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そして、花應院12代目住職が、パソコン、プロジェクターを準備されて、「花應院」に伝わる「小栗判官照手姫縁起絵巻」について説明してくださいました。「小栗判官照手姫縁起絵巻」。通常、絵巻は横に長いが、この絵巻は縦に段になって掛け軸絵の形に。また、当初は横長の巻物として描かれたものを、後に切断して、掛け軸絵として装幀し直すこともあるが、こちらはどうやら最初から1枚の絵として、縦に段にして描かれたもののようであった。1段目。そもそもこの物語の発端は、京の都におわします二条大納言兼家さま。子どもの出来ないことを嘆いて、鞍馬山にお参りして授かったのが、幼名・有若、頭脳明晰、成績優秀、すくすくと成人し、常陸小栗どのとお成りある。ところがこの小栗、気に入る女がおらぬと嫁を嫌って独身を通しております。あるとき、鞍馬に詣でる途中、一興にと横笛を吹いていたところ、近くの深泥(みぞろ)ヶ池にすむ大蛇、その音(ね)に聞き惚れ、美女に変身。小栗とちぎりを結びます。1段目右。鞍馬に子供授けて欲しいと詣でる小栗判官の親の姿。1段目左。深泥(みぞろ)ヶ池の淵で横笛を吹く小栗判官。近くの深泥ヶ池にすむ大蛇、その音(ね)に聞き惚れ、美女に変身して小栗に近づく。小栗とちぎりを結ぶのであった。2段目。それが都じゅうのうわさとなって、父の兼家は大激怒。小栗は今の茨城、常陸の国へと飛ばされます。そこで官職を与えられ、判官(はんがん)となる。そこへ、化粧品や薬をセールスして歩く小間物商人、後藤左衛門が訪ねて来る。彼が、評判の美人の話をすると、小栗は、その姿を目にしていないのに一目惚れ。その美人こそ、武蔵・相模(現・神奈川県)の国の郡代、横山大膳の娘、照手姫、後藤左衛門は橋渡しとなって、小栗のラブレターを姫に届けたのであった。2段目右。ラブレターを書く小栗判官。2段目左。小栗のラブレターを読む照手姫。3段目。照手姫も、その文をすっかり気に入り、二人は相思相愛。ところが、姫の父親の横山大膳は、この結婚に猛反対。しかし、そのことは表に出さず、三男の三郎がはかりごとを巡らし、ひそかに小栗を殺そうと企てる。そんなことともつゆ知らず、十人の家臣と横山家を訪れた小栗。そこで横山大膳は、馬の鬼鹿毛(おにかげ)に乗ってみよと誘います。この鬼鹿毛は、小山ほどもあるという暴れ馬。人間を秣(まぐさ)代わりに食べている人喰い馬で、これに殺させようというわけ。ところがこの暴れ馬、今にも小栗を踏みつぶすかと思いきや、小栗に言葉をかけられた途端、すっかりおとなしく従順となる。小栗を背中に乗せて、碁盤の上に乗るという曲芸までやってのける。3段目右。二人は相思相愛。3段目左。馬の鬼鹿毛(おにかげ)は小栗を背中に乗せて、碁盤の上に乗るという曲芸までやってのける。4段目。腕ではかなわないと踏んだ横山大膳は、三男の三郎に言われるまま、宴会の酒に毒を盛り、小栗と家臣十人を毒殺します。これでは都の聞こえが悪いと考えた横山大膳、わが娘照手姫まで殺そうとする。そこで家来の鬼王・鬼次兄弟に、姫を川に沈めよと言いつけます。牢輿(ろうごし)という罪人を入れる乗り物に姫を閉じ込め、舟に乗せ、相模川のおりからが淵へ。ところが兄弟には、どうしても姫を殺すことができません。沈めるための重しである大石をつないだ綱を断ち切ります。かくて姫を乗せた牢輿は、沈むことなく、流れ流れて川下へ。4段目右。兄弟には、どうしても姫を殺すことができません。沈めるための重しである大石をつないだ綱を断ち切ります。かくて姫を乗せた牢輿は、沈むことなく、流れ流れて川下へ。4段目中。そうして流れ着いたところが、海の浜。その浜「ゆきとせが浦」は、現在の横浜市金沢区野島あたりかといいます。発見した漁師たちは不審に思い、不漁続きはこいつのせいだと打ち叩こうとする。そこへ割って入ったのが漁民のリーダーである村君の太夫(たゆう)。太夫は姫を助けて家へ連れ帰ります。4段目左。しかし、それが気にくわないのが太夫の奥さん。照手姫の白い美肌も気にくわない。そこで太夫が仕事で留守のあいだ、姫の雪の肌を黒くすすけさせてやろうと、松葉をくべて煙責め。けれども、姫は無事に過ごします。というのも、姫のかげに寄り添っている観音さまのおかげなのでした。(照手は日光山の申し子ゆえ、本尊の千手観音が護ってくださったといいます。)5段目。そこでいよいいよ腹を立てた太夫の奥さん、太夫に内緒で、姫を六浦が浦(現・横浜市金沢区六浦あたり)の人買い商人に売ってしまいます。姫はその身を売られては買われ、流れ流れてたどり着いたのは、美濃の国は青墓の宿(現・岐阜県大垣市青墓)の宿屋でした。その美貌から遊女にさせられそうになるところを病気と偽って、下働き。今は亡き夫の故国(常陸の国)にちなんで、「常陸小萩」と名を変える。井戸の水を汲み上げて運んでは、お客の世話やら馬の世話やら、下女16人分という超ハードな仕事に明け暮れます。5段目右。照手姫はその身を売られては買われ、流れ流れてたどり着いたのは、美濃の国は青墓の宿(現・岐阜県大垣市青墓)の宿屋でした。井戸の水を汲み上げて運ぶ照手姫。5段目左。お客の世話やら馬の世話やら、下女16人分という超ハードな仕事に明け暮れます。6段目。蘇生した小栗判官が最初に向かったのは、実家の京都、二条大納言兼家の屋敷。しかし、小栗と名乗られても、ゾンビではあるまいし、まさか死んだはずの息子が訪ねてきたとは信じられず、「失礼だが、試させてもらうぞ」と兼家は、障子越しに小栗をめがけて弓をひき、ひょうとぞ放つ。すると、二条家に代々伝わる「矢取りの術」の秘伝、幼い頃より教えられ修練してきたその技で、小栗、一の矢を右手ではったとつかむ。続いて放たれた二の矢を左手ではったとつかむ。さらに飛んでくる三の矢を、歯でがちとかみしめ受けとめる。6段目右。一の矢を右手ではったとつかむ小栗判官。続いて放たれた二の矢を左手ではったとつかむ。さらに飛んでくる三の矢を、歯でがちとかみしめ受けとめる。6段目中。そして、青墓の宿で働く常陸小萩──照手姫と再会。横山大膳を討とうと取り囲みますが、姫の言葉で思いとどまり許します。6段目左。計画の首謀者である三男の三郎は罰して死罪に。こちらの絵では、三郎に切腹を命じているところであると。かくして、京都、常陸、藤沢、青墓、熊野と、各地を結ぶ物語は大団円を迎えます。そして物語は、各地に伝説を残しました と。ここ西俣野地区周辺の小栗判官に関連する旧跡地図。閻魔堂跡👈リンク土震塚👈リンク小栗塚碑👈リンク ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.09.21
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次に住職による「地獄変相十王絵図」の説明が始まる。江戸時代、西俣野村に浄土宗、旧藤沢宿にある「常光寺」👈リンクの末寺「閻魔堂」(法王院十王堂とも称す)がありました。毎年(陰暦)正月16日(初閻魔)と7月16日(大賽日)は閻魔大王の賽日で人々は「十王詣」といって閻魔堂に行って十王図や地獄変相図を拝んでいました。この日は、閻魔堂には縁日が立ち商家で働く奉公人たちの年2回の休日で実家に帰っていましたので大盛況であった。しかし、天保11年(1840)焔魔堂の火事で「閻魔祭り」もしばらく見ることは出来なくなりました。幸い火事の際、村の若い衆が閻魔堂から近くの花應院へ木造彩色の閻魔大王像をはじめ、小栗判官縁起絵図、地獄変相十王図、閻魔宝印の原版などが運び込まれた。その後、大正13年まで西俣野村の青年が新暦正月と8月の16日には農作業を休んで「閻魔祭り」を行い、小栗判宮縁起絵図や地獄変相十王図の絵解きをしていたが、途絶え、2つの絵図は昭和50年まで旧名主の飯田五右衛門氏の土蔵で眠っていた。土蔵から出された時は見る影もなく痛み、虫が食い、軸棒も落ちていたと。その姿に耐えきれず住民が西俣野史跡保存会を設立、70万円の寄付金で修復された。後、昭和60年から毎年1月15日(本来は16日)と8月16日に「闇魔祭り」として西俣野史跡保存会の飯田氏よって小栗判官縁起絵図絵解きと、花應院ご住職による地獄変相十王図の説明が復活したが、最近になって小栗判官縁起絵図の演者・飯田氏が亡くなり、現在は12世山本雅彦住職による小栗判官縁起絵図と地獄変相十王図の説明が1月16日と8月16日に行われているのである。一般の方も檀家の方々と一緒に聞くことができるのであった。そして「本堂」入口の壁に沿って上部に「地獄変相十王絵図」が並んでいた。右から【畜生報復地獄の図】これは娑婆で動物たちをいじめたり、殺したりしていた人達がこの地獄に落とされ娑婆で自分達が犯したのと全く同じような報復を受けます。不殺生戎(ふせっしょうかい)を破る報いです。虎獅子犬蜂まで巨大な体を持つ動物昆虫等が居て襲いかかります。手足胴までばらばらに食いちぎり、蜂は火をふいて襲い、逃げられないように周囲は火炎地獄が取り巻いています。無理をして逃げ火炎地獄で苦しんでいる亡者も見られます。巨大な虎、獅子、犬、蜂達が亡者を襲いに追いかけられる、そして手、足、腰まで、ばらばらに。【地獄の釜ゆでの図】大釜と臼があり、ご存知の地獄の釜ゆでの場面。大釜の中に亡者をどんどん投げ込んで上手に煮るために鬼がお化けの様なホークでかき廻している。程よく煮られた亡者は臼に移されて鉄棒で打たれて人間の擂身(すりみ)となる。能率を上げるたために地獄の鳥が亡者を空中輸送をしています。何のために大釜があるか?家庭で菜葉やごぼうを湯でると何が出ますか?出るのは「あく」。人間を茹でて「あく」を出す、悪(あく)を出して善だけ残し、悪を為さしめないようにする閻魔大王の大慈悲心がせめ道具の上にもあらわれている様に考えられます。勿論全く悪が抜け、善だけになった亡者は釜の中より極楽浄土に転生します。お化けの様なホークでかき廻しながら大釜で亡者を煮る鬼。臼のなかで、亡者を鉄棒で打ち叩く鬼。【火の車の図】地獄の使者、獄卒の牛頭(ごず)、馬頭(めず)が火の車を引き、死者の霊を迎えに来て待ち構えて居る。足ることを知らず、欲の心がうず巻くとき、おのずから、焦熱地獄に落ちる。地獄の使者、牛頭(ごず)、馬頭(めず)が火の車を引く。牛頭馬頭(ごずめず)とは、仏教において地獄にいるとされる亡者達を責め苛む獄卒で、牛の頭に体は人身の姿をした牛頭と、馬の頭に体は人身の姿をした馬頭をいう。足ることを知らず、欲の心がうず巻くとき、おのずから、焦熱地獄に落ちる。【剣の山と餓鬼地獄の図】剣がいっぱい生えている山で登るまいとすれば獄卒が槍や鉄棒で打ち、登れば剣が手足身体を切りさく。餓鬼道に落ちる者はこの世で食べ物を粗末にしたり、自分だけ美食をして、他の人に食を与えなかったりした人が落ちる地獄。子どもを食べようとする女餓鬼。椀にもった飯は火となり燃えあがる。地面から剣の刃がいたるところから飛び出して。【賽の河原と奪衣婆の図】賽の河原とは幼い子供たちが行く処で子供たちは河原の石で塔を積みますがもう少しで積み上がろうとすると鬼達が来て、きちんと積んでいないので見苦しいと崩してしまう。積んでも積んでも崩されて何時出来上がるかわからない。そこに地蔵菩薩が救いにおいでになっています。三途の川の岸にはいあがった亡者は、奪衣婆(だつえば)に着物を剥ぎとられて・・・。奪衣婆とは、三途川(葬頭河(そうずか))で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。日本の仏教では、人が死んだ後に最初に出会う冥界の官吏が奪衣婆とされている。奪衣婆は盗業を戒めるために盗人の両手の指を折り、亡者の衣服を剥ぎ取る。剥ぎ取った衣類はこの絵にはないが、懸衣翁という老爺の鬼によって川の畔に立つ衣領樹という大樹にかけられる。この木の葉は鋭利な刃物の様で手を触れることが出来ません。此所では生前の罪の度合いによって、衣を懸けた枝の垂れ下がり具合が異なって来ます。これより先は生まれた時の姿となり娑婆における権力も富も役に立たず平等に地獄の苦を受ける事となるのです。河原の石で、塔を積み上げる子。積んでも積んでも、鬼たちに崩される。そこに地蔵菩薩が救いにおいでになっています。その先にも「地獄変相十王絵図」が並んでいた。【閻魔大王裁きの場の図】この拾壱幅の絵の中心をなす形で描かれて居ます。其の日は、五、七、三十五日の日で、裁くのは閻魔大王で前には司命、司録が立っている。左に罪をはかる秤(はかり)。右に生前の罪をうつす浄瑠璃の鏡。閻魔大王のまえには司命。司録がいて、人命を司り、一切の記録を。亡者は首枷(くびかせ)をはめられ、しばられて鏡のまえに。ズームして。閻魔大王はどのような審判を行っていると言われているでしょうか?答えは【死者の転生先(生まれ変わり先)を決める】です。人は天国への旅路で計7回(7日ごと)の裁きを受けます。7日ごとの7回目の裁き=49日をもって仏様となります。5回目(死後35日目)の裁きに登場するのが閻魔大王です。閻魔様はここで天国への切符か地獄への切符かを裁いて死者に渡すことになります。行先は地獄道(その名の通り地獄の世界)餓鬼道(飢えにもがき苦しむ世界)畜生道(人間以下の動物に生まれ変わる世界)修羅道(終始、争いの世界)人間道(楽しいことばかりではなく煩悩に悩む世界)天上道(苦しみもなく優れた世界。しかし、煩悩がないわけではない。衰退もある)の六道のいずれかになります。閻魔大王は極楽浄土、少しでも苦しみのない世界へ向かうに相応しい死者かどうかを裁きます。そこで、ご家族は「どうか極楽浄土へ導いてください」と追善供養(法要)を行うのです。そして無事に49日を迎え、浄土の世界へ旅立ち仏様になる。このように言い伝えられています。閻魔大王は怖い顔で裁きも厳しそうですが、実は地蔵菩薩と呼ばれ私たちを見守ってくれているそうです。中央に人頭の杖が立てられ、頭に首が二つついていて(悪人と善人)大王の象徴とされています。罪をはかる秤(はかり)。さすがに大きな石の分銅も亡者の罪の重さに上がっているのであった。亡者は首枷(くびかせ)をはめられ、縛られて鏡のまえに引き出されて。生前の罪を映す浄玻璃(じょうはり)の鏡。生前に悪事をはたらいた者は、その姿が高性能な防犯カメラの映像のようにくっきりと映し出されるということです。更には心の中の悪い考えまで映し出されるそうです。この亡者は生前娑婆にて火付け(放火)を犯したことがありありと映っているのであった。さらに左側にも「地獄変相十王絵図」が続く。【極寒地獄 氷の池の図】亡者達は氷の池に入れられ、冷たさにもがき苦しむ。岸に上がろうとすると、鎌槍、鉄棒をもった獄卒に突き落とされる。意識を失えば、活、活、と唱え、生き返らせ、苦しめる。ここまでで左より中向の大王が終わり、ここから右より中向の大王五人に移るのであった。氷の池に入れられ、冷たさにもがき苦しむ亡者の姿。【修羅地獄の図】闘争心が強く、人を殺し、殺そうとする者の落ちる地獄。空中に短剣が舞う。斬りあい首を落とす者。下には氷の川。氷が割れて、極寒の底に沈みゆく亡者・・・。空中に短剣が舞う。斬りあい首を落とす者。【針の山地獄の図】三途の川の渡し場は三つあるのだ。上流にある渡し場を「浅水瀬」といい、ここは水底が浅く、膝までしかなく罪の浅いものが渡る渡し場、中程に有るのが「橋渡し」といい、この美しい橋は善人だけが渡れるのだと。下流に有る渡し場を「強深瀬」といい、水底の深さが無量で、悪人が渡る場所。この絵は悪人がこの「強深瀬」を渡り、流される悪人を襲う竜。からだ中に針が刺さっても、亡者たちは、獄卒に槍や鉄棒で突っつかれて・・・。深瀬を渡り、流される悪人を襲う竜。【畜生再生の図】人間ではありながら、心は畜生にも劣る心を持ち畜生なような生活行動をすると、畜生に生まれ変わって其の苦しみを受けるのだと。元は人間だった証拠に頭だけが人間の男女になっている。人から再生した馬を、地獄の獄卒、馬頭が追う。亡者の頭に錐(きり)を刺し、善行を命ずる脳に入れかえる白鬼。鉄の杭にしばり、大きな釘抜で、舌を引き抜こうとする鬼。人から再生した馬を、地獄の獄卒、馬頭が追う。執念に取り憑かれた男女が大蛇に体が変身して、未だ業が果てることなく亡者の一人をぐるぐる巻にして絞め殺そうとしている。 舌を抜く地獄の鬼 。子供の頃祖母から「嘘をつくと閻魔様に舌をぬかれちゃうぞ!!」と何度も言われた私。亡者の頭に錐(きり)を刺し、善行を命ずる脳に入れかえる白鬼。【血の池地獄の図】この絵では亡者が腹に釘を打たれている。釘の長さ一尺、人間が悪いと言う場合腹が悪いと言う。其の悪い腹を善くするために釘を打っているのです。其の下には恐しくて逃げている亡者、とうとうつかまって縄でしばられている亡者、下にすでに縄にしばられた亡者が二人転がっている。腹に釘を打たれている亡者の上に餅にささった釘が有ますが、これは四十九の餅の供養の功徳によって釘を打たるるとも餅にささりて苦なしと言う経文中の功徳を現わしているのだと。亡者の悪い腹に釘を打ち、善に変えようとする鬼。下部の図は血の池地獄で、この地獄はお産で死んだ女の人だけが落ちる地獄。この地獄は往生要素には書いてないが誰でも知っている地獄。これは鎌倉時代頃より読まれ始めた「血盆経(けつぼんきょう)」と言うお経に書かれている地獄で男には関係の無い地獄 と。川の辺に四本の竹を立て、これに般若心経を墨書した晒を渡して傍らに柄杓を置き、通りがかりの人が柄杓で川の水を汲んで晒にかけてやると、文字がたんだん薄くなって完全に消滅すると救われるという「流れ灌頂(ながれかんじょう)」。これに救われたか血の池より一人女がはい上がり山の下で一心に合掌し祈りをささげている。それを地蔵菩薩様がお救にお出でになっている のだと。この十王図には一枚につき一人の王が描かれていたが、どれがどの王かは、はっきりした事は解かっていないと住職から。この「十王」👈リンク とは冥土で亡者の罪を裁断する十人の王の事。人間が亡くなると、極善と極悪の者は直ぐに裁判を受けずに極楽浄土に転生し、片方は地獄に落ちます。中の者は裁判を必要とするので初七日より順次七日ごとに審判を受けて決った者は罪に相当する処に送られる事となります。未定の者は次の裁判へと送られ「十王」👈リンクに裁断されるのだと。亡くなった日を1日目として、49日目までの7日ごとに秦広大王 (しんこうだいおう)、初江大王(しょこうだいおう)、宋帝大王(そうていだいおう)、五官大王(ごかんだいおう)、閻魔大王(えんまだいおう)、変成大王(へんじょうだいおう)、泰山大王(たいざんだいおう)が裁きを行い、それでも結論が出ない場合は、100日目に平等大王(びょうどうだいおう)、1周忌に都市大王(としだいおう)、3回忌に五道転輪大王(ごどうてんりんだいおう)が裁判を行います。このような過程を経て、亡くなった人が極楽浄土に行くのか、それとも地獄に行くのかが決まるのだと。さらに詳しく。地獄の裁判官、十王。地獄に落ちるか落ちないか、というのは現世の裁判のように審査されるのです。審査をされてから正式に地獄行きが通達されるまでかなりの時間を有します。それもなんと49日間!実はこの間に、書類審査から現世の善行診断、軽い実刑まで行われるのです。そしてその裁判を行うのが十王と呼ばれる10人の裁判官たち。その中にかの有名な閻魔大王がいるのです。秦広王:死後から初めの7日目、まず最初に裁判を行うのは秦広王(しんこうおう)。 獄録というものによって書類審査が行われます。ここでは生前に行ったことを全て 見られてしまうため、嘘も通じません。初江王:死後14日目、次は初江王(しょこうおう)により罪の重さを測られます。 ここの裁判所には死者が必ず通ると言われる「三途の川」が実は地獄にあるのです。 三途の川を渡れば天界かと思いきや、そうではありません。 ここには奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)という鬼がおり、通る際に亡者の 服を剥ぎ取ります。その服を衣領樹(えりょうじゅ)という木の枝にかけ、初江王の 裁きの前に罪の重さを測るのです。罪が軽いものは枝が曲がらず、罪が重い者ほど枝が しなると言われています。宋帝王:死後21日目、宋帝王(そうていおう)が現世で犯した邪淫(じゃいん)を審査します。五官王:死後28日目には五官王(ごかんおう)が妄語を審査します。五官王は精巧な天秤を 持っており片側に亡者をのせることで、その傾きにより罪の重さは決まり、行く道が 決まるのです。いわゆるここが地獄行きを決定する、最初に判決を出す場所になります。閻魔王:地獄行きが決定しても、一度で全てが決まるわけではありません。地獄も現世の裁判制度 と似ており、その真偽を確かめます。 死後35日目、閻魔大王によって亡者は裁かれます。閻魔大王が持っている鏡は、亡者を 立たせると、亡者の生前の悪行を映し出すことができる特別なものです。 閻魔大王はこの悪行を見て、どこの地獄に行くか判決を下します。ちなみにここで嘘を つけば、閻魔大王に舌を抜かれる事に。また、この裁判日に縁者や親族が追善供養を 行っていると、その徳を認められ人間界や天界に送られることも。変成王:死後42日目、変成王(へんじょうおう)の元に行くために、大岩の流れる川を 渡らされます。ここでは、大岩に身体を砕かれては蘇りまた砕かれと繰り返す事により、 やっとの思いで岸に上がることができます。 そして変成王はここにきて初めて、亡者の言い分を聞いてくれる慈悲深い王になります。 そんな王の前で、亡者はここまで与えられた罰で十分償えたのではないかと 訴えるのです。すると変成王は三つの道を示し、自分が正しいと思うのなら、正しいと 思う道を選んで進め、そうすれば正しい道へ行けると助言します。 これを進んでしまうと罠にハマることに。進めば更なる罰が与えられるのです。お前が 本当に正しい人間なら自分を正しいと思うはずがない!と言うのが変成王の言い分。 上げて落とされた亡者にはなかなかキツい仕打ちです。 この時に、黙って己の行為を恥じ、恐れ入り、罰を受け入れる人間だけが光が差し 救われると言われています。そして、ここで亡者の生まれ変わりの場所の条件が 決定されるのです。泰山王:死後49日目、最後に亡者は泰山王(たいざんおう)の元へ。ここでは最終判決がついに 下されます。六つの道が示されており、それぞれ六道に繋がっています。ここで来世の 生まれ変わる世界が決定する事に。 他にも平等王(びょうどうおう)・100日目、都市王(としおう)・1年目、 五道転輪王(ごどうてんりんおう)・2年目がいますが、彼らは最終的に判決が 決まらなかった際、つまり再審の際に登場するのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.20
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まずは「花應院」の「本堂」の見学をさせて頂きました。慶長9年(1604年)に開山は国境と開基は祖桂として創建された。曹洞宗の寺院。山号は西嶺山。近くにあった「閻魔堂」👈リンク(法王院 十王堂、浄土宗、常光寺末寺、武蔵国六浦金沢からの金沢道沿い。小栗判官の墓がある)が天保11年間(1840年)に火災にあい閻魔大王像がここ「花應院」に運び込まれた。天上から大き黄金の「人天蓋(にんてんがい)」が下がっていた。古くはインドにおける日よけ(日傘)がその原型とされる。暑さをさけるため王様や貴人が使用することから、高貴さや豊かさの象徴であった。のちに、それが転じて、仏や菩薩を守り、美しく厳かに飾るための道具となった。お寺の本堂の中央、導師が立つ位置の天井から吊り下げられるものを「人天蓋(にんてんがい)」、仏像の上にあるものを「仏天蓋(ぶってんがい)」と呼ぶ。箱型、傘型、華型、丸型などの様式があり、いずれも瓔珞(ようらく)や幢幡(どうばん)といわれる装飾が施されている。大きさや形、装飾に違いがあるので、お寺でその違いを見てみるのも面白い。ちなみに、時代劇などで登場する虚無僧(こむそう)が頭にかぶる笠も天蓋と称する とネットから。本堂の祭壇を正面から。大きな「香炉」の台座をズームして。台座には【五七桐】紋が。五七桐紋は、中心に7つ、左右に5つの花を立てた桐紋。桐紋の中で最も権威が高く、『五三桐』よりも格が高い。天皇家の家紋として知られるが、天皇家が自身で用いるより、足利氏や豊臣氏など政権を担当する家に下賜されて用いられることが多かったのだ と。花應院と【五七桐】紋の関係は?祭壇の右側には、この日の「閻魔祭」の為の塔婆が並んでいた。「閻魔十王 報恩謝徳塔」、「照手姫 追善菩提供養塔」、「忠光院殿刃空浄居士追善菩提供養塔」、「天翁録守信士」と書かれた塔婆も奉納されていた。「忠光院殿刃空浄居士」は小栗判官の戒名。「天翁録守信士」はこの村を水害から救う為にわが身を投げ出し、人柱となってこの土手を守った浪人・「土手番様(どてばんさま)」👈リンク の戒名であるとのこと。再び「人天蓋(にんてんがい)」を見上げる。天蓋(てんがい)とは、仏像や住職が座っている上にかざす笠状の装飾具のことで、それぞれ仏像の上にかざすものを仏天蓋(ぶってんがい)、住職の座る上をかざすものを人天蓋というとのこと。祭壇を更にズームして。最上段に並ぶ仏像を見る。左:曹洞宗の御本尊の「釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)」右:花應院の御本尊の「聖観音像(しょうかんのんぞう)」総持寺👈リンク を開山した「瑩山禅師(けいざんぜんじ)」像。瑩山禅師は1 2 6 4年( 1 2 6 8年の説もある)、越前にお生まれになり、8歳て永平寺に入り三世徹通義介禅師のもとで修行を始めました。1 3歳でニ世孤雲懐弉(こうんえじょう)禅師について正式に僧となると、瑩山と名を改め、1 9歳になると諸国行脚の志をたて、求道生活に精進されました。そして3 5歳のとき、義介禅師の後を継いて加賀国(石川県)の大乗寺住職となり、2年後に「伝光録」をお示しになりました。その門下には優れた人材が集まるようになり、曹洞宗が発展する基礎が築かれました。また、5 0歳で能登に永光寺(ようこうじ)を開き、そこで「坐禅用心記(じんき)」を撰述されたといわれています。その後、5 8歳のとき諸嶽寺(もろおかでら)を寄進されると禅院に改め總持寺と名づけました。1324年、6 1歳のとき總持寺の住職を峨山(がさん)禅師に譲られ、翌年62歳てそのご生涯を閉じられました。曹洞宗には、大本山が2つあります。ひとつは大本山永平寺(福井県吉田郡永平寺町)であり、ひとつは大本山總持寺(横浜市鶴見区鶴見)です。これを両大本山といいます。両大本山は曹洞宗寺院の根本であり、信仰のみなもとであります。大本山の住職の正式な呼び方は貫首(かんしゅ)といい、禅師さまと親しくお呼びしておりますとネットから。曹洞宗の開祖:道元禅師像。道元禅師は1 2 0 0年、京都にお生まれになり、14歳のときに比叡山にて得度されました。24歳で仏道を求め宋に渡ると如浄禅師のもとて修行に励まれ、「正伝の仏法」を相続されました。2 8歳で帰国した後、正しい坐禅の作法と教えをすすめようと「普勧坐禅儀」を著され、3 4歳のときに宇治に興聖寺を建立し、最初の僧堂を開いて修行者の養成と在俗の人びとへの教化を始めました。また、仏法の境地と実践を伝えるべく「正法眼蔵」の執筆を続けられ、4 5歳のときに越前に大仏寺(後に永平寺と改名)を建立しました。その後も道元禅師は修行の生活を送りながら弟子の育成につとめられ、1 2 5 3年、5 4歳でそのご生涯を閉じられました。「払子(ほっす)」を持たれていると、校正の師匠から。もともとは、お釈迦さまの時代に、蚊やハエを追い払う道具として使用することが許されたのがはじまり。私たちと同じように飛び回る虫に悩まされていた当時のお坊さん。しかし、むやみに殺すことはできない…。殺生を禁じる仏の教えを実践するための生活道具だった。「払子」はその後、中国に伝わりその意味合いが変化する。お釈迦さまの「髪の毛」にみたて、煩悩や災いを払う功徳を持つと考えた。禅宗では高僧が説法する時や、法要の導師をつとめる時に手にし、厳かに左・右・前に振るようにして払う動作をする。その作法とともに師匠から代々受け継がれる尊い法具である とネットから。そして市指定重要文化財の座像胎内の「石像閻魔大王座像(像高24cm)」。この日は「閻魔祭」であり、閻魔大王像の胎内から出されていたので実物を初めて見ることが出来たのであった。他にも様々な木彫像が。本堂の欄干の彫刻も見事。そして本堂・祭壇の左側の部屋。そしてこれが「閻魔大王像」。花應院の北には、かつて閻魔堂👈リンクがあった。しかし、1840年(天保11年)に火災に遭い、本尊として祀られていた木造閻魔大王坐像は、ここ花應院に運び込まれたのだと。それが現存する木造彩色のこの「閻魔大王坐像」だという。普段は、この「閻魔大王坐像」の胎内に先程の「石像閻魔大王座像」が安置されているのだ と。そして罪状を読み上げ、判決文を記録する司命(しみょう)と司録(しろく)という2人の書記官(しょきかん)が両脇に配されていた。この閻魔像は、宝冠をつけ道服を着し、沓(くつ)を履いて上畳座に坐していた。また右膝上に笏(しゃく)をかまえ、眉をつり上げ、目を大きく見張り、口を開けて忿怒(ふんぬ)を表していた。お顔をズームして。司録・司命像は宝冠をつけ、上衣と膝下で括った袴を着し、沓をはいて立っていた。左側の司命(しみょう)は死者の行状を究明するための銘札を持っていた。右側に位置する司録(しろく)は、罪状を記録するための筆と巻子を持っていた。「閻魔大王像」の左隣りの祭壇には多くの位牌が安置されていた。そして御住職、副住職による「閻魔祭」の納経・読経が執り行われた。立派な木魚の音が本堂内に拡がったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.19
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この日は8月16日(水)、自宅から車で5分程の場所にある「曹洞禅宗 西嶺山 花應院」を訪ねた。この花應院は、小栗判官と照手姫の伝説が残された寺。「小栗判官照手姫縁起絵巻」と「地獄変相十王図」が永く保存されており、毎年1月と8月の16日の閻魔祭で開帳され住職による複製11幅による「地獄変相十王絵図」の「絵解き」解説が行われているのであった。花應院は、曹洞宗の寺で、慶長年間(1596年~1625年)の創建と伝えられている。最初は自転車で向かうつもりであったが、家を出る直前に激しい雨が降り出したので、急遽車で向かうこととし、境内に車を駐めさせていただき、雨も止んだので山門に向かう。藤沢市西俣野866。「小栗判官・照手姫 縁起の寺 花應院」と。「不許葷酒入山門」碑。【くんしゅ【葷酒】 山門(さんもん)に入(い)るを許(ゆる)さず】「葷」は韮(にら)・葱(ねぎ)・大蒜(にんにく)などの香りの強い野菜のこと。多く禅宗の寺の門前に立つ結戒の一つ。「不許葷酒入山門」とあり、臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。「曹洞禅宗 西嶺山 花應院」碑。側面には「奉祈 馬頭観世音菩薩」と。「案内板」が2種類。「小栗判官・照手姫、縁起の寺小栗判官と照手姫の物語は、中世以降から伝承されてきた物語です。説経節として端を発し、浄瑠璃や歌舞伎などの題材にもなり世に広まりました。物語の大筋は、照手姫を見初めた小栗が、姫の父兄に殺され、閻魔大王によって娑婆に戻され、藤沢の遊行上人の助けを得て蘇生し、姫と再会し復讐するというストーリーです。ここ花應院には、小栗判官照手姫縁起絵と地獄変相十王図(地獄絵)が伝来し、例年一月・八月二回の閻魔祭りでは、縁起絵並びに十王図の開帳と共に、伝説の小栗判官・照手姫の奇想天外な物語と、地獄のさまざまな姿の絵解きが行われます。西俣野には「小栗・照手ゆかりの地」として、多くの史跡・地名が残されています。 平成三○年(ニ〇一八年) 二月 藤沢市教育委員会」「市指定重要文化財(彫刻) 昭和四十一年(一九六六) 一月十七日指定 石造閻魔大王像 像高 24.0cm 袖張 25.0cm小像ながら力強さと大きさを感じさせます。安山岩製の硬質な石材を巧みに彫りあげ、閻魔大王の風貌をよくとらえています。造立年代は近世初期と推定されています。以前は村内の閻魔堂(現、西俣野八〇五)の本尊の「前立ち」として安置されていましたが、天保十一年(一八四〇)のお堂の火災の際に、村の若者の手によって危うく難を免れ、花應院に移されたものです。木造彩色の閻魔大王像は、像高104cm、袖張104cmと大型像ながら丁寧な彫刻が施されており、『新編相模国風土記稿』には「小野篁(たかむら)彫刻せしと云う」と記されています。背後から石像閻魔大王像を胎内に納める作りとなっています。 平成三○年(ニ〇一八年) 二月 藤沢市教育委員会」そして山門の前には、ジェラート・アイスクリームが人気の店「飯田牧場」があった。参道を進んで行くと右手には「六地蔵」が。正面から。「本堂」に向かい合う位置には様々な石仏が。近づいて。右手に錫杖(しやくしよう=頭部に数個の輪が付いている杖)、左手に宝珠(ほうしゅ=宝の玉)をもつ地蔵菩薩像。こちらも手に何かを持たれていたのであろうか?こちらも同様に。その先右手にも石碑群が。一番右側には馬頭観世音菩薩碑。本堂手前の右側には九重石塔と水子地蔵。「本堂」。扁額「花應院」。「本堂再建記念」碑。昭和五十七年五月十六日落慶花應法地二世 大法逸巖代建設委員長 渋谷彦三 謹書 と。「藤沢市指定重要文(彫刻)石造閻魔大王坐像本像はもと閻魔堂(正しくは法王院十三堂といい、花応院の北方100mに「閻魔堂跡」として保存)の本尊である木造閻魔大王坐像の”おまいだち”として安置されていたが、天保十一年(一八四〇)のお堂の火災の際に、村の若者の手によって危うく難を免れ、花応院に移されたものである。本尊の閻魔大王像は、木造彩色坐像で像高一〇四.〇cm 袖張一〇四.五cm と大型像ながら、丁寧な彫刻が施されており、一説には、平安時代の漢学者、歌人である小野篁(おののたかむら)の作と伝えられている。他方、市指定重要文化財の石造閻魔大王坐像は、前記の木造閻魔大王坐像の胎内仏で、像高ニ四.〇cm 袖張ニ五.〇cmと小像ながら、安山岩製の硬質な石材を巧みに彫りこなして、大王の風貌を遺憾なく表現した秀作で、造立年代は室町後期か桃山期と推定されている。昭和四十一年一月十七日 指定 藤沢市教育委員会」 ・・・つづく・・・
2023.09.18
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この日は8月10日(木)、仕事の応援で滋賀県彦根市に前夜泊で向かいました。小田原駅から新幹線ひかりを利用して、米原駅に向かう。米原駅の手前の車窓からは、緑あふれる稲作水田が拡がっていた。そして彦根駅東口近くにあるホテルにチェックイン。ホテルの我が部屋から山の上に建つ「彦根城(ひこね じょう)」が見えた。ズームして。彦根城は、近江国犬上郡彦根(現在の滋賀県彦根市金亀町)にある城。江戸時代には彦根藩の政庁が置かれた。天守、附櫓及び多聞櫓は国宝、城跡は特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域である。天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は犬山城、松本城、姫路城、松江城)。彦根八景・琵琶湖八景に選定されている。姫路城などとともに天下の名城の一つに数えられる彦根城は、井伊直継(なおつぐ)・直孝(なおたか)によって約20年の歳月をかけて建設され、元和8年(1622)に完成しました。佐和(さわ)山城・安土城・長浜城・大津城の石垣や用材が使われました。月明かりに浮かぶ彦根城は美しく、琵琶湖八景の1つに数えられています。明治時代の廃城令や戦火を免れた彦根城の勇壮な姿を、城内散策で眺められます。また、彦根城の別名金亀城(こんきじょう)の名は、彦根城築城以前、彦根山上にあった寺院に金の亀に乗った観音像が安置されていたため、と言われています。国指定の特別史跡です。JR彦根駅を見下ろす。彦根から6km、琵琶湖の真ん中に浮かぶ「多景島(たけしま・たけいしま)」が見えた。元は島内に竹が多く自生していることから「竹島」といっていたが江戸時代に荒神山から土を運び植林。木が成育すると島を眺める方向によって多様な景色に見えることから多景島と呼ばれるとのこと。1655年(明暦元年)に長浜・妙法寺僧慈雲院 日請上人が島内に日蓮宗見塔寺を開寺。島内全域が見塔寺の敷地になっているとのこと。島の一番高い場所にある誓いの御柱が見えた。五角形の柱の五面それぞれに明治天皇の五箇条の御誓文が刻まれているとのこと。夕焼けを背にした彦根城。ズームして。近江鉄道、土山サービスエリアのラッピング電車が走っていた。城山に立つ彦根城。城山は湖と東の山々の間の中にポッコリと盛り上がった高さ140メートルほどの小さな山。天守閣とその下に天秤櫓が見えた。彦根城と城下町の建設は、今からおよそ410年前の慶長(けいちょう)9年(1604)に始まり、20年近い歳月を経て完成した。その中心をなしたのが、天守のある本丸。現在の本丸には天守の建物しか残っていないが、かつては藩主の御殿である「御広間(おんひろま)」や「宝蔵」、そして「着見櫓(つきみやぐら)」なども建っていた。天守は3階3重、つまり3階建て3重の屋根で構成。規模は比較的小ぶりだが、屋根は「切妻破風(きりづまはふ)」「入母屋破風(いりおもやはふ)」「唐破風(からはふ)」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓(かとうまど) 」、3階には高欄付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せているのだ。城の表門や大手門から入ると、鐘の丸を経て太鼓丸を通らないと、本丸にはたどりつけない。その入り口に設けられたのが、天秤櫓である。櫓門の左右に二重の隅櫓が置かれ、その後方にも短い続櫓がある。中央部に廊下橋がかけられており、いざというときには橋を落とし、鐘の丸からの侵入を防ぐようになっていたという。西の空が、さらに赤く染まって来た。天守閣をズームして。ビルの間に見えた多景島の先に夕日が沈む。京都方向の山に沈む夕日。夕飯を食べに、JR彦根駅の西口に向かう。中央通路にあった「国宝「彦根屏風」ジャンボ複製」。「彦根屏風(ひこねびょうぶ)は、江戸時代初期に描かれた風俗画。紙本金地著色、六曲一隻、縦94.0cm横271.0 cm(本紙のみ)の中屏風画である。1955年に国宝に指定。国宝指定名称は「紙本金地著色風俗図(彦根屏風)」。滋賀県・彦根市所蔵、彦根城博物館保管。近世初期風俗画の代表作の1つで、浮世絵の源流とも言われる。描かれた場面は近世初期、京都六条柳町(通称三筋町)の遊里である。当時、六条柳町の太夫は同時に四条河原町で演じられる遊女歌舞伎の演者でもあった。こうした遊里や歌舞伎といった享楽的で華やかな題材にもかかわらず、絵にはどこか冷たく寂しげな雰囲気が漂う。制作年代は、類品との比較や金地の使い方などから、寛永年間、特に寛永6年(1629年)前後から11年(1634年)の間だと推測される。この時代、風紀の取り締まりが厳しくなっていき、絵のような情景は急速に失われつつあった。この絵の発注者及び絵師は、かつて自分たちが楽しみ、今無くなりつつある情景を追憶するために制作されたとも推測できる。画中の形式を観察すると、中国の文人たちの「雅」な遊び「琴棋書画」を、当世日本の「俗」な物に置き換えられている事が指摘できる。即ち、琴は三味線、棋(囲碁)はすごろく、書は艶文、画は画中屏風の山水画、にそれぞれ見立てられている。こうした趣向は近世絵画では珍しいことではないが、彦根屏風はその最初期の作例であり、後の浮世絵にも受け継がれている。」とウィキペディアより。「風俗画(彦根屏風)(国宝)彦根藩主井伊家に伝えられるため、「彦根屏風」の名があり、寛永期(1624~44)を代表する風俗図として知られる。現在は彦根城博物館に所蔵され、年1回公開されている。原寸は縦94.5cm横278.8 cm(絵が描かれている本◯部)」もともと六曲一隻の屏風であったが、現在は保存に便利な六面の額装に改装。遊里の一室にくつろぎ遊ぶ男女15人の姿を、全面金箔(きんぱく)地の画面に描いている。彦根屏風(第5・6扇)。左から、水墨画の山水図屏風の前で三味線を弾く人々、その隣では男女で「双六」遊びをして楽しんでいたりする様子が繊細な筆づかいで表現されている。彦根屏風(第3・4扇)。中央には恋文を書いていると思われる女性の姿が。彦根屏風(第1・2扇)。右には阿国歌舞伎のような姿で、太刀にもたれたポーズで立っている若衆や犬を連れた女性などが描かれていた。そして中央通路からJR彦根駅ホームを見下ろす。食事を済ませ、ホテルへの帰路へ。駅前からライトアップされた、以前に訪ねたことのある「彦根城」👈リンク を見る。「佐和山城跡」案内板。彦根駅の北側、佐和山(232.5m)にある城跡。不破(ふわ)の関があった関ケ原(せきがはら)に近く、交通の要衝であった。近江守護佐々木氏によって築城され、天正18年(1590)石田三成(いしだみつなり)(1560-1600)が、佐和山城主となってから、5層の天守を構え、鳥居本(とりいもと)を大手とする立派な城だったと。三成が関ケ原の戦いで破れた後、井伊直政(なおまさ)が新しい城主になったが、慶長11年(1606)、彦根城築城にともない廃城になった。建築物の多くは彦根城や麓にある清凉寺(せいりょうじ)、龍潭寺(りょうたんじ)に移築転用され、現在では佐和山城を偲ぶものは、わずかに残った石垣と、後の時代に建てられた石碑だけとなっている。また、山頂からは琵琶湖や比良山系が一望のもとに見わたせるのだ。JR彦根駅改札口。彦根の物産。「石田三成の城 佐和山城」そして、この日のホテルの部屋に到着。久しぶりのホテル宿泊。部屋の壁には。そして窓から彦根城の天守閣を再びズーム。そして翌朝にも。井伊家三十五万石の礎として築城された彦根城は、昭和27年に国宝指定された現存天守の美しい城。三層白亜の天守も見事。近世の城で天守が残っているのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城。このうち、国宝に指定されているのは松本、犬山、彦根、姫路、松江のわずか5城。そのうちの一つである彦根城は、規模こそ小さいが、天下の名城とも名高く、琵琶湖八景の1つにも数えられているのだ。天守は、大津城から移築したものだが、入母屋破風に唐破風や切妻破風など他の天守閣にはない、変化に富んだ美しさを見せているのだ。1番上の窓枠も、寺院建築に使われていた美しい曲線でかたどられた花頭窓になっているのが確認できたのであった。そして朝食を済ませ、JR彦根駅からタクシーにて、この日のお客様の工場に向かったのであった。 ・・・END・・・
2023.09.17
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「鉄砲洲通り」を更に亀島川に沿って北に進むとあったのが「稲荷橋」碑。中央区八丁堀4丁目12−11。さらにその先、「桜橋第二ポンプ所」の車両出入口の横にも。「いなりばし」ではなく「いなりはし」。洪水や氾濫で川が濁らないようにと、意図的に濁点をとることで験(げん)を担(かつ)いでいます。実際の地名とは異なる読み方になる場合もありますが、その背景には安全を願う思いが込められているのです。「桜橋第二ポンプ所」がある場所は、かつての掘割「八丁堀」があった訳で、ここにも橋・「稲荷橋」が架かっていたことを理解できたのであった。この地図で見ると、楓川と亀島川をつなぐ運河。長さが約8丁(約873m)あったので八丁堀。明治になって、桜川と改称されたのだと。「稲荷橋」のあった場所から「亀島川」を見る。「旧八丁堀」が「亀島川」に合流した場所も埋め立てられ「亀島川公園」になっており、「亀島川緑道」が造られていた。ベンチも設置され、休憩場所にもなっていた。先程訪ねた、亀島川に架かる「南高橋」が確認できた。休憩用デッキから河川敷の緑道への階段を降りる。展望・休憩デッキその先に「南高橋」。その先に「鍛冶橋通り」の「亀島川」に架かる「高橋」。「高橋」から「亀島川」、「南高橋」を再び振り返る。「鉄砲洲通り」の路地を西に向かい、亀島川から離れて「居留地中央通り」に出る。「居留地中央通り」を北に向かう。この辺りが「八丁堀」があった場所であろう。「中央区立女性センターブーケ21」前。中央区湊1丁目1−1。「中央区立桜川屋上公園」案内板。「東京都下水道局 桜橋第二ポンプ所」の建物の屋上が利用されていた。「桜川屋上公園 入口」。「中央区立桜川屋上公園」は緑あふれる公園になっていた。水の流れる小川も。そして「居留地中央通り」に戻ると右手にあった路上アート。アルミ製の帯鋼を用いて3人の女性(美神)の姿を表現?中央区湊1丁目1−1。「海の三美神」と。足下にはモザイクアートが。青い海の波を表しているのであろう。「海の三美神 エステル・アルバルダネ 1993年」。「東京都下水道局 桜橋第二ポンプ所」案内板。「桜橋第二ポンプ所」の反対側の「特別養護老人ホーム わとなーる桜川」の建物の壁には色彩豊かなイルカの親子?の姿が。そして次に訪ねたのが「新大橋通り」沿いにあった「中ノ橋北東児童遊園」。中央区八丁堀4丁目11。その隣が「中央区立桜川公園」になっていた。入口・「新大橋通り」沿いにあったのが吉田 昇作「MOON LIGHT STAGE —月舞台—」。中央区入船1丁目1−1。「—月舞台—」とあるが、何を表現しているのであろうか、丸いのが月?それを支える石は?穴の開いた石もあるが、芸術品の感受性の乏しい私には・・??。「桜川公園」の北側の奥に案内板があった。中央区入船1丁目1。「八丁堀(桜川)跡」案内板。所在地 中央区八丁堀四丁目 新富・入船・湊の各一丁目 地域江戸時代初期、京橋川の下流から隅田川へと流れ込む通船のための水路が開削され、この堀割を「八丁堀」と称していました。八丁堀の開削年や名称の由来には諸説ありますが、『京橋区史』には、南八丁堀1丁目と本八丁堀1丁目の間より東流し、桜橋、中ノ橋、稲荷橋を過ぎ亀島川に会いして海に入る。慶長17年(1612)に漕運の利を謀りこれを鑿つ、当時海口より凡そ八丁(約870メートル)なるを以ってこの名ありと書かれています。なお、地域名としての八丁堀は、堀を境に北側の地域一帯を本八丁堀(北八丁堀)、南側の河岸地一帯を南八丁堀と称し、広範囲にわたっていました。通船堀としての八丁堀は、明治になって「桜川」と改称され、関東大震災後の復興事業を経て新桜橋・桜橋・中ノ橋・八丁堀橋・稲荷橋が架けられました。昭和35年(1960)から昭和41年(1966)頃には、中ノ橋から稲荷橋までを残して桜川の上流が埋め立てられ、その後、桜川は完全に埋め立てられました。埋立地の一部は、桜川公園として整備され、この辺りに堀割があったことをしのばせています。平成17年(2005)3月 中央区教育委員会」「中央区の橋・橋詰広場-中央区近代橋梁調査-」。通船堀としての八丁堀は、明治になって「桜川」と改称され、関東大震災後の復興事業を経て新桜橋・桜橋・中ノ橋・八丁堀橋・稲荷橋が架けられた と。そして、「桜川公園」の「新大橋通り」側の南側にあったのが「入一地蔵菩薩・入一観音菩薩」。この地は江戸初期に開削された堀割の八丁堀(明治期以降は桜川)が北側に流れ、中の橋が架かっていた南詰東側であって、かっては南八丁堀と呼ばれていたとのこと。「入一地蔵菩薩・入一観音菩薩」と書かれた幟。「入一」というのは、この地蔵様のある入船一丁目の略であろう。中央区入船1丁目1−26。正面から。大小三体の地蔵様。以前は川だったこのあたり「八丁堀」を、お守りされていたのであろう。川を守る、川から人を守る!観音さまは水を統(す)べる方、お地蔵さんは異界との門番。そう考えると、水害と海運の祈願と供養ということなのであろう。右から「地蔵菩薩立像・入一地蔵菩薩」。中央に「小さな地蔵様」。左に「聖観音立像・入一観音菩薩」。そして地蔵堂脇にあったのが「むしば祈祷石」と。周り約90cm余り、高さ60cm余りの油石と称する自然石が古くより存在していて、以前は表面もすべる滑かさがあつたそうです。この石が火災にかかって油石の油も燃切り、今はガサガサ石と変じてしまったとか。この「むしば(虫歯)祈愕石」には、こんな記録が残っている。「あぶら石(歯痛) =京橋区南八丁堀ニ丁目の路傍(みちばた)に周(まはり)三尺余高さニ尺余のあぶら石と称する自然石(しねんせき)が古くより存在してゐる、以前は表面も頗る滑(なめら)かがあったが、数年前火災に罹(かゝ)って油石の油も燃切り、今はガサ/石と変じて了(しま)った、何の理窟か分らぬが古来歯痛(はいたみ)の願を懸けるものが夥(おびた)だしい、又油石の下には石で作った男女の首が埋めてあるといふ説もある。(「東京朝日新聞」明治40年( 1907 ) 12月15日付)」とネットから。虫歯に御利益があるとされていたようだ。そしてこの日の散策はここまでとして、「JR八丁堀駅」からこの日の最終目的地に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.09.15
