キロメートルの都区内唯一の渓谷である。谷沢川が国分寺崖線に切れ込んで浸食したもので、台地と谷との標高差は約一〇メートルある。渓谷の斜面には、武蔵野の代表的な樹木であるケヤキをはじめ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラ、イロハカエデなどとともに、常緑シダ類のような湿性植物が繁茂しており、渓谷内には至るところから湧水の出現が認められる。玉川全円耕地整理組合が、昭和五年から十三年にかけて谷沢川の流路を整備し、小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋にいたる渓谷内は殆ど人の立ち入ることも稀で、雉などの鳥類や、イタチ、キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫であった。都区内とは思えないほどの鬱蒼とした樹林と渓谷美は、幽邃(ゆうすい)な景観を呈し、武蔵野の面影をよく残している。東京を代表する自然地理的名勝として貴重であり、植生学、地質学及び地形学上重要である。また、等々力渓谷には谷間の崖地に横に穴を掘って造られてた野毛地区の有力な農民の墓である横穴があり、これまでの調査で三基の横穴が発見され、現在は三号横穴が完全な形で残っています。等々力渓谷は、東京二十三区内で唯一の渓谷として知られています。ここはかつて、九品仏川とぶつかった谷沢川が河川の争奪現象により水量を増し、その激しい浸食作用によって形成された渓谷で、深い谷地形は現在も概ね自然の状態で残されています。そのため、武蔵野台地の地形や地質を学ぶ上では大変貴重な場所となっており、斜面地に数多く分布する湧水地は、「東京の名湧水五十七選」にも選定されています。渓谷の急峻な斜面には近年の開発から難を逃れた樹林が広がり、東京区部とは思えない幽邃な景観を呈しています。これらの植生は過去に農業の営みの中で利用されていましたが、その利用がなくなった現在では遷移が進んで自然の植生が回復してきています。一方、渓谷と人々のつながりは横穴古墳の築造に始まり、その後神聖な滝によって多<の人の信仰を集め、村の雨乞いのための水取り場となるなど、暮らしの中に深<関わる場所でもありました。これら優れた自然環境と歴史的背景を持つ等々力渓谷は、等々力不動尊とともに人々の知るところとなり、今では東京の名所として数多くの人が訪れる場所になっています。そして、平成十一年三月、風致景観・名所・学術の面で高く評価された等々力渓谷は、東京都指定名勝として文化財の指定を受けました。世田谷区は、「等々力渓谷名勝区域保存管理計画」を策定し、等々力渓谷公園の整備をはじめ、渓谷の環境を将来にわたり守り伝える取り組みを進めています。 平成十一年九月 東京都教育委員会」「等々力渓谷公園」碑の下に「等々力渓谷」への階段が。「等々力渓谷公園」碑。ここが「等々力渓谷」の入口の石段。石段を下る。「等々力渓谷」の「谷沢川」が姿を現した。「谷沢川」は、世田谷区桜丘付近に源を発し、上用賀、等々力など世田谷区南東部を南へ流下し多摩川左岸に合流する流域面積5.30km2、河川延長3.70kmの一級河川。 中下流部には区部で唯一 の自然の渓谷であるここ「等々力渓谷」があり、多くの人々に親しまれているのだ。真っ赤な「ゴルフ橋」が前方に。階段をおりれば、たちまち木に囲まれた小さいくて幅も狭い谷沢川が。階段の上と下とでは別の世界。都心とは思えない空気感が。更に進んで「ゴルフ橋」下を進む。。「ゴルフ橋東急大井町線の等々カ駅近く、等々カ渓谷入口にある橋は、「ゴルフ橋」と呼ばれています。これは、昭和の初め頃、旧下野毛に東急電鉄が開発した約8ヘクタールの広大なゴルフ場があったことに由来しています。現在の橋は昭和36年( 1961年)に架けられたアーチ鋼橋で、それ以前は木橋でした。」「等々力渓谷案内図」。「等々力渓谷の地層(右の地層模式図を参照)渓谷の入り口にあたる、このゴルフ橋下から、谷測りに沿った遊歩道をいくと、高さ約10mの切れ込んだ渓谷地形や武蔵野台地を形づくっている地層の様子を観察することができます。等々カ渓谷は、この地層を観察する場所としても良く知られています。等々カ渓谷の崖に見られる表層地質は、基盤に泥岩(でいがん)層があり、上総層群(かずさそうぐん)の「高津互層(たかつごそう)」と呼ばれる硬い地層です。(三浦層群)とも呼ばれます。)この上に「渋谷粘土層」、「武蔵野粘土層」、「東京軽石層」、「関東ローム層」、「表土」の順で地層が重なっています。高津互層は、都内では地下深くに伏在しているめ、実際に見ることが難しい地層ですが、等々カ渓谷のゴルフ橋がら約90mの区間で、遊歩道の対岸(右岸)にこの地層を見ることができます。現在地の対岸、シラカシ大木の根本近くに、高津互層の上に武蔵野れき層が堆積し、湧永がにじみ出だしている様子が観察でます。」「等々力渓谷」に沿って遊歩道を進む。「地形・地質」案内板。「等々カ渓谷は、武蔵野台地の南端に位置しており、この台地面を浸食して形成された開析谷です。渓谷沿いには、武蔵野台地を特徴づける地層断面がよく観察できる箇所があります。地質の分布状況は、下から、台地の基盤である上総層群の高津互層(泥岩層)、その上に堆積する渋谷粘土層、武蔵野礫層、武蔵野粘土層、東京軽石層、ローム層(武蔵野口一ム層、立川口一ム層)の順にほぼ水平に堆積しています。また、渋谷粘土層と武蔵野礫層の間からは、湧水が多く見られます。」再び「等々力渓谷と周辺のご案内」。都会の中に居るとは思えない景色が続く。近場の人達が羨ましい限り。途中、白き流れも。更に進む。川にはカルガモの姿が。別の場所にも。くちばしの先が黄色いのが特徴。前方に遊歩道の石橋が現れた。この石橋を渡り、左岸から右岸の遊歩道になる。「植生等々力渓谷の植生は、武蔵野台地の崖線の潜在自然植生とおの工なの当在自然植生と考えられるシラカシ群集ケヤキ亜群集であリ、大径木を主体とした樹林地が渓谷の斜面に沿って連続しています。崖線の斜面部分には、主としてシラカシやケヤキ、ムクノキが、斜面地上部や台地面にはイヌシデやコナラが多く分布しています。また、湧水が流下する緩斜面には、セキショウ草地が見られ、湧水が溜まる場所には湿生植物が点在しています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.13
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『山形大の研究グループは8日、世界遺産「ナスカの地上絵」で知られる南米ペルーのナスカ台地とその周辺で、新たに168点の地上絵を発見したと。研究グループが発見した地上絵は、今回の発表分を含め、計358点に上る。』とのニュース報道一昨日・12月10日(土)のテレビで見ました。以下の写真はテレビ画面をカメラで撮影したものです。同大ナスカ研究所副所長の坂井正人教授らの研究グループが2019~20年にドローンを活用して現地調査を行い、168点の地上絵を確認した。16~18年の調査でも142点の地上絵を発見しており、分布の傾向がある程度明らかになっていたことから、ドローンを用いて計画的に調査した。今回見つかった地上絵は、人間や鳥、ヘビなどの動物が描かれており、絵柄の特徴から紀元前100年~紀元300年頃に作られたと考えられる。最も大きいもので全長50メートル以上あったが、ほとんどが10メートル以下の小型のものだという。下の写真は分かりやすくするため線を加えたもの(山形大学提供)とのこと。新発見のナスカの地上絵は『かわいい人型』。『人形』。『人形』。『人と首』と。『鳥』。20m以上の大きさと。『ネコ』。10mほどの大きさと。『ヘビ』。これも10mほどの大きさ。『ナスカの地上絵』の配置図。以下の写真は、私が2009年にペルーの『ナスカの地上絵』👈リンク を訪ね、『遊覧飛行』にて撮影したものです。『ハチドリ』。『コンドル』。『犬』。『猿』。ナスカの地上絵が描かれた年代は今からおよそ2000年前、パルパの地上絵は更に古く今から3000年ほど前に描かれたものと言われている。地上絵にはサル、リャマ、シャチ、魚、爬虫類、海鳥類が描かれ、ナスカ式土器の文様との類似点が指摘されてきた。ナスカの地上絵は何のために描かれたのか?下記の如き説があると『ネット』👈リンク には。 1.「カレンダー説」 2.「雨乞い儀式説」 3.「巡礼に関する役割説」 4.「水のありかを示していに説」 5.「権力者の埋葬説」 6.「UFOの発着場説」 1.「カレンダー説」 ナスカの地上絵を構成する直線には、意図的に太陽と星の動きを表しているものが あり、農業用のカレンダーとして描かれたという説。 この説だと、他の地上絵の線はいらないですし、何のためにあれほどまでに 大きな絵を描いたのかも謎 と。2.「雨乞い儀式説」 ナスカは地球上で有数の乾燥地帯なので、雨乞いのために描かれたという説。 地上絵の中にクモを描いたものがあり、クモは雨を象徴するものだったと言われている。 また、古代ナスカ人が雨乞いの儀式に使っていた貝殻(エクアドル産)が地上絵周辺で 多数発見されている。 ナスカの地上絵には「水源を確保する」といった実用的な機能はないので、古代の人たちが 宗教的な意味合いで地上絵を描いた可能性はあると。 ただし、この説だと雨とは関係のない植物や動物などの地上絵をなぜ描いたのか? という 謎は残る と。3.「巡礼に関する役割説」 古代の人々はナスカの地上絵を歩いて渡り、聖なる場所に向かったという説。 もしかしたら、巡礼地に向かうための目印としてや途中で儀式を行うポイントと して地上絵が機能していたのかもしれない と。4.「水のありかを示している説」 ほとんど雨が降らないナスカでは、地下水に頼って生活する必要がありました。 そのため、水脈や水源を示す目印としてナスカの地上絵を描いたという説もあります。5.「権力者の埋葬説」 ナスカ文化では権力者が埋葬された際、地上絵をひとつ描いたという説。 ナスカ文化では死者は太陽に帰るとされていて、太陽に向けて地上絵を描いた のだとか。6.「UFOの発着場説」 ナスカの地上絵は宇宙人によって描かれ、UFOの発着場になっていたのでは? という説。 ナスカの地上絵のひとつに宇宙飛行士(もしくは宇宙人)を描いたような絵もあります。 確かにこの説なら、たやすく200メートルを超える地上絵を描くことができたでしょう。 地球を訪れることができるほどの科学技術を持った宇宙人 と。現時点では、有力な説はあれど、決定的にこの説が正しいと証明されたものはない。おそらく、ナスカの地上絵はひとつの目的でつくられたのではなく、複数の目的でつくられたのだと。また、時代の移り変わりや気候変動によって、ナスカの地上絵を描く目的が変わった可能性もあるのでは と。
2022.12.12
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今日の我が家の裏からの夕陽です。時間は16:19。「秋の日はつるべ落とし」 は、他の季節に比べて秋は急速に日が暮れるということを表すことわざ。つるべ(釣瓶)とは、井戸で水を汲み上げるために使われる道具のことで、桶を縄の先にとりつけたものを滑車に掛けて使用する。このつるべが、井戸の中に素早く落ちる様子を秋の日暮れに例えて「秋の日はつるべ落とし」と言われていたのであった。秋になると、日没の時刻が早まるだけでなく、その後の薄明の時間も短くなり、日が沈んで間もなく真っ暗になりるのです。東京の今月の日の出、日の入り時間の推移です。今日12月11日(日)の日の出は6:40、日没は16:28。先本日以降も日の出の時間はさらに遅くなって行きますが、日の入り時刻は既に先週の中からは遅くなっています。冬至前後の日の入り時刻と日の出時刻の関係を表した模式図。日の入りが最も早いのは冬至よりも前の時期で、ちょうど今頃が一年の中で最も日の入りが早い時期となります。一方、日の出が最も遅くなるのは冬至よりも後の時期で、ちょうど正月の頃にあたります。その中間頃に当たる冬至が、昼間の長さが(日の出から日の入りまで)が最も短い日なのです。これは、地球が太陽のまわりを回る面(公転面)に対して自転の軸が傾いていることや、太陽のまわりを回る軌道(公転軌道)が真円形でないことなどが理由です。なお、一年の中で日の入りが最も早い日や、一年の中で日の出が最も遅い日は、国内でも南北で差があります。東京の1番早い日の入りの日は12月7日(水)でした。2022年の冬至は、12月22日(木)で昼の時間が最短です。日の出が最も遅い日は来年1月7日(土)です。いつものことですが、電柱&電線が・・・・。時間は16:22。
2022.12.11
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砂浜を「相模川河口」に向かって歩く。「湘南ベルマーレひらつかビーチパーク」案内板。広いそして長いウッドデッキが前方に拡がっていた。「湘南ひらつかビーチパーク 津波避難展望台」を再び。2020年9月に完成した津波避難展望台は、ビーチセンター西側に立地。鉄骨造2階建て。避難部分は標高12・12mで、「元禄関東地震と国府津-松田断層帯の連動地震」がもたらすとされている最大津波高9・6mを想定して設計。建築面積は約66平方メートル、津波発生時には約360人を収容できる。総事業費は約1億6000万円 とネットから。「湘南ベルマーレひらつかビーチパークby shonanzoen」にはビーチバレー用のコートが10面ほど設置されていた。しかし練習している人の姿は少なく。「ビーチバレーボールコート利用時のお願い」が。無料で利用できるようであった。前方に「ひらつかタマ三郎漁港」の防波堤が見えてきた。ズームして。海岸には白波が。休憩所が前方に。「浜辺のさんぽ道 ビューポイント」案内板。紫外線劣化して色褪せてしまっていたが。再び箱根の山々を振り返る。残念ながら右の方に見えるはずの富士山の姿は雲に隠れていた。防波堤上の釣り人の姿は少なくなっていた。再び相模湾・光る海を。車を駐めている「ひらつかタマ三郎漁港」の駐車場が近づいて来た。「須賀さんぽ!」案内板。寺社の案内。地図が詳細に。そして駐車場の車に戻り、訪ね漏らしていた事に気がついた「西町稲荷神社」に車で向かう。平塚市高浜台21−21。社号標石「正一位 稲荷山神社」。西町稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、大同年間(806-810)に弘法大師が相模国を巡錫、当地に滞在際に勧請したと伝えられ、文治元年(1185)頃には、僧鎮海が海詠山長楽寺を創建した際に稲荷大明神を再建し「稲荷山」と称したと。石造りの「一の鳥居」には「西町稲荷神社」と。「正一位 稲荷山神社御由緒社殿によると、今よりおよそ千二百年前、「僧空海(弘法大師)」が伊豆の国より布教のため須賀湊に上陸され、此の地に留まりし時に勧請せし」と言われ、よって当社の創建はこの時代と思われる。御祭神は、京都伏見稲荷大社と同じ「宇賀御魂命」で五穀を司る神である。その後真言宗僧鎮海師、大師の足跡を慕ってこの地に草庵を結び「邑中鎮護のため稲荷大明神再建ありし由、稲荷山と申し候」と言う記録があり、平塚市最古の稲荷社でもある。昭和二十年七月の戦災以前は、現在の所が小山の頂きにて、お稲荷様の社殿が建ち、形の良い磯馴松が点在する中に真赤な鳥居が五、六十基立ち並び参道を形作り、周囲の麦畑と調和して一幅の絵の様な美観であった。古老の話によれば、海上の漁船より稲荷山の松の木が展望され、陸地の目印とされていたと言う。古きより稲荷山のお稲荷さんと親しまれ、家内安全、海上安全、商売繁昌を祈願する善男善女の参拝者が後を絶たず、毎年四月二十九日に例大祭が行なわれる。」「二の鳥居」。その先に朱の鳥居が「社殿」に向かって15基以上並ぶ。「勲六等單光旭日章 記念植樹 敬神功労賞 記念植樹 金子長太」と後ろの建物が「神楽殿」。勾玉の石碑。「正一位西町稲荷神社」と。「神楽殿」を斜めから。「正一位 稲荷山神社」の「社殿」。扁額「稲荷山神社」。「社殿」を斜めから。社務所であろうか。反対側にあった「神楽殿」。扁額「神楽殿」。左に「昭和三十五年二月十一日 建之 二百二十一坪寄附者 米善本店 杉山茂殿」右に「御造営記念詩昭和五十六年四月吉日 御社殿一宇造営昭和五十七年十一月吉日 大鳥居建設昭和六十二年十二月吉日 社務所建設昭和六十三年十月吉日 神楽殿造営昭和六十三年十月吉日 おきつね像一対造営」と。ここにもどこからか移設されたような庚申塔他の石碑が。さらに、次に訪ねたのが「北向観世音菩薩」。平塚市札場町35−5。「百番 北向観世音菩薩」と。「百番観世音」碑。昭和二十一年四月建之とあり、4人の建立者名が刻まれていた。内陣には多くの千羽鶴が。百番観音というのは、須賀ではこれだけだが、平塚市内には何ヵ所かに石塔を見ることができると。百番というのは霊場めぐりの百ヵ所ということで、通常は西国三十三ヵ所、坂東三十三ヵ所と秩父三十四ヵ所を合わせていう。3つの霊場巡りを含わせるとちょうど百になる。百番観音を建立することは、百ヵ所の霊場を廻ったのと同じ御利益があるとのこと。そしてこの日の最後の予定の「真福寺」にも向かう。途中、馬入本町五丁目の五丁目の旧家の横・「馬入の一里塚」の裏側の道沿いにも小さな神社があった。社殿。これも稲荷神社であろうか。そして、「真福寺」に到着。大きな「真福寺」の「山門」。両脇には白い3本の水平線が引かれた「築地塀」・「筋塀」が。平塚市馬入本町14−10。寺号標石「真宗 歸命山 真福寺」。歸命山無量院と号す。真福寺は、釈善秀(永禄2年1559年寂)が開山となり大永5年(1525)に創建。「馬入小学校創設之地」碑。「真福寺」は大永5年(1525) に開かれた 浄土真宗 東本願寺の寺。江戸時代に真福寺に寺小屋が開かれていたが、明治15年(1882) に本堂のうしろに馬入小学校が建てられた。後に松原小学校となり、現在はここから600mほど北に移転している。なお、相模川はかつて「馬入川」と呼ばれていた。東海道が相模川を渡る地点は 「馬入の渡し」と呼ばれており、現在でも 国道1号線に「馬入橋」という名前が残っている。平塚市内には「馬入」、「馬入本町」の地名も残っているのだ。石碑の裏側には、「昭和五十七年十月 松原小学校創設百周年 記念事業実行委員会第十八世 釈 秀雄」と。「平塚市指定重要文化財 絹本着色 親鸞聖人像 絹本着色 聖徳太子像 絹本着色 浄土七高僧像 絹本着色 蓮如上人像 四幅 平成七年一〇月二五日指定真福寺は、大永五年 (一五二五) に諸国行脚の僧釈善秀(しゃくぜんしゅう)が開いたと伝える市内唯一の浄土真宗の寺院です。同寺に伝来するこれらの画像は、その作風から善秀の在世期に遡る室町時代後期の作と推定されます。浄土真宗では、室町時代中期以降、本山の本願寺が中央集権的な勢力を強め、本堂に祀るものとして、浄土真宗の開祖である親鸞像や聖徳太子像・浄土七高僧像のほか、蓮如をはじめとする歴代門主像などの尊像を、本末の証として下付する方式を確立しました。このため浄土真宗の地方寺院には、中世までに下付されたこの種の尊像が残されている例が多く、真福寺が所蔵する四幅もその例といえるでしょう。 神奈川県内では真宗系のこの種の画像は数少なく、戦国期における真宗教団の実態を物語る資料的価値をも有しています。 平成九年三月 平塚市教育委員会」「山門」を正面から。「山門」には「真宗大谷派 真福寺」と。「東京教区 報恩講」開催案内。「本堂」。歸命院無量山真福寺と号す。本尊は阿弥陀如来像。関東大震災で本堂が全壊、昭和3年に再建、現本堂は平成12年に落成した。本堂内陣のご絵像は、平成7年に市の文化財に指定されている。見事な龍の彫刻。「木鼻」。本堂内陣。ズームして。「本堂」の「海老虹梁(えびこうりょう)」を横から。「木鼻」、「海老虹梁(えびこうりょう)」をズームして。先代の「本堂」の「主棟鬼飾り」が「本堂」の右手手前に。「帰命山」と。「寺務所・庫裡」。「五重石塔」。境内から「山門」を見る。駐車場の奥にあった「法楽殿」。客殿であろう。扁額「法楽殿」。「ネリネ」であろうか。南アフリカ原産 ヒガンバナ科。日光に当たるとキラキラと反射し、輝くような花弁から、別名「ダイヤモンド・リリー」の名前も有る と。そしてこの日の散策予定の、「東海道線」より南にあったを相模川沿いの寺社、遺蹟等の散策を終了し、国道1号に戻るが、「馬入橋」手前で大渋滞!!よって急遽、国道129号を戻り、海岸線の国道134号で帰路に。こちらは空いていたので、国道1号は直前の事故渋滞であったのだろうか。「トラスコ湘南大橋」に向かう。「トラスコ湘南大橋」を渡る。そして「柳島」交差点を左折。「新湘南バイパス」へ。「茅ヶ崎海岸料金所」を通過。そして「湘南ベルブリッジ」を通過。この先を左に行けば「圏央道」へ。私は直進して横浜方面へ。そして「茅ヶ崎料金所」を通過。前方に我市の「石名坂環境事業所」の煙突が姿を現した。「清掃事務所入口」交差点を左折し、進み帰宅したのであった。因みに、この日の歩数は22,314歩、久しぶりの2万歩超えであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.12.08
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この日は12月1日(木)、今年も我が地元の【六会イルミネーション2022】が開催されました。点灯式が17~18時に行われるとのことで、17時前に駅前のロータリーに到着。主催者の「六会地区郷土づくり推進会議」の皆様が、ろうそくに灯かりをともす『あかりびと』になり、約600本のキャンドルに点灯中であった。私も、チャッカマンをお借りし、点灯・『あかりびと』を手伝わせていただきました。コップの中の本物のロウソクに点灯するのですが、ロウソクの芯が立っておらず横に倒れているものもあり、一発での点灯はなかなか難しく、時間をかけると表面のロウソクが溶け出し芯を沈めてしまうようで私も苦戦。次回は芯を立ててコップ内に。しかし、皆様の懸命な『あかりびと』作業により何とか点灯式開始の17時には見事準備完了。この日の【六会イルミネーション2022】の案内書。バンブーキャンドル(竹灯籠)や絵をコップに巻きつけたキャンドホルダーにもロウソクが灯り準備完了。六会中学校の美術部の生徒の作品と。こちらは、亀井野保育園園児の作品であっただろうか。スイマセン、ややピンボケで。バンブーキャンドル(竹灯籠)に近づいて。二重のハート型の赤いキャンドルも時間とともに明るさを増して。近づいて。『キャンドルナイト 12月1日~3日、12月21日~23日』と。白と赤のキャンドルのコラボも美しかった。赤いキャンドルの炎が風に揺れて。そしてロータリー内の『六会イルミネーション』もカウントダウンにて見事に点灯。青と白のツリー型のイルミネーション。頂には星が輝く。藤沢市長もご来場下さり、ご挨拶を頂きました。そしてアンサンブルシャロームの皆さんのハンドベル演奏が。コロナの影響で2年間中止となっていたコンサート。赤のハートキャンドルも音楽に合わせて炎が踊っているが如し。廻り込んで。皆様マスク姿で演奏を。ズームして。これぞ『和の灯り』。デザインそして竹の伐採、ドリルによる穴あけ作業等のご苦労が偲ばれるのであった。そして感謝も!!近づいて。更に。大小の穴が、灯りの強弱を造り出し幻想的に。こちらはキャンドルホルダー作品。1個1個をズームして。我が部屋にも欲しい作品が並ぶ。これも。『ひまわり団』のピアノ・リコーダー演奏を横から。そしてデュオ・『おととき?』のフルート演奏。左のOさんの多芸に感動。これぞお血筋か。そして六会ウクレレバンドの演奏も。若い!!ウクレレバンドメンバー。そして藤沢工科高校制作によるロボット演奏のハンドベル演奏も順調に。ズームして。まだまだ、演奏や踊りが続くのであったが、この辺で引き上げることに。最後に、赤い二重ハートの灯り、そしてそこから拡がる赤と白の灯りのウェーブを観る。4時間程度は灯りを灯すことが可能なローソクなのであろうか。音楽が奏でられる中でのイルミネーション、手作りの灯り、この空間には地区の子供たちそしてご家族の笑顔の華が咲き、温もりと炎のゆらめきが拡がっていたのであった。この『六会イルミネーション2022』👈リンク の開催がここ六会に暮す人々に、故郷の「誇り」を抱いていただくこと。ここ六会に暮す人々の「希望の灯り」となること。この六会の地に暮す責任とこの地六会の豊かさに貢献する、「暮らし人」と なること。の一助になることを願い、そして主催者の『六会地区郷土作り推進会議』の皆様、関係者の『熱きハート』に感謝し、帰路についたのであった。 END
2022.12.07
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「須賀公園」の南側の出入口近くにあったのが「河井酔茗(かわい すいめい)文学碑」。平塚市夕陽ケ丘21。「平塚は新しい町だ。間違った伝統を重んじたり旧いものに因われたりしていない河井酔茗 「平塚たより」の一節」。「河井酔茗文学碑河井酔茗は、本名を又平とし、明治七年(一八七四)堺に生れる。幼時に両親・弟を失い、一六歳まで祖母に育てられ、一七歳の時、山田美妙に詩を認められ、以後一貫して近代詩の発展に尽くした。同三三年上京し、のち詩草社を起して自由詩運動のロ火を切る。大正二年(一九二二)家族の罹病を憂い、平塚に移る。平塚町の文学青年が発行する『湘南文芸』に毎号寄稿し、発展に寄与した。震災後、上京し、昭和三七年に芸術院会員となり、同四〇年病没。享年九二歳。昭和五三年に酔茗が居住した近くのこの地に「平塚たより」の一節を刻んだ文学碑が建立された。 平塚市観光協会」その先、左側にあったのが「平塚市立太洋中学校」。平塚市高浜台7−1。部活動の活躍実績が横断幕で報告されていた。「湘南 ひらつか たなばた 合流下水 マンホール蓋 高浜台」。こちらが「平塚市立太洋中学校」の正門。平塚市高浜台7−1。こちらにも、卒業生、現役生の活躍が。左手にあったのが「高浜公園」。平塚市高浜台1。「クロマツニ葉のマツの仲間で、名は幹が黒っぽいことから。オマツは雄マツでメマツ(アカマツ)とくらべて荒々しい感じがする意味。海岸地帯にはえます。(マツ科)」「クロマツ」を見上げる。高浜台地区周辺の「広域避難場所案内板」。現在位置。「高浜公園前」交差点の角にあったのが「有島武郎由縁(ゆえん)の地」碑。平塚市高浜台1−1。「有島武郎由縁の地」碑。「有島武郎夫妻由縁の家有島武郎の著作集を見ると、夫人安子が大正四年(一九一五)か五年にかけて杏雲堂平塚病院の別棟病室に在ったことが載っている。その間武郎は病妻のために、愛情を傾けつつ詩作品を書きつづけた。「平凡人の手紙」「死とその前後」をはじめ感想、日記、書翰などかなりの量である。また、病床の夫人には「松蟲」に著がある。「召し給ふ星のまたたく遠方へ いざわれ行かん君と別れて」は夫人が武郎に贈った絶詠である。 平塚市観光協会」「松蟲」とは現在の「鈴虫」とのこと。「高浜公園」内にあったオブジェ。1993年に開催された「湘南ひらつか野外彫刻展」に出品された作品とのこと。「ナミトカゼノオトコ 島田憲一」と。高浜公園内には「高山樗牛碑」も立っていた。「HOPE高山樗牛碑、八十三翁 河合亀太郎謹書。明治三十五年十月廿五日 樗牛 高山林次郎博士は平塚海岸 杏雲堂に入院した。病室には姉崎嘲風氏がロンドンから送ってきた、G. F. wattsの作画"希望"の写真が飾られていた。額縁は薬局長河合亀太郎氏が特に贈ったものである。それには樗牛の自筆でHOPEの文字がしたためられていた。この年十二月二十四日樗牛は三十二才で ここに終った。昭和三十四年春 平塚市長 戸川貞雄 識」「高山樗牛(たかやまちょぎゅう)は林次郎といい 山形縣鶴岡の人でした。ゆたかな学識とすぐれた思想と 美しい文章とをもって 明治文壇に不滅の足跡を印し 随筆わが袖の記 小説瀧口入道は いまなお 多くの人たちに愛讀されています。樗牛は 明治丗三年 文部省から美學の研究のため ヨーロッパに遊學を命ぜられましたが病にかかり たびたび平塚海岸の杏雲堂に 診察をもとめ 渡欧の日を夢みつつ 療養に専念しました。院長佐々木政吉副院長佐々木森男両氏は 樗牛のために 懇篤な治療の方法を講じ彼もまた 再起を期しつつあったのです 明治三十五年もおしつまった十二月廿四日 平塚の浜にうちよせる 波の音に耳かたむけながら 砂浜の病棟で 不帰の人となりました。」」「扇松海岸通り」を海岸に向かってさらに進む。右手にあったのが「高山樗牛遺蹟」碑。平塚市袖ケ浜17−17。「高山樗牛遺蹟」碑。築180年の古民家を改装した店。高山樗牛が一時平塚の旅館に間借りして住んでいたこともあるようで、その旅館がここと。店の名は??「扇松海岸通り」から見る。その先にあったのが「扇の松」。平塚市袖ケ浜12−29。「扇松海岸通り」を歩いていると、突然と現れる大きな大きな黒松。商店街を突き破るように、豪快にただ1本生えているその姿はなかなかの迫力が。通りの端から端までを覆うような立派な枝ぶりで、この通りを通る人は自然とこの松をくぐって進むこととなり、思わず仰いでしまうほど。「平塚市保全樹木●くろまつ●指定第十四号●昭十一年七月一日 平塚市扇松の由来明治の著名人後藤象次郎平塚海岸に住み舍をニ扇庵と称し戯れて歌を作して言くわが庵は扇の松にほどちかく富士の高嶺を軒端にぞ見るこのこと剪燈雑誌といへるに載れりと云。明治ニ十年頃のことなり。扇松のことその頃すでに言い伝えしものの如し平塚名物松ぼっくり本舗小清水 嘉」更に海岸に向かって進むと左にあったのが「袖ヶ浜児童広場」。平塚市袖ケ浜8−8。そして前方に「国道134号」が見えて来た。交通量は比較的少なく。防砂林の管理ナンバー「平塚市袖ケ浜 N-59」。そして国道134号を渡り砂浜・「袖ヶ浜」に出る。沖には「平塚沖総合実験タワー(平塚タワー)」が見えた。ズームして。「平塚総合海洋実験場の設備」。●平塚沖総合実験タワー及び観測設備 ・海象観測:波浪、水位、水温、流れ、音響 ・気象観測:風、気圧、気温,湿度,雨量 ・ライブカメラ●通信設備 ・海底ケーブル(電力,通信) ・無線LAN●陸上設備(神奈川県平塚市虹ヶ浜9-1) ・観測データの管理及び解析装置 ・研究室、会議室●通船(ひらつかタマ三郎漁港)「虹ケ浜海岸」越しに「大磯港」方面を見る。反対側には三浦半島の姿が。大磯方面に少し歩くと休憩所の近くにあった石碑には「平塚八景 平塚砂丘の夕映え」と。近づいて。「平塚八景 平塚砂丘の夕映え相模湾の中央に位置する平塚市の海岸は、東の相模川から西の花水川まで、4キロメートルほどである。相模湾の沿岸に発達した湘南砂丘は、相模川以西から平塚砂丘となっている。海岸線を東西に走る平塚砂丘に立つと、三浦半島、伊豆半島そして大島が眺められる。ことに雄大な箱根連山に沈む夕日に映しだされた海岸の美しさは、昔から絶景とされている。」この周辺は、平塚砂丘の夕映えのスポットになっているのだ。この場所からの夕焼けと富士山の姿をネットの写真から。 【https://www.hiratsuka-kankou.com/spot/sakyu.html】ここまでとし、引き返しながら三浦半島方向をズームして。この時は比較的、波は荒く。砂山は雨の流れで崩れて。「湘南ベルマーレひらつかビーチパーク海水浴場」の沖の防波堤には波が打ち付けて。「湘南ベルマーレひらつかビーチパーク海水浴場」には人の姿は少なかった。伊豆半島の山々の姿も見えた。雲間から射す陽光に相模湾の水面が輝く。前方に見えて来たのが「湘南ひらつかビーチパーク 津波避難展望台」。この施設は、地震時に発生する津波から一時避難するための鉄骨造2階建て建物であり、避難階の高さは海抜12.12m、収容人数は約360人を想定していると。平塚市高浜台33。2千年から3千年若しくはそれ以上と発生頻度は極めて低い「元禄関東地震と国府津-松田断層帯の連動地震」がもたらせると想定されている最大津波(標高9.6m)を対象に設計を行っているとのこと。再び相模湾・「光る海」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.07
