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「下飯田佐馬神社」を後にして、再び「ゆめがおか駅」方向に戻る。横浜市の雨水用マンホール蓋は「横浜ベイブリッジ」のデザイン。相鉄いずみの線「ゆめが丘」駅東口~横浜市営地下鉄ブルーライン「下飯田」駅北口の再開発・大規模商業施設建設現場を見る。地下鉄 下飯田駅方向に向かって進む。地下鉄 下飯田駅前を通過。「和泉川」に沿って歩く。「草木橋」を渡る。「草木橋」。「和泉川」の下流側・ビオトープを見る。ビオトープは、動物や植物が安定して生活できる生息空間(生物生息空間)のこと。ドイツで生まれた概念で、「bio(命)」と「topos(場所)」というギリシア語を組み合わせた造語だ。川やアマゾンの雨林などの大きな空間から、池や小鉢などの小さな空間まで、魚や虫、多様な微生物が住まうところはビオトープと呼ばれる。「和泉川」。「和泉川・ビオトープ」を右に見ながら下流方向に進む。次に訪ねたのが「四ツ谷湧水」。和泉川側道沿いに、案内の標柱も設置されていた。「四ツ谷湧水」の流れに沿って遡る。ここが「湧水」の現場。近づいて。泉区は地下水脈に恵まれ、湧水の数は市内有数であると。四ツ谷湧水は、和泉川の下流、中和泉から下和泉にかかる辺りの一段高くなっている畑の下のくぼみにあり、にじみ出るように水が湧いていた。ほとんど枯れたことがないといわれる湧水であると。和泉川の下流域、中和泉から下和泉に広がる一段高くなった畑の下に水の湧(わ)き出るくぼみがある。長年、畑の水遣(みずや)りに使われてきたが、最近は区の花・アヤメも植えられるなどきれいに整備され、澄んだ水溜(みずたま)りにはオタマジャクシやザリガニの姿も。「四ッ谷湧水」石柱。アジサイの花。そして「和泉川」に沿って南に進むと、「和泉川」の右岸に「稲荷神社」があった。神奈川県横浜市泉区和泉町1032。前方に「赤坂橋」。「赤坂橋」の下を通過。ブルーベリーの苗の栽培であっただろうか?そしてこちらはユーカリの苗。「環状4号線」の地下道の壁には富士見ヶ丘連合一同の絵画が描かれていた。見事な白のアジサイの花。「鍋屋」交差点を渡る。次の目的地の「下和泉鯖神社」に向かって進む。左手にあった長い石段が「密蔵院」👈リンク への参道。途中左手を見上げると、参道の途中を「環状4号線」が横切っているのである。そして「下和泉鯖神社」に到着。神奈川県横浜市泉区和泉町705。一の鳥居を潜り、石段を上って行った。正面に「社殿」。扁額は「鯖大明神」。「下和泉 鯖神社祭神は 贈従二位大将軍佐馬頭源満仲 甲冑帯剣乗竜馬神勧進社は官名をとりたて左馬神社と言う後に国制改革により鯖神社に改名する 相模の国に左馬神社七社ありこれを相模七左馬と言う他の六社同様に古い歴史を有し建立期は慶長年間【西暦一五九六~】で四〇〇年以上経ています社殿に掲示されている【鯖大明神】の額は 天保七年五月に 時の神祇管領卜部朝臣良長が参向の際に奉納したもので 昔からかなり格式の高い神社であった事が分かります。例大祭は毎年九月九日 近年では前後の土日に催行しています。参考文献 泉区の歴史」社殿の内陣。「本殿」を斜めから。その脇の奥にあったのが「境内社」。近づいて。「境内社」の社殿。「下和泉 鯖神社」の奥にあっ民家の墓地。反対側からも「本殿」を見る。説明員の方の話を聞く旅友。社殿前から境内を見る。石灯籠。石灯籠のデザインもいろいろで、神様の使いでもある「鹿(シカ)」がデザインされていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.14
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そして「左馬神社」の「一の鳥居」前に。「鯖社境内払下記念碑」。背面には次の如く刻まれていた。「当神社境内地ハ官有地ナリシガ昭和二十二年五月三日布告ノ新憲法ニ依リ当神社払下ヲ受ケ之ガ申請ニ際シ実地測量セシ○旧来ヨリ二間巾ノ参道ヲ三間巾ニ拡張スルニ当リ小菅一雄氏ヨリ地所約四十坪奉納セラル之ニ依リ昭和二十五年一月二十五日付払下許可ヲ受領シ之ヲ永遠ニ記念ス 昭和二十五年四月十八日 氏子中」参道の左側には「下飯田会館」。「二の鳥居」に向かって参道を進む。「二の鳥居」手前の左側には石碑が並んでいた。「供養塔」と「不動明王」。近づいて。「供養塔」。「不動明王」。その左にも石碑が並んでいた。「馬頭観世音」碑。「庚申塔」群。石造りの「二の鳥居」。扁額は「左馬神社」。「奉納大鳥居特志寄附者 小菅長作昭和五十三年七月三十日石工 浅見勝三」。前方に「社殿」。境内の樹叢は神奈川県の風致保安林に指定されており、中でも横浜市の名木古木にも指定されている大イチョウは自然と畏怖の念を覚える迫力があるのであった。「左馬神社 氏子中参道改修記念昭和五十七年十二月吉日」「石灯籠」。ユニークな形状。載っているだけ??「社殿」創建は平安末期とも小田原北条時代とも伝えられ、以前は「鯖神社」と表記されたと。石橋山・富士川の合戦の働きを源頼朝に激賞された飯田五郎家義(飯田三郎家能と同一人物とも)が創建したとも伝えられる。【開創時期は社伝によれば、鎌倉時代初期との伝承を残しているが不明です。文禄年中(1592~95)に境川辺の僧が勧請し、現在地に移って東泉寺持として受け継がれたのではないかと見られます(川戸清氏説)。東泉寺は巨木山と号し、曹洞宗の植木村龍峰寺の末寺でした。下飯田村の鎮守です。】とこの日に頂いた資料から。この付近には「鯖神社」、「左馬神社」、「佐婆神社」といろいろとあるのであった。神奈川県横浜市泉区 下飯田町1389。近づいて。祭神は左馬頭源義朝で、平安末期に飯田五郎家義が勧請したとも、小田原北条時代に領主川上藤兵衛が勧請したとも言われています。天正18年(1590)に領主となった筧越前守助兵衛為春(かけいえちぜんのかみすけひょうえためはる)は地域の鎮守さまとして信仰し、社殿を修復しました。境内のイチョウは市指定の名木古木です。他に堅牢地神塔(けんろうじじんとう)・庚申塔などがあった。さらに。扁額は「左馬神社」。内陣。社殿の右側奥に「境内社」。朱の色の祠は、「筧(かけい)稲荷社」。平成二十八年に社殿修復された。「筧稲荷社」に向って右手に堅牢地神塔、青面金剛が形取られた庚申塔(寛延二年(1749))があった。ここにも石碑が。「堅牢地神塔」と六手・合掌型の「青面金剛像」。持ち物は三叉劇、宝輪、弓矢、中2手は金剛鈴と金剛鈷であろうか?「本殿」を右側から。社殿左側の「境内社」。内陣。境内の大銀杏。「第六十一回 平成二十二年五月二十三日全国植樹記念樹神奈川県神社庁」。再び「社殿」を正面から。「サバ神社」とは・・・・頂いたこの日の資料から転記させていただきます(以下同様)。・境川・和泉川の沿岸や引地川沿岸には12社の「サバ神社」と称する神社が現存します。一部は近世になって合祀などにより名称変更されて例えば「飯田神社」、「七つ木神社」となった社もありますが、それらを含む多くの神社がこの周辺地域に存在するのはなぜでしようか。今回はそれらのうち、境川沿岸の左馬神社(下飯田)、鯖神社(今田)ろ和泉川沿岸の鯖神社(下和泉)の3社を巡り、「サバ神社」の由緒は石塚勝氏の説を中心に紹介します。(1)「サバ神社」の謎①なぜ「サバ」という社号の神社が境川流域を中心に、東西3km、南北10kmの狭い範囲に集中して いるのか。(地域の謎)②なぜ当地にだけ、全国的には類例がない源義朝を祭神とする神社があるのか。和泉川流域三社が 源満仲を祭神とするのは何故か。(祭神の謎)③「サバ」の社号が「鯖、佐波、左馬、佐婆、佐馬(現在は無し)」と多岐にわたるのだろ うか。(社号の謎)④引地川沿いの石川地域に一社だけ、「サバ神社」が存在するのはなぜだろうか。(引地川の謎)⑤御霊神社が存在する村落には「サバ神社」は存在しないのはなぜだろうか。(御霊神社との 関係性の謎)《地域の謎》 ・分布域の地理的な特性として水害・湛水地帯であったことがあります。上流から急こう配 で流れた境川が横浜市瀬谷区瀬谷あたりから緩勾配となり、藤沢市西富辺りまでの約16km はほぼ平坦になり、暴れ川の異名に叶った悪水となります。「サバ神社」はいずれも川沿い の小高い場所に鎮座しており、現存の社殿は8社が流路に平行に、4社が川に直面していて います。こうした実状から、水田耕作に苦労する地域に水を鎮める「沢の小祠」として祀られ たのが、同社の始まりといわれています。《祭神の謎》 ・義朝は鎌倉時代を開いた頼朝の父ですが、源氏の元祖でも、中興の祖でも無く神社の分布域に 限っての特別な関りも判然としません。このような状況から推測すると義朝を祭神とする 「サバ神社」は天正19 (1591)年に瀬谷村の領主となった旗本長田(おさだ)忠勝により初めて 祀られたとされます。義朝は平治元(1159)年の平治の乱で敗れて東国に向かう途中、従者 鎌田正清の義父であった尾張知多郡内海荘司長田忠致(ただむね)を頼りましたが、裏切られ 惨殺されました。忠勝は逆臣の一族とされ、江戸初期に境川左岸の古宮を旧社地から300m 北東の高台に社殿を建立し、社名も義朝の最高官位であった左馬頭(さまのかみ)から採って、 義朝の霊を鎮めるとともに、「沢の小祠」を合祀して暴れ川鎮めを図り、これが住民に受け 入れられたと推測されます。 源満仲を祭神とする和泉川沿いの3社は、和泉村を知行した能見松平氏にとって、本源は満仲で 義朝は傍系となるので、祭神を付会させたのではないかと見られています、領主の泉氏が信濃 源氏であり、祖は満仲の弟満快であるが、満快が祭神では頼朝に憚りあり、源氏一門にとって 異論のない満仲にしたと元藤沢地名の会会員植松晴男氏説もあります。」《社号の謎》 ・義朝は勇壮な武将であったので、疫病からの守り神として崇められました。他方、鯖に整腸 作用がなどの薬効があるという知識が江戸時代中期以降に一般化しましたが、鯖の漁獲は 20世紀半ばまでは西国が中心でした。そのため、病を癒すとされた貴重な鯖にちなんで社名 にその字が使われるようになり、19世紀後半から20世紀初めに至り、厄除けのため7つの サバ神社を参拝する七サバ参りが盛んになったといわれます。基本的には沢=「佐波」から 義朝=「左馬」へ、さらに「鯖」へという流れですが、流れの実情は一様ではありません。 ・七サバ参りは年寄りが子供を背負って、正月一日に七社を巡ると子供が流行病に罹らないと いう幕末頃から流行した民族信仰で、大正中期まで盛んだったといわれます。 七サバ社は特定の神社に固定したものではなく、いずれのサバ神社でも七社を巡拝すれば 良いとされます。七サバ参りの巡拝例を下記します。《引地川の謎》 ・石川の「サバ神社」は「佐波」と表記する唯一の神社ですが、昔は引地川の水害で別の場所 から今の高台に移動したこと、西俣野同様、義朝による侵攻を受けた大庭御厨の領域で あったことから、「サバ神社」を建立し、「鯖神社」から「佐波神社」と社号も変えています。 この説は東俣野の郷上史家川戸清氏が示されています。《御霊神社との関係性の謎》 サバ神社周辺の村落には権五郎景正を祀る御霊神社がいくつか存在します。非業の最期を 遂げた義朝の霊が祟りをもたらし、霊を鎮めるために祭神として祀ったサバ神社は、御霊神社が 鎌倉郡内の各地に勧請される過程で、郡境の境川流域に派生し出現した御霊神社の一種と みることができます。そのため、同一地域に神明社・天王社・山王社等の様々な社が混在する なかで、サバ・御霊両社のみは並存せず、地域分けして分布しています。サバ神社のある俣野内 には御霊神社が無く、御霊神社のある深沢・深谷等にはサバ神社はありません。(2)サバ神社一覧 現存する「サバ神社」は12社ありますが、廃絶された東俣野を加えると13社となります。 先の川戸氏は現東俣野(戸塚区東俣野1 7 2 8ー2 )にはもうーっ「大明神」と呼ばれていた ていた石祠が、現在も元の上俣野村域にあり、これは境川の氾濫による流路変更のため、 現東俣野村域に2つの「サバ神社」があると主張されています。西俣野の小宮を含め、保野郷の 3村には西俣野村、上俣野村、東俣野村の3つの「サバ神社」が社殿へ発展前の小宮・石司形態で 存在したとの説です。・「サバ神社新旧対照一覧」を表1に、「サバ神社十二社配置図」を図4に示します。「表1 サバ神社新旧対照一覧表」「サバ神社十二社位置図」屋根に二つあった社紋は「左三つ巴紋(ひだりみつどもえもん)」。「横浜市泉消防団」と。「観世音」碑。「不動明王」と「ニの石鳥居」を振り返って「左馬神社」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.13
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この日は6月20日(火)、藤沢地名の会・第267回例会・地名探索である「境川、和泉川沿いのサバ神社と新たなまちづくり湘南台地区」に参加して来ました。集合場所・時間は相鉄線ゆめが丘駅改札・9:30であった。小田急線の湘南台駅から相鉄線に乗り換え「ゆめが丘」駅に到着。自宅から30分弱。相模鉄道(相鉄線)は2023年3月に、東急との相互直通運転を開始。2019年開業の相鉄新横浜線羽沢横浜国大駅から新横浜を経由し、東急東横線・目黒線日吉駅に直通。東京メトロ南北線・副都心線、都営三田線、埼玉高速鉄道埼玉スタジアム線、東武東上線とも直通運転が開始され、神奈川県から渋谷・目黒、さらに埼玉県に至るまで、首都圏の広域鉄道ネットワークに繋がったのであった。また、JR南武線や東急東横線と接続する武蔵小杉駅に続き、西大井、恵比寿、渋谷の各駅に停車終点はJR新宿駅。 JR線内は湘南新宿ラインと同じルート。 相鉄やJRは相鉄海老名~JR新宿間を相鉄・JR直通線と呼ぶのだ。「ゆめが丘」駅のホームはリニューアル工事中。そして「ゆめが丘駅」の西側は泉ゆめが丘地区土地区画整理事業が行われていた。駅舎を見上げて(二俣川方向)。駅舎を見上げて(湘南台方向)。アーチ型の青い鉄骨に囲まれたゆめが丘駅。関東の駅百選にも選ばれているのだ。「ゆめが丘駅周辺案内図」。ズームして。「ゆめが丘まちづくり 完成イメージ」をネットから。「ゆめが丘駅」改札口。この日の参加者が改札口前に集まっていた。そして集合時間の9:30になり、案内役からこの日の散策ルートの案内が。参加者は約40名、2Grに分かれて散策開始。まずは、「下飯田」地区にある「左馬神社」に向かって進む。リニューアル工事中の「ゆめが丘駅」を振り返る。「境川沿いのサバ神社一覧」。境川両岸の上飯田、下飯田を初め、藤沢市、大和市のサバ神社が源義朝を祭神としているのに、なぜか和泉の三社だけが源満仲を祭神としている。義朝も満仲も源氏の祖として後世崇められ、官名も共に左馬頭であるから、源満仲が左馬神社の祭神とされても不思議ではない。しかしこの狭い地域で、なぜ和泉だけが源満仲を祭神としたのだろうか と。北条義時の首を狙った泉小次郎親衡。信濃国を本拠とする親衡ですが、関東の居館とされる場所が横浜市泉区にあるのだ。それが、「泉小次郎親衡館」。中和田城とも呼ばれる城跡。といっても建物が残っているわけではなく、小高い台地があるのみ。そこは現在「泉中央公園」となっている。信濃国出身の泉小次郎親衡という人物が、鎌倉北条氏を倒すために、戦略的にも決して有利な地と思えない和泉に出城を築いたこと、また木曽義仲の愛妾であった巴御前を、木曽に無事帰還させる道として立場を通る間道を確保したという伝承、また宝心寺の寺伝など、この地域の人たちは何故か信濃源氏に思い入れがあり、その心意現象が伝承されて、同じ源氏の祖でも信濃源氏に近い源満仲を祭神としたのであろうとのこと。民家横の畑の隅には美しく色付いたアジサイの花が。ユリの花も。白の「カサブランカ」であろうか。様々な色のアジサイを楽しみながら進む。そして「左馬神社」境内への石段を上って行った。そして正面に「左馬神社」の「一の鳥居」が姿を現した。 ・・・つづく・・・
2023.07.12
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「昭和通り銀座歩道橋(ときめき橋)」を渡り「昭和通り」の反対側に向かう。階段を降りると、ここにも「汐留遺跡」の礎石が展示されていた。「間知石(けんちいし)と切り石(汐留遺跡)四角錐の形をした間知石と、板状に加工された切り石は、大名屋敷の石組溝(排水施設)に使われていたものです。 東京都第一建設事務所」「間知石(けんちいし)」。「間知石」とは、土留めや石垣のような擁壁(ようへき)に使われる土木建築材料。花崗岩などの石材を約30cmの大きさで四角錐状に加工したもので、壁面が崩れないように横長になっています。ちなみに、間知石の名前の由来は6個並べるとちょうど1間(けん)分の180cmになるからと言われています。1間を知ることができる石ということ。「間知石」が放射線状に置かれていた。「汐留」の地名は、江戸城外堀と海を仕切る「土橋」に設けられていたため、ここからは海の水が外堀に入り込めない、つまり「汐が留まる」ことから付近の地名として使われるようになったもの。これは寛永年間(1624年~1644年)以後のことで、「汐留」の名は、近世とともに生まれたといえるのだ。反対側にあったのが「手水鉢」(汐留遺跡)。「手水鉢」(汐留遺跡)龍野藩(兵庫県)脇坂家上屋敷内、祠の参道から出土した手水鉢に刻まれた「奉献・羽団扇紋・〇月吉〇」など、当時の屋敷内が偲ばれます。 東京都第一建設事務所」手水鉢に刻まれた「奉献・羽団扇紋・〇月吉〇」「現在地」はここ。銀座8丁目の花椿通りと昭和通りが交差する「銀座東七丁目」交差点角の「銀座三井ビルディング」の前。 東京都中央区銀座8丁目13。「東銀座」方面に「昭和通り」に沿って進む。アジサイの街路樹が美しかった。近づいて。「銀座東五丁目」交差点を右折。「J-POWER 電源開発 本店」。先程訪ね忘れた「佐久間象山塾跡」前にあった「狩野画塾跡」に再び。「狩野画塾跡所在地 中央区銀座五丁目十三番付近江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれもいずれも狩野探幽、尚信、安信の三兄弟を祖とし、「鍛冶橋」、「木挽町」、「中橋」と「浜町(木挽町の分家)」の四家すべての拝領屋敷が区内にありました。木挽町狩野家の祖・狩野尚信は寛永七年(1630)に江戸に召しだされ、竹川町(現在の銀座七丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になりました。その後、六代典信(合は栄川、栄川院ほか)の時に老中・田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸西南角にあたる当地に移って画塾を開きました。奥絵師である狩野四家の中で、もっとも繁栄した木挽町狩野家は諸大名などからの制作画の依頼も億、門人が数多く集まりました。門人のほとんどは、諸侯のお抱え絵師の子弟で、十四から十五歳で入門し、十年以上の修行を要しました。修行後は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つといわれました。この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出されていますが、明治の近代日本画壇に大きく貢献した狩野芳崖や橋本雅邦などは、ともに木挽町狩野家十代・雅信の門下生です。 令和三年七月 中央区教育委員会」「安永年中之形」『幕府内沿革図書』そして次に訪ねたのが「森田座跡」。「日本橋芝浦大森線」を進むと自転車のある場所に「案内板」。東京都中央区銀座6丁目14。「森田座跡江戸時代、この地には官許の芝居のうち、江戸三座と呼ばれ、歌舞伎を興行した森田座の芝居小屋がありました。この辺りは木挽町五丁目と呼ばれており、森田座のほかにも人形浄瑠璃の芝居小屋である土佐座がありました。これらの周りには芝居小屋が集まっており、賑わいを見せていたようです。木挽町の名は、江戸城築城時に多くの木挽職人(木材を大きな鋸で切る人)が居たことによるようです。森田座は、万治3年(1660)、森田太郎兵衛によりこの地に創設され、以後座元は代々「森田勘弥」を名乗りました。森田座は、堺町、葺屋町(現中央区日本橋人形町三丁目辺り)にあった、江戸三座の中村座、市村座とともに、天保十三年(1842)から十四年にかけて、猿若町一丁目から三丁目(現台東区浅草六丁目あたり)の町をつくり、そこに移されました。後に、安政5年(1858)「森田座」改め「守田座」となり、明治5年(1872)、現中央区の新富に移り、同8年に「新富座」と改称しました。以後、明治12年の興行失敗から、同30年までに「猿若座」「桐座」「深野座」「都座」などと頻繁に名称がかわったようです。明治30年新富座に復名、同42年には松竹合名会社に買収され、大正12年(1923)の関東大震災で焼失し、森田座の血脈を受け継ぐ芝居小屋は途絶えてしまいました。平成13年、ここから約1km北東の京橋二丁目遺跡から、森田座の入場券である木札が出土しました。我が国を代表する文化である歌舞伎の芝居小屋が中央区で発祥し、これに直接関わる考古資料として極めて重要なものであることから、平成17年4月に中央区民文化財として登録されています。平成25年3月 中央区教育委員会」「森田座跡」(中央区立郷上天文館所蔵)木挽町「森田座」の様子(寛政年間)。そして「中京430号線」を進む。「花椿通り」沿いにあった「熊谷稲荷神社」。中央区銀座7丁目12−9。正面から。熊谷稲荷神社は、中央区銀座にある稲荷神社。熊谷稲荷神社は、源平合戦で活躍した熊谷次郎直実が熊谷へ帰郷する際、当地の里人に請われて護符を授与、里人が祀ったといいます。江戸期には当地(木挽町6丁目)の鎮守として信仰を受け、現在は崇敬会で護持しているそうです。扁額「熊谷稲荷神社」。そしてこの日の、高校時代の友人との食事会開場のあるビル・「大栄会館ビル」に到着。「スペインクラブ銀座」入口。スペイン全土を巡り、スペインワインはじめ、生ハムイベリコ豚の精肉、オリーブオイル、ナバラ産アスパラガスなど選りすぐりのスペイングルメを取り揃えていると。直径50cmの大鍋で炊く特大パエリアはお店の名物メニューとして大人気 と。5人で、久しぶりに近況、体調、同級生の近況等をワイン片手に大いに語り合ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.07.05
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「采女橋公園」交差点の角にあった「中央区立築地川采女橋公園」に立ち寄る。「中央区立築地川采女橋公園」碑。采女橋と新橋演舞場の間にある公園で、色々な形の無数の置石がランダム?に配置されていた。道路沿いには石碑が。「采女橋」の碑。「采女橋このあたりは、江戸前期に松平采女正の屋敷があり、享保9年(1724年)の大火で焼けたあと火除地になって、俗に采女が原と呼ばれました。橋名の由来はここからきたものと思われます。采女が原は、明治2年に采女町と称する市街地となり、銀座煉瓦街と築地の外国人居留地との間に位置して和洋混合の新興市街地が形成されていったようです。震災復興時に架け替えられた現在の橋は、当時意匠的に優れていたといわれるアーチが採用されました。また橋の下は昭和37年に築地川から現在の高速道路に姿を変えました。区では平成2年度に、幻のホテル”築地ホテル館”(明治元年、近代的な洋式ホテル第一号として誕生し、栄華を誇ったが明治5年焼失)と”銀座の柳”を題材にした意匠で高欄等を整備しました。橋梁の諸元形式 2径間鉄筋コンクリートアーチ橋橋長 42.0m有効幅員 15.0m(車道9.0m 歩道3.0m×2)着工 昭和4年9月竣工 昭和5年10月施行者 東京市 平成3年3月 東京都中央区」。 「采女橋」を歩く。高欄部分の模様は、”築地ホテル館”(明治元年、近代的な様式ホテル第一号として誕生し、栄華を誇ったが明治五年に焼失)と”銀座の柳”を題材にしたデザインとのこと。ズームして。”銀座の柳”と”築地ホテル館”。日本の本格的ホテルの第一号「築地ホテル館」の写真をネットから。横浜で洋風建築の技術を学んだ二代清水喜助が、江戸で最初に手がけた大事業が、外国人のための宿泊および交易場として築地居留地に建てられた本格的洋風ホテル、築地ホテル館でした。二代喜助は施主の幕府に願い出て、資金調達と建設、竣工後の経営までを請け負いました。建設中、明治維新による施主交代がありながらも、延床面積約1600坪の大建築を約13ヶ月の短期間で施工し、慶應4(1868)年に完成させたのだと。子供用の遊具などはなく、ちょっと不思議な雰囲気の公園。「築地川采女橋公園」の手前のビル「銀座六丁目スクェアー」の植栽にあった石碑。東京都中央区銀座6丁目17(元日産自動車本社・現読売新聞社)。近づいて。「東京商工会議所発祥の地明治維新の国是をふまえ、欧米諸国の制度文物を採り入れ、時の産業界の指導者が相携えて、明治11年(1878年)3月12日、商工業発展のための総合的団体として東京商法会議所(東京商工会議所の前身)を創立しその事務所を置いたのがこの地である。ここには明治24年(1891年)以来、農商務省、次いで商工省が昭和18年(1943年)まで所在し、明治、大正、昭和の三世代にわたって、日本産業発展のための官民協力の場ともいうべきところとなった。昭和53年(1978年)3月12日、東京商工会議所創立100周年にあたり、ここに記念碑を建てて後世に残すものである。 東京商工会議所会頭 永野重雄」「30m先に新橋演舞場」と。そして「銀中通り」を進むと角には「新橋演舞場」と。「新橋演舞場」の前の道路は「演舞場通り」。「新橋演舞場」。新橋演舞場の新築開場は1925(大正14)年4月のこと。京都や大阪には立派な演舞場や歌舞練場があるのに、東京にないというのは残念だという川村徳太郎(新橋花柳界の重鎮で、置屋森川家主人)の発案で、五業組合の協賛のもとに資本金200万円の新橋演舞場株式会社を設立したのが起源。東京都中央区銀座6丁目18−2。「新橋演舞場」。当初目的だった新橋芸者の技芸向上を披露する場として春秋二季に「東をどり」を主に公演。1940(昭和15)年新橋演舞場は松竹株式会社と興行契約を結び、松竹が興行面を受け持って松竹傘下の主要劇場となりました。 そして長い歴史の中で観客に親しまれながら、歌舞伎、新派、新喜劇、新國劇、前進座を演舞場のカラーとして定着させていったのだと。「新橋演舞場公演のご案内」。新橋演舞場シリーズ第9弾!!「東京喜劇熱海五郎一座~クセ強オンナと時をかけない男たち~」日程 2023年5月31日(水)~6月25日(日)ネットから。作:吉高寿男 出演・構成・演出:三宅裕司出演:渡辺正行 ラサール石井 小食久寛 春風亭昇太 東 貴博・(交互出演) 深沢邦之(交互出演) 劇団スーパー・エキセントリック・シアター 檀れい 玉井詩織(ももいろクローバーZ)新作歌舞伎 「刀剣乱舞」月刀剣縁桐2023年7月2日(日)~27日(木)三日月宗近 :尾上 松也足利義輝/小狐丸 :尾上 右近第二次世界大戦では空襲のため、外周りを残して焼失。1948(昭和23)年に復興されたが、終戦直後の再建のため、舞台の規模を生かす舞台機構や諸設備が新しい時代の要請や消防法などにこたえられなくなった。そこで1982(昭和57)年に新装されたのが、日産自動車本社ビルと複合した現在の演舞場なのである。銀座の柳と新橋演舞場。「銀座の柳昭和初期、震災復興事業の一環として、銀座に柳が植えられました。信州安曇野から運ばれた若木は、すくすくと生長し、銀座の街並みに美しく映え、歌にも歌われる程愛着をもたれるようになりました。しかし、震災や近年の道路整備などで、その姿も消え、今では往時を偲ぶよすがもありません。中央区では、柳を「区の木」に制定し、区内各所に植えていますが、この度、長野県穂高町の御好意により、当時と同じ安曇野地方産出の柳を寄付していただきました。そこで緑美しい銀座の再現を願ってこの地に植栽するものであります。 昭和62年10月5日 中央区役所」右手奥の駐車場入り口の脇に設置された「2つの石碑」。沢田正二郎歌碑「藝即魂何処かで 囃子の声す 耳の患」と。「曾我廼家五郎句碑大阪の喜劇役者で東京に進出したときの感慨を歌にしたもの。帝都進出三十周年記念 「むさし野や 三十年は 泣き笑ひ」。そして「演舞場稲荷大明神江戸時代享保年間、松平周防守の下屋敷跡で歌舞伎名狂言「鏡山旧錦絵」で有名な「尾上の井戸」と並びー名「お初稲荷」と称されている。」「演舞場稲荷大明神」を正面から。扁額「演舞場稲荷大明神」。社殿に近づいて。幟「奉納 演舞場稲荷大明神」と。「新橋演舞場」を後にして次に訪ねたのが「みゆき通り」沿いにあった「佐久間象山塾跡所在地 中央区銀座六丁目十五番地域この地域には、江戸時代後期の思想家で、信濃国(現在の長野県)松代藩士佐久間象山(1811~1864)の私塾がありました。象山は初め儒学を修め、天保(1839)神田お玉ヶ池付近に塾を開き、さらに松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務めました。後に海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永4年(1851)、兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町五丁目(現在地付近)に塾を開きました。 嘉永六年改正の絵図によると、「狩野勝川」(幕府奥絵師木挽町狩野家の画塾)と向かい合う場所に「佐久間修理」(象山)の名が見られます。この塾は二十坪程の規模で、常時三十~四十人が学んでいたといいます。その門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本佐内・河井継之助など、多くの有能な人材が集まり、土佐藩士坂本龍馬の名も門人帳に確認することができます。龍馬は、嘉永六年に江戸へ最初の剣術修行に出て、その最中である十二月一日に象山に入門しました。木挽町の塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が急増しましたが、嘉永七年に門人の吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許に蟄居を命ぜられてて塾も閉鎖されました。平成二十二年三月 中央区教育委員会」道を引き返し「銀座中学校入口」交差点を通過。「銀中通り」を進むと左手にあったのが「中央区立銀座中学校」。昭和59年4月に中央区立第一中学校と第二中学校の統合により開校しました。 校章は、東京都の象徴「いちょう」と銀座の象徴「柳」を組み合わせたものです。三枚の葉は生徒・教職員・保護者を表し、三者の協力でより良い学校を築く意気込みを表しています と。「都道316号線・昭和通り」を東銀座方面に歩く。前方に「昭和通り銀座歩道橋(ときめき橋)」が現れた。「昭和通り銀座歩道橋(ときめき橋)」の下にあったのが「汐留遺跡(建物の礎石)」。「建物の礎石(汐留遺跡)丸い礎石は、仙台藩(宮城県)伊達家上家敷御殿の土台として使われていたもので、当時の御殿の大きさが偲ばれます。 東京都第一建設事務所」。「中央市場通り」方向を見る。「昭和通り銀座歩道橋(ときめき橋)」を見上げて。昭和通りの銀座7・8丁目に架かる「銀座歩道橋」。道路を単純に横切るだけでなく対面へ斜めに渡ることもできるX字型の便利な歩道橋。明治期に新橋と花柳街をつなぐ男女逢瀬の橋として賑わったゆかりの地にちなんで、「ときめき橋」とも名付けられていてエレベータは元よりエスカレータも付いていた。「建物の礎石(汐留遺跡)平らに加工された礎石は江戸時代上屋敷の柱の土台として使われ、正方形の穴は、柱を中央に固定するためのほぞ穴です。 東京都第一建設事務所」正方形の穴は、柱を中央に固定するためのほぞ穴。小さな礎石も並ぶ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.04
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「三吉橋」上から「首都高速都心環状線」の「銀座料金所」方向を見る。横断歩道の先に石碑が確認できた。「三吉橋」の碑。東京都中央区銀座1丁目28−11。近づいて。「三吉橋この橋は、築地川の屈曲した地点に、楓川と結ぶ水路(楓川・築地川連絡運河)が開削され、川が三叉の形となった所に、関東大震災後の復興計画の一環として、昭和4年12月に三叉の橋が架けられました。ここに川が存在し、人々の暮らしも川を中心に営まれ、川筋を酒荷の船などが通った情緒ある風景も、今は埋立てられ高速道路と化し、陸橋となりました。区では、平成4・5年にわたり、高欄には水辺に映える木立の姿を採り入れ、照明は架設した当時の鈴蘭燈に、又一時期高速道路のランプとなり一部撤去された歩道も復元し、古き風情を感じさせるデザインで修景しました。 平成5年8月 東京都中央区橋梁の諸元形式 三股型単純銅板桁橋橋長 23.98 × 3有効幅員 15m(車道9.0m・歩道3.0m ×2)建設年次 昭和4年12月 復興局施行」当時の「築地川」に架かる橋。『四人は東銀座の一丁目と二丁目の堺のところで、昭和通りを右に曲った。ビル街に、街燈のあかりだけが、規則正しく水を撒いたように降っている。月光はその細い通りでは、ビルの影に覆われている。程なく四人の渡るべき最初の橋、三吉橋がゆくてに高まって見えた。それは三叉の川筋に架せられた珍しい三叉の橋で、向う岸の角には中央区役所の陰気なビルがうずくまり、時計台の時計の文字板がしらじらと冴えて、とんちんかんな時刻をさし示している。橋の欄干は低く、その三叉の中央の三角形を形づくる三つの角に、おのおの古雅な鈴蘭燈が立っている。鈴蘭燈のひとつひとつが、四つの燈火を吊しているのに、その凡てが灯っているわけではない。月に照らされて灯っていない灯の丸い磨硝子の覆いが、まっ白に見える。そして灯のまわりには、あまたの羽虫が音もなく群がっている。川水は月のために擾されている。』 (三島由紀夫「橋づくし」)」次に訪ねたのが「当時の「築地川」に架かる橋」にもあった「築地橋」そしてさらに南下すると右手にあったのが「築地小劇場跡」。現在はみずほ銀行の敷地の一部、水道ポンプのレンガ積みの建物の壁面にレリーフと解説版が飾られていた。東京都中央区築地2丁目12−3。「築地小劇場跡1924~1945「 碑文 里見弴 筆 大正末から昭和にかけ、新劇の本據として 大いにその發展に寄與した。戦災で焼失。」と刻まれていた。「築地小劇場所在地 東京都中央区築地二丁目十一番十七号演劇研究のためヨーロッパに留学中の土方與志は、大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災の知らせを聞いて、急きょ帰国、小山内薫に計り、日本新劇の実験劇場をつくることを決意しました。そして、劇団「築地小劇場」を結成し、大正十三六月十三日、築地の地に私財を投じて、劇場「築地小劇場」を開場しました。建物は一階建、ゴチック・ロマネスク様式で、定員四六八名の照明・音響に工夫をこらした劇場でした。初演はゲーリング作「海戦(演出・上方與志、装置・吉田謙吉)で、開場初期には西洋演劇を精力的に上演、やがて日本人作家の演目も加え、日本新劇の基礎を築くとともに、多くの名優を輩出しました。劇団「築地小劇場」は昭和四年(一九二九)に分裂しましたが、劇場はその後さまざまな劇団によって活用されました。昭和十六年には劇場名を「国民新劇場」と改称するにいたりましたが、昭和二十年三月十日の東京大空襲で損失するまで新劇の灯をともし続けました。「当時の築地小劇場 前景写真の建物は昭和3年(1928)に区画整理のため西側に移動し改築されたもの」「中央区立京橋築地小学校」前を通過。カラフルな「WILLER TOKYO Restaurant Bus」1階に料理が作れるキッチンが配備された2階建てバスで本格的な食事を楽しみながら、点在する観光スポットや魅力的な風景をつなぐバス。天井が開閉式の透明の屋根になっている2階は、25人が着席できる座席とテーブルを用意。暖かな天気の良い日にはオープントップで開放的な景色を楽しめるのだと。バスの上階から見る特別な景色と、地域や季節ごとに変わる旬の食事を堪能出来るのだと。「東京都立京橋築地小学校」の小学生の像。作者、タイトルなどは不詳。東京都中央区築地2丁目12−15。横断歩道の先の築地えとビルの角にも彫刻作品?が。「カリヨンと干支方位盤(かりよんとせんしほういばん)」と。内部にベルが9個仕込んであったので、カリヨン。東京都中央区築地1丁目12−6 築地えとビル。近づいて。築地えとビルの壁面はビル名のとおり、干支のレリーフで飾られていた。これは籔内佐斗司によるものとのこと。「干支の方位盤」もあり、卯がちょうど東(E)の方向にあたることを再確認。時刻だったら卯は午前6時に相当するということで、少しばかり江戸時代を生きたような気分に浸ったのであった。平成通りを進むと左手にあったのが「桂川甫周(かつらがわほしゅう)屋敷跡」案内板。東京都中央区築地1丁目10−3。「桂川甫周屋敷跡所在地 中央区築地一丁目一〇番地域蘭方医桂川家は、初代甫築(一六六一~一七四七)が六代将軍徳川家宣に仕えて以来、代々幕府の奥医師をつとめ、多くが法眼(ほうげん)に叙せられています。この地域には、甫築が正徳元年(一七一一年)に拝領して以降、幕末まで桂川家の屋敷がありました。四代甫周(一七五四?~一八〇九)は、名を国瑞(くにあきら)といい、桂川家歴代のなかでも特に広く知られています。杉田玄白や前野良沢らに蘭学を学び、若くして『解体新書』の翻訳事業に参加しました。また、寛政六年(一七九四年)には幕府医学館教授となるなど、幕府にも重んじられていました。西洋事情にも造詣が深く、安永元年(一七七二年)からは、江戸に参府したオランダ商館長一行と毎回対談するなど、その海外知識を大いに広めました。また、ロシア使節ラクスマンが送還してきた漂民大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)らを尋問し、『漂民御覧之記(ひょうみんごらんのき)』や『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』などを著しています。この他にも、多くの翻訳・著作があり、江戸蘭学の興隆に大きく寄与しました。 平成十七年三月 中央区教育委員会」尾張屋清七板「京橋南築地鉄炮洲絵図」(部分)。ザイマックスアルファ前にあった「波除獅子」。流政之の作品。名称は、築地を守護する波除稲荷神社に由来するものだとか。東京都中央区築地1丁目13−10。「コンワビル」手前右側にも石碑があった。「活字發祥の碑」。東京都中央区築地1丁目12−22。「活字發祥の碑👈リンク明治六年(一八七三)平野富二がここに長崎新塾出張活版製造所を興し後に株式會社東京築地活版製造所と改稱日本の印刷文化の源泉となった」昭和四十六年(一九七一)六月 建設されたものと。そして「万年橋東」交差点を渡る。右手に「萬年橋」。東京都中央区築地4丁目1。左側には「中央区立築地川銀座公園」。道路脇にあり、真下には首都高速都心環状線が通っているという、ちょっと不思議な立地にあるこの公園。かつて公園の下には「築地川」という川が流れていた。1964年の東京オリンピック開催を契機に、築地川は埋め立てられ首都高が整備され、その際にこの「築地川銀座公園」も設けられた。今も架かる「万年橋」、そしてこの公園の名称が、その名残を伝えているのであった。引き返して、「万年橋東」交差点を渡ると目の前にあったのが「東劇」。東京都中央区築地4丁目1−1 東劇ビル 3階。2023年10月、11月に、全国の映画館で上映される「坂東玉三郎 泉鏡花抄4作品」のポスター。ネットから。「METライブビューイング 2022-23」ポスター。ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場(通称:MET)で上演される世界最高峰のオペラを、日本全国の映画館で上映し、ここ東劇でもと。「萬年橋」の反対側の「築地川銀座公園」に向かう。「萬年橋」。「中央区立築地川銀座公園」碑がここにも。入口にあったのが「名犬チロリ記念碑」、製作:堤 直美。東京都中央区築地1丁目13。「名誉セラピードッグ認定1号犬名犬チロリ記念碑捨て犬チロリは、子犬たちと共に殺生処分寸前を助けられ、後にセラビードッグ(動物介在療法)の代表犬として全国で活躍し多くの高齢者や障害者に大きく貢献しました。その無償の愛情を捧げる姿は人々に生きる勇気と病気回復への希望を与えました。この1頭の捨て犬の社会福祉への功績は犬史に残ると共に日本の動物愛護法に多大な影響をもたらせました。 ありがとうチロリ.......2006.3.16永眠 国際セラピードッグ協会 大木トオルPh.D」チロリとそれを取り囲む子犬達4匹の像。台座の裏側「名犬チロリ記念碑」。その奥にあったのが「月を呼ぶ」。「月を呼ぶ 佛子泰夫作」と。「中央区立築地川銀座公園」の奥には様々な花の植栽が案内板付きで。「名犬チロリ記念碑」、「月を呼ぶ」を振り返って。そして再び「万年橋東」交差点を渡る。「東劇ビル」を振り返る。「銀中通り」を進むと左手前方に現れたのが「采女橋」。「采女橋公園前」交差点。右手が「みゆき通り」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.03
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そして次に「木挽町通り」沿いにあった「宝珠稲荷神社」。東京都中央区銀座3丁目14−15。左側が「社務所」であっただろうか?社号標石「宝珠稲荷神社」。狛犬(右)。狛犬(左)。朱の鳥居の先に社殿が。「宝珠稲荷神社の由来宝珠稲荷神社は1615年の頃三河の国深溝(ふこうず)の領主板倉内膳匠(ないぜんのかみ:内膳正とも)重昌の江戸屋敷内に家内安全火除の神として祭神せられたるものなり。内膳匠重昌は京都所司代及び江戸町奉行として令名高かりし板倉勝重の次男として1588年後陽成天皇(ごようぜいてんのう:第107代)の御代天正13年の頃の生れである。重昌は武勇に富み敬神の念厚く大阪冬の陣島原の乱等に追討軍令として鎭台を務めたるも不幸にして島原の乱に於いて年令50才にして戦死したるものなり。時の将軍は家光であり第110代後光明天皇(ごこうみょうてんのう)の御代である。内膳匠の兄周防の守重宗は下総の国関宿の城主なり。年経て1760年宝暦年間岩見の国津和野の城主亀井家に譲渡せられたるものなり。明治の維新に於ける亀井滋玄の功績は大鼓稲荷と共に有名なり。更に大正7年岡山の岡崎家に売却されたるも爾来本神社は敷地と共に地元木挽町(こびきちょう)3丁目氏子に寄進せられ1950年地元氏子有志相計り隣接地を買収し社殿及び社務所を建設して今日に至るものなり。 一九七二年五月 宗教法人 宝珠稲荷神社 東京都中央区銀座3丁目東町会」。社殿に近づいて。「疫病退散祈願」と。コロナ禍で新たに設置されたものか?スリムなお狐さん(右)は鍵を咥えて。商売繁盛の稲荷は蔵の鍵を咥えていることが多いのだ。お狐さん(左)は珠を咥えて。稲荷の神(宇迦之御魂神)の魂だと云われ、限りなく財宝を生み出すとされる。扁額「寶珠稲荷神社」。「木挽町通り」を更に進むと左手にあったのが「地ビール 八蛮(はちばん) 銀座本店」。銀座生まれの八蛮クラフトビールが飲める店と。東京都中央区銀座2-14-9 GFビル1階。「銀座 麦酒醸造所」と。その先にあったのが「塩パン屋 pain・maison(パン・メゾン)」。ネットには「TVで取り上げられて更に並びが長くなりました」と。東京都中央区銀座2丁目14−5 Twg銀座イースト 1階突き当りを右に折れ、その先を左に入ると右側にあったのが「安平神社」。ほっそりした真っ赤な鳥居の脇には狛犬があり、その奥に小さな社殿が。両サイドには木々が植えられており参道も狭く、無意識にかがみこんで参拝するようなミニチュアサイズの造り。朱の鳥居に扁額「安平神社」。ビルの隙間にひっそりと残る神社であった。江戸時代に、新庄美濃守(しんじょうみののかみ)の屋敷があり、屋敷神として祀られた稲荷神社。明治時代には、万安樓(まんやすろう)という料亭が創業し、その敷地内で安平神社として祀られたと。現在は、万安樓があった敷地に「銀座タワー」が竣工し、その片隅に「安平神社」が残されていた。境内に由緒は無く、ご利益等詳細は不明であったが。狭いながらも砂利を敷いた境内を持つ「安平神社」。社殿に近づいて。小さいながら、見事な彫刻が施されていた。石灯籠と狛犬(右)。石灯籠と狛犬(左)。後方に「銀座タワー」。25階地下2階建の高層マンション。東京都中央区銀座1丁目22−1。「公開空地この広場及び通路は、建築基準法に基づく総合設計制度により設けられた公開空地で、歩行者が日常自由に通行又は利用できるものです。 平成15年8月」敷地内に公開空地を設けることなどによって「市街地の環境の整備改善に資する」と認められる場合に、容積率制限や各種の高さ制限(道路斜線、隣地斜線、北側斜線、絶対高さ)を緩和する規定である。公開空地の先駆けとされるのが、1970年代に日本初の超高層ビル街として東京・西新宿エリアで建設されたそれぞれのビルに取り入れられたものだ。1974年に竣工した地上55階建ての「新宿三井ビルディング」には「55HIROBA(55広場)」と名付けられた空間があり、普段はテーブルやベンチが置かれているほか、定期的にコンサートや地域の催しなどが開かれていたのであった。別の角度から「銀座タワー」を見上げて。次に訪ねたのが「中央区立京橋公園」。東京都中央区銀座1丁目25−2。緑豊かな園内には人の姿はなし。「くつをぬいでご使用ください」と。「健康こみち踏んで歩いて、イキイキ健康!歩く前に必ずお読みください。」「足ツボ刺激の道」!!そして「蜊河岸(あさりかし)」の案内板を見つけた。現在日本で「あさり・アサリ」の漢字として利用されるのは魚へんの「鯏」が一般的。ネットで調べてみると、「鯏」の前に使われていたのは「蜊」であったとのこと。『本朝食鑑』(江戸時代)にはすでに浅蜊という漢字表記が記されているのだと。基本的に貝類の漢字は虫偏で作られることが多い。「蛤」(はまぐり)「蜆」(しじみ)「蚫」(あわひ) など有名な貝類にもよく虫偏がつけられている。あさりの場合は食感のはきれがよいということで虫へんに利の漢字がつけられた。「食感のはきれがよいということで虫へん」・・・・???別のネットには「現在「虫」と言っているものは本来は「蟲」と書いていました。これは、昆虫類などは、石をめくったり、木の皮をはいだりすると、その下に無数に集まっていることから、「虫」という字を3つ重ねて書かれるようになりました。現在の「虫」は「蟲」の略字体です。さて、「はまぐり(蛤)」は現在では「貝」類に分類されますが、古代中国では、「人でもけものでも鳥でも魚でもない」ことから「虫」に分類されていました。そのため、「虫」偏を用いて書かれているのです。」こちらの方が解りやすいのであった。「蜊河岸(あさりかし)所在地 中央区銀座一丁目二五~二七番地域かつて、この地より北側の新富一丁目一番・銀座一丁目二六番付近では、北から流れる楓川(もみじがわ)・西から流れる京橋川・そして南西へと流れる三十間堀が交差していました。それぞれの川筋には、弾正橋・白魚橋・真福寺橋の三つの橋が架かっていたことから、この付近は「三つ橋」と呼ばれていました。蜊河岸は、江戸時代以来、三つ橋付近の河岸地の里俗名でしたが、明治十三年(一八八〇)に公布された東京府達によって、三十間堀に架かる真福寺橋から月慈方面へと南に延びる東岸の河岸地の正式名称となりました。江戸時代後期には、江戸三代道場のひとつ、鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)の剣客桃井春蔵 の「士学館」がおかれ、嘉永六年(一八五三)再版の『近江屋板切絵図』には、蜊河岸の南端に、「桃井春蔵」の名を確認することができます。平成二十年三月 中央区教育委員会」北から流れる楓川(もみじがわ)・西から流れる京橋川・そして南西へと流れる三十間堀が交差。園内には銀杏の樹が多かった。「京橋公園のすべり台京橋公園は震災復興 のときに整備された公園であり、コンクリート製すべり台は当時の面影を残すものとして、長い間公園利用者の皆様に親しまれてきました。しかし、このコンクリート製すべり台は、すべり面の側壁が低いなど現在の「遊具の安全に関する基準」をみたしておらず、またコンクリートの老朽化が進んでいたことから、撤去することとなりました。 平成23年8月 中央区 環境土木部 水とみどりの課」これが、以前のコンクリートすべり台(ネットから)。現在のすべり台はプラスチック製になっていたが、なぜか使用禁止になっていた。そして公園の東側にあった「新富橋(しんとみはし)」を渡る。「ばし」と濁らず「はし」?橋名板に濁点がないのにはある願いが込められているとのこと。「川が濁らないよう濁点をつけないという通説がある」のだと。県によっては橋名板は「○○はし」に統一すると文書で決められていると。全国の橋名板の中には「○○ばし」となっている所もあり、地域で運用は違うようではあるが。橋の下の道路は「首都高速都心環状線」と「京橋料金所」。「新富橋」を渡り終えた左側にあった五重塔。「新富橋」交差点。その角にも小さな神社が鎮座。東京都中央区新富1丁目4−8。「新富復興稲荷社」。颯川新富橋公園近く、新富橋のたもとにひっそりと建てられていた。新しいように見えますが、以前は数メートル北側にあり、小さいながら鳥居もあったと。昭和7 ~ 11年の火保図にはそれらしき神社があることからも、関東大震災の復興に伴って建てられたのだと。交差点の向かいには和装雑貨の老舗「大野屋総本店」もあった。「三吉橋」に向かって南に進む。横断歩道を渡る。「三吉橋」と。関東大震災の復興事業の一環として、1929年(昭和4年) 12月に架橋されている。当時ここには築地川が流れ、川筋を荷を運ふ船や屋形船が行く交い、川を中心に人々の生活が営まれる情緒ある風景があった。高度成長とともに川は埋立てられ高速道路が通り、今では陸橋となっている。Y字型の三又橋。東京都中央区1。「三吉橋」の特徴の一つは、橋を上空から見るとY字型の三つ又になっていることで、銀座方面から、「三吉橋」を渡ると、中央付近から左右に分かれ、左は新富町へ、右へ進むと中央区役所前を通り築地へと繋がっている。そして橋の袂にあったのが「東京都中央区役所」。女性像の「平和像 「ニコラ」」。平和都市宣言を記念して、平和を願う区民のシンボルとして制作した と。近づいて。「壁面緑化 温度測定中」と。「壁面緑化による効果を「見える化」するため、温度センサーを設置しています。測定場所は図のA.Bで壁面の温度をリアルタイムで表しています。」この時は23.4℃と29.1℃と5.7℃の効果を示していた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.02