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次に訪ねたのが鉄砲洲通り沿いに鎮座していた「鐵砲洲稲荷神社(てっぽうずいなりじんじゃ)」。中央区湊1丁目6−2。提灯と社号標石には「鐵砲洲稲荷神社」と。そして鳥居の両脇には一対の「狛犬」。普通の狛犬より2回りほど小さなサイズの狛犬は昭和十五年(1940)奉納 と。「鐵砲洲稲荷神社所在地 中央区湊1−6−7鐵砲洲稲荷神社は、中央区湊にある稲荷神社として、地域の人々の信仰を集めてきました。神社は寛永元年(1624)頃、稲荷橋南東詰に遷りましたが、明治元年(1868)現在地に移転し、今日に至っています。関東大震災により被害をうけた境内は昭和10年(1935)より復興、整備され、正面中央奥に社殿、左手に神楽殿と摂社八幡宮、右手に社務所と手水舎が向かい合うように配置され、境内西南隅に神楽庫が設けられています。また、西北隅には富士山の溶岩で築いた富士塚があり、そこを富士信仰の場としていました。むかしの富士塚は「江戸名所図会」にも描かれた有名なものでした。境内は昭和初期の神社建築とその配置の有様をよく伝えており、また、富士塚も区内唯一の富士信仰の名残りをとどめている点から、共に中央区民文化財に登録されています。平成五年三月 中央区教育委員会」「京橋地区の生成並びに鐵砲洲稲荷神社御由緒鐵砲洲の地は、徳川家康公入府の頃は、既に鐵砲の形をした南北およそ八丁の細長い川口の島であり、今の湊町や東部明石町の部分が該当します。寛永の頃ここで大砲の射撃演習をしていたので、この名が生まれたとも伝えられています。昔の海岸線は現在のものより遥かに奥まったものであり、八丁堀の掘られたのが慶長17年で、京橋辺りの土地形成が天文の頃、足利義輝公の治世、京橋地区一帯の土地生成の産土の神こそ、現在の「鐵砲洲稲荷神社」の「生成(いなり)大神」であります平安時代初期、第54代仁明天皇の承和8年(皇紀1501年・西暦841年)打ち続く凶作に教えられる所あって、住民たちがこの地に自らの産土の国魂を祀り、万有の生命を生かし成し給う大御親生成(いなり)の大神として、日常の御守護を祈願しました。所が此のご鎮座の地が、当時の東京湾の最も奥に位置していた為に港として諸船舶の出入りが繁く、霊験のあらたかなる神徳と相まって当然の結果として船乗人の崇敬が頗る篤くなりました。その後、埋立が進行して現在の京橋のあたりへ遷座となり、更に室町末期の大永年中に氏子崇敬者たちの願望によって、また新しい海岸へ遷座し奉って、八町堀稲荷神社と称しました。」今の新京橋の近くであります所が更にその後年にも埋立が進行して海岸は東方へ移りましたので、寛永元年には南八町堀地続きとなった鐵砲洲に生成大神を御遷座申し上げ、従来から鐵砲洲御鎮座の八幡神社を摂社とし、以って今日の鐵砲洲稲荷神社の基礎を築かれました。此の時代を通じて江戸で消費する米・塩・薪炭を始め、大抵の物資は悉く此の鐵砲洲の港へ入ってきました爲に、大江戸の海の玄関に位置する此の鐵砲洲に御鎮座のいなり大神は、船員達の海上守護の神としても崇敬されました。港が横浜や芝浦に移転してしまった現在でもなお、特殊神事・冬至開運祈願祭に授与する「金銀富貴」の神札等は、全国的に篤く崇敬されて、諸諸方々の人々から拝戴されています。抑も此の神社は、此の土地の氏子達は勿論のこと、全人類をして悉く「富み且つ貴からしめたい」との御神慮に基くものであります。さて、我等は如何にして富み且つ貴くなる事が出来るかと言うに、それには各自悉くが自分の親を大切にして先祖を供養し、子孫の為に善根を培って行けば、人も自分も、先祖も子孫も、此の世にも彼の世にもみんな救われて永遠の生命に生きることが出来ます。また天地生成の恵みに感謝し、人のお蔭様に報恩の誠を捧げて行けば、必ず富み且つ貴い運命を開く事が出来ます。此の運命開拓の御催促と共に、力の不足に対する、力の本源である大御親神から愛子への愛の御力添えが、此の金銀富貴の神礼であります。」「百度石 大正十四年三月」と。百度詣は百回踏とも言いますが、神様に願い事を聞いて頂く為の厳しい作法のお詣り。夜中など、人目が少ない時に、白い着物を着て素足で、暴風雨でも大雪でも100日間続けてお詣りをするのだ。しかし、それを一日で完結させる方法として百度石を使った方法もあった。神社の百度石から参拝所までをグルグルと100回まわってお詣りするのであった。「手水舎」手水舎には気になる文面が。「反省威張る時には神に捨てられ 欲張る時は金に背かれ」「妬む(ねたむ)ときには友を持ち得ず 怒るときには己を失うのだ ---正光---」と。・・・我が身にもなかなか深いお言葉なのであった。鳥居をくぐって左手には、「神楽殿」。1923(大正12)年の関東大震災で拝殿とともに大きな被害を蒙ったが1937(昭和12)年に再建されたのだ と。神楽殿は入母屋造りの木造建築で、屋根はすべて銅板葺になっていた。 右手には「社務所」。社殿手前の狛犬(阿形像)。社殿手前の狛犬(吽形像)。そして正面に「社殿」。「旧社殿」は関東大震災で焼失し「現社殿」は昭和十年(1932)に再建されたもの。再建された社殿は戦時中の戦火から免れ現存。起立の年月として口碑に伝えるところはきわめて古く承和年間というが、元祿十六年および文政十二年の火災に社記を焼失して詳しいことはわからない。鎮座の地が東京湾の最も奥に位置していたため、船人の崇敬が他にまして厚かったという。鉄砲洲稲荷が本湊町に移ったのは慶応三年八月のことで、以来元八丁堀稲荷と称したが、明治五年十一月村社に列し、翌六年七月郷社となった。現在の建造物は大正震災後のもので、本殿・拝殿・幣殿等檜流造五十坪は昭和十年十月に、神楽殿・社務所など百六十坪は昭和十二年それぞれ竣工したものである。例祭を五月二十日にいとなみ、月次祭は一日・十五日に執行する。摂社に鉄砲洲八幡神社、末社に金刀比羅神社・恵比寿神社・鉄砲洲富士浅間神社がある。富士浅間神社は宝暦十一年五月五日富士講の奉賽するところともいうが、山麓の石碑には、当神社境内に在る婦富士山は始め寛政二年九月稲荷橋南詰の元社地内に築造されしものなり江戸名所図絵巻之一湊稲荷神社の図のうちにあり 明治二年二月社地の移転ありて明治七年四月に至り現在の大島居より東南十二三間の処に再築さる 明治十八年社殿御造営に際し現在の大島居の西北約八間を距りたる処に移されしが、更に大正大震後の区画整理に因る社地移転に当りて昭和三年十二月此処へ移す昭和三年十二月郷社鉄砲洲稲荷神社御社殿御造営に因り昭和十一年秋右に記録せる位置より富士山を西へ二間大島居を南へ二間夫々移動せり 社司青葉運太識とある。元旦の歳旦祭、節分祭、五月例大祭、十一月十五日七五三祭、十二月冬至祭などの年中行事がある。また、二月十七日豊年祈願祭には田植舞、十一月二十三日新穀感謝祭には稲穂舞などの神楽舞が奉納され、在京外国人の見学する姿をよく見受ける。冬至祭には金銀富貴の札と、一粒万倍の金銀目芽え袋とを頒与する。氏子は銀座東一丁目から八丁目まで、新富町一、二、三丁目、入舟町および湊町の全域、明石町、越前堀一丁目など区内十九ヵ町にわたり、その数約五千戸に達する と。内陣。御祭神は宇迦之御魂大神、豊受姫大神。さらにズームして。仁明天皇の御代、承和八年四月十五日に創祀。年来打續く冷害凶作に教へられ、江戸湾海岸櫻田村の住民が、宇迦之御魂の大神を祀って豊年を恵まれた。菜畠稲荷と称した。次に今の新京橋の所に遷って八丁堀稲荷と称した。次に鐵砲洲に遷って今日に至った と。拝殿に向かって左、神楽殿の並びにある社。古くから鉄砲洲に祀られていた「八幡神社」が「摂社」として祀られている。左右には「随身」のお姿が。日本の神道において、神を守る者として安置される随身姿の像のことも「随身」といい、この場合は随神とも書かれる。門守神(かどもりのかみ)、看督長(かどのおさ)、矢大神・左大神とも言う。神社の門のうち、門の左右に随身を安置した門のことを随身門・随神門(ずいしんもん)と呼ぶこともある。正面に向かって右が左大臣(老人)。近づいて。正面に向かって左が右大臣(若者)。近づいて。この随身像1対は松本昇作 木挽町七丁目の中村語郎奉献 と。木挽町は現在の銀座の東側の旧町名で1951(昭和26)年に町名廃止になっているので奉納から少なくとも72年近くは経過していることになる。実際は八幡神社だけでなく、天満社・浅間社三輪社・琴平神社・住吉社も合わせ祀った社殿であり、神座も5座あるのであった。社殿手前の大きな狛犬(阿形像)。社殿手前の大きな狛犬(吽形像)。「二宮金次郎尊徳像」。平成十四年(2002)の奉納 と。近づいて。撤去され失われていく二宮金次郎像が多い中、こうして比較的新しく奉納されたのは珍しいと感じたのであった。「二宮尊徳先生は本名金次郎 天明七年(一七八七年)相州二宮に生れ、早くして両親を亡くし、水害で田畑を失ひ、伯父万兵衛に引き取られて農奴となる。夜間と雖も勉学を許されず、荷を肩に運びながらも読書にいそしむ姿を、此の銅像に表はせり。家老服部家の下郎となりて、若殿を學問所へ送る。教室の廊下に上がる事も許されず、床下に潜りて、講義を漏れ聞いて、學業に勵めり。勤倹、貯蓄、推譲によって世を導き、多くの人を助けて、一世の师表と仰がる。「天下の貧者を見ては、普く之を救済して、富に至らしめん事を祈願するものなり」「民を水火から救ふ能はずんば吾が身を猛火に投ぜん」と、神佛に祈った。忍從と不退転との決意を實行して、萬人に拜まれ、世界から崇められて、報徳二宮神社に神鎮まります。山内高嘉」「和平神繆斌(みょうひん)顕彰碑繆斌 号は丕成 光諸廿九年(一九〇三年)三月七日癸卯を享く 廿一歳上海南洋大學卒業黄埔軍官學校となり、・・・・・」対日協力政権である南京国民政府(汪兆銘政権)で立法院副院長の職にあった繆斌は、1943年(昭和18年、民国32年)8月から、蔣介石の重慶国民政府の軍統(軍事委員会調査統計局)の幹部や軍政部長の何応欽と連絡を取り合っている。彼は重慶政府の要人と連絡を取り合っていたことで南京政府より監禁されたことがあり、釈放後は逼塞していた。1945年3月、繆は蔣介石政権の密命を受けたとして訪日し、南京国民政府の解消と交換に日本軍の中国撤退や満州国の認知などを条件とする日中の単独和平交渉を日本の小磯内閣に提案した。対米英戦争(太平洋戦争)において敗色濃厚となった日本では、連日の激しい本土空襲に苦しんでおり、繆斌の示した和平条件はかなりの好条件であった。また日本の対米英開戦のそもそもの原因が中国問題にあったことから、この工作は対米英戦の和平につながりうるものとして期待された。この交渉を主導したのは小磯國昭内閣総理大臣や情報局総裁の緒方竹虎国務大臣らであり、天皇に近い東久邇宮稔彦王もこの和平工作に賛成していた。3月21日、小磯は繆斌を最高戦争指導会議に招致することを閣僚に提案し、当初はこの和平工作に陸海軍首脳も賛成の意向であった。ところが、重光葵外務大臣はこの工作に猛反対であり、内大臣の木戸幸一も重光を支持した。重光外相は、非正規の外交ルートによる外交交渉に反対という原則論に加え、和平工作そのものにも激しい批判を加えた。重光によれば、繆は「繆斌に蔣介石との繋がりはなく、日本の機密情報を持ち帰ってそれを手土産に蔣介石に寝返ろうとしているだけの和平ブローカー」として、それを示す情報を陸海軍首脳に提示した。重光の反対を受けて、杉山元陸相と米内光政海相も見解を変更し、繆を通じての和平工作に反対した。参謀総長の梅津美治郎も反対の意向を示した。小磯首相はあくまで交渉の続行にこだわり、陸海外の3大臣が反対するなか、4月2日に昭和天皇に繆を引き留めることを上奏した。しかしこれがかえって天皇の不興と不信を買った。昭和天皇の見解は「繆斌は汪精衛(汪兆銘)を見捨てた男である。元来重慶工作は南京政府に一任しているのだから日本が直接乗り出すのは不信な行為であるし、いやしくも一国の首相ともある者が蔣介石の親書も持って居ない一介の男である繆斌如き者の力によって日支全面和平を図ろうと考えるのは、頗る見識の無い事である。たとえ成功しても国際信義を失うし、失敗すれば物笑いとなる」というものであった。4月3日、天皇は繆斌の帰国を小磯に指示、この「繆斌工作」の失敗を受けて、小磯内閣の不統一が露呈し、小磯首相は退陣するにいたった とネットから。「東久邇宮・蒋介石使者繆斌談笑画像碑」小さい方の石碑には終戦処理内閣の首相だった東久邇宮稔彦王と繆斌とのツーショットが彫りこまれていた。今まで知らなかった歴史の1コマを今更ながら知ったのであった。終戦処理内閣の首相だった東久邇宮稔彦王と繆斌とのツーショット。大きな穴の開いた石碑は「針塚」と。裏側には「昭和三十五年」、「松徳和洋裁専門学院」の文字が。「神輿殿」であっただろう。本社神輿と鳳輦(ほうれん)は3年に一度、例大祭で渡御する。鳳輦は、「屋根に"鳳凰"の飾りのある天子の車」を意味する言葉で、日本においては、古くから、天皇の正式な乗り物を意味するほか、現代では神社の祭りなどに使われる、鳳凰の飾りがある神輿を意味する。本社神輿は大正5年製作で、台輪幅は4尺1寸5分 と。「本殿」を横から。本殿(と地下室)は昭和10年建造の鉄筋コンクリート建築。戦前の鉄筋コンクリート製の神社本殿は割りと珍しいのであった。火消し番号で六番組(す組)は京橋地区や築地などを担当したのだ と。「力石」は江戸時代に力比べに使用されたもの。 「力石」「三十貫」「享保十九年正月」などの刻銘が。そして社殿の右手には「富士塚」が。中央区唯一の「富士塚」 と。「富士塚」とは富士信仰(浅間信仰)に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚。本物の富士山に登拝するのは困難でも富士塚に登って富士を拝めば霊験あらたかとされ、江戸を中心に関東圏には数多くの富士塚が築山される事となったのだ。ここの「富士塚」は明治三年(1870)の移築で縮小、その後も明治十八年(1885)、昭和三年(1928)、昭和十一年(1936)と境内の中で移築されて少しずつ規模が縮小。現在の富士塚は平成二十八年(2016)に改修して築造されたものである と。富士塚の周囲をぐるりと回れるように舗装されていた。登山道の入口には石鳥居が。「ご注意 危険ですから富士山に登らないでください 鉄砲洲稲荷神社」。普段の登拝はできないが、富士山の山開きに合わせて7月1日のみ登拝が可能となるとネットには。実物の富士山の溶岩を用いて寛政二年(1790)に築造された と。この穴の中を覗きたかったが、上の注意書きが!!。登山道の途中、頂上には石祠が祀られていた。富士塚の山頂にあるのが末社「鉄砲洲富士浅間神社」。平成二十九年(2017)3月に、「平成の大改造」の第一期工事として解体されていた富士塚が再築されたのだ と。「鐵砲洲稲荷神社 御鎮座一千百八十年奉祝平成の大改修事業のご案内」。「富士塚修復 完成予想図」と。そして「鐵砲洲稲荷神社」を後にして、「鐵砲洲通り」を北に進むと交差点の角にあったのが「築地警察署 湊交番」。中央区湊1丁目6−5。「湊1丁目」交差点を右折して「隅田川」に合流する「亀島川」に向かって進む。前方に見えて来たのが「亀島川」に架かる「南高橋」。「南高橋」碑。「南高橋この橋は、亀島川の河口に位置し、関東大震災の復興事業の一つとして、昭和7年(1932)に架けられました。橋の主要部は、明治37年(1904)に架けられた旧両国橋の材料を利用して作られたもので、都内に現存する鉄橋のうち道路橋としては、最も古い橋です。また構造上の特徴は、トラスの1部材の端に丸い環のついた”アイバー”が用いられており、全体はピントラス橋とも呼ばれています。このため明治期の技術を今に伝える貴重なものとして、中央区民文化財に登録されています。平成28年(2016年)に、土木学会選奨土木遺産として認定されました。」「歌舞伎座前より乗合自動車に乗り鉄砲洲稲荷の前にて車より降り、南高橋をわたり越前堀なる物揚波止場に至り石に腰かけてて名月を観る。石川島の工場には燈火煌々と輝き業務繁栄の様子なり。水上には逗州大島行の汽船二三艘泛びたり。波止場の上には月を見て打語らう男女二三人あり。岸につなぎたる荷船には頻に浪花節をかたる船頭の声す。」 ((昭和9年7月・永井荷風「断腸亭日乗」より))橋梁の諸元型 式 : 下路式単純プラットトラス橋橋 長 : 63.1m有効幅員:11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)着 工 : 昭和6年1月竣 工 : 昭和7年3月総 工 費 : 76,600円施 工 者 : 東京市 平成28年11月 中央区「中央区文化財 南高橋所在地 東京都中央区新川2丁目湊~1丁目 (亀島川)創架年代は、昭和6年(1932)に起工、同7年3月に竣工。現在の 南高橋 の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、 亀島川 上流に 高橋 があったのみでした。大正12年(1923)の 関東大震災 ののち、街路の大規模な 区画整備 が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。東京市 は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治37年(1904)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の 両国橋 の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。都内において、珍しくも明治37年の トラス橋 の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の 土木遺産 として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで二番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で六番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。平成14年3月 中央区教育委員会」橋名板「南高橋」。関東大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのだ と。その下流側にあったのが「亀島川水門」。亀島川は、日本橋川から分かれ、隅田川へ合流する全長1kmほどの川。この川の上流端には「日本橋水門(1971年完成)」が、下流端にはこの「亀島川水門(1968年完成)」がある。高潮あるいは津波時には、両水門を閉鎖して亀島川流域住民の生命・財産を守る と。水門の大きさは、1門が幅15メートル、高さ8メートル、重さ60トンと都内では大型の水門である と。そして「湊ニ丁目(第5次)遺跡出土の土管花壇に使用されているのは、明治時代に製作された常滑焼の土管です。平成28年に行われた発掘調査で、井戸のくみ取り口用に3段重ねられた状態で発見されました。常滑焼は現在の愛知県常滑市の焼物で、江戸時代は大型の壺や甕の生産が主流でしたが、明治時代に入ると、都市の近代化にともない土管が量産されるようになります。このような大型の土管が割れることなく発見されることは稀であり、当時の生活の一端を伝える遺物です。 中央区」3つの土管は、まるで鉢植えのように、中に草花そしてざを茂らせていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.14
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「居留地中央通り」をさらに進むと、左手にあったのが「聖路加国際病院 小児総合医療センター」。聖路加国際病院(せいるかこくさいびょういん)は英語でSt. Luke's International Hospital と。今回、訪ねるまで、「せいろか」とばかり思っていました。中央区明石町10。その先「居留地通り」を渡って進むと右手に進むと石碑が現れた。正面から。「明治二十一年(一八八八)創立 暁星学園発祥の地」。石碑の裏面には「Ecole de l'Etoile du Matin」と。フランス語で「明けの明星(étoile du matin)の学校(Ecole)」すなわち「暁星学園」との意味であると。碑の上に1冊の本が開かれた形のモニュメントが載っていた。「あなたがたは地の塩 世の光である(マタイによる福音書)」と。その奥にあったのが「カトリック築地教会聖堂」。カトリック築地教会(かとりっくつきじきょうかい)は、東京都中央区明石町にあるキリスト教(カトリック)の教会およびその聖堂である。教会堂名は「聖ヨゼフ」。カトリック神田教会と同じく、東京で比較的早い段階から日本人のために開かれていた教会で、現在の聖堂は東京都選定歴史的建造物および東京都中央区の区民文化財に指定されている。教会としては珍しいギリシャ神殿パルテノン様式。正面にはドリス式の円柱が6本並び、ペディメント(三角破風)には、左右にバラと中央にユリの彫刻がなされていた。前庭に置かれた銅製モニュメントには「聖ヨゼフ幼稚園」の文字が。大正13年に創設された明石町の聖ヨゼフ幼稚園が80年以上の長い歴史に幕をおろし、2007年3月31日に閉園式を挙行しとのこと。閉園式では、月島在住の彫刻家・小畠泰明氏によるこの記念碑も除幕されたとのこと。聖書のぶどうをあしらい、卒園した人たちの思い出をひき出す作品であると。「カトリック築地教会聖堂」入口右にあった立像。キリストの十二使徒の一人である「聖ペテロ像」。1878年に他の3人の聖人像と共に聖堂内に置かれていたが、1923年の関東大震災で聖堂が焼失、この聖ペテロ像だけが残ったとのこと。イエス・キリストの一番弟子とのこと。イエスから「天国の鍵」を授かったので、大事に鍵を左手に持っているのだと。右手には書物、聖書であろうか。「東京都選定歴史的建造物カトリック築地教会聖堂所在地:中央区明石町5-26設計者:シロジアス神父、石川音次郎建築年:昭和2年(1927)築地一帯は、明治初期に外国人居留地に指定された。築地教会は明治7年(1874)に、パリ外国宣教会が居留地35番・36番を政府より借り受け、聖ヨゼフを守護聖人として設立したものである。明治11年(1878)から大正9年(1920)まで司教座がおかれた教会で、東京で最も古い教会の一つでもある。明治11年(1878)に献堂された旧聖堂は、ゴシック式赤レンガ造りであったが、大正12年(1923)に関東大震災で焼失。昭和2年(1927)に、木造2階建の現聖堂が献堂された。現聖堂は、当時の東京大司教であるレイ大司教の希望によりギリシア建築パルテノン型が採用され、正面にはドリス式オーダーが立ち並ぶ。明石町一帯は空襲をまぬがれたため、教会は戦災に遭わず、壮麗な姿を今に伝えている。東京都生活文化局 平成8年3月」「カトリック築地教会聖堂・銅製洋鐘所在地:中央区明石町5番26号カトリック築地教会は、明治4年(1871)にパリ外国宣教会のマラン神父が、鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借りて伝導活動を行ったことに始まります。その後、明治7年(1874)に築地外国人居留地35・36番(現在地)を借り受け、明治11年(1878)にはゴシック様式の立派な聖堂が献堂されました。この聖堂は、大正12年(1923)の関東大震災で焼失したため、昭和2年(1927)に再建されたのが現在の聖堂です。パリの聖マグダレナ天主堂を参考に設計したこの聖堂は、石造建築のように見えますが、実際には壁面をモルタル塗りで仕上げた木造の建物です。ギリシャ神殿を思わせる建物の正面には、ドーリア式の大きな柱が6本並び、屋根正面の切妻壁にはユリとバラの彫刻も施されています。また、旧聖堂が建立されていた時代から長年使用されてきた銅製の洋鐘は、1876年(明治9)にフランスのレンヌで製作されたものです。なお、この洋鐘には、当時の司祭・ルマレシャル神父が名付けた「江戸のジャンヌ・ルイーズ」という呼称を持っ歴史ある鐘です震災復興期に建立されたカトリック築地教会の聖堂と明治初年にフランスからもたらされた銅製洋鐘は、現在の明石町一帯に外国人居留地が置かれていた歴史を示す貴重な文化財です。令和3年3月 中央区教育委員会」構内に入る扉のすぐ右側には、1876年にフランスで鋳造された銅製洋鐘が展示されていた。この洋鐘は、当時の司祭・ルマレシャル神父が名付けた「江戸のジャンヌ・ルイーズ」という呼称を持っ歴史ある鐘。そして次の目的地の「佃島渡船場跡」に向かって進む。右手にあったのが「ニチレイ明石町ビル」。そして、「佃島渡船場跡」に到着。「佃島渡船」碑。「築地江戸前散歩」案内板。「中央区民文化財佃島渡船場跡所在地 中央区湊三丁目一八番 佃一丁目一一番四号佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲(よりす)でした。江戸幕府初代将軍徳川家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区)の漁民を招いて住まわせたところと伝承されています。この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に正保二年(一六四五)に通ったのが佃の渡しです。明治九年(一八七六)には、渡し銭一人五厘の掲示札の下付を願い出て許可され、大正十五年(一九二六)東京市の運営に移り、翌昭和二年三月に無賃の曳船渡船となりました。「佃島渡船」の石碑は、手こぎ渡船を廃止した記念として、この時期に建てられたものです。昭和三十年(一九五五)七月には一日七十往復にもなりましたが、同三十九年八月の佃大橋の完成によって三〇〇年の歴史を持つ佃島渡船は廃止されました。渡船の歴史を記念する史跡として、中央区民文化財に登録されています。平成十六年三月 中央区教育委員会」昭和28年頃の佃島渡船。江戸後期・ 安政期頃の古地図である。渡船の航路は、鉄砲洲川の河口から「佃の渡し」と「寄場の渡し」の2本が描かれている。寄場とは石川島の人足寄場(にんそくよせば)である。鉄砲洲川河口に架かる2つの橋は、明治大正期には河口側が「鉄砲洲橋」で、陸側が「小橋」であった。明治後期から大正期にかけての地図では、現在地と同じ場所(=佃大橋西側)に移っている。そして現在の「佃大橋」を見る。「佃大橋」は隅田川の渡船場として320余年続いていた「佃の渡し」の位置に架けられた橋であり、上流に平行している永代橋、下流の勝鬨橋の交通量の増加、および1964年東京オリンピック開催に備えた関連道路の一部として、戦後初めて隅田川に架橋された橋である。当時佃島と月島を隔てていた佃川は、佃大橋の取付道路建設のために埋め立てられ、佃島と月島は地続きに、同時に佃川に架かっていた佃橋は廃橋となった。この日も東京クルーズ「エメラルダス」の姿が。堤防上から隅田川そして中央大橋を見る。そして中央大橋の袂に聳える、地上35階のタワーレジデンス、リバーポイントタワーを見る。中央大橋をズームして。そしてリバーポイントタワーの手前に見えたのが「石川島灯台」。隅田川河口、品川沖を航行する船の安全ための常夜灯として築かれた石川島灯台を復元したモニュメントで、佃川支川が隅田川に合流する住吉水門近くに建ち、石川島の歴史を今に伝えるシンボル的な存在になっているとのこと。慶応2年(1866年)、人足寄場奉行・清水純崎(しみずじゅんき)が人足寄場で生産した油絞りの益金を利用し、人足寄場の西岸に築いた六角2層の常夜灯がこの石川島灯台。灯台の完成で江戸湾から日本橋方面に入る船の航路、近在漁師の安全が図られたのだと。中央区佃1丁目11−4。そしてその右には、「住吉大神」と書かれた幟が。こちらも「住吉大神」と書かれた幟と、隅田川沿いに建つ朱の鳥居も見えた。隅田川には、この先で左側から亀島川が合流する。そして新富晴海線を西に進み、右折して進む。「鉄砲洲通り」。中央区湊に鉄砲洲、という地名があった。住所として「鉄砲洲」、という地名はないとの事だが、鉄砲洲稲荷や鉄砲洲通りなどにその名を残していた。江戸名所図会の「銕炮洲」の項目には地名の由来を以下のように記してあると。「伝へいふ、寛永(1624年~1644年)の頃、井上・稲富ら大筒の町見を試みしところなりと、あるいは、この出洲の形状、その器に似たるゆゑの号なりともいへり」つまり、鉄砲洲の地名の由来は以下の2説。・幕府鉄砲方の井上・稲富の両家が、この砂州上で大筒の稽古を行っていた・砂州の形が鉄砲に似ているどちらの説が正しいかはっきりとはしないが、江戸幕府の初期の頃にはこの辺りで大筒の稽古が行われていた。その後、この鉄砲洲の地が江戸城に近いことから、大筒の稽古場は鎌倉の由比ガ浜に移されているとのこと。次に訪ねたのが「中井鋳物工場跡(戦前建築)」。右端の壁には「中井鑄物工場」の文字が。シャッターが下り、既に閉鎖されているようだが、伝統的な木造家屋の一部を洋風にしたタイプでやや珍しい。正面の破風は屋根形状と無関係に取りつけられているのであった。周囲を高いビルやマンションに囲まれつつも、この一角のみ戦前の面影を残しているのであった。そして再び隅田川に向かって進む。振り返ると「宗教法人妙真教会」があったが境内に入ることは出来なかった。正面に見えたのが「湊第一児童遊園」。その横にあったのが「汐見地蔵尊」。「汐見地蔵尊文化四年(一八〇七)富岡八幡宮祭礼日に永代橋の崩落事故が起り二千余名もの犠牲者が出ました。その後も大火災、大地震、疫病が江戸一帯を襲い多数の死傷者が出ました。明治時代に入りこの地に怪奇現象が起こり川底から一体の石像と多数の人骨、歯牙歯骨が出ました。人骨は両国の回向院に、石像と歯牙歯骨はこの地に葬つて供養しています。歯を病む者が祠前の塩を持ち帰り口中を漱げば痛みが治り、お礼に塩や楊枝を供する習しで霊験すこぶるあらたかな地蔵尊として篤い 信仰を集めています。 供養祭 毎年八月六日」内陣。さらに。鉄砲洲川は埋め立てられたが、現在、鉄砲洲川河口跡付近はここ「中央区立湊第一児童遊園」(湊二丁目16)辺りで、隅田川護岸には「下水道管埋設」の標識板があり、ここが川跡の痕跡。よって江戸後期・ 安政期頃には、この場所に「佃の渡し場」があったのだ。「御産稲荷堂新築にあたり」。そして「中央区立 湊公園」に立ち寄る。再び隅田川、中央大橋、リバーポイントタワー、スカイライトタワーを見る。「中央大橋」は1994年1月に開通した架橋であり、隅田川に架かる橋で平成時代に初めて建造された新規の架橋である。夕刻から夜10時までは、白色の水銀灯と暖色系のカクテル光でライトアップされている。隅田川はフランスのセーヌ川と1989年(平成元年)に友好河川を提携しており、中央大橋を架橋する際に、フランスのデザイン会社に設計を依頼した。そのためか、主塔および欄干部分に日本の「兜」を意識した特徴的な意匠が施されている。また上流側の中央橋脚部には当時のパリ市長であったジャック・シラクから東京都に友好の印として贈られた彫刻家オシップ・ザッキン作の「メッセンジャー」と名づけられた彫像が鎮座する。彫像は川側を向いており、橋をくぐる水上バスからの方が見やすい。なお、このお礼にパリ市に「屋形船」を寄贈している。構造形式:二径間連続鋼斜張橋橋長:210.7m幅員:25.0m中央区新川2丁目。次に訪ねたのが「中央区立鉄砲洲児童公園」。中央区湊1丁目5−1。「鉄砲洲児童公園」碑。夏の名物、「じゃぶじゃぶ池」と。幼児用の水深が浅いプール。「じゃぶじゃぶ池利用案内」「鉄砲洲小学校」の沿革碑。(鉄砲洲児童公園内に設置されている。もともとは、小学校の敷地にあったものか)「知徳体 調和のある子」と。「鉄砲洲小学校の沿革」。明治10年(1877) 京橋区南飯田町1番地に築地学校として開校。明治23年(1890) 京橋区新湊町3-4-5へ移転。明治43年(1910) 東京市鉄砲洲尋常小学校と校名を改称する昭和 4年(1929) 大正12年 関東大震災で校舎全焼 中央区湊1-4-1に校舎の落成により移転昭和 6年(1931) 東京市鉄砲洲幼稚園を併設開園昭和22年(1947) 学制改革により東京都中央区立鉄砲洲小学校と改称する昭和51年(1976) 開校百年記念 記念式典を挙行 協賛会事業の一環としてこの碑を建立平成 5年(1993) 鉄砲洲小学校と京華小学校が合併して中央小学校が開校。 (校舎は鉄砲洲小学校の校舎を改築して使用) 鉄砲洲小学校は廃校になりました。知者は水を楽しむ 隅田の河畔 鉄砲洲南飯田町に明治10年築地学校として呱呱の声を上ぐ爾来 原泉混混として晝夜を舎かず清流長途 大河と成りてここに百年の星霜を加うこの記念碑を建立するは 永遠に世の浄化に参画するを祈ればなり 神清うして風自ら高し昭和51年10月 東京都中央区立 鉄砲洲小学校百年記念事業協賛会鉄砲洲通り沿いにあった歴史を感じさせる噴水池。噴水池に座りしばしの休憩、水分補給を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.13
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「聖路加国際病院トイスラー記念館」を後にして、入口まで戻り、「聖ルカ通り」を東に向かって進む。左手道路脇にあったのが「女子学院発祥の地」碑。中央区明石町11−5。「ジュリア・カロゾルスが1870年、築地居留地6番にA六番女学校を創設、米国長老教会に所属した。1999年10月24日学校法人 女子学院」「女子学院発祥の地」記念碑発祥の地である旧築地居留地6番には、既存の建築物があるため、学校法人聖路加看護学園のご厚意により、ここに設置しました。学校法人 女子学院」「築地外国人居留地」は、商館の多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し、教会や学校などを数多く開いて教育を行っていた。このため、「築地外国人居留地」で発祥・開設されたキリスト教系の学校も多く、現在も校名や所在地を変えながら発展を続けており、当地区内には発祥を記念した石碑が数多く建てられているのであった。「学校発祥の地 記念碑一覧マップ」をネットから。「聖路加国際大学 シンボルマーク アスクレピオスの杖」アスクレピオスの杖(アスクレピオスのつえ、英語: Rod of Asclepius)とは、ギリシア神話に登場する名医アスクレピオス(アスクレーピオス)の持っていた蛇(クスシヘビ)の巻きついた杖。医療・医術の象徴として世界的に広く用いられているシンボルマークである。欧米では医の象徴として世界保健機関(WHO)、米国医師会(AMA)等のマークにも使われている。薬学のシンボルとして薬局の看板などに用いる国もあるが、薬学のシンボルとしては「ヒュギエイアの杯」(ヒギエイアの杯)が一般的である。また、このマークは世界各国で救急車の車体に描かれていたり、軍隊や準軍事組織等で軍医や衛生兵などの兵科記章や資格章・特技章に用いられていることも多い。日本の陸上自衛隊でも衛生科職種の職種き章(徽章)に用いられている とウィキペディアより。その先、「聖ルカ通り」の内側、聖路加看護大学の構内の遊歩道沿いにあったのが「立教学院発祥の地」碑。ドーナツを半分に割った ユニークな形の黒色の石碑が建っていた。中央区明石町10。「立教学院発祥の地」と。「立教学院」はその後「立教大学校」「立教専修学校」「立教中学校」などの名称を経る。 明治40年(1907)には「立教大学」を開設し、大正7年(1918)に 現在地(豊島区池袋)に移転した。「創立125年を記念してこの碑を建立する。1999年12月2日 ウィリアムズ主義記念日 立教学院」そして「聖ルカ通り」と「居留地中央通り」のロータリー内にも石碑があった。「日本近代文化事始めの地「慶應義塾発祥の地」「蘭学の泉はここに」1982年2月3日」中央区明石町11−11−先。「慶應義塾発祥の地」碑。台座は黒御影石で、正面および側面に建碑の由来が記され、スウェーデン産花崗岩でできた書籍のかたちをしたオブジェの表面には、『学問のすゝめ』初編初版本の活字と同じ字型で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の文字が刻まれていた。「安政五年福沢諭吉この地に学塾を開く。創立百年を記念して昭和三十三年慶應義塾これを建つ」。「天ハ人の上に人を造らず人の下に人を造らず」。「慶応義塾 の起源は一八五八年福沢諭吉 が中津藩 奥平家の中屋敷に開いた蘭学 の家塾に由来する。その場所はこれより北東聖路加国際病院 の構内にあたる。この地はまた一七七一年中津藩の医師前野良沢 などがオランダ解剖書 を初めて読んだ由緒あるところで、日本近代文化発祥の地 として記念すべき場所である。一九五八年四月二十三日除幕」。「蘭学の泉はここに」碑。「蘭学の泉はここに」の碑は 前野良沢・杉田玄白・中川淳庵の 三人が この近くにある中津藩邸で、オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』の 翻訳を行ったことを記念するもの。一隻の屏風を広げたようなデザイン。右側には人体図が彫られていて、解体新書の文字が読める。左側は碑文だが、何しろ彫りが浅くて読めないのが残念である。右側の面には「解体新書」の序図の巻に掲げられている最初の解剖図にある男子の背面図が模刻されていた。「解体新書」の文字も。この絵であろう。『解体新書』の挿絵である。その医学書から美術手法を学びながら挿絵を担当したのが玄白の友人であった小田野直武(おだのなおたけ)であり、まさに“日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ”を冠するに相応しい人物だったと。「解体新書」。左側の碑文は解読不能であったのでネットから。「一七七一年・明和八年三月五日に杉田玄白と中川淳庵とが前野良沢の宅に集まった。良沢の宅はこの近くの鉄砲洲の豊前中津藩主奥平家の屋敷内にあった。三人はきのう千住骨が原で解体を見たとき、オランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアの図とひきくらべてその正確なのにおどろき、発憤してさっそくきようからこの本を訳しはじめようと決心したのである。ところがそのつもりになってターヘル・アナトミアを見ると、オランダ語をすこしは知っている良沢にも、どう訳していいのかまったく見当がつかない。それで身体の各部分についている名をてらしあわせて訳語を見つけることからはじめて、いろいろ苦心のすえ、ついに一七七四年・安永三年八月に解体新書五巻をつくりあげた。これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめで、これから蘭学がさかんになった。このように蘭学の泉はここにわき出て、日本の近代文化の流れにかぎりない生気をそそぎつづけた。」「聖路加国際病院の小径」を振り返る。そして再び「聖路加国際大学」入口まで引き返す。ツインタワー、連絡橋を再び見る。そして「築地川公園」を縦断し「築地三丁目」交差点まで歩く。東京メトロ「新富町」駅入口横を通過。築地川に架かっていた「入船橋」手前を左折して進む。左手にあったのが「変なホテル Henn na Hotel」。2015年7月に開業した「変なホテル」👈リンク。 “まず名前が変だろっ!”と言いたくなるこのホテルは、ハウステンボスの“スマートホテルプロジェクト”の取組みとしてハウステンボス敷地内(長崎)に誕生した“究極の生産性を追求するホテル”が最初だと。ウワサによると、フロントスタッフもロボット、クロークもポーターも案内人もロボットと、接客する従業員がロボットだとか。その先には「築地橋」。「中央区役所入口」交差点を渡る。左手に案内板があった。中央区築地1丁目1。近づいて。「土佐藩築地邸跡所在地 中央区築地一丁目一~六番・六~九番地域この地は、江戸時代前期に埋立てられ、武家地や町人地となりました。文政九年(1826)、この一帯の土地がまとめられ、土佐藩山内家が拝領しました。山内家は中屋敷ないし下屋敷にしていたようで、幕末までこの地にありました。土佐藩は初代山内一豊から十六代豊範まで続きました。幕末の変革期に有名な山内豊信(容堂)は十五代で、ここに屋敷を構えていたときに藩主でした。豊信は、安政五年(1858)の条約勅許や将軍の継嗣問題において、一橋慶喜(後の十五代将軍)を擁立する一橋派に協力しましたが、家茂(後の十四代将軍)を推す大老井伊直弼に敗北し、豊信は藩主を退きました。この後、井伊直弼が暗殺されるなど、政情は混乱していきます。そのような中で、豊信率いる土佐藩は、幕府に大政奉還を働きかけてこれを実現し、後の版籍奉還、廃藩置県に至るまで、薩摩藩、長州藩と並んで明治維新の先頭に立っていました。なお、幕末に土佐勤王党を結成して幕府打倒を掲げた武市半平太は、ここから程近い士学館道場(現銀座一丁目、京橋公園辺り)に通っていました。また、薩長同盟を成立させ、大政奉還を提言した坂本龍馬は、安政三年(1856)から同五年ころ、剣術修行のため江戸に来ていました。龍馬はこの地の土佐藩築地邸に寄宿しながら、桶町(現八重洲二丁目・京橋二丁目の一部)にあったとされる千葉定吉道場に通っていたようです。平成二十年三月 中央区教育委員会」次に「築地橋」を渡り「新富座跡」に向かう。「新富座跡所在地 中央区新富二丁目六番一号新富座は万治三年(一六六〇)木挽町五丁目(現在の銀座六丁目、昭和通り西側)に創建された「森田座」を引き継ぐ歌舞伎の劇場でした。森田座は代々森田勘弥(かんや)が座元で、天保十四年(一八四三)浅草猿若町(現在の台東区浅草)に移り、安政五年(一八五八)に「守田座」と改めました。明治五年(一八七二)には、守田座十二代勘弥が新富町に移転進出し、同八年(一八七五)に「新富座」と改称しました。新富座は市川団十郎・尾上菊五郎・市川左団次などの名優を集めて積極的な興行を行いました。劇場は近代的な様式を取り入れた大規模な建物で「東京第一の劇場」と称され、周辺には歌舞伎関係者が多く居住し、一帯は芝居町となっていました。明治二十二年(一八八九)に歌舞伎座が開場するまで芝居興行の中心的存在でしたが、大正十二年(一九二三)の関東大震災で焼失しました。明治期の錦絵には海鼠壁(なまこかべ)の上に絵看板を並べた大劇場の様子が見え、往時の繁栄ぶりがうかがえます。平成十六年三月 中央区教育委員会」惣役者集会「東京第一等之劇場新富座繁栄之図」。「救世軍渡来記念の地」碑。救世軍(The Salvation Army)は キリスト教プロテスタントの独立した一派で、 明治11年(1878) にイギリスで創設された。 独特の軍隊的組織のもとに 伝道と社会事業を行なうことで知られる。 歳末になると軍服を着た男女がラッパを吹いて“社会鍋”に寄付金を集めている姿を思い出す。明治28年(1895) にライト大佐が来日して 日本救世軍を創設。山室軍平氏を中心に活動を広め、大正8年(1919) 神田に日本救世軍本営が完成した。戦時中の国家統制のため昭和17年(1940) 解散に追い込まれ、戦後 昭和21年(1946) に再興された。救世軍では、一般に“教会”と呼ばれる活動の拠点を“小隊”と呼び、地域ごとのグループを“連隊”と呼ぶ。たとえば、この碑の近くにある教会は、「東京連隊京橋小隊」という具合である。中央区新富2丁目4。碑の中央がミニ花壇になった ユニークな形式である。「救世軍渡来記念の地一八九五年(明治二八年)九月英国より来日したライト大佐一行はこの地に日本最初の本営を設け救世軍活動を開始した。一九九五年九月日本における救世軍創設百年を記念して設置する。救世軍本営」「先ず人を造れ山室軍平」。そして次に訪ねたのが「新富稲荷神社」。中央区新富2丁目9−5。新富稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、明治末期か大正のはじめごろに守田勘弥氏が祀り始めたと、伝えられているとのこと。明治維新後この一帯が新島原遊郭になり、中万字楼という妓楼の前にあったので、中万字稲荷とも呼ばれたという。遊郭廃止後、明治5年(1872)、新富町に守田座(のちの新富座)を移転するときに十ニ代目守田勘弥が再建したそうだ。明治期当時の新富座界隈絵図に描かれているので芝居町の鎮守社だったのだろうか。境内には「奉納坂東三津五郎」の扁額と「七代坂東三津五郎」名が刻まれた手水舎があった。「新富稲荷神社」。鳥居の扁額は「新富稲荷神社」。「奉納 坂東三津五郎」の扁額と「七代坂東三津五郎」名が刻まれた手水舎があった。手水鉢には「奉納 七丗坂東三津五郎」と。「奉納 坂東三津五郎」の扁額「社殿」。「内陣」。「靴業発祥の地明治三年(1870)三月五日西村勝三が伊勢勝・造靴場を創建したのは旧築地入船町五丁目一番のこの地であった。勝三は佐倉藩の開明進取の風土に育ち、時の兵部大輔大村益次郎の勧めと 藩主堀田正倫 並びに渋澤栄一の支援を得て靴工業を創成し、これを大成した。斯くてこの地は日本に於ける製靴産業 の原点であるので、ここに建碑事績を記す。昭和六十年(1985)三月十五日日本靴連盟題字 堀田正久 書中央区入船3丁目。再び「築地川公園」を縦断し、「聖路加通り」まで戻る。この角に「五代友厚終焉の地」とGoogleマップにあったが、石碑や案内板は見つからなかった。「居留地中央通り」沿いにあったのが「立教女学院 築地居留地 校舎跡記念」碑。立教女学院は1877年キリスト教に基づく女子教育を目的に、米国聖公会により派遣されたC.M.ウイリアムズ主教によって、湯島に創立された。1882年立教女学院は築地居留地に移転して、新校舎を建設し、1923年の関東大震災までこの地にあってその教育事業を継続した。立教女学院のキャンパスは現在久我山にある。 St.Margaret's School was founded in 1877,with the aim of providing higher education forwomen based on Chiristianity.The school was started by Bishop Channing Moore Williams,who was sent as a missionary from the Episcopal Church in the United States,and wasoriginally located in Yushima.In 1882,the school mobed to the Tsukiji Foreign Settlement and constructed new school buildings St.Margaret's continued its mission of service through education at this locationuntil the Great Kanto Earthquake of 1923.The St.Margaret's campus is presently located in Kugayama,Tokyo.2007年11月1日 学院創立130周年 学校法人立教女学院」校章であろうか。「ST.MARGARET’S RIKKYO ZYOGAKUIN」と。初代の立教女学院校舎 1884年に完成。明治17年(1882)より大正12年(1923)の関東大震災までこの地にあった。「立教女学院. St.Margaret's college and schools築地居留地校舎跡(1882-1923 )記念碑立教女学院は1877年キリスト教に基づく女子教育を目的に米国聖公会より派遣されたC. M.ウィリアムズ主教によって湯島に創立された。1882年立教女学院は築地居留地に移伝して新校舎を建設し、1923年の関東大震までこの地にあってその教育事業を継続した立教女学院のキャンパスは現在久我山にある。」「聖路加国際病院」を見上げる。「居留地中央通り」の「聖路加国際大学」と「聖路加国際病院」の連絡橋下を進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.12
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この日は8月8日(水)、五反田にある銀行に向かったが、先日の「汐留・築地・明石地区を巡る」で訪ね忘れた場所がある事に気が付き、そして更に「新富」、「湊」地区も訪ねたいと思い、朝から自宅を出発した。この日も「東銀座駅」で下車し、歌舞伎座の前に。正面に「八月納涼歌舞伎」の演目案内。第一部 次郎長外伝 裸道中 大江山酒呑童子第二部 新門辰五郎 団子売歌舞伎座を見上げて。中央区銀座4丁目12−15。「八月納涼歌舞伎」の第三部 三代猿之助四十八撰の内 新・水滸伝 二幕 も上演されると。一幕目こちらにも「八月納涼歌舞伎」の演目案内。左右の案内板一対で「八月納涼歌舞伎」の演目案内が行われているのであった。第一部~第三部のそれぞれのポスターが。道路を渡って、歌舞伎座を見る。そして歌舞伎座を振り返りながら、銀座五丁目の路地を進む。「みゆき通り」を「昭和通り」に向かって進む。歩道右手にあったのが「佐久間象山塾跡」説明板。「佐久間象山塾跡所在地 中央区銀座六丁目十五番地域この地域には、江戸時代後期の思想家で、信濃国(現在の長野県)松代藩士佐久間象山(1811~1864)の私塾がありました。象山は初め儒学を修め、天保(1839)神田お玉ヶ池付近に塾を開き、さらに松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務めました。後に海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永4年(1851)、兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町五丁目(現在地付近)に塾を開きました。 嘉永六年改正の絵図によると、「狩野勝川」(幕府奥絵師木挽町狩野家の画塾)と向かい合う場所に「佐久間修理」(象山)の名が見られます。この塾は二十坪程の規模で、常時三十~四十人が学んでいたといいます。その門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本佐内・河井継之助など、多くの有能な人材が集まり、土佐藩士坂本龍馬の名も門人帳に確認することができます。龍馬は、嘉永六年に江戸へ最初の剣術修行に出て、その最中である十二月一日に象山に入門しました。木挽町の塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が急増しましたが、嘉永七年に門人の吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許に蟄居を命ぜられてて塾も閉鎖されました。平成二十二年三月 中央区教育委員会」「佐久間象山」をネットから。「京橋南芝口橋築地鉄炮州辺絵図」。「銀中通り」を進み「万年橋西」交差点から「万年橋」を見る。昔は「築地川」が流れていたが、現在は昔の川底を「首都高速都心環状線」が通っているのだ。そして次に訪ねたのが、これも前回訪ね忘れた「東劇波除稲荷神社(とうげきなみよけいなりじんじゃ)」。「東劇ビル」の南側にあった小さな神社。中央区築地4丁目1−1 東劇ビル。「奉納 東劇波除稲荷神社 松竹株式会社」と書かれた幟。扁額「東劇波除稲荷神社」。東劇の駐車場に鎮座している「東劇波除稲荷神社」。昭和50年(1975)に高層ビルに建替えられた時、この場所に祀られたとのこと。「社殿」に近づいて。築地の「波除稲荷」👈リンク から分祀されたものとのことこの東劇、今はシネマ歌舞伎などを上演している映画館ですが、昭和5年(1930)に開場し、戦後間もない時期までは歌舞伎などの演劇を上演していた劇場。劇場には「楽屋稲荷」がありますのでその頃は劇場内にあったのでしょう。歌舞伎座が東京大空襲で焼亡していたので、1947年11月、戦後初の「忠臣蔵」を上演したのはこの東京劇場であるとのこと。そして「東劇」の1Fにあったロビーを訪ねた。棒しばり👈リンク・太郎冠者の衣装を展示していた。狂言の登場人物の中で最も代表的なキャラクターが太郎冠者(たろうかじゃ)。「冠者」とは使用人の事、太郎とは、一番目、すなわち筆頭の召使いという意味。 気が良くてお調子者、主人思いの人物として描かれることが多く、愛すべき人柄。 主人に付き従い、様々な曲に登場するとのこと。「小津安二郎生誕120年」ポスターと小津が使用していた「ミッチェル撮影機」。「日本を代表する映画監督・小津安二郎(1903~1963)は、日本の文化や社会状況を背景に、家族の日常、人生の悲哀などを、練り上げた脚本と〈ローポジション〉をはじめとする独自の撮影技法によって、細部にまでこだわり表現してきました。「小津調」と呼ばれるその作品世界は、国境を越え世代を超えて多くの人に愛され、評価され続けています。戦後は鎌倉に住み、『晩春』『麦秋』『東京物語』などの脚本を湘南の旅館・茅ヶ崎館で執筆、また、戦前から県内各地を撮影地とするなど、神奈川は小津映画にとって大変ゆかりの深い場所でした。」「棒しばり 大名 曽根松兵衛衣装 白紫紺しじら織段熨斗目白毛抜口着付」。曽根松兵衛(そねまつべえ):太郎冠者と次郎冠者の酒ぐせにいつも困らされている。『棒しばり曽根松兵衛・白紫紺(しろしこん)しじら織段熨斗目白毛抜ロ着付(おりだんのしめしろけぬきぐちきつけ)。・藍色龍紋向鶴菱長裃(あいいろりゅうもんむかいつるびしながかみしも)大名という役柄から、独特の凹凸のシボが特徴であるしじら織で、横段の縞の総柄になっている段熨斗目の着付の上に、武士の正装である裃の中でも、身分や役の高さを象徴する長裃をあわせた装い。』「棒しばり 太郎冠者衣装 翁格子白毛抜口着付(おきなごうししろけぬきぐちきつけ)」。『棒しばり太郎冠者(たろうかじゃ)・翁格子白毛抜ロ着付(おきなごうししろけぬきぐちきつけ)・皮色龍紋狂言模様玉子通裏袴(かわいろりゆうもんきょうげんもようたまごとおしうらばかま)・茶龍紋注連縄(ちゃりゅうもんしめなわ)に御幣青海波玉子裏肩衣(ごへいせいがいはたまご うらかたぎぬ)・白羽二重雲版石帯(しろはぶたえうんばんせきたい)次郎冠者同様、狂言を踏襲した衣裳となっている。両手を棒に縛られた次郎冠者と、後ろ手に縛られた太郎冠者が、試行錯誤して酒蔵の酒を飲み、興じて酒宴になると、明るく愉快に舞い踊る。』「棒しばり 次郎冠者衣装 翁格子白毛抜口着付(おきなごうししろけぬきぐちきつけ)」『棒しばり次郎冠者(じろうかじゃ)・翁格子白毛抜ロ着付(おきなごうししろけぬきぐちきつけ)・茶龍紋狂言模様玉子通裏袴(ちゃりゅうもんきょうげんもようたまごとおしうらはかま)・黒龍紋立浪玉子裏肩衣(くろりゅうもんたつなみたまごうらかたぎぬ)・白羽二重雲版石帯(しろはぶたえうんばんせきたい)狂言の「棒縛』を題材とし、歌舞伎舞踊に仕立てた"松羽目物"のひとつ。衣裳も、狂言の紋尽くしの袴に、大胆に衣全体に描いた立浪模様の肩衣と、狂言に則った扮装となっている。』「かぶきにゃんたろう」「かぶきにゃんたろう」は歌舞伎の魅力をよりたくさんのお客様へ伝えていくためのキャラクターとして2017年4月に初お目見え。歌舞伎座にいるかわいい猫のかぶきにゃんたろうは、とても珍しく幸運を呼ぶとも言われる三毛のオス。歌舞伎衣裳のたすきのような首輪を付けて、背中の模様はハートマーク。楽屋にひょっこり現れたり、稽古場をのぞいたり、歌舞伎の動きをこっそり練習することも?にゃんたろうが歩くと首の鈴がコロコロ鳴ります。歌舞伎座のどこかで涼やかな鈴の音が聞こえたら、にゃんたろうがそこにいるかもしれません。多くの風鈴が。この度、夏を彩るイベントとして、一般社団法人東銀座工リアマネジメント主催による「東銀座ェリア風鈴イベント2023」く7月15日(土) ~ 8月31日(木)〉を開催する運びとなりました。日本では古来、疫病を避け魔除けを行うために鐘型の青銅の鈴である風鐸(ふうたく)を飾る風習がありました。その風習に因み、岩手県で親しまれる「南部鉄器風鈴」を用いて、銀座~築地エリアを中心とした周辺地域ご協力のもと、約500個の風鈴を店舗等の軒下に吊り下げます。また銀座松竹スクエア内では、江戸時代から伝わる伝統を受け継いだ「江戸風鈴」も展示いたします。そして短刪部分のデザインには、中央区の三十七町の街並みと各地域に因んだ絵が描かれた「千社札」の図柄をあしらい、中央区の歴史を感じられる趣向を凝らしています。」と。「京橋郵便局」前の交差点を渡る。その先に流 正之氏作「波除獅子」があるはずであったが・・・。中央区築地1丁目13−10。これを見に来たのであったが・・・。ネットから。波除獅子とは、この一帯の産土神で祀られている築地・波除稲荷神社に由来する獅子であると。流 正之氏は世界的な彫刻家、作庭家。2018年に亡くなったと。長崎に生まれ、海軍予備兵の零戦 搭乗員として終戦を迎えます。独学で彫刻を学び、1967年には、TIMEが選ぶ日本を代表する文化人の一人に選ばれたそうです。そして「築地本願寺前」交差点を渡る。交差点の先に「築地本願寺」の本堂の屋根が見えた。「築地本願寺」👈リンク の脇の路を進むと、北門が右手に、そしてその先にも本堂が見えた。そして「築地川公園」を縦断し「聖路加国際大学」の入口近くにある交差点に到着。「聖路加通り」の先にも、築地川を埋め立てて出来た細長い「築地川公園」があり入口にはカラフルなモニュメントが。近づいて。「聖路加国際病院 旧館、トライスターハウス、聖路加国際大学」案内板。校内を進んで行くと、左手に見えたのが「聖路加国際病院(せいるかこくさいびょういん)旧館」。聖路加国際病院は、米国聖公会の宣教医師トイスラーが明治34年に設立した築地病院で、同35年に聖路加病院、大正6年には聖路加国際病院と改称。旧館には昭和8年に竣工した病棟の中央部が保存されているほか、前庭には同年に竣工の旧宣教師館がトイスラー記念館として移築されている。なお、旧館の敷地は、浅野家内匠頭邸跡として東京都指定旧跡ともなっている。旧館の中央部には、昭和8年に竣工したSRC造の病棟の中央部のみが保存されている。(当初の)設計はアントニン・レーモンド(Antonin Raymond)。チェコ出身の建築家。フランク・ロイド・ライトのもとで学び、帝国ホテル建設の際に来日。その後日本に留まり、モダニズム建築の作品を多く残す。日本人建築家に大きな影響を与えた。第二次大戦時アメリカの対日戦争協力者でもあった と。東京都選定歴史的建造物。十字架が立つ尖塔をズームして。こちらが「聖路加国際大学(せいるかこくさいだいがく)」。聖路加国際大学は、1920年にトイスラーが設立した聖路加国際病院附属高等看護婦学校が母体となっている。立教大学によれば、聖路加病院が開設された築地居留地37番は、ウィリアムズが私財を投じて購入した土地で、病院開設前は、立教の校舎(当時は、立教大学校)が建っていた場所であった。居留地37番を後にした立教学院は、居留地57~60番へと移転したが、その場所が現在の聖路加国際大学の敷地で有ると。立教学院と聖路加国際大学は、米国聖公会を母体とする教育機関で非常に近い関係にあるのだ。そして一番奥にあったのが「聖路加国際病院トイスラー記念館」。「聖路加国際病院トイスラー記念館所在地 中央区明石町一〇番昭和八年、トイスラー記念館は隅田川畔の明石町19番地に聖路加国際病院の宣教師館として建設されました。設計者は米国人建築家のJ・V・W・バーガミニィで、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)が行いました。建物の躯体は、昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリート造一部木造の二階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物でした。平成元年に解体工事が行われ、平成10年(1998年)2月に現在地へと移築復元されました。復元にあたり、創設当時の施工技術や構造上の特徴を精密に記録し、再利用可能な部材をできる限り用いています。外観は、外部に柱や梁を表現したハーフティンバー風の意匠です。室内はチューダー・ゴシック風のデザインで、玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装がみられます。この建物は、聖路加国際病院の歴史を物語るとともに、築地居留地時代から引き継がれてきた明石町の歴史の一端を伝える貴重な文化財です。平成十八年三月 中央区教育委員会」「創設者 R.B.トイスラー医師」碑 「創設者 R.B.トイスラー医師」。「DR. RUDOLF BOLLING TEUSLER' FOUNDER本院は創立以来、キリスト教精神の下に病む人を中心とした医療と看護を実践してきました。その精神は百年を経た今日も受け継がれ、永遠に生き続けます。This hospital is a living organism designed to demonstratein convincing terms the transmuting power Of Christian lovewhen applied in relief of human suffering.キリストの愛の心が人の悩みを救うために働けば 苦しみは消えて、その人は生まれ変わったようになる。この偉大な愛の力を、だれでもがすぐわかるように あらわせるよう、計画されてできた生きた有機体がこの病院てある。 聖路加国際病院 2002.10.18」「アメリカ公使館跡石標」。「アメリカ公使館跡石標アメリカ公使館は安政6年(1859)ハリスにより港区元麻布1-6、善福寺に開設されたが、明治8年(1875)12月築地の外国人居留地内のこの地に新築され、はじめて形容を整えた。のち明治23年(1890)3月赤坂の現在地に移転され、現在の大使館になっている。最後の移転により、この地には8個の小松石の石標が残された。石標には、白頭鷲、星条旗、星の3種類の彫刻が施されており、白頭鷲はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13の星は同国初期の13州を示す。8個の石標のうち3個は昭和59年(1984)10月に日米友好のシンボルとして、赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、現在同大使用館の前庭に配置されている。残る5個の石標は、築地の居留地時代を伝えられるものとして中央区民文化財団に登録されており、うち3個をここに、2個を旧病院前に設置する。1998年5月 聖路加国際病院」右から「星条旗」。「星条旗」に彫られた13の星は同国初期の13州を示す。中央「白頭鷲」。もちろん、「白頭鷲」はアメリカの国鳥。左に「星」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.11