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県道607号線をJR東海道線方向に進むと、左手にあったのが日蓮宗の寺院「善性寺( ぜんしょうじ)」。三門前に題目碑「南無妙法蓮華経」。掲示板。「今月の聖語石中の火木中の花石の中には火はありませんが、打てば火が出ます。木の中には、花の色も葉の緑もありませんが、時が来れば芽や蕾みが出て花が咲き、やがて実も成ります。同じように、目には見えないけれど、大切なものが誰にもあります。それは、仏さまのような美しい心です。それをすぐに信じるのは難しいことですが、自分自身の中にこの心を開こうとしたとき、歩むべき道が照らし出されるのです。」と。「=秘めたる可能性=この世の中には、自身の目では見えないものがたくさんあります。詩人金子みすゞは『星とたんぽぽ』という詩の中で、昼間の星やたんぽぽの根っ子は「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」と語りかけます。私たちは目に見えない大事なものの存在を見落としがちです。私たちの内面には計り知れない可能性が秘められています。だけれども、なかなかそれに気づけないことのほうが多いのです。昔は石を打って火を起こしましたが、普段石の中に火があることを見いだせますか? 枯木にどうして満開の花を想像できますか? けれども、きっかけや時が来れば今は見えないものが現れ出るのです。だから私たちは信じましょう、今は気づいていない未来や大きな可能性があることを。日蓮聖人ご遺文『観心本尊抄』引用の部分は、日蓮聖人が私たちの心の中に、仏さまの心が宿っていることを解き明かしてゆく部分です。本抄は日蓮聖人の大切な教えの軸となる最重要書の1つです。文永10年(1273)聖寿52歳」正面に「本堂」。手水場の水盤。「南無鬼子母神像」と「浄行菩薩像」。水をお掛けし、自分の健康を祈りました。「本堂」に近づいて。日蓮宗寺院の善性寺( ぜんしょうじ)は、梵行山(ぼんぎょうさん)と号す。善性寺は、寛文元年(1661)に創建、日栄(享保8年1723年寂)が開山したといいます。国の政策により、昭和17年(1942年)に三浦郡横須賀から当地へ移転している。平塚では明治時代より中山祈祷所、鬼子母神堂と称し親しまれていた。この善性寺は移転して間もない昭和二十年に戦災で全焼し、その後昭和五六年に至り本堂客殿などを復興し 現在の姿になった。住職竹内成行は、仏教という永遠の生命を感得する方法として、永遠の芸術品とのふれ合いを試み、いわゆる「朱に交われば赤くなる」との方法を以て、仏教と芸術を会得し、悟りへの一歩を進めたのである。それ以後善性寺は別名「湯呑寺」と称する様になった。よって、湯呑みの芸術品を愉しめる全国唯一の寺であると。湘南ひらつか七福神の福禄寿。この時期、秋の七草の、オバナ(ススキ)が咲く。【正式名】梵行山善性寺(ぼんぎょうざんぜんしょうじ)【宗派】日蓮宗【本尊】三宝祖師像【その他】湘南平塚七福神・福禄寿【所在地】神奈川県平塚市夕陽ヶ丘45-6扁額「梵行山」。扉にはステンドグラスが。「釈迦如来像」。「福禄寿像」。「本堂」前右には「我此土安穏 天人常充満」と。釈迦牟尼仏の真理と正しい教えを白蓮華に譬えた(たとえた)お経・『妙法蓮華経如来寿量品第十六(みょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんだいじゅうろく)』よりの言葉であると。【我が此の土(この世)は安穏であり、常に天人や人々で満ちあふれている】と。「園林諸堂閣 種種寶荘厳」【美しい園林、楼閣、宮殿があり、宝石づくりの山と華と実をつけた樹木とで飾られている。】内陣。「福禄寿」は福徳・財宝・長寿の三徳に御利益をもたらす神。ズームして。善性寺のここ「本堂」の福禄寿は、本山から賜った象牙で掘られているのだと。手前の唐三彩等、近くでゆっくり見たいのであった。玄関入口に立派な陶器が置かれた建物があった。陶器で出来た象の置物、花台があった。象の置物は幸運を呼ぶ縁起物らしく玄関に置くと良いのだと以前聞いたことがある。近づいて。「湯呑寺」と。湯呑みの芸術品を愉しめる全国唯一の寺であると。「釈迦如来像」。お顔をズームして。「善性寺」を後にして、来た道・県道607号線を引き返し次の信号・「須賀公民館前」を右折する。夕陽ケ丘56の住宅街を南西に進む。ここ夕陽ケ丘には私の卒業した会社の設計部門があり、入社後の最初の1年間はここに通っていたことを懐かしく思い出したのであった。事務所の窓を開けると、平塚競輪場の「打鐘」(ジャン)の音が聞こえて来たのであった。現在はその場所にはマンションが建っていた。「港こども園」のT字路を左折する。右手・「平塚市立港こども園」のグラウンド前にあった案内板。「みなと児童館跡地平塚市立みなと児童館は、昭和四十ニ年六月十日、青少年や青少年育成者の交流の場や活動拠点として、この地に開館しました。建物は木造モルタル平屋建てで、面積はニ百五平方メートル余りでした。みなと児童館は、港地区郷土いろはカルタにも「郷土愛 はぐくみましょう 児童館」と歌われ、市内唯一の児童館としてニ十七年間、親しまれてきました。しかし、平成六年六月、高浜台に「みなと子どもの家(かもめハウス)」が開館するのに伴い、同年三月三十一日に「発展的閉館」をしました。平成十六年(ニ〇〇四年)三月 平塚市」そして「平塚市立港こども園」の角を海岸の方向に左折して進むと、「平塚市立港小学校」の通用門(船門)があった。その奥には「平塚灯台(須賀の灯台)」の上部が保存展示されていた。廻り込んで。「平塚灯台(須賀の灯台)昭和八年(一九九三年)、東京と大阪間を飛ぶ飛行機の安全を確保する航空灯台として造られました。昭和四十三年に廃止が決まりましたが、市民の要望で海上灯台として働き続けました。その後、科学技術の進歩によりその役割を終え、平成十二年(二〇〇〇年)の秋にとりこわされました。郷土いろはカルタに詠まれ、港小学校の校歌にも登場する灯台、市民に親しまれ思い出がたくさん詰まった灯台を地域に残したいという港地区住民の強い要望で、その頭部を港小学校に移して保存することになりました。みなさんの成長を見守っている須賀のシンボルを大切にしてください。 平成十八年(二〇〇六年)三月 平塚市」「平塚灯台昭和8年に東京と大阪を飛ぶ飛行機の安全を確保する航空灯台として建設された。その後、昭和43年に一旦廃止が決まったが市民の要望で海上灯台として市民に払い下げられた。平成12年秋に解体撤去が決定された。須賀の郷土いろはカルタに詠まれ、港小学校の校歌にも登場する灯台、地域の幅広い年代に親しまれ、思い出がたくさん詰まった灯台を地元に残したいという港地区住民の強い要望があり、港小学校で子供達を見守りながら余生を過ごすことになった。港地区自治会連絡協議会港小PTA港小PTA役員OBうしお会平塚市漁業協同組合 平成13年11月吉日」更に別の角度から。「須賀の釣り船」も展示されていた。これも廻り込んで。「須賀の釣り船この船は、港小学校児童のみなさんの学習のために地域の人々の協力によって港小学校に贈られたものです。これまでは相模湾で釣り人を乗せて魚釣りに大活躍した船です。これからは港小学校のシンボルとして、また学習の資料として役に立ってくれることになりました。皆さんと大切にしていきましよう。名称 八星丸長さ 八メートル幅 一メートル九十センチ重さ 約一トン定員 五名平成十八年(ニ〇〇六年)三月 平塚市」「力石」。「力石このニつのカ石は、以前は須賀仲町の正一位稲荷神社(仲町のおいなりさん)にありました。しかし昭和ニ十三、四年(一九四八・九年)ごろ、神社が区画整理によって新たに作られる平塚漁港(須賀港)の中に入ることになり、近くに移転しました。そのころ、このカ石はもとの神社の跡地から出てきて、港小学校に運ばれたといわれています。ニつの力石には廿四〆(ニ十四貫 約九十kg)廿七〆(二十七貫 約百一kg)とそれぞれの重さが刻まれています。昔、町内の人達がこの石をち上げてカ比べをして遊んだことから「カ石」と呼ばれたようです。平成十八年(二〇〇六年)三月 平塚市」「奉安庫の門柱」。「奉安庫の門柱平成十六年(二〇〇四年)一月、現在の幸町九番一号の土地から須賀尋常高等小学校時代(大正十五年(一九ニ六年)九月落成)の正門左側にあった「奉安庫」の門柱一対が掘り出されました。このことから、当時の小学校が今の校庭の東寄りにあったことがわかります。門柱は土地所有者の清田氏並びに港小学校卒業生などのご協力によりここに設置することができました。平成十六年は、港小学校が海宝寺に誕生した明治七年(一八七四年)五月一日から数えてちょうど百三十年目の年です。この節目の年に古い歴史をもつ港小学校の一部が発掘されたことに縁を感じます。平成十八年(二〇〇六年)三月 平塚市」「奉安庫」は戦前の学校に必ず設置されていた施設で、天皇皇后両陛下の写真(御真影、御影ともいう)及び教育勅語を安置していた建造物。奉安所や奉安殿とも言われる。学校における最重要施設で、前を通るときは最敬礼をしなければならず、御真影の取り扱いには最大の敬意と細心の注意が払われた。これは学校長の最重要職務であり、焼失の責任をとって自害した校長もあったほどである と。忠君愛国教育の象徴として君臨していたが、戦後破却されたため、ほとんど見ることができず、幻の建造物となっているとのこと。「須賀村と新宿との郷境杭」。「須賀村と新宿との郷境杭この杭は平成十七年(ニ〇〇五年)十月、代官町の田中路子氏の敷地から発見されたものです。江戸時代には、徳川幕府の領地(天領)、藩領、旗本領などが入り組んでいて、各村の境がはっきりしていませんでした。そこで、明治政府は土地に税をかける基礎資料として全国の土地の面積の調査を行いました。この杭はこのときの調査に基づいて設置されたものと思われます。」「須賀村と新宿との郷境杭」の表面には下記のごとく刻まれている と。その先にあったのが「須賀公園」。オジサン達の野球の練習が行われていた。「学園通り」の左手にあったのが「平塚市立港小学校」の正門。明治7年頃創立の「平塚市立港小学校」。掲示板には「今月の歌」が。「里の秋一、しずかなしずかな 里の秋 お瀬戸に 木の実の 落ちる夜は ああ かあさんと ただニ人 栗の実 煮てます いろりばた二、あかるいあかるい 星の空 鳴き鳴き 夜鴨の 渡る夜は ああ とうさんの あの笑顔 栗の実 食べては おもいだす三、さよなら さよなら 椰子の島 お船に 揺られて 帰られる ああ とうさんよ ご無事でと 今夜も かあさんと いのります」そして「高浜高校前」交差点を右折し進むと、左手にあったのが「神奈川県立高浜高等学校」の正門。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.06
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さらに「平塚 三嶋神社」の散策を続ける。「湘南のえびす様 平塚七福神」の「御朱印」。そして再び「拝殿」の見事な彫刻をカメラで追う。「唐破風」下の懸魚の彫刻には定番の「松に鳳凰」の姿が。蟇股部の彫刻。羽衣伝説の一場面か。向拝裏に刻名が。「藤沢之住人三世一元 永田謹一郎」と。木鼻部の彫刻。拝殿正面の彫物。浜辺で助けた亀に連れられ龍宮城へ行く浦島太郎の姿が。高砂人形の姿。高砂人形は、長寿 と 夫婦円満 の縁起物。また、尉(じょう=おじいさん)が持つ熊手には「福をかき集める(財運)」、姥(うば=おばあさん)が持つ箒(ほうき)には「邪気を払う(魔除け)」の意味があり、これは「夫婦ともに助け合い、夫が福(財)を集め、妻が家庭を守り整える」の意味につながる。この「尉(じょう)と姥(うば)」の姿は、「高砂やこの浦舟に帆をあげて…」の謡曲(「謡曲」は能の歌詞)で有名な能の「高砂」と、能の元となった「相生(あいおい)の松」という伝説に出てくる、「おじいさん」と「おばあさん」の姿をした松の木の精を表わしているのだと。後ろには「相生の松」も。「相生の松」とは、黒松(雄松)と赤松(雌松)が1つの根から生え出た松のことで、格別の神木とされ、縁結びや夫婦和合、長寿の象徴として尊ばれているのだ。ここにも松・梅に鳳凰の姿が。これも松・梅に鳳凰か?彫刻師 渡辺豊雲と。扁額「三嶋神社」。「本殿」を横から見上げて。奥には境内社があった。「疫神社(やくじんじゃ)」。「疫神社古くから疫神様と言われ除厄開運・流行病はもとより種々の病気を癒す守護神であり特に子を守り子供の病をお守り下さる。」「疫神社『心願成就 のぼり旗』。疫神さまは古来より子供の災い、病気から守る神さまとして厚く信仰されてます。お子さまの健やかな成長を願う『のぼり旗』の奉納を受付致しております初穂料 一本 五千円より受付 三島神社 社務所」「疫神社」の鳥居を潜って。「疫神社」の「社殿」。内陣には「御幣(ごへい、おんべい、おんべ)」が。「御幣」とは、神道の祭祀で、捧げられ、用いられる、幣帛(へいはく)の一種で、2本の紙垂(しで)を竹または木の幣串に挟んだものである。こちらは「伊邪那岐社(いざなぎしゃ)」。「伊邪那岐社祭神 伊邪那岐尊命多くの神々の祖父神であり日本国の発展を司る高霊な神様です。」社殿。「伊邪那岐社」の右に石碑が並ぶ。右から「石祠」。「若宮霊神」碑。「若宮」は若宮社、若宮神社ともいう。基本的には本宮の摂・末社として主祭神の御子(みこ)を神に祀(まつ)る社(やしろ)をいうが、ときに本宮に対してその主神の分霊を勧請(かんじょう)した社を若宮といい、また非業の死を遂げた怨霊(おんりょう)を慰め鎮めるために祀った社を若宮と称する例も少なくない と。「御嶽大神(みたけだいじん・おおかみ)」碑。国常立命(くにとこたちのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこのみこと)を祭神とし、智恵・才能を授け、長寿を護り、病難を癒し、禁厭を司る霊妙神として祀られている と。「道了命」碑。大雄山最乗寺(道了尊)の 草創は応永元年(1394年)。福井県の永平寺、鶴見の総持寺に次ぐ格式のある曹洞宗の寺。創建に貢献した道了という僧が、寺の完成と同時に天狗になり身を山中に隠したと伝えられることから、道了尊とも呼ばれている。「三嶋神社と大東亜戦争後の記念碑昭和二十年七月十六日の戦災により 三嶋神社社殿一宇を始め須賀 地区は一面焼け野原になってしまいました。同年二十年九月始め、当時宮総代並びに二十六区の区長であった 田中荘太郎氏と当時の宮司亀井八朗氏が相談の結果、何とか仮社殿 でも建てなければと戦後の材木の入手困難な時節、大山より苦心に 苦心を重ねて材木を入手し仮社殿を建てることができました。現社殿は昭和二十五年になって当時の神社役員氏子中の奉賛により 建立されております。戦災による焼失にもかかわらず神社社殿の歴史を一年をも断絶する ことなく現在に至っていることを考えますと、当時の役員田中氏と 亀井宮司の御苦労に心より感謝申し上げる次第です。平成十七年が戦後六十年の年となる今日、右の記念としてこの碑を 建立し、末永く感謝の意を表します。 平成十七年六月吉日 三嶋神社役員一同 記 記念碑建立寄贈者 平塚市代官町二十九-三 田中荘太郎氏六女 神山淑子」三嶋神社は昭和20年7月16日の平塚空襲により焼失したが、戦後苦労の末に再建された。このことを記念し、戦後60年の節目である平成17年6月に建立された。全高140㎝。「神楽殿」。境内への車の乗り込み・駐車は??!!「社務所」は、七五三詣の受付・控室になっていた。御朱印を頂きました。「神輿殿」。扁額「神輿殿」。「平塚 須賀のまつり」ポスター。7月16日、17日に行われたと。「平塚 三嶋神社の大神輿お神輿は神さまの乗り物です。三嶋神社には、大神輿2基と町内神輿6基のお神輿があります。特に大神輿には、特長があり黒い(の)神輿は、干支や色とりどりの彫刻が施されています。茶色の神輿は-、屋根の部分に金粉をまぶした「ナシジ」加工で全ての彫刻に金箔が施されています。いずれも、「相州神輿」又は「湘南神輿」と呼ばれ、お祭りでは、タンスでリズムを取り、「ドッコイ、ドッコイ」という掛け声で町内を練り歩きます。 春祭り: 3月下旬、例大祭: 7月中旬・開催」大神輿をネットから。茶色の神輿。「湘南ひらつか 七福神めぐり」の幟。平塚市博物館で開催された「星になった民具たち」開催ポスター。県道607号線に面した「平塚市立須賀公民館」。正面から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.05
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この日は12月2日(金)、茅ヶ崎駅前で旅友、元同僚の3人での飲み会に向かう。早めに家を出て、茅ヶ崎駅周辺のイルミネーションを見ようと。藤沢駅から、JRで茅ヶ崎駅に向かったが、途中辻堂駅の北側の「青のイルミネーション」が美しく見えたので、急遽辻堂駅で途中下車して向かったのであった。「Terrace Mall 湘南 Xmas Illumination 2022~未来への道しるべ~ 風の軌跡 Trail of the Wind」のポスター。点灯期間 11/5 ~ 12/25 17:00~23:00 と。まずは「Terrace Mall 湘南」の店内に入る。通路中央には美術作品が展示されていた。「Terrace Art 湘南(テラスアート湘南) AWARD(アワード)」は、テラスモール湘南を舞台に自然と共生する新しい価値・文化を発信する芸術の展示会。次世代を担うアーティストの発掘を目的としているとのこと。「テラスアート 2022ごあいさつ海岸に打ち上げられた漂着物を収集する「ビーチコーミング」のようにアーティストが湘南をリサーチしてアート作品をつくりました「テラスアート」は湘南の自然の光や風、心地よい時間を感じられるようなアートと暮らす日々をお届けします。vol.1 4.29 fri.・・・・7.19 tue.vol.2 7.20 wed.・・・9.30 fri.vol.3 10.1 sat.・・・・12.25 sun.」まずは、グランブリ 渡部未乃氏の作品「波を見る ♯3」。●作品コンセプト●湘南の海をモチーフにドローイングを重ね、形を削ぎ落とし、直線的に描くことで、自然と人工、有機と無機、具象と抽象といった対照的な位置関係にあるものの中間に存在しているような絵画を描きました。東京都出身2016多摩美術大学大学院美術研究科博士前期課程絵画専攻油画研究領域修了2014多摩美術大学美術学部絵画学科油画専攻卒業 と。「湘南の海をモチーフにドローイングを重ね、形を削ぎ落とし、直線的に描く」と。「海を見る。波の形、空のグラデーション、水中の魚や海藻、全ての形と色は流動的に変わり続け、静止する事はない。」と。「流動的に変わり続ける風景の一瞬を切り取り、幾何学的に形を捉えることで自然と人工、有機と無機といった対照的な関係性の間を行き来するような絵画を描く。」と。準グランプリ ローレ・ジュリエン 「Tsukumogami」「付喪神とは、道具に宿る神のこと。持ち主にもう一度気づいてもらおうと、動きだし騒ぎ始める、古く、壊れた物の妖怪。本コレクションはそんな付喪神の物語から着想を得ています。東京、神奈川のあちこちのリサイクルショップやフリーマーケットから集められた物や織物を、衣服やアクセサリーへと作り合わせることで、物たちに魂と用途を蘇らせる。そして救われた物たちを生まれ変わらせるのは、同じく、忘れ去られたり軽んじられてきた伝統の技。日用品、アクセサリーや織物にわたって利用される、かご細工法に重点を置いています。また、物たちを衣服として一体化させ、さらに視覚的統一感を出すために応用したのは、仕立てや高級クチュ一ル、そして釣り用品に用いられるかご細工、結びやウェットスーツ作りの技術など。織物を使ったかご細工編みや、まるでダイビング装備のように身体に沿うラインが、作品に見られます。目や舌、曲線などの形は、ろくろ首、百々目鬼、ニロ女、シーサー、化け草履、のっぺらぼう…妖怪全体に健在の美的感覚をもとに、彼らに内在する可変性やセクシ=アリティの要素を混ぜ合わせています。さらにスポーツウェアのエッセンスにより、作品は機能的で可変性。ディテールが変形を可能にし、流動的でダイナミックなシルエットは、妖怪たちが集まり騒がしい湘南の海に溶け込んでいくようです。」「季知恩 Lee Jeunne湘南物語 Our City!」「季知恩 Lee Jeunne湘南物語 Our City!2022 /鉄、木、ワイヤー(湘南物語》は、湘南の多彩な景色からインスピレーションを受けた作品。都会のやかさと人々の集う暖かさ、そして、動物・・様々な素材を用いた立体作品を制作する李知恩は、湘南の街を練り歩き、実際に観察した風景から物語を紡ぎ、作品化していきました「ここが、物語の中なら、どんなところだろう?」。本作(湘南物語》は、作家のもつ物語のイメージを介して、この街にある、一瞬の風景を、一瞬の物語として、彫刻作品として具現化したものです.アーティストコメント誰もが交われる湘南の多彩さをカラフルな色彩で表現した作品.辻堂・湘南に初めて向き合った時、「すぐに引っ越したい町、一度住んでみたい町」という印象を受けた。わたしは、この作品を構想し制作する間、誰よりも湘南の虜となり、まるでこの街の住民になったような気分感じながら、物語のつばさを広げた.「湘南物語」は観覧者に湘南の魅力と美しさを感じさせ、新しい視線でこの街を眺める機会を提供する。」カラフルなシールを使って、物語の一幕をうかびあがらせる参加型アート作品。湘南物語 OurCity!「たくさんのシールでつむぐアート作品湘南物語 OurCity!カラフルなシールを使って、物語の一幕をうかびあがらせる参加型アート作品。東モールに設置されている作品とは異なり、作家の視点が織りなす物語にシールを貼るだけで誰でも参加することができます。実施期間2022年10月1日(土)ー12月25日(日)※材料がなくなり次第終了となります。」「赤松加奈 Kana Akamatsu山のにおい海のひかり # 1Scent of Mountain and Light of Sea # 1」近づいて。「赤松加奈 Kana Akamatsu山のにおい海のひかり # 1Scent of Mountain and Light of Sea # 1 2022 /アクリル絵の具、キャンバス、綿布、バネル、発泡スチロール、 紙粘土、拾ったものなど作家の赤松加奈は、農業に従事する傍ら、田畑や自然の繊細な表情を丁寧にひろいあげるアーティスト。本作《山のにおい海のひかり》は、かながわ生まれの黄色いオレンジ「湘南ゴールド」をモチーフに、作家が生産現場を実際に訪ねたり、湘南・藤沢の海岸をめぐったり、湘南・藤沢の風景から感じたものをインスヒ。レーションにした作品群です。自然がもつ美しさと、強さや恐ろしさ。どこか温もりを感じる本作は、常に流動していく自然の景色の一瞬の姿を作品化しています。アーティストコメント海から離れた場所で生きている私は、海のイメージがピンとこなかった。自分に描けるのか、と不安を持ちながらやってきた海は、大きく漢然とした怖さを持ちながら、たくさんのサーファーやいろいろな生き物や、自然物の抜け殻のような技や貝殻や、プラスチック片までも受け入れながら、大きく広がっていた。不思議と普段描いている山や田んぼや人々や虫などの風景と同じだなと感じた。海辺には前日に取材したみかん山にあったようなみかんもどこからか流れついていた。」「山のにおい海のひかり # 2」。「赤松加奈 Kana Akamatsu山のにおい海のひかり #2Scent of Mountain and Light of Sea #2 2022 /アクリル絵の具、キャンバス、綿布、バネル、発泡スチロール、 紙粘土、拾ったものなどアーティストコメント湘南の海や山でいろんなものを拾い集めて帰った。みかん山の枝、イ力の骨や貝殻、色とりどりのプラスチック片。手元に残ったものは、貝殻や技など、全部大切なものの抜け殻みたいなものばかりだ。それらを眺め、手掛かりとしながら、車の窓を開け走り自転車で川沿いを下り、山や海岸を歩いて感じたあの豊かな風景を描きたい。」「赤松加奈 Kana AkamatsuSUN」近づいて。「赤松加奈 Kana AkamatsuSUN 2022 /アクリル、ビニール、木枠アーティストコメント山の上のみかんの木は太陽の光をひとりじめしているように伸びやかに枝を伸ばしていた。土は赤く、枝はだいだい色、実の収穫を終えた葉は少し疲れた感じで、枝は次の芽を出す準備をしていた。次に来た時には、花が咲き、たくさんの虫が蜜を吸いに来ていた。もう葉っぱは元気になってピカピカと光っていた。遠くに海が見える畑に、風がビュンと吹く。」 ・・・つづく・・・
2022.12.04
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そして「三島公園」を廻り込むと「平塚 三嶋神社」の入口に到着。「三嶋公園」内に鎮座する「平塚 三嶋神社」。前方に高い台座の上に石鳥居が立っていた。「平塚七福神 開運招福 湘南のえびすさま 平塚 三嶋神社」と。境内には大きな松が。石鳥居を潜る。右手、朱の鳥居の先にあったのが「三嶋弁天社」。「奉納 弁天社鳥居奉祝 皇太子殿下御成婚記念」碑。平成五年六月九日」「須賀の弁天社の由来その昔、此の処は平塚三嶋神社の所有地で、二つの大きな御神池があり、池の中心に弁天社が祀られていました。戦後の区画整理で、池が埋め立てられ、市の三島児童公園となりました。この弁天社は、財運や芸能上達をもたらし、石造りの手水舎は、およそ三百年以上前の江戸時代の延宝年間(一六七三年~)に奉納されたものです。現在も多くの参拝者と昔をしのぶ、大きな松が弁天社を見守っています。 平塚三嶋神社 氏子会 会長 山口義髙」「弁天社」の社殿は石造り。「奉 三嶋神社役員一同 納 平成元年十二月吉日」と。さらに参道を進んで行った。前方「二の鳥居」の右手に巨木。「平塚市保全樹木●くすのき●指定第八十二号●平成十八年四月一日 平塚市」「記念碑大楠木平塚市指定保全樹秋篠宮悠仁親王殿下御誕生玉垣改修」と。「二の鳥居」も石造り。「奉献 大錨」碑。「昭和六年七月三日 八丈島三根村地元二二ノ本線ノ錨ニ掴・・・物・・ 大 錨伊平丸 船主竹之内栄次郎外乗組員一同」と。昭和六年に八丈島で見つかった大錨が奉納されているのだと。須賀湊から出港した船の錨なのであろうか?「忠魂碑表面:忠魂碑 元帥伯爵東郷平八郎書(花押)裏面:明治二十七八年日清戦役殉難者 陸軍砲兵二等卒 鳥海元次郎 明治三十七八年日露戦役殉難者 陸軍歩兵一等卒 山口福太郎 陸軍輜重輸卒勲八等 桐葉章 内藤權次郎 明治四十一年韓国事變殉難者 陸軍歩兵二等卒勲八等旭日章 藤田定五郎 自昭和十二年七月七日至昭和二十年八月十五日 支那事變竝大東亜戰爭戰歿者(イロハ順)」近づいて。須賀地区おける日清戦争1柱、日露戦争2柱、韓国事変1柱、及び支那事変・大東亜戦争242柱の戦没者246柱を合祀した忠魂碑である。昭和3年11月10日に在郷軍人会によって建立されたが、サンフランシスコ講和条約発効後すぐに支那事変・大東亜戦争の戦没者が追刻された。碑は、幅10m、奥行8mの基壇上に聳える高さ4.5mもの巨大なものである。左下には「元帥伯爵東郷平八郎 書(花押)」の文字が。碑高458㎝、幅195㎝、厚さ27㎝、台石110㎝+26㎝。基壇90㎝、幅10.2m、奥行8.36m。忠魂碑の裏にも神社が鎮座。奥には「道祖神」と刻まれた石碑が。その右側には庚申塔他の石碑群が。そして参道正面に「拝殿」。祭神 大山祇命 ( おおやまつみのみこと ) 言代主命 ( ことしろぬしのみこと ) 大山咋命 ( おおやまくいのみこと ) 闇龗神 ( くらおかみのかみ )由緒 創建時期不明。平安時代の文書に別当寺の「薬師、三嶋の本地仏なり」とあるといふ。 海路の大山詣ででは須賀港 に上陸後、当社に道中安全を祈願する習しであったといふ。 須賀の鎮守。狛犬(右)。狛犬(左)。「石灯籠(右)」社殿前にある一対の灯籠は明治21年建立で、大正15年に再建され、台石に世話人・修繕人として当所魚仲買商、八王子や東京の魚問屋など百名近くの名が刻まれているのだと。「石灯籠」には「三島神社」と。「石灯籠(左)」。右手に「神札授与所」。「神札」、「御守」が並ぶ。「鯛みくじ」。「手水舎」。水の流れはなし。龍の吐水口(とすいこう)をズームして。「平塚三嶋神社のご由来= 御祭神 大山祇命(おおやまづみのみこと)・事代主大神(ことしろぬしのおおかみ)= 古来、須賀の明神様と称せられ広く遠方に親しまれ崇敬されております。ご祭神の大山祇命は、心身の清浄を尊ばれ厄災を退ける神さまとして崇められています。事代主命は、七福神の中で「えびす様」で親しまれる神さまです。大漁満足、諸産業の繁栄、人々の福徳円満をもたらし、皇居の宮中においても八神の御一柱としてもお祀りされており、誠に御尊厳の高い神様です。=ご創建=遠い太古の昔、人々が漁業を中心として生活し始めた頃(千年以上前)といわれ、古文書には平安時代(七九四年~)に「薬師三島明神の本地仏なり 長一尺五寸 弘法の作と伝」と記されています。その頃からすでに多くの人々の信仰を集めていたと思われます。」江戸時代の須賀港。須賀港は江戸時代幕府公認の七つの湊の一つであり、相模の国の物流の集散地であり文化の入口でもありました。江戸時代人気のあった大山参拝の海の玄関口として多くの人で賑わいました。天保年間には、平塚宿より須賀村の方が人口が多かったそうです。明治20年鉄道が開通すると船便は寂れ、漁船だけの港となりました。昭和27年平塚漁港に改称。現在は釣り場としても人気で、ハゼ釣りの人気スポットです と。「須賀のまつりと歴史= (毎年七月中旬の土・日)地域に流行病や災いがなく、平和で大漁満足・五穀豊穣を祈るお祭り。古くは、五台の山車(だし)を先頭に榊・鉾・剣等が従い、次に神輿・名主・組頭百姓氏は麻上下、町頭は羽織姿で警護し、各町内を巡り、海岸で浜降りを行い、深夜に神社(宮入)した。現在は太鼓山車を先導に大神輿、六基の町内神輿が二日間にわたり町内を巡り、神輿を海に入れてもみ上げる「浜降祭」(はまおりさい)が行われます。夕刻には子供達の七夕パレードをはじめ、太鼓山車、大神輿と町内神輿が神社へ宮入し勇壮な夏祭りです」=新春えびすまつり= (毎年一月第三の日曜日)新しい年の初めにえびす様の崇高なご神徳を称え、福男・福女が特設舞台から「商売繁盛で笹もってこい」のにぎやかなかけ声で「開運福まき」を行います。また、福笹(ふくささ)に色々な招福縁起物を飾り、お店やご家庭に1年間お飾りします。これを通じて人々の繁栄と開運を導いてくれる、新春を彩るにふさわしい名物祭りです。」明治時代の例大祭。「えびす様御神像」。ズームして。ご祭神の事代主命(ことしろぬしのみこと)は、七福神の中で「えびす様」の名で親しまれ、大漁満足をはじめ諸産業の繁栄を導き、人々に福徳円満をもたらす七福神では唯一の日本の神さまです。新年に御神徳を称える祭典「新春えびすまつり」が行われます。(毎年一月第三日曜開催)福男、福女が舞台から「商売繁盛で笹もってこい」のかけ声で「開運福まき」を行います。また、福笹に色々な招福縁起物を飾り、お店やご家庭に一年間お飾りし、これを通じて人々の繁栄と開運を導いてくれる東海道の名物祭りです。さらにお顔を。横からも。立派な鯛を抱えて。「湘南ひらつか 七福神めぐり」。「願掛絵馬」。「湘南えびす様」の絵馬には「願意叶鯛(ねがいごとかなえたい)」と。「おみくじ掛け」。「水神社」。「神様の水占い「水みくじ」の作法 ◇ 「水みくじ」を水鉢に浮かべます。 ◇ しばらくすると「文字」があらわれます。 ◇ 文字があらわれたら「水みくじ」を水鉢からとりだし、水神様のお告げを読みます。◎ 「水みくじ」は「おみくじ掛け」に結ぶか、お持ち帰りの方は添付の「ビニール袋」をご利用 下さい。◎ 「水みくじ」は約30秒間くらいで文字があらわれます。」自然石に「奉納金四百圓 須賀鰤大謀網舩方ー同 大正十年五月」と刻んだ「奉納塔」があった。裏面には「舩方人名」として須賀、大磯、小田原、ニ宮だけでなく房州、伊豆などの合計160名が刻まれているとのこと。須賀では大正末から昭和初期にかけて大規模なブリの大謀網漁が行われていたことがうかがえる。また、角柱の奉納塔や玉垣に「井」「サ」など水産加工業、魚屋、魚の仲買商などの家印、屋号が付けられ往時を偲ばせると。再び「拝殿」を。賽銭箱には「十六葉一重菊」の御紋が。「拝殿」に近づいて。「拝殿」前から境内を振り返る。ここにも「湘南ひらつか七福神 恵比寿様」。お顔をズームして。私もいつもこうありたいが・・・!!!「福笹のえびす様えびす様は七福神の中で「大鯛」をかかえたお姿から商売繁盛・家庭円満を導く神さまとして有名です。福笹についている縁起物は「吉兆」と呼ばれ、あらゆる開運の象徴です。この福笹のえびす様の「大鯛」をなでると「福」が授かるといわれます。」ここには、「恵比寿大黒様」の姿が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.04