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この日は6月10日(土)、高校時代のクラス仲間から久しぶりに都内で会って昼飯を食おうという事になり参加することに。早めに行き、東銀座周辺の散策を決意し早めに家を出る。小田急線、千代田線、日比谷線を乗り継いで東銀座駅に到着。まずは「歌舞伎座」を訪ねることにした。最初に歌舞伎座の地下2Fにある「木挽町広場(こびきちょうひろば)」を訪ねた。「木挽町広場」には、まるで縁日の時の露店さながらに歌舞伎座の土産屋、茶屋、弁当屋などがひしめき合っていた。江戸情緒感じるグッズ、歌舞伎公演中生写真、東京土産、和雑貨品、江戸時代地図、歌舞伎座ポスターなどが豊富に揃っていた。巨大な「歌舞伎座」と書かれた提灯。珍しい商品を探しながら見て廻るのが楽しかったのであった。歌舞伎座雰囲気を肌で感じる事ができ、提灯が連なっているので和の雰囲気を味わうことができたのであった。天正18 年創業 歴史深い扇子の老舗「伊場仙」。「歌舞伎座切符売り場」。営業時間は10:00~と。時間は9:30。歌舞伎座の6月、7月、8月公演のポスター。「歌舞伎座6月公演」。夜の部の「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)」主演・「いがみの権太」役の「片岡仁左衛門」。「六月大歌舞伎昼の部 近松門左衛門 作 石川耕士 監修 市川猿翁 補綴・演出 三代猿之助四十八撰の内 一、傾城反魂香(けいせいはんごんこう) 土佐将監閑居 浮世又平住家 「戯場花名画彩色」(かぶきのはなめいがのいろどり) 〈土佐将監閑居〉 浮世又平後に土佐又平光起 中車 又平女房おとく 壱太郎 ※ 狩野雅楽之助 歌昇 土佐修理之助 團子 女中お百 寿猿 土佐将監光信 歌六 〈浮世又平住家〉 土佐又平光起 中車 又平女房おとく 壱太郎 ※ 大津絵の鯰 新悟 銀杏の前 米吉 饗庭太郎 男寅 小幡次郎 中村福之助 醍醐三郎 玉太郎 蒲生四郎 歌之助 大津絵の奴 青虎 大津絵の藤娘 笑也 大津絵の座頭 猿弥 不破伴左衛門 男女蔵※市川猿之助休演につき、配役変更にて上演いたします」 河竹黙阿弥 作二、児雷也(じらいや) 児雷也実は尾形弘行 芝翫 山賊夜叉五郎 松緑 高砂勇美之助 橋之助 仙素道人 松江 妖婦越路実は綱手 孝太郎三、扇獅子(おうぎじし) 芸者 福助 同 壱太郎 同 新悟 同 種之助 同 米吉 同 児太郎夜の部 義経千本桜」 エスカレータに乘り地上へ。「歌舞伎座」を見るのは、何十年ぶりであろうか?「歌舞伎座新開場十周年六月大歌舞伎令和5年6月3日(土)初日 25日(日)千穐楽昼の部 三代猿之助四十八撰の内傾城反魂香昼の部二、児雷也昼の部三、扇獅子」「歌舞伎座」正面を見る。歌舞伎座の外観は意匠設計・隈研吾低層で和風桃山様式を採用。4階建て全1,964席で通常の1等席~3等席以外に桟敷席と一幕見席を配置。高層オフィスビル「歌舞伎座タワー」(高さ145メートル、軒高135メートル。地下4階地上29階建て)と地下広場「木挽町広場」を併設。歌舞伎座タワーは5階のみ一般に開放。タワー5階と木挽町広場は劇場外という扱いなので、チケットなしで出入りできる。タワー5階には歌舞伎に使用する衣装や小道具等が展示されている歌舞伎座ギャラリー(有料)、第4期歌舞伎座の瓦や河竹黙阿弥の石燈籠等が展示されている屋上庭園(無料)等がある。ダイナミックな玄関の唐破風(からはふ)を見る。唐破風の装飾に用いられている金色の飾り金物は第四期の建物で使われていたものを再利用。歌舞伎座の座紋「鳳凰丸(ほうおうまる)」。「鳳凰丸」は歌舞伎座の創設者の一人、福地桜痴が、新築した自宅の釘かくしに用いたこの紋をいたく気に入り歌舞伎座の紋に採用したのだと。 「鳳凰丸」の原形となったのは法隆寺の宝物「鳳凰円文螺鈿唐櫃(ほうおうえんもんらでんからひつ)」に使われた紋様。正面玄関の紫の幕に白く染め抜かれ、いつもお客様を出迎えてくれるのだと。この他歌舞伎座内には提灯・座席・瓦などいたるところに「鳳凰丸」が描かれているとのこと。 左右対称の破風大屋根を見上げて。唐破風(からはふ)の右側。唐破風(からはふ)の左側。「昼の部 開場 午前10時20分」と。ここにも「六月大歌舞伎」ポスター。「六月大歌舞伎」の出演者の写真。昼の部・夜の部の配役の写真昼の部 一、傾城反魂香 二、児雷也 三、扇獅子夜の部 義経千本桜再び反対側に移動して。「晴海通り」を渡り正面から。ズームして。再び「晴海通り」を渡り戻る。「地下2階 木挽町広場 ご案内図」。「歌舞伎座の軌跡」。「第一期 明治22(1889)年11月~明治44年(1911)年7月第一期歌舞使座は、明治の演劇改良運動の中、江戸時代に芝居町のひとっとして賑わった木挽町に開場した。外観は洋風三層の煉瓦造り、内観は純和風の造りで、歌舞伎ならではの舞台機構である廻り舞台や花道を生かしたうえで、西欧の劇場建築を参照し設計され、灯光も電気式になり場内に設置されたシャンデリアも評判となった。開場初期は興行界の駟け引きや日清戦争による一時休場など波乱の幕開けだったが、九世團十郎、五世菊五郎、初世左團次らを中心として、多くの優れた舞台を生み出した。第二期 明治44(1911)年10月~大正10(1911)年10月外観が洋風だった第一期歌舞伎座から、外観、内観ともに純然たる日本風の劇場へと改築され、第二期歌舞伎座は落成した。明治四十四年に開場した帝国劇場との差別化が図られ、外観は純日本式の奈良朝宮殿風の檜造りに改められた。客席天井は金箔置二重打上げの格天井となり、二個のアーク灯を設置したのをはじめ、無数の電灯を備えた。開場初の興行は「五代目中村歌石衛門襲名披露」。大正二年に松竹の創業者大谷竹次郎が経営を任され、当時の松竹合名会社が一手に興行を担うようになる。第三期 大正13(1924)年12月~昭和20(1945)年5月火災で焼失した第二期歌舞伎座の跡地に再建された第三期歌舞伎座。外観は奈良朝の典雅、桃山朝の豪壮な様式を取り入れたもので、建物全体は鉄筋コンクリート造。桟敷席などを除いて、座席から椅子席に改められるなど、より近代的な劇場に生まれ変わった。十五世羽左衛門、六世菊五郎、初世吉右衛門などの名優が活躍し、日本を代表する劇場としての地位を揺るぎないものとした。第二次世界大戦の戦況の悪化にともない昭和十九年二月興行を最後に休場。翌年の空襲で戦火に包まれる。第四期 昭和25(1950)年12月~平成22(2010)年4月終戦後、GHQの占領政策で封建的な内容の演目が上演禁止となるが、理解者の尽力により徐々に上演が解禁。歌舞伎座の再建工事も昭和二十四年に開始される。物資が乏しい時代であったため、焼け残った第三期歌舞伎座の資材を再利用するなど難工事の連続だったが、昭和二十五年十二月に第四期歌舞伎座竣工。高度経済成長期の歌舞伎プームを巻き起こし、昭和三十九年の東京オリンピックでは「ナイト・カプキ」公演も行う。平成二年から一年を通して歌舞伎興行が行われるようになった。」「第五期 平成25(2013)年4月~現在の第五期歌舞伎座は、オフィスビル歌舞伎座タワーとの複合施設[GINZAKABUKIZA」として平成二十五年に開場した。設計は隈研吾。外観の唐破風など、第四期歌舞伎座デザインを踏襲しつつ、細かな改善によって現代的な建築物として生まれ変わっている。新開場式には歌舞伎俳優が勢揃いし、華々しく歌舞伎座は新たな歴史を刻み始めた。以降も、世界唯ーの歌舞伎専門劇場、芸の継承と革新を行う歌舞伎の殿堂として、良質な舞台を生み出し続けている。」「歌舞伎座」の建物の右側に鎮座していたのが「歌舞伎座神社」。歌舞伎座が新たな姿として2013年に竣工される以前は、劇場の敷地内に設けられていた。そのため、歌舞伎座の関係者や観劇者のみしか参拝できなかったのだが、歌舞伎座の建替えを経て今の場所に遷座され、現在は誰もが参拝できる神社となっているのであった。扁額「歌舞伎稲荷大明神」。社殿に近づいて。さらに。歌舞伎稲荷神社でも、2017年11月1日から御朱印(一種類、書き置きのみ、初穂料300円)をいただくことができるようになった。また、歌舞伎座の舞台檜板を再利用した木札(初穂料1800円)も2020年より頒布されている。どちらも歌舞伎座タワーの5階にある「お土産処 楽座」、地下2階木挽町広場内にある「かおみせ」にて受けることができたのであった。「歌舞伎座タワー」。第五期歌舞伎座と共にそびえ立ち、基準階500坪を超える、銀座で最高の高さを誇るタワーオフィス。地下4階・地上29階。横のガラス窓にも歌舞伎座の座紋「鳳凰丸(ほうおうまる)」。近づいて。「銀座やまう平成29年(2017年)に竣工した建物の外観には、江戸時代から続く伝統工芸品、組子細工を模したモザイク模様を配し、日本の様式美を演出いたしました。店頭に並ぶおよそ50品目のお漬物は季節で品揃えが変わり、すべてご試食しながらお買い求めいただけます。旬ならではの限定品や生産数が限られたお漬物もございますので、ぜひ一度足をお運びください。」とネットから。「木挽町通り」を北東に向かって進む。道路脇の青のアジサイ。近づいて。突き当りの「松屋通り」沿いにあった石碑。「専修大学発祥の地」碑。「専修大学発祥の地専修大学は明治13年9月16日ここ東京市京橋区木挽町2丁目14番地に 経済及び法律の専修学校として発足したことに始まる。創立者は 相馬水胤, 田尻稲次郎, 目賀田種太郎, 駒井重格の諸先達で 建学の精神は社会に対する報恩奉仕であり 質実剛健, 誠実力行は学風である。」その左側にも案内板が立っていた。「明治会堂跡」。「明治会堂跡所在地 中央区銀座三丁目十四番明治会堂は、明治十四年(一八八一)、福沢諭吉 の発案により建設された演説会場です。瓦葺き木造二階建て、建坪約六ニ〇平方メートルの擬洋風建築で、福沢の親戚である藤本寿吉 により設計されました。当時の演説会場としては、福沢の建てた三田演説館など若干の施設が存在しましたが、規模などの面から、多くの演説は本来演説会場ではない貸席、劇場、料亭などで行われていました。これらに代わる施設の整った演説会場として明治会堂は建設されました。左の錦絵「明治会堂之図」の説明文に、「会場の広間は三千人を容れ、食堂には二百人の席を設くべし、講義室あり事務室あり結構至らざる所なく実に東京第一の会堂なり」とあり、当時としては、会食もできる東京随一の演説会場で、政談演説をはじめ、各種演説・行事が頻繁に行われました。明治十五年に立憲改進党の結党式がここで行われたほか、明治十六年には鹿鳴館に先駆けて日本初の西洋舞踏会が行われました。明治十五年末に福沢の所有から農商務省の手に渡り、明治十七年には厚生館と改称されて使用されましたが、明治二十三年(一八九〇)に民間に払い下げられた後、大正十二年(一九ニ三)の関東大震災で焼失しました。 平成二十四年三月 中央区教育委員会」。 ・・・つづく・・・
2023.07.01
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東京ステーションギャラリー案内「歴史と未来をつなぐ東京駅の美術館東京ステーションギャラリーは、1988年、「小さくとも本格的な美術館」をモットーに、駅を単なる通過点ではなく、香り高い文化の場として皆様に提供したいという願いを込めて、東京駅丸の内駅舎内に誕生しました。」「Art museum in one of the busiest stations in JapanTokyo Station Gallery was established in 1988 within the Tokyo Station Marunouchi Building, which is designated as an important cultural property of Japan.The red brick wall of the exhibition rooms embodies more than 100 years of the station's history.We hold exhibitions of modern to contemporary visualculture of Japan and the world.」 東京ステーションギャラリーでは2023年4月15日(土)~6月11日(日)の間、展覧会「大阪の日本画」を開催中であった。明治から昭和前期にかけて大阪で生まれた日本画に光をあてた本展には、大阪中之島美術館が長年かけて収集したコレクションと、全国から集めた優品とをあわせた約150点を出品。(会期中、展示替えあり)。本展は、大阪中之島美術館で開催(1/21~4/2)の「開館1周年記念特別展 大阪の日本画」の巡回展であるとのこと。(内容は一部異なる。)中村貞以「失題」大正10年(1921) 大阪中之島美術館脇息(きょうそく)に両肘をつき、足を崩した女性が画面いっぱいに描かれている。頭と腕を断ち切り、彼女が身にまとう朱色の着物が画面の半分以上を占める大胆な構図に特徴がある作品。肩や大きく膨らんだ腰回りの体のライン、背後で円を描く帯、脇息の脚など各所で曲線が強調され、ボリューム感やリズム感が生まれている。脇息とは畳や床に座った時に肘を置いて休むための座具で座椅子と合わせて使う「肘掛け」。美人と言うより愛嬌のある顔。着物には蝙蝠の金色の柄が。中村貞以は手が不自由であったため、両手の間に絵筆を収めた「合掌描き」でこの作品を描いたのだと。「開館時間 10:00~18:00」別の絵画のポスター。生田花朝「天神祭」昭和10年(1935)頃 大阪府立中之島図書館日本の三大祭りの一つ、大阪の天神祭。生田花朝が描いているのは徳川末期の天神祭の光景。市内を流れる大川(旧淀川)に浮かぶ船渡御は今も盛んで、その花火大会は大阪を代表する花火。さらに。菅楯彦「阪都四つ橋」昭和21年(1946)鳥取県立博物館古き良き大阪庶民の生活を温かく表現した「浪速風俗画」を確立した菅楯彦(すがたてひこ)の作品。四つ橋は、長堀川と西横堀川が交差する地点に「ロ」の字型に架けられていた上繋橋、下橋、炭屋橋、吉野屋の4つの橋の姿を一括して称した名称である。現在は埋め立てられているが、かっては道路、水路、市電にとっての重要な交通の要所であるとともに大阪名所として知られていた。楯彦は行き交う人々や露店の様子など、市民の憩いの場であった四つの姿を温かみのある筆致で描いている。まだまだ!!島成園「祭りのよそおい」大正2年(1913)大阪中之島美術館祭りのため、上等な着物と履物、髪飾りをつけた左に座るニ人。並んで座る絞り染を着た少女は簡素な帯をつけ、羨ましそうな眼をニ人に向ける。離れたところから三人をじっと見つめる少女は素足に草履姿で、髪飾りはたった一輪の野辺の花。親の経済状況が残酷に反映されて子供社会にも明らかな貧富の格差があることを、21歳の成園は少女の表情や装いを描き分けて見事に表現した。これでもかと!!「北野恒富「宝恵籠(ほえかご)」昭和6年(1931)頃 大阪府立中之島図書館1月10日の「十日えびす」に合わせて行われる伝統行事「宝恵籠駕籠行列」に乗る若い舞妓が、柔らかく明るい画風で描かれているのであった。伏し目がちな眼差しが悪魔派?なのか。しかし、キリッとした表情で、商いの町に生きる女性の意志の強さが出ているのだと。さらに、絞りの帯が細かく精細に描かれているのであった。その他にも、「様々な作品」👈リンク が展示されていると。そして最後に八重洲口への地下道を歩いて八重洲口へ。JR東海は、2023年5月20日よりJR東京駅の「八重洲コンコース」で、実寸大の空也上人立像などを展示する「空也上人大集合展」を実施していたのであった。スペースには47体の立像パネルがズラッと並んでいた。各地の方言で「そうだ 京都、行こう。」が書かれているのであった。「空也上人大集合展」。JR東海によると、東海道新幹線の5月1~15日の利用状況は前年比30%増となったが、新型コロナウイルスの影響などを受けていない令和元年比では3%減。今回のキャンペーン効果でさらに新幹線利用を促していきたい考えで、「(六波羅蜜寺に展示されている)本物の空也上人立像にも会いに京都にきてほしい」としている。「そぎゃんばい 京都、行かんば。」と佐賀県の方言で。空也上人の「顔出しパネル」も。「重要文化財 空也上人立像 康勝作 鎌倉時代・13世紀」。レプリカ?であったが、本物は六波羅蜜寺でも撮影出来ないので貴重な機会であった!!廻り込んで。平安時代の中期に「南無阿弥陀仏」を唱えて人々に念仏を広めた六波羅蜜寺の開祖である空也上人の像である。空也上人が「南無阿弥陀仏」を唱えるとその一音一音(南・無・阿・弥・陀・仏)が阿弥陀仏になったという伝説を彫刻化している。彫刻自体は、鎌倉時代前期の作で、運慶の四男・康勝の作である。左手には鹿の角のついた杖を持ち、布教のために履きこんだ草履で大地をしっかりと踏みしめ、痩せてはいるが民衆と共に生活 した空也上人の力強さを表現している。布教だけでなく、橋を架けたり井戸を掘るなど「市聖」と呼ばれ民衆から慕われた空也を生き生きと表現していて、その 写実的な表現からは空也の死後250年ほど経ってから制作されたとは思えない生命力が感じられるのであった。開いた口から木造の小さな阿弥陀立像が六体現れ出るさまは、「空也上人」👈リンクが「南無阿弥陀仏」の名号を唱えると、その声が阿弥陀如来の姿に変じたとする伝承を立体化したものとして有名である。そして八重洲中央口改札を入り、中央通路を少し進んだ場所にある銅像「仲間」。「仲間」の像は日本を代表する圓鍔勝三氏による作品で、歴史ある作品の1つとして東京駅の中でも存在感のあるスポットとなっているのであった。そして久しぶりに、元同僚と合うために山手線を利用して五反田駅に向かったのであった ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.06.18
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「丸の内ストリートギャラリー(MARUNOUCHI STREET GALLERY)」の全作品を訪ねた後は再び東京駅前の「行幸通り」まで戻り、「東京駅丸の内駅前広場」越しに「東京駅舎」を見る。皇居を冷熱源、行幸通りを風の道とした、大丸有地区の再開発が行われたのだ。皇居とJR東京駅に挟まれた地域である大手町、丸の内、有楽町(大丸有地区)において、皇居を公園風の冷熱資源とし大丸有地区のヒートアイランド対策として活用することを実施。東京駅中央の上部の東西方向を「風の道」とし、高層ビルの建設を避けて、「風の道」を確保した。これにより、東京湾から八重洲通りを通り、皇居へ抜ける「海風の道」も確保出来たのである。さらに、具体的には、皇居から東京駅へ通じる行幸通りに街路樹を4列植栽するとともに、保水性舗装を敷設。また、再開発で建築した建物に壁面緑化、屋上緑化を施 したり、ミスト散水装置を設置するなどの対策が行われているのであった。東京駅舎は辰野金吾と葛西萬司が設計し、そのデザインは「辰野式ルネッサンス」と呼ばれ皇室用玄関である「天皇の駅」としてのシンボリックな意味を持たせる事になった。埼玉県深谷市から鉄道輸送されたレンガと鉄筋造り、3階建て総建坪9,545 m2・長さ330 mの豪壮華麗な洋式建築である。南北にそれぞれドーム状の屋根があり、当時は丸の内南口が乗車口、丸の内北口が降車口と分けて使用されていた。中央の玄関は皇室専用とされ、規模は小さいものの、細かい装飾が各所に施されていた。中央玄関と東西の一般出入り口との間に、各1つ別の出入り口があるが、これは荷物の搬入搬出口として設けられた。開業年の1914年は第一次世界大戦の開戦の年でもあり、青島の戦いを指揮した陸軍司令官神尾光臣中将が凱旋し、皇居に参内するイベントに合わせて開業式を行った。式典では、鉄道の草創期から建設を牽引してきた大隈重信首相が演説した。アムステルダム中央駅が当駅舎を設計する際のモデルになったという説があるが、1988年以降に藤森照信らをはじめとする西洋建築研究者により設計者の系譜や建築様式の両面から、否定的な意見も出ている。辰野は英国留学の経験があり、首都ロンドンのターミナル駅を参考にした可能性もあるとのこと。「東京駅丸の内中央口」を正面に見る。振り返って、皇居「坂下門」方向を見る。東京駅から皇居へ通じる行幸通りに街路樹を4列植栽しているのであった。JR東日本は、東京駅の丸の内駅前広場の全面供用を2017年12月7日より開始した。重要文化財にも指定されている丸の内駅舎の保存・復原工事が2012年10月に完成し、駅前広場の工事を2014年8月より進めたのであった。広場の中心部には大きな歩行者空間「丸の内中央広場」、その南北に交通広場を配置した駅前広場を整備した。「丸の内中央広場」は、皇居前広場への軸線を意識したケヤキの列植、行幸通りとデザイン的な統一を図った舗装や照明デザイン等により、丸の内駅舎とともに日本を代表する都市景観を創出し、東京駅周辺の都市観光の一役を担うことを目指す。植栽への散水は、丸の内駅舎の排水を浄化処理した再利用水を用いる。交通広場は、都道を広場外周に再整備し、路線バスやタクシー等の交通結節機能を南北に集約した。下の写真はネットから(一部加工)。南口方向の「ドーム」をズームして。復原前は板張りだった屋根が、見事なドーム形状に。「丸の内中央口」~「北口」を見る。「大名小路」そして「新丸の内ビルディング」方向を見る。外側から見ればふっくらとした形状へと戻され、駅舎全体のクラシックで重厚な雰囲気の中でポイントとなるドーム。時計は直径約1.4メートルで、駅舎の象徴である南北2か所のドーム近くにそれぞれ設置されていた。戦後から工事前まで使用されていた時計の文字盤は洋数字だったが、1914年の開業当時に合わせてローマ数字にしたのだと。北口ドーム~丸の内中央口間を見る。そして「丸の内中央口」。東京駅は、明治29(1896)年2月に建設計画が始まり、18年後の大正3(1914)年12月に駅舎が完成した。駅舎に使われた赤レンガは、現埼玉県深谷市にあった「日本煉瓦製造」のものを767万個、「品川白煉瓦」の白煉瓦を93万個を使用したのだ と。再び正面から。東京駅 丸の内駅舎 貴賓玄関。まさにロイヤルゲート。駅舎中央には、皇室や貴賓専用の入り口と待合室が。戦前、天皇が東京駅で外国の要人を出迎えることもあったとのこと。外国の大使は、着任すると中央口から馬車や車で出て、皇居に挨拶に向かうのが通例だったと。バルコニーのような車寄せもあり、門まで行く事ができる設計。 正面上部には、時計ではなく円窓が嵌め込まれていた。駅舎の屋根には天然スレートという粘板岩を薄く割ったものが葺かれ、丸の内側正面の一部に石巻市雄勝町産が使用されているとのこと。バルコニーのような「車寄せ」を見る。丸の内南口方向を見る。「工事着工前の丸の内駅舎」と「保存復元された丸の内駅舎」。「銅板葺き【どうばんぶき】屋根の棟類や尖塔は基本的に木下地に0.4mm厚の銅板をはぜ組みして葺く その他の飾り部は銅板に熱を加えなましながら打ち出し成型する パラペットの徳利部分については、ヘら絞リといった現代の技術による復原としている 緑青塗装などの工イジングは行わず、銅板素地の仕上げとし、経年により風合いが変化していく」「天然スレート【てんねんすれ一と】屋根は天然スレートと銅板の構成で葺かれている 創建時の古写真から天然スレートは全て一文字葺きで葺かれていたことが判明し、それをもとに復原した 中央部屋根には、創建時に使用されていたものと同様宮城県雄勝産スレートを葺いている また南北ドーム部には、戦後の改修時に葺かれていた良質な登米産を生かし取り、一部は加工を施し再利用した」「南ドームの正面のヴォールト屋根」(以前に撮った写真)。ヴォールト(英語: vault)とは、アーチを平行に押し出した形状(かまぼこ型)を特徴とする天井様式および建築構造の総称である。「パラペットの徳利」(以前に撮った写真)。パラペットとは、建物の平らな屋上やバルコニーなどの外周部に設置された手すりのような場所のことを指すため、「胸壁」や「扶壁」「手すり壁」などとも呼ばれる。もともと胸の高さまである防壁を指す言葉で、それが転じて人の落下を防止する手すりとなった。建物の屋根やバルコニーなどにパラペットを設けることにより、人や物が転落するのを防止できる。丸の内北口方向を見上げる。再び正面を振り返る。玄関には緑の植栽とともに『東京駅』と刻まれた石碑も。手前が一般用「丸の内中央」出口。2~4階の正面の窓は「東京ステーションホテル」の客室。改装された丸の内駅舎43,000平方メートルのうちホテルは20,800平方メートルと丸ノ内駅舎の半分近くを占め、駅舎の3階部分の大半と4階の一部はほとんどがホテルの客室で、2階にも客室の一部、1階と地下にはホテル宴会場が入っている。東京駅南北のドームの中心の空間を駆り囲むように客室が配置されたドームサイドが28室、駅舎の丸の内側に面して並ぶパレスサイド81室、他にクラシックタイプ29室や室内二階建てのメゾネット7室、スイート4室、ロイヤルスイート1室の合計150室。客室配置図をネットから。正面の「ヴォールト屋根」を再び。北口出口方向を見る。外壁の赤レンガ。覆輪目地【ふくりんめじ】覆輪目地とは断面が半円形の化粧目地のことである縦目地と横目地が交差する部分においては、蟇股(かえるまた)といわれる形状で施工している 覆輪目地には専用の目地鏝(こて)を使用し、熟練した職人が施工にあたった目地幅は縦目地3分(9mm )、横目地2分5厘(7.6mm )と縦横で異なっていた。「覆輪目地」と「蟇股」図をネットから。そして「丸の内北口」のドームの天井を見上げる。薄黄色を基調とした色使いで、万華鏡を覗いた時のような優しい気持ちになれる空間。天頂にあるのは、鉄道の起点ということで機関車の動輪を模した装飾なのでしょうか?。その中央には菊の紋章をデフォルメしたような文様が。菊の文様の外輪には花飾りレリーフがあしらわれていた。復原工事により、創建時の意匠に忠実に復活させた。迫力ある鷲のレリーフは8ヵ所に設置され、方角を示す8つの動物のレリーフがそれぞれの方角に配置されていた。その他、15世紀の武将の兜をモチーフにしたキーストーンや剣型レリーフなど、息を飲む造形美に魅了されるのであった。鷲のレリーフをズームして。東京駅ドーム屋根の網は上からの物の落下防止なのか、ハト除けなのかわからないがチョット残念。この網の為か、ズームにするとデジカメのピントが合いにくいのであった。さらに。まるで大正時代にタイムスリップしたかと思わせるような華麗な装飾が施されたドーム。最上階のガラス窓から陽光が差し込み、ドーム全体を柔らかく照らしていたのです。見上げると1.クレマチスレリーフ、2.鷲レリーフ、3.秀吉の兜をモチーフにしたキーストン、4..剣と鏡のレリーフ、5.干支のレリーフ、6.鳳凰、動輪と矢束のレリーフ、7..ドーム内2Fテラス が見えた。3.秀吉の兜をモチーフにしたキーストン、4.剣と鏡のレリーフ、5.干支のレリーフをズームして。6.鳳凰、動輪と矢束のレリーフ八角形の天井の隅に、干支のレリーフが。調べてみると、これらは、方角を示しているのだそうです。丑(北北東)、寅(東北東)、辰(東南東)、巳(南南東)、未(南南西)、申(西南西)、戌(西北西)、亥(北北西)。『戌(いぬ)(西北西)』。『亥(いのしし)(北北西)』.『丑(うし)(北北東)』。『寅(とら)(東北東)』。ドームした床面のタイル模様を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.17
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「丸の内三菱商事本社」入口にあった安田侃(やすだかん)さんの作品。作品名は「天空」と。世界的に有名な彫刻家で、イタリアで長年学び、ミケランジェロも使っていた大理石の産地、ピエトラサンタにアトリエを構えていた彫刻家である と。これも丸の内ストリートギャラリー(MARUNOUCHI STREET GALLERY)の展示品ではないようであった。新緑の美しい「丸の内仲通り」。そして⑨パヴェル・クルバレク スイス ニケ 1989 1991 鉄 塗料【1928年にチェコスロバキアの7代にわたる鍛冶屋の家に生まれ、1968年にスイスに移住しました。「私の作品は、鍛冶屋だからこそできること。古典的で抽象的な彫刻で自分自身を表現することができます。」と生前に答えています。1980年以降は公共の環境芸術のために活動し、この作品はルーブル美術館で所蔵されている《サモトラのニケ》のオマージュ作品で、高さが7メートルにも及びます。】「パヴェル・クルバレク (スイス)Pavel Krbalek (Switzerland)ニケ 1989 1991Nike 1989公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」ズームして。さらに。右手に「東京駅」が姿を現した。「東京駅丸の内駅前広場」越しに「東京駅」を見る。ズームして。更に進み右折して、「丸の内 1st 通り」沿い、「新丸の内ビルディング」前にあったのが⑩イゴール・ミトライ (ポーランド) 眠れる頭像 1983 大理石【ギリシャ彫刻のような端正な顔は、包帯で覆われ、永遠の瞑想にふけっています。その意識は内へ向かい、自分自身をみつめています。ミトライは「私は、絶え間なく人間を探求しながら、私自身の根源を再び見いだそうと努めている」と語っています。1981年、彼にとって理想的な素材となるイタリア、カラーラの白大理石に出会います。カラーラの近くのピエトラサンタにスタジオを構え、大理石とブロンズを素材に制作しました。】「イゴール・ミトライ (ポーランド)Igor Mitoraj (polish)眠れる頭像 1983Sleeping Head株式会社ニッポン放送蔵(彫刻の森美術館 寄託)Collection of Nippon Broadcasting System,Inc.Trust at Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate CO. , Ltd.」顔を覆う包帯の曲線美。作者 Mitoraj の文字が刻まれていた。首の端部をズームして。止めどない想いが溢れ出るが如くに。後ろ側から。そして「丸の内1st通り」との交差点から右に見えたのが「日本工業倶楽部会館」。日本工業倶楽部創立後直ちに建設が計画され、1920年(大正9年)11月、地上5階、鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造の会館が 丸の内の旧伝奏屋敷跡に完成した。設計は横河民輔、ファサードは松井貴太郎、インテリアは橘教順と鷲巣昌が担当した。日本における数少ない本格的なセセッション様式であり、全体に「雅にして堅」を旨とし、国賓を迎えることを考慮して、正面玄関にはドーリア式オーダーのエントランス・ポーチが配され、正面階段も広くとられた。正面屋上には小倉右一郎作の二つの人像が置かれ、戦前の日本経済の中心であった石炭(ハンマーをもった男性)と紡績(糸巻きを持つ女性)を表現している。日本工業倶楽部の事務局が置かれ、戦後はかなりの間、経団連、日経連、経済同友会も事務局を置いていた。1999年8月23日、登録有形文化財として登録されたが、老朽化のため、2003年3月に会館の南側部分を保存・再現したうえで建て替え、三菱信託銀行本店ビルとして竣工した。「日本工業倶楽部会館」前から戻り、「丸の内仲通り」を進むと右側にあったのが⑪ティモ・ソリン フィンランド日光浴をする女 1995 ステンレス・スティール 塗料【スウェーデンを代表する彫刻家、また画家でもあるティモ・ソリンは、1947年にフィンランドで生まれ、ヘンリー・ムーアの作品に感銘を受け、1982年より独学で彫刻の制作を始めました。金属プレートを折り曲げて、力強い色彩で彩った人物を多く制作し、「日光浴をする女」は、陽光の中で人生を積極的に生きる情熱と活力を感じながら座っている女性を表現しています。同作家の作品「守護者」(1992年)が美ヶ原高原美術館に展示されています。】近づいて。「ティモ・ソリン (フィンランド)Timo Solin (Finnish)日光浴をする女 1995Sunbather公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」道路側から。次に訪ねたのが⑯レナーテ・ホフライト ドイツ 凹凸のブロンズ 1989 ブロンズ【1950年、ドイツに生まれ、シュトゥットガルト州立美術アカデミーで版画と彫刻を学びました。この作品は、ブロンズの表面が風景を映しこみます。凹面は風景(丸の内テラス)を光学的に縮小した反転画像として反映し、凸面は風景(車道)を吸収するように見え、その曲率の最高点で最も深い錯覚を示します。太陽光を受けて光り輝き、作品の中に空間が取り込まれ、一体になることを意識して制作されました。】「レナーテ・ホフライト (ドイツ) Renate Hoffleit (German)凹凸のブロンズ 1989Convex公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」横から凸のブロンズ部を見る。さらに「丸の内仲通り」を「永代通り」に向けて進む。「丸の内 永楽ビル」前にあったのが⑬ルイジ・マイノルフィ イタリア巨大な町 1987 ブロンズ【1948年、イタリアのロトンディ生まれ。第5回ヘンリー・ムーア大賞展で優秀賞を受賞したこの作品は、古代イタリアにアイディアを得て制作されました。遠くからは青銅色のふくよかな人の形にみえますが、近寄って見ると、全体に窓状の空隙が無数に施されています。丸の内仲通りの展示では、昼と夜の都市の様子を表現するために、夜には作品の内側から光を照らし、窓から漏れるあたたかい街明かりを幻想的に表現しています。】「ルイジ・マイノルフィ (イタリア)Luigi Mainnolfi (Italian)巨大な町 1987Giant City公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」そして「丸の内仲通り」のメイン道路は「永代通り」のここまで。更に緑あふれる「大手町の森」に向けて緑道を進む。カシワバアジサイが見事な姿で迎えてくれた。近づいて。「都心の真ん中に生まれた、自然の森、郷土の森あらかじめ別の地で森を育み移植する。かってない試みから生まれた3,600m2の自然の森。」。東京の中心地、大手町の高層ビル群の谷間の3,600㎡の敷地に作られた「大手町の森」。「大手町の森」にはビルと一体化された江戸城の石垣が再現されていた。再現された江戸城の石垣に近づいて。「OOTEMORI」。約幅3m×高さ2mの巨大黒板をキャンバスにした、チョークアーティスト「福満智子」さんのLIVEアートである と。実際に森に生息する鳥や昆虫、植物を主のモチーフとして色鮮やかに、そして大手町タワーの建物や木々をモノトーンで背景に描くことで、アートに奥ゆかしさも表現され深みのある作品。「大手町ビル」の地下街を見る。そして一度外に出て「大手町ビル」の中央エントランス前に到着。左右2カ所のガラス上に設置されていた作品を見つける。ビル内に入って。⑤松尾高弘 日本 Prism ”Dahlia+Peony” 2022 プリズム光学樹脂、アクリル、スチール【エモーショナルな光のアートを追求し、空間アートの分野で国内外のさまざまなプロジェクトを手掛ける松尾高広の花をモチーフとした美しい新作。ガラスの窓際に設置されたダリアとピオニー2種類の花を光の結晶として表したプリズムは、365日24時間1秒たりとも同じ姿を見せない光の変化と共に見えた方を変える「生きるアート作品」であると。無機質な大手町のオフィスビルに咲いたプリズムの花】 と。近づいて。さらに。三菱東京UFJ銀行新丸の内支店入口に黒光りしたアート作品的な大黒様が。黒御影石でできていて、名前の通り、なでると金運がアップするとのこと。「さわり大黒」の名が。「大手町タワー」を見上げて。「みずほ銀行大手町本部ビル(旧富士銀行本店)と大手町フィナンシャルセンター跡地を合わせた地区で行われた再開発事業で建設され、オフィスの他に高級ホテルや店舗が入居する複合高層ビルである。みずほフィナンシャルグループの本社・みずほ銀行本店や、アマンリゾーツが手がける高級ホテル「アマン東京」が入居している。大手町エリアにおいては常磐橋タワー(212m)、読売新聞ビル(200m)に次ぐ199.7mを誇る」 とウィキペディアより。「永代通り」案内図。東京都千代田区の皇居大手門前の大手門交差点から江東区の清砂大橋西詰交差点に至る道路であり、東京都都市計画道路環状1号線・放射16号線の一部として指定されている。再び「丸の内仲通り」まで戻る。「丸の内仲通り」の「永楽ビル」前にあったのが⑫ジュゼッペ・スパニューロ 無題 1995 ブロンズ【幼少期から陶芸に慣れ親しみ、作品の素材は多岐にわたります。この作品にはタイトルがないので、様々な解釈ができます。具象的な人間の部位に見えるかもしれませんが、実際には存在しないので、抽象的な作品かもしれません。また、ブロックのような塊が無機質な作品に見えますが、有機体のように見ることもできます。ようするにこの作品は、永遠に満足感を得る事ができない、人間の中にある欲望のジレンマを表しています。】「ジュゼッペ・スパニューロ (イタリア)Giuseppe Spagnulo (Italian)無題 1995Untitled公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」そして丸の内ストリートギャラリー(MARUNOUCHI STREET GALLERY)巡りの最後に訪ねたのが東京駅丸の内北口。「丸の内ホテル(MARUNOUCHI HOTEL)」を見る。⑥三沢厚彦 日本Animal 2017-01-B2 2017-2019 ブロンズ 塗料「三沢厚彦 (日本)MISAWA Atuhiko (Japanese)Animal 2017-01-B2 2017-2019作家蔵Collection of the artist主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate CO. , Ltd.」【三沢は動物をテーマにした「アニマルズ」を発表し、支持を得ています。ブロンズをほぼ等身大に彫り込み彩色をした動物たちが存在感を放ち、見るものの記憶やイメージを喚起します。「クマ」と聞くと可愛らしいキャラクター、獰猛な動物と、相反するイメージが共存しており、この作品では中間的な表現をしています。二足で威嚇するポーズはクマらしい象徴的なものですが、様々な目的で大都会を行き交う人々を俯瞰して眺めています。Profile 1961年京都府生まれ。1989年東京藝術大学大学院美術研究科修士課程彫刻専攻修了。2000年動物の姿を等身大で彫った木彫「Animals」を制作開始。主な受賞歴に2001年第20回平櫛田中賞、2019年第41回中原悌二郎賞など。近著に2013年の作品集「ANIMALS NO.3」(求龍堂)、「動物の絵」(青幻舎)。】後ろ姿を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.16
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前方に「特例都道 406 皇居前鍛冶橋線」との交差点が。「千代田区皇居外苑」を起点とし「千代田区丸の内三丁目」を終点とする、延長 760 mの短い道路。「特例都道」とは、道路法第89条により、特別区の区域内だけに認められた都道で、道路法第7条の認定基準によらず、関係区長と協議し、都議会の議決を経て認定した道路。国土交通大臣との協議は、必要ないのだ と。横断歩道の先右手にあったのが「丸の内パークビルディング」と「丸の内ブリックスクエア」。「丸の内パークビルディング」の低層部に商業ゾーンとして2009年に開業した「丸の内ブリックスクエア」。「丸の内コンフォート」をコンセプトに、高感度でこだわりのあるファッション・雑貨、日本初進出のレストランなどが出店、黒を基調とした重厚で落ち着いたデザインとレトロな雰囲気が魅力の商業施設。 その向かいにあったのが「ティファニー 丸の内店」。時計を抱えているのはギリシャ神話に登場するアトラス。肉体派である。この「東京国際フォーラム西」交差点を渡り、右折すると左側にあったのが「三菱一号館美術館」の建物。1894年にジョサイア・コンドルが設計した「三菱一号館」を忠実に再現した赤レンガづくりの「三菱一号館美術館」。明治期の銀行営業室を使用した趣あるカフェ「Cafe 1894」はおすすめ と。右側には「新東京ビル」。「東京国際フォーラム西」交差点を左折し赤レンガの「三菱一号館美術館」を見る。「三菱一号館美術館はただいまメンテナンス中」と。設備入替および建物メンテナンスのため2024年秋頃まで長期休館中 と。「Digital Gallery デジタルで見る三菱ゆかりの逸品」案内板。下記写真2枚はネットから。曜変天目(稲葉天目) 国宝 建窯 南宋(12-13世紀)。立体物は360°全方向からの高精細デジタル画像を保存。拡大部分。また三菱一号館と丸の内ブリックスクエアに囲まれた中庭の「一号館広場」にはバラやさまざまな草木や噴水、オープンカフェが並んでいた。左側にあったのが白の大理石の作品。⑲アギュスタン・カルデナス キューバ-フランス 拡散する水 1977 カラーラ産白大理石「アギュスタン・カルデナス (キューバ-フランス)Agustin Cárdenas (Cuban/French)拡散する水 1977Water Unfolding公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」【1927年キューバに生まれ、1955年にパリに移住しました。シュルレアリスムの最後のグループの一員であり、数多くの展覧会を開催しています。自身のルーツであるアフリカの原始美術を思わせる造形志向と、官能的な叙情性のある作品は、人間とも植物とも連想できるような、融合した造形を特徴にしています。この作品は広がる水を有機的に表現していますが、生き物のような生命力も感じさせます。】廻り込んで。⑱ヘンリー・ムーア イギリス 羊の形(原型)1971 ブロンズ【ヘンリー・ムーアは世界の近代美術シーンを代表するイギリスの彫刻家です。ムーアの作品は、自然の形態からアイディアを得ています。その制作の過程として、最初に小さなマケット(雛型)を作り、風景の中に彫刻を置くことを想定しながら中間サイズの「原型」へと拡大させます。この原型から高さ5m70cmに拡大された野外作品は、イギリスのヘンリー・ムーア財団が所蔵しています。展示している一号館広場はイングリッシュ・ガーデンがイメージされています。】「ヘンリー・ムーア (イギリス)Henry Moore (British)羊の形(原型) 1971Working Model for Sheep Piece公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」⑰バーナード・メドウズ イギリス 恋人たち 1981 ブロンズ【1950年、ドイツに生まれ、シュトゥットガルト州立美術アカデミーで版画と彫刻を学びました。この作品は、ブロンズの表面が風景を映しこみます。凹面は風景(丸の内テラス)を光学的に縮小した反転画像として反映し、凸面は風景(車道)を吸収するように見え、その曲率の最高点で最も深い錯覚を示します。太陽光を受けて光り輝き、作品の中に空間が取り込まれ、一体になることを意識して制作されました。】「バーナード・メドウズ (イギリス)Burnard Meadows (British)恋人たち 1981 The Lovers公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」場所を移動して。表面が鏡面のため周りの世界が映り込むので、外側から鑑賞しているのではなく、逆に作品の内側から私たちが覗かれているような感覚を覚えるのであった。反対側から。そして三菱「一号館広場」の庭園・中庭を振り返る。それぞれの彫刻作品の曲線に癒やされる空間なのであった。ヘンリー・ムーア:ピースフルな彫刻「羊の形」。次に訪ねたのが「丸の内仲通り」側にあった⑧澄川喜一 日本 白のマスク 1969 ポリエステル樹脂 塗料【日本の近代彫刻を代表する彫刻家で、東京スカイツリーのデザイン監修など環境造形も手がけています。「白のマスク」は「MASK」シリーズの一つで、アフリカの仮面や日本の甲冑への関心と、古代人の顔の復元に携わったことが発端となっています。作品上部には凹みとノミ跡があり、有機的なかたちとシャープなフォルムが組み合わされています。彫刻の内部の構造を表面に出したいという作家の意図がこめられています。】ズームして。廻り込んで。「澄川喜一 (日本)SUMIKAWA Kiichi (Japanese)白のマスク 1969Mask of White公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」反対側から。「丸の内仲通り」の歩いて来た方向を振り返る。左手に「新東京ビル」、右手に「丸の内二重橋ビル」。「丸の内2丁目ビル」前にあったのが③H&P.シャギャーン 日本 Matching Thoughts 2022 ブロンズ 塗料「H&P.シャギャーン (日本)H&P.Chaguin (Japanese)Matching Thoughts 2022作家蔵Collection of the artist主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」【本作品はアンリ・シャギャーンとピエール・シャギャーンが2004年にウィーンで制作した2枚の絵をもとに造られた立体作品である。当時の作品をベースに、単にビジュアルが目立つだけでないものを目指した。現代アートとしてはマテリアルも古く、革新的な造形ではないが、ディテールやそのなかに潜むエスプリに、2人が持っている近代彫刻へのリスペクトをどれくらい込められるかが課題であり、この2体の彫刻に反映させている。それらを表現するための作品素材として、扱いづらいモルタルを用い、その素材の変化する様も楽しみセッションを重ねた作品制作の中には、互いへの信頼や共鳴がうかがえる。また、モチーフとなった二者の関係性やコミュニケーションは、見るものに委ねられるが、どんな鑑賞をも享受するような作家の思いを感じる作品である。「永遠の新人」として存在する2人のアーティストは、常に制作の原点を模索しながらアートの可能性を追求している。】そしてその先にあったのが、ラグビーボールを持つ選手の像。この像は、「丸の内ストリートギャラリー(MARUNOUCHI STREET GALLERY)」の展示品ではないようであった。「丸の内15丁目PROJECTRUGBY BENCH ARTリーチマイケルMICHAEL LEITCH所属/東芝ブレイブルーパス 生年月日/ 1988年10月7日身長/189cm 体重/113kg 血液型/ A型日本ラグビー界を代表する闘将。彼の力強さとラグビーのもつ躍動感をベンチアートで表現。Team /Toshiba Brave Lupus Date o fbirth/October 7,1988Height/189cm Weight /113kg Blood type /AThis piece of bench art depicting a renewned Japanese rugby leaguechampjon communicates his power and the excitement of the sport of rugby.」丸の内1 5丁目PROJECT.は、ラグビー日本代表のオフィシャルスポンサーを務める三菱地所が、ラグビーの様々な魅力に注目し、今までにない新たなラグビーの魅力を発信するプロジェクトです。2019年、ラグビー日本代表のパレードが行われた街・丸の内。ラグビーが日本の文化として根付き、更なる発展を遂げる為に、この街を舞台に、にわかファンもコアファンも、丸の内15丁目住民として一緒にラグビーを盛り上げていきましよう。」精悍な顔立ち。後ろ姿を。丸の内二丁目ビル前を進む。その先「丸の内仲通りビル」前にあったのが①舟越桂 日本 私は街を飛ぶ 2022 ブロンズ 塗料【舟越桂は、日本を代表する彫刻家のひとりである。人物の頭部には、教会、本、並木道が配され、記憶や思い、自然、個人の心の中にもある距離や空間的広がりを表している。パブリック作品としての希少さもさることながら、着彩されたブロンズ作品としては自身の初作品となる。作品が設置される場所の日の動きまでも考慮し着彩された人物像は、静謐さの中にも華やかさと上品さを感じ、時間や季節の移り変わりと共に、街の喧騒と静けさに寄り添いながら、通る人々に「記憶」や「想い」を語りかけるであろう。Profile 1951年、岩手県生まれ。父は彫刻家・舟越保武。父の影響で彫刻家を志す。75年、東京造形大学造形学部美術学科彫刻専攻卒業。77年、東京藝術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了。性別を感じさせない半身の人物像を特徴としており、2005年からは人間と動物との混交像「スフィンクス・シリーズ」を手がけている。】「船越 桂 (日本)FUNAKOSHI Katsura (Japanese)私は街を飛ぶ 2022I fly abobe the city作家蔵Collection of the artist主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」語りかけるように佇む人物の頭部には、教会、本、並木道が配され、それらは、記憶や思い、自然、人が信じる道を表しているのだ と。そして日射しの陰が青く表現されていた。天候、時間によって変化する陽射しによって、様々な表情に変わっていくのだと。頭部の、教会、本、並木道をズームして。顔に近づいて。後ろ側から。さらに進むと「Marunouchi 2nd st.」、右手奥には「東京駅丸の内南口」が見えた。次に訪ねたのが④名和晃平 日本Trans-Double Yana(Mirror) 2012 アルミニウム【3Dスキャンしたポリゴンの表面にエフェクトをかけ、そのデータを再び実体化する「Trans」は、2012年から続く彫刻作品シリーズ。人体モデルから読み取った情報が、質量をもつ物質に還元される過程において、流動性のある三次局面が生成され、情報データという表皮をまとった立像が形作られます。影と実体、現実とヴァーチャルの境をさまよう「Trans」は、虚ろなエネルギー体となって、現代における存在のリアリティーを問いかけます。Profile 彫刻家/Sandwich Inc.代表/京都芸術大学教授 2003年京都市立芸術大学大学院美術研究科博士課程彫刻専攻修了。感覚に接続するインターフェイスとして彫刻の「表皮」に着目し、セル(細胞・粒)という概念を機軸に、彫刻の定義を柔軟に解釈し、鑑賞者に素材の物性がひらかれてくるような知覚体験を生み出してきた。】「名和晃平 (日本)NAWA Kohei (Japanese)Trans-Double Yana(Mirror) 2012作家蔵Collection of the artist主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」」廻り込んで。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.15