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「居留地通り」の先にあったのが「芥川龍之介生誕の地」。「芥川龍之介生誕の地」案内板。「芥川龍之介生誕の地所在地 中央区明石町一〇番付近明治十六年(一八八三年)ごろ、この付近(当時の京橋区入船町八丁目一番地)に「耕牧舎」という乳牛の牧場がありました。作家芥川龍之介(一八九二~一九二七)は、明治二十五年(一八九二年)三月一日、その経営者新原敬三の長男として、ここに生まれました。龍之介は誕生後七ヶ月にして、家庭の事情から母の長兄芥川道章に引き取られて、本所区小泉町(現、墨田区両国三丁目)に移り、明治三十七年(一九〇四)、芥川家の養子になりました。東京帝国大学在学中から文筆に親しみ、第四次『新思潮』に発表した『鼻』が夏目漱石に評価され、文壇に出ました。「羅生門」「地獄変」「河童」「歯車」など多くの名作を遺しました。平成三十一年三月 中央区教育委員会」芥川龍之介の実父、新原(しんばら)敏三(としぞう)は外国人后留地のあったこの地で、耕牧社という牧場を持ち、外国人相手の牛乳販売業を営んでいた。龍之介は、1882年3月1日にこの地で生まれたが、生後7ヶ月後ごろ、生母が心を病んでしまったので、母の実家である「両国・回向院前の芥川家」👈リンク にひきとられた。JR両国駅から歩いて7分くらいのところとネットから。「芥川龍之介(1882~1927)」。そして「築地川公園」に突き当り左折して進むと左手に石碑が姿を現した。「都旧跡 浅野家内匠頭邸跡」碑。近づいて。「東京都指定旧跡浅野内匠頭邸跡(あさのたくみのかみていあと)所在地 中央区明石町一番(一部)・十番・一一番地区常陸国笠間(現在の茨城県笠間市)藩主であった浅野長直(ながなお)(官職名・内匠頭)は、正保二年(一六四五年)に領地替えによって播磨国赤穂藩(赤穂郡とその隣接地を含めた五万三五〇〇石の所領)へ入封しました。そして長直の子・長友(官職名・采女正)の代に所領の一部を親族へ分知与して五万石となります。延宝三年(一六七九)には、父・長友から家督を継いだ長矩が赤穂藩第三代藩主となり、後に祖父と同じ内匠頭を与えられました。江戸時代に鉄砲洲と称されていた当該地には、江戸中期頃まで赤穂藩浅野家の上屋敷が置かれていました。当時の赤穂藩邸は西と南の二面が川(堀割)に面した広大な敷地(およそ八九〇〇坪)であったことが古地図からも確認できます。しかし、元禄十四年(一七〇一年)三月十四日、勅使御馳走役(饗応役とも)を努めていた浅野内匠頭長矩が、江戸城の松之大廊下において儀式・礼儀を司る高家職の吉良上野介義央に対して刃傷におよんだため、即日切腹を命ぜられました。この事件によって江戸上屋敷や所領は没収され、赤穂藩主浅野家は断絶となりました。なお、浅野家旧臣たちは、主君の仇を討つため元禄十五年十二月に本所・「吉良邸」👈リンクへ討ち入った事件は、後の世にも語り継がれる歴史的事件の一つとして知られています。本懐を遂げた浪士たちは、浅野家の菩提寺である泉岳寺へ向かう途中で旧上屋敷付近を通ったとも伝えられており、当該地は赤穂事件に関係する縁の地の一つとして東京都の旧跡に指定されています。平成三十一年三月 中央区教育委員会」築地川に面した「旧浅野内匠頭屋敷跡」。「元禄年中(1688~1704)之形」。「赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷(鉄炮洲上屋敷)の絵図屋敷は、現在の東京都中央区明石町に位置し、面積は8,974坪8合(29,600平方メートル余り)とされ、赤穂城とほぼ同じ建物配置が見られます。絵図は、元禄時代のものと推定され、元禄14(1701)年に取りつぶしとなる直前に描かれたとみられ、下地の和紙に、部屋の形に切り抜いた和紙を建物の配置に合わせて張り合わせています。邸内には、多くの部屋が描かれ、執務室のある「大書院」、奥方が暮らす「座敷」等の書き込みも見られ、長屋には、四十六士の一人、間瀬孫九郎ら家臣の名前も記述されています。堀部安兵衛の書状で、「浅野内匠頭切腹の夜、藩邸に堀から町人が押し入り、家財を奪おうとした」などの記述があり、これまで船着場から侵入したと考えられていましたが、実際には水門しかなかったことが絵図から伺えます。そして「聖路加国際病院トイスラー記念館」入口近くの交差点の角のあったのが「歴史と文化の散歩道」案内プレート。「この散歩道は、長い歴史が育んだ伝統と新しい東京の文化を訪ねる道です。私たちの、ふるさと東京を知る道しるべとしてください。」「銀座佃島コース」案内表示。解りにくいのでネットから。「築地江戸前散歩築地江戸前散歩は、歌舞伎座から佃島までの約2.5Kmのみちのりです。 江戸前とは江戸っ子がつくりあげた味の世界。現代の魚河岸築地市場からエキゾチックな香りを残す築地居留地跡そして古風な町並みの別世界佃島をめぐります。」「江戸の海と築地このあたり一帯と海との関わりは、江戸から近代への歴史の流れと共に遷り変わって来た。佃島は江戸時代はじめ、徳川家康の命を受けここに移った摂津国(大阪)佃村の漁師が開いた。漁は当時江戸前と呼ばれた東京湾で行われ、隅田川河口でとれる白魚は将軍の御前に供された。築地も海とは緑深い。その起源は文字通り、江戸初期の埋め立て地。維新後、今の中央卸売市場に海軍操練所が設けられた。この頃明石町には武家屋敷にかわって外国人居留地やアメリカ公使館が置かれ、文明開化の窓口役を果していた。」交差点の対角線上反対側「築地川公園」入口にあったのが「暁橋跡」。明石町11−15。「暁橋の記憶かってこの場所には築地川南支川が流れ、震災復興橋梁のひとつであるラーメン橋台橋構造の暁橋が架かっていました。道路建設の都市計画決定に伴って、昭和46年(1971年)に築地川は埋立てられ、その後昭和60年(1985年)に暁橋は撤去されました。旧暁橋の橋銘板は、平成元年(1989年)に埋立てられ、平成元年(1989年)に開園した区立築地川公園の入口に設置されて以来、平成の時代を見守ってきました。」「明石町付近の航空写真 昭和7年(1932)頃撮影」。「築地川南支川」。橋名板「暁橋」。そして再び「ツインタワー」を見る。交差点の先にあった「聖路加国際大学」を振り返る。中央区明石町10−1。そしてこの日の散策予定を終了し、「築地本願寺」の横を通り、東京メトロ「築地駅」から「JR大崎駅」と向かったのであった。
2023.09.10
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そして再び「あかつき公園(保険所側)」の東側の入口から公園内に入る。「中央区立あかつき公園(保健所側)」案内板。中央区立あかつき公園は、明石堀(築地川の隅田川河口に設けられた扇型の船入堀)が埋め立てられてできた土地につくられた公園で、1971年12月に開園した。あかつき公園の名前は、築地川に架かっていた暁橋に由来します。公園の保健所側(東側)は、明るく開放的なメタセコイアの林と噴水広場が特徴で、ローラー滑り台などの遊具や、ドイツ人の医師・博物学者シーボルトの胸像などが設置されていた。「平和都市宣言碑」。中央区明石町12−1。廻り込んで。「中央区平和都市宣言いまいちどたちどまり 平和の尊さをみつめようささやかな幸せも こよなき繁栄も平和の光が消えたなら すべてが失われる私たちの手にあるこの輝きを明日の世代に伝えよう1988年3月15日、この日 私たちは 永遠の平和を願い 中央区が平和都市であることを宣言する。」「太陽のまち中央区宣言~福祉と健康とスポーツのまちをめざして~思いやり 助け合い 心がふれあう 幸せなまち互いに心と体をきたえ 健やかに いきいき くらすまち光輝く あの太陽のように 明るく あたたかく たくましくあすへの希望に満ち満ちたそんなわがまち 中央区 1990年4月1日」「花の都中央区宣言緑をはぐくみ 花をいつくしみ 生きとし生ける生命を尊ぶ美しいまち 清潔なまち 思いやりと 人情あふれるまち 中央区そんなほっとするまちにしたい だからいま 花の都中央区宣言 それは ひとつぶの種 小さなひとつぶが やがてまちいっぱいに大輪の花を咲かせる そんな願いをこめて平成元年(1989年)4月1日」そしてその先に「シーボルトの胸像」。中央区明石町13−14。近づいて。「シーボルト(1796~1866)フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、オランダの商館医員として文政6年(1823)7月に長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。同9年正月、商館長と共に江戸へ向かい、3月4日、日本橋の長崎屋に止宿し、4月12日出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。しかし、同11年シーボルト事件が発生し、12月に日本から追放された。後に安政6年(1859)幕府顧問として再来日したが、まもなく帰国しミュンヘンで没した。彼の江戸における指導は、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。この地が江戸蘭学発祥の地であり、且つ彼が長崎でもうけた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことから、ここに彼の胸像を建て、日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。」そして前方にあったのが「噴水広場」。奥にあったのがモニュメント「星の時間」。中央区築地7丁目19。5本のポールの先に風を受ける羽がついており、これがゆらゆらと動くという仕掛けで、なかなか興味深く眺めたのであった。関西空港の国際線ターミナルの天井にも、同じような発想の風を受けて動く飛行機が設置されていた記憶があるが、それと似た原理のようであった。「星の時間 astoral time 1991 新宮晋(しんぐうすすむ)」と。「霧の噴水」は、噴水広場に設置されていた。この広場は2006年7月にリニューアルされたところで、噴水のまわりが広げられ、大きな広場となっのだと。放水は、キャンドル型のものが中央にあり、これが高くなったり低くなったりを繰り返していた。さらにその周囲には霧の噴水が6つ設置され、地表からミストを噴出していた。この霧噴水は、リニューアル時に新たに設置されたもののようだ。中央区築地7丁目19。噴水が高いときにミストも出るようであった。ミストをズームして。「霧の噴水」を後にして、「あかつき公園(保険所側)」の東側の入口まで戻り、公園を出るとその先にあったのが「アメリカ公使館跡」案内板。中央区明石町8。「アメリカ公使館跡所在地 中央区明石町八開港によって日本に駐在した初代アメリカ公使ハリス は、安政六年(1859)に現在の港区元麻布一-六の善福寺 に公使館 を開設しました。ついで明治七年(1874)、築地居留地 内のこの地に公館を新築し、初めて形容を整えました。後にこれが手狭となり、同二十三年(1890)、赤坂の現在地(アメリカ大使館)に移転しました。公使館跡には、小松石の記念碑が残されていました。大きさは、縦86~101センチメートル、横84~118センチメートル、厚さ18~34センチメートル、うち、二個は冬至のアメリカの国章である盾、一個には星と鷲と盾、二個には五陵の星が刻まれています。現在三個は聖路加国際病院トイスラー記念館 の前に、二個は聖路加ガーデン 内に移されています。この記念碑は、築地の居留地時代を伝える貴重な遺品として、中央区民有形文化財に登録されています。平成27年3月中央区教育委員会」「アメリカ公使館」は下記のごとくに。「聖路加タワー」と「聖路加レジデンス」を見上げる。隅田川に面して建つ超高層ツインアタワー。「聖路加タワー」は、1~2階に商業サービス施設、3~46階にオフィス、47階に展望スカイレストランが配置されている。「聖路加レジデンス」は、1~31階がシニア向けサービス付賃貸マンション(175戸)、32~38階が銀座クレストン(旧東京新阪急ホテル)で構成されています。オフィス棟の28階に、銀座クレストン32階への連絡ブリッジがある。中央区明石町8−1。「銀座クレストンホテル」。中央区明石町8(聖路加ガーデン)。高さ220.63m、地上51階、地下4階の「聖路加タワー」を見上げて。ツインタワーの前をさらに北に進むとあったのが「ヘンリー・フォールズ住居の跡」・「指紋研究発祥の地」碑。ここは明治初年にあった築地居留地の18号地で英国人医師ヘンリー・フォールズ(1843~1930)が明治7年(1874年)から明治19年(1886年)に至る滞日中に居住したところである。フォールズはスコットランド一致長老教会の宣教師として来日しキリスト教布教のかたわら築地病院を開いて診療に従事し、また日本人の有志とはかって盲人の保護教育にも尽力した。彼はわが国で行われていた指印の習慣に興味をもちたまたま発掘された土器に印象されていた古代人の指紋を発見し、これにヒントを得てここではじめて科学的な指紋の研究を行なった。明治13年(1880年)10月英国の雑誌『ネイチャー』に日本から投稿した彼の論文は科学的指紋法に関する世界最初の論文といわれ、その中で早くも犯罪者の個人識別の経験を発表し、また指紋の遺伝関係にも言及している。明治44年(1911年)4月1日、わが国の警察においてはじめて指紋法が採用されてから満50年の今日、ここゆかりの地に記念碑を建立し、その功績をたたえるものである。」中央区明石町7−15。交差点の先にあったのが「明治学院発祥の地」碑。明治学院は1877年(明治10年)ここ旧築地17番地に開校された東京一致神学校を基とする。これを記念しこの碑を建てる」中央区明石町7−20。明治学院の起源は1863年にジェームス・カーティス・ヘボンが横浜に開いた「ヘボン塾」である(のちに男子部は明治学院、女子部はフェリス女学院となる)。1877年にアメリカ長老教会、アメリカ・オランダ改革派教会、スコットランド一致長老教会の3会派が協力して「東京一致神学校」を設立。その後、1880年に築地へと移転し、「築地大学校」と改称されてカレッジ・コースが設置された。1883年には横浜の先志学校を併合して「一致英和学校」と改称され、大学と予備科を整える学校となった。後に予備科は神田淡路町へ移転し、「英和予備校」となった。その先に「女子聖学院発祥の地」碑。台座の右面には「この地は女子聖学院発祥の地、も築地居留地14番であった。そこに建つ14番館が、宣教師ジョン・マッケレフ先生の居宅だった。1905年、米国のクルスチャン・チャーチ(ティサイプルス・オブ・クライスト)の宣教師バーサ・F・クローノン女史が借り受け婦人伝道師の養成を始めた。開校式は同1905年11月1日教師3人に生徒10人であった、という。今日では幼稚園から大学院までを擁する総合学園になっている。 学校法人 聖学院」と。中央区明石町6−23。さらにその先にも石碑があった。「青山学院記念の地」碑。中央区明石町6−24。「青山学院記念の地 海岸女学校 一八七七年 開校」と。「青山学院は、米国メソジスト監督教会の宣教師により創立された三つの学校を源流としています。「海岸女学校」は、ドーラ・E・スクーンメーカーによって創立された源流の一つ「女子小学校」(1874年麻布に開校)が「救世学校」を経てこの地で大きく発展したもので、明治の女子教育に多大な足跡を残すとともに、青山学院の礎となりました。」写真は「当時の海岸女学校」。「学校発祥の地 記念碑一覧マップ」。下記の全ての石碑を巡ったのであった。その後「佃大橋」交差点を左折し進み、セブン-イレブン 中央区明石町店の角を左折すると右手にあったのが「ガス街灯柱」。中央区明石町2−1。「ガス街灯柱これは、ガス灯を点灯するための街灯柱です。高さは、三・四メートルで柱は鋳鉄製コリント風の様式をとり柱頭・柱身・基部の部分からなっています。柱頭のランプ部分は新たに復元しました。この街灯柱は、以前この場所に在った「中央区立第ニ中学校」に設置されていました。また、基部の台座も「学校」の階段の石(白御影石)が使われています。平成十六年三月」中央区明石町2−1。「ガス街灯柱」を見上げて。その先にあったのが「雙葉学園発祥の地」碑。中央区明石町1−6。「徳に於ては純真に義務に於て堅実に明治四十ニ年 雙葉学園発祥の地」と。その先に「関東学院の源流 東京中学院発祥の地」碑。一八九五年九月十日、ここ築地居留地四二、四三番地で米国ハプテスト伝道教会が東京中学院を設立した。関東学院教育の源流はここに発する。中央区明石町1−6。後の「関東学院」の源流の一つとなった東京中学院。明治28年(1895) ここ築地居留地に開校した。明治32年(1899)「東京学院」と校名を変更し、新宿区市谷左内町に移転。明治37年(1904) に高等科を設置し、さらに大正8年(1919) に日本バプテスト神学校と合併して「神学部」ができた。大正12年(1923) の関東大震災により大きな被害を受けたため、昭和2年(1927) に横浜の「中学関東学院」と合併し 「財団法人関東学院」が組織された。戦後の学制改革により「関東学院中学校・高等学校」および「関東学院大学」となって現在に至っている。当時の東京中学院。校訓「人になれ 奉仕せよ」。「二〇〇九年 創立一二五周年記念学校法人 関東学院」。この道は「居留地中央通り」、その奥にツインタワーが見えた。中央区立明石小学校・幼稚園の手前にもガス街路灯があった。道路の反対側にも石碑があった。「明治二十一年(一八八八)創立 暁星学園発祥の地」碑。中央区明石町5−26。近づいて。「あなたがたは地の塩 世の光である(マタイによる福音書)」「ガス街路灯と石のベンチ」が「中央区立明石幼稚園」の角の交差点角に。「旧校舎の石このベンチの座面に使われている花崗岩は、大正15年に建設された復興小学校である明石小学校・明石幼稚園の旧校舎の階段に使用されていた石材を再利用したものです。平成ニ十五年一月」。その横にあったのが「築地外国人居留地跡」案内板。中央区明石町5−26。「築地外国人居留地跡所在地 中央区明石町地区安政五年(一八五八)六月、江戸幕府はアメリカと修好通商条約・貿易章程に調印し、これを原型として同年にオランダ・ロシア・イギリス・フランスともそれぞれ締結しました(安政五カ国条約)。この条約に基づき、箱館(函館)・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の五港を開港し、江戸・大坂(大阪)の開市を取り決めました。日本における外国人居留地は、条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区として開港場・開市場の土地に設けられました。江戸(東京)の開市は、明治元年十一月十九日、明治新政府のもとで実現し、現在の明石町地区に築地外国人居留地が設定されました。築地外国人居留地は、商館の多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し、教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。このため、築地外国人居留地で発祥・開設されたキリスト教系の学校も多く、現在も校名や所在地を変えながら発展を続けており、当地区内には発祥を記念した石碑が数多く建てられています。文教地区として大きな特徴を持っていた築地外国人居留地は、条約の改正によって明治三十二年に廃止されるまで、日本の近代化に多大な影響を与えた一地区を形成していました。居留地時代のレンガ塀遺構右にあるレンガは、イギリス積みで積まれた築地外国人居留地時代のレンガ塀遺構の一部です。明治期に居留地の五十二番(明治十一年~三十二年:聖パウロ教会)と四十二番(明治九年~二十二年:新栄女学校、明治二十八年~三十二年:東京中学院)の地境に建てられて以降、関東大震災や空襲による戦禍を免れ、現在の明石町一番二十三号と明石町十五番(明石小学校)の地境にあたる場所に残されてきました。このレンガは、平成二十四年七月に竣工した明石小学校の整備にあわせてここに移設したもので、明治期の当地域に外国人居留地があったことを物語る貴重な遺構として保存しました。」「ガス街灯の柱このガス街灯の柱は、コリント風の様式で上部にある左右二十センチメートルの腕金や下部に施された帯状の操り形など、特徴的な装飾が見られる鋳鉄製の柱です。照明ランプ部分は、電気灯として使用されていたランプを修復した上で、後年に取り付けたものです。柱部分は、形状や材質などから判断して、明治末年頃のガス街灯のものであると推定されます。明治情緒を偲ばせるガス街灯の柱からは、文明開化の象徴として輝いていた頃の様子が想像されます。 平成二十五年三月 中央区教育委員会」「東京築地鉄砲洲景 歌川国輝画」築地居留地一帯の様子を細かく描写した6枚続の錦絵です。居留地内にはホテルを始めとして、税関にあたる事務所や住宅、外国人目当ての日本人商店、さらには遊廓もあったことがわかります。明治元年(1868)、東京は外国人に向け、開市しました。当初の予想に反して、築地居留地は、あまり発達しませんでしたが、明治5年(1872)の大火後も教会・学校・病院などが次々と建てられ、東京への欧米文化輸入の入口として、文明開化の先端を行く地域であり、市民に与えた影響は非常に大きいものがありました。本図からは、海を背景に右側に築地ホテル館、中央に外国人居留地があって、日本、アメリカ、ロシア、フランスなど15ヶ国の国旗がひるがえり、左側には新島原遊廓があります。下段には、外国人と日本商人、芸者などの、内外語チャンポンの日常会話も加えてあります。15ヶ国の国旗がひるがえる中央部分をズームして。「居留地通り」を西に進むと左手にあったのが「聖ルカ礼拝堂」。中央区明石町10−1。聖ルカ礼拝堂は明治33年(1900)に米国聖公会宣教医師トイスラー博士により建てられた聖路加病院の礼拝堂として発足。関東大震災で倒壊したが昭和11年(1936)に現在の礼拝堂が竣工。昭和20年から31年まで(1945~1956)は米国陸軍42病院のチャペルとなっていたとのこと。現在は旧病院棟、現看護大学棟に残っている。奥に見えるのが「聖路加国際病院旧館」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.09
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「築地本願寺」を後にして、北門から出て南方向に向かう。左側にあったのが、「中央区立築地川公園」。中央区築地と中央区明石町にまたがる公園。入口にあった案内板。「備前橋跡橋の名称は、橋の辺に備前岡山藩邸があったことに由来しています。震災復興橋梁の一つ。築地川南支川に架かる橋で、小田原町(現・築地七丁目)から築地ニ、三丁目の間へ渡されていました。震災前は橋長14メートル、幅4メートルの木橋だったが、震災後に橋長33メートル、幅17メートルの鈑桁橋(ばんげたきょう)に改架されました。大正14年(1925) 5月に竣工しました。備前橋の上流部分の水路は昭和40年(1965) 1月に埋立てられ、平成元年(1989) 4月に区立築地川公園として開園。また、下流部分も昭和62年に埋立てられ、区営駐車場、駐輪場となりました。」中央区築地7丁目1。「昭和11年当時の橋の位置と現在地の関係」橋名板「備前橋」。実は橋には、入口と出口があるのはご存じでしょうか?下の写真のように橋の親柱にある橋名板(きょうめいばん)の橋の名称が漢字表記だと入口になります。そしてひらがな表記が出口となるのです。ちなみにどの橋にも橋名板がついていて、漢字表記の向こう側は必ずひらがな表記となっているのです。どちらも向って左側にあるはずです。それでは、なぜ橋には入口と出口が存在するのかというと、道路には『道の始まりの地点を「起点」、終わりの地点を「終点」とする決まりがあり、起点を入口、終点を出口としたのです。昔は「すべての道路の起点は東京の日本橋」とされていて、日本橋に近い方を起点(入口)、遠い方を終点(出口)としていたそうです。現在では各都道府県や政令都市によって、県庁側が起点だとかその逆だとか、重要都市側を起点にするとか、国道や県道・市町村道によっても取り扱いが変わっているようですが。「築地川公園」の奥に歩を進める。遊歩道の脇には小川が流れていた。更に奥に進みと右手前方にも「案内板」があった。「堺橋跡」案内板。中央区築地7丁目3−1。「堺橋跡堺橋または境橋。震災復興橋梁の一つ。築地川に架かる橋で、小田原町(現・築地七丁目)から明石町へ渡されていました。震災前は橋長5.5メートル、幅4メートルの木橋あったが、震災後に橋長25メートル、幅8メートルの鈑桁橋として改築され、昭和3年(1928) 7月に竣工しました。築地川(明石堀とも呼ばれた)は、堺橋の先で分流し、南への水路が築地川南支川となり、北へ曲がる本流は合(相) 引川とも呼ばれていました。この橋を境にして築地川の川筋が分かれていました。昭和46年(1971)、首都高速道蕗の建設のため、築地川の埋立てに伴い撤去されました。」「昭和11年当時の橋の位置と現在地の関係」橋名板「堺橋」。以前訪ねた「三吉橋」👈リンク に置かれていた築地川の橋づくしの案内板。文明開化期の地図をネットから。築地川は、掘割であったため流れがほとんどなかったと。河川より運河といったほうが近かったと。現在はーー濃い青が築地川本流のあった場所。ーー薄い青が築地川南支川のあった場所。ーー水色が築地川東支川のあった場所。現在は殆どが埋め立てられ、残っているのは、浜離宮恩賜庭園の北東側河口付近のわずか750mの部分だけ。本流の大部分は川底を首都高速道路、南支川(暗渠の上部利用)は築地川公園、駐車場、駐輪場に東支川(暗渠の上部利用)は築地川駐車場・駐輪場、公共施設等になっているのだ。「中央区立築地川公園」内にはカラフルな遊具が。もう1基の「さかいはし」親柱。橋の名前をひらがなで表記する場合は「○○橋」は「○○はし」と濁点をつけずに書くそうです。これは川の水が濁らないようにという意味が込められていて、いかにも日本人らしい!!しかし、これは慣習的なものであり、多くの例外もあるとのこと。「堺橋跡」の親柱の道路の反対側、「あかつき公園」入口に向かう。入口左にあったのが「工学院大学学園発祥之地」碑。中央区築地7丁目2。「工学院大学学園発祥之地」。「工学院大学学園発祥之地明治二十一年我国工業の黎明期に当り、此地に「工手学校」👈リンクが創設された。爾来工業界の各分野に有能な技術者を送った数は実に三萬を超えその発展に多大の貢献を致した事は周知である。関東大震災の後昭和三年出身者の熱意と努力により新宿に宏壮な校舎が建設され校名も工学院と改められ、時世の進運に則して終始発展充実を続けて来た。更に昭和二十四年に至り学園に工学院大学が設立され最高の工業教育機関として工業報国の伝統精神を発揚しつゝある。近く創立七十周年を迎えんとし先輩の遺徳を偲び後進の発奮を促すため有志相図り学園発祥の地に記念碑を建てる。工学院大学校友会題字 工学博士 桂 弁三 書碑文 工学博士 野口尚一 撰学園歌一 見よ 清浄の淀橋に 校舎は高くそびえたり 実力の旗ひるがえし 我等が健児意気高し 誠実努力撓みなく 進めいそしめ国のため二 見よ先輩の螢雪は 工業日本を築きたり 築地の風に鍛えたる 師兄の意気を受継ぎて 誠実努力撓みなく 進めいそしめ国のため」「あかつき公園」に沿った道を東に進む。「THE TERRACE TSUKIJI」は賃貸オフィスであるようだ。「あかつき公園 冒険広場」。「あかつき公園」は遊具のある公園と冒険広場があり、子供たちにはとてもワクワクするスポット!?。公園にはローラーすべり台やブランコ、砂場など一通りの遊具が揃っていて、飽きずに遊べそう。冒険広場にはたくさんのタイヤや大きな土管、ターザンロープなどがあり、かくれんぼや鬼ごっこなど、体を動かしてさまざまな遊び方ができそうであったがこの時は子供の姿はなく。中央区築地7丁目19−1。そして交差点の先にあった「中央区立 あかつき公園(保健所側)」案内板。中央区築地7丁目19。平成元年作成のレリーフが並んでいた。明石小学校の児童の作品とのこと。さらに隅田川に向かって交差点を渡る。ここは昔「明石橋」があった場所。東京名勝図会 鉄砲洲明石ばし/歌川広重(3代目)(1868年)右手にあったのが「月島の渡し跡」案内板。中央区築地7丁目18−2。「月島の渡し跡所在地 中央区築地7丁目18番地域 明石町14番「月島の渡し」は、月島一号地の埋め立てが完成して間もない明治二十五年(一八九二)十一月、土木請負業の鈴木由三郎が、南飯田町(現、明石町十四)から月島(現、月島三丁目)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船をはじめたことにはじまるといいます(『月島発展史』)。明治三十四年(一九〇一)、月島への交通の重要性を考慮した東京市が市営化を決め、翌三十五年、汽船曳船二隻で交互運転を開始し、渡賃も無料となりました。月島は東京の臨海工業地帯として発展し、明治四十四年には、乗客の増加に対応するために徹夜渡船が開始されました。その後、昭和十五年(一九四〇)には勝鬨橋が架橋され、渡船の利用者は減少の一途をたどり、月島の渡しは廃止されることとなりました。平成十三年三月 中央区教育委員会」『東京市十五区番地界入地図』東京市京橋区全図 明治40年(1907)発行。当時の地図をネットから。①鉄砲洲橋②新湊橋(しんみなとばし)③明石橋(あかしばし)④明石堀⑤新栄橋(南明橋)⑥堺橋⑦暁橋現在の地図と埋め立てられた場所。公営住宅の角にあった「電信創業之地」碑。中央区明石町13−10。「電信創業之地東京傳信局跡明治二年十二月廿五日開始紀元二千六百年逓信省」「電信創業記念碑の由来明治2年9月19日(太陽暦10月23日)横浜裁判所と東京築地運上所に設けられた「傳信機役所」を結ぶ約32キロメートルの電信線架設工事が開始され、同12月25日に業務を開始した。これが、我が国における公衆電気通信の最初である。この記念碑は、先駆者の業務を後世に伝えるため、昭和15年に建立されたもので、昭和53年、南南東約40メートルの地点から当地へ移設されたものである。」その先にあったのが「東京税関発祥の地碑(運上所跡)江戸幕府は、慶応三年(1867年)に、江戸築地鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地と定め、この地に税関業務等を行う運上所を設置しました。これが、東京税関の始まりです。」。中央区明石町13−10。さらに隅田川に向かって進むと、カーブの場所にあったのが「水たき つきじ 治作」。中央区明石町14−19。「幕末、文明開化の中心地として華やいだ中央区明石町。その一角にひと際目を引く大邸宅。1899年建造の三菱財閥の旧別邸を買い取り1931年に創業した「つきじ治作」は約1000坪の古きよき伝統美をが息づく園内と、俗世を遮断したかのような静寂で贅沢な空間。多彩なコース料理をお愉しみください。 なかでも、名物「水たき」は九州出身の創業者がもたらした逸品と長年愛されております」と。数寄屋造り・木造二階建ての瀟洒な料亭。大きな滝のある和風中庭があるようだ。創業時から変わらない緑に囲まれた門構え と。「つきじ治作名物 水たき」セット。何方か、連れてって!!その先に奇妙な絵画を発見。工事現場の防音壁の「だまし絵」。ネットで調べて見ると「フォトリックアート」👈リンク と呼ぶらしい。東京都中央区の「マンホール蓋」。 区の花「ツツジ」と区の木「ヤナギ」がデザインされていた。「灯」と書かれているので、街路灯の制御を行うためのハンドホールの蓋であろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.08
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「親鸞聖人像」を後にして、再び正門前まで戻り、「築地本願寺」の「本堂」を見る。正面全景。インド風仏塔(ストゥーパ)は左が鐘楼、右が鼓楼である と。パノラマ撮影してみました。本堂正面をズームして。現在の本堂は、東京帝国大学(現在の東京大学)名誉教授で建築史家の伊東忠太博士の設計によるものですが、建築研究のためアジア各国を旅した博士と、時を同じく、仏教伝来ルートを明らかにするために探検隊を結成し、シルクロードを旅した大谷光瑞(当時の浄土真宗本願寺派門主)との出会いが縁となっています。築地本願寺の建物は、インド等アジアの古代仏教建築を模した外観や本堂入り口のステンドグラス、数多くの動物の彫刻などが特徴で、オリエンタルな雰囲気は、まさにシルクロードを伝わる仏教伝来のルーツを感じさせます。その一方で、内観においては僧侶のお勤めスペースよりも本堂内の参拝スペースの方が広く、中央正面に本尊阿弥陀如来が安置しているなど、伝統的な真宗寺院の造りとなっていた。2014(平成26)年には本堂及び大谷石の石塀と三門門柱が国の重要文化財に指定された。正面の屋根には菩提樹の葉の形の中に蓮の彫刻があしらわれていたり、ストゥーパと呼ばれる塔があったりと細部まで造り込まれているのだ。シルクロードを旅してきた伊東忠太博士でなければ作り上げることのできない、独特な仏教寺院であると。「親鸞聖人御誕生八百五十年立教開宗八百年慶讃(きょうさん)法要」案内板。慶讃とは、 仏菩薩や祖師の功徳(くどく) を喜び、ほめたたえること。右手に「衆水一味浄」という字が彫られている「手水場」。この「衆水一味浄」の出典は『教行信証』にあり、『正信偈』にも見ることができるとのこと。魚が泳ぐ綺麗な川もあれば、工業用水で汚れた川もある。様々な川の水が流れてくるにもかかわらず、海は潮の味ただ一味だけ。人もまた、様々な人種や思想、価値観を持っていて、煩悩まみれの人もいれば煩悩のない聖者もいるし、仏に逆らう人もいれば仏法を謗る人もいる。それでも、阿弥陀さまの本願のもとでは、私たちは何の分け隔ても差別もない「一味」であるということ と。「本堂」と巨大「石灯籠」。近づいて。「光顔巍巍(こうげんぎぎ)」の文字が。「「増仏偈」は、「光顔巍巍」という言葉から始まります。「光顔巍巍」とは、法蔵菩薩が世自在王仏の徳をほめ讃えた言葉です。法蔵菩薩は、何よりもまず光り輝くそのお顔をほめ讃えられました。世自在王仏の清らかな心がそのまま表情に表れていたのでありましょう。ところで、私たちの顔が光り輝いているように見えるときとは、どのようなときでしようか。目標に向かって一生懸命になっているとき、うれしさや喜びを体いつばいに表現しているときなどが思い浮かびます。このような一生懸命な姿やうれしさ、喜びは、だれが見ても自然と伝わってくるものです。法蔵菩薩が世自在王仏のお顔を光り輝いていると讃えられたのは、世自在王仏が深く喜んで説法をされているのが法蔵菩薩に伝わったからであり、また法蔵菩薩がその説法を聞いて深く喜んだからにほかなりません。」本堂手前右側の境内には、「納涼盆おどり大会」用の提灯がたわわに。2023年8月2日(水)から8月5日(土)までの4日間、「第76回 築地本願寺 納涼盆踊り大会」が開催されていたとのこと。「本堂」へと進む。左側の仏塔(ストゥーパ)・鐘楼を見る。正面階段下の獅子像の前には「案内板」が並ぶ。「獅子像(右・阿形像)」。「獅子像(左・吽形像)」。「重要文化財築地本願寺本堂一棟附正門・北門・南門(各一所)、石塀(五基)所在地 中央区築地三丁目一五番一号浄土真宗本願寺派(京都西本願寺)の直轄寺院・築地本願寺は、江戸時代初期の元和三年(一六一七)、浅草近くの横山町に創建されました。江戸浅草御坊と称された当寺院は、明暦三年(一六五七)の大火で焼失した後、現在地に移転・再建されました。特に本堂の大屋根は江戸湊に人る船の目印であり、江戸庶民によく知られた名所の一つでした。江戸時代から明治期にかけて何度か再建された木造の本堂は、大正十二年(一九二三)の関東大震災で焼失した後、昭和九年(一九三四)に現在の本堂(鉄骨鉄筋コンクリート造、地上二階・地下一階)となりました。西本願寺二十二世宗主・大谷光瑞の依頼を受けた、設計者の建築家・伊東忠太(一八六七~一九五四)は、日本の伝統的な寺院様式ではなく、仏教の発祥地であるインドの建築様式を独自の解釈で外観に取り人れ、特異な雰囲気をもっ伽藍を創出しました。花崗岩が用いられた建物中央の本堂は、上部に銅板で葺いた巨大な円形屋根がのせられ、左右対称にのびた翼部には鐘楼と鼓楼の塔屋を置き、正面中央と左右の入口には独特の曲線による破風を設けています。内部は伝統的な浄上真宗寺院の本堂形式でありながら、外観各部にはインド風の建築手法が見られ、入口の破風・柱頭飾り・屋根上の尖塔、さらに細部の装飾が一体となり、全体として調和のある外観を創り出しています。当寺院本堂は、建築家・伊東忠太が最新の技術を用いて東洋的な建築を追求した典型例であるとともに、秀逸な建築デザインを保持する震災復興期の貴重な建造物といえます。また、本堂とほぼ同時期に建築された外周の石積塀や石造柱門(正門・北門・南門)も共通のデザインを踏襲しており、本堂と一体をなす貴重な建造物となっています。これらの建造物は、平成二十六年に重要文化財として指定されました。平成二十七年三月」本堂二階平面図(竣工時)「国指定重要文化財築地本願寺本堂一棟附 正門・北門・南門、大谷石積塀入口正面のステンドグラスには蓮の花が。本堂2階案内図。本堂1F案内図。「本堂」正面を見る。ズームして。本堂右側。ズームして。本堂左側。ズームして。本堂前から正門方向を見る。「大江戸助六太鼓」👈リンク と。「納涼盆おどり大会」の舞台。「盆おどり提灯協賛ご芳名」。「第一伝道会館」。内部には日本料理店「紫水」があった。「第一伝道会館」前から本堂を見る。「浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候うべし」と。「このお言葉は、親鸞聖人が門弟に宛てたお手紙の一節です。私たちは、死という先の見えない不安を抱えて苦悩します。その不安を除くため、私が往くべき安らかな世界をご用意くださったのが、阿弥陀という仏さまです。今生での別れは避けられないけれども、また遇える世界が恵まれていることを伝えてくださっています。」「第二伝道会館」前から本堂を見る。そして「北門」から「築地本願寺」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.07
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そして「築地本願寺」の「正門」に到着。中央区築地3丁目15−1。築地本願寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で、京都の本願寺(西本願寺)が本山。その発祥は1617年、西本願寺の別院として江戸に建立。浅草・横山町にあったことから「江戸浅草御堂」と呼ばれていた。1657年明暦の大火により焼失。大火後の区画整理のため、幕府より代替地として指定されたのは、八丁堀の海上であった。そこで佃島の門徒が中心となり、海を埋め立てて土地を築き1679年に再建されことが「築地」という名称の由来であり、「築地御坊」と呼ばれるようになった。1923年、関東大震災により再び本堂を焼失。現在の本堂は、建築家の伊東忠太氏の設計により、古代インド仏教様式の外観で1934年に落成。2012年、正式名称が今の「築地本願寺」と改められた。2014年には、本堂・石塀・ 三門門柱(正門・北門・南門)が国の重要文化財に指定された。正門入口左側。「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要(きょうさんほうよう)」👈リンク「築地本願寺」は西本願寺系であり寺紋は「下がり藤」。しかし、からまる蔓の重なりの筋が無い。こちらが「西本願寺」の「下り藤」。からまる蔓の重なりの筋がある。実はこの蔓の「右が上」というのがとても大事。築地本願寺はこれが無い。「築地本願寺」配置案内図。解かりやすい配置図をネットから。「正門」を入ると、右側には石碑、墓石等が並んでいた。最初にあったのが「九條武子夫人歌碑」。九条武子は柳原白蓮、江木欣々とともに大正三美人と称された歌人である。武子は西本願寺第21代法主大谷光尊の次女として1887年に京都に生まれている。1909年には公爵家出身で正金銀行に勤務する九条良致と結婚し夫の勤務先兼留学先であるロンドンに渡るが翌年、単身で帰国する。そのころから佐々木信綱に和歌を学ぶようになる。1911年義姉・大谷籌子裏方の早世に伴い、30歳の若さで仏教婦人会本部長に就任する。その頃、仏教に基づく教育との視点から、現在の京都女子学園・京都女子大の設立にも参画する。1920年には夫が帰国し現在の新宿区下落合に居を構え、夫婦同居が実現される。1923年の関東大震災により崩壊した築地本願寺の再建に努めるとともに、同地に臨時救済事務所出張所をおいて救済事業の陣頭指揮をした。また、上野公園に託児所、日比谷公園には臨時」の診療所を造った。これが現在の「あそか病院」の基礎となった。九条武子は西本願寺の大谷伯爵家の出であり、大正時代の代表的麗人であるだけでなく、女流歌人であり社会事業家であった。1928年震災復興事業での奔走の無理がたたったのか、敗血症発症により42歳の若さで世を去っている。結構大きく立派な歌碑だが刻まれている和歌が薄くて小さく読み取り難いが、右手に和歌が記された立札があるので分かったのであった。「おおいなる もののちからに ひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや」。「酒井抱一(さかいほういつ)墓」。「等覺院文詮墓」酒井抱ー( 1 7 6 1 ~ 1 8 2 8 )は、名門酒井雅楽頭家の姫路主酒井忠仰(ただもち)の次男として生まれた。明和4年( 17 6 7 )忠因(ただなお)と名乗る。大名家の習いとして、武術、絵画、俳諧、狂歌などにも親しんだ。寛政9年( 1 7 9 7 )、3 7歳で西本願寺文如上に随い出家し、「等覚院文詮暉真」と称した。浅草千束に移住し、抱ーと号す。抱ーは寛政年間後半ころから尾形光琳の画風に傾倒し、文化12年( 1 8 1 5 )には、文化6年に移り住んだ下根岸の新居(後の雨華庵)で光琳百回忌を営んだ。抱ーは、琳派の画風に諸派の技法を取り入れた独特な作風を確立し、粋で瀟洒(しようしゃ)な江戸琳派を完成させる。代表作として、「光琳百図」「四季花鳥図屏風」「夏秋阜図屏風」などがある。文政1 1年、雨華庵で亡くなり、築地本願寺に葬られた。「東京都指定旧跡酒井抱一墓所在地 中央区築地三の十五の一 築地本願寺仮指定 大正十三年二月五日指定 昭和三十年三月二八日酒井抱一(一七六一~一八ニ八)は、名門酒井雅楽頭家の姫路藩主酒井忠仰(ただもち)の次男として生まれました。明和四年(一七六七)忠因(ただなお)と名乗ります。大名家の習いとして、武術、絵画、俳諧、狂歌などにも親しみました。寛政九年(一七九七)、三七歳で西本願寺文如上人に随い出家し、「等覚完文詮暉真」と称します。浅草千束に移住し、抱一と号します。抱一は寛政年間後半ころから尾形光琳の画風に傾倒し、文化一ニ年(一八一五)には、文化六年に移り住んだ下根岸の新居(後の雨華庵)で光琳百回忌を営みました。抱一は、琳派の画風に諸派の技法を取り入れた独特な作風を確立し、粋で瀟洒な江戸琳派を完成させます。代表作として「光琳百図」「四季花鳥図屏風」・「夏秋草図屏風」などがあります。文政一一年、雨華庵で亡くなり、築地本願寺に葬られました。平成ニ四年三月建設 東京都教育委員会」「土生玄碩(はぶげんせき)先生之碑」。墓標には「桑翁土生君之墓」と。「東京都指定旧跡土生玄碩墓所在地 中央区築地三の十五の一 築地本願寺標識 大正十三年一月指定 昭和三十年三月二八日上生玄碩(一七六ニ~一八四八)は江戸時代後期の眼科医で安芸国吉田で生まれました。名を義寿といい、桑翁と号しました。文化七年(一八一〇)奥医師を拝命し、同一三年法眼に叙されました。文化五年には一ニ代将軍徳川家慶の眼疾を治療しました。文政一ニ年(一八ニ九)、シーボルトから眼病治療法を教授された謝礼に将軍拝領の紋服を贈ったことで、シーポルト事件に連座し、改易となり、江戸を追放されました。嘉永元年(一八四八)八月一七日、八七歳で死去し、土生家の菩提寺である築地本願寺中眞龍寺に葬られましたが、昭和三年(一九ニ八)一ニ月区画整理のため改葬されました。墓標には「桑翁土生君之墓」とあります。著書には、「銀海波抄」、「指談録」、「獺祭録」などがあります。平成ニ四年三月 建設 東京都教育委員会」墓石の前には石碑が並ぶ。「遺弟念力浄土真宗の繁昌は「遺弟の念力より成ず」と。浄土真宗の繁昌は、遺弟の念力より起こるのだと。遺弟とは、親鸞聖人の残されたお弟子方のこと。そのお弟子の念力、念力と言っても別に超能力のことではなく、ご信心の力である。つまりは、自力を離れて他力念仏に帰する浄土真宗の繁昌とは、一人でも信心を取る人が生まれることである。それは親鸞様の残されたお弟子方の信心の力によるのだと」「心悦清浄(しんねつしょうじょう)」。「心悦」は相手の行動や言葉に本心から喜ぶこと。心に清らかなよろこびを生じさせようと。「随喜鑚仰(ずいきさんぎょう)」。心から喜んで仏道に帰依(きえ)し、深く仏を信仰すること。 また、深く物事に打ち込み熱中すること。 「随喜」は心から喜び、ありがたく感じて仏に帰依すること。 「鑚仰」は「論語」子罕(しかん)の「これを仰げば弥(いよいよ)高く、これを鑽(き)れば弥(いよいよ)堅し」から》聖人や偉人の徳を仰ぎ尊ぶこと。「佃忠兵衛報恩塔」。正面には「篤行院釋久西居士」の法名と「寛文二年壬寅 四月四日 享年九十有四歳」の没年陰刻。「佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔」「佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔所在地 中央区築地三丁目十五番一号 築地本願寺」正保元年(一六四四)に埋め立て造成された佃島(現在の佃一丁目)は、将軍の命で摂津国西成郡佃村・大和田村から江戸に下った漁師たちによって築島されました。島内の地所は、先達を務めた佃村の庄屋・森孫右衛門、実弟・九左衛門、従弟(九左衛門の娘婿)・忠兵衛をはじめ、摂津国からの移住漁師三十数名の割り当て所有となりました。その後、孫右衛門は本国佃村で没し、九左衛門は日本橋の本小田原町で魚問屋(「佃屋」)を開いたため、一族の衆望を担った忠兵衛が佃忠兵衛を名乗って佃島の初代名主役を務めました。初代名主の佃忠兵衛は、将軍・幕府への御用漁や佃島の開発とともに、明暦三年(一六五七)の大火で焼失した本願寺の替地の埋め立て(築地)と御堂の再建にも尽力しました。境内に立っこの石塔は、佃島の開祖である初代名主・佃忠兵衛の遺徳を称えて、文久元年(一八六一)の二百年忌に十代名主・森幸左衛門勝鎮(九左衛門家家が絶家のため七代目から森姓を継承)と親族の佃宇右衛門寛敏が建立した報恩塔です。正面には忠衛の法名と没年(「篤行院釋久西居士」/「寛文ニ年壬寅四月四日享年九十有四歳」)、側面には、開祖の遺徳や代々名主を奉職してきた歴史が刻まれています。なお、これまで石塔正面の法名は「森孫右衛門」のものと判断されてきましたが、名主家伝来の記録などから「佃島初代名主 佃忠兵衛」であることが明らかになりました。 令和二年三月 中央区教育委員会」「大瀛(だいえい)の墓 」。「大瀛(だいえい・一七五九~一八〇四)」「大瀛(だいえい・一七五九~一八〇四)大瀛和上は、江戸時代後期の浄土真宗本願寺派の学僧です。生まれは安芸筒賀村(広島)。11歳で得度をし、広島報専坊の慧雲に師事して、一七七六年、西本願寺の学林(僧侶の教育機関)へと入り、浄土真宗の教義の勉学に励みました。その後は河内(大阪)、備後(広島)、安芸(広島)、石見(島根)を住職として周り布教活動に勤めました。勉学への志が高く、一七九四年に広島城西に学寮・芿園舎(せいえんしゃ)を設立して子第の育成に力を注ぎました。一七九七年に「三業帰命説」という教義が世に出されると、大瀛和上は「横超直道金剛鉾(おうちょうじきどうこんごうへい)」などを著して反論し、いわゆる「三業惑乱(さんごうわくらん)」という法論が起こりました。この騒動は江戸幕府が介入するほどの大きな事件となり、大瀛和上は病身のまま京都や江戸に赴き、対論しました。しかし一八〇四年に、当時の江戸築地別院内の成勝寺にて死去されました。その後、幕府から「三業帰命説」は異端であるとする審判が下され、そして西本願寺からもこれが認められて、大瀛和上の徳は今日まで多くの念仏者に偲ばれています。」「間新六(はざましんろく)之塔」。「帰真釈宗貞信士霊位 元禄十六癸未 二月四日 間新六墓」と。「間新六供養塔」。「東京都指定旧跡間新六供養塔所在地 中央区築地三の十五の一 築地本願寺標識 昭和十三年十月指定 昭和三〇年三月二八日間新六光風(一六八〇~一七〇三)は赤穂藩主浅野家臣間光延の次男として生まれます。元禄一四年(一七〇一)三月藩主浅野長矩が殿中刃傷事件を起こし、藩は改易となります。新六は父及び兄光興とともに仇討ちに加わり、元禄一五年一ニ月一四日(一七〇三年一月三〇日)に吉良上野介を討ち取り(赤穂事件)、麻布の長府藩毛利邸へ預かりとなり、切腹します。赤穂義士の墓は主君長矩の墓のある高輪泉岳寺にありますが、新六は義兄中堂又助により、築地本願寺に埋葬されました。泉岳寺にも新六の供養塔がありますが、本願寺に葬られた理由は、檀徒であったのか、生前の意志によるものなのか、不明です。現在のものは、火災により焼失したものを天保五年(一八三四)に羽佐間宗玄が再建したものです。平成ニ四年三月 建設 東京都教育委員会」。「陸上交通殉難者追悼之碑」。交通事故による殉難者を悼み、交通事故絶滅を願い建てられたものである。「いつ果てるともない交通事故は、日夜多くの犠牲者を続出しています。今ここにいたましい犠牲者の追悼碑を建設し、こころから、その冥福を追慕し、ふたたび、このような悲惨事をくりかえしてはならぬという警告を、より広く、より深く、多くの人々にうったえ、交通事故絶滅への礎としたい。 交通事故殉難者追悼碑建設会 名誉総裁 三笠宮崇仁親王 役員代表・・・以下省略・・・」「文明は尊きものか惨なるかエンヂンの音耳すましきく 和南」。「この追悼碑に寄せられた國民有志の数々の善意に対し心から感謝いたします。昭和四十四年十一月ニ一日陸上交通殉難者追悼碑建設会 名誉総裁 三笠宮崇仁親王役員・・・以下省略・・・」「台湾物故者の霊」。「台湾物故者遺骨安置所建設の由来」。「台湾物故者遺骨安置所建設の由来太平洋戦争敗戦とともに、台湾在留の日本人は引き揚げたが、台湾に残された日本人物故者の墓地には誰一人訪れる人もなく放置されていた。これら台湾における日本人物故者を悼む多くの方の強い願いによって、昭和32年、当時の日本及中華民国、両国政府の合意に基き、台湾各地に散在する日本人墓地の整理が開始された。昭和36年にこれが完了と共に。台北、台中、高雄の三か所に日本人遺骨安置所がつくられ、1万3千余人の遺骨が納められた。その後、これら全員の分骨を故国に持ち帰ることができ、これを安置するために昭和38年3月「台湾物故者慰霊塔建設委員会」により、本願寺築地別院(当時)に遺骨安置所が建設された。爾来、その維持管理および年次法要は一般財団法人台湾協会がその掌にあたっている。さらに、その後台湾物故者の強い希望もあって戦前故国へ帰還して亡くなった方の遺骨も、昭和60年9月以降ここに納めている。なお、境内整備に伴い、現在、遺骨は合葬墓に納められている。 平成29年4月 一般財団法人 台湾協会」そして一番奥に「親鸞聖人の像」。像の手前の両側に大きな石灯籠。「親鸞聖人」。「親鸞聖人◯誕生と幼少期平安時代も終わりに近い承安三年(一一七三)の春、わたしたち浄土真宗本願寺派の宗祖・親鸞聖人は京都にてご誕生になられました。父親は藤原氏の流れをくむ日野有範、母親については現在までよく分かっていません。日野氏は儒学を得意としており、親鸞聖人も六歳頃から漢文の教育を受けていたと推測されます。親鸞聖人は九歳のとき、慈円和尚のもとで出家・得度をされ、範宴(はんねん)と名のられたと伝えられています。◯比叡山での修行比叡山では、横川で不断念仏などを修行する堂僧として、20年の間、厳しい学問と修行に励まれました。しかし建仁元年(一ニ〇一)親鸞聖人29歳のとき、比叡山では悟りに至る道を見出すことができなかったことから、ついに山を下り、京都の町中にある聖徳太子ゆかりの六角堂にて100日間の参籠をされました。95日目の暁、聖徳太子に関する偈文を唱え終ったところに六角堂の本尊である観音菩薩からの夢告を得て、東山の吉水で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人の草庵を訪ねられます。◯吉水での法然聖人との出遇いその後、自身が浄土往生できるための縁、すなわちその指導を得るために法然聖人の弟子となられました。聞法と研学に励まれた親鸞聖人は、法然聖人の特別の信頼を得て聖人の主著である「選択本願念仏集』と真影(肖像画)を写すことを許されています。◯結婚と越後流罪親鷽聖人は吉水での生活の中で、京都の三善為教の娘である恵信尼さまと結婚されます。そのころ法然聖人の開かれた専修念仏の教えに対して、延暦寺や奈良の興福寺などから激しい非難が出され、ついに承元元年(一一〇七)に、親鸞聖人などの師弟が罪科に処せられ、親鸞聖人は越後国(新潟県)に流罪となりました。これを機に「愚禿(ぐたく)親鸞」と名のられ「非僧非俗(ひぞうひぞく)のの立場に立たれます。〇関東伝道と『教行信証』の執筆越後への流罪は、家族を連れての布教活動の始まりとなりました。およそ7年間の流人生活の後、親鸞聖人とその家族は関東へ向かわれることになります。一説には、新興の武士の都である鎌倉での布教を目指したのではないかと考えられています。延保2年(一二一四)、42歳の親鸞聖人は家族とともに、下野国(栃木県)・常陸国(茨城県)の大領主・宇都宮頼綱の領地である稲田へと向かわれました。常陸国・稲田に草庵を結んだ親鸞聖人は、そこから約30数km以内の所へ一泊ニ日での布教活動をされたと考えられています。また主著『教行信証』もこの地で書き始められました。関東時代後半には鎌倉幕府で行われた一切経校合の事業にも参加されておられ、ここ東京を含む南関東にも多くの由緒を伝える寺院が現存しています。」◯再び京都へ親鸞聖人は60~66歳のころ、関東約20年の伝道を終えられて帰洛されます。京都では晩年まで「教行信証」を添削されるとともに、「和讃」など数多くの書物を著され、関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝え、書簡で他カ念仏の質問に答えられました。弘長2年11月28日(新暦一ニ六三年一月一六日) 90歳、親鸞聖人は三条富小路にある弟尋有(じんう)の善法坊で往生の素懐(そかい)を遂げられました。」「親鸞聖人の像」。お顔をズームして。「親鸞聖人」。「親鸞聖人 題字勝如上人 御染筆」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.06
