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「逢坂」を下り、先程訪ねた「築土神社」まで進む。右にあったのが、日仏学院前の一時集合場所(災害時)案内板。「現在位置」はここ。新宿区市谷船河原町9−1前。再び「外堀通り」まで下り右に折れ、市ヶ谷方面に進む。歩道沿いの「肉のハナマサ市ヶ谷店」の野菜売り場。既にミカンが店頭に山のように。「THE KAGURA SALON」。「THE KAGURA SALON」 は、伊勢発着の日帰りツアーをオーダーメードで組み立てる旅行会社。伊勢神宮の各種ポスターが。その先に「東京安達日本語学校」。日本語学校の創成期に設立(昭和61年)された伝統ある日本語学校であると。その先右の路地の奥にあったのが「東京観光専門学校」。通称「TIT」。学校法人Adachi学園が運営する、東京都認可の専門学校である。1967年に東京スクール・オブ・ビジネスの観光学科として開設した。その後1969年に東京観光専門学院として分離独立。本校の所在地には、かつて谷干城が初代である谷子爵の邸宅が所在した。ホテル、旅行、デジタルコミュニケーション、鉄道、エアライン、ブライダル、フードクリエイト、葬祭ディレクター、観光ビジネス、グローバル語学、韓国語の12学科を設置している。「東京観光専門学校」の入口をズームして。再び「法政大学 ボアソナード・タワー」を再び。「外堀通り」の向こうに見えたのが「新見附橋」。「新見附」交差点。交差点を渡り「新見附濠」へ。「新見附濠」から「牛込濠」の間の「新見附水門」を見下ろす。ズームして。「新見附橋」。市ヶ谷方向を。「牛込濠」の飯田橋方向を見る。ズームして。「水上のCANAL CAFE」の姿が確認できた。カナルカフェは、レストランサイド・デッキサイド・ブティックの3つに分かれている。レストランサイドの名物である窯焼きのピザ、デッキサイドではお堀沿いの景色を眺めながらのカフェタイム、ブティックの見た目まで楽しめるケーキまで楽しみ方が盛りだくさん と。「外堀通り」まで引き返し、歩道を市ヶ谷方面に再び進む。「法政大学 新見附校舎」が右手に。「法政大学 大学院棟」。さらに「外堀通り」を市ヶ谷方面に進み「市ヶ谷田町」交差点まで進む。右に曲がり「牛込中央通り」を北西に進む。最初の路地を右に入ると、左手に「愛敬稲荷」と刻まれた石碑があった。社号標石・「愛敬稲荷」と。「閉店のお知らせ」があったので、「愛敬稲荷神社」がなくなったと思ったが・・・??昭和40年11月吉日再建と。この先に神社らしきものがなかったので。参道の右手にあったのが「援助修道会本部修道院」。「援助修道会」と。次に向かったのが「牛込中央通り」の右の路地・「歌坂」。「法政大学市ヶ谷田町校舎」の前に案内柱が設置されていた。「歌坂(うたさか)」。「雅楽(うた)坂ともいう。江戸時代初期、この坂道の東側には酒井雅楽頭(後の姫路酒井家)の屋敷があった(「新添江戸之図」)。坂名は雅楽頭(うたのかみ)にちなんで名付けられたのであろう。」「歌坂」の途中を左折して進むと左側にあったのが「牛込払方町教会」。「日本キリスト教団 牛込払方町教会」。江戸時代からのキリシタン禁制が解除される一年前の1872年(明治5年)に、日本最初のプロテスタント教会「日本基督公会」が横浜に誕生し、翌年には東京の築地にも教会が生まれた。この教会は、築地のこの教会を母体として、1877年(明治10年)11月17日、牛込二十騎町に「牛込教会」として発足した。翌年4月に現在の払方町24番地に会堂を得て、現在に至る教会の歴史を、この地に刻んできた。1941年(昭和16年)の「日本基督教団」の成立に伴い、「牛込払方町教会」と改称。戦時中に東京大空襲によって会堂を焼失し、戦後再建された会堂で、今日まで毎週礼拝を守り続けている。 140年以上にわたって、この地に立てられ、集められてきたキリストに生きる者たちの群れ。これがこの教会で有る と。「牛込払方町教会」の手前を左に入る路地が「鰻坂(うなぎさか)」。「鰻坂坂が曲がりくねっており鰻のような坂だ、という意味から鰻坂と呼ばれた。 『御府内備考』の払方長の項に「里俗鰻坂と唱候、坂道入曲り登り云々…」と記されている。」偕成ビル前の道路(牛込中央通り)を間に挟んで東と西に入る130mのクランク状の小道。ここは下りの「鰻坂」。「牛込中央通り」に出る。その先も突き当たりまで「鰻坂」。「坂道、通り・路・道、横丁」 案内図をつくって見ました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.10.29
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「外堀通り」まで下ると左手角にあったステンレス製のモニュメント。。「坊ちゃんの塔」。「坊ちゃんの塔このモニュメントの名称は、夏目漱石 の小説”坊ちゃん ”の主人公が、本学の前身の東京物理学校を卒業した数学教師であったことに由来します。主人公は、卒業後四国松山の中学に赴任して、反俗精神に貫かれた豪放磊落な熱血教師として描かれています。本学が明治の時代から”坊ちゃん”のような、人間味にあふれた実力ある理数系教師を多数輩出し、理学の普及に果たした役割を誇りにさらに未来に亘って脈々と継承していくことを期して、このモニュメントは建設されました。幾何学的な形状は鏡映対称な一対の五面体”ペンタドロン”を最少単位の”個”として、それらを組み合わせて構成されています。”個”の集積により、うねるように上昇する塔の形は、未来を生き抜く強いエネルギーの姿であり、そこに英知あふれる人々の無限の可能性を表現しています。平成26年3月31日設置東京理科大学」その幾何学的な形状は、鏡映対称な一対の五面体「ペンタドロン」を最少単位の「個」とし、組み合わせて構成されているとのこと とあるが・・・・???。■「ペンタドロン」👈リンクとは?ペンタドロンは、秋山仁博士とその研究仲間達によって発見した平行多面体の基礎になる形です。平行多面体というのは、平行移動させて空間を障間なく埋めつくせる形のことで、全部で5種類あります(平行六面体・切頂八面体・六角柱・菱形十ニ面体・長菱形十ニ面体)5種類ともペンタドロンを組み合わせることで作ることができます。ペンタドロンは平行多面体の元素(もとになる形)になります とネットにあったが???。廻り込んで。後日、「ペンタドロン」についてゆっくり勉強します。「近代科学資料館」、秋山仁先生の「数学体験館」案内。「外堀通り」を市ヶ谷方面に進む。右手にあったのが「庾嶺坂(ゆれいざか)」。神楽坂1丁目と市谷船河原町の間で北西に向かう坂。「庾嶺坂」案内柱。「江戸初期この坂あたりに多くの梅の木があったため、二代将軍秀忠が中国の梅の名所の名をとったと伝えられるが、他にも坂名の由来は諸説あるという(『御府内備考』)。別名「行人坂」「唯念ゆうねん坂」「ゆう玄坂」「幽霊坂」「若宮坂」とも呼ばれる。」「庾嶺坂」👈リンク の先は赤レンガの壁から石垣の塀になり、蔦の緑を左に見てあがって行くと更に急な坂になっていることが解るのであった。「牛込濠」の先に見えたのが、地上27階・地下4階建ての「法政大学 ボアソナード・タワー」。振り返ると、「飯田橋グラン・ブルーム」の超高層タワーマンション・地上40階、地下2階の「パークコート千代田富士見ザ タワー」その隣にオフィス・商業棟・地上30階、地下2階が見えた。衣料店「Gallary Pause」が右手に。左手に「市谷船河原町町会案内板」。「外堀通り」の横断歩道を渡り「牛込濠」を眼下に見る。「街に緑を心に愛を ライオンざくら」と。「外堀通り」の飯田橋駅方向を振り返る。再び見通しの良い場所から「牛込濠」を。横断歩道を引き返して、次の坂にTRY。正面に案内柱を見つけた。「逢坂(おうさか)」👈リンク と。「逢坂👈リンク昔、小野美佐吾という人が武蔵守となり、この地にきた時、美しい娘と恋仲になり、のちに都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で、再び逢ったという伝説に因み、逢坂と呼ばれるようになったという。」右手前方に神社が現れた。「築土神社(つくどじんじゃ)」。2本の木に守られるように鎮座する小さな神社。新宿区市谷船河原町9−1。「築土神社」。社殿に近づいて。扁額「築圡神社」。「圡」・土に点は「士」との混同を避けるために点を付けたものとのこと。社紋は「右三つ巴」。「内陣」。御祭神は平将門公之霊。船河原町はもともと江戸城内の平河村付近(現 ・千代田区大手町周辺)にあったが、1589年江戸城拡張の際、氏神の築土神社と共に牛込見附(現JR飯田橋駅)付近へ移転。さらに1616年築土神社が筑土八幡町に移転後、同町も筑土八幡町近くの現在地へ移転した(平凡社 『郷土歴史大事典』参照)。ところが戦後、築土神社は千代田区九段に移転。他方で船河原町は現在地に留まったことから、地理的に神社から最も遠い氏子となってしまった。そこでここに飛地社を建て、築土神社の氏子であることを冠したものと思われる と。この地には江戸時代より「堀兼(ほりがね)の井」と呼ばれる井戸があり、その昔、幼い子どもを酷使して掘らせたと伝えられる。明治39年の「堀兼の井」、中央の坂が「逢坂」と。レンガ塀のあたりに現在の神社がある と。この井戸は、昭和40年代の地下鉄工事の折に一時枯渇したものの、平成21年には、当時とほぼ同じ位置に再整備されていると。「区の説明は、神社前の説明板の通りであるが、その後井戸は掘られ、共同井戸として永い間生活に使われてきた。地下鉄工事等の影響で一時枯れたが、平成2 1年に市谷船河原町町会により、防災井戸として現在の形に整備されている。(ちなみに、船河原町の町名は江戸期から続く名称で、この牛込・箪笥地区には多数現存している)」「史跡 掘兼の井所在地 新宿区市谷船河原町9−1。堀兼の井とは、「堀りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。堀兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の堀兼の井には、次のような伝説がある。昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精根つきて死んでしまったという。 平成三年十一月 東京都新宿区教育委員会」紫の「築土神社」の幟の紋は「左三つ巴」になっていたが・・・??「船河原築土神社」案内書。社号:築土神社(つくどじんじゃ)旧称:津久戸大明神 江戸明神 田安明神御由緒:御創建 940年(天慶3年)御祭神:<主神> 天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと) <相殿> 平将門公 菅原道真公「祭神系譜図築土神社の「主神(しゅしん)」である天津彦火邇々杵尊は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫にあたる神で、日本国を治めるべく高天原(たかまのはら)から三種の神器(鏡・剣・玉飾)を持って霧島山へ降臨し、天皇の礎を築いた(天孫降臨)。築土神社には明治7年に霧島神宮(鹿児島県姶良郡霧島町)より勧請。これは、それまで当社唯一の祭神であった平将門公が明治政府に冷遇されたため、便宜上、天皇と関わりの深い神を「主神」として祀り上げることで、当時の社格を意識したものと思われる。」<御神徳>「工事安全」「子孫繁栄」等邇々杵尊は我が国を最初に統治し、その土台を築きました。この土台の上に国が成り立ち、以来、我が国は、初代神武天皇より現在まで実に125代もの間、絶えず繁栄を続けることができました。国の「土台を築いた」邇々杵尊は、まさに「築土」の神と呼ぶにふさわしい神様です。↓【お守り(建築工事安全祈願)】【御祈祷(工事安全祈願)】急勾配の「逢坂」を上って行った。さらに。逢坂を上がると、市谷砂土原町三丁目・払方町に連なる高級住宅地があった。船河原とは、揚場河岸(揚場町)で荷揚げした空舟の船溜りの河原のこと。揚場町は水運に利用された外濠沿いにある。ここでも金木犀の香りが。近づいて。ここにも「逢坂」案内柱が。ここが「逢坂」の中間点付近であろうか。左手に曲がって行くと右にあった超豪華な和風住宅。「朝霞荘」。黒川紀章設計。地下1階、地上2階、塔屋1階。昭和62年(1987)12月に安田火災の迎賓館として建てられた。新宿区市谷砂土原町3丁目22。駐車場の床 は、障子の組子および、花、鳥、風、月の各パターンを御影石にて表現しているのであった。敷地は前面道路より1.2m下がっている。このレベル差を利用し、各層の屋根を幾重にも重なるように設け、景観に広がりを持たせていると。外壁はベンガラ色、そして上部にアルミキャストの格子を組みこんだ築地塀で美しい。「朝霞荘」👈リンクと。この場所は、明治37年に石川啄木の下宿先があったとのこと。巨木が聳え立っていた。現在は損害保険ジャパンの厚生施設と。このモミジも紅葉すると美しいのであろう。その先右側には立派な高石垣の屋敷があった。上って来た「逢坂」を振り返る。右カーブの先、右手にあったのが「旧最高裁判所長官公邸(旧馬場家牛込邸)」と「最高裁判所長官公邸」と。新宿区若宮町39。旧馬場家牛込邸は、富山で海運業を営んだ馬場家の東京における拠点として、昭和3年に牛込台地の高台に建てられた。昭和22年以降は最高裁判所長官公邸となっている。設計は逓信省営繕技師であった吉田鉄郎である。南の庭園に面して和洋の客間や居間などを雁行形に連ね、和洋の意匠や空間の機能を巧妙な組合せと合理的な平面構成でまとめており、入母屋屋根や下屋庇を駆使した外観も絶妙に庭園と調和している。旧馬場家牛込邸は、東京に残された希少な大規模和風建築である。洗練された比例や精緻な造形、装飾的な細部を押さえつつ上質の良材を効果的に演出した設計手法など、昭和初期を代表する和風建築として高い価値を有している。Googleマップから。「旧最高裁判所長官公邸(旧馬場家牛込邸)」を後にして、「逢坂」を引き返し下って行った。振り返ると右手に小さなプレートを発見。「埼玉学生誘掖会の碑明治35年3月15日埼玉県の朝野の有志(渋沢栄一(青淵翁)、本多静六、諸井恒平等が中心となって)が埼玉学生誘掖(ゆうえき)会(明治44年財団法人の認可)を創設、都内で修学する学生のために明治37年寄宿舎を建設し、昭和12年には鉄筋2階建てに改築し、平成13年まで存続した。その跡地は売却され、財団法人埼玉学生誘掖会の奨学金事業の基金となる)」「坂道、通り・路・道、横丁」 案内図をつくって見ました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.10.28
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「善國寺」の前にも「新 神楽坂 楽楽散歩」案内板があった。「神楽坂通り・早稲田通り」の「神楽坂上」交差点方向を見る。様々な神楽坂周辺で開催される催物のポスターが。こちらにも。かなり交通量の多い「神楽坂通り」。「神楽坂通り」を引き返して「見番横丁」入口へ。その先にあったのが「伏見火防稲荷神社」。玉垣に「神楽坂三丁目自治会」と「東京神楽坂組合」とあるので、自治会と料亭・芸妓の組合が共同で管理しているのかもしれない。玉垣には他にも料亭の名前が多数刻まれていた。朱の鳥居の扁額も「伏見火防稲荷神社」。神社名に「伏見」を冠するので、京都の伏見稲荷から勧請したのであろう。。また、「火防」とつくのはやはり料亭の敵である火災を防いでほしいとの切なる願いであろう。「伏見火防稲荷神社」住 所:東京都新宿区神楽坂3-6御祭神:正一位稲荷大神社祠等:無し創 建:不明「見番横丁」。「芸者衆の手配や稽古を行う「見番」が沿道にあることから名付けられた。稽古場からは時折、情緒ある三味線の音が聞こえてくる。」平成23年(2011)12月に新宿区が制定した、全長約100mの通りの名称。神楽坂花柳界の伝芸能を継承する地にふさわしい「見番横丁」。「見番横丁」をさらに進む。金木犀の香りが一面に。さらに三叉路まで進み、振り返る。右が「見番横丁」、左は案内標柱は見当たらなかったが「三つ又横丁」と呼ばれているようであった。引き返し、右手の狭い路地を進む。うどん屋「別邸 鳥茶屋」。下って来た「熱海湯階段」を振り返る。そして「熱海湯」。神楽坂の路地裏、ロケ地としてもお馴染み、昔ながらの宮造り銭湯。ペンキ絵がある。薪で沸かした熱めの湯が自慢。銭湯ランナー歓迎(荷物の一時預かり可能)。昭和情緒漂う、昔ながらの銭湯であると。新宿区神楽坂3丁目6。「熱海湯」。「熱海湯」の「浴室」、「番台」、「脱衣場」。「浴室」をネットから。「熱海湯」前の「小栗通り」を「神楽坂通り」方向に進みと、右手の緑地に案内板があった。また、小栗通りは小栗横丁と言われることもあると。銭湯の「熱海湯」から、「小栗通り」を「熱海湯通り」とも呼んでいるとも。「泉鏡花旧居跡 北原白秋旧居跡」碑。「新宿区指定史跡泉鏡花(いずみきょうか)旧居跡所在地 神楽坂2丁目22番地このあたりは、明治から昭和初期にかけて、日本文学に大きな業績を残した小説家泉鏡花の旧居跡である。明治32年、硯友社の新年会で神楽坂の芸妓桃太郎(伊藤すず)と親しくなり友人から借金をして明治36年3月、ここの借家に彼女と同棲するようになった。しかし師である尾崎紅葉に同棲が知られると厳しく叱責を受け、すずは一時鏡花のもとを去る。この体験は「婦系図」に大きく生かされ、このすずがお蔦のモデルでもある。同年10月紅葉が没すると、すずを正式に妻として迎え明治39年7月までこの地に住んだ。北原白秋旧居跡所在地 神楽坂2丁目22番地泉鏡花の旧居地であるこの場所は、北原白秋の旧居地でもある。白秋は鏡花より遅れて明治41年10月から翌年10月に本郷動坂に転居するまでの約1年間をここで過ごしたが、その間の活動も素晴らしいものがあった。当地に在学中の同42年5月に短歌「もののあはれ」63首を発表しており、このころから歌作にも力をそぞぐようになった。なおこの辺りは物理学校(現・東京理科大学)の裏手にあたることから、「物理学校裏」(大正2年7月刊「東京景物詩及其他」)という詩も残している。」 「泉鏡花旧居跡 北原白秋旧居跡」を振り返って。正面に「東京理科大学 神楽坂キャンパス6号館」。右手にアートギャラリー「神楽坂パルスギャラリー」👈リンク。第23回(最終回)「神楽坂の街並スケッチ展」2023年10月13日(金)~22日(日) 但し16日(月)17日(火)は休廊OPEN 11AM~5PM(最終日は4PM迄)神楽坂の情緒をそれぞれにスケッチで表現、秋の散歩がてらご高覧ください と。その先にあったのが「新宿区立若宮公園」。江戸時代の通称「振り袖火事」(1657年)以降、雑木林や草原であった牛込地区に武家が移り住み、武家屋敷中心の街が形成されました。したがってこの公園は江戸時代の牛込を思い起こさせる武家屋敷をイメージした和風広場公園として整備しました。「アートスペース神楽坂」。「手づくり郷土賞」公園内には遊具等はなく。巨岩も置かれていた。こちらが公園の正門か?「一時集合場所(災害時)」。現在地はここ。石垣が積み上げられた場所もあった。そして右手にあったのが「近代科学資料館」。「近代科学資料館」は東京理科大学創立110周年を記念して平成3年11月に故二村冨久氏(昭和16年東京物理学校理化学部卒・二村化学工業株式会社の創立者:現フタムラ化学株式会社)の寄付により建設されたもの。明治39年に本学ゆかりの地である神楽坂に建設された東京物理学校の木造校舎の外観を復元している。東京理科大学では、この建物に二村記念館の副称を付け、永くその意志を称えることとした。新宿区若宮町19。「近代科学資料館」フロアー案内。入口をズームして。B1フロアーは「数学体験館」。「ヒゲの数学者」として知られる秋山仁教授が館長を務める、東京理科大学の数学体験館。数学の面白さ、有用性を具体的に表現するために定理や公式、概念を実感できる装置・教具・教材を開発し、展示している施設だ。一切の妥協を許さない真実の美を秘めた数学を、触って、実験して、多角的に学んでみよう と。「秋山仁の数学体験館」👈リンク。しかしこの日は休館日であった。ガラス戸越しに内部を。入口にあった絵画を。「東京物理学校」と。「東京物理学校」は、1881年に東京府に設立された、私立の物理学校(旧制専門学校)である。略称は「物理学校」。 現在の東京理科大学の前身である。1881年(明治14年)9月、寺尾寿ら東京大学理学部物理学科の初期の卒業生などにより私塾の「東京物理学講習所」として設立され、のち東京物理学校に改称、1917年以降は旧制専門学校に昇格した。私立では唯一の理科専門学校であり、1940年時点では数学部・理化学部・応用理化学部よりなる「本科」と「高等師範科」「特科」「別科」の4科より構成され、夜学を中心とする学校であった。「入りやすく出にくい」、すなわち入学は容易(無試験)であるが卒業・進級は厳しいという評判があり、卒業生には教職に就く者が多く特に数学・理科教員として中等教育界に重要な位置を占めた。夏目漱石の小説『坊つちやん』の主人公である数学教師も物理学校出身という設定になっている。東京理科大学では、「坊っちゃん講座[2]」「坊っちゃん科学賞[3]」といった科学教育の場を設けている。1949年2月21日、東京理科大学の設置が認可され1951年3月31日 に東京物理学校は廃止となったと ウィキペディアより。「坂道、通り・路・道、横丁」 案内図をつくって見ました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.10.27
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そして次に訪ねたのが神楽坂通り沿い、坂が段々と緩やかになっていったあたりにあったのが「善國寺(ぜんこくじ)」。新宿区神楽坂5丁目36。山門前にあったのが「神楽坂」案内柱。「坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。」早稲田通り・神楽坂通りに面して朱色が鮮やかな山門があった。「善國寺」、「毘沙門天」と書かれた提灯が並んでいた。神楽坂のシンボル「毘沙門さま」。芝・正傳寺、浅草・正法寺とともに「江戸三毘沙門」のひとつ。日蓮宗寺院の善国寺は、鎮護山と号す。善国寺は、徳川家康より天下安全の祈祷の命をうけて、日惺上人(二條関白照實の子、後の池上本門寺十二世)が麹町六丁目に文禄4年(1595)創建、寛文10年(1670)に火災に遭うも徳川光圀の援助で4年後に再建。享保12年(1727)にも火災に遭う。寛政4年(1792)の火災により寺域を火除地として召しあげられ、翌年寛政5年(1793)現在の地へ移転したと。善国寺毘沙門堂の毘沙門天は、加藤清正の守本尊だったとも、土中より出現したともいわれ、江戸の三毘沙門と称されて、新宿山之手七福神の一つに列している。通称「神楽坂毘沙門天」と呼ばれているとのこと。左手に「浄行菩薩」。「浄行菩薩」の扁額。近づいて。「浄行菩薩とは水が垢や穢れを除いて除いて一切を洗い清めるが如く、我々の煩悩の汚泥を除いて身心の病を除き、寿命を延ばし、衆生(しゅじょう)の願いを満たす徳を持って出現された菩薩さまですどうぞお題目「南無妙法蓮華経」唱えながら備え付けの布で、ご自身の悪い部分を洗ってください。必ずご利益を頂戴することができます。 鎮護山善國寺」祈りのお姿。横からのお姿を。その奥にあったのが「開運出世稲荷」。本堂正面左側に鎮座。残念ながら、寺院に祀られているお稲荷さんというのは由緒の無いことが多い。境内に御由緒の掲示は無く、ホームページにも全く触れられていないのだが。近づいて。正面に各種案内板。「山之手七福神 毘沙門天」碑。新宿山之手七福神は、大久保通りの飯田橋駅と新宿駅との間に点在する7寺社による七福神めぐりで、5ヶ寺2社で構成され、約2時間で参拝可能な七福神と。・善国寺(毘沙門天) 新宿区神楽坂5-36・経王寺(大黒天) 新宿区原町1-14・抜弁天厳島神社(弁財天)新宿区余丁町8-5(正月以外のご朱印は西向天神社)・永福寺(福禄寿) 新宿区新宿7-11-2・法善寺(寿老人) 新宿区新宿6-20-16・鬼王稲荷神社(恵比寿) 新宿区歌舞伎町2-17-5・太宗寺(布袋尊) 新宿区新宿2-9-2「新宿区指定有形文化財 彫刻善國寺の毘沙門天像所在地 新宿区神楽坂五丁目三十六番地指定年月日 昭和六十年七月五日「神楽坂の毘沙門さま」として、江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。木彫で像高30センチ、右手に鉾、左手に宝塔ほうとうを持ち、磐座いわざに起立した姿勢をとる。造立時期は室町時代頃と推定されるが、詳しくは不明である。加藤清正の守本尊だったとも、土中より出現したともいわれる。善國寺は、文禄4年(1595)徳川家康の意を受けて日惺上人により創建された。この像は、日惺上人が鎮護国家の意をこめて当山に安置したもので、上人が池上本門寺に入山するにあたり、二条関白昭実公より贈られたと伝えられる。毘沙門天は、別名を多聞天と称し、持国天・増長天・広目天と共に四天王の1つである。寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に世に現れたといい、北方の守護神とされる。善國寺の毘沙門天は、江戸の3毘沙門と呼ばれ、多くの参詣者を集め、明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑わった。現在も、正月・五月・九月の初寅の日に毘沙門天を開帳し、賑わいを見せている。 平成二十一年十二月 新宿区教育委員会」「新宿区指定有形文化財善國寺の石虎所在地 新宿区神楽坂五丁目三十六番地指定年月日 平成二十一年十一月六日安山岩製の虎の石像で、像高は阿形(右)が82センチ、吽形(左)は85センチで、台石、基壇部も含めた総高は、両像ともに2メートルをこえる。台石正面には浮彫があり、虎の姿を動的に表現している。嘉永元年(1848)に奉納されたもので、阿形の台石右面には、「岩戸町一丁目」「藁店(わらだな)」「神楽坂」「肴町(さかなまち)」などの町名と世話人名が刻まれ、寄進者は善國寺周辺の住民であったことがわかる。石工は原町の平田四郎右衛門と横寺町の柳村長右衛門である。善國寺は毘沙門天信仰から「虎」を重視し、石虎の造立も寄進者らの毘沙門天信仰によると考えられる。また、台石に残された寄進者名や地名は、江戸時代後期における善國寺の毘沙門天信仰の広がりを示している。石虎は都内でも珍しく、区内では唯一の作例である。戦災による傷みが見られるが、貴重な文化財である。なお、阿形の台石正面にある「不」に似た刻印は、明治初年のイギリス式測量の几号(きごう)水準点で、残存している数は全国的にも少ない。 平成二十一年十二月 新宿区教育委員会」石虎・阿形(右)近づいて。石虎・吽形(左)。近づいて。阿形の台座(本殿に向かって右側)に「几号水準点」があった。几号水準点は、水準点の一種で、漢字の「不」に似た形をしていた。原型は英国貴族の家紋で、石造橋梁や石垣、神社の鳥居や灯篭、狛犬の台石などに刻印された。几号水準点は、水準点の横棒の溝に金属製の台(ベンチ)をひっかけて、ベンチ上に標尺を載せて測量する。このため、水準点のことを「ベンチマーク」(=几号)ということもある。几号水準点は、明治9年に制定された。近代測量の歴史を語るうえで特異な存在であり、現在は幻の水準点となっている。几号水準点は、次の場所に刻印されていることが多いと・石造橋梁や石垣・神社の鳥居や灯篭、狛犬の台石・櫓門・天守台水準点は、国土の高さを測るための基準として幅広く利用されている。測量法では、日本の土地の高さ(標高)は平均海面からの高さで表示することが定められていると。本堂 内陣。日蓮宗の宗紋は「井桁橘(いげたたちばな)」。井桁と橘紋の組み合わせで、井桁の中に橘紋が描かれている。この紋章の由来には諸説あるが、次のようなものがあると。・日蓮宗の開祖である日蓮が橘紋を家紋とした・日蓮聖人の生家がこの家紋であった・日蓮聖人の誕生の時に湧き出た泉にちなんで井桁を、聖人の大好物であったといわれる 橘にあしらった本堂前から境内を見る。本堂内陣。中央には「毘沙門天像」。「毘沙門天像」をネットから。本堂内陣 右。本堂内陣 左。見事な「天蓋」。本堂内陣の扁額は山号・「鎮護山」。照明にも日蓮宗の宗紋が。「今月の聖語鉄(くろがね)を熱(やく)にいたうきたわざればきず隠れてみえず」日蓮聖人御遺文『開目抄』の中の聖語。この聖語の意味は、物事に一生懸命に取り組めば取り組むほど、課題や障害がたくさん浮上して、前に進めなくなる時があるという意味。日蓮聖人は、鉄を焼く時に、強く鍛えなければ中の傷は隠れたまま見えない、と述べています。何度も強く鍛えれば傷が現れるのだと。鉄(くろがね)を熱(やく)にいたうきたわざればきず隠れてみえず 日蓮聖人御遺文『開目抄』/文永9年(1272)51歳=試練=物事に一生懸命に取り組めば取り組むほど、課題や障害がたくさん浮上して、前に進めなくなる時があります。たとえば、何度も練りに練った企画書にダメ出しをされたり、苦情を受けたり…。人生はうまくいかないことばかり。試練の連続です。そんな時、まず心得ておきたいのは、「自分は完璧ではない」ということです。必要以上に落ち込まず、ありのままに受け止めましょう。原料から鉄を作る時は高温で熱します。そうしないと不純物が取り出せず、良い鉄ができないのです。これと同じように私たちも一生懸命物事に取り組むことで鍛えられ、試練を乗り越えて味のある人間として成長していくことができるのです。完璧な人などいません。逆にいえば、成長できる伸びしろがたくさんあるということなのです。1歩1歩ゆっくり進んでいけばいいんです。◎日蓮聖人御遺文『開目抄』流罪となった佐渡島の厳しい環境のなかで著されました。自分自身を振り返り、見つめ直し、苦難をどうとらえたらいいのかを学ぶことができ、生きる力をもらえる書です。文永9年(1272)51歳「寺務所」。境内の早稲田通り沿い、本堂と対面してあったのが「家畜慰灵(霊)碑」と、右に「家畜慰灵(霊)碑 寄進者芳名」。「家畜慰灵(霊)碑」。「題目碑 南無妙法蓮華経」。大東亜戦〃死病歿 諸霊位追善供養 と。フェンスの先にあったのが、「善國寺」と刻まれた「宝篋印塔」。令和3年 築土小学校2年生の「善國寺」訪問レポート。本堂を横から。「善國寺」のお守り、お札、各種。「紺屋めぐり」、「染職人の感謝祭」の案内。「石虎」の絵馬。境内の藤の樹。「おみくじ掛け」に。毘沙門天善國寺のご利益は、主に「厄除け・開運・商売繁盛・金運」等があると。特に毘沙門天は古代ヒンドゥー教で金運と福徳の神様であったため、神楽坂の毘沙門天善國寺も財福・金運のパワースポットとしても近年人気を集めているのだと。5月になると見事な藤の花が!!・・ネットから。「日蓮宗 善國寺」と。「坂道、通り・路・道、横丁」 案内図をつくって見ました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.10.26