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再び「相模川右岸堤防」に向かって進む。プラタナスの並木の紅葉も既に終わっていた。そして突き当りを左折して進むと、堤防の上にゲート設備が確認できた。堤防上に上りゲート設備前に到着。前方に見えたのが、東海道線の「馬入川橋梁」。平塚競輪開催時には、この河川敷が臨時駐車場となるのだ。「公共下水道雨水排除のための放流出口ゲート」と。上流側の「トラスト湘南大橋」を再び見る。Googleマップには「久領樋管」と記載されていた。堤内地の雨水や水田の水などが川や水路を流れ、より大きな川に合流する場合、合流する川の水位が洪水などで高くなった時に、その水が堤内地側に逆流しないように設ける施設。このような施設のなかで、堤防の中にコンクリートの水路を通し、そこにゲート設置する場合、樋門または樋管と呼ぶのだ。相模川へのゲート出口。そして上下に可動するゲート。「馬入川橋梁」をズームして。「相模川右岸堤防」を後にして、国道129号に向かって進む。正面に、「平塚競輪場・Shonan Bank」の東門・入口が現れた。「湘南バンク 平塚競輪 場内 MAP」。「平塚競輪場」の写真をネットから。この日・11/22は平塚競輪は開催されていないようであった。この日・2022.11.22から小倉競輪場で「競輪祭G1」が開催されていると。他の競輪場で行われるレースを平塚競輪場で生中継し、場内で車券を購入することができるのだ。「平塚競輪場」の道路の反対側には「東洋工機㈱」の工場があった。こちらは「三興製鋼㈱」の正門。そして「平塚競輪場」の「第2センタースタンド」を外から見る。そして「平塚競輪場」の正門に到着。「オーロラビジョン」。「特観席発売所」。観覧席のチケット自動販売機が並んでいた。オーロラビジョンでは、小倉競輪場のレースが放映されていた。その下には平塚競輪場マスコットキャラクター「ウィンディくん」と妹の「キャンデイちゃん」が。レース結果が表示された。この日は場外車券を購入しに来る人のみで。国道129号から正門方向を見る。国道129号近くにあった公衆電話BOX。平塚競輪場マスコットキャラクター「ウィンディくん」の公衆電話BOX。公衆電話は使われているのであろうか?埃で汚れていたが。平塚競輪場もこの日は見納め。そして国道129号を渡り「三島公園」に向かって進む。公園のイチョウの樹の黄葉はピークに。「湘南ひらつか たなばた マンホール蓋 夕陽ケ丘」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.03
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「浄蓮寺」を後にして門前の道を北に進むと左側にあったのが「正一位台町稲荷大明神」。平塚市札場町15-24。石鳥居の扁額も「正一位台町稲荷大明神」。歴史を感じさせる社殿。狛狐(右)。狛狐(左)。社殿。狐の彫刻も見事。右側には二重の祠に石碑が鎮座。「道祖神」と刻まれた石碑には朱の文字で。ここ平塚・須賀地区で最も古い道祖神といわれているとのこと。左側には3基の塔が祠の中に。何故か社殿を背にする向きで。左から、「六十三夜塔・如意輪観世音」「庚申供養塔・青面金剛」「庚申供養塔・青面金剛」と。如意輪観音(寛政11年(1799 )造立)。「庚申塔」。「四臂青面金剛像」と「三猿像」が彫られ、貞享3年(1686)に造立。「庚申塔」。「六臂青面金剛像」と「三猿像」および「日月」が彫られており、亨保9年(1724)に造立。さらに北に進むと路地の先の民家の庭の前にも朱の鳥居が見えた。ここ「札場町」の「湘南 ひらつか たなばた マンホール」。白の山茶花の木の下に小さな朱の社が。山茶花の木の奥には小さな五輪塔が2基。平塚市札場町26。正面から。次に訪ねたのが「大門稲荷神社」。これも札場町の住宅街にある神社。一段高い所に鎮座。平塚市札場町24-2付近。廻り込んで正面から。何故か朱の鳥居と社殿が互いに横に並んでいた。大きな扁額「正一位 大門稲荷神社」。内陣。そして「港公園」まで歩を進める。平塚市札場町41−25。その手前、林の中にあったのが「惣助稲荷神社」。平塚の中でも、野性味溢れる神社の一つでは。平塚市札場町39。「御祭神妙徳稲荷大神 中宇氣母智神 八衢比古命 衝立船戸神 八衢比売命木曽御嶽大神 右國常立尊 大己貴命 少名彦那命日月神道日津久宮 左天日津久大神豆美命 天明五十鈴彦命」と。右手に手水舎。正面から。龍の吐水口(とすいこう)。そして「社殿」。二つの提灯には「御宇気神社」、「御神燈」と。昔は「オガミヤサン」がいて、遠方から漁師が参拝に来ていた神社であると。右奥には境内社の稲荷社もあった。正面から。その奥にあった「平塚市保全樹木 たぶのき」。「平塚市保全樹木 ●たぶのき ●指定第二十一号 ●昭和五十二年四月一日 平塚市」「たぶのき(椨)」を見上げて。照葉樹林の代表的樹種のひとつ。古くから樹霊信仰の対象とされ、日本各地に巨木が残っており、神社の「鎮守の森」によく大木として育っている。また横浜開港資料館の中庭の木は「玉楠」👈リンク と呼ばれ有名である。大きな石灯籠。これが「惣助稲荷神社」の「本殿」、手前が「拝殿」と思っていたが・・・・。この社にも扁額「御宇氣神社」と。横幕には「妙徳稲荷」と。「惣助稲荷神社」、「御宇氣神社」、「妙徳稲荷」をどのように理解すれば良いのだろうか?お解りの方は書き込みをお願い致します。「御宇氣神社」を横から見る。「御宇氣神社」を裏側から見る。大小の「御幣」が並んでいた。神前に供える幣帛の一種。白色または金、銀、五色の紙を段々に切り、竹や木の幣串(へいぐし)にはさんだもの。神前に供えたり、神主が祓(はら)いをしたりする時に用いる。そして隣の「港公園」へ。紅葉は今が盛り。母子の姿はなく、犬の散歩のオバチャンのみ。欅であっただろうか。公園内のモニュメント。「平塚都市計画都市改造 土地区画整理事業 完成記念」と。ズームして。何をイメージしたものか?鈍感な私には??調和?!須賀北町自治会児童図書館。「須賀北町自治会 掲示板自治会活動で育む地域の絆 自治会に加入しよう」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.02
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「長樂寺」を後にして「国道129号」に向かって進む。右手にあったのがこの後に訪ねた夕陽ヶ丘にあった「善性寺」の墓地への裏門。「湘南ひらつか七夕まつり」をデザインした下水マンホール蓋。中央の平塚市の市章の中に下水の下の字を入れたもの、町名は「幸町」。下部に「合流」の文字、合流管マンホールの蓋。合流とは雨水と汚水を集めて流す下水道のこと。そして「国道129号」に出て右折して進むと、前方には「平塚聖書 バプテスト教会」と。「平塚聖書 バプテスト教会」。平塚市幸町26-44。「「聖書」を【誤りのない唯一の神のことば】と信じて人生の最大の拠り所とします。「バプテスト」は16世紀にプロテスタント教会が生れる前からカトリック教会に属さないで聖書の教えに従って来たクリスチャンたちの呼び名で、イエス・キリストを信じた人が全身を水に浸すバプテスマを受けて教会のメンバーに加わることが特徴です。日本では馴染みが薄いですが、アメリカではバプテスト教会は最も大きなキリスト教の教派の一つとなっています。“I have a Dream”の演説で有名なキング牧師はバプテスト教会の牧師でした。」とネットから。既に終わっている案内が・・・・。教会の前にあった菊は満開を迎えていた。そして綿の花も。ハイビスカスに似た花も美しいが、花がしぼんでから1か月ほどで果実が割れ、中からコットンボールが見える姿がユニークで人気なのである。次の目的地の「乗蓮寺」に向かって「札場町」の住宅街を進む。そして「乗蓮寺」に到着し「山門」を見る。平塚市札場町15−26。寺号標石「花翁山 乗蓮寺」。山門の両側には高さ120cmの小さな仁王像が。丸彫石像は大変珍しく貴重なものとのこと。元々は「三嶋神社」にあったといわれます。右側の阿形像。草鞋を首からぶら下げていた。左側の吽形像。「山門」を潜り境内に。左側にあった「六地蔵」。近づいて。地蔵尊。こちらも。その横にお堂があった。中を覗くと、中央に三界萬霊、右に地蔵尊、左に水子地蔵が祀られていた。「本堂」の手前に立つ角塔婆。近づいて。この角塔婆も「回向柱」と呼んで良いのだろうか。「宝篋印塔」。宝暦13年(1763年)の建立と。弘法大師像。台座には「南無大師遍照金剛」と。近づいて。「萬霊塔」。「本堂」。「花翁山 観音院 乗蓮寺」創立年時は不詳。元禄十六年火災のために灰燼に帰したことが過去帳に記されている。以後の過去帳は現存する。大正十二年九月一日の関東大震災により堂宇が倒壊。昭和五年四月復興落慶し、太平洋戦争の戦火は免れて現在に至る。本尊は行基作と云われる「十一面観音像」。本尊開帳は十二年毎、丑年に行われる。相模新西国三十三観音霊場第17番札所。御詠歌「朝日さす夕陽輝く乗蓮寺菩薩もここにあしをとどめん」本尊:行基作と云われる「十一面観音像」をネットから。「本堂」の彫刻も精細であった。賽銭箱に「花翁山 乗蓮寺」と。「五重塔」。青空に映えて。「花翁山 乗蓮寺 御本尊 十一面観世音菩薩 宗 派 真言宗 宗 祖 弘法大師(空海) 御宝号 南無大師遍照金剛教義と信仰 宇宙のすべてのものは、大日如来のいのちの顕れであり、このいのちの世界をあらわして いるのが曼荼羅です。 真言宗の教えは、いのちの平等と尊厳をさとり、大日如来の智慧をこの世に実現するために、 生かせいのちを実践し共存共生の世界をめざすことにあります。 本宗の御宝号念誦運動は、弘法大師の共利衆生の精神に立って、すべてがいのちを共にして いる社会の福祉をめざす具体的な活動です。 弘法大師は未来永劫にわたって衆生を救済すると御誓願され、高野山奥之院に入定留身されて います。同行二人の信仰のもと、大師の御教えをこの世に生かし実現することが、私たちの 務めであり喜びです。」「聖観音菩薩像」。正面から。お顔をズームして。「南無ぽっくり地蔵菩薩」。「ぽっくり」とは年齢を重ねた人が下の世話など周囲に迷惑をかけず、自分も苦しまずに成仏する事と理解しているが・・・・。近づいて。「相模新西国十七番札所」とも書かれた幟があった。平塚、秦野、大磯、二宮の2市2町に点在する「相模新西国三十三観音」。1745年以降、丑(うし)年に現在の32寺院に安置されている三十三観音が開帳され、参拝者による札所巡りが行われて来たのだと。境内から「山門」方向を見る。「本堂」の南側には広い墓地が拡がっていた。「内藤大和守景豊供養塔」。右側には「大日如来像」が蓮弁台座に坐していた。市内でニ番目に古い寛文13年(1673年)の建立で、保存状態が良く見応えがあった。「須賀の伊勢市伊瀬屋市良右衛門を略して伊勢市と言いました。市良右衛門の父は佐藤伝左衛門豊成といい相州津久井城主内藤大和守景豊の臣で主従も北条氏に属していました。天正18年寅年(1590)の春、白根の戦いに豊臣勢を破って、軍功があったため、伝左衛門は大和守から感状を受けていましたが、その後の混乱で主従は別れ別れとなり結局大和守は行方不明、伝左衛門は相模川を下って須賀湊の市井の人となりました。」佐藤伝左衛門豊成の主人大和守景豊は小田原北条氏滅亡とともに運命をともにしました。乗蓮寺本堂前の古塔を内藤大和守の墓といっていますが、たぶんこれは伝左衛門が主人大和守のために建立した供養塔であろう。山門は佐藤家の裏門の移築という伝承もあり伝左衛門豊成の法名を智海院妙○(口へんに全)華翁居士と云い山門の額「花翁山」に一致する。南側に拡がる墓地を再び。墓地には古い石碑が並ぶ。寺の関係者の家であろう。こちらの家も。そして寺の前の道を北に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.01
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次に訪ねたのが「長樂寺」。平塚市札場町15−42。寺号標石「高野山 真言宗 海詠山 長樂寺」。側面には「高野山開創千二百記念 令和三年十二月吉日 智運 代」と記されていた。昨年、新装なった見事なそして巨大な白木造りの「楼門」。「楼門」とは二階造りの門。現在では、下層に屋根のある門を二重門と呼ぶのに対して、特に、下層に屋根のない二階造りの門を言う。上層は切妻造りの屋根をかけ、二階の縁には高欄が取り付く構造となっていた。「楼門」の扁額は青字で「長樂寺」。左右の「間」には、未だ何も安置されていなかったが、いずれは金剛力士立像等が安置されるのであろうか?「楼門」を潜り、境内に入ると正面にこれも新装なった「本堂」が。「長樂寺」のHPによると「第2次世界大戦末期の空襲による焼失後、長楽寺は伽藍再興の機会に恵まれないまま戦後60余年の時が過ぎました。しかし復興を望む檀信徒の熱意が実り、平成20年(2008)、本山•高野山の推挙により新住職を招聘。同時に「平成の大復興事業」に着手しました。新たな本堂である「金堂」、寺務所や集会所として使用される「金剛閣」、住職の住居となる「庫裡」などの建設が進められ、ついに平成24年(2012)に完成しました。」と。「本堂」の扁額は山号「海詠山(かいえいさん)」。賽銭箱には「五三の桐紋」と「左三つ巴紋」が。内陣。本尊は「薬師瑠璃光如来像」。「本堂」の「海老虹梁」を見る。「海詠山長楽寺 縁起」。「海詠山長楽寺 ーーー 縁起海詠山長楽寺は、高野山真言宗の寺院であります。江戸時代後期に編纂された。「新編相模国風土記稿」によれば、長楽寺は紀伊国(和歌山県)高野山の直末寺であり、薬師瑠璃光如来を本尊とし真言宗寺院として大いに栄え、十三ヶ寺の末寺を配し三島神社の別当も務めたとされます。また、関東壇林の一つとして教学盛んな一大教場をなしたとされる相模国の古刹であります。かつて、真言密教の開祖弘法大師空海が関東、東北地方へ巡錫の旅に出られた際、伊豆国修善寺より船で相模川の下流地、須賀湊に上陸され現在の長楽寺の地に最初に滞在されたとの史記もあります。開山は文治元年(1185)頃、僧鎮海が草庵を建て海詠庵と称し住居したことに始まり、その後、建保三年(1216)に、僧朝秀が中興し庵号を海詠山としました。それより約八百年間、栄枯盛衰の年月を経て様々な出来事も多々あったと思われますが、昭和二十年の太平洋戦争による戦災で、塔堂伽藍を焼失したことが悔まれ、現在では、かつての面影は殆ど残されていません。境内には戦災を逃れた地蔵堂や貴重な石仏や石塔が残されています。正面の本堂や庫裏は、平成二十年より進められた、長楽寺平成の大復興計画の一環で、六十七年ぶりに建立されました。本堂の須弥壇には、薬師瑠璃光如来を本尊とし、脇侍に日光、月光菩薩と、それを守護する薬師十二神将が奉安されています。〇 長楽寺年中行事 一月七日 七草会 七草粥で人日(じんじつ)の節句を祝い、邪気をお払いいたします。 一月二十一日 初大師 護摩供養 弘法大師さまが御入定された三月二十一日にちなみ、新春最初の正当日を偲 び、御供養をいたします。 三月十七日 ~ 二十三日 春季彼岸会 春分の中日に当り、御先祖の御霊を供養し、迷いの此岸より悟りの彼岸へ引 導し、滅罪生善を厳修いたします。 三月二十一日 弘法大師御影供 弘法大師さま御入定日で正御影供と称します。当山では御大師の遺徳を偲び 報恩を棒げ、御供養をいたします。 八月八日 施餓鬼供養 餓鬼道に苦しむ餓鬼や有縁無縁の仏、精霊など、三界万霊に施しの法要を修 します。 八月十三日 ~ 十六日 孟蘭盆会 衆僧は施主の七世父母や祖霊の為に法要を修し、功徳の力で、苦をお救いい たします。 九月十九日 ~ 二十五日 秋季彼岸会 秋分の中日に当り、御先祖の御霊を供養し、迷いの此岸より悟りの彼岸へ引 導し、滅罪生善を厳修いたします。」「本堂」を斜めから。左手にあったのが、寺務所や集会所として使用される「金剛閣」。境内の右側には、左に「三界萬霊塔」そしてその右には石碑群が。一番右の石碑・「山口福太郎君之碑」、明治三十九年五月。以下、くずし字の師匠・高校時代の学友女史が現地出向し、解読して下さいました。「藤田定五郎君之碑」、明治四十二年十月。明治四十一年韓国事變殉難者 陸軍歩兵二等卒勲八等旭日章 藤田定五郎氏の慰霊碑。線刻画・観音菩薩が刻まれた石碑。こちらも現地に駆けつけてくれた師匠から。「為田中八 重長女静 枝両霊菩 提奉刻観 世音菩薩 以弔其霊」田中八重、長女静枝両霊の菩提のため、観世音菩薩を奉刻し、以ってその霊を弔う。」と。「碑裏の記事によると、八重さん25歳、長女静枝ちゃん5歳。同日に亡くなったようです。昭和7年6月ですが、何があったんでしょう?」とも師匠から。庚申塔群。「三猿庚申塔」。不見不言不聞の三猿像が大きく刻まれた貞享4年(1687)造立の庚申塔。青面金剛をあらわす梵字「樺(ウーン)」を頂点に、三猿をピラミッド型に配置するなど、ニ段に三尊形式に浮彫されている市内唯一の庚申塔でとのこと。「六臂青面金剛像」。4基の庚申塔のうち、左端にある両脇にニ猿を従えた青面金剛庚申塔は、造立年代は不詳ですが、湘南地区における17世紀中葉の民間信仰のあり方と、青面金剛と三猿が庚申塔の刻像として全国に定型化していく祖型として、資料的価値が高く貴重な石造物です。これと同じ像容の塔は、平塚2基、茅ヶ崎3基、寒川1基、藤沢1基とこの地域に限って計7基存在し、ほぼ同時期に造立されていることが確認されており、いすれも神奈川県指定重要文化財で全国的にも珍しい庚申塔であるとのこと。「六臂青面金剛像」。これが神奈川県指定有形民族文化財指定の「四臂青面金剛像」。「神奈川県指定有形民族文化財長楽寺の庚申塔 一基 平成十八年二月十四日指定この石塔は、光背型塔で刻像は四臂青面金剛と二猿で、青面金剛の四臂の持物は右上手に剣、右下手に宝棒、左上手に三叉戟、左下手に索を持ち、頭には三股冠とともに怒髪様のものを刻む。左右の二猿は両膝を立てて正面を向いて座り、右猿は手を膝の上におき、左猿は膝上で手を結ぶ。紀年銘は持たないが四臂青面金剛と二猿の庚申塔は、神奈川県内に他に六基あり、市内大島の正福寺、寒川町大曲の下大曲神社、茅ヶ崎市甘沼の八幡大神、行谷の金山神社、十間坂の神明宮、藤沢市遠藤の御嶽大神に残っている。これらは承応二年(一六五三)から明暦四年(一六五八)に建立されていることから同時期に建立されたと考えられる。刻銘は台部にあって、「片倉[ ]母 為妙□逆修也」など、人名および「逆修也」の刻銘が並んでいる。このことから逆修供養の為に造立されたことがうかがえ、十七世紀には庚申信仰が死後救済の信仰と結びつき広がったと考えられる。神奈川県内にある四臂青面金剛と二猿の庚申塔は、全国で青面金剛を刻像した最初期の石塔であり、特に金山神社の庚申塔は庚申供養と刻印された青面金剛像庚申塔では最古のものである。湘南地区における十七世紀中葉の民間信仰のあり方と、全国に青面金剛と三猿が庚申塔の刻像として定型化していく祖型として、資料的価値が高く貴重な石塔である。(台部右面) 片倉[ ]母 為妙□逆修也 (台部正面) □妙□逆修也 □鈴木[ ] □ 妙正逆修也 [ ] 妙[ ]修也 □神保 [ ] 為□逆修也 [ ] 為梅 [ ] [ ] [ ] 逆修也 [ ] 為妙□逆修也」 [ ](台部左面) 為妙□逆修□ [ ]逆修也 平成一九年一月 平塚市教育委員会]左端に立つ関東「大震災殃死者供養塔」は、当時の須馬村で亡くなられた方々の三回忌に当たって大正14年(1925)に造立されたもの。塔正面頂部には梵字で大日如来の報身真言と光明真言が、側面には亡くなられた75名の氏名が刻まれていた。石碑群を左側から見る。後列に配置されている2基の「大日如来坐像」。造立年代は不詳だが、何れも宝冠部に胎蔵界五仏を表す梵字が刻されており、金剛界を表す智拳印を結んでいる。先の大戦時に火を蒙ったのか、石肌が黒っぽく変色しているが、長年の風雨に耐えて今なお完全な姿を残しているのだ と。「三界萬霊塔」。永代供養墓 三界萬霊■ お墓の跡継ぎがいない方■ 先々のご供養が心配な方 当寺が永代にわたってご供養いたします。 詳細はお寺までお問い合わせ下さい。 長楽寺「三界萬霊」。三界とは私どもが生まれかわり死にかわりするこの世界のことで、欲界、色界、無色界の3種の世界があり、欲界というのは、食欲、性欲、睡眠欲などの欲望の世界で、色界は欲望が無くなった世界、無色界は形のあるものからはなれた純粋な世界を指すようです。萬霊とは、欲界、色界、無色界などのそれらすべてを指す と。反対側は塔内への入口となっていた。八角形の台座には六地蔵が線刻されていた。仏教には六道(ろくどう・りくどう)という考えがあり、生きているときの善悪の行いによって地獄道、畜生道、餓鬼道、修羅道、人間道、天道の世界を輪廻転生するといわれています。そしてそれぞれの世界には衆生(しゅじょう)の救済をしてくれる地蔵菩薩がいらっしゃる反時計回りに「日光地蔵」・天道を救う。「除蓋障(じょがいしょう)地蔵」・人間道を救う。「持地(じじ)地蔵」・修羅道を救う。「宝印地蔵」・畜生道を救う。「宝珠地蔵」・餓鬼道を救う。「檀陀(だんだ)地蔵」・地獄道を救う。「金剛閣」の屋根には「宝珠」が。「宝珠」を得るとどんな願いもかない、欲しいと思っている宝物を作り出すといわれている。宝珠は、すべての海水と魚を飲みこんでしまうといわれるインドの伝説の怪魚マカラの体内や、龍神の脳から出たとも言われているのだと。「三界萬霊塔」の横・西にあった「護摩堂」。扁額「護摩堂」。「湘南ひらつか 七福神めぐり」案内。長楽寺・・・寿老尊(じゅろうそん) 寿老尊は星座の「カノーブス」という星が「寿星」と呼ばれていてその星が人格化したも のといわれています。 この星は地平線すれすれにあって、まれにしか見られないため、世の中が平和な時だけに 出現するおめでたい星として信じられています。無病息災・子孫繁栄・家業繁昌・交通安 全・心願成就などの様々な福徳を授けてくれる神様として信仰されています。七福神と秋の七草 秋の七草は、万葉集に出てくる歌人、山上憶良が「萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花 女郎花(おみなえし) また藤袴 朝貌(あさがお:ききょう)の花」という和歌を詠んだことから 生まれたとされています。 湘南ひらつか七福神では、各境内(五ヶ所)に秋の七草を植栽・育成中です。長楽寺の七草 女郎花(おみなえし) オミナエシ科の多年草 花期 8~10月 「おみなえし」とは、名前の由来に諸説あり、オミナ(女)、ヘシ(圧)で美女を圧倒するという 意味と、黄色い花がアワに似ているため別名粟花(アワバナ)とも呼ぶ、粟の入ったご飯を 「女飯(オンナメシ)」と言い、それが変化したという説があります。 秋の初めには1mくらいの背丈に伸び、黄色の小さな花を咲かせると、風に乗ってゆらゆらと そよぐ姿がとても風流です。「湘南ひらつか 七福神 壽老尊」。お顔をズームして。内陣にも木造の壽老尊が鎮座。ズームして。「本堂」の裏には広大な墓地が拡がっていた。「本堂」の回廊から「金剛閣」を。「金剛閣」入口。再び「三界萬霊塔」とその右の石碑群を見る。「護摩堂」と「三界萬霊塔」。境内から「楼門」を見る。御朱印を頂きました。「軒丸瓦」にも「五三の桐紋」が。細い巴紋が囲んでいるようにも。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.30
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次に訪ねたのは「経王南町稲荷」であったが、その途中右側にあったのが「長谷金本店」。平塚市千石河岸24−8。「花かつお製造元 長谷金本店」。店内を覗いて見た。花かつお製造元で、湘南ひらつか名産品「七夕ふりかけ」で知られる創業百余年・明治34年創業の老舗乾物店、長谷金本店。人気の「花かつお(花鰹)」。そして隣にあったのが「正一位經王南町稲荷」。社号標石「正一位經王南町稲荷」。この石碑には「道祖神」?と刻まれているようであった。「正一位經王南町稲荷」の社。内陣の祭壇の扉は閉まっていた。「正一位經王南町稲荷」を後にして、千石河岸の住宅街を北西に向かって進む。右手に次の目的地の「海宝寺」の山門が姿を現した。三本の筋塀(すじべい)に挟まれて山門の姿が。筋塀とは、古来の日本建築における土塀の一種で、定規筋(じょうぎすじ)と呼ばれる白い水平線が引かれた築地塀を指す。元々は、皇族が出家して住職を務めた門跡寺院の土塀の壁面に、その証として5本の定規筋を引いたのが始まり。そこから、定規筋の数が寺の格式を示すようになり、5本線が最高格式を表すものとなった と。「山門」、その先の「本堂」を正面から。平塚市幸町26−21。寺号標石「常圓山 海寶寺」。山門の扁額は山号の「常圓山」。正面に大きなRC造りの「本堂」。浄土宗寺院の海寳寺は、常圓山智光院と号す。海寳寺は、天正7年(1579)に創建、城蓮社厳譽貞雲(慶長19年1614寂)が開山したと。明治維新後の明治7年には須賀小学校として供用されていた。相模新四国三十三観音霊場16番。左手には巨大な墓地が拡がっていた。山門を入り右側には「本堂」に向かって立つ「聖観音」像が。お顔をズームして。「聖観音延命十句観音経 觀世音 (かんぜおん)南無佛 (仏に南無したてまつる)與佛有因 (仏と因あり)與佛有縁 (仏と縁あり)佛法增縁 (仏法僧により)常楽我浄 (常・楽・我・浄の四徳を得ん)朝念觀世音 (朝な朝なに観世音を念じ)暮念觀世音 (夕な夕なに観世音を念じ)念々從心起 (念々、心より起こり)念々不離心 (念々、心を離れず)」上の十句から成り立っている観音経である。「無縁塔」であっただろうか?頂きには石仏が。地蔵菩薩像。「須賀小学校跡」碑。「港小学校のあゆみ明治 七年(1874) 五月 崇善館第一支校と称し、海寶寺本堂を仮校舎として開校。明治十五年(1882) 十一月 寺町に新校舎が完成。須賀村立須賀小学校と改称、大住郡内の 模範校として注目を浴びる。大正十年 (1921) 四月 校舎増築、工費全額村民の寄付で賄う。大正十二年(1923) 九月 関東大震災で校舎倒壊、三嶋神社境内にて授業を再開。大正十五年(1926) 九月 須賀千三百八十八番地に移転し、新校舎が落成。昭和七年 (1932) 四月 市制施行により平塚市平塚第二尋常小学校と改称。昭和十六年(1941) 四月 平塚市第二国民学校と改称。昭和二十年(1945) 七月 戦災により全校舎焼失、青空教室実施。 十月 元海軍分工場工員寮に移転。昭和二十二年(1947) 十月 平塚市立港小学校と改称。昭和二十五年(1950) 十月 現在地(夕日ケ丘二十二番一号)に新校舎落成、現在にいたる。 平塚市立港小学校開校百三十周年記念碑の建立にあわせ、この説明板を設置しました。 平成十七年(二〇〇五年)三月 平塚市」山門を入ると左側にも石仏が並んでいた。台座には「南無馬頭観世音」と。三面六臂の「南無馬頭観世音像」。左の地蔵菩薩像。右には青面金剛像が。一面四臂像、下部には三猿が。その右にあった碑には「太田貞市氏を偲びて大人(たいじん)の 遺徳さながら 伝ふ可(か)に 相模の海の 波音(なみおと)は冴ゆ 島津秋圃」と。太田貞市氏は日本電力㈱平塚営業所長を務めた人物か?日本電力㈱は、太平洋戦争前に存在した日本の電力会社。日本発送電が設立されるまでの五大電力会社(東京電燈、東邦電力、大同電力、宇治川電気、日本電力)の一つだったとのことであるが。「要塞砲兵鳥海元次郎墓」と。要塞砲兵は陸軍の兵科区分の一種。各種の火砲を用いて敵を攻撃、制圧し,歩兵や戦車兵の戦闘を助ける役目を果す。砲兵は、戦闘場所を基準に野戦砲兵と要塞砲兵に、火砲の口径と用法によって山砲兵、野砲兵、重砲兵に、また特殊な用法を基準にして海岸砲兵、攻城砲兵、高射砲兵、対戦車砲兵などに区別される とネットから。この後訪ねた「三嶋神社」の「忠魂碑」の裏には「明治二十七八年日清戦役殉難者 陸軍砲兵二等卒 鳥海元次郎」とあったが、この方なのであろう。奥には扉のついた立派な小幡家の墓地。大きな五輪塔が。そして本堂手前の左側には、大きな石塔6基が並んでいた。これらはすべて関東大震災で倒壊し、一部は境内に仮置きされていたものを修復し、 石造物の各部を補修し 、刻銘も彫り直し、現在のような石塔群に整備されたのだと 。この石塔群の周囲は、低い壁で囲まれており、お盆にはここに水を張り灯籠流しが行われる と。「宝塔(年代不詳)」「常圓山 觀譽 十六?㔺」と。「万霊塔(明治4年・1871年)」諸上善人、倶会一處(しょうじょうぜんにん、くえいっしょ)善き者たちと極楽浄土の同一處において会うことができる と。「徳本名号塔(文化14年・1817年)」「南無阿弥陀佛」と。徳本上人独特の筆跡の名号と署名、花押が刻まれていると。『徳本行者全集』の中に、上人が同年10月26日海宝寺に宿泊され、翌朝名号塔に開眼供養したとの記述があるが、この塔のことであろう と。「阿弥陀三尊像(元禄4年・1691年)」。こちらも「名号塔(天和4年・1684年)」。「南無阿弥陀佛」と。「經塚(文政7年・1824年)」。振り返って。境内奥から山門方向を振り返る。再び「本堂」前から。海寳寺は、天正7年(1579)に創建、城蓮社厳譽貞雲(慶長19年1614寂)が開山したと。扁額「海宝寺」。本堂内。祭壇。御本尊は阿弥陀如来。見事な本堂内の装飾。賽銭箱には「三つ鱗紋」が。この寺の起源は天正七年(1579年)、小田原の北条氏出身の貞雲の開山と言われている。蟇股の装飾。天水桶にも三つ鱗紋が。境内にあった大きな「宝篋印塔」。「南無阿弥陀佛 寛永三年三月廿日 崇誉源四禅定門 化名清田右近」と刻まれていた。客殿か?寺務所か?御朱印を頂きました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.29