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「波除神社」を後にして、「築地六丁目」交差点を右折して「晴海通り」を進むと左手に「案内板」があった。「軍艦操練所跡所在地 中央区築地六丁目二十番地域ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政四年(一八五七)四月、旗本や御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転を練習させる目的で軍艦教授所(後の軍艦操練所)をこの地にあった築地講武所内に創設しました。万延元年(一八六〇)正月に講武所が神田小川町(現在の千代田区)に移転をした後には、跡地一帯は軍艦操練所の専用地とされました。元治元年(一八六四)三月には焼失して、南隣りの広島藩主浅野家下屋敷のあった場所(絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転をしています。設立当初は旗本永井尚志が総督をつとめ、長崎の海軍伝習所修業生を教授方としていました。その後、向井将監や勝海舟等が頭取をつとめました。慶応元年(一八六五)七月、新たに海軍奉行を置き、慶応二年七月には海軍所と改称されました。同年十一月には再び類焼して現在の旧浜離宮庭園の地に移り、跡地には、日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建てられました。平成二十一年三月 中央区教育委員会」「京橋南築地鐵炮洲絵図」。元治元年(一八六四)三月には焼失して、南隣りの広島藩主浅野家下屋敷のあった場所(絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転をしています と。そしてさらに「隅田川」に向かって進むと前方に「勝鬨橋(かちどきばし)」が現れた。中央区築地6丁目 ~勝どき1丁目。勝鬨橋は、東京都中央区にある隅田川に架かる橋。晴海通り(東京都道304号日比谷豊洲埠頭東雲町線)が通る。日本で現存する数少ない可動橋(跳開橋)であるが、1980年に機械部への送電を取り止めており、可動部もロックされ、跳開することはない。近年、再び跳開させようとの市民運動や都・一部都議の動きはあるものの、機械部等の復旧に莫大な費用(東京都の試算では約10億円)がかかることや多数の道路交通量があることから、実現の目途は立っていないとのこと。「ハの字に開いた勝鬨橋」をネットから。いつ頃の写真であろうか?右奥にあったのが「かちどき 橋の資料館」。残念ながらこの日は開館日ではなかった。中央区築地6丁目20−11。「小鳥付車止め「ピコリーノ」」がここにも。江ノ電「江の島駅」にもあったが。1970年に旗ポールメーカーとして創業したサンポールは、売上を軌道に乗せた後、東京進出も決めて急成長をとげていました。しかし、旗ポールだけで会社を維持していくには限界があると考えた経営陣は、第2の柱として車止め業界への参入を決断します。「業界参入の先駆けとして、先行メーカーと差別化でき、市場にインパクトを与える、新しいコンセプトの車止めを作ろう」こうしてサンポール初となる車止めの開発が始まりました。会社をあげて新製品のアイデアを練っていた折、公園管理者のあるつぶやきが耳に入ります。「公園の入口に設置されている門型の車止めの上に、子どもが飛び乗って座るなどして転倒する事故が多く困っている。」この声にひらめきを得た当時の専務権藤千代子は、持ち前のバイタリティーでアイデアをまとめ上げていきました。そうして1981年12月「ピコリーノ」が誕生したのです。ちなみに、ピコリーノ(picolino)という名前は、「小さいもの」という意味のイタリア語「ピコラ(piccola)」にちなんで付けた造語です。「おチビちゃん」といったニュアンスでしょうか。とネットから。奥に「かちどき橋の資料館」。「かちどきのわたし」碑。「勝鬨の渡し跡」案内板。「勝鬨の渡し跡月島地域には、明治ニ十五年(一八九ニ)に月島と築地・銀座方面を結ぶ渡船「月島の渡し」が開設されました。その後、両地を結ぶ交通需要が増加し、明治三十八年(一九〇五)には「勝鬨の渡し」と名付けられた渡船が開設されました。「勝鬨」の名は、京橋区の有志が日露戦争における勝利を記念して名付けたことに由来します。当地にある石碑には、正面に「かちときのわたし」とあり、側面には「明治三十八年一月京橋区祝捷會挙行之日建之 京橋区同士會」と陰刻されています。なお、当初に設置された渡船場は、ここから約百五十メートル西の波除稲荷神社の先にありましたが、関東大震災後に現在地付近へ移設されました。また、対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通九丁目先(現在の勝どき一・三丁目の境)にあり、この間を渡船が運航していました。勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。とくに、この渡船は月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、当該地域の発展に寄与しました。関東大震災後、隅田川を航行する大型船舶のために、中央径間部が跳開する可動橋の工事が進められました。その結果、昭和十五年(一九四○年)六月に「勝鬨橋」が完成し、渡船の廃止に至りました。明治末以来、市民交通の要として利用されていた勝鬨の渡しは、橋名に受け継がれながらその歴史を継承しています。 令和三年三月 中央区教育委員会」。「月島西河岸通先の勝鬨渡船場」「海軍経理学校之碑」。中央区築地6丁目20−10。「海軍経理学校之碑明治七年海軍会計学舎が芝山内天神谷に設けられたが、のち幾変遷を経て明治四十年これが海軍経理学校となった。 その間明治二十一年校舎は築地に移されたが、その敷地は松平定信邸の浴恩園の跡に当たった。明治時代この付近には海軍の施設が多く、その一帯は海軍発祥の地とも称されている。校舎はさらに幾度かの移改築を経て、昭和七年、この西側築地の一角に移築された。太平洋戦争中就学人員激増のため、品川ほか地方三ケ所に校舎を増設した。戦後海軍解体に伴い昭和二十年九月、同校は約七十年の歴史を閉じ。その間出身者は万余をかぞえ輝かしい功績を残したが、戦後もわが国復興の中核となって活躍した。 戦後三十年を機にここにその栄誉と同校の跡を記念してこの碑を建てる。 昭和五十一年四月」「勝鬨橋之記」碑。中央区築地6丁目20。「勝鬨橋之記明治三十七八年の戦役に於て皇軍大捷す京橋區民は之が戦勝を記念し此處に渡船場を設け勝鬨の渡と名付け東京市に寄附す昭和八年六月東京市は新に双葉可動橋の架設に着手し偶日支事變勃發せるも今年六月功を竣ふ即ち橋に名付くるに亦勝鬨を以てし長く皇軍戦勝の記念となす昭和十五年十二月 東京市長 大久保留次郎 撰併書」裏側には「設置経緯」が書かれているようだが・・・。「日本国重要文化財 勝鬨橋 東京都知事 石原慎太郎〔諸元〕 橋 長 二百四十六・○メートル 幅 員 跳開部二十六・六メートル 固定部二十五・八メートル 上部工 中央径間 鋼製跳開橋 側径間 鋼製タイドアーチ橋二基〔所有者〕 東京都〔指定年月日〕 平成十九年六月十八日指定(建第二五○二号)〔指定の意義〕 勝鬨橋は、東京港修築工事の一環として、海運と陸運の共栄を意図し、建造された、中央二連が ハの字形に跳ね上がる日本国内において唯一のシカゴ型二葉式跳開橋等で、昭和十五年六月に 竣工した。 勝鬨橋の特筆すべき点として、わが国最大の可動支開を有し大規模でかつ技術的完成度の高い 構造物であり、上部構造は中央二連の中路式可動桁及び機械装置によりなる跳開橋と、 左右一連の拱曲線を放物線とした下路式ソリッドリブタイドアーチからなる。 下部構造は直接基礎の鉄筋コンクリート造で内部に機械装置を収め、可動桁の端部が回転する 空間を備える橋脚二基と、杭基礎の橋台二基からなる。 建造工事は、東京市が施工し、設計者は東京市嘱託員成瀬勝武の指導のもと同技師滝尾達也及び 安宅勝らである。」「勝鬨橋」の下流側の鉄鋼トラスは塗装工事?の足場設置工事中であった。隅田川には東京都観光汽船(TOKYO CRUISE)の観光船・ホタルナ(HOTALUNA)がやって来た。漫画・アニメ界の巨匠・松本零士氏がデザイン。「ホタルナ」は、宇宙船をイメージしたシルバー・メタリックの流線形ボディにガルウィングの扉、船体屋上には屋上デッキを設置し船外で景観が楽しめるようにしました。また、ホタルナは、“月が輝く夜に神秘な輝きを放つ蛍が隅田川を舞う”ホタルとルナ(月の女神/LUNA <ラテン語> )「ホタル月」という、新たなる旅立ちとして松本零士氏の思いが込められた船名である と。ズームして。船体屋上の屋上デッキには多くの若者の姿が。「勝どき橋」の鉄骨構造をズームして。「勝鬨橋」の先には中央区勝どき1丁目の高層マンション群が。「勝鬨橋」を見ながら、横断歩道を渡る。左に「ブリリアイストタワー勝どき・地上45階、地下2階、高さ159.85mの 賃貸タワーマンション」右に「プラザタワー勝どき・地上43階、地下1階、高さ155.25mの賃貸タワーマンション」「勝どき橋西」交差点を渡ると正面にあったのがパブリックアート・「「巻貝と種の広場」 my sky hole 91-2」、井上武吉作。〒中央区築地6丁目19。赤が印象的。「隅田川テラス」を歩く。勝鬨橋の中央に26.6m長の、ハの字形に跳ね上がる日本国内において唯一のシカゴ型二葉式跳開橋の姿が見えた。再び開く日が来るのであろうか。中央区築地6丁目19−20。この下が「勝鬨橋簡易船着場」。「隅田川には自由に利用できる小型船舶用の簡易船着場があります!小型船舶から乗り降りするための簡易な船着場です。自己の責任において、自由に利用することができます。」とのこと。現在は、勝鬨橋の工事で利用できないようであったが。中央区築地6丁目。隅田川の対岸にあったのが「月島川水門」。「隅田川と月島川を隔てる水門で、1964(昭和39)年度に竣工しました。水門は、堤防の役割を果たす構造物です。月島川は、1892(明治25)年に完成した埋立地である月島1号地(現・中央区月島)と、1894(明治27)年に完成した埋立地である月島2号地(現・中央区勝どき)の間で埋め残した水面です。さらに南西側にある新月島川、月島・勝どき地区と晴海地区を隔てる朝潮運河とともに、月島川水門を含む4つの水門によって浸水被害から守られています」と。中央区月島3丁目25−9。「はとば公園」内にあった「my sky hole 水の情景」、これも井上武吉氏の作品。中央区築地6丁目19。シンプルな外観なのですが、妙に存在感が。川側には目のような穴が二つ、反対側には、穴が一つのデザイン。そして引き返し、再び「勝どき橋西」交差点の横断歩道を渡り、銀座方向を見る。ここにも「築地場外市場」案内板が。先程通過した「築地六丁目」交差点を直進。さらに「晴海通り」を進むと左手にあったのが「八紘一宇(はっこういちう)の碑」。八紘一宇とは、天下・全世界を一つの家にすることだそうで、「日本書記」の「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」を、全世界を一つの家のようにすると解釈したものだと。これが、第ニ次世界大戦中、日本の中国・東南アジアへの侵略を正当化するスローガンとして用いられたと指摘され、戦後の日本においては、あまり聞くことの無いことばとなった と。右側には建立者の「築地門跡青年団」の文字も確認できた。中央区築地4丁目14。築地のこの辺りは、「海軍発祥の地」でもあり、海軍史跡巡りができるほど「大日本帝国有軍」に関わりの深いエリアでもあり、この碑もその関連でここに設置されたものであろうか?現代では、日本による海外進軍を正当化するための言葉ともいわれています。終戦後、GHQによってこの言葉を公文書に使用することは禁止されたのだ と。「紀元二千六百年 八紘一宇」紀元二千六百年とは1940年(昭和15年)が神武天皇が即位してから2600年に当たることから1940年(昭和15年)11月10日、宮城前広場において昭和天皇・香淳皇后出御の下、内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。11月14日まで関連行事が繰り広げられて」国民の祝賀ムードは最高潮に達した。また、式典に合わせて「皇紀2600年奉祝曲」が作曲された。長引く戦争による物資不足を反映して、参加者への接待も簡素化され、また行事終了後に一斉に貼られた大政翼賛会のポスター「祝ひ 終つた さあ働かう!」(現代日本語: 祝い終わった さあ働こう!)の標語の如く、これを境に再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活はさらに厳しさを増していくことになった とネットから。道路の反対側にも「案内板」が設置されていた。「門跡橋の親柱」。「門跡橋の親柱所在地 中央区築地三丁目十七番八号先門跡橋は、昭和三年(一九ニ八)六月に築地三丁目(現在の築地三・四丁目)と南小田原町一・二丁目(現在の築地六丁目)との間に架けられた築地川南支川の震災復興橋梁でした。昭和六十一年(一九八六)から開始された築地川の埋め立て工事や道路の拡幅工事に伴って撤去されましたが、その時に花崗岩製の親柱一基が高欄の一部とともに、この場所に移築保存されました。なお、門跡橋という名称は、江戸時代に同じく築地川南支川に架けられていた小川原橋の俗称から取ったものです。当初は「築南橋」という橋名が付けられていましたが、昭和三年十一月、西本願寺の門徒代表以下五十九名から、東京市長宛に「門跡橋」への名称変更に関する陳情書が提出され、門跡橋と改称された経緯があります。この親柱は、復興事業の歴史を今日に伝える資料として重要であるともに、震災復興橋梁がこの辺りに架けられていたことを物語る貴重な文化財です。 令和ニ年三月 中央区教育委員会」「築地川南支川に架かる門跡橋」。「門跡橋 親柱」。「昭和三年六月 復興局建造」と書かれたプレート。その先にあった「松籟山 善林寺」。中央区築地3丁目17−8。浄土真宗本願寺派寺院の善林寺は、松籟山と号し、開基は越前朝倉家一門の武士、真柄十郎左衛門の孫です。四代目宗休が江戸浜町本願寺建立の時、本願寺12代目准如上人の命により尽力し、その功績により寛永11年3月20日(1624)善林寺の号をいただき一ヶ寺を建立しました。明暦(1657)の大火によって浜町御坊(後の築地本願寺)と共に築地へ移転、関東大震災後の区画整理で当地に移転しました。朱印受付、観光案内はしていません と。歴史ある寺院であるが、現在は鉄筋コンクリートビルの「善林寺」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.05
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「築地場外市場」の「波除通り」を進むと突き当り正面にあったのが「波除神社(なみよけじんじゃ)」。中央区築地6丁目20−37。石鳥居の右側にあったのが「海幸橋」案内板。「海幸橋海幸橋は、昭和2年に旧築地川東支川の隅田川河口部に創架された鋼下路アーチ橋です。大正12年の関東大震災で日本橋にあった魚市場が全焼してのち、築地に移転しましたが、これに先立って築地市場の人口に新しく架橋された橋でした。橋梁設計は東京市道路局で、築地川東支川は平成7年に埋め立てられ、橋本体は同14年に撤去されました。しかし、鋼鉄製の親柱2基と石造親柱2基はそのまま記念物として現地に保存されることになりました。鋼鉄製親柱2基は破損した部材をもと通りに修復し、塗装も創架当時の濃緑色に戻してあります。この鋼鉄製の親柱のデザインと4基の配置は、日本ではめずらしいオランダのアムステルダム派のデザインの特徴をもっており、点対称に2基ずつ配置されているめずらしい構造です。この橋の親柱は昭和初期の橋梁デザインを伝える貴重な近代土木遺産として区民有形文化財に登録されています。 中央区環境上木部 中央区教育委員会」説明板に掲載されていた在りし日の「海幸橋」。この先は「旧築地場内市場」でフエンスが設置され進入禁止となっていた。「波除稲荷神社所在地 中央区築地六丁目二十番−三七号波除稲荷神社の創建は万治元年(一六五八~一六六一)と伝えられています。築地一帯の埋立てが進められた万治年間、波浪により工事が難航を極めた際、海中に漂う稲荷明神の像を祀ったところ波浪が治まり、埋立て工事が無事完了したと言われています。「波除」という尊称はこの故事に由来するもので、江戸時代以来、航海安全や災難除け・厄除けなどの神として人々に篤く信仰されてきました。波除稲荷神社の祭りは、江戸時代から獅子祭りとして知られ、祭りの際には数多くの獅子頭が町をねり歩きました。獅子頭の多くは震災・戦災などで失われましたが、現存する嘉永元年(一八四八年)製作の獅子頭一対(中央区民文化財)は社宝として本殿に安置されています。なお、現在でも毎年六月の「つきじ獅子祭」では、「厄除け天井獅子」や「弁才天お歯黒獅子」が巡行されることがあり、獅子祭りの伝統を伝えています。また、本殿前にある天水鉢二基(中央区民文化財)は、尾張藩船からの積荷の陸揚げに従事した小揚(こあげ)たちが天保九年(一八三八年)に奉納したものです。江戸時代、旧築地市場の南半分には尾張徳川家の蔵屋敷があり、米穀や尾張の特産品などが運び込まれていました。船の無事を祈って奉納したこの天水鉢は、波除稲荷神社への信仰を伝える貴重な文化財です。 平成二十ニ年三月 中央区教育委員会」「日本橋南芝口橋迄八丁堀霊岸島築地辺絵図」(部分)。社号標石「波除神社」。多くの奉納提灯が。石鳥居とその奥に五色幕。「波除神社の由来」「波除神社の由来江戸時代の初め築地一帯は一面の海でした。江戸開府前より始まった埋立で 明暦の大火の後に4代将軍家綱公により最後の埋め立て工事が行われ その工事の中で困難を極めたのが築地海面でした。波が激しく何度堤防を築いても波にさらわれてしまうのてす。或夜の事 海面を光りを放って漂うものがあり人々は不思議に思い船を出してみるとそれは立派な稲荷大神の御神体でした。皆は畏れて早速現在の地に社殿を造りお祀りして 皆で盛大なお祭をすると 波風がピタリとおさまりエ事はやすやすと進み埋立も無事に終了致しました。萬治2年(1659年)の事です。人々は、その御神徳のあらたかさに驚き 稲荷大神に『波除』の尊称を奉り社殿に雲を従える<龍>風を従える<虎>の頭が祀られ それを見下ろす形で一声で万物を威伏させる一対の<獅子>の巨大な獅子頭が奉納され これを担いて回ったのが祭礼『つきじ獅子祭』の始まりです。それ以来今に至るまて「災難を除き、波を乗り切る」波除様として災難除・厄除・商売繁盛・工事安全等の御神徳に崇敬が厚く神社境内には日本一の大きさを誇る夫婦の獅子頭 社殿には龍虎頭とそれを見下ろす形の江戸時代より伝わる一対の獅子頭をご覧いただくことができます。」6月に行われる「つきじ獅子祭」の様子。「お歯黒獅子」。「お歯黒獅子」は雌の獅子。頭のてっぺんに飾られている宝珠の中には弁財天の像が収められており、やはり女性を象徴するような存在。高さ2.15メートル、幅2.5メートル、重量700キロ。「波除弁財天 お歯黒獅子」。口に近づいて。「雌の大獅子 お歯黒獅子芸能・習い事に福を授ける芸能の神弁財天 市杵島姫命江戸時代に東都名物とされ焼失しておりました雌の大獅子は平成14年に高さ一尺の台座を含め高さ2.2m 両耳幅2.5m 総重量700kg 総塗り一木造りで紅色の肌地にお歯黒を施し金箔押しの巻き毛で腰高の姿に再興されました。雌を表す頭の宝珠の中には古式に習い紫水晶を御神霊として抱く弁財天の御神像が また夏の大祭「つきじ獅子祭」で担きます際の見返り幕は弁財天の艶やかな立ち姿を友禅染に刺繍を施し新調されました」「弁財天 見返り幕」をネットから。石鳥居を覆うが如き「御神木 枝垂れ銀杏」。「御神木 枝垂れ銀杏」。鳥居の両側に、枝全体が垂れている御神木のイチョウが2本立っていた。イチョウに枝垂れの品種はなく変種とのこと。このイチョウは雄木なので実は生らないようだ。神社では9月9日の「重陽の節句」限定で、長寿祈願の枝垂れ銀杏のお守りが販売されているとのこと。「吉野家」碑。「奉納 吉野家」と。「ここ築地の地に、牛丼の吉野家の創業店がありました。吉野家の歴史は、かって栄えていた日本橋の魚河岸で明治三ニ年に開業したのが始まりです。屋号は、創業者・松田栄吉の出身地である大阪・吉野町より名づけられたと伝えられていますその後、関東大震災の影響により、大正一五年、魚河岸とともにこの地に移転いたしました。東京大空襲によって店舗は焼失しましたが、終戦後、すぐに屋台で営業を再開。そして昭和三四年、「築地一号店」を開店したのです。当初、具材には季節の旬な食材と豆腐なども盛り込まれていましたが、市場で働く人が牛丼を注文するのは、牛肉が食たいからなのです。ニ代目社長、松田瑞穂は、そんな想いに応えてメニューを改良。より多くの牛肉と、味わいを深めるための玉ねぎだけを使った、シンプルな牛丼を生み出しました。この牛丼は市場で大いに愛され、またたく間に各地へとひろがり、日本人のお腹を満たす国民食となっていったのです。平成ニ八年、再び市場の移転にともない「築地一号店」も移転することになりました。この地で永きにわたり多くの方々に、ご愛顧いただいてまいりました「はやい、うまい、やすい」吉野家の牛丼は、まさにこの土地で育まれた味なのです。」関東大震災後、築地に移転したばかりの「吉野家」。写真提供/吉野家。そして「厄除天井大獅子」。「厄除天井大獅子ご自由にお入りください。左回りに獅子頭を一周お周りいただけます。」知田清雲作 と。「日本一 雄の大獅子「厄除天井大獅子」高さ2.4m 幅3.3m 重さ1t昔より 龍は「雲」を従え 虎は「風」を従え 龍と虎が暴れることで波風が立ち それを一声で威伏させるのが獅子だと伝えられ 神社創建時に龍虎の頭また巨大な雄雌一対の獅子の頭カが奉納されました。築地では江戸時代よりお金に余裕がある方はお一人で お金に余裕のない方は複数人で講をつくり雄雌一対の獅子頭を持ち町中で約30対の獅子頭があり 夏のお祭りではその獅子頭が一斉に神社に集まったと伝えられており これが現在も執り行われております「つきじ獅子祭」の始まりです。残念ながら神社の雄雌の大獅子は江戸時代の火事で その他の獅子頭は関東大震災てほとんどが焼失し 唯一修理に出していた一対だけが残り中央区の文化財として現在神社本殿にお祀りをしております.現在の「厄除天井大獅子(雄の大獅子)」は平成2年に神社の御鎮座330年を記念し 樹齢約三千年の黒檜(ねず)の原木を用いて日本一の大獅子として石川県加賀鶴来の現代の名工・知田清雲氏とその工房の手により再興され伊勢神宮外宮て知られる「豊受大神」七福神で知られる「武甕槌命(毘沙門天)」「白髭大神(寿老人)」「猿田彦命(福禄寿)」「八意思兼神(布袋尊)」が祀られる御社殿を安置した獅子殿に納められましたまた古来よりこの大獅子には「願い串」の奉納という行事があります願い事を書いた「願い串」をこの大獅子の収め籠に納め念じると 願いを大獅子がのみこんて叶えてくださるとされ今も多くの方々のお参りがございますこの「願い串」は専用の箱に収められ 1年分を12月第3土曜日に執り行われる「お火焚祭」でお焚き上げされます」「厄除天井大獅子」の裏側に展示されていた。「厄除天井大獅子」の裏側から鼻の穴を見る。神棚も。「お守り ご朱印 授与所」。様々な種類のお守りが並んでいた。「御朱印のご案内」社殿を正面から。内陣。火消し「す組」の桶。「波寄神社七福殿」。「波寄神社七福殿毎月七日の七福神参りの際に御神像を安置する社殿です。その月の七福神の御神像が七日に安置されます。また七日以外では祭典の際に祓所としてもお祀りされます」「社殿を護るように築地らしい海産物をかたどった「海の七福神(粘土作家田辺ヒデキ作)が安置されております。」「玉子塚」。すし屋、料理屋で業務用の卵焼きが多く作られるので、使用した玉子への感謝を込めて玉子塚が建てられたと。末社の天祖神社。天照大神(あまてらすおおみかみ) 伊勢の神宮の御祭神(日本人の大御祖神さま)大国主命(おおくにのぬしのみこと) 大黒天様(経営・開運の守り神)少彦名命(すくなひこなのみこと) 恵比寿様(医薬・開運の守り神)天日鷲命(あめのひわしのみこと) お酉様(商売繁盛の守り神)「すし塚」。「すし塚の由来」碑。すし 日本の風土に育ち日本の誰れもがこよなく愛し 自慢している食べ物 それが すし 永い永い伝統の中にある すし しかしその歴史の蔭にいくたの魚介が 身を提してくれたであろうか 世人の味覚をたのしませ そして また わたし達のたつきの基になってくれたさかなたち それらあまた魚介の霊を慰めとわに鎮まれしと祈り 而して永遠の食物としてのすしを表徴するため ここゆかりの地にすし塚を建てたゆえんである 昭和47年(1972年)11月1日「海老の大丸の碑奉納株式会社海老の大丸東天會てんぷら料理協同組合」「海老塚」碑。「鮟鱇塚」碑。「鮮魚塚」碑。「おきつね様と称される小祠」。「昆布塚」碑。ここにも「波除神社」と。「大獅子頭新調・大神輿修理」案内板。「魚がし」碑。「魚河岸」碑。そして「築地魚河岸 海幸橋棟」を見る。中央区築地6丁目27−1。そして再び「波除神社」の入口を振り返り、「波除神社」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.09.04
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「電通本社ビル」を後にして、「汐先橋」交差点を横断し直ぐ左折して進むと前方にあったのが「浜離宮前踏切跡」。中央区銀座8丁目20。東京都中央区銀座8丁目、浜離宮恩賜庭園の北側にあるのが、この「浜離宮前踏切跡」。汐留駅(貨物駅、当初の新橋駅跡地)と東京市場駅(築地市場)を結んでいた東海道本線の貨物支線の踏切跡。昭和62年1月31日に廃線になった後も、モニュメントとして踏切警報機が残されているのであった。「銀座に残された唯一の鉄道踏切信号機」と。「浜離宮前路切 説明所在地 中央区銀座八丁目21番1号先この信号機は、昭和6年(1931)から昭和62年(1987)1月31日までの56年間、国鉄汐留駅と東京都中央御売市場築地市場との間を貨物引込線の踏切用として使用されました。最盛時には、1日150輌に達する貨物車が通過しましたが、貨物輸送の変化に伴い、汐留駅廃止と共に引込線も撤去されることになりました。しかしながら、地元住民の要望により、銀座には珍しい鉄道路切信号機として、保存されることになりました。 昭和62年(1987)12月」。「保存理由元この高速道路の下には汐留川が流れ、鉄橋も架っていました。汐留駅は、わが国の鉄道開業当時における始発駅の新橋駅でしたが、大正3年(1914)東京駅が中央駅になると、こは貨物駅になりました。大震災後、築地に東京市中央卸売市場が完成すると、汐留駅と市場間に荷物運搬のための線路がしかれ、大きな働きをしたのです。都民の暮らしの台所を支えて来たこの信号機を、国鉄廃止に当り捨て去られるのにしのびず、東京都中央卸売市場築地市場、東京都第一建設事務所並びに中央区教育委員会、地元各位の多大な御協力に依り、ここに永久保存されることになりました。 昭和62年(1987)12月 銀座八丁目町会 銀座御門通り会 銀座金春通り会」信号機を見上げて。その先にも石碑があった。「検査業務開始の地明治9年6月17日、この地に工部省電信寮の碍子試験所が発足して電信用碍子の電気試験が行われた。これが我が国における近代的物品購入検査の始まりである。 検査100年を記念して 昭和51年6月 郵政省 日本電信電話公社」。中央区銀座8丁目20。そして「汐先橋」交差点に向かって引き返す。「住友不動産汐留浜離宮ビル」。右手の高架が「東京高速道路」👈リンク。東京高速道路(英語: Tokyo Expressway)は、東京都中央区にある一般自動車道である。また、東京高速道路株式会社は、この一般自動車道の運営と道路下の不動産賃貸を事業とする会社である。都心のど真ん中、しかも銀座エリアにあり、首都高と一体となって実質的に高速道路のように走れるのに、区間内の通行量が無料の道。この一般自動車道については外部から東京高速道路株式会社線、会社線、KK線とも呼ばれる と。東京高速道路(KK線)を赤色、首都高速を黄色で示した空中写真。末端全てが首都高速道路と直結し、事実上首都高速道路と一体化してネットワークを形成しているが、この道路は、道路法に基づく自動車専用道路(旧:建設省所管)ではなく、道路運送法に基づく自動車道(旧:運輸省所管)であり、法律上は全く別の制度に基づく道路である。そのため、通常の一般自動車道と異なり本道路区間内のみであれば無料で通行できる。但し大型車輌は通行できないとのこと。区間は、東土橋~北数寄屋の片側1車線0.7kmと、北数寄屋~新京橋/東土橋~東新橋の片側2車線1.3kmの合計2.0km。これは東京都が建設を許可する際に、公共の河川を利用することから無料化を条件としたためである。ただし、道路下をビルとして、 テナントからの賃貸料によって収入を得て道路を維持管理しているため、自動車道事業の業界団体である日本有料道路協会に加盟しているとのこと。再び「汐先橋」交差点を見る。左折して都道50号を進む。左手に見えたのが先程の「住友不動産 汐留浜離宮ビル」。東京都中央区銀座8丁目21−1。築地市場方面に向かって進む。右手前方にあったのが「環状2号 築地換気所」。中央区築地5丁目、新大橋通りがカーブしているところ、旧青果門の南側に煙突があった。2022年7月工事完了した環状2号線の築地虎ノ門トンネルの換気所。中央区築地5丁目6−10 。左手に「(株)朝日新聞社 東京本社」の建物。中央区築地5丁目3−2。「中央市場前」交差点。「国立がん研究センター 中央病院 」。中央区築地5丁目1−1。都営バス停「国立がん研究センター 前」。「現在地」は中央市場通り沿いの「大江戸線築地市場駅」手前。「東京国税局」。東京都中央区にある国税庁の地方支分部局であり、東京都、千葉県、神奈川県、山梨県の1都3県を管轄している。2015年(平成27年)5月7日、千代田区の大手町合同庁舎より移転した。地方支分部局(ちほうしぶんぶきょく)とは、国の行政機関(中央省庁など)の所掌事務を分掌する地方出先機関の総称である。都道府県の組織との混同を防ぐため、地域名を冠するときは「都・府・県」をはずしている(例: 東京国税局は国の組織、東京都交通局は都の組織)。ただし、北海道の場合は「道」をはずさないため、北海道財務局、北海道農政事務所のような名称の組織が国と道のいずれに属するかは法令やウェブサイト等で確認する必要がある とのこと。中央区築地5丁目3−1。「朝日新聞社 浜離宮朝日ホール」入口。中央区築地5丁目3−2 朝日新聞東京本社 新館2階。「東京国税局」入口。「東京国税庁」の前庭にあったのが「日本国海図及び海洋調査発祥の地」。中央区築地5丁目3。「日本国海図及び海洋調査発祥の地明治4年、ときの政府は、海運や国防のために船舶が安全に航海するため海の深さや目標物を記した海図の整備が急務であると考え、兵部省海軍部水路局をこの地に創設し、外国人に頼らず独力で海洋調査を行って日本国として初めての海図を作成しました。以来、この地において先人の遺業を継承して日本の海を調査し、海図を整備を行って近代日本の発展を支えてきました。近年、これらの業務は海上保安庁海洋情報部に引き継がれ、世界に先駆けた電子表示の海図の刊行や我が国大陸棚を広げるための精密な海洋調査などを実施し、海洋立国の礎を築くとともに国際的な貢献を果たしてきました。平成23年、築地を離れるにあたり、140年に亘る長い歴史を刻んだこの地を発祥の地として後世に伝えることとしました。」日本の海図を作成してきたのは一貫して「水路部」という組織でした(局とか寮の時代も少しあります)。説明文にあるように、戦前は「海軍水路部」であり、戦後はそっくりそのまま海上保安庁に移されて「海上保安庁水路部」となります。発足は1871年で、当時は「海軍部水路局」との名称でした。1872年に海軍省ができ、同年「水路寮」となります。1886年に再び「水路局」となり、1886年に「水路部」となってからは一貫して水路部と呼ばれます。創設時は築地の海軍兵学寮内にあり、海軍省が芝から霞ヶ関に移って以降は、芝の旧海軍省跡地に移ったようです。現在の芝公園4号地です。その後1910年に海軍経理学校跡に新庁舎ができ、ここに移転後は2011年に江東区青海に移転するまで100年以上、日本の海図作成事業はここで行われました とネットから。そしてその奥にあったのが「排水溝遺構」。中央区築地5丁目3。「排水溝遺構この石組みは江戸時代に旗本屋敷地(大嶋家600石)と道路の境界につくられた都市施設である排水溝の一部を移設したものです。「築地五丁目遺跡」発掘調査で発掘されました。明治時代に旗本屋敷地は海軍用地となります。その際に道路側(左側)の側石は江戸時代の石をそのまま残し、海軍側(右側)と底板は大谷石に造り替えられました。この排水溝は昭和初期まで利用されました。」その先にあったのが「千代橋(せんだいばし)」。かつての築地川、今は埋め立てられた高速道の上に掛けられていた。この橋がかけられたのが大正15年のこと。築地川および旧築地川にかかる他の橋と同様、関東大震災からの帝都復興事業としてかけられたものである。中央区銀座8丁目19。「千代橋」。その後、前回訪ねた「新橋演舞場」を廻り込み、「采女橋」を渡り、次に訪ねたのが「海軍兵学寮・海軍軍医学校跡碑」。中央区築地1。「海軍兵學寮・海軍軍醫學校跡碑」海洋情報部は 、明治4(1871)年9月12日〔旧暦7月28日〕兵部省海軍部水路局とし て、現在の東京都中央区築地に創設されました。創設時の庁舎 は、海軍兵学寮(「寮」とは、律令制で省に付属する組織)の一室であったと記されています。海軍兵学寮の場所は、現在の東京都中央区築地の国立がん研究センター中央病院の敷地にあ たり、そこには海軍軍医学校跡の石碑と並び海軍兵学寮趾の石碑が設置されています。数名で発足した水路局は、まもなく増員され事務室が手狭となったことから、12月〔旧暦11月〕には「築地ホ テル」を買い上げて、翌5(1872)年2月〔旧暦 1月〕中旬までに移転しました。「海軍兵學寮址」碑。裏面。裏書「明治四年七月二十九日 海軍兵学寮ヲ 此地ニ新築ス」にあるとおり、水路局発足の場所を示すものであった。「海軍軍醫學校跡碑」。引き返して「采女橋東」交差点を右折し、次に訪ねたのが「市場橋公園」。「東京盲唖学校発祥の地 日本点字制定の地」の記念碑はこちら と。右手に「東京盲唖学校発祥の地 日本点字制定の地」碑。中央区築地4丁目15−2。正面から。「東京盲唖学校発祥の地 日本点字制定の地1879(明治12)年 ジョサイア・コンドル設計による校舎完成1880(明治13)年 楽善会訓盲院として開校1887(明治20)年 官立に移管 東京盲唖学校と改称1890(明治23)年 日本点字制定2010(平成22)年 11月1日建之 筑波大学附属視覚特別支援学校 筑波大学附属聴覚特別支援学校 記念碑実行委員会」この記念石碑は、視覚障害者にもわかりやすく作られていた。赤御影石に、学校の形をレリーフにしたプロンスがはめ込まれ、点字と墨字の年譜がかれていた。石碑のデザイン、文字、ブロンス制作などについては、筑波大学人間総合科学研究科芸術専攻の方々からの支援があったようです。横2x縦3の6点式「点字」👈リンクは、1890 (明治23 )年に更京盲唖学校の石川倉次によって考案された。これが「日本点字」として制定されて、現在国内で広く使用されているのだ と。もちろん、この案内板は「点字」が併記されていた。「東京盲唖学校」の形をレリーフにしたプロンスがはめ込まれていた。更に進むとあったのが「市場橋」交差点。その先にあったのが「築地場外市場」。中央区築地4丁目16−2。「築地場外市場」。築地場内市場(つきじじょうないしじょう)は、東京都中央区築地5 - 6丁目に1935年から2018年まで83年間にわたって使用されていた公設の卸売市場である。俗に「つきじいちば」とも読まれる。2018年10月6日に築地場内市場は営業を終了した。10月11日に豊洲市場が開場し、同日解体工事が始まった。東京都内に11か所ある東京都中央卸売市場の一つ。その規模は金額ベースで日本最大であり(面積では大田市場の方が広いが、取引金額は大田市場より大きかった)知名度は群を抜いていた。「築地場外市場全図」👈リンク。豊洲に移転したのは場内市場で、場外市場は変わらず築地にあるのだ。場内市場が移転してしまったら、食材の仕入れはどうなるの?と、思われるかもしれませんが心配はいらないと。業者をはじめ長年、場外市場を利用している方々に不便がないように、今までと変わることなく豊洲市場から多種多様な品物が卸されているとのこと。築地場外市場は、新大橋通りと晴海通りの交差する築地本能寺前の一帯にあり、アクセスが良いのも観光客が多い要因の一つである と。こちらが解かりやすいか。かっての「築地場内市場」の写真をネットから。市場内の設備配置は、当時の貨物輸送の主力であった鉄道の貨物引込み線(現在は廃止)の曲線にそった形に卸売り場、仲卸売り場が配置されていたことが確認できたのであった。上に見えるのが「隅田川」に架かる「勝鬨橋」「築地場外市場」周辺地図。「築地場外市場」に入り「波除通り」を南方向に進む。波除通りは築地場外市場の南西側の端にある、波除稲荷の前の通り。日本代表する市場である「旧築地 中央卸売り市場」とその脇にある「築地場外市場」の間にある。飲食店や活気ある商店などが軒を連ねている人気スポット。多くの台湾人、韓国人の若者の姿が。海鮮料理を食べたり新鮮な魚介類を買ったりすることはもちろん、全国各地から集められた食や雑貨の名品を売る販売店、地元の人や観光客に愛されるレストランなど、それら商店の多様さは訪れるだけでワクワクしてしまうほど!散策しながら美味しいもの、珍しいものを十分に楽しむことができるのであったが、この日の私は、夜には寿司を食べる予定であったのでグッ!!と我慢。正面に「連絡通路」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.03
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第62回佐倉市民花火大会(佐倉花火フェスタ2023)を楽しんだ翌朝8月6日(日)、6時前に起床し、「ウィシュトンホテルユーカリ」の我が部屋からの「ユーカリが丘」駅北口を見下ろす。正面にショッピングモール「ユーカリプラザ (YOU!PLA)」。右側には発車を待つ「山万ユーカリが丘線」の電車車輌。広場には2体の像が。佐倉市在住・久保浩 氏 作、女性像「歡び 水の燦き」(右)、男性像「歡び 森の耀き」(左)。1982年(昭和57年)11月2日 - ユーカリが丘駅 - (女子大駅) - 中学校駅間開業。1983年(昭和58年)9月22日 - 中学校駅 - (井野駅) - 公園駅間開業により全線開業。 環状運転開始。1992年(平成4年)12月3日 - 地区センター駅開業路線距離(営業キロ):4.1 km駅数:6駅(ユーカリが丘駅・地区センター駅・公園駅はそれぞれ1駅として計上)車輌:3両編成帰路は、京成本線、横須賀線を利用して新橋駅で下車し、前回訪ねることが出来なかった新橋周辺の汐留・築地・明石地区の名所、遺跡、神社等を巡ったのであった。JR新橋駅にあった壁画。「吉岡堅二作 くじゃく窓」。ズームして。JR新橋駅の地下ホームへと降りる通路に飾られたステンドグラス。烏森改札から入って右奥へ進んだところにあった。新橋駅の地下ホーム開業を記念したもので、制作のためのガラスは欧州から直接取り寄せられ、完成まで約1年の月日が費やされたという。「この作品は、日本の伝統的な美しさと気品をたたえる孔雀と明治5年汽笛一声の由緒ある新橋駅に因み鉄道の力強さを表現する機関車を題材に制作されました。左側の機関車は新橋-横浜間を運転した1号機の正面像で往時の姿をそのまま伝えています。右側の動輪はE102号機のもので、現在、青梅鉄道公園に保存されているものです。パリのノートルダム寺院のバラ窓に想を得て描かれたことから「くじゃく窓」と命名されました。」とネットから。孔雀は日本の伝統的な美しさと気品を表しているのであった。そして「ゆりかもめ 新橋駅」に向かって進む。「汐留タワー」と「日本テレビタワー」を見上げる。「汐留タワー」の上層部にザ ロイヤルパークホテル アイコニック 東京汐留、下層部に資生堂汐留オフィスが入る。高さ172m、最上階38階。「日本テレビタワー」が建物外部四隅に柱を露出させた理由は、容積率緩和措置を受けるため。その他、地上2階の受付前フロアを自由通路とすることによっても容積率緩和措置を受けているとのこと。高さ169m、最上階32階。前回訪ねた「亀の噴水」を再び。港区東新橋1丁目8。幸運を呼ぶ動物とされているアカウミガメの学名『Caretta Caretta』から名付けられた『カレッタ汐留』のシンボルとして親しまれている噴水。中国出身の世界的現代美術のアーティスト蔡國強(ツァイグォチャン)により、風水思想を元に巨大な自然石を都市に持ち込むことで自然とのつながりを体感させようとするもの。噴水は10時~22時の毎正時ごとに約20分間行われる と。「カレッタ汐留」。「カレッタ汐留」は、さまざまな種類の飲食店やショップのほか、日本初の広告ミュージアム「アドミュージアム東京」、「大同生命ミュージカルシアター 電通四季劇場[海]」といった文化施設を併設した複合商業施設。46階の展望スペースでは、無料で地上約200mからの東京湾のナイスビューを一望でき、同フロアのレストランでは昼も夜も景色を眺めながら食事を楽しめると。港区東新橋1丁目8−2。大同生命ミュージカルシアター 「電通四季劇場[海] 」の看板。首都圏における劇団四季の常設専用劇場。浜松町の四季劇場にも近く、さながら" リトル・ブロードウェイ" とも称すべき劇場文化ゾーン。劇場の客席は2階層約1200席。2階客席が、1階中央近くまでせり出し、ステージの躍動感、感動がじかに伝わってくる舞台設計となっている と。港区東新橋1丁目8−2 カレッタ汐留 1階。「朝露童子/Child of The Morning Dew [B2F]」作者:藪内佐斗司「亀の噴水」越しに「カレッタ汐留」を振り返る。右手奥に「日本テレビタワー」。港区東新橋1丁目6−1。北玄関脇の正面に「案内板」が。「江戸時代の仙台藩上屋敷跡」。港区東新橋1丁目2−5。「江戸時代の仙台藩上屋敷跡ここは、汐留遺跡の発掘調査によって、仙台藩上屋敷跡であることが確認された場所である。江戸時代、全国の大名は江戸に藩主や家臣団が住む藩邸を設けており、初代仙台藩主伊達政宗の時代には、外桜田(日比谷公園)や愛宕下(新橋五・六丁目)などに屋敷があった。この地には、寛永十八年(一六四一)、下屋敷が設けられ、延宝四年(一六七六)には上屋敷となり、以後幕末まで仙台藩の江戸における拠点となった。屋敷の東北部から汐留川(仙台川ともいう)に接するかたちで大きな舟入場が発見されている。下屋敷時代は、藩の物資の集積場・倉庫の役割を担っていたので多くの物資の出入りがあったと考えられる。 仙台市 日本テレビ」「伊達家芝上屋敷絵図亨保~天明(1716~1788)頃のもの。」仙台藩上屋敷全体が描かれた唯一のもので、発掘調査で大小2つの池や遣り水跡が見つかった。絵図の右手は汐留川、浜御殿、海へと続く。さらにズームして。再び、建物外部四隅に柱を露出させた「日本テレビタワー」を近くから見上げる。日テレタワーのゼロスタジオから、正面玄関に続く階段を見る。上方にあったのが「宮崎駿の日テレ大時計」。港区東新橋1丁目6−1。正面に見えたのが「汐留シティセンター」。2003年1月23日に竣工した、地上43階 地下4階のオフィスビル。建物中層から高層部にかけては深いエメラルドグリーンのガラスを一面に貼り、優美な曲線を描いた外観が未来的なイメージを創出し、低層部は新橋停車場跡との調和を考えて花崗岩に覆われたクラシカルなデザインとなっている。1階ロビーには、ダイナミックで斬新なデザインのレリーフ、油絵、彫刻などを視覚的に配している。そして日本テレビ本社にある「宮崎駿の日テレ大時計」の前に。宮崎駿監督が手がけた、からくり時計として、日テレ観光の目玉のひとつでもある。幅が16m、高さが12mもあり、1228枚の銅板を一枚一枚加工して作られている と。この大時計が設置されたのが2006年。企画から6年をかけて、日テレとスタジオジプリが作りあげた。デザインは、少しハウルの城に近いものがあるとのこと。これは、宮崎監督が大時計のデザインを手がけた時期と、『ハウルの動く城』の製作時期が近かったため、似たようなイメージになったのではないかと。反対側の緑地の先には「ゆりかもめ」が。「宮崎駿の日テレ大時計宮﨑駿監督(みやざきはやお)がデザインした大時計。仕掛けが溢れる美しい時計が時を刻んでいます。」「宮崎駿の日テレ大時計 演出スケジュール演出スケジュール月~金:12:00、13:00、15:00、18:00、20:00土・日:10:00、12:00、13:00、15:00、18:00、20:00※毎回、およそ3分前から演出が始まります。」。「日テレ屋日テレキャラクターショップ「日テレ屋」では、大時計をデザインした宮堝駿監督をはじめとする「スタジオジプリ」グッズを多く取り揃えて皆様をお待ちしております。大時計をご覧いただいた記念にぜひお立ち寄りください!」時計版の右に鍛冶屋一族。時計版の左に鐘一族。からくりが作動すると、彼らが動き出すのであった。左斜めから見る。この烏脚のデザインは、ほんとうにハウルの城と似ているのであった。「宮崎駿の日テレ大時計」👈の仕掛け用の歯車を見る。そして次に「汐留シティセンター」を見る。港区東新橋1丁目5−2。「汐留タワー」と「日本テレビタワー」を振り返る。次に「電通本社ビル」を訪ねた。安田侃「妙夢」。六本木の東京ミッドタウンにも、色違いの「妙夢」が展示されている と。港区東新橋1丁目8−1。広々としたエントランスを歩く。カレッタ汐留46・47階にはレストランと地上200mの展望台があり、お台場などの湾岸エリアや勝どき・晴海エリアが眺められるとのことで向かう。カレッタ汐留 46F シャトルエレベーター前にあったのが「関根伸夫 / 豊穣の海 “The Fertile Sea“」。高層階レストランフロアのエレベーター前に設置された作品。1970年代前後の日本でものに加工をせずそのまま提示することで新たな芸術表現を試みた「もの派」を代表する作家関根伸夫の作品。関根は「公共空間を活性化させるアート」として環境美術に精力的に取り組んでいる。タイトルは三島由紀夫の小説から転用したもの。枯山水をテーマに波紋や波、山、円錐を配置した石庭を表現している。台湾産の大理石、緑色蛇紋岩を使用している。カレッタ汐留 46階展望スペースの壁の装飾。近づいて。LEDの色が変化。カレッタ汐留 46階展望スペースからの展望を楽しむ。「東海道貨物線支線 東京市場駅跡」。「浜離宮恩賜庭園」の先の「豊海」方向の眺望。「浜離宮恩賜庭園」。東京湾から海水を取り入れ、潮の干満で景色の変化を楽しむ、潮入りの回遊式築山泉水庭。園内には鴨場、潮入の池、茶屋、お花畑やボタン園などがある。2000年代前半に西側の旧汐留貨物ターミナルが再開発されて汐留高層ビル群が林立し、庭園とコントラストを成している。江戸時代に甲府藩下屋敷の庭園として造成され、徳川将軍家の別邸浜御殿や、宮内省管理の離宮を経て、東京都に下賜され都立公園として開放された。近年、かつて園内にあった複数の建築物の再建が進められており、4棟のお茶屋などが復元されている。中央区築地5丁目のビル街。写真右手が浜離宮恩賜庭園を囲んでいる「築地川」。昭和時代の地図をネットから。汐留から貨物線が築地市場へと通じているのであった。国鉄東京市場駅は東京都中央卸売市場築地市場内にあり、カープした屋根の水産物卸売場に直接貨車を横付けできるようになっていました。貨物線は昭和62年(1987)に廃線となりました。そんな「築地市場」は豊洲移転のため、平成30年(2018)10月6日に最終営業日を迎えましたが、築地場外市場はこれまで通りに残されることになりました。エレベーターホール。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.09.02