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「飯田橋ラムラ(RAMLA)」のアーケード中央通路を歩き、再び「牛込橋」に出る。そして「神楽坂下」交差点を渡り、神楽坂1丁目を歩く。「外堀通り」を「飯田橋」交差点方向に向かい、途中左折して、先日歩いた「軽子坂」を上る。これは前回の写真。「軽子坂この坂名は『新編江戸志』や『新撰東京名所図会』などにもみられる。軽子とは軽籠持(かるこもち)の略称である。 今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた。 平成十五年三月 新宿区教育委員会」そして最初にあった狭い路地を左折して「軽子坂」側から入る。ここが「神楽小路」と。神楽小路は、狭い路地に、洋食屋、ラーメン屋、蕎麦屋、飲み屋、スナックなど飲食店が所狭しと密集して並んでいた。「神楽小路」は神楽坂下を神楽坂上方面に上って最初の路地で、外堀通りと平行する神楽坂通りと軽子坂(通り)を結ぶ小路。神楽坂の幾多の小路中、神楽を冠する小路であるから、神楽坂の小路の親分格なのであろう。左手にあったのが「神楽小路 みちくさ横丁」。「みちくさ横丁」の入り口は、神楽小路に面し、みちくさ横丁自体は袋小路であった。看板に「神楽小路・みちくさ横丁」とあるように、みちくさ横丁はあくまで神楽小路の一部なのであろう。短い横丁であるが、「みちくさ横丁」は昼間でも昭和の匂いの残る実に個性豊かな味わいのある横丁であった。会社帰り、この辺りでみちくさして、なかなか帰らない・帰りたくないサラリーマンが、今宵も沢山いること間違いなし。みちくさ横丁の奥から神楽小路方向を見る。昼間はそば屋さんがメインのようであるが、夜ともなればスナックやバーなどが営業しているようであった。右手の行き止まりの路地は「神楽小路横」と。「神楽小路」には小さな料亭の如き店も。「神楽坂通り」に出て「神楽小路」を振り返る。立派な「神楽小路」と書かれた標識が立っていた。この後、他の横丁を訪ねたが、この様に毅然と自己主張する標識はなく、神楽坂最初の小路として大事にされている小路なのであろう。「神楽小路」入口の反対側近くにあったのが1869年(明治2年)創業のうなぎの老舗「志満金」。明治2年の創業当時は、日本に数件しかなかった牛鍋の店だったと。最近のうなぎ店にありがちな甘いタレではなく、昔ながらのキリッとした辛口で、サッパリする味わいは至高 と写真と共にネットから。残り少ない後ろ髪を引かれながら「神楽坂通り」を上って行く。ここ右手にも行き止まりの路地が。名前はあるのか??ネットで調べて見ると、神楽坂の地図👈リンク と、路地、通り、横丁、小路、坂と石畳の解る地図がありましたので、アップさせていただきます。神楽坂通りは「早稲田通り」とも呼ばれている。こちらが「釈迦の手」のあるビル。「釈迦の手」は、神楽坂にあるリラクゼーションサロン。スタッフは、あん摩マッサージ指圧師や鍼灸師などの国家資格を取得。タイ古式マッサージ、ヘッドケア、フットケアなどのメニューがあるとネットから。その先を右手に折れ「神楽坂仲通り」へと歩を進める。「神楽坂仲通り」と。ズームして。「Kagurazakanaka-dori」とも。神楽坂仲通りは、神楽坂通りから軽子坂を結ぶ通り。新宿区道路通称名89路線では、設定日は平成23年12月22日。神楽坂三丁目2から神楽坂二丁目14間の110メートル。昭和59年(1984)に沿道の住民や商店主が集まり神楽坂仲通りと名付け、 その後その名称が定着した由来があるとのこと。右手にカラオケ「かぐら」。左手の急な石段の先が「芸者新道」。地図には「芸者新路」と書かれてあったが。石段を上って行く。入口右手にあったのが「九頭龍蕎麦」本店👈リンク。福井の郷土料理と、おろし蕎麦でおもてなしをするお店北陸の風土が育んだ一本筋の通った料理とこだわりの福井の酒で心身ともに満たされる食のひと時を楽しんでもらえることを願っている【店長のメッセージより】「九頭龍物語むかしむかし、奥越前(福井)のある村に働き者の若者がおったとさ。あるとき村は 大変な干ばつにみまわれこのままでは農作物が 干上がりそうだった。隣りどうしの村々、人々は我さきにと、水を奪い合った。「上で水堰き止めんなえれ」(上で水を止めんなよ)「ほんなもんしるけ!」(そんなもん知るか)「あや~」(阿呆)「うってー事いてんなや」(馬鹿なこと言ってるんじゃないよ)そうこうするうちに 鋤や鎌を持ち出してとうとう大げんかになってしまった。それを見ていた若者は 川の大神様に祈り続けた。「うららみんな本当はなかようやっとんじゃったのに」(みんな仲良くやっていたのに)「なんとかしておくねーの」(どうか何とかしてください)大神様は村の有り様を知り「今こそ、九頭龍、おまえの出番だ。村の人々のために働きなさい」そう言って長年岩に閉じ込めていた 荒くれ九頭龍を放免された。大神様に許された九頭龍は 力いっぱい岩を破り 雨を降らせた。村人たちは九頭龍に 心から感謝し一生懸命力を合わせて働いた。なんと、その年は 村始まって以来の、豊作だったそうな。村人たちを助けた九頭龍はその後も川に住み 村人たちを守り続けた。そうしていつのまにやら村人たちはその川を九頭龍川と呼び九頭龍は五穀豊穣の神様としていつまでもいつまでも、大切に祀られたとさ。めでたしめでたしその先、右手にあったのが鴨料理専門店「鴨匠」👈リンク。左手にあったのが「炭火焼肉 神楽坂 牛ます」👈リンク。4店の店舗がある建物の壁には「芸者新道 Rosy」と。突き当たった路地が「本多横丁」。右手に折れ「軽子坂」の先の方向に進む。ネムノキに似た花であるが名前は?緋合歓(ひねむ)?花に近づいて。「本多横丁江戸中期から明治初期まで、この通りの東側全域が旗本の本多家の邸地であった」引き返して、神楽坂通りに向かって進む。石畳が一面に敷かれた「本多横丁」。「本多横丁その名の由来は江戸中期より明治初期まで、東側全域が旗本の本多家の邸地であったことによる。御府内沿革図書第十一巻切絵図説明に、本多修理屋敷脇横町通りとあり、往時は西側にも武家屋敷の立ち並ぶ道筋であった。なおこの本多家は、碌高1万5百石をもって明治を迎えた大名格の武家と伝えられる。神楽坂界隈は明治以降、縁日と花柳界で知られる商店街として発展し関東大震災後より昭和初期には、連日の夜店が山の手銀座と呼ばれる賑わいをみせ、この横町も、多くの人々に親しまれるところとなった。後の太平洋戦争末期には、この地も空襲により焼土と化したが、いち早く復興も進み、やがて本多横丁の旧名復活を期して商店会発足となった。石畳の路地を入れば佳き時代の情緒を伝え、また幾多の歴史を秘めて個性豊かな商店通りとして歩みを続けている。昭和60年(1985)7月 本多横丁商店会」右手に「八千代鮨」👈リンク。その先、右手に折れ黒塀に囲まれた狭い路地を進む。ここが「から傘横丁」。「から傘横丁」は、かつてここにあった店でよく傘が干されていたことに由来していると。そして、右に折れて進むと「ようこそ かくれんぼ横丁へ」。通行止めであったので、左手に折れさらに「かくれんぼ横丁」を進む。この路地内には、東京都で初の五つ子の母の実家がある。この五つ子ちゃんが歩けるようになって、実家の路地内でかくれんぼ遊びをしていたことから「かくれんぼ横丁」と呼ぶようになったと。また、「かくれんぼ横丁」は、旦那衆が「おしのびで来るから」という説もあると。更に狭い路地に。ここも「かくれんぼ横丁」。次に訪ねたのが「見返り横丁」。名前の由来は定かではないと。手前にあったのがイタリア料理店「HAJIME NO IPPO」。さらに路地を進む。この先右手にあったのは会席・懐石料理店「牧」。その先は行き止まり。階段下にも店のような入口があったが。「旧常盤家本館(石合家住宅主屋)」国指定の登録有形文化財(建造物)。昭和25年築で、昭和29年に増築されていると。木造2階建で、瓦葺、建築面積は219㎡。南面中央の坪庭をコの字型に囲む3棟からなり、唐破風を載せた庇付の玄関を北棟西面に付設。銘木を多用し、客室の障壁画や浴室のステンドグラスなど豊かな装飾が特徴。「常磐◯」と刻まれた門柱。こちらのお宅は、昭和40年頃まで待合をされていた建物。南面中央の坪庭を、コの字型に囲む3棟からなっていると。玄関は唐破風の庇付きで、銘木を多用し(元材木商だそうです)客室の障壁画や浴室のステンドグラスなど、豊かに装飾された近代待合の趣が溢れていると。「石合家住宅主屋」の「石合」と刻まれた門柱も。こちらは源氏物語の部屋と(ネットから)。唐紙に描かれた源氏物語(ネットから)。「軽子坂」まで戻りさらに西に進む。この道は先日お好み焼き「春波」に向かって歩いた道。この先の路地を左折。ここは「兵庫横丁」。石畳の路地に老舗の料亭。新宿区まちなみ景観賞も受賞している情緒あふれる兵庫横丁。戦国時代に牛込城の武器庫(兵庫)があったことが名称の由来とのこと。左手の「和可菜」は閉業したと。兵庫横丁にある旅館「和可菜」は、昭和の大女優小暮実千代の実妹・和田敏子さんが女将だったこともあり、作家や脚本家たちが缶詰になる旅館として、その筋では有名だった。横丁内のレトロな雰囲気のこの旅館では、野坂昭如氏や山田洋次氏などが滞在し、数々の名作を誕生させた と。2015年末から事実上閉館状態だったが、隈研吾建築都市設計事務所の手で再生予定 とのことであるが進捗は如何に。右手にあったのが会席・懐石料理店「幸本(ゆきもと)」👈リンク。創業七十年の歴史ある神楽坂の料亭「幸本」。「第五十回 幸本会」案内。初めて芸者衆の踊りをお楽しみいただく方にお薦め と。「幸本」の入口格子戸。さらに「神楽坂通り」に向かって路地を進む。「坂道、通り・路・道、横丁」 案内図をつくって見ました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.10.24
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「牛込橋」の親柱の上には、江戸城外郭門の一つ牛込見附門の隅櫓のミニチュアが載って江戸を感じさせてくれた。富士見二丁目から新宿区の神楽坂に通じる早稲田通りにある橋。先程訪ねたJR飯田橋駅西口にあった「史跡展望テラス」を見上げて。「牛込橋」を渡る。右側にも橋・「みやこ橋」が。「みやこ橋」の下の濠の水面を覗き込む。濃厚な緑色になっていて、まるで抹茶オレを注いだかのように見えたのであった。今年の異常気温で濠の水温も上昇し、水の入れ替わりも少ないためであろう。「みやこ橋」は牛込橋の周縁道路と「総合ショッピングセンター・ラムラ(RAMLA)」をつなぐ橋。ラムラ(RAMLA)はアラビア語で“ぶらぶら歩きの散歩道”を意味するといい、ショッピングゾーンと施設の外周空間は文字通り、ゆとりのあるプロムナードスペースや緑地、人工せせらぎなどを展開している。 人工せせらぎは小川や池をイメージしたものだが、その周辺を樹木で囲み、来街者や地域住宅の憩いの場、やすらぎの場としての機能を発揮している とネットから。「みやこ橋」の親柱の上には鳥の姿が。鳩?それとも都民の鳥 ユリカモメ?この欄干の模様は? 名家の家紋? いや、家紋にしては複雑すぎる?!日本刀の「鍔」(つば)??「飯田濠」も緑一面に。樹木の上に白き姿が動いていた。アオサギ(青鷺、蒼鷺)であっただろうか。羽繕い(はづくろい)をしているようであったが。「コサギ」?の幼鳥?に似ていたが。頭に2本の冠羽は既になかったが。「神楽坂」案内板。牛込橋の北側は、善國寺 毘沙門天、赤城神社など歴史のある神社や花街として隆盛を誇った神楽坂の街が広がっていた。神楽坂の歴史は、寛永5年(1628)大老坂井忠勝が坂上の矢来町に屋敷を拝領した事からはじまるとのこと。神楽坂下の江戸城外濠と矢来町を結ぶ約1キロメートルの大老登城道が造られ、沿道は武家屋敷として地割りされていたと。「新 神楽坂 楽楽散歩」案内板。神楽坂のまち歩きマップ「神楽坂楽楽散歩」が2022年12月1日、毘沙門天前にある「神楽坂楽楽散歩」案内板リニューアルに伴い、「新・神楽坂楽楽散歩 令和版」として刷新されたとのこと。最新の情報はもちろん、神楽坂通りの成り立ちや、能楽・箏曲・長唄・新内節・落語などの伝統芸能、文学・演劇・演芸などの神楽坂に関わる文化人、神楽坂の粋な花街文化などを記載しているのであった。神楽坂に関わる文学人の姿がイラストで縁のある場所に。「神楽坂下」交差点に向かって行くと、右手から柔らかく甘い花の香りが。金木犀は、春の沈丁花、夏のクチナシと並んで「三大香木」と称される植物。我が家の近くでも、庭木として植えられているお宅も多く、この時期には「ふわっ」と甘い香りを感じることが出来るのだ。秋の風物詩、金木犀(キンモクセイ)の黄金色の花びら。金木犀の香りが強いのは、花弁に含まれるカロテノイドが、カロテノイド酸化開裂酵素に分解され、イオノンを産生するためと。イオノンはスミレの精油などにも含まれる甘い香りの精油成分であるとのこと。金木犀の花言葉は「初恋」で、その独特な芳香が由来となっていると。一度知ったら忘れられない香り=初恋という意味でつけられていると。総合ショッピングセンター・ラムラ(RAMLA)の地下駐車場入口。総合ショッピングセンター・ラムラ(RAMLA)下を歩く。前方左に「さくら橋」。飯田濠橋梁群(いいだぼりきょうりょうぐん)・「さくらばし」。飯田橋周辺の「自然景観を守れ」という反対派の声に押される形で、東京都は1984年(昭和59年)に完成した再開発ビルの前に「せせらぎ」を設けてラムラ(RAMLA)の目玉にした。飯田濠の暗渠の上に清流を模した浅い流れを再現したもの。牛込橋側の小さな滝から水道水を流し、飯田橋側で排水する仕組み。小さな中の島や、外堀通りの歩道から流れに下りられる階段も設けてあった。正面が小さな滝であろうか?この日は流れはなく水路は乾いていた。小島・中の島も設けてあった。昔は下の写真のごとく、水の流れている時期もあったようだが・・・。ネットより(東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年) 「地区の概況」1頁)。そして「総合ショッピングセンター・ラムラ(RAMLA)」内にあった銅像の展示作品。「天女の笛」北村西望作。ズームして。さらに。「天女の笛に題す耳をすますと どこからともなく 何とも言えない 音がきこえてくることがあるあれは世に言う 天女の笛では あるまいか昭和六十満百歳 西望」。斜めから。そして外、外堀通り沿いにあったのが「牛込揚場」碑。新宿区神楽河岸1−番地。「牛込揚場江戸時代には海からここまで船が上ってきた。全国各地から運ばれてきた米、味噌、醤油、酒、材木などがこの岸で荷揚げされたので、この辺は揚場と呼ばれた。昭和47年(1972)に都の市街地再開発事業として、ビル建設が決定され飯田濠は埋め立てられることになったが、濠を保存してほしいという都民の強い要望から、ビルの西側に飯田壕の一部を復元すると共に、以前水面があったことにちなんで約230メートルのせせらぎを造った。小濠の水は、このせせらぎの地下水路を通って昔のとおり神田川に注いでいる。昭和59年(1984)3月 東京都」「安藤廣重『繪本江戸土産』より」。原画をネットから。『牛込御門外北の方 船河原橋より南の方 町武の第宅軒を並べ 東南のかたより御堀にて材木および米味噌はさら也 酒醤油始め諸色を載せてここに集へる 船丘をなせり故に揚場の名は負けらく これより四谷赤坂辺まで運送す因ってこの所の繁華山ノ手第一とせり』そして正面に「けやきばし」。「けやきばし」。「けやきばし」から「さくらばし」を見る。遊歩道横の石のモニュメント。中央は牛込濠の水の流れか?そして飯田橋「ラムラ」1階のせせらぎ広場の片隅の御堂の中に「延命地蔵尊」が。この「延命地蔵尊」は、天和・貞享時代(1681ー1688)の江戸時代から明治・大正・昭和に至るまで、この河川で水難の犠牲となった童子や江戸城改修工事で外豪工事の事故あった人々を祀ったものと。御堂内には新旧の地蔵が並ぶ。「飯田堀延命地蔵尊並に堂宇建設者」。ズームして。さらに。流れのないせせらぎ広場を再び見る。そして複合施設「飯田橋ラムラ」内の「飯田橋セントラルプラザ」内の階段にあった巨大なステンドグラス。題名:大樹原画:吉田 誠氏外の光や天井からの照明を取り込んで非常に美しいのであった。ズームして。さらに。いつまでも立ち止まっていたい空間!! そして階段の下には・・・。階段の中央から右側が新宿区、左側が千代田区のエリアになっているのであった。そして近くの別の場所にも。作品名: 巌作者:GAMMA作品上部が岩。下部が川の流れを表現している?「総合ショッピングセンター・ラムラ(RAMLA)」内には「東京理科大学 オープンカレッジ」と書かれた入口もあった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.10.23
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この日は10月17日(火)、8月30日(水)に神楽坂四丁目の北側にある飯田橋・お好み焼き屋「春波」で4年前のブルガリア・ルーマニア旅行の旅友と久しぶりに再会し、お好み焼きを楽しんだ。その日は、宴の時間の前に飯田橋駅周辺を散策したが、神楽坂周辺の散策は出来なかったのでこの日に神楽坂の坂道巡りに向かったのであった。小田急線で新宿駅に向かい、総武線で飯田橋駅に向かう。途中「市ヶ谷駅」から「新見附濠(しんみつけぼり)」に架かる「市ヶ谷水管橋」を車窓越しに見る。水道管を渡すために架けられた専用橋。上路アーチの四連橋に水道管が設置されていると。昭和4年(1929年)に株式会社横川橋梁製作所が製造した水管橋には珍しい鋼桁橋。「市ヶ谷水管橋」は現在、淀橋給水所から都内各家庭へ水道水を供給する管網の一部として運用されていると。自然流下ではなく、ポンプで圧力を加える圧送管とのこと。「市ヶ谷水管橋」の上部の写真をネットから。そして「市ヶ谷水管橋」下にあったのが「市ヶ谷フィッシュセンター」。「新見附濠」の西端に、鯉釣り用の鯉池と小さな魚を釣る金魚池がある。また、同じ場所に観賞魚、水草、草花のショップも併設されている。本来は国有地であり、当初は施設の運営者が千代田区を通じて利用許可・貸与を受けていたが、1962年(昭和37年)以降は許可が更新されておらず、以後約60年ほどに亘って違法占拠状態が続いている。このため過去に東京都議会等でも問題として取り上げられているが、2023年現在も解決には至っていないのだと。「新見附濠」を車窓から。新見附濠は、東京都千代田区と新宿区にある外濠。市ヶ谷橋と新見附橋の間に位置し、牛込濠の上流に位置している。外濠は、かつて江戸城を取り囲んでいた堀の総称。内濠や東京湾ともつながっていた。現在は、外濠にほぼ沿う形で外堀通りが通っているのだ。新見附濠は、牛込濠と市ヶ谷濠の間に位置している。牛込濠は、JR飯田橋駅西口前の牛込橋から新見附橋の間にある外堀で、千代田区と新宿区の区境にある。新見附橋は、牛込濠と新見附濠の間にある橋で、JR中央線の上に架かっている。新見附濠は、穏やかな水面と整った緑道が魅力であると。外濠(牛込濠・新見附濠・市ヶ谷濠)の概要。そして左側に「新見附濠」から「牛込濠」の間の「新見附水門」を見る。そして「牛込濠」。「牛込橋」の下の牛込濠の上には水上レストランが作られていた。併設されているボート乗り場の方は、「東京水上倶楽部」と呼ばれ、1918年から。東京初のボート場だったと。そして反対側の車窓からは「江戸城 牛込見附跡」の石垣を見る。以降は、8月30日(水)に訪ね忘れたJR飯田橋駅内の各種案内板について「飯田橋ウォーキングガイド・東京の歴史と文化を巡る(その8)」としてアップさせていただきます。「JR飯田橋駅」で下車すると、「牛込橋」の真下のホーム上には「案内板」が設置されていた。「外濠の堰の構造」案内板。「外濠の堰の構造牛込見附は牛込濠と飯田濠の間に位置しており、牛込濠の水をせき止める土橋と、水位を調整する堰が設けられていました。2017(平成29)年のJR飯田橋駅ホーム移設工事において、牛込橋の真下より、この堰の一部と思われる石敷(いしじき)が外堀で初めて発掘されました。明治期に撮影された古写真には、堰の落口が写っており、発掘された石敷はこの落ロの手前の水路をなす箇所の一部分であることが考えられます。現在、この石敷はホームの下に保存されていますが、調査によって明らかになった限りにおいてこの石敷があったと想定される範囲がわかるように、ホーム上の舗装の種類を変えて表現しています。また、一部取り外した敷石を、駅前広場に展示しており、その大きさを確認することができます。現時点で、外堀の堰の構造に関する文章や記録は残されていませんが、同時代で類似する構造物の石敷の事例として、神田川から神田上水を市中に引き込むために設置された堰である関口大洗堰(現在の文京区関口に存在していた)があります。この記録によると、堰の水路に当たる部分の石材の並び方が、今回発見された石敷と類似していることがわかります。また、ホーム上から外堀を繋いでいる現在の水路を見ることができます。「牛込御門」。「牛込見附の堰に敷かれた石敷」。「江戸城外堀縦断面模式図」。そして西口改札を出て、前回は、訪ね損なった、飯田橋駅の西口駅舎2階から江戸城外堀史跡を望むことが出来る「史跡眺望テラス」を目指す。この階段を上って「史跡眺望テラス」へ。階段の途中からJR飯田橋駅西口改札を見る。「史跡眺望テラス」からの絶景。2021年7月21日にオープンし、江戸城外堀跡や牛込見附跡などの国指定史跡を見下ろすことができるのであった。眼下に、「牛込橋」、「江戸城 牛込見附跡」、「JR線路」、「牛込濠」、「神楽坂ビル群」が見えたこの後に振り返って見上げたJR飯田橋駅・「史跡眺望テラス」。「飯田橋グラン・ブルーム」。三井不動産が参画する飯田橋駅西口地区第一種市街地再開発事業によって整備、建設された。外濠の南東岸に沿う外濠公園通りおよび早稲田通りに面する同地区には、かつて東京警察病院や飯田橋郵便局、日本基督教団富士見町教会、オフィスビル等があったが、東京警察病院の移転に伴い同地区の再開発の機運が高まり、オフィス・商業棟、住宅棟、教会棟から成る複合施設の建設が行われた。各棟の概要は次の通り。高さ:約150mオフィス・商業棟: 4-30階 - オフィスゾーン 1-3階 - 商業ゾーン「飯田橋サクラテラス」、飯田橋郵便局ほか住宅棟 :パークコート千代田富士見タワー教会棟 :日本基督教団富士見町教会(再建)「牛込橋」手前の(千代田区側)両脇に「江戸城 牛込見附跡」の石垣が見えた。牛込見附門は、寛永13年(1636)に築造された江戸城三十六見附のひとつで、見附門は堀に面した枡形の門の事。ズームして。「牛込御門」の図をネットから。手前にも石垣が残されていた。手前にも巨大な石垣が。「牛込門と枡形石垣」案内板。「牛込門と枡形石垣牛込門は、牛込口とも呼ばれ、1636(寛永13)年、徳島藩主蜂須賀忠英が御手伝普請で担当して築きました。牛込門の構造は、「江戸城外郭御門絵図」に描かれているように、石垣を方形にめぐらし、土橋から入る「冠木門」(高麗門)と、渡櫓を頂く「大御門」の、ニ重の門を配置する枡形門でした。「冠木門」から枡形内へ敵が侵入しても、「大御門」ではばみ、渡櫓と方形にめぐらした石垣から一斉に攻撃できる仕組みとなっていました。1872 (明治5)年、旧江戸城を城郭として管轄することになった陸軍省は、皇城守衛の観点から城門の存廃方針を定め、外郭21門の廃止を決定し、東京府に引き継ぎました。東京府は、市街地整備の観点から、城門や渡櫓、枡形の石垣や土塁の撤去を進めました。牛込門は、渡櫓撤去後、1902 (明治35年)に枡形石垣の一部が撤去されましたが、東西の石垣が残り、現在の姿になりました。当初の枡形の形状を、道路面に舗装で表現をしており、この場所から、枡形の形状を眺めることができます。なお、石垣の構造は、当駅の駅前広場にて解説しています。現在、石垣の脇に保存され角石には、「[蜂須賀]阿波守内」と、枡形築造に当った蜂須賀忠英の刻印が残されています。」再び石垣をズームして。「枡形石垣があった位置」(左)と「枡形防御の仕組み」(右)。「牛込御門(『江戸城外御門絵図』)」。手前にも石垣が。その横にも。「神楽坂(新宿区)側に残る橋台1989 (平成元)年の地下鉄南北線工事における発掘調査で、牛込橋の新宿区側の橋詰に高さ9.5mの牛込見附の土橋の石垣が確認されました。石垣は軟弱な地盤の下位にある強固な砂層地盤を支持層として梯子胴木を敷いた上に築かれており、弱い地盤に施工する際の工夫が伺えます。その他、当時の土橋の側溝の構造がわかる遺構なども発見されています。」「JR飯田橋西口」と「牛込橋」。「牛込門・牛込駅周辺の変遷」案内板。外堀は、1660 (万治3)年、牛込・和泉橋間の堀さらいが行われ、外堀(神田川l)をさかのぼって、牛込橋までの通船が可能となり、神田川沿いに河岸ができました。牛込橋東側の堀端には、搨場町の「町方搨場」と御三家のひとつである「尾張様物揚場」があり、山の手の武家地や町人地へ薪や炭などの荷物を運ぶ軽子が、「軽子坂」を往来したといわれています。牛込門から城内に入ると武家屋敷が連なり、他方、堀端から現在の神楽坂の辺りは、善国寺(毘沙門天)の坂下の地域が武家地、早稲田側には寺町が形成されました。寺の門前には町家が立ち並び、江戸名所の一つとして賑わいを見せていました。明治になると、城外の新宿区側には、空き家と化した武家屋敷跡が芸妓置屋や料亭となり、神楽坂花街が形成されていきました。他方、城内の千代田区側の武家屋敷跡に学校などが建てられました。牛込土橋東側の堀は、1984 (昭和59)年、再開発事業により暗渠となり、現在に至っています。また、鉄道整備においても削られずに残された牛込門周辺の土塁は、1911(明治44)年、牛込・喰違間の土手遊歩道を外堀保存のため公園とする計画が決定され、1927(昭和2)年、「東京市立土手公園」として開設されました。現在でも国史跡指定区域に、外濠公置として歴史的風致が保全されています。」「図 牛込神楽坂『江戸名所図会』」。「牛込揚場(江戸土産)」。「1905(明治38)年頃の神楽坂下」。「1959(昭和34年)の神楽坂下」。「牛込濠の桜」。「甲武鉄道国有化・複々線化と飯田橋駅」案内板。「甲武鉄道国有化・複々線化と飯田橋駅1906(明治39)年に甲武鉄道は国有化され、1909(明治42)年に中央東線(1911(明治44))年に中央本線に改称)の一部になりました。甲武鉄道の乗客数は、開業した1894 (明治27)年には85万8千人、翌年には242万2千人と急増していました。大幅に増えた旅客輸送に対応するため、汽車・貨物と電車の分離を目的に、1922 (大正11)年から複々線化工事が行われました。複々線化の際、牛込駅下りホーム等が支障となったため、1928 (昭和3)年に電車線の飯田町駅(現在の千代田区飯田橋三丁目)と統合する形で、そのちょうど中間となる曲線位置に飯田橋駅が開業しました。開業当時の飯田橋駅は両端に出口があり、東ロ側は高架駅のような構造になっている一方、西口側は橋上の駅舎でした。この西口は旧牛込駅の利用者に対して影響が少なくなるよう設けられたものであり、長い通路が造られ、2016 (平成28)年まで使用されていました。駅の屋根は古レールを使って作られ、現在もホーム上から確認することができます。飯田橋駅のホームは急曲線にあったため、車両の大型化に伴いホームと電車の間には広い隙間ができていました。2020 (令和2)年に、ホームを牛込駅があった市ヶ谷駅寄りの直線部分に移設し、より安全な直線ホームに改められました。あわせて、地域のシンボルとして史跡を活かした駅前広場や駅舎が整備されました。」「図 飯田町牛込間新停車場」。「写真 戦後直後の飯田橋駅航空写真」。「写真 飯田橋旧西口周辺」。「牛込駅」案内板。「牛込駅1894 (明治27)年10月9日に甲武鉄道市街線の新宿・牛込間の開通とともに牛込駅が開業しました。この牛込駅は翌年4月3日の飯田町駅開業までのわずか半年の間ですが、甲武鉄道の始発駅として活躍していました。牛込駅があった位置は、現在の飯田橋駅のホームのうち牛込橋から市ヶ谷駅方向のあたとなります。当時、駅舎と線路敷設のために堀の一部が埋め立てられており、現在の中央線速のあたりにホームが作られ、中央・総武緩行線のあたりに駅舎が作られました。駅の改札ロは現在の新宿区側と千代田区側の2方向にそれぞれ設置されました。千代田区側は、駅のこ線橋から階段で土手を上り、土手沿いの道路に面して改札の建物が設置されました。その駅舎脇にあった土手の擁壁が現在でも外濠公園入口の付近にそのままの姿で残っています。一方新宿区側は、牛込見附の土橋の脇を埋め立てて道路が整備され、堰の水路付逝に設置された小型の連絡橋を渡って駅舎に行くことができるようになっていました。現在もその連絡橋の橋台の遺構が残っており、牛込橋上やホームから確認することができます。」「牛込駅 写真」。「牛込駅と土橋」。「甲武鉄道市街線の誕生」案内板。「甲武鉄道市街線の誕生中央線の前身である甲武鉄道は、1889年(明治22年) 4月に新宿・立川間、同年8月に立川・八王子間を開業しました。その後、1894 (明治27)年10月に市街線(新宿~牛込間)が開業し、1895 (明治28)年4月に飯田町(現在の千代田区飯田橋三丁目)まで延伸されました。市街線整備の許可を求める本免状出願の動きが起こると、地域住民から「首都の景観を損ない、公衆の安全を害し、商業の衰退を招く恐れがある」として敷設反対の誓願が東京府知事宛に提出されました。こうした動きを受けて、当時の東京の都市計画を担っていた東京市区改正委員会は、四谷や市谷などの外堀の眺望を実地調査した上で、四谷~市谷間の土堤が突出する部分は掘削をやめて隧道(トンネル)にすることや、土手の樹木伐採は認めないなどの設計変更を条件とすることで整備の許可を決議しました。当時の議事録によれば、東京市内での踏切設置は危険なため、牛込見附において道路の下を通過してから土手に上る線形とするように設計を改める指示も出されていました。その後、1906 (明治39)年に甲武鉄道は国有化され、1912 (明治45)年に万世橋まで延伸しました。」「甲武鉄道市街線」のルート図・飯田町駅・周辺施設の写真。写真手前がJR飯田橋駅西口にあった「史跡眺望テラス」の展望テラス。「史跡眺望テラス」の展望テラスからの風景を再び。石垣の先にあったのが「日本基督教団 富士見町教会」。「エキュートエディション飯田橋 エスカレーター」。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.10.22
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そして、屋形舟は暫しの停留を終え、隅田川の上流に向かって動き出す。屋形舟の周囲には、餌を求めて?海鳥が。左手にホテル「ヒルトン東京お台場」、その右に「大井コンテナターミナル」方向を見る。「鳥の島(旧防波堤)」と「台場公園」の間を「レインボーブリッジ」に向かって進む。正面に見える島が「第六台場」。ペリーの浦賀来航に伴って、江川太郎左衛門が江戸湾周辺を調査し、幕府の予算不足から品川沖のみに突貫工事で建設が始まった台場群。1854(嘉永7)年4月には第一台場〜第三台場が完成。12月に第五台場・第六台場が完成しています。周囲を海に囲まれた第六台場は、残念ながら現在は上陸が禁止されているとのこと。「レイボーブリッジ」を潜る。正面に見えて来たのが「晴海信号灯」。その左に「晴海ふ頭H-2&H-3バース(海技教育機構「旧航海訓練所」バース)」と、右側には中央区晴海5丁目の高層マンション群。中央清掃工場の煙突も見えた。「豊洲大橋」に向かって進む。左手に「中央清掃工場・煙突」「ザ・トーキョータワーズ シータワー」。「豊洲市場」が続く。「豊洲大橋」が見えて来た。宴もたけなわに。右側「豊洲大橋」の先に「ラビスタ東京ベイ」。「豊洲大橋」を潜る。「晴海大橋」が見えて来た。「晴海大橋」は、左右に都道304号線・有明通り、中央に首都高速10号晴海線。晴海2丁目にあった左「ザ・パークハウス晴海タワーズ クロノレジデンス」と右「ザ・パークハウス晴海タワーズ ティアロレジデンス」。前方に「相生橋」。左手に中央区佃2丁目に立つ「リバーシティー21 マンション群」。屋形舟の女将が観光案内。「中央大橋」の橋柱が見えて来た。「中央大橋」横を通過。そして隅田川の本流と合流すると「永代橋」が前方に。次に「清洲橋」その先に「東京スカイツリー」。「東京スカイツリー」は、東京都墨田区押上にある電波塔。 東京のランドマークの一つ。高さは634 mで、タワーとしては世界第1位。建築物としてはブルジュ・ハリファ、PNB118に次ぐ世界第3位となる。「日本橋川」に架かる「豊海橋」。「永代橋」を振り返る。そして「隅田川大橋」の先でUターンし、「隅田川大橋」を振り返る。遠く東京スカイツリーの姿も垣間見えた。「中央大橋」手前の右側の緑は桜並木。復路は右手を進み「中央大橋」に向かって進む。右手に「東京住友ツインビルディング 東館」。「佃島大橋」。そして「勝鬨橋(かちどきばし)」を通過し振り返る。長寿命化塗装工事が行われているようであった。前方に「築地大橋」。右岸・築地5丁目は再開発が行われているのであった。そしてこの日の屋形舟の「遊覧ルート」。「三河屋」の船着場に予定通り到着して、店の前で全員で記念撮影し品川駅まで徒歩で。「品川宿傍示杭 是従南 品川宿 地内」。右手に歩道に設けられたレストスペース。「東海道品川宿 まち歩きマップ」。品川宿の範囲はこの八ツ山口~青物横丁(鮫洲)付近までであったという説明があった。このマップによれば八ツ山口から始まり鈴ヶ森処刑場までが記載されていますが品川宿とその周辺名所という考え方か?それとも鈴ヶ森処刑場付近までが品川宿という認識?そして2次会は品川駅港南口近くにあった「カラオケ」に現役若手に誘われ紛れ込んでしまったのであっった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.10.21