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「ザ・ペニンシュラ東京」の丸の内仲通り側のガラス窓にあった巨大写真。「丸の内仲通り」に入り「蚕糸会館」前を通過。「丸の内仲通り」は、日比谷駅近くの晴海通りから、東京駅前の行幸通りを結ぶ丸の内のメインストリート。石畳や道の両側の街路樹が美しい通り沿いには、有名ブランドの路面店やハイセンスなレストランやカフェ、オフィスビル、商業施設などが軒を連ねるのであった。そして紅葉の季節が訪れると、色鮮やかに、そして冬にはイルミネーションが施される。秋から冬の季節は一味違う景色の丸の内仲通りも味わえるのだ と。沿道には三菱グループ各社のビルが立ち並び、「三菱村」と称される。丸の内仲通りはアートの通りである。有楽町寄りから大手町までの1.2キロの両側に、色々な19人のアート作品が展示されている。ここは「丸の内ストリート・ギャラリー」と命名されている。ホームページによると『1972年より三菱地所㈱と公益財団法人「彫刻の森芸術文化財団」が、芸術性豊かな街づくりを目指し、丸の内仲通りを中心に近代彫刻や、世界で活躍する現代アートティストの作品を、数年に一度入れ替えながら展示して行くプロジェクトです』と。昨年の6月、4年ぶりにリニューアル。作品19点中、継続は2点で、新作が5点、入れ替えが12点に と。丸の内ストリートギャラリー(MARUNOUCHI STREET GALLERY)案内地図。下の案内地図の上から下に向かって歩いたのであった。こちらは、横に番号入り、カラー表示で。「新国際ビル」の前にあったが⑮キム・ハムスキー ヴェトナム-フランス ルネッサンス 1985 ブロンズ以下、【】内の【説明文】は「Tokyo Live & Exhibits」👈リンクから全て転記させていただきました。【1943年、北ベトナム生まれ。ハムスキーの作品は、フランスのポンピドゥ・センターなどにも所蔵されています。人間の顔や椅子などの表皮を部分的にめくったような幻想的な作風です。木彫を得手としていて、緻密で細やかなその手技は卓越した技術をうかがえます。めくれた頭皮がそのまま髪になり、枕代わりにもなっていて、細かいディティールを浄化させ、半眼で能面を思わせる表情は夢幻のように超現実的な雰囲気が漂います。】移動して。近づいて。「キム・ハムスキー (ヴェトナム-フランス)Kim Hamisky (vietnamese/French)ルネッサンス 1985Renaissance公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」「国際ビル」前にあったのが⑭ジム・ダイン アメリカ 展望台 1990 ブロンズ 塗料【アメリカを代表するポップアートのアーティストの一人。抽象表現主義的なタッチで描いた画面に、日用品を取り付けた絵画を制作しています。《展覧台》は、《ミロのヴィーナス》を実物よりも小さく模し、頭部を失くして面取りした2体を、ブロンズの台に乗せたもの。「私は自分の伝記の記述者であることにしか興味はない」と述べる通り、《ミロのヴィーナス》も作家の情感を反映したものに変貌させられています。】「ジム・ダイン (アメリカ)Jim Dine (American)展望台 1990The Lockout Tower公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organaized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」ここから先は「歩行者専用(平日11:00~15:00 土日・祝日:11:00~17:00)」になっていた。「丸の内二重橋ビル」前にあったのが②中谷ミチコ 日本 小さな魚を大事そうに運ぶ女の子と金ピカの空を飛ぶ青い鳥 2022 ブロンズ 塗料【魚の泳ぐ水をスカートで大事そうに運ぶ女の子は妊婦です。全ての人は胎児だったから、この作品の主は魚です。虚と実を行き来しながら、揺らぎの中で確かなモノを探すためには、やはり物質とそれが作りだす凹凸を手探りすることが自分には大切で、だから私は彫刻を作っているのだろうと思います。凹凸に起こる無数の反転が、見る人の身体を取り込みながら、作品と一人一人の間に結ばれる関係を「唯一のもの」とする場所にしたいと思いました。Profile 1981年、東京都生まれ。2012年ドレスデン造形芸術大学修了。一般的なレリーフとは異なり凹凸が反転している立体作品を制作。物体の「不在性」と「実在性」を問い続けている。2014年より工場を改装した「私立大室美術館」で毎年敬老の日限定で個展を開催するプロジェクト「When I get old」を実施する。】ズームして。更に顔を。「中谷ミチコ (日本)NAKATANI Michiko (Japanese)小さな魚を大事そうに運ぶ女の子と金ピカの空をル青い鳥 2022A Girl Who Carries a Small Fish Carefully and a Blue Bird Flying in Your Golden Sky作家蔵Collection of the artist主催 三菱地所株式会社Organaized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」裏面は鏡面磨きになっていて、金色の支持体の中に見る人やその人の背景が映り込みむ。ただし、表面は微妙に歪んでいるので、映し出された現実の世界はゆらぎ、唯一のモチーフである「青い鳥」だけがはっきりと虚像の中に浮かび上がりるのだ。その下に私の姿も。「青い鳥」をズームして。よく見ると、女の子も鳥も凹んでいるのであった。中谷ミチコさんは、粘土で作った原型を石膏で型取ると凹みが入れ替わることに注目し、モチーフの凹凸が逆転したレリーフ作品を数多く手掛けているとのこと。生で「これは凹面!」と自分に言い聞かせながら観れば凹面だとわかりますが、写真を撮る角度を変えても、もはや凸面にしか見えないのであった。見る場所によって、顔の向きが自然に変化する不思議な作品。この作品を私が観るというよりは、この作品に私が観られているのであった。右に移動して行くと・・・私を追って顔の向きが右方向に👈リンク。さらに右に・・・。作者の顔にも似た女の子なのであった。そして「丸の内二重橋ビル」前にあったのが⑦草間彌生 (日本) われは南瓜 2013年 作家蔵「草間彌生 (日本)KUSAMA Yayoi (Japanese)われは南瓜 2013年 I am a Pumpkin作家蔵Collection of the artist主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」【南瓜は、草間がもっとも好んで使っているモチーフ。これまで数多くの作品を生み出していますが、本作は初めて石彫で作られた作品。タイトルの「われは南瓜」と素材として使われた石の関係について、草間は自身のテーマである「永遠(とこしえ)」に例えています。半永久的に残る素材(黒御影石)に南瓜(草間自身)を重ね合わせて、永遠の命を作品に吹き込みました。】裏から。この野外彫刻の上にも、草間らしい南瓜模様のオブジェが乗っているのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.14
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この日は5月25日(火)、夕方から卒業した会社の元同僚達に合うことになっていたが、前日のテレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」で「丸の内ストリートギャラリー」が紹介されていたので訪ねることにした。早めに家を出て、JR新橋駅に東海道線で向かう。「有楽町駅」が近いが、「新橋駅」で下車して向かう。「日比谷通り」の「西新橋」交差点を渡る。「内幸町」交差点。交差点を渡る。左手に見えたのが「市政会館」。「市政会館」は、1929(昭和4)年10月19日、日比谷公園の南東の一角に日比谷公会堂とともに誕生した。塔時計と茶褐色のタイル張りの外壁をもつクラシックな建物は、日比谷のシンボルとして親しまれている。地下1階、地上6階、塔屋4階建、全体は茶褐色のタイルで覆われ、中央に時計塔を配した線対称のデザインとなっている。垂直性と線上性が強いためゴシック建築に見られがちだが、正確にはゴシックのディテールはまったくなく、ゴシック調アール・デコと呼ぶべき建物であるとのこと。1999年6月11日に、東京都景観条例に基づき日比谷公会堂とともに「東京都選定歴史的建造物」となった。また2003年6月9日、千代田区景観まちづくり条例に基づき「景観まちづくり重要物件」に指定された。2008年度「近代化産業遺産群 続33」の21番「近代社会の発展とともに花開いた都市の娯楽・消費文化の歩みを物語る近代化産業遺産群」のひとつとして認定された。東京都千代田区日比谷公園1−3。「丸の内警察署 内幸町交番」。「日比谷公園 触知図案内板」。「触知図」とは、表面に凹凸があり、視覚障害者が指先で触れて形などを確かめることのできる図。点字書籍の図版や建物内の案内図などに利用されるのだ と。「市政会館」を横から見る。「日比谷公園」に「新幸門」から入る。左手の奥の道路沿いにあったのが「キリノ大統領像」。「キリノ大統領声明1953年7月6日、アメリカ合衆国ボルティモア私は、フィリビンて服役している日本人捕膚に対し、フィリピン議会の同意を必要とする大赦ではなく、行政上の特赦を与えた。私は、妻と3人の子供、5人の親族を日本人に殺された者として、彼らを赦すことになるとは思いも寄らなかった。私は、自分の子供や国民に、我々の友となり、我が国に末永く恩恵をもたらすであろう日本人に対する憎悪の念を残さないために、これを行うのである。やはり、我々は隣国となる運命なのだ.私は、キリスト教国の長として、自らこのような決断をなし得たことを幸せに思う。私を突き動かした善意の心が人類に対する信頼の証として、他者の心の琴線に触れることになれば本望である。人間同士の愛は、人問や国家の間において常に至高の定めであり、世界平和の礎となるものである。」「工ルビディオ・キリノ・フィリピン共和国大統領(1890 ~ 1956)。大統領在任は1948 ~ 53)は、第ニ次世界大戦中に妻子を失ったにもかかわらず、1953年6月、モンテンルバ刑務所に収容されていた日本人戦犯105名全員に恩赦を与えた。同年7月、キリノ大統領による決断に感謝するため、この地において、「国民感謝大会」が開催された。日・フィリピン国交正常化60周年にあたり、天皇皇后両陛下がフィリピンを国賓として御訪問された本年、日本国民のキリノ大統領への感謝と敬意の証として、日・フィリピン友好及び世界平和への決意を新たにするものとして、この地に顕彰碑を建立する。」公園内を北側に向かって進む。「太い木 高い木」案内板。案内板によると、日比谷公園内で一番太い木は松本楼の横にある通称「首かけいちょう」の699cm。一番高い木は公園サービスセンター前にある、アメリカスズカケノキで、なんと25mあると。「日比谷公会堂」。日比谷公園の中にある公会堂で、多目的ホールとしても使用される。耐震性に問題があり改修のため2016年から休館しているが改修着工の見通しは立っていないのだと。「日比谷公園 にれの木広場」から「ソーラー時計」を見る。「故障中」の張り紙が。バラの花も開花していた。「日比谷公園 噴水広場」では「日比谷オクトーバーフェスト2023~Spring~」が開催されているようであった。入口がここ。ドイツから直輸入されたビールが大集結しているようであったが、この日はパス・・・。「日比谷公園 園内&周辺」ご案内。「日比谷花壇 日比谷公園店」前から外に出る。「帝国ホテル 東京」。「日本生命日比谷ビル」。「TOHOシネマズ日比谷 スクリーン1~11」のある「東京ミッドタウン日比谷」。開業: 2018年3月29日地上高: 191 m階数: 35竣工: 2018年(平成30年)2月「日比谷見附跡」の石垣が現れた。近づいて。「心字池(しんじいけ)」を日比谷通り側から見る。「ホセ・リサール博士銅像」。石碑は1961年に建立されたもので、以下のように記されていた。「Dr. Jose RizalNATIONAL HERO OF THE PHILIPPINESSTAYED IN 1888AT TOKYO HOTELLOCATED AT THIS SITEUNVEILD JUN 19, 1961フィリピンの国民的英雄ホセ・リサール博士1888年この地東京ホテルに滞在す1961年6月19日建之」ホセ・リサール博士(Dr. Jose Rizal、1861年6月19日〜1896年12月30日)の胸像。日本に滞在したことを記念する石碑。ホセ・リサール博士はスペインからの独立運動のリーダーで、フィリピンの国民的英雄であったと。さらに「日比谷見附跡」の石垣に沿って進む。「日比谷公園」・「有楽門」前から「日比谷交差点」を見る。再び「日比谷見附跡」の石垣。「日比谷見附跡 この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部です。 城の外側から順に、高麗門(こまもん)・枡形(ますがた)・渡櫓(わたりやぐら)・番所が 石垣でかこまれていましたが、石垣の一部だけが、ここに残っています。 当時、石垣の西側は濠(ほり)となっていましたが、公園造成時の面影を偲び、心字池( しんじいけ)としました。」「日比谷門跡門の名は、中世のこの地域に日比谷村があったことに由来します。1614年(慶長19年)に熊本藩(現在の熊本県)藩主加藤忠広によて石垣が築造され、1628年(寛永5年)に仙台藩(現在の宮城県)藩主伊達政宗によって門の石垣が構築されました。日比谷門は現在の日比谷交差点村近にありましたが、1873年(明治6年)に撤去されました。現在の日比谷公園の心字池沿いの石垣は、日比谷門と山下門の間にあった土手の名残りです。」日比谷門(左)と明治時代の日比谷公園内心字池(右)。日比谷門をネットから。明治時代の日比谷公園内心字池をネットから。「心字池」を東側から見る。「心字池ここは日比谷公園ができる前は濠(ほり)でした。その面影を残すために公園造成時に池としたもので、全体を上から見ると「心」の字をくずした形をしています。このような池を心字池といい、禅宗の影響を受けた鎌倉、室町時代の庭に見られる日本庭園の伝統的な手法のひとつです。」5つ星ホテル「ザ・ペニンシュラ東京」。「ザ・ペニンシュラ東京」入口。「日比谷交差点」から「馬場先門」方向を見る。そして「丸の内ストリートギャラリー」のある「丸の内仲通り」に向かったのであった。 ・・・つづく・・・
2023.06.13
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しばらく散策記・旅行記を継続して、この我がブログにアップして来ましたが、今日は「我が趣味の菜園」の現状を紹介させていただきます。まずは我が「趣味の養蜂場」の菜園状況です。これは「枝豆」、最初に種蒔きし定植したものは既に実を付けています。6月中旬から順次収穫が可能となります。そしてこちらは「ズッキーニ」。「ズッキーニ」は既に花も咲き、収穫時期も間近です。そして我が菜園からの富士山の姿です。ズームして。さらに山頂を。こちらは「ニンジン」。さらなる「おろ抜き」が必要です。形が良くおいしいニンジンを作るため、多めに種を巻き、ある程度葉っぱが伸びてきたら良く育っているほうを残して葉を間引くのです。 この「間引いたばかりの新鮮な葉=おろ抜き」は「ニンジン」の場合は、油で炒めると美味しいのです。こちらは「長ネギ」の苗。順調に成長しています。そろそろ、1回目の定植が必要な時期になっています。こちらは「コキア」の苗です。「コキア」は別名ホウキギ・ホウキソウ・箒草・箒木などと呼ばれる雌雄同株の一年草で、ふんわりとした草姿がユニークでかわいらしい非常によく増える植物です。昨年の種が自然に発芽して来ています。「コキア」は最初は緑色の樹形ですが、秋になると紅葉しとても鮮やかで美しい赤に変化します。茨城県の国営ひたち海浜公園では、広大な敷地にコキアを植え付け、夏から秋の観光名所となっています。1株でもかわいらしく、美しいコキアですが、広い敷地に群生させたコキアは圧巻の光景です。こちらには花・「アスター」を植え付けています。「スイカ」も花を付け始めました。未だ、葉が小さいですが、一雨降れば成長が早くなると思われます。今年は「デンスケスイカ」を種蒔きし、育てています。こちらは「カボチャ」。既に、野球ボールほどの実が数個付いています。「カボチャ」の花も次々と。そして「キャベツ」。10cmほどの大きさに丸まって来ています。あまり消毒したくないのですが、露地栽培では無農薬では難しいのが現状です。西洋ミツバチの巣箱の後ろには、ヒマワリを植え付けています。西洋ミツバチはヒマワリの花粉が好物なのです。こちらは「南京豆」。雉(キジ)、カラス、野鳩対策にネットで覆っています。「南京豆」も大部葉の数が多くなって来ました。こちらは「里芋」の新芽。今年も3種類の里芋を育てています。そして養蜂の巣箱。今年は3群からスタートしましたが、人工分蜂にて現在6群となっています。元気に働き蜂が出入りしています。現在2階建て、蜜も集まって来ています。そしてミツバチが花粉が好きな「金糸梅」の花。そして、「ゴーヤ」も定植しました。「大根」。「ジャガイモ」もそろそろ収穫の時期です。こちらは「赤ジャガイモ」。「インゲン」も収穫できるようになりました。「トウモロコシ」。花も咲き出しました。そして自宅横の菜園です。「キュウリ」。大きく成長して来ました。既に5本ほど収穫しました。そして「トマト」。「トマト」の花も次々と咲き始めています。6月の第2週には収穫可能か?こちらは「ナス」。「ナス」も花を付け始めました。3本仕立てにします。「ピーマン」。そろそろ脇芽欠きが必要です。こちらにもインゲンの余った苗を植え付けました。「アスパラガス」もそろそろ定植が可能です。2箱、種蒔きしました。「イチゴ」は収穫を終了しました。ネットの撤去、来年用の苗の育成が必要です。別の場所の「そら豆」は今(5月25日)が収穫の盛りです。毎日、ビールのつまみで楽しんでいます。 ・・・END・・・
2023.06.05
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砂の道「トンボロ」まで戻る。時間は干潮時間の11:33から約1時間後の12:25。既に両側からの波は、砂の道「トンボロ」までを超え始め、砂の道の中央付近は濡れ始めていた。両側からの波が重なりあった砂の道「トンボロ」を歩く人々。腰越方向からの波は砂の道「トンボロ」を超えて。「片瀬東浜」も満潮で乾燥した砂浜が狭くなって来た。ズームして。更にズームして。江の島側の砂の道「トンボロ」にはまだ波が迫る状況ではなかった。一番狭かった砂の道「トンボロ」は消え始めていた。「♫海が出会うのよ!! 道が消えるのよ!!浜と浜とが 分かれるの!!♫」「S字」状の砂の道「トンボロ」三浦半島方向を。両側からの波が出会っては分かれて。両側からの波の道を。ズームして。江の島大橋側からの波の先端。消えかけた砂の道「トンボロ」を懸命に渡るご夫婦。私も逆方向に渡り途中から振り返る。更に消えかけている砂の道「トンボロ」を進む。砂紋に近づいて。消えかかった砂の道「トンボロ」を渡り終わって振り返る。歩いて来た砂の道には波の先端が押し寄せて。ズームして。江の島を見る。砂の道「トンボロ」も消えかかり。そして「片瀬東浜」の乾いた砂浜に向かう。砂の道「トンボロ」の全体を振り返る。国道134号方向を見る。「江島神社御鎮座記念龍燈籠」が左前方に。「片瀬東浜」に砂の山が。ここにも。何処かに持ち出すのであろうか?小田急線・片瀬江ノ島駅に向かう。「弁天橋」から「龍口寺」の「御仏舎利塔」を見る。そして小田急線・片瀬江ノ島駅に到着し帰路についたのであった。そしてこのブログを書きながら、北海道の函館も陸繋砂州(トンボロ)の上に発達した街であることを思い出したのであった。「函館の市街地は、両側が海に面した1kmほどの幅しかない非常に狭いところにあります。その先に突き出た函館山があります。このような地形の特徴は、函館山によるトンボロ(tombolo)現象によってできたものです。陸の近くに島があると、沖からの波が島の両側を回って、裏側で打ち消し合って穏やかになることがあます。そこには沿岸流や河川によって堆積物がたまりやすくなり、砂洲が形成されることがあります。このような島と陸をつなぐ砂洲のことを、「トンボロ」、日本語では「陸繋砂州(りくけいさす)」と呼ばれています。沖に島があることによって、陸との間に砂洲ができることを「トンボロ現象」といいます。」と再び。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.06.04
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再び「cafeとびっちょ 江の島ヨットハーバー店」をズームして。海上にはヨットが優雅に。英語では、帆走ヨット (sailing yacht)、あるいは単に帆船 (sailboat) と呼ぶことが多い。ただし、これらの船艇を使ったレースは yacht race と呼ばれる。ヨットでの航海やヨット競技のことをセーリング(sailing)ともいう。これはヨットがセール(sail:帆)を使って進むからである。「江の島表磯」を見る。「江の島表磯」の入口にあるここ「釜の口」は、駐車場から表磯に降りるスロープの下にある開けたポイント。クロダイが釣れるポイントであるようだ。岩場には多くの釣り人・磯遊びの方々の姿が。干潮直後の為に「江の島表磯」は広く拡がっていた。「江の島表磯」は下記の写真の場所と。江の島の島の名前、岩場の名前をネットから。白き波頭の近くに釣り人の姿も。そして、湘南港防波護岸の西側先端には、「江の島表磯」に降りる仮設階段が設置されていた。「江の島表磯」に降り、江の島の西側の巨大な岩肌を見る。この目前に広がる平べったい大きな磯が「釜の口」。外洋に向かって釣り竿を出す方の姿を。青から白への瞬きの瞬間。そして再び青のウネリに。白き波頭をカメラで追う。これぞ「白波」!!。そして、「江の島表磯」を後にすると左側には白きモニュメントが。「タイトル:自由の翼 作者:熊坂兌子👈リンク作品解説:この彫刻は1982年に完成した神奈川県婦人総合センター(当時)に設置されていたもので、施設の老朽化による解体に伴い、2017年に現在の場所に移設されたものです。「女性よ、元気よく立ち上がれ」との願いを込め、さんさんと輝く湘南の太陽を浴びた女性が、翼を広げて力強く大地に立つ姿を表しています。」江の島の上部の地域へポンプアップする水道配管。そして「聖天島公園」内にあった「聖天島」とその手前に「聖天上人像社(聖天神社)」もともとこの地は江の島の海に浮ぶ聖天島という島であった。かつては磯で、二つの岩があり、その形が歓喜天に似ていたところから、その別称である聖天にちなんで聖天島と呼ばれた。関東大震災により海底が隆起して地続きとなり、東京オリンピックで湘南港が造られた際に海が埋め立てられて現在の形となった。現在も岩肌の上部が残っており、当時の島の様子がうかがえる。その昔、八坂神社の江の島天王祭の際に禊が行われる神聖な場所でもあったため、公園内には社があり、鎌倉時代の僧・良真上人の像が安置されている と。近づいて。「聖天島と聖天上人僧良真は元久元年二月宋に渡り、慶仁禅師に参じて受法聞かずして、日本に霊地江の島ありと知る禅師より、そこに社壇を開くべしと教えられ帰朝する。後に、江の島東岸の巌窟に籠り、一千余日の間修行を重ねた良真が、建仁二年(1202年)七月、窟内に紫雲香気満ちて、天女が壇上に現れ給うを見る。以来、此処を聖天島と謂う。更に、時の将軍源実朝の帰依僧となる良真は、実朝の懇志を受け「下の宮」現在の江の島神社辺津宮を創建す。建久元年(1206年)「江の島縁起」に依る聖天島 島の東岸にあり、天女影向の古跡を言う。窟内に良真上人の像を安す。(天保12年(1804年)新編相模風土記)爾来、慈悲上人良真に依り、ここ江の島東岸一帯の地霊は守護されるとして、島人は聖天上人と仰ぎ、崇敬を集めて現在に至ります。」「聖天上人・良真上人の像」。辺津宮の開山堂には良真の木像が納められていたが、開山堂が壊されてからはここ聖天島の祠に安置されているのだと。「聖天堂」の脇にあった「龍宮神」と「道祖神」の祠。朱の鳥居の奥に「龍宮神」。「龍宮神」と。その隣に「道祖神」。「道祖神」。「江の島まちづくり憲章」と「江の島名勝図」案内図。「江の島まちづくり憲章1、前文江の島はの海と緑の美しい自然環境と豊かな歴史的遺産を持つ藤沢市の代表的な地区であり、藤沢市民にとって印象深い場所の1つです。私達は、さらに豊かな江の島の魅力をつくりだしてゆくことを願い、すぐれた自然環境と歴史的遺産を生かして、江の島らしい、価値をもった活力と魅力あるまちづくり"島ぐるみ野外博物館"を目指します。また、旧島部も埋立地も1つの江の島としてまちづくりを進めるために、ここに「まちづくり憲章」を定めます。2、本文私達は、江の島に調和した魅力あるまちづくりを進めるために次のことに努めます。( 1 )緑の江の島を形成する自然環境を守り育てます。( 2 )江の島の海をきれいにし守り育てるよう努めます。( 3 )江の島の歴史的文化遺産を守り後世に伝えます。( 4 )海への眺望や、海辺・緑・歴史的文化遺産を生かした行楽地として活力あるまちづくりに 努めます。( 5 )江の島にふさわしいすぐれた街並と、健康でゆたかな生活の場を作り出すよう努めます。( 6 )お互いの友愛と連帯意識を高め、住民自治の精神でまちづくを進めます。3.附文これらの目標を達成するには、地域住民・市・事業者等が、お互いに協調を図ってそれぞれの役割を果たす必要があります。( 1 )地域住民の役割市民が良い環境をつくり、良い環境が市民を育てます。すぐれた環境をつくるには、市民1人1人の環境に対する自覚と関心が必要です。地域住民相互の協力と合意のもとに豊かな江の島のまちづくりを目指します。( 2 )市等の役割市は、市民・事業者に対する指導・助勢・啓発の他、環境整備事業を推進し、江の島の骨格・顔となるすぐれた景観づくり、及び土地利用誘導・緑地保全維持などに先導的な役割を果たせねばなりません。また、公共建築物等の建設・計画に当たっては、江の島にふさわしい施設づくりに努めるものとします。また、国・県も、その事業や計画の展開に当たっては、広域的かつ基幹的な必要性だけでなく、江の島の自然・歴史の特性を十分配慮して行うよう努めるものとします。( 3 )事業者等の役割事業者は地域社会の一員として、その事業活動を通じて、地域住民との信頼関係を深め、魅力ある江の島のまちづくりを目指して、江の島の環境形成に努めるものとします。 [制定: S. 63.4.7江の島一丁目ニ丁目住民一同]」「江の島名勝図」。「現在地」はここ。左手にあったのが江の島の海鮮料理店「島童子(しまわらし)」。美味そうな海鮮丼であったがグッ!!と我慢。数々の海鮮丼。その先にあったのが「江島神社」の「車 お祓い所」。江の島神社の社務所は坂の上なので、専用の「車お祓い所」がここ。「江島神社」。「拝殿」に近づいて。紫陽花(アジサイ)が見事な色で。そして「磯料理」屋の店頭には様々な貝類が。「伊勢海老」。巨大な「栄螺(サザエ)」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.03
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「砂の道「トンボロ」」を楽しんだ後は、潮が満ちて「砂の道「トンボロ」」が消えて行く姿を見るまで「江の島ヨットハーバー」周辺の散策に向かう。道路沿いには「シーフード・海鮮料理店」が並ぶ。「江の島ヨットハーバー」に向かって進む。奥に進んで行くと、人の数も少なくなって来た。湘南海岸から相模湾の北東に突き出た陸とつながる島「江の島」にある「江の島ヨットハーバー」は、1964年東京オリンピックのヨット競技場として建てられた。以来、さまざまなヨットレースが開催され、日本における公共ヨットハーバーの草分けとしてヨット活動の普及に貢献してきた。最近では「東京2020オリンピック競技大会」のセーリング競技会場として記憶に残るレースが繰り広げられたのであった。湘南なぎさパーク ヨットハウスにある「cafeとびっちょ 江の島ヨットハーバー店」をゲートの隙間から。店舗面積は40.72平方メートル。店内12席、テラス44席をそろえる。県施設「湘南港」の管理事務所1階に位置し、店舗内はカウンター正面の客席に加えて、店舗前庭が同店専用のテラス席になっている。白と青を基調にした店内は、壁面のうち2面をガラス張りに。サインやディスプレー装飾は「アドリア海のイメージに仕上げた」という。江の島「中津宮」手前にある「展望台広場ウッドデッキ」と「中津宮」への石段が見えた。「cafeとびっちょ 江の島ヨットハーバー店」を道路側から。この地で開催されたオリンピック競技の説明ボード。「第18回 オリンピック競技大会(1964/東京)昭和39年10月10日(土) ~ 10月24日(土)■ヨット会場:江ノ島ヨットハーバー日程:昭和39年10月13日(火)~15日(木)、19日(月)~21日(水)大会の様子ヨット競技は40の国と地域から328名が参加し、レースでは、各選手とも相模湾特有の変わりやすい風をつかむのに悪戦苦闘のレースを展開した。大会期間中は、海上自衛隊等の協力により、円滑な運営ができた。また、競技ではヨットの盛んなヨーロッパ勢やアメリカが上位を占めた。■レースエリア相模湾の3海面において、フィン級、フライングダッチマン級、スター級、ドラゴン級、5.5m級の各レースが開催された。A海面は黄色のブイ及び発煙筒を使用したため、別名黄海面と呼び、B海面は赤海面、c海面は青海面と呼ばれた。第32回 オリンピック競技大会(2020/東京)令和3年7月23日(金) ~ 8月8日(日)■セーリング会場:江ノ島ヨットハーバー日程:昭和3年7月25日(火)~8月4日(水)。■大会の様子セーリング競技は65の国と地域から350名が参加した。世界的に蔓延した新型コロナウイルス感染症の影響により、大会が一年延期され、更に無観客での開催となったが、江の島・富士山を背景に熱い競技が繰り広げられた。日本勢は、470級で男女ともに入賞する健聞を見せた。■レースエリア相模湾の6海面において、10種目のレースが開催され、各海面は藤沢・鎌倉・逗子・葉山といった地名が名付けられた。レースの半数以上は、海岸に近い海面( Enoshima・Kamakura)で行われ、メダルレースは全て、江の島に近いEnoshima海面で実施された。「ヨット」とは、遊びに用いる快速艇(動力源がエンジンか帆かは問わない)のことを意味しており、アメリカズ・カップ(ヨット界最大の国際レース)で使用されているような大型の艇はまさに「セーリング・ヨット」の一つの例である。そして、1人乗り、2人乗りのディンギー(小型のボート)は正しくは「セーリング・ディンギー」といい、ヨットとは区別されていたが、一般的にはこれらも「ヨット」と称されている。しかし、オリンピック競技にウィンドサーフィンが導入(1984)されてからは、帆を使用して行うスポーツをすべて「セーリング・スポーツ」と称するようになった。またオリンピック、国民体育大会等の競技名も、かつては「ヨット競技」という言い方をしていたが、現在では「セーリング競技」という名称に変更している。これにあわせる形で、ヨット競技を統括している国際組織も、1996年にその名称を「国際ヨット競技連合」(International Yacht Racing Union:IYRU)から「国際セーリング連盟」(International Sailing Federation:ISAF)へと変更。さらに2015年、ISAFから現在の「ワールドセーリング」へと、再度その名称を変更した。そして「湘南ヨットハーバー」・「湘南港・港湾管理事務所」。この場所は依然として名称は「湘南ヨットハーバー」となっているのであった。三種類の旗が。右から「日の丸」、「神奈川県旗」そして、カモメが描かれた「神奈川県鳥旗」。「神奈川県鳥旗」は「シンボルカラー旗」とも呼ばれているようだ。1978年(昭和53年)に県のイメージカラー「かながわブルー」を制定したことを記念し、「シンボルカラー旗」を制定した。制定当初のデザインは青地に県鳥のカモメを白抜きでカントンとして配置し、その下にローマ字で「KANAGAWA」と県名を表記したものであった。現行の旗は1992年(平成4年)に改訂されたもので、旧デザインよりも地色の青を暗くしてカモメを中央に大きく配置し「KANAGAWA」を右下に斜体で表記するようになっている と。「湘南港・港湾管理事務所」内に入る。「湘南海岸 鳥瞰図」。「湘南海岸 鳥瞰図」をズームして。「江の島 鳥瞰図」。入ってすぐ左にはショップ・「マリンショップ 1964 」があって、オリンピックグッズなども販売されていた。「江ノ島」周辺の立体模型地図。セーリング開催レース大会 案内板。「第4回 LOVE OCEAN 5/13~6/18」ポスター。~海のためにできること、海を愛する人たちと一緒に!~「海(相模湾)から見れば市町の境界線がなく一つのランドスケープ」との想いのもと、海を愛する人たちと手を携えて、美しく豊かな海を守り、“人と人”をつなぐ海洋環境イベント『第4回LOVE OCEAN』を開催。今回は、13市町13海岸の陸上で行うビーチクリーンだけでなく、海上に浮かぶゴミ拾いにも挑戦。ヨットレースや釣り大会、海岸線を楽しむスポーツイベントも同時開催を予定している と。「リビエラ湘南ビーチクリーン」スケジュール表。4日間を通じて、神奈川県全域13市町13海岸(三浦・横須賀・葉山・逗子・鎌倉・藤沢・茅ヶ崎・平塚・大磯・二宮・小田原・真鶴・湯河原)のビーチクリーンを実施する と。前方に大型駐車場そしてその先に江ノ島の南側の絶壁を見る。再び3種類の旗を見上げて。道路脇に停車していた大型バイク。ハーレイダビットソン(HARLEY-DAVIDSON)。「ヨットハーバー」案内板。現在地はここ。県立かながわ女性センターは昭和57年(1982)に「婦人総合センター」として開館し、平成3年(1991)に「かながわ女性センター」に名称変更。 「女性の自立と男女のあらゆる分野への参画を促進し、もって男女共同参画社会の実現に寄与するための施設」であった。2015年3月末に閉鎖され、建物も解体撤去され現在は大型バス駐車場になっていた。「湘南港駐車場」入口。「湘南港駐車場」。「江ノ島 湘南 大堤防」下の駐車場。石段を上り、「江ノ島 湘南 大堤防」上に。「江ノ島 湘南 大堤防」の先端にあったのが「湘南港灯台」。江の島の東端、湘南港防波護岸外端に建つ灯台が、湘南港灯台。湘南港(江ノ島ヨットハーバー)は昭和39年8月18日、東京オリンピックのヨット競技場として整備された港湾で、湘南港灯台も湘南港とともに土木学会選奨土木遺産に選定されている。湘南港防波護岸には休憩用のベンチも設置され、江の島のご来光スポットにもなっているのだ。湘南港灯台は、江ノ島ヨットハーバーの灯台(東京オリンピックヨットレース会場のシンボル的デザイン)ということで、ヨットの帆をイメージして造られたデザイン灯台。塔高18m、平均海面から灯火までの灯火標高19m、光達距離8.5海里(15.74km)。この岩の島は、「離鵜島」。この島の名は「広鵜島」か。「江の島セーリングセンター」。「横須賀海上保安部 湘南海上保安署」。湘南港防波護岸から江の島を見る。「江の島シーキャンドル」の頂部が見えた。「湘南港防波護岸・江の島 湘南大堤防」上を歩く。この様々なタイル模様の意味・目的は?「江の島花火大会」をイメージしている?「湘南港防波護岸・江の島 湘南大堤防」上から「湘南ヨットハーバー」・「湘南港・港湾管理事務所」方向を見る。大きな岩の島の先にはヨット、漁船の姿が。江の島の南側の断崖絶壁をズームして。1時間前は干潮であったので、多くの岩島が海面上に。釣り人の姿はなし。さらに「湘南港防波護岸・江の島 湘南大堤防」上を西に向かって進む。先程訪ねた「湘南ヨットハーバー」・「湘南港・港湾管理事務所」の白き屋根の建物。湘南港防波護岸上の休憩用のベンチでは上半身を日光浴する人の姿も。そして左前方に見えたのが「江の島表磯」。目前に広がる平べったい大きな磯が「釜のロ」。岩場にはグループの姿も。湘南港防波護岸の西側先端に向かって進む。再び「湘南ヨットハーバー」・「湘南港・港湾管理事務所」をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.02
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江の島北緑地広場にあった「弁財天と世界女性群像」。東京オリンピック(1964年)記念として作られた。噴水内、周囲には5体の像が。作者:加藤顕清氏。竣工年月日:1964年10月1日作品材質:ブロンズ七福神中の紅一点、琵琶を弾く妖艷な姿で現される「弁財天(弁才天とも書く)」は福徳・諸芸能上達の神として広く信仰されている。ズームして。江の島・辺津宮の境内の八角の堂・奉安殿(ほうあんでん)には、八臂(はっぴ)弁財天と、日本三大弁財天のひとつとして有名な裸弁財天・妙音(みょうおん)弁財天 が安置されている。江戸時代には、この江島弁財天への信仰が集まり、江の島詣の人々で大変な賑わいを見せた。世にいわれる「日本三大弁財天」とは、安芸の宮島、近江の竹生島、江の島の弁財天のこと。4体の像が「弁財天」を囲んでいた。西洋:ギリシアの古代女性像。「湘南港竣工とオリンピック東京大会ヨット競技開催記念弁財天と世界女性群像噴水池弁天の江の島といわれる江の島弁財天は、近江の竹生島、安芸の厳島とともに日本三弁天の一つであり江の島の象徴であって、この弁財天にちなみ、冥想の弁財天を池の中央に配し江の島の歴史と文化を表現しこれを囲んで東洋と西洋、古典と現代の四つの像つまり東洋の古典像は、オリンピック発祥の地ギリシャの古代女性像、これに対し西洋現代像は優雅な女性裸像と東洋の現代女性像として東南アジア踊り子像をくみあわせこの五体はオリンピックの五輪を表し世界とその平和親善を表現しヨット競技開催を永久に記念するものでこれらはいずれも格調高く気品にみち全体的に美的統一がはかられています。噴水は弁財天を水のベールにつつみ、昼間は太陽のひかりをあびて七色の虹をいろどり夜間は水中照明により様々に変化しつつ一層の美観をくわえます。」「弁財天と世界女性群像噴水池を後世にこの弁財天と世界女性群像噴水池は平成十年第五十三回国民体育大会かながわ・ゆめ国体を機に江の島北緑地の再整備事業として現在の姿となりました。当初の位置は現在地より約二十メートル程南側に位置しその景観は左の写真のとおりであります。弁財天は、発祥地インドではサラスバティーすなわち水の神 音楽の神と云われそれにふさわしく弁財天を中心として世界女性群像はこの水面の上にたたずみ幾年の歳月を>潮騒の調べにだかれて流れる雲とともにその女性美を水面に映してまいりました。ここを訪れ散策する多くの人々の心に安らぎと美しき感銘をあたえ静かにいならぶ弁財天と世界女性群像この五体の彫刻の製作者こそ昭和九年に日本彫刻家境界を創立、造形と精神の両面にわたる人間性の追求に専念した日本彫刻界の重鎮、加藤顕清氏であります。氏は晩年を藤沢市ですごし昭和四十四年市内大庭で没した。享年七十二才。ここに氏の生涯にわたる彫刻美術の偉業に敬意を表し弁財天と世界女性群像噴水池を後世に残すものであります。 平成十二年三月 藤沢市長 山本捷雄」現代:東南アジアの踊り子像。東洋:法隆寺の百済観音像。古典:西洋の女性裸像。そして同じ江ノ島緑地広場にあった「エドワード・S・モース記念碑」。大きな御影石にレリーフがはめ込まれた碑。作者:山本正道氏竣工年月日:1985年4月14日作品材質:ブロンズブロンズ製の博士と子供たちのレリーフ。「エドワード・S・モース記念碑 日本近代動物学発祥の地」碑。「東京大学の初代動物学教授エドワード・S・モースは明治10年(1877)7月から8月末までここ江の島に日本最初の臨海実験書を開き、シャミセンガイなどの研究をしました。」こちらは「アカツメクサ(赤詰草)」。日本には明治時代に入ってきました。ムラサキツメクサとも呼ばれます。いわゆるクローバー(シロツメクサ)と同じマメ科ですが、花が赤いやつというだけではないのだと。いくつか違いがあるのだと。まず、クローバーより大きい。花だけでなく、茎もかなり長い。そして、葉っぱは同じ3つ葉ですが、クローバーより細長い。牧草としてだけでなく、肥料や、ハーブとしても用いられるお役立ち植物の一つであると。「砂の道「トンボロ」」の上には多くの家族連れが。遠く三浦半島方面を見る。「砂の道「トンボロ」」は一番狭い場所でも15~20m程度はあろうか。紙くずやプラスチック物を拾うボランティアのオジサンの姿も。波打ち際では潮干狩りする家族の姿が。一番狭い「砂の道「トンボロ」」付近をズームして。さらに。再び「江の島大橋」の橋脚を見る。そして島内の「江の島 モース臨海実験所跡推定地」にも立ち寄りました。「工ドワード・シルベスター・モースは1877年(明治10年) 7月17日~ 8月28日ここに東洋初の臨海実験所を設け海産動物の研究・指導を行い我が国の近代動物学の基礎をつくりました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.01
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通常時の海面の姿をネットから。そして「砂の道「トンボロ」」時の上空からの写真を、これもネットから。「江の島大橋」の鎌倉側の海が割れて「砂の道「トンボロ」」が生まれるのだ。これがこの日の「砂の道「トンボロ」」。普段は海面に覆われている場所から、約200~250mの「砂の道「トンボロ」」が生まれているのであった。「トンボロとは江の島は、潮が大きく引くと陸続きになり、この地形をトンボロと呼びます。トンボロはイタリア語で、日本語では陸繋砂州(りくけいさす)といいます。波は、島のような障害物があると、回り込んで進みます。波は同時に砂を運び、島と海岸の間には、砂が集まり、トンボロができます。江の島のトンボロは、自然現象のため、必す現れるとは限りませんが、潮位がおよそ20cmより低くなる時に現れます。トンボロは江の島以外にも国内や世界各地で見ることができます。『吾妻鏡』という鎌倉時代の歴史書には、1216年1月突然江の島の海に道が開け、舟を使う必要がなくなって国中の人々が集まった、とあります。将軍源実朝をはじめ大勢の方々が驚いて神のおかげではないかと思ったとのことです。また、1600年6月徳川家康が江の島を訪れています。その時の記録によれは江の島に向かい弁財天に参詣したのですが、ちょうど干潮だったので一行は徒歩で渡り、帰路は潮が満ちてきたので舟で帰ったとあり、潮の満ち引きでトンボロが現れる様子がわかります。江戸時代には江の島参詣の人々でにぎわいましたが、参詣者がトンボロを歩いて渡る様子を描いた浮世絵も数多く残されています。」「トンボロ」・「陸繋砂州(りくけいさす)」の様子の写真。「トンボロ」が描かれている「浮世絵」。歌川広重「相州江之嶋弁才天開帳参詣群集之図」。歌川広重(1799-1858)は本名を安藤といい、安藤広重とも呼ばれます。天保年間より風景画家の道を歩み、東海道五十三次シリーズなどで有名です。この作品は弁才天開帳の際の江の島の賑わいを描いたもので、参詣に向かう4組の女講中を揃いの日傘で描き分けています。「砂の道「トンボロ」」上を進む駕籠の姿も描かれている。「砂の道「トンボロ」」越しに腰越漁港方向を見る。「砂の道「トンボロ」」越しに「片瀬東浜」方向を見る。海面上に大きく現れた「江の島大橋」の橋脚の基礎部。正面の黒い帯が「砂の道「トンボロ」」。ズームして。一番狭い場所でも10m以上の幅が生まれていた。更に黒い帯をズームして。「片瀬東浜」の国道134号沿いのマンション群。護岸近くの広場の「ハマヒルガオ(浜昼顔)」。茎は砂の上を這い、毛はなくてなめらか。時に茎が砂に埋もれて葉だけが出る。葉は腎心形、やや丸くて基部は左右に張り出す。葉はつやのある緑で厚みがある。長さは2-4cm、幅は3-5cm。花は5-6月に咲き、淡紅色で、径4-5cm。花柄は葉より長く、葉の上に抜き出て咲く。そしてこちらは一面の白詰草(シロツメクサ)。クローバーとも言う。再び「砂の道「トンボロ」」を振り返る。江の島での「砂の道「トンボロ現象」👈リンク を描いた様々な浮世絵があるのだ。葛飾北斎『富嶽三十六景』より「相州江の島」。片瀬海岸から江の島を見たところです。江戸時代は、江の島弁財天は江戸から格好の小さな旅先でした。砂洲の参道が現れれているところから、今は干潮時のようです。人々や馬、駕籠など参詣に行くようです。参道の両側に旅館や土産物が軒を連ねています。三角形の屋根は、定規を使って引いたような直線で描いています。その屋根の上の三重塔は、江島神社上之宮の塔です。右端に船を描き、その先の富士に視線を求めています。波打ち際の波の泡の描写など静かな春を思わせます。多少誇張や演出で描く北斎には、珍しく自然な景観を描いています。干潮時で、一筋の砂州の上「トンボロ」には、人々や馬、駕籠などが島に向かって進んでいます。作者 歌川広重(うたがわ ひろしげ)初代 寛政9年~安政5年(1797~1858)作品名 相州江の島の図制作年 天保年間後期(1842年頃)作者 歌川広重(うたがわ ひろしげ)初代 寛政9年~安政5年(1797~1858)作品名 江の島参詣の図制作年 嘉永6年(1853)そして正にこの時の「砂の道「トンボロ」」の航空写真をネットから。私もこの写真に写っているのかもしれません。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.31
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この日は5月21日(日)、前日に妻から、江ノ島で干潮時にしか現れない、江ノ島へ通じる砂の道「トンボロ」が出現することを聞き、訪ねることに。ネットにて、潮見表を。5月21日(日)は大潮で11:33に干潮になり、潮位は-5cmとのこと。江の島は潮位が20cm以下になるとトンボロが現れ陸続きなるとのこと。トンボロを日中歩いて渡れるのは、3月から9月(2022年)の新月または満月の干潮時のみ と。自宅を10:15に出て、小田急線を利用して片瀬江ノ島駅に到着。時間は10:47過ぎ。改札口横には、新江ノ島水族館の協力で、クラゲが漂う常設の水槽があるのだ。水槽は駅舎正面中央に置かれ、開口部が直径二メートルの円形で、二・六五トンの海水が入っており、ゆっくり回転するように流れている。二十匹ほどのミズクラゲがゆらゆら浮遊するしているのであった。新江ノ島水族館によると、館外に水槽を常設するのは初めて。少し離れた場所にろ過装置があり、地中を通した配水管でつなぎ、水温調節機能も備える。異常が生じれば、近くの同館に警報が伝わり、対応する仕組みになっていると。マリンブルーの神秘的な彩りの中をクラゲが回転しながらゆったりと浮遊しているのであった。改札を出て、クラゲ水槽の裏側を見る。小田急線の片瀬江ノ島駅を正面から。駅舎は神社仏閣に用いられる「竜宮造り」と呼ばれる技法を採用。江の島の「五頭龍と天女の伝説」にちなんだ装飾も施されている。1929(昭和4)年の開業時から「竜宮城スタイル」の駅舎で知られた片瀬江ノ島駅。新駅舎は2018年2月に着工し、長年親しまれた旧駅舎のイメージを残しつつ、より「竜宮城らしい」駅に生まれ変わったのだ。真っ赤な柱と緑の屋根、黄金に輝く竜の姿が。楼門上層の窓ガラスには、江の島に伝わる「天女と五頭竜(ごずりゅう)」の伝説にちなんで天女の絵が描かれていた。別の場所からズームで「天女」を。波間から立ち上がる黄金の龍の姿が。屋根の上には鯱ならぬイルカが。下層のアーチ部分の天井は神奈川県産のヒノキ仕上げで、竜宮城らしく四隅にカメの彫刻が泳ぐ。そして江ノ島に向かって、境川に架かる「弁天橋」を渡る。路面には、陽光に輝く、江島神社の鳥居、藤沢市の花・フジそして江ノ島の姿が描かれたパネルが埋め込まれていた。「境川」には水上オートバイ(水上バイク)は走っていた。運転手の背中には「試験中」と。特殊小型船舶操縦士の運転免許試験であったのだろうか。「弁天橋」から国道134号・「片瀬橋」その奥に江ノ島の姿が。「弁天橋」中央に置かれている像。なめらかでふくよかなポーズが悩ましい。「雲の形」と。境川の上流側を見る。そして「片瀬東浜」に到着。時間は10:53。干潮の時間は11:33とのことであった。そして前方を見ると、既に海が割れて砂の道が出来ていたのであった。潮の引いた砂浜には多くの家族連れの姿が。そいて沖には多くのヨットが。熊手、バケツを持ち潮干狩りにTRYしている子供の姿も。「湘南港」、「江の島ヨットハーバー」方向を見る。「腰越漁港」方向を見る。天童よしみの曲:「珍島物語」👈リンク を想い出したのであった。♫海が割れるのよ道ができるのよ島と島とがつながるのこちら珍島(チンド)からあちら芽島里(モドリ)まで海の神様カムサハムニダ霊登(ヨンドン)サリの願いはひとつ散り散りになった家族の出会いねえわたしここで祈っているのあなたとの愛よふたたびと♫♫遠くはなれてもこころあたたかくあなた信じて暮らしますそうよいつの日かきっと会えますね海の神様カムサハムニダふたつの島をつないだ道よはるかに遠い北へとつづけねえとても好きよ死ぬほど好きよあなたとの愛よとこしえに霊登サリの願いはひとつ散り散りになった家族の出会いねえわたしここで祈っているのあなたとの愛よふたたびと♫ズームして。江の島の「江島神社 瑞心門」そして「江の島シーキャンドル」も見えた。海が割れて生まれた砂の道を進んで行った。狭い場所でも10m以上の幅の砂の道が出来ていたのであった。「【湘南】江ノ島 トンボロ現象(藤沢市)」👈リンク江の島側には、平塚方面からの波が「江ノ島大橋」下を通過して押し寄せて来ていた。普段なら、この場所は海の下。「江ノ島大橋」の橋脚用の基礎も海面上に顕わに。妻の話によると、昔は橋に下に砂の道「トンボロ」が出来たと。時代とともに腰越方向に移動していると。下部の円柱状の基礎の部分は海中にあるのだが、今日は!!そして砂の道「トンボロ」の先には、護岸上に上る仮設の階段が設置されていたのであった。仮設の階段前から、歩いて来た砂の道「トンボロ」を振り返る。こちらが通常時の波の様子。東からの波は「江の島大橋」の下を通過し、腰越方向からの波とぶつかるのだ。このぶつかった場所が砂の道「トンボロ」となることが解るのであった。護岸下の保護用の岩も完全に姿を現していた。「江の島大橋」の橋脚用の基礎部を見る。そして「砂の道「トンボロ」」の先にあった仮設用階段を見る。この日の「砂の道「トンボロ」」の観光客用に藤沢市の観光協会が設置したものであった。地元では知られた自然現象を観光コンテンツとして活用しようと、市観光協会が「トンボロ」を渡って安全に江の島に上陸する手法を模索しているようであった。「トンボロ」は長年にわたり江の島周辺地区の名物として知る人ぞ知る現象だった。ただし、海の道が現れるのは3月から9月の新月または満月の干潮時のみで1時間ほど。めったに起きないため、これまで同協会などが観光資源としてPRすることはほとんどなかったとのこと。護岸擁壁の保護用の岩が完全に現れて。再び「砂の道「トンボロ」」を振り返る。仮設階段を正面から。安全管理のために観光協会の方も仮設階段の上で立ち会っておられた。多くの方が私と同様に「砂の道「トンボロ」」を歩き、「片瀬東浜」からこちらに向かっていた。私も仮設階段を上って護岸の上に。最終段の踏み板と護岸擁壁の隙間が大きく子供達の為には、もう少し狭くする処置が必要と感じたのであったが・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.30
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「林泉寺」の藤棚を楽しんだ後、道路の向かいに神社があったので、この日の最後に訪ねた。神社の名前は「山神社(やまじんじゃ)」。道路を渡り、「山神社」の石製の「一の鳥居」へ。静岡県伊東市荻65。扁額も「山神社」と。その下には、歴史を感じさせる色合いの、「前垂れ」が3本ついた大きな「注連縄」が奉納されていた。通常の縄は右へねじりますが、しめ縄は左回りでねじった左綯(ひだりな)いになっており、古くから左側は「神」右側は「俗(日常)」と考えられており、逆向きに編まれているのが特徴とのこと。伊東市には「山神社」と書き、「さんじんじゃ」と読む神社が1社、「やまじんじゃ」と読む神社が3社あり、そのうちの1社がここ と。参道の前方右手には「手水舎」が。「伊東市指定 天然記念物 山神社のムクノ木(群落) 伊東市・萩」と案内柱が。ムクノキという名前の由来には、木が古くなると樹皮が細長い剥片となってはがれる「剥く」、木工用のヤスリになるため「木工の木」、枝葉がよく茂るため「茂くの木」、ムクドリが好んで実を食べる「椋鳥の木」などが転訛したとされる。漢字表記は「椋」のほか「樸樹」など と。ムク(椋)の木はニレ科の落葉高木。関東地方から西に分布している。伊豆では低地にみられるが、この神社の社叢のように大木がある面積にかたまっているのは珍しいとのこと。樹幹はケヤキより赤っぽい。果実が秋に黒く熟し、食べると甘い と。伊東市内の音無神社👈リンク にも大きな木があると。境内のいたるところにムクの老木が茂っていた。見上げて。「ムクノキの葉」をズームして。葉は長さ5~10センチ、幅2~6センチほど。細長い楕円形だが左右非対称で縁に鋭いギザギザがあり、先端に向かって徐々に細くなる。葉の表面に光沢はなく、両面とも細かな剛毛があってザラザラしており、乾燥させた物は、紙ヤスリ代わりに桐の箪笥などの家具、象牙、鼈甲(べっこう)、漆器の木地などを研磨するのに使われるのだ と。緑の実もついていた。実際にこの手で触ってザラザラ感を体験したかったが、手の届く場所には・・・。「ニの鳥居」とその先に「拝殿」。二の鳥居の扁額は「三社宮」。「山神社鎮座地 伊東市荻六五番地御祭神 大山祇命(おおやまずみのみこと)例祭日 十月十五日由緒創建は詳かでないが、元禄十五年八月再建の棟札、並びに元禄年間奉納された鰐ロ等から判断すると、江戸時代初期以前に建立され、山村神社として信仰、崇敬されていた由が分かるが、社殿は幾度かの火災によって、記録を留めた資料はなく、その証を顕著に示しているものは、境内地に繁茂する推定四〇〇年、六〇〇年を越えた老杉、欅や、伊東市より天然記念樹と指定されたムクの木がある。」狛犬(右)。狛犬(左)。「拝殿」。「拝殿」の「本坪鈴」と「扁額」を見上げて。「内陣」。「神宮大麻をおまつりしましょう」と。神宮大麻の「大麻」とは、本来「おおぬさ」と読み、神々への捧げ物、お祓いの際に用いられる木綿や麻を指す。 このことから、厳重なお祓いを経て授けられる清らかなお神札を「大麻」と呼ぶようになった と。ズームして。奥の扉は閉じられていた。内陣の扁額も「山神社」。「宗教法人 山神社 沿革」碑。宗教法人 山神社 沿革祭 神 大山祇命 (おおやまぐいのみこと)例 祭 十一月四日 現行 十月十五日由 緒 當神社の創建年月は不詳なれど、神木の樹令などから考察して五百年以前と推定せられ 寛文十年(1671)正月御西霊元天皇の御代 小岡村崇敬者により鰐口が奉献しあり三百年 以前當時の社の姿を彷彿せるものあり。元禄十五年(1703)八月 東山天皇の御代社の老朽 甚だしきに至り小岡村氏子中により此の地に再建す。文化十三年(1804)十月荻村土屋五左 衛門氏願主となり氏子中と共に初めて石の鳥居を奉献せり。宝暦十年九月同じく石燈籠の 奉献あり其の後明治に至り六年(1873)九月賀茂郡荻村社に列すとの棟札あり。明治十三年 社殿漸やく腐朽し来るにより荻村氏子改築の計を立て當時富戸村棟梁田畑某の弟子荻村政 水傳兵衛氏により前の本殿、拝殿を建立せり。明治二十二年(1889)二月川奈、吉田、荻 十足四村を統合し小室村となり、郷社 山神社となる。大正五年(1917)小室村社となる。 昭和に至り二十年(1945)八月世界第二次戦争の終戦を迎え 二十六年政宗分離による宗教 法人法施行せられ宗教法人 山神社となる。爾来再三に亙り補修を加え来るも神殿を除き 本殿拝殿及び庁舎の腐朽甚だしきに至り四十六年氏子総代相議り神社本庁の認可を得て此 等改築に着手し昭和四十六年八月十三日社務所並びに手水舎を竣功せしめ翌四十七年十月 十五日本殿、拝殿の竣工並に鳥居、狛犬燈籠の建立、幣殿拝殿の内装を完了せり。 ・・・・関係者の名が刻まれていた・・・・ 昭和四十八年(1973)九月 伊東市荻氏子中 建之「山神社本拝殿改築社務所新築寄附芳名(畧敬稱) ・・・・寄付金額と芳名が刻まれていた・・・・」拝殿の蟇股部分はシンプルな彫刻だが、彩色が施されていた。中央に社紋の巴紋があり、左右は鳳凰のモチーフに見えたが。「本殿」を横から見る。そして「山神社」を後にして、「林泉寺」の駐車場のへと。正面に2つの藤棚を再び。駐車場横の藤棚も見納め。これでもかと、カメラで追ったのであった。そして駐車場横にあった石碑群。庚申像群であっただろうか。そしてこの車が、旅友の新車。日産「ノート(NOTE)」とのこと。ガソリンエンジンで発電し、モーター走行する典型的なハイブリッド車・「e-POWER(イーパワー)」と。「e-POWERとは、日産が開発するハイブリッドシステムのこと。初めて採用されたのは2016年に発売した「ノート e-POWER」👈リンク。のちに発表された「セレナ e-POWER」とともに、e-POWERを搭載したことで大ヒット車種となりました。e-POWERの仕組みはEV(電気自動車)に近いと言われていますが、厳密には違います。e-POWERには通常のハイブリッドと同じように、エンジンと電気モーターが搭載されています。しかし車を走らせるために使用するのはモーターのみで、エンジンは発電のみに用いられます。駆動用のバッテリー残量が十分な時は、発電用エンジンは停止し、リチウムイオンバッテリーで走行。バッテリ残量が少なくなると、ガソリンエンジンで発電した電気を駆動用バッテリーに充電しながら走行。ガソリンエンジン車のエンジンブレーキの代わりにモーターを使って減速することを回生ブレーキと呼びます。減速するときに発電するため、発電した電力でリチウムイオンバッテリーを充電することができ、エネルギーを無駄にせず燃費を良くすることができます。」と日産のHPから。そして「林泉寺」を後にして帰路へと。「中伊豆BP入口」交差点を右折し静岡県道12号線・伊東修善寺線に入り、北上し伊豆急行・「南伊東駅」入口を通過。海岸に出て「大川橋」交差点を左折して国道135号手前の道を進みBP.伊東駅入口から国道135号を「伊東オレンジビーチ」を右に見ながら進む。前方右の海越しに伊東市宇佐美にある「伊豆ビューグランドハイツ」を見る。「宇佐美海水浴場」前を通過。「新宇佐美トンネル」710.9m。「御石ヶ沢トンネル」536.1m。前方遠く真鶴半島が姿を表した。熱海市網代の「立岩トンネル」を出る。前方に熱海の海が。下多賀を通過。長浜海浜公園方向を見る。熱海市渚町の「初川橋」を渡って進む。「東海岸町」交差点を通過。右手に「貫一お宮之像」。真鶴半島が大きくなる。国道135号は渋滞が始まっていたので山側の県道740号線・小田原湯河原線を利用。根府川で再び国道135号に合流、前方には大山、丹沢山、蛭ヶ岳の姿が。前方に小田原市街を見る。「小田原城」をズームで。「新早川橋」を渡って「西湘バイパス」へ。西湘バイパスで平塚方面へ。「酒匂川」に架かる「西湘バイパス酒匂橋」を渡る。「酒匂川」上流側を見る。西湘バイパス「橘料金所」。ゴールデンウィークは休日割引適用外 と。「相模川」に架かる「トラスコ湘南大橋」を渡る。外車のクラシックカー?であろうか。「柳島」交差点を左折し産業道路から湘南ベルブリッジを見る。そして国道1号を利用して茅ヶ崎の旅友邸に到着し、我が愛車に乗り換えて帰宅したのであった。この日の走行ルート。走行距離は〇〇kmであった。旅友Sさん、新車の運転お疲れ様でした。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.20