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相模川右岸堤防下に立つ案内板には「須賀湊の碑 70m」と。これから訪ねる「朝霞河畔緑地」を見下ろす。入口左にあった建物は「馬入橋水質観測所」であった。「馬入橋水質観測所この観測所では常時自動的に水位及び水質を測定しています。その結果はテレメーターにより送信されており、洪水時の水防警報及び水質の常時監視に役立てられております。相模川において重油の流出など水質異常を発見した場合は、下記に御連絡下さい。」「朝霞河畔緑地」の相模川寄りには石碑が。近づいて。「平塚八景 湘南潮来」碑。「相模川八景 湘南潮来と河口」碑。埋め込まれたステンレスプレートには写真や文章が昔はあったのだろうか?「平塚八景 湘南潮来山梨県の山中湖から発し忍野八海の湧水、そして流域の諸川を合わせた流程115キロメートルの相模川は、相模湾の河口に至り川幅は700メートルとなっている。この河口は海抜以下で海水が逆流し、満々と水をたたえていて、景観が水郷潮来に似ているので、湘南潮来と名づけられた。河畔には川釣り、魚釣りなどを案内する観光漁業が盛んで、また夏には花火大会が開催されている。」因みに相模川八景は1.みどりの中の相模湖2.津久井湖と津久井城址3.美しいアーチの小倉橋4.水郷田名と高田橋5.八景の棚と河岸段丘6.三川合流点と大山7.寒川宮山の富士8.湘南潮来と河口 の8ヶ所が選定されていると。さらに「朝霞河畔緑地」の奥を望む。右手の植栽の中にあった石には「舟繋石(ふなつなぎのいし)」と。千石船の繋留などに利用されたものなのであろう。その隣にも大きな石碑があった。「相州須賀湊の碑この地は相模川の河口に位置する自然港としてまた漁場としてはやくからひらけていたもののようで平安時代僧空海が伊豆の国から来航ししばらく庵をむすんでいたという伝説がのこっている。鎌倉時代には上流の森林地帯から伐り出した巨木を筏としてここにあつめ沿海地に送るということも行なわれたらしい。つづいて後北条氏時代の記録は穀物魚類などを各処に輸送したことをのせている。特に江戸時代には須賀の回船問屋が千石船をもって江戸表をはじめ各地と物資の交流を行なったため商業地として繫昌し、かたがた須賀のさかな売が奇智と勤勉とを以て販路を拡張したことは有名な話である。明治二十年七月平塚ステーション開駅以来一時衰微をみたが近来遠洋漁港としてまた健康な住宅地としてめざましい発展を続けているばかりでなく河海の雄大にして変化に富む眺望は湘南最高の観光地としてあまねく世人の知るところとなったことはよろこばしい。 昭和四十一年夏 平塚市長 加藤一太郎 題字 元市長 柿澤篤太郎 撰 竹 坪 田中正一郎 書」入口にあった「須賀湊の碑 70m ⇒」はこの碑のことであろう。裏面には「建碑寄附者芳名」と。「相州須賀湊の碑の建設企画を発表したところ、各方面特に須賀の方方から絶大な賛同を得たことは誠に喜びに堪えなかった。茲に協賛各位に心から感謝を捧げる相州須賀湊の碑建設期成会長 平塚市議会議長 富田藤太郎詩」と。「平塚八景 湘南潮来」その先に「トラスコ湘南大橋」を望む。「朝霞河畔緑地」の最奥にあった神社名は「??神社」。石の社。その横にも石祠の台座と屋根のみが。石鳥居の前には先代の鳥居の基礎のみが。先代の鳥居は金属製の朱の鳥居であったようだ。再び神社の裏から須賀港を見る。神社の裏から、石鳥居越しに「トラスコ湘南大橋」をこれでもかと!!最奥の神社前から「朝霞河畔緑地」を振り返る。平塚漁港周辺堤防の竣工の記念碑。「平塚漁港周囲堤防」碑。そして再び「須賀港」の堤防壁画を追う。右側には、土星の如き姿が。こちらには富士山の姿が。「豊かな川 相模川」と。こちらは相模湾の波であろうか?海鳥の姿も。「平塚市水産物地方卸売市場」の建物も見えた。そして「朝霞河畔緑地」まで戻ると、ここにも「堤防ゲート」が設置されていた。こちらのゲートは回転式ではなく横引式であった。「須賀周囲堤防ゲート設備竣工年月 1989年8月主材質 アルミニウム合金製型式 横引式ゲート(5号)純径間×有効高 3.00×2.50制作 日本軽金属株式会社」カルバートを潜り前方・上流方向を見る。「馬入橋水質観測所」の上階は「馬入橋水位観測所」になっていた。2階の入口には「馬入橋水位水質観測所」と。「馬入橋 水位観測所馬入橋 水質観測所 相模川水系 相模川< 水位観測 > 位置 :神奈川県平塚市千石海岸 河口から 1.80km 零点高 :T.P 0.00m 観測開始 :昭和58年9月 計画高水位:5.70m< 水質観測 > 観測開始 :昭和46年」そしてこちらが「朝霧公園」。平塚市札場町47−9。次に訪ねたのが、「朝霧公園」の北側にあった「横町稲荷神社」。住宅の間に鎮座する小さな神社。平塚市札場町46−6。奥には小さな社殿があった。社殿の脇には小さな境内社もあった。中には「道祖神」と刻まれた石碑が納められていた。近づいて。「庚申塔」文政6年(1823)2月山伏角柱月日(陰刻)・「庚申塔」・三猿右側面「癸 文政六歳 未 二月吉日」・3人の名左側面「横町 願主」・3人の名次の目的地に進んで行くと「入船屋青果店」横の駐車場の奥にも社が鎮座していた。内陣を覗く。垂れ幕には稲穂紋の如き紋が。石塔の如きものが鎮座。ヘビが巻き付いているようにも見えたが。そして「平塚市水産物地方卸売市場」を訪ねた。毎月第4金曜のお昼過ぎから魚の直売が行われていると。毎年6月には『湘南ひらつか魚まつり朝市』という大規模な朝市が開催。漁師鍋の配布やどじょうすくい、そしてマグロの解体ショーからセリ形式での販売……などコンテンツ盛りだくさんとのこと。もちろん既にこの日の市は終わっていた。トラックのみが残っていた。「平塚市 下水道 水準点」標柱。標高 ◯米.五三七 と記載されていたのであろう。以前は4個の石で囲まれていたのであろうが。「平塚都市計画下水道 NO.8 平塚市」と。その先の交差点の角にあったのが「相州須賀湊 札の辻蹟」。平塚市札場町17-22。昭和25年の平塚市町界町名改正原案では、「有明町」や「柳河岸」という名称が提案された。住民からの意見と各地区出身議員の協議会によって名称を「札場町」と定め、同40年7月に町名変更が実施されたのだと。「相州須賀湊 札の辻蹟」碑。「札の辻跡小田原北条氏の時代、須賀の地は交通・経済の要衝の地で、直轄地であったと思われる。その頃、今でいう区画整理が行われ、寺院はすべて西北の地に寄せ集め「寺町」と命名し、「川端町」「北町」「横町」「仲町」「南町」「西町」の町名を用いたと考えられている。そのほぼ中心に近い十字路に掟書の札をかけた掲示板のようなものを設け、ここを「札場」といい、その辻を「札の辻」とよんだ。須賀の商人が各地に向かった起点がここ、「札の辻」であった。 平塚市観光協会」札の辻から伸びる道の1つに、平塚新宿の東海道に向かう大道があり、東海道から起点となる八王子道、大山道、曾屋道に繋がる。もう1つはさかな道と呼ばれ、馬入や八幡、四之宮を経て、八王子道に合流する。ここ札の辻は明治20年の東海道鉄道開通以前、相模中央部における物資の一大集散地として栄え、須賀の商人は、案内板にもありように、この地を起点に各地へ向かったという。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.28
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相模川右岸堤防から再び「トラスコ湘南大橋」を振り返る。相模川河口が光る。その先に須賀の玄関口であった相模湾。伊豆や房総半島、江戸などと回船が往来していたのであった。釣り人の姿を追う。上流側にも。JR東海道線の橋梁、国道1号・馬入橋越しに遠く斜張橋構造の「湘南銀河大橋」も見えた。上空には厚木飛行場に着陸する航空自衛隊?の飛行機の姿が。風は強くなかったが、河口付近の水面はやや波立って。波立つ水面。3人組の釣り人が仲良く並んで。この場所は、ルアー釣りでシーバスを狙う人が多く、ウナギ狙いの投げ釣り師もいるとのこと。ウナギは夜釣りが多いと も。近づいて。男性ばかりで夫婦の姿はなく・・・。堤防下から坂を上ると、ここにも防潮ゲートが。左手の公衆トイレ越しに、この後訪ねた神社の朱の鳥居が見えた。電光掲示板、スピーカー、アンテナのついた鉄塔。城山ダムの放流時の増水を知らせる「放流警報設備」。この電光掲示板に「城山ダム 放流中 注意」と表示されるのであろう。ここにも「危ない!!(ダムの水をながし川の水がふえることがありますから気をつけて下さい)ダムの放流による増水に注意」そしてサイレンの吹鳴方法(なりかた)が。「この施設は、城山ダムから放流する時 危険を呼びかけるための施設です。」須賀港(平塚漁港)入口の堤防の先にも、この後訪ねた神社の石鳥居が見えた。ズームして。「須賀港(平塚漁港)」を見る。須賀港は江戸時代幕府公認の七つの湊の一つであり、相模の国の物流の集散地であり文化の入口でもあった。江戸時代人気のあった大山参拝の海の玄関口として多くの人で賑わった。天保年間には、平塚宿より須賀村の方が人口が多かったのだと。明治20年鉄道が開通すると船便は寂れ、漁船だけの港となった。昭和26(1951)年に完成した港。 開港当時の名称は須賀漁港であったが、後の昭和27年平塚漁港に改称。現在は釣り場としても人気で、ハゼ釣りの人気スポット。目の前にバス停、公衆トイレもあり、お薦めの釣り場。川沿いに南下すると、湘南大橋付近まで足元の良い釣り場が続き、のんびりとした釣りを楽しめるようだ。多くの漁船が朝の漁を終えて港に戻っていた。この堤防の先周辺が「湘南潮来」と呼ばれている場所のようであった。神社の裏側には銀杏の黄葉が。青空に黄葉が映える。更にズームして。そしてこちらが神社の入口。境内へは石段を上って。「河野洋平」の文字が。社号標石「港稲荷神社」。平塚市千石河岸64。石段を上ると、直ぐ左側にあったのが、相模川に向かって立つ「出世稲荷」。「出世稲荷」の社。内陣。その脇にも小さな境内社があった。中には石碑が鎮座。文字が刻まれているようであったが・・・。石鳥居の先に朱の鳥居が並ぶ。六基の朱の鳥居が並んでいた。手水場。「港稲荷神社」社殿。「狛狐」が迎えてくれた。台座の下にも。(右)。「狛狐」が迎えてくれた。台座の下にも。(左)。内陣御祭神:宇迦之御魂命 ( うかのみたまのみこと )祭礼 :2月11日 稲荷講(いなりこう) 5月第4日曜日 例大祭(れいたいさい)更にズームして。右手には「港稲荷神社」、「玉串道祖神」と書かれた御札が。「正一位稲荷利大明神 玉串道祖神」と刻まれた石碑。「稲荷利」??「神楽殿」。そして、「港稲荷神社」を後にして「須賀港(平塚新港)」を囲む堤防上を歩く。堤防の壁には多くの壁画が描かれていた。「鯨(クジラ)」。山の姿。須賀港を追う。須賀湊(すがみなと)は相模川が相模湾に注ぐ河口付近に位置する河岸 。自然の地形を生かした天然の港として早くから開けていた。この地には平安時代に伊豆から空海が来航し、庵を結んでいたという興味深い伝説も残っている。 須賀湊は元亀元(1570)年に北条氏から麦130表を熱海へ輸送することを命じられたり、相模川上流から運ばれた材木が集積され、海路で運び出されるなど、次第に水運の要所として発展して行った。江戸時代前期には、須賀湊の回船(沿岸を結ぶ荷船)は 鎌倉郡や高座郡など広範囲の幕領年貢米の輸送を一手に受け持っていた。また、相模湾を通ってやってくる回船からは砂糖や塩、肥料、ござや傘などの日用雑貨が運び込まれ、 須賀湊からは白炭や薪、杉板、米などを運び出していた。 回船の主な往来先は伊豆、江戸、房総半島だといわれている。かつて関東地方は河川水運の発達した地域であった。 その証として各地に残るのが河岸。相模川の舟運も盛んであった。相模川上流からは炭や薪、 米などが高瀬舟で運ばれた。帰りは肥料や塩、日用雑貨を積んで川を上ったのだと。相模川への出口方向を見る。須賀湊には湊の利用にあたり「湊口二十間余大船は入ら ず、四百石積の船を限度とす」という決まりがあった。 四百石積み以上の回船は湊口が狭く須賀湊に接岸できない ため、集められた物資は一度荷揚げ場(河岸場)に積み上げ、 後で沖に停泊した回船に小船で運んだと。逆に回船 から湊に運び込まれた物資は高瀬舟に積まれ、川上の村々へ運ばれていたのだ。 出入口の先に「トラスコ湘南大橋」も見えた。須賀湊を擁する須賀村は大いに栄えた。『新編相模国 風土記稿』によると、東海道の宿場町である平塚宿の家数が289軒なのに対し、須賀村の家数は一村で452軒。その繁栄 ぶりがうかがい知れるのだ。他国の船乗りも多く滞在し、湊には さまざまな地域の情報が集まっていたとのこと。堤防上をグルっと廻って。「須賀湊圖」。江戸時代に編さんされた『新編相模国風土記稿』(国立公文書館蔵)に収録されている「須賀湊圖」をネットから。隣の建物の壁にはツタの紅葉が。そして堤防の終点の横には小さな建物、その横に監視カメラが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.27
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国道134号に向かって坂道を上って行った。「龍宮社」を裏側から見る。次に訪ねたのが「海徳稲荷神社」。住宅街の一角で、ブロック塀に囲まれた敷地に位置して、西向きに鎮座。小さな境内は、良く管理されていた。平塚市千石河岸57−42。社殿も朱に塗られて。内陣には「正一位海徳稲荷神社」と刻まれた石碑が。大正四年十月記念〇〇人田中佐兵ヱとも刻まれていた。その先にあったのが「港友会 交通安全地蔵尊」。「港友会 交通安全地蔵尊」碑。一昔前、この134号線を頻繁に横断して行き来していた時代があり、その時何人も、この付近で交通事故、死亡事故が発生していたと。それを見かねて、地元でお地蔵さんをたて、無事故を祈ったのだと。お地蔵さんには生花が手向けられていた。穏やかなお顔の地蔵様。台座にも「為交通安全地蔵尊」と。お顔をズームして。その隣にも慰霊塔があった。中には一木造りの仏像が安置されていた。その先に「BILLABONG STORE OCEANSIDE 平塚」があった。自社ブランドのボードショーツや水着など、ビーチライフ用のファッションやアクセサリーを扱うサーフショップとのこと。道路際にあった植物は、開花前の「リュウゼツラン」ではなかろうか。「リュウゼツラン」は中南米原産の植物で、数十年に一度だけ、枯れる前に花を咲かせると言われているのだ。そして放射状に伸びる「リュウゼツラン」の葉。昨年、知人宅の近くで咲いたリュウゼツランです。ズームして。国道134号線の遊歩道を「トラスコ湘南大橋」に向かって東に進む。「トラスコ湘南大橋」の平塚側。ズームして。遠く「烏帽子岩」も見えた。ズームして。正式名称は「姥島(うばしま)」。茅ヶ崎市の沖合1,200m付近にある無人の岩礁群。乳母島とも記述され、古くは筆嶋とも称されたとのこと。更にズームして。下り車線の「トラスコ湘南大橋」の平塚側には石碑が立っていた。休憩用の椅子代わりの石には幾何学的な不思議な模様が。「湘南大橋の碑」。「湘南大橋の碑湘南海岸地域は日本の代表的な海浜レクリエーション地域であると共に、温暖で良好な環境に恵まれた住宅地として知られていますが、昭和の初めごろまでは何も変哲もない砂丘地帯でした。昭和6年、県はこの地域の発展のために、藤沢市片瀬から大磯町に至る海岸沿いに湘南遊歩道路の建設を始め、昭和11年秋、この事業最大の工事であった湘南大橋を完成させました。湘南大橋はその後半世紀もの間、東海道筋の重要な交通路としての役割を果してきましたが、老朽化のためこのたび架け替えを行いました。新しい湘南大橋は「人と人とのふれあい」をモチーフに設計し、幅の広い歩道と親柱やバルコニーの紋章に「ふれあい」の空間を表現しました。この橋を含め相模湾沿いの道路の整備は、二十一世紀の湘南海岸地域を展望した「湘南なぎさプラン」の主要な事業の一つとして位置づけております。この橋の完成により湘南海岸地域が生活とスポーツ、レクリエーションが融合した新しい出会いの場となるよう願っています。 一九八六年十月 神奈川県知事 長洲一二」「さがみがわ(相模川)」。「しょうなんおおはし(湘南大橋)」。「トラスコ湘南大橋」の下り線。引き返し再び「港友会 交通安全地蔵尊」、「BILLABONG STORE OCEANSIDE 平塚」を見る。「平塚漁港の食堂」。平塚市漁業協同組合と民間とのコラボ事業として農林水産省の6次産業認定を受けて誕生した食堂とのこと。そして「高浜台交差点」まで歩き、国道134号を渡る。そしてこちらは、以前に「デニーズ 平塚海岸店」を利用した時に訪ねた、近くにある「阿弥陀如来坐像」・「お阿弥陀様」と呼ばれているという石仏。平塚市高浜台28-17。中に入れる場所は見つからなかった。「阿弥陀如来坐像」は台石を含め4 m余の高さがある。台座正面に「海上安全」と刻まれ海を向いて建てられていた。ズームして。「お阿弥陀様お阿弥陀様の名で親しまれている阿弥陀仏石造は、海上安全を願ったり先祖供養の石仏として、現在も篤い信仰をうけている。石像は宝永年間(一七〇一~一七一〇)に海宝寺の覚誉(かくよ)上人によって建立されたが、その後蓮台や台座が砂に埋もれてしまい、弘化ニ年(一八四五)に再建された。台座を含めると四メートルほどの高さがあって、手は弥陀定印(みだじょういん)を結んで、海に向けて建立されている。元は、相模川河口に近い松林のなかにあったと伝えており、現在地にまつられるようになるまでに何回か移転している。八月十六日には、地元の漁業関係者が集まり、浜施餓鬼が行われ、さらに毎月十六日には念仏供養も行われている。 平塚市観光協会」「お阿弥陀様」の向かって右にあった2基の石碑。右手の石碑には「水陸幽顯法界舎識」と。上部には阿弥陀三尊、すなわち阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩の梵字を掘り込んで本尊とし、その下には「水陸幽顯法界舎識」と陰刻されていた。「水陸幽顯法界舎識」の「幽顯」とは、今生きる現世と死後の世界を指す言葉、「法界」とは全宇宙からなるすべての世界をさしすのだと。水陸を含んだすべての霊魂に対する供養塔として、この石塔が建立されたのであろう と。亀の供養塔たくさんの供養塔と並んで、大正9年(1920)に建立された亀の供養塔があった。正面に「爲亀霊菩提」の文字と亀の姿が線刻されている。昔から亀は縁起のよい生き物と考えられ、浜に上がった亀を見つけると酒を飲ませ、放してやると後で大漁に恵まれるという言い伝えがあり、大漁の神、海上安全の神として漁業関係者から大切にされている と。次に訪ねたのが「西町稲荷神社」。社号標石には「正一位 稲荷山神社」と。「正一位 稲荷山神社御由緒社伝によると、今よりおよそ千二百年前、「僧空海(弘法大師)が伊豆の国より布教のため須賀湊に上陸され、此の地に留まりし時に勧請せし」と言われ、よって当社の創建はこの時代と思われる。御祭神は、京都伏見稲荷大社と同じ「宇賀御魂命」で五穀を司る神である。その後真言宗僧鎮海師、大師の足跡を慕ってこの地に草庵を結び「邑中鎮護のため稲荷大明神再建ありし由、稲荷山と申し候」と言う記録があり、平塚市最古の稲荷社でもある。昭和二十年七月の戦災以前は、現在の所が小山の頂きにて、お稲荷様の社殿が建ち、形の良い磯馴松が点在する中に真赤な鳥居が五、六十基立ち並び参道を形作り、周囲の麦畑と調和して一幅の絵の様な美観であった。古老の話によれば、海上の漁船より稲荷山の松の木が展望され、陸地の目印とされていたと言う。古きより稲荷山のお稲荷さんと親しまれ、家内安全、海上安全、商売繁昌を祈願する善男善女の参拝者が後を絶たず、毎年四月二十九日に例大祭が行なわれる。」一の鳥居を正面から。扁額「西町稲荷神社」。二の鳥居、そして数多くの朱の鳥居が並ぶ。手水舎。「金子長大 記念植樹」碑。奉納された数々の朱の鳥居に近づいて。鳥居の下から。狛狐(右)。狛狐(左)。拝殿正面に。西町稲荷神社は、平塚市高浜台にある神社。西町稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、大同年間(806-810)に弘法大師が相模国を巡錫、当地に滞在際に勧請したと伝えられ、文治元年(1185)頃には、僧鎮海が海詠山長楽寺を創建した際に稲荷大明神を再建し「稲荷山」と称したといいます。扁額「稲荷神社」と。左脇にあった社務所?斜めから朱の鳥居、拝殿を見る。「御造営記念誌」碑、「寄附者 米前本店 杉山茂殿 社地二百二十一坪」碑。杉山茂氏は神奈川県大住郡須馬村須賀(中郡須馬町、平塚町を経て現平塚市)で、醤油味噌醸造業・杉山善平の長男として生まれる。1910年(明治43年)明治学院を卒業した。家業に従事し、1923年(大正12年)コンクリート製のもろみタンクを考案。1924年(大正13年)家督を相続し、米善醸造を県下一の醸造会社に成長させた。1923年、須賀郵便局長に就任。1925年(大正14年)須馬町会議員に選出され平塚町との合併に尽力し、学務委員も務めた。合併実現後、同町会議員、平塚市会議員を務めた。議員退任後、神奈川県醤油工業理事、同県醤油統制会社社長、同県醤油工業協同組合理事長を務めた。その他、湘南鉄工所社長、駿河銀行監査役、相模鉄道監査役などを務めた。1946年(昭和21年)補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され同年9月20日から1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した人物 とウィキペディアより。様々な石碑が。先程、ここ「デニーズ 平塚海岸店」の駐車料金精算機を使用したのであった。「トラスコ湘南大橋」案内板。「「かながわの橋100選」のひとつである湘南大橋は、国道134号相模川河口部に架かり、湘南海岸地域における東西方向の交通を担う橋梁として昭和11年秋に開通いたしました。平成22年4月1日、企業メッセージに「がんばれ! !日本のモノづくり」を掲げる工場用副資材専門商社、トラスコ中山株式会社は日本のモノづくりを応援する企業として物流に欠かせない「橋」である湘南大橋のネーミングライツ(命名権)を取得いたしました。これにより「トラスコ湘南大橋」へと名称を変えた「湘南大橋」は茅ヶ崎市・平塚市を結ぶ重要な交通路として地域、そしてモノづくり現場の人々へのより一層の貢献を目指します。「がんばれ!!日本のモノづくり」。「トラスコ湘南大橋」。トラスコ中山のトラスコとは、「TRUST(信頼)+ COMPANY(企業):信頼を生む企業」の造語であるとのこと。そして国道134号の山側の小路沿いにあった「平塚灯台(須賀の灯台)跡地」を訪ねた。奥には「桜河岸公園」があった。平塚市千石河岸13-13。「平塚灯台(須賀の灯台)跡地平塚灯台(須賀の灯台)は昭和八年十一月、東京・大阪間に開設された航空路の安全航行を目的に、この地に設置されました。当時の高さは十六・九六メートル(頂部まで)で、五十キロメートル先からも光が見えたといわれます。その後、航空機の発達に伴って、昭和四十三年には廃止が決まりましたが、船舶の航路標識として、また「平塚空襲」でも戦災を免れたので、地域のシンボルとして残してほしいという要望により、昭和四十四年十二月一日に再スタートします。五十八年には鉄骨部分が建て替えられ、高さが約十メートル伸びて、二十六・ハ六メートルとなりました。この間、二十七年に発表された「なでしこ節」や、三十九年に制定された「港小学校校歌」にも歌われています。しかし、老朽化が進み、船舶も新湘南大橋の照明や人工衛星を使ったシステムなどを利用するようになったため、平成十二年十一月六日に消灯。六十七年の歴史に幕を下ろし、灯台は解体・撤去されました。灯ろう部などは現在、港小学校に展示され、多くの児童の成長を見守っています。 平成十六年(二〇〇四年)三月 平塚市」そしてこの後に訪ねた、平塚市立港小学校にあった「平塚灯台」の頭部。「平塚灯台(須賀の灯台)昭和八年(1933年)、東京と大阪間を飛ぶ飛行機の安全を確保する航空灯台として造られました。昭和四十三年に廃止が決まりましたが、市民の要望で海上灯台として働き続けました。その後、科学技術の進歩によりその役割を終え、平成十二年(2000年)の秋にとりこわされました。郷土いろはカルタに詠まれ、港小学校の校歌にも登場する灯台、市民に親しまれ思い出がたくさん詰まった灯台を地域に残したいという港地区住民の強い要望で、その頭部を港小学校に移して保存することになりました。みなさんの成長を見守っている須賀のシンボルを大切にしてください。 平成十八年(2006年)三月 平塚市」「桜河岸公園」を見る。「桜河岸公園」の敷地内には「千石河岸自治会 防災倉庫」が準備されていた。しかし、この場所は大きな津波が襲来すれば・・・・と。更に相模川右岸堤防に向かって進む。右手に国道134号下のボックスカルバート風の通路。国道134号からこの道路に下りる階段があったのだ。そして正面に「相模川右岸堤防」が現れた。「相模川右岸堤防」の上流側を見る。「相模川右岸堤防」上に上がる。再び「トラスコ湘南大橋」を見る。「千石河岸防潮ゲート設備」。城山ダムの放水や台風等の豪雨、津波等により相模川の水位が異常上昇した時に住宅街に河川水がこの場所から流入せぬようにこのゲートを完全閉鎖するのだ。「千石河岸防潮ゲート設備竣工年月 1990年7月主 材 質 アルミニウム合金製型 式 片開式ゲート純径間 × 有効高 3.00 × 1.607製 作 日本軽金属株式会社」反対側から「千石河岸防潮ゲート設備」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.26
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この日は11月22日(火)、平塚へ仕事の打ち合わせに車で向かう。新湘南バイパスを利用して、茅ヶ崎海岸ICを目指す。「湘南ベルブリッジ」を通過。「茅ヶ崎料金所」を通過。そして国道134号にて「相模川」に架かる「トラスコ湘南大橋」を渡る。箱根の山の姿は確認できたが、富士山の姿は雲に隠れていた。そして右手に見える「デニーズ平塚海岸店」で暫しの仕事の打ち合わせを行う。そして、打ち合わせ終了後、「平塚市田村地区から相模川の流れに沿って」のブログが東海道線の北側・(その19)までで、2022年8月29日で中断しているので、急遽この日に東海道線の南側地区・千石海岸、札場町、久領堤、夕陽ヶ丘、幸町、高浜地区を海側から東海道線方向に向かって巡ることを決断したのであった。よって相模川の流れに逆らって上流に向かって歩くことになった。既に、Googleマップに訪ねる場所はチェック済みであったので、スマホさえあれば、事前準備は不要なのであったのだ。「デニーズ平塚海岸店」を後にして、「ひらつかタマ三郎漁港」にある駐車場に向かい、車を駐めこの日の散策開始。「ひらつかタマ三郎漁港」の防波堤から遠く我が藤沢市の「江の島」を見る。ズームして。相模川対岸にある相模川左岸・「柳島水再生センター」が見えた。「柳島水再生センター」は、相模川河口の茅ヶ崎市側に位置し、昭和52年12月に処理を開始。現在は、一日に531,700m3 /日最大の下水を処理する水処理施設(9系列)や汚泥処理施設が稼動している。写真左側が下水処理設備、右側が汚泥焼却炉設備である。「ひらつかタマ三郎漁港」を見る。平塚市では、平成28年度から平塚漁港にネーミングライツを導入。「ひらつかタマ三郎」は、平塚の漁業のPRキャラクター。東海大学教養学部芸術学科デザイン課程の研究室と平塚市漁業協働組合とのコラボレーション企画で誕生したのだと。平塚の漁業をPRするキャラクター「ひらつかタマ三郎」。“タマ三郎”は「猫」とのこと。。そして荒くれ漁師をイメージしたことで「ワイルド」「酒が好き」「女好き」「意外とやさしい」「川柳好き」といった性格付けがなされていると。日を重ねるごとに少しずつだが、“タマ三郎”の素性が明らかになって来たと。「妻子がいた」「趣味はテニス」「チョコバナナが大好物」などなど・・・・と。反対側には、遠く平塚市・湘南平の旧展望台の姿が。「ひらつかタマ三郎漁港」には多くの釣人の姿が。「トラスコ湘南大橋」越しに「湘南ベルブリッジ」のアーチを見る。「トラスコ湘南大橋」。神奈川県平塚市の相模川に架かる国道134号の橋。相模川に架かる橋の中で最も河口側に存在している。全長698m。現在の橋は2代目。2010年4月1日より5年間の契約で機械工具卸のトラスコ中山が命名権を獲得し、「トラスコ湘南大橋」の愛称が付けられている。橋への命名権導入は全国初。再び「江の島」をズームして。相模川右岸の堤防上を「トラスコ湘南大橋」に向かって進む。波も比較的大きく満潮の時間のようであった。相模川河口には水上バイクの姿が。釣り船の「庄三郎丸」、「庄治郎丸」。「庄三郎丸」。「庄治郎丸」。オーナーの名前は「庄三郎丸」のオーナーと同じ後藤さんとのことであるが、血縁関係はないとのこと。「津波に注意●大地震があったら津波に用心、すぐに海岸からはなれる●地震のゆれが小さくても津波情報に注意●「津波注意報」であっても、海辺での遊びや釣りは危険、すぐ避難を●津波は-度だけではなく、くりかえしおそってきます●情報はラジオ・テレビ・広報無線・広報車・サイレンなどで正確な情報を く津波予報サイレン〉予報の種類 「津波注意報」 「津波警報」 「大津波警報」サイレン音 約10秒 約5秒 約3秒休みの間隔 約2秒休み 約6秒休み 約2秒休み」危ない!!(ダムの水をながし川の水がふえることがありますから気をつけて下さい)ダムの放流による増水に注意この川の上流三十七キロメートルのところに城山ダムがあり、ときどきダムに貯った水を流し、この川の水が急に増えることがありますから注意して下さいまた、ダムに貯った水を流すときは、左記のとおりサイレンやスビーカーなどで知らせますので、そのときには危険ですから河原に降りないで下さい。サイレンの吹鳴方法20秒サイレン➡5秒休止➡20秒サイレン➡5秒休止・・・・・・・・・・・・・👈リンク。「相模川」。相模川と本流沿川の市町村。山梨県南都留郡山中湖村、富士五湖の一つでもある山中湖を水源とする。富士山北麓の水を集めながらまず北西に流れ、富士吉田市で北東に折れる。都留市を経て大月市で流路を東に変える。相模湖と津久井湖(ともに相模原市)という2つのダム湖を経て、ゆるやかに進路を変え、厚木市からは南にまっすぐ下り、神奈川県中部を貫き、ここ平塚市・茅ヶ崎市の境付近で相模湾に注ぐ1級河川。相模川の名前は相模国に由来する。上流の山梨県では、桂川(かつらがわ)と呼ばれている。「トラスコ湘南大橋」の横の下方にあったのが「龍宮社」。水を司る龍神様は漁業の神として、豊漁祈願や水難除けとして地元漁師の信仰が深いと。平塚市千石河岸57−6。朱の鳥居には「龍宮社」の扁額が。朱の鳥居の柱には「平塚市漁業協同組合」と。「平成十八年五月吉日」と。狭い境内の奥に石祠、木祠、そして奉納塔が並ぶ。「龍宮社」の社は石祠。この「龍宮社」は1月、2月、9月に漁業関係者が近くの三嶋神社の宮司を招いて大祭を行うと。隣には木祠が。内陣を。紙垂の奥には「八大龍王神」と書かれた御札が。茅ヶ崎市には「八大龍王神」の社が数多くあったがここ平塚市にも。「一金百五拾圓也 寄附昭和二年十二月」と刻まれた「奉納塔」。「鰤大謀網(ぶりだいぼうあみ)」の奉納塔であると。こちらは「奉納 一金壱百圓也 大正十年五月」と刻まれていた。三島神社にある奉納塔と同じ年月に建てられていると。「大謀網」は天保大網とよく似た構造だが、魚群が入ると入り口の網を閉めて、魚群が逃げることを防ぐ。この網は大敷網に変わって導入され、神奈川県では大正11年から昭和10年頃までブリをたくさん獲り、相模湾の寒ブリとして全国的に有名になった。網の規模が大きく、網を揚げて魚を獲るのには150人ほどの人手を必要とした と。その隣の石碑には、「高雄山大権現」と刻まれていたが・・・。その隣にも石祠が。再び堤防に上がって「トラスコ湘南大橋」の下部近くまで歩く。この日は「大潮」で海水が上って。「トラスコ湘南大橋」のRC製の橋脚を見る。「トラスコ湘南大橋」の下には釣り人の姿が。滔滔(とうとう)と流れる相模川。下り車線の橋脚を見る。巨大なボルト・ナットで二重に固定されているようであった。下り車線の橋脚を見る。北側の堤防を望む。「トラスコ湘南大橋」の端部を見る。「塗装記録表」。6年半前の平成28年(2016年)3月が最終の塗装日と。塗装面積は約□43m。端部の基礎工事の仕様。1986年に橋脚の老朽化に伴い、2代目橋梁(現在の下り線橋梁)に架け替えたので1981年はその5年前ということになる。 ・・・つづく・・・
2022.11.25