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2023年で最も大きく見える満月「スーパームーン」が、8月30日夜から31日朝にかけて到来した。同じ月で2回の満月を「ブルームーン」とも呼ぶことから、今回は貴重な「スーパーブルームーン」👈リンク を楽しめたのであった私のデジカメで画質を低解像度の「VGA(Video Graphics Array)」に落としズームして撮影。スーパームーンはだいたい1年に1回見られるものの、もっと珍しいのはブルームーンであると。ブルームーンとは、同じ月に見られる2度目の満月です。暦において1ヶ月は、30日か31日(2月を除いて)なのが一般的です。それに対して、月齢周期の平均は29.5日となっています。そのため、1回目の満月が月の1日または2日の場合、次の2回目の満月は30日または31日になります。なので、1ヶ月の間に2回も満月が見られる現象が起こるのだと。今年は8月2日が1度目の満月だったので、昨日8月31日に2度目の満月を迎えることとなったのだ。今年はそれにスーパームーンの日が重なるので、なかなか珍しいと言えるのだ。ほぼ最大にズームして。繰り返しになるが、ブルームーン(Blue Moon)は1ヶ月のうちで2回目に現れる満月の事。英語で『Once in a Blue Moon』(極めてまれなこと)ということわざにもなっていると。ちなみにブルームーンと言っても、実際に青く見えるわけではない。『青い月』というよりも『希少な珍しい月』と考えた方が良いであろうと。諸説ありますが、『Double Moon(ダブルムーン)=2つの満月』が変化して『Blue Moon(ブルームーン)』になった説が有力なのだと。月は、約27.3日の周期で地球の周りを公転している。正確には、地球と月は、地球の中心から約4600キロメートル(地球半径の約4分の3)の地点にある共通の重心の周りを公転する。平均では、月は地球の中心から、地球半径の約60倍に相当する平均38万5000キロメートルの距離にある。平均軌道速度は1023m/秒(約3700km/hr)である。しかし、月の軌道は楕円形で、円形ではないため、地球上の観測者から遠ざかったり近づいたりする。地球から月までの距離である。平均は38万5000キロメートルであるが、月の軌道の近点では36万3304キロメートル、遠点では40万5495キロメートルである。下記の写真の数字は微妙に異なりますが。よって今年・2023年は最も遠い満月は2月 6日、約40万6000km最も近い満月は8月31日、約35万7000km であると。今年のスーパームーンの満月は、もっとも遠かった2月6日の満月に比べて、視直径が約14%大きく、光っている面積も約29%広く見えるのだと。次回の「ブルームーン」は2026年5月31日日本時間17:45とのことそして次の「スーパーブルームーン」が観測できるのは6年後の2029年3月30日だと。 ・・・END・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.09.01
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休憩する閑もなく次々と花火が頭上前方に。菊の模様・色も様々に。そして水上スターマイン、特大スターマイン(6000連発)は始まった。最後は二尺玉3連発。大空に打ち上げられ、宙を舞う大きな花火、そして夜空に散っていく儚さ。夜空に開花する幻想的且つ芸術的な光の大輪。日本的な感性を秘めたその美しさは、私たちの心を和ませてくれる素晴らしい光の芸術なのだ。花火職人が伝統技術を駆使し造り上げた花火の玉は、夜空で光の花を咲かせたときに初めて「花火」となる。その一瞬の映像の中で色・形・音、その全てが見るものを魅了するのであった花火職人たちの趣向を凝らした数々の演出に感動した1.5時間であった。観客が一体となり、花火職人の演出に拍手するような場面では、ますます気持ちが高まるのであった。帰路に感じたのであるが、我々が楽しんだ「有料観覧券」もあるが、早めに行って眺めの良い場所を確保して楽しんだり、地元で開催されるものであれば、住民ならではの自分たちだけの「秘密のスポット」で眺めるのも楽しみの一つであるのではと。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.09.01
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ユニークな形の花火も。そして再び大輪が次々と。そして二尺玉のスタート。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.31
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19:20になり「打ち上げ花火」👈リンクの開始がカウントダウンにて。印旛沼湖畔の会場で開催されるのは、実に4年ぶり。盛り上がる期待に応え、佐倉名物として知られる個性豊かな花火の打ち上げが企画されていたのであった。そのなかでも最大の目玉となるのが、ビッグ・プレミアム・スターマイン。会場に響きわたる音楽と連動し、約10分間で6,000連発もの花火が打ち上がる光景は圧巻!さらに、直径約500mの大輪が咲く2尺玉花火や、夜空を埋め尽くす尺玉30連発など、迫力ある花火が夏の夜空を彩ったのだ。「花火玉の開花時の大きさと到達高度」をネットから。花火玉の大きさの呼び方は、号や尺を用いられています。日本の昔からの数え方で、玉の大きさは尺貫法の“寸”が基準となっています。一寸は約3.03cmで、直径が三寸の9cmの花火玉は3号玉と呼びます。尺玉は十寸で10号玉、二尺玉は20寸で20号玉と呼びます。当社は20号玉、二尺玉まで製造しております。10号玉と比較すると玉の直径は倍で、重さは倍以上です。セットするときは、クレーンで花火玉を吊って降ろします。花火が打ちあがる高さと、花火が開く直径を考慮して、花火の魅力を最大限に引き出すよう演出構成をしています と。花火の距離と場所花火大会で打ち上げることができる最大の花火の大きさは「保安距離」によって決められている。保安距離とは、花火打上場所から観客、周辺付近の建物までの安全のための距離を言う。この保安距離は、各都道府県によって違う。より広い保安距離を確保できる場所では、大きな花火を打ち上げることができるが、市街地などの人口密集地では花火の玉の大きさや打ち上げ方が制限される。花火を打ち上げる場所には、野球場や陸上競技場、防波堤、畑、空地などがあり、交通規制により道路上での打上を行うこともある。場所によっては高圧電線や空港などの条件により打上が出来ない場所もある。花火の打ち上げ方花火の打ち揚げは手作業で点火するのではなく、安全のため主に電気点火遠隔操作を採用している。日本では1980年代あたりから遠隔操作が導入され始め、北陸火工でも職人・スタッフの安全性を確保すると同時に、正確に打ち揚げすることができるよう電気点火遠隔操作を採用している。また、打ち揚げを全てコンピュータによってコントロールすることも可能。1/30秒単位で発射や連射を実施し、完全な等間隔で打ち揚げをコントロールできます。同時にコンピュータ制御されていることにより、花火の点火をボタンひとつで止めることが出来るなど、急激な天候の変化に対応可能である。雨天の場合でも、防水処理を施しているので打ち上げることができる。また、強風など天候状況に応じて、指定する玉だけを発射させないようにすることも可能。花火ショーの最中に突風などが吹き、危険と判断した場合、小さい玉だけを打ち上げて、大玉を打ちあげない、とすることが打ち上げ中にもできるのだと ネットから。高圧鉄塔の裏側に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・日本製 ホテルスタイルタオル ビッグフェイスタオル 【圧縮】 【お試しSALE】 楽天1位受賞 / 約40×100cm タオル 小さめ バスタオル 厚手 吸水 1枚 ポイント消化 SALE 送料無料
2023.08.30
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今年は、長女のパートナーのご両親から、8/5(土)開催の「佐倉花火フェスタ 2023」へのご招待をいただきました。千葉県佐倉市で開催される花火大会。昨年・一昨年は打上げ場所を複数箇所に分散した「分散花火大会」として開催されてきたが、今年、2023年は4年ぶりに印旛沼湖畔で開催。印旛沼の広大な敷地を活かした尺玉30連発など大玉花火が打ち上げられ、佐倉の夜空が大輪花々で埋め尽くされるのだと。東海道線、常磐線、京成線を利用して、千葉県佐倉市にあるニュータウン・「ユウカリが丘」駅で下車し妻が予約していたホテルにチェックイン。予約するのが遅かったためか、ツインは満室とのことでシングルを2部屋予約。そして横須賀線、京成本線を乗り継ぎホテルにチェックイン。我がシングルの部屋。「佐倉花火フェスタ2023」ポスター。「佐倉花火フェスタ」は、例年8月最初の土曜に開催される。印旛沼湖畔で開かれる花火大会の歴史は古く、1956年(昭和31年)に開催された「樋之口橋納涼大会」がはじまりだといわれている。1989年(平成元年)から2004年(平成16年)までは「佐倉・国際印旛沼花火大会」として開催されるなど、名称の変遷を経ながらも、印旛沼の夏の風物詩として親しまれて来たのだ。「佐倉花火フェスタ2023」はケーブルネット296でもLIVE放送されるとのこと。そして、チェックイン後部屋で一休みした後、再び「ユウカリが丘」駅から待ち合わせ場所の隣の駅の臼井駅まで向かう。17時過ぎに臼井駅で待ち合わせ・合流し、花火会場の『佐倉ふるさと広場』に向かう。花火会場の印旛沼湖畔(佐倉ふるさと広場)まで徒歩にて向かう。線路沿いにあった「印旛沼浄水場」。工業用水として、JFE スチール や千葉地区の工業地帯に沼の 水が使われているとのこと。京成本線と水田地帯の間の道を歩く。水田の脇の畦道にブルーシートを敷き、無料見学席を確保する多くのお客さんの姿も。「京成臼井」駅からの徒歩の客を対象に多くの売店が並んでいた。そして徒歩約30分で「佐倉ふるさと広場」の花火の見学会場に到着。有料観覧席の入口に向かって進む。私のチケット・「Eブロック96番」。そして我々の有料升席から「オランダ風車」を見る。有料観覧席には、白いレンタルの椅子が並ぶ。西の空には、雲はあったが夕焼けが迫っていた。19時の開会を待つ。佐倉市民の楽団が演奏中。そして、印旛沼上空は赤く染まって来た。観客の数も多くなって。夕焼けを追う。オランダ風車も開会を待つ。佐倉市長・西田三十五氏の姿も。手筒花火用の法被(はっぴ)を纏って待機中。2019年の市長選で現職を僅差で破り初当選した佐倉生まれ、佐倉育ちの市長であるとFさんから。実行委員長?の挨拶。そして19時になり第62回佐倉市民花火大会(佐倉花火フェスタ2023)の開会。「手筒花火」スタートの法螺貝が。そして「手筒花火」👈リンク のスタート。関東内でも珍しい、迫力ある手筒花火を間近で見ることができたのであった。手筒花火は人が小脇に抱えたまま燃焼させる手持ち花火で、竹筒に火薬を詰めて荒縄を巻いた手筒から豪快な火柱が十数メートルも上がる。全身に火の粉を浴びながらの演舞は、圧巻!!2008年からはじまった公益社団法人 佐倉青年会議所による「手筒花火」を追う。オランダ風車を背景に。同時に手筒花火6本の共演。最後は7本の共演により手筒花火、前より増して白煙が猛々と。 ・・・つづく・・・
2023.08.29
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「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」の見学を続ける。展示物配置案内図。「汐留の記憶」。「汐留の記憶このあたりは、もとは藻の生い茂る海辺でした。江戸時代初期に埋め立てられ、溜池から海に通じる水路が江戸城外堀となりましたが、この付近にあった土橋に堰を設けて潮の干満が中に及ぶのを防いだことから、汐留という地名が生まれたようです。三代将軍家光のころ、龍野藩脇坂家、仙台藩伊達家、会津藩保科家がこの地に屋敷を拝領しました。1870 (明治3 )年、汐留の一角に鉄道建設のための最初の測量杭が打ち込まれ、1872(明治5 )年に鉄道が開業すると、この地は新橋停車場として東京の玄関となり、日本の近代化を象徴する場所となりました。1914(大正3)年の東京駅開業後は貨物専用の汐留駅となって、日本の経済発展を支えました。1934 (昭和9)年から1936 (昭和11)年にかけて汐留駅の大改良工事が行われ、本格的な貨物駅としての機能が強化されました。戦後も増強工事が行われ、復興と高度成長の時代を通じて、汐留駅は物流の大拠点として重要な役割を果たし続けましたが、1986(昭和61)年10月31日、その使命を終えて廃止され、114年の歴史に幕を下ろしました。」「芝口南、西久保 愛宕下之圖」。収図範囲は、愛宕山と増上寺を中心とした芝一帯。芝口橋から南へ金杉橋までの大通りは東海道。江戸最古の通りで、寛永年間には町地が形成されていた。東海道と愛宕山、増上寺に挟まれた一帯が愛宕下で、別名・大名小路。遠山金四郎の屋敷などがある。増上寺は徳川家の菩提寺で、秀忠をはじめ6人の将軍が眠る。増上寺の西には南禅寺塔頭の金地院がある。「黒衣の宰相」といわれた金地院崇伝が住した。愛宕山の愛宕神社は家康が征夷大将軍就任時に建立し、関が原の戦勝を祈願した勝軍地蔵を祀る。景勝地でもあり多くの人が遊山に訪れる名所。「尾張屋版「芝口南西久保愛宕下之圖(寛政2年改正)」左から明治13年迅速図、明治42年測量図(一万分の一)、昭和5年測量図(一万分の一)、平成12年地形図(一万分の一)。「汐留年表」。年表によって、汐留地区の移り変わりと鉄道の発展の歴史を紹介していた。「旧新橋停車場再建駅舎模型縮尺100分の1の模型によって再建された旧新橋停車場駅舎の全容を示していた。」「旧新橋駅停車場 駅舎の再建」「「旧新橋停車場」の駅舎を再建するにあたっては、残された遺構の寸法と当時の鮮明な外観写真に基づき、元と同じ場所に元と同じ外観を復活させることを基本方針としました。現行の建築法令を守り、耐久性のある建物を建てるためには、創建時と全く同じ材料、技法、構造を使うことはできませんが、できるだけ忠実に創建当時の姿を再現するように努めました。また、見学窓を設けて地中に保存される遺構の一部をじかに見ることができるようにしました。当時の外観について明確な資料が残されていない部分(正面玄関の中央部)や現代の必要に応じて新たに付け加えられた部分(電気、水道などの取り入れ部と車椅子用・スロープ)は、再現部分と異なる材料と意匠を用いて新たに創作されたものであることが分かるようにし、創建時の意匠と混同されることがないように配慮しています。」「左の二つの鮮明な竣工時の写真と発掘された遺構の寸法から、コンピューターによる3次元解析によって、外観寸法を正確に割り出しました。上:新橋駅の外観(横浜開港資料館)下:新橋ターミナルの開業式場(横浜開港資料館)」1階展示室の床の一部はガラス張りで、開業当時の駅舎基礎石の遺構を見ることが出来た。移動して。「駅舎とプラットホーム」。「旧新橋停車場の駅舎は、木骨石張り2階建ての左右の棟にはさまれて木造平屋の正面玄関があり、奥にあるプラットホームに通じていました。設計者はアメリカ人のR・P・プリジェンスです。プラットホームは長さ151.5m、幅9. 1m、高さ1.2mで駅舎側約90mに屋根がありました。」駅舎の基礎駅舎の2階建て部分の地盤を強化するために、2本(まれに3本)を一組にした長さ3.6mの松杭が多数打ち込まれていました。角材とカスガイが各組の松杭の頭部をしつかりと繋いでいました。」「石積み駅舎部分では切石の小ロ面と長手面が各段毎に交互に積まれ、5段目には笠石を乗せるための彫り込みの痕が残っていました。プラットホームの切石は最高で5段目まで残っていましたが、もとは笠石を含めて6段あり、上3段が地上に出ていました。最下段部分は小口面を揃えて横に並ばせ、2段目から小口面と長手面を交互に並べて積み重ねていました。上屋は駅舎側約90mの部分に建っていました。」「伊豆斑石石質は、伊豆下田周辺から切り出された凝灰岩の一種である”伊豆斑(まだら)石”。プラットホーム石積みや、駅舎基礎石積み、駅舎外壁にも使用されている。*伊豆石について伊豆石は大きく分けて安山岩と凝灰岩がある,旧新橋駅舎に使用されているのは後者。安山岩は硬い石で火山の溶岩が固まったもの。江戸城を始めとする石垣に利用された。もう一つの伊豆石,凝灰岩(軟石)は火山礫や火山灰が固まったもので構成粒子の違いで出来る層理面が美しく装飾的な部分にも多様された。江戸後期~明治時代の洋風建築に,その色合いの良さからさかんに利用された。現在はほとんど採掘されていない。往時の採掘跡空洞を,温泉浴室として利用しているホテルが下田にある。」「出土面出上した状態のままの面です。風化が進んでいるため当時の切断痕を見ることは出来ません。関東大震災で焼失するまで、約半世紀にわたって外気に触れていた旧新橋停車場の壁面にも、この出土面のような凹凸が出来ていたのかも知れません。」切断面この展示のために切断した面です。旧新橋停車場駅舎の創建当初の壁面についての説明した資料は見つかっていませんが、この切断面のように奇麗に仕上がっていたのかもしれません。」「駅舎玄関遺構こに残されているのは、正面玄関の階段の最下段として使われていた切石です。正面玄関の階段は9段あったことが、当時の写真から分かっています。」再び正面階段前の見学窓を覗く。埋め戻された旧新橋停車場駅舎正面階段の遺構を見ることができたのであった。旧新橋停車場駅舎の北側をみる。その先、左側にあったのが「パナソニック汐留美術館」。「パナソニック汐留美術館は、2003年4月に現在のパナソニック東京汐留ビル4階に、社会貢献の一環として開館しました。当館は、フランスの画家ジョルジュ・ルオー(1871-1958)の初期から晩年までの絵画や代表的な版画作品など約260点をコレクションしており、これらを世界で唯一その名を冠した「ルオー・ギャラリー」で常設展示するほか、「ルオーを中心とした美術」「建築・住まい」「工芸・デザイン」をテーマとした企画展を通じて、私たちのこころとくらしを豊かにする活動を続けています。当館は「東京・汐留」というロケーションを活かした都市型の美術館として文化的空間を創造し、芸術とのふれ合いを通して皆さまに新しい価値観と感動をお届けしてまいります。」と。港区東新橋1丁目5−1 パナソニック東京汐留ビル。次に訪ねたのが「汐留シティセンター」。シルバーに輝く巨大オブジェが迎えてくれた。港区東新橋1丁目5−2。作者:Zhan Wang 「展望 / heaven of matter」壁には巨大絵画も。詳細不明。ここにも。彫刻「Deep Six」。そして徒歩にて「ゆりかもめ新橋駅」の横を通過し「JR新橋駅」まで歩く。「JR新橋駅」の汐留口を出て左側、「ゆりかもめ新橋駅」の入り口の正面にあるモニュメント。港区新橋2丁目17−14。「D51機関車の動輪」。「D51機関車の動輪D51機関車は1936年(昭和11年)に誕生した機関車です。10年間で1115両と、日本のSLでは一形式で最多の両数が製造され、戦前、・戦後を通じて全国各地で、主に貨物用として活躍しました。「デゴイチ」などの愛称で親しまれ、蒸気機関車の代名詞にもなり、1975年(昭和50年)のSL最後の運転まで重用され、使命を全うしました。展示されている動輪は、1976年(昭和51年)の総武・横須賀線乗り入れ記念として、北海道の札幌鉄道管理局から譲り受け、鉄道発祥の地である新橋駅に設置したものです。」鉄道唱歌の碑1957年(昭和32年)、10月4日の鉄道開通85周年記念日に鉄道歌の作家、大和田建樹生誕100年を記念して新橋駅に建立されました。鉄道唱歌は、長い間私たちのために働いた鉄道を讃えるだけでなく、明治時代の文学者大和田建樹自身が実際に汽車に乗ってつぶさに日本国内を旅行した見聞録です。」そして隣に「鉄道唱歌の碑鉄道唱歌の作詞家大和田建樹先生は安政四年(一八五七)四月二十九日愛媛縣宇和島に生まる幼少國漢文に親しみ十五歳以降特に國学に志した明治七年十八歳の秋上京遊学十七年東京大学講師翌年高等師範学校教授二十四年辞任爾来又官任せず門を開いて歌文を教え地方に出講し行餘謡曲能舞を嗜む学は漢洋に亘り著述は辞典註釋詩歌随筆百五十冊を越えたが三十二年鉄道唱歌東海道山陽九州奥州線磐城線北陸地方關西参宮南海各線の五冊を連刊就中汽笛一声新橋をの一句で始まる東海道の部は普く世に流布して津々浦々に歌われ鉄道交通の普及宣傳に絶大の貢献をなした先生明治四十三年十月一日に没す享年五十四今年恰も生誕百年に當って先生の遺弟待宵舎同人の発起により東海道鉄道唱歌にゆかり深い新橋驛構内に碑を建て永く先生を記念する 昭和三十二年十月安倍能成」。作詞は、大和田建樹(おおわだ たけき)作曲は、多梅稚(おおの うめわか) という方々。鉄道唱歌は、日本に初めて鉄道が開業した28年後の明治33年に発表されたとのこと。全5集にわたり334番まであるという超大作※399番まであるという説もあると。地理教育 鉄道唱歌 第一集というタイトルで東海道編が出版されたと。汽笛一声新橋をはや我汽車は離れたり愛宕の山に入りのこる月を旅路の友として右は高輪泉岳寺四十七士の墓どころ雪は消えても消えのこる名は千載の後までも窓より近く品川の台場も見えて波白く海のあなたにうすがすむ山は上総か房州かそして「新橋駅・日比谷口SL広場」へ。この日は「新橋こいち祭り」が行われていた。植え込みもあり、また12:00、15:00、18:00には数秒間汽笛も鳴るとのこと。クリスマスにはイルミネーションで飾られ美しいいのだ。港区新橋2丁目7。2023年7月27日(木)と7月28日(金)の2日間、東京・JR新橋駅周辺で「第26回 新橋こいち祭」が4年ぶりにリアル開催と。お祭りの名称は、新橋地区に住む人、働く人、遊ぶ人に「小1時間 (こいちじかん)新橋で遊んで行ってください」という願いを込めて『新橋こいち祭』と命名されたとのこと。多くの出店ブースが並んでいた。そして多くの客がテーブルを囲んで。JR新橋駅方向を見る。特徴的な低中層階外壁の格子のある「ニュー新橋ビル」方向。港区新橋2丁目16−1。「愛のライオン像」。新橋駅日比谷口を出て交番の前、東京新橋ライオンズクラブ25周年を記念して、身心障害者のための募金箱として設置された作品。台座には「身心障害者に愛の手を」と記されて募金箱が置かれていた。港区新橋2丁目16−2 愛宕警察署新橋駅前交番。近づいて。「乙女と盲導犬の像」。これも新橋駅SL広場ニュー新橋ビルの前、盲導犬普及のために設置された銅像。東京虎ノ門ライオンズクラブによって設置された。この銅像の設置を機に盲導犬パレードや募金活動がはじまったという。当時の盲導犬はシェパードが主流だったことから、銅像もシェパードである。港区新橋2丁目16。台座には作詞家、脚本家の川内康範氏による詩が刻まれていた。「街はこんなにも明るいのにどこかに翳りがあるこころのささくれあなた語らずにぬくもりを求められずにぬくもりをあの街にこの街に 川内康範」そして、この日の目的地の大崎駅近くの事務所に向かったのであった ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.08.27
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次に訪ねたのが「旧新橋停車場駅舎」跡。日本初の鉄道が開通したのは、1872年(明治5年)。新橋~横浜間であった。日本最初の鉄道の始発駅、当時の新橋停車場は、現在の新橋駅からは東へ350mほどの、この汐留地区にあったのだ。港区東新橋1丁目5−3。駅舎の裏には、開業当時のプラットフォームも再現されていた。「プラットホーム構造プラットホームは「盛土式石積」という構造で作られています。両側面の真下には、溝状に地面を掘って基礎石を敷詰め、その上に切石を石垣のように積んで土留め壁が作られ、内側には土が詰められました。基礎石には龍野藩脇坂家・仙台藩伊達家両屋敷の礎石などが使われました。切石は笠石を含めて6段あり、地表には笠石を含めた上3段が出ていました。最下段部分は小ロ面を揃えて横に並ばせ、2段目から小口面と長手面を交互に並べて積んでいます。ただし、一律的に小口面と長手面が交互になっているわけではなく、2・3段目では小口面が続く個所もあり、4・5段目では長手面が並ぶ個所もあります。」「規模プラットホームの全長は151.5m、幅は9.1mありました。再現されたのはそのうち駅舎寄りの25mです。遺跡指定の範囲に残されているプラットホームの遺構は35mです。」正面から、プラットホームと駅舎を見る。「0哩(ゼロマイル)標識」が右側奥に。港区東新橋1丁目5。明治3年(1870年)に、測量の起点としてここと全く同じ場所に杭が打ち込まれた。「0哩(ゼロマイル)標識」。プラットフォームの横には、開業当時のレールのレプリカが。このレプリカは、日本鉄道発祥の地ということで、昭和11年(1936年)に作られたもの。「0哩(ゼロマイル)標識1870年4月25日(明治3年3月25日、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。1936 (昭和11)年に日本の鉄道発祥の地として0哩標識と約3mの軌道を復元しました。1958(昭和33)年10月14日、旧国鉄によって「0哩標識」は鉄道記念物に指定され、1965 (昭和)40年5月12日、「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として国の指定史跡に認定されました。創業時の線路創業当時、枕木やレールの台座(チェアー)は小石や砂の混じった土を被せられ、レールの頭だけが地表に出ていました。レール断面は上下対称のI型で、双頭レールといいます。この復元軌道の半分は小石を被せて当時に近い状態を再現し、残りは枕木や台座が見えるようにしました。双頭レールは錬鉄製で、1873年にイギリスのダーリントンで作られ、官設鉄道で使われたあと、新潟県柏崎市の製油所で使われたもので、新日本石油株式会社、新日本石油加工株式会社の両社からご寄贈いただきました。」。左側に廻り込んで。発掘現場も保存されていた。見学窓からは史跡となっているプラットホームの遺構を見ることができた。さらに駅舎側に廻り込む。「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」を南方向から。「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」を西側から。鉄道博物館 企画展「鉄道と制服~ともに歩んだ 150 年~」の開催案内。その左に「旧新橋停車場」入場案内。「芝地区旧町名由来板」。汐留(しおどめ)昭和七年(1932)、汐留町一、ニ丁目および新銭座町(しんせんざちょう)の一部を合併して設立された町で、当時は町域のほとんどが元汐留駅の構内に含まれており、北東に汐留川、東に浜離宮を控えた場所にありました。汐留川は土橋で堀止まりのため潮汐の干満は外堀には通じず、汐がこの堀で止まることから汐留川と呼ばれるようになりましたが、いつの頃からかこの辺りの地名のようになったとのことです。芝口(しばぐち)かっての豊島郡芝村(後に本芝、現在の芝四丁目)を中心として「芝」と呼ばれる広い地域へ通じる場所ということから芝ロと称されるようです。宝永七年(1710)には、一時期江戸の南の出入口として機能した芝ロ門がたてられ、門の南側の日比谷町一、ニ、三丁目は芝ロ一、ニ、三丁目と改称されました。文政年間(1818 ~ 1830)、芝ロ三丁目の名主を勤めた長兵衛の十一代前の先祖長兵衛は芝ロの前身、日比谷町の開拓者と伝えられています。源助町(げんすけまち)源助町は江戸時代のはじめ、名主役の無浪源助が創設した町屋です。その頃、源助町横丁の桑山家屋敷内には水が赤く、飲料にもならない「油の井」と称する井戸がありました。あるとき、この井戸から弁財天の像を一体掘り出したところ、美しい清水が湧き「弁天の井」と称するようになりました。この弁天様は明和六年(1769)、当時芝ロ三丁目にあった日比谷稲荷へ相殿(あいどの)して祭られるようになったそうです。」「汐留より蒸気車御開業祭礼之図(しおどめよりじょうきしゃごかいぎょうさいれいのず)」(部分)。ネットから完全な絵図を。明治5(1872)年9月12日の鉄道開業式の様子です。イギリスの記念式典の様子を参考にして杉で緑のアーチを作っており、紅白の提灯で飾り付けています。周囲では山車が練り歩き、見物客がごった返す様子はまさにお祭りといえるでしょう。この日、新橋停車場構内も公開されたため、駅舎の窓には人の姿がちらほらと見えています。1883年(明治16年)測量の五千分の一地図。平成18年(2006)の地図。ズームして。現在の周辺地図。「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」案内板。「旧新橋停車場この建物は、1872(明治5)年10月14日(太陽暦)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置に、できるだけ忠実に再現したものです。新橋停車場駅舎は, アメリカ人 R.P.プリジェンスの設計により、1871(明治4)月5日に着工、同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていました。1914(大正3)年, 新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り, それまでの烏森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり, 貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称, 物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えました。文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は, 1923(大正12)年9月1日の関東大震災に際して火災のため焼失し, 1934(昭和9)年から始まった汐留駅改良工事のため, 残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体されました。1986(昭和61)年, 汐留駅はその使命を終えて廃止され, 跡地の再開発工事に先立ち埋蔵文化財発掘調査が1991(平成3)年から行われた結果, 旧新橋停車場駅舎とプラットホームなど構内の諸施設の礎石が発掘されました。1996(平成8)年12月10日, 駅舎とプラットホームの一部の遺構が史跡「旧新橋停車場跡」として国の指定を受け, この史跡を保護しつつわが国鉄道発祥の地を偲ぶために, 駅舎を再建することになったものです。」石段の先に「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」の入口があった。港区東新橋1丁目5−3。入口左側にあったのは、再開発の際に発掘された初代駅舎の玄関遺構 と。「開館中 入場無料」。「鉄道歴史展示室」。「第61回企画展 鉄道と制服 ~ともに歩んだ150年~」。1872(明治5)年10月14日、新橋~横浜間に日本で最初の鉄道が開業して以来、昨年で150年を迎えたが、鉄道の長い歴史はそのまま制服の歴史にもなり得る深い関係がある。制服は「鉄道営業法」(1900年公布の現行法)という法律により、旅客及び公衆に対する職務に従事する職員について着用が義務付けられている。鉄道開業当初、最初に定められた制服はわずか6種だったが、その後の鉄道の発達や世相を反映しながら度重なる改定を繰り返し、今日に至っている。本展では、明治以来の国有鉄道およびJR東日本の制服を中心に、鉄道の歴史をふまえながら制服のたどってきた道のりを振り返る。■会場:旧新橋停車場 鉄道歴史展示室 東京都港区東新橋1-5-3■会期:2023年7月25日(火)~11月12日(日)■休館日:毎週月曜日(9月18日・10月9日は開館)、9月19日、10月10日■開館時間:10:00~17:00■入場料:無料「第61回企画展 鉄道と制服 ~ともに歩んだ150年~1872(明治5)年10月14日、新橋~横浜間に日本で最初の鉄道が開業して以来、昨年で150年を迎えましたが、鉄道の長い歴史はそのまま制服の歴史にもなり得る深い関係があります。制服は「鉄道営業法」(1900年公布の現行法)という法律により、旅客及び公衆に対する職務に従事する職員について着用が義務付けられています。鉄道開業当初、最初に定められた制服はわずか6種でしたが、その後の鉄道の発達や世相を反映しながら度重なる改定を繰り返し、今日に至っています。本展では、明治以来の国有鉄道およびJR東日本の制服を中心に、鉄道の歴史をふまえながら制服のたどってきた道のりを振り返ります。企画展内は撮影禁止でしたので、内容については「鉄道博物館」の「案内書」👈リンクにアクセス願います。「旧新橋停車場復元駅舎 竣工記念」と。「第61回企画展 鉄道と制服 ~ともに歩んだ150年~」会場を出て、他の展示品を訪ねた。「史跡 旧新橋停車場跡史跡指定日本最初の鉄道を新橋横浜間に建設するために、両端から測量が始まった時、新橋側の起点となったのが、この建物の外にある「0哩標識」のある地点です。東京駅が開業するまで東海道本線の起点となりました。当初の駅舎は関東大震災時に焼失しましたが、1934 (昭和9)年から汐留駅改良工事が行われた時、諸資料をもとに起点を割り出し、0哩標識と線路の一部を1936 (昭和11)年に再現しました。1958 (昭和33 )年10月14日、当時の国鉄が「0哩標識」を鉄道記念物に指定し、1965(昭和40)年5月12日には「旧新橋検浜間鉄道創設起点跡」として国史跡に指定されました。1991 (平成3)年6月から開始された発掘調査において、駅舎やプラットホームなどの遺構が良好な状態で出土しました。1996 (平成8)年12月10日には史跡名を「旧新橋停車場跡」と変更し、指定範囲を駅舎とプラットホームの一部(35m)を含めた面積1,824m2に拡大しました。この建物は、史跡を末永く保護しながら往時の駅舎の外観を再現するために、遺構の真上、当時より70cm高い位置に造られました。」明治1 4年新橋停車場平面図この平面図は開業から10年ほど経過した時のものです。施設はそれほど増えておらず、構内の真ん中辺りを通っている会仙川以南には、明治15年に開業する「東京馬車鉄道会社」の建物が記載されていますが、その他はほとんどが空き地となっています。明治中期には空地部分を利用して車両の製造や修繕をする設備が増強され、新橋工場と呼ばれるようになります。」発掘調査により出土した遺構の全体像。右に長くのびているのがプラットホームで、左側が駅舎の跡。駅舎とプラットホームの一部は「旧新橋停車場跡」として国の史跡に指定されています。(東京都教育委員会所蔵)明治14年新橋停車場平面図「新橋停車場平面図 縮尺四千分之弐」「旧新橋停車場の遺構図」。ズームして。「旧新橋停車場の遺構の航空写真」。「ターンテーブル周辺」。「汐留遺跡発掘調査範囲(赤)東京都教育委員会発行「江戸復原図」江戸復原図は、現代の東京の地形図に未の江戸の町割を書き写し、当時の武家地、寺社地、町地などの位置が正確に分かるようにしたものです。」一階展示室の一部の床は、素通しのガラス張りになっていた。その下には、旧新橋停車場駅舎の基礎石が並んでいた。また2階展示室には、懐かしの改札鋏なども展示されており、ああ昔はこんなので切符を切られて改札を通っていたななどという思い出に浸れる展示室になっていたのであった。「出土品が語る旧新橋停車場 汽車土瓶」。お茶を入れる容器として用いられた汽車土瓶。ごみ穴から多量に出土したのだと。「出土品が語る旧新橋停車場 鉄道遺物」。改札鋏やチッキが。チッキは、鉄道などが旅客から手荷物を預かって輸送するときの引換券。手荷物預り証。「出土品が語る旧新橋停車場 鉄道遺物工具類など鉄道業務に用いられた金属製品。」。「旧新橋駅で出発を待つ列車」。鮮明な写真をネットから。写真は1877(明治10年)頃の初代「新橋駅」のホームにて出発を待つ列車の様子で右奥に駅舎が見える。ホームの長さは150mほどであった。SLは1872(明治5)年の鉄道開業時にイギリスから輸入された「15号(開業時は4号)機関車」で、1両の貨車と10両の客車が連結されている。「通信省の塔から見た新橋停車場」。「出土品が語る旧新橋停車場 外国製品」。クレイパイプ、ガラス瓶。「旧新橋駅構内の扇型機関車庫の前に立つお雇い外国人と日本人雇員」手前には転車台が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.26
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「銀座三越」で開催中の「アートアクアリウム美術館 GINZA」を楽しんだ後は、晴海通りに出て、「銀座四丁目」交差点から「セイコーハウス銀座 時計塔」を見る。中央区銀座4丁目5−11。現在の建物は2代目で、関東大震災からの復興の証として1932年に完成したもの。火災や地震を考慮して頑丈な天然石が施され、屋上には時計塔が作られた。この時計塔は4面に向けられた時計があり、正時のたびにチャイムを鳴らし、街を往来される方々に時を知らせる役目をしてきた。当時はまだ時計を持ち歩く習慣がない人も多かったため、暮らしの中に時間という概念が浸透することにも貢献してきたのだと。竣工から91周年を迎えたが、これまで外観はほとんど変わることなく、一方で銀座の街はどんどん変化を重ねてきた。時計の会社にある時計塔ですから、高い頻度で丁寧にメンテナンスを行い、常にずれることなく、現在も時を知らせていると。文字通り、銀座の街と共に過ごしてきた建物。時間は13:30前。その対角線上にあったのが、「GINZA PLACE(銀座プレイス)」。地上11階・地下2階の複合商業施設。建物は透かし彫りをモチーフに、日本の伝統工芸の美しさを表現した存在感ある外観デザインが特徴的。まるでフルーツキャップとして使われる緩衝材で覆われているが如し。中央区銀座5丁目8−1。再び「セイコーハウス銀座 時計塔」を見る。「中央通り」を新橋駅方向に進むと、右手にあったのが「ユニクロ銀座店」。「イチローPOSTはじまりました。きみの声がイチローに届く、特別なポストです。「きみが好きなこと、向き合いたいことってなんですか?」小学生・中学生のみなさんに質問です。きみのこたえやイチローさんに伝えたいことを、ユニクロのポストや、WEBサイトから届けてください。答えてくれたきみのことを、ユニクロはイチローさんと応援したい。会いに行きたい。自分の言葉で伝えて欲しい。きっとそれがきみの新しい一歩になる。」中央区銀座6丁目9−5 1-12F ギンザコマツ東館。「ユニクロ銀座店」の店内。そして訪ねたのが「豐岩稲荷神社」。東京都中央区銀座7丁目8。「豐岩稲荷神社」「銀座七丁目 豐岩稲荷神社」と書かれた幟が並ぶ。ビルの狭間の1m程の細い路地にまつられた神社は、ちょっと不思議な異空間。手前左に石碑と手水場。この石碑には「寄進者芳名」と。「参拝者のみなさまへ1.御守り(令和5年)と御朱印書き置きがあります。 お渡し場所は当神社地下1階 社務所 〇参道入り口左にある階段を下りてください。 〇社務所は毎週月曜日・火曜日・金曜日が開いております。 時間は10時30分~ 15時30分 ※12時~ 13時は昼食休憩 社務所の都合で曜日を変更する場合があります。 当神社についてのご質問・照会等は電話またはメールをご利用ください。 定休日に頂いた電話・メールは出勤日に返信いたします。 豊岩稲荷神社社務所 TEL 03-6264-5639 E-mail:ginnana77@yahoo.co.jp」左手に拝殿が。「狛犬」。右(阿形)。左(吽形)。扁額「豐岩稲荷大神」。「豐岩稲荷神社御祭神 稲荷大神、宇気母智神(うけもちのかみ)」例祭日 四月十五日由緒 当社は、江戸初期からこの地(銀座7-8-14)に火防(ひぶせ)神・縁結神として 信仰を集め、銀座7丁目町会の守護神として篤い信仰を集めてきた。 稲荷の神は、保食(うけもち)神(宇気母智神)あるいは倉稲魂(うがのみたま)神と 称し、稲のみ魂、また人間の生活に最も必要な食物を守護し給う神として、伊勢神宮の 外宮、京都の伏見稲荷大社始め、全国の稲荷の御祭神として、広く信仰されている。 当社は、明智光秀の家臣 安田作兵衛により祀られ、昭和の初めには歌舞伎の名優 市川羽左衛門(いちかわうざえもん)丈を始め、芸能関係者の崇敬が厚かった明治3年 (1870年)以降、当銀座の氏神である山王日枝神社(元官幣大社)の神職により 祭祀はとり行われ、永年の宿望であった御社殿以下の御造営事業及び境内地の保全が 平成5年(1993年)秋、地元町会関係者及び特別崇敬者 中塚成紀氏等の奉賛により なされたのである。 平成五年十一月 銀座七丁目自治会」そして新橋駅方向に進むと、右手にあったのが「金春湯(こんぱるゆ)」。文久3年(1863年)、金春湯は銀座に開業。当初は木造建てであったが、昭和32年に改築し、ビル内に銭湯を構える現在の形に。改築当時はビル内に銭湯を構えることは珍しいことであった。また、周囲に高い建物がなく、このビルが一番高い建物であった。江戸時代、この界隈に金春流の能役者の屋敷があったことからの店名と。昭和43年の時点では銀座だけでも8軒の銭湯が存在したが、現在では1丁目の公設「銀座湯」と、こちら8丁目の「金春湯」を残すのみとなってしまった と。中央区銀座8丁目7−5。その先「御門通り」との角の手前にあったのが「金春通 煉瓦遺構の碑」。中央区銀座8丁目7−11。正面から。「金春通 煉瓦遺構の碑平成五年九月吉日銀座金春通会建之」「銀座は日本に二箇所しか建設されなかったきわめて貴重な煉瓦街の一つです。もう一つは丸の内の煉瓦街でした。しかし今日では残されたこうした遺構から明治時代の煉瓦街を窺い知るほかはありません。設計者はトーマス・ジェイムス・ウォートルスというイギリス人です。フランス積みで、明治五年から十年にかけて当時の国家予算の四%弱を費やし、延べ一万メートル余もあったといわれています。この煉瓦は銀座八丁目八番地(旧金春屋敷地内)で発掘されたものでゆかりの金春通りに記念碑として保存される事になりました。下の絵は、明治初期のガス灯や張り板、提灯など当時の金春通り煉瓦街を偲ばせる古い写真を元に銅板に彫金したもので、見る角度により昼夜の陰影が出るよう微妙な細工が施されております。銅板画制作 第十一代 銅昭」。「金春屋敷跡所在地 中央区銀座八丁目六~八番地域江戸時代、幕府直属の能役者として知行・配当米・扶持を与えられていた家柄に、金春(こんぱる)・観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金剛(こんごう)の四家がありました。能楽は室町時代に足利幕府の保護奨励を受けて発達し、安土桃山時代には熱心な愛好者であった豊臣秀吉の保護を受け大いに興隆しました。特に、金春家は秀吉の強力な保護を受け、能楽の筆頭として召しかかえられました。江戸幕府も秀吉の方針を踏襲して能楽を保護し、金春・観世・宝生・金剛の四座を幕府の儀礼に深く関わる式楽と定めました。元禄六年(一六九三)頃の江戸市中の状況を記した「国花万葉記」によると、金春大夫は山王町(現在の銀座八丁目)・観世大夫は弓町(現在の銀座ニ丁目)・宝生大夫は大鋸町(現在の京橋一丁目)・金剛大夫は滝山町(現在の銀座六丁目)に屋敷を拝領していたとあります。金春家は、寛永四年(一六二七)に屋敷を拝領したといわれ、寛永江戸図『武州豊島郡江戸庄図』には「金春七郎」の名を確認でき、現在の銀座八丁目六・七・八番辺りに図示されています。後に屋敷は麹町(現在の千代田区)に移りましたが、跡地には芸者が集り花街として発展しました。金春の名は、「金春湯」・「金春通り」などと、今もこの地に残っています。 平成二十一年三月 中央区教育委員会」「第39回 能楽今春祭り」案内。そして首都高速道路をくぐりると左手にあったのが「新橋親柱」。港区新橋1丁目6。「港区の文化財 新橋親柱」。「新橋親柱は、かつて新橋と銀座の間を流れていた汐留川に架けられていた橋で、昭和38年(1963年)、川の埋め立て工事とともになくなりました。現存する新橋親柱は、大正14年(1925年)に長さ20m、幅27mの鉄筋コンクリートで作られた橋の一部です。地域名の由来を今に残す貴重な遺構です。平成30年(2018年)1月15日 港区文化財総合目録登録 港区教育委員会」そして「銀座柳の碑」。~銀座煉瓦街を美しく彩った柳の記念碑~銀座煉瓦街の完成時、街路樹として松・楓(かえで)・桜などを植えたがすぐに枯れてしまった。代わりに柳を植えたところ、それが根づいた。その後、道路拡張や大火により何度か柳が銀座から姿を消したが、地元の人々の尽力によりよみがえり、柳の緑が一面を覆うようになった。記念碑には『銀座の柳』の歌詞と譜面が刻まれている。港区新橋1丁目6−9。「銀座柳の碑西条八十 : 作詞中山晋平 : 作曲植えてうれしい 銀座の柳江戸の名残りの うすみどり吹けよ春風 紅傘日傘今日もくるくる 人通り (その先の歌詞です。)巴里(パリ)のマロニエ 銀座の柳西と東の 恋の宿誰を待つやら あの子の肩を撫でてやさしい 糸柳恋はくれない 柳は緑染める都の 春模様銀座うれしや 柳が招く招く昭和の 人通り」「銀座の柳 二世」。「銀座の柳 二世」の案内板の上には、鳩の姿が。そして次に訪ねたのが「日テレタワーゼロスタ広場」。この先に「日本テレビタワー」があったが、次回に。港区東新橋1丁目6−1。「シオタマ」が並ぶ。シオタマは、日本テレビが本社屋を東京都千代田区二番町(日本テレビ放送網麹町分室)から東京都港区東新橋(汐留シオサイト地区・日本テレビタワー)に移転する際、新キャラクターとして位置づけられたものである。 初登場は2003年8月2日に日本テレビ系列で放送されたスペシャル番組「ダウンタウンのバラエティ50年史」。水玉模様の人型オブジェが沢山!四つん這いになって一列に並んでいたり、円になって並んでいたりと一度見たら忘れられないオブジェ。「日テレタワー」を見上げる。「カレッタ汐留」の「亀の噴水・Turtle Fountain 」[B2F]作者:蔡國強(ツァイグォチャン)港区東新橋1丁目8。10:00~22:00の間、毎時1回・ 20分間のショー👈リンクを行っているとのこと。現在位置はここ!!「ここに陸蒸気の新橋停車場がありました明治5年(1872年) 10月14日に新橋停車場が開業し、新橋~横浜間(現在の桜木町駅)に日本で最初の鉄道が開業しました。開業当時は総延長28.8kmを約53分で結び、陸蒸気と呼ばれたその列車の速度は時速35kmで「風のごとく火竜のごとし」と驚き恐られました。大正3年(1914年) 12月に新橋停車場は汐留駅と名前を変え、貨物専用駅として昭和61年(1986年)まで活躍しました。日本テレビブラザの中に当時の新橋停車場のホーム先端があり、その位置と線路跡をLED(発光ダイオード)で表示しています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.25
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「金魚蒐集(きんぎょしゅうしゅう)」ふだんなかなか目にすることのない珍しい品種を中心に、種類ごとにアートギャラリーのように展示をしています。ライティングの演出とともに、金魚を様々な角度から見られるようにしています と。円型の水槽で様々なシルエット・体色の金魚が一挙に見られる金魚蒐集。この水槽も照明の色合いが刻一刻と変わります。近づいて。「猪目リウム」日本古来から魔除けや福を招く意味合いで使われているハートのような文様、猪目(いのめ)。古くから神社仏閣の建築装飾として随所に見ることができます。その猪目をモチーフとした窓が水槽となり、その窓から外に広がる景色のなかを金魚たちが優雅に泳ぎます。窓に見立てた水槽に伝統的な図柄である猪目をあしらい、気ままに泳ぐ金魚を窓から眺める形式。その窓を覗けば、奥に展示されている天空リウムが現れ、まるで水中に建てられた宮殿のように見える。猪目リウムと天空リウムのコラボレーションをぜひ堪能してほしい と。そして最後にお土産「ショップ」を訪ねた。アートアクアリウム美術館GINZAの想い出をお持ち帰りいただくために、日本を代表する老舗店とのコラボ商品を含め、ここでしか購入できないオリジナルの金魚グッズをご用意しました。様々な柄の手ぬぐい。金魚のぬいぐるみM・L・XLの3サイズ展開の金魚のぬいぐるみ。廻り込んで。団扇。ふきよせ金魚。近づいて。「ふきよせ金魚水辺を泳ぐ金魚を題に、小さな米菓を詰め合わせて夏の風情をを味わうふきよせを作りました。」これは??クリアーファイル。金魚×アート傘。アートアクアリウム・新金魚品評にいる金魚たちそして出口へ。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.08.24