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「富士山本宮浅間大社」の境内の東側の散策を続ける。正面に大きな石碑が。「駿州赤心隊の碑」。石碑の下部には「赤心隊員」の名前が刻まれていた。隊長は富士宮浅間神社宮司富士亦八郎。隊員は鈴木五百重・鈴木楯雄・太田健太郎・森真魚尾・味地瀬兵衛・海野孫兵衛・浅倉勝三郎・名主 彦兵衛・佐藤真次郎・野口一郎・千葉小太郎・卯太郎・三浦千之助・先光右衛門・内藤浪江・大井求馬・八幡主膳 その他 と。「駿州赤心隊富士亦八郎重本 文政九年(一八ニ六年) ~明治三十年(一八九七年)は駿州赤心隊を結成、勤皇に献身した富士山本宮浅間大社の大宮司家に生まれ十五歳で江戸に出て、漢学・武術を学ぶ。ニ十歳で帰郷第四十四代大宮司家を継ぐかたわら塾を開き、国学、漢学、兵学を教える。東征軍に参加、駿川赤心隊を率いて幕軍と戦う。その後、西南戦争に従軍、現靖国神社の前身、東京招魂社の社司となり祭祀を司り最後は東京麹町区長。この石碑は明治維新の激動の時代を勤皇の志士として、国家に尽くした駿川赤心隊顕彰の碑である。」この石碑は1934年に町民によって建てられたもの。その左隣にも「駿州赤心隊之碑建設趣意碑」が。近づいて。カタカナ混じりの漢字が刻まれていたが解読不能。湧玉池の畔に「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれた石碑が立っていた。この首標は、昭和59年に浅間大社境内の土中から発見され、奉納者の子孫の方によって現在地に再建された。御神幸道というのは、神様が里宮と山宮を往来する道のことで、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれている石碑であると。「当社より山宮神幸道五十丁を証する碑である。これは大宮郷の信心に秀たる同志が造立した。宇佐美忠善が中心となって行った。」というような事が刻まれているとのこと。奉納者には、春田・宇佐美・清・渋谷等の名前が見られ、子孫長久・家内繁盛・福禄円満等の成就を祈って建てたものである。造立年:元禄四年(1691)未年十一月 と。「幸道首評の碑👈リンク明治の初めまで行われていた「山宮御神幸」に利用された御神幸道の起点の碑である。御神幸は、舂秋の大祭前日に浅間大社と山宮浅間神社との間を祭神が往復」するもので祭神は鉾に宿って移動した。鉾を安置した鉾立石が、浅間大社の楼門前と山宮浅間神社の境内に残されている。御神幸道の5 0丁( 1丁は約109m )の間には、1丁目ごとに目安の丁目石が置かれていたが、現在その大分は確認することができない。」「特別天然記念物湧玉池」碑。後ろに見えた朱の橋が神路枚橋」。「国指定特別天然記念物湧玉池湧玉池は、約1万年前の富士山噴火によて噴出した溶岩流の末端に位置している。富士山に降った雨や雪が溶岩流の隙間に貯えられ、溶岩流の末端から押し出されるように湧き出し、池となったと考えられている。湧玉池は、富士山の湧水のうちでも規模が大きく、学術上貴重なものであることなら、昭和27年(1952年) 3月29日に特別天然記念物に指定された。また、湧玉池は世界遺産富士山の構成資産である「富士山本宮浅間大社」に含まれている。池の面積は約2,500m2。水温は四季を通して約14℃、水量は平均毎杪2. 1 m3 (平成25年度)あり、池から神田川に流れ出し、市内を流れている。浅間大社の社伝によると、噴火する富士山を水徳の神(浅間神)の力により鎖めるために、湧玉池の畔に浅間神社を建てたという。また、湧玉池は登山者が身を清めるために禊を行ったところで、室町時代の富士登山の姿を描いたとされる「絹本著色富士曼荼羅図」(国指定重要文化財 浅間大社蔵)には、湧玉池で禊をする道者(登山者)の姿が描かれている。」「湧玉池指定範囲図」写真右・石碑のある場所が「湧玉池」から「神田川」として流れ出る場所。「神田川」に架かる最初の橋が「神幸橋」。「国指定特別天然記念物 富士山御霊水 湧玉池(わくたまいけ)」。「神田川」として流れ出る富士山御霊水。「神田川」は静岡県富士宮市宮町の富士山本宮浅間大社内にある湧玉池に源を発し、南へ流れ、同市浅間町付近で潤井川に合流する。湧玉の池は、富士山の雪解け水がおよそ15年かかって麓に湧き出た清水であって、夏冬通して水温は常に約13度である。市街地であるが天然のカジカが生息しており、上流部においては自然の渓流の流れが再現されている。「神幸橋」から「神田川」の下流側を見る。山を神体山として祀る神社のため、本宮はここ、富士山南麓(富士宮市街地)にありますが、奥宮は、富士山頂上にあるのです。ズームして。毎日約20万トンもの富士山の雪解け水が流れ出していると。25mプールを4~5秒で満杯にする水量!!神田川傍に立っていた石碑。「平成の名水百選「湧玉池・神田川」 認定 平成20年6月25日 環境大臣 鴨下一郎」別の石碑も。「平成の名水百選「湧玉池・神田川」環境省では、全国各地域の生活に溶け込んでいる清澄な水や水環境の中で、地域住民等による主体的かつ持続的な保全活動が行われているものを「平成の名水百選」として認定しました。富士宮市からは「湧玉池・神田川」が選定され、これを記念し伝承するために記念碑を建立しました。 平成20年6月25日 富士宮市長 小室直義 」「湧玉池(下池)」に架かる左から「神路橋」、「川中島」に鎮座する「嚴島神社」そして「神路枚橋」。朱に塗られたアーチ状の「神路橋」をズームして。僅かに波だった水面を朱に染めていた。そして歩いて来た「湧玉池」岸の小路を引き返す。左側にあったのが「社務所別館」。再び「水屋神社」前の藤棚を見る。「湧玉池(下池)」の水面で真鴨たちも気持ちよさそうに戯れていた。ズームして。そして「水屋神社」を右奥に見ながら「東門」まで戻る。「東門」を潜り再び「富士山本宮浅間大社」の「本殿」を見上げた。こちらもネットソフトで切り絵にして見ました。「桜」の巨木・「信玄桜」の周囲にあった「絵馬掛所」。1568年より駿河へ侵攻し今川氏を滅亡へと追いやった、甲斐の武田信玄がお手植えしたとされる枝垂れ桜の2代目とのこと。絵馬掛所は、願いや目標が書かれた絵馬でぎっしりと!駿河湾の波、富士山、太陽がデザインされた絵馬。今年「令和癸卯歳(みずのとうどし)の宝船」の絵馬。そして御朱印を頂きました。御朱印と一緒に頂きました。「世界文化遺産 富士山本宮浅間大社主祭神 木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと・浅間大神(あさまのおおかみ))相殿神 大山祇神(おおやまづみのかみ)・瓊々杵尊(ににぎのみこと)創祀 紀元前二七年富士の荒ぶる山霊(噴火)を鎮める為、浅間大神を富士山麓にお祀りした。大祭 例祭 十一月四日 流鏑馬祭 五月五日富士登山 当社の境内地である富士山(八合目以上)は、夏期の間(七・八月)開山となり、 約三〇万人の登拝者で賑わう。 頂上には、奥宮並びに末社久須志神社が鎖座している。湧玉池 富士の湧水 国指定特別天然記念物 平成の名水百選」境内から見て「楼門」の左側にあった建物には「筆文字」が掲げられていた。「桜爛漫 望月飛秀」。「混混原泉湧玉池 佐野宮峰」。「苑石湖の詩 後藤里果」。「富士爛漫」。「富士爛漫」 兵庫県三田市 三谷祐資富士山の神様は木花之開耶姫の神様であり、又、桜を象徴する所から、神様のお姿を拝しながら、富士山を中心に桜花で飾る構図が浮かんだ。派手にならず大和的な良さも残しながら、右に山桜左に染井吉野、出来るたけ桜花で飾りたい。しかも富士山を邪魔しない。そして何よりも宇宙にまで抜けるような空の青さが欲しかった。ズームして。再び「富士山本宮浅間大社」の「拝殿」、「本殿」を見る。楼門前の流鏑馬の行われる「桜の馬場」では5月5日(金・祝)に行われる「流鏑馬まつり」の準備が行われていた。馬の走る馬場用の仕切りの柱の台座部分なのであろう。今年の「流鏑馬祭り」をネットから。ロープの張られた柱の台座が地下に設置されているのであろう。「楼門」を振り返る。「楼門」の左側にあった「授与所・祈祷殿」。「授与所・祈祷殿」の先にあった石碑群。一番右の石碑には「皇太子手植櫻樹碑」と。「富士山 第三十回登頂記念碑富士山と琵琶湖は 一夜の故事にちなみ世界平和 国土安全を願い毎年登頂 本年五十年目を迎え ここに記念碑を建立する。平成十八年七月吉日富士と琵琶湖を結ぶ会滋賀県近江八幡市」歌碑「思えば千と二百年唄 渡辺通久作詞作曲 後藤良夫編曲 高岡利光一、君と歩いた参道は 木漏れ日のゆれる 石田川 浅間の宮は 天高く 思えば千と二百年 歴史を伝ふ 桜の門ニ、祭囃子か 締め太鼓 あれは若衆の 心意気 水の流れも そのままに 思えば千と二百年 歴史を浮かべる 神田川三、社の向こうに 富士の山 千故の雪を 頂いて 湧玉池に 湧くと聞く 歴史を奏でる 笙の笛」薄いピンクの花の石楠花。丘の上には様々な忠魂碑が。「慰忠」碑。「忠魂毅魄」碑。「毅魄」とは「英霊」のことと。「明治三十七八季戦役 彰忠碑伯爵 西園寺公望 書」多くの人名が刻まれた大きな石碑。「鳥居建設境内整備寄附者芳名昭和四十四年十一月吉日」碑。入口には「忠魂碑」と刻まれた扁額を掲げた石鳥居があった。「楼門」の手前には鯉のぼりが(右)。「楼門」の手前には日の丸が(左)。「三之鳥居」、「ニ之鳥居」を見ながら引き返す。そして「大社通り」を渡った場所にあった「お宮横丁」を訪ねた。「お宮横丁」は「富士山本宮浅間大社」の門前にある屋外フードコート。昼食に名物「富士宮やきそば」を楽しむことにする。店の名は「むすび屋」。「むすび屋」のご主人。ソース味の「富士宮やきそば」を楽しんだのであった。ソース味も塩味も食べたい人のために、お得なハーフ&ハーフもあった。天むすやいなりずしなどもあるので、あわせてどうぞ。噛み応えのあるコシの強い麺と、肉かすやイワシの削り粉を入れた味付けで美味であった。そして駐車場まで戻る。正面、鳥居のそばの巨大な社号標石の隣りにあったのが「富士山大金剛杖」。「富士山大金剛杖」碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.13
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「富士山本宮浅間大社」の散策を続ける。藤棚の奥にあったのが「富士山御霊水 水屋神社」。紫の藤の花を追う。「富士」と「藤」のコラボ。見事な紫の花房が1m以上に。その横には「湧玉池」。平安期には歌人平兼盛がつかうべきかずにをとらん浅間なる御手洗川のそこにわく玉」と詠じた。かつて富士の登山者はこの湧き水で身を清め、六根清浄を唱えながら登山する習わしがあったという。藤棚の下へ。藤の花を振り袖姿の女性に例えている俳句があるなど、その姿や色合いから、上品な印象を与える花。昔は藤を女性、松を男性にたとえていたと。日本には2種類のフジが自生し、本州を中心に「ノダフジ」が、近畿地方より西には「ヤマフジ」が自生している。「ノダフジ」のつるは右巻き、「ヤマフジ」のつるは左巻きと、つるの巻き方向で見分けられるとのネット情報。「水屋神社」の社殿。末社水屋神社祭神 御井神(みいのかみ) 木俣神(きまたのかみ)とも言い日本神話の中で、大穴牟遅神(おおあなむじのかみ)が 因幡の八上比売(やかみひめ)に生ませた神。 八上比売は大穴牟遅神の最初の妻で あったが、須勢理毘売(すせりびめ)を正妻に迎えたため、これを恐れ、子を木の俣に 刺し挟んで実家に帰ってしまった。そのため、その子を名づけて御井神という。 鳴雷神(なるいかづちのかみ) 鳴雷(なるいかづち)は伊邪那美神(いざなみのかみ)が死んだために、伊邪那岐神 (いざなぎのかみ)が黄泉の国へ追いかけていくと、すでに蛆が湧き、腐っている体に 発生した「雷神」の1柱。 雷神は雷の後に雨が降ることから水神。また日本人は雷が鳴ることで、稲が妊娠すると 考えていたので、雷神は農業神。その雷神が死体の体に発生するのは、もともと死体を 農業に利用していたからか、雷神に「神罰・祟り」の性質があるのだと。例祭 一月四日「この御霊水は、霊峰富士の御神体に滲み込んた天水がながい年月を経て湧き出している神水です。どうぞ、水徳の神、浅間大神のお恵みを御神徳としていただいて下さい。御霊水のいただき方お気持ちをお供えの上、ニ礼ニ拍手一礼の後、感謝・祈念し手水鉢よりお汲み下さい。この御霊水は古来神様にお供えし、私共も日常の飲料としておりますが、あくまても天水ですのでお気にになさる方は沸かしてお使い下さい。」再び香り豊かな藤棚を追う。「甘く爽やかなジャスミンに似た芳香」か?そして竹でできたパイプから「御霊水」が。古くから、富士山登山者はこの霊水で禊(みそぎ:水浴して身体を清める宗教儀礼)をする習わしがあったのだと。藤棚の下には「竹枝穂垣」の如き生垣が。竹の葉を落とし、竹穂や枝の穂先を上に向けて並べて垣面とした生垣。湧水の池と藤棚のコラボ。「水屋神社」の奥、北側にあった「天神社」。「末社 天神社祭神 菅原道眞公例祭 四月四日」「天神社」社殿に近づいて。藤の花にも近づいて。さらに甘い香りに囲まれて。これも「マガモ」!? 写真では頭が緑ではなく黒く見えるが光の加減か。シベリアから我が国に冬鳥として渡ってくるカモ類のなかでマガモが一番多いのだと。富士山からの湧水の白き流れ。「湧玉池」の底からも湧き上がっているようであった。1944年11月に国の天然記念物に、1952年3月には狩宿の下馬桜とともに静岡県で2件しかない国の特別天然記念物に指定され、2008年6月には環境省か新たに選定した『平成の名水百選』にも選ばれている。毎日約20万トンもの富士山の雪解け水が、石の合間から湧き出ていて、1年間ほとんど増減がなく、水温も年間を通して13℃前後で一定となっているとのこと。「湧玉池」の岸を歩き、廻り込んで「藤棚」を振り返る。ズームして。この時は「湧玉池」に入って池を清掃する作業員の姿が。池底にある賽銭を回収していたのであろうか?今でも流れの音が聞こえて来るのであった。そしてここにも「稲荷神社」があった。「末社 稻荷神社祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) 猿田彦神(さるたひこかみ) 大宮姫神(おおみやひめのかみ)例祭 ニ月初午」朱塗の橋は「神路橋」。「神路橋」を渡るとその先にあったのが「川中島」に鎮座する「嚴島神社」。ここにも紫の藤の花が。「嚴島神社」。「末社 嚴島神社祭神 市枡島姫神(いちきしまひめのかみ)例祭 六月十七日」「嚴島神社」の社殿。「湧玉池」の中の島に古くから祀られている社で、霊験あらたかな事で知られている と。ここでも藤の花に近づいて。さらに。藤の幹がこの藤の歴史を感じさせるのであった。あくまでも透き通った水を湛える「湧玉池」。水面には新緑が映り込みこれぞ絶景!!そして「嚴島神社」の朱の鳥居の前から「湧玉池」越しに「東鳥居」方向を見る。池の中には7~8人ほどの作業員の姿が。紅葉シーズンも美しいのであろう。「稻荷神社」を再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.12
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正面に「富士山本宮浅間大社」の「楼門」。世界遺産「富士山‐信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産のこの「富士山本宮浅間大社」。徳川家康造営の社殿が残されているがこの「楼門」もそのひとつ。2階建て入母屋造り(いりもやづくり)で、正面と両脇に扉が付いていた。間口4間、奥行2間半、高さ6間半2階入母屋造。さらに楼門の左右には慶長19年(1614年)造立の随身が安置されていたのであった。この楼門は、1604年(慶長9年)に、拝殿・舞殿・本殿とともに徳川家康によって造営された建築物(県文化財)。建立後、安永4年(1707年)の大地震では駿府城は3分の1が倒壊、安政元年(1854年)の大地震ではほぼ壊滅という状態であったが、ここ「富士山本宮浅間大社」では楼門、拝殿、本殿などが倒壊を免れているのだと。「楼門」の奥に「拝殿」が見えた。ネットソフトで「切り絵」にして見ました。こちらも設定を変えて。「楼門」に掲げられている「冨士山本宮」の扁額は、1819年(文政2年)、聖護院入道盈仁親王(えいにんしんのう)の筆によるものとのこと。手前左側には大きな「手水舎」が。「楼門」の右側にあった「絵馬」。萬邦共和(ばんぽうきょうわ)天皇陛下御製「世界との往き来難(がた)かる世はつづき窓開く日を偏(ひとへ)に願ふ」令和4年(2022年)歌会始御製御歌で「天皇陛下におかれましては、昨年に引き続き新型コロナウイルス感染症の感染拡大の収束を願うお気持ちを歌に詠まれました。昨年は、人々の願いと、人々がこの試練を乗り越えようとする努力が実を結び、感染症が収束していくことを願われるお気持ちをお詠みになりました。」一陽来復皇后陛下御歌「新しき住まひとなれる吹上の窓から望む大樹のみどり」「天皇皇后両陛下並びに愛子内親王殿下ご一家には、昨年の九月、それまで長くお住まいになりました赤坂御所から、上皇上皇后両陛下が一昨年まで長年お住まいになりました吹上御所に御移居になりました。この御歌は、吹上御所に新たに御移居をされた皇后陛下が、上皇上皇后両陛下への感謝のお気持ちを新たになさりながら、大きな木々の緑深い御所からの眺めをお詠みになったものです。」と。「楼門」を見上げて。楼門の左右には「随身」が安置してあり背銘に慶長19年(1614)の年号があると。随身は「随臣」とも書き、昔、上皇・関白を賜わった貴人が外出するときに、剣を帯び、弓矢を持って供奉する右近衛、左近衛の舎人(とねり:警備や雑用などに従事していた者。その役職のこと)と言われています。隙間から随身(正面右)・左大臣を。正面から。こちらもネットソフトで「切り絵」にしてみました。随身(正面左)・右大臣。正面から。こちらも。そして正面に「富士山本宮浅間大社」の本宮社殿の「拝殿」後ろに「本殿」、左「三之宮」、右「七之宮」。慶長9年(1604)徳川家康が奉賽のために造営したもので、本殿・拝殿・舞殿・楼門等壮観を極めたものであったが、寛永安政等の大地震で破壊したものもあり、当時の建物で現存するのは本殿・幣殿・拝殿・楼門のみ と。「社務所」。「御祈祷受付」、「おみくじ売り場」、「御札 御守授与所」があった。大きな「灯籠」(右)。上部をズームして。「信玄桜」の周囲は「おみくじむすび所」。「富士山本宮浅間大社」案内図。「本殿」。二重の楼閣造で棟高45尺、浅間造りと称し其の構造は他に例がないと。1階は5間4面葺卸の宝殿造り、2階は間口3間奥行2間の流れ造りで共に桧皮葺。明治40年5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に指定され以後国宝又は重要文化財として特別の保護を受けている。祭神が木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)であることから桜が御神木。境内には500本もの桜が植えられ、楼門前の道は「桜の馬場」と呼ばれている。5月(4~6日)には「流鏑馬祭」が催される。「拝殿」の左側奥に鎮座する摂社「三之宮浅間神社」。「三之宮浅間神社」。江戸時代には境内・境外に摂社19社、末社15社と多くの摂末社を抱えていた浅間大社だが、安政大地震により大破し内陣に合祀されたり明治以降の統廃合により、現在は境内に摂社2社・末社4社を抱える神社となっている と。御祭神は浅間第三御子神。「駿河国神名帳」に列する正三位浅間第三御子明神と考えられ、江戸期までは三之宮と称されていた。三之宮浅間神社の左隣にある注連縄の張られた盛砂は「富士山 浄砂(きよめずな)」。この砂は敷地の隅に撒いて清めたりする「お砂取り」に使われるもので、富士山奥宮の清浄な土地の砂をお守りとしたり、家の敷地を清める為に撒いて使用する。授与所に申し出れば一握りほどいただけるのだ と。「拝殿」内陣には巫女さんの姿が。内陣では祈祷が行われていた。「拝殿」前より「楼門」を振り返る。再び「拝殿」を正面から。幣殿・拝殿は本殿と同じく徳川家康公の寄造営によるもので、屋根は本殿と同様檜皮葺、外側・内側は丹塗となっているが、極彩色は蟇股・虹梁彫刻などにとどまる。 幣殿は、本殿と拝殿をつなぐ「作合」と呼ばれた部分で、間口5間・奥行3間の両下造、北面には本殿の屋根の端が露出している。元は石畳であったが、現在は床に改められている。 拝殿は、間口5間、奥行5間で、床が幣殿より2段高くなっている。正面が入母屋造、背面が切妻造で、正面に向拝が1間出ている。正面に扉があり、左右は蔀戸によって区切られている。正面左右には濡縁を巡らせてある。巨大な注連縄飾り。色彩豊かな龍の彫刻。「木鼻」(右)。「木鼻」(左)。扁額「浅間神社」。蟇股(かえるまた)の彫刻。祈願絵馬掛所 。左に「名称 火山弾」、右に「南極の石」。「南極の石この石は、南極奥地より氷河に乗り幾億年もの歳月を経て流出し、地吹雪により風化したもので、第七次南極観測船ふじの乗組員により採取されました。富士浅間大神の、御神霊を奉斎して、昭和基地に赴いた砕氷艦、ふじ、の乗組員赤池 稔氏の(富士宮市出身)奉納であります。 富士山本宮 浅間大社」南極の石「名称 火山弾 目方約三十貫 (約百キロ)これは富士山噴火の時に、地中の岩漿が火熱のために溶けて空中に吹き上げられ落下した際に、酸化して冷却したものです。この様に形が整って大きなものは、珍しいといわれています。」火山弾「水屋神社」案内板。「国特別天然記念物湧玉池(冨士山の湧水)」案内板。御朱印場所の案内も。湧玉池への入口の「東門」。「古神札納書」。東門を出ると、明治廿年七月七日 富士山本宮と刻まれた「霊水鉢」。「文化財愛護 重要文化財 富士山本宮浅間大社 本殿 慶長9年(1604)」。再び「本殿」を東門(東脇門)を出て。ズームして。二重の楼閣造で棟高45尺、浅間造りと称し其の構造は他に例がない。1階は5間4面葺卸の宝殿造り、2階は間口3間奥行2間の流れ造りで共に桧皮葺。明治40年5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に指定され以後国宝又は重要文化財として特別の保護を受けている。「咲良(さくら)みくじ」近づいて。人気上昇中の水みくじ「咲良みくじ」は結ぶと富士山の形になる と。そして左側前方に現れたのが「湧玉池」。「国指定特別天然記念物湧玉池この池は霊峰富士の雪解けの水が溶岩の間から湧き出るもので水温は摂氏十三度、湧水量は一秒間にニ.四キロリットル、年中殆んど増減がありません。昔から富士道者はこの池で身を清めて六根清浄を唱えながら登山するならわしになっております。つかふべき数にをとらむ浅間なる御手洗川のそこにわくたま 平兼盛」水面にはオスの「マガモ」が。オスは黄色のくちばし、緑色の頭、白い首輪、灰白色と黒褐色の胴体とあざやかな体色をしているのであった。浅間神社は富士山をご神体として、小高い丘の上から霊峰・富士を遥拝する信仰から生まれた。どうして浅間神社と呼ばれるようになったのかは、諸説、伝えられている。どの説も古くは「浅間」を「せんげん」ではなく、「あさま」と読んだことに由来があるようである。たとえば伊勢の朝熊社の社名が元とするもの。あるいは、早朝の富士宮のこの湧玉池の水面から霧が立ち上り、朝雲(あさぐも)と名づけたものが転じたとするものなどがある。その中でも有力視されているのは、「祠林采葉抄(しりんさいようしょう)」に残されている「富士の権現は、信濃の国の浅間大神と一体両座・・・両者ともに浅間大菩薩と申す故なり」の記述。そして「あさま」の意は、マライ語のアサ(煙)からきているのではないか、とする説。この「あさま」=「浅間」を、「せんげん」と音読みするようになり、現在に至っている とネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.11
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「富士芝桜まつり」会場を後にして、次の目的地の「富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)」に向かって国道139号を南に向かって進む。山梨県と静岡県の県境手前・富士五湖から朝霧高原へ抜ける道の左にあった銅像。裸婦像にしては身体が細く天使の像であったようだ。台座の柱には「WELCOME TO FUJIGOKO」と。実はこのモニュメントは9体存在しているとのことで、何処にあるのか探してみるのも面白いかと。そして「道の駅 朝霧高原 500m」案内板の先の、富士山の絶景撮影ポイントで停車し写真撮影。静岡県富士宮市からの富士山の絶景をズームして。旅友が記念撮影して下さいました。更に富士山を見ながら進む。トイレ休憩に「道の駅 朝霧高原」に立ち寄る。「道の駅 朝霧高原」駐車場からの富士山。富士山のいちばんの魅力はその形の美しさ。富士山のような「円錐形の美しい山」👈リンク は実は世界にたくさんあるが、この日本の富士山のように裾野まできれいに広がっている円錐形の山は珍しいのである。ここ朝霧高原からの富士山は、●裾野に凹凸の無い●稜線がほぼ左右対称。●山頂がほぼ水平で、●山頂の交点に「角(つの)」が見える場所なのであった。いわゆる画に描いたような富士山を眺望できるのであった。「道の駅 朝霧高原」のサイロを模した「時計塔」。時間は9:35。「売店・特産品展示販売コーナー」から外に出る。この先に「あさぎりフードパーク」があるようだ。再び富士山の勇姿を追う。「時計塔」越しに。そして富士宮市街に入り、国道139号の「万野原新田(まのはらしんでん)」交差点を通過。そして「登山道入口」交差点を右折し、ナビに従い進むと「富士山本宮浅間神社」に到着。時間は10:20。静岡県富士宮市宮町1−1。ここ駿河国一宮『富士山本宮浅間大社』は、全国1300社の浅間神社の総本宮で「富士山本宮センゲン大社」と呼ばれているが、例外として山梨県笛吹市の甲斐一宮『浅間神社』は「アサマ神社」と呼ばれている。同じく山梨県には「河口湖浅間神社」(富士河口湖町)「一宮浅間神社」(市川大門町)の三か所が「アサマ神社」と呼ばれているのだ。浅間山は「あさま」と呼ぶのに、富士山の浅間神社はなぜ「せんげん」神社と言うのであろうか? その疑問には、まず「あさま」の語源を調べてみると良いと。語源には色々な説があるが、寺田寅彦博士の説が面白のだと。曰く:《「古語でアサマは火山を意味したのではないか」という。日本の火山の名称には「ア行音+サ行音(浅間、阿蘇、有珠、恐、恵山、雲仙、等)」という「音の類似」が多くある。》他には:《「アサマ」はアイヌ語で「火を吹く燃える岩」の意味から名付けられた。と言う説。》また南方説で:《マレー語では、「アサ」は煙を意味し「マ」は母を意味するので、その言葉を火山である富士山にあてたとする説。》などなど。いずれも「浅間(アサマ)」は古来「火山」を意味したようだ。それでは「アサマ」がどうして「センゲン」と呼ばれるのか? これは、“元来、浅間は「アサマ」読みだが江戸時代に「センゲン」と読みならわされたようだ。「仙元」とも書いたようで、「浅間嶺」にある浅間神社も以前は「仙元神社」とか言われていたとのこと。「センゲン」と呼び始めたのは鎌倉から江戸時代にかけて、中国文化の影響が大きく、熟語をむやみに「音読み」にしたためと言われている。山や地名だけでなく、学者や芸術家などもこぞって名前は支那くさい名をつけたからだと。静岡県道76号線・大社通り沿いにあった大きな朱の「大灯籠」(右)。「大灯籠」(左)。「富士山本宮浅間神社」案内図。そしてその先、正面に「二之鳥居」と「社号標石」。富士山を入れて。ズームして。「富士山・観光・案内処」。ポスター「2023年(令和5年度)富士宮イベント」。2023年5月4日(木)、5日(金)、6日(土)は「流鏑馬(やぶさめ)まつり」が行われると。富士山と社号標石「冨士山本宮浅間大社」。正面に巨大な「ニ之鳥居」。扁額「富士山本宮」。「冨士山本宮浅間大社」案内図。「ニ之鳥居」手前の左側にあったのが「ここずらよ」。「ここずらよ」とは富士宮の方言で「ここですよ」という意味とのこと。「ここ」にくれば、富士宮の特産品が「ずら」っと揃っています「よ」という意味も込められているのだと。名前の通り、店には「富士宮やきそば」、「虹鱒甘露煮」、「富士のやぶきた茶」、「あさぎり牛乳」や「地酒」など地元の特産品が勢揃いしていたのであった。「家康の浅間神社の造営」と「富士山はだれのもの?~家康と富士山~」。「家康の浅間神社の造営1604 (慶長9 )年、家康は関ヶ原の戦いての勝利を記念して、天正10年から仮殿(かりどの)のままであった社殿の造営を行いました。建物は2年後に完成、正遷宮※が行われました。浅間大社の本殿はそれまで一階建て構造てしだが、この時、現在のようにニ重の楼閣造(浅間造)になったと言われています。本殿は現在、重要文化財に指定されています。※造営などのために移動させた神様を、新しい建物に移すこと」「富士山はだれのもの?~家康と富士山~現在、富士山八合目以上は浅間大社の所有となっています。そうなったことには家康が深く関わると伝わります。江戸時代の1609 (慶長14)年、浅間大社は家康から山頂部の「散銭」(賽銭)を、修理費用として寄進されたとされ、これを足掛かりにした浅間大社は、境内地として山頂部の支配・管理権を強めました。これに対し、他の登山口もそれぞれの由緒から、富士山における権利を主張しました。その結果訴訟となり1779 (安永8)年、幕府の判決文に基づき、浅間大社にハ合目以上の支配が認められました。その後近代になって一旦は国有地となりますが、1974 (昭和49)年の最高裁判決により、浅間大社に返還されました。」一般道を渡った先に「三之鳥居」が見えた。ここにも大きな石灯籠が(左)。石灯籠(右)。さらに「三之鳥居」を目指して石畳の参道を進む。幟「家康公の遺産 FUJINOMIYA」と。2023年大河ドラマ「どうする家康」の放送をきっかけに、富士宮の新たな魅力を全国に発信するため、オリジナルロゴマークを活用したのぼり旗を作ったのだ と。「三之鳥居」の先の朱の「楼門」がだんだん大きくなって来た。「三之鳥居」。手前右手の「狛犬」。大正7年(1918)5月吉日建立。手前左手の「狛犬」。右手に「流鏑馬(やぶさめ)像」。ズームして。逆光?のため、ネットから。台座の「流鏑馬練行之図」。ネットから。「流鏑馬祭縁起社伝によれば建久四(一一九三)年五月源頼朝が富士の裾野で鎌倉武士を率いて巻狩を行ったとき、当浅間大社に参拝し、流鏑馬を奉納したのに起因すると言われる古儀である。当大社所蔵の天正五年(一五七七)の富士大宮御神事帳や、慶安三年(一六五〇)の富士本宮年中祭禮之次第にも、五月五日の条に五月会流鏑馬 と記載されている。又その当時の古文書、朱印状等によれば武田勝頼より流鏑馬料、豊臣秀吉及び徳川家光よりは御朱印の寄進があり神事祭礼として国家安寧のため誠を尽して斎行するように下知されていたことを知ることができる。現在は五月四・五・六日の三日にわたり行われ、四日が前日祭、五日が本祭、六日が後日祭になっている。五日の本祭はこの祭の中心で、拝殿で祭典を行い、ついで練行と称して神馬を中心に宮司以下神職、弓武者、槍武者、射手代官、射手、氏子代表、稚児等が市内を練り歩いた後、桜の馬場に参入して、鎌倉武士を髣髴させる絢爛豪華な神事流鏑馬式が古例によって盛大に行われる。当日は端午の節句でもあり近郷近在から二十万余の参拝者で境内は終日殷賑を極めることは昔も今も変ることがない。 平成七年五月五日」前方に「鏡池」に架かる「太鼓橋」が。「鏡池」は楼門前の池で一名眼鏡池とも。中央の「太鼓橋」は大正4年御即位記念として石造りに改められたのだと。「鏡池」(右)。中央の島には石灯籠が。「鏡池」(左)。「太鼓橋」を渡る。正面に「楼門」。「楼門」前のこの道「桜の馬場」で今年も5/4~6に「流鏑馬」が行われるとのこと。奥には朱の「東鳥居」が見えた。「楼門」前に置かれていた巨石。「鉾立石その昔四月・十一月両度の大祭礼に山宮へ御神幸の際、鉾(ほこ)を立てた石です。」かつて山宮浅間神社(浅間大社の元宮)と浅間大社の間で『山宮御神幸(やまみやごしんこう)』として御鉾の渡御も行なわれた際に、鉾を立てた石とのこと。(山宮浅間神社にも残る)。『山宮御神幸』では、神様が宿る 「鉾」を左肩に載せたまま、途中肩を替えることなく、浅間大社から山宮浅間神社まで歩くのだと。 鉾立石は、今でもここ浅間大社楼門前に1つと山宮浅間神社の参道に2つ残っているとのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.10
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この日は4月24日(月)、テレビの各局で「富士芝桜まつり」の開催、そして満開になっているとの報道が。いつもの旅友を誘い、旅友の新車で行くことに。天気予報からこの週の前半が良さそうなので月曜日のこの日を決断。茅ヶ崎の旅友の自宅まで我が愛車で、そして旅友の新車に乗り換えて5:30に出発。「寒川南IC」から「圏央道」を利用して「八王子JCT」に向かう。時間は5:44過ぎ。この日の日の出時間は5:00であったが厚木市内からの東の空は、雲に覆われていた。「圏央厚木IC」手前を通過。高尾山IC先の「高尾山トンネル」が前方に。そして「八王子JCT」から「中央自動車道」へ。「相模湖東IC」手前を通過。「相模湖東IC」。「JR相模湖駅」近くの右カーブ。標高599mの「高尾山」を見る。左手に富士山の勇姿が。「大月JCT」から「河口湖線・富士吉田線」を進む。右手前方に見えて来たのが「山梨県立リニア見学センター」。「山梨リニア実験線」下を通過。国土交通大臣より工事実施計画の認可を受けた品川・名古屋間は2027年開業を目指して工事を進め、その後、大阪まで実現することとなっているとのことであるが・・・?。時間は6:23。「山梨リニア実験線」下を通過後の右カーブから再び富士山の勇姿が現れた。ズームして。富士山の勇姿をカメラで追いかける。富士山の斜面にジグザグの「吉田ルート下山道」が見えた。前方に「富士急ハイランド」のジェットコースター・「高飛車」が姿を現した。そして富士山の姿も。再びジェットコースター・「高飛車」。■コース全長:1004m■最大落下角度:121度■最高速度:100km / h■最大加速度:4.4G■所要時間:2分50秒■高さ:43m「河口湖IC」手前を通過。再びジェットコースター「高飛車」T富士山を。「河口湖IC」にて降りる。「河口湖料金所」の後方に巨大な富士山の勇姿が。「国道139号・横町バイパス」を進む。前方に標高1641mの「釈迦ヶ岳」の姿が。左手に富士山と白き建物が姿を現した。「ほうとう不動 東恋路店」。富士山にかかる雲が、ふわりと降りてきたような、白を基調ににしたシンプルモダンな建物。「東恋路」交差点を通過し富士山を左に見る。「西湖」方向交差点手前を通過。「富岳風穴」方向への交差点には「富士芝桜まつり会場 10.9km先」と。「青木ヶ原樹海」表示板下を通過。「精進湖」方面交差点手前を通過。この周辺は新緑が始まったばかりであった。そして「本栖湖」方面交差点手前を通過。そして「富士芝桜まつり」会場に到着し、Uターンして既に到着している車の最後尾に。時間は7:10過ぎ。 ・・・つづく・・・
2023.05.05
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鯖神社 「社殿」。扁額「鯖神社」。軒唐破風。内陣。「稲荷社」創建年不詳講が行われている。現小祠は平成9年再建。お稲荷さん(右)。「お稲荷さん(左)」「荒神様」。元禄5年9月井上氏・石井氏造立「コウジンヤマ」より移動現小祠は平成9年再建。「荒神様像」。「本殿」を斜めから。この記念樹の名は?「第六十一回 平成二十二年五月二十三日 全国植樹祭記念樹」小さな「五輪塔」。反対側にも小さな「五輪塔」。「本殿」の屋根。ズームして。奉納された「絵馬」が3枚。「耳を澄ましてよ~く聞こう」。「耳を澄ましてよ~く聞こう」。「耳を澄ましてジックリ聞こう」。「奉納絵馬ビッグ錠(佃 龍二)作」参道を振り返る。「遊水池この施設は、遊水池です。大雨のとき、雨水を一時溜めて、河川へ少しずつ流し河川の氾濫や洪水を防ぐ、大切な役目をしています。」「今田鯖神社」の境内下が遊水池となっているとのこと。境川の守り神である「今田鯖神社」の前に立っていたのが「今田管理センター」。「今田管理センター」の玄関。藤沢市と横浜市戸塚、泉両区にまたがる県立境川遊水地公園内の「今田遊水地」を管理。同センターは、延べ床面積250・77平方メートルの平屋建て。休憩スペースのほか、環境学習などの場となる学習室も完備。遊水地周辺で見られるカワセミやカワウ、ギンブナ、セイタカアワダチソウなどさまざまな動植物を写真パネルで紹介している。また、今田管理センターには、学習室のほか、大雨で河川が増水した際、下流域での洪水被害軽減のため水量を監視、調整する管理事務所も併設されている。「今田遊水地」カーブの高架橋は手前が「横浜市営地下鉄ブルーライン」とその奥に「相鉄いずみの線」。様々な催しの案内ポスター。「今田管理センター ご案内」。以前訪ねた大和市の「左馬神社」にあった説明書きを再度アップしておきます。「特集 左馬神社(さばじんじゃ) ~境川流域に密集するサバ神社について考える~はじめに南大和病院のすぐ側の雑木林の中に『※1左馬神社』という古びた神社があります。この"サバ”という名に珍しさを感じ、調べてみると、大和市、藤沢市、横浜市の瀬谷区・泉区に「左馬」「左婆」「左波」「鯖」と"サバ”という名付け十一社、引地川に一社、計十ニ社密集していることが知られています。祭神は鎌倉幕府を開いた源頼朝とNHK大河ドラマの主役となる源義経の父※2源義朝であり、この義朝を祭神としている神社は全国的に観ても珍しいのだといわれています。更に、近年までそのサバ神社を七社巡る「七サバ参り」という信仰もあったそうです。.今回、この珍しい神社について、サバの名称「左馬」「鯖」、祭神の義朝、七サバ参り、そして、なぜ「サバ」なのか調べようと思います※1左馬神社・・・寛文十年(一六七〇)十ニ月建立。※2源義朝(一一ニ三~六〇)平安末期の武将。詳しくは「1左馬と源義朝」参照。1 左馬と源義朝 源義朝は平安時代末期に起こった※3保元の乱での活躍で「※4左馬頭」となりました。やがて平清盛の出世に不満を抱き※5平治の乱を起こし、敗れます。この時生き残った従者の平賀四郎、鎌田正清、金王丸の三名と※6尾張国知多郡の鎌田正清の義理の父である長田忠致を頼りましたが、忠致の裏切りにあい、金王丸を除いて殺されてしまいました。生き残った金王丸はこの主人を弔うため出家し、土佐坊昌俊となりました。この金王丸(土佐坊昌俊)の兄というのが渋谷重国で、いまの川崎から綾瀬付近、現在の高座渋谷一帯を治めていたといわれています。もちろん、その領域は、サバ神社の建てられた場所も含まれており、この地域は渋谷氏が治めていたことにより、義朝を弔う土壌があったと思われます。更に「極めつけに江戸時代初頭に領主としてこの地域の住民の仇とも言えるあの長田忠致の末裔である長田忠勝、白政兄弟が治めることになります。恐らく、この地域の住民に反感情があったものと思われます。それにより、義朝の役職の「左馬」を用いて「左馬神社」と名付げたのではないでしようか。そして祭神として源義朝を祀ったのではないかと思われます。ただ「左馬」という名称を用いる前の「サバ神社」は大半「鯖」と名付けられた社名が多かったようです。この「鯖」は一体どういうことでしょうか。※3保元の乱・・・保元元年(一一五六)後白河天皇が藤原通憲(信西)を参謀とし平清盛・源義朝を 使って崇徳上皇を破った戦い。※4左馬頭 ・・・平安時代の律令制で諸国の牧場の管理していた役職の長。※5平治の乱・・・平時元年(一一五九)後白河上皇のもと権力を握った信西を藤原信頼と源義朝が 殺し、その後平清盛が両者を滅ほした戦い※6尾張国 ・・・現在の愛知県。2 「鯖」の字について病院の裏手の「左馬神社」もかっては「鯖明神」でありました。境内の古い石燈に「鯖明神社」と刻まれており『※7新編相模国風土記稿』においてこの左馬神社はもちろんのこと、大半は「鯖明神社」と記録されています。この地域で魚の鯖が多く水揚げされるようになったのは昭和の時代に入ってからだと聞いています。マユツバと思いますが、この付近の伝承に「大雨による洪水が発生した後、水が引いて、木に鯖がたくさん引っ掛かっていた」から祀ったといわれています。一説には、初穂の魚を神仏に備える全国的な風習に鯖を用いていたからだとも言われております。サバ神社とは異なる鯖稲荷を紹介してみます。この稲荷は、東京・日比谷神社で別名「鯖稲荷」であり、ご利益は虫歯封じといわれております。虫歯封じとサバにどのような繋がりがあるのかけんとうもつきません。江戸時代の「※8本草書」といういわゆる民間療法の書籍に鯖の"薬効”が書かれています。それによると整陽作用があるそうです。はたして効果はあるのでしようか、謎です。ともかく「鯖」の字が恐らく痛みに対して何らかの効果があったようです。しかしなぜ「鯖」なのか?「あて字」という説には持って行きたくはなかったのですが結局のところ何も見出せませんでした。では「サバ」とは一体何なのでしようか。※7新編相模国風土記稿・・・天保十二年(一八四一)に成立した地詩。林述斎が編集。※8本草学・・・本草とは、薬になる草を意味しており、古代よりそのような研究のため、 書籍が作られていた。初めて何かを食べて効果を見出した人ってすごいと思う。3 では「サバ」とは魚の「サバ」の説はともかく、このサバ神社の「サバ」について様々な考察が行なわれていました。まず、境川が神聖な信仰の境界であったという説です。猟師言葉に「サバワケ」という言葉があります。これは獲物を均等に分ける」という意味で、この「サバ」は境をつける意味合いであったそうで、東側は※9庚申信仰、西は※道祖神信仰の境界とし、両岸に沿って社を建てたとする説です。この説は境川に関してはこの説は通用しますが、その他河川にはあてはまりません。もう一つは、農耕との関係から、「サワ」っまり沢もしくは田の神であったのではないかという説です。東南アジアの言語では水田のことを「サワ」「サバ」と呼んでおり、水に関連するのは確かなようです。歩いて回ってみると、大体のサバ神社は川を見下ろす高台に位置し、その下に水田や現在の住宅地が拡がっていました。沢の神だけで見てみますと、高台に位置し、神社が河川を見下ろすという配置は、水害を恐れていたことに繋がるかもしれません。それに加えて、サバ神社十ニ社中、六社に「稲荷社」、ニ社に「宇迦之魂神」が祀られ、双方とも農耕神であり、田の神です。恐らく、沢の神と田の神として、サバの神は存在していたのではないかという結論に到りました。※9庚申信仰・・・庚申の日に帝釈天・青面金剛・猿田彦などを祭る。 見ざる・聴かざる・言わざるの「三猿」で有名。※10道祖神信仰・・・民間信仰のひとつ。道端に祭られ、五穀豊穣・子孫繁栄を祈った。 男女の神様が仲睦ましく寄り添う姿がかわいい4 七サバ参り今日確認できるサバ神社で「七サバ参り」伝承が残されているのは、このルートです。①境川左岸~和泉川沿いに下ったルート 上和田~瀬谷~上飯田~神田~中の宮~下飯田~鍋屋②境川沿いに両岸を下るルート 瀬谷~上和田~下和田~上飯由~高倉~下飯田~今田このルート以外にも石川(引地川沿い)のサバ神社を含む場合も伝えられているので、自分の出発地点よリ一日工程で巡ることが出来る神社を選び、お詣りしていたように思われます。実際②のルートを歩きましたが、約三時間ニ〇分で踏破できました。しかし明治・大正時代に盛んであった頃に比べ、道路事情の事を考えれば五時間ほど掛ったのではないかと思われます。「七サバ参り」は明治時代の日清・日露戦争に対する先勝祈願や子供が疱瘡・百日咳、はしかなどの流行病にかからないように子供を背負ってお参りしていたそうです。現在は、この七サバ参りも衰退していますが、天明年間(一七八一~八九)に盛んになった"七福神参り”の影響を受け、幕末以降に行なわれるようになったようです。新年あたりに”七サバウォーク”でも皆さんしてみてはいかがでしょうか。おわりに境川流に密集するサバ神社。郷土史の研究者にも注目されている神社でありました。ます、水の神と田の神が合わさり、鯖の字を当て、そして源義朝を祀み事となり、ご利益を求めて七社のサバ参りを行なうようになったのだろうと思います。今年の初詣も鯖神社に"さくらぷらざ”の利用者様を連れて、健康を祈願したいと思います。(文責桜井)みなみやまと平成17年1月25日の記事を再録したものです。」 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.05.04