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そしてこの日の「屋形舟」に乗り込む。年寄りには優しい椅子式のテーブルが並んでいた。常磐線の遅れで、出港時間を10分ほど遅らせると、何とか間に合って31名の全員集合。料理が並び、まずは部長の挨拶。久しぶりの顔が並ぶ。初対面の若手の社員の姿も。「天王洲運河」を「京浜運河」に向かって進む。「天王洲ふれあい橋」が前方に。「京浜運河」に入り、「レイボーブリッジ」方向に進む。「ワールドシティタワーズアクアタワー」が運河左手に。アクアタワー、キャピタルタワー、ブリーズタワーの3棟からなる総戸数2090戸の超高層タワーマンション。「港南大橋」下を通過し振り返る。右際の「港清掃工場」の煙突を見上げて。港区港南五丁目7番1号。この日の「屋形舟」の料理をビール片手に楽しんだのであった。穴子の天ぷら。カボチャ、甘唐辛子の天ぷら。イカの天ぷら。混ぜご飯。そして「京浜運河」の出口まで進む。右手に見えたのが「高輪消防署港南出張所」、その先に「レイボーブリッジ」。ズームして。「大井4号 東京国際コンテナターミナル」をズームして。首都高速湾岸線の「大井換気所」の姿も確認できた。「レインボーブリッジ(Rainbow Bridge)」は、東京都の港区芝浦地区と台場地区(港区台場および江東区有明)を結ぶ吊橋。1987年(昭和62年)着工、1993年(平成5年)竣工、同年8月26日開通。全長約800メートルの二階建て構造で、上部は首都高速11号台場線、下部は中央に新交通システム「ゆりかもめ」、その両側には一般道路と歩道が通っている。「レインボーブリッジ」の名前は「虹の橋」という意味で、一般公募により決められた愛称であり、正式名称は「東京港連絡橋」である。「レインボーブリッジ」手前の緑は「第六台場」。江戸時代末期の1853年(嘉永6年)、米国海軍のペリー提督率いる艦隊が来航、江戸幕府に開国を要求。いわゆる「黒船来航」。これに脅威を感じた幕府は洋式の海上砲台を6つ建設した。現在残っている砲台跡地は2つ。第三・第六台場跡。第三の方は「台場公園」として利用されているが、この第六の方は放置されているとのこと。「鳥の島(旧防波堤)」の隙間から「お台場船着場」 手前で「屋形舟」は暫しの停留。「屋形舟」の展望デッキに出て、「アクアシティお台場」、「フジテレビ 本社ビル」を見る。ビル25階に位置する球体の展望台「はちたま」をズームして。「はちたま」からはレインボーブリッジはもちろん東京タワー、東京スカイツリーなど東京の景色を海越しに楽しめるのだ。冬の天気の良い日には富士山も臨むことができるなど、季節ごとに地上100メートルからの臨海パノラマは圧巻。番組キャラクターグッズを販売するギフトショップがある。そして「お台場海浜公園」に立つ「自由の女神像」の後ろ姿を見る。「自由の女神像」は、レインボーブリッジや東京タワーを眺望するスカイウォーク(空中回廊)途中に設置され、東京を代表するビューポイントになっている。夕景や夜景を眺めるデートスポットとしても人気とのこと。正面から、「レインボーブリッジ」を背景にした写真をネットから。ズームした写真もネットから。そして、「シーリアお台場一番街1号&2号棟」を見る。再び「レイボーブリッジ」をカメラで追う。ズームして。「東京電力品川火力発電所」、「品川コンテナセンター」を見る。「鳥の島(旧防波堤)」越しに「港清掃工場」の煙突、そして「ベイクレストタワー」方向を見る。再び「フジテレビ 本社ビル」と「自由の女神像」。「首都高速11号台場線」の「レインボーブリッジ」。パノラマ撮影してみました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.10.20
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この日は10月7日(土)、卒業した会社の現役の元部下から、コロナ禍で出来なかった部内の親睦会を、北品川から出航する屋形船で行うとのことで、参加しないかとメールを頂いたので”もちろんありがたく参加させてほしい”と返信。そしてこの日はJR品川駅から京急に乗り換えて隣駅の北品川駅へ向かう。左から、「ストリングスホテル東京インターコンチネンタル」、「太陽生命品川ビル」、「品川グランドセントラルタワー」、「NBF品川タワー」と高層オフィスビル群が並ぶ。その先中央に「キヤノンマーケティングジャパン㈱ 本社」、右に「品川Vタワー」。「京急本線」の車窓から「山手線」、「京浜東北線」、「上野東京ライン」、「東海道本線」、「横須賀線」、最奥に「東海道新幹線」の線路を見る。そして京急「北品川駅」で下車。「北品川駅」前の「国道15号・第一京浜」沿いにあった「周辺案内地図」。ズームして。この日の屋形船は東品川1丁目にある「三河屋」。「国道15号・第一京浜」に沿って歩道を横浜方面に歩く。そして直ぐに左折すると、京急の踏切前右側にあったのが「東海道品川宿入り口」碑。その先に「北品川第1踏切」。京急上り線の通過を待つ。左手に「北品川駅」。そして「清水横丁」を歩き「旧東海道」に突き当たり右折。「ロイヤルガーデン品川」の角に、道標「土蔵相模跡」があった。道標「三番 歩行新宿 土蔵相模跡」、「左 品川駅」。「右 本宿」と。さらに「旧東海道」を進む。一階にファミリーマートが入った「ニックハイム北品川」の前に案内板「土蔵相模跡」があった。「土蔵相模土蔵相模は歩行新宿(北品川一丁目)の食売旅籠屋「相模屋」の俗称で、奥座敷が土蔵造りになっていたことから付けられた名勝である。万延元年(一八六○)大老・井伊直弼を襲撃した桜田門外の変の水戸浪士たちや、文久二年(一八六二)英国公使館を焼打ちした高杉晋作・伊藤俊輔(博文)ら長州藩士の集合場所になるなど、幕末の歴史の舞台となった場所である。旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会 品川礎会」。「東海道は海沿いの道、品川宿は海辺の町。この品川宿の東海道は江戸開府より四百年来、道幅、道筋が変わることなく今日まで維持されており、歴史遺産として貴重だ。西の御殿山は開発が進み、東の海は理め立てられたが、東海道を中心に路地や横町、寺社が残るこのまちは、古き良き宿場町の雰囲気を今に伝えている。」「東海道に面した土蔵相模入り口周辺(左模型 品川歴史館蔵)。入り口からは2階建、でも実は3階建の土蔵相模(右模式図」。「海側の様子は一変したが、陸側、東海道を中心としたまちの形態は、この400年ほとんど変化していない。」と。「土蔵相模の座敷をモデルに描かれたち伝えられる浮世絵(上)左絵:左下に小さく描かれている座敷は土蔵相模の位置とほぼ一致する。座敷の障子を開ければ目前には白帆の舟が浮かぶ波静かな品川浦、そしてはるか沖合いには房総半島が望める絶景であった。」「其紫袖が浦染 相模様源氏製」(初代国貞(三代豊国))。「名所江戸百景 月の岬」(広重)描かれた場所は諸説あり、八ツ山からの光景を「相模屋(土蔵相模)」を借りて描いたとする説があるのだと。この先「さわやか信用金庫 品川支店」の角を左折。「八ツ山通り」の先に橋が現れた。「八ツ山通り」とは、新品川橋から八ツ山方面への道路を呼ぶ。ここは元々目黒川の河口に続く水路(流路変更後は支流)だったとのこと。「天王洲運河」に架かる橋を渡る。左手には「屋形船」の姿が見えた。「天王洲運河」の先には「北品川一丁目」のマンション群、中央にはV字型の「品川Vタワー」。橋に名は「北品川橋」。そして「つり船、屋形舟」の「三河屋」に到着。「舟宿 三河屋」の文字も。 ・・・つづく・・・
2023.10.19
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「東京都議会議事堂」、「都民広場」を後にして「東京都庁第一本庁舎」に入る。「東京都庁第一本庁舎」は高さ243 mで、完工時にサンシャイン60を抜き、日本一の高さを誇った。その後、日本一の座を横浜ランドマークタワー(1993年完工、296m)に、東京一の座を赤坂 (東京都港区)のミッドタウン・タワー(2007年完工、248m)に譲った。東京都庁舎の高さ、広場の広さのイラストをネットから。1988年4月に着工した「世紀の大事業」と言われる東京都庁舎は、第一本庁舎・第二本庁舎・議会議事堂を合わせて、PC版約1万2400枚が使用され、面積は13万㎡にも及んだ。第一本庁舎は高さ243.3mとなり、インパクトのある最上部のツインビルは、低層部に対して45度交差する大胆な造形となっている。これに対して二種類の水磨き仕上げの花崗岩を先付けしたPC版は、窓廻りや石材に非常に細やかなデザインが施されている。PC版の種類が数千種類にも登ったが、丹下健三・都市・建築設計研究所の設計・デザインを技術力で忠実に実現した未曽有の大工事は、1990年12月に竣工した。デザインとしては、パリのノートルダム大聖堂の形態を引用しているともいわれている。展望室は、「第一本庁舎」の45階の「南と北」に分かれており、1階から展望室専用エレベータI・J(黄)で移動。専用エレベータの速度は240m /分!なので55秒で到着するのであった。この日は南塔の地上45階、高さ地上202mにある「南展望室」に向かう。そして、南塔の地上45階、高さ地上202mにある「南展望室」から外界の景色を楽しむ。正面下に左から「新宿三井ビルディング・212m」、「新宿センタービル・223m」、「京王プラザホテル・170m」、その奥に「東京モード学園・192m」が見えた。その手前には「新宿住友ビル・211m」。東京都庁の展望室は外国人観光客を含め、年間200万人以上の来場者が訪れる人気のスポット。この日も多くのヨーロッパ?からの観光客の姿があった。南東方向の中央に「ドコモタワー、正式名称はNTTドコモ代々木ビル」。高さ272m、通常の高層ビルなら50階建てに相当する高さを誇るが、実はオフィスや機械室として使っているのは建物の半分くらいの25階までで、そこから上はドコモの通信アンテナを設置するための構造物、内部はなんと空洞になっているんだと。上層にいくほど建物が小さくなっていくとんがり屋根のようなとても特徴的な建物。その奥の左側に見える緑が「新宿御苑」。渋谷区千駄ケ谷5丁目24−10。「南展望室」を振り返る。北東方向に見えた「東京スカイツリー・634m」をズームして。南方向に広く木々に覆われる「明治神宮」その先に地平線で輝いている東京湾が見えるのだが・・・??南西方面。左「新宿パークタワー」、右「NTT東日本本社」、「東京オペラシティ」などが見えた方角。三連の三角屋根が特徴の高層ビル。オフィス、パーク ハイアット 東京、ザ・コンランショップ、ショップ&レストランなどゆったりとした時間を過ごせる場所。南西方向の眼下に「新宿中央公園」。南通り沿いに「フットサル場」、その上右側に水色の「ジャブジャブ池」。再び左側に「東京オペラシティ」、「NTT東日本本社」。「南展望室」にあった話題の「都庁おもいでピアノ」👈リンク世界的有名な前衛芸術家・草間彌生さんが装飾を監修したグランドピアノ。「「都庁おもいでピアノ」の利用について演奏時間 午前10時~正午 午後2時~午後4時 お1人様5分以内」と。この時の時間は12:35、よってClosed。北西方向に「新宿中央公園」の「芝生広場(西)」。その上の建物は「エコギャラリー新宿」。北北東側に「セントラルパークタワー ラ・トゥール新宿」と「シティタワー新宿新都心」。大山、丹沢、富士山の案内パネル。天気が良ければ写真中央に富士山の姿が・・・・。天気が良ければ(ネットから)。中央に売店。売店を覗く。葛飾北斎の名所浮世絵「神奈川沖浪裏」の描かれたTシャツ。浮世絵の下に「都SεεN」の文字が。売店の名前が「都SεεN.とぅーしーん」と。扇子。そしてエレベータで1階に下る。「東京観光情報センター」の「全国観光PRコーナー」へ。巨大な「熊手」が入口に。「熊手(Kumade)熊手は本来、箒(ほうき)の一種で、落ち葉などを一度にたくさん集められる便利な掃除道具です。飾り熊手は信仰の対象で、お金や富をたくさんかき集められる幸運の道具、「商売繁盛」と「家内安全」を祈願する縁起の良い象徴として祀(まつ)られます。東京観光情報センターでは、この熊手に「東京の観光繁栄」を祈願しております。」館内には伊豆諸島の島々の観光パンフレットが。行政区画は全島が東京都にあり、出先機関として東京都庁の下部組織である大島支庁、三宅支庁、八丈支庁が置かれている。東京都の島嶼地域は東京都島嶼部と呼ばれるが、東京都では「嶼」が常用漢字外のため「島しょ」と表記している。日本では町や村は郡の下に続くが、伊豆諸島は例外として郡が存在しない。したがって正式な住所の表示は「東京都大島町」のようになる。八丈町や三宅村では「東京都八丈島八丈町」という表記が一般的に使用されているのだ と。ポスター「黄葉・紅葉まつり&秋の夜散歩2023」。国営昭和記念公園の人気イベント、「秋の夜散歩2023」、 2年ぶり3回目の開催。来園期間は2022年11月3日(木)~11月27日(日)まで。同時に開催しているのが「黄葉・紅葉まつり」。「イベント開催中 佐賀県」と。壁には日本全国を地域別に分けて各都道府県の観光名所が絵入り和風燈籠で紹介されていた。「北海道東北」。「関東甲信越」。ズームして。「東海北陸」。ズームして。「近畿」。ズームして。「中国四国」。「九州沖縄」。ズームして。そして入口の壁にも秋の紅葉風景が。こちらには浮世絵が。「富嶽三十六景 東海道品川御殿山ノ不ニ 葛飾北斎/画 天保2 ~ 4年(1831 ~ 33 )頃御殿山(品川区北品川)は江戸時代を通して桜の名所として知られ、春には多くの人々で賑わった。北斎は、花見客の表情やしぐさを巧みに描き分け、春らしい明るくほがらかな作風に仕上げた。枝の間には、富士山が見える。」そして「東京都庁第一本庁舎」を後にして、正面玄関を振り返る。そしてこの日の会場・西新宿にある店「隠居亭 新宿西口本店」に到着したのであった。総勢10名の「隠居」で、老人ホームにいるが如くで、ビール、ハイボール片手に健康状況、近況を語り合ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.10.18
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「都庁通り」を南に向かって進む。右側前方に再び「東京都庁第一本庁舎」を見上げる。手前には、「東京都議会議事堂」への連絡通路があった。左(東)側には「新宿センタービル」、「京王プラザホテル」、「東京モード学園」の姿が。「道路案内図」。現在地は都庁通りの「東京都議会議事堂」手前。「東京都議会議事堂」を「赤いオブジェ」越しに。作品名 my sky hole 91 Tokyo作家 井上 武吉作品素材 コルテン鋼場所 屋外 都民広場「東京都議会議事堂」、「都民広場」を見下ろす。反対側(右側)に見えたのが「東京都庁第一本庁舎」の正面入口。その先に見えたのが「東京都庁第二本庁舎」と「東京都議会議事堂」への連絡通路。再び反対側の赤いオブジェ。その先の石段を下って「都民広場」へ。「東京都議会議事堂」前の「都民広場」。「風の中(in the wind)」。作品名 風の中(in the wind)製作年 1990作家 掛井 五郎作品素材 ブロンズ場所 屋外 都民広場「はばたき」。作品名 はばたき製作年 1973作家 舟越 保武作品素材 ブロンズ場所 屋外 都民広場「天にきく」。作品名 天にきく製作年 1990作家 雨宮 敬子作品素材 ブロンズ場所 屋外 都民広場「犬の唄(Song of a dog)」作品名 犬の唄(Song of a dog)製作年 1983作家 柳原 義達作品素材 ブロンズ場所 屋外 都民広場ここは「東京都議会議事堂 1階都民広場南口」。ブロンズ像を振り返る。「東京都議会議事堂 1階都民広場南口」正面から「東京都庁第一本庁舎」を見る。「都民広場」越しに「東京都庁第一本庁舎」入口を見る。これから訪ねる正面左側のブロンズ像、赤いモニュメントを見る。「早蕨」。作品名 早蕨製作年 1980作家 佐藤 忠良作品素材 ブロンズ場所 屋外 都民広場「東京都庁舎 案内板」。「Mari」。作品名 Mari製作年 1984作家 朝倉 響子作品素材 ブロンズ場所 屋外 都民広場「エピダウロス・追想」。作品名 エピダウロス・追想製作年 1984作家 淀井 敏夫作品素材 ブロンズ場所 屋外 都民広場作品名 アダムとエヴァ(ジュンカンムタン)製作年 1991?作家 池田 宗弘作品素材 真鍮鋳造場所 都民広場ズームして。当作品の副題にジュンカンムタンと名付けられているが、「循環無端」のことと。循環することで無限に続き終わりがない。すなわち相対するものが時には対立し離反するが、結局は元に戻ろうとするという人の姿を表現したかったのだろうと ネットから。作品名、作者等のプレートが無かったが、ココには文字がきざまれているようであったが・・・。振り返って。そして再び赤いオブジェ「my sky hole 91 Tokyo」越しに「東京都庁第一本庁舎」を見上げる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.10.17
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「東京都道新宿副都心八号線」を進み地上の「中央通り」横の歩道を進む。右手に「新宿センタービル」を見上げて。新宿区西新宿1丁目25。「中央通り」の反対側にあったのが「工学院大学新宿キャンパス」。新宿区西新宿1丁目24−2。右手前方にあったのが「新宿三井ビル」。新宿区西新宿2丁目1−1。「中央通り東」交差点を渡りながら次の目的地の「三井住友ビル」を見る。そして石段を下り、下側の地下道を出た「中央通り」へと。左手前方に再び「東京都庁第一本庁舎」。「京王プラザホテル」。新宿区西新宿2丁目1−1。再び「新宿三井ビルディング」。1975年から1980年代、毎朝通勤に利用した道・「中央通り」。前方右手に私が通った「新宿住友ビル」が見えて来た。しかし、私が通った当時は、ビルの周囲には何もなかったが、鉄骨、一面ガラス張りの建物が入口には建っていた。新宿区西新宿2丁目6−1。西新宿はオフィス街であることから、平日に比べて休日は人が少ない。このため、ビルの足元の広い空間である「三角広場」に大屋根を設け、天候によらずイベントができる場を作ろうという構想を20年ほど前から住友不動産は練ってきたが、規制が多く、実現しなかった。しかし、東日本大震災の発生を機に、災害時の一時滞在施設としても使えることから、空間の屋内化に向けた規制緩和が進んだ。それを受け、同社は国家戦略特区の枠組みを活用し特定街区の都市計画を変更することで、ビルの機能更新・設備リニューアルに併せて、「国際会議場施設(新宿住友ホール)」と日本最大級の「全天候型屋内アトリウム広場」を新たに整備する方針を決定。2017年9月に改修に着手し、2020年7月1日にMICE施設・新宿住友ホールや全天候型イベントスペース三角広場が開業した。2021年度グッドデザイン賞受賞。整備された三角広場は、地震などの有事が起こった際には帰宅困難者の一時滞在施設として2,850名を受け入れるほか、建物改修工事によって、制振補強による耐震性強化など、BCP性能やターミナルシティにおける防災対応力が高められた。そのほか、地下1階 - 地上2階に新たに導入された「ショップ&レストラン」は、新規出店および高層階からの移転を含め全26店舗が出店している とウィキペディアより。中に入り、日本最大級の「全天候型屋内アトリウム広場」の屋根を見上げて。「新宿住友ビル」フロアー案内板。昔働いたフロアーは現在「住友不動産販売」が。こちらのフロアーも「住友不動産販売」が。「招き猫」が入口に。近づいて。「人にいのちあれば ねこにもいのちあり 江戸の里を ひらきし太田道灌この地の北で いくさに敗れ あわやいのちを 失わん時 一匹のねこあらわれ にげ道をあんない いのちをとりとめ 江戸を開いたなれど このかくれた江戸の恩ねこも ねこなるゆえに 名ものこらぬはふびん 江戸の いゝたま 玉ちゃんと名づけ のちのちまでの江戸のまもりとすつくりびと 流 政之ねこの生れ 文明狂年」広場には、「カーレーシング」のコースが。ミニ四駆サーキットコースも。そして正面で開催されていたのが「都立工科高校 ドリーム・フェスタ」。「都立工科高校 ドリーム・フェスタ」のパンフレット(表)。イベントビジュアル(イラスト制作 都立工芸高校 相澤洋子さん)。「都立工科高校 ドリーム・フェスタ」のパンフレット(裏)。イベントロゴ(イラスト制作 都立田無工科高校 本多睦己さん)東京都教育委員会は、Society5.0を支える工業高校の実現に向けNext Kogyo START Projec👈リンクの取組を進めており、その一つとして、令和5年4月1日から「工業高等学校」15校を、先進的で魅力ある専門高校に相応しい名称である「工科高等学校」に変更したのだと。入口に展示されていた神輿。近づいて。東京都立田無工科高等学校建築科作品 3学年課題研究ーー神輿(みこし)ーー作品説明生徒2名が大工伝統技能習得を目指して、市民講師による技術指導を受けながら完成させた作品です。前方の中央ステージでは「スペシャル対談 ~宮坂副都知事✕吉藤オリィ~」が行われていた。テーマは「工科高校の魅力」と。宮坂学 東京都副知事。その奥には「ねぶた」が展示されていた。「都立六郷工科高校」の作品。この高校の名前は以前から「工科高校」であったらしい。「都立工芸高等学校」の作品。「五穀豊穣」と。近づいて。その奥にあったのがモニュメント「東京都水道発祥の地」。新宿区西新宿2丁目6−1。近づいて。「東京水道発祥の地首都東京、この大都市の発展のかげには、古くからその生活をささえる水の確保に大変な努力がはらわれてきた。すでに300年も前の江戸時代初期(1654年)、ふくれあがる江戸の水不足をまかなうため、玉川上水が開かれ、江戸からおおよそ50キロメートルも離れた羽村から玉川の水が市中に引かれた。時は変わって明治となり、首都が東京に移されるや発展する都市に不可欠な 近代水道の建設が急務となった。そして、明治23年(1890年)、ここ旧東京府南豊島郡淀橋町に34万平方メートルの敷地を求め、玉川上水によって導かれた多摩川の水をここで沈でん・ろ過のうえ、200万人の市民に上水を供給できるという、当時としては、画期的な規模の淀橋浄水場が建設されることとなった。明治31年その一部が完成し、神田、日本橋地区へ給水が開始され、ここに東京の近代水道が誕生した。以後、明治、大正、昭和と東京の歴史とともに歩み続けた淀橋浄水場は、昭和40年(1965年) 東村山浄水場にバトンを渡し、給水開始以来60数年の歴史を閉じ、その跡地は、新しい東京の象徴ともいうべき超高層ビルの街に生まれ変ることとなった。ここに展示されているものは、内径1,000ミリメートル蝶型弁といい、かつて淀橋上水場で使用されていたものである。東京は、今、この超高層ビルの街が象徴するように、ますます発展しようとしている。 そして、この大都市が必要とする水も、遠くはるか20キロメートルも離れた 利根川上流にまで求めている。ここに展示された蝶型弁から、かつてここに都民の水をかなかうため、満々と水をたたえた浄水場のあったことを、想いおこしていただき、あわせて大都市における水がいかに大切なものであり、またその確保が大変困難なものであることをご認識いただれば、はなはだ幸いです。1974.4 元東京都水道局長 元淀橋浄水場長 小林重一」工科高校の各ブース展示を楽しむ。「ドローン操縦体験」コーナー。「小型ドローン」。インタビューを受ける女子工科高校生2名。三角広場の屋根を見上げて。地域別に展示ブースが並んでいた。そして「新宿住友ビル」内に入る。「1974年 新宿住友ビル」。2020年 新宿住友ビル改修後(S=1/100)。日本不動産学会 第28回業績賞「国土交通大臣賞」を受賞住友不動産株式会社は、日本の超高層ビル黎明期に完成した新宿住友ビルを、リノベーションによって時代に合わせた機能に一新することで、持続可能なオフィスビルの実現に取り組んでいます。今回の「国土交通大臣賞」においては、公開空地を屋内空間化することで、地域のにぎわい創出に大きく貢献するだけではなく、災害時の一時滞在施設として大人数の避難者を収容する機能を飛躍的に向上させていること、エリアマネジメント組織での協議を重ねることで、地域の回遊性の向上に貢献したものとなっていることなどが評価されています。公益社団法人日本不動産学会 業績賞は、新機軸を打ち出した不動産事業やそれにかわる制度の創設など幅広い対象の中から優秀な業積を顕影することを目的として、1944年(学会設立10周年)に創設されたものです。第22回(2015年度)より、「国土交通大臣賞」を新設し、業績賞応募対象の中から、学術的な学術研究分野である不動産学の観点から見て優れたもので、かつ、特に不動産政策の発展に寄与する優れた業績を表彰しております。模型の屋根を見る。右手に2Fへのエスカレータ。B1、1、2階ショップ、レストラン案内図。そして「新宿住友ビル」を後にして、再び「東京都第一本庁舎」を見る。「恋弁天」。新宿区西新宿2丁目6−1。「恋弁天恋はみづもの 水あれば 心は狂い 花が咲くその昔よりこの地は 沼や池 水ゆたかなる里水をもとめて ひと あつまり さかえしといういらい弁天をおき 水をまつる ゆえに 新宿の弁天たちは恋には 水をささぬとの 伝え つくりびと 流政之うまれどし 一九七五年」近くにあった「太閤千代しだれ」。新宿区西新宿2丁目6−1。「太閤千代しだれこの桜は、豊臣秀吉が「醍醐の花見」を催したことで知られる京都の「總本山醍醐寺」が鄭重に保全してきた、樹齢約百七十年と言われる「太閤しだれ桜」の子孫樹です。桜の成長につれて魅せる厳かで優雅な姿が、後々まで訪れる皆様の心を、癒すと共に、花を慈しみながら人と人とが交わる、日本の良き歴史、文化を感じていただける機会となれば幸いです ニ〇ニニ年三月 住友不動産株式会社」その横にあったのが「新宿住友ビル 出雲大社」。新宿区西新宿2丁目6−1。近づいて。「新宿住友ビル 出雲大社御祭神 大国主大神(おおくにぬしのおおかみ) 龍蛇神(りゅうじゃじん) 御由緒 一九九六年五月、出雲大社東京分祠よりご縁を頂き、この地を鎮守頂いておりましたが、二〇二〇年六月、新宿住友ビルの第二の竣工に伴い、大社宮の 装いも新たに設え直し、ご鎮座頂きました。御祭神の大国主大神は、縁結びの神として広く知られておりますが、私たちがお互いの幸福のために、素晴らしいご縁で結ばれるようにと愛情を注いでくださる幸福の神「だいこくさま」として多くの方に親しまれています。また、龍蛇神は、全国八百万の神々が出雲地方にお集まりになる「神在月」に、神々の先導役をお仕えされる御使神で、水に住む龍は火難除け、水難除け、地に住む蛇は土地の災難除けの守護神として信仰されています。ここ、新宿住友ビルでは、このニ柱の神様により、この土地の安全と、ここに働き、集う皆さまの出雲大社では、「ニ拝四拍手一拝」にて拝礼します。」「新宿住友ビル」裏の石段を上って「都庁通り」から「小田急第一生命ビル」を見る。新宿区西新宿2丁目7−1。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.10.16
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新宿大ガードに向かって靖国通りの横断歩道を渡る。新宿大ガード南側通路に、高さ 約1.5m・幅約15mの大きな壁画「太陽と海をつなぐ道 」が展示されていた。 設置されている壁画は、2013年の夏に開催したアートイベント「新宿 クリエイターズ・フェスタ2013」 で、大勢の子どもたちとアーティ ストが一緒に制作したものであると。太陽や海に育まれる自然や人、 楽しそうなまちの風景などが描かれていた。「太陽と海をつなぐ道 これらの絵は、2013年夏に開催したアートイベント「新宿クリエイターズ・フェスタ2013 /こどもアート(NPO法人3.11こども文庫)」で描かれたものです。このイベントでは、ライブペインティングやアート・ワークショップ、音楽ライブなど数多くの催しが行われ、子どもから大人までが気軽にアートに触れ、楽しみました。向かって左側の絵は「森をかかえる太陽」、中央の絵は「街をのせた海」という作品で、旧新宿コマ劇場(歌舞伎町)の建設現場の仮囲いをキャンバスに、子ども達が描いたものです。太陽や海に育まれる自然や人、楽しそうな街の風景が描かれています。向かって右側の絵は「よみがえれ!私たちの海」という作品で、福島県いわき市の小名浜港の風景を描いたものです。この作品は、福島県相馬市立中村第ニ小学校の3年生の皆さんの絵を、一枚ずつつなぎ合わせて制作したものです。ーつひとつの絵から、子ども達の故郷に寄せる深い思いが伝わってきます。 2014年2月 新宿クリエイターズ・フェスタ2013実行委員会」「・NPO法人「3.11こども文庫」とは・・版画家蟹江杏(かにえ・あんず)が、「東日本大震災で傷ついた子ども達に絵本と画材を送ろう」と、友人、知人へ10通のメールを送ったことから、「NPO法人3.11こども文庫」は始まりました。国内外から集まった児童書は約15 , 000冊となり、これは福島県相馬市に届けられました。また、集まった画材で子どもたちが描いた絵は、約300点にのぼります。「NPO法人3.11こども文庫」の活動は、全国各地での子どもの絵の展覧会、アート・ワークショッス講演会など"アートによる復興支援"として、現在も広がっています。http://www.31 lbunko.com/」向かって左側の絵は「森をかかえる太陽」と。「街をのせた海」。「よみがえれ!私たちの海 大漁」と小名浜港の風景・漁船の姿が描かれていた。「お空に描くみんなの夢これらの絵は、2014年夏に開催したアートイベント「新宿クリエイターズ・フェスタ2014/こどもアート(企画:NPO法人3.1こども文庫)」で描かれたものです。このイベントでは、ライプペインティングやアート・ワークショップ、音楽ライブなど数多くの催しが行われ、子どもから大人までが、気軽にア一トに触れて楽しみました。一番右に描かれた子ども達の顔は「You are loved from all over the world ! ! ~あなたは世界中から愛されている。」という作品で、アーティストが描い たものです。中央の2枚の絵は「虹をつくる人」と「タ焼けの街」という作品で、歌舞伎町の新宿東宝ビル建設現場の仮囲いをキャンバスに、子ども達がアーティストとともに描いたものです。街や自然、そこに暮らす人々、さまざまな色に染まる空が描かれています。一番左は「光の中の一本松」という作品で福島県相馬市立中村第ニ小学校の3年生(2011年東日本大震災当時)の皆さんの絵を、アーティストが復興への願いを込めて、一枚ずつつなぎ合わせて制作しました。2014年10月 新宿クリエイターズ・フェスタ2014実行委員会」「光の中の一本松」。福島県相馬市立中村第ニ小学校の3年生(2011年東日本大震災当時)の作品。「タ焼けの街」。「虹をつくる人」。「You are loved from all over the world ! ! ~あなたは世界中から愛されている。」「子どもはみんなアーティスト!これらの絵は、2012年・夏に新宿で開催されたアートイベント「新宿クリエイターズ・フェスタ2012 /こどもアートプログラム( NPO法人3.11こども文庫)」にて制作されました。このイベントでは、ライプペインティングやアート・ワークショップ、音楽ライブやパフォーマンスなど数多くの催しが行われ、大人と子どもが「アート」を通じて融れ合う、楽しい場となりました。左右に描かれた鳥は、福島県の"県の鳥"「キビタキ」です。作品の題名は「光の鳥、#1# 2」。これらは、福島県相馬市立中村第ニ小学校の3年生のみなさんが描いた絵を、一枚ずつ繋ぎ合わせて描かれました。まるで、ニ羽の鳥が光の中でさえずっているようです。中央の絵は、題名が「ママからうまれるいのち」。歌舞伎町の旧コマ劇場の工事用フェンスに、イベントに訪れた300人の親子が、楽しい音楽やパフォーマンスに合わせて描いたもので、原画の長さは16mあります。大都会新宿に、様々な動物、植物のいのちが生まれる様子を、それぞれに思いを込めて描きました。 2013年1月 新宿クリエイターズ・フェスタ2012実行委員会事務局」「光の鳥#1」「ママからうまれるいのち」「光の鳥#2」。そして新宿大ガードを通過し、「新宿大ガード西」交差点手前を左折。新宿西口商店街・「想い出横丁」の看板。新宿区西新宿1丁目2。まるで時代が巻き戻ったような懐かしい雰囲気が漂うディープな飲み屋街。別名として、やきとり横丁のほか、かつての俗称ションベン横丁が知られている。空襲の跡がまだ生々しい1946年(昭和21年)ごろにできた闇市にそのルーツを持つ。かつては小田急百貨店新宿店まで広がり、300軒ほどの店舗が立ち並んでいたという。やきとり屋やもつ焼き屋、金券ショップや定食屋が多い。中に入ると、昭和を思わせる小規模な飲食店が所狭しと並んでいた。1999年(平成11年)11月24日には大きな火災が発生し、70店舗中28店舗が全半焼したのだと。今では若い女性のみならず外国人にも人気のスポットとなっているのだと。この日は、まだ時間は早く、客の数は少なかったが、外国人の姿は何組か確認できた。新宿駅方面側からの入口がここ。ズームして。小さい箱(店)が所狭しと軒を連ねて、祭り好きには縁日などの、やっちゃ場(居酒屋)的な感じがして、たまらない場所。狭い通りを進む。秋の彩りに。1周して戻るとあったのが「旧青梅街道(東口方面)」柱。現在の青梅街道は、JR新宿駅と西武新宿駅の間を通り、JRの線路の下の大ガード下を、東西に走っている。JR新宿駅の北側には、旧青梅街道が通っていた標識が残っていた。新宿区西新宿1丁目2。スクランブル交差点から、歌舞伎町にシックなレンガ色の外観をした「新宿プリンスホテル」と地上48階地下5階建て、高さ約225mの「東急歌舞伎町タワー」を見る。都道414号線から「東京モード学園」が再び見えた。新宿駅方面を振り返ると、「小田急百貨店 新宿店本館」はその撤去工事のため全面が工事シートで覆われていた。解体工事も順調に進んでいるのであろう。「ギャラリー通り」を進む。左側に「東京モード学園」。正面に見えたのが「新宿センタービル」。右手に折れて25m程進んだ右側にあったのが「策の井(むちのい) 」。西新宿の新宿エルタワーの敷地内にあったピラミッド形のオブジェと案内板。新宿区西新宿1丁目6−1。「都旧跡 策の井(むちのい) 所在 新宿区西新宿一丁目六番地指定 昭和十六年十一月当敷地内に存した「策の井」は江戸時代より名井として知られ、天和年間(一六八一~一六八三)に出版された戸田茂睡の「紫の一本」(むらさきのひともと)に「策の井は四谷伊賀の先にあり、いま尾張摂津下屋敷内にあり、東照公鷹野に成らせられし時、ここに名水あるよしきこし召し、おたづねなされ、水を召し上られ、御鷹の策のよごれをお洗われたる故、この名ありという」と書かれている。この地は尾張摂津下屋敷であった所であり、また、享保年間(一七一六~一七三五)に出版された「江戸砂子」(えどすなご)という本にも同主旨の文章が見られ「策の井」が名水とうたわれた。 平成元年六月 建設 東京都教育委員会」その先にあったのが「淀橋浄水場趾この地は明治31年東京水道のの創設時から昭和40年までの67年間首都給水施設の中心であった淀橋浄水場の正門あとです浄水場の総面積は34万500平方メートルで、いまは新宿中央公園と11の近代的街区に生れかわっています 昭和45年3月 東京都水道局」新宿区西新宿1丁目6。新宿駅(手前)の西側に広がる淀橋浄水場。(1965年ごろ、東京都水道歴史館提供)右側にあったのが、今、ビッグモーターの保険金不正請求に絡み、その疑惑を認識していながら同社への事故車の紹介業務を続けたことで問題視されている「損害保険ジャパン 本社ビル」。新宿区西新宿1丁目26−1。ズームして。「新宿センタービル」敷地内のモニュメント。新宿区西新宿1丁目25。「Hand Of Peace」鎌田恵務。現在地は「北通り」入口のここ。モード学園コクーンタワーは高さ204m、地上50階建てで、教育施設としては世界第2位の高さを誇る。 ファッション・IT ・医療という異なった3つの専門学校のための建物で、全体で1万人の学生を収容しているとのこと。新宿区西新宿1丁目7−3。「新宿センタービル」前から「東京都庁第一本庁舎」を見る。塔頂付近をズームして。高さ約243m(48階)の建物で、その上層部には都内各自治体(区役所、市役所など)向け及び中継局向けのマイクロ多重回線のパラボナアンテナが設置されていたのであった。アンテナ径が1フロア高さ分に相当する大きさのものも壁面に設置されていて、地上高200mを超える位置から都内や隣接県各所にある対向局(中継局)と無線回線で接続されているのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・iPhone 15 512GB simフリー 端末本体のみ (楽天モバイル回線なし) 新品