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続いて浮世絵師「歌川国芳」コーナーへ。江戸時代末期の浮世絵師である歌川国芳の作品から、金魚と鯉が描かれているものをニ十点余り収集し展示しています。日本美術を代表する国芳は「奇想の絵師」などとも呼ばれ、ユーモラスで大胆奇抜な作風が人気を博しました。江戸時代に庶民にも親しまれるようになったという金魚鑑賞の歴史を、国芳の作品から感じながら、アートアクアリウムを楽しんでいただきたいという想いでこの歴史ある浮世絵を展示します。「歌川国芳歌川国芳(1797 ~1861)は、幕末の江戸・日本橋に生まれ、画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデアと確かなデッサン力で、浮世絵の枠にとどまらない広汎な魅力を持つ作品を多数生み山した浮世絵師です。国芳の魅力はなんと言っても、限りなく広がるイマジネーンヨンの世界にあります。物語の夢と冒険とロマンの世界を具現化する手腕においては、他に並ふ者のいない卓越した才能を示し、まさに江戸のグラフィックデザイナーとも呼ふことができるでしょう。題材やジャンルも武士絵、役者絵、美人画、風景画といった伝統的なものだけではなく、ウィットとユーモアに富んた戯画、時事報道画、こども絵とさまざまな分野で個性的な作品をしており、その作品は、浮世絵ファンはもとより現代のデザイン関係者や若い世代にも注日され、国際的にも高い評価を得ています。ギャラリー紅屋1980年、東京・青山に創業江戸時代の浮世絵をメインに援う古美術ギャラリーです。葛飾北斎、喜多川歌麿を含む貴重な浮世絵を多数保有し、なかでも歌川国芳の取り扱い点数は世界屈指を誇ります。過去には、森アーツギャラリー(東京)、シーボルトミュージアム/シーポルトハウス(オランダ)、パリ市立美術館/プティ・パレ(フランス)など国内外の美術館で企画された歌川国芳展に協力するなど、ギャラリー紅屋は世界を席巻する国芳プームの立役者といえるのです。ギャラリー紅屋主宰国芳展実績(作品協力)1995年 東京大丸他 (毎日新聞)2010年 府中市美術館 (日本経済新聞)2011~2022年 森アーッセンターギャラリー他 (日本経済新聞)2013年 福岡大丸他 (日本経済新聞)2013年 ライデン/シーボルトミュージアム (オランダ)2015年 パリ/プティ・パレミューシアム (フランス) (日経新聞)2017~2018年 ミラノ/パルマネンテミュージアム (イタリア)ギャラリー紅屋/〒107-0062 東京都港区南青山3-10-41 ジュエル青山501近年、国内外で展覧会が数多く開催され人気急上昇中の浮世絵師・歌川国芳。その国芳が手掛けた浮世絵シリーズ「金魚づくし」は、金魚に加えてカエルやカメなどの水中の生き物たちを擬人化し、ユーモアたっぷりに描かれています。笑い、走り、歌い、踊る金魚たちの姿は、見る人を思わず「カワイイ」と微笑ませてしまうほど生き生きとしてコミカル。江戸時代後期には、金魚は庶民の間でもペットとして飼育されるようになりました。そんな自分のペットの様子を描いた浮世絵に、江戸っ子たちは夢中になったことでしょう。近年、日本のポップカルチャーを形容する単語として世界に定着しつつある"Kawaii"の歴史は、こうして江戸時代の浮世絵、国芳の「金魚づくし」の中に既に見ることができます。歌川国芳「金魚と源氏 三枚続」歌川国芳「池の金魚とねこ大判錦絵三枚続 嘉永4年(1851)頃」。歌川国芳 「泉水舟乗初」。歌川国芳 「金魚づくし 百ものがたり」。ピンボケなのでネットから。「金魚づくしシリーズは、金魚をはじめとする水中の生き物たちを擬人化し、面白おかしく描かれた浮世絵で、国芳が得意としたいわゆる戯画です。百物語は、江戸で流行った怪談会のことで、百本の蝋燭を火に灯し、怪談話が一つ終わる毎に一本火を消していきます。最後の明かりが消えると闇の中から化け物が現れるとされていました。本図は、まさに最後の話が終わって、化け猫が出てきた瞬間を描いています。」化け猫に驚き、ひっくり返る金魚の姿が愛らしい!!「さらいとんび」。あ!トンビに油揚げをさらわれた!「玉や玉や」しゃぼん玉売りが来たよ!歌川国芳「似たか金魚」。歌川国芳「金魚にめだか」。「歌川国芳 源氏物語/団扇絵」源氏物語10巻「賢木(さかき)」を再現した作品。ネットから。右上に「源氏香」が描かれている。「いかだのり」ひれをまくって男らしく歌川国貞 「鯉 坂東三津五郎 尾上栄五郎 岩井繁三郎」。歌川国芳「鬼若丸の鯉退治」1845年ころ歌川国芳「其面影程能写絵 猟人にたぬき」。歌川国芳「其面影程能写絵 金魚にひごいっこ」。歌川国芳 「三十六會席 大工六三郎(1852)」。歌川国芳「鯉つかみ」。「鯉つかみ」は歌舞伎の演出のひとつ。主人公が鯉の精と水中で格闘する様を主題とする作品の総称。錦絵の画題は『神田川の与吉』で、嘉永2年 (1849年)上演の『天竺徳兵衛韓噺』の四代目坂東彦三郎が演じる一場面として描かれている。ネットから。一勇斎国芳「十六武蔵坊」。歌川国芳の画号は文政初年から万延元年にかけて一勇斎国芳 と。ネットから。歌川国芳「西塔 鬼若丸」。歌川国芳 「坂田 怪童丸」。歌川国芳 「鬼若力之助」。歌川国芳「西塔 鬼若丸」。一勇斎国芳「黒鯉・なまず」。一勇斎国芳「小倉擬百人一首 陽成院」。『筑波嶺(つくばね)の 峰より落つる 男女川(みなのがは) 恋(こひ)ぞつもりて 淵(ふち)となりぬる』現代語訳筑波のいただきから流れ落ちてくる男女川(みなのがわ)が、最初は細々とした流れから次第に水かさを増して深い淵となるように、恋心も次第につのって今では淵のように深くなっている。歌川国芳「稚立功名鑑 鬼若丸」。「コラボアート」そしてこちらは、新世代シンガー「yama」と、3人のイラストレーター「ともわか」「雪下まゆ」「凪」という注目のネットクリエーターたちが、「女性と金魚/鯉」をテーマに制作した新作も展示しています。ミュージアムショップではグッズも販売されています。正面から移動して。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.23
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次に訪ねたのが「フラワーリウム」。華道家・假屋崎省吾氏とのコラボレーション作品「フラワーリウム」。季節にあわせて花の演出をかえてきた本作は、夏の代表的な花、向日葵“ひまわり”が彩ります。金魚と孔雀との組み合わせ。雀の胴体のところが金魚、羽の部分には胡蝶蘭、そして本物の孔雀の羽が。金魚の部分を追う。世界に誇る日本の芸術と文化「金魚といけばな」を重ね合わせた大胆で華やかな作品。【假屋崎さんコメント】金魚&假屋崎省吾の世界初のコラボレーション企画ということで、期待に胸をふくらませております。金魚と花、この世が生みだした完成された美をどのように共演できるか私自身も本当に楽しみで仕方ありません。世界に誇る日本の芸術、金魚といけばなの世界初のコラボレーションをご来場の皆さまにぜひご堪能いただければと存じます。花瓶に見立てた水槽のなかを金魚が舞う作品。胡蝶蘭も。いたるところにヒマワリの花が。新作の水槽作品「障子リウム」。戸枠の一部がガラスになっている障子“雪見障子”をモチーフにした水槽で金魚が舞い泳ぎ、日本庭園を思わせる美しい景色を楽しむことができるのであった。和の家屋から庭園の季節の移り変わりを眺める雪見障子をモチーフにした作品。京都・大徳寺、塔頭孤篷庵の茶室「忘筌席」にある、下吹き抜け障子に着想を得ている と。障子の下で泳ぐ金魚の奥には雪が降り積もる日本庭園。静と動が共存していて不可思議であり心に染みる風景。「お面蒐集」。狂言や祭りなどで欠かせないお面。鬼、翁、能面、狐など、独自に蒐集された歴史あるお面の数々が壁一面に飾られています。規律よく並んだお面は、生々しくて迫力があり、心の中を」見透かされているよう……。金魚はいませんが、匠の技に触れる必見の場。表情豊かな面を追う。英語版「ART AQUARIUM WORLD GINZA」案内ディスプレイ。「新行燈リウム日本の伝統的な照明器具である行燈をモチーフにした作品。火袋には魔除けの意味合いを持っ麻の葉模様をあしらっています。揺らめく炎のように光の中を泳ぐ金魚たちが道行をいざないます。」中央に「アートアクアリウム美術館 GINZA」のシンボルマークが。「天空リウム」今回の目玉であり、アートアクアリウムの新しい象徴となる大作で、天空に咲き誇る空想の花をイメージした作品であると。アートアクアリウムの新しい象徴となる大作。圧倒的スケールのなかを優雅に泳ぐ金魚の姿を見ることが出来たのであった。さらに、天空リウムには新たなオリジナルアロマを調合。作品の世界観を香りで演出していた。爽やかさの中に神秘的な色香を漂わせ、幻想的で優美なアートアクアリウムの世界を表現。刻々と色合いも変化して。「手毬リウム」日本の伝統的な遊具である手毬を水槽で表現した作品。多彩な糸で織られた紋様と、その合間から金魚たちの優美な姿を覗くことができます。十八の手毬が躍るように壁一面を飾る空間を演出しています。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.22
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「オリガミリウム」折り紙に着想を得て作り上げられたという作品。背景を飾るのもまた、折り紙で折られた金魚たち。金魚がチラチラとまるで紙吹雪の様に。沢山の金魚たちが泳ぐ、ひときわ大きな金魚鉢。日本の美しき伝統「折り紙」に着想を得て、作り上げた新作と。五角形と六角形で出来たサッカーボールの如き球体の水槽。千羽鶴ならぬ千羽金魚!!「提灯リウム」「提灯リウム」から奥の「金魚の竹林」をのぞむ。提灯に見立てた球体の水槽作品が小道のように並ぶ約10mの空間。季節に合わせて空間を演出してきたという作品エリアだが、この夏は風鈴が連なり涼やかな音色とともに楽しめる空間であった。見上げると、風鈴が連なり涼やかな音色が。風鈴をズームして。屋根付きの燈籠のごとし。竹に囲まれて。日本の昔ながらの照明である「祭り灯籠」をモチーフにした作品。球体が拡大レンズの働きもして、金魚が大きく見えた。静かな空間に連なる提灯は、祭りの後の参道を思わせるのであった。赤のビーズがイクラのごとし。「金魚の竹林」。ぐるりと立ち並ぶ、水と光の泡の柱の中に、無数の金魚たちが乱舞していた。まるで竹林の中にいるような静寂さと、優雅に泳ぐ金魚の美しさが相まった特別な空間が、光に包まれているのであった。竹に見立てられた水槽にはかぐや姫の様に輝く無数の金魚達が泳いでいた。花火の映像も。線香花火か?各作品の案内板が並んでいた。「お面蒐集神代から歴史に登場するお面は、祭祀をはじめ様々な目的で使われてきました。お面は伝統工芸品として世界でも蒐集対象となっています。当館が時間をかけて独自に蒐集した歴史あるお面の数々を飾っています。」「銀座万燈籠幽玄な灯りに包まれた静寂の空間。奈良・春日大社の万灯籠を思わせる、幾重にも連なる吊り灯籠は、当館が独自に蒐集した歴史あるものです。」「金魚の回廊立ち並ぶ金魚の列柱に足を踏み入れると、そこには無限の空間が広がっています。和柄で装飾された台の上からのぞき込むと、下方向への空間的広がりも見ることができます。寺社建築に見られる回廊を表現した空間型の作品です。」「金魚蒐集ふだんなかなか目にすることのない珍しい品種を中心に、種類ごとにアートギャラリーのように展示をしています。ライティングの演出とともに、金魚を様々な角度から見られるようにしています。」「金魚の滝淡い光の中、波打ちながら重層的に連なる水の壁。静かに流れ落ちる水は、まさに金魚の滝。流れ落ちる水の裏側に回ると、舞い泳ぐ金魚を目の前に見ることができます。」「新金魚品評背の低い四角形の水槽の中を、優雅にゆったりと泳ぐ金魚。水面まで顔をのぞかせた金魚を、上から眺めて鑑賞する作品です。側面の装飾にはお着物の帯を用いています。金魚の無限の可能性を感じ取れる、永遠の世界が広がっています。」「オリガミリウム沢山の金魚たちが泳ぐ、ひときわ大きな金魚鉢。日本の美しき伝統「折り紙」に着想を得て、作り上げた新作です。背景を飾るのもまた、折り紙で折られた金魚たちです。」「提灯リウム日本の昔ながらの照明である「祭り灯籠」をモチーフにした作品です。球体が拡大レンズの働きもして、金魚が大きく見えます。静かな空間に連なる提灯は、祭りの後の参道を思わせます。」「金魚の竹林ぐるりと立ち並ぶ、水と光の泡の柱の中に数の金魚たちが乱舞しています。まるで竹林の中にいるような静寂さと、優雅に泳ぐ金魚の美しさが相まった特別な空間が、光に包まれています。」「フラワーリウムアートアクアリウム初の試みとして華道家・假屋崎省吾氏とのコラボレーション企画が生み出されました。世界に誇る日本の芸術、金魚といけばな。重ね合わせることにより、華やかさが一層引き立っています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.21
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昨日、我がブログは、楽天ブログジャンル「旅行・海外情報」において、久しぶり、そして束の間の1位を頂きました。ありがとうございます。これからも毎日の出来事を『つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 の精神で、あくまでも「備忘録」そして体験内容の復習を主眼として、「継続は力なり」の精神でこのブログを書き続けて行きたいと思っています。文章(キャプション)の表現力も乏しく、誤変換や、内容が理解しにくい表現箇所も多々あると思いますが、我が儘にも。あまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』、『自分の学びのツール』とし、日々のこのブログを書き続けて行きたいと思っているのです。本日の我がブログへのアクセスありがとうございます。今後ともよろしくおねがいいたします。----------------------------------------------------------------------------------------------------「金魚の飾り棚」日本の伝統工芸である江戸切子と、その器の中で泳ぐ金魚、真ん中には日本の伝統文化である盆栽が飾られていた。器の魅せ方が素晴らしくて、外国からの観光客の人達が感嘆の声を上げて長い間見ていた。「江戸切子とは、江戸時代後期から伝承される、切子加工が施されたガラス製品の総称です。職人の技巧により一つずつ生み出されそれぞれの美しさが光る江戸切子は、伝統工芸品として認定されています。」「当館で並ぶ江戸切子は根本幸昇氏の作品です。幸昇氏の鋭くも妖艶なカットにより繊細な美しさが表現されます。この美しい江戸切子の中を金魚が泳ぎ、日本の伝統文化である盆栽と並べて金魚の飾り棚として展示します」次に訪ねたのが「金魚の滝」。山間の滝は水が流れ、涼やかな緑が生い茂り、夏の自然を感じさせます。青紅葉に囲まれた滝の中を泳ぐ多彩な金魚たちと、実際に水が流れるせせらぎの音とともに夏の幻想景色を楽しむことが出来る展示。「落花流水」「静かな滝をイメージして作られた新しい空間型作品「金魚の滝」が出現。滝の間に設けられた通路を歩きながら、金魚を眺めることができる。」と。「金魚の石灯籠」「神社仏閣に灯りをともす石灯籠をアレンジした作品。日本を代表する石材「御影石」を用いている。灯籠の火袋部分が水槽となり、そのなかを泳ぐ金魚はまるで灯火のようにゆらめきくのであった。」再び「金魚の滝」。滝をイメージして作られている「金魚の滝」。近づくと、アクアリウム水槽の周りには滝のように水が流れていて涼しげ。こちらも時間によって色が変化するので、さまざまな角度から金魚を鑑賞したのであった。次にあったのが「新金魚品評」金魚を上から鑑賞する作品。国内認定品種34種類をはじめとした珍しい金魚が泳ぐ水槽の中を、蓮の花が彩ります。日本をはじめアジアで古来から親しまれている蓮の花には「清浄・純粋な心」の意味が込められており、その爽やかな色合いは、夏らしい景色を表現します。背の低い四角形の水槽の中を、優雅にゆったりと泳ぐ金魚。水面まで顔をのぞかせた金魚を、上から眺めて鑑賞する作品です。側面の装飾にはお着物の帯を用いています。金魚の無限の可能性を感じ取れる、永遠の世界が広がっています。「頂点眼(ちょうてんがん)」。「頂天眼」は飛び出した目が上を向いている奇妙な風貌の金魚。ズームして。中国産の金魚で、アカデメキンの突然変異から生まれ、眼が頭の頂上にあり、天上を向いている。「東錦」。ズームして。昭和18年、横浜の金魚商・加藤金蔵氏がオランダ獅子頭と三色出目金を交配し、作出。その後、東京の金魚商・高橋鉄次郎氏が土地柄(関東地方)にちなんで「東錦」と命名した。「秋錦」。「ショートテール琉金」。「ピンポンパール」。「地金」。「珍珠鱗」。「水泡眼」。「桜琉金」。「らんちゅう」。「土佐錦」。「蝶尾」。「桜オーロラ」。「桜錦」。「竜眼」。「大阪らんちゅう」。「バルーンオランダ」。「江戸錦」。「東海錦」。「ブリストル朱文金」。「ミューズ」。「丹頂」。「江戸茜」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.20
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「歌舞伎座」横の「三原橋」交差点から、目的地の「銀座三越」方向を見る。途中の歩道脇「三原橋街角広場」にはミスト発生装置が稼働中。都心ではバス停やベンチのあるところにはミストシャワーが完備されつつある。オリパラのために設置されたようだが、暑いときにミストは気持ち良さ抜群。ベンチにずっと座っていたくなったが、ミストを浴びながらゆっくりと歩く。その先の植栽の中にある「ミスト装置制御盤」を発見。そして「銀座三越」に到着。壁には「銀座シャンデリア」👈リンク。「世界中のあらゆる文化を受け入れ、あらたな輝きを生みだしてきた街、銀座。これからもずっと夢とあこがれに満ち、幸福な思い出が紡がれる舞台でありたい。そんな願いをこめて銀座四丁目交差点に誕生したのが光のファサード「銀座シャンデリア」です。それは銀座に集う人びとの物語がはじまるエントランス。出会いをまばゆく照らし、記憶にやさしく灯る。銀座の今日を彩るあたらしい街のシンボルです。」と。東京都中央区銀座4丁目6−16。銀座の中心で行きかう人々を見守りながら、時代の流れに先立って進化を続ける銀座三越。1930(昭和5)年開店の日本を代表する老舗百貨店。1673(延宝元)年に江戸本町(現在の日本銀行所在地辺り)で呉服店「越後屋」として開業し、1904(明治37)年に日本初の「デパートメントストア宣言」を発した、およそ350年の歴史がある「三越」。1914(大正3)年には、ルネッサンス様式による鉄筋地上5階地下1階建の日本橋三越本店新館が完成。今では三越全店のシンボルでもある英国製の2頭のライオン像や日本初といわれるエスカレーターが設置された。地上6階、地下1階の銀座店が誕生したのは1930(昭和5)年。日本橋三越本店の1/2サイズの日本製のライオン像は1972(昭和47)年に正面玄関に登場。銀座三越は銀座の地域貢献を推進しており、お店の象徴でもあるライオン像がときには火災予防運動に合わせて消防士姿などに衣替えすることあるとか。1950(昭和25)年、猪熊弦一郎画伯によってデザインされ、以来半世紀以上も親しまれているのが包装紙「華ひらく」。英字ロゴ“Mitsukoshi”は、当時宣伝部に在籍していた後の漫画家のやなせたかし氏によるものだと。1950(昭和25)年、猪熊弦一郎画伯によってデザインされ、以来半世紀以上も親しまれているのが包装紙「華ひらく」。日本製のライオン像は1972(昭和47)年に正面玄関に。日本橋三越本店の1/2サイズであると。店内入り、案内の方のガイドで新館エレベーターにて9階まで進み、エスカレーターを一階下り「アートアクアリウム美術館 GINZA」に到着。事前にネットで購入したWEBチケットを見せ、入場。アートアクアリウム美術館 GINZA(所在地/銀座三越)では、6月30日(金)から9月26日(火)まで特別企画「夏のアートアクアリウム展2023~銀座の金魚~」を開催中。館内最大級の作品「天空リウム」を含む新作水槽5作品を公開!合計19の作品エリア、約150基の様々な水槽が華々しく並び、約5000匹の金魚が泳ぐ、スケールアップした幻想的なアート空間が広がっていたのであった。生い茂る緑に囲まれる空間や風鈴の音色など、夏を連想させる演出の中で金魚が優雅に泳ぐ涼やかな空間を大いに楽しむことが出来たのであった。会場は7つのエリアで構成されており、各エリアにコンセプトを設け、それぞれのテーマに合わせてアート作品を設置しているとのこと。「静寂閑雅」「アートアクアリウムの入り口となるエリア。古都・奈良をイメージし、春日大社に代表する万燈籠を表現した「銀座万灯籠」や、寺社建築に見られる回廊から着想を得た新作「金魚の回廊」を目にすることができる。」と。最初に「銀座万燈籠」が迎えてくれた。釣り下げられた燈籠が目の前に入ってくるとその美しさに魅了されたのであった。様々なデザインの燈籠をカメラで追う。奈良・春日大社の万灯籠を思わせるたくさんの灯籠がオレンジの妖艶な光を放っていた。よく見ると1つ1つ形が違い、灯り窓のデザインもそれぞれ個性的。金魚の姿も。これぞ和の世界。そして次に「金魚の回廊立ち並ぶ金魚の列柱に足を踏み入れると、そこには無限の空間が広がっています。和柄で装飾された台の上からのぞき込むと、下方向への空間的広がりも見ることができます。寺社建築に見られる回廊を表現した空間型の作品です。」。色が刻々と変わる金魚の列柱。和柄で装飾された台の上からのぞき込むと、下方向への空間的広がりも見ることができた。無数の金魚が舞い泳ぎ光り輝く水柱で回廊を表現。左右にも無限に広がる没入空間も次々に色彩が変化して。色柄や模様の美しさを堪能するなら、横見がおすすめ。1匹1匹異なる美しさを存分に感じ取ることができるのだ。悠々と泳ぐ「生きた芸術」の姿をしばし楽しんだのであった。「金魚蒐集」では、普段目にすることのない珍しい品種を中心に、さまざまな照明効果で金魚を球形水槽で展示していた。「飛耳長目」「おなじみの金魚コレクション「金魚蒐集」を展示するエリア。光の演出を刷新している。」と。“水族館らしい”一面を楽しむことができたのであった。新しい金魚の名前も表示されていたがいずれの写真も残念ながらピンボケ。「キラキラ出目金」か?「花房」。以下、名前も撮影したがピントが全くあっていなかったので・・・。光の演出をリニューアルしたこちらでは、連なる円形のアクアリウムからこぼれる鮮やかな光と金魚の共演に思わずうっとりできること間違いなし。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.19
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この日は7月28日(金)、五反田に用事があるために向かうが、テレビで銀座三越で「アートアクアリウム美術館 GINZA」が開催されているとのことで立ち寄る事とする。小田急線、千代田線、東京メトロの日比谷線を乗り継ぎこの日も「東銀座駅」で下車。地下2階 木挽町(こびきちょう)広場に立ち寄る。多くの土産物屋が所狭しと。正面に「歌舞伎座」と書かれた提灯、そして手前には歌舞伎座の座紋「鳳凰丸(ほうおうまる)」が描かれた提灯が対で並んでいた。「歌舞伎座」と書かれた提灯に近づいて。歌舞伎座の座紋「鳳凰丸(ほうおうまる)」が描かれた提灯にも近づいて。「鳳凰丸」は歌舞伎座の創設者の一人、福地桜痴が、新築した自宅の釘かくしに用いたこの紋をいたく気に入り歌舞伎座の紋に採用したのだと。「鳳凰丸」の原形となったのは法隆寺の宝物「鳳凰円文螺鈿唐櫃(ほうおうえんもんらでんからひつ)」に使われた紋様とのこと。私も大好きな「天野屋の歌舞伎揚」の店。「歌舞伎座切符売り場」と公演中のポスターが並んでいた。2023年3月15日(金)10:00より、この歌舞伎座切符売場がオープンした。この歌舞伎座切符売場は、東銀座駅と直結したGINZA KABUKIZA(歌舞伎座)の地下2階、「木挽町広場」の一角にあった。「歌舞伎座切符売場」と書かれた大きな看板が目印。「七月大歌舞伎 時間表」。昼の部 通し狂言 菊宴月白浪(きくのえんつきのしらなみ) 忠臣蔵後日譚 市川中車 両宙乗り相勤め申し候 序幕 甘縄禅覚寺の場より 大詰 専蔵寺大屋根の場まで 斧定九郎 中車 ※ 金笄のおかる 壱太郎 塩谷縫之助 種之助 腰元浮橋 男寅 角兵衛獅子猪之松 竹松 毛利小源太 中村福之助 丁稚伊吾 玉太郎 下部与五郎 歌之助 高野師泰 青虎 山名次郎左衛門 由次郎 世話人寿作 寿猿 一文字屋お六 笑三郎 加古川 笑也 仏権兵衛 猿弥 斧九郎兵衛 浅野和之 石堂数馬之助 門之助※市川猿之助休演につき、配役変更にて上演いたします夜の部一、神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし) 福内鬼外 作 娘お舟 児太郎 新田義峯 九團次 傾城うてな 廣松 渡し守頓兵衛 男女蔵二、神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ) め組の喧嘩 竹柴其水 作 め組辰五郎 團十郎 女房お仲 雀右衛門 江戸座喜太郎 権十郎 四ツ車大八 右團次 九竜山浪右衛門 男女蔵 背高の竹 歌昇 おもちゃの文次 種之助 山門の仙太 新之助 島崎楼抱おさき/三ツ星半次 廣松 伊皿子の安三 竹松 芝浦の銀蔵 男寅 御成門の鶴吉 玉太郎 左利の芳松 橘太郎 田毎川浪蔵 市村光 柴井町藤松 九團次 露月町亀右衛門 市蔵 三池八右衛門 齊入 葉山九郎次 家橘 喜三郎女房おいの 萬次郎 焚出し喜三郎 又五郎 尾花屋女房おくら 魁春三、新歌舞伎十八番の内 鎌倉八幡宮静の法楽舞(かまくらはちまんぐうしずかのほうらくまい) 九世市川團十郎歿後百二十年 松岡 亮 作 静御前 團十郎 源義経 〃 老女 〃 白蔵主 〃 油坊主 〃 三途川の船頭 〃 化生 〃 三ツ目/町娘/五郎姉二宮姫 ぼたん 提灯/若船頭/竹抜五郎 新之助 僧普聞坊 廣松 僧寿量坊 男寅 僧隋喜坊 玉太郎 蛇骨婆 九團次 姑獲鳥 児太郎 僧方便坊 種之助「歌舞伎座7月公演」「め組の喧嘩」 市川團十郎。「歌舞伎座7月公演」七月大歌舞伎 菊宴月白浪 神霊矢口渡 神明恵和合取組 め組の喧嘩 鎌倉八幡宮静の法楽舞「歌舞伎座7月公演」鎌倉八幡宮静の法楽舞市川團十郎、ぼたん、新之助「歌舞伎座8月公演」第一部 一、裸道中(はだかどうちゅう) 二、大江山酒呑童子(おおえやましゅてんどうじ)第二部 一、新門辰五郎(しんもんたつごろう) 二、団子売(だんごうり)第三部 新・水滸伝(しん・すいこでん)新登場「江戸の粋と伝統」コーナーが前方に。」日本橋「伊場仙」のお勧めは、紳士・婦人扇子の30%割引販売。創業・天正18年(西暦1590年)400年の歴史を持つ「伊場仙」は、日本橋に本店を構える扇子とうちわの店。その歴史は長く、かつては徳川家康公とともに江戸にのぼった浜松の商人・伊場屋勘左衛門によって創業されたのだと。和菓子屋「むら里」「隈取」の描かれた容器には各種の半生キャラメルが入っていると。朝顔も美しく。近づいて。歌舞伎座土産。そしてエスカレータで地上に。「歌舞伎稲荷大明神」。東銀座のランドマークのひとつである歌舞伎座の一角にあった。地下鉄・東銀座駅から、歌舞伎座正面玄関につながるエスカレーターを上がると、目の前にあらわれる「歌舞伎稲荷神社」。歌舞伎座の荘厳な白に、鳥居の鮮やかな朱が映え、美しい風格に魅了されるのであった。扁額「歌舞伎稲荷大明神」。社殿に近づいて。社殿。歌舞伎座が新たな姿として2013年に竣工される以前は、劇場の敷地内に設けられていた。そのため、歌舞伎座の関係者や観劇者のみしか参拝できなかったのだが、歌舞伎座の建替えを経て今の場所に遷座され、現在は誰もが参拝できる神社となっていると。稲荷神社は全国に3万社以上もあるといわれています。“稲荷大神"または“稲荷神"を主祭神として祀っており、「商売繁盛」「家内安全」「縁結び」など、様々なご利益がある神様として信仰を集めていると。歌舞伎俳優も参拝に訪れるのであろうか?1階にあった「お土産処 木挽町」も覗いて見た」。「源義経 中村福助」、「武蔵坊辨慶 市川團十郎」と。様々な歌舞伎関連の文様の布地が額装されて販売されていた。「歌舞伎座オリジナル手拭」。プロマイドであろうか。五代目 坂東玉三郎。時代物から新歌舞伎まであらゆる分野の女形の技法に精通し、特に世話物や舞踊作品で定評がある女形歌舞伎役者。そして外に出て「歌舞伎座」を見上げる。「七月歌舞伎」のポスターがここにも。「歌舞伎座新開場十周年 七月大歌舞伎」「菊宴月白浪」案内。「歌舞伎座」の唐破風を見上げて。正面から。「歌舞伎座」は昭和20年の東京大空襲でその大部分が焼失、その後の復興工事を経て現在の姿に至る。その改修工事によってもたされた風貌の相違点として第一に挙げられるのが、「破風」と呼ばれる屋根の切妻にある合掌形の装飾板の部分です。(※ 改修時に「破風」が3つから2つに減る)もともとは板張りや漆喰で内部を保護する構造的な目的で考えられた「破風」だが、歴史的に振り返ると戦国時代の城づくりでは、独自にデザイン的な進化を遂げ、「切妻破風」・「反り破風」・「唐破風」・「千鳥破風」など、様々なバリエーションを競うことになった。さらに江戸時代に入ると、地方によっては民家における破風飾りや破風そのものを禁 じたりしたようだ。おそらく町民層の経済的な台頭を恐れた武士階級のメンツが込められていたのであろう。大正時代の和風建築の傑作と賞賛される「旧歌舞伎座」、その生みの親、建築家の「岡田信一郎」。一方、戦後、和風建築のトップランナーとして建築界をリードし、戦後直後の混乱期に全精力を傾けて「歌舞伎座」の修復を手がけた「吉田五十八」。この二人の天才設計者の存在により、歌舞伎座の「破風」は引き継がれているのだ と。唐破風にも歌舞伎座の座紋「鳳凰丸(ほうおうまる)」が。一部の飾り金物や飾り瓦の鳳凰丸には、首に愛くるしい鈴が結ばれているのであった。誰が言ったか、言わずか、「鈴なりのお客様のご来場」というふうにも解釈できるのだと。交差点側から見上げて。左側の掲示板にも「七月歌舞伎」の演目案内が。夜の部一、 神霊矢口渡夜の部 ニ、神明恵和合取組 め組の喧嘩 夜の部三、 鎌倉八幡宮静の法楽舞昼の部(午前11時開園)【菊宴月白波】忍術! 大凧の宙乗り!スペクタクルな展開で描く忠臣蔵の後日譚塩谷の浪士が高野師直を討って一年余。主君の敵討ちを果たした四十七士は義士として讃えられるなか、塩谷の家老斧九郎兵衛の息子、斧定九郎は、敵討ちに加わらず不義士の汚名を着せられた父に代わり、せめて自分は亡君への申し訳を立てたい忠義の心を持っています。そんなある日、塩谷判官の弟縫之助には塩谷家の家宝・花筺の短刀を、高野の養子島五郎には高野家のの家宝・菅家の正筆を献上すればお家再興が叶うとの沙汰が。しかし、縫之助が差し出した花筐の短刀は偽物。定九郎は申し訳に切腹しようとする縫之助の身代わりを買って出ます。いざ切腹、と思われたその時、定九郎は・・・盗まれた家宝を奪い返すため、定九郎は父九郎兵衛から斧家に伝わる忍術秘法を記した秘書こふさきの忍びの一巻を授かります。忍術を手に入れた定九郎は、"暁星五郎”と名乗り、仲間と共にお家再興に立ち上がります定九郎の妻加古川、かって塩谷に奉公していた過去を持っ女伊達・金笄のおかる、縫之助の子を宿す芸者浮橋、浮橋の義理の兄仏権兵衛・・・。お家再興を巡り、それぞれの想いが入り乱れ、花筺の短刀、菅家の正筆は様々な人々の手を渡っていきます。果してお家再興は叶うのか・・・。歌舞伎の三大名作狂言の一つ『仮名手本忠臣蔵』。本作はそんな赤穂浪士の討入り事件を描く「忠臣蔵」の世界を題材に書き下ろされ、「忠臣蔵」では悪役として描かれる斧定九郎がお家再興を目指す忠義者として登場します。原作の設定を巧みに用い名場面の数々を彷彿とさせる構成で、鶴屋南北により独創性豊かに描かれた物語は評判となり大当り。昭和五十九年には初演以来実に百六十三年ぶりに三代目猿之助(現・猿翁)により復活された後、「三代猿之助四十八撰」の一つにも選ばれました。花道上を大凧に乗って飛び去ったかと思うと、たちまち反対側から本舞台へ向かって舞い降りる劇場空間をいつぱいに使った両宙乗りや、大屋根の立廻り、花火など、スペクタクルで波瀾万丈な物語が息をつく間もなく展開されていきます。三十二年ぶり、待望の上演にどうそご期待ください。夜の部(午後4時開園)【神霊矢ロ渡】純粋な娘か命を懸け、極悪非道な父に立ち向かう渡し守の頓兵衛は、足利と新田の争いで、褒美の金欲しさに新田義興の命を奪った強欲者。ある日、義興の弟義峯が恋人の傾城うてなと一夜の宿を乞いに偶然にも頓兵衛の家を訪れます。頓兵衛の娘のお舟は、気品あふれる義峯にひと目惚れ。一方、義峯の素性を知った頓兵衛は、金目当てにその命を狙い・・・。江戸時代に活躍した才人、平賀源内が「福内鬼外」という筆名で書いた義太夫狂言の傑作。極悪非道な父頓兵衛と愛しい人を命懸けで守ろうとする娘お舟の姿が対照的に描かれる、見せ場に富んだ一幕をお楽しみください【め組の喧嘩】江戸の男たちか火花を散らす、鳶と力士の真剣勝負品川の遊廓。め組の鳶と四ッ車大八らカ士たちは些細なことから喧嘩になり、鳶頭の辰五郎がその場を収めます。しかし数日後、芝居小屋で喧嘩が再熱。一触即発の睨み合いとなるも、江戸座の座元喜太郎に止められます。気持ちが収まらない辰五郎は、密かに仕返しを決意。愛する妻と幼い子供に別れを告げ、争いに決着をつけるため命知らずの鳶たちと芝神明へ向かい・・・「火事と喧嘩は江戸の華」を体現する粋でいなせな江戸風俗をたっぷりと味わえる世話狂言の傑作。大詰での鳶と力士の大立廻りも見せ場のひとつです。江戸っ子の心意気を描いた人気作を上演いたします。【鎌倉八宮静の法楽舞】趣向を凝らした迫力溢れる新歌舞伎十八番夜な夜な物の怪が現れるという鎌倉の荒れ寺に、怪しい風と共に現れたのは一人の老女。以前は都の白拍子であったと語る老女は舞を舞い始めます。やがて老女の姿が見えなくなると、次々と物の怪が集まり・・・。劇聖と謳われた九世團十郎が制定した新歌舞伎十八番の一つ。平成三十年に新たな着想により復活上演された本作を、九世團十郎歿後百ニ十年という節目の年に上演します。河東節、常磐津、清元、竹本、長唄囃子の五重奏など、豊かな音楽性とエンターテイメント性溢れる目にも耳にも楽しいひと時をご堪能いただきます。 (令和五年七月)「晴海通り」越しに四代目「歌舞伎座」を見る。こちらが先代・三代目の「歌舞伎座」、ネットから。三代目の歌舞伎座は、建設途中関東大震災に被災しつつも、大正13年12月新築落成した。破風大屋根三棟と、ひときわ際立つ大きな唐破風の正面玄関、その先端で東西に羽根を広げた魔除けの鳳凰像が何とも凛々しく印象的。奈良朝の典雅壮麗に桃山時代の豪宕絢爛(ごうとうけんらん)の様式を併せもつ耐震耐火の鉄骨鉄筋コンクリート造り、さらに、照明設備はアメリカとドイツから取り寄せ、内外とも日本一を誇る大劇場でしたが、惜しいことに昭和20年5月の東京大空襲で焼失した。現在の四代目「歌舞伎座」を振り返る。 ・・・つづく・・・
2023.08.18
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この日の講義会場に入ると、すでに多くの受講者が着席していた。そして30名ほどの受講者の約半数は、中学校、高等学校の歴史関連の先生であることを後に知ったのであった。この講義受講が先生の研修の一環になっているようであった。講義の先生は下記「大庭御厨に生きる人々」等の著者の伊藤一美氏。1948年、東京都生まれ。学習院大学大学院博士課程中途退学。現在、逗子市・藤沢市・葉山町文化財保護委員、NPO法人鎌倉考古学研究所理事、日本獣医史学会理事、日本城郭史学会理事などを務める と。そして約2時間の講義のスタート。題目は「大庭御厨(おおばみくりや)の歴史的意義・・「鵠沼」地域は、中世日本史の出発点!・・」大庭御厨は、相模国高座郡の南部(現在の茅ヶ崎市、藤沢市)にあった、寄進型荘園の一つ。鎌倉時代末期には13の郷が存在した相模国最大の御厨(伊勢神宮領)である。大庭御厨は鎌倉景正(景政)によって開発された。伊勢神宮に寄進されたが、源義朝の乱入を防ぐことは出来なかった。大庭氏は保元の乱以降、源氏の配下となった。大庭氏は和田合戦で滅亡したが、大庭御厨は三浦氏や北条得宗家の所領として存続した。大庭御厨は典型的な寄進型荘園である。在地領主層が脆弱な地位を守るために寄進を行った事、寄進による保護にも限界があり、鎌倉幕府の成立へとつながって行った事の例示としてよく取り上げられる。大庭御厨は長治元年(1104年)頃、鎌倉景正が大庭郷を中心に山野未開地を開発したものである。伊勢恒吉の斡旋で永久5年(1117年)伊勢神宮に寄進した。鎌倉景正は後三年の役(1083年 - 1087年)の勇者として有名である。「(推定)大庭御厨範囲」図。大庭御厨の境界は、東は俣野川(藤沢市の境川)、西は神郷(寒川)、南は海、北は大牧崎だった。伊勢神宮の記録「天養記」によると、大庭御厨の範囲は、東は俣野川(境川)・西は神郷(寒川神社の社領)・南は海・北は大牧崎とあります。大牧崎はこれまでの研究で亀井神社南側一帯を指すと考えられています。大庭御厨は中世の藤沢の重要な土地の一つであった と。すなわち、藤沢市南半部から茅ヶ崎市全域に及んでいた。小糸・台谷などの神明社は伊勢神宮の所領経営の拠点だったと考えられているとのこと。田地の面積は、久安元年(1145年)で95町、鎌倉時代末期には150町に達した。1町≒3,000坪≒10,000m2。大庭郷の成立は、9世紀以前と思われる。「大庭」「庭」も祭司の場を意味すると言う。現在も藤沢市に大庭の地名が残る。御厨は天皇家や伊勢神宮、下鴨神社の領地を意味する。まず大庭御厨と伊勢神宮の関係についての説明があった。大庭御厨は伊勢神宮(内宮)の荘園。御厨(みくりや)というのは天皇家・伊勢神宮・上下賀茂社や摂関家などに、お供え物や食料として魚介類その他諸々を貢物として奉るための所領。つまり、大庭御厨は伊勢神宮(内宮)へその貢物を奉っていたということになる と。伊勢神宮(内宮)は大庭御厨から貢納物を徴収するためにどのようにしていたか、下図に。まず、大庭御厨には下司(げし)と呼ばれる実際に耕作したり漁をする人々に指示したり、それを監督したりする人がいた。この下司と呼ばれる人はそもそもこの荘園を開発した人がなることが多く、いわゆる開発領主という人が務めたのだと。大庭御厨の場合、これを開発したのは鎌倉景政(かまくらかげまさ)であり、この大庭御厨の事件が起こった頃は景政の子孫である大庭景宗(おおばかげむね:景親の父親)が下司を務めていた。そして、大庭御厨にはもう一人、給主(きゅうしゅ)と呼ばれる御厨を運営する人物がいた。それが伊勢神宮から派遣されてきた荒木田彦松(あらきだひこまつ)という人。給主というのは上級領主(この場合は伊勢神宮)に貢納物を送ったり、連絡をしたり、上級領主からの指示を聞く役割も果たした。この彦松は先ほどの下司よりも立場は上。大庭景宗が現場監督だとすると、彦松は事業所の所長のようなもの。また、彼は神職でもあり、大庭御厨内の鵠沼郷(くげぬまごう)にあった伊介神社(いすけじんじゃ:鵠沼皇太神宮の前身)の祝(ほうり:神職の名称の一つ)も務めていた。続いて、伊勢神宮の方はというと、伊勢神宮のトップは祭主(さいしゅ)と呼ばれる人、そしてそれを補佐する役割の大宮司(だいぐうじ)、権大宮司(ごんだいぐうじ)、少宮司(しょうぐうじ)と呼ばれる人たちがいた。この方たちがいわば伊勢神宮の首脳陣であった。大宮司・権大宮司・小宮司は宮司庁(ぐうじちょう)という組織を形作って、下部組織に指令を伝達した。ちなみに、この祭主・大宮司・権大宮司・少宮司は大中臣氏(おおなかとみし)一族が独占していた。そして、その宮司庁の下部組織が禰宜(ねぎ)・権禰宜(ごんねぎ)と呼ばれる人たちで構成される大神宮庁(だいじんぐうちょう)。禰宜・権禰宜は内宮(天照大神〔あまてらすおおみかみ〕を祀る皇太神宮)と外宮(豊受大御神〔とようけのおおみかみ〕を祀る豊受大神宮)にそれぞれ別れ、内宮の禰宜・権禰宜は荒木田(あらきだ)氏が、外宮の禰宜・権禰宜は度会(わたらい)氏が務めてきた。禰宜・権禰宜の定員は時代によって変わるが、この頃は内宮・外宮ともに禰宜が6人ずつ、権禰宜は内宮が34人、外宮に28人いたと。なお、禰宜・権禰宜は全国各地に散らばる御厨などの運営を担っていた。つまり、大庭御厨の荒木田彦松は、この大神宮庁(内宮)に属する人物だったと言えるのだと。「大庭御厨の支配機構」御厨として寄進すると税金がかからなくなったのだと。次に土地をうばったり、むりやりタダ働きをしろという国府の役人の命令を聞く必要もなくなった。また、領地争いもぐっと減ったと。ですから、この時代の豪族(ごうぞく=広い土地を支配する大農民=武士)はこぞって自分の土地を力のある貴族や寺や神社に寄進した.厨(くりや)とは調理場のこと。御厨は神様の食べるものを作る場所という意味が込められている。ですから収穫された米の何パーセントかは、特産品とともに名目上の持ち主に届けられた。大庭の御厨の場合は伊勢神宮(いせじんぐう=三重県)に送っていたのだ。つまり大庭氏は伊勢神宮に収穫されたものを送る見返りに、領地をまもってもらっていたというわけ。図にすると下記のごとくに。「源義朝とは源氏の家系図であるが、源義朝は源頼朝、源義経の実父。保安4年(1123年)、源為義の長男として生まれる。母は白河院の近臣である淡路守・藤原忠清の娘。乳母は摩々局。義朝は少年期に都から東国(関東地方)へ下向し、父・為義が伝領していた安房国朝夷郡丸御厨へ移住した。その後は上総国に移って当地の有力豪族であった上総氏の後見を受け、「上総御曹司」と呼ばれた。丸氏・安西氏や坂東平氏の一部(三浦氏・上総氏・千葉氏など)からも連携して庇護された。東国で成長した義朝は、南関東に勢力を伸ばし、東国の主要武士団を統率して河内源氏の主要基盤となるに至った。三浦義明・大庭景義ら在地の大豪族を傘下に収めた。相馬御厨・大庭御厨などの支配権をめぐって在地豪族間の争いにも介入した。「源義朝」画像をネットから。「源義朝の大庭御厨濫行」天養元年(1144年)9月、源義朝の大庭御厨濫行事件が起きる。源義朝は相模国衙の田所目代(税務の代官)源頼清と組んで、「大庭御厨内の鵠沼(くげぬま)郷は鎌倉郡に属する公領である」と主張し、在庁官人とともに御厨に侵攻して濫妨(暴行・略奪)を行い、神人に重傷を負わせた。伊勢神宮は直ちに政府に提訴する。しかし、その最中に源義朝は、源頼清や在庁官人の三浦義継・中村宗平など「千余騎」によって大庭御厨に再侵攻し、御厨の停廃を宣言して大規模な収奪を行った。下司である大庭景宗は伊勢神宮を通じ太政官に訴え、伊勢神宮は、まず義朝の処罰を相模国司に要求するが、国司は「義朝濫行のことにおいては国司の進止にあたはず」と返答する有様だった。上記の「源義朝の大庭御厨濫行」について詳細に書かれている文書が『天養記(官宣旨案)』。『天養記(官宣旨案)』は2通残っており、ひとつは天養2年2月3日、もうひとつは3月4日。共に漢文全文と、その口語訳が『鎌倉市史・総説編』(高柳光寿著)に載っている。漢文はつらいのでその後者をカナ混じり文にして下さったこちらを参考にあげておきます。主要登場人物は強調の為に太字に。【天養記(官宣旨案)左弁官下す 伊勢大神宮司且つは度々の宣旨に任せ、その妨げを停止し、供祭物を備進し、且つは国司子細を弁え申し、相模国田所目代源義朝並びに同じく義朝郎従散位清原安行、恣に謀計を巧らみ、大庭御厨高座郡内鵠沼郷を以て、俄に鎌倉郡内と号し、供祭料の稲米を運び取り、旁々 濫行を致すに応ずる事右、祭主神祇大副大中臣清親卿の去る月十二日の解状を得て称く、大神宮禰宜等の同月日の解状をに称く、伊勢恒吉の今月七日の解状に称く、謹んで案内を検ずるに、当御厨は本より荒野の地なり。誠に田畠無きの由国判に見ゆるなり。而るに彼の国の住人故平景正(鎌倉権五郎景正)、国判を相副え大神宮の御領に寄進するの刻に、永く恒吉に附属する所なり。即ち御厨の為に開発せしめ、供祭上分に備え進す。漸く年序を経るの間、在廰官人等の浮言に就いて、国司度々奏聞を経せしむの処に、宣旨、院宣等を本宮に下され、子細を召し問うの後、全く綸旨の停廃無きの上、両代の宰吏に問われ、彼の請文に就いて、殊に奉免の宣旨を下さるるの日、国祇承り散位平高政、同惟家、紀高成、平仲廣、同守景朝臣等地頭に臨み文書に任せ、堺の四至に傍示を打ち、立券を言上す。その四至と云うは、東は玉輪庄堺俣野川、南は海、西は神郷堺、北は大牧埼てへり。その最中高座郡内字鵠沼郷、今俄に鎌倉郡内と称し、事を彼の目代の下知に寄せ、義朝郎従清大夫安行並びに字新籐太及び廰官等、去年九月上旬の比、旁々濫行を致し、伊介神社の祝荒木田彦松の頭を打ち破り、死門に及ばしむ。訪行の神人八人の身を打ち損い、供祭料魚を踏み穢し、郷内の大豆、小豆等を苅り取る所なり。その旨を訴え申すの処に、本宮の解状、祭主の奏状すでにをはんぬ。而る間同十月二十一日、田所目代散位源朝臣頼清並びに在廰官人及び字上総曹司源義朝名代清大夫安行、三浦庄司平吉次、男同吉明(三浦義明のこと)、中村庄司同宗平、和田太郎助弘、所従千餘騎、御厨内に押し入り、是非を論ぜず停廃せしむ所なり。爰に彼等の所帯する宣旨の状を承るの処に、更に御厨に入らざるの事、只指せる官省符新立の庄園に非ず。本庄の外加納の一色別符勘じ入るべきの由なり。また隣国他堺の高家若しくは悪僧等、乱入を停止すべきの状ばかりなり。仍って神宮の御領として尤も大悦なり。しかのみならず、当御厨に於いては奉免の宣旨限り有るの由、披陳すと雖も、敢えて承引無く、神人等敵対に及ばざるの間、同二十二日卯の時より始めて、在廰官人等郷々に押し入り、傍示を抜き取りをはんぬ。また御厨の作田玖拾伍町の頴肆萬七千七百伍拾束を苅る。下司家中の私財雑物悉く以て押し取り、神人紀恒貞、志摩則貞、国元、末永、重国、兼次等を簀に巻き死門に及ばしむ。或いは凌轢せらるる所なり。この外供祭料米農料出挙並びに甲乙輩の私物及び有事縁所宿置熊野僧の供米等百余斗を捌き、負人住人逃げ脱すの間、行方を知らず是非他なり。義朝と頼清と同意を成し、名代を出立するの由、御厨の定使井濱御薗検校散位藤原朝臣重親、下司平景宗(大庭景宗)等言上する所なり。その状に就いて案内を検ずるに、勅免の神領に於いては、縦え国衙より沙汰せしむべきの事有りと雖も、若しくは宣旨を申し下し、若しくは本宮使を相具して、進士せしむるの例なり。爰に当御厨の四至の内字殿原、香川郷、宣旨・代々の国判に背き、国役に充てしむるの事、度々彼の目代頼清朝臣に相触るの次いでに、上件子細の披露すでにをはんぬ。皆返報有って、御厨の事専入宣旨の状に有らざるの上、停廃すべきの由、殊に国の定め無しと云々ばかりなり。高座郡内を以て今俄に鎌倉郡内と称し、濫行を成さしむの條、玄隔たるの事に依って、彼等の所行を省みんが為に、惣所御厨を牢籠せしむか。茲に因って子細を熟察し、沙汰を致さんが為に、先ず国司に経訴するの処に、義朝濫行の事に於いては、国司の進士に能わず。停廃せしめんと擬するの事に於いては、在国を尋ね問い、左右すべきの由、返報せしむるに依って、暫く彼の裁許を相待つと雖も、事を左右に寄せ敢えてその沙汰無きの間、義朝乱行の事宣下せられすでにをはんぬ。然れば停廃の事と雖も、重ねて送達せられざれば、殿原、香川郷のその妨げ絶えざるか。就中国役を御厨田に伐ち充て、御厨田を宮寺の浮免を曳き成し、勘責いよいよ重なるの間、僅所に残る住人また以て逃げ脱すの由、下司重ねて言上するなり。重ねて案内を検ずるに、神宮御領を以て院宮御領と号し押し取らるるの時、本宮より子細を言上するの日、その妨げを停止すべきの旨、宣下せらるるの例、諸国に繁多なり。而るに今勅免の神領を停止し、宮寺の浮免を曳き成すの條、神事の不信不浄の基、何事か斯れに過ぐべきか。また先例を訪うに、職掌人を刃傷し、神人等を殺害し、供祭物を取り穢し、神民の貯えを奪い取るの輩は、贖罪の軽重、或いは法の科罪に任せ、或いは乱行人に解謝を致さしむる所なり。而るに彼等の所為、一つとして尋常ならず。先ず以て他郡を鎌倉郡内と号するの條、誠に矯餝の甚だしきなり。各々證文を召すの日、敢えて遁るる所無きか。しかのみならず、宣旨立券の時、祇承の官人、皆以て見在の輩なり。また庄園の宣旨を以て謀計を巧らみ、御厨を停廃せしむるの條、これ唯神威を蔑爾するのみならず、将に綸言に違背する所なり。然れば則ち義朝の乱行に於いては、宣下の旨に任せ沙汰を致さしむと雖も、猥に傍示を抜き取るに至っては、尤も厳制を加え、向後を懲らしめ、本の如く傍示を立てしめらるべきや。また押し取る所の供祭上分料獲稲見米並びに所司住人の私物等、悉く糺返せらるべきや。これ等の如きの所行、早く糺断せられずんば、神威の凌遅、諸国の狼藉、積習して倍増するものか。宮の廰裁を望み請う。且つは重ねて奏聞を経て、且つは早く牒を留守所に送り、糺行せられば、将に神威の不朽を仰ぎ、綸言の軽からざるを厳とするか。てへれば、解状に就いて覆審を加え、庄園の加納を勘がえ入るべきの由宣旨を以て、限り有る勅免の神領を停廃せしめんと擬すの條、神威を蔑爾するのみならず、すでに綸言を違乘するものか。祭主の裁を望み請う。重ねて奏聞を経て、早く糺行せられてへり。仍って言上件の如く相副え天裁を望み請う。禰宜等の解状に任せ、早く糺行せられば、権大納言源朝臣雅定宣べ、勅を奉りて宣ぶ。度々の宣旨に任せ、その妨げを停止し、供祭物を備進し、兼ねてまた国司をして子細を弁え申さしめば、同じく彼の国に下知既にをはんぬ。宮司宜しく承知すべし。宣に依ってこれを行え。 天養二年三月四日 大史中原朝臣(宗遠花押影)少弁源朝臣(師能花押影)】【大意・・・当日の資料より転記させていただきました。左弁官から伊勢大神宮司に命令を下す。先の宣旨に任せて源義朝の濫行行為を停止させ、また犯人を召し進め、また大神宮の例に任せて、祓い清めて供祭のつとめを行え。相模国大庭御厨神人が訴え申してきたことについては、高座群字鵠沼郡をもって謀計を企んで、いま急に鎌倉郡の中にあるといって妨げを行い、清原安行と字新藤太等は、伊介神社祝荒木田彦松の頭を打ち割り、神人八人の身を半死半生の目にあわせたことである。右のことについて、天養元年九月十日に相模国大庭御厨神人等から伊勢大神宮に訴えがあり、そのことは同年九月二十九日伊勢大神宮禰宜の解状に取り上げられ、さらに伊勢祭主神祇大副大中臣清親卿の同年十月四日解状で朝廷に訴えが出されてきた。御厨神人が言うことには、謹んで自分たちの手控えの参考書類を調べてみると、当御厨は、相模国高座郡にあるものである。四至は、東は玉輪御庄の堺となる俣野川、南は海、西は相模ー之宮のある神郷の堺、北は大牧崎の地域となる。代々の国判が神宮に与えられ、それに基づいて奉免宣旨が下された時、伊勢の本宮使は国衙の庁官等を率いて認定された通りに傍示を打って定め、立券文を作成して朝廷には言上してきた。その後になって源義朝が字鎌倉の楯を伝え得たと称して、関係者をそこに居住させていたが、にわかに高座郡方面を鎌倉郡だと号して俣野川を越え、大庭御厨内鵠沼郷住人たちを煩わしめた。この折りに鎌倉郡と高座郡は全然異なるのだ、と承引できない旨を給主である荒木田彦松が国衙に沙汰を申し入れた以降は特に問題なく過ぎてきた。ところが九月八日、上件安行と庁官らが鵠沼郷に乱入し、供祭料の魚を奪い取っていこうとしたおり、「鵠沼郷は鎌倉郡内であることは庁宣で明白だ。明日、いずれにしても処置する」と彼らは言った。神人等は奇異に思っていた。翌九日に運送用の負駄八疋を遣わしてきて大豆・小豆等を刈り取らせてしまった。荒木田彦松は「この鵠沼郷は鎌倉郡内ではない」そのことは先日に沙汰してある。また勅免神領では、たとえこうした収納を行う時は、宣旨を下して行うか、又は本宮に連絡をとって本宮使とともに庁官は進止を行うのが通例だ。なのに今は庁宣があるといっているが、それは留守所の下知状か、ほんとの庁宣なのだろうか。言うことは信用できない。」と主張したが、勝手に苅り負って帰っていった。神人等はその時何も敵対しなかったけれども、夜中ばかりに多数の軍兵を連れて押し寄せ、再び到来して特に理由もなくて郷内住人を絡め取ってしまった。彦松はこの理由を聞こうとして騒動の現場へ出かけて行ったところ、有無を言わせず頭を打ち損じられてしまった。ちょうど用務で来防していた熊野神人八人も同様に被害にあってしまった。いやしくも当郷は神宮の供祭所として慎み清めた漁物の御贄を悉く汚されてしまった。これは神威を侮蔑するだけではなく、天子の権威をも恐れないものである。頭を打ち損じられた神人のうち荒木田日彦松は万死一生を得たが、彼に尋ねたところ留守所目代の下知によって、上件安行と庁官が組んでこの乱行を行ったということである。以上の御厨神人の訴えた内容から伊勢大神宮禰宜当局が勘案すれば、上件安行や国衙役人らの行為は誠に言語道断である。当御厨内にある字殿原・香川の両郷にも宣旨・国判に背いて国衙目代が国役を充て課そうとすることについて、当御厨のこれまで全て免除されてきた子細は、給主である荒木田彦松がニ度にわたって彼の目代に触れ送ったところ、既に二度とも返報を得ている。ところが留守所下知を出して闘乱をなしたることは不当なことである。鵠沼郷が鎌倉郡ではなく高座郡にあることを知りながら国衙庁官が同意したことは甚だ不忠のことである。以上の大神宮禰宜当局の解状を勘案して、全て伊勢大神宮の神威を犯し辱め、諸国を狼藉すこと、これをなんと言おうか。重大なことは言うまでもない。大神宮禰宜の解状を副えて朝廷に言上することは以上の如くである。朝廷では、上卿の左大臣源有仁からの伝達によれば、「先の宣旨に任せて源義朝の濫行を停止し、一方ではその犯人を召し進め、もう一方では伊勢大神宮の先例に任せて祓い清めて供祭の勤めを行え。ということである。