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この日、11月6日(日)には私の住六会地区総合防災訓練が3年ぶりに実施されましたので参加して来まし。起震車体験、濃煙体験、ドローンによる上空からの監視体験、34mの高さまでのびる梯子車のデモンストレーション等々盛りだくさんの訓練でした。会 場 :消防防災訓練センター(旧北高等学校グラウンド)主 催 :六会地区防災リーダー連絡会 協力団体:防災政策課・危機管理課・藤沢市北消防署・消防六会出張所・ 藤沢市消防団藤沢第13・14・15・16消防分団・六会地区民生委員児童委員協議会・ FSV(藤沢災害救援ボランティアネットワーク)・藤沢市福祉団体連絡会 等々。住 所 :藤沢市石川3417-1「藤沢市消防防災訓練センター」は消防局内の研修や訓練の場、また他都道府県からの緊急消防援助隊を受け入れるための活動拠点になっている。正面に訓練用タワーが2基。右の訓練用タワーの高さは17m。そして藤沢市消防局の梯子車や地元の消防分団の消防自動車も到着し待機中。約25に及ぶ自治会が参加、総勢700名の防災訓練になりました。ドローンも上空を飛行。そして開会式前に梯子車による高所からの救出訓練のデモンストレーションが行われました。救助隊員1名が梯子車の先端に乗り込み、梯子が救助者のいる場所に延びる。そして救助される方が梯子車に乗り込む。そして地上に到着し、救助・避難完了。そして開会式が始まった。防災訓練本部のテントな並ぶ。六会地区防災リーダー連絡会 副会長の開催宣言。会長挨拶。軽トラックの荷台に乗って。鈴木恒夫藤沢市長の挨拶。手話通訳者も参加。消防団隊員も制服・ヘルメット姿で。藤沢市北消防署・消防六会出張所・藤沢市消防団藤沢第13・14・15・16消防分団の隊員が整列。関係団体の方々。開会式も終わり、防災訓練のスタート。再び梯子車のデモンストレーションが行われた。高層階からの救助活動や、高所からの放水活動が必要な場合に活躍。低所へはしごを伸ばすことが可能で、状況に応じて水難事故でも活躍。はしご部分には、人を乗せる機構としてバスケットやリフターがあり消防隊員を高所まで搬送したり、要救助者の救出をしたりすることができるのであった。南本署隊が運用する40m級はしご車、呼び出し名称「藤沢南はしご1」2014年からの運用で、いすゞ自動車GIGAベースの3軸車にドイツのマギルス社製はしごが艤装されている。伸縮水管や電動放水銃を備え、円滑な消火活動が可能になっている と。長さ:1,125cm 幅:249cm 高さ:367cm総重量:19,450kg梯子が青空に向かって伸びて行った。5段の伸縮梯子が最大に伸びて。一度だけ!!訓練で!!先端のバスケットに乗ってみたい気もしたが・・・。ここが40m級梯子車の操作パネル。そしてこちらが「起震車体験訓練」車震度1~7の震度別体験や阪神淡路大震災、新潟中越地震、関東大震災、宮城県沖地震等の震災時の揺れを体験することができるのであった。この後、この起震車の前には親子連れの長蛇の列がいつまでも。防災訓練の役目を終えた起震車の姿を。AEDの操作体験コーナーには、若い親子連れが沢山参加されていて防災意識の高い方がいることを実感しました。AED(自動体外式除細動器)とは、心臓がけいれんし血液を流すポンプ機能を失った状態(心室細動)になった心臓に対して、電気ショックを与え、正常なリズムに戻すための医療機器。2004年7月より医療従事者ではない一般市民でも使用できるようになり、病院や診療所、救急車はもちろんのこと、空港、駅、スポーツクラブ、学校、公共施設、企業等人が多く集まるところを中心に設置されているのだ。AEDは、操作方法を音声でガイドしてくれるため、簡単に使用することができる。心臓マッサージ(胸骨圧迫)を学ぶオバチャン。濃煙体験訓練に私も参加。実際の現場では恐らくパニックになる濃煙体験では、まったく前方が見えない状況を体験した。訓練とわかっていても煙で充満した部屋はとても怖く、繰り返しの訓練の重要さを実感したのであった。藤沢市消防団藤沢第13(石川・天神町地区)・14(西俣野地区)・15( 亀井野上地区)・16(亀井野下地区)消防分団の消防車が並んでいた。藤沢市消防団は1本部31個分団体制で、団本部員4人、1個分団15人を基本として、江の島を管轄する1個分団を30人、海岸に接する4個分団を20人で編成し、総員504人(条例定数)で消防団活動を実施している と。移動ポンプ車が手前に。手動伸縮の梯子も。住宅用火災警報器のコーナー。藤沢市の公式マスコットキャラクター「ふじキュン♡」も活躍中。定期的な点検も必要と。「電池式 ワイヤレス連動型」がオススメと。1ヵ所で検知すると家中にすばやぐ連動。あかり(白色LED )で夜問の避難をサポートする と。ドローンのコーナー。このドローンは重さは1.5kg、1回の充電で20分ほど飛行可能と。別のドローンも。いずれも中国製と。土嚢作り。そして消防分団による放水のデモンストレーションが。この後、丸められたホースを取り出し、路面に転がしホースを延ばす。放水準備完了。放水開始。そして閉会式では衆議院議員・星野つよし氏が挨拶。六会市民センター長の講評・挨拶。そして約2時間の防災訓練を終了し、解散したのであった。 ・・・END・・・
2022.11.21
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次に訪ねたのが「史跡勝坂遺跡公園」。縄文時代中期(約5000年前)の大集落跡。大正15(1926)年、考古学者大山柏氏による発掘調査で発見された縄文土器は、立体的な装飾の文様や顔面把手(顔を表現した取っ手)などによって注目をあび、後に「勝坂式土器」として縄文時代中期のめやすとされた。また、同時に発見された多くの打製石斧を、土を掘る道具と考えて原始農耕論が提唱されたことは我が国の考古学史上、極めて重要であると。 昭和48(1973)年の発掘調査で発見された集落の一部、勝坂遺跡D区が49(1974)年に国の史跡として指定され、55(1980)年、59(1984)年、令和元(2019)年に追加指定を受け、D区の国指定面積は42,951平方メートルとなっている。D区の東方、谷を隔てた台地に位置する大山柏氏の調査地点、勝坂遺跡A区では平成17(2005)年の発掘調査で発見された集落の一部、磯部字中峰2097番1ほか4,104平方メートルが平成18(2006)年令和元(2019)年に指定され保存された。勝坂遺跡周辺は起伏に富んだ自然地形に、緑豊かな斜面樹林(段丘崖)、こんこんと湧き出る泉など、縄文人が長く暮らし続けた豊かな自然環境が今なお残されている。平成21(2009)年度には「大自然の中の縄文時代」を体感できる遺跡公園として整備した。園内には縄文集落の雰囲気を再現し、土葺きと笹葺きの竪穴住居2棟を復元しているほか、周辺には竪穴住居廃絶後の窪地なども復元している。また集落の終末期に登場する敷石住居の模造も屋外展示していた。公園内の管理棟には勝坂遺跡出土品やパネルの展示を行っている。「史跡勝坂遺跡公園 散策マップ」。「<国指定史跡> 史蹟 勝坂遺跡公園」パンフレット。案内に従い「くさはら広場」に向かって進む。案内に従い右方向に向かって進む。すれ違う人もなく。最初に訪ねたのが「敷石住居(30号住居)」「敷石住居(30号住居)縄文時代中期の終わりころになると、それまでの竪穴住居から構造が大きく変わり、柄鏡の形に石を敷いた住居(柄鏡形敷石住居)が登場します。この変化は、中期集落が遺跡の数・規模ともに減少していくことと歩調を合わせに現象です。その要因のひとつとして、気候の冷涼化という環境変動が考えられています。30号住居は土層観察の結果、実際には柄鏡形に掘られに竪穴の中に、敷石されていたことがわかりました。張出部と主体部との接続部には、敷居のような石が置かれています。この出入口部の張出は、出入口のニ重構造による、屋外の冷たい空気を入れない工夫とも考えられています。縄文時代の住居出入口部には土器を埋めた「埋甕」がよく発見されます。埋甕は、縄文人の再生観念による風習とみられ、土器の中に、再生・復活を願うものを入れていたようです。なかには幼児甕棺として骨が出土した事例もあります。」柄鏡の形に石を敷いた「住居(柄鏡形敷石住居)跡」。「埋没谷と縄文集落群」案内板勝坂遺跡は、鳩川流域沿いや湧水の流れる谷戸沿いにつくられた縄文集落群です。D区には、北と南に集落がつくられており、その間には、埋没谷が走っています。現況の地形でも谷状に窪んでいることがうかがえます。谷部などの水が流れる場所は、ドングリを水でさらすアク抜きなどに利用されることがありますがこの埋没谷は調査の結果、集落があったころにはほとんど埋まっていたことがわかりました。また、勝坂遺跡A区には集落を画す埋没谷が確認されています。「勝坂遺跡」配置図。「埋没谷の調査(平成16年)」。右手にあった「勝坂の照葉樹林」。「相模原市登録天然記念物 勝坂の照葉樹林この樹林は、シラカシを中心とする照葉樹林が二次的に回復したものです。低木層にはアオキ・ヒサカキ・シラカン・タブノキ等が見られ、草本層にはナガバジャノヒゲ・ヤブラン等が目立ちます。」前方に見えた「竪穴住居」に向かって進む。先程訪ねた「勝坂遺跡A区」、「旧中村家住宅」案内板。「竪穴住居(土葺)」、「竪穴住居(笹葺)」を見る。「竪穴住居(土葺)」。「竪穴住居(3号住居)竪穴住居はその名のとおり、半地下式の住居です。竪穴の周りには掘り出された土が積まれ、屋根の垂木を打ち込んだり、外からの雨水の流入を防ぐ周堤があったと考えられています。3号住居の場合、竪穴の掘削で出された土の量は、10 tダンプで約4台分にもなります。また、焼失した竪穴住居の調査事例や、中~北緯度の狩猟採集民による民族誌事例では、土葺きの竪穴住居が認められ、周堤以外に土を屋根に葺いて利用したことも考えられます。土葺住居は密閉された屋内空間をつくる特徴から、非常に保温性に優れた住居形態といわれています。3号住居には、石囲いの炉があり、家を暖めていたことでしよう。一方で、雨漏りや湿気のため、湿潤な時期に住むのには適さず」、寒い時期だけの「冬の家」とも考えられています。」「竪穴住居(3号住居)」跡の発掘状況。中央に「石囲炉」、外からの雨水の流入を防ぐ「周堤」、「発掘土器」。「竪穴住居(1号住居)」。「竪穴住居(1号住居)(笹葺)」を入口側から。「竪穴住居(1号住居)1号住居は埋甕と炉の位置関係から、入口が東側に向きます。屋根を支える柱は6本と考えられ、その配置は、炉とともに奥壁側に寄っています。また、炉のつくり替えや、柱穴、周溝が重なって複数あることから、住居の建替えが行われていたことがわかります。1号住居は他の2軒の住居と重複しています。構築の順序は2号→1号一3号の順で、いずれも古い住居か埋まった後につくられています。勝坂遺跡D区の南集落には50軒もの住居が発見されています。竪穴住居「跡」の数からは、大規模に見える集落てすが、集落の長きにわたる継続期間のなかで、住居の構築・建替・廃絶を繰り返した結果としての集落「跡」てあるのが実像です。」「竪穴住居(1号住居)」発掘状況。炉が奥壁側に寄っていること、住居の建替えが行われていたことが解るのであった。そして発掘された土器。入口の隙間から内部をカメラで覗く。往路と反対側を引き返して行くと、この先にも案内板が見えた。「廃絶住居の窪地 ー竪穴住居から竪穴住居「跡」へー竪穴住居の耐用年数は数年から10数年程度と考えられています。住居が使われなくなり廃絶された時から、半地下式の竪穴住居は土で埋まり始め、やがて窪地を形成します。このように、縄文集落の景観は数軒程度の住居とともに、廃絶住居の窪地がいくつもあったとみられています。竪穴住居を発掘調査していくと、住居の床面より高い位置の土の中から、土器や石器、石、炭化物などの遺物が大量に出土します。これらは、縄文人が日々の生活のなかで投け捨てたもので、竪穴住居「跡」となった窪地は、こみ捨て場として利用されていたようです。」「竪穴住居」跡の「窪地」。更に「くさはら広場」を北に向かって進む。ここが「くさはら公園」の東側の入口。「史蹟 勝坂遺跡公園案内図国指定史跡勝坂遺跡は、縄文時代中期(約4500 ~ 5000年前)の代表的な集落跡です。大正15年(1926)に発見された顔面把手付土器などの造形美豊かな土器は、この時代を代表するもので、「勝坂式土器」として広く知られています。この周辺には、起伏に富んに自然地形、緑豊かな斜面地の樹林、こんこんと湧き出る泉など、縄文人が長く暮らし続けた豊かな自然環境が、今なお残されています。史跡勝坂遺跡公園で、「大自然の中の縄文時代」を感じてみてください。」「史蹟 勝坂遺跡公園」案内図がここにも。上空からの写真。更に北へと。「縄文生活林ー集落周辺の植生と植物利用ー」案内板。「縄文生活林ー集落周辺の植生と植物利用ー縄文人は生い茂った森を切り開き、集落をつくります。集落周辺では木の実や山菜などの採集、建築材や木製品の木材の伐採、薪燃料の確保など、さまざまな生業活動が行われ、自然環境を開発し、改変していきます。その結果、集落周辺には、日当たりのよい空間と土嬢が生まれ、縄文人にとって有用な植物が多く育つ「ニ次林」が生育していたとみられます。食料としては栄養価に富み、保存性の高いオニグルミやクリを採集しています。市域ではクルミの実を模した土製垂飾やクルミ形の土器、炭化したオニグルミの殻なども出土しています。建築材には、耐久性に優れたクリが非常に多く使われています。クリはうっそうとした深い森では多く生育できない木ですが、燃料材としても多用されていることから、集落周辺に多く生育し、人為的に管理されていたと考えられています。木製品では、石芹柄にナラ類やスダジイ、丸木弓にイヌカヤ、飾り弓にはマユミやミズメを使い、サクラの樹皮が巻かれます。丸木舟にはカヤやスギ、クリ、舟をこぐ櫂にケヤキ、ヤマグワ、ケンポナシ、容器にはケヤキ、トチノキが使われることが多く、材の特性に合わせて木材が選択されていたと考えられています。」残念がら、管理棟は閉まっているようであった。管理棟の利用、竪穴住居内の見学は、水~日曜日の9:00~16:00(月、火曜日が祝日等の場合は開放)とのこと。ネットから管理棟の展示品を。「勝坂式土器」。これを見たかったのだが。そして北側入口にあった案内版。駐車場に戻り、最後に「山王大権現」に立ち寄る事とする。背の低い石鳥居の先に大きな石碑が。2基の石碑。右側には「表忠碑」と。左側にも「表忠碑」。大東亜戦争における戦没者の慰霊顕彰碑のようであった。「表忠碑国敗れて山河ありとは古来哀誦の名句であるが国敗れて人の尊厳を見出したものが実に今次大戦の結果であった。我が国は日清、日露の両役を経て漸く其の力を海外に誇示し遂に第二次世界大戦まで発展して惨敗を喫した。この蔭に幾多の尊い人命と貴重な財産が犠牲に供された事を思う時この敗戦こそは肇国以来の痛恨事であった。然し乍らこの敗戦が民主主義を招来し得た事を思えば戦争の犠牲こそ民主日本建設の礎ともいうべきである。この尊い礎を築く為に日支事変以来新磯地区から従軍された至誠蓋忠の勇士を偲び此庭に顕彰の碑を建て全町民結集し感謝の意を表すると共に今後の精進を固く誓うものである。 昭和29年秋 石井 孝 撰文」前の道路は「八王子道」。「八王子道」碑。こちらが「山王大権現」の鳥居。相模原市南区磯部1938付近。「山王大権現」。そしてこの日の「相模原市南区磯部の歴史探訪スポット」の散策を終えて、大和駅ちかくまで戻り、国道467号を利用して帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.11.20
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次に訪ねたのが「曹洞宗 金澤山 勝源寺(しょうげんじ)」。「曹洞宗 金澤山 勝源寺」相模原市南区磯部2111。参道を進む。「法華経 石一字 供養塔」と。仏教の信仰形態の一つに「写経」がある。経文を心をこめて写すという行為によって功徳を得ようとするもので、在家の信者もこれを行うことによって祈願または供養の目的を果たすことができるという古来からの信仰習俗である。本来の写経は、紙または布に書写するものであるが、その経文を長く記しとどめるため経文を石または瓦に記すという風習が生まれたと思われ、その内でも小石に一字ずつ経文を書写して地に埋め石塔を立てたものが石一字供養塔と伝えられている。 「不許葷酒入山門」。その先に山門。「曹洞宗 勝源寺」。右手に「六地蔵」。近づいて(右)。近づいて(左)。石段の上に赤い屋根の「本堂」の姿が現れた。「金澤山 勝源寺」掲示板。「美しいものを 美しいと思う あなたの心が 美しい。」「食べものを 拝む 他の命を頂いているから いただきます。」と。右手には「鐘楼」があった。梵鐘には縦笛を奏でる飛天の姿が。正面に「本堂」、手前には黄色の「ザル菊」が。勝源寺は、磯部のバス停「勝坂入口」より東北へ500mにある曹洞宗の寺院。『風土記稿』によれば、竜鳳寺(厚木市小野)の末寺で、山号を金津山といい、千手観音を本尊としています。また同書では、開山を笑山充誾(寛永5年(1628)没)、開基を伊右衛門(寛永10年(1633) 没)としています。当寺には「六本庚申」と呼ばれる青面金剛像が安置されています。これは5代ほど前の住職が作ったものといわれ、明治から大正時代にかけては養蚕守護を願う参拝客で非常に賑わったといいます。特に4月の初庚申の日には露店も並ぴ、そこで売られる「お宝」(木の校に繭などを飾ったもの)を買うと養蚕が当るといわれていました。また、当時は1000体にも及ぶ小型の青面金剛像があり、養蚕農家ではこれを借り、春から秋にかけて各家に祀ったといいます。しかし、これは関東大震災によりことごとく壊れてしまい、現在では残されていません。この「六本庚申」の信仰は、養蚕がこの地の主要産業であったことを物語るものです。また、江戸時代には当寺でも寺小屋が開かれ、児童の教育の場として利用されていました。(平成さがみはら風土記稿より)扁額「勝源寺」。龍の見事な彫刻。「本堂」前の「聖観音」像。近づいて。更にお顔を。「勝源寺の大青面金剛王(六本庚申)」案内板。青面金剛尊(しょうめんこんごうそん) は、仏法の守護神として知られる帝釈天の使者とも言われ病魔・災難を除く神として、また、民間に盛行した「庚申信仰」の本尊として信仰されてきました。当山に祀られている青面金剛像は、「六本庚申」又「千体庚申」ともよばれ、養蚕に効験のある庚申様として広く信仰を集めました。現在、お像脇に納められている焼物のミニチュア像も、往時は千体あったと伝えられています。人々は、養蚕の始まる頃に参拝し、ミニチュアの像を借りて家に祀り、養蚕が終わるとお参りし、お像を納めました。四月の庚申の日あたりに行われたお祭りには、露店が出され、大神楽が行われるなど、近隣はもちろん遠方からも大勢の人が参拝に訪れ、賑わいました。ここ勝坂周辺には、庚申塔が数多く建てられており、六本庚申との深い関わりがあることがうかがわれます。」「青面金剛像」。現在、お像脇に納められている「焼物のミニチュア像」とあったが・・・??「本堂」左手の墓地内にあった歴代住職の墓地。「歴住諸大和尚品位」と。墓誌には未だ・・・・。その横の「石仏群」。「無縁塚」。大きな石碑が2基。右側の石碑。「慰霊碑」と。「今次大東亜戦争が勃発するや歓喜の声に送られて勇躍征衣上途した此等兵児は南に北に或いは海に或いは陸に或いは空に連戦連勝進軍・・・」と。左の石碑。「陸軍歩兵軍曹勲七等功七級中村光定碑」と。墓地の奥にも石仏が。そして駐車場のある「勝坂子供の広場」へと戻る。平日であったので、車の数は思いの外少なかった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.19
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「磯部のざる菊」展を後にして、その近くなった歴史探訪スポットへ足を延ばした。相模原市の雨水用マンホール蓋。市の花「アジサイ」を描いた雨水用マンホール蓋。下部に「さがみはら あめ」の文字。途中、掲示板にあった「令和5年 相模の大凧まつり」の「題字募集」ポスター。相模原市の歴史ある「相模の大凧まつり」を皆様により親しみ、楽しんでもらえるよう、相模の大凧まつり実行委員会では大凧に書く題字を広く募集している と。【相模の大凧について】(1)歴史凧の歴史は古く、天保年間(1830年頃)からといわれ、本格的に大凧行事として開催されるようになったのは明治中期からです。当初は、個人的に子供の誕生を祝って揚げられましたが、次第に豊作祈願、若者の意志や希望、国家的な意義を表徴するものとして地域的な風習となり、現在では観光行事として親しまれています。平成22年4月に相模原市指定無形民俗文化財に「相模の大凧揚げ」、それを継承する団体として「相模の大凧文化保存会」が指定されました。一般的に、凧には絵や文字が描かれますが、「相模の大凧」には、その時々の世相を反映したものが大凧の題字(大凧に書かれる文字)として書かれます。明治から昭和初期に至るまでの題字を知る手がかりは少なく、断片的にしか分かっていませんが、その題字を見ると当時の世相が伝わってきます。「相模の大凧揚げ」は、新磯地区を挙げて「相模の大凧まつり」として、相模川河川敷の新戸スポーツ広場等4箇所で行います。季節は大地に新緑の芽吹く頃、澄み渡った大空の下、春風に乗って、大凧が揚がる光景は圧巻です。 令和元年(2019)『令和』令和2年(2020)『輪風』令和3年(2021) 開催中止令和4年(2022)『命風』と。「相武台下駅前 イルミネーション」ポスター。2022年11/26(土)~2023年2/17(金)16:00~22:00 で開催 と。相模原市の汚水用マンホール蓋。市の木「ケヤキ」をデザインした汚水用マンホール蓋。下部に「さがみはら おすい」の文字。これぞ「鈴なり」!!最初に訪ねたのが「中村家住宅」。相模原市南区磯部1734−1。手前にあったのが「中村歯科」。その隣にあったのが「中村家住宅長屋門」。ここは相模原市の相模川に面した勝坂地区というところに位置しており、縄文時代から大集落を形成していたと言います。農業が中心の土地にあって旧中村家は豪農であったと推察できます。この長屋門は桁行約19mの長大なもので、主屋と同時期の慶応年間(1865~1868)に建設されたと推定されています。そして「長屋門」を潜り進むと正面にあったのが「中村家住宅主屋」。「国登録有形文化財中村家住宅主屋と長屋門中村家住宅主屋は、全国的に珍しい幕末期の和洋折衷住宅です。建築当初は三階建てでしたが、関東大震災後、三階部分は取り除かれ二階建てとなっています。建築を手がけたのは鎌倉大工の石井甚五郎で、10年の歳月をかけ完成したと伝えられ、詳細な板図(いたず)が残されています。建物の特徴は、一階の外観は和風の要素でまとまっていますが、二階の外壁を海鼠(なまこ)壁とし、洋風の要素として軒を曲線の白漆喰で塗り込め、正面に縦長の窓を配しています。長屋門は、桁行(けたゆき)63尺(約19m)の長大なもので、主屋と同時期の慶応年間(1865〜1867)に建築されたと推定されています。長屋門としては一般的な形式ですが、通常は4寸(約12cm)角程度であるのに対して、この長屋門では5寸(約15cm)角の柱が使用されており、冠木も太く、創建当時は豪壮な趣を呈していたものと思われます。長屋門の外壁は朱色の漆を塗った形跡があります。」「中村家住宅主屋」を見る。青瓦と白のなまこ壁のコントラストが今も鮮やか。「旧中村家住宅の概要■登録年月日:平成18年3月2日■主屋:1棟 木造2階建 延べ床面積480m2(1階部分 334m2) (2階部分 86m2)■長屋門:木造平屋建 床面積 88m2■敷地:1筆 宅地 面積 1,869m2」中村家の主屋2階正面の窓は当時としては珍しい洋風の縦長窓。二階そして今はないが三階は大壁構造の海鼠壁に縦長のガラス窓を穿ち、屋根は瓦葺、軒蛇腹は白漆喰で固められていた。現在は青い瓦に改められているが、当初は 赤みがかったオレンジ色だった。瓦は近くに瓦窯を築いて焼いたという。主屋の完成まで10年の歳月を要した。慶応3年に主屋を建てるため、良質なケヤキ材を確保製材するには時間がかかり、また洋風建築の要素といえる海鼠壁が多用された時期を考えると、主屋の建築が数年早ければ、上質な従来の民家建築に、遅ければ擬洋風ではなく、より洋式建築に近い建物になっていた可能性もある。 一階部分には洋風の要素は全くない。柱上部や長押、垂木掛、土居桁にはうっすらと朱が残されている。長押より上の小壁は群青色の漆喰塗りであった。長押の出隅や土台には八双金具が打たれている。二階には四室あり、すべて和室。天井の高さは2.2メートルで、一階よりかなり低い。正面側(西面)には半間幅の窓が六か所あり、当初は観音開きの雨戸を設けていた。窓の内側上部には擬宝珠柱の断面のような形をした花頭形が入っている。玄関には新型コロナウイルス感染拡大防止のため臨時休館中で「本日は休館日です」と。よって「中村家住宅主屋」👈リンク の内部をネットから。以下の写真は頂いたパンフレットから。1階 「式台の間(奥)」。各階平面図。茶の間。そして再び「長屋門」を振り返る。次に訪ねたのが近くにあった「䂖楯尾神社(いわたておのじんじゃ)」。相模原市南区磯部2137。「䂖楯尾神社(いわたておじんじゃ)」碑。「勝坂コミュニティーセンター」もあった。参道右側にあった石仏。「延命地蔵尊」と台座には。「勝坂コミュニティーセンター」。さらに参道を奥に進んで行った。一の鳥居。左脇にあった境内社の社殿。前方に狛犬。狛犬(右)。狛犬(左)。更に急な長い石段が続いていた。更に121段の石段を上る。そして石段を登り終えると石灯籠(右)。やや背が低いが。石灯籠(左)。そして正面に「䂖楯尾神社」社殿。創建年代等は不詳ながら、勝坂集落の旧家が守り神としてその鬼門の方角に建てたものではないかといわれ、羽黒権現社と称していたといいます。明治維新後に「䂖楯尾神社」と改称している と。祭神は「大己貴命( おおなむちのみこと )」。拝殿の内陣、奥に本殿が見えた。「本殿」を斜めから。磯部勝坂石楯尾神社の創建年代等は不詳ながら、勝坂集落の旧家が守り神としてその鬼門の方角に建てたものではないかといわれ、羽黒権現社と称していたと。明治維新後に「」䂖楯尾神社と改称している と。これが石灯籠の一部であろう。手水場の「水盤」。参道の石段を上から望む。「勝坂遺跡(A区)」案内板。勝坂遺跡(A区)では平成17(2005)年の発掘調査で発見された集落の一部、磯部字中峰2097番1ほか4,104平方メートルが平成18(2006)年、令和元(2019)年に指定され保存された。「勝坂遺跡(A区)」を見る。縄文時代中期(約5000年前)の大集落跡。大正15(1926)年、考古学者大山柏氏による発掘調査で発見された縄文土器は、立体的な装飾の文様や顔面把手(顔を表現した取っ手)などによって注目をあび、後に「勝坂式土器」として縄文時代中期のめやすとされた。また、同時に発見された多くの打製石斧を、土を掘る道具と考えて原始農耕論が提唱されたことは、我が国の考古学史上、極めて重要であるとのこと。 次に訪ねたのが「勝坂式土器発見の地」。相模原市南区磯部4780−1。「勝坂式土器発見の地「勝坂遺跡」は、縄文時代中期の典型的な集落跡であり、わが国における考古学上の代表的な遺跡でもあります。また、本遺跡から出土した「勝坂式土器」は、縄文時代中期を代表する土器として今日では全国的にその名前が知られています。この土器は、大正15 ( 1926 )年10月3日、考古学者大山柏氏が中村忠亮氏所有の畑地を発掘調査した際に、初めて発見したものです。大山氏が土器を発掘した場所は現在正確にはわかっていませんが、地図に示した場所の近辺と推定されます。大山氏らの発掘調査はわずか一日だけでしたが、翌昭和2 ( 1927 )年に刊行された調査報告書は、今日的にみましても精緻極まる大変豊かな内容をもつものでした。その後、昭和3 ( 1928 )年には、考古学者山内清男氏により時期区分の基準となる土器として、「勝坂式」という土器型式名称が与えられ、勝坂遺跡は勝坂式土器の標式遺跡となりました。「勝坂式土器」は、今から約5.000年前の縄文時代中期につくられたものですが、イラストの顔面把手のように彫刻的な把手や立体的な文様に大きな特徴がみられ、器形の雄大さや装飾の豪華さなど、その造形は他のいずれの土器型式にも例をみないものです。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.18
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皆既月食が続く。19:31暫く、皆既月食の姿を追う。皆既月食のときの月はどうして赤く見えるのでしょうか?これには夕陽を赤く見せるのと同じ「散乱」という現象が関係しています。太陽の光が地球の大気を通過するとき、波長の短い青い光は空気の粒によって散乱してしまいますが、波長の長い赤い光は空気の粒の影響を受けにくいため、光を弱めながらも通り抜けることができます。そして、地球の大気を通過した赤い光は大気でわずかに屈折するので、地球を回り込んで月を照らします。そのため皆既月食の月は赤く見えるのです。下記の如き説明もネットにありました。月が真っ暗にならない理由は、地球のまわりの大気がレンズのような役割を果たし、太陽光が屈折されて本影の内側に入り込むため。赤銅色に見える理由は、レイリー散乱という現象にあります。太陽光には青や赤などいくつもの光が含まれており、青い光は短い波長、赤い光は長い波長と、それぞれ異なる波長を持っています。そして、光には大気中の微細な分子にぶつかると散乱する、という特性があります。このとき、波長の短い光のほうが散乱されやすくなります。これが、レイリー散乱です。太陽光が地球のまわりの大気の中を通過する際、青い光は散乱されやすいため、大気をほとんど通過することができません。一方で赤い光は散乱されにくいため、光は弱められながらも大気を通過することができるのです。残念がら天王星の姿は我がカメラでは写りませんでした。時間は20:29に天王星が月に隠れる。テレビ画面を撮影。天王星は明るさが約6等級で「空が十分に暗い場所で目の良い人がやっと見えるほどの明るさ」(国立天文台)。天王星食は月が普段の明るさなら観察は難しいが、今回は皆既食によって月が暗くなるため、比較的観察しやすい状況。国立天文台は「はっきりと観察するには、双眼鏡や望遠鏡が必要」としている。天王星の潜入は、東京近辺より西の地域では皆既食の最中に、それより東の地域では皆既食が終わった後の部分食中に始まる。月の後ろから再び出てくる「出現」は、いずれの地域でも皆既食が終わった後の部分食中に起こる。潜入開始は、那覇で午後8時13分、京都で同31分、東京で同40分、札幌で同49分と予報されていると、テレビでは。20:42木星の姿を我がカメラで。そして20:42に皆既月食が終了。月の左側から光が射しだして来た。時間は20:45。そして月の灯りが刻一刻と大きくなって行くのをカメラで追った。21:02そして「赤銅色」の月は消えて。21:44。21:45。ズームして。そしてこの日の月食は終了し満月が姿を現したのであった。21:52。日本全国で見られる、次回の皆既月食は、およそ3年後の2025年9月8日の午前2時30分から午前3時53分に起こるとのこと。深夜から早朝にかけての時間帯になるので、観察・撮影するには寝不足にならないよう対策が必要になりそう。次の皆既月食もぜひ楽しみたいのだが更に、日本で次回、皆既食中に惑星食が起こるのは、322年後の2344年7月26日の土星食となる と。最後に、下の図は、日食と月食が起こる可能性がある範囲を表したもの。月食が起こるエリアのほうが小さいことわかります。地球全体で起こる日食と月食の回数を比較(2021年5月19日時点)すると、2050年までに日食は74回起きるのに対し、月食は49回(半影月食は除く)。月食の方が少ないとのことです。しかし、月食よりも日食の方が珍しいように思っている方も多いのではないでしょうか?そう言う私も。そこには観測できるエリアの広さが関係しているようです。月食は観測できるエリアが広い!日食は、地球よりも小さな月の影になった部分でしか観測できないために、観測できるエリアはかなり限定的となります。しかし、月食は月が昇っているエリアであればどこでも観測することが可能です。日食より頻度は少ないものの、観測がしやすいことから月食のほうが多いと思ってしまうようですね!!。次回は『あの世』でしか見ることが出来ない『皆既月食➕天王星食』👈リンク を楽しみ、今更ながらですが月食について大いに?学ぶことが出来たのでした。そして11月11日(金)の宵から12日の明け方、月齢17の明るい月と火星が大接近して見えたのであった。時間は22:30.月の姿。月齢16.7と。月齢とは、 朔 (さく) (新月)の時を零として数えた日数。1朔望月 (さくぼうげつ) (約29.5日)を周期として、月の満ち欠けの度合いを示す。満月はほぼ月齢14.8であると。火星。(やや手ブレ)、私のデジカメではこれが限界。 ・・・END・・・