2023.10.15
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この日は9月30日(土)、卒業した会社の元同僚達が集まり、13:30から新宿駅近くで行われる昼飲み会に参加。久しぶりの新宿であるので、2時間ほど前に新宿駅に到着し、JR新宿駅周辺の散策開始。まずは小田急線の西口を出ると正面に見えたのが、「モード学園コクーンタワー」。地上高: 192 m 高層ビル階数: 50階開業: 2008年10月建築家: 丹下憲孝"学生がプロとして羽ばたいていく"ことをイメージして「繭=コクーン(COCOON)」をモチーフにしているとのこと。またコクーンタワーの横には、繭玉をイメージした球形の低層部があり、ふたつのホールが入っていると。コクーンホールA・Bと呼ばれている。こちらでは、講義だけでなく、ファッションショーや試写会、企業の製品発表会などが行えるようになっているとのこと。新宿区西新宿1丁目7−3。そして新宿駅東口に向かって進むが、新宿駅は現在、大規模再開発工事の真っ最中。新宿駅周辺エリアでは、今後2046年頃迄を目途に、JR新宿駅の東西に渡る周辺地区を中心とした大規模再開発が予定されているのだ。一日約350万人の乗降客数を誇る「世界一のターミナル」JR新宿駅。駅をを中心とした「グランドターミナル構想」に基づき、東西に260m級の超高層ビルとJR駅上空広場など、オフィスビルや商業複合施設・広場や通路などの建設が進む予定。まずは、2022年着工、2029年迄の工事が計画されている(仮称)新宿駅西口再開発事業。既存の新宿地下鉄ビルデイング・小田急百貨店新宿店(モザイク通り、新宿ミロード含む)が地上48階・地下5階・最高高さ約260mの超高層ビルに建替えられる予定とのこと。新宿駅周辺で計画されている再開発の完成予想図。現地看板を撮影した。左の「新宿駅西口地区開発計画」(地上48階、高さ259m)は2029年度、右側の「(仮称)新宿駅西南口地区開発事業 南街区」(地上37階、高さ225m)は2028年度、中央の「(仮称)新宿駅西南口地区開発事業 北街区」(地上19階、高さ110m)は2040年代に完成する予定となっていると。この中で左側の「新宿駅西口地区開発計画」では既存建物の解体工事が始まっており、現地には建築計画のお知らせも設置されていた。「新宿駅西口地区開発計画」は「小田急百貨店新宿店本館」跡地の再開発で、規模は地上48階、地下5階、高さ259m、敷地面積約1万5718.98㎡、建築面積1万5700㎡、延床面積27万8900㎡、建築主は小田急電鉄、東京地下鉄(共同事業者候補に東急不動産)、設計者は日本設計・大成建設設計共同体で2023年10月上旬着工、2030年3月下旬竣工予定となっているとのこと。そして新宿駅東口を目指して、新宿駅東西自由通路を歩く。JR東日本は2021年5月10日、新宿駅東西自由通路に設置されたデジタルサイネージ「新宿ウォール456」の稼働を開始をしたと。同ビジョンは、空間演出型媒体とするのを目的として2020年12月に設置された大型サイネージ。加えて25面に及ぶ柱面サイネージ「J・ADビジョン新宿駅東西自由通路」や、天井面への間接照明、16カ所の音響装置を組み合わせた演出により、空間全体で一体感のある表現が可能だ。サイズは、国内最長となるW45.6×H1.7m。環境演出には、カナダ・モントリオールに本社を構え、世界各国で400以上のプロジェクトを展開するMoment Factory社を起用。現在「新宿カラーバス(色彩に包まれる)」を空間のコンセプトにし、光や音、映像を連動させたさまざまな情報発信をしているというJR東日本。通常の広告はもちろん、各種イベントや地域観光名所のニュース、災害情報、新宿をモチーフにしたアートなどを発信しているのだと。デジタルサイネージ「新宿ウォール456」に近づいて。456はデジタルサイネージの長さが45.6mから。デジタルサイネージとは、駅や店舗、施設、オフィスなどに、ディスプレイやプロジェクターなどの映像表示装置を設置して情報を発信するシステムです。また、近年では、単にサイネージと言ってデジタルサイネージのことを指す場面も増えてきた。駅や店舗での情報発信といえば、従来は紙のポスターや看板が一般的でしたが、デジタルサイネージは電子看板とも呼ばれるように、デジタル映像機器を用いることで、より多くの情報を、手軽に、タイムリーに発信できることから、近年大きな注目を集めているとのこと。「新宿ウォール456」のある場所はここ。■J・AD ビジョン新宿駅東西自由通路サイズ:70インチ面数:25面仕様:フルハイビジョン規格液晶モニター特徴:時間別、曜日別、面別にコンテンツの変更が可能放映形式:広告枠3分ロール放映、30分に1回環境演出放映■新宿ウォール456サイズ:W45.6×H1.7m仕様:COB(Chip On Board)タイプ LED ディスプレイ(ドットピッチ:1.58㎜)特徴:①衝撃に強く傷つきにくい ②高精細 ③高い安定性 ④メンテナンスが容易放映形式:広告枠3分ロール放映、30分に1回環境演出放映音声:出力可能(同空間に新設する「J・AD ビジョン新宿駅東西自由通路」と同時購入の 場合のみ)セット内容:新宿ウォール456/J・ADビジョン新宿駅東西自由通路/J・ADビジョン新宿駅西改札販売単位:1週間販売枠数:1社ジャック※30分に1回6分間、環境演出映像が流れます。広告料金:15,000,000円音声出力:ありこの時は日本の紅葉を映し出していた。振り返って。そしてJR新宿駅東口に出る。「ルミネエスト(LUMINE EST)新宿」を振り返る。そして今話題になっている、「巨大猫」3D動画が世界に拡散された『クロス新宿ビジョン』。先端の表現手法を駆使する新ビジョンが、2021年7月12日(月)より本放映をスタート。当ビジョンは、150㎡超級(H8.16m×W18.96m=154.71㎡)で唯一の4K相当対応の大型街頭ビジョン。新宿駅東口のスクランブル交差点に面していることに加えて、ビジョンが低層建物の屋上に設置されているため、信号待ちや待ち合わせの人々にとって、美しい映像を長時間視聴することができる環境にあるのだ。3D動画は、L字や湾曲など、放映される面が2面あることで、より奥行き感を感じることができた。その一方、3D動画は視聴角度が限られるため、現地視聴者はある程度特定の位置に集まらなくてはならないとのこと。クロス新宿ビジョンは、湾曲形状をしており、かつ、3Dに見える視聴位置に新宿駅東口広場があるため、3D動画に最適な形状・立地を兼ね備え、より広く、より多くの視聴者数を得ることが可能なビジョンとなっているのだと。「巨大猫の3D動画」👈リンク。途中、漫才コンビ「かまいたち」👈リンク の姿も。「宇宙基地」も飛び出して。仰向けに。「新宿東口の猫交番」映像も。すやすやと。「ねこ検定」案内ポスター。「ねこ検定」は、ねこ検定実行委員会が実施しているネコに関する検定試験。ネコへの理解を深めることで人とネコとの生活がより豊かになることを目的として2017年3月26日に第1回目の試験が実施された。以降、年約1回試験が実施されている。2020年の第4回試験までの受験者数は約10,000人とウィキペディアより。そして「歌舞伎町」交差点に向かって進む。前方に「歌舞伎町」交差点。「歌舞伎町」交差点。「歌舞伎町」交差点を渡る。「新宿通り」の「新宿3丁目」方向を見る。前方に「TOHOシネマズ 新宿」が見えた。右手の「すしまみれ」の看板には「魚偏の漢字」👈リンク が。これでもかと。しかしよく見ると同じ漢字が。2008年に閉館した新宿歌舞伎町のランドマーク、新宿コマ劇場の跡地に、去る2015年4月17日、ホテルとシネマコンプレックスを核テナントとした複合施設「新宿東宝ビル」がオープン。新たに建設されたビルは地上30階・地下1階建て、延べ床面積54,735㎡。9階〜30階が超高層ホテル「ホテルグレイスリー新宿」(970室)、3階〜6階がシネマコンプレックス「TOHOシネマズ新宿」、2階がアミューズメント、1階が飲食・物販店舗というフロア構成。そしてこの「新宿東宝ビル」の東側路地を中心とした周辺地域がいわゆる「トー横界隈」と呼ばれている場所。そして、そこに集まっている若者たちのことを「トー横キッズ」と呼んでいるのだ。「トー横」は新宿東宝ビルの横を省略したもので、東急東横線、東横イン等『東横』と称する他の事物とは無関係。ゴジラヘッドが特徴的な新宿東宝ビルが完成した後2018年頃から、この周辺に自撮りを行う若者たちがたむろし、周辺の居酒屋や風俗店の店員や、風俗嬢・キャバクラ嬢らが彼らを「トー横キッズ」と呼び始めた。2021年頃に界隈を狙った犯罪行為や援助交際、誹謗中傷が度々行われたことから一躍注目を浴びることになり、テレビで取り上げられている場所なのである。 地上からの高さがゴジラの身長(約50m)と同じ8階の屋外テラスには、ほぼ原寸大のオブジェ「ゴジラヘッド」の姿が。夜にはライトアップされ、ある時刻になるとゴジラの目と口、背びれが光り、鳴き声を発する作りになっているとのこと。ズームして。ゴジラはビルから頭を突き出しているような姿。「TOHOシネマズ新宿」は都内最大級の映画館。12のスクリーン数と2323席の総座席数は新宿最大。4D映画専用スクリーン(スクリーン2)や約500席規模の大型スクリーン(スクリーン9)などを有する。「歌舞伎町一番街」正面に「ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町」。「歌舞伎町一番街通り」に向かって進む。「歌舞伎町一番街通り」。大空襲で焼け野原となった歌舞伎町は、戦災復興土地区画整理によって瓦礫の上に新しい都市空間を計画し「歌舞伎の演舞場を建設し、これを中核として芸能施設を集め、新東京の最も健全な家庭センターを建設する」ことをコンセプトに『歌舞伎町』と命名されました。一番街地区においては昭和26年の東京スケートリンク(のちの<新宿東急文化館>)開館以降、貸スケート靴の店が増え、若者が集まるようになったことから喫茶店や食べ物屋が増えていきました。このことが、歌舞伎町が若者のまちとして発展していく起源となります。近年では、昭和44年から設置されている独特なデザインと赤い光が特徴の入口アーチの改修工事が行われ、新しくなった歌舞伎町のシンボルとしてまちの賑やかさを演出しています。昭和20年、鈴木喜兵衛氏の戦後復興のまちづくりから始まった歌舞伎町は、日本を代表する繁華街として多くの人々に親しまれてきました。その一方で昭和50年以降にみられるようになった性風俗店の増加や、反社会的勢力の進出などが、歌舞伎町にマイナスなイメージを与えた時期がありました。平成14年、このような状況を憂慮した歌舞伎町商店街振興組合が「歌舞伎町を楽しく、安全で安心できるまちにするための宣言」を行い、以降、歌舞伎町では様々な取り組みが進められてきました。平成19年3月には「歌舞伎町まちづくり誘導方針」が策定(平成21年11月一部改訂)され、「エンターテイメントシティ歌舞伎町」がまちづくりビジョンとして示されました。また、かつて歌舞伎町の象徴的存在だった「コマ劇場」は、平成27年に「新宿東宝ビル」として生まれ変わり、翌年にはシネシティ広場やセントラルロードの整備、歌舞伎町シネシティ広場周辺地区地区計画の決定が行われました。今後は新宿東急ミラノ座跡地等開発が行われる予定であり、歌舞伎町を取り巻く環境は更に変化を続けていくと考えられます。また、平成28年6月に歌舞伎町一丁目平和会地区まちづくり指針が策定されたことで、平成30年2月に東宝ビル東側通りの道路整備が竣工されました。歌舞伎町一丁目一番街地区では平和会地区に続くまちづくり指針策定に向けて、歌舞伎町のメインストリートとしての更なる発展と、安全・安心なまちづくり等を目指し、土地や建物の権利者、営業をされている店舗をはじめとする当地区の関係者同士が課題を共有し、主体的に改善策を実践していく必要があります と。「歌舞伎町一番街」は、「新宿区歌舞伎町一丁目」の「劇場通り」にある歓楽街。南西端は「靖国通り」と交差する地点で、北東端は「新宿区 特別区道第 21-330 号線」と交差する地点。入口に「歌舞伎町一番街」と掲示されたアーチが設置されていたのであった(裏側から)。入口にあった「ようこそ歌舞伎町」案内地図。「歌舞伎町一番街」前の横断歩道から新宿西口の高層ビルを見る。そして「東京都道302号・靖国通り」の「新宿大ガード」に向かって進む。 ・・・つづく・・・iPhone 15 512GB simフリー 端末本体のみ (楽天モバイル回線なし) 新品
2023.10.14
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そしてこの日の待ち合わせ場所であった「JR飯田橋駅」改札に向かう。時間があったので、「JR飯田橋駅」「牛込門枡形石垣の構造」案内板。「牛込門枡形石垣の構造牛込門枡形石垣は、門の左右の石垣が当時のままに残り、その規模や雰囲気が感じ取れる貴重な遺構となっています。また、目の前に見える北側の石垣は、2013 (平成25)年に解体・調査が行われ、コンクリートを使用せず、在来工法で修復されたものです。これらの石垣は、両脇の石と両面端に密着させる切り込みハギという積み方と、ほぼ横目地が通る布積みが用いられ、整然とした印象をもたらしています。一方、石垣の下部や土塁と接する部分は、石の間に間詰め石を入れる打ち込みハギという積み方です。石材としては伊豆半島に分布する安山岩を主とし、角石には瀬戸内海から運ばれた花崗岩(御影石)の巨石が利用されています。石垣の積み方外堀に面したB面(西面)は、大きさが異なる石により切り込みハギで積まれていますが、土手に埋められた下段は打ち込みハギによる乱雑な積み方となっています。土塁に続くA面(北面)は、突出部は整然とした切り込みハギですが、土塁に接する部分では間詰石(まづめいし)の打ち込みハギ状で、やや乱雑な印象を受けます。一方、枡形内のC面(南面)は長方形、方形の石が隙間なく積まれた美しい切り込みハギで、全面で横目地が通る布積になっています。枡形の内側であり、常に通行人の目に触れる場所であることが、その理由であると考えられます。石垣の内部構造石垣の内部には、握りこぶしほどの河原石や砕石で構成されるぐり石が、石垣の裏込めとして詰め込まれていました。道路に面するC面では、石垣一段積むごとに平坦な石を背面に敷き並べる丁寧な裏込め(Ⅳ層)が構築されていますが、下層部のⅢ層では大形のぐり石、上層部のⅢ層では玉石状で握りこぶしほどのぐり石と、その様相が異なっています。この特徴から、この石垣は今までに何度も改修されていたことが判明しました。」「牛込神楽坂の図」。江戸の神楽坂は、牛込御門を後に西北に早稲田に向かって登る坂道で、現在は飯田橋駅西口から早稲田通り方面へ登る坂道です。絵では正面に外堀を隔てて牛込御門が見え、神楽坂から見下した光景が描かれています。坂の東側(絵の左側)は武家屋敷地で、西側(絵の右側)が坂に沿って町屋地域でした。神楽坂の名の由来は『江戸名所図会』(1836)によると、坂の途中にある高田穴八幡の旅所で、祭礼の時に神輿(みこし)が神楽を奏するからとも、近くの若宮八幡の神楽の音が聞こえるからなど諸説あるようです。江戸城御外殻御門絵図 牛込御門牛込門跡石垣立面・断面・平面図。「外堀の土塁」案内板。「外堀の土塁外堀土塁の構造牛込門から赤坂門までの江戸城外堀は、谷地形を利用し、広い堀幅の水面と、水面から高い土塁を持つ江戸城防御のための空間で構成されています。目の前に見える土手もその土塁の一部であり、2013 (平成25 )年から始まった石垣修復工事、その後のJR飯田橋駅西口駅舎等の工事に併せ調査が行われ、桝形石垣付近は江戸時代当時の規模を目安とした土塁の復元をしています。外堀の土塁は、厚さ5 ~ 10cm程度ごとに土や粘土、砂など様々な種類の土を積み重ねて突き固められた版築と呼ばれる技法で作られています。地層断面をみると、土手の斜面方向とは逆に、水面の方に向かって地層が上がっています。これは、土砂崩れを防ぐためと考えられています。土塁の道路端には土留めの石垣が築かれていましたが、現在では土手に沿って通る道路の端に確認できる通り、コンクリートの小型擁壁に代わっています。」「外堀土塁の水際部分(発見された「水際石垣)2015 (平成27)年に行われた発掘調査の結果、外堀の水際には、土手が崩れないようにするための低い石垣が作られていたことが判明しました。発見された場所は、牛込橋から140m程度市谷方向に進む地点の線路の間で、石垣の基礎部分と考えられる1 ~ 2段の石積みが、外堀で初めて確認されました。この石垣は、明治期に甲武鉄道が敷設された際に、上段部分が撤去され、基礎部分はそのまま埋められたものと考えられます。」「外堀土塁の植栽1636 (寛永13)年、外堀土塁が完成すると、幕府は翌年、堀方七組の東国大名に命じて、土塁上部から2.7m程下がった位置に、一間(約1.8m )間隔で大きめの松杉を、その内側には小さめの苗木を、ニ筋にわたって植樹させました。植木奉行(のち普請奉行)の管理下に置かれた牛込土橋~筋違橋の土手と御堀は、近辺に屋敷を拝領する武家に割振り、植木の手入れと草刈りを担当させました。幕末に日本を訪れたオイレンブルクの「日本遠征記』によれば、「城型天端の平坦部とその内側にはモミなどの針葉樹がぎっしりと並び、水面には何千という野鴨が住み着いている」と記されています。なお、真田濠(現上智大学グラウンド)の土塁上には、往時の姿を思い浮かべることができるような松の植生がみられます。」「牛込御門(江戸風景上)」。「外堀断面図」。「現在の土塁」。「土手の小擁壁(左)、戦後直後の牛込門付近の土塁(右)」。案内板が2枚。左に「史跡 江戸城外堀跡 周辺案内図」。「飯田橋駅周辺案内図」。「江戸城外堀跡散策案内図」。「江戸城外堀跡散策案内図この2枚の散策図は、飯田橋駅から四ツ谷駅周辺に残る江戸城外堀跡を中心とした文化財を示したものです。これらは、近世から近代までの東京の歴史を示しています。また、日本橋を起点とする五街道が四方に延び、江戸出入口の大木戸や宿場の位置を左の図に示しました。さらに江戸御府内を示した「墨引図(町奉行支配の町範囲)」は、概ね現在の山手線を中心として、東は隅田川を越えて錦糸町駅までの広い地域であったことが分かります。」「江戸城外堀跡散策案内図」-1。「江戸城外堀跡散策案内図」-2。そしてこちらには4枚の案内板。右側から「外堀の変遷」案内板。。「外堀の変遷外堀は江戸城防御の役割だけではなく、豊かな水辺空間として当時から江戸市民に親しまれ、名所絵などの浮世絵にも多く描かれました。 「名所江戸百景」(広重・1856(安政3)年-1858(安政5)年)には、 市ヶ谷八幡の門前町が堀端に広がり賑わう景色が、 外堀とともに描かれています。また、 「富士三十六景」 (広重・1858(安政5)年)には、御茶の水の懸樋下を、 荷物を載せた船が往来する様子が描かれ、 外堀が物資輸送路としても使われていたことがわかります。明治期以降も外堀は景勝地として受け継がれました。 1893(明治26)年、地域有志者からの寄付金により、 四番町より市谷田町に通じる新道 (現・新見附) 開設願いが出され、 甲武鉄道の延伸工事と一体で建設されることとなりました。1894(明治27)年に開通した甲武鉄道と外堀の風景は絵葉書などに多く取り入れられました。1911 (明治44)年には、 牛込から喰違までの土手遊歩道を江戸城外堀として永久に保存するため公園とすることが計画され、 1927 (昭和2)年に牛込橋から新見附橋までの区域が「東京市立土手公園」として開設されました。 なお、 甲武鉄道や近代の牛込濠周辺の変遷については、駅舎2階に解説板を設置しています。写真左上:土手公園 右:市谷濠写真左下:現在の旧土手公園 下中央:四ツ谷御門外 右下:市ヶ谷八幡(名所江戸百景)。「牛込見附の堰に用いられた石この解説板の横に置いてある石は、牛込見附土橋に構築されていた堰の水路面に使用されていたもので、駅舎工事にあたり発掘されました。発掘結果や当時の堰の様子をうかがい知れる史料などを、JR飯田橋駅ホーム上(実際に堰が発見された位置となる牛込橋の真下付近)で解説しています。」牛込見附土橋に構築されていた堰の水路面に使用されていた石。「牛込・赤坂間の江戸城外堀の工事方法」案内板。「牛込・赤坂間の江戸城外堀の工事方法牛込から赤坂にかけての外堀のうち、牛込~市谷までは、 神田川支谷の地形を利用して造られました。 次に四谷・麹町付近は、もともと台地の尾根が横切っている地形であったため、台地を掘り込み、 赤坂側の溜池の谷へと結ぶ大工事となりました。 この区間の工事は、普請を担う各大名が組を編成し、 組毎の掘削土量が一定となるように分担されました。外堀は、喰違見附が最も標高が高く、真田濠より神田川に向かって堀毎に順に水位が低くなりました。そのため、牛込門 (飯田橋駅西口) のように外堀を渡る土橋には堰が設けられ、堀の水位を調整していました。 また、自然の谷地形を活かしながらも、城郭としての防御効果を高めるため、現在の千代田区側の台地に土を盛って高い土塁を築き、急峻な土手が形成されました。江戸城外堀は総延長約14kmを誇り、このうち牛込門から赤坂門までの約4km、面積約38haの堀が国史跡指定されています。 史跡区域には、地形を巧みに利用して築かれた外堀が水をたたえる姿や、外郭門の石垣、土塁の形態を見ることができます。」上:「江戸城外堀縦断面模式図」。左下:外堀掘方模式図 右下写真:喰違から弁慶濠を見る。「江戸城外堀」案内図。「江戸城外堀江戸城は、本丸・二の丸・三の丸西の丸・北の丸・吹上からなる内郭を内堀が囲み、その表門が大手門でした。 外堀は、雉子橋門から時計回りに、 一橋門、神田橋門、 常盤橋門など諸門をめぐり、呉服橋門から虎ノ門、溜池から四谷門、市谷門、牛込門を経て、現在の神田川に入り、小石川門から浅草門で、隅田川に至る堀でした。 外堀工事は、 1606 (慶長11) 年に雉子橋から溜池までの堀を構築後、 1618 (元和4)年に駿河台が掘削されて平川 (現日本橋川) の流路に付け替えられ、神田川が誕生しました。この工事で、平川は堀留橋で締め切られ、独立した堀となりました。1636(寛永13)年には、天下普請で外堀が構築され、江戸の総構が完成します。 この工事は、雉子橋から虎ノ門に至る外堀の総石垣化と枡形築造を前田・細川・池田・黒田家など西国外様大名(石垣方六組)、牛込土橋から赤坂土橋にかけての外堀掘削と土塁の構築を東国大名(堀方七組)が行いました。その後も幕府は、外堀を維持するために大名の手伝普請による堀さらいをしました。 牛込~市谷間の堀は、 市谷~四谷間より水位が下がり、土砂が堆積し、蓮が繁ったため、普請奉行の管理下で頻繁にさらいが行われました。 また、町人にも堀にゴミを捨てないよう町触も出され、 外堀の維持・管理が行われました。」左:江戸城の門一覧右上:江戸城全体図右下:神田川の地形「江戸城」案内板。「江戸城江戸城は、平安時代末の江戸氏居館、室町時代の太田道灌、戦国時代の小田原北条氏の支城として受け継がれました。豊臣秀吉は、北条氏を滅ぼすと、徳川家康を関東に移封しました。1590(天正18)年、徳川家康は江戸城に入城し、江戸城と城下町の建設を始めました。家康入城時の江戸城には石垣はなく土塁のみで、日比谷も入り江で日本橋・京橋辺りも海面と同じ高さの湿地でした。家康は、まず城内の寺を出し本丸を拡張し、城下町の武家地、町人地を整えました。次に、本丸の南の台地を削り西の丸を造成し、その残土で日比谷入り江を埋め立てました。1603(慶長8 )年、幕府を開き実権を握った家康は、天下普請として、城と城下町建設に諸大名を動員しました。同じ年に、神田山を崩して日本橋南の地域を埋め立て、市街地の造成と日本橋の架橋を行い、翌年には日本橋を起点とする五街道を整備しました。1606 (慶長11)年にはニの丸・三の丸と城郭の整備、石垣築造を進め、翌年には天守を完成しました。なお、天守は1657(明暦3)年に大火で焼失した後、再建されませんでした。1868 (明治元)年、明治天皇が江戸城に入り皇居となり、1960 (昭和35)年、江戸城内郭の堀が「江戸城跡」として国の特別史跡に指定されました。このほか、「江戸城外堀跡」と「常盤橋門跡」が史跡に、外桜田門、田安門、清水門とそれぞれの櫓門が重要文化財に指定されています。」左上:大手門 右:江戸城跡左中:蓮池三重櫓左下:半蔵門そして、「飯田橋西口」を後にして、「牛込橋」を渡る。右手にあったのが「みやこ橋」。入口の橋柱には鳥(ハト?)の像が。そして右手に「飯田濠跡」を見ながら、外堀通り「神楽坂下」交差点を右折。そして左に折れ坂を上がって行くとあったのが「軽子坂(かるこざか)この坂名は『新編江戸志』や『新撰東京名所図会』などにもみられる。軽子とは軽籠持の略称である。 今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた。 平成十五年三月 新宿区教育委員会」そして目的の店、お好み焼き店『春波』に到着したのであった。20年以上続いている老舗の関西風お好み焼き店で、久しぶりに再会した旅友5人で大いに食べて&飲んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・iPhone 15 512GB simフリー 端末本体のみ (楽天モバイル回線なし) 新品
2023.10.13
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「大神宮通り」を「早稲田通り」に向かって進む。「早稲田通り」との交差点から左手に「日本基督教団 富士見町教会」を見る。「富士見町教会」東側の広場。「IIDABASHI SAKURAPARK 「桜十景」」案内板。「飯田橋サクラパーク」には開花時期と花色の異なる10種類、約40本の桜が植えられていると。「桜十景について桜は区の花であり、千代田区には外濠公園、千鳥ヶ淵や靖国神社など名所が多く存在しています。飯田橋サクラパ一クでは新たな桜の名所を目指し、「桜十景」をコンセプトとしてソメイヨシノ、シダレザクラなど開花時期と花色の異なる10種類、約40本の桜を配置しました。早咲きののカンヒザクラから遅咲きのサトザクラまで1か月半にわたり桜を楽しむことができます。」さらに飯田橋駅方向に進むと右手にあったのが「日本歯科大学」。交差点先の左側にあったのが「江戸城 牛込見附跡」JR飯田橋駅の市ヶ谷駅 (南西) 側直ぐの早稲田通りの両側に石垣があり、これが江戸城外堀の牛込見附 (牛込御門) 跡の一部。江戸城外郭門の一つである牛込見附は、二つの門を直角に配置した「枡形門」になっていて、今ここに残っている石垣がその一部分で、江戸城外堀跡の見附の中でも、最も良く当時の面影を残しているとのこと。また、ここが外堀ということは、江戸城が如何に広かったかということも実感できるのであった。この石垣の上に隅櫓が建っていたと。「江戸城 牛込見附跡」の石垣前には案内板が。「史跡 江戸城外跡 牛込見附(牛込御門)跡」「史跡 江戸城外跡 牛込見附(牛込御門)跡正面とうしろの石垣は、江戸城外郭門のひとつである牛込見附の一部です。江戸城の外郭門は、敵の進入を発見し、防ぐために「見附」と呼ばれ、足元の図のようにふたつの門を直角に配置した「桝形門」という形式をとっています。この牛込見附は、外堀が完成した寞永13年(1636)に阿波徳島藩主蜂須賀忠英(松平阿波守)によって石垣が建設されました。これを示すように石垣の一部に「松平阿波守」と刻まれた石が発見され、向いの石垣の脇に保存されています。江戸時代の牛込見附は、田安門を起点とする「上州道」の出口といった交通の拠点であり、また周辺には楓が植えられ、秋の紅葉時にはとても見事であったといわれています。その後、明治35年に石垣の大部分が撤去されましたが、左図のように現在でも道路を挟んだ両側の石垣や橋台の石垣が残されています。この見附は、江戸城外堀跡の見附の中でも、最も良く当時の面影を残しています。足元には、かっての牛込見附の跡をイメージし、舗装の一部に取り入れています。 千代田区」「牛込見附」。牛込見附の復元図。正面に「牛込橋」。道路を挟んだ両側の石垣の写真をネットから。飯田橋駅西口を見る。「日本基督教団 富士見町教会」を振り返る。足元には、かっての牛込見附の跡をイメージし、舗装の一部に取り入れています と。「牛込門跡/「阿波守内」銘の石垣石」。「□阿波守内」という銘文がある石垣石。左から縦書きで「□阿波守内」と刻まれているのだと。阿の阜偏(こざとへん)や波の氵(さんずい)部分は半分以上埋もれていたが。さらにズームして。「牛込門跡/「阿波守内」銘の石垣石」案内板。「牛込門跡/「阿波守内」銘の石垣石千代田区指定文化財(「阿波守内」銘の石垣石のみ)平成18年4月1日指定牛込門は1636年(寛永13年)に、阿波徳島藩(現在の徳島県)藩主蜂須賀忠英(はちすかただてる)により築造されました。門の名称は、牛込方面への出口であったことによります。なお牛込の名称自体は、新宿区側の台地上に拠点をおいていた牛込氏・牛込城にちなむと思われます。この辺りは牛込(飯田橋)から四谷にかけて広い谷があった場所を利用して外堀を築いており、防御のため堀幅を広くしているといいます。門は1871年(明治4年)に撤去されました。赤坂見附から牛込橋にいたる堀や土手の遺構は、1956年(昭和31年)3月26日に、江戸城外堀跡として国指定史跡になっています。ここにある直方体の石は、牛込門の基礎として地中に設置された石垣石です。はす向かいの富士見教会の建て替えがあった際に敷地内から発見され、ここに移設しました。石の側面には「□阿波守内」という銘文があり、蜂須賀家(阿波守)が牛込門の石垣工事を担当したことを裏付けています。」「牛込門」 1871年(明治4年)撮影。江戸城を取り巻く地形と文化財「千代田区町名由来板 富士見二丁目」案内板。「千代田区町名由来板 富士見二丁目江戸城の名残である外堀(外濠)に面したこの界隈は、武家の屋敷が立ち並ぶ地域でした。当時、武家地には正式な町名がなく、道筋に土手四番町、裏四番町通などと呼称が付いていただけでした。「富士見 」という町名が生まれたのは明治五年(1872)のことで、九段坂 を上ったあたりから眺める富士山の姿がじつに素晴らしいことから付けられた名前です。九段坂を上りきった台地(現在の靖国神社 周辺)に富士見町一~六丁目が誕生しました。昭和八年(1933)、富士見町四丁目は富士見町三丁目と改称します。同じ年、富士見町五丁目と飯田町六丁目の一部が合併し、富士見町二丁目となりました。そして昭和四十一年(1966)、住居表示の実施にともない富士見町二丁目と富士見町三丁目、飯田町二丁目の一部が合併して、現在の富士見二丁目が誕生したのです。現在、当町会は東西に約八百メートルの長さがあり、東京のお伊勢さまといわれる東京大神宮 をはじめ、衆議院議員宿舎など、名のある建物が多数存在しています。また、大学や病院などの教育・医療機関も充実しています。JRと四本の地下鉄が走るきわめて交通の便がよい立地で、緑が多く、住むにも働くにもよい町です。図上「富士見二丁目」界隈(平成15年・2003)図下「富士見二丁目」界隈(安政三年・1856) 富士見二丁目町会」「牛込橋」を見る。飯田橋駅側の牛込見附の石垣を見る。右手にあったのが「日本歯科大学附属病院」。校庭内に。樹木の廻りに円形の年表が敷設されていた。中心から、時計回りに輪を描くように時代が変わる。飯田橋周辺の歴史が描かれているようであった。「旗本屋敷跡」碑。旗本 富永権左衛門の屋敷跡。「下乗」と刻まれた石碑が見えた。水場であろうか?「旗本屋敷跡」案内板「旗本屋敷跡この場所は、江戸城外郭の牛込門内にあたり、富永権左衛門という旗本が幕末まで代わることなく屋敷を拝領していました。現在の番町・麹町一帯は徳川氏が旗本を配置して以来、旗本たちの集住する町として幕末に至っています。この石碑は、富永邸に由来すると見られるものです。正面に刻まれた「下乗(かじょう)」の文字は、道教の神を意味する言葉です。日本歯科大学附属病院の竣工にあたり、昭和40年代前半までこの地にあった旧富永邸長屋門は山形県に移築されたため、石碑は武家生活の一端を物語る唯一の痕跡として大切に保存されています。」地図にも「富永八五郎 五百石」の屋敷が描かれていたが。「旧富永邸長屋門」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・iPhone 15 香港版 A3092 海外SIMフリースマホ【アルミボディでカラーも豊富・Type-Cケーブルへ変更・4.8MPメイン2眼カメラ搭載】