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この日は4月25日(火)、仕事で南アルプス市に車で行った帰りに「今田鯖神社」に立ち寄った。先日の【藤沢地名の会 地名探索】小栗伝説の残る六会を巡る をブログアップした際に全ての鯖神社関連を訪ね終わっているつもりであったが、この「今田鯖神社」が漏れていた事に気が付いたのであった。 小田急電鉄江ノ島線の湘南台駅(相鉄・横浜市営地下鉄)から東へ700mのところにあった。 境川からは西へ250mほどであろうか。「石鳥居」明神鳥居昭和35年8月杉山氏奉納。扁額「鯖神社」。石鳥居を潜って進む。今田鯖神社掲示板平成17年9月新設。「鯖神社の境内」案内。「古(いにしえ)を今に伝える鯖神社」。 年代 西暦 事項元禄 5年(1692) 9月 村人らにより荒神像造立〈銘文〉元禄15年(1702) 9月 井上瀬兵衛により「鯖大明神」創建(棟札)亨保 5年(1720) 2月15日 村中により鎮守として拝殿を建立(棟札)寛政11年(1799) 秋 片瀬の諏訪山玉蔵院により護摩供養が行われる(棟札)文政 9年(1826) 社殿の再建(『高座郡神社略記』)天保15年(1844) 12月 拝殿の再建(棟札)・天照皇太神宮両屋の再建(棟札)嘉永 4年(1851) 4月 氏子中より燈籠一対奉納〈銘文〉嘉永 5年(1852) 1月 玉蔵院を施主とし、木造の御神体を奉納〈神像台座銘〉・玉蔵院により 永代護摩供養が行われる〈棟札〉明治 2年(1869) 9月 片瀬神主により郷内安全の祈祷が行われる〈棟礼〉明治 6年(1873) 村社に列せらる〈『高座郡神社略記』〉大正 8年(1919) 10月 神楽殿の建設〈碑文〉昭和 8年(1933) 4月 社殿の再建、14日上棟式〈碑文・古写真〉昭和35年(1960) 8月 鳥居奉納〈銘文〉昭和50年(1975) 10月1日 子供神輿(大)奉納(古写真〉この頃今田囃子が復活昭和59年(1984) 5月 今田鯖神社氏子の会(現保存会)設立 この頃拝殿でボヤ、火災保検に加入平成 7年(1995) 8月11日 不審火により社殿焼夫 9月30日 境内周辺樹木伐採平成 8年(1995) 8月~ 擁壁工事(翌年1月完成)平成 9年(1996) 1月24日 起工式、3月30日上棟式 9月 再建記念碑建立、石碑類整備、 玉垣設置、荒神・稲荷の小祠再建 10月2日 遷座式、3日 遷宮奉祝祭平成13年(2001) 3月1日 放火により再度社殿焼失、御神体焼損平成14年(2002) 2月13日 起工式、3月6日 上棟式 5月 新たに御神体を鋳造 6月8日 遷座式、9日 遷宮奉祝祭平成15年(2003) 6月 境内に上下水道・遊水池を設置 7月 社務所の改築平成17年(2005) 3月 参道整備平成18年(2006) 3月12日 旧御神体を本殿に安置 10月1日 鯖神社再建之碑の建立 〈 〉 は出典「玉蔵院ってなんでしょう?鰯神社に残された棟札には、「諏訪山玉蔵院」という名前が記され、護摩供養などを行っていたことがわかります。でも、この名の寺は今田にはありません。「新編相模国風上記稿」という書物によると、境川を下っていった片瀬の上下訪神社の別当寺が玉蔵院で、宗派は修験でした。今田に残された古文書からは、江戸時代にはお正月に玉蔵院へご祝儀を出していることもわかりました。その後、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、交流が途絶えたのでしよう。しかし、そもそもどういういわれで神社と関わるようになったのかは謎のままです。皆さん、この謎を解いてみませんか。」「鯖神社再建之碑二度の再建への努力を讃え 鯖神社及び氏子の繁栄を祈り ここに記念碑を建立する今田鯖神社は氏子中の尽力により元禄十五年の創建から数度の社殿の再建を経て今日に到っている。平成七年八月十一日の放火により、昭和八年建立の社殿は失われたが、氏子中は再建委員会を組織し 復興工事を完成させ、平成九年三月には遷宮奉祝祭を執り行った。同十三年三月一日再度不審火により新築の社殿は御神体と共に灰燼と帰したが、氏子中の再建への強い志は途切れることなく、同十四年六月には新社殿に新たな御神体を納め、再び奉祝祭を執り行なうに到った。その成果を讃えると共に二度とこのような災難がないよう末永い神社及び氏子各位の安寧を願い、氏子一同 決意を碑に刻し、その記録を残すものである。 平成十八年(二〇〇六)十月吉日 氏子中」「私たちのすぐ身近の風景にさり気なくとけ込んでいる鯖神社。実は沢山の魅力を秘めた神社なのです。祭神は源義朝公一番の魅力は、なんといっても祭神として源義朝公をお祀りしていることでしょう。源義朝公は、鎌倉府を開いた頼朝、平氏を壇ノ浦で滅ぼした義経の父にあたる方として有名ですが、義朝公ご本人も歴史上きな活躍をした人物です。義朝公は、平安時代末期の1123本拠地を構えて南関東の武士を結集することに努めました。1144年、義朝公が今田の近隣の大庭御厨(みくりや 藤沢市にあった伊勢神宮の荘園)に侵入したことは、関東における源氏勢力を挽回させる出来事として有名な出来事です。1146年頃に義朝公は京に移り、さらなる勢力の拡大に努めました。保元の乱( 1 156 )では、父為義と敵味方に別れて戦って勝利し、実の父を斬る運命を乗り越えて左馬頭(馬を管理する馬寮の長官)に任じられます。しかし平氏への不満と対抗から平治の乱(1159)を共諜します。平清盛と戦って敗れ、再起を図るため東国へ落ち延びる途中、尾張の野間(愛知県知多郡)に辿り着いたとき、旧来からの家臣の長田忠致とその息子景致(かげむね)に裏切られ、湯殿で謀殺されてしまうのです。義朝37才の若い最期でした。「無念なり、我に木太刀なりともありせば」と言い残したと伝えられることから、今も野間大坊の義朝廟には、供養の太刀がうず高く奉納されています。」サバ神社は十ニ社義朝公をお祀りする神社は、今田鯖神社を含めてたった9社しかありません。しかも、その9社の神社名は左馬、佐波、佐姿と漢字が違っていたり、今では別の社名で呼ばれているものもありますが、かってはサバ神社と呼ばれていました。そしてこのサバ神社も全国を探しても12社しかなく、義朝公でなければ同じ清和源氏の満仲公をお祀りしているのですさらに不思議なことに、この極めて珍しいサバ神社12社は、すべて境川・和泉川・引地川沿いの川に向かった高台に建っているのです。なぜ、義朝公をお祀りし、サバと変わった名前の神社が今田の周辺に集中して存在しているのでしようか。その謎の答えを導き出す糸ロは、祭神の義朝公とサバという神社の名前にありそうです。義朝公の死後48年以上もたった江戸時代の初め、義朝公を謀殺した長田忠致の子孫という旗本の長田氏がこの地方を領しました。あるいは、その長田氏が祖先の滅罪に義朝公の霊を祀ったとも考えられます。ちょうど江戸時代の初め頃、この地方は狩場や放牧地を農地として開発し、豊かな収穫を得るようになっていました。水の恵みをもたらす川は反面氾濫を繰り返し、人々の生活を苦しめました。そこで領民たちは、川の精を鎮めるために、また村の結束や繁栄を願い、領主の祀る源氏の勇猛な武将である義朝・満仲を鎮守神に迎えて御神霊とも厄除神、五穀豊穣を祈って礼拝してきたのかもしれません。さらにサバの名の由来には、祭神の義朝・満仲が左馬頭だったことの他に、沢(サワ)の神を祀る小祠や田の神(サンバイ)や生飯(サバ)から転じた、また鯖が持っといわれる強い薬効を願って鯖神社とした、など諸説あり、サバ神社の謎に対する確かな答えはまだありません。答えがなければ、謎はいつまでも謎として残ります。その謎を解いてこの地方の秘められた歴史を明らかにしたい。そんな思いが今田鯖神社の魅力をいっそう深めているのです。七サバ参りサバ神社はこの地域の人々に愛され、崇敬されてきました。その現れの一つに七サバ参りがあります。子供の疱瘡、麻疹、百日咳などの疫病がはやった時に、「相模七サバ」と呼ばれる7社を順次参拝して、早い回復を祈ったものです。子供をおぶって弁当持参、まず近くのサバ神社から始めて、川沿いの道を歩き、橋を渡り、あぜ道をたどって、一日がかりで詣でたのでしようか。病を癒す厄除神参りは、江戸時代末期より大正の中頃迄行われたこの地方の風習でした。「今田鯖神社の棟札を調査しました去る3月12日(日)、今田鯖神社内の新しい厨子に、こ神体であった神像と棟札類が安置されました。同神社は1995年と2001年にニ度の火災にあい、氏子の方々のご尽力で、そのつど建て直しが行われました。当時のこ神体は嘉永5年(1852)に納められた像でしたが、この火災により焼損を受けました。そのため新たに作られた神像にその座をゆずられ、同時に焼損した棟札類とともに、歴史を伝える文化財として末永く保存されることになったのです。それに先立ち、同神社保存会代表総代の方が棟札類に記された内容の調査にみえられたため、当館でも調査をさせていただくことができました。棟札とは、寺社などの建立の際、年月日や関係者の名前を木札に記し棟木に打ち付けるなどしておくものです。棟札類は7点ありました。内訳は、棟札が4枚、祈祷札が3枚です.煤けて文字が見えない部分もあり、生涯学習課の文化財担当と博物館準備担当の協力のもと、赤外線の照射による文字の判読を試みました。その結果、完全に炭化している部分は無理でしたが、かなりの文字を読み取ることができました。棟札の年代は元禄15年(1702)・享保5年(1720)・天保15年(1844)で、天保15年は2枚あり、うち1枚は「天照皇太神宮」の再建のものでした。残り3枚が鯖神社のものです。元禄15年は同神社の創建の年と伝えられていますので、創建時の棟札が残されていたわけです。祈祷札は寛政11年(1799)・嘉永5年(1852)・明治2年(1869)のものです。興味深いのは、棟札1枚と祈祷札2枚に「法主」といった立場で「諏訪山玉蔵院」という名が記されていることです.しかし今田村にこの寺があったという記録はなく、伝承も伝わっていません。調べていくと、片瀬の上下諏訪神社の別当をつとめていた修験の玉蔵院(現存しません)だということがわかりました。今田と片瀬は距離もあり、しかも高座郡と鎌倉郡で郡も異なっています。いったいどういう関わりで、片瀬の玉蔵院が、今田村の法主を務めることになったのでしようか。その謎解きは、今後の課題です。最後になりましたが、調査のきっかけをいただき、また、貴重な史料を快くお貸しくださった、今田鯖神社保存会の皆様に厚く礼申上げます。」参道を望む。更に参道の坂道を上って行った。平成8年石段撤去平成17年アスファルト舗装。石灯籠(右)宗和型嘉永4年4月奉納昭和8年頃拝殿前より移動。石灯籠(左)宗和型嘉永4年4月奉納昭和8年頃拝殿前より移動。朱の木製燈籠が一対。正面に「拝殿」。石灯籠(右)春日型 平成9年10月1日奉納石灯籠(左)春日型 平成9年10月1日奉納神楽殿・大正8年建築と社務所社務所は平成15年7月改築 神楽殿に増築。「鯖神社 由来祭神源義朝公、創立元禄15年(1702)、例祭日10月1日 党利住人井上瀬兵衛により造立される。 祭神源義朝が佐馬の頭であったことから鯖神社と称する。文政9年(1826)に再建し、昭和8年氏子中により本殿・拝殿が 改築された。例祭日には子供御輿や山車が出てにぎやかである。(藤沢わがまちのあゆみより)」石碑群が左手に。手水鉢嘉永4年10月奉納。平成18年9月台座新設。4基の石碑用水堰改築記念碑大正15年11月建立昭和40年代頃境内へ移動。「記念碑相模中央東部有川日境川其○域以跨於高座○○之二郡有地称沿岸各村利用之設堰以便干灌漑者其數甚多六會村丸山地○亦古来有此堰而其築造不堅牢也頗年屡決関係村民毎俢之理之○供干水田八町八反有餘歩之用為之所費貨財常時尚○為尠若其當一朝偶暴風雨被害激甚也其○不可○○村民苦之負擔久村會議員杉山勘五郎選在管理之任苦心多年提唱堰改造時運亦到実現将近而不幸病没偶遭大正癸亥大震災堰悉破壊殆○可拾○杉山氏嗣子松五郎克幹父蠱策混凝土改良工事興衆相諮稟請縣費補助得其許可大正十五年二月十日起工同年四月十六日竣工於是乎得水田復旧労費亦共除焉挙村僉安堵即樹碑欲教子孫永記念之體其労苦無所苟怠屬文於余余因按状爰録其由云 大正十五年十一月吉○ 牧野随吉撰文又書 印(數:数 會:会 餘:余 當:当 擔:担 縣:県 體:体 混凝土:コンクリート)」「記念碑」。「道路改修記念碑」昭和8年建立昭和40年代頃今田西原バス停脇五差路角(今田710番地)より境内へ移動「道路改修記念」。「神楽殿建築紀念碑」大正8年10月建立。拝殿前壇上向かって左より移設。「神楽殿建築紀念碑」。「鯖神社新築記念碑」。昭和8年4月15日建立。拝殿前壇上向かって右より移動。狛犬(右)。平成9年10月1日奉納。狛犬(左)。平成9年10月1日奉納。「忠魂碑」。「再建資金 寄附者芳名」碑。 ・・・つづく・・・
2023.05.03
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「拝殿」への石段の両脇にあった狛犬(右)。角が無いのが獅子でしょうか。ひょろっとしたしっぽが可愛いかった。角がある狛犬(左)。「本来の狛犬には角があったのだ!」👈リンク と。新緑の溢れる石段を上って行った。最初の石段を上りきると、正面奥に「拝殿」が姿を現した。左手に「掛所(えまかけどころ)」。「心願成就 絵馬」。白旗を掲げて馬上の源義経公。弁慶の姿も。「合格絵馬」。「令和五年癸卯(みつのとう)歳 絵馬」。境内には義経公に纏わる「齋源義経公鎮霊碑」が。白旗神社の御首と宮城県栗駒町半官森御葬札所の御骸、両地の魂土を合祀し、義経公の兜を象った鎮霊碑で1999年(平成11年)に建立された と。説明板の根元には「義経松」の碑があった。碑に隠れるように切株があったが松かどうか判断がつかない。松だとしてもさほど大きくなさそうであったが。「是より南の方三丁 「首洗井の史跡」👈リンク あり」と刻まれていた。「源義経公鎮霊碑文冶五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衝に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御薗は奥州箆を経て、同年六月十一二日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき。藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。」そして更なる石段の上に「拝殿」。拝殿前にも狛犬(右)。奉納は「鳶太子講中」として「昭和二年二月吉日」、世話人以下30名以上の名前と「田島 穂良 書」「石工 服部 源次郎」と刻まれていた。太子講とは鳶職など職人さんが聖徳太子を職能神として祀ったもので、旧暦の1月21日、あるいは22日に太子廟を参拝して安全祈願を行ったり会合を行ったりしたのだと。この狛犬もその日に合わせて奉納されたものであろうか。狛犬(左)。「拝殿」。白旗神社がいつごろできたのかは定かではないが、鎌倉時代より以前から、相模国(神奈川県あたり)にある寒川神社の神様・寒川比古命をお祀りして、同じ名前の寒川神社と呼ばれていた。文治5年(1189)閏4月30日、源義経公は兄源頼朝から怒りをかい、追い詰められ、奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害した。その首は奥州から新田冠者高平(にったかじゃたかひら)という者によって鎌倉に送られた。高平が、腰越の宿(鎌倉市)に到着すると、そこで和田義盛・梶原景時によって義経かどうか確認された。伝承では、弁慶の首も同時に送られ、夜の間に二つの首は、白旗川を上り、この地に辿り着いたといわれている。このことを頼朝に伝えると、白旗が源氏の旗であったことから、白旗明神としてこの神社に祀るようにと指示した。こうして義経公を神様として祀ることとなり、のちに白旗神社と呼ばれるようになった。弁慶の首は、白旗神社のそばに八王子社として祀られることになった。現在の社殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成した。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置されたと。近づいて。主祭神寒川比古命(さむかわひこのみこと):相模国一宮の寒川神社の祭神。源義経(みなもとのよしつね)共に祀られている神様天照皇大神(あまてらすおおみかみ)大国主命(おおくにぬしのみこと)大山祇命(おおやまつみのみこと)国狭槌命(くにさつちのみこと)日本武尊(やまとたけるのみこと)唐破風下の見事な彫刻。さらに。緻密な彫刻にも目をひかれたのであった。唐破風の懸魚は鶴。奥には龍の彫刻。亀の彫刻。懸魚(鶴)と亀とで、鶴亀が。龍の彫刻。手挟(たばさみ)に龍が彫刻されているのは珍しいか?牡丹などの花が一般的。手挟(たばさみ)には鳥と龍の彫刻。扁額「忠友殿」と。白旗神社近辺の町名が記されていたが、何と呼ぶものなのであろうか?「源氏の家紋・笹竜胆」が多数装飾されていた。「天水桶」には雨水が流れ落ちていた。この正面にも「源氏の家紋・笹竜胆」が。そして「拝殿」の右側の案内板とその下に石が。「白旗神社 弁慶の力石「カ石 の起源 は、石占 (いしうら)といわれています。神社に置かれた特定の石を、老若男女にかかわらず願い事を唱え、持ち上げ、その重い・軽いの感触によって願い事の成否・吉凶を占っていました。しかし、時代の流れによって娯楽や鍛練のための力試しになったといわれています。白旗神社「弁慶の力石 」はその昔、神社の西側古美根茶屋 (現、古美根菓子舗 )前に置かれ、茶屋 で一服する近郊農家や町内の力自慢がこの石を持ち上げカ比べをしたといわれています。この石は神石 とも呼ばれ、この石に触れると健康になり病気をしないといわれています。ご参拝の皆様には、この石に触れ、御加護を頂かれますようにご案内申し上げます。尚、お参りにこられない方・遠方にお住まいの方のために、「弁慶分石守 」をお頒け致しておりますので社務所にお越し下さい。」「力石」。この「力石に触れると健康になり病気をしないと。亀の甲羅に似ている石は茶店で一服した農家や町内の若者たちが持ち上げて力比べをしたのだと。「本殿」の屋根を右側から。白旗神社の幟。「寒川比古命 源義経公 白旗神社」と。寒川比古命(さむかわひこのみこと)は寒川神社の御祭神。「本殿」の屋根を左側から。雨が強くなりだした。拝殿前から参道を振り返る。石段横のモミジ葉の新緑も雨に濡れて輝いていた。境内隅に立つ「祈祷殿」に向かって石段を下りる。再び「鯉のぼり」を見上げた。そして「祈祷殿」。内陣。ズームして。「おみくじ掛け」。「鯉のぼり」と「源義経公武蔵 坊弁慶公之像」を再び。境内の巨大な今年・「令和五年癸卯(みつのとう)歳」絵馬。牛若丸と今年の干支である兎が八艘飛びのように船上で戯れている様子が描かれていた。再び社務所前の雨に濡れた純白の「義経藤」を追う。今年も、相州 藤沢「白旗神社」の「弁慶藤」、「義経藤」を独占・堪能し、そして久しぶりの境内巡りを、これもほぼ独り占めし楽しんで帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.05.02
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相州 藤沢・白旗神社の「弁慶藤」、「義経藤」を愛でた後は、久しぶりに境内の散策を。手前に白旗川に平成8年架橋された「御典橋」とその奥に「大鳥居」。日本初のグラスファイバー製の「大鳥居」であると。高さ8m、幅6mの明神鳥居で、昭和59年12月に建立された。地震対策のために軽量で耐久性のあるグラスファイバーを取り入れ、建設時には新聞、テレビ、週刊誌等で報道されたのだと。「御典橋」の右側欄干には真鯉(まごい)が。「御典橋」の左側欄干には緋鯉(ひごい)が。大鳥居脇には小さな日本庭園があり、奥に「白旗弁財天」が祀られていた。「手水舎」。この「手水舎」は平成5年7月に建てられた。手水石は真鶴の銘石、小松石で作られている。参拝の前に身を清める場所。亀が鎮座。その昔、街道から白旗神社を望むと、亀の形に見える事から(白旗神社は頭の部分)亀形山と呼ばれているのだ。正面から。「手水舎」の天井には龍が描かれていた。向かい合うようにあったのが「源義経公武蔵丸弁慶公之像」。この「源義経公武蔵丸弁慶公之像」は2019年(令和元年)10月竣工。源義経公没後830年の「記念事業」👈リンク の一つとして建てられたのだ。「義経公・弁慶公の御首は、文治5年(1189)6月13日に腰越の浜で首実検の後、金色の亀に乗り当地に辿り着いたと伝えられています。義経公の首塚は、現在の位置より北に40メートル、当社から南に150メートルの場所にあり、その御霊は当社に祀られました。一方、弁慶公の弁慶塚は藤沢宿 常光寺内にあり、その御霊は常光寺内の八王子社に祀られていましたが、現在は塚のみを残しています。一般的に神社は南向きか東向きに建てられていますが、この八王子社に限っては、主君 義経公が祀られている白旗神社の方を向いていたため北向きに建てられていたと謂います。此度、令和御大典の嘉年と主従役儀830年の佳節を吉年とし、ここに源義経公・武蔵丸弁慶公の銅像を建立し、御霊の平安と隆昌を永年に亘り祈り奉ります。」「源義経公武蔵坊弁慶之像」。馬に乗る「源義経公」。平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。ズームして。そして「武蔵丸弁慶公」。武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。拝殿への階段手前の右側には石碑が並んでいた。右側から「御大典記念 永代御供米三俵 藤澤米穀肥料商組合」と刻まれた石碑。「八海山大神」と刻まれた石碑。「御嶽大神」と刻まれた石碑。「三笠山大神」と刻まれた石碑。「白旗神社御祭神 寒川比古命 源義経公配神 天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命由緒古くは相模の国一の宮の寒川神社の御分霊を祀って寒川神社と呼ばれていた。しかし、くわしくはわからない。鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治5年(1189年)閏4月30日、奥州(岩手県)平泉衣川館において自害された。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は腰越の浦に着き、和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」「旧東海道・藤沢宿」案内地図。ーーが旧東海道。そして拝殿への階段手前の左側にも石碑が並んでいた。江の島弁財天道標が一番右に。道標の横には、20数基の庚申塔群があった。近寄って。正面に「えのしま道」、側面に「一切衆生」「二世安楽」と刻字されていた。杉山検校が江ノ島弁財天に祈願し、成就したお礼に藤沢宿から江ノ島まで48基の道標を建てた。10基が現存し、そのうちの1基。昭和41年1月17日藤沢市重要文化財に指定された。「庚申供養」碑。藤沢市指定重要文化財となっている「寛文五年庚申供養塔」。近寄って。「市指定重要文化財 寛文五年庚申供養塔(有形文化財)庚申信仰は十干・十二支の組合せによって、六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、徹夜で無病・息災・長寿を願う信仰である。「人の体内にいる三尸(さんし)虫が、庚申の夜、天に登ってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」とする道教の教えに由来している。この供養塔の中央上の梵字は釈迦如来(主尊)、続く八字ナムアミダブソワーカーの一呪、下の梵字はここでは青面金剛を表している。猿像の脚ぼその彫刻は、江戸時代初期のものに見かけられるものである。「江の島弁財天道標(建造物)その昔、杉山検校が「多くの参詣者が道に迷うことがないように」との祈念から建てられたものと伝えられる。もとは四十八基あったといわれ、現在は十基が残存している。いずれもほぼ同型で、この道標も尖頭角柱形の三面に「一切衆生」「金のしま道」、「二世安楽」と刻まれており、造立者の温情がしのばれる。」隣の素朴な石碑。その奥にあったのが「歌川 広重 東海道五拾三次の内 藤澤 遊行寺 」藤沢は遊行寺の参詣者が多く、江ノ島への分岐点として賑わった。遠くに北条時宗の本山、遊行寺の伽藍が描かれ、その右手にある家並は道場坂の存在を示し、大鋸橋を挟んで、江ノ島弁天の鳥居がある。お参りをすませた人々が山門をでて橋を渡り、鳥居をくぐろうとしている。ズームして。江ノ島弁天の鳥居そしてお参りをすませた人々が山門をでて橋を渡り、鳥居をくぐろうとしている様子が。更に奥にあった境内社は共に「稲荷社」。向かって右。向かって左。 ・・・つづく・・・
2023.05.01
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「雲昌寺」の境内の散策を続ける。雲昌寺の山門近くには庚申塔、二十三夜塔そして手前にお顔のない仏像・「首なし地蔵」が並んでいた。首なし地蔵は、明治の初めのころ、博打うちの間で地蔵の頭を持っていれば博打に勝つという縁起があり、持ち去られてしまったと。今、その地蔵さんの身代わりなのか、門前の右側に六地蔵があった。左から山状角柱型「廿三夜塔」(講中 明治7年戌歳 二月吉日(1874))、角柱型「二十三夜塔」(亀井野村 南 藤澤 北 八王子道 文久二壬戌年 霜月吉祥日(1862) その横に「庚申塔」(天保)、「庚申塔」が。その先にも。山門前から境内・「本堂」、「鐘楼」を振り返る。そして山門を抜けた右側には庚申塔の青面金剛像が三体。庚申は、十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)の組み合わせで暦の上では60日に一度回ってくる庚申の日に、その夜を眠らずに過ごして健康長寿を願う信仰。この信仰は平安時代には宮中などにおいて宮廷貴族の間で庚申の御遊びがあり、鎌倉時代には武家たちも守庚申を行って来たと。青面金剛像は、主尊の青面金剛以外に、背面には日月や、台座には猿、鶏、邪鬼、腕の数は、二臂から八臂まであり、腕が持つ 持物は、三叉戟、棒、法輪、羂索、弓矢、剣、杖、蛇など様々の姿を。右:駒形板碑 六手合掌青面金剛+三猿 年不詳。三猿は三匹の猿が、それぞれ目、耳、口を両手でふさいでいる彫刻。いわゆる「見ざる聞かざる言わざる」。孔子は論語の中で孔子は「礼節にそむくことに注目してはいけない。礼節にそむくことに耳を傾けてはいけない。礼節にそむくことを言ってはいけない。」と、三つの戒めを言っているのです。中央:駒形板碑 六手剣人青面金剛+三猿 年不詳。左:駒形板碑 六手合掌青面金剛+三猿 年不詳。「六地蔵」。「光輝山雲昌寺宗名 曹洞宗(禪宗)伝統 お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の禪風として 開花し鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす その教義は瑩山禪師に よって広く全土に実践教化され今日に至ります お二人を両祖大師と仰ぎます大本山 永平寺 高祖道元大師ご開山 福井県 總持寺 太祖瑩山禪師ご開山 横浜市曹洞宗本尊 釈迦牟尼仏当山本尊 如意輪観世音菩薩教え 生まれながらにもっている佛のこころを実践しひたすら人として生きるのが禪である と教えます 人はともすると 我がまま勝手の生活をして苦しみ悩みのみとをつくっています しかし ひとたび佛の御前に悔い改め真心をささげ深く黙照して坐するなら心が 落ち着いて自ずと生活が調えられ人生が明るくなり 他の役に立つことを喜び 又 どんな苦難にも耐えてゆこうとする信念が強まります そこに生き甲斐と 幸せを発見するのが 禪の教えです」併せて創建 建保年間 (1213~1219年)開山 玖山宗順開基 北条義時札所等 相模国準四国八十八ヶ所霊場 第46番・第66番札所」四脚門の「山門」。右手に寺号標石「曹洞宗 光輝山 雲昌禅寺」。山門前の掲示板にあった「北条義時供養塔」案内図。「雲昌寺」の山門を振り返る。左手には「不許葷酒入山門」と。「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」。臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。亀井野「防災会館」横にあった石碑。「陸軍歩兵上等兵小菅應輔之碑」、「陸軍歩兵一等兵平川龜次郎之碑」。その予期に日露戦役「紀年碑」。「継立場跡」雲祥寺前を走る旧滝山街道(八王子街道)を約100m弱北に行ったところに、江戸時代には継立場が置かれ、幅3間(約5.5m)の道に沿って、旅人や人足、牛馬の休息所や、乗り換え用の馬、茶店などが整っていた。南は藤沢宿へ1里9町(約5キロ)、北は長後(藪鼻)の継立場まで1里(4キロ)の位置にあった。この地に近くで滝山街道と交差する塩つけ道を通って、金沢・六浦から運ばれた塩の市が、この場所で月に6回開かれていた。右手には、歴史を感じさせる民家の門が今も残っていた。更に進むと、道路の右側にあったのが「上屋敷の道祖神」。滝山街道(八王子街道)沿い、小字・上屋敷の辻に文字神名道祖神1基と、双体道祖神2基が並んでいる。文字神名道祖神は明治30年(1897)、亀井野村氏子中造立だが、双体道祖神の方は2基とも摩耗が激しく銘が読み取れない。1基は寛政5年(1793)造立の記載がある。道祖神の辺りは、街道沿いに亀井野の旧家が並んでいるのであった。寛政5年(1793)造立の「道祖神」。「芭蕉の句碑」が「上屋敷の道祖神」の向かいの民家の庭の中央にあった。滝山街道に沿った、亀井野地区の旧家のひとつである加藤家邸内にあった。明治13年(1880)に松富可都良をはじめとする地元の俳人11名によって建立された。碑面は、「道のべの 木槿は馬に くはれけり」と読める。以前この付近に旅人の通過する継立場があったことから、芭蕉が41歳のとき(貞享元年=1684)、駿河路から大井川辺りを行く旅の途中で読んだこの句が選ばれたようだ。ズームして。この日の【藤沢地名の会 地名探索】の最後に「法泉寺」に向かって進む。「国道467号」の「法泉寺歩道橋」を渡り湘南台方面を見る。藤沢方面を見る。そして「法泉寺」が見えて来た。「法泉寺」山門。寺号標石「日蓮宗 正耀山 法泉寺」。この石塔には?「法泉寺(ホウセンジ)開基は、明治後期頃、加藤九一郎氏るよもので、横浜金沢文庫・杉田付近にあった廃寺法泉寺を現在地に移したものです。御本尊は、日蓮上人で最上稲荷社が合祀されています。また境内には、浄行菩薩像と水子観音像が建立されています。 藤沢市」「本堂」。扁額「正耀山」。「内陣」。「浄行堂」。近づいて正面から。「浄行菩薩像」が鎮座。題目碑「南無妙法蓮華経」。小さな「大師堂」の中に石仏・「弘法大師像」が。当時は、相模国準四国88ヶ所霊場の51番札所であったのだと。「弘法大師像」。この「弘法大師像」は、元円行村八幡社にあったもので、その後、数年前までは同町内の個人宅にあったが、事情があって法泉寺へ移された とのこと。「水子大菩薩女像」。明治7年5月建立。「馬鳴菩薩像」。蚕神ともいい、養蚕の神で、貧しい人々に衣服を与えるとして尊崇される菩薩である と。大きな台座に載った石碑、石仏。中央に「道祖神」、左に「双体道祖神」。「藤沢都市計画事業六会東部土地区画整理事業の為亀井野字大久保一七ニ三番地所在の道祖神を復建移転安置せり 昭和五十一年一月十四日建立 亀井野中組講中」そしてこの日の【藤沢地名の会 地名探索】小栗伝説の残る六会を巡る を完了し小田急線「六会日大前駅」まで戻り解散したのであった。この日の散策ルート。この日の探訪地マップ。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.04.28
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「左馬大明神社」を後にして次の目的地の「土震(すなふるい)塚(小栗判官蘇生伝承地)」に向かって県道403号線に向かって進む。県道403号・菖蒲沢戸塚線の交差点の角にあったのが先程訪ねた「曹洞宗西嶺山花應院入口」案内。「閻魔大王像(藤沢市重要文化財)、小栗判官照手姫縁起絵巻・地獄変相十王図」と。亀井野下から境川への坂を上って行き、左手にあった石段を上って行った。石段の上の高台の畑地の中にあったのが「土震(すなふるい)塚」。毒殺されて埋められた小栗判官が、蘇生した場所と言われる。遊行第14代太空上人の夢枕に、閻魔大王から判官蘇生のお告げがあり、上人が上野原の埋葬地に出向くと、カラスの群れている塚が四方に割れて、醜い餓鬼の姿で判官が蘇生し、体の土を振るい落としたといわれる。塚の上には一本の大きな榊の古木が茂り、昔この榊の枝を伐採したら、地面が震動したため、以降村人はこの榊に手を付けるのをやめたと言われる。榊は今、枝を払われた小木となり、昔を偲ぶことは難しいのであった。この一帯には小栗判官にまつわるものがいくつか残されており、また遊行寺に残る小栗判官の伝説では、ここが小栗を毒殺した横山の屋敷があった場所であるとも言われているのだ。僅かに盛り上がった土盛りの中の榊の古木の周辺には石碑や案内板等は全くなかった。そして「土震塚」への石段の上からは、道路の反対側にある石碑が見えたので次に訪ねた。「伝承小栗塚之跡」と刻まれた石碑。石碑の手前にあったのが「湘南ゆうき村」。「社会福祉法人 藤沢育成会 湘南ゆうき村」。藤沢市の知的障害者通所施設、身体障害者・高齢者デイサービス施設。石碑「伝承小栗塚之跡」前から。小栗塚は湘南ゆうき村建設に伴って消滅したのであった。現在は石垣の上に「伝承小栗塚之跡」の石碑が寂しく建っていた。地元の寺・遊行寺は説経節の「小栗判官」でも登場するゆかりの地であるが、ここには説経節とは異なる伝説が残されているのだ。常陸国にあった小栗満重は、謀反の疑いで鎌倉公方・足利持氏に追われて三河へ落ち延びる途中、相模国藤沢俣野の横山大膳という者の屋敷に滞在した。実は横山大膳は盗賊であり、財宝目当てで小栗を殺そうとした。それを知り窮地を救おうとしたのが、この屋敷で働く照手という遊女であった。しかし毒酒を飲まされた小栗は死に、上野原に棄てられた。14代遊行上人であった太空上人は、夢の中で閻魔大王より小栗を助けよとの言葉を受け、上野原で蘇った小栗を見つけ、熊野湯の峰へ行けるよう段取りをする……という展開となる。いずれにせよ、この小栗塚と土震塚が埋葬と蘇生の伝承地されているのだ。「小栗伝説中世になると、浄土信仰が全国的に広まり、時宗は浄土の教えに小栗説話なども交えて人びとの心をひきつけた。小栗伝説は、説教浄瑠璃などにも登場する。一度は地獄に落ちた判官は、閻魔大王の力によって再びもとの地に、餓鬼となってよみがえる。冥界の人口は小栗塚、娑婆(しゃば)への出口は土震塚、遊行上人の情にもすがった判官は、はるか後方現世の、西方浄土熊野へと送られもとの美男子に生まれ変わる。美女照手姫車引の話もからめ、壮大なロマンとなる。史実・伝承あい混じり江戸初期より伝承する大王像・小栗絵巻などは花応院に現存する。今も「閻魔祭」や「判官絵解き」の行事の時に目にすることがてきる。「湘南ゆうき村」建設に伴って調査し、塚のもとの位置には、現在「伝承小栗塚」の碑が建っている。 平成七年十月一日 西俣野史跡保存会 社会福社法人 藤沢育成会」石碑「伝承小栗塚之跡」を後にして再び「境川」沿いの道に向かって山林の中の山道を下る。途中にあったのが「馬頭観世音」碑。その隣にあった石仏。お顔の部分は補修されていた。竹林の中を進む。そして「境川」沿いの下道に出て再び「横浜薬科大学 図書館棟」を見る。この先の境川には昔は「常使橋(じょうつかいはし)」があったと。「常使橋橋戦後、県道菖蒲沢・戸塚線が開通し、境川を渡る俣野橋が架けられたが、それ以前はやや上流に「常使橋」があり、西俣野と横浜市戸塚区俣野町を繋いでいた。橋名の由来は、俣野郷と大庭城の使者が常に往来していたからと言われる。こから百坂を越えて滝山街道に通じる道は、西俣野を貫く往時の主要道のひとつだったようだ。」その先、民家の大谷石塀の中にあった「庚申塔」。藤沢市西俣野360。この先左側が「西俣野道場跡」常使橋跡から境川に沿って遡ると、西側に今は宅地となった高台が続き、この辺りに以前道場ヶ谷(どうじょうがたに)という字名があった。1325年に藤沢に遊行寺(清浄光寺)が開山となるまで、開祖の呑海が、兄でこの地の地頭であった俣野景平より土地を譲り受け、布教活動の拠点とする修行道場を開いていたとされる。現在小栗塚公園や北窪公園のある一帯が修行道場跡地と推測される。新編相模国風土記稿には、「堂場ヶ谷」と記載されている。相模野台地と境川の低地が交錯する場所で、道場が廃されたあとこの地は、村共有の萱場(屋根葺の材料)となっていた と。「境川」の堤防上にある「藤沢大和自転車道線」を歩く。一般に「境川サイクリングロード」とも呼ばれる。整備済み区間の大部分が境川の右岸(西岸)に沿っている。総延長:24.5km(整備済み区間:20.1km)起点:藤沢市鵠沼海岸 - 国道134号松波交差点の地下に設けられた 地下横断歩道「湘南 海のちか道」終点:大和市下鶴間 - 国道246号大和橋西詰そして前方右手に見えて来たのが「和泉川」の境川への合流地点。「境川遊水地 情報センター」に到着し、自由時間となり、近くのベンチで、各自用意していた昼食を楽しむ。「境川遊水地 情報センター」内にあった「県立境川遊水地公園」周辺の航空写真。遊水地のできる前の航空写真。「境川遊水地 情報センター」の「エントランスホール」。下飯田遊水地のビオトープを見渡せる場所にテーブルセットがあり、ゆっくりくつろぐことができるのであった。「河川情報スペース」。境川遊水地に関するビデオの上映(8分間)と遊水地の機能、県内の河川情報や治水の展示パネル、境川遊水地周辺で見られる生き物の情報展示などがあった。遊水地周辺の「生きもの」展示コーナー。そして自由時間を終了し、定時に再集合。「県立境川遊水地公園」案内図。右から「俣野遊水地」、「下飯田遊水地」、「今田遊水地」。広さは26.1ヘクタールに及ぶ。過去、氾濫を繰り返してきた境川下流部の洪水防止を目的に作られ、2019年に完成、3遊水池を合わせて約90万m3の貯水量がある。水辺の様々な生物が生息できるビオトープが設けられ、少年野球部、テニスコート、多目的グランドなども整備されていたのであった。「境川遊水地 情報センター」を後にして、境川に架かる「遊水池橋」を渡る。「遊水池橋」から「境川」の上流を見る。「遊水池橋」から「境川」の下流を見る。住宅街の東側の坂道を上って行った。右手に鎮座していたのが「北窪の馬頭観音像」と「馬頭観音」碑。天保3年(1832)辰3月吉日の銘があり、念仏講によって建てられた勢至菩薩像(馬頭観音像という説もある)で、隣に明治2年(1869)銘の馬頭観音文字塔もあった。「北窪の馬頭観音像」に近づいて。近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物への供養塔としての意味合いが強くなっていった。なお、「馬頭観世音」の文字だけ彫られた石碑は、多くが愛馬への供養として祀られたものである。また、千葉県では馬に跨った馬頭観音像が多く見られるとのこと。周囲には「日本大学生物資源科学部」の実験農場が。緑が一面に拡がる実験農場。立入禁止と。そして地元の寺「雲昌寺」を本堂裏の墓地側から訪ねた。「雲昌寺歴代住職の墓」の奥にあったのが、北条義時の墓?とされる「道西塚碑」。もとは瑞龍寺の跡地にあったが(現県立藤沢工科高等学校の辺り)、雲昌寺住職によって、ここ「雲昌寺歴代住職の墓」に移されたとのこと。碑面には「光輝院殿瑞龍道西居士」と刻まれていた。現存するこの碑は江戸時代後期のものと考えられているとのこと。墓地から雲昌寺の位牌堂を見る。北条義時の墓?とされる「道西塚碑」があった「雲昌寺歴代住職の墓」を振り返る。「雲昌寺」👈リンク の「位牌堂」内の仏様。そして「本堂」前の石碑・石仏群。「水子地蔵」、「愛育地蔵」。その左の石仏と石碑。この石碑には「南無阿弥陀佛」と。大師像が2体。「相模国 準四国 八十八ヶ所第四十六番 円行村青雲寺御詠歌 青雲のうきよはるりの海なれや薬師のめぐみむすばぬはなし第六十六番 亀井野雲昌寺御詠歌 白峯の雲よりうつる月影もよろす代すめり亀井野の水」両方の大師像とも番号不明のため特定できず相模国準四国八十八ケ所結願令和三年十一月吉日豊田澄子秋元道恵」その隣にあった石仏。さらに石仏が並ぶ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.27
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「花應院」を後にして、少し戻り、境川に向かって進む。途中、右手には一面にピンクの「芝桜」が栽培されていた。これから出荷するのであろうか。テレビのニュースでは、2023年4月15日(土)~5月28日(日) にわたって、「富士芝桜まつり」が行われているとのこと。「富士芝桜まつり」の写真をネットから。行ってみたいが!!いや、一昨日4月24日(月)に行って来ました。そして前方に大きな石碑が2基、西俣野の田んぼを見渡すように建っていた。御嶽神社より移設されたものと。左側の石碑は、当地の悪路を改修し、併せて行った用水路の改修も完成したことを記念する土地改良竣工記念碑「疏通悠容」と。「當部落は従来より水田用水の不足と交通運輸を阻む悪路とに悩まされていたのである。茲に部落農民一同 此の難関打開に蹶起邁進し悪路改修については昭和三十二年度より着工。同三十九年度に入りて竣工を見。用水不足については同三十五年土地改良区を設定し其の改修に着手した。尓来(じらい)四年に亘り総工費約千七百万円、水路延長四千五百六十五米の工事は本年五月完成したのである。此の大事業の成功裡には部落農民一致協力、役員の労苦、市當局の援助等の存在することを思い、転(うたた)、感慨に堪えない。洵(まこと)に近代農業基盤を確立したものと謂うべきか。茲に其の概要を記して以て後人に伝う。昭和三十九年五月五日 藤沢市長 金子小一郎 篆額撰文並書」石碑裏側には「御芳名」と刻まれ関係者の名前が並んでいた。右側は「西俣野暗渠排水之碑」。「西俣野暗渠排水之碑」。「西俣野ハ相模國髙座郡六會村ニ在リ田地約四十五【亜百】(ヘクタール)内十五【亜百】ハ濕田ニシテ収穫ニ乏シク反當(たんあたり)玄米四俵ヲ出デズ、故ニ本邑(ほんゆうの[この村の])人士夙ニ(つとに[以前から])是(これ)ガ改良ヲ念(おも)ヘドモ未ダ其ノ志ヲ得ズ以テ遺憾トセリ。茲(ここ)ニ昭和七年農村匡救(きょうきゅう[救済して良くする])事業國庫補助ノ事アリ 村民 聖恩[天皇の御恩]ノ優渥(ゆうあく[手厚いこと])ニ感ジ以テ更生ノ機至レリトナシ同志三十七名勇躍宿志ノ達成ヲ誓ヒ西俣野暗渠排水組合ヲ組織セリ、乃チ(すなわち)縣耕地整理茅ヶ崎出張所ノ設計ニ據(よ)リ昭和七年十一月十五日起工 同八年四月十日竣工ス。先ノ施工地中央ヲ貫流スル小川ノ延長九〇九米(メートル)ヲ堀渫(くっせつ[土を掘って上げ])シ排水本溝トナシ之に配するに暗渠幹線一八一八米 支線ニ一粁(キロメートル)ヲ以テシ茲ニ二毛作ノ良田約十四【亜百】ヲ得タリ。今ヤ邑民(ゆうみん[村人])多年ノ宿望成リ自力更生ノ酬イラレタルヲ欣ビ(よろこび)以テ碑ニ刻シテ永ク記念トス。後昆(ごこん[後世、子孫])深クソノ本(もと)ニ報イ始ニ反(かえ)リ以テ有終ノ美ヲ濟(もたら)スヲ疑ハザル也昭和八年四月十五日 従五位勲五等 清水勝雄 謹書」※碑文には、ヘクタールを表す一字の漢数字「亜+百」の合字が刻まれていたが、パソコン用の文字はなし。やむを得ず【亜百】として代用するが、本来一字であって、100亜(アール)=1ヘクタールを表す漢数字である。石碑裏側には「昭和八年四月 発起人 故 飯田傅之輔」と。その後には多くの方の名が刻まれていた。石碑前から、南方向を振り返ると、「旧塩つけ道」の「金沢橋」が見えた。ここ俣野という地名は「吾妻鏡」に「大庭(おおば)御厨(みくりや)俣野(またの)郷(ごう)」とあるように古い地名で、境川を跨いで広まった野とか、また横浜市泉区から流れる和泉川とこの辺で合流するので、川が二俣に分かれた形に由来するとも言われています。江戸時代の俣野郷は、中央を流れる境川を挟んで、東側には鎌倉郡上俣野村と東俣野(下俣野)村、西側には高座郡西俣野村の三つの村に分かれていました。現在は、上俣野村と東俣野村が横浜市戸塚区俣野町と同東俣野町に、西俣野村が藤沢市西俣野と呼ぱれているのだ。この地区には、鎌倉時代の古道として知られる「上ノ道」と「金沢道」があった。「上ノ道」は「いざ鎌倉」の軍用路で、元弘3年(1333)、新田義貞が今の東京都府中の分倍河原で北条氏を破り、この道を通り、稲村ヶ崎から鎌倉にうち入って、鎌倉幕府を倒した。「金沢道」は金沢より鎌倉を経て、当地の「金沢橋」を渡り、座間の星谷観音、滝山・八王子方面に通じる「塩つけ道」です。亀井野の継立場では、塩市が開かれ、江戸湾・武蔵国久良岐(くらき)郡(こおり)六浦郷金沢(照手姫が横山館を抜け出し追手に捕まった所、現横浜市金沢区)から朝比奈を越え鎌倉に入り、村岡、東俣野を通り金沢橋を渡って運ばれてきた塩が売られていました とネットから。「藤沢市西俣野」と「横浜市戸塚区東俣野町」の境を流れる「境川」そしてその先の「横浜市戸塚区東俣野町」の街並みを見る。横浜薬科大学の図書館棟を再び。地上21階建て、高さ70m程の建物は大学のシンボルでもある図書館棟で、1階~8階までが図書館、9階~20階が事務室、研究室、学長室であると。因みに前身は横浜ドリームランドに併設されていたホテルエンパイアの建物で、横浜ドリームランドが2002年(H14)に閉園した後、改装されて現在に至っている。その先にあったのが「瞽女淵之碑」。「土手番様(どてばんさま) 水難除供養塔 地蔵菩薩立像 弘化4年(1847)」 下部の基壇に「水難除」と書かれた頭部の欠けた、付近の人々が「土手番様」と呼んでいる石仏。「道祖神」碑。ズームして。昭和53年この地に建立。「瞽女渕(ごぜぶち)と土手番(どてばん)さまむかし境川は、毎年のように決壊氾濫する暴れ川でした。江戸時代、この付近は決壊しては淵となって、村の有志がたびたび埋め立てをしていました。あるとき、瞽女が、この淵に落ちて死にました。それからこの淵を、「瞽女淵」と呼ぶようになりました。「瞽女」とは、三味線を弾いて唄いながら家々を回り、施しをもらい生活していた、目の不自由な女性の旅芸人です。また江戸時代のあるとき、一人の武士が瞽女淵付近に身を投げました。武士は、自分が死んで土手を守ってやろうと書いた手紙と刀、お金を残していたそうです。村の人々は、この武士を閻魔堂の墓地に葬り、はじめ金沢橋に、その後、瞽女淵の側に移して像をまつり「土手番さま」と呼び、明治時代までは正月(もと十二月)に祭礼を行っていました。土手番さまの像は、地蔵の姿をしていますが、明治時代の廃仏毀釈のときに、頭を壊されたといいます。なお、土手番さまの墓と刀と称するものは、今日も残されています。ことの真実はともかく、氾濫を繰り返した土手をめぐって、ただならぬ出来事がかつてあったことが想像されます。そして、明治四十ニ年(一九〇九)には総合耕地整理が実施され、瞽女淵が埋め立てられたので、大正元年(一九一ニ)に記念碑が建てられました。 令和ニ年(ニ〇ニ〇)ニ月 藤沢市教育委員会」「瞽女淵之碑」に近づいて。裏面には「往古ヨリ一小淵アリ、偶々(たまたま)延宝年間一人ノ瞽女溺死シ茲(ここ)ニ始メテ瞽女淵ト称ス。其後溺死スル者数人為メニ深淵ナルカ、有志屡々(しばしば)是ヲ埋メ堅堤ヲ築クト雖(いえど)モ一朝洪水ニ会スルヤ堤塘決壊シテ忍(すなわ)チ淵トナシ 亦田圃ニ氾濫ス。弘化四年一浪士此厄除カント遺書シテ犠牲トナル、依テ村人其霊ヲ祭リ土堤番ト崇敬ス、明治四十二年藤沢町六会村俣野村総合耕地整理施行ノ結果該渕ノ旧態ヲ滅スルニ至ル茲ニ於テ有志ト相謀リ碑石ヲ建立シテ殉難者ノ霊ヲ追福スルト共ニ永ク之カ記念トス 大正元年十二月十四日建之」と。【昔は、この付近の境川はよく大水が出て堤防が切れたため、この辺の百姓は、水で難儀をしていた。延宝年間(1673~80)には、この付近で歌を歌い門付けをしていた盲目の旅芸人(瞽女)が堤防が切れた為に出来た池にはまり命を落とした。それ以後この場所は瞽女渕と呼ばれる様になった。弘化4年(1847)の或る日一人の浪人がどこからか流れて来て瞽女淵のあたりにたたずんでいた。目の前には、切れた堤防からあふれた水で池のように変わった田畑の風景が広がり、野良で働く百姓の姿もなかった。浪々の長旅で体力も衰え、将来への希望も失っていた浪人は、やがてどこかの地で行き倒れる身、それならここで水害に苦しむ農民の為に命を投げ出そうと決心した。次の日の朝、村人は堤の上に置かれた大小の刀と紙片を発見し大騒ぎとなった。淵の水溜りからは浪人の遺体が見つかった。紙片は書置きで、そこには「この村を水害から救う為にわが身を投げ出し、人柱となってこの土手を守りたい。】と。さらに境川に沿って北に進む。左に折れ「旧塩つけ道」を西に進む。右手奥の空き地にあったのが「十王堂跡」。石碑には「末庵 十王堂 常光寺廿七主了譽」と刻まれた石碑。天保11年(1840)の火災で焼失した、「閻魔(えんま)堂」跡(もとの法王院十王堂跡)。「閻魔堂跡(えんまどうあと)(法王院十王堂跡(ほうおういんじゅうおうどうあと))法王院十王堂、通称、”閻魔堂”は慶長5年(1600)の建立といわれ、鎌倉材木座の浄土宗光明寺の末寺、あるいは同系統の藤沢の常光寺の末寺であったという。天保11年(1840)に火災により堂が消失したが、閻魔大王座像・地獄変相十王絵図・小栗判官縁起絵図などは、村の若者たちの手により運び出され、難を免れた。これらの遺産は何れも花應院に現存する。堂跡には小栗墓塔、土手番様の浪人の墓、歴代住職の墓が残っている。 六会地区郷土づくり推進会議」さらに石碑に近づいて。そして小栗墓塔に向かって進む。左手には墓地の所有者の北村家代々の墓があった。右側には古い墓石が横一列に並んでいた。古い墓石の中央にあったのが「小栗判官の墓」。石碑には「小栗墓塔」の文字が刻まれていた。「小栗判官の墓」は閻魔堂消失後、像と共に花應院に移されたが明治になりゆかりのある元の場所に移されたと言われているとのこと。その左隣は「照手姫」の墓石のようであった。卒塔婆にはそれぞれ、「天翁録守信士」、「忠光院殿刃空浄居士」、「照手姫」の文字が。「天翁録守信士」:この村を水害から救う為にわが身を投げ出し、人柱となってこの土手を 守った浪人。「忠光院殿刃空浄居士」:小栗判官「照手姫」:小栗判官の妻「小栗判官の墓」の説明をする山本さん。浪人の墓「天翁録守信士」。「小栗判官の墓」から「境川」方向を見る。ここから「瞽女淵」が見えたのであろう。この右側に「乾の御所跡」があったのだと。閻魔堂のある辺りの小字名を御所ヶ谷という。照手姫の御所がこの辺りに存在したことに由来する。説教浄瑠璃による小栗伝説では、照手は当地の郡代・横山大膳の娘となっている。横山の館が境川を跨いだ東俣野・殿久保(現:字戸ノ久保)にあったとされ、そこから乾の方向(北西)にあるため乾の御所と呼ばれた。またこの地は境川の低地を見晴らす場所で、鎌倉時代後期に地頭職の地位にあった俣野五郎景平の居館跡とも言われる。景平は、遊行寺(清浄光寺)開祖・呑海の兄で、その居館跡については、境川対岸の東俣野にあったという説もある。また御所ヶ谷の北側にかって埓田(ませだ・馬背田)という地名があり、小栗判の鬼鹿毛が馬栓棒をくわえて逃げ、それを捨てたところと言われていた。ハナモモの花が。そして次に訪ねたのが「左馬大明神(さばだいみょうじん)」。「左馬大明神(さばだいみょうじん)祭神は源義朝。「相風記」には「佐馬頭義朝の祠なり、神禮寺持」と記されている。元は小栗塚の台地にあり、明治の初めに現在地に移されたという。。”サバ神社”と呼ばれる神社が、現在境川と引地川の流域に12社散在し、左馬、左波、鯖、左婆などの文字が当てられている。 六会地区郷土づくり推進会議」「左馬大明神」の内陣。「左馬神社」の語源については、源義朝が左馬頭(さまのかみ)だったためともいうが、諸説あり詳細は不明と。 源義朝を祀る神社が何故ここにあるのかも不明とのことであるが、この地を支配した大庭氏は、1156年(保元元年)の保元の乱までは義朝に従っていたのだ。「源氏の棟梁を祀るサバ神社めぐり①左馬社 👈リンク 横浜市瀬谷区橋戸3ー2 0②左馬神社 👈リンク 大和市上和田1 1 6 8③左馬神社 👈リンク 大和市下和田1 1 1 0④飯田神社 👈リンク 横浜市泉区和泉町4 8 1 1⑤佐婆神社 👈リンク 横浜市泉区和泉町⑥中之宮左馬神社 👈リンク 横浜市泉区和泉町⑦七ツ木神社 👈リンク 藤沢市高倉1 1 8 2⑧鯖社 👈リンク 横浜市泉区下飯田町1 3 8 9⑨鯖神社 👈リンク 藤沢市湘南台7ー2 0 ⑩鯖神社 👈リンク 横浜市泉区和泉町7 0 9⑪左馬大明神 藤沢市西俣野字御所ヶ谷⑫佐波神社 👈リンク 藤沢市石川139 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.26