2022.11.16
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月全体が地球の影に入る「皆既月食」が11月8日(火)の夜に起こったので、自宅の我が部屋からカメラで刻々と変わる月の姿、色の変化を追ったのであった。以下の「皆既月食のしくみ等」の「説明写真」はネットから転写させていただきました。11月8日(火)17:57の我が部屋からの東の空の「月食」開始前の満月。更にズームして。「月食のしくみ」。満月のとき、太陽、地球、月が一直線に並ぶと、月食がおきます。月が地球の影の中を通り過ぎるときに、満月がだんだん欠けていき、また満月に戻っていきます。地球の公転軌道に対して月の軌道が傾いているために、月食が起きるのは、満月でも地球の公転軌道面に近いところに月がいるときだけです。ただ満月は毎月訪れますが、そのたびに月食が起こるわけではありません。それは地球の公転軌道と月の公転軌道が5.1°程度傾いているためです。そのため太陽と地球と月が一直線上に並ぶのは約半年に1回となります。通常の満月は地球の影より北側や南側にそれたところを通過しているのです。太陽・地球・月が一直線に並ぶのは約半年に1回。よって月食も約半年に1回程度ということになります。ところで、月食で月が欠ける様子と、ふだん見ている月の満ち欠けは何が違うのでしょうか?月は、太陽の光を反射することで見えるようになるので、太陽の光が当たっていない(影になった)部分は、地球から見ることができません。月に当たる太陽の光は一定なので、地球に昼と夜ができるのと同じように、月も明るい部分と暗い部分にわかれます。月は約1ヶ月かけて地球の周りを公転しています。このとき、地球から月が見える方向が変化するため、明るい部分と暗い部分の形が変化するのです。これが月の満ち欠けです。全国で見られる皆既月食は2021年5月以来で、今回はこの日・8日午後6時9分から月の一部が欠ける「部分食」が始まり、皆既食は同7時16分から同8時42分まで86分間続くとのこと。同9時49分に部分食が終わる。この進行は、どこで見ても、同じ時刻であるとのこと。そしてこの日は「皆既月食」と「天王星食」が同時に起こったのであった。ところで「皆既月食」の「皆既」とは何なのか?「皆」は「みんな」だからいいとして「既」がわからない。みんな、既(すで)に、月食?広辞苑第五版によると、かいき【皆既】(「既」は尽きるの意)と。では「既」が「尽きる」という意味かというとこちらは漢字源によれば旡(キ)は、腹いっぱいになって、おくびの出るさま。既はもと「皀(ごちそう)+音符旡」で、ごちそうを食べて腹一杯になること。限度まで行ってしまう意から、「すでに」という意味を派生するのだとのことで、そもそも「尽きる」とか「尽くす」という意味だったものがあとから「すでに」になったのだと。因みに英語で「皆既月食」は「total lunar eclipse」であり「eclipse」とは、・光の消滅、光が遮られること、影を投げかけられること・〔名声などの〕輝き[光輝・光彩]を失うこと、失墜 とのことで日本語よりは解りやすいのである。日本で皆既食中に「惑星食」が起こるのは、安土桃山時代の1580年(天正8)7月26日(旧暦の6月15日)の「土星食」以来、約442年ぶりとのこと。1580年といえば織田信長の時代、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれたのが1582年であるので本能寺の変の2年前である。織田信長:46歳、徳川家康:37歳、明智光秀:52歳の時である。皆既月食と天王星食で天文現象の「大谷二刀流」であると。 【https://livedoor.blogimg.jp/okayama00glocal/imgs/9/1/9197bd5e.jpg】よりそして18:09、部分食が始まりました。地球が丸いということを最初に唱えたのは、紀元前6世紀ごろ、ギリシャのピタゴラスとその学派の人たちであったとされています。この時代のことは、文献が残ってなくてよくわからないのですが、遠くの船は船体の下の部分が水平線の下に隠れ、マストだけが見えるということをきっかけに、古代ギリシャ人は地球が丸いことに気づいたという説があるのだと。ピタゴラスの時代から200年ほどが過ぎると、世界でもっとも偉大な哲学者の1人といわれるアリストテレスが現れます。ピタゴラスの場合、地球の形を球だとしたのは信仰のようなものですが、アリストテレスは地球が丸いという根拠をきちんと示しました。アリストテレスは、月食のとき月に黒い丸い影が映るのは、丸い地球の影が映っているからだと説明しました。彼は月食のことを当時から正しく理解していたのである と。じわじわと月面の黒い部分が大きくなって来ました。ウサギの脚の部分が隠れて来ました。時間は18:26。アリストテレスと同じく黒い影が丸いことが私にも判ったのです。テレビでは姫路城上空の月の姿を。こちらは京都・東寺の五重塔と共に。そして半分の月、18:47。カメラの設定を変更すると隠れた部分が赤く見えて来ました。19:0019:0619:1119:1119:1219:1319:1419:15そいて19:16を過ぎ、皆既食開始19:17。 ・・・つづく・・・
2022.11.15
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「雲昌寺」境内の「菊花園」を鑑賞した後は、久しぶりに「雲昌寺(うんしょうじ)」の見学を行った。神奈川県藤沢市亀井野1457。寺号標石「曹洞宗 光輝山 雲昌禅寺」。「不許葷酒入山門」と。「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」。臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。「光輝山雲昌寺宗名 曹洞宗(禪宗)伝統 お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の禪風として 開花し鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす その教義は瑩山禪師に よって広く全土に実践教化され今日に至ります お二人を両祖大師と仰ぎます大本山 永平寺 高祖道元大師ご開山 福井県 總持寺 太祖瑩山禪師ご開山 横浜市曹洞宗本尊 釈迦牟尼仏当山本尊 如意輪観世音菩薩教え 生まれながらにもっている佛のこころを実践しひたすら人として生きるのが禪である と教えます 人はともすると 我がまま勝手の生活をして苦しみ悩みのみとをつくっています しかし ひとたび佛の御前に悔い改め真心をささげ深く黙照して坐するなら心が 落ち着いて自ずと生活が調えられ人生が明るくなり 他の役に立つことを喜び 又 どんな苦難にも耐えてゆこうとする信念が強まります そこに生き甲斐と 幸せを発見するのが 禪の教えです」併せて創建 建保年間 (1213~1219年)開山 玖山宗順開基 北条義時札所等 相模国準四国八十八ヶ所霊場 第46番・第66番札所四脚門の「山門」。山門に掲げられていた扁額には山号「光輝山」の白き文字が。山門を通り境内内部へそして山門を抜けた右側には庚申塔の青面金剛像塔が三体。庚申は、十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)の組み合わせで暦の上では60日に一度回ってくる庚申の日に、その夜を眠らずに過ごして健康長寿を願う信仰。この信仰は平安時代には宮中などにおいて宮廷貴族の間で庚申の御遊びがあり、鎌倉時代には武家たちも守庚申を行って来たと。青面金剛像塔は、主尊の青面金剛以外に、背面には日月や、台座には猿、鶏、邪鬼、腕の数は、二臂から八臂まであり、腕が持つ 持物は、三叉戟、棒、法輪、羂索、弓矢、剣、杖、蛇など様々の姿を。左:駒形板碑 六手合掌青面金剛+三猿 年不詳。三猿は三匹の猿が、それぞれ目、耳、口を両手でふさいでいる彫刻。いわゆる「見ざる聞かざる言わざる」。孔子は論語の中で孔子は「礼節にそむくことに注目してはいけない。礼節にそむくことに耳を傾けてはいけない。礼節にそむくことを言ってはいけない。」と、三つの戒めを言っているのです。中央:駒形板碑 六手剣人青面金剛+三猿 年不詳。右:駒形板碑 六手合掌青面金剛+三猿 年不詳。三猿は三匹の猿が、それぞれ目、耳、口を両手でふさいでいる彫刻。いわゆる「見ざる聞かざる言わざる」。孔子は論語の中で孔子は「礼節にそむくことに注目してはいけない。礼節にそむくことに耳を傾けてはいけない。礼節にそむくことを言ってはいけない。」と、三つの戒めを言っているのです。「鐘楼」戦争で供出された鐘の音をもう一度亀井野の地にということで、富山県高岡市の老子製作所に発注し、昭和58年10月に火入れ式を行い、昭和60年に鐘楼堂が完成。移動して。「鐘」には「光輝山 雲昌寺」と。鐘は、総高さ1m76cm、総重量1,125Kg(300貫)とのこと。鐘は、平日の午前6時30分と、12月31日の除夜祭で撞かれており、その「除夜の鐘」👈リンクの音色が我が家にも届いているのである。そして「常香炉」とその先に「本堂」。徳川幕府から御朱印を賜ったということで、本堂の棟、この常香炉などに葵の紋が見られる。常香炉の脚には「夜叉」のお顔の如き姿が。珍しい装飾の石灯籠。「寺務所」。「本堂」。「本堂」手前にはボール状に仕立てた「ぼさ菊」が並んでいた。黄色の「ぼさ菊」。赤の「ぼさ菊」。「本堂」の扁額は「雲昌寺」。「内陣」。両脇の柱には「無影林中心月耀」、「不萌枝上徳蕐?」禅の言葉であろうが意味は?本尊は如意輪観音で、開基は今、『鎌倉殿の13人』の主人公の道済(北条義時)。創立は繰り返しになるが、建保年間(1213~19)頃で、もとは今田にあり瑞龍寺と号した。慶長元年(1596)災害に遭い、その頃住職宗順により亀井野に移り、寺号を雲昌寺と改めた。慶安元年(1648)徳川幕府より朱印九石を賜った と。「朱印九石を賜った」とは朱印状とともに九石の土地を頂いたと言うことか。一石は大人一人が一年に食べる米の量に相当すると言われていますから、九石といえば九人を1年間食べさせることができる石高?「達磨大師像」。「釈迦如来像」であっただろうか。「本堂」内の大きな灯り。最近三代の住職の遺影。鳳凰が描かれた漆絵。天正18年(1590)4月、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めのとき関東の主要な地域に「禁制」を出している。藤沢では今田、亀井野、村岡、江ノ島などに出されており、ここ雲昌寺にはその「禁制」が保存されているのだ。「禁制(きんぜい)」とは、支配者が寺社や民衆に対して、禁止する事項を周知させるために作成した文書である。のち木板に書かれ高札場に掲げられた。秀吉の出した禁制は三ヵ条からなっている。「相模国 禁制 今田 亀井野二ヶ所一 軍勢甲乙人等 濫妨狼藉の事、一 放火の事、一 寺家門前の輩に対し、非分の儀申し懸くる事、右の条々、堅く停止せしめおわんぬ。もし違犯の輩においては、忽ち厳科に処せられるべき者なり。天正十八年四月日○ 秀吉朱印」と。解説書によるとその内容は、一、軍勢である兵士、従者が乱暴や狼藉をなす事 一、放火する事 一、庶民や百姓に対し、無理不当な事を要求する事 これに違犯した者は直ちに厳罰に処する。というものである。これは戦場となる村人に対しての宣撫工作、人々を安心させることにあったとされる。禁制が出された3か月後、北条氏は滅亡し、徳川家康が関東に入ると、藤沢の諸村は徳川の直轄領、旗本領となった。禁制のオリジナルを一度見たいものだと思っていたが、禁制は本堂内に額に入れて展示されていた。400年以上もの文書とは思われない保存状態であった。天正十八年とは1590年、豊臣秀吉が関東地方を平定、徳川家康が江戸城に本拠を移動した年。甲冑と太鼓。装飾された和太鼓、雅楽の演奏に使用されたものであろうか。「本堂」を出て、境内を散策。木魚の上に座り眠る小坊主。肩にはネズミの姿が。ネズミは雪舟の逸話からか?「宝福寺に入った幼い日の雪舟が、絵ばかり好んで経を読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱にしばりつけてしまいました。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許しました。これは雪舟について最もよく知られた話である。」と。「道元禅師像」であっただろうか。 境内奥にあった「聖観世音菩薩像」。 お顔をズームして「聖観世音菩薩」と。親子?で顔を見合わせながら「なむなむ」と経を詠む姿。 「十三重石塔」。十二という数は、十二因縁、十二支を意味する。因縁を超えた十三という数、宇宙の摂理である十二支、十二か月を超えた十三という不思議な数に因んでいると。また十三は十三仏の最後、虚空蔵菩薩をあらわしているとされ十三重の塔は虚空蔵菩薩をあらわすと。「稲荷大明神」。ここにも神仏混淆の跡が。「稲荷大明神」の社殿。「本堂」裏の墓地に向かう。立派な藤棚があった。位牌堂。それまでは本堂の一部の場所を占めていたが、平成13年に位牌堂として本堂の裏手に完成した。墓地の中から位牌堂そして本堂を見る。歴代住職の墓地。「歴住大和尚之墓」。歴代住職の名が刻まれていた。現在の住職は第二十ニ世か。そしてこの寺・「雲昌寺」の開基・北条義時「光輝院殿瑞龍道西大居士」と。歴代住職の墓地の一角にこの寺・「雲昌寺」の開基・北条義時の供養塔があった。「光輝院殿瑞龍道西居士」と刻まれていると。山門前の掲示板にあった「北条義時供養塔」案内図。そして下の写真は今年2022年の2月に訪ねた伊豆・『北條寺』👈リンクにあった「北条義時夫妻の墓」。右が北条義時、左が後妻佐伯氏娘の墓であると。後妻というと昨日も「鎌倉殿の13人」にも登場した「伊賀の方」が有名なので、彼女じゃないところが興味深いのであった。「北条義時夫妻の墓北条義時は時政の次子で、源頼朝夫人政子はその姉である。幼少より江間の館に育ち、江間小四郎と称した。頼朝の旗揚げ以来、父 時政 兄 宗時とともに従い大功があった。鎌倉三代将軍実朝の不慮の死により、源氏の正統が絶えると京都より頼朝の姉の曽孫に当たる藤原頼経を迎えて自らわ執権となり勢威を極めた後鳥羽上皇はその専横を憤り、承久三年(1221年)院宣を下して義時を討とうとされた。義時はその子 泰時、弟 時房に大軍を率いて京都に攻め上がらせ、官軍を大いに破り、帝を廃し後鳥羽、順徳、土御門の三上皇を配流した。これが世にいう承久の変である。義時は承久の変後三年、元仁元年六月十三日急死した。時に六十二才であった。長子泰時らは、北条氏発祥の地にあるこの寺に墓を建て追善の碑とした。なおこの墓は向かって右が義時、左が後妻佐伯氏娘の墓である。」北条義時の墓。『吾妻鏡』によれば、北条義時は、承久の変後3年、1224年(貞応3年)6月13日、62歳で急死。「鎌倉の源頼朝墓の東の山上に葬られたという」👈リンク。ここ北條寺の墓は、義時の子で三代執権北条泰時が北条氏発祥の地に追善のために建てたものと伝えられていると。後妻佐伯氏娘(伊賀の方)の墓。北條寺の案内板には、義時の妻は佐伯氏の娘と記されているが、墓石の側面には藤原朝光の娘と彫られていた。藤原朝光は藤原秀郷の後裔で、伊賀守に任ぜられてからは伊賀氏を称したと。「北条義時」像。「北条義時」は鎌倉幕府2代目執権であり、源頼朝の妻・北条政子の弟。初代将軍「源頼朝」の亡き後、2代目将軍「源頼家」や3代目将軍「源実朝」を支え、頼朝が実現しようとしていた鎌倉幕府の政治基盤を築く。政敵を徹底的に潰し、敵対するなら実父ですら失脚させるなど、冷酷な振る舞いをしていた義時は「権力のために他人を蹴落とす悪人」と呼ばれることもあった。雲昌寺の山門近くには庚申塔、二十三夜塔そして手前にお顔のない仏像が並んでいた。首なし地蔵は、明治の初めのころ、博打うちの間で地蔵の頭を持っていれば博打に勝つという縁起があり、持ち去られてしまったと。今、その地蔵さんの身代わりなのか、門前の右側に六地蔵があった。その「六地蔵」が石灯籠の奥に。「六地蔵」。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.11.14
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「江の島弁財天仲見世通り」を「江の島弁天橋」に向かって下って行った。「旧岩本院 岩本楼」の入口。江戸時代までは岩本院と言われ、弁天社の本宮をあずかった一山の総別当とも言われる由緒ある院であった。弁天信仰が盛んだった江戸時代には、勅使、将軍、大名などの宿泊所として栄えた。ちなみに歌舞伎の白浪五人男に登場する弁天小僧は、岩本院の稚児がモデルであると言われているのだ。土産物屋の色鮮やかなフクロウがショーウィンドウ内に。人の数も大分少なくなった。「とびっちょ 江の島弁財天仲見世通り店」が左側に。「富士山の見える江の島天然温泉」と。「江の島アイランドスパENOSPA」の入口のショーウィンドウ。鮮魚の模型?が。こちらは海鮮ピザ。「磯料理 貝作」は営業中。再びドラゴン広場のハートのオブジェ。「江の島大橋」の袂、国道134号沿いの高層マンション群を見る。「江の島アイランドスパENOSPA」の上に見える「江の島シーキャンドル」を振り返る。片瀬西浜海岸も満潮に向かっていた。「江ノ島で見られる野鳥」案内板。「岩屋洞窟方面行き」船乗り場。「江島神社御鎮座記念龍燈籠」(左)。「江島神社御鎮座記念龍燈籠」(右)。そして国道134号の地下道広場の中央。壁にあった観光案内。浮世絵。「冨嶽三十六景」「相州江ノ島」。こちらは葛飾北斎の作品。片瀬浜から見た春の江ノ島。萌え出る若葉と江ノ島弁天にいたる参道、両岸の茶店や家並みが細かく描かれています。潮が引いて、江ノ島へ向かう人々の様子そして江ノ島弁天の三重塔の姿も。「相州江ノ嶋岩屋之図 」 歌川広重作江ノ島の南の海岸にある、岩の洞窟の「岩屋」の入口の画 。二代歌川広重 諸国名所百景 相州七里が浜。この「諸国名所百景」は安政6年~文久元年(1859-1861年)まで約3年間で100枚近くが出版され、二代歌川広重の代表的な作品となっている。この百景のうちに、武州関係では「武州横浜野毛」がある と。「相州江ノ島」 歌川広重作干潮時、江ノ島へ渡る人々の姿が描かれている江の島「案内図」。そして「境川」に架かる「弁天橋」を渡る。前方に小田急線「片瀬江ノ島」駅舎の赤い屋根が。「境川」上流を見る。左手には「江ノ島シーキャンドル」。国道134号「片瀬橋」。そして小田急電鉄江ノ島線「片瀬江ノ島駅」。1929年以来、地元住民から“竜宮城の駅”として親しまれてきた片瀬江ノ島駅。1999年にはその個性的なたたずまいから「関東の駅100選」にも選ばれた。2020年のリニューアルでは“竜宮城の駅”のイメージはそのままに神社仏閣の造作技法を取り入れ、屋上にはイルカの像を設置するなど、江の島に古くから伝わる「五頭竜と天女の伝説」をモチーフにした品格と遊び心があふれるデザインを取り入れて。3社の路線(江ノ島電鉄線と湘南モノレールを含む)がある江の島地区の駅では唯一、東京都区部(新宿駅)への直通列車があったが、現在はロマンスカーを除き藤沢~片瀬江ノ島駅間を往復している。江ノ島(江の島)と名が付く駅(片瀬江ノ島駅、江ノ島駅、湘南江の島駅)の中でこの駅が最も江の島に近い。行楽地・観光地ということもあり、駅舎は竜宮城を模したユニークなデザインになっている。関東の駅百選認定駅。楼門の軒唐破風の下には妻壁が彫刻で飾られていた。軒上にも龍が。斜めから見上げて。波間から昇龍の姿、そしてその屋根には宝珠水煙が。右側。左側。イルカの像を鯱(しゃちほこ)の如くに。水面からジャンプしたかのようなポーズがかわいらしいのだ。金色に輝くイルカや竜は、塗装ではなく金箔仕上げ と。「潮風の当たる場所なので、どこもしっかりした造りにした」と。楼門上層の窓ガラスには、江の島に伝わる「天女と五頭竜(ごずりゅう)」の伝説にちなんで天女の絵が描かれていた。正面に向かって右側。正面に向かって左側。改札手前の新江ノ島水族館手前の天上の四方には亀の姿も。改札を入ったコンコースの天井を飾る幅約15mの堂々たる竜の彫刻は駅のシンボル。左から順番に。ケヤキを素材に1年半かけて彫刻家がつくりあげたという大作には、実は波間にタイやタコ、カメ、さらにはUFO?らしき物体などの「隠れキャラ」も潜んでいるのだと。そして藤沢駅行きの電車に乗り、藤沢駅から相模大野行きの電車に乗り換え帰宅したのであった。テレビのニュースでは、ウクライナ各地にロシアのミサイル攻撃があり、電力と水道の供給に多大な影響が出ていると。ロシア軍の攻撃は発電所や電力会社を直撃し、国内のエネルギーインフラの約30%に損害を与えたとも。そして、停電中のウクライナ国民は【ろうそく】と、携帯のライトだけで過ごしている と。1日も速い、電力復旧、そして一刻も早く平和が訪れることに想いを馳せながら、「湘南キャンドル2022」を鑑賞したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.11.12
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更に入口横のCandle群を追う。Candleグラスに蓋が付いているのは、終了後に灯を消すためのものなのであろうか?そして「LONCAFE 湘南江の島本店」方向に進む。「MIAMIBEACH AREA(マイアミビーチ広場)」と。江の島へ続く「江ノ島弁天橋」や「江ノ島大橋」、鎌倉市方面を中心とした夜景を眺めることが出来る場所・撮影スポット。場所を移動して、鎌倉方面への海岸線。「LONCAFE 湘南江の島本店」の店内を見る。「日本唯一のフレンチトースト専門店」の味を堪能しながら、キャンドル、夜景を眺めて楽しむカップルの姿が。再び「江の島シーキャンドル」を。ズームして。そして入苑チケットを係員に手渡し「サムエル・コッキング苑」で開催されていた「湘南キャンドル2022」を後にしたのであった。帰路も往路と同じルートを下って行った。エスカー3乗り場。「江島神社 中津宮」の扉は既に閉まっていた。「江の島ヨットハーバー」を見る。昨年・2021年、「東京2020オリンピック」のセーリング競技が開催されたのであった。「ヨットハウス」は江の島ヨットハーバーの管理事務所。1964年、2020年オリンピックのヨット・セーリング競技が開かれたことを示す「帆のモニュメント」がここ展望台に設置されていた。エスカー2乗り場。公衆トイレの壁には「観光情報誌 湘南江の島Walker」のポスターが。左手に安岡 正篤(やすおか まさひろ)の「感載碑」。「明神降鑒衆生福智」安岡正篤撰竝書と刻まれていた。昭和の名宰相とされる佐藤栄作首相から、中曽根康弘首相に至るまで、昭和歴代首相の指南役を務め、さらには三菱グループ、東京電力、住友グループ、近鉄グループ等々、昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれた人物とのこと。右側に「江島神社、御鎮座千四百年祭」の石碑。 「結びの樹」。辺津宮の境内を出るところに、幹が二つで、根が一つになった「むすびの樹」と呼ばれる大銀杏の御神木が。しかしいつの間にか切られて。「むすびの樹」の周りには、良縁成就を願って奉納されたピンクの絵馬がたくさん掛かっていた。辺津宮の左側にあるのが、八角の「奉安殿」。源頼朝が奥州の藤原秀衡調伏祈願のために文覚上人に命じてこの弁財天を勧請したとのこと。「白龍王黄金浄水」。水源には徳力製の純金の小判が秘められてあり、この御霊水で金銭を洗うと、金運向上、財宝福徳のご利益が授かると。 近づいて。「龍神と弁財天水辺に鎮まる龍神は古来より気象を司る国土安泰の神とされました。江ノ島では弁財天の夫神として財宝福徳の神としても信仰を集めています。」弁財天の神使「白龍王」。「江島神社 辺津宮」。扁額「邊津宮」。「茅の輪くぐり」もこの日の役目を終えて。石段の途中から「江島神社 辺津宮」を振り返る。「御朱印」案内。江島神社「瑞心門」を見下ろす。脚長オジーサンの姿を。「弁財天・童子像」。「江島神社 大鳥居」が前方に。エスカー1乗り場。「江の島弁財天仲見世通り」を前方に見る。ここは県道305号線。「江島神社 大鳥居」、「江島神社 瑞心門」を振り返る。「江島神社 瑞心門」。「江島神社 大鳥居」前の狛犬(右)。「江島神社 大鳥居」前の狛犬(左)。「江島神社」の「制札・定」。「江島神社」碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.11
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「江の島サムエル・コッキング苑」の入口方向に進む。左手奥にあったのが「LONCAFE 湘南江の島本店」。2003年に日本初のフレンチトースト専門店としてオープン。手前には白色の灯りが。竹筒灯籠に似て。そして入口付近の一番カラフルな灯りの場所へ。様々な色が混じって幻想的。そしてこの先はカップルの撮影スポットになっていた。色合い豊かなキャンドルに囲まれたベンチに座り記念撮影するカップルの姿が。別のカップルをズームして。灯りの奥には昆明広場の「騁碧亭(ていへきてい)」が。ライトアップされた「騁碧亭」。ズームして。再び「灯りのカオス」をカマラで追う。「湘南 Candle」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.10
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「江の島シーキャンドル」の階段を下りて、ウッドデッキを歩く。「THE SUNSET TERRACE」案内。「THE SUNSET TERRACE」は、シーキャンドルが営業している時間帯はいつも開放。椅子も置いてあり、自由に利用することができるのであった。「THE SUNSET TERRACE」はここ。「THE SUNSET TERRACE」を歩く。これも「湘南キャンドル2022」の展示であっただろうか。ズームして。「enoshima SEACANDLE」。少女とクラゲ。ウッドデッキから「江の島シーキャンドル」を見上げて。江の島らしく、網とガラス浮き球のコラボが。ガラス浮き球にもひとつづつキャンドルが入って火が灯って。流木とのコラボ。そして赤い絨毯が2本敷かれているが如き小路を進む。ライトアップされたヤシの木と月。ズームして。「江の島シーキャンドル」と「ヤシの木」のコラボ。別の場所から。素朴な白の灯りを。ミニ「江の島シーキャンドル」。月の姿を再び。別のミニ「江の島シーキャンドル」下の緑は「江の島」をイメージしたか。本物とのコラボ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.09
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「江の島サムエル・コッキング苑」手前にあった「江の島 Guide Map」。「湘南Candle 2022 入口」案内板。「17時以降「出場」の方は【イベント観覧券】が必要です。出口でスタッフがイベント観覧券を回収または確認いたしますイベント観覧券大人500円・小人250円」「湘南キャンドル2022」の只見(タダミ)は出来ません!!と・・・しっかりしています!!私もイベント観覧券を自販機で購入し、苑内に入る。「江の島サムエル・コッキング苑」案内図。黄色の部分がキャンドル配置エリア。赤がメインストリートである と。苑内に入ると右側に「湘南キャンドル 2022」が拡がっていた。「湘南Candle」と。「江の島サムエル・コッキング苑」内に約10,000基のキャンドルを設置。あたたかなロウソクの光が秋の夜を包み込みのであった。キャンドルもカラフルなガラスの瓶の中で温かく灯っていて、ロマンチックな雰囲気。EDのイルミネーションももちろん美しく味わいがあるが、ユラユラした温かみのあるロウソクはまた格別なのであった。この場所は帰路の最後にゆっくり鑑賞することとし、メインロードを「江の島シーキャンドル」に向かって進む。右手にあった昆明広場の「騁碧亭(ていへきてい)」を背景に。正面にライトアップした「江の島シーキャンドル」。オレンジ色をメインに緑と赤が散りばめられて。ズームして。木箱を利用して。「江の島シーキャンドル」は様々な色に刻々と変化して。灯りが様々なオブジェの中から。緑と白の灯りのざわめき。ヤシの木もライトアップされ緑が輝く。そしてフラスコに似たガラス細工が色とりどりの顔をしてぶら下がって。風に微妙に揺れながら。周囲を廻りながら様々な角度から。青色蛍光色にライトアップされたトランポリン遊具「ふわふわドーム」。子供たちがピョンピョンと。そしてチケットを購入し、「江の島シーキャンドル」の展望台へ上がる。海抜119.6mの展望室からは360度のパノラマを楽しめ、多くのカップルや家族連れが連日訪れる大人気の観光スポット。晴れた日には富士山や伊豆半島まで見渡すことができるのだ。「江の島シーキャンドル(展望灯台)」は2002年、江ノ電開業100周年事業の一環として建設された。当初はロケットのような外見であったが、2003年4月にリニューアルオープンし、キャンドルを模した現在の姿になったのだ。エレベータの中から。エレベーター横の階段を登り、屋外展望台へ。オープンエアの展望台ならではの開放感あふれる眺望は更に捨てがたいのであった。「江の島弁天橋」、「江の島大橋」そして国道134号を見る。ズームして。湘南海岸・西浜方向。ズームして。折しも月と木星の姿が。月をズームして。眼下の灯籠。平塚、小田原方面。帰路は階段で降りることに。眼下の灯りを楽しみながら階段を下る。再び「江の島弁天橋」、「江の島大橋」をズームして。美しい光の3原色・赤(Red)緑(Green)青(Blue)が並ぶ。「江の島シーキャンドル」のライトアップ用であろう。再びトランポリン遊具「ふわふわドーム」を。売店には長蛇の列が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.08