2023.10.12
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「築土神社」を後にして「目白通り」を飯田橋駅方向に引き返す。左手前方に「東京大神宮」と刻まれた大きな石柱が現れた。近づいて。「東京大神宮」への「大神宮通り」は無電柱化工事が行われていて、電柱、電線が全て撤去され、舗装の美装化もされていた。そして「大神宮通り」を進み「東京大神宮」👈リンク前に到着。千代田区富士見2丁目4−1。ここにも「東京大神宮」と。「東京大神宮」配置図。立派な「神門」。「東京大神宮御祭神 天照皇大神 [あまてらすすめおおかみ] 豊受大神 [とようけのおおかみ] 天之御中主神 [あめのみなかぬしのかみ] 高御産巣日神 [たかみむすびのかみ] 神産巣日神 [かみむすびのかみ](造化の三神) 倭比賣命 [やまとひめのみこと](天照皇大神の御杖代 第十一代垂仁天皇皇女)御鎮座 明治十三年四月十七日御由緒 明治天皇のご裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治十三年に創建された 当社は、最初日比谷の地に鎮座していたことから、世に日比谷大神宮と称されていました。 関東大震災後の昭和三年に現在地に移ってからは、飯田橋大神宮と呼ばれ、戦後は社名を 東京大神宮と改め今日に至っております。 「東京のお伊勢さま」と称えられ親しまれているのは、伊勢両宮(内宮、外宮)のご祭神で ある天照皇大神(日本国民全ての祖神)と豊受大神(農業、諸産業の守護神)のご分霊を 奉斎していることによります。 また天地万物の生成化育つまり結びの働きを司る「造化の三神」が併せ祀られていることから、 縁結びに御利益のある神社としても知られ、良縁を願う人々の参拝も多く、その御神徳は実に 広大無縁といえます。 さらに日本で最初の神前結婚式を執り行った神社であり、現在も神前において伝統的な結婚の 儀式を守り伝えております。」「日本人の心のふるさとがいつもここにある伊勢神宮変わらないためにかえることー第六十ニ回式年遷宮 平成二十五年秋 斎行」と10年前に斎行されたことが解るのであった。「ご縁を結ぶ四社巡り」案内。期間は令和5年8月31日迄と、この日の翌日迄であったが。4社とは東京大神宮(東京都千代田区)氷川神社(埼玉県川越市)嚶木神社(千葉県野田市)来宮神社(静岡県熱海市)鳥居の右手に手水舎。手水の横からは湧き水が流れ出ていた。神門手前の右手に境内社が御鎮座。飯富稲荷神社 (いいとみいなりじんじゃ)。「飯富稲荷神社明治初年日比谷大神宮鎮座に際しその境内に奉斎され昭和3年(1928)10月にこの地に奉遷今日に至っております。衣食住と商売繁昌の守護神「稲荷大神(いなりのおおかみ)」と土地の守護神「大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)」を祀っています。主な祭典として毎年2月の午の日に初午祭が8月15日には夏の大祭が斎行されます。また不出世の名優と謳われた9代目市川団十郎丈が篤い信仰を寄せていたことから芸能の神様としても崇敬されております。」「秀山祭九月大歌舞伎」👈リンク ポスターが。近づいて。「神門」には神紋「十六八重表菊に花菱」が。十六八重表菊は天皇家・皇室の紋としてあまりに有名、パスポートの表紙に使用されている。日本国の事実上の国章として扱われ、国外に設置された公館の紋章に用いられている。花菱は伊勢神宮の神紋。強烈な組み合わせ!!なのであった。石畳の先には拝殿が見えた。正面に「拝殿」。「拝殿」にも神紋「十六八重表菊に花菱」が。境内にはミスト発生装置が何箇所かに。裏から。拝殿。内陣。授与所。授与所で御朱印をお願いしました。屋外のミスト発生場所の下で御朱印の出来上がりを待つ。休憩所から授与所を見る。朱印帳引換券。そして御朱印を頂きました。「東京大神宮 マツヤサロン」。明治13年に創建されたここ東京大神宮は、「東京のお伊勢さま」と称され親しまれている由緒ある神社。神前結婚式を創始したことでも知られています。日本の伝統を大切にした本物の神前式がかないます。加賀百万石の旧前田侯邸を移築した「神路の間」のほか、自然光あふれる「五十鈴の間」など、4つの披露宴会場を用意。高級食材を使用した伊勢懐石や華やかなフランス料理など、至極の美食で大切なゲストへのおもてなしがでできると。館内1F。館内のモニュメント。巨大な生花。館内から入口方向を見る。そして外に出て絵馬掛けを見る。スズランと山百合の花か?組紐。「心結び、縁結び、幸結び」と。重厚感のある神明造り。交通が普及していなかった江戸時代、一生に一度は伊勢神宮へ参拝することが当時の人たちの憧れであった。その夢を叶えようと伊勢神宮の遥拝殿(ようはいでん)として明治時代に創建されたのがこの東京大神宮と。東京にいながら伊勢神宮を参拝でき、同様のご利益を得ることができると信じられていたと。伊勢神宮と同じ神明造(しんめいづくり)という建築様式の社殿は、ヒノキなどの木材を主に使って建てられ、年月と共に色が濃くなり、重厚感と柔らかみが感じられるのであった。社殿の屋根や賽銭箱の装飾部分にはイノシシの目をかたどった猪目(いのめ)という文様が刻まれていて、これがハート型にそっくり。境内の色々な場所に♡が。9月23日に開かれた「神楽祭」のポスター。若い女性が次々と授与所で御札や御守りを購入。「御神木」。東京大神宮の「御神木」は拝殿の前、せせらぎの水辺にある椎(しい)の木。「日本人の心のふるさと 伊勢神宮にお参りしましょう」。伊勢の神宮は、阜室の御祖神(みおやがみ)、また日本人の総氏神でもある天照大御神をおまつりする内宮(皇大神宮)と、私たちの生活に欠かせない衣食住、広くは産業の守り神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)をおまつりする外宮(豊受大神宮)を中心としたに125の宮社の総称です。正式には「神宮」といいますが、人々の間では親しみをこめて「伊勢神宮」、「お伊勢さま」などと呼ばれています。「神宮では皇室の平安と国家の繁栄、国民の幸福をお祈りする、年間千五百回に及ぶお祭りが行われています。なかでも、もっとも重要なお祭りは、その年に収穫された新穀を最初に天照大御神にお供えして感謝の祈りをささげる「神嘗祭(かんなめさい)」です。神嘗祭は「神宮のお正月」ともいわれ、お祭りに使うさまざまな道具などが新しいものと取り替えられます。そうすることで、神さまの御力が年ごとに改まることを願います。この神嘗祭をニ十回重ねると「大神嘗祭」とも呼ばれている「式年遷宮」を迎えるのです。」「神嘗祭 内宮 奉幣の儀」の様子。「宇治橋」。内宮への入口、五十鈴川にかかる宇治橋は、日常の世界から神聖な世界を結ぶ架け橋といわれています。宇治橋の正面に立つ美しい大鳥居の姿を眺めると、すべての人々は心が洗われ、身も心も正して清浄な宮域に入る心構えの大切さを感じさせてくれます。内宮のお参りは宇治橋の前で一礼し、緑豊かな神路山、島路山の四季の移ろいを感じながら宇治橋を渡ることから始まります。ここにも「心のふるさと伊勢神宮」と。そして「東京大神宮」を後にして、「大神宮通り」に出て「飯田橋駅」方向に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・iPhone 15 香港版 A3092 海外SIMフリースマホ【アルミボディでカラーも豊富・Type-Cケーブルへ変更・4.8MPメイン2眼カメラ搭載】
2023.10.11
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そして「中坂」を「目白通り」方向に下っていくと、右手にあったのが「築土神社(つくどじんじゃ)」。千代田区九段北1丁目14−21。社号標石「築土神社」狛犬(右・阿形)。平成6年新社殿起工に伴い、前田建設工業(株)と(株)室橋組より奉納されたものである(彫刻家・籠瀬満夫作)。狛犬(左・吽形)。掲示板。「夏の日に 咲き広ごれる 稲の花 実りの秋へと 明るみてくる皇嗣殿下 ー宮内庁 令和三年歌会始 お題「実」」秋篠宮さまのお歌。「千代田区 都市景観賞」。築土神社の鳥居は「明神鳥居(みょうじんとりい)」という型の鉄製で、その上空には、「武道の神様」である平将門公の御威光にあやかった長さ5メートル程の巨大な剣が掲げられているとのことであったが、その姿は確認できなかった。。また、鳥居の両脇には籠瀬満夫氏作の狛犬が置かれ,左脇には当社の神木として「モチの木」を植栽。「モチの木」は常葉樹で、一年を通して緑色に輝き、葉が落ちないことから、縁起が良いとされ、商売繁盛や身心健康を願う人々に親しまれている。参道左側には毎年正月と九月の年二回、氏子各町の住人や企業等の協賛により堤燈が掲げられ、ライトアップされる(一燈6000円。毎年8月上旬に募集)。社務所を含むビル全体の外観は壮麗で、平成7年(1995年)に千代田区の都市景観賞を受賞している。築土神社境内案内図。ビルの柱の下の参道を進む。「安永九年銘の狛犬(右・阿形)」。「安永九年銘の狛犬(左・吽形)」。横から。台座には「安永九年(1780年)庚子十一月」の文字が刻まれていた。「狛犬」案内板。「狛犬千代田区指定文化財1996年(平成8年) 4月1日指定1780年(安永9年)元飯田町の人たらによって奉納された狛犬て、年代が明らかなものとしては千代田区内て最古となります。元飯田町とは1697年(元禄10年)の火災後の町地整備ののちにできた町名で、現在の富士見一丁目及び九段北一丁目付近にあたります。社伝によれば築土神社は、940年(天慶3年)に武蔵国豊島郡上平川に祀られたのち、田安、牛込門内、牛込門外の筑土山と所在地を変えて、1954年(昭和29年)に現在の場所へ戻ってきました。狛犬が奉納された1780年(安永9年)当時は、牛込門外の筑土山(現在の新宿区筑土八幡町2番地)に神社が所在していた時期ですが、離れた場所にあってもなお、旧所在地の元飯田町の人々が篤く信仰していた様子がうかがえます。」手水舎。龍の吐水口(とすいこう)。龍は水の守り神であるとの説があり、そのため龍をあしらった吐水口が数多く見られるのだ。龍ノ口、龍蛇口、吐水龍、龍神様などとも呼ばれているとのこと。右手に「築土神社社務所」。「拝殿」。現在の築土神社の社殿は、一見、住吉造であるが、一部に神明造風の構造を取り入れた独特の様相を呈している(いわば、住吉造と神明造の融合型である)。特に高さと奥行があり、円形の宮柱とむき出しのコンクリートが、社殿の荘厳さに一層の磨きをかける。社殿手前左側には おみくじ自動販売機を設置。屋根にそりがない。千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)をのせる。正面から。社号:築土神社(つくどじんじゃ)旧称:津久戸大明神 江戸明神 田安明神御由緒:御創建 940年(天慶3年)御祭神:<主神>天津彦火邇々杵尊 <相殿>平将門公 菅原道真公屋根の中央には鳳凰が。扁額は「筑土神社」。築土神社は940年(天慶3年)6月、関東平定後、藤原秀郷らの手で討たれ京都にさらされた平将門公の首を首桶に納め密かに持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現・千代田区大手町周辺)の観音堂に祀って津久戸明神と称したのが始まりで、江戸城築城後の1478年(文明10年)6月には、太田道灌が江戸城の乾(北西)に当社社殿を造営。太田家の守護神、そして江戸城の鎮守神として厚く崇敬された。1552年(天文21年)11月には、上平河村内の田安郷(現在の九段坂上からモチノキ坂付近)に移転。当時の境内地は極めて広大でその地名を冠して田安明神とも称し、山王(日枝神社)、神田(神田明神)とともに江戸三社の一つに数えられ、江戸庶民の崇敬の的となった。然るに1589年(天正17年)徳川家康江戸入城の際、江戸城拡張(二の丸等築造)のため下田安牛込見附米倉屋敷跡(現在のJR飯田橋駅付近)へ、さらに1616年(元和2年)には江戸城外堀拡張のため新宿区筑土八幡町へと移転し、築土明神と改称した。天保年間「江戸名所図会」の「築土神社境内」(左側)。以後、徳川幕府との関係は親密となり、1654年(承応3年)2月、江戸城二の丸にあった東照宮(徳川家康之霊)の社殿を築土明神境内へ移築。1657年(明暦3年)明暦の大火の際には、幕府より唐金水桶 ・金燈籠 ・銅瓦等の奉納援助金を受けた。1634年(寛永11年)4月に記された『要用雑記』にも、「津久戸は御城内氏神につき、春日殿御取次ぎを以って御上様へ御札御守、差上げ候」「正、五、九月、津久戸明神神前に於いて御上様御祈祷仕る」と記されている(「春日殿」とは三代将軍家光の乳母で当時の大奥を取り仕切り、築土神社氏子内の江戸城北の丸に屋敷を構えていた)。徳川幕府終焉後の1874年(明治7年)、氏子の請願により天孫降臨の神 ・天津彦火邇々杵尊を歓請し築土神社と改称。1907年(明治40年)9月には幣帛供進社(村社)に指定された。同地に鎮座すること実に328年の長きに及ぶも、1945年(昭和20年)4月、戦災により社殿 ・社宝その他悉く全焼し、翌1946年(昭和21年)9月、千代田区富士見へ移転。さらに1954年(昭和29年)9月、九段中学校(現・九段中等教育学校)建設のため再び立ち退き余儀なくされ、現在地(九段中坂)にあった世継稲荷神社の敷地内へ移転し新社殿竣工。1990年(平成2年)9月には鎮座1050年記念大祭を斎行した。1994年(平成6年)5月、社殿老朽化に伴い社殿・社務所の大改築を実行し地上8階(地下1階)建てのビルが完成(千代田区都市景観賞受賞)。社殿もコンクリート壁の現代的な神社となった(この時、境内にあった末社の木津川天満宮より築土神社の「相殿(あいどの)」に菅原道真公を配祀)。ビル名は「アイレックスビル」と名付けられたが、「アイレックス」とはモチの木を意味し、かつて築土神社が九段坂からモチの木坂に至る田安の地に鎮座していたことにちなんでこの名が付けられた。参道入口にはビルのシンボルとしてモチの木が植えられている。明治38年 『明治東京名所図会』の築土神社鳥居(左側)右手にあったのが「世継稲荷神社」。朱の鳥居が並ぶ。朱の幟も。拝殿。扁額「世継稲荷」。斜めから「世継神社」を見る。手前に天水桶。天水桶は1818年(文政元年)、元飯田町(現・九段北一丁目及び富士見一丁目周辺)の氏子により奉納された。「文政元年戊寅十一月吉日 奉納元飯田町」の銘がある。天水桶には将門公の「繋馬(つなぎうま)」が彫刻されているが、伝説では、将門が挙兵した時、突然空に一筋の稲妻が走り落下して黒馬に変わると、将門はこれに乗り戦場を縦横無尽に駆け巡ったとされる。「繋馬」は家紋や社紋として使用されることも多く、当社でも拝殿の門帳には「繋馬」を神紋として用いている。「山本社司之碑昭和20年(1945)3月10日 戦災に 御神体を抱持も此の地に歿す十年祭に建立 世継稲荷講総理大臣 鳩山一郎書」昭和20年(1945年)3月10日は東京大空襲があった日です。従って、碑文中の戦災とは東京大空襲を指します。お守り、御札案内。拝殿を再び。拝殿を見上げて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・iPhone 15 香港版 A3092 海外SIMフリースマホ【アルミボディでカラーも豊富・Type-Cケーブルへ変更・4.8MPメイン2眼カメラ搭載】
2023.10.10
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「九段北一丁目」交差点の角にあったのが「滝沢馬琴 硯の井戸」石碑。千代田区九段北1丁目4−5付近。「滝沢馬琴 硯の井戸滝沢馬琴は安政五年二十七歳のときから文政七年十八歳までこの元飯田町に住みました。ゆかりの井戸がこの中坂下に残っています。自ら曲亭馬琴と号して南総里見八犬伝、椿説弓張月、俊寛僧都島物語等の多くの読本を残しました。」。この井戸で馬琴が硯(すずり)に水を汲み筆を洗っていたことから、「硯の井戸」と呼ばれ、都旧跡に指定されているのだと。石碑の案内に従い、マンション入口にあった「滝沢馬琴の井戸跡」を訪ねた。正面に「都指定旧跡 滝沢馬琴宅跡の井戸」碑。千代田区九段北1丁目5。「滝沢馬琴の井戸跡東京都指定旧跡1955年(昭和30年)3月28日指定滝沢馬琴(曲亭馬琴、1767年-1848年)は江戸時代後期に活躍した戯作者で、『南総里見八犬伝』の作者としてよく知られています。馬琴は1790年(寛政2年)に山東京伝(さんとうきょうでん)のもとへ入門し、翌年大栄山人(おおえさんじん)の名で、デビュー作『尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきょうげん)』を発表しました。1793年(寛政5年)、この場所で履物商を営んでいた会田家に婿入りし、執筆活動に励みました。「曲亭馬琴」の号を使い始めたのはこの頃で、ほぼ原稿料のみで生計を立てることができたと言われています。1824年(文政7年)に神田明神下同朋町(現在の外神田三丁目5番地)に住んでいた息子・宗伯の家に移るまで、ここに住み続けました。この井戸は馬琴が硯に水を注いで筆を洗っていたとされることから、「硯の井戸」と呼ばれていました。井戸は1923年(大正12年)の関東大震災によって失われました。」ニューハイツ九段敷地内にある滝沢馬琴邸跡には、馬琴にゆかりのある井戸が残っている。繰り返すが、馬琴が硯に水を汲み筆を洗っていたことから、「硯の井戸」とも呼ばれると。さらに「目白通り」を「九段下」交差点に向かって歩く。「九段下」交差点の右手の曲線状の建物が「昭和館」。「九段一丁目」案内板。「九段一丁目この界隈が「九段」と呼ばれるようになったのは、幕府が四谷御門の台地より神田方面に下る傾斜地に沿って石垣の段を築き、江戸城に勤務する役人のための御用屋敷をつくったことからです。その石垣が九層にも達したことから、九段という通称が生まれました。当時の九段坂は、牛ヶ淵の崖っぷちを通る細くて寂しい道で、とても勾配がきつい坂でした。しかし、一本北側を走る中坂は、この界隈で唯一の町屋が並び、御用屋敷に日用品を供給するとても賑やかな通りだったようです。さらにこのあたりは、江戸初期のころより元飯田町の町名が付き、有名な戯作者の曲亭(滝沢馬琴)が使っていた井戸や幕府の蕃書調所などもありました。その後、幾多の変遷を経たのち、関東大震災後の復興計画が行われ、昭和八年(1933年)にこの町の区画整理が完成しました。町を東西に走る大正通り(現靖国通り)や南北に走る内堀通り目白通りが拡幅整備され、都心部の重要な拠点となりました。さらに町名も、飯田町一、二丁目と同四丁目の一部を合併して九段一丁目となりました。急だった九段坂は拡幅・掘削されて勾配がゆるやかになり、ここに市電が走るようになりました。このとき九段坂は神田・両国方面と新宿・渋谷方面を東西に結ぶ幹線道路が完成となったのです。昭和四十年代中ごろまで、この坂を電車が上り下りする懐かしい光景を見ることができました。こうして江戸時代より受け継がれてきた九段坂は、激動の二十世紀の時代の流れの一端を静かに見守ってきた歴史的な坂でもあります。」「九段一丁目と曲亭馬琴この「場所」にはかつて、人の歴史よりも長い悠久の時間があったはずである。その、堆積した時間の一番うえに、現在のこの「場所」はのっかっている。その、長い長い過去の中から、たった三十年ばかりを拾ってみる。寛政五年(1793年)。山東京伝に入門を願い、その後、蔦屋の手代となった下級武士の倅が、ここ元飯田町の下駄屋に婿入りした。その男は戯作者になるという夢が諦め切れず、家業のかたわらこの場所で小説を書き始める。曲亭馬琴の誕生である。文政七年(1824年)まで、馬琴はこの地で戯作を紡いだ。馬琴が硯を洗ったという井戸も残っている。「南総里見八犬伝」も「椿説弓張月」もここで生まれた。だからどうだ、と謂われてしまえばそれまでである。現在のこの街のこの「場所」に、たぶんそんなことは関係のないことである。それでもそうした故事来歴は、平面の地図上に幾許かの高さや深さを与えてはくれる。「場所」は、必ずしも過去時間の呪縛だけで成り立っているものではないけれど、ここがそうした「場所」だったという記憶を記録に転じて示しておくことも、そんなに悪いことではないように思う。作家 京極夏彦」と。「「九段一丁目」界隈(安政3年・1856)」。「「九段一丁目」界隈(令和4年・2022)」。「昭和館」は、東京都千代田区九段南にある日本の国立博物館である。日本遺族会が運営を受託している。国民が経験した戦中、戦後の国民生活上の労苦を後世代の人々に伝えていくことを目的として、1999年3月27日に設立された。実物資料の常設展示のほか、特別企画展や図書・映像・音響資料の閲覧事業を実施している。千代田区九段南1丁目6−1古風な建物は「旧九段会館」。「九段会館」は東京都千代田区九段南に所在した施設。旧称は軍人会館。ホール(講堂)やレストラン、宿泊施設などを備え、結婚式やイベント各種などに使用されていたが、東日本大震災による天井崩落事故の影響で2011年(平成23年)4月に廃業した。2017年(平成29年)9月に財務省関東財務局が実施した一般競争入札により、東急不動産が落札した。同社は、九段会館の一部を残した上で、地上17階建て(高さ約75m)の複合ビル「九段会館テラス」に建て替え、2022年(令和4年)10月1日に再開業した。在りし日の「九段会館」の写真をネットから。「元飯田町跡」石碑。「元飯田町跡江戸に家康が来て間もない頃、このあたりを案内したのが農民の飯田喜兵衛で、ここの名主を命じられ、飯田町と名付けられました。当時17軒程の部落でした。江戸築城の大工事が進んで九段坂の両側にあった飯田町は現在の築地あたりに移転を命じられ、わずかに牛ヶ淵側に数軒を残すだけとなりました。しかし次第に旗本屋敷と交替しながら町屋を増やし、もちの木坂まで拡がって大変繁昌しました。ここを元飯田町、築地の方は南飯田町と呼びました」。再び「九段会館テラス」を見る。東急不動産と鹿島は2022年7月29日、登録有形文化財である旧九段会館を一部保存しながら建て替えを進めてた「九段会館テラス」。2021年12月に旧九段会館部分(保存棟)の保存・復元工事が完了し、オフィスなどが入居する新築棟の建設を進めた。施設の外装には全国初の環境配慮型調光ガラスを採用するなど、最新鋭の設備を導入した。施設の開業は2022年秋であったと。保存された登録有形文化財である「旧九段会館」をズームして。多くの案内標識。この日はここまでとし、「目白通り」を引き返す。左への道の先にあったのが、この後に訪ねた「築土神社」の石碑。「築土神社天慶三年(九四〇)、関東評定の末、藤原秀郷らの手で討たれ京都で晒し首にされていた平将門公の首を首桶に納めて持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現・千代田区大手町周辺) の観音堂に祀って津久戸明神としたのがはじまりで、江戸城築城後の文明一○年(一四七八)には太田道灌が江戸城の乾 (北西) に当社社殿を造営。以来江戸城の鎮守神として厚く尊崇された。」そして次の路地を左折すると長いゆるやかな上り坂が現れた。「冬青木坂(もちのきざか)」と。檎(もち)の木坂とも書くのだと。和洋女子学園前からホテルグランドパレスの南側を「目白通り」に下る坂。「冬青木坂元禄十年(一六九七)の大火後、この坂より北側には武家屋敷が広がり、南側には元飯田町がありました。坂の途中にあった武家屋敷に植えられていた古木が、モチノキであるということから名付けられました。明治時代、坂上の東門には、JR中央線の前身である甲武鉄道の建設に力を尽くし、社長を務めた雨宮啓次郎の邸宅がありました。」「目白通り」に下る坂。「冬青木坂」を上りきったT字路の右側角にあった建物。「フィリピン大使館」。内部には「駐日フィリピン大使公邸」もあるとのこと。千代田区富士見1丁目1−1。左に折れ「中坂」を上って行くと右手にあったのが「暁星学園」正門。暁星学園は、1888(明治21)年、フランスとアメリカから来日したカトリック・マリア会の5人の宣教師によって、 現在の中央区築地に創立されました。当時この地は、外国人居留地であったため、フランス人1名、ポルトガル人2名、日本人3名が入学し、6名の少人数で国際性豊かな学園の歴史が始まりました。小学校が1890年に、中学校が1920年に、高校が1948年に認可され、1951年学校法人となりました。 その後、1969年に幼稚園ができ、現在の幼・小・中・高の一貫教育がスタートしました とネットから。千代田区富士見1丁目2−5。「マリア像」。ズームして。「暁星学園」の反対側にあったのが「九段ハウス(山口萬吉邸)」。1927年に竣工し、戦後のGHQによる接収などを経て、ふたたび山口家の住まいとして使用されるようになったのは1963年のこと。以来50年余の間、家族でこの家を守り続けてきた。アーチやスタッコ壁、スパニッシュ瓦が特徴的なスパニッシュ様式の建築だ。敷地は約960m2、建物は床面積は約850m2で、壁式鉄筋コンクリート造、地下1階・地上3階建。山口家は越後は長岡藩の武士であったが、山口萬吉家(歴代萬吉)の祖は次男ゆえ、商人となり、長岡で唐物屋を営んで財をなし、江戸へ出た。その富のおかげで長岡きっての地主となったという。明治維新後は、百貨店を開いたり、石油会社や銀行の設立発起人となったりして近代化の波にしっかり乗り、その段階で、この家を建てた祖父の萬吉の代になる。萬吉は、慶應義塾大学に入り、家業のかたわら財界人として活躍した と。その先にあったのが「硯友社跡」案内板。「硯友社跡硯友社は1885年(明治18年)2月、東京大学予備門で学ぶ尾崎紅葉 山田美妙(やまだ びみょう)と、 石橋思案(いしばししあん)らによって結成された日本初の文学結社です。 同年5月には機関誌として 「我楽多文庫(がらくたぶんこ)」 を発行しました。 同誌には言文一致体小説から新体詩、狂歌などあらゆる分野の文学が掲載され、 川上眉山(かわかみびざん)、巌谷小波(いわやさざなみ)、 広津柳浪(ひろつりょうろう)、江見水蔭(えみすいいん)など同人は200名を数えました。創立メンバーの1人である山田美妙が同誌を去ると、誌名は 「文庫」 と改められます。硯友社同人の作品は広く当時の青年に受け入れられ、明治期の文壇の基礎となりました。 明治30年代以降、同人は個別の活動を始め、 硯友社としての活動は衰退します。 その後、紅葉の死を契機として現友社の活動は終わりました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・iPhone 15 香港版 A3092 海外SIMフリースマホ【アルミボディでカラーも豊富・Type-Cケーブルへ変更・4.8MPメイン2眼カメラ搭載】
2023.10.09
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首都高速5号池袋線下の神田川から流れ込む「日本橋川」沿いの桜並木を歩く。「日本橋川」は、小石川橋下流で神田川から分流し、日本橋を経て隅田川に注いでいる河川。右手に案内板があった。「讃岐高松藩上屋敷の土蔵跡」案内板。千代田区飯田橋3丁目10。「讃岐高松藩上屋敷の土蔵跡飯田橋二丁目から三丁目に広がる飯田町遺跡からは、讃岐高松藩(現在の香川県)の上屋敷跡が発掘されました。上屋敷は1706年(宝永3年)に幕府から与えられたもので、藩主が住み、政務を執り行った屋敷です。12万石の領地を支配した高松藩松平家は、初代藩主松平頼重(まつだいらよりしげ)が水戸藩2代藩主徳川光圀の兄にあたり、徳川御三家である水戸藩ゆかりの大名でした。発掘調査では御殿をはじめ庭園跡、上下水道跡、土蔵跡などが見つかっています。土蔵跡の基礎には、大きな礎石の下に木の土台が用いられていました。その礎石は、現在川沿いの遊歩道のベンチに再利用しています。」「遺跡北半(I区)の出土状況と土蔵基礎の蝋燭地業(ろうそくじぎょう)」。表面の地盤が悪い場合で、しかも良質な地盤までが浅いときは、蝋燭状の石材をたてて基礎を支持させることがある。この時の石を蝋燭石とよび、こうした地盤改良を蝋燭地業という。「日本橋川」の上部には首都高速5号池袋線が走る。その先に中央線の車輌が見えた。潮位の影響でゆっくりした流れは逆の神田川方向に。ズームして。手前が「日本橋川」に架かる「新三崎橋」その先にJR中央線そしてその先に「神田川」。「日本橋川」と「神田川」の流れ。「ガーデンタワー」と「トミンタワー飯田橋三丁目」の間の中庭・公開空地を歩く。大きな石には文字が刻まれていた。「平川の径かって、この付近には「平川」という川が流れていました。平川は江戸時代初期の大工事により、現在の神田川に流れを変え、当時の古地図にのみ名残りを留めていました。この「平川の径」は、讃岐高松藩上屋敷 の遺構 の下より発見された平川の護岸石 を用い、往時を偲ぶ小径としました。」千代田区飯田橋3丁目10。さらに広場を南方向に進む。右手にも文字の刻まれた石が。「讃岐高松藩上屋敷庭園跡かって、ここには讃岐高松藩上屋敷がありました。その庭園には景石と中島をもつ泉水があり、釣り遊びの浮きも出土しています。ここに遺跡調査により発掘された泉水の護岸石や景石をほぼ当時の位置に配し、往時の名残といたします。」千代田区飯田橋3丁目10。「平川の径」現在の日本橋川と平行するあたりに江戸初期には平川という川が流れ、その下流の江戸城正面あたりは水害に悩まされていた。そのために、平川は埋め立てられて神田川へ流されるように流路変更されたと。現在神田川は小石川橋のところで日本橋川へつながっているが、これは明治になって再び掘られたもの。屋敷の遺構の下から川の護岸石が多く発掘されたと。アイガーデンエアに平川の流れを再現した小路が作られていた。石垣から江戸前期の地形、平川の流れを感じることが出来たのであった。反対側から「平川の径」を振り返って。「東京しごとセンター(旧シニアワーク東京)」下の広場にあったパブリックアート。千代田区飯田橋3丁目10。「ひかり・空中に」伊藤隆道。流麗な螺旋形が特徴的な作品。近づいて。球体から反射した光が上空に舞い上がるが如くに。再び「目白通り」に戻る。角にあったのが「飯田橋散歩路 歴史のプロムナード」。千代田区飯田橋2丁目8。「歴史のプロムナード(プロローグ)昔々、縄文時代の頃、このあたりは波の打ち寄せる入江でした。その後、海は後退して、葦の生い茂る広い湿地となりました。徳川家康が江戸に来て大規模な築城工事が行われ、このあたりは湿地から旗本屋敷にかわりました。九段坂、中坂を中心とした元飯田町は、町人の町として 賑わいましたが、明治になって旗本屋敷の後は住む人もなくなり、一時は大変さびれました。しかし、次第に賑わいを取り戻し、現在のようなビル街に変わりました。この飯田橋散歩路に標柱を建て、この町の移りかわりを示します。」飯田橋からに九段下通じる目白通り沿いには多くの歴史の標柱や地図版が並んでいたのであった。そして「目白通り」の反対側にあったのが「徽章業(きしょうぎょう)発祥の地」石碑。徽章(きしょう)とは、主にバッジ(Badge)、メダル(medal)のこと。千代田区飯田橋1丁目7。「徽章業発祥の地この奥、大神宮通り向って左側に明治18年(1885)、鈴木梅吉により日本帝国徽章商会が創られました。これは民間の徽章業(きしょうぎょう)のはじめて、特に明治末期、大正の初期においては日本で唯一の徽章(きしょう)の製作工場として大変栄えました。現在の徽章業(きしょうぎょう)の方々の大多数は、この商会の流れを汲み、徽章業(きしょうぎょう)は飯田町の日本帝国徽章商会から生まれたといわれています。そして現在もこのあたりは徽章業(きしょうぎょう)に従事する人が沢山います。」「飯田橋むかしむかし 明治のはじめ 1872年(明治5年)」。千代田区飯田橋1丁目5−8。まだ飯田橋は掛かっていませんが、神田川の南側には屋敷が立ち並んでいる。「目白通り」を九段下に向かって進む。そしてここには「北辰社牧場跡」石碑。千代田区飯田橋1丁目5。「北辰社牧場跡榎本武揚は明治の始め、北辰社牧場をここに開きました。幕臣榎本は文久2年(1862)オランダに留学を命じられ、当時のヨーロッパ事情や法律、化学などを広く習得しました。幕府が瓦解すると榎本は指揮下の海軍をひきいて函館までも転戦しますが、黒田清隆や山田顕義らの率いる官軍の軍門に下り、捕われの身となります。しかし、彼の新知識を惜しまれて許され、新政府では幾多の要職を歴任しました。一方、旧幕臣子弟のための育英黌農業科や北辰社牧場などを作りました。最盛期には乳牛が四、五十頭もいて新しい飲物、牛乳を提供していました。」再び「目白通り」を渡り反対側に。「台所町跡」石碑。「台所町跡江戸のはじめから元禄の頃まで、飯田町紙流通センターの所に江戸城の台所衆の組屋敷がありました。そして台所頭をはじめとして、台所衆、台所者と呼ばれる役人が住んでいました。武鑑にお台所頭、四百石、たい所町、鈴木喜左衛門と記されています。その後大名や、旗本の屋敷に移り変わりましたが、なお付近は台所町の名が残りました。」その横にあったのが「千代田区 総合防災案内板」。「千代田区 総合防災案内板」現在地はここ。ここにも「飯田町」案内板が。再び、現在地はここ。「飯田町かつてこのあたりは千代田村と呼ばれるのどかな農村でした。ここに飯田(いいだ)という地名が生まれたのは、徳川家康が江戸にやってきてからのことです。天正十八年(1590年)、江戸に入府した家康は、千代田村とその周辺を視察します。このとき案内役を買って出たのが、村の住人飯田喜兵衛でした。「所(ところ)の巨細(こさい)とも申上(もうしあげ)(土地のことについて、細かく詳しく申し上げた」(『新撰東京名所図会』より)という喜兵衛の案内に感心した家康は、彼を名主に任命し、さらに地名まで「飯田町」とするように命じたのです。以来、江戸の町の開発が進み、この界隈に武家屋敷がひしめくようになっても、飯田町という名前は残りました。ただし江戸時代の武家地は町名をもたなかったため、飯田町は通称として使われていました。飯田町が正式な町名となったのは、元飯田町や周辺の武家屋敷などが、飯田町一丁目~六丁目に再編された明治五年(1872年)のことです。ここには飯田町三丁目と同四丁目などが誕生しました。昭和八年(1933年)になると、区画整理によって飯田町三丁目の東側と同四丁目の南側、同五丁目の一部などが、新たに飯田町一丁目となります。さらに、昭和四十一年(1966年)住居表示の実施により、飯田町一丁目は、飯田橋一丁目、同二丁目などに再編されました。ちなみに、目白通りに対して西側は飯田橋一丁目に、東側は飯田橋二丁目として区分けされ、現在に至っています。」現在地は「酒井備中守忠讜(ただなお)の屋敷」であったようだ。「飯田橋一丁目」交差点。この辺りに「東京女子医大 発祥の地」石碑があるはずであったが。右手は工事地中であったので、一時避難中なのか?千代田区飯田橋1丁目1。これであったが・・ネットから。「東京女子医大 発祥の地吉岡彌生は 明治33年(1900)12月5日、この地にあった 至誠医院のなかに 東京女医学校を創立しました。翌34年4月、同校は牛込区市ケ谷仲之町に移転。 のちに 市ケ谷河田町へ移転して現在の東京女子医科大学に続きます。 吉岡彌生の至誠医院は明治41年(1908)に 旧飯田町四丁目31番地に移り,、関東大震災までありました。」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・iPhone 15 香港版 A3092 海外SIMフリースマホ【アルミボディでカラーも豊富・Type-Cケーブルへ変更・4.8MPメイン2眼カメラ搭載】