弁官では、以上の伝達内容を踏まえて、右大臣中原宗遠がこの宣旨の起草と発布を行ったので、伊勢大神宮司が宜しく承知して、この決定を施行しなさい。】上記を要約すると源義朝の名代(代理の清原安行(きよはらのやすゆき)と郎党である新藤太(しんとうた)、相模国の在庁官人(国衙の役人)が鵠沼郷に乱入、伊勢神宮へ納める予定の魚を奪い取り、「鵠沼郷が鎌倉郡内であることは庁宣(ちょうせん※)に明らかである。明日また指示を出す」と述べて、一旦引き上げていき、翌日運搬用の馬8頭を引き連れてきて、鵠沼郷内の大豆や小豆を刈り取ったのです。※庁宣…この場合は遥任国司(任国に赴かない国守)が現地の代官(目代など)に発給した命令書実はこのような事態に至る前に、鵠沼郷には義朝方の者がやってきて、鵠沼郷は鎌倉郡内であることを主張して帰っていったことがあり、その時御厨側は、大庭御厨はすべて高座郡(こうざぐん)内であるから到底受け入れられるものではないと、特に取り合わなかったのですが、今回のこの乱入騒ぎで義朝方がついに実力行使に及んできたということで、御厨側としていよいよ見過ごすことができない事態となったのです。この事態に給主である荒木田彦松は、「鵠沼郷が鎌倉郡内でないことは先刻申し上げたはず!勅免:天皇の許し)を得た荘園に何か指図することがある場合は、まず宣旨が下され、本家(伊勢神宮)に通達して、本家の使者とともに行うのが通例である。ところが今、庁宣ありと称して狼藉いたすということは、留守所(るすどころ※)の命令によるものなのか!そもそもその庁宣が本物なのか信じ難い!」※留守所…国衙内に設置され、遥任国司が派遣する代官(目代など)が執務する行政機関と義朝方に抗議しますが、義朝方はその抗議を受け入れる様子はなく、そればかりか9月9日から10日に日付が変わろうとする子の刻(23時~1時)に清原安行や在庁官人らは軍勢を率いて再び鵠沼郷に乱入。郷内の住人を捕らえるなどの乱暴を働き、子細を聞くために出向いた彦松の頭を問答無用でかち割って瀕死の重傷を負わせ、さらに鵠沼郷を訪れていた神人(じにん:神社関係者)8人にも怪我を負わせ、伊勢神宮に上納するために保管しておいた魚介類をことごとく踏みにじって穢す行為にも及んだのです。大庭の御厨が豊かな神奈川県央地域にあるのに対して、三浦氏、中村氏(土肥氏は中村氏一族)の領地には丘陵部が多く、水田になる低地(沖積地=ちゅうせきち)が少ないことが分かります。つまり源義朝・三浦氏・中村氏は「水田になるべき沖積地が領内に少ない」という同じ立場にあります。三浦氏や中村氏は相模の有力な在庁官人でしたが同時に源義朝の郎党(ろうとう=家来)でした.彼らは相模の中央に近く豊かな地域「相模平野」への進出という共通の目的を持っていたのです.その後三浦氏は義明の弟「義実」(岡崎義実)を平野の北である大住郡に配し、さらにその子「義忠」(真田与一義忠)を北西部に配しました。一方、中村氏は宗平の息子である実平(土肥実平)を湯河原・早川に配し、その弟の宗遠を土屋に配しました。土屋と真田は距離も近く両氏は姻戚関係(いんせきかんけい=結婚して親戚になること)を結びます。つまりこの時点において平野部を取り囲む三浦一族と中村一族の包囲網ができあがったというわけです。そしてその要が源義朝でした。こちらは鎌倉:「御霊神社」👈リンクはじめは関東平氏の鎌倉氏、梶原氏、大庭氏の先祖の霊をまつっていたが、やがて後三年の役で活躍した武勇が名高い平安時代の武士、そして大庭御厨を開発した「権五郎景政」がまつられるようになった。地元では「権五郎さま」と呼び親しまれている。下の写真は「歌舞伎」の「暫(しばらく)」に登場する「鎌倉権五郎(かまくらごんごろう)」清原武衡(きよはらのたけひら)が、自分の意に従わない人々を家来に命じて斬ろうとするところに、「しばらく」という声とともに鎌倉権五郎(かまくらごんごろう)が登場し、人々の命を助けるというストーリー。江戸歌舞伎では、俳優は芝居小屋と1年ごとに契約を結びました。その契約のスタートする11月の興行は「顔見世(かおみせ)」とよばれ、一座する俳優の顔ぶれを披露する最も重要な年中行事でした。この「顔見世」で上演される作品には、おもな俳優が一堂に会し、「しばらく」という声とともに登場する正義感あふれる人物が、悪人に殺されかけている人々を救う場面を組込む慣習がありました。「顔見世」で上演されたさまざまな作品で、何度も演じられたこの場面は、次第に洗練されていき、一定の演出が完成しました。明治以降は、この場面を『暫』として独立させて上演するようになり、現在に至っています。このような経緯で誕生したため、ストーリーを楽しむというよりも様式化された演出を楽しむ演目といえます。主人公は代々の市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)が得意とした「荒事(あらごと)」で演じられるため、『暫』は團十郎家の「家の芸」である「歌舞伎十八番」の1つに数えられている。むすびに「ここは鎌倉郡ではないのだ。神聖な神領に入って乱暴することは許せない。」大庭御厨を預かる神官荒木田彦松は相模国の役所の役人たちに言い放った。源義朝の郎従たちは荒々しく睨んでいた。天養元(1144 ) 9月上旬のことである。相模国高座郡鵠沼郷辺りは収穫の時期を迎え、御厨内では伊勢の祭神に捧げる供祭料の魚介類、大豆・小豆なども保管してあった。また用事で来ていた神人らの供米などもあった。義朝郎従や国衙役人らは、それらを勝手に運んでいってしまったのだ。止めようとした荒木田彦松は頭を割られて死にそうになった。神人たちもまたケガをさせられた。その後も乱暴は続く、源義朝や三浦義継・義明父子、中村宗平、和田助弘など、後に武家政権成立に係わる知名人が出てくるのだ。この大庭御厨こそ、日本の中世を生み出した、一つの政治基盤といってもよいだろう」と講師の伊藤一美先生より。我が藤沢市の境川沿いにはこの「源義朝」を祭神とする左馬神社・鯖神社があること、は以前から理解していたが。そして我が住む地域が「大庭御厨」であったことも。そして源義朝が左馬頭(サマノカミ;サバノカミ)という役職にあったことから左馬神社(サバじんじゃ)と言われるようになったとされているのだ。しかし、その源義朝が大庭御厨内の鵠沼の地で育った伊勢神宮への奉納品の野菜・魚介類を略奪していた事は全く知らなかったのであった。鎌倉幕府成立前の我が住む地域の歴史を大いに学ぶことが出来たのであった。そして2時間の講義が終わり往路と同じルートで帰路につく。国道1号・藤沢バイパス下のカルバートを再び通過。御殿辺公園の水飲み場ではカラスが水分補給中。カラスにとっても、この猛暑がしんどいのであろう。大切な水分補給に夢中であった。「フジロード」案内板。市内を巡ってもらおうと市民団体「藤倶楽部」が発表している「フジロード」は、引地川・境川沿いの藤棚でフジが美しく鑑賞できる場所そして史跡、寺社をたどる2つの散歩道。御殿辺公園の白旗川沿いのウッドデッキの手摺にもモニュメントが。藤沢市の鳥・かわせみ。白旗保育園の前を通り藤沢市民病院前の交差点に向かう。藤沢市民病院。「厚生年金特別融資 藤沢市民病院」。ブロンズ彫刻作品「真心」。真心を帽子の中にしのばせて。藤沢市民病院前の茂みにひっそりと設置された少女の像。大切な人のお見舞いに来たのでしようか。帽子を両手に大事に持ち、少し緊張した面持ちが表れているよう。作者:陶山定人氏 「藤白橋」越しの藤沢市民病院。藤沢市民病院前の藤沢403号線の横のロータリーを訪ねた。「藤沢宿」について紹介するパネル展示スペースとなっていた。「歩いて見よう 藤沢宿 市民病院のおいたち」。1971年(昭和46年)10月1日 藤沢市民病院開設 病床数 一般300床 伝染病30床1975年(昭和50年) 3月 臨床研修指定病院の指定1989年(平成元年) 3月 西館完成 病床数 一般400床 伝染病30床1991年(平成3年) 4月 東館改修 病床数 一般500床 伝染病30床2006年(平成18年)12月1日 救命救急センター(30床)の開設「浮世絵で見る藤沢宿」。今から180年前に描かれた浮世絵。藤沢宿は1601年に誕生。東海道53次6番目の藤沢宿は、東海道、大山街道、江の島道、鎌倉道などの分岐点として大鋸橋(現遊行寺橋)を中心に大鋸町、大久保町、坂戸町の3町で構成されました。その繁栄の様子は歌川広重等の浮世絵に残されています。「夕刻の賑わいの風景」歌川広重「東海道五拾三次藤沢(狂歌入東海道)製作時期:1840年。「うちかすむ色のゆかりのふち沢や雲居をさして登る春かな」」このシリーズは表題の書体から俗に隷書東海道と呼ばれ、保永堂版、行書版と共に三大傑作シリーズの一つです。藤沢宿の夜の風景で、右側にある鳥居が江の島一ノ鳥居(江の島道入口)、左手にあるのが大鋸橋(現遊行寺橋)です。宿場に着いた人々と客引きをする宿の人々の様子が描かれ、にぎわいが感じられます。「江の島詣・大山詣の人々が行き来する風景」東海道五十三次之内 藤沢(行書東海道)製作時期:天保13年(1842)。このシリーズは表題の書体から俗に行書東海道と呼ばれます。 画面右に江の島一ノ鳥居、左に大鋸橋(現遊行寺橋)を描いています。大鋸橋を通っているのは東海道で、この鳥居が東海道から江の島道への入口になっています。橋の上の人物が担いでいるは御神酒枠(おみきわく・大山から水や酒を持ち帰るためのもの)で、一行が大山詣の帰りであることが分かります。「遊行坂上から大鋸橋まで続く行列の模様」東海道名所之内 ふちさハ 遊行寺 作者=橋本貞秀〈1863年作〉十四代将軍家茂の上洛にちなむ東海道シリーズで「上洛東海道」と言われているものの一つ。鳥瞰的な構図で遊行寺坂上から大鋸橋(現遊行寺橋)まで続く行列の長さが強調されている絵。手前の鳥居は江の島一ノ鳥居です。遊行寺の山門は現在と異なり仁王門となっています。「江の島道鳥居・大鋸橋・遊行寺」東海道五拾三次之内 藤澤 遊行寺藤沢は時宗総本山・遊行寺の門前町として参拝客で賑わった宿場。手前は江ノ島道の第一の鳥居。一見、江ノ島が近いので奥の小山をそれと勘違いするが、これが遊行寺である。橋の上の者は大山詣で納める木太刀を担いでいる。「大鋸橋を行く人々」東海道五拾三次 藤沢(狂歌入東海道)製作時期:天保11年頃(1840)。「うちかすむ色のゆかりのふち沢や雲居をさして登る春かな」このシリーズは図柄の中に狂歌が1首づつ折り込まれているために俗に「狂歌入東海道」と呼ばれています。保永堂版と反対に遊行寺の側から大鋸橋(現遊行寺橋)と江の島一ノ鳥居を描いたもので、背景にある山は大山です。橋の上の人物が担いでいるのは御神酒枠(おみきわく・大山から水や酒を持ち帰るためのもの)で大山詣を象徴しています。橋のたもとの高札場など、宿場の様子も窺えます。「藤沢御殿」このバス停東側には「藤沢御殿」がありました。藤沢宿には”藤沢御殿”と呼ばれる将軍専用の宿泊所が置かれ、徳川家康、秀忠、家光の3代に利用されました。(1596年ごろ設置)その後、民間の本陣、脇本陣が設置され、大名や公家などの宿泊所となりました。「藤沢御殿跡絵図」(堀内家文書)江戸時代。江戸時代の初め頃、藤沢にはまだ本陣がなかったので、将軍は自らの宿泊のために今の藤沢一丁目あたり(旧藤沢公民館付近)に藤沢御殿をつくりました。絵図面によると東西約193m、南北約113mの長方形の区画で、記録によると「慶長五年(1600)に家康が宿泊して以来、寛永十一年(1634)に家光が使用したのを最後に廃止の道をたどりました。御殿の周辺には御殿を管理する代官陣屋が配置され、陣屋小路をはじめ御殿辺などの地名や陣屋橋、御殿橋といった橋の名に今では往時のなごりをとどめているのみです。「東海道分間延絵図」に描かれた御殿跡「東海道分間延絵図」は、江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図です。幕府は東海道の他にも、中山道、甲州道中、奥州道中、日光道中の五街道と、それらに付属する街道地図も同時期に作成しています。それらを含めて「五街道分間延絵図」(正式には「五海道其外分間見取延絵図」)と呼んでおり、「東海道分間延絵図」はその一部で、東海道だけで全13巻に及びます。「五街道分間延絵図」作成の命が出されたのは寛政年中(1789~1801)のことで、文化3年(1806)に完成しています。現在、東京国立博物館と逓信博物館に所蔵されています。絵図には、沿道の主な建造物では、問屋、本陣、脇本陣、寺社などが丹念に描かれています。また一里塚、道標、橋、高札なども描かれています。縮尺は、実際の1里を曲尺の7尺2寸に縮尺して描かれており、道の曲がりの急なところは、そのまま描いてしまうと地図の天地が長くなってしまうので、実際にはゆるい曲がりにし、そのわきにたとえば北に何分と記して、本来の曲がり具合を示しています。我が実家の檀家寺・妙善寺も描かれている。「江戸時代の藤沢宿今から174年前に描かれた絵図「相中留恩記路」は1839年に完成した地誌です。この絵図には家並みや人の動きが細かに描かれています。藤沢宿は1601年ごろに誕生しました。」「相中留恩記略」(福原家文書)。「現在の旧藤沢宿」「現在の旧藤沢宿現在の藤沢地区ご案内--「なりわい」が活きる地区マップ藤沢宿は、明治になって肥料や米穀等の農産物の集積地として農業関連の商店等を中心に繁栄しました。現在も蔵や店構えにその面影を残しています。商圏は三浦半島から相模原方面まで及んだといわれています。また、この地区は藤沢の街の発祥地で、現藤沢公民館は町役場で、警察署、銀行等が建ち並んでいました。明治20年に藤沢駅が開設してから駅周辺へと中心地が移りました。バスの車窓から、また、徒歩で蔵や建物を見て「なりわい」が活きる「藤沢宿」をお楽しみだくさい。2 0 1 2年(平24 ) 1 2月 藤沢市民病院・藤沢地区地域経営会議」「現在の旧藤沢宿 国道467号(藤沢橋から白旗交差点)」。「藤沢地区景観の一例」・七福神や境内が緑や木々に被われた歴史ある仏閣が多くあります。・市役所前、伊勢山公園、大清水口一ドなど、桜・アジサイの見どころ。交差点脇にあった石碑。「耕地整理記念之碑」。「神奈川縣知事従四位勲三等井上考哉題字相模東部自北亘東南有川田境川源發東京府南多摩郡境村地界交錯上為武相兩國之境・・・・以下省略・・・」裏側。そしてバスにて帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.08.17
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この日は7月25日(火)、「藤沢市教育文化センター」で開催された「令和5年度 藤沢市文書館歴史講座」「大庭御厨(おおばみくりや)の歴史的意義」に事前申込をし、参加しました。「大庭御厨」は、相模国高座郡の南部(現在の茅ヶ崎市、藤沢市)にあった、寄進型荘園の一つ。鎌倉時代末期には13の郷が存在した相模国最大の御厨(伊勢神宮領)である。私の住む場所も、「大庭御厨」に含まれる場所であることを知ったのは、高校時代であった。大庭御厨は長治元年(1104年)頃、鎌倉景正が大庭郷を中心に山野未開地を開発したものである。伊勢恒吉の斡旋で永久5年(1117年)伊勢神宮に寄進した。鎌倉景正は後三年の役(1083年 - 1087年)の勇者として有名である。大庭御厨の境界は、東は俣野川(藤沢市の境川)、西は神郷(寒川)、南は海、北は大牧崎だった。大牧崎はこれまでの研究で亀井神社南側一帯を指すと考えられているとのこと。田地の面積は、久安元年(1145年)で95町、鎌倉時代末期には150町に達した。(1町≒3,000坪≒10,000m2)大庭郷の成立は、9世紀以前と思われる。「大庭」「庭」も祭司の場を意味すると言う。現在も藤沢市に大庭の地名が残る。御厨は天皇家や伊勢神宮、下鴨神社の領地を意味する と。自宅から神奈中バスを利用して、「白旗神社前」で下車。藤沢市民病院方向に進む。右手に「ショッピングモール トレアージュ白旗」。神奈川県藤沢市藤沢2丁目3−15。こちらは、「ハックドラッグ藤沢白旗店」。途中、左折し、境川につながる「白旗川」に架かる「人道橋」を渡り、「御殿辺公園」方向へ。御殿辺公園(ごてんべこうえん)【通称:白旗公園】。名前の由来は、この近くに徳川家康が建てた「藤沢御殿」があったことによる。1984年(昭和59年)3月に、約1.1ヘクタールの面積の公園として整備された。西に白旗神社、東に藤沢市民病院と隣接している。秋になると黄葉が美しいイチョウ並木の道路を進む。右側奥には「藤沢市民病院」が見えた。御殿辺公園内には、はちの巣をモチーフにしたカラフル遊具が。そして、正面に「国道1号・藤沢バイパス」下を潜るカルバートが姿を現す。この道は「藤沢404号線」とのこと。歩行者専用道路・自転車は降りて通行して下さい と。カルバートの壁には様々な絵画が描かれていた。制作は、この日の目的地の「藤沢市教育文化会館」の隣にある神奈川県立藤沢清流高等学校の美術部の生徒達によるものと。様々な花が描かれていた。その先には自然の長閑な風景が。蝶やパンダが。ふたこぶラクダ。フラミンゴ。フラミンゴが紅色なのは、餌であるエビやカニ由来のβ-カロテンやカンタキサンチンによるものであるらしい。キリン。魚の絵も。熱帯魚。オヤビッチャに似ていたが。クラゲやタコ。クジラ。制作者のサインもイニシャルで。そしてその先にあった遊水池にはスイレンの赤い花が。ズームして。蓮の花も開花中。蓮の群生場所。そして右手には「藤沢市民病院」が見えた。「藤沢市立白旗廻り第三公園」。そして「境川」に架かる橋が見えて来た。「鷹匠橋」。境川左岸の藤沢市大鋸と右岸の藤沢市白旗1丁目・2丁目とを結び、市道藤沢409号線が通る。橋の手前に海から6.5km標識、左岸下流に下水用の大清水吐口ゲートが接続されていた。下流の御殿橋付近に徳川将軍家の御殿(別荘)や陣屋が在り、江戸時代に鷹狩りの場でもあったそうで、橋名・「鷹匠橋」はそこからと。「境川」。「鷹匠橋」を渡る。名称:鷹匠橋構造種別:1径間PC桁河口からの距離:6.5km橋の長さ:33.5m有効幅員:11m完成:1990年(H2)。下流方向を見る。国道1号・藤沢バイパスに架かる「境川大橋」を見る。歴史を感じさせる橋名ですが、欄干には半透明ガラスにスミレとチョウを描いた洒落たステンドグラス風な絵が飾られていた。橋の欄干にも同テーマの作品が。上流側を見る。こちらにも。「藤沢市民病院」を再び。「境川」沿いの道を北に進むと、左手高台にも学校の校舎が見えた。「聖園(みその)女学院高等・中学校」と。右手道路沿いには「藤沢市立大清水中学校」。1984年(昭和59年)4月2日 - 開校大清水小学校と俣野小学校、藤沢小学校と本町小学校の卒業生の一部が入学する とのこと。さらに「境川」に沿って進む。この場所は「大清水境川アジサイロード」👈リンク と呼ばれ、6月には美しいアジサイの花が楽しめるのだ。そしてこの日の受講会場・「藤沢市教育文化センター」に到着。 神奈川県藤沢市大鋸1407−1。「掲示板」。「藤沢市教育文化センター」👈リンク 案内と講演会「学校はなにをするところ?」案内書。「藤沢市教育文化センター」。 ・・・つづく・・・
2023.08.16
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場所を移動して、さらに「浜降祭」の海の中での「禊」をカメラで追う。漸く、「禊」を行う「担ぎ手」の足元、海面の見える場所に。「南湖下町 住吉神社」👈リンク の神輿を追う。「茅ヶ崎漁港」の防波堤上に移動して。残念ながら、この日は富士山の姿は・・・。再び「南湖下町 住吉神社」の神輿の「禊」を追う。富士山が見えれば、このような姿が。ネットより。そして「禊」の場を後にして、「茅ヶ崎漁港」の防波堤上を歩く。再び遠く「江の島」をズームして。そして再び砂浜へ戻る。「浜降祭」のMC舞台も役目を終えて。多くの出店が。そして国道134号方向へと、祭りを終えた神輿も帰路に。ここも神輿と観客の帰路の中で大混雑していたのであった。「茶屋町 茶屋町大神宮」👈リンク の神輿も帰路に。「鳥井戸 御霊神社」👈リンク の神輿。国道134号が前方に見えて来た。「室田 八王子神社」👈リンク の神輿。手前には「南湖下町 祭典実行委員長」の襷をかけた方の姿も。「西浜小学校入口」交差点付近の国道134号の下り車線は完全閉鎖され、神輿、観光客専用の通路になっていた。「下寺尾 諏訪神社」の神輿。その先の、神奈中バスも浜降祭の担ぎ手の送迎用バスのようであった。神輿をトラックに載せ、帰路につく神社も。そして担ぎ手、神社関係者の送迎用神奈中バス。「上赤羽根 八雲神社」と。トラックに載せられた神輿が次々に地元への帰路に。救急車の姿も。熱中症患者の収容か?国道134号の下り車線は完全閉鎖中。上り2車線を利用して車輌通行が行われていた。どこまで、下り車線は閉鎖されていたのだろうか?「十間坂 第六天神社」の神輿も帰路へ。ズームして。JR茅ヶ崎駅に向かう途中に「茅ヶ崎サザン神社」👈リンク を訪ねたが・・・。残念ながら、スチールシャッターは閉まっていた。「お母さんは太陽だ!!晴れて良し雨もまた良し 心の中は洗たく日和 伸びたり縮んだり自由に生きる 命大切に」と。そしてJR茅ヶ崎駅に到着し、帰宅の途についたのであった。茅ヶ崎市内の34社が一同に早朝の茅ヶ崎海岸に集結する「浜降祭」👈リンク光景は圧巻なのであった。神輿の形も江戸の神輿と違い、2本の担ぎ棒で掛け声はドッコイ!ドッコイ!と担ぐ。 その間に「茅ヶ崎甚句」👈リンクという唄を歌い担ぎ手たちを盛り上げるのであった。この浜降祭は、時間が早朝になってしまうのが難点と言えば難点だが、合計39基(しかも毎年増え続けていると)の神輿が揺れて、練り歩いて、けたたましく音を立てて、さらに海に飛び込むというのは十分なインパクトであった。その派手さから、外国人受けも良いのではないかと思うが、この日は観客の外国人率は驚くくらい低かったのであったが、これも早朝の為なのであろうか。そして、「合同祭典」は約1時間とチョット長いと感じたのであったが・・・更に海の中での神輿の「禊」の写真を撮るためには、私も海に入る覚悟と準備が必要と。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.08.15
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警備員、秘書に囲まれて「合同祭典」会場を後にする河野太郎デジタル大臣の姿。そして7:50を過ぎになり、一斉に海へと向かう「発輿(お発(た)ち)」のスタート。最初に「鶴嶺八幡宮」の神輿が左側に。右側には「本社宮」の神輿。「本社宮」。先導役を務めるのは、「鶴嶺八幡社4社」の「鶴嶺八幡社」、「本社宮」、「日吉神社」、「神明大神」の神輿であると決まっているようだ。「鶴嶺八幡宮」の神輿。「鶴嶺八幡宮」の神輿は、屋根が唐破風型(中央を凸として装飾する造り)、勾欄が二重化されているなどの違いがある と。近づいて。「本社宮 神輿」(右)と「日吉神社 神輿」(左)。「日吉神社 神輿」(右)と「神明大神 神輿」(左)。「本社宮 神輿」。昭和53年(1978年)建造 重量550kg。鳳凰が大きく、無垢の木に彫刻した十二支が特徴。近づいて。「本社宮 神輿」を後方から。竹の鳥居を潜って海に向かって進む。当日の南湖の浜(西浜海岸)は神社の敷地を模して三つの鳥居がしつらえてある。国道134号から神輿が入る際は一之鳥居から、二之鳥居、いったん海に向かって禊を行ったあと三之鳥居をくぐって駐輿する。「発輿(お発(た)ち)」を終え、帰る際は三之鳥居からの逆のルートになるとのこと。「日吉神社 神輿」が「三之鳥居」を潜る。「本社宮 神輿」。そして「寒川神社 神輿」が続く。十六八重表菊紋の提灯が神輿の周囲に。ズームして。側面に二個ずつの環(把手)がついてる。箪笥の引き手のような形をしているため、通称「タンス」と言われている。担ぐ際には、一人で両手にこの環を持ち、台輪に打ちつけてリズムを取るのだ。このタンスの音も神輿によって変わり、神輿自慢の種になる。元々、この環は神輿を持ち運ぶ際の取っ手とだとも言われている と。「菅谷神社 神輿」が三の鳥居を潜る。「菅谷神社の神輿」👈リンクは、天保9年(1838年)五月國府祭(大磯神揃山)に渡御された寒川神社の神輿がその帰路相模川の増水により流失し、南湖の浜に引き上げられたという神輿(湖南地方随一の祭典「浜降祭」のルーツとも一説に伝わる)で、天保10年寒川神社との神縁により譲渡され修復されたもの と。「倉見 倉見神社 神輿」👈リンク。「一之宮 八幡大神」👈リンクの神輿。海に向かって進む神輿の周りには多くの観光客が。「倉見神社 神輿」が海に向かって進む。足元には波が押し寄せて。観光客が多く、担ぎ手の足元は全く見えなかった。上空には「ドローン」が飛来。「一之宮 八幡大神の神輿」も全く同様に。「堤 八坂神社 神輿」も海の中に。さらに深く海に入って。沖には警備用それとも観光用のボートが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.13
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DJポリスの姿も。DJポリス(ディージェイ - 、D.J. Police)は、雑踏警備においてマイクロフォン・拡声器等を駆使し、軽妙な語り口・言葉巧みなアナウンスで安全な交通誘導を行う警察官の愛称・通称。J:COMもライブ映像を撮影中。34社(39基)の神輿が一同に会し「駐輿」中の神輿に近づいて。「浜降祭」は毎年 7月第3月曜日の海の日に行なわれる神奈川県寒川町の寒川神社の祭り。「みそぎ神事」とも呼ばれ,寒川神社を始めとする近隣の神社 34社の神輿 39基が一斉に、茅ヶ崎市の南湖の浜・現サザンビーチまで渡御して海水で清められる。かつては 7月15日に行なわれていたが、2004年以降今日の祭日となった。天保年間(1830~44)に国府祭に参加した寒川神社の神輿が、帰途に発生したけんかが原因で相模川に落ち行方不明になった際、南湖の浜の漁師が御神体を発見して神社に届け、その礼として始まったと伝わる。また祭りに参加する茅ヶ崎市浜之郷の鶴嶺八幡宮が、寒川神社よりも古くから禊の祭りを行なっていたともいわれる。鶴嶺八幡宮では、もともと旧暦 6月29日に近隣の神社 3社とともに浜降りを行なっていたが、1876年に祭日が 7月15日に変更になった際に、寒川神社と合同の祭りになったと伝えている。祭りは当日の夜明け前に寒川神社を出発した神輿が,鶴嶺八幡宮で近隣神社の神輿の出迎えを受けて南湖の浜に向かい、午前8時前に神輿を次々と海に入れ、浜で神事が行なわれる。その際、寒川神社の神輿はハマゴウという植物を敷いた上に据え置かれる。早朝の海に多くの神輿が入る光景の壮観さで知られ,「暁の祭典」の名もあると「コトバンク」より。「鶴嶺八幡社」👈リンク の「神輿」に近づいて。34社39基の神輿が海岸に集結し、寒川神社を中心に、ずらりと海を向いて並ぶさまは圧巻。しかし、その中で唯一、富士山の方向(西)を向くのがこの「鶴嶺八幡社」の「神輿」。鶴嶺八幡宮の神輿は先導を務める「露払い」として寒川神社の前を行く。宮司は「浜で西(寒川神社の方角?)を向くのもお守りするため。摂社として助けていただいた恩返しもあるのでしょう」と推測する と。海へと向かう「発輿(おた発ち)」を待ちきれず、既に予行演習?の「神明大神」👈リンクの神輿の姿も。「本社宮」👈リンクの神輿。「日吉神社」👈リンク、「神明大神」の神輿。浜降祭実行委員会のMC舞台。ここで、浜降祭の進行がコントロールされているようであった。警察官が「合同祭典」の開催に向けて観客先の整理を始めた。来賓席の準備も始まった。そして「合同祭典」の時間が近づいて観光客の整理も進んで。そして「合同祭典」が始まる。以下、J:COMのライブ放送の録画画面を交えて。浜降祭は、1978年に「神奈川県無形民俗文化財」に指定され、1982年には「かながわのまつり50選」に選ばれているのだ。寒川神社の宮司による神事のスタート・玉串の奉奠。寒川神社そして各神社の神職・宮司が並ぶ。そして「献饌(けんせん)の儀」の開始。神前にお供え物(酒、塩、水、山の幸等)を捧げる儀式。最初に寒川神社への「献饌の儀」。まずは米の奉納。神酒と塩。神酒、野菜と続く。最後にスイカ等の果物が奉納された。左から、お供物は果物、餅、米、酒と塩、野菜。引き続き、各神社・神輿への「献饌の儀」が行われた。テレ朝のヘリが取材で上空を何周もしていた。ズームして。そしてそして祭主による「祝詞奏上(のりとそうじょう)」。神社本庁が監修する『神道いろは』から引用すると…祝詞とは、祭典に奉仕する神職が神様に奏上する言葉であり、その内容は神饌・幣帛を供えて、御神徳に対する称辞(たたえごと)を奏し、新たな恩頼(みたまのふゆ)を祈願するというのが一般的な形ということなので、神職が儀式の際に奏上するものを祝詞ということになる。幣帛:食事やお酒のお供えを除く神様へのお供え物の総称恩頼:神々の御神慮や天皇の大御心による恩恵を尊んで用いられる語寒川神社の宮司による祝詞奏上。国家安泰、五穀豊穣と海上安全が祈念された。祭主による玉串拝礼が行われ、引き続き、浜降祭実行委員会関係者、参列者・来賓の玉串拝礼。南湖天王山八雲神社傍に住む網元鈴木孫七家は天孫の屋号で呼ばれ代々寒川神社の御旅所神主(おたびしょかんぬし)を務めてきている。御旅所神主とは祭礼の都度、寒川神社から祭礼の準備万端を依頼され、それを実行する役目である。10代目鈴木孫七氏。寒川神社責任役員。浜降祭実行委員長・亀井信幸氏。茅ヶ崎市長・佐藤光氏。衆議院議員・デジタル大臣 河野太郎氏。衆議院議員・星野つよし氏、阿部知子氏。この後、参加神社の代表者、地元の市役所関係者等々の玉串拝礼が延々と続く!!そして、祭主・寒川神社宮司の挨拶。最後に浜降祭実行委員長・茅ヶ崎商工会議所の亀井信幸会頭の挨拶。約1時間にわたる「合同祭典」がようやく終わり、お発ち(発輿)が始まったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・・
2023.08.12
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この日は、海の日・7月17日(月)。茅ヶ崎市の4大イベントの一つで、県の無形民俗文化財にも指定されている夏の風物詩「茅ヶ崎海岸浜降祭」が4年ぶりに開催されたので、地元の小田急線の駅を始発電車に乗りJR茅ヶ崎駅に向かう。始発電車は5:31発。JR藤沢駅から、5:49発の小田原行きを利用。この時間にJR東海道線に乗車するのは久しぶりであった。そしてJR茅ヶ崎駅に到着。南口に出て、茅ヶ崎海岸に向かって徒歩にて進む。JR茅ヶ崎駅の南口を振り返る。商店街を進む。茅ヶ崎市共恵1丁目8−6。「サザン通り商店街」案内板。「サザン通り」を進む。茅ヶ崎駅西側のツインウェーブから国道134号線サザンビーチまで続く道が平成12年からサザン通りの愛称で呼ばれるようなった。それによってサザン通りと通りを東西に横切る道に面した商店街の名前も南口中央商店街からサザン通り商店街と改称したのだと。「サザン通り」案内板。右手にあったのが「茅ヶ崎警察署 中海岸交番」。鉄砲道と交差する「中海岸ニ丁目」交差点を通過。「八大龍王神」の神輿は既に3時に海へと向かったようだ。「祝 濱降祭」の横断幕。「中海岸ニ丁目」交差点の直ぐ西側にある「中海岸神社」の「濱降祭」案内。この神社の子供御輿、大人神輿は4時に「宮出(みやだし)」したと。「宮出」👈リンクとは神社の祭礼に、みこし(や練り物)が境内から繰り出すこと。「「浜降祭」主なスケジュール」をネットから。「宮出」は午前0時~3時30分 と。各神社の「宮出」時間リスト をネットから。「中海岸神社」の神輿は、海岸に最も近いので一番遅い4時からになっているようであった。トラック「車輌」で「宮出」する神輿もあるようだ。「相州茅ヶ崎 寒川 濱降祭」案内が見事な墨絵で。湘南地方随一の夏の祭典といわれる「浜降祭」は、七月海の日の早朝、茅ヶ崎・南湖の浜(西浜海岸)にて斎行される。寒川神社をはじめ、寒川町・茅ヶ崎市の神輿約四十基が夜明けとともに南湖の浜に参集するその勇壮ぶりから「暁の祭典」とも呼ばれ、湘南地方に本格的な夏の到来を告げる祭りとして地元の人々に愛され続けている。また、全国でもこれほどの数の神輿が一堂に会する祭典は非常に珍しく、神奈川県無形民俗文化財に指定されているのだ。「サザン通り」をさらに海岸に向かって進む。左手には松の老木が庭に何本もある大きな屋敷が。右手には臨時売店が準備中。カラフルなヘルメットが並んでいた。ヨーヨーすくい、スーパーすくい、どじょうすくい、めだかすくいは準備完了か。そして国道134号の地下道・「サザンビーチちか道」へ。「未来手想図 2016」が地下道の左側壁に。手形タイルの設置は公益社団法人茅ヶ崎青年会議所(岩澤あゆみ理事長、以下茅ヶ崎JC)の「未来”手”想図〜私たちのまちの未来のために〜」の一環として行われたもの。子どもたちに愛郷心を持ってもらうことを目的に市と協力して2008年から実施。7月30日に開催された「サザンビーチフェスタ2016」で茅ヶ崎JCメンバーらが会場の子どもたちに参加を呼びかけて手形を採取、集められた手形はタイルに焼き付け、市へ寄贈されたとのこと。サザンビーチ側から振り返る。そしてサザンビーチに到着。時間は6:20過ぎ。正面に「SOUTHERN BEACH サザンビーチちがさき」歓迎ゲート。本村(ほんそん)・八坂神社の「本村(ほんそん)氏子 八坂会」と書かれたテント。海辺まで歩き、我が市にある「江の島」の姿を。ズームして。そして「えぼし岩(烏帽子岩)」。湘南を歌った歌の中に数多く登場する、茅ヶ崎のシンボル「えぼし岩」。正式名称は「姥島(うばじま)」と。茅ヶ崎海岸の沖合約1.4kmにあり、高さは約14.6m。えぼし岩の地層は古く、1,200万年前と調査により判明。地層は砂岩層と火山層が縞をなしていて、海底に堆積した地層が隆起したものが波で形が削られて、現在の形になったと。ズームして。えぼし岩周辺は岩礁で昔から絶好の漁場となっており、江戸時代には伊豆の漁師と地元小和田の漁師との間で漁場争いが起こり、その際に小和田の名主は京都の公卿近衛某が東下りの途中に詠んだという「相模なる小和田が浦の姥島は たれをまつやら ひとりねをする」という歌があったことを思い出し、その短冊を証拠に姥島が小和田の領地であることを主張し、紛争に勝ったという言い伝えがあるのだと。昔のえぼし岩は現在のものより先端部分がより烏帽子らしく西へ長く尾を引いていた。しかし、戦後に米軍の射撃訓練の標的となり、先端部分は消失した。その際に町のシンボルを守るための市民運動が起き、訓練は中止されたのだ と。既に全ての神輿が海岸に到着し、「合同祭典」始まる午前7時を待っているのであった。「鶴嶺八幡宮」の氏子達。湘南の「光る海」。ズームして。再び「江の島」の姿を。左側の出っ張りは「ヘッドランド(Tバー)」。砂浜の侵食を止めるために造られた施設で「T」の字に見えるから「Tバー」と。 ・・・つづく・・・東横INN茅ヶ崎市役所
2023.08.11
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次に「古代の行田 行田の遺跡 遺跡の分布」。「行田市は、利根川と荒川に挟まれ、古代から豊かな水利と大宮台地から伸びる台地とが入り組んだ地形をしていました。現在ではそうした土地の起伏はほとんどわからなくなっています。しかし、台地であった場所には多くの古墳や集落が遺され、その存在を私たちに教えています。この地では古墳時代だけではなく、はるか前から人々の営みがムラとして展開されていたことがわかっています。」「行田市の遺跡地図」。■酒巻14号墳 旗を立てた馬形埴輪 (国指定重要文化財)■酒巻15号墳 器財埴輪(埼玉県指定文化財) 1.太刀 2.靱(ゆぎ) 3.鞆(とも)「行田市の古代年表」「埼玉古墳群」。「埼玉古墳群埼玉古墳群は、行田市埼玉に位置し、5世紀半ば頃から7世紀初めにかけて築造された大型の古墳群です。武蔵国最大の前方後円墳、ニ子山古墳(全長約138m )や日本最大の円墳、丸墓山古墳(直径約105m )などを擁し、稲荷山古墳から出土した国宝「金錯銘鉄剣」や将軍山古墳から出土した馬具などの豊かな副葬品で知られています。」「戦国時代の「忍城水攻め」で知られる石田三成は丸墓山古墳に陣を置いたと伝えられています。現在でも丸墓山古墳からは忍城址をはるかに望むことができます。」古墳位置の写真下方中央に「稲荷山古墳」、その右「丸墓山古墳」、左「将軍山古墳」。その上、写真中央に「二子山古墳」。「稲荷山古墳出土 金錯銘鉄剣」。「古代の行田 ムラの発展 旧石器時代行田市に人が住み始めたのは旧石器時代からと考えられています。行田市の長野中学校の校庭から旧石器が表採されていますが、この時代のまとまった遺跡はみつかっていません。おそらく台地上を転々と移動しながら生活していたのではないかと考えられます。」。「古代の行田 ムラの発展 縄文時代縄文時代になると行田市内にムラが営まれるようになりました。人々は、縄目や竹管などを利用して複雑に焼文した土器を煮炊きや配膳に用いました。また、石器やナイフや斧のように加工して狩猟や採集を行い、祭祀にも用いていたことがわかっています。縄文時代の遺跡は、前期から後期まで続く〇〇○的なムラである馬場裏遺跡などがありますが、全体的に数は少なく、中期以降は小規模なムラが確認できるのみです。」「縄文土器 深鉢」。「古代の行田 ムラの発展 弥生時代弥生時代になると、大きな変化として稲作の開始が上げられま。ムラもそれに伴い、低湿地に隣接する微高地に展開しました。稲作の開始により、土器などの生活用具だけでなく身分の上下やムラ同士の争いという社会変化ももたらしました。方形周溝墓や環濠集落という遺構は、そうした変化を示すものと考られます。ただし、行田市内においては弥生時代後期のムラは極端に少なく、河川の流路変化などが背景にあると考えられています。」「小敷田遺跡国道17号建設工事に伴う発掘調査で明らかになった弥生時代中期を中心とするムラの遺跡。17軒の竪穴住居の他、5基の方形周溝墓、河川の痕跡が検出された。また、農作業に使う石器や米を蒸すのに使う甑(こしき)が出土するなど、稲作を行っていたことが明らかである。行田市では、弥生時代の遺跡はほとんど見つかっていない中で、北関東地域でも最古の農耕を行っていたムラとして貴重な遺跡である。●方形周溝墓●方形周溝墓は、埋葬部の周囲を浅い溝で5 ~ 15m程の方形に区画し、その土を中央に盛り上げて墳丘を築いた墓。墳丘墓の一種であり、埋葬者は複数の場合もあるが、その様相から身分の差が生まれ始めたことがわかる。」「古代の行田 ムラの発展 古墳時代古墳時代になると低地の自然堤防上に次々にムラが築成されました。これらのムラは農地開発の過程で展開していったと考えられ、古墳時代後期には長野地区や小針地区などに大きなムラが現れました。こうしたムラは、やがて小針遺跡や馬場裏遺跡などの大きな遺跡にまとまっていきました。」「小針遺跡(行田市小針)小針遺跡は、古墳時代前期頃から平安時代かけて発展したムラの遺跡である。行田市一帯のなかでも拠点的なムラであると考えられ、ムラが展開する以前の方形周溝墓も5基みつかっている。やや離れた行田市野に展開した築道下(つきみちした)遺跡とともに、埼玉古墳群の造営を支えたムラであると考えられている。古墳群の造営の背景には、こうした大規模なムラの存在があった。」「池守遺跡(行田市中里)池守遺跡は、古墳時代後期に発展したムラの遺跡である。この地域は荒川扇状地(現在の寄居付近を中心として熊谷、深谷にいたる扇状地)の末端のやや東寄りに位置し、扇状地下を流れた伏流水が湧水する。そのため、沼地・湿地が形成された。こうした沼地・湿地の周辺にムラが営まれ、豊かな水利が農業に利用されていたと考えられる。池守遺跡のような遺跡は「低湿地遺跡」と呼ばれ、その環境から木製品などが朽ちずに残る。池守遺跡からも農具や下駄、織物道具などの木製品が多く出土している。」古墳時代の「下駄」「下駄現代の下駄との違いは、2つある。1つは、鼻緒の穴の位置か、現代の下駄は中心にあるか、6世紀のは左右に寄っている。これは親指の位置に合わせているためで、鼻緒か中心にくるのは7世紀中頃以降といわれている。2つ目は、現代の下駄は歯の部分は別に作り、横から差し込む差し歯であるか、6世紀のは一枚の板から削りだしたもので、ノミやノコギリのあとか良く残されている。」「馬形埴輪」。「馬形埴輪 酒巻1号墳出土 古墳時代後期酒巻1号墳は、全長46メートルの前方後円墳。この埴輪は、高さ130センチメートルと馬形埴輪としては大型であり、足が長いのが特徴。」「馬形埴輪がまとう馬具 --酒巻1号墳出土 馬形埴輪」「古代の行田 古墳の造営 市内の古墳」。「古代の行田 古墳の造営 市内の古墳行田市内では、5世紀後半になると崎玉(さきたま)古墳群という巨大な前方後円墳を伴う古墳群が突然現れました。そして、これを始まりとして市内各地に古墳群の造営が始まりとして市内各地に古墳群の造営が始まり、7世紀後半まで続きました。古墳には円筒埴輪や形象埴輪など多くの埴輪が伴いました。これらの埴輪は武蔵国各地の埴輪文で焼かれ、行田まで運ばれてきたことがわかっています。」「小見真観寺古墳(おみしんかんじこふん)石室」真観寺境内にある全長102メートル、高さ8メートルの前方後円墳で、後円部と鞍部の2ヵ所に横穴式石室があります。後円部の南側にある横穴式の複室の石室は、寛永11年(1634)に発見され、秩父産の緑泥片岩による石室で巨大な石材を用いた精巧なものです。前室は奥行2.7メートル、幅2.2メートル、高さ2.1メートル、玄室は2.4メートル、幅2.2メートル、高さ2.1メートルで両室の間仕切りは、緑泥片岩の一枚石に四角い窓を開けています。鞍部にある石室は、明治13年に発掘され金環、鉄製刀子(とうす)、金銅装頭椎太刀(かぶつちのたち)、銅鋺(どうわん)などが発見されました。出土品は、東京国立博物館に所蔵されています。最近の発掘調査で周溝が確認され、その底付近から埴輪の破片が多く発掘されました。また、出土遺物などから6世紀末から7世紀初め頃に築かれた市内最後の前方後円墳でなはいかと推測されます。「大日塚古墳(1990年頃)」。大日塚古墳は6世紀前半頃に築造された直径18メートルほどの円墳と考えられています。本古墳は佐間古墳群に属し、周辺には他にも数基の円墳が存在していました。昭和52年8月に発掘調査が行われ、木の棺を粘土でくるんだ粘土槨(ねんどかく)が2つ並んで発見され、直刀、刀子(とうす)、鉄鏃(てつやじり)、人骨片等が検出されました。さらに粘土槨のすぐ下からは、長瀞の緑泥片岩を使って組み合わせた石棺1基が確認されています。古墳を保存するため石棺の中身については調査をしていませんが、1つの古墳に3人が埋葬されていたことになります。本古墳の築造時期は埼玉古墳群の稲荷山古墳に近い時期と考えられ、埼玉古墳群と周辺の古墳群との関連を考える上で重要な古墳であるため、平成11年に市指定文化財に指定し、平成13年に環境整備を行いました。墳頂部には嘉禎(かてい)2年(1236)銘の大日種子板石塔婆(だいにちしゅじいたいしとうば)が立っていましたが、昭和36年に県指定文化財に指定され、現在は保護のため史料館内に展示されています。「古墳群位置図」。酒巻14号墳出土埴輪(国指定重要文化財)酒巻14号墳は6世紀後半に築造された円墳で、市内の酒巻地区に展開する酒巻古墳群の中の一基です。多数の埴輪がほぼ原位置で出土しており、一括して国の重要文化財に指定されています。高句麗の古墳壁画にもその姿が見られる「旗を立てた馬」や、渡来系の衣装を着た「筒袖の男子」など、出土した埴輪は全体として渡来文化の影響を強く受けている点が指摘されています。「旗を立てた馬」は、馬の背に旗を立てるための馬具「蛇行状鉄器」の使用法を示す唯一の埴輪で、全国的にも珍しいものです。また、衣服の上から褌をしめて装飾品を多く身に着けた「力士の男子」の埴輪も、他の古墳から出土した力士埴輪とは異なる特徴がみられます。酒巻14号墳出土埴輪は、時期により一部資料の展示替えを行っています。ぜひご注目ください。手前に「馬形埴輪」「旗を立てた馬」は、馬の背に旗を立てるための馬具「蛇行状鉄器」の使用法を示す唯一の埴輪で、全国的にも珍しいもの。「国指定重要文化財 旗を立てた馬 酒巻14号墳出土 古墳時代後期旗を立ててある部品は「蛇行状鉄器」といい、渡来人の影響を受けた馬具である。」「うまがたはにわ 馬形埴輪土をやいて作った"はにわ"の馬です。上にとび出しているのは、馬のせなかに立てた旗です。根元のまがったところは、旗をささえる部品(蛇行状鉄器)をあらわしています。これまてに、版を立てた馬の"はにわ"が見つかったのは、なんと全国で行田だけ.とてもめすらしいものなんですよ。」「蛇行状鉄器--渡来文化を示す馬具--蛇行状鉄器は、まがりくねった筒状の形をしている。馬の鞍の後ろ(後輪)に装着して旗竿の受け部として使われた馬具である。朝鮮半島・大陸から伝わった渡来文化を示す遺物の一つである。日本では10例ほどの出土事例があり、埼玉古墳群将軍山古墳からも馬具の一つとして出土している。蛇行状鉄器を装着した埴輪は酒巻1号墳一例のみてある。」「高句麗古墳群 双楹塚(サンヨンチョン、平安南道龍岡郡)の壁画平成16年(2004年)に世界遺産に登録された高句麗古墳群は、当時の風俗を描いた豊かな彩色壁画で知られている。5世紀に築かれた双楹塚には、旗を立てた騎馬像の壁画が見られる。この他、通溝2号墳、三室塚の壁画などにも同様の騎馬像が見られる。」5世紀に築かれた双楹塚に描かれていた、旗を立てた騎馬像の壁画。手前な別の「馬形埴輪」。後方左は渡来系の衣装を着た「筒袖の男子」など、出土した埴輪は全体として渡来文化の影響を強く受けている点が指摘されています。後右に「力士」の埴輪。衣服の上から褌をしめて装飾品を多く身に着けた「力士の男子」の埴輪。「古代の行田 古墳の造営 酒巻古墳群行田市内に展開した吉墳群のうち、特筆すべき吉墳として酒巻古墳群があります。酒巻古墳群は利根川右岸に展開した古墳群で、現在までに23基の古墳が確認されています。酒巻古墳群からは多くの埴輪が見っかっており、特に酒巻14号墳から出土した埴輪は一括して重要文化財に指定されています。」「酒巻古墳群」「酒巻古墳群酒巻古墳群は、利根川沿いの酒巻地区に6世紀後半 ~ 7世紀台まで展開した古墳群である。現在までに23基の古墳の存在が明らかになっている。これらの古墳は現在の地表面から1 ~ 1. 5mも埋没しており、登頂部は削平されていたが、周溝部などから多数の埴輪や墓前祭祀跡が発見されている。」「酒巻古墳群の分布」。「酒巻14号埴輪出土位置と風景酒巻14号墳は、酒巻古墳群の中でも末期にあたる6世紀末に築造された円墳である円筒埴輪と形象埴輪が墳丘上のテラス部分にニ重に巡っていた。」「古代の行田 古墳の造営 古墳の埋葬方法古墳に死者を埋葬する方法に、石で室をつくり、横から出入りできるようにした横穴式石室があります。この石室模型は、市内の小針にある鎧塚古墳の石室の例です。この石室は、三味線の胴の形をした胴張り型横穴式石室とよばれ、中に秩父産の緑泥片岩を組み合わせた石棺が安置されていました。壁には群馬県榛名山の角閃石安山岩を、奥壁には秩父産の緑泥片岩を使用しています。この石室の断面は、石室を作る順序が良くわかる例です。まず川原石を据え、次に角閃石安山岩を積み上げていますが、裏側には補強として粘土が一段ごとに貼られています。粘土と粘土の間には、石の〇〇があり、一段ごとに粘土の上で加工しながら積み上げたことがわかります。」「副葬品」の勾玉、金環、管玉、小玉。小計塚鎧古墳出土。「ふくそうひん 副葬品古墳は、大昔に作られたおはかです。身分がたかく、つよい力をもった人のために、大きく、ごうかに作られました。古墳の中に入れられた品物を、ふくそうひん(副葬品)とよびます。金やガラスのアクセサリー、よろい挂甲(けいこう)など、当時の宝物があつめられました。」「須恵器」👈リンク。石室に埋葬された死者にささげられる祈りと祭のあとが展示されていた。酒巻八号墳は十四号墳の南東に位置し、全長約ニ十七メートルほどの前方後円墳で、石室は河原石を積み上げた横穴式石室。この石室の南側にむかう位置に下記写真のような須恵器大甕を中心とした祭りのあとが見つかったのだと。この須恵器に何が入っていたかはっきりしていないが、おそらく現代のお葬式でも墓に供物の膳をあげるのと同じように、食べ物や酒などが入っていたと思われます。さらにこの須恵器の前に五頭の馬が配置されており、その馬に囲まれた空間で死者に対してお祭りが行われ、深い祈りがささげられたと。こうした大型の須恵器を使ったお祭りは、近くで酒巻二十号墳やさきたま古墳群の中にある中の山古墳などでも確認されており、六世紀の終わり頃盛んに行われていたようです。」反対側に回って近づいて。中央にあるのが「横甁(よこべ)」胴部を縦に成形してから上下に蓋をして横に口を開けて作るという変わった作り方をしている。横から見る。「古墳に備えられた須恵器--酒巻8号墳の大甕須恵器は、古墳時代の半ば(5世紀はじめ)頃に朝鮮半島からもたらされた青灰色て硬い土器。5世紀の終わリ頃には日本各地に須恵器を焼くための窯が造られ始めた。この須恵器の産地は金山丘陵(群馬県太田市)と推測されている。古墳のまわりで祭祀に使われた須恵器は、その場で打ち割られている事例がある。しかし、この須恵器甕は焼成された段階ですでに焼き歪んで割れてしまっていたと考えられる。」「古代の行田 古墳の造営 墓前祭祀」「古代の行田 古墳の造営 墓前祭祀古墳は、本来死者を埋葬するために作られた墓で、埋葬された死者に対して行われた祭りを墓前祭祀といいます。この墓前祭祀は、前方後円墳である酒巻8号墳において行われたものの一部です。祭りは、両側に23本の円筒埴輪で区画し、須恵器大型甁4個、須恵器横瓶1個、土師器高杯2個、人物埴輪2体、馬形埴輪5体で構成され、冂字形に馬形埴輪で囲まれた広場で祭りが行われたと想像されます。」「8号墳墓前祭祀」の発掘現場の説明図。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.06
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「友愛数」(ゆうあいすう、英: amicable numbers)とは、異なる 2 つの自然数の組で、自分自身を除いた約数の和が互いに他方と等しくなるような数をいう。親和数(しんわすう)とも呼ばれる。最小の友愛数の組は (220, 284) である。220 の自分自身を除いた約数は、1, 2, 4, 5, 10, 11, 20, 22, 44, 55, 110 で、和は 284 となる。一方、284 の自分自身を除いた約数は、1, 2, 4, 71, 142 で、和は 220 である。友愛数はピタゴラス学派の時代にはすでに知られていた(ダンブリクス Damblichus)。現在まで知られる友愛数の組は、すべて偶数同士または奇数同士の組である。(220, 284) の次に求められた友愛数は (17296, 18416) である。この友愛数はそれ以前にも求められていたが、フェルマーにより再発見された。その後、オイラーにより 60 余りの友愛数が求められている。なお、自分自身を除いた約数の和が元の数と等しい場合には、完全数と呼ばれる。自分自身を除いた約数の和を次の数として同じように計算していき元の数に戻る場合には、その組を社交数という。■友愛数の組を小さい順に列記すると (220, 284), (1184, 1210), (2620, 2924), (5020, 5564), (6232, 6368), (10744, 10856), (12285, 14595), (17296, 18416), (63020, 76084), (66928, 66992), … これらの例は、いずれも、偶数同士又は奇数同士の組み合わせである。■友愛数を生み出す公式 nを2以上の整数とする。 p=3×2^(n-1)-1 q=3×2^n-1 r=9×2^(2n-1)-1 に対してp,q,rがすべて素数なら(2^n×pq、2^×r)は友愛数である。 例えば n=2とするとp=5,q=11,r=71となりすべて素数です! このとき,2^n×pq=220,2^n×r=284になります。 これはさきほどの例で見たように友愛数です。 n=3の場合はr=287=7×41となり素数ではないので友愛数は得られません。 n=4の場合は(17296,18416) という友愛数が得られます■未解決問題・108個の友愛数が存在することが確認されているが、友愛数の組は無数に存在するか?・偶数と奇数からなる友愛数の組は存在するか? ・・・END・・・
2023.07.24