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そして「小栗判官・照手姫 縁起の寺 花應院」に到着。「不許葷酒入山門」碑。【くんしゅ【葷酒】 山門(さんもん)に入(い)るを許(ゆる)さず】多く禅宗の寺の門前に立つ結戒の一つ。「不許葷酒入山門」とあり、臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。「曹洞禅宗 西嶺山 花應院」碑。側面には「奉祈 馬頭観世音菩薩」と。「案内板」。「市指定重要文化財(彫刻) 昭和四十一年(一九六六) 一月十七日指定 石造閻魔大王像 像高 24.0cm 袖張 25.0cm小像ながら力強さと大きさを感じさせます。安山岩製の硬質な石材を巧みに彫りあげ、閻魔大王の風貌をよくとらえています。造立年代は近世初期と推定されています。以前は村内の閻魔堂(現、西俣野八〇五)の本尊の「前立ち」として安置されていましたが、天保十一年(一八四〇)のお堂の火災の際に、村の若者の手によって危うく難を免れ、花應院に移されたものです。木造彩色の閻魔大王像は、像高104cm、袖張104cmと大型像ながら丁寧な彫刻が施されており、『新編相模国風土記稿』には「小野篁(たかむら)彫刻せしと云う」と記されています。背後から石像閻魔大王像を胎内に納める作りとなっています。 平成三○年(ニ〇一八年) 二月 藤沢市教育委員会」「石造閻魔大王像(市指定)」。「小栗判官・照手姫、縁起の寺小栗判官と照手姫の物語は、中世以降から伝承されてきた物語です。説経節として端を発し、浄瑠璃や歌舞伎などの題材にもなり世に広まりました。物語の大筋は、照手姫を見初めた子栗が、姫の父兄に殺され、閻魔大王によって娑婆に戻され、藤沢の遊行上人の助けを得て蘇生し、姫と再会し復讐するというストーリーです。ここ花應院には、小栗判官照手姫縁起絵と地獄変相十王図(地獄絵)が伝来し、例年一月・八月二回の閻魔祭りでは、縁起絵並びに十王図の開帳と共に、伝説の小栗判官・照手姫の奇想天外な物語と、地獄のさまざまな姿の絵解きが行われます。西俣野には「小栗・照手ゆかりの地」として、多くの史跡・地名が残されています。 平成三○年(ニ〇一八年) 二月 藤沢市教育委員会」この後見た「小栗判官縁起絵」。境内を進む。右手に「六地蔵」。本堂への参道両脇の銀杏の老木の根元の石仏(右)が迎えてくれた。銀杏の木の根元にも石仏(左)。本堂に向かい合う形で鎮座する石仏群。近づいて。さらに右側を。慈母観音像であっただろうか。そして社務所の脇にあったシャボン玉自動生成装置。住職の自家製なのであろうか。正面に「本堂」。「本堂再建紀念碑」。「藤沢市指定重要文(彫刻)石造閻魔大王坐像本像はもと焔魔堂(正しくは法王院十三堂といい、花応院の北方100mに「閻魔堂跡」として保存)の本尊である木造閻魔大王坐像の”おまいだち”として安置されていたが、天保十一年(一八四〇)のお堂の火災の際に、村の若者の手によって危うく難を免れ、花応院に移されたものである。本尊の閻魔大王像は、木造彩色坐像で像高一〇四・〇cm 袖張一〇四・五cm と大型像ながら、丁寧な彫刻が施されており、一説には、平安時代の漢学者、歌人である小野篁(おののたかむら)の作と伝えられている。他方、市指定重要文化財の石造閻魔大王坐像は、前記の木造閻魔大王坐像の胎内仏で、像高ニ四.〇cm 袖張ニ五.〇cmと小像ながら、安山岩製の硬質な石材を巧みに彫りこなして、大王の風貌を遺憾なく表現した秀作で、造立年代は室町後期か桃山期と推定されている。昭和四十一年一月十七日 指定藤沢市教育委員会」そして「本堂」手前の隣室に入ると壁に沿って「地獄変相十王絵図」が並んでいた。毎年1月16日と8月16日に行われるのは「花応院閻魔祭」にて住職による複製11幅による「地獄変相十王絵図」の「絵解き」解説が行われていると。是非今年こそ。8月16日に花応院を訪ね、住職の説明を聞いて、それぞれの地獄絵について説明書きを追記したいと思います。右から①閻魔大王裁きの場②畜生再生の図③血の池地獄の図①閻魔大王裁きの場 左に罪をはかる秤(はかり)。右に生前の罪をうつす浄瑠璃の鏡。閻魔大王のまえには司命。 司録がいて、人命を司り、一切の記録を。亡者は首枷(くびかせ)をはめられ、しばられて 鏡のまえに。②畜生再生の図 人から再生した馬を、地獄の獄卒、馬頭が追う。亡者の頭に錐(きり)を刺し、善行を命ずる 脳に入れかえる白鬼。鉄の杭にしばり、大きな釘抜で、下を引き抜こうとする鬼。③血の池地獄の図 お産で死んだ人が落ちる血の池地獄。一人女がはい上がり、山の下で祈りをささげる。 救いにこられた地獄菩薩のお姿。亡者の悪い腹に釘を打ち、善に変えようとする鬼。左から④修羅地獄の図。⑤針の山地獄の図。⑥極寒地獄。氷の池の図。④修羅地獄の図。 闘争心が強く、人を殺し、殺そうとする者の落ちる地獄。空中に短剣が舞う。 斬りあい首を落とす者。下には氷の川。氷が割れて、極寒の底に沈みゆく亡者・・・。⑤針の山地獄の図。 三途の川の渡し場は三つ。深瀬を渡り、流される悪人を襲う竜。からだ中に針が刺さっても、 亡者たちは、獄卒に槍や鉄棒で突っつかれて・・・。⑥極寒地獄。氷の池の図。 氷の池に入れられ、冷たさにもがき苦しむ亡者。岸に上がろうとすると、鎌槍、鉄棒をもった 獄卒に突き落とされる。意識を失えば、活、活、ととなえ、生き返らせ、苦しめる。中央から⑦畜生報復地獄の図。その左に⑧針の山と飢餓地獄の図。⑦畜生報復地獄の図。 動物をいじめ、殺した人たちが、地獄に落とされ報いを。巨大な虎、シシ、犬、ハチたちが 襲い、手、足、腰まで、ばらばらにしてしまう。まわりは、逃げ場のない火炎地獄。⑧針の山と飢餓地獄の図。 剣が茂る山。登るまいとすれば獄卒に打たれ、登れば剣がからだを切りさく。餓鬼道に 落ちた者たち。子どもを食べようとする女餓鬼。椀にもった飯は火となり燃えあがる。⑨火の車の図。 地獄の使者、牛頭(ごず)、馬頭(めず)が火の車を引き、死者の霊を迎えに・・・。 足ることを知らず。欲の心がうず巻くとき、おのずから、焦熱地獄に落ちる。⑩賽の河原の図。 河原の石で、塔を積み上げる子。積んでも積んでも、鬼たちに崩される。 地獄菩薩が救いの手を・・・。三途の川の岸にはいあがった亡者は、奪衣婆に着物を 剥ぎとられて・・・。 ⑪地獄の釜ゆでの図。 大釜で亡者を煮る鬼。臼のなかで、亡者を鉄棒で打ち叩く鬼。地獄の鳥が亡者を運ぶ。 人をゆで悪を放出。善行を封じる閻魔大王の慈悲。善だけになった亡者は御蔵浄土に。そして「小栗判官縁起絵」の複製。近寄って。更に。1段目。そもそもこの物語の発端は、京の都におわします二条大納言兼家さま。子どもの出来ないことを嘆いて、鞍馬山にお参りして授かったのが、幼名・有若、頭脳明晰、成績優秀、すくすくと成人し、常陸小栗どのとお成りある。ところがこの小栗、気に入る女がおらぬと嫁を嫌って独身を通しております。あるとき、鞍馬に詣でる途中、一興にと横笛を吹いていたところ、近くの深泥(みぞろ)ヶ池にすむ大蛇、その音(ね)に聞き惚れ、美女に変身。小栗とちぎりを結びます。1段目左。横笛を吹く小栗判官。近くの深泥(みぞろ)ヶ池にすむ大蛇、その音(ね)に聞き惚れ、美女に変身。小栗とちぎりを結びます。1段目右。2段目それが都じゅうのうわさとなって、父の兼家は大激怒。小栗は今の茨城、常陸の国へと飛ばされます。そこで官職を与えられ、判官(はんがん)となる。そこへ、化粧品や薬をセールスして歩く小間物商人、後藤左衛門が訪ねて来る。彼が、評判の美人の話をすると、小栗は、その姿を目にしていないのに一目惚れ。その美人こそ、武蔵・相模(現・神奈川県)の国の郡代、横山大膳の娘、照手姫、後藤左衛門は橋渡しとなって、小栗のラブレターを姫に届けたのであった。。2段目左。小栗のラブレターを読む照手姫。2段目右。ラブレターを書く小栗判官。3段目。照手姫も、その文をすっかり気に入り、二人は相思相愛。ところが、姫の父親の横山大膳は、この結婚に猛反対。しかし、そのことは表に出さず、三男の三郎がはかりごとを巡らし、ひそかに小栗を殺そうと企てる。そんなことともつゆ知らず、十人の家臣と横山家を訪れた小栗。そこで横山大膳は、馬の鬼鹿毛(おにかげ)に乗ってみよと誘います。この鬼鹿毛は、小山ほどもあるという暴れ馬。人間を秣(まぐさ)代わりに食べている人喰い馬で、これに殺させようというわけ。ところがこの暴れ馬、今にも小栗を踏みつぶすかと思いきや、小栗に言葉をかけられた途端、すっかりおとなしく従順となる。小栗を背中に乗せて、碁盤の上に乗るという曲芸までやってのける。3段目左。碁盤の上に乗る馬の鬼鹿毛(おにかげ)。3段目右。二人は相思相愛。4段目は右から左へ。腕ではかなわないと踏んだ横山大膳は、三男の三郎に言われるまま、宴会の酒に毒を盛り、小栗と家臣十人を毒殺します。これでは都の聞こえが悪いと考えた横山大膳、わが娘照手姫まで殺そうとする。そこで家来の鬼王・鬼次兄弟に、姫を川に沈めよと言いつけます。牢輿(ろうごし)という罪人を入れる乗り物に姫を閉じ込め、舟に乗せ、相模川のおりからが淵へ。ところが兄弟には、どうしても姫を殺すことができません。沈めるための重しである大石をつないだ綱を断ち切ります。かくて姫を乗せた牢輿は、沈むことなく、流れ流れて川下へ。4段目右。兄弟には、どうしても姫を殺すことができません。沈めるための重しである大石をつないだ綱を断ち切ります。かくて姫を乗せた牢輿は、沈むことなく、流れ流れて川下へ。4段目左。そうして流れ着いたところが、海の浜。その浜「ゆきとせが浦」は、現在の横浜市金沢区野島あたりかといいます。発見した漁師たちは不審に思い、不漁続きはこいつのせいだと打ち叩こうとする。そこへ割って入ったのが漁民のリーダーである村君の太夫(たゆう)。太夫は姫を助けて家へ連れ帰ります。しかし、それが気にくわないのが太夫の奥さん。照手姫の白い美肌も気にくわない。そこで太夫が仕事で留守のあいだ、姫の雪の肌を黒くすすけさせてやろうと、松葉をくべて煙責め。けれども、姫は無事に過ごします。というのも、姫のかげに寄り添っている観音さまのおかげなのでした。(照手は日光山の申し子ゆえ、本尊の千手観音が護ってくださったといいます。)5段目。そこでいよいいよ腹を立てた太夫の奥さん、太夫に内緒で、姫を六浦が浦(現・横浜市金沢区六浦あたり)の人買い商人に売ってしまいます。姫はその身を売られては買われ、流れ流れてたどり着いたのは、美濃の国は青墓の宿(現・岐阜県大垣市青墓)の宿屋でした。その美貌から遊女にさせられそうになるところを病気と偽って、下働き。今は亡き夫の故国(常陸の国)にちなんで、「常陸小萩」と名を変える。井戸の水を汲み上げて運んでは、お客の世話やら馬の世話やら、下女16人分という超ハードな仕事に明け暮れます。5段目右。照手姫はその身を売られては買われ、流れ流れてたどり着いたのは、美濃の国は青墓の宿(現・岐阜県大垣市青墓)の宿屋でした。井戸の水を汲み上げて運ぶ照手姫。5段目左。お客の世話やら馬の世話やら、下女16人分という超ハードな仕事に明け暮れます。「小栗判官」や「花王院」に関する様々な書籍が展示されていた。「小栗實記」。そして隣にあった「本堂」の内陣に。「本堂」の金色に輝く「天蓋(てんがい)」。祭壇に近づいて。中央は御本尊の「聖観音像」であっただろうか?隣にも石?仏が。そして「閻魔大王」。右に司録・左に司命の二脇侍を従えていた。正面から。木造 像高104cm 。近くにあった閻魔堂が火災にあったため担ぎこまれたと伝えられている。お顔をズームして。更に。「閻魔大王像」の胎内仏の「石像閻魔王像(24.5cm)」の写真。祭壇には多くの位牌が並んでいた。多くの卒塔婆(そとうば)が奉納されていた。そして禅宗・曹洞宗の寺であるので「殿鐘」が。これが鳴り出すと、「そろそろ法要がはじまるよー」という合図になる と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.25
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次に訪ねたのが「小御嶽神社」から北に50m程離れた場所にあった「御嶽神社」。石鳥居の扁額「御嶽神社」。石鳥居は1986年9月再建と。「文化財ハイキングコース案内板 藤沢市教育委員会」「「小栗判官伝説」の地を訪ねて西俣野には、近松門左衛門の浄瑠璃「当世小栗判官」や歌舞伎の小栗物などでよく知られる小栗判官照手姫伝説にまつわる地名がいくつか残っています。次にそれらのうち、いくつかを挙げてみましょう。小栗判官が土葬された場所といわれる ”小栗塚”。この塚は、県道、戸塚菖蒲沢線の拡張工事で、三分の一程の大きさになってしまいましたが、塚の中央の凹を何度埋めても、いつの間にかまたくぼんでしまう、という不思議な塚です。小栗塚の南西、道をはさんだ向かいの畑の中のサカキの大木の下が、地獄に落ちた小栗判官が蘇生したと伝えられる ”土震塚(すなふるいつか)” です。"御所ヶ谷” は、照手姫の館があったことからついた地名で、この館は「乾の御所」ともいわれていました。これは、東俣野(横浜市)の横山大膳の館から乾(北西)の方角に当たるために、こう呼ばれていたものです。埒田(ませだ)は、北窪河内、市境近くの田で、これは、小栗の乗った荒馬の鬼鹿毛(おにかげ)が、厩栓棒(ませんぼう)をくわえて逃げ、それを捨てた場所とか、鬼鹿毛がはね、厩栓棒がとんで突き立った場所などといわれています。この他、小栗判官縁起の絵解きが行なわれる花応院や、小栗判官と、その家来が眠ると伝えられる”閻魔堂跡” などがあります。」西俣野コースの文化財① 御嶽神社 ② 花応院(かおういん) ③ 瞽女淵・土手番様(ごぜぶち・どてばんさま)④ 閻魔堂跡 ⑤ 左馬神社(さばじんじゃ)「御嶽神社」の境内参道を進む。西俣野にあるここ「御嶽神社」は西俣野の鎮守。「吾妻鏡に、建久6年(1195)11月19日に、相模の国大庭御厨俣野郷の大日堂に仏聖燈油料として田畑を寄進した」と。もとは鎌倉権五郎景政の頃に伊勢神宮の式年遷宮の時、心御柱を伐り取り造立したものと。寛文元年(1661)、寛政4年(1794)、明治20年(1887)に再建。昭和12年(1937)拝殿改築の歴史があると。 左手に「神符神札授受所」。「拝殿」への石段左側に「猿田彦大神石廟入口」と刻まれた石柱が。「奉納 参道敷石」碑。石段を上る。正面に「拝殿」。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)で西俣野地区の鎮守。建久6年( 1195 )の創建。鎌倉権五郎景政が信仰した大日如来の化身である大日不動明王(伊勢神宮御柱材から彫られた)を祀る大日堂が始まりとされる。景政の曾孫・俣野五郎景久がこの地を支配して、大日堂の信仰を引継いだが、景久は木曽義仲との戦いで討ち死し、その後この地は三浦義澄、義村の所領となった。景久の後妻はその後も俣野郷に居住し大日堂を守ったとされる。彼女の訴えをもとに、源頼朝が三浦義澄に荒廃した堂の修理を命じている。その後大日堂は御嶽山神礼寺文殊院(真言宗)となり、境内に御嶽神社、小御嶽神社を祀ったが、明治の神仏分離令により廃寺となり、神社だけが残った。大日不動明王は一尺一寸の像が2つあったが、その後行方不明になった。その脇にあった堅牢地神の信仰は、その後も引き継がれてきた。神礼寺はこの地の地神講信仰の中心となり、堅牢地神像図を刷り、それを受けた講中の人々は、掛け軸にして自宅に飾った。地神信仰は地の神、農業の神として、各地に広まっている。境内には、市の有形民俗文化財に指定された猿田彦大神の石廟(延宝8 =1680 造立、天明6 =1786に修復との銘文)がある。「拝殿」前の狛犬(阿形像)。御嶽神社狛犬 (昭和12年奉納・北村喜代治、江戸風)。「拝殿」前の狛犬(吽形像)。向拝(こうはい、ごはい)には精緻な龍の彫刻が。扁額「御嶽神社」。「拝殿」前から境内を振り返る。説明を聞くこの日の参加者。右手奥には「鐘楼」、その先に「俣野山稲荷大明神」の石鳥居。「鐘楼」に近づいて。梵鐘には、「当神社の神鐘は第二次大戦の末期 昭和十九年国家資源総動員令発令と共に 惜別以来三十九年無鐘となり 其の間幾度となく 基本的な計画が進められ 今回氏子中の総意に依り再建された。 昭和五十七年十一月吉日(一九八ニ)」と刻まれていた。「俣野山稲荷大明神」の石鳥居を正面から。石段の上に「社殿」・「拝殿」。「社殿」正面。「正一位俣野山稲荷大明神」 と書かれた扁額。境内の「猿田彦大神石廟」。市指定重要文化財(有形民俗文化財)に指定されている、「猿田彦大神石廟」。 正面から。内陣には石祠が安置されていた。「市指定有形民俗文化財 昭和四十年(1965) 五月三十一日指定 猿田彦大神石廟(さるたひこだいしんせきびょう) 堆積岩製 総高 94センチメートル、間口 60センチメートル、奥行 65センチメートル石廟とは、家屋型の石造物で、本尊や神体を安置するための祠です。現在は保護のため外側を小社で覆ってありますが、この祠の中には猿田彦大神と大鷲(とり)大明神が祀られています。元は御所ヶ谷に祀られていたものを、ここに移したと言われ、地元では石の宮と呼ばれています。この祠は高床式で、扉は観音開き、一石で造られた屋根の上に二匹の猿像を浮彫りにしているのが特徴です。右側の猿は座って葉のついた桃を持ち、左側の猿は腹ばいになっています。外壁面に、延宝八年(1680)の年記と花応院・文殊院(廃絶)のほか村民四十人の連名が刻まれ、前扉に、天明六年(1786)の年記と花応院ほか八人の連名が刻まれています。この銘文から、延宝八年に造立され、天明六年に修復されたものと考えられています。かつて、十干・十二支を組合わせた暦法で六十日ごとに巡ってくる庚申の日の夜には、睡眠中に三尸という虫が身体から抜け出して天帝にその人の罪を告げるので寿命が縮む、という信仰がありました。そのため、その夜は信者が集まって夜明かしする風習があり、その祭神は神道では猿田彦とされています。西俣野には猿田彦大神の石塔がいくつか残っており、この石廟も庚申信仰と関わるものと考えらています。 平成二十二年(2010)二月 藤沢市教育委員会」この祠は高床式で、扉は観音開き、一石で造られた屋根の上に二匹の猿像を浮彫りに。延宝8年(1680)4月石祠(切妻)二猿(屋根上)正 面「天明八年 申九月日」 「花応院 文殊院 延宝八年卯月吉日」 多数の人名。左側の猿は、手足をのばして腹ばいになっているのだと。右側の猿は丸い大きな目をして葉のついた桃を持ち座っていた。「日月(手持)・青面金剛像(合掌・六臂)・三猿元文5年(1740)12月板駒型正面右側「元文五庚申 西俣野村」 〃左側「十二月吉日 中北久保」 〃下側 人名」「案内板」に基いて山本さんが説明して下さいました。御嶽神社の本堂左手に6基の庚申塔が並んでいた。「日日・青面金剛像(剣人・六臂)・邪鬼・三猿正徳3年(1713)10月舟形光背型台 石「相列高座郡 西俣野 庚申講中 以上七人 爲二世安樂 立之者也 正徳三癸巳歳 十月吉祥□ 花應院 現住天祝叟」」下記写真一番左は●月日・「猿田彦大神」 明治15年(1882)3月 山伏角柱 右側面「明治十五午年 第三月建立」 台 石「講中」 台石右面 5人の名●その右隣りは 重頭角柱「猿田彦大神」 明治14年(1881)11月 右側面「明治十四年 十有一月正」 左側面「天明四辰年 十有一月」 ※天明4年塔の再建塔●その隣は 月日・「猿田彦大神」 明治15年(1882)3月 山伏角柱 右側面「明治十五午年 第三月建立」 台 石「講中」 台石右面 5人の名●その隣は 「猿田彦大神」 造立年不明 駒型・道標 前面は風化の為不明 右側面「右 かまくら道」 左側面「左 八おうじ道」反対側から見る。「御嶽神社」の「本殿」を横から見る。本殿は流造り。流造りの構造は、切妻造・平入であるが、側面から見た屋根形状は対称形ではなく、正面側の屋根を長く伸ばす方式。廻り込んで。そして「御嶽神社」を後にして次の目的地の「花応院」に向かって進む。左側に寺院の如き建物があったが「森山工務店」との看板があった。更に進むと右手にあったのがアイスクリーム店「飯田牧場」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.24
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この日は先月・3月22日(水)、「藤沢地名の会」が主催する【地名探索】『小栗伝説の残る六会を巡る~亀井野・西俣野地区、春の歴史散策~』に参加しました。集合場所は、午前9:30に小田急線六会日大前駅東口階段下。そして集合時間の9:30になると、この日の「藤沢地名の会」の案内・説明の方がこの日の散策ルートの説明をしてくださいました。開設当時の「六会」は、1889年(明治22年)の町村制施行の際に六つの村(高座郡円行村、亀井野村、下土棚村、西俣野村、今田村および石川村)が合併した(結び合〔会〕った)ことに由来する六会村からと。昭和17年(1942)に六会村が藤沢市に吸収されてたが、その後、旧六会村の一部であった下土棚村が長後地区へ、さらに今田、円行の大部分が、新たに作られた湘南台地区に編入されたとの説明あり。現在の駅名は日本大学の請願により「湘南日大前」という駅名が提案されたことに始まる。「六会」の地名は駅名にしか残っておらず(付近の住所表記は「亀井野」)、歴史的に意味のある地名を残して欲しいという要望が高かったことから、近隣住民と協議の末、「六会日大前」に改称された。なお、駅名改称に関する費用は日本大学が負担されたと。参加人数は約30名、10人ずつの3グループに分かれそれぞれに5分間隔で時間差スタート。まずは、今年の元旦に初詣をした地元の「地神社」に向かって小田急線沿いの道を進む。参加者は、ほとんどが50歳以上の方々、そして女性の数が多かった。右手に見えたのが「日本大学 生物資源科学部」の校舎が見えた。「日本大学 生物資源科学部 12号館」。そして前方の「日本大学 生物資源科学部」の校内を横断する一般道路への踏切が。踏切を渡らずに反対側方向へ左折する。そして「地神社」の境内への入口の石段を上る。神奈川県藤沢市亀井野2丁目36−4。ここの地名の「亀井野」は、相模野台地上にあり、八王子街道(滝山街道)及びその古道が南北に走る。集落は街道に沿って発達し、江戸時代には藤沢と長後の中間地点となる継立場(つぎたてば・本陣や旅籠屋はなく、人馬の乗り継ぎを行う所)が設けられた。土地はぼ平坦で、ムラサキ(古代の染料)やミシマサイコ(セリ科の薬草)が自生する広大な原野は、中世武将たちの狩場であった。関東ローム層の黒土で覆われた土地は地下水位が高く、近世以降は畑地としても利用されるようになった。また台地に点在する雑木林や草地は、屋根を葺く萱、家畜飼料の秣(まぐさ・馬や牛などの飼料にするほし草・わら、かいば)そして燃料の木々として利用された。また新編相模国風土記稿には、漢方薬の原料となる紫胡(さいこ)の自生地という記載もある。亀井野の地名は、源義経の家臣・亀井六郎重清が不動堂を建てたことに由来するとされる。その跡地は六会日大前駅西北にあり、今その地には「亀井神社」が建っている。『源平盛衰記』では一ノ谷の戦いで義経の郎党亀井六郎重清として登場する。『義経記』では義経最期の衣川の戦いで「鈴木三郎重家の弟亀井六郎、生年23」と名乗り、奮戦したのち兄と共に自害した。弓の名人であったという。石段の横には赤の椿が多くの花を落としていた。落ちた花を。「地神社」は「地神の森公園」内にあった。境内では、地元の方々が集まって朝の体操を行っていた。正面に「石鳥居」そしてその先に「狛犬」、「社殿」が。「石鳥居」を潜って進む。比較的新しい狛犬の先に「社殿」。狛犬(右・阿形像)。狛犬(左・吽形像)。その先に「石灯籠」そして「手水舎」。素朴な形の「手水舎」。そして「地神社」の社殿。創建年代は不明となるが、寛政年間(1789年〜1800年)には、岡部庄九郎知行の内にて、山林安全、五穀成就を祈願したという。文政9年(1826年)には再建され、さらに安政年間(1854~60)、当地を知行していた旗本・岡部庄九郎が当社で山林安全、五穀成就を祈願しているとのこと。大正12年(1923年)9月1日関東大震災により社殿が倒潰し、大正15年(1926年)9月に再建されたとのこと。御祭神は「埴山比売神(はにやまひめ)」、田畑、土壌の神様であると。例祭は9月20日。「神明造り」の「地神社」、屋根の部分の「千木(ちぎ)」が、直角となった造りとなっていることが特徴。屋根の両端で交叉させた部材「千木」、屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた部材「鰹木(かつおぎ)」が確認できた。扁額「地神社」。「地神社」と刻まれた碑。その隣に明和2年(1765)銘の「山之神」と刻まれた碑。「山之神」の祭神は大山津見神(おおやまつみのかみ)。平成4年に新築整備された。明治の神社統合令で、亀井野南部山之神地区にあった「山神社」が、その場所に「鶴嶋天神社」が祀られた時、この地に移されて地神と合祀されたのだと。山之神社石廟と秋葉権現社石廟も祀られていた。そして「地神社」を後にして「国道467号」に向かって進む。「国道467号」に突き当たり右折する。「亀井野小学校南側」交差点を左折し「県道403号・菖蒲沢戸塚線」へ。「亀井野小学校南側」交差点の角には「セブン-イレブン」が。そして450mほど歩き、細い路地に入ると「西俣野地区」。「西俣野地区」は六会地区の東端部を成し、亀井野との境界に沿って滝山街道(及びその古道)に走る。西俣野の東端には境川が流れ、対岸は横浜市戸塚区となる。過去には境川を跨しに広がる俣野郷があったが、現在は境川西側の藤沢市西俣野と、東側の横浜市戸塚区東び俣野町(旧上俣野町)に分かれている。西俣野の西側は相模野台地東端で、東側は境カた沖積低地となり、その境界の高低差が崖や坂道となっている。西側の台地上は畑地や疎林、東側の低地は崖からの湧水を利用した水田が広がり、集落は崖下に沿った道筋に発達した と。俣野郷は平安時代後期、地名を冠する豪族・俣野氏の支配地となった。鎌倉時代の俣野三浦氏の支配を経て鶴岡八幡宮の供僧の領地となったが、俣野氏の末裔が引き続き地頭南北朝時代以降も、俣野氏がこの地の管理者として居住していた模様である。戦国期は後北条の支配下に置かれ、玉縄城下の管轄地として、俣野は東、西、及び新分かれてその家臣たちに統治された。江戸時代に入ってからも、後北条時代の分割統治従って、東西俣野、上俣野の3地区それぞれに旗本知行地(西俣野は当初天領)となった地名の由来としては、境川を跨いで広がる土地という説と、境川、宇田川の2川が二股ている土地だからという説がある。途中の空き地で、案内人のこの後に訪ねた「花応院」の「小栗判官と照手姫についての伝説」と「旧塩つけ道」についての説明があった。遠く富士山の姿も見えた。さらに「旧道藤沢町田線」に向かって進む。そして「旧道藤沢町田線」に突き当たる。その先の道が「旧塩つけ道」であるとのこと。往時金沢、六浦方面から、内陸部に馬で塩を運んだ古道。鎌倉上ノ道と東俣野で分かれ、境川を渡り、西俣野、亀井野を通って西北に向かい、八王子方面と通じていた。境川を渡る橋は金沢橋と称し、この道が金沢方面と繋がっていたことを今に伝えている。塩つけ道が滝山街道と交差するすぐ北側から、「旧滝山街道」が右に分岐している。旧道は雲昌寺の裏や藤沢工業高校の脇を抜け北上していたが、現在は今田、湘南台地区の区画整理の中で消えているのだ。今田地区には、古道(ふるみち)の小字名があるのだ。「旧道藤沢町田線」から右斜に分岐した道が「旧滝山街道」である。「旧道藤沢町田線」を国道1号に向かって進む。右手にあったのが「神奈川県立総合 療育相談センター」。発達や障害が心配されるお子さんの支援と障害者更生相談業務を行っている施設。神奈川県藤沢市亀井野3119。再び富士山の姿を。畑の中にポツンと「塚」があり石碑が立っていた。石碑の横には「卒塔婆」が奉納れていた。「卒塔婆」には「大施食為有縁無縁三界萬霊菩薩供養塔」と。三界とは我々が生まれかわり死にかわりするこの世界のことであり、万霊とはありとあらゆる精霊のことであるから、三界万霊はこの世のありとあらゆる精霊を合祀することである。どの寺でも三界万霊牌を祀っているということは、我が家の先祖だけでなく自地平等、すべての精霊に供養することの大切さを教えるものである。ここ西俣野地区側には、北から南に小栗塚、大塚、四ツ塚などの小字名が並ぶ。往時この辺りは上野原と呼ばれた台地状の土地で、平安、鎌倉時代には何度か!戦闘が行われた。その戦死者を弔う塚が点在し、これら「塚」のつく小字名が生まれた。毒殺された小栗判官の従者10人もこの辺りに埋葬されたこととなっており、そのうちの4つの塚が残ったことから「四ツ塚」という地名が出来たとされる。現在畑中に建っ塚は、昭和51年(1976)に西俣野史跡保存会によって建立さたものとのこと。そして西俣野を流れる「境川」に向かって坂道を下って行った。両側の斜面には竹林が拡がっていた。そして「三世ノ坂」下の道路「中道」の手前右にあったのが「小御嶽神社(こみたけじんじゃ)」。「小御嶽神社」の小さな社は道から一段と高くなった樹木の中、昼なお暗い鬱蒼とした雑木林と竹林が覆っている森の中に鎮座。神奈川県藤沢市西俣野1888。石鳥居の先に小さな社殿が。「小御嶽神社(こみたけじんじゃ)文永3年(1266) 別当神札寺が建立。元禄13年(1700)、天明2年(1782) 再建、昭和26年、氏子10軒により再建されました。神明社の氏子から離れて奉祀されたと言われています。 六会地区郷土づくり推進会議」石段の先に社殿。内陣。祭神は日本武尊。本来の「小御嶽神社」👈リンクは富士山の山梨県側5合目の旧火山(小御嶽)の上に鎮座するとのこと。そして下の道を左折して進む。右手前方には「横浜薬科大学」の「図書館棟」が見えた。1964(昭和39)年8月1日、日本ドリーム観光株式会社によって戸塚区に「横浜ドリームランド」が開園した。横浜の大型テーマパークとして栄えていたが、バブル崩壊後経営が悪化し2002(平成14)年には閉園が決定。閉園後、横浜市が敷地を買い取り、南部を学校法人都筑第一学園に売却。北部は市が再開発し俣野公園や市営墓地として利用されている。南部を買い取った都筑第一学園は、2006(平成18)年に横浜薬科大学を開校する運びとなった。建物というよりタワーのようなこのシンボルこそが、「横浜薬科大学」の「図書館棟」。「横浜ドリームランド」当時は最上階は回転展望レストランになっており、床が1時間でい1回転する構造で、話題を呼んでいたのだ。私も当時、数回利用した記憶がある。現在その装置は無くなっているが、自習室として学生が利用しているとのこと。 ・・・つづく・・・
2023.04.23
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「生シラス丼」を楽しんだ後は「鎌倉大仏殿高徳院」を訪ねることに。「仁王門」に向かって進む。門前左側にあった巨大石碑。「聖武帝艸創 東三十三箇國 総國分寺」と刻まれていた。【右】享保元 丙申 稔九月二日再興開闘【左】本尊仏腿1庫裂並仏具器財等建主施主野島氏 三界万盆同生極楽 高徳院浄泉寺【裏】天照山五十六主南無阿弥陀佛演巻智願悔阿(花押)と刻まれた石碑。参道右手にあった石碑。鎌倉大仏坂の工事の概要が書かれていると。「重修大仏坂記「鎌倉之為地南瀕海環東西北皆山也有七路鑿山通之其西北之路曰大仏坂最険且隘負擔過之者不数歩而口喘背汗矣郷父老三矯小左衛門矢澤小左衛門徳増七三郎等二十餘名相謀募金修之官嘉其志賜以金百圓明治己卯夏五月興役至庚辰春三月竣功凡五町之間削両崖三丈畳石以防崩壊而得平坦者八十餘歩廣可容二軌用工二千三百五十餘人費金一千餘圓昔之口喘而背汗者今則謳歌而過焉衆皆徳之夫施恵於人者金帛為小修道路為大以其迨于久遠也小左衛門等二十餘人能擇其大者率先成功可謂偉矣余及記其事以勤石郷人之志也明治十四年五月 阿波 伊藤士龍撰並書」と刻まれているのだ。【鎌倉の地は南は海が迫り、東西北は皆山也 七路あり、山を鑿ってこれを通すその西北の路を大仏坂と言う最も険阻で負ひ担ぎてこれを過ぐる者は数歩せずして口喘ぎ背に汗をす郷の父老三橋小左衛門、矢澤小左衛門、徳増七三郎等20余名、金を募りてこれを修めんと相ひ謀る 官、その志を嘉し賜うに金百円を以てす明治己卯(1879)夏5月、役を興し庚辰(1880)春3月に至り竣功す凡そ5町の間、両崖を3丈削り石を畳み以て崩壊を防ぐ而して平坦を得るは80余歩、広さ2軌を容る可し。用いし工、2.350余人、資金1.000余円。昔の口喘ぎて背に汗する者、今は即ち歌を謳ひて過ぐ。衆みなこれを徳とす それ、人に恵みを施すは金帛を小とし道路を修むるを大とすその久遠に迄ぶを以てなり。小左衛門等20余人、能くその大なるものを択び、率先して功を成す 偉と謂ふ可し余、万に其事を記し、以て郷人の志を石に勒するなり。 明治十四年五月 阿波 伊藤士龍 撰並びに書す】とネットから。「高徳院境内図」。判りやすい地図をネットから。その先、正面に「仁王門」高徳院(鎌倉大仏)の「仁王門」は、18世紀初めに他所から移されてきたものと考えられ、安置されている仁王像も同時期のもの考えられている。再建年:1758年(明和五年)頃建築様式(造り):八脚門大きさ(幅):約7.3m (中央約3.3m、両脇各約2m )屋根の造り:切妻造、銅板葺(ニ重虹梁大甁束式)。扁額は「大異山(だいいざん)」。高徳院の正式名称は「大異山 高徳院 清浄泉寺」。「仁王門」の両側には朱の「仁王像(金剛力士像)」が。残っている史料によると、高徳院がほぼ全焼した江戸時代の1742年(寛保ニ年)の火災や、同じくほぼ全壊した1923年(大正十ニ年)の関東大震災の際も、この「仁王門」は失われず、その形を留めた と。仁王像は、平成23年秋に吽形像の頭部が破損したため、阿形像とともに修復が行われた。約2年の修復作業を経て、平成26年春、再び「仁王門」に戻って来たと。「仁王像」(金剛力士像)・阿形像。制作年:江戸時代中期( 1742年(寛保ニ年)頃か)仁王像の造り:木造寄木造阿形像の大きさ:250.0cm、重さ:195kg吽形像吽形像大きさ:242.2cm、重さ:187kg。300円を支払い「参拝券」を購入。「鎌倉大佛の名で親しまれてる高徳院の本尊、国宝銅造阿弥如来坐像は、一ニ五ニ(建長四)年から十年前後の歳月をかけて造立されたとみられる。制作には、僧淨光が勧進した浄財が当てられたという。鋳工として丹治久友、大野五郎右街門の名を記す史料もあるが、原型作者を含め、創建に関わる事情の多くは謎に包まれている。尊像を収めていた仏殿は、一三三四(建武元)年と一三六九(応安ニ)年に大風で損壊したらしいー五世紀以後、同仏殿が再建された形跡は認められない。台座を含む総高約十三.四m、仏身高約十一.三m 重量約一ニ一t鎌倉大佛殿 高徳院」と御参拝券の裏には。入口のソメイヨシノも満開。「鎌倉大仏」を正面から。外部からは全く見えない大仏の姿がようやく目の前に。境内の桜・ソメイヨシノをカメラで追う。ソメイヨシノ越しに大仏の姿を。ズームして。建造当初は金色に輝いていたと推定されている鎌倉大仏(阿弥陀如来坐像総高13.35m、仏身高11.312m・重量121t)。金箔とも鍍金とも言われている。大仏前の「蓮常花(三世の蓮)」一対(右)三世の蓮はそえぞれ蓮の実(過去・前世)、花(現在・現世)、蕾(未来・後世)を表すのだと。「蓮常花(三世の蓮)」一対(左)。大きな青銅製灯籠一対(左)。大きな<青銅製灯籠一対(右)。大仏前の「阿弥陀三尊香炉」には、阿弥陀如来の脇侍(きょうじ)の観音菩薩(左)と勢至菩薩(右)のレリーフが。大仏のお顔をズームして。目を閉じているように見えるが、よく見るとうっすら眼を開けているのが分かるのだ。薄目で万物を等しく見守ってくれていると。完成当時は金箔が施され、屋根のある大仏殿に安置されていたが、度重なる天災の影響により、現在のような露坐(屋根のないところに座ること)となっているのだ。この日は、大きな柑橘・「晩白柚(ばんぺいゆ)」が奉納されていた。手の指で「輪」を結んでいる印相は最も格式が高い「定印(じょういん)」・上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)と呼ばれ、仏様が深い瞑想に入られている姿を表しているのだと。斜めから。「礎石」。創建当初に大仏像を収めていた堂宇は60基の礎石に支えられていたとのこと。今も境内に遺る同礎石は56基だと。礎石と知らず?腰を下ろす方多し。右手にあったのが「奉納大藁草履(ほうのうおおわらぞうり)」。大仏像に向かって右側の回廊内壁に常陸太田市松栄町に活動拠点を置く松栄子供会によって奉納された長さ1.8m、幅0.9m、重量45kgに及ぶ藁草履があります。この草履の制作・奉納は、戦後間もない昭和26年に「大仏様に日本中を行脚し、万民を幸せにしていただきたい」と願う茨城県久慈郡(現常陸太田市松栄町)の子供たちによって始められ、松栄町会では昭和31年以降も3年に1度、藁草履の制作をして寄進を続けていると。大藁草履の近くに寄ってみると、その大きさが際立つのであった。「大仏様の藁草履常陸太田松栄町(旧郡戸村)の松栄(まつざか)子供会によって奉納された、長さ1.8m、幅0.9m、重量45kgにも及ぶ藁草履です。この草履の制作・奉納は、戦後間もない1951年、「大仏様に日本中を行脚し万民を幸せにしていただきたい」と願う、茨城県久慈郡(現常陸太田市松栄町)の子供達によって始められました。松栄町会はその事績も後世に伝えつつ、1956年以降、3年に一度巨大な藁草履の制作を試み、当院への寄進を続けておられます。」「国宝鎌倉大佛因由この大佛像は阿弥陀仏である。源頼朝の侍女であったといわれる稲多野局(いだめのつぼね)が発起し、僧浄光が勧進(資金集め)して造った。零細な民間の金銭を集積して成ったもので、国家や王侯が資金を出して造ったものではない。初めは木造で暦仁元年(1238年)に着工し6年間で完成したが、宝治元年(1247年)大風で倒れたので、再び資金を集め、建長4年(1252年)に至って現在の青銅の像を鋳造し、大仏殿を造って安置した。原型作者は不明であるが、鋳工として大野五郎右衛門や丹治久友の名が伝えられる。大仏殿は建武元年(1334年)と慶安2年(1369年)とに大風で倒れ、その都度復興したが、明應7年(1498年)の海潮に流失以来復興せず、霊像として知られるに至った。大正12年(1923年)の大震災には台座が崩れ、仏像は前に傾いたが倒れなかった。大正14年(1925年)台座を補強し仏像を台座に固定せしめる耐震構造の修復がなされた。昭和35年(1960年)〜昭和36年(1961年)の修理では、前傾している頭部を支える頭部の力を、強化プラスチックで補強し、大正修理でなされた耐震構造を改め、大地震の際は、台座と佛体が離れる免震構造が施された。この強化プラスチックの利用と台座の免震構造は、日本の文化財としては最初のものである。総高(台座共) 13.35m青銅佛身高 11.312m面長 2.35m眼長 1.00m眉長 1.24m口広 0.82m耳長 1.90m眉間白毫径 0.18m眉間白毫高 0.15m螺髪高 0.18m螺髪径 0.24m螺髪数 656個佛体重量 121トン(32670貫)」「浄土宗 開宗 八百五十年浄土宗を開宗した法然上人(みぎ)は夢の中で中国・唐時代の高僧、善導大師(左)に対面されました。この夢によって自身の進むべき道に確信を得た法然上人は、人々に生涯をかけて念仏の教えを広められました。」浄土宗の宗祖・法然上人は、1175年(承安5年)に浄土宗を開かれました。2024年(令和6年)に、浄土宗は開宗850年を迎えます と。「第五十五回 慈善茶会」が令和5年5月13日(土)に開催されると。再び横顔を。さらに廻り込んで。「お願い御尊像の胎内は狭小につき、安全確保のため、入場者数を常時三十名までに制限させていただいております。胎内におられる拝観者数が定数に達しました場合は、しはらく胎外にてお待ちいただく場合もこざいますが、何卒こ容赦ください。また、胎内は薄暗く急な階段も設置されておりますので、ご高齢、ご幼少の方、身障者による単独での参拝は、こ遠慮ください。なお、御尊像は信仰の対象であります。胎内にて大声をだすなどの迷惑行為は厳に慎み、敬虔(けいけん)な態度にてこ拝観くださいますようお願い申し上けます。」横顔をズームして。そして背面から。この窓はなんのために設けられたものなのだろうか。文献が残っておらず確かではないが、大仏鋳造の際、中の土や型を取り出すために設けられたのではないかと言われているのだと。現在は、胎内を拝観する際の明り取り窓になっているようだ。鎌倉大仏の背後に並べられた4枚の「蓮弁」(れんべん)は、江戸時代中期のもので、台座の修復の際に鋳造されたもの。当初は32枚の蓮弁が鋳造される予定だったそうだが、完成したのは4枚のみだったのだという。※「蓮弁」は、ハスの花弁を形にしたもので、仏の台座の装飾に用いられているもの。[南無阿弥陀佛]増上寺大僧正祐天(花押)【右】稲多野殿 建長五癸丑年五月二十三日【左】白土忠左衛門南無阿弥陀佛伝誉道悟山本長衛門【裏】松誉誓心信女南無阿弥陀佛結衆 方誉西孜 正誉直念常誉蓮孜 覚誉転入体誉至白 専誉西蓮信誉是心 清誉須人風誉通年 西順善誉无白 須孜立誉直生 念西念誉一夢 直念初誉専未 唯称本誉壇涯上人是心建久6年(1195)、奈良東大寺再建供養会に参列した源頼朝が、鎌倉にも大仏建立を発願したが果たせずに没し、その後、源頼朝の侍女であった稲多野局が頼朝の意思を引き継ぎ、僧浄光が勧進して造ったといいます。そして、次に鎌倉大佛の裏に向かい、桜を追う。奥にあったのが「与謝野晶子 歌碑」。「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな 晶子」【左】鎌倉大佛造立七百年記念奉讃 昭和二十七年四月 味の素株式會社鎌倉大仏は実は「釈迦牟尼」ではなく「阿弥陀如来」。そして「美男」も作者・与謝野晶子の間違いである とネットから。与謝野晶子歌碑は見にくいので、その説明であろう。右手は、与謝野晶子の実筆なのであろうか?左奥にあったのが「観月堂」。高徳院のこの「観月堂」は、もともと、李氏朝鮮の漢陽(現在のソウル)の王宮にあった建物だと。その名の通り月を眺めるための建物で、おそらくは今よりも広々とした場所に、優雅に建っていたのであろう。しかし、ある時、借金の担保として朝鮮拓殖銀行に受け渡されてしまったと。その後、朝鮮拓殖銀行の経営危機に際して山一合資会社(廃業した山一證券)が融資を行った際に、銀行から山一合資会社に提供され、日本に渡ったと。日本に来てからは、東京都にあった旧山一證券の創業者杉野喜精氏の私邸にあったが、1924年(大正十三年)、同氏によって高徳院に寄贈されたのだと。「観月堂と観音像丹青に彩られたこの建物は、もとはソウルの朝鮮王宮にあったもので、1924 (大正13 )年、杉野喜精氏によって当山へ寄贈されました。鎌倉三十三覬音霊場2 3番札所ともなっている当山では、今日、この建物のなかに江戸後期の作品とみられる木造の観音菩薩立像を安置しています。」これは歌碑であろうか。これは判読できず。「大佛道」碑。【裏】大正十五年十月重建 鎌倉大佛殿 轉法輪行念再び大仏を。「国宝 銅造阿弥陀如来坐像 、国指定史跡鎌倉大仏殿跡」案内板。「国宝銅造阿弥陀如来坐像 昭和33年2月8日指定国指定史跡鎌倉大仏殿跡 平成16年2月27日指定高徳院本尊の「銅造阿弥陀如来坐像」は鎌倉大仏とも呼ばれ、国宝に指定されています。日本有数の銅造大仏で、建長4年(1252 に鋳造を始めたと史料にみえる「金銅八丈釈迦如来像」がこの大仏であるとされています。完成時期はわかっていませんが、文永5年(1268)ごろまでには大仏殿も建てられていたと考えられ、管理していた寺院は大仏殿、大仏寺、鎌倉大仏寺などと呼ばれていました。大仏殿は災害により何度か倒壊し、その度に大仏の修理が行われたようです。境内では平成12年(2000 )と13年(2001)に発掘調査が行われ、桁行(横) 145尺(約44m )、梁行(縦) 140尺(約42.5m )を測る五間裳階付の大仏殿であったことがわかりました。また、中世の瓦が出土しないことから、大仏殿は瓦葺きではなかったと推定されています。このほか、大仏に向かって斜めに高くなるよう堆積している地層が確認されており、大仏の鋳造過程を示すものと考えられます。大仏は15世紀末以降、現在と同じように露坐となり、相次ぐ災害によって荒廃しました。高徳院は、正徳2年(1712)に増上寺の祐天上人、浅草の商人・野嶋新左衛門らが大仏の復興を発願して建立した寺院です。復興された大仏の開眼供養は、元文2年(1737)に高徳院住職の養国上人によって行われ、今に至っています。」この日の大仏様に別れの挨拶をして「鎌倉大仏殿高徳院」を後にしたのであった。鎌倉・長谷寺での墓参りそして長谷寺、鎌倉大仏殿高徳院の逍遥を楽しんだ後は「大仏前」駅から江ノ電バスに乗り、JR藤沢駅への帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.09
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鎌倉・長谷寺の石段を下り、「放生池」に向かって進む。黄色い花は一重の「山吹(やまぶき)」。和名「山吹(やまぶき)」の語源は、古くは「山振(やまぶり)」と書かれ、これが転訛したものとされる。ヤマブリの由来は、細くしなやかな枝が、風に振られて揺れ動く姿にちなむといわれる。そして「石楠花(しゃくなげ)」。そして「放生池」まで下りる、その先に「山門」。青竹から「放生池」の中の岩の上に清水が落ち込んでいた。こちらは「木瓜(ぼけ)」の花。手前に赤い木瓜の花。その後ろにピンクの木瓜の花。左に進むと可愛らしい「和み地蔵」が迎えてくれた。正面にあったのが「書院」への「山門」。長谷寺の「書院」は、2013年(平成25年)に竣工した「写経場」👈リンク。毎日写経・写仏ができるとのこと。「書院」の枯山水庭園。そしてこちらは「大黒堂」。長谷寺の大黒堂に安置されているのは「出世開運授け大黒天」。鎌倉・江の島七福神の一つ。毎年9月26日には、「大黒天縁日祈願祭」が行われている。近づいて。扁額は「出世大黒天」。「大黒堂」の内陣。「大黒堂」に安置されていた「さわり大黒」。「ご利益が授かるよう、おさわり下さい」と。私も頭を撫でさせて頂きました。近づいて。そして「福徳弁才天」を祀る「弁天堂」。扁額は「福徳辯才天」。「弁天堂」に祀られた「福徳弁才天」。「弁天堂寺伝によれば当山の八臂(はっぴ)の弁才天像は、弘法大師が廻国修行の折、当山の岩窟に参籠し感得して自ら刻まれた尊像といわれ、江戸時代には「出世弁才天」の名で世に知られていました。現在その尊像は観音ミュージアムに収蔵されています。(通常非公開)このご本尊に代わり、堂内には「福徳弁才天」がお祀りされ、広く皆様にご利益をお授けしています。」「弁天窟」入口。下の境内の放生池を過ぎた辺りに、弘法大師参籠の地と伝わる弁天窟があり、その名にちなみ窟内壁面には弁財天とその眷属である十六童子が彫られているほか、弁財天と同じ神様であるとされる民間信仰の宇賀神(人頭蛇身)もお祀りされていた。弁天窟十六童子 一覧。「善財童子」。中央に「弁財天」。腰をかがめて洞窟の先へ進んだのであった。 小さな弁天様の人形に願いを込めて奉納できます。ひとつひとつにそれぞれの願いが・・・。 そして外に出て向かったのが「高山樗牛住居跡碑」「高山樗牛 ここに住む」と。「高山樗牛住居碑高山樗牛(林次郎一八七一~一九〇二)は明治を代表する評論家・思想家そして文学者であったが三十一歳にして早世 短いながらも最晩年を長谷寺境内にて過ごした由緒と、その文筆活動を顕彰するため、大仏次郎等当時の文化人が発起人となり昭和三十四年に建碑する。」そしてこちらは「久米正雄像」。「久米正雄 胸像一八九一年長野県上田市に生誕。俳人劇作家、漱石門下の小説家として活躍、鎌倉ペンクラブの初代会長でもある。関東大震災の際、長谷寺にて難を逃れ戦中には当山復興にも尽力した所縁により、氏の三回忌にペンクラブが建立。」「ふれ愛観音」と「梶山観音」「ふれ愛観音」は、誰でもが触れて拝み、御利益を受けることのできる観音さま。目の不自由な方にでも仏様の姿がわかるようにという願いから作られ、京都の清水寺などにも置かれているとのこと。「梶山観音」の由来は???「椨(たぶ)の木」。「椨(たぶ)の木霊が宿る木とされていたことから、「霊(たま)の木」と呼ばれ、それがしだいに「たまのき」→「たぶのき」に変化していったとのこと。椨の木の樹皮の粉から、線香が作られるとのこと(粘結材)。タブノキ(タブ)に当てた漢字「椨」は「国字」👈リンクで、タブの「ブ」を「府」で表したものである と。長谷寺の外に出て山門前の石仏を。「十一面観音像」と「錫杖と宝珠を持つ石仏・地蔵様」。そして「鎌倉・長谷寺」を後にして、途中「鎌倉オルゴール堂」に立ち寄った。鎌倉市で唯一のオルゴール専門店。鎌倉オルゴール堂のオリジナルオルゴールをはじめ、光り輝くLEDオルゴール、ガラスの天使オルゴールなど様々なオルゴールが展示されていた。情緒あふれる館で幻想的な音色を楽しめるのであった。店頭のアンティークな雰囲気の「からくり時計」👈リンク。高さ約3メートル。午前9時から午後6時の間、毎正時(しょうじ)に約1分間、「大きな古時計」や「星に願いを」「花のワルツ」などのメロディーとともに正面の時計盤がくるりと回転し妖精たちが現れるのだ。店内に入る。正面に「鎌倉彫オルゴール」。その他に大仏オルゴールやあじさい押し花オルゴールなどがあり鎌倉観光のお土産にもおすすめですと。「木製からくりオルゴール」。様々な歌手のヒット曲オルゴール。オルゴール時計。様々な種類のオルゴールが販売されていた。ラッパ型蓄音機風オルゴールであっただろうか?そして次の目的地の「鎌倉大仏」への途中で、「生&釜揚げシラス丼」を楽しみました。店の名は忘れてしまいました。以前は「鎌倉聖敷や」の店があった場所であったが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.08
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墓参りの後の「鎌倉・長谷寺」の境内の散策を続ける。石造「釈迦如来坐像の周りに「四天王」像が。四天王はそれぞれ守る位置が決まっていると。持国天:東 増長天:南広目天:西 多聞天:北 と。中央・「釈迦如来坐像」。「広目天」。右手に筆、左手に巻物を持つ。 「増長天」。足下に邪鬼を踏みつけ、左手に戟(げき)を持ち、右手を腰に当てた姿。「持国天」。足下に邪鬼を踏みつけ、右手に剣を持つ姿。「多聞天」四天王の中の一角として呼ばれるときは「多聞天」と呼ばれ、単体で御尊像として祀られるときは「毘沙門天」と呼ばれる。妻は吉祥天という福の神足下に邪鬼を踏みつけ、宝塔を右手に翳し(かざし)左手には宝棒(仏敵を打ち据える護法の棍棒)を持つ。「仏足石」。釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたもの。「長谷寺展望台」から由比ヶ浜方面を望む。遠く相模湾の先に「逗子マリーナ」が。「本堂(観音堂)」を振り返る。石造「聖観世音菩薩尊像」。見上げて。台座には高浜虚子の句が。「永き日の われらが為めの 観世音 虚子」と。境内の満開の桜・ソメイヨシノを見上げて。ヨーロッパ、台湾からか、多くの観光客の姿が。濃いピンクの花「ミツバツツジ」。葉が3枚輪生(車輪状・放射状になってつくつき方)することから、名の由来になっている と。「釈迦如来坐像」「四天王」像を横から見る。清流には大きな鯉がのんびりと。「輪蔵」を納める「経蔵」手前の石庭。奥の大きな大野万木句碑には「観音乃 慈顔尊し 春乃雨」と。「大野万木句碑大政治家・衆議院議長・国務大臣大野伴睦は俳句作家万木でもあり慈悲の権化観世音菩薩の敬虔な信者没後信者有志により境内に選句し句碑を建立」。そして「経蔵」を訪ねた。「経蔵」は「一切経」を収める建物であると。扁額は「轉輪蔵」と。「経蔵」内にある「輪蔵」と呼ばれる、「一切経」を収める八角形・回転式の書架。一回転させると一切経のすべてを読んだのと同じ功徳が得られるのだと。「輪蔵」の下部は輪蔵軸が露出する組物構造。「毎月十八日に廻すことができます」と。「輪蔵」の上部。「マニ車(摩尼車)」「マニ車(摩尼車)」は経文が納められている筒。真ん中にマントラが刻まれている。マントラは「サンスクリット語」で刻まれていて、日本語では真言とも言われ、神秘的な力を持つとされる語句である と。「輪蔵一切経(仏教経典のすべて)を収める建物を経蔵と呼び中央の八角形の回転式書架を輪蔵と言います。 輪蔵の腕木を押して一回転させると一切経すべてを読んだのと同じ功徳が得られると言われています。輪蔵は観音縁日(毎月18日)等に回すことができます。マニ車(摩尼車)円筒状の側面にマントラが刻まれ中には経文が多数収められています。マニ車を回転させるとその数だけ経典を唱えるのと同じ功徳があると言われています。」矢印に沿ってお回しください」ズームしたこの花はシャクナゲ (石楠花、石南花)であっただろうか。5枚の葉が放射状に。こちらも赤のシャクナゲ (石楠花、石南花)。再び「本堂(観音堂)」を見る。巨大な「石灯籠」。「手水舎」。そして「阿弥陀堂」。扁額は「厄除阿弥陀如来」と。そして石段を下り、再び「地蔵堂」に立ち寄る。長谷寺に帰依する人々の発願で建立されたという「地蔵堂」。現在の建物は2003年(平成15年)に建て替えられたもの。堂内には、子安・繁栄にご利益のある「福壽地蔵」が安置され、堂の周囲には「千体地蔵」が並べられている。かつてこの場所には、源頼朝の「厄除阿弥陀」を安置する阿弥陀堂があったのだという。「福壽地蔵」。地蔵堂の周囲には、子安・繁栄にご利益のある「千体地蔵」が安置されていた。地蔵堂の周りには無数の水子地蔵が。手前に「六地蔵」。「地蔵堂」の裏側にも。ズームして。それぞれの顔が微妙に異なるのであった。様々な場所から。「千体地蔵とは各家の先祖供養や水子の供養のために奉納されます。お申し込みはどなたでもできますのでご希望の方は観音堂へお申し出下さい。ご供養される方へ数年おまつりしたお地蔵さまは、浄火供養のお焚き上げをしておりますが供養は続きますのでご安心下さい。 毎月十八日 観音会 三月十八日 夏季彼岸会 七月十八日 観音施餓鬼会 九月十八日 秋季彼岸会の行事が奉修され、諸霊の供養をいたします。各行事はどなたでもご参加自由ですのでどうぞお参り下さい。 長谷寺」ここにも「六地蔵」が。「卍池」の隅から清水が溢れ出ていたが。ポンプで送水?梵字が刻まれていた。「カ・地蔵菩薩」であろうか。「千体地蔵」はそそれぞれ顔の表情が異なっていたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.07