2023.10.08
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この日は8月30日(水)、夕方からJR飯田橋駅近くで、4年前のブルガリア・ルーマニア旅行の旅友との飲み会があるので、早めに自宅を出て、小田急線・新宿経由で飯田橋駅まで行き飯田橋駅東口に出る。目白通りを東に向かって進む。ガード下にあった、この場所の周辺の地図。目白通りの九段下方向を見る。その先、歩道左側に石碑があった。「飯田橋 散歩路(サンポーロ)この後に訪ねた「歴史のプロムナード昔々 縄文時代の頃 このあたりは波の打ち寄せる入江でした。その後 海は後退し 葦の生い茂る広い湿地となりました。徳川家康が江戸に来て大規模な築城工事が行われ湿地から旗本屋敷にかわりました。九段坂、中坂を中心とした元飯田町は町人の町として賑わいましたが明治になって旗本屋敷の後には住む人もいなくなり一時は大変さびれました。しかし 次第に賑わいを取り戻し現在のようなビル街に変わりましたこの飯田橋散歩路に標柱を建てこの町の移りかわりを示します。」千代田区飯田橋の町を南北につらぬくメインストリート 目白通り。その歩道には「飯田橋散歩路(サンポーロ)」と称する道標を兼ねた石柱が置かれていた。設置されている標柱で私が訪ねることが出来たのは順番に以下である。●東京農業大学 開校の地◯飯田橋●日本大学開校の地●東京府立第四中学校 発祥の地●國學院大学 開校の地●日本赤十字社跡●甲武鉄道 飯田町駅●歴史のプロムナード(上記)●徽章業発祥の地・銅板A●北辰社牧場跡●台所町跡◯飯田町●東京女子医科大学 発祥の地●滝沢馬琴 硯の井戸●元飯田町跡●築土神社「東京農業大学 開校の地」標柱。千代田区飯田橋4丁目9−11。「東京農業大学 開校の地明治24年(1891)、 東京農大の原点「育英黌農業科」が、当地で産声を上げました。生みの親は、逓信、農商務、文部、外務の大臣などを歴任した榎本武揚でした。明治26年(1893)、現在の中央線である 甲武鉄道の新設工事、また農場用地取得のため 大塚窪町に移転しました。」目白通り。目白通りは、千代田区の靖国通りから、練馬の関越自動車道の練馬インターに至る延長16kmの2~6車線の都道。 JR飯田橋駅前やJR目白駅前、西武池袋線の練馬駅付近を通るほか、沿道には椿山荘や東京カテドラル、日本女子大学、学習院大学、武蔵大学がある。正式名称は都道8号千代田練馬田無線(ちよだねりまたなしせん)。目白通りの反対側にあったのが「飯田橋」石碑。千代田区飯田橋3丁目6。「飯田橋江戸時代、千代田区側は外堀の城壁である土居にかこまれて、この目白通りも飯田橋もありませんでした。明治初年(1868)簡単な木橋がかけられましたが、明治14年(1881)に土居が掘切られて車の通行ができる橋になりました。明治23年(1890)には鉄製の橋にかわり、昭和4年(1929)に現在の橋がかかりました」その先にあったのが高層ビル「東京区政会館」。千代田区飯田橋3丁目5−1。「東京区政会館」は、東京都千代田区飯田橋三丁目に所在する超高層ビル。公益財団法人特別区協議会の事務所であるが、特別区相互の連絡調整を図るための場としての役割も担う。また、東京都立大学飯田橋キャンパスが入居する。特別区人事・厚生事務組合、東京23区清掃一部事務組合、東京都国民健康保険団体連合会、飲食店、歯科医院等が入居しているとのこと。この東京区政会館が完成する前は、千代田区九段北に旧・東京区政会館(現:特別区職員研修所)👈リンクがあったと。地下3階、地上21階、高さ97mの「東京区政会館」を見上げて。ビルの前にあったのが「發祥記念碑」國學院大學・日本大学の前身にあたる皇典講究所の元校地・飯田橋に置かれた碑。日本大学と國學院大學が1985年(昭和60年)に設置したと。「發祥記念碑明治十五年 有栖川宮熾仁親王を総裁としてこの地に皇典講究所創設 同所を母体に 山田顕義所長のもと明治二十二年 日本法律学校(現 日本大学)明治二十三年 國学院(現 國学院大学)を開設す石碑の左側に昭和六十年十一月吉日 建立 日本大学 國学院大学」中央に球形の赤御影石碑。その隣にあったのが「日本医科大学付属第一病院記念碑」。「日本医科大学付属第一病院記念碑七十三年の歴史日本医科大学付属第一病院は、大正13年(1924年)に千代田区飯田橋の地に、日本医学専門学校飯田橋医院として開院し、昭和6年(1931年)に当時の建築の粋を集め、近世スパニッシュ装飾を施して建てられた。日本医科大学の付属の病院として、日本の医学教育及びいりの発展に大きく貢献してきたが、平成9年9月30日(1997年)閉院した。」。千代田区飯田橋3丁目5。日本医科大学付属第一病院記念碑の碑面に刻されている写真をズームして。「千代田区町名由来板 飯田橋」。「千代田区町名由来板 飯田橋飯田橋天正十八年(1590) 、徳川家康は領主として江戸にやってきました。関東入りしてほどなく、家康は現在の飯田橋(いいだばし)周辺を視察しています。このとき案内役を買って出たのが、飯田喜兵衛(きへえ)という住人でした。喜兵衛の懇切丁寧な案内を、家康はよほど気に入ったのでしょう。視察後、彼を名主(なぬし)に任命し、さらに土地の名前まで、喜兵衛にちなんで飯田町(いいだまち)とするよう命じたのです。その後、この界隈(かいわい)は武家地となったため、正式な町名をもっていませんでしたが、「飯田町」は通称として使われ続けました。明治五年(1872年)になると、元飯田町や周辺の武家屋敷などが、飯田町一丁目~六丁目に再編されます。通称として親しまれた「飯田」は、明治維新後にようやく正式な町名となったのでした。そして昭和八年(1933年)、飯田町四丁目の北側、同五丁目と六丁目などが、新たに飯田町二丁目となりました。飯田町の北側にある江戸城外堀に橋が架けられたのは明治十四年(1881年)のことです。橋は町の名前にちなんで「飯田橋」と命名されました。その後、明治二十三年(1890年)に修築されたのち、同四十一年(1908年)には鉄橋に、昭和四年(1929年)にはコンクリート製の橋に改良され、現在に至っています。その橋の名が、町名として採用されたのは、昭和四十一年(1966年)のことです。このとき、飯田町二丁目は町中をつらぬく目白通りを境に、東側が飯田橋三丁目、西側は富士見町二丁目の一部を編入して飯田橋四丁目になりました。」「「飯田橋」界隈(安政三年・一八五六)」現在地はここ。そして「日本大学 開校の地」石碑。千代田区飯田橋3丁目5。「日本大学 開校の地明治22年(1889)、ここ皇典講究所内に維新の志士、吉田松陰門下、時の司法大臣と所長である山田顕義 により 日本法律学校が創立されました。これは、 日本大学の前身にあたります。明治28年(1895)に三崎町に移りました。」再び「東京区政会館」を見上げて。現在位置はここ。その先にあったのが「東京府立第四中學校発祥の地」石碑千代田区飯田橋3丁目5。「東京府立第四中學校発祥の地明治34年(1901)、東京府立第四中学校が、この地にあった皇典講究所で開校しました。同所は 明治15年(1882)に国学を研究する目的で設けられたもので,、明治21年(1888)に 同じ地内に開設された補充中学校が、共立中学校、東京府城北尋常中学校と名を変えて 府立第四中学校となったものです。その後、府立四中は明治37年(1904)に市ヶ谷加賀町に移転し、戦後は新宿区戸山町に移り東京都立戸山高等学校となっています。」さらにその先に「國學院大學開校の地」石碑。「國學院大學開校の地明治15年(1882)、この地、旧飯田町5丁目に国学を研究する皇典講究所が設けられました。明治23年(1890)、皇典講究所を母体として、所長山田顕義によって國學院が開校しました。現在の國學院大學です。大正12年(1923)、渋谷に移りました。」「飯田橋3丁目」の交差点を渡り少し進むとあったのが「日本赤十字社跡記念碑」「日本赤十字社跡記念碑明治十年(一八七七)西南の役の時、佐野常民は博愛社を結成し、傷兵の救護活動を開始しました。明治十九年(一八八六)、旧麹町区飯田町四丁目、現在のJR飯田町貨物駅のところに博愛社が病院を建てました。その年、日本は国際赤十字条約に加入し、翌二十年に博愛社は日本赤十字社と名を改めました。明治二十七年(一八九四)、甲武鉄道が飯田町駅を建設するため立ち退き、この地に移転、大正元年(一九一ニ)に芝に移るまでここにありました」再び横断歩道を渡り引き返したが行き過ぎ、戻って路地を左手に折れて進む。ガード手前の道を右折。進んで行くと正面に線路跡が現れた。JR水道橋駅と飯田橋駅の中間あたり、ホテルメトロポリタンとアイガーデンテラスの間のスペースに、かつての甲武鉄道の線路跡が残っていた。飯田町駅は東京側のターミナル駅で、後に国鉄の貨物駅となったが、鉄道貨物輸送の減少で平成11年に廃止になった。今は、残された線路跡がかつての鉄道の存在を伝えているのであった。明治22年、新宿~八王子間に甲武鉄道が開業し、その後に延長され、飯田町駅が開業。そこが、現在の中央線の始発駅となったとのこと。さらに、日本初の電車が運転され、その後、甲武鉄道は国有化され、昭和初期ころには飯田町駅は貨物専用駅となったとのこと。つまり、JR中央線の始まりとなった起点スポットがここであると。現在地はここ。「アイ ガーデンテラス」前から「甲武鉄道の線路跡」を振り返る。左側にあったのが「大和ハウス東京ビル」。「大和ハウス工業株式会社」グループシンボルマークはエンドレスハート。「顧客との絆、大和ハウスグループの連帯感と絆が包み込む優しいハート。メビウスの輪を想起させる造形は、絶えることのないグループの行動と、無限に続く成長・発展性を表しています。中心の正円はグループの原点であり、和を意味します。」と。「GardenAir 公開空地標示この広場及び道路は、建築基準法に基づく総合設計制度並びに同法第86条第2項の規定に基づき認定を受け設けられた公開空地で、歩行者が日常自由に進行又は利用できるものです。」1971(昭和46)年に創設された総合設計制度に基づいて、ビルやマンションの敷地に設けられた一般公衆が自由に出入りできる空間のことを「公開空地」と呼ぶ。総合設計制度は、正式には「敷地内に広い空地を有する建築物の容積率等の特例」という名称である(建築基準法第59条の2)。これは、建築物の敷地内に一定以上の公開空地を有する等の条件を満たす建築物について、容積率や各種の高さ制限を特定行政庁が緩和するという制度である。言い換えれば、容積率等をボーナスとして与えることにより、開発者に公開空地を作るように促すという制度であるということができる。この総合設計制度により作られた公開空地は、一般公衆が自由に通行できる空間でなければならず、通路や植栽を整備した快適な空間とすることが多い と。「GardenAir 公開空地」案内地図。「飯田橋アイガーデンテラス」3階テラスから甲武鉄道の線路跡を見下ろす。甲武鉄道「ゼロキロポスト」モニュメント。「1895年(明治28年)甲武鉄道始点の地」。甲武鉄道(現:中央線)年譜1889年(明治22) 新宿ーハ王子間に甲武鉄道か開業1895年(明治28) 飯田町駅か開業、始発駅となる1904年(明治37) 飯田町ー中野間か電化 御茶ノ水駅開業1906年(明治39) 国有化1933年(昭和8) 飯田町駅が旅客取扱いを廃止し貨物専用駅となる当時の「甲武鉄道飯田町駅」の写真。在りし日の甲武鉄道 航空写真 をネットから。この写真の場所にはなかった「甲武鉄道飯田町駅」石碑をネットから。探したが、残念ながら発見できず。よってこちらもネットから。「甲武鉄道飯田町駅明治22年(1889)、新宿-八王子間に甲武鉄道が開業し、同28年(1895)には市街線として延長され、飯田町駅が開業し現在の中央線の始発駅となりました。同37年(1904)我が国で始めて飯田町-中野間で電車が運転され、円板型自動信号機が設置されました。その後甲武鉄道は御茶ノ水方面に延長されました。同39年(1906)、甲武鉄道は国有化され、昭和8年(1933)に飯田町駅は貨物専用駅となりました。この奥のホテルエドモントが旧駅構内で、改札口は小石川橋側にありました。」 ・・・つづく・・・iPhone 15 香港版 A3092 海外SIMフリースマホ【アルミボディでカラーも豊富・Type-Cケーブルへ変更・4.8MPメイン2眼カメラ搭載】
2023.10.07
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続いて「西浜区の山車」。囃子手は女性三人。後ろ姿を。そして、眼の前を通過しゆっくり進む山車を見る。「東り町の山車」。「下之谷・や組の山車」。先頭は片瀬・諏訪神社の入口に到着しているようであった。山車も止まり、囃子手以外は賑やかに談笑中。私も、片瀬・諏訪神社の入口に向かって歩く。先程、目の前を通過した「山車」を再びカメラに。そして諏訪神社の神輿の横に。「新屋敷の山車」、「西片町の山車」、「西浜区の山車」が境内入場を待っていた。そして先頭の「新屋敷の山車」。「西片町の山車」。そして山車が回転・「ぶん廻し」👈リンク。通行止めのはずなのだが、大型トラックが上り車線に。再び回転する「新屋敷の山車」をカメラで追う。そして最後に「片瀬・諏訪神社例大祭」のメインの「片瀬・諏訪神社神輿」を。時間は19:42、まだまだ、境内での神輿、山車の披露が1時間ほど続くようであったが引き上げたのであった。帰路は「湘南海岸公園」駅から江ノ電を利用。そして300形の車輌が入線。1956年(昭和31年)から1968年(昭和43年)にかけて合計6編成12両がデビューした。全てが旧形⾞両を改造したもので、現役の305-355号⾞は京王電鉄の台枠を流⽤し、⾞体は東横⾞両・台⾞は東急⾞輛で新造された⾞両である。なお、同⾞両は1998年(平成10年)に制御装置及び制動装置を更新。1991年(平成3年)に306号⾞、1992年(平成4年)に301号⾞、1997年(平成9年)に302号⾞、2005年(平成17年)に304号⾞、2007年(平成19年)に303号⾞が新造⾞両に道を譲り引退しているとのこと。よって、この305号車は300形の最古老の現役車輌であろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.10.06
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そして18:20前、西の空は茜色に。空には月齢11の月。ズームして。19:10、漸くや組の囃子屋台が目の前を通過。片瀬地区では住所表記と異なる地域の呼び方がほかにもあるのだ。日常的に使われているのは「新屋敷(あらやしき)・西浜・西方・下之谷・東(とお)り町(ちょう)」で全体を「五町」と括る(くくる)。地元の商店主や昔から代々住む人たちでは一般的な呼び方で、町内会の一部でも名称として残るのだ と。「下之谷・や組」の囃子屋台。「東り町」の囃子屋台。「西浜区」の囃子屋台。「西方町」の囃子屋台。「新屋敷」の囃子屋台。そして「片瀬諏訪神社」。「諏訪神社」と書かれた提灯が一対。その後に「右三つ巴」紋の大太鼓。「五色幕」。片瀬諏訪神社の神主さん。その後にも5張りの提灯。神官が唐櫃(からびつ)の如き木箱を担いで。そしていよいよ「片瀬諏訪神社の神輿」👈リンク が目の前に。神輿は片瀬諏訪神社に向かって。そして「新屋敷の山車」「西片町の山車」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.10.05
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さらに片瀬・諏訪神社下社の境内を散策する。片瀬の地は現在とは地形が異なり、以前は水面の覆われた大きな沼湖であり、それが諏訪湖を取り巻く諏訪の地に良く似ていたことからこの地が選ばれたと。スワとは 州端(スワ)で水辺の端に鎮座した所から名付けられました。「札納所」。「祖霊社」鎌倉尋常高等川口小学校(現・片瀬小学校)に昭和4年に建立された御真影奉安殿を移築したもの。「祖霊舎日清日露の戦争及び支那事変大東亜戦争に片瀬江の島から出征して尊き命を捧げられた百七十七柱の英霊が奉祀されています。」近づいて。内陣。OneCUP、野菜や果物が手向けられていた。「本殿」を横から見る。廻り込んで反対側から「本殿」を見る。「社務所」。奥に「授与所」。様々なお守りや御札が。拝殿、本殿を振り返る。そして正面からも。ニの鳥居の左側奥にあった「道祖神」碑。右に「石祠道祖神」。中央に手を握り合っている「男女双体像」。その左隣に庚申塔「青面金剛(合掌6手標準型)」。一番左にも「石祠道祖神」、内陣には???そして再び境内の屋台の出店を楽しむ。幟用柱の見事な龍の彫刻。近づいて。湘南界隈に出没する人気のたこ焼き屋台「湘南宮だこ」。大きなタコがごろり!生地は表面がカリッと中はとろっとろの絶品B級グルメ!縁日といえば「お面屋さん」!。大鳥居が前方に。ここにも幟用柱の彫刻。今年の干支「癸卯(みずのと・う)」。2023年の「癸卯」の干支でいう意味十二支や十干は数や方角だけでなく、それぞれ独自の意味を持っています。例えば「癸」が持つのは第10位であり、物事の終わりと始まりを意味する他、「揆(はかる)」という文字の一部であることから「種子が計ることができるほどの大きさになり、春の間近でつぼみが花開く直前である」という意味だと言われています。「卯」はもともと「茂」という字が由来といわれ「春の訪れを感じる」という意味、また、「卯」という字の形が「門が開いている様子」を連想させることから「冬の門が開き、飛び出る」という意味があると言われています。この2つの組み合わせである癸卯には、「これまでの努力が花開き、実り始めること」といった縁起のよさを表しているといえるのだと。神輿用の台車が境内に戻って来ていた。台車にも彫刻が。近づいて。そして仮宮に納まって。「諏訪神社」と書かれた大きな提灯。諏訪神社は全国に10000社近くあるとされるが、上社・下社を備えているのは信濃国諏訪の信濃国一之宮の諏訪大社とここ片瀬の諏訪神社のみといわれていると。片瀬諏訪神社の創立は、養老7年(723)に諏訪大社の分霊を勧請したのが始まりで、両社は別の地にあったが、上社は天長3年(826)に、下社は弘仁3年(612)に現在地に移された。社殿は、元弘3年・元徳4年(1333)に新田義貞の鎌倉攻めにより類焼し、安永7年(1778)に改修された。その後、甘糟豊太郎・三郎・四郎の三兄弟が社殿を造営・整備した。ご利益:古くは狩猟の神として崇められてきたが、のち農耕神、武神として信仰されていると。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.10.04
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この日は8月27日(日)。妻と片瀬で行われている諏訪神社の例大祭を訪ねました。妻は子供の頃、江ノ島電鉄江ノ島駅の近くに住んでいたため、この祭りは子供の頃の懐かしい祭りなのです。小田急藤沢駅から江ノ電に向かう。藤沢駅の江ノ電に向かうコンコースで見かけた「手回しオルガン」👈リンク での演奏デモ。ハンドルを手で回して演奏をすることにより、オルゴールのようにあらかじめ用意された旋律を奏でることが可能な自動演奏楽器。このオルガンは装着した折り畳み式のブックに打ち込まれた穴に空気が送り込まれ、木管パイプを抜けて音が出るとのこと。左右に打楽器も。この「手回しオルガン」を自作し、イベントや公共施設等で演奏を行うのは星道也さん(秦野市西田原在住)とのこと。手回しオルガンは小さいものは18〜27鍵盤が多いそうだが、星さんのはその1・5倍の43鍵盤。バイオリン・ブルドンセレッセ・ビブラフォンの3色の音色に切り替えられ、19本×3種のメロディーと10の和音、9つのバスを持つ。打楽器も備え、ザ・ミュージアムMATSUSHIMAの大型の手回しオルガンと同じ規格の楽譜が演奏可能という。楽譜は主に、海外に制作を依頼しており、手回しオルガンを見に行った際に知り合った楽譜作成の機械を持つ人に自ら作った楽譜データを送り取り寄せているのだ とネットから。 江ノ電藤沢駅のホームから。2023年3月より5月にかけて、藤沢駅から江ノ島駅にかけて装飾されたアート。ホームの端に旅人を見送る町娘を描くことで乗客の旅行気分を高め、降車ホームの壁面には宿場町を描くことで和の要素を取り入れ外国人観光客にも楽しめるような意図を込めているのだと。そして江ノ電江ノ島駅に到着。下之谷の山車が、国道467号「江ノ島駅入口」交差点の手前で出番を待っていた。囃子手も小太鼓を。諏訪神社・下社に向かって国道467号に沿って歩く。「御神燈?」。この紋は諏訪大社の神紋「丸に立ち梶の葉」に似ているが。「下之谷町花代 御芳名」板。西浜区の山車も集合場所の龍口寺に向かっていた。囃子手の太鼓は2人の女性が。そして片瀬・諏訪神社下社前に到着。社号標石「諏訪神社」。幟「諏訪神社」。出店が参道両脇に。その先に「大鳥居」が。石造りの「大鳥居」を見上げて。出店は多くの子供たちで賑わっていた。正面に「仮宮」8月23日(水)に神輿庫から出た神輿はこの仮宮にて8月27日(日)朝の「浜降式」を待つのだ。両側に黄金の獅子が一対。左。神輿を守っていたのであろう。右。「五色幕」。参道を振り返る。「頌徳碑」。當氏神社は距今千二百年前養老七年三月信州諏訪大社より勧請思赖を無窮に給ひ郷内の崇敬極めて篤し偶明治甲申の災禍は不圖も上下兩社の社殿を倒潰す再建上社成りて下社成らざること久し甘粕五郎右衛門翁感慨殊に深く至誠以て其の再興を決意し事半にして命を終わるや森太郎淺五郎吉三郎三子に能くその旨を傳え◯願の達成を遺言す三氏精勵特にニ弟は海運産業に成功し頭角を現す時恰も皇紀二千六百年の佳節を迎へ亡父の遺志に應へ神助の奉賽に巨戝を投じて下社再興の任を果す即ち荘嚴なる社殿を改築し社務所を新築し神域を擴張し參道を設けて雄渾なる鳥居社標石燈籠狛犬等を奉献し以て社頭の面目を一新するに至る赫々光彩更に著し茲に父子敬神の美徳を稱へ崇神至考の美学を讃え功績を刻み以て後世に傳ふと云爾皇紀二千六百年二月片瀬町長 林吉次郎社司 相原直八郎【当氏神社は、約1,200年前、養老七年三月に信州諏訪大社から神を勧請し、郷土の人々によって非常に崇敬されていました。しかし、明治時代の甲申年に大きな災禍が訪れ、上社も下社も社殿が崩れてしまいました。その後、甘粕五郎右衛門氏は深い感慨に駆られ、心から再建を決意しました。彼は命を捧げて再建の計画を進め、最終的にはその遺志を三人の子供たちに伝えました。特に二人の弟は海運産業で成功し、父の遺志を叶えました。そして、皇紀2,600年の節目に、亡き父の遺志に応えるべく、神助を仰ぎながら下社の再建に着手しました。彼らは厳かな社殿を建て替え、社務所を新しく建設し、神域を拡張し、参道を整備し、立派な鳥居や社標、石灯篭、狛犬などを奉納し、神社の顔を一新しました。その輝かしい業績により、父子は神を敬い、美徳を称え、美学を尊び、後世にその功績を伝えることとなりました】石燈籠(右)。石燈籠(左)。「上社」👈リンク へのご案内。上社の祭神:八坂刀売命(やさかとめのみこと)。ニの鳥居。地上に置かれていた扁額。「大鳥居扁額昭和十五年建立の一の鳥居 御影石製社号額重量一トン余りを以ち永く掲げられしが安全を期し新設の台座に奉安し後世に伝承致す寄進者 甘糟汽船株式会社 株式会社甘糟商店揮毫 神奈川県知事 飯沼一省」「諏訪神社」案内板。「諏訪神社御祭神 上社 建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)(大国主神の御子神) 下社 八坂刀売命(やさかとめのみこと)(建御名方神の祀神)御神紋 梶の葉 上社四本梶 下社五本梶長野県諏訪大社(御本社)は、上社下社から成り、古代より著名な神社として知られ、水の神風の神、ひいては生活の根源神として崇敬されています。神名のタケは、強く正しい威霊を表わし、その神威を称えて朝廷は素より、鎌倉時代には源頼朝公をはじめ、北条氏等武家の信仰が極めて篤く、次第に諏訪神社の御分霊が諸国に奉遷され、郷村の守護神又は氏神として拡まりました。当社も御本社の御分霊が上下両社に御分祀されており、御分社は全国数千社に達します。御本社同様に両社御鎮座の形態は極めて稀であります。現在の御社殿は、下社が昭和十四年に、上社は昭和五十九年にそれぞれ御改築されました。殊に上社社殿左右の脇障子の彫刻は、長野県乙事村鎮座諏訪神社(旧諏訪大社社殿-国宝指定)の彫刻を模し、飛騨高山の伝統工芸士により御神紋梶の葉が見事に施されています。上下両社を御参拝され、お諏訪様の有難い御神徳をお受け下さい。 例祭日 八月二十七日」「令和五年 御鎮座300年例大祭 8月23日(水):仮宮出御祭、上社奉告祭 8月26日(土):宵宮祭 8月27日(土):浜降祭、例大祭、神幸祭、神輿渡御 8月28日(月):仮宮還御祭、上社奉告祭」左手に「神輿庫」。扁額「神輿庫」。手前に狛犬、正面に拝殿。狛犬・右(阿形)。狛犬・左(吽形)。幟「奉祝 御鎮座千三百年 片瀬諏訪神社」。前方に「茅の輪くぐり」。「茅の輪くぐり」とは、参道の鳥居などの結界内に、茅(ちがや)という草で編んだ直径数メートルの輪を作り、これをくぐることで心身を清めて災厄を祓い、無病息災を祈願するというもの。日本神話のスサノオノミコトに由来するといわれ、唱え詞を唱えながら8の字に3度くぐり抜けます。1周目:正面でお辞儀、左足で茅の輪をまたぎ、左回りで正面に戻る2周目:正面でお辞儀、右足で茅の輪をまたぎ、右回りで正面に戻る3周目:正面でお辞儀、左足で茅の輪をまたぎ、左回りで正面に戻る正面でお辞儀、左足で茅の輪をまたぎ、参拝へ茅の輪くぐりのときには、神拝詞(となえことば)を声に出さずに唱えます。代表的なものは以下のようなものです。「祓い給へ 清め給へ 守り給へ 幸え給へ」(はらへたまへ きよめたまへ まもりたまへ さきはえたまへ)拝殿正面。中央の提灯には根が4本で「諏訪梶・四本梶」と呼ばれる「四本足三つ梶の葉」の紋が。この梶の葉紋は「諏訪大社」の神紋として平安時代から地元に伝わっていると。これは片瀬諏訪神社では「上社」の紋である。後方のここ下社拝殿幕は根が5本で「五本梶」と呼ばれる「明神梶の葉」となっているのであった。片瀬諏訪神社は、諏訪大社を勧請して養老7年(723)に創建、村岡五郎義員や源頼朝公、北条氏など歴代武家の崇敬を受けてきたといいます。片瀬の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格していました。境内社。「白山神社、山王社、第六天」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.10.03