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さらに「石上神社」の散策を続ける。正面に「社殿」。「石上神社」碑。扁額「奉納 石上神社」。隣接する「鵠沼石上町内会会館・石上会館」。藤沢市鵠沼石上2−3−7。「此の石上神社は別名、砥上明神(とがみみょうじん)と言われました。鵠沼を中心とした此の辺り一帯は天平時代(七三五年頃)「高倉郡(後に高座郡に)土甘郷(とがみごう)と呼ばれ、鎌倉時代には「砥上が原(とがみがはら)」と呼び、西行法師や鴨長明も砥上が原の歌を残してます。江戸時代に入ると砥上地蔵尊が(一六五五)建立されました。石上神社は此の辺り開発の祖、鎌倉時代の武士を祀った神社で、藤沢橋から江の島道の、当時は湾曲していた境川沿いにあった「渡しの舟場」の北側に有り、往来する人たちの守護神として村民は、大明神と崇めていました。しかし、水難で度々水に浸り、一九三四年(昭和九年)に現在地の石上通り沿い(鵠沼石上ニ丁目三番)に遷座され、町の守護神となりました。戦後の宗教法により、藤沢諏訪神社の分社と位置付けられました昭和五十ニ年十一月氏子崇敬者の御芳志により、石上神社と隣の石上会館と共に改築されました。」この後、訪ねた「石上公園(砥上公園)」にもあった「江の島弁財天道標」案内。江の島弁財天道標 市指定重要文化財(建造物) 昭和四十一年(一九六六)一月十七日指定この石柱は、江の島 への道筋に建てたれた道標(どうひょう)の一つです。江の島弁財天道標は、管(くだ)を用いて鍼(はり)をさす管鍼術(かんしんじゅつ)を、江の島で考案したという杉山検校(すぎやまけんぎょう)が寄進したと伝えられています。現在、市内外に十数基が確認され、市内所在のうちで十二基が藤沢市の重要文化財に指定されています。いずれも頂部のとがった角柱形で、その多くが、正面の弁才天を表す梵字(ぼんじ)の下に「ゑ(え)のしま道」、右側面に「一切衆生(いっさいしゅうじょう)」、左側面に「二世安楽(にせあんらく)」と彫られています。この文言(もんごん)は、江の島弁才天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏・極楽への願いが込められています。市役所新館脇歩道橋付近に建設されていましたが、新庁舎建設にともなう歩道橋周辺の整備により「江の島道」の路傍にあたるこの地に移設したものです。平成二十七年(二〇一五)十一月 藤沢市教育委員会」「石上」の案内。内容は上記に同じ。「石上神社」を後にして、鵠沼石上2丁目を北に進む。前方に「石上公園」が見えて来た。先程「石上神社」にあった案内書の中の写真の石碑はここにあった。「石上鵠沼を中心とした一帯は天平時代(七三五年頃)「高倉郡土甘郷(とがみごう)と呼ばれ、鎌倉時代には「砥上が原(とがみがはら)」と呼び、西行法師や鴨長明も砥上が原の歌を残してます。江戸時代に入ると江の島、大山詣の道筋で賑わった石上舟渡場があり、その北側に砥上地蔵尊(一六五五)建立されました。此の辺りの開発の祖の鎌倉時代の武士を祀ったといわれる石上神社は、度々水に浸り昭和九年に現在の地に移されました。」江戸時代に入ると江の島、大山詣の道筋で賑わった石上舟渡場があり、その北側に砥上地蔵尊(一六五五)建立されました。「江の島弁財天道標」。正面に弁財天を表す梵字「ソ」と「ゑのしま道」。藤沢市指定重要文化財(建造物)昭和四十一年(一九六六)一月十七日指定江の島弁財天道標この石柱は、江の島への道筋に建てられた道標の一つです。江の島弁財天道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術(かんしんじゅつ)を、江の島で考案したという杉山検校(杉山和一、一六一〇~一六九四)が、寄進したものと伝えられています。現在、市内外に、十数基が確認され、市内所在の十二基が藤沢市の重要文化財に指定されています。いずれも頂部の尖った角柱型で、その多くが、正面の弁財天を表す梵字(ぼんじ)の下に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」、左側面に「ニ世安楽」と彫られています。この文言には、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世および来世での安穏や極楽への願いが込められています。市役所新館脇歩道橋付近に移設されていましたが、新庁舎建設にともなう歩道橋周辺の整備により、「江の島道」の路傍にあたるこの地に移設したものです。平成二十七年(ニ〇十五)十一月 藤沢市教育委員会」右側面に「一切衆生」。左側面に「ニ世安楽」。この上記二つの文言には、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世および来世での安穏や極楽への願いが込められているとのこと。「江ノ島道 ルート図」。その右奥にあった石碑群。近づいて。右側の4基。右から「青面金剛像」 宝永6(1709)五月吉日6手合掌型 弓、輪、矢、三又切り絵にしてみました。「青面金剛像」 正徳6(1716)丙申(ひのえ さる)二月吉日 6手合掌型 弓、輪、矢、三又戟を持つ 下に3猿。近づいて。「道祖神」 文久三年(1863) 癸(みずのと)正月吉日。近づいて。「青面金剛像」 享保1(1716) 9月吉日6手合掌型 輪、三又戟を持つ 下に3猿。近づいて。その左に「文字庚申塔」等が4基。「文字型庚申供養塔」 文化10年(1813)癸酉(みずのととり)天6月吉日近づいて。「文字型庚申供養塔」明和8年(1771)願主の名前が刻まれていた。「明和八年卯(う)歳」と。文化3(1806) 丙寅(ひのえとら)。近づいて。「馬頭観世音」「万延元年(1860)三月十八日」。そして、さらに藤沢駅方面に進む。江ノ電の線路下の道に出ると、右手にあったのが「カトリック教会」。藤沢市鵠沼石上1丁目1−17。「藤沢カトリック教会 藤沢カトリックセンター」。「聖霊来てください 私の心を温めてください 来て私に祈りを 御父と御子を仰ぎ見るすべを 教えてください信仰の道を指し示して下さい 愛することを そしてとりわけ希望を抱く心構えを教えてください」と。入口門のない珍しい八角形の聖堂。「藤沢教会は、昭和30年(1955年)4月に片瀬教会に続いて藤沢市で二つ目のカトリック教会として生まれました。教会の守護の聖人は使徒聖シモンと聖ユダです。」と。聖堂の内部の写真をネットから。信者さんたちが運営している教会の売店「がらりや」。キリスト教関連の本や聖書、ロザリオ、メダイなどの聖品やカード類、ステーショナリーなどを揃えている と。可愛らしい陶器?の人形。藤沢駅南口の道を駅方向に進む。高架の連絡通路から。江ノ電藤沢駅改札口手前の土産物屋。そしてJR藤沢駅への連絡通路から南口ロータリーを見る。「小田急百貨店ふじさわ」を振り返る。ブロンズ像「地」 高田博厚さんによる作品。高田氏は1900年石川県生まれの彫刻家、文筆家。1931年よりフランスに渡り、多くの芸術家と交流し活発な制作活動を行った。晩年は鎌倉の稲村ヶ崎に住み作品を制作した と。JR藤沢駅 改札外コンコース正面 1980年6月完成陶板レリーフ「湘南讃歌」 原画・監修:ルイ・フランセン。「東海道五十三次 藤澤 遊行寺」。「現在の神奈川県藤沢市にあたる。手前を流れる川は境川、架かる橋は遊行寺橋と見られる。奥の山中にひっそりと佇む遊行寺と、その門前町として栄えた藤沢宿の様子が描かれる。眼前に鳥居を置いた構図は斬新で、広重特有の感性を垣間みることができる。この鳥居は江の島弁財天のもので、江の島を目指す4人の座頭が今まさに通り抜けようとしている。広重はこの鳥居をよほど気に入ったのか、別のシリーズでも違う角度から描いている。」と。「旧東海道・藤沢宿」案内図。名所・旧跡案内。「藤沢駅北口ペデストリアンデッキ(サンパール広場)」のモニュメント。「藤沢市核兵器廃絶平和都市宣言都市」のモニュメント。「藤沢市核兵器廃絶平和都市宣言わが国は世界で唯一の核被爆国であり,核兵器廃絶と恒久平 和の実現は全国民共通の願いである。しかし、すでに地球上には多くの核兵器が貯えられ、人類の 生存に深刻な脅威を与えている。藤沢市は、日本国憲法の精神に基づく国の平和と安全こそが、地方自治の根本的条件であることにかんがみ、非核三原則が完 全に実施されることを願い、核兵器の廃絶と軍縮を全世界に訴え、この人類共通の大義に向かつて不断の努力を続ける核兵器廃絶の平和都市であることを宣言する。」もちろん平和の象徴「鳩」をイメージしたもの。「藤沢駅北口ペデストリアンデッキ(サンパール広場)」からJR藤沢駅北口方向を見る。ペデストリアン(pedestrian)とは「徒歩の」、「歩行者の」、「歩行者専用の」の意味。そして6月2日にオープンした「ヤマダ電機LABI藤沢店」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.07.24
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496は「完全数」と呼ばれている。「完全数」とは自分自身が自分自身を除く正の約数の和に等しくなる自然数のことである。完全数の最初の4個は 6(= 1 + 2 + 3)、28 (= 1 + 2 + 4 + 7 + 14)、496(= 1 + 2 + 4 + 8 + 16 + 31 + 62 + 124 + 248) 、8128 (= 1 + 2 + 4 + 8 + 16 + 32 + 64 + 127 + 254 + 508 + 1016 + 2032 + 4064)。「完全数」は「万物は数なり」と考えたピタゴラスが名付けた数の一つであることに由来するが、彼がなぜ「完全」と考えたのかについては何も書き残されていないようである完全数の定義は、正の約数の総和が自分自身の2倍に等しいことと同値である。すなわち、N が完全数であるとは、約数関数σ に対してσ(N) = 2Nが成り立つことであると表現できる。■2022年時点で発見されている完全数 は51個。 51番目のメルセンヌ素数 2^82589933 − 1 であり、十進法で表記したときの桁数は 2486万2048桁に及ぶ。■完全数については、「偶数の完全数は、全て2^(n-1)×(2^n-1)の形である」ことが 知られている。 より詳しくは、2^(n-1)が素数であるような正の整数nに対して、 2^(n-1)×(2n-1)は完全数となるが、逆に、偶数の完全数は2n-1が素数であるような 正の整数nを用いて、2^(n-1)×(2^n-1)という形で表される。 2^n-1という形の数を「メルセンヌ数」といい、素数のメルセンヌ数を「メルセンヌ素数」と よんでいる。 メルセンヌ数を小さい順に列挙すると 1, 3, 7, 15, 31, 63, 127, 255, 511, 1023, 2047, 4095, 8191, ... 従って、上記は、「メルセンヌ素数と偶数の完全数が1対1に対応している」 ことを示している。この定理の後半は、オイラー(Euler)によって証明されている。 ■完全数は、2^(n-1)(2^n-1)の形で表すことができる。 n=2 6=2×(2^2-1) n=3 28=2^2×(2^3-1) n=5 496=2^4× (2^5-1) n=7 8128=2^6×(2^7-1) n=13 33550336=2^12×(2^13-1) ■ 6以外の完全数は、奇数の立法和で表される。 28=13+33 496=13+33+53+73 8128=13+33+53+73+93+113+133+153 33550336=13+33+53+73+93+113+133+153+ ・・・・・ +1233 +1253+1273■6以外の完全数は4の倍数となっている。■6 以外の偶数の完全数の下二桁は 16、28、36、56、76 のいずれかである■完全数は、連続した自然数の和で示される。 6=1+2+3 28=1+2+3+4+5+6+7 496=1+2+3+ ・・・・・ +31 8128=1+2+3+ ・・・・・ +127 33550336==1+2+3+ ・・・・・ +8191■完全数は無数に存在するのか?奇数の完全数は存在するのか? は解決されていない。 ・・・END・・・
2023.07.23
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鵠沼・蓮池の花を楽しんだ後は、帰路に。2月に惜しまれつつも閉店してしまった藤沢駅北口さいか屋のニトリの跡地に、『ヤマダデンキLABI LIFE SELECT』が6月2日にオープンしているので立ち寄ることに。しかし開店時間には早いので藤沢駅まで、未だ訪ねていない鵠沼・片瀬の史跡を藤沢駅まで徒歩で巡ることとした。右手に「鵠沼高等学校」の裏門が。創立以来80年余の歴史の中で一貫して女子教育に貢献し、約1万5千人の卒業生を世に送り出して来たが、平成16年(2004)より校名を鵠沼高等学校に改名し、自己と社会をより良く変えていく資質の育成、社会に貢献する人材の育成を目標とした人間教育をより充実させるため男女共学校にしたのであった。踏切を渡り、江ノ島電鉄線沿いを北に向かって進む。藤沢市鵠沼の住宅地を東に向かって進む。民家の庭の「トランペットフラワー」。石上の袋小路にある民家の前庭に祀られていたのが「石上地蔵」。正面から。鉄骨、プラスチック波板で造られた祠の中に鎮座。近づいて。蓮弁上の立像は舟形光背型半肉彫で、総高一五九センチメートル。火成岩製。左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。「鵠沼最古の石仏「石上地蔵」についてこの辺りは片瀬川(古くは固瀬川と書かれた)の「川袋」と呼ばれる曲流が始まるところにあたり、古くから渡船場が設けられていました。鎌倉時代には石上郷と呼ばれ、源頼朝の霊を祀る鎌倉二階堂の法華堂が支配していました。渡船場は「祗上渡し」と呼ぱれていましたが、天正年間から「石上渡し」と呼ばれるようになったと『皇国地誌』にあります。江戸時代初期には幕府の右筆(書記)を務めた旗本大橋家の知行地(所領)となり、うち九石分は鵠沼神明の空乗寺領に寄進されました。その時代、一六五四(承応四)年にこの地蔵が造立されました。鵠沼の現存最古の石仏です。」像は舟形光背型半肉彫で、総高一五九センチメートル。火成岩製です。右側の銘は「奉造立地地蔵尊 三界万靈七世之父母爲井也承應四乙未年」中央上部に地蔵菩薩の種子(梵字)である◯(カ)が彫り込まれ、蓮弁上の地蔵菩薩立像は、左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。左側には「爲法印實榮丗三年井也 五月吉日 来誉敬白」と彫られています。石上が大橋家知行地だったのは一六七ニ(寛文一ニ)年までで、以後は空乗寺領以外は上知されて幕府領になりました。一八〇〇年頃作られた『江嶋道見取繪圖』に、石上渡しのそばの大山道の路傍に「地蔵」が描かれているのがこの「石上地蔵」と思われます。一八三〇(文政一三)年、小川泰ニ編輯になる『我棲里』巻の中の石神大明神の解説に「渡船場の北にあり、村民ハ大明神と尊信すれども、地蔵尊の石像となり、七世の父母菩提の為、承応四年五月吉日栄誉敬白と彫つけたり、これを祈念すれバかならずしるしありとて、諸人参詣す、農民半兵衛といへるものこれを祠る」とあります。」赤い帽子、涎掛け、大きなマスクで、お顔の表情は判らなかった。この印は?右側の銘は「奉造立地地蔵尊 三界万靈七世之父母爲井也承應四乙未年」左側には「爲法印實榮丗三年井也 五月吉日 来誉敬白」。手前の物は何が供えられていたのであろうか?そして次に訪ねたのが「大源太(おおげんた)公園」。神奈川県藤沢市片瀬360−12。「大源太公園」内には「江の島弁財天道標」があった。正面に梵字「ソ」と「ゑのしま道」。右側面に「一切衆生(いっさいしゅじょう)」と。この世に生を受けたすべてのもの。生きとし生けるもの。特に人間を中心にしていう場合が多いと。左側面に「ニ世安楽(にせあんらく)」と。現世の安穏と来世の極楽往生。現世と来世に安楽を得ること。真新しい案内板。「藤沢市指定重要文化財(建造物)昭和四十一年(一九六六)一月十七日指定江の島弁財天道標この石柱は、藤沢宿から江の島へ向かう参詣路である「江の島道」沿いに建てられていた江の島弁財天道標の一つです。江の島弁財天道標は、江戸時代初期の鍼灸師であり管鍼法(かんしんほう)を考案したことで知られる杉山検校(杉山和一、慶長十五年(一六一〇)~元禄七年(一六九四)〕が、参詣者の道しるべのために寄進したものと伝えられています。現在、市内で所在が確認されているもののうち、十ニ基(うち一基は杉山検校による建立ではない)が藤沢市の重要文化財に指定されています。その特徴として、頂部の尖った角柱型で、正面には弁財天を表す梵字「ソ」と「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」、左側面に「ニ世安楽」と刻されており、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世および来世での安穏や極楽への願いが込められています。片瀬市民センター敷地内に設置されていましたが、平成ニ十九年(ニ〇一七)に片瀬地区地域まちづくり事業「江の島道の整備事業」として、かっての江の島道沿いにあたるこの地に移設したものです。令和五年(ニ〇ニ三)三月 藤沢市教育委員会 片瀬市民センター」「藤沢市大源太公園」。神奈川県藤沢市片瀬360−12。片瀬地区は境川左岸地区と思っていたが、ここは片瀬であるようだ。「藤沢市大源太公園」内から「江の島弁財天道標」を見る。そして再び江の島電鉄線に向かって進む。右前方に「石上駅」のホーム裏側を見る。「えのでん駅アート」には「波」の姿と「ISHIGAMI STATION ENOSHIMA海道・・」と描かれていた。「南橘町内会掲示板」。「南橘町内会便り 56号」。2019年度以来4年ぶりとなる「南橘町内会総会」が開催されたと。前方に現れたのが「藤沢市立橘公園」。藤沢市鵠沼橘1丁目23。タコの形の巨大なすべり台が。地元の子たちからはそのまんま、「タコ公園」と呼んでいると。公園の先の角に石碑が見えた。民家の角にあったのが「佐川英三詩碑」。奈良県吉野郡出身の佐川英三(1913-1992)の詩碑。佐川英三は1945年池田克己、高見順等と詩雑誌「花」を創刊、1946年に同じく「日本未来派」を創刊、長い間その発行責任者を務めた。「戦場歌」「佐川英三詩集」等の詩集の他、「高村光太郎詩がたみ」などの編著がある と。日本現代詩人会の先達の一人である と。藤沢市鵠沼橘1丁目11。「鈍重にしずかにしかも激しくくろがねの独楽がまわっているにぶく光りかすかに唸りながら永遠にまわりつづけようとする孤独な生よ 佐 川 英 三」。「佐川英三(さがわ えいぞう)一九一三年九月四日奈良県吉野郡国栖に生れる 本名大田行雄 一九四五年池田克巳、上田猷夫、高見順らと詩雑誌「花」、一九四六年同じく「日本未来派」を創刊 今日に及ぶ 長くその発行責任者詩集に「戦場歌」「佐川英三詩集など多数編著「高村光太郎詩がたみ」。一九九〇年日本現代詩人会より「先達詩人」の顕彰を受ける同会々員、日本文芸家協会々員一九九二年九月四日建之」。民家の門に「喃(なん)の風」と。元海軍将校の邸宅、フリースペースに、ここ鵠沼橘に住む映画監督の谷光章さん(76)が、自宅の空き室を音楽演奏や美術展示ができる場所として一般開放を始めたのだと。かつて文化人が多く住んだ土地柄から、新たな地域の文化拠点の創出を目指しているとのこと。そして「石上駅」のホームを見る。「藤沢宿から江ノ島まで街道を歩く昔の人々を現代のアレンジで表現しました。21世紀の今にレトロやアンティークの良さを取り入れ、それをおしゃれに変換させている江ノ電の良さをアピールできるように考え、ホームで待っている人がこのミックスされた世界に入り込めるように人物を等身大で描きました。同様に外側の壁面にはアンティークな書体で江ノ島海道という標識をタイポグラフィでアートを描き、中からも外からも楽しめるよう駅をまるっとアートで覆っています。」と江ノ島電鉄のページから。藤沢宿から江ノ島まで街道を歩く昔の人々そして松並木。Pizzaを運ぶ飛脚の姿や、自転車に乗っている旅人の姿が。再び踏切を渡り、江の島方向を見る。再び「えのでん駅アート」を。そして次に訪ねたのが「石上神社」。横には「石上会館」があった。藤沢市鵠沼石上2丁目3-7。「石鳥居」、「社殿」を正面から見る。「社殿」に近づいて。右手に「石上神社 明治二十九年四月」と刻まれた石碑。左手の掲示板には様々な案内が掲載されていた。「藤沢付近の歴史と年表先土器時代2万~ 3万年前、最後の氷河期で、現在より7 ~ 8度気温が低く、海面は百数十メートル下がり、日本列島は北と南で大陸と陸続きに成り、人間が大陸から日本へ渡ったとされています。約1万年前頃は富士山の火山活動が盛んで、相模の国の土は、上の上1mの厚さで黒土、その下に赤土が堆積していた(関東ローム層) =洪積世。古墳は1つの遺骸の墓で、藤沢でも先土器時代の物も発掘されています(層としては赤土の中に埋もれている文化)東京螺子(ミネべア)敷地内にスクモ塚古墳(九十九塚)跡が有り、遺物は長谷寺に保存されているが、発掘にあたった人夫達が、多くの刀剣類を持ち去ったとされている。片瀬丘陵の横穴墓墳は複数人の基(家族)で、7世紀前後のものと思われる、片瀬丘陵で約2 0 0発見された。相模の国八郷の1 3処1,300戸、鈴鹿王、上甘郷50戸(鵠沼)長屋王の弟で壬申の乱の英雄、高市皇子の第2子が鈴鹿王(745年没)ー天武天皇の時代1180年 源義朝の遺児、源頼朝は伊豆の石橋山の合戦から始まり鎌倉幕府を開く (兄)大庭景義と豊田景俊は源頼朝の味方 大庭景親と(弟)俣野景久は平家側に付き、身内同士で敵、味方に。1333年 (元弘3年) 5月、新田義貞軍は藤沢、片瀬などを焼きっくし鎌倉へ侵攻、 北条高時の自害で鎌倉幕府は150年間の幕を閉じた。 大源太の辻(ミネべア前)は新田義貞鎌倉攻めの戦場であった。1338年 足利尊氏、室町幕府を開く1590年 (天正18年)北条氏、豊臣秀吉に降伏、秀吉、全国統一 徳川家康が関東に国替、藤沢御殿は大名や家康、秀忠、家光らが泊まった処1598年 秀吉死去1603年 (慶長8年)徳川家康、江戸幕府開く 藤沢代官として服部惣左衛門が務めた 幕末の旗本領主、鎌倉郡高谷村には、井上左大夫がいた1707年 (宝永4年) 富士山宝永火山噴火 藤沢付近も火山灰で農作被害が出た1887年 (明治20年) 東海道、横浜~国府津間開通1889年 (〃22年) 横須賀線開業1897年 (〃30年) 江の島桟橋完成1902年 (〃35年) 江ノ電開通(江の島まで)1910年 (〃43年) 〃 鎌倉まで開通 〃 (〃 〃 ) 龍ロ寺五重塔完成 1916年 (大正5年) 辻堂堂駅開業1923年 (大正12年) 関東大震災1929年 (昭和4年) 小田急線長後~江の島間開通 1937年 (昭和12年) 白百合片瀬乃木小学校開校1938年 ( 〃 13年) 〃 乃木高校開校 ( 〃 〃 ) 藤沢第4小学校開校(本町)1940年 ( 〃 15年) 藤沢市制執行10月1日を記念日とする、令和2年は80周年 藤沢市の木ークロマツ、藤沢市の花ーフジ、藤沢市の鳥ーかわせみ2011年 (平成23年) 3月11日東日本大震災 (死者、行方不明約2万人)江の島神社ー女の神大山神社 ー男の神石上神社は鴿沼石上町内会、皆さんの神です。」「明治十五年測量 神奈川縣下相模國高座郡鵠沼村(後 藤沢町大字鵠沼)」「「江の島」「江ノ島」正解どっち?表記の違いを記者が追う藤沢担当の記者として以前から気になっていた。江ノ島・江の島・江島。社名や観光施設、団体、様々な表記がある。地元生まれの記者に聞いても「地名は平仮名だけど、駅名はノだったような・・」と歯切れ悪い。別の記者は「サザンの歌詞では『江ノ島』でしたね」。なぜ表記が分かれるのか、夏の自由研究に挑んだ。【中面に関連記事】向かった先は炎天下の江の島。開始早々、島の入口、弁天橋で3つの表記が並ぶ標識を発見した。神社・駅・ヨットハーバー。それぞれどんなな使い分けをしているのか、早くも謎が深まる。汗を拭きつつ石段を昇り降りし島をぐるっと一周。一見、島内の看板には「江の島」が比較的多いが、やはり様々な表記が散見される。「表記が混在する大きな理由は、1966年に住所表記が変更されたことが理由のようです。ただ現在は『江の島』の表記に統一しています」。そう話すのは(公社)藤沢市観光協会の担当者。同担当によると、1962年の「住所表示に関する法律」の施行に伴いそれまでの「江之島」から「江の島」に変更。その後観光促進に向けてイメージを統一するため、69年に島で話し合いが持たれ、住所表示以外の表記も「江の島」にすることに決定。以後名称を使用する場合は江の島とするよう市外にも協力を呼ぶ掛けたという。地元商店からなる江ノ島観光会も江の島に名称変更。同協会では観光施設や書面などでは「江の島」表記に統一している。「ノ」でなく「の」が採用された正確な理由は不明だが、戦後教育でカタカナ表記よりひらがな表記が推奨されていたことも影響すると考えられている。島外にも足を運ぶと、66年以前から存在する・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。「現在は「江の島」に統一されています。」「石上神社(諏訪神社藤澤)の分霊社」1955(昭和30)年頃、石上の渡し(上山本橋の付近)の北にあって、村民は大明神とたたえている。昭和9年に現在地(石上2-3)に移され町の守護神。「鵠沼鵠沼は天平時代(七三五年頃)には「高座郡土甘郷(たかくらごおりとがみごう)」(砥上)と呼ばれていました。又、この地に多くの「クグヒ」(白鳥古名)が飛来したことがこの地名の由来といわれ、平安時代(一一四四年頃)には「鵠沼郷(くくひぬまごう)」、江戸時代(一八四一年頃)には「鵠沼村(くくひぬまむら) 久々比奴末牟良と呼ばれていたのが訛って現在の「くげぬま」に成ったとされています。」「藤沢市保存樹木」案内。先程訪ねた「石上地蔵」、「大源太公園」、「江の島弁財天道標」案内。そして「石上神社735年頃(天平時代)当時境川沿いの砥上渡しの舟場の北に有り、守護神で有り村民は大明神と崇めた。」石碑が境内に並んでいた。右から「石上会館建設記念碑」、「土地寄贈記念碑」、「記念碑」。「石上会館建設記念碑此の会館は、藤沢市南部土地区画整理事業を機に、石上町内会員並に有志の寄付金により、石神神社及び鳥居と神輿の新造に併せて当地に建設した。」「記念碑」。碑の裏には「本町ノ守護神石上神ハ 従来町最南端低地ニ鎮座セラレシ 其ノ位置極メテ参詣ニ不便且ツ出水ノ都度社殿碑石共ニ浸水スルノ不敬ヲ憂慮シ 昭和九年八月七日部落ノ 中央現地ニ遷座安置シ奉ル依テ之ヲ永遠ニ記念スル為メ 建設委員一同自費ヲ投ジ茲ニ此ノ碑ヲ建設ス 昭和九年拾壱月弐拾日建之」移転の碑を建設したのが昭和九年。移転は明治29年。さらに、昭和52年、区画整理事業で現在地に移ったようだ。そして「時宗総本山 清浄光寺(遊行寺)境内案内」👈リンク。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.23
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1、2、3、4、5、6、7、8、9、10のすべての数字で割ることができる最小の数は2520。実際に電卓で割って確かめてみると、2520÷1 = 25202520÷2 = 12602520÷3 = 8402520÷4 = 6302520÷5 = 5042520÷6 = 4202520÷7 = 3602520÷8 = 3152520÷9 = 2802520÷10= 2520とすべての数で割ることができました。■つまりつまり1から10までの数の最小公倍数を求めるということ。1と2の最小公倍数は 2,2と3 〃 6,6と4 〃 12,12と5 〃 60,60と6 〃 60,60と7 〃 420,420と8 〃 840,840と9 〃 2520,2520と10 〃 2520というわけで2520■または1〜10までの素数は2,3,5,7。1〜10に2の三乗=8、3の二乗=9があるので、2^3×3^2×5×7=2520というわけで2520■さらに2つ前の8までは840、次の11と2つ先の12までは277203つ先の13までは360360因みに 1~20までの全ての数の最小公倍数 232792560 ・・・END・・・
2023.07.21
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不思議なふるまいを見せる6桁の数字があります。「142857」という何気ない自然数が、単純なかけ算で、面白い現象を見せてくれるのです。■142857に、1、2、3、4、5、6を順にかけてみます。142857 × 1 = 142857142857 × 2 = 285714142857 × 3 = 428571142857 × 4 = 571428142857 × 5 = 714285142857 × 6 = 857142この計算で、どのようなことが起こっているでしょうか。それぞれの積には1、4、2、8、5、7の6つの数字しか出て来ないのです。かけ算をする順序を変えて、142857 × 1 = 142857 142857 × 3 = 428571 142857 × 2 = 285714 142857 × 6 = 857142 142857 × 4 = 571428 142857 × 5 = 714285掛け算の結果の数値は1、4、2、8、5、7の6つの数字が、上の如くに、数字がどんどん右下にずれていっているのがわかります、これを「巡回数」👈リンクと呼びます。■そして142857 × 7 = 999999 になります。8倍以上では崩れてしまうように思えるが、先頭の数を移動して末尾(一の位)に加えると保たれる。142857 × 8 = 1142856 → 先頭の1を末尾の6に加える → 142857142857 × 9 = 1285713 → 先頭の1を末尾の3に加える → 285714142857 × 10 = 1428570 → 先頭の1を末尾の0に加える → 428571142857 × 11 = 1571427 → 先頭の1を末尾の7に加える → 571428142857 × 12 = 1714284 → 先頭の1を末尾の4に加える → 714285142857 × 13 = 1857141 → 先頭の1を末尾の1に加える → 857142142857 × 14 = 1999998 → 先頭の1を末尾の8に加える → 999999142857 × 15 = 2142855 → 先頭の2を末尾の5に加える → 142857142857 × 16 = 2285712 → 先頭の2を末尾の2に加える → 285714となる。このように、一番左の桁の数を一番右の桁の数に加えるという操作を行うと、また 142857 の順序が現れる。これは、より大きい数でも成り立つ。142857 × 71 = 10142847 → 左2桁の 10 を残りの 142847 に加える → 142857142857 × 52989018 = 7569852144426 → 右から6桁ずつ 7、569852、144426 と 区切ってそれぞれを足す → 714285■142857には、さらに不思議な性質が。こんどは、142857を142と857に2等分して足してみましょう。142 + 857 = 999 と答えに9が並びます。285 + 714 = 999428 + 571 = 999571 + 428 = 999714 + 285 = 999857 + 142 = 999と、すべて和が 999 になっています。■こんどは、142857を14と28と57に3等分して足してみましょう。14 + 28 + 57 = 99 と和に9が並びます。さらに、142857を1、4、2、8、5、7に6等分して足してみましょう。9になるでしょうか。1 + 4 + 2 + 8 + 5 + 7 = 27となって、残念ながら9にはなりません。自然数を6個も足すのですから、9にならないのは自然なことかもしれません。しかし、この足し算をもう1回繰り返し、27の各位の数を足すと、2 + 7 = 9となります。142857の6等分も9に関係しています。■1/7を小数で表すと、1/7 = 0.142857142857142857…となり、142857 が繰り返し現れます。このように、同じ数字が繰り返し現れる小数を循環小数と言います。1/7 を小数で表す計算から、3/7 = 0.428571428571… = 428571/999999このことを用いると、142857 を3倍すると 428571 になる理由は、次のように説明できます。3/7 = 1/7×3 0.428571428571… = 0.142857142857…×3 428571/999999 =142857/999999×3 428571 = 142857×3 142857 の本質は1/7の循環する部分だったのです。■142857と自然数÷71÷7= 0.14285714285714・・・2÷7 = 0.28571428571428・・・3÷7 = O. 42857142857142・・・4÷7 = O. 57142857142857・・・5÷7 = 0.7142857142857・・・6÷7 = 0.85714285714285・・・7÷7 = 18÷7 = 1 . 142857142857■14287の2乗142857^2=20408122449(【^】これは「キャレット」または「ハット」という記号で【^2】は2乗を表す)最初に0を付けて桁数を合わせ2分割して加算すると020408+122449=142857 さらに2分割して加算すると999このように「2乗した数の前の部分と後ろの部分を分けて和を取ったとき、元の値に等しくなる」ような数のことも“カプレカ数”と呼びます。例えば、297 は“カプレカ数”である。297^2 = 88209 であり、これを上位の2桁 88 と下位の3桁 209 とに分けて足すと 88 + 209 = 297 となる。 この定義でのカプレカー数を小さな順に並べると、下記の如し1, 9, 45, 55, 99, 297, 703, 999, 2223, 2728, 4879, 4950, 5050, 5292, …■まとめ“142857”に1~6までの数を掛けると、それらの答えは”142857″の循環になっている“142857”に7を掛けると、答えは999999となる1~6までの数を7で割ると、それらの答えは”142857″の循環になっている“142857”は色々な方法で連続した9を作り出すことができる ・・・END・・・
2023.07.20
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「リサイクルプラザ藤沢」を後にして、この日の最後の訪問場所の「亀井神社」に向かって県道403号線・菖蒲沢戸塚線を進む。「円行新橋」交差点の手前左側にあったのが「徳本上人名号供養塔」。「徳本上人は宝暦8(1758)年紀州で生まれ、文政元(1818)年に61歳で亡くなった念仏行者です。天明4 (1784)年に出家得度し、寛政10(1798)年、4 0歳のときに高野山に登ります。文化11(1814)年5 7歳のとき、京都を発ち増上寺住職典海大僧正の招きで関東に下向し、典海大僧正に出迎えを命じられた鸞洲和尚と藤沢で落ち合います。徳本上人は鸞洲和尚とともに、鎌倉光明寺・英勝寺を経由して、6月12日に江戸に到着し、伝通院内の清浄心院に入られました。・徳本上人名号供養塔(重頭角柱型)安政6 (1859)年7月15日 全高158cm 供養塔のある場所の隣地で旧円行571番地にある町内会館敷地は、昔、曹洞宗の青雲寺の跡地と いわれています。青雲寺は円行山と号し、亀井野村雲昌寺の末寺でした。本尊正観音で 開山浄清は本寺の住僧で正保元(1644)年に本寺を隠居寺として開創しました。 なお、亀井野の雲昌寺には青雲寺から持ち出された相模国準四国8 8ヶ所のうち、4 6番 弘法大師像が移動されています。 鏝頭形円頭 方柱型、塔身高1m、幅37.5㎝、厚35㎝ 銘(塔身正面)南無阿弥陀仏 徳本 花押 (塔身背面)維時 安政六舎己未之天七月十有五日造立(1859年) (台石向って 右面)世話人 亀井野村 七ッ木村 上土棚村 菖 蒲沢村 葛原村 用田村 (台石前面)講中 (台石向って左面)元世話人 石川村 下土棚村 下和田村 遠藤村 (台石背面)長後村 中田村 深谷村 福田村 大庭村 徳本上人の筆になる「南無阿弥陀仏」の名号碑」藤沢市湘南台3-17-17・旧円行字中丸 青雲寺跡。塔身正面:「南無阿弥陀仏 徳本 花押」と。台座:「講中」。台石向って 右面:世話人 亀井野村 七ッ木村 上土棚村 菖 蒲沢村 葛原村 用田村塔身背面:維時 安政六舎己未之天 七月十有五日造立(1859年)台石背面:長後村 中田村 深谷村 福田村 大庭村「徳本上人名号供養塔」の裏にあったのが「藤沢市消防団 第十七分団」。「円行新橋」交差点の先「カメラのキタムラ」の角にも小さな石碑があった。雑草の中に隠れるように。「南無妙法蓮華経 征清戦士忠魂供養塔」。日清戦争(一八九四~一八九五)の戦没者の供養塔。藤沢市湘南台3丁目18−1。「発起人 青木綱治郎」と。そしてこの日の最後に「亀井神社」に到着。藤沢市亀井野553-5(大字亀井野字不動上)。石鳥居手前の左側に社号標石「亀井神社」。境内を見る。亀井野の鎮守亀井神社の祭神は天迦具土神(あめのかぐつちのかみ)です。古くは源義経の家臣である亀井六郎重清により崇敬されました。天正18 (1590)の年に再建され、宝永の頃(1704ー11)この地を知行していた旗本岡部和泉守の崇敬が厚く社殿を改築しました。明治初期の神仏分離までは不動明王を本尊と祀る不動堂もありました。なお、神社周辺は旧小字「不動上」、「不動前」といわれていました。「御由緒」碑が見えた。「御由緒不動ヶ岡の先住民族は此の地に定住すると農地の開拓にのりだした。そして彼等の中には信仰心の厚い者もいた、即ち不動の森を霊山ときめ法華の教を信じた。當時の信仰「の流れとして経文一文字を一石に書き塚を作る之が経塚であり水に因んで不動明王を祭り不動堂を作った。それが不動様の初めである。天正十八年(一五九〇年)。明治のはじめ日本は神国なりと時の政府は各村落に社を作り神を崇拝するように命じた。私達のお不動様も亀井神社と名を改め村の鎮守社となる。祭神 天軻句突知命(あめのかぐつちのみこと、火の神様)當社は源義経四天王亀井六郎の祈願せし所にして天正十八年堂宇建立 宝永年中岡部和泉守崇敬厚く社殿を改築せりと傳う。大正十二年大震災により社殿鳥居等崩壊せしを後日氏子中にて再建す。 平成五年六月之建」右手に社務所と御神木。「身代り不動尊」と両側には真っ赤な「幟」が並ぶ参道を見上げる参道、石段の上に社殿。手前右手に手水舎。龍の吐水口からは清水が。右手池のほとりのに石鳥居は「身代わり不動尊社」の石鳥居か?「玉垣奉賛者御芳名」碑。社殿を斜めから。扁額「亀井神社」。「亀」の字の成り立ちは「かめ」の象形文字から と。下の中央の文字が似ているが、ネットからは上の写真と全く同じものは見つからなかった。知っている方の父親の名前も。社殿の「唐破風」を見上げる。破風とは屋根の裏側に山形に取り付けられた板部およびその付属品の総称。唐破風は破風の一つで破風板の中央部を高く、左右両端に曲線状に反っているもの。主としては玄関、門、向拝などに取り付けられる。唐破風下は白鳥の懸魚であろうか。社殿、本殿を斜めから。「絵馬のいわれ絵馬は本來神の乗り物と考えられた生き馬の代わりに神前に捧げられたものです。のちに祈願文は願い事がかなったお礼として絵馬に画いた板額を奉納する風習が現在に残った物です。」奥にあった石碑。「大震災復興記念碑」。当地は震災当時は高座郡六会(むつあい)村字亀井野でした。1942年(昭和17年)に藤沢市に編入。六会村の死者数は15名でしたが、石碑の記載によると亀井野で14名が亡くなっており、六会村の死者のほとんどは亀井野が占めていたようです。「大震災復興記念碑噫(ああ)大正十ニ年九月一日午前十一時五十八分旻天(びんてん)何ノ□情ゾ此日此時有史未曾有ノ大震火災ニ遭遇ス 天地鳴動□震源地ハ伊豆大島ノ東方四十五里ノ海底ニシテ帝都ヲ囲む東京神奈川静岡千葉埼玉ノ一府四縣ニ及ビ其死者三十萬傷者百余萬家屋被害五十萬戸損害額実ニ一日十五億人類史上凄絶空前ノ大惨事タリ當時摂政デアラセラレタ今上陛下ニハ畏(かしこく)モ御内帑金(ごないどきん)一千萬円ヲ御下賜ニ相成リ山本新内閣を非常徴発令を布キ金九百三十億円ヲ救護費ニ宛テ戒厳令忙裡暴利取締令等三大緊急勅令ヲ布キ罹災民ヲ護セリ 當時亀井野ハ総戸数百八十戸全憒家屋百十三戸半憒家屋六十七戸死者十四名傷者百余名神社佛閣ヲ始メ殆ド全減ス 茲ニ於テ百七十四ノ氏子協力ニヨリ大正十四年十月神社再築ニ着手シ本殿奥行九尺間口九尺拝殿奥行ニ間間ロ三間其他鳥居石垣等総工費五千三百円ヲ以テ大正十五年四月落成ス 爾来辛苦粒々十有余年茲ニ漸ク復興ス 斯ノ苦シキ試線ハ人ヲ偉大ナラシメ大災ノ人生ニ與フル教訓ノ深甚測リ難キモノ存ス 是ヲ永久後世ニ傳フ昭和十年四月建之 長」「拝殿」横から境内を見下ろす。社殿脇には「身代わり不動尊社」見事な唐破風下の懸魚の彫刻がここにも。角度を変えて。こちらの虹梁周辺の彫刻も見事。扁額「不動明王」。境内の池を見下ろす。不動明王と六地蔵尊。「身代り不動尊」への参道と両側には真っ赤な「幟」が。「身代わり不動尊社」の石鳥居を振り返る。そして、この日の行程を全て完了し、ここ「亀井神社」で解散したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.07.20
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発泡スチロールの箱が並ぶ。軽くて保温性や保冷性に優れる発泡スチロールは、体積の大半が空気である省資源な素材。安価でクッション性、耐水性が高く、加工が容易で、強度があるといった特徴がある。そのため肉や魚などの食品トレー、食品の輸送箱、家電やOA機器の緩衝材から建築資材といった様々な用途に使用されている。そして、発泡スチロールは合成樹脂の一種であるプラスチック加工品のため、リサイクルして再びプラスチック製品として使用することが可能。発泡スチロール減容機にて火や溶剤を用いることなく、搭載された熱源によって発泡スチロールを溶かし元の容積を減らします。炎や溶剤を使わずに発泡スチロールを溶解するので、不完全燃焼した際の一酸化炭素や溶剤から発生する有害なガスが発生しないので安全に発泡スチロールを溶かすことができます。また、高温の熱処理や溶剤などで発泡スチロールを溶解すると熱・溶剤による劣化のためにリサイクルしにくくなりますが、発砲スチロール減容機であればそういった劣化がほとんどないのでリサイクル利用することが可能になります。「爆発火災事故が発生しています!」 家庭用小型ガスボンベは「穴を開けられたら」➡カンの収集日に 「穴が開けられなかったら」➡「プラ・油・特定品目」の収集日に様々な「乾電池」が並ぶ。特定処理品目の収集日に透明・半透明袋に入れてお出しください。「使用済み小型充電式電池の再資源化行程」&「小型充電式電池のリサイクル」説明ボード。充電式・ボタン式、小型充電式の電池はプラス極とマイナス極の金属部分に、それぞれセロハンテープ等で絶縁してください。「ニッケル水素電池」、「リチウムイオン電池」。ニッケル&リチウムイオン電池等の電池類を不燃ごみなどで収集してしまうと、ごみ収集車やごみ処理施設で火災や爆発が発生するおそれがあります。絶対に他のごみと一緒に捨てることはせず、決められた方法で廃棄してください。これは?屋上緑化の植物を片付けたものか?屋上に出る。「太陽光採光システム Himawari」。太陽光採光システム「ひまわり」は3つの仕組みから構成されています。屋外に設置した集光機で太陽の光を集め専用の石英ガラス製光ファイバケーブルを使って照射希望の場所まで運び、専用の照射器具から太陽の光を照射するシステムです。日の出から日の入まで太陽を自動追尾しますので、天窓や鏡を利用するシステムのように部屋の位置や窓の方位、太陽高度による影響がなく、一日中安定した採光が可能になります。「Himawari ひまわり」集光機の機能。近づいて。「太陽光採光システム ひまわり」仕様。こちらは風力発電装置。屋上から遠く南方向にもう一つの「石名坂環境事業所」の焼却炉の煙突が見えたのでズームして。市内駒寄小学校の4年生が、見学後にゴミ収集車・パッカー車のボディにお礼を書いたものが展示されていた。「藤沢市のごみ関連施設」案内。「現在のプラットホームの様子」が大型ディスプレイに映し出されていた。「①プラットホーム収集車で集めらられた資源やごみは、計量機で重さを量った後、プラットホーム内の種類ごとに決められたヤード(一時保管場所)に運び込まれます。」「プラットホーム」を窓越しに見下ろす。説明くださった方もユーモアを交えて。重機にてゴミを移動している作業員の姿も。入口前の駐車場を見る。様々な「表彰状」が掲げられていた。手選別ラインの紹介パネルは手書きにて。「プラスチック製容器包装破袋機」にてビニール袋を破り、手選別ラインで異物、未破袋品不燃ごみ等を手選別していると。「手選別」の作業員の方々。紹介ビデオコーナー。屋上に設置されたの太陽光パネルを窓越しに見る。別の場所から。そして「中央操作室」を窓越しに。手書きの設備フローシート。ゴミピットのゴミクレーンの運転員の姿。「太陽光発電装置廃棄物処理施設には、太陽光発電装置としてソーラーパネルが3基設置されています。屋上緑化屋上緑化として、乾燥に強い多肉植物のセダム(メキシコマンネングサ)を使用し、建物に直射日があたるのを防き、建物全体の温度を卞げる効果があリます。」「スチール缶磁選機」。「スチール缶磁選機異物を取リ除かれた缶は、コンべアてスチール缶磁選機に運はれてきます。スチール缶磁選機では磁石のカてスチール缶を吸い付けることて選別し、スチール缶だけを効率よく回収しています。」「サイクロン」と「バグフィルター」。ちりやほこりを空気から吸い込み、きれいな空気にしてから排出する装置。ペットボトル、プラスチック製容器包装も作業員の手によって異物を取り除いていた。多くの人の手によって、ごみが処理されていくことを実感!!藤沢市ではペットボトルのキャップ・ラベルは剥がし、プラスチック製容器包装に出すことになっているが、そのまま出している人が多いのだと。瓶の出し方中身を出して水で軽くゆすいでください。ビンの中に異物を入れないでください。栓・キャップ・ふたは不燃ごみへ出してください。手選別したものが箱別に。手選別は重労働であることを実感したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.19
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整数の桁を並べ替えて、最大にしたものと最小にしたものとの差を取る。この操作によって元の値に等しくなる数を『カプレカ数』と呼ぶ。(カプレカ数とは裄を並ひ替えて、最大にしたものから最小にしたものの差を取った時元の値に等しくなる数をカプレカ数と言う)例えば2023 2023−0223=1800・・・・・・ダメ 8100−0018=8082・・・・・・ダメ 8820−0288=8532・・・・・・ダメ 8532−2358=6174・・・・・・ダメ 7641−1467=6174・・・・・・ ◯となり、この後は 6174 が繰り返される。どのような4桁の数でも最終的に 0 または 6174 になることが確かめられるよって 6174は「カプレカ数」。カプレカ数を小さな順に並べると、下記のごとくに。0, 495, 6174, 549945, 631764, 63317664, 97508421, 554999445, 864197532, 6333176664,・・・・・・「0」も含めてこれまでに全部で20個のカプレカ数が見つかっているとのこと。■3桁のカプレカ数が495のみであることの証明証明3桁のカプレカ数nの各桁の数字を大きい順に並べたものをabcとする。0≤c≤b≤a≤9である。このとき,(100a+10b+c)−(100c+10b+a)=99(a−c)より nは 99の倍数である。したがって99の倍数かつ 3桁の自然数は9個しか存在しないため、すべて実験して確かめてみると、カプレカ数495が導けます。99 の倍数を1つずつ調べる。198 →981−189=792 ダメ297 →972−279=693 ダメ396 →963−369=594 ダメ495 →954−459=495 OK594 →954−459=495 ダメ693 →963−369=594 ダメ792 →972−279=693 ダメ891 →981−189=792 ダメ 990 →990− 99=891 ダメ■2桁の場合はどうだろうか。例えば 28 から始めて最大-最小のカプレカ操作を繰り返すと、28: 82-28=54:54-45=9:90-09=81:81-18=63:63-36=27 :72-27=45: 54-45=9 となり9 を中心に 9→81→63→27→45→9 の循環をする.73の場合は73:73-37=36:63-36=27:72-27=45:54-45=9:90-09=81:81-18=63:63-36=27:72-27=45:54-45=9となりこれも、9 を中心に 9→81→63→27→45→9 の循環をする。したがって、数が 2 桁の場合は、ある範囲の数を循環するが 2 つの混循環小数の形に似ている。よって、2桁のカプレカ数は存在しない。■3桁の他の数字、例えば「523」で引き算操作を行ってみましょう。532-235=297972-279=693963-369=594954-459=495右端の答えの部分、十の位の数字が全部「9」で、百の位の数字は上から順に「6」⇒「5」⇒「4」とひとつずつ小さくなっており、一の位の数字は上から順に「3」⇒「4」⇒「5」とひとつずつ大きくなっています。また、ここに並ぶ3桁の数字は、一の位と百の位の数字を足すと9になるというも特徴かもしれません。■4桁の場合 4桁なので、0≦d≦c≦b≦a≦90≦d≦c≦b≦a≦9を満たす自然数 a、b、c、d<を使って、N(大)=1000a+100b+10c+dN(小)=1000d+100c+10b+aと表すことができる。よって、カプレカ操作を 1回行った数 N′はN′=N大−N小=(1000a+100b+10c+d − (1000d+100c+10b+a)=999a+90b−90c−999d=999(a−d)+90(b−c)となる。さて、a-dは 1 と 9 の間の数値をとり、b- cは 0 と 9 の間の任意の値をとり得るから、上記の形の数は全部で 90 個ある。そこで、確認のため数の表を作成した(表2)。この表で,(a − d) ≧ (b − c)であるから,左下の 36 個(網がけ)については意味のない数である.次に、第 2 回引き算を実行するために、表2の数を大きい順に並べ変えると表 3 になる.この表で残るのは、網がけの重複を除くと 30個の数である。30個の数がどのようにして6,174に到達するのかを系統図で示したのが図 1である。これで、すべての 4桁の自然数が6,174に到達することが一目にしてわかるであろう。最大 7 回で到達することもわかる.それにしても不思議なものだ。■5桁の場合53,955→95,553-35,559=59,99459,994→99,954-45,999=53,955(53,955 59,994)2つの数でグルグルと循環します。よって、カプレカ数は存在しないということ。■6桁の場合 549,945 → 995,544−445,599=549,945631,764 → 766,431−134,667=631,764とカプレカ数が2個見つかっています。■7桁の場合 存在しません。■8桁の場合 2個見つかっています。 63,317,664→76,664,331−13,346,667 =63,317,66497,508,421→98,754,210−01,245,789 = 97,508,421■全部で20個のカプレカ数が見つかっている・・・この先には??1桁のカプレカ数 03桁のカプレカ数 4954桁のカプレカ数 6,1746桁のカプレカ数 549,945 631,7648桁のカプレカ数 63,317,664 97,508,4219桁のカプレカ数 554,999,445 864,197,53210桁のカプレカ数 6,333,176,664 9,753,086,421 9,975,084,20111桁のカプレカ数 86,431,976,53212桁のカプレカ数 555,499,994,445 633,331,766,664 975,330,866,421 997,530,864,201 999,750,842,00113桁のカプレカ数 8,643,319,766,53214桁のカプレカ数 63,333,317,666,66415桁のカプレカ数 ???,???,???,???,??? ・・・END・・・
2023.07.18
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