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この日は3月27日(月)、地元の日本大学藤沢校舎周辺の花見を楽しんだ後は、小田急線を利用してJR藤沢駅に向かった。この日は鎌倉・長谷寺の合葬墓に眠る元同僚の墓参りに。連れのお二人と合流し江ノ島電鉄・藤沢駅に向かう。改札を入ると花時計と美しい江の島そして富士山の夕景の写真が正面に。江ノ島電鉄(江ノ電)が、3月18日にダイヤ改正を実施した。 運転間隔を従来の12分から14分に拡大するもので、同社によれば「71年ぶり」の大規模な変更。始発や終点の駅での折り返し運転をする際に、2分の余裕を持たせ、これまでギリギリだった乗客の乗り降りや、乗務員の入れ替えを確実に行い、列車の遅延を防ぐ狙いがあると。さらに江ノ電は歴史的に路面電車として開業したのが発祥のため道路併用区間が残っていること、単線で列車交換設備が少ないことから12分間隔運転であっても道路併用区間での渋滞よって余裕時分が少なく遅延しやすくなっているとのこと。ここ数年、新型コロナの影響で、乗客が減少した?ことも背景にあるのだろうか?起点の藤沢駅の時刻で見ると、改正前の86本に対し、改正後は75本と12%ほどの削減となる。これが変更前の始発駅の「藤沢駅」(左)、「鎌倉駅」(右)の時刻表である。これまで、深夜・早朝を除き1時間・60分の約数の12分間隔で走っていたので、時刻表はどの時間帯を見ても同じ数字が並び、わかりやすくなっていたのであった。我が地元の「藤沢駅」(写真左)であれば、早朝、深夜を除き11、23、35、47、59と同じ数字が並んでいた。もちろん「鎌倉駅」(写真右)も00、12、24、36、48で同じ。そして下がダイヤ変更後の時刻表。14分間隔の14は60の約数ではないため、出発時刻はバラバラになってしまったのであった。ネットによると「7時とか8時とかぴったりの時は『7えの』とか『8えの』って呼んでた」。 鎌倉駅から乗る場合、以前の12分間隔だと、毎時間0分ぴったりに電車が出発する。その電車を、例えば7時だったら「7えの(7:00発)」、8時だったら「8えの(8:00発)」と呼んで、高校生等若者の間ではこの言葉が浸透していたと。「待たずに乗れる」という以上に、沿線住民に浸透しきっていた「記憶に染みついたダイヤ」。それを手放してまで、ダイヤ改正に踏み切る鉄道会社側の事情があったのだろう。そして11駅、33分での移動で「長谷」駅で下車し、徒歩で5分強の「長谷寺」の「山門」前に到着。「山門」は昭和の建立だが、妻側をみると、親柱の上に、三斗に支えられた虹梁がわたり、その上に大瓶束(たいへいづか)が載り、笈形(おいがた)が両脇に配されていて、四脚門としては、市内で有数の堂々としたもの。場所を移動して横から見上げて。長谷寺の山門には長谷寺のシンボルの真っ赤な巨大な提灯が。相変わらず迫力満点。「長谷寺」案内板と「文学案内板」。「長谷寺●宗派 単立(浄土宗)●山号寺号 海光山慈照院長谷寺(かいこうざんじしょういんはせでら)●建立 天平8年(736)●開山 徳道上人本尊の十一面観音像は日本最大級の木造の仏像です。寺伝によると、開山の徳道上人が大和国(奈艮県)初瀬の山中で見つけた樟(くすのき)の巨大な霊木から、二体の観音像が造られました。一体は大和長谷寺の観音像となり、残る一体が衆生済度の願いが込められ海に流されたといいます。その後、三浦半島の長井浦(現在の初声あたり)に流れ着いた観音像を遷(うつ)し、建立されたのが長谷寺です。境内の見晴台からは鎌倉の海が一望でき、また、ニ千株を超えるアジサイをはじめ、四季折々の花木を楽しめます。」「文学案内板 長谷寺境内境内にある文学碑を紹介します。◯高山樗牛記念碑 高山樗牛ここに住む 宮本和吉書 裏面「樗牛高山林次郎は1871年(明治4年)山形県鶴岡に生まれその文明批評は識見と 情熱をもって一世に聞えた。1901年秋よりこの地に住み1902年12月24日平塚杏雲堂 病院に逝く 1959年5月 建碑世話人(後略)」 31歳で天折した樗牛の著作は博文館版「樗牛全集」全7巻に収められている。○高浜虚子句碑 「永き日のわれらが為めの観世音」虚子。 俳人、高浜虚子は1874年愛媛県に生まれた。正岡子規に兄事。 「ホトトギス」を主宰して花鳥諷詠を提唱した。1959年に鎌倉で死去。代表作に 「五百句」「虚子俳話」がある○久米正雄胸像。 小説家、久米正雄は1891年長野県に生まれた。東大在学中に芥川龍之介、菊池寛らと 第三次、第四次「新思潮」を創刊。夏目漱石門下となる。後年は流行作家として活躍。 三汀と号して句作もした。1952年に鎌倉で死去。代表作に「破船」「学生時代」が ある。像は、昭和29年鎌倉ペンクラブにより建てられた○大野万木句碑 「観音の慈願尊し春の雨」万木。 裏面「時めく大政治家前衆議院議長国務大臣大野伴睦氏は、一面純情高節の人である。 氏が俳句作家の万木であり、慈悲の権化観世音菩薩の信者であり(後略)」 1953年6月8日建てられた。 平成6年12月 鎌倉文学館(長谷1-5-3・電話23-3911)」「長谷大観音」碑。こちらは「坂東四番 長谷觀世音」碑。側面には「勅願所 長谷寺」と刻まれていた。「山門」を横から。「境内図」。ズームして。そして拝観料/入館料・大人(中学生以上):400円を奉納し、境内へ。境内から「山門」を見る。池は、左から「妙智池」、「放生池」と並び、鯉がゆうゆうと泳ぎ、山際には滝もあり、回遊しながら、季節の花や木々を楽しむことができるのであった。まずは、同僚のOさんの眠る合同墓に向かう。合同墓は「鐘楼」の先の墓地入口前にあると受付で確認。石段の横には白いシャクナゲ (石楠花、石南花)の花が開花中。正面に「地蔵堂」右手の「卍池」には「奪衣婆(だつえば)」と「懸衣爺(けんねおう)」が座っていた。写真を撮ったときは気付かなかったが、ちゃんと卍の形をした池になっているのであった。「卍」は、インドでは幸運のシンボル「吉祥紋」とされ、仏教が日本に伝来した時に寺院を表わすマークになったのだ と。ヒンドゥー教ではこれを「ビシュヌ神の印」としている と。そして、その先には「千体地蔵」が。不幸にしてこの世に生まれることのできなかった子供たちのために、無数のお地蔵様が供えられていたのであった。手前には「水かけ地蔵」、水をかけると幸運になれるとのこと。しかしこの日の目的は同僚の「墓参り」!!反対側にも「千体地蔵」が並ぶ。取り急ぎ、Oさんの眠る合葬墓に向かう。正面に「鐘楼」。そして墓地の入口に到着。多くの歴史を感じさせる墓石が並んでいたがこれより先には入れなかった。「合葬墓」に到着。合葬墓には「永代有縁墓」と刻まれていた。自宅から持って来た線香にチャッカマンで火を付けて墓参り。秦野から同僚、そしてOさんの上司であり早く亡くなってしまったAさんの奥様もこの日の墓参りに参加して下さいました。「永代有縁墓」を正面から。2年に亘る癌の闘病の中、一昨年逝ってしまった同期入社のOさん。その間、今回もご一緒したFさんとも何回か会い励ましたのであったが・・・。去る3月15日に三回忌の法要を執り行ったと奥様からメールを頂いていたのであった。彼の告別式はコロナ禍で家族葬であり、参列できずにお別れが出来なかったのであった。その後、Fさんとご自宅に伺い、祭壇にお線香をあげさせて頂いたのであったが、墓前の墓参りをしたいと思い続けていたのであった。「永代有縁墓(えいだいうえんぼ)当山において全ての管理とご供養を行う合葬墓です。どなたでもお申し込み頂けますご案内は寺務所へ 長谷寺」近づいて。七重の塔が刻まれていた。墓参りを済ませ、しばしの「長谷寺」の散策に。まずは「阿弥陀堂」へ。長谷寺の阿弥陀堂に安置されている「阿弥陀如来像」は、源頼朝が42歳の厄除けのために建立したという伝承から「厄除阿弥陀」と呼ばれている。近づいて。脇侍の「如意輪観音像」は、2017(平成29年)に開眼供養が行われた像で、2021年(令和3年)に金箔が施されたのだ。そして「阿弥陀堂」の隣にあったのが「本堂(観音堂)」。「本堂(観音堂)」内はカメラ撮影禁止であったので、以下の写真はネットから。「十一面観音像」長谷寺に伝わる話によると 、こちらにまつられている観音さま(十一面観世音菩薩:じゅういちめんかんぜおんぼさつ)は、奈良時代の721( 養 老 5 )年 、僧侶である徳道上人(とくどうしょうにん)が楠(くすのき)の 霊 木から2体 の観音さまを造り、そのうち1体を大和国長谷寺(奈良県桜井市初瀬)にまつり、残りの1体を海に流したのだとその1体は15年間もの間漂流し、736(天平8)年、相模国長井の浜(現在の横須賀市長井)に打ち上げられた。そこから現在の場所まで人々が力をあわせて運び、ご本尊として鎌倉の長谷寺が創建された と。徳道上人がこちらの観音さまを造られてから1300年を記念し、昨年・2022(令和4)年12月18日まで長谷寺では「長谷寺1300年プロジェクト」としてお参りされる人々をお迎えしていた。いつもは、観音さまの膝下は仏具や供物などで全身のお姿を拝見することができないが、期間中は全身を拝見できるようなしつらえになっていたのであった。また、例年であれば12月18日にのみ行われる観音さまの足先に手を触れて、ご縁を深めることのできる「御足参り(みあしまいり)」も下の写真の如く毎日行うことができたのであった。長谷寺のこの「十一面観音像」は、右手に錫杖を左手に蓮華の花瓶を持ち、蓮華座ではなく岩座に立つという独特の像であることから「長谷寺式十一面観音」と呼ばれる。金箔は足利尊氏が施し、光背は足利義満が納めたと伝えられている。本尊は十一面観世音菩薩像。木彫仏としては日本最大級(高さ9.18m)の尊像で、坂東三十三所観音霊場の第四番に数えられる。隣にあったのが「観音ミュージアム」。平成27年、長谷寺宝物館の開館35周年を迎えるにあたり、老朽化の進んだ設備を刷新し、これまでの寺宝の展示だけでなく、鎌倉長谷寺の本尊である「観音菩薩」を主題とした博物館「観音ミュージアム」へと新生した。日本に伝わり、広められた仏教のなかでも、とりわけ多くの人々に敬われた「観音菩薩」の教えを展示と映像によってわかりやすく紹介しているのであった。この日は「観音ミュージアム」館内へは入らなかったが。入口にあった「聖観音菩薩像」。「聖観音菩薩像昭和12年(1937)作 ブロンズ古来より日本人が最も敬愛してきた御仏、観音菩薩。その慈悲深き心は母のごとき愛情に満ち、救いを求める者のもとへたちどころに現れるという、現世利益を体現した御仏であります。故北村西望によって制作された本像は、人々の心の安寧を約束する平和の象徴として当山に納められました。北村西望(1884-1987)長崎県に生まれた作者は、同地の平和祈念像の制作でも知られる、日本屈指の彫刻家。昭和33年(1958)には文化勲章を受章し、文化功労者となりました。」 ・・・つづく・・・
2023.04.06
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更に「明治商家中瀬邸」邸内に展示されている懐かしい映画ポスターを追いかける。「加山雄三」主演の「太陽は呼んでいる」。劇場公開日:1963年9月29日。「ギラギラと輝く真夏の太陽を背にうけて、東京から一人の男が黒潮洗う伊豆の漁港にやってきた。彼の名は昭作、精悍な風貌、逞しさのなかにどこか暗い過去をしのばせる。欠けた小指がその証拠だ。昭作は連絡船の中で、この海を漁場とする入瀬村の蓬莱組の網元与助と知りあった。与助は“故郷に帰る前に一稼ぎしたい”というこの若者に漁師になってはと勧めた。女房に先だたれた与助は美代、すげの二人の娘と平和な暮しをしていた。昭作を一目みたときからすげは強くひかれた。彼女は船に寝泊りして働く昭作の世話をするようになった、暗いがどこかに自分と同じようなものをもっていると思ったのだが昭作の心は、初めてあった時の美代の夕陽に輝く白い肌と美しい瞳が焼きついていた。そんな平和な生活も漁場の縄張り争いにすいこまれていった。伊豆の海は蓬莱組と御崎村の大勝組で漁場争いし、激しくゆれていた。蓬莱組の若い衆は話し合いで解決しようとする与助の言葉を聞かず絶えず喧嘩が続いていた。折も折、蓬莱組の追い込んだ魚群に大勝組が突っ込できた。だが与助は船をひいた。おさまらない若者たち“流れものなら迷惑もいいだろう”大勢の見守る中、昭作は敵のイケスを破る決意をした。“昭作さん行っちゃだめ……”すげは必死に叫んだ。イケスを死守する御崎村の幸三、まっしぐらに進んでゆく昭作の不敵な影が太陽をうけギラリと光った。」とネットから。「太陽は呼んでいる井上の「潮の光」を映画化したもの。加山題三主演の若大将シリーズの東宝映画で、昭和38年(1963年)に公開されました.漁場争いで荒れる伊豆の港町を舞台に、そこに流れついた一人の若者の激情と素朴な恋を描いた作品で、松崎町の岩地地区が港町の舞台となっています。県道(現在の国道136号)開通前の昭和38年に、岩地に東京から映画のロケ隊が来ましたが、当時、岩地には外来者を泊める施設がなかったので、映画俳優たちは民家に分宿してもらいました。三浦地区に民宿が開業したのはこれを機にしてのこと。」。「山口百恵」主演の「エデンの海」 劇場公開日:1963年8月31日。「瀬戸内海に望む女子高校に、東京から青年教師南条が赴任してきた。明るい南条の人柄はたちまち生徒たちの人気を集めた。ひとり清水巴という勝気な少女だけは、いつまでも反抗的態度を捨てない。この巴と南条が、運動会で盲唖競走にコンビで出場したが、勢いあまって来賓席にとびこみ、巴は気絶してしまう。やがて気づいた巴は恥かしそうに「先生、あたしおしっこしちゃった」と打ち明けた。南条は下着を買ってやった。このことが評判になり、南条は彼の人気をねたむ教頭黒木らのつるし上げを食うが、もちろん真相は明かさない。そこへ巴がとびこんで、泣きながらすべてを語った。以来、二人は明るい師弟愛で結ばれた。夏休み。南条は同僚増川節子から講習に誘われ上京したが、突然、巴がやってきた。巴は、南条が節子と一緒なのを知って初めての東京へ飛び出して行き、南条を困らせるのだった。新学期、恒例の遠泳で巴は錨で大ケガをしたが、南条の輸血や介抱で一命をとりとめた。数週間後、南条はまだ登校しない巴を探しに丘へ出た。裸馬を駆って若さを発散させている巴の美しさ、南条はびっくりした。巴は何を思ったか南条を馬に乗せ、町を駆抜けて校庭に乗り入れた。驚き呆れる人々の眼。しかし、南条は「つもったウップンがやっと晴れた」という巴をいとしく思うのだった。こんな事件で、南条は辞任して帰京することになった。つれて行ってくれと頼む巴に、南条は「人を愛することは厳しいことだ。君のことを忘れ去れなかったら迎えにくる」といって去って行くのだった。」とネットから。「エデンの海「エデンの海」は、若杉慧の小説で、瀬戸内の小さな高校に、東京から赴任してきた新任の教師と、自由奔放な女子生徒の交流を描いています。3度にわたり映画化されましたが、3回目の1976年に公開された山口百恵が主演、南條豊が共演の映画では、松崎町がメインのロケ地となっています。舞台となった波崎女子高等学校は松崎高校がロケ場所となっており、グラウンドでの運動会や街中を馬で駆け抜けるシーン、南條先生が町を去る場面などで、松崎の風景が映しだされています。」「ハナ肇」、「岩下志麻」主演の「いいかげん馬鹿」 劇場公開日:1964年4月29日「捨て子の安吉は源太爺さんに拾われ、瀬戸内海の平和な島で自由気ままに育った。そのころ疎開してきた少女弓子は、安吉にとって近づき難いアイドルであった。ある日安吉は弓子に海の底の魚をみせてくれとせがまれ、二人は海に小舟をのりだした。しかし舟は沖に流され、やっとの思いで救け出されたものの、安吉は源太爺さんにこっぴどく怒られたことから島を逃げ出した。それから十年、弓子は岡山大学に通学し、安吉はすっかり調子のいい男になっていて、島の文化に貢献するという触れ込みで三流楽団を連れて帰ってきた。しかしインチキ楽団といかがわしいショウですっかり信用をおとした。おりもおり源太爺さんの弟茂平がブラジルで成功して帰ってきた。安吉はそれに便乗し、ブラジルへ行くことを宣伝したが、捨て子の彼には戸籍が無いため渡航は出来なかった。引込みがつかなくなった安吉は、密航を企てたが失敗した。町は、安吉の馬鹿さかげんを笑うことで話題が賑った。それから一年安吉は小説家舟山を連れて帰って来た。村長はこの機会に島を大々的に紹介してもらおうと、連日大サービス。しかし舟山は偽物とわかり、安吉はまた借金をしょいこんでしまった。だが舟山が書いたドラマに島が紹介されたため島はレジャーブームでわきかえった。勢いづいた安吉は底をガラス張りにした観光船をつくったがそれが沈んでしまい、またまた島を逃げ出した。時が流れ、島には沈まない水中観覧船が出現し島は安手な観光地に変っていった。小学校の先生となった弓子は修学旅行で大阪に行き、水中メガネを売る安吉の姿をみつけた。弓子の声に振りかえった安吉の首にはいつか贈った赤いスカーフがまかれていた。」とネットから。「いいかげん馬鹿1964年に松竹が制作、公開した山田洋次監督の映画。瀬戸内の小さな島の漁村の物語。捨て子として漁師の源太に育てられ、暴れ者で大人になっても何度も島で騒動を巻き起こす主人公の海野安吉をハナ肇が演じている。西伊豆町の沢田や堂ヶ島が漁村として多く使われているが、松崎町では岩地の一里塚付近の風景が映し出されている。」「窪塚洋介」主演の「Laundry」 劇場公開日:2002年3月9日「Laundry(ランドリー) 森淳一氏が監督・脚本・原作を手掛けた2002年に公開された映画。子供の頃の事故で脳に障害のある青年テル(窪塚洋介)と心に傷を負った女性水絵(小書)の交流を、恋愛を交えて描かれています。松崎町は水絵の故郷という設定でロケが行われ、常盤大橋や田んぼを使った花畑、船田パス停留所などが映しだされています。」懐かしい昭和レトロ!!の品々が。様々なコップや瓶。床の間も見事な趣。花鉢も見事にアレンジされて。「明治商家中瀬邸」を後にして「ときわ大橋」を訪ねた。「那賀川」にかかる「ときわ大橋」は、なまこ壁で欄干を装飾した珍しい橋。近くの浜丁通りはなまこ壁の民家が多く残り、また漆喰芸術の殿堂「伊豆の長八美術館」にも近接していることから、周囲の景観に合った橋をと、昭和60年に施工したものであると。 長さ30mの欄干両側に、桜の花、空を飛ぶツバメが漆喰で鮮やかに描かれていた。「浜丁通り・ときわ大橋と時計塔」は、昭和63年に静岡県都市景観賞を受賞した と。そして「時計塔」を振り返る。ズームして。水面が陽光に輝く「那賀川」。「ときわ大橋」の欄干にも「なまこ壁」が。橋の端まで歩いて振り返って。「ときわ大橋」、桜の花、空を飛ぶツバメの漆喰も風雪に耐えて。そして引き返す。これでもかと、伊豆・松崎の絶景を。「那賀川」の上流側。「ときわ大橋通り」。角のこの家は空き家だったであろうか。再び「ときわ大橋」を振り返って。駐車場前にあった火の見櫓。そしてこの日の散策の予定を全て完了し帰路へと。以下、助手席の先輩が私のカメラで撮影してくださいました。「堂ヶ島」の手前。「堂ヶ島公園」。西伊豆海岸の光景を楽しみながらひたすら国道136号を北上する。修善寺道路を進む。狩野川を左手に見ながら。「料金所300m 速度落せ」。左手に「狩野川」が流れていた。「城山」が前方に現れた。「修善寺道路」。ETC設備はなく、160円を支払う。「城山」下にも「河津桜」並木が。「城山」横を通過。この道路に沿って「狩野川」の手前に「読売巨人軍長嶋茂雄ランニングロード」があるのだが。そして西の空は赤く染まり出して。セブンイレブンでトイレ休憩。そして、松崎町からはひたすら国道136号を北上し、土肥中浜交差点を右折して三島方面に向かったのであった。そしてこの日の走行ルート。三島から国道1号で箱根峠へ、そして箱根新道で小田原、西湘バイパスで二宮まで行き、先輩をご自宅まで送ったのであった。自宅までの全走行距離は352kmであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.03.31
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「なまこ壁通り」から「松崎町観光協会」の前を通り、その先を左折して「須賀川」に架かる「ときわ大橋」を渡り、すぐに右折して「明治商家中瀬邸」横の駐車所に車を駐めた。写真を見ると、近くにあった古民家ギャラリー「であい村 蔵ら」👈リンクの駐車場のようであった。スイマセン!!「駐車場」前から渡って来た「須賀川」に架かる「ときわ大橋」を見る。ここも「なまこ壁」の「明治商家中瀬邸」の土蔵を見る。「明治商家中瀬邸」の入口を見る。「土蔵」の入口。蔵の扉の裏の絵は鏝絵(こてえ)とのこと。扉に近づいて。虎の姿が描かれていたが、これも「なまこ壁」の匠の技なのであろう。こちらには「龍」が描かれていた。入口にあったのは「水琴壷(すいきんこ)」とのこと。「水琴壷(すいきんこ)これは江戸時代に庭師が考案したといわれる水琴窟(すいきんくつ)の原理を応用したもので壺の口からしたたり落ちる水滴が壺の中で反響して美しい琴のような音色が聞こえることから水禽壺と呼ばれます。」その右隣には、岩が並んでいた。「伊豆半島はかって活動していた火山たちの大地です。古い火山の本体は残っていませんが地下深くからきたマグマの通り道や、たまり場であったところにはマグマが冷えるときに柱を束ねたような構造が生まれます。柱状節理は風化・浸食に対して強いので西海岸の荒波から陸地を守っています。岬や崎のつく地形の先端はこの岩石の砦であることが多いです。」この岩は?「この石灰岩は、松崎町の山の地層から産出しました。太古の昔に伊豆半島が日本のはるか南の海にあった証拠です。熱帯のサンゴ礁生物の化石(サンゴ、巻貝、オウムガイ類など)が見つかりました。館内に展示してあります。 標本提供 関忠夫」「明治商家中瀬邸入館料 無料開館時間 午前9時~午後5時」と。そして道路側にあったのが斬新なデザインの「時計塔」。昔の時計塔は、大正13年の天皇ご成婚を記念して当時の青年団により建設されたが、昭和13年の水害により水没した。現在の時計塔は、町づくりの一つとして復元を図り、斬新なデザインとして昭和62年12月15日に完成した。「明治商家中瀬邸」側から。また、円形の天井には鳳凰に似た南方の想像上の鳥の姿を描き、鳥の周囲には水の流れや、春夏秋冬、夜を現す図柄が描かれていたのであった。「時計塔この時計塔は、大正十三年、昭和天ご成婚を記念して青年団により建設され、昭和十三年の水害により水没しましたが、昭和六十ニ年にまちづくりの一つとして新たに建設したものです。この時計塔には「13」の文字が刻まれており、松崎町では日常にはない特別な時間が流れていることを表現しています。明治商家中瀬邸明治初期、呉服商を営んでいた依田家は、わずか数代のうちに財をなした大地主でした。現在は町が譲り受け、総合案内所やジオパークビジターセンターとして活用しています。館内には当時の呉服商の再現、観光案内などが設けられています。お気軽にご利用ください。 花とロマンの里 松崎町」上記の如く、この時計塔には13時の文字が刻まれており、ありえない13時に松崎のロマンを表現しているのだと。「松崎まちあるきマップ」館内の展示品を追いかけた。「ようこそ伊豆半島ジオパークへ」。様々な「化石」。「伊豆の大地の産声1 .約2000 ~ 1700万年前の深海底から湧き出した熱いマグマが急に冷されて枕状の溶岩がどんどん積み重なって海底に火山地形が出来始めました。」「熱帯の海の時代2.約1500万年前頃には火山島がいくつもできました。火山活動を休んでいる島の周りにはサンゴ礁が出来ました。そこに生きていた生物の化石が今は伊豆の山の中で見つかります。伊豆が大昔には熱帯地方にあった証拠のひとつです。」「北上する火山島群3.約500 ~ 300万年前には古伊豆火山島は本州にかなり近づきました。なので、その当時の地層からは本州と共通の貝類化石も見つかります。また陸生植物化石も見つかりますので島には森林もあったことがわかります。」ビデオ鑑賞コーナー。「松崎町」観光案内図。ポスター「遠い昔が鮮やかに輝く街 伊豆松崎町伊豆の長八のこて絵となまこ壁松崎に華開いた独自の文化がある。「こて絵」は漆喰で描く立体の彩色画。江戸後期松崎で生まれた名エ・入江長八が大成させた美しい技。「なまこ壁」は瓦のつなぎ目を漆喰で固めた優美な意匠で、今も旧家の壁に遺る。松崎の街を歩くと出逢う風景。独特の美意識はみな、海と大地の賜物。伊豆の長八美術館伊豆の長八美術館は、こてと漆喰の名人・入江長八の業績や伝統の左官技術の素晴らしさを今に伝えることを目的とした美術館。現代に遺る入江長八の作品約50点を展示・紹介している。館内の至る所には全国から集まった優秀な技術者たちが伝統の腕を駆使した技がちりばめられており、「江戸と21世紀を融合させた建造物」として世界的な注目を集めています。」「奥伊豆の街 のたり。伊豆松崎町松崎はいつもゆったり。人も風景も、街に流れる風さえも。おしゃべりもゆっくり。考え事ものんびり.------それが松崎時間」。「日本で最も美しい村 伊豆 松崎町日本の原風景がここにあるゆっくり流れる時間に身も心も癒やされる」板間も拡がっていた。呉服問屋の帳場の様子などが当時のまま再現されていた。様々な絵画の展示コーナー。「山本堪一(昭和3年2月7日生)昭和3年、静岡県賀茂郡岩科村(現松崎町)道部に生まれ、祖父の代から左官屋であったため終戦後、自然と左官の道へ進む。松崎町江奈の石◯◯のもとで修行し30歳で亡き父の後を継ぐために独立した。昭和50年、西豆左官組合長に・・・・???」再び呉服問屋の帳場の様子を別角度から。五つ玉算盤(そろばん)と墨・筆。当時の呉服商の再現。別の角度から。黄金に輝く盆栽風の松。客間。近づいて。手回し扇風機。昔の宣伝用ポスターであろうか。双眼鏡。秤。中庭。右手には映画ポスターが。映画やテレビドラマのロケにもたくさん使われている松崎町。「松崎ロケ地展」。「TBS 日曜劇場 とんび」。 「真夏の方程式日本中を深い感動で包んだ大ヒット作『容疑者Xの献身』から5年!ついに「彼」がスクリーンに帰還する! 進化した福山雅治が演じる、進化したガリレオ。映画で挑むのは、東野圭吾シリーズ史上最もせつない「謎」の方程式。」。劇場公開日:2013年6月29日。「東野圭吾原作、福山雅治が天才物理学者・湯川学を演じる人気シリーズの劇場版第2作。子ども嫌いで有名な湯川が、10歳の少年・恭平と海辺の町で夏を過ごすことになり、事件に巻き込まれていく姿を描く。手つかずの美しい海が残る玻璃ヶ浦で海底資源の開発計画が持ち上がり、その説明会に招かれた湯川は、宿泊先の旅館「緑岩荘」でひとりの少年・恭平と出会う。やがて旅館の近くで男性の変死体が発見され、遺体の身元が「緑岩荘」に宿泊していた元捜査一課の刑事・塚原だということがわかる。地元警察は塚原の死を転落死として処理しようとするが、現地入りした捜査一課の岸谷美砂は、塚原の死に不可解な点があることに気づき、湯川に事件解決への協力を依頼する。吉高由里子、北村一輝らシリーズのレギュラー陣に加え、杏、風吹ジュン、前田吟らが共演。監督は前作「容疑者Xの献身」と同じく西谷弘。」と ネットから。この地・松崎を訪れた俳優等のサイン色紙が並ぶ。「松崎町のみなさまへ」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.30
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国道136号をひたすら走り、右手に「伊豆の長八美術館」を見る。静岡県賀茂郡松崎町松崎23。そしてその先を左折して「中宿通り」で車を駐めた。「中宿通り」沿いの右手にあったのが「なまこ壁」の民家。なまこ壁(なまこかべ)・(生子壁、海鼠壁)とは、土蔵などに用いられる、日本伝統の壁塗りの様式の一つで、その壁をも指す。なまこ/生子/海鼠ともいう。壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の目地(継ぎ目)に漆喰を蒲鉾形に盛り付けて塗る工法によるもので、目地の盛り上がった形がナマコ(海鼠)に似ていることからその名があるここが「なまこ壁通り」と呼ばれている場所「なまこ壁」に使われている漆喰(しっくい)とは、「石灰」の唐読み(当時の中国・唐時代の読み方)が「しっくい」で、それが当時使われたものと言われている。よって「漆喰」は当て字。つまり、石灰に海藻から採れる布海苔(ふのり)などを溶かし込んで練り上げた塗り壁材が漆喰。いずれも、伊豆半島には豊富にある自然素材。下田や松崎に「なまこ壁」の建物が多く建てられたのは、そんな地理的な優位さから と。なまこ壁は江戸時代以降に、庶民の家の屋根葺きに瓦が利用されるようになるのと同時期に出現した。潮風や台風などの自然災害に強く、土壁や板壁よりも耐火性に優れることから全国的に普及した。工法としては、平瓦を水平に並べて張っていく「いも張り」が最も古いが、平瓦を斜めに張る「四半張り」が最も普及した工法となっている。他に、いも張りの端を重ねて張る「馬乗り張り」や「青海波型」「亀甲型」「七宝型」などの技巧を凝らした張り方もある。豪商の蔵では、なまこ壁とともに「ゑぶり」と呼ばれる漆喰細工が施される事が多く、施主の財力や漆喰職人の腕前を現すステータスシンボルとなっている と。「中宿通り」の正面に廻り込んで。近づいて。「近藤平三郎生家わが国薬学界の最高権威 近腰平三郎は、明治十年薬種商を営む近藤家の長男として生まれ、東京帝国大学薬学科を卒業。四十年ドイツ留学。その後、東京帝国大学薬学主任教授となり、アルカロイドの研究に大きな足蹟を残した。昭和十二年日本薬学会会頭、二十八年日本学士員会員となり、三十三年文化勲章を受章した。 松崎町」その隣にあったのが「松崎町観光協会」。静岡県賀茂郡松崎町松崎211。「松崎町観光協会」。正面から。「松崎まちあるきマップ」。入口左にあった松の老木の下には、石碑も。「千世経べき 家の栄えを 庭の面の 松の一木の 緑にぞしる」「千世経幣幾家能栄之 庭廻乎面乃松能一木農緑尓曽し流 胤平(千世経べき 家の栄えを庭の面の 松の一木の緑にぞしる)海上胤平(うながみたねひら)は、歌人、国学者、明治維新後の和歌運動先駆者、大正五年(一九一六)没。松崎の豪商(屋号・塗り屋)の依田善六は、和歌を胤平に学び「簡重」と号していた。歌中「松の一木」は、屋敷に松の大木があったことによる。明治ニ十一年(一八八八)依田善六(簡重)建立。「松崎歴史の散歩道案内図」。現在地をズームして。「松崎町観光協会」内部には様々な言語の観光用パンフレットが並んでいた。「近藤平三郎生家」と「 松崎町観光協会」の間の空き地を奥に進んで行った。奥にあった土蔵らしき建物も「なまこ壁」の建物。そして「なまこ壁通り」の先に、「国道136号」そしてその先に寺院の赤い門が見えた。見事な「なまこ壁」。「なまこ壁」通り。これぞ日本の「原風景」なのであった。現在、伊豆では松崎町と下田市、全国的には岡山県倉敷市や広島県東広島市などに見られると。松崎町には今も190棟余り残っており、昔ながらの趣を留めているとのこと。「なまこ壁👈リンク。伊豆松崎には、古き良き時代に建築された「なまこ壁」の住家や土蔵が多く残されています。なまこ壁は、土蔵などに用いられる、日本伝統の壁塗りの様式の一つで、壁面に平瓦を並べて貼り、目地に漆喰を蒲鉾形に盛り付けて塗る工法によるもので、目地の盛り上がった形が「なまこ(海鼠)」に似ていることから、名付けられました。なまこ壁は一、保温、防湿、防虫ニ、火災、盗難予防の目的で造られたもので、多額の経費と多くの労力を要しています。この近藤家のなまこ壁は、江戸末期に建築されたもので、なまこ壁の続くこの通りは、「なまこ壁通り」呼ばれています。」次に訪ねた「浄泉寺」の朱の「山門」をズームして。国道136号の先に「浄泉寺」、ここの塀も「なまこ壁」。境内入口に赤色の二階造りの山門が。これは鐘楼を兼ねた山門で、第二次世界大戦までは、朝夕に松崎の人々に時を告げた梵鐘があったとのこと。梵鐘は昭和19年(1944)の夏、戦争のため拠出して今はない と。山門の扁額は「清水山」。「六地蔵」。「河津桜」の下に石仏。ズームして。浄土宗の古刹、清水山「浄泉寺」の「本堂」室町時代の応永21年の開創で、開山は岌嘆(きゅうたん)で当時は真言宗の寺であったと言われる。5世に、江戸芝増上寺の観智国師の高弟であった源誉如替が来て、浄土宗に改宗するとともに、増上寺末の寺とした。当時の寺は、現在の常盤橋南側にあって、大橋通り・中瀬通りの辺りを含めてその寺地であったと言われています。元和2年(1616年)同地で火災に遭い焼失し源誉が再興した。6世住誉の代、慶安元年(1648年)徳川家光より10石2斗の朱印地を受けた。その中に向浜の大部分が含まれ、当時45戸の農家があったという。8世一誉傅的の代、貫文11年(1671年)8月21日、後に「亥の大水」といわれる大洪水が起き、那賀川沿いの堂宇はすべて流失した。再建に当たっては、洪水の危険のない現在地に寺地を移して建立した。その後明和7年(1770年)闡誉教阿の代に寺は再び火災にあった。宮原に起きた火災は、折からの風に煽られ瞬く間に寺も類焼、堂宇はもちろん、寺の大切な過去帳を含め、古い記録のすべてを失ったという。それから7年後の安永6年(1777年)、17世最誉順海の代に本堂、庫裏の再建が行われた。本堂は間口7間半、奥行き7間瓦葺きの堂々たる建築である。唐破風下には見事な彫刻が。静岡県賀茂郡松崎町松崎43。「本堂内陣」。本堂の欄間には石田半兵衛作16羅漢像の透し彫があった。「小沢一仙信秀一仙は天保元年江奈に生れ、父石田半兵衛から堂宮彫刻の業を学び、優れた作品を残している。掛川藩主に建白し、文久二年和戦両用の無難車船を建造した。慶応三年京、大阪への輸送を便にすべく敦賀港から琵琶湖まで運河開通を計画、加賀藩の協力も得たが着工直前大政奉還で挫折した。同四年一月公爵高松実村を総師に東山道官軍鎮撫隊を挙兵し、各地で活躍したが、偽勅使に扱われ甲府で捕えられて三月十四日処刑された。時に三十九歳であった。辞世、借しからん命なれども惜しかりき、つくす心の仇となりせば。 花とロマンの里 松崎町」「本堂」の扁額は「法王殿」。「水子・子育地蔵堂」。「水子・子育地蔵尊」。墓地にはこの寺の歴史を感じさせる多くの石碑・墓石が並んでいた。「もの思う石仏群」が並ぶ。ここにも。「本堂」前から「山門」を見る。案内板には「回る経堂、透かし彫り十六羅漢像、仏天蓋の長八天女、自然庭園、三十三観音、弘法大師作(伝)不動尊、水子・子育地蔵、もの思う石仏群、経堂を 一回しして 秋日和 一砂秋光を 透かす欄間の 羅漢像 雅子 清水山 浄泉寺」と。そして「経堂」を見る。「経堂」を正面から。「経堂 縁起寛政五年(一七九三) 建立起立(十七世最譽上人代) 蔵経半来享和三年(一ハ〇三) 最譽上人没文化元年(一ハ〇四) 経堂建立(再興)文化七年九月(一ハ一〇) 輸蔵成(十八世濟譽上人代)文化七年九月(一ハ一〇 ) 寄進者 長谷川傳太郎氏没天保四年(一ハ三三) 濟譽上人没榛梁 先代 石田半兵衛大工 代助外十ニ名祠堂 一切経祠堂 経堂、輸蔵祠堂 経蔵敷祠堂 経修復のため、田ハ畝この全部が長谷川傳太郎氏(長谷院教譽常説居士)の寄進である。(鐘楼も同氏の寄進であると言われる。長谷川傳太郎氏は、屋号を藤屋と言い、回船業を営んだようで、中町(現松崎町松崎ニ一七番地の一)に居宅があった。代々傳太郎を襲名し、末孫傳太郎氏は太平洋戦争末期南方に没し直系は絶えた。建立起立より輪蔵落成まで一気に成らず十七年の歳月を要したのは、資金の調達からであろう。この執念、この信仰、この清らかさ、それは戒名にも表わされている。また目を見張るのは、落成と寄進者の他界とが同年月のことである。まこと人生はドラマ(劇)であり、ロマン(理想)に生きたことに心打たれて、粛然と手を合わせすにはいられない。一切経は、仏典の全部であって、七千巻余あり、輔蔵は、梁(中国)の傅大士が始めたと伝えられ、「南無阿弥陀仏」と唱えなガら一回転させると、一切経の読経と同じ功徳あるとされる。」町指定文化財 「輪蔵」。上部を見る。「経堂(廻転書庫)この経堂は文化七年(一八一〇年)当地松崎町出身の彫刻師石田半兵衛に依って建立され、輪蔵は六面から成り、全部で六十個の書箱が引き出し型でついている。各面は十ニ支に分類された記号が記されている。この廻転式の様式は中国に始まり禪宗と共に日本に伝はった。徳にこの経堂を一回転すれば一切経の読経。読誦と同じ功徳があるとされている。」「一回し百円をご仕納下さい南無阿弥陀仏と唱え回して下さい。」私も100円納めて一回し!!そして「浄泉寺」を後にして、再び「なまこ壁通り」を戻る。そして車に戻り次の目的地に移動したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.29
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石廊崎の先端にあった「石室神社」、「熊野神社」を後にして参道を戻る。関萍雨・「秋晴や 波収まりし 石廊崎」の句碑、右下に小さく「萍雨」と刻まれていた。関萍雨は南伊豆町湊出身の俳人。県下の教育界で重きをなした。子規や虚子、碧梧桐らの教えを受けた、静岡県における近代俳句の草分け的存在でもある。碑に刻まれた句は高浜虚子の選んだものと伝えられている。1956(昭和31)年に、南伊豆町有志によって建碑された と。「石廊崎オーシャンパーク」の建物まで戻り館内へ。館内に掲示されている「石廊埼灯台」に関するパネルを追う。「日本式灯台から洋式灯台へ そして石廊埼灯台の建設へ1854年(嘉永7)、日米和親条約により下田、箱館が開港場となり、その後横浜、神戸などが開港され日本は鎖国を止め、外国の船の往来が激しくなった。地形が複雑で気象・海象の変化の多い日本近海の安全に航海するため、欧米諸国は灯台等信頼のおける航路標識の設置を求めた。1866年6月25日(慶応2.5.13 )幕府は、イギリス・フランス・アメリカ・オランダと改税約書を結んだ。その第11条「日本政府は外國交易のため開きたる各種最寄船々の出入安全のため燈明臺浮木瀬印木等を備ふへし」により洋式灯台8基(神子元島一伊豆、剣崎一相模、観音崎一相模、野島崎一安房、樫野崎一紀伊、汐崎一紀伊、佐多岬一大隅、伊王島一肥前)と灯明船2ヶ所(本牧沖、箱館)が建設されることになり、この仕事を明治政府に引き継がれた。明治政府はイギリスに灯台建設の技師派遣と機器購入を依頼し、イギリス政府はスティーヴンスン兄弟社に灯台の設計及び工事、日本への技師の派遣を委託し、技師リチャード・ヘンリー・ブラントンが日本に着任した。そしてスティーブンスン兄弟社が基本設計をし、ブラントンの監督の下に神子元島灯台などの洋式灯台の建設にとりかかった。神子元島灯台が1871年1月1日点灯すると、長津呂湊明堂のかがり灯と紛らわしいと、外国の船から苦情がよせられた。そこで長津呂湊明堂の灯を消すと日本の船が困ることになり、急きょ、長津呂湊明石堂の場所に1871年10月5日、日本最初の洋式木造灯台が完成し、点灯した。」「石廊埼灯台関連年表」昔より石廊崎は航海の難所で、この沖の岩礁で座礁、難破する船も多くあったため、灯台の設置が求められていた。1636(寛永13年) :長津呂湊明堂(ながつろ みなとあかしどう)が建てられた。1871年(明治4年):設置・初点灯した。かの「灯台の父」と呼ばれる 10月5日 リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計による八角形の木造灯台として 建設され、日本では10番目に古い洋式灯台だった。 1932年(昭和7年)11月14日:暴風で大破。1933年(昭和8年)3月31日:現在のコンクリート造に建て替えられた。1951年(昭和26年)5月15日:船舶気象通報放送開始、偶数時の23分から25分まで[1]1993年(平成5年)2月:灯質を変更し、灯塔を白タイル張りへ。2016年(平成28年)9月30日:併設の船舶気象通報(灯台放送)を廃止「石廊埼灯台日本最初の洋式木造灯台として設置された石廊埼灯台は1932年(昭和7) 11月14日の台風で大破し、灯塔を鉄筋コンクリート造りで再建し、1933年(昭和8) 3月31日完成した。灯質➡単閃白赤互光(16秒毎に白光と赤光と各1回発する)白光➡61,000カンデラ/赤光: 66,000カンデラ (1カンデラはろうそく1本分の明るさ)光達距離➡18.5海里(約34km)高さ➡基礎上頂高: 11.38m /水平水面上灯高: 59.54m」「R・Hブラントン(1841-1901)「日本灯台の父」と呼ばれる。スコットランド出身。鉄道技術者であったが、スコットランドの「スティーヴンスン兄弟社」に灯台技師としての教育を受け、1868年(慶応4)6月に妻子及びマクビン、ブランドル両名の技術助手を伴って来日。スティーヴンスン兄弟社の基本設計をもとに石廊埼灯台、神子元島灯台など、9年間で30基(石11、木11、鉄4、レンガ4)の灯台を建設した。灯台以外でも「日本最初の電信架設(1869年)東京築地~横浜間)」「横浜居留地の日本大大通りなどの西洋式の公園整備や横浜公園の設計」等日本の近代化に貢献した。」「木造の石廊埼灯台石廊埼灯台は神子元島灯台と同じくR・Hプラントンによって1871年10月(明治4.8.21 )完成。塔高6.1 m、八角型の木造白塗りで赤色不動光の光が点灯された。これが最初の洋式木造灯台であった。」「現灯台の約50m北側にある円形の木造灯台基礎石組上部の直径約4. 5m」様々な当時の「写真」点灯開始時(明治4 )の石廊埼灯台と退息所。 大正時代初め頃の石廊埼灯台と退息所。大正時代終わり頃の石廊埼灯台と退息所。 昭和8年灯台改築時の石廊埼灯台と退息所。様々な観光案内用のパンフレットが並んでいた。「石廊崎岬めぐり」遊覧船 案内パネル。遊覧船 「石廊崎岬めぐり」案内図石廊崎の岬めぐりは2コース。Aコース:奥石廊崎コース(ヒリゾ海岸コース)Bコース:みのかけ岩コース● 天候や海上の状況によりAコースかBコースのどちらかを運航します。● どちらも所要時間は約25分石廊崎遊覧船「マリンバード号」。遊覧船から見た「石室神社」の写真をネットから。そして「石廊崎オーシャンパーク」を後にして進むと、「電源開発 石廊崎風力発電所」が再び姿を現した。伊豆半島最南端に位置する南伊豆町に立地しており、天城山脈より連なる標高300~370mの山地に位置する伊豆半島最大級のウインドファーム。南・西が太平洋に開けた山岳地形を生かした豊かな風資源の有効利用をしていた。所在地 : 静岡県南伊豆町発電所出力: 34,000kW風車発電機: 2,000kW×17基営業運転開始: 2010年4月「ユウスゲ公園 駐車場」に車を駐め散策する。静岡県道16号線・下田石廊松崎線を西に進むと、西伊豆の海が姿を現した。ズームして。手前に「ヘイゴロウ」その奥に「丘ハヤマ」、その先に「大根島」。大きな岩礁「丘ハヤマ」は、造礁サンゴ(浅い海に住むサンゴ)も群生していて、シュノーケリングスポットとして人気の場所と。「ユウスゲ公園からの眺めユウスゲ公園からは数100万年前の海底火山からの噴出物が折り重なる絶景が広がります。約40万年前に南崎火山がつくり出した小さなテラスから景色を楽しんてみませんか。」「奥石廊の海岸には、数100万年前の海底火山の噴出物が広く分布しています。美しい縞模様をもつ地層や、荒々しい岩肌が織りなす海岸は国立公園や国指定名勝「伊豆西南海岸」にも指定されています。険しいこの海岸線にあって、ここ「池の原」と呼ばれる小さな高原にはなだらかな丘が広がり、奥石廊を一望できる丘の上にはユウスゲが自生する「ユウスゲ公園」があります。このなだらかな丘は、南崎火山と呼ばれる火山の噴出物が険しい谷を埋め立てることで作られました。南崎火山は40万年前頃に活動していた古い火山ですが、伊豆が本州に衝突して陸地になったあとの火山です。その証拠に、ユウスゲ公園へのぼる遊歩道の脇には、空気にふれて鉄分が酸化し赤茶色になったスコリア(粘リ気の弱いマグマのしぶき)がつみ重なっています。」「ユウスゲ群落奥石廊の池の原一帯に群生する「ユウスゲ」は、国立公園特別地域(富士箱根伊豆国立公園)の指定になっている貴重な植物です。別名「キスゲ」ともいい、葉は細長く株元からニ列に出て扇状に開き、花は六弁からなります。花は夏期の夕暮れから咲きはじめ、翌日の午前中にはしぼんでしまいます。かれんで美しい姿は幻想的な雰囲気をかもし出し、夏の風物詩となっています。」「石廊崎からの遊覧船に乗って、海上からユウスゲ公園の丘を観察すると、白い岩石からなる海底火山の噴出物のうえに、南崎火山から噴出した灰色の溶岩流や赤茶色のスコリアがのっていることがわかります。」「現在地」をズームして。こちらの地図も「現在地」、下方が北方向の地図。再び青い海原の西伊豆・「三ツ石岬」方向を見る。ズームして。遠く静岡県内の山々の姿も見えた。写真右が「中木」方向。「愛の鐘 モニュメント」。場所は、県道沿いの駐車場から遊歩道の階段を上った奥石廊を一望できる見晴らしのいい丘の上。もともとこの場所には木造のモニュメント「愛の鐘」があったが、老朽化したため今回リニューアルされた。新しいモニュメントは円形の御影石(直径1.8メートル)で結婚指輪?を連想させる。この輪の中にカップルが納まって写真を撮ったらなかなか絵になること間違いなし。近づいて。「カメラスタンド」と案内板。「いろう男爵の絶景 おすすめスポット」。モニュメント前には、セルフタイマーで撮影できるようカメラスタンドが設置され、たいへん便利そうであったが。スマホを立てる場合も、厚みの違いに対応すべく厚さの違う3種類の溝が用意されているのであった。しかし、合計年齢150歳以上のオジイサン二人には無用なのであった。「大根島」の北側先端をズームして。先端を更にズームして。ダイビングスポットとしても人気があるのだろう。「あいあい岬駐車場」を見下ろす。東側の丘の上まで歩いて進むと「ユウスケ公園から見える島々」案内板が。近づいて。「利島(としま)」の姿。利島は、伊豆諸島に属する日本の島。伊豆七島のひとつ。行政区画は東京都利島村。東京から144km、伊豆大島から南に27kmにある島で「外島」と書かれることもある。面積4.12平方キロメートル、外周7.7キロメートル。伊豆七島のうちもっとも小さな島で、最高峰の宮塚山(標高507.5メートル)を中心とした、円錐形の火山島(複成火山)である。島全体を豊かな照葉樹林が覆い、特に椿が島の8割を占めていると言われ、椿油が島の特産品になっている。昭和初期にはノネズミによる農業被害が顕著となり、イタチを放獣して退治した記録も残る。島の周囲は高さ200メートルの海食崖に囲まれ、南斜面にはオオミズナギドリの生息地がある。反面、良質な港に恵まれずに天候が悪化すると定期船でも通過することがあり、100メートル級の桟橋が完成したのも昭和56年(1981年)のことであった。それでも、古くから人が定住していたことが知られ、大石山遺跡・ケッサイ山遺跡などの古代集落の跡が確認できる とウィキペディアから。「神子元島灯台(みこもとしまとうだい)」の先に「鵜渡根島(うどねじま)」。再び「電源開発 石廊崎風力発電所」。太平洋を望む。「カツオ島」。「カツオ島カツオ島は、名礁で知られており釣り場として人気の場所です。黒潮の激しい流れにより潮の流れが速く、島の周りが複雑な海流となり、多くの魚が釣れます。」「愛の鐘 モニュメント」を振り返る。そして国道136号をひたすら北上し、「雲見海岸」から富士山の雄姿を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.28
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「石廊埼灯台」を後にして、さらに石廊崎の先端の岩場に向かって進む。石廊崎先端部の岩場を見下ろす。海面から50mほどの高さの石廊崎参道から、下の岩場の白き波をズームして。白のカオス!!石廊崎の沖は古くから難所であった。昔、江戸へ向かう商船が沖合で大波にあい、石廊権現に「帆柱を捧げるので波をおさめてください」と頼み、無事に江戸に到着できたという言い伝えがあるのだと。この帆柱は断崖に建つ石室神社の社殿に、今も使われているとのこと。この先の大きな岩の裏に、のちほど訪ねた「熊野神社」があった。石廊崎の崖には蜂の巣のようにたくさんの窪みがあり、石室(いろう)神社はこの窪みを利用して作られています。これらの窪みは「タフォニ」と呼ばれ、水に溶けていた塩が、水分の蒸発にともなって結晶になり、その結晶の成長によって岩石が壊されてできると考えられている と。そして石廊崎の最南端、断崖のくぼみに危うげに立つ「石室(いろう)神社」の社殿を訪ねた 。海の安全を守る神社らしく千石船の帆柱が床を支えている。50mほど離れた岬の最突端には熊野神社(くまのじんじゃ)があった。石廊権現(いろうごんげん)や石廊崎権現(いろうざきごんげん)とも呼ばれている と。現在の社殿は明治34年(1901年)に再建されたもの と。社殿は海岸の岩窟上に立てられた「帆柱」👈リンク の上に造営され伊豆の七不思議のひとつとされている。社殿入口には「石廊権現と千石船之由来」が掲げられていた。祭地は相模灘と遠州灘の中間に位し東風西風共に筆舌に絶し、又陰れし岩礁多く黒潮近くを走ると云ふ難所で在る。或る期、播洲濱田港所属の塩運搬の千石船が此の岬に差し掛りし時、折悪く黒雲海面をはい、雨は篠を突き波浪は峰渓をなす。船は最早轉覆(てんぷく)有るのみと見られ、船主船子共になす技も無く、一心に見えぬ対岸の石廊権現に向いて、無事江戸に着く事が出来得るならば帆船の命で在る帆柱を奉納すると、誓願を込めると、さしも荒狂った波もやがて凪いで無事江戸に着く事が出来、荷揚げを済し巨富を得て帰途に付く。航海日和に恵まれ往路の出来事も忘れ此の岬の沖を過ぎ様としただが、不思議な事に満帆に追風をはらみ全櫓充分に水をかくも船は一向に進まず坐礁した。やがて次第に風雨強く狂暴なる暴風雨と急変し、船子等の不安は往路の期に増して激しく船主は往路の期の願事に思いを致し木の葉の如く震る船上にて斧を以て、帆柱を切倒し海に投じ石廊権現に奉納された。すると、不思議なる事に帆柱は荒れ狂う大波の波頭に乗って、幾十丈の高き社殿の御前に供えた如く打上げしと同時に波も静まり、船は櫓を以て走り去りしと傳えられて居り、今直當社殿の基礎となりて此の建築物を支えて居り當社の御神威の高きと共に、此の神技を伊豆の七不思議の代表的な神話として廣く風光名美さと共に日本 全国に知られ居る。帆柱材質檜 長サ六間 約十二メートル」社殿内部。祭神:伊波例命古くは伊波例命神社(いはれのみことじんじゃ)とも呼ばれていたとされ、延喜式内社であるとされている。その起源は諸説あり、 文武天皇大宝元年(701年)に初めて堂が建てられ、最初は観音像と第六天神を安置していたが、その後役小角が神託を受けて伊波例命を祀ったという説や、「秦の始皇帝5世の孫と云われ日本に帰化した(異説もある)弓月君(ゆつきのきみ)が物忌奈之命(ものいみなのみこと)と称されるようになり、これを祀る神社として、その子孫を名乗る秦氏が建立したもの」という説もある。(物忌奈之命は神津島に祀られているのと同神であるかは定かでない)役行者像。祭神は伊波例命(いわれのみこと)であり、役行者が勧請したとされている と。3人の像が並んでいた。左から。秦の始皇帝5世の孫と云われ日本に帰化した(異説もある)弓月君(ゆつきのきみ)が物忌奈之命(ものいみなのみこと)と称されるようになり、これを祀る神社として、その子孫を名乗る秦氏が建立したものとする説も有力である とネットから。中央の像。右側の像。「石廊山金剛院縁起」。「役小角が伊豆大島へ流されたとき(文武天皇3年(699年) - 文武天皇5年(701年))、十一面施無畏の神力を得てこの地に至り、また文武天皇4年(700年)に大地震があった際にも、龍と白鳥が現れてこの地を守った。村人の一人が夢の中で海中より宝殿が浮かび上がって岬の中腹の岩窟に座すのを見たため、行ってみると果たして宝殿が出現し中に十一面観音が安置されていた。その後更に天平年代(729年 - 749年)、行基によって第六天神が祀られたという。また「秦の始皇帝5世の孫と云われ日本に帰化した(異説もある)弓月君(ゆつきのきみ)が物忌奈之命(ものいみなのみこと)と称されるようになり、これを祀る神社として、その子孫を名乗る秦氏が建立したもの」とする説も有力である。但しこの物忌奈之命が、同じ旧伊豆国の神津島に祀られている物忌奈命と関連があるか否かは明らかにされていない。延喜式神名帳には、伊豆国賀茂郡に「伊波例命神社」があったことが記されており、一般には当社のことであるとされているが、後世の付会であるとの説もある。以降、神仏習合の金剛山石室権現として人々の崇敬を集めた。江戸時代には韮山代官所を通じて徳川幕府から米2表の寄進を受けたという。伊豆七不思議のひとつで当社にまつわる「石廊崎権現の帆柱」の伝説が生まれたのはこの時代であるとされる。明治初期の神仏分離により石室神社と称するようになった。現在の社殿は明治34年(1901年)に再建されたものである。海上安全や商売繁盛、学業成就の神として、また伊豆半島の先端に位置する景勝地として名高い。」とウィキペディアより。七福神の「布袋様」。七福神の「恵比寿様」。昨年の干支の虎の絵馬を。「おみくじ掛け」。御朱印を頂きました。「石室神社御由緒創立は定かではないが、五世紀頃物忌奈命を祀る神社として秦氏により建立されたと伝えられている。その後、役行者が十一面観音を合祀し、大宝元年(七〇一年)現在の場所に建立された。延喜式神名帳に伊波例命神社として名を列ねる式内社である。御祭神 伊波例命・物忌奈命・十一面観音 大六天神・大国主神・崇徳天皇 事代主科・梵釈四天王・住吉三神 海神自在青龍王 須佐之男命(熊野神社)御神徳 海上安全・学業成就・縁結び・開運 厄除・交通安全・諸願成就 等例祭日 四月三日 〒四一五ー〇一五六 静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎九 石室神社社務所」上記と同様な説明が。入口付近にあった紀元2千6百年記念と書かれた石碑。「石室神社」を後にして、石廊崎の先端に向けて更に進む。再び海原の美を楽しむ。そして崎の突端にある祠が「熊野神社」。恋愛成就に効果があるのか、近年のパワースポットととして人気があると。木格子には絵馬が掲げられていた。「御由緒その昔、長津呂(石廊崎)に住むお静という名主の娘が、漁師の幸吉と恋に落ちた。身分の違いからその恋は許されず、幸吉は神子元島に流された。幸吉を忘れられないお静は、毎晩、石廊崎の先端で火を焚き、神子元島の幸吉と愛を確かめあっていた。ある晩神子元島の火が見えないので心配したお静は、小船を出して神子元島に向かったが、折りからの季節風で波は高く船は思うままに進まなかった。お静は一心不乱に神に祈った。その甲斐あって神子元島に漂着し、無事二人はめぐりあい結ばれた。親も許すこととなり、末長く幸せに暮らしたという。お静が火を焚いたところに熊野権現の祠が祀られた。」と。祠の内陣。そして「伊豆七島展望図」「大島」。「利島」。「神子元(みこもと)島」。「新島」。「式根島」、「三宅島」方向であったが・・。「御蔵島」、「神津島」方向。数多くの大型船が往来している。「黒潮ハイウェイ」は大いに活躍しているのだ。そして岩の下に潜り込んだ「石室神社」を振り返る。そして山の尾根には風力発電装置が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.27