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この日は9月29日(金)は「中秋(ちゅうしゅう)の名月」。天候が心配でしたが、なんとか満月の姿を我がデジカメで写真に収めることが出来ました。「中秋の名月」とは、旧暦8月15日の十五夜にお月見をする習わしのこと。旧暦では7、8、9月を秋としており、その真ん中である「8月15日」を中秋、そして、その晩に上がる月のことを「中秋の月」と言っていました。更に、この頃の月が一番綺麗に見えるということから「中秋の名月」と言われるようになったそうです。今年・2023年は9月29日(金)が中秋の名月。太陽暦に基づき決まるものなので中秋の名月の日は毎年日付が変わり、2024年は9月17日(火)、2025年は10月6日(月)が中秋の名月と先の日も決まっているとのこと。子供の頃の我が生家でも、この日は縁側に木性の和風机を置いて、ススキ、団子、自家製の野菜を竹籠に入れて飾っていたことを想い出したのであった。そう!!こんな感じに!!(写真はこれもネットから)さて、これまで中秋の名月について説明をしてきましたが、「十五夜」とはどのような意味?十五夜とは旧暦で新月の日から数えて15日目の夜のことで、旧暦における毎月15日の夜のことを十五夜と呼びます。そのため中秋の名月と十五夜の違いとしては、中秋の名月は年に一回だけで、十五夜は毎月来るものという違いがあるのです。ちなみに、お月見行事は十五夜だけではなく、「十三夜」と「十日夜(とおかんや)」と呼ばれるものもあり、3つの月見を合わせて「3月見」と言うとのこと。十三夜とは、十五夜の後にやってくる旧暦9月13日(10月27日(金))のお月見のことであり、十日夜とは、旧暦10月10日(11月22日(金))に行われていた収穫祭のことであると。中秋の名月=満月ではない?実は中秋の名月が満月とは限りません。寧ろ、満月とは同日にならない年が多数を占めています。その理由として「月の軌道は楕円状」👈リンク であることが挙げられます。旧暦は新月から満月までをおよそ15日として数えます。しかし実際のところ、月の満ち欠けの周期は一定ではありません。月によっては15日を待たずに満月となることがあれば、15日を過ぎてやっと満月ということもあります。これは、月の公転軌道が楕円形であり、新月から満月までにかかる日数が最大で15.6日、最小で13.9日と大きく変化するためです。我がデジカメでズームして、これが我がデジカメのズームの限界。「中秋の名月が満月に成らない年がある理由を詳しくおしえてください」と対話型AI(チャットAI)の【ChatGPT】に問いかけてみました。【ChatGPT】の答えです。『中秋の名月が満月にならない年がある理由は、太陰太陽暦というカレンダーシステムの特性に関連しています。太陰太陽暦は、太陽の年(365日)と月の周期(約29.5日)を組み合わせて、暦を計算するシステムです。以下に、この現象の詳細を説明します:1.月の周期と太陽の周期の不一致: 月の周期(約29.5日)は、太陽の年(365日)とは異なります。 太陽の年と月の周期が整数の倍数ではないため、太陽年を基準にするグレゴリオ暦(西洋暦) とは異なり、太陰太陽暦では月の長さが一定ではありません。2.閏月の挿入: 太陰太陽暦では、太陽年の長さに合わせるために閏月(うるうつき)と呼ばれる 追加の月を挿入する必要があります。閏月は通常、13ヶ月の年になり、それによって月の 周期を調整し、太陽年との整合性を保ちます。しかし、閏月の挿入にも制約があり、 中秋の名月が満月になることを保証するものではありません。3.中秋の日付の固定: 中秋の名月は、太陽の年ではなく、農暦の8月15日に祝われます。 この日付は太陽の年に対して固定されており、太陰太陽暦の月の長さに合わせることは ありません。したがって、中秋の名月が満月になるかどうかは、農暦の月の長さと太陰太陽暦の調整に依存します。特に閏月の挿入が行われた場合、中秋の名月は満月になる可能性が高まりますが、それでも100%保証されるわけではありません。そのため、中秋の名月が満月にならない年もあるのです。』と。同様に【新しいBing】にも聞いてみました。『中秋の名月が満月にならない年がある理由は、旧暦(太陰太陽暦)8月15日の夜に見える月のことを指す「中秋の名月」は、必ずしも満月にならないからです。旧暦は新月が必ず月初めになり、約15日かけて満月を迎えたのち、また約15日かけて新月になるまでを1カ月と数えます。しかし、月の公転軌道が楕円形をしているため、新月から満月までの経過日数は13.9日~15.6日と大きく変化します。そのため、必ずしも十五夜に満月が見られるとは限らないんだとか。旧暦15日は月齢14.0を含む日で、月の満ち欠け周期の半分は約14.8日なので、平均的には満月が後になりやすいそうです。2023年は中秋の名月が満月ですよ。』と。天体現象に詳しくない素人の私にはやや難しすぎる回答なのであった。要は、月の公転は楕円形軌道の為、軌道の位置によって公転速度が異なる(地球に近づいたときは速くなり、遠ざかると遅くなる)ので、十五夜の位置は微妙に毎回異なる?? ・・・END・・・香嵐亭
2023.10.02
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そして次に入場して来たのが『七番 中東町 浦島太郎』。釣り竿を右手で担いでいる若くてイケメンの浦島太郎。現在一般的に普及している浦島太郎のストーリーは、教科書を通じて広く国民に知れわたったもので、概ね以下のような内容である。浦島太郎という人(あるいは漁師)は、浜で子供達が亀をいじめているところに遭遇。その亀を買いとって保護し、海に放してやる(太郎は子供達をわざとつついて「お前たちは亀に同じことをしたんだぞ?」と叱る場合もある。)。2、3日後、亀が現れ、礼として太郎を背に乗せ、海中の竜宮に連れて行く。竜宮では乙姫が太郎を歓待[注 2]。しばらくして太郎が帰る意思を伝えると、乙姫は「決して蓋を開けてはならない」としつつ玉手箱を渡す。太郎が亀に乗って元の浜に帰ると、地上では700年もの年月が経過していて、太郎が知っている人は誰一人いない。太郎が忠告を忘れて玉手箱を開けると、中から白い煙が発生し、太郎は実年齢の白髪で皺だらけの老人の姿に変化する。ズームして。左側定位置に向かう。そして『八番 原町 日本武尊』。お面を被って日本武尊下で踊る姿が。ヤマトタケルは、記紀などに伝わる古代日本の皇族。 『日本書紀』では主に「日本武尊」、『古事記』では主に「倭建命」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。 第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。そして定位置へ。左から『六番 大東町 楠木正成』『七番 中東町 浦島太郎』『八番 原町 日本武尊』が並ぶ。『六番 大東町 楠木正成』をズームして。『七番 中東町 浦島太郎』をズームして。さらに。そして最後に『九番 堀川町 仁徳天皇』が入場。仁徳天皇(にんとくてんのう、神功皇后摂政57年 - 仁徳天皇87年1月16日)は、日本の第16代天皇(在位: 仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日)。『日本書紀』での名は大鷦鷯天皇(おおさざきのみこと)。4世紀末から5世紀前半に在位し、その業績から聖帝(ひじりのみかど)とも称される。鷦鷯は「ミソサザイ」とのこと。日本産の鳥では最小で、全長約一〇センチメートル。尾は短い。羽は焦茶色で暗黒色の細横紋がある地味な鳥。雄は美しい声でさえずる と。『七番 中東町 浦島太郎』、『八番 原町 日本武尊』の後ろ姿を。左側にも4基の人形山車が並ぶ。再び左から、『七番 中東町 浦島太郎』、『八番 原町 日本武尊』。『八番 原町 日本武尊』をさらに。踊り手も暑さに負けずに頑張っていました。『六番 大東町 楠木正成』を再び。原町の人形山車に掲げられていた「皇大神宮縁起」説明板。「皇大神宮縁起藤沢市鵠沼神明町鎮座勧請年月不詳であるが天長九年(八八三)第五十三代淳和天皇の御代社殿造立のことあり御祭神は天照皇大神相殿に天手力男命天太玉命天児屋根命宇受賣命石凝姥命を勧請第六十五代醍醐天皇の延喜元年(九〇一年)延喜式の撰上により当藤沢市の大字西富大鋸鵠沼が併せられて土甘郷(となみごう)となるや土甘郷總社に列せられ以来土甘郷神明宮と称された。本殿棟木に添えられた棟札によれば天喜三年(一〇五五)元亨ニ年(一三ニニ年)天正十三年(一五八五年)と再建をかさね現在に至っている。天喜年間八幡太郎源義家奥州安倍氏征討の途次立ち寄り祈願奉常あり又貞享年間(五代将軍徳川綱吉の代)寺社奉行所への言上記録に「寿永三年」即ち元暦元年(一一八四年)那須与一宗髙は源頼朝義経の不和祈願のため屋島にて扇の的を射たる一張と残りの矢を奉納し併せて領地那須百石の朱印を寄進すこの時別に伊勢三郎義盛は鶴岡八幡宮に参殿し卯花縅鎧一領を奉納し武蔵坊弁慶は府中の六所宮(大国魂神社)を参詣し烏作りの大刀一振を納めたりとかくの如く武蔵大国魂神社及び鶴岡八幡宮と並び称せられし大社にして代々の領主の崇敬もあつく土甘郷神明宮の盛名が髙かったが延享年間(九代将軍徳川家重の代)の盗難によって古記録等を失ったその後明和ニ年六月十七日(一七六五年十代将軍徳川家治の代)領主布施孫兵衛尉頼路武運長久天下泰平祈願のため参籠し◯札をあらため白絹御戸張に天照皇大神宮と謹書奉納太々御神楽を奉奏し以来毎年御祭典に御供米を奉献このことは維新まで續けられた明治元年九月征東大総督一名中務有栖川宮熾仁親王御東下の碑参拝せられ武運長久祈願のため「神明宮」の御染筆を奉納せらる明治六年十二月村社に被列明治四十年四月勅令第九十六号神社に指定せらる。例大祭は八月十五日より十七日まで三日間行なわれ十七日には湯立神楽神事及び九輌の人形山車参道等がある。前にある幟は文化拾四年人形は日本武尊」『八番 原町 日本武尊』を見上げて。右側の人形山車。左側の人形山車。各人形山車が3基ずつ中央に出て、山車の回転、お囃子の披露が次々と行われたのであった。最後の場所を移動して。4年ぶりの【皇大神宮 例大祭】👈リンク を大いに楽しんで、そして帰路に。「皇大神宮」の境内を振り返って。ところで、この日の人形山車に登場する人物の鵠沼皇大神宮との関係は如何に。頼朝・義経・那須与一は源氏の勇で鎌倉が近いので理解できた。そして楠木正成は鎌倉幕府の終焉に関与したから?日本武尊は腰越にある小動(こゆるぎ)神社に祀られているから?浦島太郎は江の島の弁財天との関係?後の仁徳天皇、神武天皇と徳川家康は?歴史上の有名な人物であることは明らかだが。 ・・・もどる・・・ ・・END・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.10.02
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そして順番に宮入する9基の人形山車のリストを再び。明治20年前後に造られた人形山車が多い事が解るのであった。3基の人形山車が入ってきた。ズームして。多くの見物客が山車の下に集って来ていた。4基目の姿も見えて来た。祝庭町の「人形山車責任者」。人形山車の高さから山車は鳥居を潜れないため、参道横にある道が山車の境内入口となる。人形山車がニの鳥居前で、境内への入場許可を待っていた。入場許可を与える「皇大神宮 人形山車責任者」と例大祭の司会者・MC(Master of Ceremonies)を務める女性。前方の人形山車の整列状況を確認する「皇大神宮 人形山車責任者」。これが人形山車の倉庫なのだ。右手に5基分、左手に4基分が。日影で人形山車の到着を待つ人の姿。「宮ノ前」の獅子舞の男性は暫し休憩中。山車を引く人々も今や遅しと。そして15時になり『1番山車 宮之前町 那須与一』が入場開始。境内広場に向かって進む。破風屋根の上には獅子舞と横笛の囃子手が。那須与一像。ズームして。集合場所の広場の真ん中に到着。お囃子の音色も激しく。凜々しい姿の那須与一像。そして定位置に。そして『2番山車 上村町 源頼朝』が境内入場。左手を掲げて狩りの姿を見つめる源頼朝。ズームして。そして広場中央に。男女の囃子手も横笛を懸命に。『1番山車 宮之前町 那須与一』が回転を始めた。源頼朝像をズームして。『2番山車 上村町 源頼朝』が定位置に向かう。『3番山車 清水町 神武天皇』が境内入場。神武天皇像。ズームして。横笛を吹く女性。定位置へと。『4番山車 宿庭町 源義経』が境内入場。源義経像。ズームして。『5番山車 苅田町 徳川家康』が定位置に向かう。1~5番の人形山車が定位置に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.10.01
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出番の時間まで待機している9台にの山車を見た後は、再び皇大神宮の一の鳥居まで戻る。一の鳥居から続く狭い参道には多くの幟が風に棚引いていた。山車の高さから山車は鳥居を潜れないため、参道横にある道が山車の境内入口となる。「皇大神宮」配置案内図。創立は天長9年(832)の由緒あるお社で主祭神は天照皇大神。明治23年(1890)に藤沢町(当時)と鵠沼村は合併しましたが、鵠沼の中心は「皇大神宮」。境内は3300坪あり、樹齢700年のタブの木や樫・ケヤキ・椎などの樹木がうっそうと茂り、その昔、カラスが群棲していたことから、この鎮守の森は「烏森」といい、「烏森神社」または「鵠沼神明宮」とも呼ばれています。この地域はかつて「大庭御厨(おおばみくりや)」といって、後三年合戦で源義家に従い手柄をたてた鎌倉権五郎景政が、この地を開発して伊勢神宮に寄進しているのだ。そして我が住む町も「大庭御厨」の一部であったのだ。参道の両脇には様々な出店が。「奉納 大神宮」と書かれた幟が並ぶ。ニの鳥居に向かって進む。「とり皮焼き」、美味そう!!そして三の鳥居前の広場に。人形山車はこの広場に集合するのだ。三の鳥居越しに皇大神宮・拝殿を見る。「相模國土甘(とかみ)郷総社 皇大神宮」 と刻まれた石碑。奈良時代の天平7年(735年)、相模国司が「相模国封戸租交易帳」を作成し、中央政府に報告した中に、ここ鵠沼付近を表す「土甘郷」が見られるとのこと。この「土甘」は「とかみ」あるいは「つちあま」とも「となみ」とも読む説があるのだと。「相模國土甘(とかみ)郷総社 皇大神宮 由緒【鎮座地】神奈川県藤沢市鵠沼神明ニ丁目十一番五号【御祭神】(主祭神) 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ) (合祀神) 天手カ男命(あめのたちからおのみこと)・天太玉命(あめのふとだまのみこと) 天字受売命(あめのうすめのみこと)・石凝刀売命(いしこりどめのみこと)【例祭】 八月十七日 人形山車九基参進 (藤沢市重要有形民俗文化財) 湯華神楽(湯立神楽)奉奏 (藤沢市重要無形民俗文化財)【由緒】第53代淳和天皇の御代天長9年(832年)創建。天喜3年(1055年)、元亨2年(1322年)、天正13年(1585年)、昭和60年(1985年)と造営を重ねられている。第60代醍醐天皇の御代、延喜式が選進された頃に、奈良時代以来称えられていた相模国土甘郷(とかみごう)総社に列せられた。また、長治元年(1104年)に到って鎌倉権五郎景政が所領の大庭荘(おおばのしょう)を伊勢神宮に御厨(みくりや)として寄進したので、大庭荘が大庭御厨と呼ばれるようになり、相模国土甘郷はもとより東は境川から、西は小出川に挟まれた広大な地域の区域の伊勢神領大庭御厨総鎮守として尊崇を集める事となった。これより先、天喜年間、八幡太郎義家、奥州鎮撫の途次祈願奉幣あり。また、寿永3年(1184年)、那須与一宗高は源平屋島に合戦の戦勝を祈願し、屋島にて的を射た弓一張と残りの矢を東帰の際奉納、併せて所領の那須野百石の朱印地を神恩報謝の為に寄進したと伝えられている。明和2年(1765年)6月17日、領主布施孫兵衛尉頼路、参篭し祈願奉幣あり、又「天照皇大神宮」と謹書した白絹御戸張を奉納、太々神楽を奉奏し、例年奉幣を明治維新まで続けられた。明治元年9月、征東大総督一品中務卿有栖川宮殿下御東下の際参拝し、「神明宮」の御染筆を賜る。例奈日には人形山車九基の参進があり、神奈川の民族芸能として県の指定があり、又、例祭は「神奈川のおまつり五十選」に選定されている。人形山車は、昭和六十三年藤沢市重要有形民俗文化財に、又、例祭日に奉奏される「湯華神楽(湯立神楽)」は平成八年に藤沢市重要無形民族文化財に指定された。「昭和六十三年十二月十六日指定市指定重要文化財(有形民族文化財)皇大神宮人形山車9基この人形山車は、明治中頃に皇大神宮の九氏子町内会がそれぞれ製作したもので、三層式・総高約8メートル。人形が飾られ、屋台には精巧な彫刻が施され、県下で盛観を誇っている。かつては各町内に保管され、八月十七日の例祭に境内に参集したが、現在は、交通事情などのため境内の山車庫に納められている、例祭には、いったん参道脇に整列してから、あらためて境内に入る、その参進行列の順番は宮之前の那須与一、上村の源頼朝、清水の神武天皇、宿庭の源義経、苅田の徳川家康、大東の楠木正成、中東の浦島太郎、原の日本武尊、堀川の仁徳天皇という順で決まっている。山車が境内に集まる頃、拝殿では湯華神楽(湯立神楽。市指定文化財)が行なわれる。この皇大神宮の例祭は、昭和五十ニ年選定「かながわの民俗芸能五十選」に挙げられている。平成三十年(ニ〇一八)八月 藤沢市教育委員会」三の鳥居に向かって進む。三の鳥居を潜って拝殿へ。拝殿は参道が、何故か斜め左方向に曲がっていてその先に拝殿正面が。。藤沢市の無形民俗文化財に指定されている「湯立神楽」の神事奉納が行われる場所が右手に。湯立神楽は、日本の伝統的な神楽の形式のひとつ。釜で湯を煮えたぎらせ、その湯を用いて神事を執り行い、無病息災や五穀豊穣などを願ったり、その年の吉兆を占う神事の総称。別名を「湯神楽(ゆかぐら)」とも言う。拝殿を正面から。内陣には巫女さんの姿が。巫女が持っている鈴の名前は「神楽鈴(かぐらすず)」といいます。巫女が神楽舞(巫女舞)を舞う時等に持つ鈴。シャンシャンときれいな音色が特徴的。背中に「皇大神宮」と書かれたユニホーム姿を。そして拝殿の左側には多くの境内社があった。石楯尾神社 (石楯尾神)。石楯尾神社は皇大神宮よりも約20年以上前に建立された記録が残っている。後から祀られた皇大神宮の境内に鎮座するかたちとなったのは、「天照皇大神」を祀る本殿が「大庭御厨」の鎮守になったことが考えらるとのこと。伊勢ノ宮(伊弉諾尊・伊弉冉尊)。さらに左手にも。右に稲荷神社(宇迦之御魂神)。豊受稲荷神社(宇迦之御魂神)。社は全国でも珍しい神仏習合(神道と仏教の融合)の神社。山王社(大山祇神)。恵比須の宮(八重事代主神・大國主神)と豊受ノ宮(豐宇氣毘賣神)。境内には「末社」と呼ばれる本宮に属する社殿が多く並んでいる。もそのひとつで、毎年正月には藤沢市観光協会主催の「藤沢七福神めぐりスタンプラリー」のポイントになっている。「恵比須の宮」には、えびす様である「八重事代主神」の他、「出雲大社」の祭神である「大国主神」が祀られている。世間では「大黒様」として親しまれており、五穀豊穣の神様。境内に並ぶ末社のなかで本殿から一番離れた場所に社を構えるのが「豊受ノ宮」。祭神の「豊宇気毘売神」は稲作をはじめ、衣食住の恵みを授ける「産業」の神様。そして石楯尾神社 の屋根の先に見えた「本殿」を振り返って。拝殿、境内社を巡った後は、三の鳥居下に陣取り、人形山車の到着を待つ。人形山車の到着時間が近づくと、参道の人の姿も急に増えて。人形山車は前方のニの石鳥居の左側の路から境内に入ってくるのであった。前方に先頭の人形山車『1番山車 宮之前町 那須与一』の姿が現れた。その後には『2番山車 上村町 源頼朝』の姿が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ゲオモバイル
2023.09.30
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「烏森神社」の通称で親しまれる皇大神宮(鵠沼神明2の11の5)でこの日、8月17日(木)、例大祭が行われたので久しぶりに訪ねたのであった。新型コロナ禍の影響で4年ぶりの開催。「那須与一」「源義経」「浦島太郎」など、歴史や伝承にちなんだ高さ8mにもなる人形山車9基が揃い踏み。明治中期に九つの氏子会が製作したもので、藤沢市重要有形民俗文化財にも指定されているのである。屋台にも精巧な彫刻が施された山車が参進する様子は圧巻で、「県下で最も盛観を誇る」祭りと。従兄弟の家の駐車場に車を駐車させて頂き、「皇大神宮」に向かう。かつてはこの杜の周辺に多くの烏(からす)が生息していたことから、「烏森神社」と呼ばれるようになったのだ。「皇大神宮」の一の鳥居前に到着。「記念碑」。「記念碑それ 當社寶前の舊鳥居は昭和十年鵠沼出身にして横須賀在住の篤志家関根治郎吉氏をはじめ幾多有志の絶大なる努力によりて奉献せらりしところなり爾來星霜を閲して風雪の削磨に朽ちあるひは 神徳を害せむことを畏るすなはち總代山上八造氏を中心に多数氏子の熱望を凝らし再建の機運ここに熟して昭和三十五年十月起工の式を擧げ同三十六年春正月吉朝威容湘南の空を壓して竣成せり慶喜何かこれに過ぎむ 希くは 神霊嘉納してとこしへに平和繁榮の惠澤を垂れ給はむことを いささか蕪辞をつらね來由を記すと云爾昭和三十六年一月十七日 関根善之助撰」【当社前の旧鳥居は、昭和10年、鵠沼出身で横須賀に住む篤志家である関根治郎吉氏を含む多くの熱心な支援者たちの協力によって捧げられました。長い年月が経ち、風雪にさらされて朽ち果ててしまいましたが、その中で神徳を傷つけないように恐れ、総代山上八造氏を中心に多くの信者たちの熱望が集まり、再建の機運が高まりました。それにより、昭和35年10月に起工式が行われ、翌昭和36年春正月に竣工しました。その荘厳な姿は、湘南の空を圧倒し、その威容は、まさに大きな喜びであります。神霊を崇拝し、平和と繁栄の恵みを祈り願うものであります。以上、拙文を用いてその由来を記しました。昭和36年1月17日 関根善之助】関根善之助氏は我が高校時代の師である。社号標石「皇大神宮」。「道陸神」碑。「道陸神」は道祖神とも呼ばれ、悪霊が侵入するのを防ぎ、通行人や村人を災難から守るために村境・峠・辻などに祭られる神様。この日は午後2時、宮之前町内から順番に人形山車が参進。3時頃境内に勢揃いするのだ。出発を待つ9基の人形山車が揃い、JR東海道線に突き当たる日本精工(株)藤沢工場の裏の藤沢232号線で出番を待っていたのでそちらに向かう。時間は13:40。『人形山車』👈リンク が宮入の順番通りに並んでいたので、順番にデジカメに収める。別の場所から人形山車の姿を。皇大神宮の9台の人形山車は,明治中~後期に作成されたもので、三層式、総高約8メートル、人形が飾られ、屋台には精巧な彫刻が施されている。 かつての例祭では、各町内からお囃子の音とともに9台の人形山車が境内に集まったといいますが、今は交通事情などのため、境内の山車庫に収められています。現在の例祭では、数百メートルほど離れた路上に九台の人形山車が並べられ、1時間半~2時間ほどかけて境内まで参進して来るのです。藤沢市重要有形文化財に指定され、「かながわのまつり50選」にも選ばれている祭り。人形山車一覧表。(Wikipediaより転載)神奈川県最大の山車祭として知られているこの祭の一番山車は『一番 宮ノ前 那須与一』。宮ノ前町内は、地名からも判るように皇大神宮境内を含むお膝元の集落で、代々の神主も住んでいた町とのことで、そして源平合戦の屋島の戦いで活躍したこの那須与一が弓と矢をこの神社に奉納したとも伝えられているのです。併せて、所領の那須野百石を寄進していると。「宮之前町」の提灯が一対。人形山車の囃子の座・屋台では太鼓や横笛のお囃子の音が賑やかに。那須与一は、源氏と平家の「屋島の戦い」にて、平家が立てた扇の的を、見事射落としたことで有名な源氏方の武士。与一は、馬を海に乗り入れたが、扇の的までは、まだ40間余り(約70メートル)もあり、しかも北風が激しく吹いて扇の的は小舟と共に揺れていたと。「南無八幡」と心に念じた与一が渾身の力で鏑矢を放つと、矢はうなりを立てて飛び放たれ、見事に扇の要(かなめ)近くに命中。扇は空へ舞い上がり、ひらひらと海へ落ちたと 有名な話。上段四方幕に描かれたいるのは、屋島の戦いで活躍する那須与一の姿。この後、屋根の上で獅子舞を披露するのであろう。緑の「獅子油単(ししゆたん)」。こちらは赤の「獅子油単(ししゆたん)」。『二番 上村町 源頼朝』。上段四方幕には白き富士山と虎の姿が描かれていた。破風屋根正面中央。「上村町」の提灯。人形山車の囃子の座・屋台。源頼朝像をズームして。紫の御祭禮幕には源氏を代表する家紋と思われている「笹竜胆」が。平安末期から鎌倉初期の武将で、父源義朝が平治の乱に敗れると伊豆の国に流されます。やがて北条氏の力を借り平家打倒の旗揚げをして歴戦勝利、壇ノ浦で平家を滅ぼして鎌倉幕府を開きます。山車装飾では一人立ちの頼朝人形だが、彫刻はほとんどが建久4年(1193)の富士の巻狩りシーンであると。『三番 清水町 神武天皇』。上段四方幕には清水町の「清」の文字と龍の踊る姿が。破風屋根と囃子の座。破風屋根正面中央。神武天皇像。人形は、神武東征神話のなかの象徴的な場面である金鵄(きんし:金色のトビ)がとまった弓を手にしていた。神武天皇が大和(やまと)の実力者である長髄彦(ながすねひこ)と戦って勝てなかったとき、金色の鵄(とび)が天皇の弓弭(ゆはず・弓の両端の、弦の輪をかける部分。)に止まって雷(いかずち)のように輝いたため、賊は眩惑(げんわく)されて戦意を失い、天皇は大和を平定出来たと。胸には三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)?をぶら下げていた。八咫鏡は天照大神が天の岩戸に隠れた岩戸隠れの際、作ったという鏡。『四番 宿庭(しゅくにわ)町 源義経』。破風屋根正面中央。平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名牛若丸と呼ばれた人物。こちらにも「笹竜胆」が。ジンギスカンの紋章がこの笹竜胆に酷似しているので、ジンギスカン=源義経 説の一つの根拠になっているとのことではあるが・・・・・。破風屋根と囃子の座。提灯には「左三つ巴」の紋が描かれていたが、理由は?『五番 刈田町 徳川家康』。上段四方幕には黄金の徳川の「丸に三つ葉葵」のご紋が。破風屋根と囃子の座。徳川家康像。徳川家康は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。もちろん260年続く江戸幕府の初代征夷大将軍。ズームして。『六番 大東町 楠木正成』。破風屋根正面中央。楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍して天皇を助けた。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害。破風屋根と囃子の座。後醍醐天皇は皇室の御紋章である菊紋を楠木正成に与えたのだ。ただし正成以後楠木家は、天皇とおなじ菊の紋を持つことは畏れ多いと、菊の下半分に水の流れの図を添えて菊水紋としたのだ。上段四方幕にはその菊水紋が描かれていた。楠木正成像。『七番 中東町 浦島太郎』。破風屋根正面中央。同じく上段の四方幕には竜宮城も描かれていた。小田急線江ノ島駅はこの絵からの意匠なのか?破風屋根と囃子の座。漁師の浦島太郎は、子供達が亀をいじめているところに遭遇する。太郎が亀を助けると、亀は礼として太郎を竜宮城に連れて行く。竜宮城では乙姫が太郎を歓待する。しばらくして太郎が帰る意思を伝えると、乙姫は「決して開けてはならない」としつつ玉手箱を渡す。太郎が亀に連れられ浜に帰ると、太郎が知っている人は誰もいない。太郎が玉手箱を開けると、中から煙が発生し、煙を浴びた太郎は老人の姿に変化する。浦島太郎が竜宮城で過ごした日々は数日だったが、地上では随分長い年月が経っていた・・。という話。中段四方幕にはその亀の姿が描かれていた。釣り竿を右手で担いでいる若くてイケメンの浦島太郎。『八番 原町 日本武尊』。破風屋根と囃子の座。破風屋根正面中央。『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される古代日本の皇族(王族)。第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行なったとされる、日本古代史上の伝説的英雄。日本武尊像。『九番 堀川町 仁徳天皇』。破風屋根をズームして。破風屋根と囃子の座。仁徳天皇像。手をかざして、かまどの煙を見る仕草を現しているのであろう。仁徳天皇の四年、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられて「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろうと仰せられ「向こう三年、税を免ず」と詔されたと。お顔を。 ・・・つづく・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.09.29
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この日は9月19日(火)、平塚からからの帰路、自宅の近くから「ダイヤモンド富士」が見られることを事前に知っていたので、道路沿いの高台の場所に向かう。車を駐車場に駐め、駐車場の奥の展望の良い場所から、赤く染まり始めた富士山の姿を。時間は17:17。スマホ&WINDOWSのソフト「ふじともマップ|富士山とともに」👈リンクで任意の地点をクリックすると様々な富士山情報が入手できるのです。すなわち「ふじともマップ|富士山とともに」は、富士山撮影をより楽しむための、Googleマップを利用したWEBアプリ。地図上の任意の地点をクリックすると情報を表示します。地図の下部に様々な機能を用意されていますので、便利です。その一つが「ダイヤモンド富士」情報。「ダイヤモンド富士」とは、富士山頂に太陽が重なる瞬間、ダイヤモンドのように輝く現象のこと。通常日の出の瞬間を「ダイヤモンド富士」と言い、日没時は「逆ダイヤモンド富士」と言うこともあるようですが・・・。そして下の写真は、この日の日の入りの「ダイヤモンド富士」を見ることが出来る場所が黄色い直線で確認できるのです。但し、関東地域と特定場所にか駐車場の横にあったのが「第200号 緑の広場」「緑の広場」とは、市内のおおむね500平方メートル以上の土地で、市長が次に掲げる用途のいずれかに適合すると認めて、土地所有者から等に利用されているとのこと。しかし、この日の「ダイヤモンド富士」の撮影スポットは見つからなかったため引き返す。藤沢市長から「緑の広場愛護会」への感謝状。そして太陽が富士山頂を目指して降下して行く。残念ながら?富士山頂には僅かでは有るが白い雲の姿が。山頂の雲の形が刻一刻と変化。そして富士山頂へ沈んで行く「ダイヤモンド富士」。山頂中心からは僅かに左にズレてはいたが。太陽が山頂の雲を押し退けているかの如くに。「富士山頂にダイヤモンドが載ったように見える」と名付けられた現象。 富士山頂に太陽がかかる日の出と日の入の、毎日2回(日の出は富士山の西側、日の入は富士山の東側)見れる可能性があるといえます。見える場所は日の出の方角が変わるのにあわせ、毎日変化(冬ほど北寄りになる)するのです。湖面などにダイヤモンド富士が映って二つ見える場合を「ダブルダイヤ」、太陽が富士山の斜面にかかり、次第に沈むことを「コロコロダイヤ」、山頂の突起に太陽がかかって日没の一瞬だけ二つに割れて見えるとき「キャッツアイダイヤ」などと、マニアの間では新たな造語が次々に生まれていると。 また、満月が富士山頂にかかる現象を「パール富士」と呼ぶとも。 雲で太陽が二つに割れているかのように。これを勝手に私は「クラウド(cloud)キャッツアイダイヤ」と呼ぶことにする。時間は17:28。そして富士山頂への日の入り。時間は17:29。「太陽の上辺が地平線(または水平線)に一致する時刻」が、日の出・日の入りの時刻なのだ。山頂中央から僅かな陽光が輝く。そして再び山頂の雲が輝く。まるで富士山噴火のごとくに。裾野からも噴煙?が。再び山頂を。カメラを引いて西の空を。さらに。帰路の途中、信号待ち時に。ズームして。更に。 ・・・END・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.09.23