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歩行者専用の「江の島弁天橋」を渡る。左側は自動車専用の「江の島大橋」。「沿革この橋は明治24年 満潮時砂浜であるところと島とを結んだ橋として、作られ、江の島棧橋と呼ばれていました。明治30年に至って橋を片瀬州鼻まで延ばし、大正11年に県営となるに及んで渡橋料金2銭也がとられました。しかし橋が長いので一度暴風に遭へば流失するような状態で、昭和24年には更に橋脚を鉄筋コンクリートパイル、上部は木橋として作り直され、その後、江の島弁天橋として親しまれてきました。昭和32年に至って湘南海岸公園施設の一翼を担ひ、この近代的な橋梁に生れ変わったものであります。昭和33年7月 神奈川県」長さは海上部分が389m と。この写真は昭和初期の頃のもので、当時この橋は「江の島桟橋」と呼ばれていたそうである。砂浜部は板が敷かれていたことが解る。 【https://hamarepo.com/story.php?story_id=1066】よりそして海上部は丸太が組まれ。幅は2m程度であろうか。 【https://hamarepo.com/story.php?story_id=1066】より「江の島弁天橋」から「江の島」を見る。「境川」河口の「片瀬漁港」先端にある「白灯台」。その奥に「烏帽子岩」。日帰り温泉施設「江の島アイランドスパENOSPA」。カップルでの撮影スポットにはハート型のキャンドルオブジェが。ラグジュアリースパリゾート「えのすぱ別館」入口の建物の壁にあった絵画タイル。牡丹、菊等が豪華に描かれていた。路面には天使の羽が生えた少女の姿が。歩いて来た「江の島弁天橋」を振り返る。ドラゴン広場のハートのオブジェを正面から。「青銅の鳥居」。江の島弁財天信仰の象徴である青銅の鳥居は延亨4年(1747)に創建された。現在のものは文政4年(1821)に再建されたもので、約200年の間、潮風をうけながらその姿をとどめているのだと。この先の商店街の道も神奈川県道305号江の島線なのである。波をイメージした模様の灯籠が土産物屋の前に並んでいた。今年の花火大会(3分☓5日間)のポスターが貼られていた。こちらはこの日の目的の「湘南キャンドル2022」のポスター。右手に「創作ちりめん「布遊舎」江ノ島店」。そして「江島神社 大鳥居」。その先に「江島神社 瑞心門」。近づいて。7/23(土)〜8/31(水)開催された「江の島灯籠2022」のライトアップ。以下の3枚の写真は友人から送られて来たものです。昨年の江の島灯籠でも、夏の夜空に浮かぶ瑞心門を彩る光のインスタレーションは大変好評。2年目の今年はスケールアップ!瑞心門〜階段〜辺津宮まで広がったエリアで「天女と五頭龍の恋物語」をフィーチャーし、今年のモチーフ「花火」を加え、さらに華やかに“光の絵巻”を演出して江の島の夏の夜を彩ったもだと。 ここ瑞心門では「江ノ島誕生」 「五頭龍」 「天女降臨」 「天女と五頭龍の出会い」 「五頭龍の御加護」加え、新たに「花火」のモチーフによって厄災を祓う気持ちと現代の美しい江の島の夜を表現したのだと。門の両側には唐獅子画が。右側は青の唐獅子。左側は緑の唐獅子。「瑞心門唐獅子片岡華陽 筆中央アジアからもたらされたライオンが古代中国で幻想動物として描かれ、我国には密教曼荼羅の中の唐獅子が9世紀に渡来し、定着していきました。以後、仏法のみならず邪悪なものを退け、国家鎮謹を祈念する形代として飾られるようになりました。この瑞心門唐獅子は御祭神の守護と合わせてご参拝の皆さまに厄災なきことを祈願して飾りました。平成7年4月初巳日 江島神社奉納 東京 中村明」石段を上ると正面に「弁財天 童子像」。「弁財天 童子像 建立之記平安時代中期に撰述せられた「江島縁起」は、天地開闢のことより説き起し、東海道相模国江ノ島が 天下の霊地たるを記述せられている。縁起に曰く、「欽明天皇13年卯月12日、戌刻より23日辰刻に至るまで、江野南海湖水湊口に雲霞暗く 蔽いて、天地震動すること十日に余れり。諸々の天衆龍神水火雷電山神類夜叉羅刹、雲上より 磐石をくだし海底より塊砂をふき出す。その後、竭雲収まり軽霞まきしりぞいて、海上に忽ちに 一つの嶋を成せり。即ち江野にまぞらえへて、これを江野嶋という。天女、雲上に顕れ、 白龍、十五童子を従へ、この嶋上に降居したまへり」とあり、弁財天が江ノ島に祀られることと なりしを伺い知ることが出来る。折りしも当神社御鎮座1450年を迎へ、記念事業としてこの縁起に基づき、弁財天顕現の一場面を、篤志者の御浄財を以て石像にて奉製いたし、弁財天の無量無辺不可思議の功徳を後の世永く称え奉るべく、祈念建立いたすものなり」「杉山検校の福石」そして「江島神社 辺津宮」。「江島弁財天」。「八坂神社」。「八坂神社御祭神 建遠須佐之男命例祭日 七月十四日旧称 天王社御祭神の建速須佐之男命は八岐大蛇退治で知られる日本神話の英雄で、神仏習合時は牛頭天王と呼ばれました。疫病を始めとするあらゆる災難からお守り下さる神様で、江島神社に祀られる三女神の父神でもあります」「藤沢市指定重要無形文化財江の島 天王祭令和ニ年(ニ〇ニ〇)四月一日指定八坂神社(江島神社境内社)の江戸時代以来の例祭。腰越で祀られていた神体(建速須佐之男命)が大波に流されたのを、江の島の大海士(素潜り漁師)が海中より、すくい上げて祀ったと伝わります。この伝承を再現したのが、今日では毎年七月第ニ日曜日に行われる神幸祭(神興の海上渡御・東浦祭典・小動神社渡御)です。その前後数日間の一連の祭礼が天王祭で、「かながわの祭り50選」に選ばれています。祭祀の始まりを再現する形態が、伝承通りに江の島島内の魚師を主体として伝えられていること、特殊神饌として調理した麦を供した後、参脂者に振る舞うことに特色があります。神興渡御の際に先導して奏でられる「江の島囃子」は、神奈川県の重要無形民俗文化財に指定されています。」「稲荷社・秋葉社」。八坂神社の隣にある小さな社。江島神社の末社だと。豊受気毘賣命(とようけひめのみこと)と火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)が祀られている。江の島随所にあった小祀(秋葉稲荷・与三郎稲荷・漁護稲荷など)を合祀した社とのこと。「江の島ヨットハーバー」を左眼下に見る。海の先に「七里ヶ浜」。「中津宮」参道にあった江戸歌舞伎「中村座」が奉献した石灯籠。七代目尾上菊五郎、五代目尾上菊之助親子の手形モニュメント。平成十一年(一九九九年)九月七代目尾上菊五郎、五代目尾上菊之助出演の「江の島大歌舞伎」が盛大に開催されました。当地ゆかりの「弁天娘女男白波」を演目とし、菊之助が演じた弁天小僧は大いに観衆をわかせました。開演に先立ちお練りで弁財天に詣でた際、菊之助御自身の手植えにより献樹された「しだれ梅」であります。「江島神社」の「中津宮」。853年(仁寿3年)、慈覚大師(円仁)による創建と伝えられている。1689年(元禄2年)に改築。1996年(平成8年)には、全面的な改修が行われ、元禄改修時の社殿が再現されている。江戸時代には、商人・芸人の信仰を集めた。祭神は市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)。エスカー2出口。エスカー3乗り場。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.07
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この日は11月4日(金)、地元江の島で開催されている「湘南キャンドル2022」を観に行く。「湘南キャンドル2022」のポスター。期間は~11/6(日)までとのことで、比較的温かいこの日、そして土、日の最終日は混雑が予想されるのでこの日に行く事を決断したのであった。16時に出発し小田急線で片瀬江ノ島駅に。改札出口の正面には「江ノ島水族館」とコラボレーションした大型の「クラゲ水槽」が。「タコクラゲ」であろう。クラゲだが足(触手)が8本。だから「タコクラゲ」。傘の水玉模様も可愛いのであった。「タコに似た外見からその名がつけられ、体内に褐虫藻(かっちゅうそう)が共生する為に褐色になっている。褐虫藻はクラゲの体内で光合成を行い、その産物の一部をクラゲが利用する。傘に触手はないが、傘の下には八本の口腕がある。その口腕の先から、細長い棒状の付属器が伸びるのが特徴の一つで、これが形の上でタコの足に当たる。日本近海では関東以南の温暖な海域に生息し、傘径10cm程度になるが、20cmほどの個体もいる。夏から秋に、静かな湾内で見ることが多い。刺胞動物に分類されるが、毒が弱くほとんどの人は痛みを感じない。」とウィキペディアより。この「タコクラゲ」の足(触手)は6本?何かの理由で2本失い再生中か?いつまでも眺めていたい、水分95%の「タコクラゲ」の動きなのであった。そして改札を出た裏側にはウミガメがゆっくりと泳いでいた。片瀬江ノ島駅は、2020年2月28日に、神社仏閣の技法である竜宮造りを取り入れ、また屋根上にはイルカの像を設置したり「五頭竜と天女の伝説」をイメージした装飾を施すなど、品格と遊び心が共存する新駅舎として、一部供用を開始した のだ。まずは湘南海岸からの夕焼けを楽しみに、国道134号を渡り西浜に向かう。残念ながら、雲に覆われ夕日の姿はほとんど顔を見せなかったが周囲の雲は赤く染まっていた。「県立湘南海岸公園」案内図。この付近の鵠沼海岸は明治中期に海水浴場としてオープンして以来有名となり、夏の海水浴客をはじめ、多くの文化人に愛されてきた。都心からも程近く、その恵まれた眺望は今も湘南を代表する人気スポット。 湘南海岸公園は藤沢市の鵠沼海岸、片瀬海岸に沿って約2kmに渡り、面積は約 17.4ha で、公園内には噴水広場、ちびっこ広場、水の広場、海風のテラス、公園管理事務所であるサーフビレッジなどの公園施設がある。また、駐車場は片瀬海岸地下駐車場を含めると6箇所。園内には新江ノ島水族館、なぎさの体験学習館及びイタリアンレストラン等があるのだ。夕日と夕焼けを海岸からカメラで追うが・・・・。伊豆半島方向には山の端が見えたのだが。束の間であったが陽光が水面に射し込む。そしてオレンジ色の帯が水面に。そして再び黒い雲の中に姿を隠した。江の島の姿。まだ17時前であったので、「江の島シーキャンドル」は点灯前であった。平塚方面に曲線状に延びる湘南海岸の鵠沼海岸・辻堂海岸。親子連れ、カップルが岸辺に。雲の切れ目はオレンジ色に輝くのであったが。再び江の島の全貌を。雲の端は筋の如くに輝いていたが。そしてこの日の日没時間の16:42。雲の端の筋もジワジワと輝きを失って行った。この光景を見たかったのであったが。(2017年撮影)。そして茅ヶ崎海岸の沖の「えぼし岩」をズームして。 正式名称は「姥島(うばじま)。片瀬漁港裏の駐車場にあった「乃木大将像台座石ここにはかって、日露戦争時の陸軍司命宮として知られる乃木大将の銅像が建っていましたが、太平洋戦争の終戦直後に行方不明になり、台座だけが残されました。この石は、その台座石に使われていたものです。」昭和初期頃の写真であると、ネットから。日露戦争の英雄「乃木希典」(のぎまれすけ)。「乃木大将」・「乃木将軍」と呼ばれている。学習院院長も務めた乃木大将は、片瀬にあった学習院水泳訓練所で学生たちに水泳を教えていた。1937年(昭和12年)、片瀬の海岸に乃木の銅像が建てられたが、1946年(昭和21年)5月に、取り外され横たえられていたのが目撃されたのを最後に、どこにいったのかわからないのだという。そして片瀬漁港入口にあった石造を江の島を背景に。パブリックアートの親松英治作「海の詩」。江の島を背景に大きな鯛をかかえた青年がアクロバチックなポーズで異彩を放っていた。台座には2006年の片瀬漁港整備記念と。ヤシの木と江の島を背景に。「片瀬漁港」案内板。境川河口に隣接する漁港。湘南の名物のシラスは主にこの港から揚がるのであろう。今年の「ふじさわ江の島花火ウィーク」の「お知らせ」。開催期間:2022年11月14日(月)~18日(金) 雨天・荒天中止と。例年10月中旬に開催している「ふじさわ江の島花火大会」について、今年度は11月に「ふじさわ江の島花火ウィーク」と称し、平日の月曜日から金曜日までの連続した5日間、3分間の花火を打ち上げることを決定した と。打上時間:18時 ~ 18時3分(3分間)場 所:片瀬海岸西浜打上発数:各日150発(最大号数4号玉)。そして江の島に向かい「境川」に架かる「片瀬橋」を渡る。「片瀬橋」から「境川」の河口そして江の島を見る。「江の島弁天橋」のヤシの木の並木を見る。「江島神社御鎮座記念龍燈籠」が前方に。江の島は弁財天と五頭龍の伝説があります。この龍燈籠は「江島縁起」による江の島湧出の時から、数え1450年を記念に平成13年(2001年)に建てられたもの。江島神社御鎮座千四百五十年記念としてこの石灯籠(龍燈)を建立したと碑に説明されていた。江ノ島は天女と五頭龍の伝説で有名な島で、早くも弁天橋の手前で龍が迎えてくれたのであった。龍が石灯籠の台座に巻き付いた迫力ある一対のモニュメント。この先、島内で龍をモチーフとしたモニュメントが数多くあるのであった。右の石灯籠(龍燈)。左の石灯籠(龍燈)。「片瀬漁港」の船着き場を見る。そして「名勝及史蹟江ノ島」碑。ところで「江ノ島」と「江の島」とちらが正しい表記なのか?(以前にも書いた記憶があるが)現在、「江の島」や「江ノ島」なとと呼ばれているが、これは最近になってからのこと。1952年(昭和37年) 5月10日の住居表示では「江の島」になっていることから、法律的には「江の島」が正式となる。しかしながら、史跡や江ノ島電鉄(江ノ電)などの公共交通機関は「江ノ島」を使用し続けていることになる。我が藤沢市によると、昭和41年10月に新たに住居表示が施行され、この時に「江の島」を改めて正式名称とした模様。続く昭和44年1月にも、今度は藤沢市観光協会より表記を「江の島」で統一する運動が実施されていると。史跡や公共交通機閂が「江ノ島」を使い続ける理由とは、創立以来の自社ブランドを維持する上では仕方なく、といった一面があるのだろう。史跡に見える「江ノ島」表記としては、まさにここ、江の島への入口となる「江の島弁天橋」のたもとに立つ「名勝及史蹟江ノ島」と記された石標が該当するのだ。 ・・・つづく・・・
2022.11.06
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昨日の夕方に、隣接市・綾瀬市にある行きつけのホームセンターへ畑用の肥料を買いに行った。ホームセンター駐車場からの夕日を、持参のカメラで追う。左手は「矢倉岳」であっただろうか?富士山も赤く染まって。夕日をズームして。買い物を手短に済ませて。そして山の端に沈む夕日。雲が見送るがごとくに。富士山は更に赤く染まって。そしてこの日のこの場所からの日没。時間は16:40。鉄塔越しに。ズームして。残照を追う。「紅富士」の如くに。ズームして。電柱、電線の姿はなく。南東方向には月の姿が。ズームして。「十三夜」手前の月。そして車に戻り帰路に。 ・・・END・・・
2022.11.04
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石段を上り「本堂」の手前に。本堂手前左手にあったのが『浄行菩薩』。『浄行菩薩』とは法華経に出現する菩薩様で、水が垢や穢れを清めるがごとく、煩悩(苦しみのもと)の汚泥を洗い注いでくださる水徳をお持ちの菩薩様とのこと。横顔を。反対側から。本堂前から「山門」方向を見下ろして。中央の参道には多くの人の姿が。本堂奥の「五重の塔」を見る。ズームして。本堂の中では「プラスアンサンブル 福腹富(ぷっぷくぷう」の金管3重奏のライブ演奏が行われていた。残念ながら、本堂内は撮影禁止。「本堂」に近寄って。龍ロ寺本堂ライプ・法要スケジュール。「日蓮大聖人像」。ズームして。左手には数珠と立正安国論の巻物を持っていた。三日月も雲間から姿を現した。「鐘楼」。四角和紙灯籠・「瀧の口 竹灯籠」。「大書院」前の高台から「山門」近くを見下ろす。「山門」を横から。境内を見下ろす。「妙見堂」前。そして「龍口会館」。玄関には五重塔が。「藤沢市消防団」も待機中。「江ノ島駅入口」交差点の角にあった「海産物 魚料理 舟善」。学生時代に、この場所にあった運送会社で夏休み中のアルバイトをしたのであった。交差点の反対側にあったのが湘南モノレール「湘南江の島駅」。江ノ島電鉄の「江ノ島駅」手前の踏切。駅前の車止めのオブジェ。8羽の小鳥たちには服が着せられていた。左側の4羽。右側の4羽。最初は江ノ島駅売店に勤務していた方が作って着させてくれたそうで、これまでに1000着以上の服を作ってくれている と。「江ノ電 江ノ島駅」。改札口。「江ノ電開業 120th」。江ノ島電鉄は1902年9月1日に、いずれも藤沢市の藤沢駅から現在の江ノ島駅にあたる片瀬駅の間で開通し、今年の9月1日で開業120周年を迎えたとのこと。江ノ島駅1番線(藤沢行きホーム)の展示室に1/150サイズ(Nゲージ)のジオラマが。石井彰英氏より寄贈された「ジオラマ」。このジオラマは、平成10年11月11日に江ノ島電鉄社が当時闘病生活にあった新田朋宏くんの「江ノ電の運転士になりたい」という夢の実現を手伝った縁で、朋宏くんのお父さん新田和久さんの友人であった石井彰英氏から寄贈されたたもの と。残念ながら新田朋宏くんは平成10年11月15日に亡くなられましたが、ジオラマ上を走る江ノ電の運転士として今も活躍中。江ノ島駅、龍口寺廻りをズーム。別の角度から。七里ヶ浜の駅・鎌倉高校前駅の姿も。人物も詳細に配置されたジオラマ。「ぼくの小さなパラダイス昭和40年頃、両親・祖父母と何度も来た江の島。海で泳ぎあじさいの花を見た懐かしい情景をジオラマにしたくなり、当地を何度も取材しながら制作に費やした期間は約2年。静寂の中の極楽寺駅、明るい学生さんが乗り降りする鎌倉高校前駅、子ども達の笑顔がまぶしい江の島海岸、皆さんを乗せて元気に走る江ノ電。私の前に広がる風景は、当時の頃と何ら変化はありませんでした。皆様にこのジオラマを楽しんで頂けましたら、制作者としてはこれほど嬉しい事はございません。 2008年11月吉日 石井彰英氏より寄贈されました。」藤沢駅方面のホーム奥の右手にあったのが待合室。「祝 江ノ島電鉄 鉄道開業120周年」と。江ノ電の前頭部・運転席のカットモデルが展示されていた。名車303形の前頭部は廃車後極楽寺工場で保管されていたもの と。「貴賓室の扉」。「貴賓室の扉について明治3 5年の開業(藤沢一片瀬間の3 .42 k m )当時、全4両の車両のうち、半数の2両には、一般の3等席に加えて1等席が設けてありました。当時から、葉山の御用邸をはじめ鵠沼の秩父宮邸など、近隣には多くの高貴な方のお住まいがあったため、江ノ電(当時は江之島電気鉄道)は1等という特別列車を用意したのです。記録によると、1等と3等の合造車はこの扉を仕切りとして車内を3つに分け、個室を確保したようです。大正2年4月8日の『横浜貿易新報』によれば、大正2年4月6日に伏見宮博仁王ほか3殿下が、この特別仕立ての列車で片瀬(現江ノ島)ー長谷間を移動されたという記録が残っています。」江ノ島駅に鎌倉方面のホーム。そして藤沢駅行きに乗り、江ノ島電鉄・藤沢駅から小田急線に乗り換えて帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.11.01
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「沖縄本島一周の旅へ」を約1ヶ月に渡ってアップ中ですが、一旦中断、寄り道して近況をアップさせて頂きます。一昨日の夕方に、神奈川県藤沢市片瀬の龍口刑場跡に建つ日蓮宗の本山・「龍口寺」で開かれる「龍の口竹灯籠」を訪ねて来ました。2009年(平成21年)まで行われてきた「灯籠流し」に代わって、2010年(平成22年)より龍口寺の境内で行われている「竹灯籠」。毎年8月上旬に行われていましたが、2022年(令和4年)から10月に変更となったようです。仁王門から五重塔までの境内には、青竹で作られた灯籠約3000基が並べられるのだ。夕刻になるとロウソクに火が灯され、幻想的な世界が演出されるのであった。自宅を4時過ぎに出て江ノ島電鉄の藤沢駅に到着。改札を入ると正面に花時計とその上に江の島とその奥に富士山の夕景写真が。ホーム入口に設置されていたディスプレイには、【10月15日(土)~11月6日(日)】の日程で開催されている「湘南Candle2022」の案内が流れていた。10秒間隔?で次々に幻想的な空間映像が。改札口方向を見る。上記ディスプレイは「⬆出口」の下に。ホームの巨大ディスプレイには湘南海岸、富士山の夕景が。出発時間になっても、電車は入線してこなかった。混雑の影響で5分程度の遅れで運転していると。そして漸く入線。そして江ノ電 片瀬江ノ島で下車し、龍口寺に向かい国道467号に出る。「龍口寺竹灯籠」の幟が道路脇に並んでいた。「龍口寺」手前の「龍口明神社(元宮)」は既に撤去され立ち入り禁止になっていた。昭和53年(1978年)に、西鎌倉の住宅地内に「移転」👈リンク した。現在も旧境内の鳥居などはここ藤沢の龍口寺に残っているのである。そして「龍口寺」の山門に到着。「龍口寺」の本尊は大曼荼羅、創建は延元年(1336~1340)。日蓮の弟子日法上人が日蓮聖人像を安置したのが始まりとするなどの諸説がある。鎌倉時代後期、日蓮は『立正安国論』を示し、法華経を唱えることによる国家安泰を説いた。この活動に不安を覚えた幕府は、日蓮を龍の口にて処刑しようとするが、この時、江の島の方から大きな玉のような「ひかりもの」が処刑場に飛んできて、斬首役人はおののきひれ伏したと伝えられている。もともとこの処刑に異論を唱えるものも多く、処刑は中止となり日蓮は佐渡へ流されるが、やがて鎌倉に戻って来た。現在も日蓮が入られていた土牢が残っているほか、境内には神奈川建築物百選に選定されている五重塔もある。また、2021年(令和3年)10月1日に、本堂1棟・山門1基・五重塔1基を藤沢市指定重要文化財(建造物)に指定されている。「山門」の手前右側には、竹灯籠の一般申込みのテントがあった。竹灯籠1基1,000円でご供養、祈願を行えると。暗くなるまで暫し、仁王門横で待機。そして、体温検査を実施し、境内へ。竹灯籠の供養、祈願受付。「寂光山 龍口寺 境内図」。「仁王門」を潜る。「山門」を正面から。扁額「龍口寺」。「第十二回 龍の口竹灯籠」ポスター。「三〇〇〇基の灯籠」が彩る幻想的な秋の夜」と。開催時間は午後五時から午後八時まで と。そして境内に並べられている「龍の口竹灯籠」👈リンク をカメラで追ったのであった。太い孟宗竹を短く鋭角的に切ったものの中で蝋燭に灯が揺らいでいた。竹に多くの穴をあけて灯りを燈す「灯り」が人気ですが、こちらは素朴な「竹灯り」。ロウソクの光が描き出す、幻想的な秋の宵。一つ一つ人力で蝋燭の灯りを点したのであろうか?「竹灯り」👈リンク をカメラで追う。半纏姿の係員を後ろから。「妙見堂」前の竹灯籠。「山門」を振り返る。幽幻の灯りを楽しむ多くの人々の姿が。お化けの如くに見えたが。 ・・・つづく・・・
2022.10.31
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まずは、10月8日(土)9時過ぎの新湘南バイパスからの富士山です。9月30日(金)、富士山の初冠雪の便りが届きましたが、この日には山頂に白の気配はなく。そして11月8日(土)の十三夜の月です。月の左手に土星の姿も。十三夜の月、満月と言われても頷いてしまいそう。十三夜は、旧暦の日付で定められているため、毎年同じ日にやってくるとは限りません。十三夜はこの日10月8日(土)。そして一昨日・10月10日(火)の満月です。10月の満月は「ハンターズムーン」と呼ばれ、10月は狩猟に最適な月だったことから、アメリカの先住民によって名付けられたと言われています。上って来た満月を我が部屋から。そして満月とその右に木星。木星をズームで。月の赤道?が・・・・いや電線でした。そして満月をズームして。昨日10月11日(火)の富士山の夕景です。富士山の山頂の上空で雲が渦を巻いているかのように。刻々と変化する雲は色を変え、形を変えて。美しすぎる、幻想的な夕景Showをしばしの間、楽しんだのでした。 ・・・END・・・
2022.10.12
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「藤沢土木事務所汐見台庁舎 なぎさギャラリー」を後にして、「汐見台海岸」に徒歩で向かう。「浜須賀歩道橋」を利用して海岸に。湘南海岸を通る国道134号浜須賀交差点の立体歩道橋である。「斜張橋(しゃちょうきょう、Cable-stayed bridge)」の「浜須賀歩道橋」。「浜須賀歩道橋」のこの場所の左右下にはソーラーパネルが並んでいた。斜張橋は、橋の形式の1つで、塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に直接つなぎ支える構造。ケーブルを利用し吊って支えることから、広義には吊橋の一種と言える。「相模湾」が見えて来た。「浜須賀歩道橋」上から平塚方面を見る。富士山の姿も。ズームして。9月6日(火)に江の島からの「ダイヤモンド富士」にTRYしたが、この「浜須賀歩道橋」も「ダイヤモンド富士」鑑賞の人気の場所なのである。ネットから。2019.9.9と。 【https://twitter.com/chigasaki/status/1171045803533619200】より藤沢方面を見る。斜めの鋼主塔を持つ「浜須賀歩道橋」下のソーラーパネルも見えた。Y字型の歩道橋を海に向かって進む。そして「汐見台海岸」に到着。「汐見台海岸」から茅ヶ崎・菱沼海岸沖にある、茅ヶ崎のシンボル「えぼし岩・烏帽子岩」を見る。正式名称は「姥島(うばじま)」。ズームして。形が「烏帽子(えぼし)」のように見えることから「烏帽子岩」の名で親しまれている。高さは14.6m、茅ヶ崎海岸の沖合約1.4kmにある。1,200万年前の海底地層が隆起しているものと言われており、砂岩層と火山層が縞模様の地層を造り出している。 昔は、岩の先端部が尾をひいたように長く出ていたが、米軍の射撃訓練の標的として使用されていたため、現在は、先端部分が欠けているのだ。 「えぼし岩周遊船」で間近まで行くことができる。岩を背面方向から見られるほか、江の島をはじめ、天気の良い日には富士山までが見渡せるのだ。もちろん、ここも「初日の出」&「ダイヤモンド富士」の鑑賞スポット。「茅ヶ崎 海・浜の利用ルール」。遊歩道兼サイクリングロードを藤沢方面に進む。江の島の姿を遠望する。ズームして。「江の島シーキャンドル」。「注意この付近の砂浜で旧日本軍のライフル弾等不発と思われるものが発見されました。海中に埋もれていた不発弾が高波等により漂着したと思われます。発見した場合には危険物ですので、絶対に手を触れず下記連絡先まで通報をお願いします。」と。ウッドデッキ(展望デッキ)が設置されていた。この場所に流れ出る川の名は?いや、雨水配管の放流渠なのであろう。ウッドデッキ(展望デッキ)の下には、高潮や高波などを防ぐため、海岸管理者である神奈川県により防潮扉が設置されていた。砂防林には「S24茅ヶ崎市汐見台」と砂防林の管理区域表示が。そしてCの中央に案内板が。「ダイヤモンド烏帽子」の写真の下側に説明文が。「日本初ロケット火薬実験の地JAXA(宇宙航空研究開発機構)名誉教授 的川泰宣氏の「日本ロケット物語」によれば「1934年(昭和9年)に村田勉博士により日本で最初にロケットの打ち上げ(火薬実験)が行われたのは辻堂海岸だった」とのことです。日本の宇宙開発の第一歩として挙げられるのは、1955年(昭和30年) 4月12日に東京都国分寺市で公開試射された糸川英夫博士のペンシル・ロケットですが、このロケットの燃料に結実する火薬実験地が、当時、横須賀海軍砲術学校辻堂演習場であったこの海岸でおこなわれました。土井隆雄・野口聡一と二人の宇宙飛行士ゆかりの茅ヶ崎は、日本の宇宙開発の黎明にも深く関わってきたことになります。記念地が海岸一帯におよぶことから、2か所に記念碑を建立しました。ほかの一つはここから西約2.5kmの加山雄三通り前海岸にあります。」沖には釣り船の姿が。この日の狙いの魚は?そして遊歩道を引き返しながら富士山の姿を。箱根・二子山の姿も。右が上二子山・1,099m、左が下二子山・1,065m。再び烏帽子岩・姥島を。「カツオノエボシ(クラゲ)に注意! !絶対にさわらないでください!!死んでいても猛毒がります。」と。「カツオノエボシ」をネットから。カツオノエボシは自分で泳ぐことができないため、普段は浮き袋を使って水面を漂っている。ところが毎年5~9月になると、台風などの強い風の影響で沖合から海岸に吹き寄せられる。これがカツオノエボシが海岸に漂着する理由で、この時期は各地で警戒されている。竹製の砂防柵の向こうに、雪のない富士山の姿が。再び帰路に「浜須賀歩道橋」を上って行く。「はますかほどうきょう(浜須賀歩道橋)」と。歩道橋の途中には休憩・展望用ベンチが設置されていた。正面に見える建物はマンション2SLDK 10階建ての「ライオンズガーデン湘南緑が浜」。2SLDKは居室が2つとサービスルームが1つ。再び富士山の勇姿を見る。雲も多少少なくなっていた。ズームして。そして「藤沢土木事務所汐見台庁舎 」の駐車場まで戻る。駐車場の東側には、「海浜自然生態園」があったので最後に立ち寄った。「海浜自然生態園この海浜自然生態園は、湘南海岸の砂防林を模して作られたもので、海からの潮風や飛砂より住宅や道路を守っている植物の観察の場として、開設されました。海浜地域に生育する砂草林内の樹木などの種類を園内のそれぞれのゾーンに配置し、広く知ってもらい、見学いただけるように作ったものです。この広場を皆さんの自然のふれあいの場として、いつまでも可愛がってご利用ください。」「海浜自然生態園」案内図。前方に広がる「海浜自然生態園」。周囲には砂防林が拡がっていた。「砂防林で見られるおもな樹木湘南海岸の砂防林は、潮風や飛砂から、海岸地域の住宅や道路を守っている。単一樹種の林より多様な樹種による林の方が生態的に強いことから、当初から植栽されているクロマツに加え、アキグミ、ウバメガシ、スダジイ、モチノキ、タブノキ、ヒメユズリハ、ヤブニッケイ、ヤブツバキ、ヤマモモ、カクレミノ、ネズミモチ、トベラ、マサキ、シャリンバイの計15種に自然に侵入した樹木を加え、諸害に強い砂防林育成を行っている と。シェルターが2基。木道(ボードウォーク)を進む。シェルターを振り返る。この場所は休憩場や催し物会場として利用されているのであろう。左前方には「四阿(あずまや)」が。この日は花の数は少なかった。「生態園や砂浜で見られるおもな砂草砂草とは、常に潮風や飛砂にさらされる環境で育つのが、ハマヒルガオなどの「砂草」と呼ばれる植物です。「砂草」は、砂浜から砂が飛び去るのを防ぐとともに、みどりや花で砂浜に彩りを添えています。湘南海岸では開発や海岸の浸食により、砂浜が減少したことから、「砂草」が生育できる砂丘が減少しています。」オカヒジキ、コウボウシバ、コウボウムギ、ツルナ、ハマエンドウ、ハマゴウ、ハマダイコン、ハマニガナ、ハマヒルガオ、ハマボウフウが写真付きで説明されていた。そして「藤沢土木事務所汐見台庁舎 なぎさギャラリー」、「海浜自然生態園」を独り占めし楽しんだ後は、この日の目的地・平塚に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.10.02
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【ソフィー・ジェルマン素数】(ソフィー・ジェルマンそすう、Sophie Germain prime)はフランスの数学者ソフィー・ジェルマンにちなんで名付けられた素数で、2p + 1 もまた素数であるような素数 p のことである。それに対し、2p + 1 のほうを【安全素数 (safe prime) 】👈リンク と呼ぶ。例えば 11 と 2 × 11 + 1 = 23 はともに素数であるので11 はソフィー・ジェルマン素数】、23 は【安全素数 】である。【ソフィー・ジェルマン素数】が無数に存在するかどうかは分かっていない。最も小さいものは 2 である。ソフィー・ジェルマン素数を 2 から小さい順に列記すると2, 3, 5, 11, 23, 29, 41, 53, 83, 89, 113, 131, 173, 179, 191, 233, 239, 251, 281, 293, 359, 419, 431, 443, 491, 509, …「ソフィー・ジェルマン伝説」👈リンク。【ソフィー・ジェルマン素数】かつ【安全素数 】である素数は5, 11, 23, 83, 179, 359, 719, 1019, 1439, 2039, 2063, 2459, 2819, 2903, 2963,…2016年現在知られているものの中で最大のソフィー・ジェルマン素数は 2618163402417 × 2^1290000 − 1 であり、388342 桁の数である。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.02