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「南伊豆町の「河津桜・みなみの桜」を楽しんだ後は、大学時代以来、半世紀以上ぶりに「石廊崎」に向かって県道16号線・下田石廊松崎線の海岸線に沿って南下する。「下流港」前を通過。左から「利島」、「鵜渡根島」、「新島」、「式根島」の姿が確認出来た。伊豆半島の弓ヶ浜の約8キロ沖合にある、灯台があるだけの小さな無人島・「神子元島(みこもとじま)」が見えた。その先に見えたのが左から「式根島」そして「新島」。「赤穂浦」に向かって進むと左手に数々の岩場が。南伊豆町大瀬沖の岩場。岩場の間に見えたのが「利島(としま)」。左から「鵜渡根島(うどねじま)」、「新島」、「式根島」。大瀬沖を望む。そして「石廊崎オーシャンパーク」駐車場を目指していたが、道を誤り「伊豆クルーズ 石廊崎営業所」の駐車場に到着してしまったのであった。ここは石廊崎の岬の付け根にある石廊崎港で「石廊崎岬めぐり」の遊覧船乗り場なのであった。駐車場のオバチャンに道を教えてもらい、引き返して何とか「石廊崎オーシャンパーク」駐車場に到着したのであった。「石廊崎オーシャンパーク」の建物。「石廊﨑オーシャンバーク:日の出も日の入りも望める最南端の特等席」。「現在地静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎緯度: 34゜36 ' 18.3″ N 経度: 138゜50 ' 33.9 " E石廊崎は、伊豆半島の最南端に位置します。昭和25年に毎日新聞社が実施した「日本の観光地100選」に石廊崎が選出されました。昭和30年代には新婚旅行のコースになり、多数の観光客が押し寄せました。このころ遊覧船が始まり、昭和30年( 1955年) 9月1日に「長津呂」から「石廊崎」へ地名が変更されました。」「土砂災害防止法に基づく土砂災害警戒区域等の指定箇所」案内。「現在地」をズームして。「石廊崎オーシャンパーク」の建物脇を灯台方向に向かって進むと右手にあったのが「石廊崎特別地域気象観測所」。石廊崎測候所(旧称は長津呂、北緯34度36分、東経138度50.8分、標高55m) は1939年に創立し、1940年から累年統計を開始しているとのこと。この石廊崎測候所が無人化されて石廊崎特別地域気象観測所になったのは2003年。岬突端の灯台より手前にあり、標高は52m。「石廊崎特別地域気象観測所」の敷地を見る。更に灯台に向かって進む。そして正面に「石室神社」の石鳥居が見えて来た。この石碑は?狛犬(右)。狛犬(左)。「石鳥居」。扁額「石室神社」。右手にあったのが「南伊豆町消防団 石廊崎消防詰所」の建物。そして「石廊埼指向灯」が左手にそして手前に「アンテナ塔」。「石廊埼指向灯仕様型式 塔形 コンクリート造り 白色光質 不動 白、赤、緑光 光度 白色 10000カンデラ 緑色 3900カンデラ 赤色 3200カンデラ光達距離 白色 15海里 ( 21km ) 緑色 12海里 (18km ) 赤色 11海里 (16km )高さ 地上から 7.7m 水面から 64m石廊埼指向灯はサク根、後藤根などの岩礁を避ける水路を示すため、1972年 1月に設置点灯した。安全航行水路を白光で左右それぞれ、幅約4度を目安として夜間 緑色、赤色で標識している。白光は248.5°を中心として幅1.1°でサク根、後藤根等の険礁群を避ける水路を示し、緑光(幅約4°)及び赤光(幅約4°)はそれぞれ水路の左舷側及び右舷側を示す」とのこと。そしてその先に「石廊埼灯台」。ズームして。「利島」。「神子元島灯台」を見る。石造としては、我が国に現存する当時の姿をそのまま残している最古の灯台である。設計者は、日本灯台の父であるR・H・ブラントンである。慶応2年(1866年)5月、幕府は米・英・蘭・仏の4ヶ国と改税約書(江戸条約)を結んだ。この時の8灯台のひとつ。灯塔の築造には下田のエビス岬から切り出した伊豆石を使用し、上層部は継ぎ目を嵌合したダブルテール(鳩尾)方式を取り入れ、中層、下層部の上下左右の継ぎ目には、伊豆半島稲取の火山灰と梨本の石灰岩をもって焼成した速製のセメントが用いられている。平成7年度耐震補強に合わせた保全が実施された。「所在地 静岡県下田市点灯年月日 明治3年11月11日塗色 白地に黒横帯2本塗構造 円形・石造光り方群閃白光 毎16秒に2閃光光りの強さ 400,000cd光りが届く距離 19.5海里構造物の高さ 23.31m海面から光りまでの高さ 50.79mレンズ 第3等大型レンズ 水銀槽式回転機械電源 自家発電(発動発電機)」左「鵜渡根島」、右「新島」。「三宅島」その手前の「式根島」は霞んでいたが。再び「石廊埼灯台」。更に近づいて。「石廊埼灯台~航海の無事を祈って~」石廊埼灯台(旧名称・石室埼灯台)は、明治4年(1871年8月21日に設置点灯されました。当時の木造八角形、灯高基盤上6.1メートルの灯塔は、暴風により大破し、昭和8年(1933)に現在の形に改築し、平成5年(1993)2月に外壁をタイル張りとしました。」「位置 北緯 34度36分10秒 東経 138度50分43秒光り方 16秒ことに白光と赤光を各1回発する (単せん白赤互光 毎16秒に白1せん光赤1せん光)光の強さ 白光61 , OOOカンデラ 赤光66 , OOOカンデラ (1カンテラはろうそく約1本分の明るさです)光の届く距離 白光18. O海里(約33キロメートル) 赤光18.5海里(約34キロメートル)高さ 地上から灯台頂部 約11メートル 水面から灯火 約60メートル管理事務所 第三管区海上保安本部 下田海上保安部交通課 電話 0558ー23ー0145」「位置図」。「石廊埼燈台」。「石廊埼灯台」東側の入江を見下ろす。東伊豆の海岸線。一番奥に「爪木崎」。そして「石廊埼」の岩礁地帯を巡る、色鮮やかな遊覧船が現れた。「伊豆クルーズ」の遊覧船・「マリンバート号」。駐車場のある石廊崎漁港から出ているのだ。「石廊埼灯台」東側の入江を再び。「マリンバート号」はこの入江を左に進んで行くのであった。「~「ONEタップビュー」で灯台ツアー二次元コードで灯台内部が見られます!!」西側を見下ろす。再び伊豆半島の東側海岸線を見る。右手奥には「伊豆大島」が見えた。「マリンバート号」は「石廊埼灯台」東側の入江を進んで行った。入江と岬が交互に現れる、出入りの激しい海岸線の、変化に富んだ星観が楽しめるのはもちろんのこと、袈裟を被ったお坊さんの姿に似ていることから名付けられに「聖人岩」や、「どんどん穴」が有名な「蓑掛け岩」、野猿が生息している「大根昌」など、この遊覧船ならではの景観スポットもいくつかあるのだ と。「石廊崎」先端部そして太平洋を見る。ズームして。伊豆半島沖の太平洋。先程訪ねた「石廊埼指向灯」を振り返る。「石廊埼灯台 敷地開放時間 4月~ 9月 9 : 00 ~ 16 : 3010月~ 3月 9 : 00 ~ 15 : 30」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.26
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特別展『毒』の展示鑑賞をほぼ終えて出口に向かって進む。正面に、様々な展示会の案内のポスターが。「監修者に聞く第1会場では、身のまわりには毒がたくさんあることをご紹介しました。こでは、本展を監修した9名の研究員と、本展のナビゲーターを務めた鷹の爪団にとって「毒」とはなにか聞いてみましたあなたにとっての「毒」とはなにか、ぜひ考えてみてください。」「植物研究部 細矢研究員に聞くQ.あなたにとっての毒とはなんですかA.工ンドレスな議論のタネですかね(笑)。この展覧会では、「毒と薬は同じ」というフレーズが 何回か出てきます。私は、製薬会社に動務していた経験があるので、「薬が毒と同じもの」と いうのはよく知っていました。人間の立場からすると、毒にしかならないものはいつぱい あります。しかし、薬のなかにも取り過ぎれば毒になるものがいつばいあります。 アルコールはその代表で、注意しながらいただいています。Q.あなたの分野で恐れられている(有名な)毒はなんですかA.私の修論のときの研究テーマであるフザリウムというカビがつくる麦類赤かび病の 毒素(複数)です。とても多くの研究者が研究していますが、いまだに研究すべきことが 出てきます。Q.毒にあたった経験はありますか。 毒にあたらないように注意をしていることはありますか。A.博物館ではビョウタケ類という非常に小さいきのこを研究しているため、地を這うように 採集しています。その結果、しばしばウルシにかぶれます。夢中になると目に入らないん ですよねえ(笑)。出張先でひどくかぶれて、病院通いしたこともありますので、長期の出張の 時には塗り薬を持っていきます。」「動物研究部 中江研究員に聞くQ.あなたにとっての毒とはなんですかA.やはり恐布の対象です。生物の形態や機能には美しさを感じることが多いですが、生物が 産み出した毒には美しさよりも恐怖を感じてしまいます。人間が作った毒、特に人間用の 毒には嫌悪感しかありません。 また、私にとっての毒の身近な具体例としては、"百薬の長"であるお酒が挙げられます。 薬にはならないと理解しながら嗜んでいます。嗜み過ぎて翌日に「毒」だと思い知らされる ことも多いです・・・Q.あなたの分野で恐れられている(有名な)毒はなんですか。A.毒そのものではないですが、オニダルマオコゼでしようか。フグ毒などは自分の注意で逃れる ことができますが(毒を盛られたら別)、オニダルマオコゼは採集調査時に気付かずに踏んだり する可能性があるので、怖いなあと話題に上がることがあります。Q.毒にあたった経験はありますか。 毒にあたらないように汪意をしていることはありますか。A.子供の頃にハチの巣にちょっかいを出していたりしたので、キイロスズメバチに2回、 アシナガバチに3 ~ 4回、ミツバチに2回と、何度もハチに刺されています。 ハチの毒を勉強し、アナフィラキシーショックが怖くなったので、ハチには近づかないように なりました。が、ある日、クローバー畑でゴロゴロ寝そべっていたら脛にミツバチの針が 刺さっていました・・・(ミツバチの2回目)。「動物研究部 吉川研究員に聞くQ.あなたにとっての毒とはなんですかA.爬虫類や両生類には毒をもつものが意外と多く、実は毒は身近な存在です。正しい知識をもって 正しく恐れながら付き合っていくべきものですね。しかし不思議な魅力もあって、小さい頃は 祖父が持っていたまむし酒をドキドキしながら眺めていました。いまでも調査中にマムシに 会うとじっくり観察してしまいます。Q.あなたの分野で恐れられている(有名な)毒はなんですか。A.爬虫両生類学の分野、特に恐れられいるのはやはり毒へビです。日本国内のハブやマムシは 血清があり、医療体制も整っているとはいえ、咬まれればやはりタダでは済みません。 東南アジアなどの海外調査では僻地だったり血清もないことが多く、命にかかわります。 コブラ類は強い神経毒をもつので特に恐れられています。実際に調査中にアマガサヘビという コブラ類の幼体に咬まれて死亡した海外の研究者もいます。Q.毒にあたった経験はありますか。 毒にあたらないように注意をしていることはありますか。A.むかしヤマカガシに2回ほど咬まれたことがありますが、その時は毒牙に達しなかったので 無事でした。ヘビにむやみに手を出すのはやめましよう。また、幼稚園の頃に突然目が種れて 病院送りになったことがあったのですが、アマガ工ルを触った手で目をこすったのが原因だった ようです(アマガ工ルは粘液に刺激性のある強い毒を含みます)。生き物と接する上では、 触ったらよく手を洗う、触った手で目や鼻を触らない、といった基本的なことが大事だと 思います。「動物研究部 井手研究員に聞くQ.あなたにとっての毒とはなんですかA.怖いものであり、避けたいものです。でもその毒を怖いと思ったり避けたいと思ったりする 感覚が、ミューラー擬態やベイツ擬態のような形などで、生物に多様性をもたらすことにも つながったのかなと思うと、やつぱり毒っておもしろいって思います。Q.あなたの分野で恐れられている(有名な)毒はなんですか。A.ハチ毒はアナフィラキシーショックの危険性もあることからやはり恐れられていますね。 ただし、無理に捕まえたり驚かせたりしない限り、ほとんどのハチは積極的に人間を刺す ことはないので、ひとくちにハチといって嫌いにはならないでほしいです。注意すべき点 さえ注意していれば、ハチに限らず毒をもった虫たちってすごくおもしろいですよ。Q.毒にあたった経験はありますか。 毒にあたらないように汪意をしていることはありますか。A.今回登場している虫のなかでいうと、ハチに刺されたことも、イラガに刺されたことも あります。どちらも不用意に手を伸ばした先にたまたまその虫がいて刺されました。 森の中じゃなくても、手すりなどにも毒をもった虫がいることがあるので、手を伸ばす ときには注意しています。毒虫に注意してまわりを見ていると、毒の有無にかかわらず、 意外な場所でおもしろい虫が見つかったりするので、ちょっとお得です。「植物研究部 田中研究員に聞くQ.あなたにとっての毒とはなんですかA、生物が生存のためにもつようになったもの、というイメージですね。身のまわりにも たくさんの「毒」があります。毒草を誤って食べれば命取りです。植物は身を守るために 虫に食べられると毒素を作るので、有機野菜で虫が食べているから安全というわけでも ないのです。世の中、完全に安全というものはないでしよう。私たちの生活のなかに 散在する「毒」は、リスク管理の大切さを教えてくれる存在ともいえるでしよう。Q.あなたの分野で恐れられている(有名な)毒はなんですか。A.私の専門の種子植物で、世界最強の毒草と呼ばれているのが、ゲルセミウム・エレガンス。 トリカブトのアコニチンの致死量は0.116mgとされていますが、この毒草に含まれる ゲルセミンという成分の致死量はわずかに0.05mgといわれます。葉3枚ほどであの世行きです。 そんな毒草に”エレガンス”って。この仲間のカロライナジャスミンは、園芸植物として日本でも よく植えられますが、もちろん毒です。美しきものには毒があるのです。Q.毒にあたった経験はありますか。 毒にあたらないように汪意をしていることはありますか。A.私は熱帯植物が専門。そのためをフィールドでは特に注意しています。手をかけようとした枝に 毒ヘビが巻き付いていたことも。イラクサ科やウルシ科の毒にやられないよういつも豚皮手袋を しています。森では最新の注意を払う中、ある日、ジャワ島でお菓子とミネラルウォーターを 振る舞ってくれた親切な村人。その水の瓶の蓋が緩いと思ったので一口でやめました。 ところが、その一口が命取り。翌朝トイレは祭囃子、3日寝込みました。海外では、水も注意が 必要です。「植物研究部 保坂研究員に聞くQ.あなたにとっての毒とはなんですかA.きのこを研究している。それだけで毒からは永遠に離れられない関係にあります。なにしろ 初対面でまず聞かれるのは「で、どうやって毒きのこを見分けるの?」…そんな方法ありません、 と言ってもまず納得されません。これまできのこ図鑑を多数監修していますが、食毒が不明な 種のほうが多いので、できれば「食・毒」に関する記述は無しにしたい、と思うことも しよっちゅうです。でも、やつぱりそんなきのこ図鑑は面白くないかも、と悩む今日 このごろです。Q.あなたの分野で恐れられている(有名な)毒はなんですか。A.最近話題のカエンタケ、ほかに類を見ない中毒症状のドクササコ、綺麗で猛毒のドクツルタケ、 など毒きのこはキャラクターが尽きないのですが、個人的に一番興味をもっているのは シャグマアミガサタケです。なにしろ猛毒なのに、フィンランドでは政府お墨付きの伝統食材な のです。慎重に慎重を期した試食レポートもぜひお読みください。Q.毒にあたった経験はありますか。 毒にあたらないように汪意をしていることはありますか。A.毒きのこに関して言えば「知らないきのこは食べない」に尽きます。僕はほかのきのこ研究者に 比べると、野生きのこを結構たくさん食べているほうだと思いますが、これまでのきのこ研究 生活で、毒きのこによる中毒は一切ありません。一回だけ肝を冷やしたのは、アメリカできのこ 同好会の持ち寄りパーティーに参加した時。もちろんみんな自慢のきのこ料理を持ってくるの ですが、その夜に強烈な腹痛と吐き気を感じ、集団きのこ中毒か、と思いましたが、結果的には 通常の(それでもイヤですが)食中毒でした。「地学研究部 堤研究員に聞くQ.あなたにとっての毒とはなんですかA.「薬」です。いわゆる「抗がん剤」は点滴によって投与されますが、その準備をする看護師は完全防備(マスク・ゴーグル・フェイスガード・使い捨てエプロン・手袋)です。皮膚に付着するとあまり良くないとのこと。この話を聞いて、がんを制するためには毒に近い強力な薬が必要なのだと感じました。Q.あなたの分野でれられている(有名な)毒はなんですか。A.フッ酸(フッ化水素酸: HF)」ですね。 フッ酸は岩石の主成分である珪酸塩鉱物やガラスを溶かす性質があり、岩石を溶液化する際や 固い岩石から微化石を取り出す際に用います。一方で、人体を激しく腐食する劇物としても 知られています。我々の分野で大きな事故は聞いたことはありませんが、フッ酸が関わった 恐ろしい事件・事故は少なくないので、興味のある方は検索してみて下さい (閲覧にはご注意ください)。Q.毒にあたった経験はありますか。 毒にあたらないように汪意をしていることはありますか。A.調査の際、最も厄介なのは蚊と蜂です。とはいえ蚊は刺されても痒いだけで済みますが、 蜂には特に気を付けています。以前、仲間とニ人で山奥の調査をした際、私が靴紐を直している 間に先行した仲間の足元からスズメバチの群れが湧いてきたことがあります。おそらく巣を 踏んでしまったのでしよう。何とか逃げ切りましたが、疲れ切ってその日の調査は中止に なりました。「理工学研究部 林研究員に聞くQ.あなたにとっての毒とはなんですかA.私は化学が専門で、実験のなかで取り扱う試薬の中には有害なものもあります。そのような 試薬は「毒物」、「劇物」と明記されていますので-、毒は以外と身近な存在と感じています。 初めて扱う試薬については、使用前にその性質や危険性を必ず調べます。不用意に開封すると 大気と反応して有毒ガスが出るような試薬もあります。とはいえ、毒は理解した上で正しく 使えば怖くない物質です。Q.あなたの分野でれられている(有名な)毒はなんですか。A.私の研究分野は化学のなかでも触媒という分野で、触媒は化学反応を進めることで薬や化学製品を作ったり、自動車の排気ガスなどの有害物質を無害化する物質です。触媒にとって毒となる物質があり、「触媒毒」と呼ばれています。例えば、一酸化炭素や硫黄化合物などで、触媒の有効成分に強くくっつき、無力化してしまいます。触媒毒を除く技術や、劣化しにくい触媒の開発が続けられています。Q.毒にあたった経験はありますか。 毒にあたらないように汪意をしていることはありますか。A.実験の際に一番気をつけることは、試薬が目や口に入らないようにすることです。そのために、 保護メガネをつけ、実験前後に手を洗います。余談ですが、砂糖の100倍以上甘い人工甘味料 アスパルテームの発見は、ある製薬会社の研究員の口にアスパルテームが実験中偶然入り、 その甘さに気づいたことがきっかけです。毒ではなくてよかったですね。特別展「毒」「監修・監修強力」者の紹介。「謝辞本展覧会の開催にあたり、以下の各機関、各社、ならびに多くの方々にご協力を賜りました。ここに厚く御礼申し上げます。(敬称略、五十音順・アルファベット順)「図鑑2種同じ種のきのこでも、国によって食毒がの扱いが異なることがあります。ウスタケやニセショイウロの仲間は中国雲南省では広く食用にされていますが、日本や欧米の図鑑ではほぼ例外なく毒きのことして扱われます。」「チンチョーロ時代のミイラ」。「チンチョーロ時代のミイラ紀元前3200年頃に作られた子どものミイラで、CT撮影により、腕や脚の長い骨に密度か高い部分があることが分かりました。これは砒素などを摂取していたために生じた可能性があると指摘されています。」そして「毒展」のオリジナルショップへ。ここで展覧会の復習用に、「毒展」の公式図録.を¥2,400(税込)で購入。図録:特別展「毒」。特別展「毒」で観た内容のほか、展覧会では紹介しきれなかったというコラムなども多数掲載。本展の監修を務める国科学博物館の9名の研究者はもちろん、「深海」や「へピ」のスペシャリストなどからの貴重な寄稿も収録してあった。全180ページ!目次-1目次-2「ツキヨダケのぬいぐるみ」と「ベニテングタケのぬいぐるみ」。そして「毒まんじゅう」も購入。実は普通のまんじゅう、972円(税込)。内部には紅芋餡が。ここが一番混雑していた。精算に並ぶ方々。そして出口に向かって進むと、右手にあったのが「フーコーの振り子」。「フーコーの振り子👈リンク地球上の振り子は、重さや長さに関係なく振動面がある速さでゆっくりと回転するのが観察される。👈リンクフランスの物理学者レオン・フーコー(1819 ~68)は、この現象が地球の自転のために起こることに気付き、1851年に初めて振り子によって地球の自転を実験的に証明した。」■1851年の実験の様子フーコーは何度か実験を行ったが、最も有名なのは1851年にパリのパンテオン(偉人を祀った廟)で行った公開実験である。このときの振り子は、28kgの鉄球を67mのピアノ線でつり下げたもので、パンテオンは毎日見物客でいつぱいになった。◆フーコーの振り子の原理👈リンク回転台の振り子は、台が回転しても振動面の向きは変わらない。この振り子を同じ回転台の上に乗って観察したとすると、振り子の振動面が回転するように見える。地球は自転しているので、回転台の上の振り子と同じことが起こる。これがフーコーの振り子の基本原理である。しかし、地球上では緯度によって振り子の回転の速さが異なる。北極や南極では1日に1回転するが、緯度が低くなるにつれて回転が遅くなり、赤道では回転しなくなる。各緯度の場所の振り子は、極地方の振り子と比べて緯度の正弦に比例した速さで回転する。なお、当館の緯度(北緯35°42.8’)では、振り子は1時間あたり8°46.8’回転し、約41時間で1回転する。回転のペースは北極点なら24時間で一周。赤道だと変化なし。日本やパリ、ニューヨークなどなら、1/sin(緯度)×24時間になる。そしてここ「国立科学博物館」は、北緯35°42.8’なので41時間くらいになると。そして「日本館」を出て、屋外へ。正面には再び巨大なクジラが。体長30m、体重約150Tのメスのおとなの「シロナガスクジラ」。巨体を海面から深く潜行させようとしている姿を再現。シロナガスクジラは巨大さだけではなく寿命も相当のものであると。それは、寿命の最長200年!平均では、80〜120年だそうで、完全に人間以上。口の部分をズームして。体長30mを斜めから。尾の部分。「シロナガスクジラシロナガスクジラは、現在地球上に生息する最大の動物です。流線型の細長い体、小さい背ビレ、灰色のカスリ模様が特徴で、英語ではプルーホ工ールと呼ばれています。赤道付近をのぞく南北両半球の大洋に分布しますが、冬は繁殖のため暖かい海で過ごし、夏は冷たい海に回遊します。食物は主に体長5センチメートル程のオキアミなどで、群れを大量の海水ごど飲みこみ上顎のクジラヒゲでこしとって食ベます。出産は2 ~ 3年ごどで、体長約7メートルの子が生まれ、数年でおとなになります。20世紀初めには南極海だけで20万頭以上いたといわれていますが、1966年に捕獲が完全に禁止されるまでに激減しました。今では全世界で1万頭程度といわれ、国際条約できびしく保護されています。この実物大の模型は、体長30メートル、体重約150トンのメスのおとなのシロナガスグクラが、海面での深呼吸を終えて急速に深く潜ろうとしているところです。」林の奥にテントが設営されている上野公園噴水広場を見る。再び「国立科学博物館」を。そして「国立西洋美術館」の「考える人」像。肉体表現と思索にふける人物を描写した像として有名。オーギュスト・ロダン作品。2023年1月23日(月)~3月17日(金)は館内整備に伴い全館休館中であった。上野「国立西洋美術館」 は世界遺産に登録されている。「国立西洋美術館」を含む7か国17作品で正式には「ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-」国境をまたいだ世界遺産としては日本では初登録の世界遺産。その前庭には彫刻・「カレーの市民」が。「カレーの市民」。オーギュスト・ロダン・・・1884-88年(原型)、1953年(鋳造)「カレーの市民」は、百年戦争時の1347年、イギリス海峡におけるフランス側の重要な港カレーが、一年以上にわたってイギリス軍に包囲されていた際(カレー包囲戦)の出来事に基づいて作られていて、英雄ユスターシュ・ド・サン・ピエールの姿を記念する像。右手に「東京文化会館」。「東京文化会館」は、「首都東京にオペラやバレエもできる本格的な音楽ホールを」という要望に応え、東京都が開都500年事業として建設し、1961(昭和36)年4月にオープン。以来今日まで、オペラ、バレエ、クラシックコンサートなど、世界中の著名なアーティストによる名演の数々が繰り広げられ、“奇跡的”とも言われる音響の良さと相まって、その名は“Tokyo Bunka Kaikan”として広く世界にまで知られてる と。「東京文化会館」入口。再び「国立西洋美術館」。右手に見えたのが「弓をひくヘラクレス」 エミール=アントワーヌ・ブールデル 1909年(原型)ギリシャ神話の英雄へラクレスの「十二の功業」の一つ。へラクレスが怪鳥ステュムファリデスを射るために渾身の力で弓をひき、まさに矢を放とうとする瞬間を捉えている。隆々たる筋肉におおわれた緊張感あふれるヘラクレスの肉体 と。以前に撮った写真。右手にはこれもロダン作「地獄の門」。13-14世紀イタリアの詩人、ダンテ・アリギエーリの叙事詩『神曲』地獄篇第3歌に登場する地獄への入口の門である。「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の銘文でよく知られており、深い絶望をあらわす表現としても用いられる。このロダン作「地獄の門」は、上野恩賜公園の国立西洋美術館、静岡県立美術館をはじめ、世界に7つが展示されているとのこと。3月18日(土)から開催される「憧憬の地 ブルターニュ」展のポスター。「19世紀後半から20世紀にかけ、各国の画家たちがフランス北西端のブルターニュ地方を訪れ、この地を多くの作品に描きとめました。本展では国立西洋美術館の「松方コレクション」をはじめ、国内美術館や個人コレクションおよそ30か所からブルターニュを表した作品約160点を選りすぐり、それぞれの画家たちがこの地に何を求め、見出したのかを探ります。」と。パンダの形をした「上野動物園(ueno ZOO)」案内板。そして上野駅東口に向かって「パンダ橋」を渡る。「上野駅東西自由通路建設地点の遺跡台東区上野公園五番東京都立上野公園内は上野忍岡遺跡群として縄文時代ー近世の遺跡が広がり、江戸時代には寛永寺境内地であった。本遺跡は上野台地の東南の縁辺に位置し、北西に東京文化会館構内・国立西洋美術館構内の遺跡が分布している。当地は近世には寛永十一年(一六三四)から寛永寺子院の常照院が存在していたが、一六七八年に凌雲院が移転してきた。凌雲院の境内は当地から東京文化会館と国立西洋美術館まで続き、十八世紀中頃以降は徳川御三卿(田安・一橋・清水家)の墓所となっていた。国立西洋美術館構内の発掘調査では清水家の墓が発見され、東京文化会館においても墓が確認されている。当地は平成十年(一九九八)に東西自由通路(現パンダ橋)建設に伴い調査を実施した。調査地の北東側に十七世紀頃の「段切状遺構」(雛壇状の区画)が検出され、また「地下室」等も見られ常照院に関係するものと推測される。その後北半分は整地されて墓所となっており十九世紀頃の板石組の石槨墓(五基)や墓所を区画する石組が発見され、一橋家の墓所と推測される。遺物では「地下室」から中国製磁器、鋼製灯明具、松竹・鶴亀文印刻の土師質(素焼き)皿などが出上した。近世以前では細文時代前期、弥生時代末期頃、古墳時代後期、奈良・平安時代の住居跡が調査されており、古墳時代の住居跡は焼失して屋根材が炭化したまま残っていた。その他に道路状遺構や縄文時代の集石などが発見されている。火災住居跡からは完全な形の土師器坏、金環(金銀貼の製耳環)が出上し、付近の摺鉢山古墳等に関連した集落とも推測される。一九九八年発掘調査での出土遺物は平成十二年度台東区有形文化財(考古資料)に登載されている。 平成十五年三月 台東区教育委員会」オープンスペースが少ない線路の東側の人々が、大災害時に上野公園に避難しやすいようにと建設された橋であるとのこと。上野駅のパンダ橋口にあった大小2体のジャイアントパンダ像1984(昭和59)年の設置。高さ2mを超える巨大なもの。この入谷改札先のジァイアントパンダ像は現在、小さいパンダ像と一緒に納まっているのですが、この小パンダ像こそが、かつて大連絡橋に設置されていたもの。大小2体が同じ場所に置かれている様子は、まるで親子のようで、別々につくられた像とは思えないほどぴったりはまっていたのであった。正面に「月・日」のモニュメントパンダ橋から昭和通りへと続くペデストリアンデッキ(歩行者連絡橋)、通称ジュエリーブリッジには巨大な月と日を象徴したモニュメントが建っていた。そしてこの後は、現役中に大変お世話になった協力会社の社長に久しぶりにお会いし中華料理をご馳走になり、楽しい時間を頂いたのであった。そして私からは、お土産として「国立科学博物館・特別展『毒』」のショップで購入した「毒まんじゅう」を!! ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.03.18
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「毒とおしろい文化江戸時代には、「肌の白さ」は美しさの重要な要素とされており、「鉛白」でできた白粉が白さを演出するファンデーションとして広く利用されていました。また「伊勢白粉」という、水銀を主成分とした白粉も使われることがありました。鉛も水銀も毒性があり、健康に悪影響を与えていた可能性があります。」「渓斎英泉作「美艶仙女香 式部刷毛」1815 ~ 42年この浮世絵は、女性が刷毛を使って顔に白粉化粧をする様子を描いています。」「歌川国貞作「浮世五色合 白」1847年この浮世絵は、白粉化粧をしている女性が、襟足の仕上がりを確かめる様子を描いています。」「伊勢白粉水銀を主成分とした伊勢白粉は高級品で、ラメのような光沢が特徴でした。」「「小町香」包み白粉にはさまざまな銘柄があり、役者絵や美人画が書かれた包に入れられて販売されました。」「白粉化粧を施した江戸時代人女性復顔像」。江戸当時と現代の照明の違いを体験するという展示物で、不気味さはダントツ「白粉化粧を施した 江戸時代人女性復顔像実際の頭骨から復顔した像に白粉化粧を施しました。当時と現代の照明の違いによって、どのように見えかたが変わるのか体験してみてください。」「ラテックスの利用--モルヒネラテックスのもう1つの代表的な利用に、ケシの未熟な果実のラテックスから採取される神経毒モルヒネがあります。がんや術後などの疼痛緩和に使われます。未熟なケシの果実の表面から得られるラテックスを採取し乾燥さたものがアヘンです。アヘンには、モルヒネのほか、喘息薬や感冒薬として使われるコデインも含まれています」「ケシの花一貫種(いっかんしゅ)と呼ばれる日本で開発された栽培品で一反(約990m2 )あたりー貫目(約3.8kg )のアヘンが採取できる。」「ケシの果実「芥子坊主」からラテックスが滲み出ているところ。」「ケシの花」。「LD50~毒の強さの比較毒性は相対的で、相互の比較がしにくいため、LD50という値でその強さを比較します。実験動物を一定数用意して、毒を段階的に増やして与えます。毒性の強さは、通常、S字カーブを描いて増加するので、カーブの中間の、実験動物の半分が死亡する量をLD50(半数致死量)といいます。LD50が小さいものほど、強い毒性をもつことになります。」「毒物の量を増やした場合の実験動物の死亡率を見るイメージ図この場合4mgがLD50となる。」「毒性と死亡率の間に見られるS字カーブの関係」「主な毒のLD50(50%致死量)」「中毒と依存症依存症は「無いと正常な生活ができなくなって、常に欲する状態」です。一方、中毒は「体内にある毒性物質によって異常をきたす場合」です。俗に言う「アルコール中毒」は、慢性的な飲酒でアルコールがないと禁断症状(神経細胞の異常な興奮による異常な反応)によって、正常な生活ができなくなる「依存症」のことを指しています。アルコール中毒とは本来、飲み慣れない人が大量のアルコールをとることによって、その毒性が出るような症状を指します。」「毒生物料理人間の食に対する飽くなき追求は、時として強い毒性をも乗り超える原動力になりました。毒の除去無毒化によって、本来ならば食べられないような生物を食材として活かしています。ここではその技と、食の豊かさを紹介します。」「毒生物料理」が並ぶ。「フグフグの料理ではトラフグのてっさ(刺身)、皮や自子のポン酢が有名です。フグは種によって有毒部位が異なり、素人の調理は非常に危険です。免許をもった料理人などは、有毒の部位を慎重に取り除いて調理しています。」「フグ刺身(てっさ)」「うなぎ蒲焼きなどで日本人が好きなニホンウナギも有毒動物であり、血液と粘液に毒をもちます。ただし、これらの毒は熱に弱く、加熱することで無毒化されます。ニホンウナギの刺身をあまり見かけないのは毒が理由だったのです。」「鰻蒲焼食品サンプル(重箱入り)」。「キャッサバタピオカの原料でもあ、冷凍うどんにも使われている熱帯地域の代表的な作物であるキャッナバは、青酸配糖体とその分解酵素を別々の紐胞にもっています。細胞が壊れると分解酵素がはたらき青酸を発生させることで食害を防いでいるのです。食用にするには、この根茎を摺り下ろし、水に晒して青酸を溶かし出して無害化します。」「キャッサバアフリカにおけるキャッサバの主な毒抜き方法◯水に溶かす ・根茎を茹で薄く小さく切って流水にさらす ・根茎をすリおろし、水にさらして沈殿したデンプンを採る◯酵素に寄る分解 ・根茎の皮をむき、細かく切るかすリおろし、一晩から1日放置する(キャッサバ自体の酵素で 青酸配糖体を分解) ・根茎の皮をむき、薄切りにして天日干しする◯微生物の利用 ・皮をむいた根茎にカビをつけて、カビの酵素により青酸配糖体を分解する ・皮をむいた根茎を池や水溜りの水に数日間浸け、微生物の酵素で青酸配糖体を分解する ・根茎をすりおろし、袋に入れて1週間以上放置し、繁殖した微生物の酵素で青酸配糖体を 分解する」「キャッサバの地下茎」🔻「キャッサバ粉 キャッサバの根茎の皮をむいて、粉状にして乾燥させたもの。グルテンを含まないため、 小麦アレルギーの方に適しています」🔻「タピオカデンプン キャッサバの根茎からデンプンだけを抽出したもので、タピオカの原料になります」🔻「タピオカドリンク タピオ粉から作られるタピオカが入ったドリンク。南米ではタピオカデンプンから ボンデケージョというパンを作ります。」ズームして。「コンニャク日本の伝統的な食材であるコンニャクは、コンニャクの塊茎(芋)から作られます。シュウ酸カルシウムを含むため、以下のような工程で除去し、食用にします」「コンニャクの製造工程の一例」「コンニャクの塊茎」。「コンニャク製品」。「シャグマアミガサタケ「毒きのこは決して食べない」のが原則ですが、猛毒のシャグマアミガサ′ケはフィンランドでは、大量のお湯で茹でこぼして毒抜きして食べられています。販売もされていますが、特殊な毒抜き作業の途中で中毒する危験性もある恐ろしいきのこです。」「シャグマアミガサタケ日本を含む北半球に広く分布するきのこですが、フィンランドなど一部の国を除いて、食用にはされません。」「シャグマアミガサタケ毒成分のジロミトリン(ギロミトリン)は茹でることで除去できますが、蒸気を吸い込むと中毒します。」「終章 毒とはうまくつきあおう」毒の世界の探訪、いかがでしたか?最後に、もうー度、現在の私たちと毒との関係を振り返り、将来のことを考えましよう。「人間の活動が毒生物を招く人間の社会・経済活動では、自然界には存在しない規模の交通・物流によって、さまざまなものが移動します。セアカゴケグモやヒアリのような本来日本にいなかった毒性の生物は、人間の移動や物流に伴って、日本に入ってきました。」「国内で発見されたセアカゴケクモ」。「日本に侵入した毒生物」。「日本に侵入した毒生物①ヒアリ②アカカミアリ③ツマアカスズメバチ④セアカゴケクモ」「アジアから北アメリカに侵入した毒性物①オオスズメバチ②クロスズメバチ属の1種(北アメリカ在来種)「①オオスズメバチは2019年にアメリカへの侵入が初めて確認され、現地では殺人バチとして報道されました。②は北アメリカで一般的にスズメバチとして知られている仲間」。「後から毒性が分かった例スギヒラタケは、長い間食べられる野生のきのことして知られていましたが、2004年に腎障害の素因をもつ人には毒性があることが分かってからは、毒きのことして扱われています。アスベストは、長い間、魔法の鉱物として重宝されてきましたが、1970年代から人体や環境への有毒性が分かり、現在では使用禁止となっています。」「スギヒラタケ」。「スギヒラタケ以前は「爽やかな香りのする美味しいきのこ」と紹介されていましたが、毒をもっことが分かりました。」「クリソタイル」。「クリソタイル白石線とも呼ばれています。石線は毒となる成分こそ含んでいませんが、結品の形状が要因となって「毒」となります。」「役に立つ毒もあるペニシリンは、バクテリアの細胞壁の合成を阻害し、生育を抑制します。バクテリアにとっては、毒ということができるのですが、人間はその利用を考えました。」「ペニシリンアオカビの1種から発見された人類初の抗生物質です。」「毒と対峙する知恵---抗毒素の開発---抗毒素は毒素に結合してその効果を中和する抗体です。ウマなどの動物に毒性を抑えつつ、抗原性を保ったものを注射して抗体を作り、それを精製して得られます。毒へビの抗毒素(血清)が特に有名で、ハブでは咬傷による死亡者が激減しました。へビ以外にもクモ毒や破傷風毒素、新型コロナウイルスの治療にも抗毒素(中和抗体)が用いられています。毒の一部は、人間が開発した技術で無力化できるのです。」「抗毒素(血清)の製品」。「抗毒素(血清)の製品毒素に結合する抗体を分離精製したもの。液状のものと凍結乾爆した粉末のものがあります。」「毒とはうまくつきあおういかがでしたか。この展覧会では、さまざまな毒や毒生物を紹介しながら、毒のもつ意味や、毒と人間と関わりについて考えてきました。私たちは毒に囲まれて生きています。しかし、毒のなかには役に立つものもあります。そして私たちには、毒を利用したり、克服する知恵や技術もあります。毒とはうまくつきあうことが必要なのです。」「常設展示への誘いコウジカビ~毒を制した日本人~第2章の「マイコトキシン」で紹介した猛毒アフラトキシンの生産菌アスペルギルス・フラブスは、発酵食品に使われるコウジカビであるアスペルギルス・オリゼーと非常に近い菌です。実は後者にもアフラトキシン生産の遺伝子が含まれていますが、部分的で、機能しないことが分かっています。飼いならして毒性を消し、利用しているのです。」日本館の江戸時代の女性ミイラ保存状態の良い江戸時代の墓所からは、「樒(しきみ)」が大量に出土します。樒とは、マツブサ科シキミ属の植物で、神経毒であるアニサチンを大量に含みます。強い毒性と独特の香りから「邪気を払う力がある」と考えられ、仏事に、広く使われています。江戸時代ににはお棺の中に樒を大量に入れて埋葬されていました。通常は、朽ちて無くなってしまいますが、ミイラの場合には樒も非常によく残っており、展示している江戸時代の女性ミイラでも数多くの樒が出土しています。」「南西諸島のハブ毒の多様性「日本の鉱物かって日本は「黄金の国」と称されるほど金銀を産出していました。毒性をもっ鉱物も掘り出され、江戸時代には鉱山から得られた砒素を用いた殺鼠剤が使われていたことが知られています。火山活動はさまざまな鉱物を生み出しますが、これらは太古の火山活動によってもたらされました。量はともかく、日本の鉱物の多様性は世界も類を見ないほど豊富なのです」「ツキヨタケ~不気味に光る毒きのこ~今回の特別展ではスペースの関係で写真のみの紹介となってしまったツキヨタケ。実際にこのきのこが生えている様子をみたら、まさにシイタケそっくりだと感じるのではないでしょうか。なお常設展示では、そのほかにも毒きのこが多数展示されています。また、本物と同様、暗闇で怪しく光るツキヨタケのオリジナルぬいぐるみも特設ショップにて絶賛販売中です。」「産卵管から毒針第3章の「ハチの多様化と毒針」で紹介した通り、ハチの毒針は産卵管が変化したものです。毒針をもっハチ(有剣類)は、産卵管をもっ寄生バチのなかから誕生したと考えられています。産卵管を毒針に変えたことで、寄生バチでは獲物にできなかった相手も、獲物とできるようになり、ハチのさらまる多様化へとつながりました。」「元素の周期表周期表は、元素を似た性質のものが、規則的に現れるよう、原子番号順にならべた表です。こちらでは、全ての元素の単体(1種類の元素のみからなる物質)を周期表とあわせて展示しています。「塩素」、「砒素」、「カドミウム」、「水銀」など、非生物由来の毒は、元素の性質に由来することが多いです。毒に限らず全ての物質に、周期表のなかの元素の組み合わせからできています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.17
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「挑む」。「日本人による毒の解明生物の毒は、体内に含まれる毒性を示す化学物質に由来します。毒の正体を解き明かすには、その化学物質を純度よく集め、構造を決めることが第一歩となります。ここでは、日本人化学者による毒の解明への貢献を紹介します。」「天然物化学とフグ毒フグ毒テトロドトキシンに関する研究は日本の化学者によって発展しました。その構造は、1964年の国際天然物化学会議で名古屋大学の平田義正(1915-2000 )、東京大学の津田恭介(1907-1999 )、ハーバード大学のロバート・バーンズ・ウッドフード(1917-1979 )の3つのグループによって同時に独立して報告されました。ウッドワードは翌1965年にノーベル化学賞を受賞する著名な化学者であり、この出来事は日本の化学者を大いに刺激しました。」「テトロドトキシンの分子模型」「テトロドトキシンの分子模型フグなどに含まれる神経毒。平田義正らと津田恭介らによって独立して構造決定され、岸義人らによって人工的に合成されました。化学式:C11H17N3O8」「パリトキシンの分子模型スナギンチャクに含まれる毒成分。上村大輔らによって構造決定され、岸義人らによって人工的に合成されました。人工的に合成された分子として、最大サイズ。化学式:C129H223N3O54」「海洋生物の毒の起源シガテラは熱帯および亜熱帯海域の魚介類による死亡率の低い食中毒の総称で、海外では毎年5万人もの人が中毒症状を発しています。東北大学の安元健(1935- )らは、毒性の強いタヒチ産サザナミハギから、新種の渦鞭毛藻を発見しました。この渦鞭毛藻からシガトキシンが単離されたことで、シガテラ毒の起源が明らかとなりました。」「シガテラ毒」。「シガトキシンの分子模型シガテラを引き起こす毒成分。安元らによって構造決定されました。有毒渦鞭毛藻によって生産され、捕食した魚類や貝類に蓄積されます。有毒渦鞭毛藻から単離されたことで、シガテラの起源が明らかになりました。化学式:C60H86O19」模型の後ろにはシガトキシンを生産する「渦鞭毛藻」安元健らが新種として発見した渦鞭毛藻。シガトキシンを産生します。海藻の表面に付着して生育するため,海藻を餌とする魚や巻貝の毒化を引き起こします。「サザナミハギ体のさざ波のような模様が特徴で、食べるとシガテラの恐れがあります。安元健らは、サザナミハギの消化管からシガトキシンを生産する渦鞭毛藻を発見しました。」ネットから「サザナミハギ」の写真を。「構造決定から全合成へ天然化合物の構造の美しさに魅かれた化学者は、天然化合物をパズルのように人工的に合成する全合成研究に取り組みました。フグ毒テトロドトキシンの構造が明らかになった後、世界に先駆けて全合成を成し遂げたのは、岸義人(1937-2023)らです。岸はその後もさまざまな天然物の全合成を驚異的な速さで成し遂げました。」「毒の解明から薬の開発へ生体に大きな作用を及ぼす毒は同時に薬にもなりえます。ハリコンドリンBは、上村大輔(1945-2021)らによってクロイソカイメンから単離、構造決定された化合物で、強力な細胞毒性と抗腫瘍活性を示します。その全合成が岸義人らによって達成されたことで、合成中間体の右半分の部分構造だけでも決定的な抗腫瘍活性があることが分かり、抗がん剤エリブリンの開発へとつながりました。」「ハリコンドリンBの分子模型強力な細胞毒性と抗腫瘍活性(がんなどの腫瘍の増殖を抑える性質)を示します。上村大輔らによって構造決定され、岸義人らによって人工的に合成されました。化学式:C60H86O19」「エリブリンの分子模型ハリコンドリンBの抗腫瘍活性に着目して合成された化合物、抗がん剤として実用化されています。その構造は、ハリコンドリンBの右半分と似ています。化学式: C40H59NO11」「毒を操る人間がはじめて毒を利用したのは、おそらく狩猟でしょう。やがて、人間は毒を上手に操りながら、歴史と文化を築いてきました。ここからは、人間による毒の利用を見ていきましよう。」「世界の矢毒文化世界中の狩猟採集民は自然毒をうまく利用する技術をもっています。文化人類学者の行川元助(1913-1981)は毒の種類に基づき、4つの矢毒文化圏に分類しています。」「ストロファンツス矢毒文化圏ストロファンツスのストロファチンなどを利用。弓や槍などで用いる。」「イポー矢毒文化圏アンチアリスのトクシカリアやマチンのストリキニーネを利用。主に吹き矢で用いる。」「トリカブト矢毒文化圏トリカブトに含まれるアコニチンを利用。手持ち弓や仕掛け弓などで用いる。」「クラーレ矢毒文化圏ストリクノスやコンドデンドロンなどから得られた毒を利用 手持ち弓や吹き矢で用いる。」「トリカブト矢毒文化圏の弓と矢アイヌ民族の弓と矢。トリカブト毒は神経毒で獲物を麻痺させます。調合された毒は矢じりのくぼんだ部分にに取り付けられました。」「クラーレ矢毒文化圏の毒やじりペルー先住民族の毒矢用矢じり。クラーレ矢毒文化圏では毒の素材や効果も多様です。」「クラーレ矢毒文化圏の毒矢じりペルー・先住民族の毒矢用矢じり。毒が塗られた矢じりは、使う人の安全や扱いやすさなどの点から、矢の棒の部分に差し込まれて使われました。」「イポー矢毒文化圏の毒入れ容器(毒吹き矢つき)マレーシア・マレー属の毒入れ容器。毒塗布器の先端には調合された毒が付着しています。」「イポー矢毒文化圏の毒入れ容器(毒吹き矢つき)ボルネオ・ダヤク族の毒入れ容器。イボー矢毒文化圏では吹き矢が使われることが多いのです。容器の中に入っているのは吹き矢で、先端は毒によって黒く変色しています。」「ストロファンツス矢毒文化圏の毒入れ容器アフリカ・サン族の毒入れ容器。毒を密閉するため、容器の蓋は動物の皮で造られています。」「ストロファンツス矢毒文化圏の弓と矢アフリカ・サン族の弓と矢。ストロファンツス毒は神経毒で、強心剤として利用されています。矢の「矢じり部分」と「矢の棒の部分」は簡単に取り外されるようになっています。」「アマッポ用毒矢通常の矢と同様、矢じりには毒を入れる窪みがありますが、アマッポ用の毒矢には羽かざりが付けられません。」「アイヌの仕掛け弓「アマッポ」北海道の先住民であるアイメ民族は仕掛け弓「アマッポ」を使用する独特な狩猟方法を用いていました.これを動物の通る道に設置して、自動で毒矢が発射される仕掛けです。アイヌ民族が、毒を熟知し、自然と共存する文化をもっていたからこそ可能であった方法といえます。」「オクトリカブト」。「エゾトリカブト」。「毒もみ(魚毒漁)魚毒漁(ぎょどくりょう)は、毒で魚を麻痺させて捕る猟法で、古くから世界各地に見られます。日本では、サンショウやエゴノキなとの魚類に毒性をもつ果実や樹皮を入れた袋を上流で揉んで、魚を捕っていたことから「毒もみ」と呼びました。しかし、魚毒漁は破壊的な漁法になる恐れがあり、日本では1951年に水産資源保護法により禁止されました。」「サンショウサンショオールという痺れを起こさせる辛味成分を含み、樹皮・果実・葉が全国的に魚毒漁に使用されていた代表的な植物。」「工ゴノキサポニンなどの有毒成分が含まれる。」「サンショウの果実」。「宮沢賢治著「毒もみの好きな署長さん」童話のテーマになるくらい当時は魚毒漁が一般的に行われていたことが分かります。」「エゴノキの果実」。「殺虫剤と忌避剤人間は、植物が捕食者から身を守るために合成している毒を、殺虫剤や忌避剤として利用してきました。1890年、日本で発明された、世界初の蚊取り線香には、殺虫成分をもつシロバナムショケギクの花の粉末が練り込まれています。また、インドセングンも天然の忌避作用を有する農薬として注目されています。」「シロバナムショケギクバルカン半島の西部が原産と考えられている。」「インドセンダン(センダン科)ニームとばれる。種子はアザジラクチンという昆虫に対する摂食阻害活性を示す物質を含む。人間や家畜には無害で残留性も低いため環境に優しい。」「シロバナムショケギク」。「蚊取り線香」。「シロバナムショケギクの粉末」。「世界初の蚊取り線香棒状のため燃焼時間が短く、効果が続きませんでした。」「渦巻き型の蚊取り線香1895年、発明王上山英一郎の妻の発想から燃焼時間を長くした渦巻き型の蚊取り線香が誕生しました。ヘビがとぐろを巻いている姿を見て思いついたと言われています。」「インドセンダン」。「ラテックスの利用--天然ゴム植物が捕食者や類から身を守るために生産すると考えられている乳液状の樹液(ラテックス)も、人間はうまく産業に利用してきました。その代表例がパラゴムノキから得られる天然ゴムで、自動車や航空機のタイヤ、輪ゴムから建物の免震装置に至るまで、私たちの生活に欠かすことはできません。」「航空機タイヤは、その耐久性の高さから特に天然ゴム含量が高い」。「グアユール(キク科)天然ゴムの原料をパラゴムノキ1種に依存しないため、研究されている代替種」。「暮らすここまでの展示で、毒と、人間の暮らしが切り離せないことが分かってもらえたかと思います。ここからは、私たちの日常の暮らしのなかにある毒を見ていきましょう。」「日常のなかにある毒ここには、本展覧会の冒頭のイラストに示した毒物の一部を展示しました。微量では毒性がないもの、人間には影響がないがペットには毒となるもの、アレルギーなど特定の人には毒となるものなど、さまざまな毒があります。」近づいて。「日常のなかにある毒」が並ぶ。その先にも。「ポトスポトスは代表的な観葉植物ですが、サトイモ科のためシュウ酸カルシウムを含みます」。「セイヨウアジサイアジサイは、人間にもペットにも有毒です。フエプリフジンという成分か吐気、嘔吐を引き起こします。」「セイヨウアジサイアジサイは、人間にもペットにも有毒です。フエプリフジンという成分か吐気、嘔吐を引き起こします。」。「酒類(アルコール)酒に含まれるアルコールも神経毒の1種です。」「ピーナッツイヌがピーナッツを食べると、下痢、嘔吐、腹部不快感などの消化器の症状が出ます。神経毒性を示すことがあリますが、原因は不明です。」「タバコニコチンは神経毒の1種です。」「洗浄剤(塩素系)塩素を含む洗剤は、酸性洗剤と反応して塩素ガスの発生源になる場合があります。」「ネコの毛ネコやイヌの毛はアレルギーの原因になります。」「ユリイヌやネコが誤って口にすると急性の腎障害を起こします。特にネコには猛毒になります。」「花粉(マツ)植物の花粉は、アレルギーの原因にばります。スギやブタクサが有名です。」「アズマヒキガエル脅威を感しると神経毒を含む白い液を分泌します。ロや鼻に付着すると激しく痛みます。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.16
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