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n^2+n+41=n・(n+1)+41(n は0以上の整数)の形をした素数を【オイラー素数】といいます。「n に 0 から 39 を代入するとすべて素数になる」というレオンハルト・オイラー [1707 - 1783] による発見が由来。例:0^2+0+41=411^2+1+41=432^2+2+41=473^2+3+41=534^2+4+41=615^2+5+41=71...38^+38+41=152339^2+39+41=1601このようにオイラーの素数生成式は連続して40個もの素数を与えます。n=40のときは、40^2+40+41 = 1681=41✕41となって初めて素数でなくなります。10000以下の【オイラー素数】は合計86個。41 43 47 53 61 71 83 97 113 131 151 173 197 223 251 313 347 383421 461 503 547 593 641 691 743 797 853 911 1033 1097 1163 12311301 1373 1447 1523 1601 1847 1933 2111 2203 2297 2393 2591 26932797 2903 3011 3121 3347 3463 3581 3701 3823 3947 4073 4201 44634597 4733 4871 5011 5153 5297 5443 5591 5741 6047 6203 6361 65217013 7351 7523 7873 8231 8597 8783 8971 9161 9547 9743 9941 なお、X^2+X+41 の類似でX^2+X+a (a は2以上の整数)という式を考えたとき、X=0 から a−2 まで代入した値がすべて素数であるような a を【オイラーの幸運数】と呼びます。オイラーの幸運数は a=2,3,5,11,17,41 の6つだけであることが知られています。よって41 はオイラーの幸運数の中で最大の数というわけ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.01
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「藤沢土木事務所汐見台庁舎 なぎさギャラリー」の散策を続ける。「1st ふじさわ都市デザイン賞 景観部門 1991.3」。「かながわの花の名所100選海浜自然生態園及び辻堂海岸 ハマヒルガオ平成7年3月神京川県定」。「奨励賞 第37回神奈川建築コンクール」。「二十一世紀に引き継ぎたい「日本の白砂青松100選」湘南海岸昭和六十二年一月十日に「社団法人 日本の松の緑を守る会」。「湘南港 今昔」。「湘南港 今昔湘南港は、相模湾北東部にある「県指定史跡名勝、江の島」の東側に位置し、島の北方約400mの対岸は片瀬東浜海水浴場としてその名を知られています。昭和30年までは小型漁船数隻の船泊まりでしたが、海岸浸食対策として防波堤工事の実施に併せて、この防波堤を利用した2000t級観光船を対象とする観光港が計画されました。その後、昭和39年の東京オリンピックでは、ヨット競技のメインハーバーとして事業費約24億円を費やし、現在の湘南港が完成しました。」「東京オリンピック当時の湘南港」。東京オリンピックのヨットレースの写真。「=これからの湘南港=余暇時間の増大、アウトドア活動の多様化など、海洋性レクリエーションの受け皿として、マリーナ整備への要請が一段と高まってきています。そこで、ヨットの保管隻数の拡大と人々が気軽に訪れることができる開かれたマリーナをめざして、平成3年から湘南港の再整備を進めています。この湘南港は平成10年の「かながわ・ゆめ国体」のヨット競技会場として、また、大規模地震災害時の緊急物資輸送拠点として、今後ますます重要な役割が期待されています。」「現在の湘南港」。円形の「シアター」の外の周遊通路を歩く。前方にも案内板が。「湘南なぎさプラン」。「湘南なぎさプラン湘南なぎさプランの対象地域は、江の島から大磯に至る約19kmです。この湘南海岸の各地域を分析し、特色ある6拠点を設定しています。 (1) 江の島・片瀬・鵠沼海岸地区 (2) 辻堂・菱沼海岸地区 (3) 茅ヶ崎中海岸地区 (4) 相模川河口周辺地区 (5) 平塚海岸地区 (6) 大磯地区この拠点地域を集中的に整備・保全することにより、周辺の地域へ面的波及をはかります。湘南なぎさプランの具体的な推進は、各事業のスケジュールなどを明確にした「湘南なぎさプラン実現プログラム」に基づき、国、県、市町、民間が各種事業の整合を図りながら、総合的に行っています・行政と民間が一体となり事業を進めていくために「湘南なぎさプラン推進協議会」を設置し、行政と地元関係者との連携をとりながら、合理的かつ効果的なプランの推進を図っています。」「湘南なぎさプラン」。「湘南なぎさプラン豊かなみどりと美しいなぎさが生かされた快適ですごしやすい海岸文化ゾーン・湘南。「湘南なぎさプラン」は、緑、海岸、交通、漁業など様々な問題を抱える湘南海岸地域について、21世紀を展望する長期的かつ総合的プランとして、昭和60年7月、「湘南なぎさサミット」において、神奈川県、平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市、大磯町及び県民の共同作品として確認されました。このプランは、自然環境の保全を基調としつつ、居住環境の整備とリゾートゾーンの整備という目標を持っています。今ある自然を良好な形で子や孫に伝えながら、様々な課題を解決していくという基本的な考え方により、いろいろな事業を進めています。県民の皆様のご理解とご協力により、「湘南なぎさプラン」を推進し、豊かな緑と美しいなぎさが生かされた快適ですごしやすい湘南海岸地域を創造していこうとするものです。」「湘南なぎさプランシンボルマーク色彩により、自然の空と海と陸を表し、さらに、水玉が3つ、順次大きくなることにより、湘南が未来に向かって躍進することを象徴しています。」「湘南海岸」。円形構造の「150インチ大画面シアター」。子供たちの校外学習で使用されている。「宇宙飛行士展示コーナー」として令和3年3月まで使用されていたのだと。当時は「茅ヶ崎市は、土井宇宙飛行士、野口宇宙飛行士という2人の茅ヶ崎ゆかりの宇宙飛行士を輩出しています。次代を担う子どもたちをはじめ、多くの市民の皆さんに宇宙に関する夢を育んでもらい、土井さんや野口さんに続く人が育ってくれることを願い宇宙飛行士展示コーナーを開設しました。2人の茅ヶ崎ゆかりの宇宙飛行士に関する貴重な資料や、宇宙航空研究開発機構(JAXA)提供の様々な資料を展示しています。シアターでは150インチの大画面で「STS-114ミッション」「きぼうの、その先へ~1Jミッション」「野口宇宙飛行士第22・23次長期滞在」ほかを上映しています。定期的に展示内容を更新しています。水圧で動くロボットアームやコスモキューブでも遊ぶことができます。」と。「海のフラッグ1990(平成2)年、人と海のかかわり方を試みながら21世紀に向けた新しい生活・文化づくりをさぐる海の総合イベント「サーフ '90」が開催されました。イベントの一環として新しい「海の時代」にふさわしい「大漁旗」が、粟津潔、浅葉克己、池田満寿夫、岡本太郎、斎藤寿一、日比野克彦、福田繁雄、柳原良平、U.G.サトー、渡辺豊重の各氏により制作され、また、子供たちによる一般公募から配島美穂さん(当時小学校1年生)の作品が大賞に選ばれ、同じく「大漁旗」として制作されました。」壁にかかっていた「大漁旗」。魚が渦を巻いて。福田繁雄さんの「サーフ '90」の作品。2番目の「TSUNAMI」コーナーの前にあった「神奈川県津波浸水予測図の見方」。①南関東地震現在の県・市町の長期における防災目標とする想定地震であり、海岸保全における津波防御目標です。今後50年問の発生確率: 0 ~ 5 % 発生問隔: 200 ~ 400年②神奈川県西部地震現在の地域防災計画で切迫性が指摘され津波被害についても想定される地震です。また海岸保全における津波防御目標です。今後50年間の発生確率:評価なし 発生間隔: 70年間隔③神縄・国府津ー松田断層地震小田原における歴史地震(過去の地震)との関連性について現在議論されつつある地震です。今後50年問の発生確率: 0.4 ~ 30 %発生間隔: 800 ~ 1,300年④元禄型関東地震過去、実際に発生した地震であり、想定地震の中で最大の津波被害を起こすことが予想されることから、沿岸到達図および浸水予測図を作成しました。今後50年間の発生確率: 0.0 % 発生間隔: 2,300年」藤沢市沿岸の「津波浸水予想図〔南関東地震〕」「江の島周辺」。濃い赤が5.0m~10.0mの浸水深さ。藤沢市沿岸の「津波浸水予想図 相模トラフ沿いの海溝型地震(西側モデル)」。濃い赤が5.0m~10.0mの浸水深さ。藤沢市沿岸の「津波浸水予想図 元禄関東地震タイプ」。濃い赤が5.0m~10.0mの浸水深さ。「江の島周辺の浸水深さ」。「新聞記事 スマトラ沖地震の津波被害2004年12月27日 朝日新聞 夕刊」。2004年12月26日午前7時58分(日本時間午前9時58分),インドネシア共和国スマトラ島アチェ州沖でM9.0と推定される海溝型巨大地震が発生したのであった。「津波、1000キロ以上渡る」と。津波がインドネシア、タイ、インド、スリランカをはじめインド洋沿岸に甚大な被害を及ぼした。この津波は5000km以上離れたアフリカ沿岸にも被害を及ぼし、南極の昭和基地でも水位変動が観測されたのだ。「海岸ごみ(海藻は除く)は川から7割」。川からのごみ「人工系」20%:河川から来たビン・カン・ペットボトル・プラスチック製品等の 人工系のごみ海洋発生ごみ3%:放置ゴミ 31%:海岸に来た人が直接海岸に捨てたごみ「自然系」46%様々な「人工系」のごみが展示されていた。「ゾウ×575毎年集める海岸ごみの量は2300トン。なんとゾウ575頭分の重さに匹敵します。みんなの海のために、あなたができること。目分のごみ。持ちろう。」「防砂林・湘南海岸を襲った災害・・・」第2室戸台風(昭和36年)~平成19年台風9号までの台風による砂防林の被害が説明されていた。● 第2室戸台風(昭和36年) 砂防柵が倒れ、残った苗も塩を浴び、砂を被ってしまいました。● 昭和40・41年の台風 潮害でマツの葉が全面的に赤く枯れてしまいました。● 昭和54年 台風20号 各所で防風ネットが倒壊苗が砂を被り、サイクリングロードが高波で崩落しま した。● 平成19年 台風9号 高波でサイクリングロードが崩落しましたが、砂防林には大きな被害はありま せんでした。「なぜ 国道134号の横には木がたくさん生えているの?~湘南海岸砂防林の概要~砂防林の役割神奈川県の湘南海岸では、毎年10月~ 5月頃にかけて、低気圧の通過後など、強い南西風が吹き荒れ、潮風や飛砂で、海岸地域の住宅や道路に多くの被害をもたらしています。湘南海岸砂防林は、こうした災害から暮らしを守るために育てている林です。かっては現在の国道134号が砂で埋まるほどの被害が発生していましたが、現在では、一年を通じて飛砂による通行止めはありません。砂浜の厳しい環境のなか、大きく成長した砂防林は、開発が進んだ沿岸地域において白砂青松の美しい景観に寄与する貴重な緑となっており、さらには炭酸ガスの吸収、騷音軽減、大災害時の火災延焼防止、津波被害の軽減など多様な働きが期待されています。砂防林の歴史昭和3年 昭和天皇の即位記念事業の一環として砂防林の造成に着手昭和16年~ 戦時中の松根油採取のための抜根や、終戦時の極度の燃料不足によるクロマツの 盗伐などで砂防林は荒廃した。昭和21年~ 砂防林の復旧に着手。戦後の砂防林の荒廃は、国道134号に飛砂による通行障害を もたらし、周辺の土地利用にも支障を及ほすなど影轡が大きかった。昭和36年~ 度重なる気象被害で砂防林は全面的に衰退し、地域一帯に飛砂や潮風による被害が 及んだ。相次ぐ被害を受け相次ぐ被害を受け、農林水産省、県林業試験場、 東京大学芝本農学博士らに造林、保護、育成について指導を仰ぎマツの他にトベラ、 マサキを混植、全国で初めて防風ネットを設置し3度目の砂防林整備を実施。昭和58年~ 長期的により安定した砂防林を目ざし、クロマツのほか、常緑広葉樹の混交密植に よる多層林化を目ざし、横浜国立大学宮脇教授の指導のもと、スダジイ、タブノキ、 ウバメガシ等の試験植栽を行う。※これまでに沿岸地域は開発が進み、良好に生育した砂防林は貴重なみどりとして、なぎさを 彩っています。強い砂防林をめざして 砂防林は、クロマツのほかに、十数種類の常緑広葉樹を混交させ、諸害に強い森 林を育成しています。また、防風ネット、砂防柵などの構造物と、砂浜で飛砂を 防ぐ砂草などが一体となって飛砂が道路や住宅に及ばないよう防いでいます。」「--海辺で見られる植物--」「かながわ公園マップ」。「緑の相談所 花情報《冬場の室内植物の管理》」「藤沢土木事務所 汐見台庁舎」案内。「なぎさギャラリー」の入口方向を見る。「こんな海にしたい こんな町にしたい」茅ヶ崎市立 汐見台小学校 2年生 の作品と。奥の方向を振り返って。奥正面に旧・原安三郎氏別荘「松籟荘」の85%に縮小復元された別荘玄関が見えた。通路の壁には多くの絵画も展示されていた。そして入口付近にあった「休憩場」しかし立入禁止、ソファーには使用禁止のテープが。TSUNAMI、「湘南なぎさプラン」の活動、松籟荘の歴史等、多くを学び「藤沢土木事務所汐見台庁舎 なぎさギャラリー」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.01
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【金太郎飴素数】はどの桁で切っても右側が素数になる素数。左切り捨て可能素数と類似。原則1から10までの数字として取り扱う。1と9は素数ではないので、1桁目が1及び9であるような素数(24564271、10969109など)は厳密には左切り捨て可能素数に成り得ない。【切り捨て可能素数】はどの桁も 0 ではないものをいう。しかし便宜上、1桁目に関しては【素数大富豪】👈リンク の常識に従って奇数であり且つ上記の条件を満たしていれば断りなく【金太郎飴素数】と呼ぶ。例えば、454547は金太郎飴素数】、54547、4547、547、47,7も素数。10962971は【金太郎飴素数】、962971、62971,2971,971,71も素数。最初の10は数字10として取り扱う。【ペア金太郎飴素数】とは構成数が同じ【金太郎飴素数】のことである。例えば●638971・983617●275641・564271・627541●192347・342179・429137・739241●357829・579283・872953・987523●379397・739397・933797・979337●566947・659467・665479・965647●683911・968311・986113・986131●279613・291367・623719・629137・632971 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.30
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次この日は9月12日(月)、平塚に用事があり向かったが、時間み余裕があったので、茅ヶ崎市内にある「松下政経塾」の建物を訪ねた。今年の6月28日で「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」を完了したとアップしましたが、寺社ではありませんが未訪問の場所がまだあったので追加アップいたします。「松下政経塾」は1979年6月21日に設立され、翌年4月に開塾した。神奈川県茅ケ崎市の2万平米という広大な土地に、本館・研修棟・寮棟・茶室・体育館が建っている。松下幸之助塾主の「民主主義発祥の地」のイメージでという希望に基づき、白亜の壁と茶色の屋根にも象徴されるように、ギリシャ・エーゲ海といった地中海風の建物で統一されている。正門から入り、車を駐車場に駐める。神奈川県茅ヶ崎市汐見台5-25。公益財団法人松下幸之助記念志財団 松下政経塾は、松下電器産業の創業者である松下幸之助が、設立した政治塾である。国会議員・地方首長・地方議員などの政治家を中心に、経営者・大学教員・マスコミ関係者など、各界に人材を輩出している。ヨーロッパの城壁の如き門。壁面には大きなブロンズの彫刻が。アーチ門レリーフ「明日の太陽」と。ここ松下政経塾のシンボルでもある「アーチ門」のレリーフのタイトルは「明日の太陽」。左に「力と正義」を表すひまわりを手にする男性像、右に「愛と平和」を表す鳩と女性像、その下に「困難」を表す雲を配し、この門をくぐる者はどの様な困難があろうとも「真理」に迫ろうとする構図になっているのだと。彫刻家・加藤昭男氏の作品。アーチ門中央のブロンズには「政経」の文字が。写真を撮っていると、男性ガードマンが来られて、敷地内への入場は事前の申込みが必要と。よって、この後の写真は以前に訪ねた旅友の写真を転載させて頂きました。アーチ門をくぐると正面に本館が。卒塾生の43%が政治の道に進んでおり、現職の政治家である卒塾生は2010年8月30日の時点で衆議院議員31名・参議院議員7名・地方首長10名・地方議員24名の計72名に上るとネットから。右手奥に研修棟。研修棟は主に塾生の研修を行う施設であり、円卓室、教室、講堂等がある。第44期生(2023年4月入塾)募集応募年齢 【年齢】 22歳 ~ 38歳(2023年4月1日時点) ※ 性別・学歴・国籍 不問研修期間 原則4年 ※ 2年目終了以降、審査を経たうえで、卒塾の時期を自身で選択できる。「松下幸之助氏像彫刻家・平櫛田中氏監修、愛弟子である浜田泰三氏制作。1989年7月、塾設立より10年後に建立された と。そして慌ただしく、「松下政経塾」を後にし、次の目的地の「藤沢土木事務所汐見台庁舎」に向かう。藤沢土木事務所は、鎌倉市、藤沢市、茅ヶ崎市及び寒川町を所管エリアとして、道路、河川、急傾斜地、海岸、港湾、公園等土木施設の維持、改良工事等の土木事業を実施しているほか、これらの施設にかかる許認可事務等を行っている施設である。神奈川県茅ヶ崎市汐見台1−7。日本国旗、神奈川県旗、青のシンボルカラー旗がはためいていた。駐車場に車を駐め、「藤沢土木事務所汐見台庁舎」内にある「なぎさギャラリー」に向かう。「なぎさギャラリー」は「藤沢土木事務所汐見台庁舎」の中に常設されている展示施設。茅ヶ崎に関連する自然科学に関するものを展示している。主な展示物として、津波の被害について学び考える「TSUNAMI」のコーナー、昭和初期に茅ヶ崎にあった別荘「松籟荘」のコーナー、海岸美化について考えるビーチクリーンのコーナーなどがあった。「藤沢土木事務所汐見台庁舎」入口。「藤沢土木事務所汐見台庁舎」入口正面。館内に入ると、「なぎさギャラリー」案内板が。「なぎさギャラリー」案内板。こちらは「藤沢土木事務所汐見台庁舎」案内。無人の「藤沢土木事務所汐見台庁舎」受付。正面には様々なパネルが展示?されていた。「ビーチクリーン((公益財団法人)かながわ海岸美化財団)」のコーナー。公益財団法人かながわ美化財団は、相模湾の自然海岸等の美化を目的として、海岸清掃や美化啓発、ボランティア団体の支援、海岸ゴミに関する調査研究などを実施している財団。海岸に漂着する様々なごみ、台風による被害、ごみはどこから来るのか等の展示を通して海岸美化について考えていくコーナーであった。管理している場所の写真。こちらも同様。「清掃区域図」。そして「TSUNAMI」コーナーへ。神奈川県は、津波浸水予測図を公開し、津波災害の啓発に取り組んでいます。世界共通語の「TSUNAMI」をタイトルとして、TSUNAMI被害の軽減を目指し、津波に備え、学び、考えるエリアである と。「湘南海岸の津波被害(1) 関東大震災(1923年)江の島周辺で150人不明関東大震災による津波は、湘南海岸で多くの犠牲者を出した。「鎌倉郡内材木座・由比ヶ浜・長谷・坂ノ下及び腰越・片瀬・江ノ島方面は高さ三丈の海しょう(津波)襲来し、為めに一家全滅したものも少なからず、おりから、由比ヶ浜海水浴場に来遊せる者約100名及び江ノ島桟橋を通行中であった者約50名は、何れも行方不明となった」(大正震災志)。写真上:津波に襲われた稲村ヶ崎と七里ヶ浜写真下:現在の湘南海岸」。「湘南海岸の津波被害(2) 関東大震災(1923年)写真(左):流出した江の島桟橋 ➡ 現在の江の島写真(右):津波に襲われた由比ヶ浜 ➡ 現在の由比ヶ浜左(下):地震被害を受けた鎌倉の名所 <有隣堂発行『神奈川の写真誌』から』> 大仏の台座がずれた。」「国内の津波被害 北海道南西沖地震(1993年)1993年(平成5年)7月12日午後10時17分12秒、北海道奥尻郡奥尻町北方沖の日本海海底で発生した。マグニチュードは 7.8 で、日本海側で発生した地震としては最大規模。地震に近い奥尻島を中心に、火災や津波で大きな被害を出し、死者201名、行方不明者29名を出した。写真(上):破壊された家屋写真(下):破壊したまち (写真提供:神奈川県温泉地学研究所)」「海外の津波被害 スマトラ沖地震(2004年)2004年12月26日、午前8時(インドネシア西部時間:日本時間午前10時)ごろ、スマトラ島沖でマグニチュード 9 程度の巨大地震が発生。この地震により大規模な津波が発生。平均で高さ10mに達する津波が数回、インド洋沿岸に押し寄せた。インドネシアやインド、スリランカ、タイなどで約22万人の死者・行方不明者を出す大災害となった。写真(上):津波の爪痕写真(下):救済支援の様子 (写真提供:株式会社建設技術研究所)」「阪神・淡路大震災地震土木施設被害 阪神・淡路大震災(1995年)写真提供:神奈川県温泉地学研究所・神奈川県横須賀土木事務所図面出典:神奈川県県土整備部地震時行動マニュアル(案)」「阪神・淡路大震災地震被害 阪神・淡路大震災(1995年)写真(上):座屈した高速道路の橋脚 高架橋から転落直前のバス写真提供:神奈川県温泉地学研究所」「朝日新聞 阪神大震災 1ヶ月特集 戦後最悪の被害 復興めざす街」「阪神大震災 惨状」。「朝日新聞 私は負けない」。次も「TRUNAMI」コーナー。巨大なTSUNAMIの写真の上にパネル展示が。「津波の基礎知識● 津波の発生メカニズム 津波は、海底で発生する地震に伴う海底地盤の隆起・沈降や海底における地滑りなどにより、 その周辺の海水が上下に変動することによって引き起こされます。● 津波のスピード 津波は海の水深が深いほど、速く進みます。水深2000mでは時速約500km、水深10mでは 時速約36km。陸上に遡上した津波は人が全速力で走る程の速さともいわれています。● 高波、高潮と津波の違い ~ 津波のほかに、海岸を襲う大きな波には、高波、高潮などがあります ~ 高波:台風や発達した低気圧の強い風により、海水があおられ海岸に押し寄せるのが高波。 高潮:台風や発達した低気圧に伴う気圧の降下と暴風のため、海面が異常に上昇し、防波堤を 乗り越え浸水被害を生じさせるのが高潮。 津波:強風や気圧の降下などにより発生する高波、高潮とは異なり、海底の地盤が破壊されて 発生する津波は、高波、高潮とは比べものにならない破壊力があります。」「津波に関する統一標識● 津波注意 図記号の意味:地震が起きた場合、津波が来襲する危険のある地域を示します。 図記号の目的:当該地域が津波による被害を被る危険がある地域であることを認識させ、 地震発生時には直ちに当該地域から内陸部、高台に避難させます。● 津波避難場所 図記号の意味:津波に対して安全な避難場所・高台を示します。 図記号の目的:津波からの避難先となる安全な場所や高台を示すとともに、地震発生時には、 そうした避難場所へ向かわせるものです。● 津波避難ビル 図記号の意味:津波に対して安全な避難ビルを示します。 図記号の目的:津波からの避難に際し、近くに高台がない場合、津波からの避難が可能な 鉄筋コンクリート造3階建のビルを示すとともに、地震発生時には避難ビルへ 向かわせるものです。」「神奈川県津波浸水予想図の見方(1)● 津波浸水予想図とは 津波浸水予想図とは、対象とする地震による津波が陸上に遡上した場合を予想し、浸水する 陸域の範囲、浸水深さ等を示した図です。 浸水予測図の作成範囲は、静岡県境~横須賀港海岸野比地区沿岸域です。● 図の見方 浸水深:津波による浸水が発生する際に、陸上のある地点で水面が最も高い位置にきたときの、 地面から水面までの高さです」「神奈川県津波浸水予想図の見方(2) 浸水深と危険度 2mの津波で木造家屋は全壊 津波は、高波や高潮とは比べものにならない破壊力があります。 浸水深が膝ぐらいまでになると、自由が奪われ歩く速さが遅くなり、避難に影響が出ます。 日本海中部地震(1983年)では、約70cmの深さでも死者が出ており、浸水深が小さい 場合でも十分な注意が必要です。また、2mの津波で木造家屋は全壊します。」「茅ヶ崎市津波ハザードマップ」そしてこちらが「松籟荘(しょうらいそう)」。旧・原安三郎氏別荘の部分復元。監修は吉田鋼一(横浜国立大学助教授)と。松籟とは、松の間を吹き抜ける風を意味しているのだ と。「湘南と別荘1887(明治20)年、東海道線横浜ー国府津が開通しました。湘南は京浜の保養地として脚光を浴び、海水浴場として人気が高まっていた大磯には、山縣有朋、伊藤博文など政界人、三井・三菱など財界人がこぞって別荘を建てました。大磯、平塚、藤沢に続き茅ヶ崎、辻堂などにも駅ができると、湘南全域で別荘が増えました。恵まれた温暖な気候、海水浴場、湘南遊歩道などとともに、別荘は湘南のイメージを形作ってきたものです。写真・図:松籟荘(しょうらいそう)北立面図」回り込むと「玄関先の復元」。「松籟荘は1919(大正8)年、実業家原安三郎氏が、新派俳優川上音二郎邸の敷地を購入し、母親の保養のために建設されたのが最初です。後に関東大震災で倒れたため、石井義弘氏設計により、1931(昭和6)年再建されました。建築主と建築家の思い入れがこもった湘南らしい別荘ということができます。別荘は取り壊され、敷地は現在茅ケ崎市高砂緑地として市民に親しまれています。別荘の一部を 85%に縮小し、特徴的な部分を集め復元しました。」と。「松籟荘」内に入る。「湘南の文化と歴史」。「田山花袋・小栗風葉・沼波瓊音・小杉未醒著「東海道線旅行圖會 1907(明治40)年 修文館刊」挿絵と簡明な文章による鉄道旅行の楽しさを説くユニークな旅行案内。」明治 22 年(1889)に東海道線の新橋-神戸間が全通し、草津にも鉄道が通ることとなりました。やがて国内の鉄道網が整備されていくと、人々の旅行手段は徒歩から鉄道へと変化 します。 本書はそのはしがきに「鉄道による旅は早くて便利ではあるが、歩き旅の風情には劣る ため、鉄道沿いの両側の視界車窓の展望、山水、田圃、市街村落、名所古跡、其他公私の 建築物より風俗習慣の異に至るまで、 悉(ことごと)く絵画をもって実写したものである。」という趣旨が記されていたように、全体で200 ページにおよぶ内容は紀行文と沿線風景を連続的に描いた絵で埋め尽くされた一冊である。こちらは「国木田独歩著 真山青果編病牀録 1908(明治41)年 新潮社刊入院中の独歩を真山青果が毎日のように訪ねて口述をまとめたもの」「戦後の新人たち」。「戦後の新人たち・・・・・・」「暖炉」と絵画。「萬 鐵五郎作 水着姿 複製」。「萬 鐵五郎 1926(大正15)年 油彩 水着姿 複製 岩手県立博物館所蔵萬 鐵五郎は、1885(明治18)年、岩手県に生まれました。1912(明治45)年東京美術学校西洋画科を卒業、新進の画家として活躍しましたが、1919(大正8)年療養のため茅ヶ崎市南湖に移り住みました。「水着姿」は1926(大正15)年夏に制作され、翌1927(昭和2)年の第5回春陽会展に出品されました。」「香朝楼 筆 禱龍館繁榮之図」。「香朝楼 筆 1891(明治24)年 錦絵(三枚組)「禱龍館繁榮之図」複製 大磯町郷土資料館所蔵1885(明治18)年、軍医総監であった松本順は大磯に湘南初の海水浴場を開きました。海水浴場宣伝のため、大勢の歌舞伎役者を大磯に呼び海水浴をさせ、これを錦絵にして配布しました。旅館禱龍館(とうりゅうかん)は、1887(明治20)年にできた客室が50以上もある大型の旅館で、海水浴客、保養客に利用され繁盛していました。」写真「国木田独歩を南湖院に見舞う人々」。【国木田独歩を南湖院に見舞う人々】の氏名が補足されていた。「ギャラリー来館者の方から、この写真の中の誰がどの位置にいるのかよくわからないとのご指摘がありましたので、このような形でわかるようにして見ました。11.3.25 湘南なぎさ事務所」と。「【国木田独歩を南湖院に見舞う人々】 1908(明治41)年明治自然主義文学の一人として著名な国木田独歩は、1908(明治11)年南湖院に入院した。多くの友人が、彼を励まそうと南湖院に見舞った。前列左から、正宗白鳥、中村星湖、小栗風葉、相馬柳風、中列左から、前田晃、国木田独歩、田山花袋、後列左から、小杉末醍、岩野泡鳴、真山青果、吉江喬松」ここにも写真が。「大磯、自宅での島崎藤村夫妻」。「大磯、自宅での島崎藤村夫妻 1943(昭和18)年明治自然主義文学の先駆者島崎藤村は、編集「若菜集」でロマン主義的詩風を示し、小説「破戒」で作家の地位を確立した。晩年大磯に家を構え「東方の門」を執筆中に倒れ、急逝した。」「旅館東屋に集う白樺派の人々」。「旅館東屋に集う白樺派の人々 1911(明治44)年ステンドグラス風の装飾の明かり窓を外から。屋内から。天上の照明も過美な装飾ではなく。ステンドグラス風の装飾の明かり窓をズームして。JR茅ヶ崎駅から南へ約200メートルの場所に「高砂緑地(たかさごりょくち)」👈リンクがあり、この場所は大正時代からは実業家・原安三郎の別荘「松籟荘」があった場所で、園内に残る日本庭園は「松籟荘」(旧原別荘)の時代に作庭された近代の日本庭園なのであった。茅ヶ崎市は、何故この高砂緑地に茶室・書院だけではなく住居「松籟荘」を復元しなかったのであろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.30
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【右切り捨て可能素数】【右切り捨て可能素数】を小さい順に列挙すると2, 3, 5, 7, 23, 29, 31, 37, 53, 59, 71, 73, 79, 233, 239, 293, 311, …であり、最大のものは8桁の数 73939133 である。この数自身および右から順に数字を切り捨てた数 7393913, 739391, 73939, 7393, 739, 73, 7 は、確かに全て素数である。桁ごとの右切り捨て可能素数の個数は4, 9, 14, 16, 15, 12, 8, 5であり、合計で83個である。左切り捨て可能素数かつ右切り捨て可能素数であるものは、2, 3, 5, 7, 23, 37, 53, 73, 313, 317, 373, 797, 3137, 3797, 739397の15個のみである。【右切り捨て可能素数】は、数字は左から右に読むので、途中、数字の最後に「0,2,4,6,8」などの偶数があっては素数にならないので、「左切り捨て可能素数」の方がバリエーションが豊富なことは明らかなのであるが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.29
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