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そして「本堂」の手前の部屋にも「地獄変相十王図」の拡大絵図がガラスケースに収納され並んでいた。「閻魔大王裁きの場図」は更に一段と大きく。そしてこちらが「小栗實記」十二巻。開いてみると・・・。「小栗實記」は奥付によれば一七三五年 、つまり「享保二十乙卯歳五月吉祥日」の刊 。作者については内題には 「畠山先生著述 / 穂積先生参考」とあり 、奥付には 「伏見畠山先生泰全著述 / 摂州穂積先生以貫参考 」とあって 、内題奥付は一致している。 全十二巻十二冊の藍色表紙の大本で 、近世小説史上では 、「読本様式成立に先立つ読本前史の 一部を占める」〈 仮作軍記 〉と呼ばれるジャンルに属するとされている。「小栗實記巻之一」。「法王院閻魔十王御札」、「閻魔宝印」。「閻魔宝印」に近づいて。「この世の幸せ、あの世の極楽」を約束する「極楽往生の通行手形」閻魔大王から授かった御宝印。様々な参考図書が展示されていた。「西俣野地誌」。「西俣野地誌」の編集後記には、私の姉の義父の名も記されていた。「わたしの藤沢」。「地獄絵巡礼」。「地獄ものがたり」。「地獄ものがたり」には、ここ「花応院」の「地獄変相十王図」が紹介されていた。「ふじさわの農地改革自分誌 おもいでのあらまし」。そして「小栗判官一代記附地獄変相十王図絵解き藤沢市俣野史跡保存会」。「俣野史跡保存会」が纏めたこの書を、後日、ゆっくり熟読したいと思い、「小栗判官一代記」の主要部のみ転記しました。「小栗判官一代記頃は人皇百代後小松天皇の御宇、応永元年(一三九四)今より凡そ五百三拾五年前の出来事でありました。小栗判官満重は偖(さて)は小栗の出所由来を尋ねると、固は京都正八幡むすびの神と言はれておわします。都、三拾六人と其中に三条院高倉大納言兼家と申さるるは四、五拾に成られても世嗣無故鞍馬多門ゑ祈願を掛け吾々は四、五拾になっても世嗣なき故男子なり、女子なり共、何卒子種を一人御授け給えと七日七夜の断食祈誓致さるれば七日目に身体疲れ夢うつゝにとろとろと致すように相成たる。其こえ六拾余りの白髭の老人出来り、成る程汝は子種無きが余りの祈願により此の方が男子一人授けて取らすと言ふより早くふっと消えたる。之ことは誠に鞍馬多門なり。神妙に七日の断食も首尾よく終りて吾家に帰えりけり。最早七日七晩も経ちたるに段々懐妊となり、四ヶ月も夢の内段々身は重くなり最早臨月にと成り給え安産致されて鞍馬の申し子なれば蝶や花やと育てれば段段に成長致し二ッ三ッ四ッ五ッと相成りて、手習算盤の稽古を致され誠に発明にて忽ち手習も人が五字教えれば十字さとる十字教えれば廿字さとると言ふ様な悧巧者。忽ち読書算用習い武芸遊芸迄も致され、又横笛は殊更御上手にて鞍馬に縁がある故池野庄司を御供に連れ遊ばし鞍馬差していで参られました。鞍馬間近く成所に有ければ、泉水にて身を清め早朝殿へと御出遊ばし腰より謠帳抜出し「想夫恋」の御楽御吹召らるれば、天は八方余方、深地は奈落の底迄響き渡り、余りにや笛のねじみの美しさに、はるか沖なる「みどろが池」の大蛇三十二相の姿八十二面の美人と身を隠し、小栗判官御前へと参り「そうふれん」の御楽おもしろそうに、深々耿々と御楽を聞ひで居られる内に御楽も段々御終になりにける。」『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【この出来事は、人皇百代後の小松天皇の御代、応永元年(1394年)から約535年前の出来事です。小栗判官満重は、小栗という場所の起源について尋ねられたとき、それは京都の正八幡むすびの神であると言われています。都には36人の人々がおり、その中には三条院高倉大納言兼家という名前の人物も含まれていました。しかし、彼らは子供を持たず、世継ぎがいなかったため、鞍馬多門に祈願を掛けました。彼らは40歳以上になっても子供がいなかったのです。世継ぎが欲しい男女が一生懸命に祈り、7日7晩の断食を行いました。そして、7日目に、疲れた身体とともに夢に現れました。夢の中に現れたのは60歳以上の白髪の老人で、彼は「あなたたちは世継ぎが欲しいが、私が男の子を授ける」と言いました。その言葉を聞くと、老人は突然消えてしまいました。この老人こそが、鞍馬多門の神でした。神秘的な7日間の断食が成功裡に終了し、彼らは家に帰りました。やがて、7日7晩が経ち、段々と妊娠が始まり、4ヶ月後には出産が近づいていました。安全に出産し、鞍馬の神の子供が生まれました。その子供は成長し、数年後には算盤を使った計算を習得しました。数字の教えを受けると、瞬時に理解しました。読書や算術、武道にも熱心に取り組み、特に横笛は非常に上手で、鞍馬の庄司という名の音楽家を従えて楽しんでいました。鞍馬に近い場所に住んでいた彼は、泉で身を清め、早朝に殿へと向かい、謡帳を取り出し「想夫恋」という曲を演奏しました。その美しい笛の音に魅了され、遠くの「みどろが池」に住む大蛇や美女たちが現れ、小栗判官の前に現れました。そして、楽しそうに演奏を聴いていましたが、段々と音楽が終わっていきました】【要訳そもそもこの物語の発端は、京の都におわします二条大納言兼家様。子どもの出来ないことを嘆いて、鞍馬山にお参りして授かったのが、幼名・有若。頭脳明晰、成績優秀、すくすくと成人したのが小栗判官。ところがこの小栗、気に入る女がおらぬと嫁を嫌って独身を通しております。あるとき、鞍馬に詣でる途中、一興にと横笛を吹いていたところ、近くの「深泥(みぞろ)ヶ池」にすむ大蛇、その音(ね)に聞き惚れ、美女に変身し小栗判官前へと】。花應院本堂の「小栗判官照手姫縁起絵巻」より。以下、カラー写真は上に同じ。鞍馬山にお参りする小栗の姿。「小栗大蛇の密通の段偖も、大蛇小栗判官公の御前へと参り恥かしき事乍ら私ははるか田舎の下拙に候が何とわたくしを貴公の傍へ二日なり三日なり御かくまい下さるまいかと申し込まれれば、小栗若し若し時に御心を掛られて汝左様迄に申すならばニ日三日かくまい置くべし、然れども其の夜半頃には我宅へと忍び込れと仰せられて小栗公直様吾家へ帰へりました。すると夜の夜半頃にはみどろが池の大蛇其の寝間へと忍び込み初夜の逢瀬が縁のはじめ二日が三日が十日廿日一年がニ年と成りまたまたかくまい置きたるに三年目に成りました。その内に其の姫様が懐妊に成り安産致すには元の大蛇の正体をあらわせねば成難し。「みどろが池も三年も住かを致さぬ事なれば、よしや菰泓の原と成り果て身を隠す処も無き故。大蛇つぼねへとあばれ出し、是より近所に池があるなれば見て参れとありければ、是より近所と申するに、南面して「しんせん淵」と言ふ池が御座居ます。之れ入させて首尾能く安産いたせ給へと言ければ、又之の「志んせんが池」には八大竜王と言ふ竜神御座候故池に人る事のならん如何に大蛇汝人間と一度契をむすびたれば仏道の身なれば此の池へ這入る事は相ならんとすると、大蛇後へ引く時は安産する事出来ず。其処で大蛇と電神との騒動と成り給えば七日七夜は其間大暴風雨大雷電が興りけり。内裏の御殿も崩る斗りとなり給へば、内裏公でも是は何事ぞやと表て三門には公家大納言を立て給えば、是は何事か易者を呼んで占わせよと有りければ畏て候と、其れより易者を召して是は何事か一々次第に占えとありければ、奥の一間に七五三を張り、巻物取り出し三法を置き一々次第に是は、三条院高倉大納言兼家公の御嫡子小栗判官満重公此度「みどろが池」の大蛇と契りを込め大蛇懐妊いたすには元の大蛇と正躰を現せねば成難しと「みどろが池」の大蛇三年も住家致さねば葦菰泓の原となった故、我身を隠す所も無き故に「志んぜんが淵」の池へ飛び込みければ、池には八大竜王と言う竜神生居り、此池へ這入る事相成らんと、大蛇竜神騒動と相成り給えば。是は、三条院高倉大納言兼家公の嫡子小栗判官満重をば常陸の国へと流人致せし事なれば、此の騒動は必ず静まると占ない出ければ、内裏公と談会致し判官を常陸の国「とつぱた村」と言ふ所へ新造の御殿を建立して鞍木の御所と名を付けて此処へ移す事になり小栗城之なり以下十人の殿原を記す。小栗拾人殿原の姓名池野庄司 間瀬忠右衛門 吉田久太夫近松定四郎 田中弥兵衛 原藤左衛門村松三郎兵衛 千馬源右衛門 木村喜兵衛不破五郎右衛門 都合十人」『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【この物語によれば、大蛇と小栗判官の間に何度も逢瀬があり、最終的に大蛇は懐妊しました。しかし、安産するためには大蛇の正体を明らかにする必要があり、それを達成するためにいくつかの出来事が起こりました。最初に、大蛇と小栗判官は三年間「みどろが池」と呼ばれる場所で暮らしました。しかし、この期間が終了すると、大蛇の正体を明かさなければならなくなりました。彼らは「志んせんが池」と呼ばれる別の池に行きましたが、この池には竜神が住んでおり、大蛇と人間が契約を結ぶことはできませんでした。その結果、大蛇と竜神の騒動が勃発し、大暴風雨や雷電が発生しました。この騒動は非常に深刻で、内裏の御殿が崩れ、公家たちも占いを試みました。易者を呼び寄せて占ってもらった結果、小栗判官満重が大蛇と契約を結ばなければ騒動は収まらないことが分かりました。そこで、彼は流人として常陸の国に追放されることになり、その際、新たな御殿を建てて「鞍木の御所」と名付け、その地に移住しました。この騒動の結末について、物語は以下の十人の殿原(小栗拾人殿原)の名前を記して終わっています。小栗拾人殿原の姓名池野庄司 間瀬忠右衛門 吉田久太夫近松定四郎 田中弥兵衛 原藤左衛門村松三郎兵衛 千馬源右衛門 木村喜兵衛不破五郎右衛門 都合十人】【要訳美女に変身した大蛇は、小栗に、貴公の傍へ二日なり三日なり御かくまい下さるまいかと申し込み快諾される。二条の屋敷に入った大蛇であるが、夜な夜な通い、契りをこめているとの噂は直ぐにひろまってしまった。その為、父の三条院高倉大納言兼家公は小栗判官満重を常陸の国への流人としたのであった。そこで官職を与えられ、判官(はんがん)となったのだ。】横笛を吹く小栗。「小間物屋後藤文使人之段去れば、道は急げば早いもの、惚れて通へば千里も一里の例への如く文の便と其の如く、夜と昼との差別なく間もなく江戸へとおでぬれば、品川越して大森や鶴見、神奈川後にして、行くは横浜その次は程ヶ谷越して戸塚宿や大坂上りて二番坂女殺しと早や過ぎて、藤沢宿へと着きぬれば此処に旅路の疲れをば、直して、北に一里哉、今、其場所をと尋ぬれば、六会村の西俣野御所ヶ谷と字を為す。(花応院より北一町八八五番地也)乾の御門前ゑと来りける。御国自慢の調子にて櫛や笄たばさし、かんざし、けあいの道具尺のかもじは召ませんかと、高声にて呼びければ、十ニ局下の水仕の者迄も、出見るより、是はいつもの商人そうになりや、商人みすちかく来たられよと有ければ、商人喜び御門内え、そっと入り、彼の広縁に籠を下し色々留々と取出し、あれこれやと、商いて、手には文玉章を取出して商い最中に成りぬれば、彼の玉章を取出し是さ女子達某は常陸の国黒木の御城下に四、五日逗留致し商ふ内、此様な美しき文玉章を壱通拾ひし者なるが、良くば手本よ悪くば当時の御笑い艸とたばかりて文を出せば、女子共は請取ってさっとひらいて見給へば、何上成は月に星、下には雨あられと召されしょ何様心狂気の人か、若有事をすぢなきやうに書きなしたりと。一字をもわきまへず、一度にどっとわらひける。」『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【旅路に急ぐ者は道を急げば早いものであり、恋に燃える者は通れば距離は関係ない。夜と昼の違いもなく、ほどなく江戸に到着した。品川を過ぎ、大森、鶴見、そして神奈川を通り過ぎ、横浜に行く。その後、程ヶ谷を越え、戸塚宿や大坂に至り、急いでいた。そして、藤沢宿に着いた。ここで旅の疲れを癒すために立ち寄り、一息ついた。その後、北へ進むと、一里もない距離に六会村の西俣野御所ヶ谷という場所があることがわかった。その場所に向かい、花応院から北へ一町八八五番地に到着した。乾の御門前に立つと、地元の自慢の商人たちが、櫛、笄、かんざし、そして長さが尺のかもじなどを売りつけようと高らかに呼びかけてきた。商人たちはいつものように態度を崩さず、商売をしていました。商人たちが近づいてきたら、商人は喜んで御門に入り、そっと籠を下ろし、さまざまな商品を取り出し、商談を始めました。そして、手には文玉章(文字の彫られた玉飾り)を取り出し、商談の最中になりました。その文玉章には、以前常陸の国の黒木の町で見つけた美しい文が刻まれており、主人公はそれを商人に見せました。文玉章の文には、「上には月、下には雨あられ」という詩が書かれていました。この詩に笑いが込められており、主人公と女性たちは大笑いしました。商人たちも爆笑し、その一瞬を楽しんだのでした。】【要訳さてそこへ、化粧品や薬をセールスして歩く小間物商人、後藤左衛門が訪ねてまいります。彼が、評判の美人の話をすると、小栗は、その姿を目にしていないのに一目惚れ。その美人こそ、武蔵・相模(現・神奈川県)の国の郡代、横山大膳の娘、照手姫。後藤左衛門は橋渡しとなって、小栗のラブレターを姫に届けます。】文玉章(手紙)をしたためる小栗判官の姿。「照手姫文玉章読むの段去る程に照手姫七重八重なる簾みすの内よりしずとお出給い、こりやこりや女子達何か面白きありて笑ふや、其様な面白事あらば、姫にも語り心を慰め給はれやとありければ、承り美文玉章を女より照手姫請取て先上書を誉め給い、此文玉章ばかりは只成らぬ人の書かれしと見たけるなり。筆勢のけだかさよ、墨付の見事さよ、御主は誰とも知らぬ共筆にて人の迷ふとは、此処の仮令を申すなり。如何に女子達、それ百勇達しても一勇とても知らざれば人と争ふ事なかれ。其の達には読まいぞ、自ら読んで聞かすべし、此の文は文読声あるべきか、伊勢物語に事寄せて、さも珍重に此文を大和詞で読むべきか、あら面白きこの読み様。先づ、一番の筆立には峰に立つ鹿の薄紅葉、ね笹にあられと召されしは是をくだいて読もうなら先立処のたとへおば、秋の鹿にはあらね共簾声かぬると是を読む。薄紅葉の仮令をば色に出すなと是を読む。ねざさにあられと召されしは花のたもとが、さわれば落るとこれをよむ。先ず二番の筆立には池のまこもと召されしは、是をくだいてよむなれば、引手になびくと是を読む。先ず、三番の筆立には尺長帯と書かれしは、初恋が国を隔てゝあればとて一期に一度めぐりあい結び合はんとこれを読む。先ず、四番の筆立には弦無き弓に羽抜け鳥埋め火と召れしは是をくだいて読むなれらば、扨てこの恋を思ひつめにし御方はいるにもいられず、たつにも立されず、其の日より我心もいらだっ斗りと是を読む。先ず、五番の筆立には恋を七つに別られて見恋、聞恋、語る恋、逢ての内にはなるゝ恋、雲に掛橋申すべて及ばぬ恋を恋と言ふ。爰に、一つの奥書あり恋する人は常陸北条玉造りの小栗殿にて御座居ます。此文付は人よな人は自らなりと記しあり、今迄は、よその事と思いしに吾身の上の事なれば若し比事父横山兄殿原に聞ゆれば如何なる憂目に逢う共しれずと、彼の文王章を二ツ三ツに引きさばき、みすより外へと物せりとなげすて、簾中差して入にける。去る程に後藤左ヱ門申しける。余儀なき人に頼まれて、文玉章の返事取らいては、頼まれた甲斐もなし。爰は女郎達をばおどす所と心得て彼の広縁泥草鞋にて打上り、大の眼の後藤左ヱ門これさ、女郎達、しらいで御やぶり給ふか、則ち字の始まりを語りて聞そうか先、天竺には大聖門珠の筆を始め唐にては善導和尚、我朝にては高野山におはします。弘法大師四十八字をつくり給えば、文字を一字破れば弘法大師の十の指をもいだる如くなり、又二字破れば弘法大師の命を取りたる如くなり、照手姫女郎達心の程こそおそろしやと広縁をどしやどしやと踏みならしておどしたは、身の毛、よだつばかりなり。男といふは、胸に蓮花といふがあり、其上に三本棒があり、腹を立て棒が阿弥陀如来になりて中をこぐって飛び歩くなり。又、女の胸には棒が三本ありて腹を立って其棒は心欲、貪欲、愚痴と言ひ、三疋の虫になり常平生は泣き、くやしいくやしいと思うと、其の虫め涙は一月に一度の月経となりその血が衣装に付ぬりて、川にて洗い流すれば、川の水神どのの御とがめあり、陸にて、汲げすゝぐれば堅牢地神の御とがめあり。其の血を火にもせば、「ふげん文珠荒神が御しかり、おとがめある、あとは限りなし。夫程の、罪深き物なれば、返事をやらんとすれば、夫程の罪に成と、後藤左ヱ門は彼広縁をどらどらとふみならしておどかしましたからたまらない、照手姫、さては、女の心の浅間しさ、此、由を聞し召し、あら、おそろしき事もかや。扨もはかなや、自からは武蔵相模の両国の諸大名の方よりも、文玉章降る雨のしとうが如くなり。何れか引さき捨けるが、皆、自ら後の後悔と成り申さん。仮命此事父横山兄殿原に洩聞へ如何なる憂目に逢迄も、文の返事を申さんとて、「うすよう」取って一重思召さる事をさも珍重に御書遊ばし、先彼様に引結び兵庫の局に渡さるゝ。願て表へ立出て彼の商人に渡さるゝ。後藤文玉章請取って葛籠の中にかけごに入れん。志つかんで肩にかけ門をいでつと出てゝ、ふっと息をつき、虎の尾のふみ毒蛇の口をのがれたる如くなる心もちして常陸の国、さして帰りける。『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【照手姫は静かに簾の中から出てきました。女性たちは笑っていました。その笑い声を聞いて、照手姫は彼女たちに面白い話があれば、それを語って心を慰めてほしいと頼みました。女性たちは美しい文玉章を持って照手姫に渡し、この文は一般の人が書くものではなく、特別な書き手によるものだと誉めました。筆勢や墨付けの見事さも称賛されました。しかし、照手姫は誰が書いたかを知りませんでした。ただ、文字を書く人が誰かを知らず、それを迷宮のように解読することができるのは、この世の中で非常にまれなことだと言いました。照手姫は女性たちに文を読ませようとしました。彼女たちは自分たちで読んで聞かせるべきだと言いました。そして、この文をどのように読むべきかについて議論が始まりました。最初の筆立ては、山に立つ鹿の薄紅葉についてのもので、それに関連する言葉や詩句を使って解釈しました。次に、池のまこもについての筆立てがあり、それについても詠みました。続いて、尺長帯についての筆立てがあり、初恋についての詩を詠みました。その後、弦のない弓についての筆立てがあり、恋を思いつめたり、苦しんだりすることについて詠みました。最後に、恋を七つに分けて見恋、聞恋、語る恋などについての詠詩がありました。その後、後藤左ヱ門が現れ、文玉章の返事を取ってきてほしいと頼まれましたが、後藤は頼まれた甲斐がないと言いました。女性たちは後藤に怒り、彼をおどしました。後藤は女性たちを踏みつけて脅かし、女性たちは恐怖のあまり身の毛がよだつほどでした。男性は胸に蓮の花と三本の棒を持っており、腹を立てて棒が阿弥陀如来になり、中をこぐように飛び回ると信じられていました。女性は胸に三本の棒を持っており、腹を立てるとそれが「心欲」「貪欲」「愚痴」となり、これらの虫が泣いたり、嫉妬したりすると信じられていました。月経の血は、川に洗い流すと水神と陸地神に怒られると考えられていました。後藤は文玉章を葛籠にしまって去り、照手姫は女性たちと一緒に踊りました。この文玉章は彼女たちにとって非常に重要なものであり、誰が書いたのか、どのように解釈すべきかについての議論が続きました。【要訳七重八重、九重の 幔幕の内にいらっしゃる、照手の姫はお聞きになり、中の間までお忍び出ていらっしゃり、「のう、どうしたのです。女房たち、何をお笑いになったのですか。おかしいことがあるのならば、私にも知らせなさい」と。照手姫はその手紙の筆跡、文勢、表現に感激する。そして返事を書き、後藤左ヱ門に手渡し常陸の国へ。】文玉章(手紙)を読む照手姫。「小栗聟入の段偖て、相模国、今の高座郡六会村西俣野字大塚が上に上り、商人申す様向ふに見るは乾の御所照手姫の御所、一方こちらにみゆるが、横山大膳信久が御宅なり。彼の棟が五つ見ゆるが殿久保とて五人のきん達なり。さらば、乾の御所へ御出遊ばし、暫く御休息遊ばされよと、私は、是にて御暇仕ると言ければ、小栗聞召れ、夫れ夫れ商人に引手物取らせよと、畏まって、数多の小袖を下さる。後藤悦び我家を差していで帰りける。夫より小栗乾の御所に来る。時の番衆に出合、是れはと、とがめられいつも来る客なるで存ぜぬかとぞ。へつとは雨にと遷のける座敷の景色を御覧になり遥か向ふに座敷へとむんずひらりと、なおられる、夫より小栗乾の御所に来る。むんずひらりと、なおられる、夫より蓬莱山の景色を飾り色々取肴を拵へ、女郎達の御酌にて御酒盛とぞなりにける。此人々の御中に比翼連理の御契り実に浅からぬ様に見えにける。此事、横山のところへ聞へければ五人の山見をば呼寄せて、いかに、汝方乾の御所に客来る声ありは存ぜぬかと、尋ねるに、いやいや我も存ぜぬ、吾も知らぬと申ければ、横山立腹し、武蔵相模両国の郡代を致す考なれば、何より気支いになり。三男の三郎を軍大将にて照手諸共打って取れと申附らる。夫より、三男支度致し二百騎の軍勢引連れ軍音を取極め、三男軍大将にて黒毛馬に打乗って、あぶみふんばりくら笠に突立上り下籠へと矢を五十対を御右手には重藤の弓を持ち、二百騎の軍勢を引連れて乾を差して急ぎける。乾の御所間近き所にて候へば、高貴の聟入りとあれば、何より気づかいになり、爪腹召されよ、さもなくば、只一打と打て取れと大声かけて呼るる声をふっと心得たりと、十人の殿原達袴の股立取って大刀をすらりと抜き放ち、二百騎の軍勢を相手として、火花をらして戦ひ、中をひらりと飛び給ひ射る矢を手にて請取くも手かく山十文字八字打通し縦横無尽に戦ひしが、二百騎の軍勢皆矢を射尽し◯も我々の及ばぬ事なるや打負けたるやと逃出す、皆横山宅ゑと帰りける。いかに父横山あの小栗判官と申するは父は都三十六人の御中に三条院高倉大納言兼家と申するは四、五十に成っても世嗣なき故、鞍馬多門に祈願をかけ夫婦諸共七日断食致されて、誠の鞍馬の申子故なれば、中をひらりと飛び給ひ、射矢をも手にて請取って候へば中々以て我々共の及ばぬ事なるや、あのやうな者は聟に取置成されたれば、一方を防ぐ大将とも成べし。捨置れては如何と申すれば、横山大いに立腹し、若き身なるに打負けては悲境なり。年寄れ共、此の横山、唯一打に打って遣すと刀の相口を七、八寸くつろげ膝立直しがたがた致され候へば、三男三郎はいかに父殿先、以て、御控なされ我宅には是より八丁の山奥にかや原の中につなぎ置きしあの鬼鹿毛馬は何の為めの馬にて御座るそゃ。あの馬は、我々の手に余る者を馬草に替て食するが為めの鬼かげにて御座る。父、横山も成程と思ひ三男あの鬼かげに食する工夫は先、明日成るならば聟舅の盃現来とし使者を立せべし、小栗来る事は必定なり、其時酒をさんざんもてなし三献目にて成時に何の都の客来るに肴を取届けよと日ふべし。其時、小栗申さんに弓かまりか仕らんと申すべし。其罷出りや、父様は若き時より馬を好かれ候故一馬場に取屈せん。横山聞召しよき事をたくらむ三郎哉。左様ならば直様汝方乾の御所に使者に来れ、畏って候と三郎は乾を差して来りける。小栗判官公昨日御振舞の段は平に御赦免御下さるべし。今日は父横山公が申使せしが、聟舅の現来に御酒一ツと申すれば、小栗判官聞召し、何の勝に事に負ずと直に出で来らんと十人の殿原を引連れ横山宅へと急ぎ歩みけり。『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【相模国、現在の高座郡六会村西俣野の大塚山に登り、商人が向こうから見ると、乾の御所である照手姫の屋敷と、こちらには横山大膳信久の屋敷がありました。乾の御所の方向に見えるのは、殿久保という五人の側近でした。そこで、乾の御所へ行って休息し、しばらく滞在させてほしいと私は頼みました。商人の要望に応じて、小栗判官が呼ばれ、小袖(着物)をいくつか提供してくれました。後藤は私たちの家を訪れ、その後、小栗判官のもとに行きました。その後、私たちは乾の御所に向かいました。番衆と出くわし、「あなたはいつも来る客ですか?」と尋ねられました。私たちは雨が降っている座敷の景色を楽しんでいました。しばらくすると、夫からの小栗判官が乾の御所に来ました。景色を楽しむことに加えて、私たちはさまざまな料理を用意し、女性たちに酒を勧めました。人々の中で比翼連理のような関係が見られました。これについて横山に尋ねたところ、五人の山見(山中での見張り役)を呼び寄せ、乾の御所に客が来る声が聞こえるかどうかを尋ねました。山見たちは知らないと答えました。横山は立腹し、武蔵相模両国の郡代を務める考えに至り、三男の三郎を軍大将として派遣し、乾と戦わせることにしました。三男三郎は軍勢を率い、黒毛馬に乗り、弓矢を持って乾の御所に向かいました。乾の御所に近づくと、高貴な人々がいました。それを見た三男三郎は気づかい、爪腹を呼び寄せて戦いに挑みました。しかし、二百騎の軍勢相手には太刀打ちできず、敗北しました。皆、逃げ出し、横山の家に帰りました。横山は、自分が都の有力者であることを示し、三男三郎にもっと戦わせるよう命じました。三男三郎は軍勢を引き連れて再び乾の御所に向かい、戦闘が繰り広げられました。しかし、乾の軍勢は矢を射尽くし、敗走しました。それにより、乾の御所の客たちは遠ざかり、山中に逃げました。横山は、父が都で高倉大納言兼家であることを語りました。父は世継ぎがいなかったため、鞍馬多門で祈願をし、子供が生まれたという鞍馬の申子だったのです。それから、父は三男三郎に、乾の御所の客として小栗判官に振舞われた際には、酒を振舞ってほしいと伝えました。父横山は、乾の御所の使者が来るだろうと予想し、小栗判官に酒を振舞うことを提案しました。その後、小栗判官が使者として来たとき、弓矢を持つように小栗判官に伝えました。小栗判官はそれを受け入れ、急いで横山宅に向かい、酒を振舞いました。】【要訳照手姫も、その文をすっかり気に入り、二人は相思相愛。ところが、姫の父親の横山大膳は、この結婚に猛反対。しかし、そのことは表に出さず、三男の三郎がはかりごとを巡らし、ひそかに小栗を殺そうと企てる。そんなことともつゆ知らず、十人の家臣と横山家を訪れた小栗。】相思相愛の小栗判官・照手姫。「小栗宣命を鬼鹿毛に行のうの段如何に鬼かげ聞入れよと、牛は大日如来なり。馬頭観世音の化身と聞くからに余なる馬と申するは、寺門前につながれて、経念仏をきく時は人こそ知ら弥常に仏名と述る汝又かく萱原に繋がれし経念仏を聞かざれば畜生の中の鬼ぞかし。むかし大国のことかとよ。ぎやうさう国のさつた王。ぶもけふやうの其のため。あん国せんにのぼらるる。千りつゞきし竹のはやしに成ぬれば。ゆきかう山にふりつもる。虎がゑもつはなかりけり。虎比由をみるよりも。ぶくせんととんでかかる。さつた御らんじ、少のいとまをさせよとて「如是畜生発菩提心虎成仏」と解き給ふ。虎は、仏に成りとかや。其の身も成り仏とけてあり。汝の姿を木像にきざませ俣野の原に四十八間四面に黄金の塔を建て、供養して馬頭観世音と祝いてこそは得さすべし。鬼鹿毛いかにと仰らる前膝折って、うなだれて是は鬼かげ乗せる気かと心ひかれ、元より鬼かげ名馬の事なれば、小栗殿のみ額に米と言ふ字のすわり、両眼に阿弥陀如来の立給ふを見てより、ものせんと言はぬ斗りにて、前膝折ってうやまいたは、只、人間物を知らぬなり。小栗此の由御覧して、此はこれはいかさま鬼かげのせる景色と見えてあり。さあらば鬼かげに力の程を見せてくれべしと津々と立寄り、くさりに手をかけゑ候や、いとねじ給へむ鉄金強しと申せどもちらりと切れて見えにけり。目かんぬき取てかしこに捨て戸開をひらき其身に馬が平首にいだき付やうもん三べんとなへ給えば、少しも仔細はなかりけり。八方八ツの鎖を一所に御取あり。エンヤットねじ給へば、是もばらり、とれてのこらず取て中をきりりとねぢ合わせ、是をがっしとはませ、頓も馬屋を引出し、すでに乗らんとし給ふが、まてしばし斯様に心ある馬ならば、無駄には乗るまじ一誉めて乗らんとて、馬引出して誉られたり。ノウ此馬候やよき馬と吉興なり。胸は出張たりまはり惣身をもかほとしはとなく不うかいあれて上のロをつって下口をたれてたつの首の如くなり。耳の容態は年を経たるほら貝をニツ取ツておし合せ中より不たんを出た如くなり。眼は鋭く黒して赤金のめつきをし朝日に向ふの如きなり。鼻の様態は法華経の巻物をニ巻合せものゝ上手が造附たる如くなり。志め髪の容体の山すげヶ谷の嵐に一もみもふてふはりと靡いた如くなり。胴の骨の容体はむら重藤が弓の弦を張りたる如くなり。前足の容体はさせ大唐竹に根引してありそのふしをぬき碁板の上たる如くなり。腹の容体はまりをくゝりたる如くなり。後股の容体は庭の批把に二把合せ物の上手が造り附けたる如くなり。尾の容体は奥山の大滝がたきれにたきれてたったっと落る如くなり。志かもけいしのほねあれて鳥の小ぶねになれあいてせいて下り、まいては上り毛なみふねあいよめのふし。爪はあつふて筒高ければ竜の毛にてちり打払ひ。天晴、此馬に打乗りるまじと誉め給ふ。小栗は鬼か毛にむんひらりと乗り給ふ。小栗に、どう骨をはさまれて勇み勇み此処のたとへとは無けれ共、猿猴がこづゑをつたい荒鷲がとやをやぬりてきしにあうあうたる如くなり。八町の萱野を疾く疾くと地道にて乗給へば、白あは吹ひてぞ出来る。殿原達余り面白さに大声上げてぞほめにけり。夫より、小栗はいさ各々来らんと乗出し給へば、横山は今頃は馬に喰れ小栗の最後を見物せんと敷革持せ出られける。三男三郎馳せ走り見に来り候時は、最早山の下〈ぞ乗り下り、三男是を見て急ぎ引返し何に馬に喰るゝ所か、裸馬にて打乗り、地道にはとくとくと、今直に屋敷へ乗込中と候と告げければ、横山もあきれ果ててぞ居りたりけり。鬼かげを横山の門前に繋ぎ置き、一馬場せめ申すべしと、庭先へ乗込み給へば、太郎あまり面白さに三間梯子を持出し、軒場に掛け、これゑこれゑと所望すれば、乗りて見せずんばひきようなり。トクトクと屋根へと上り、詰め屋根も破らず、元の平地へ乗下す。余りの面白さに障子一本取出す、是へ是へと所望する、是もきらず乗り下す。横山、又、碁盤一面取出し、是へ是へと所望する、是も、乗って見せんとてすとすとと乗り給へば、ほねもいためず紙もきらず乗り下す。横山、又、基盤一面取出し、是へこれへこれえと所望すつ、是も、乗って見せんとて四足を揃ひてドッと乗りひきよくを尽して乗り給へば、横山実にあきれは果て、御苦労御苫労と苦誉して庭の桜の古木へ繋ぎ、元の酒宴の座へなをり、夫より家来の者共は右手左手に座らせてあの様な六ヶ敷馬は買はねがよきと申度候へど差支へ、扨て、あの様な猫のような馬は猫鹿毛とも言ふべきや、あまりな事で、御座るなと申しをかしくはなけれ共、一度どっと大声上げて笑ひければ、鬼かげ馬はおれが噂を言ふのかと心得て庭の古桜を根元より折りて、武蔵の方へととっとっと飛出せば、横山一門の者共は、あの馬が逃がして置く事なれば、武蔵相模の人種が絶る故、元の馬屋へ繋ぎ下されと、流石の横山も手ついて小栗に頼めは小栗聞及び広縁の出し、夫より小馬繋ぎふようもんを三度唱へ、日の丸の扇子にて招かれ給えば、鬼鹿毛馬は直様鼻を返して、ヒラリヒラリと飛返り鬼かげ馬は小栗の前にぞ耳をたれ敬いける。御身はかろげに打乗り元の廐に乗込めば、元の如くにしつかと繋ぎ置てぞ帰りける。小栗照手姫を連れて常陸の国へと帰り遊ばせば、今は目出度暮すべきに余り面白さに又乾の御殿へ帰り遊ばし錦の夜具にきら枕を取寄せて「比翼連理」の御笑ひを楽めば又三男の三郎の工夫を廻らしける。『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【どのようにして鬼かげと呼ばれる馬が聞き入れるのかと、その馬は大日如来の化身でした。馬頭観世音という仏の化身であることが知られ、非常に特別な馬でした。この馬は寺の門前に繋がれており、仏の名前が唱えられると、まるで人間のようにふるまうのです。しかし、経典や念仏が語られない場合、ただの動物として振る舞うのです。この馬は、昔、大国と呼ばれる場所で王様に仕えていました。ある日、竹の葉を食べることができなくなり、山に向かって行くと、雪が降り、虎が姿を現しませんでした。虎比丘尼という女性が現れ、馬に菩提心を持つように説きました。すると、馬は本当に菩提心を持ち、虎に変身しました。人々はこの出来事に感銘を受け、馬を木彫りにして俣野の原に置き、黄金の塔を建てて供養し、馬頭観世音として祭り上げました。しかし、主人公である小栗は、馬をただの鬼かげだと誤解し、馬に乗ってしまいます。小栗は馬の力と速さに驚き、さまざまな奇妙な冒険に巻き込まれます。小栗は鬼かげの力を試すことを決意し、馬をくさりで繋ぎ、鉄の鎖に手をかけますが、それでも馬は自由になりました。目隠しを取って戸を開けると、馬はすぐに平首になり、三度も馬を乗せようとしましたが、まったく乗ることはできませんでした。馬は鎖や鎖を外す方法に対しても無関心で、どんなに困難なこともありませんでした。小栗は鬼かげの素晴らしい力に感銘を受け、その後、馬を照手姫と一緒に連れて常陸の国へ帰り、幸せな日々を楽しみました。彼らは錦の夜具やきらめく枕を持ち込んで、幸せな比翼連理の生活を楽しんだのです。そして、小栗の三男、三郎の才能も賞賛されました。】【要訳そこで横山大膳は、馬の鬼鹿毛(おにかげ)に乗ってみよと誘います。この鬼鹿毛は、小山ほどもあるという暴れ馬。人間を秣(まぐさ)代わりに食べている人喰い馬で、これに殺させようというわけ。ところがこの暴れ馬、今にも小栗を踏みつぶすかと思いきや、小栗に言葉をかけられた途端、すっかりおとなしく従順となる。小栗を背中に乗せて、碁盤の上に乗るという曲芸までやってのける。】馬の鬼鹿毛は小栗を背中に乗せて、碁盤の上に乗るという曲芸までやってのける。【照手姫宇津路船にて流さるるの段斯て、ややありて横山申す、人々の子を害し、わが子を助け置事なかれと言ふて、都への聞へもありと申して、(こんこん)と言ふて、うつろう船を作り、(今の高座郡鎌倉郡の境いの境川に流せよ)と、鬼次兄弟を呼出し申付、簾中に指して入りたる。扨て、鬼次兄弟は迷惑至極なり。如何に主人に奉公致すとて千年も万年も命ながらいはせまじとて悔みたり。然れ共、主人の仰に候得ば、是非も無く乾を指して来りけり。乾へ来り、兵庫の局に対面し、小栗殿本日来し其座敷にて切腹相被下候間、御姫様を境川へ「うつろう船」にて流せよとの仰せ付に候付、此段、御姫様へ此事御申聞かせ下さるべし。局打驚き、夫は又何事じゃと、直様御姫様に遂一申上候へば、姫君にはその兄弟の者を簾中近くへ呼び寄せて、鬼次兄弟に嘆きながら簾中近くへ来り、偖て、小栗客来の座敷にて切腹なされ候とや、それは、夢かや幻かや錦のしとね綾の枕もさめぬ内切腹とや自から少しでも知るならば、小栗殿に腹切らせ、其の刀で自切して死んで大河を手に手をとりて越さん者と落涙して泣ました。ややありて申す様、あまり嘆くは後世のさはりと聞く中に、肌の守りと鬢の髪は母上様へ奉る。唐の鏡は藤沢の遊行上人殿へ奉る。其外女郎達には小袖を上げべし。上着小袖は鬼次兄に上るべし。必ず妾しが死んだ其後は念仏申して呉ぞかし。女郎達姫が顔を見給へや、自らもそち達の顔を見置ぞかし。是が、此世の暇乞又々ワァート泣出す。はるか沖に当て松明あげ候得ば、此世の暇乞となさんと約束通り松明上げ候得ば、皆々申候、昔、釈尊が死んだ其時は、鳥類、畜類、皆集りなげき悲しむ。夫れには劣るまいと言ふて泣々皆帰りけり。鬼次申様、いかに鬼次の二人の外、人もなし。千年も万年も生るでなし、御命を助け申すべしと声高し、声低し申上れば、姫喜び必ず、了簡なされよと、拝めば、流石の鬼次も姫の腰の重りの石を腰の差添抜散し、言ふより早く切り落し、うつろう船に乗せて押出し、流石の悪党の鬼次も、吾身の程を覚へ大粒の涙をこぼし何処の国へき栄へよと、共に分れ兼て泣く泣く横山が宅へ帰り、照手姫を只河中へ沈め殺したりと告げれば横山大膳大に喜びたり。『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【どのようにして鬼かげと呼ばれる馬が聞き入れるのかと、その馬は大日如来の化身でした。馬頭観世音という仏の化身であることが知られ、非常に特別な馬でした。この馬は寺の門前に繋がれており、仏の名前が唱えられると、まるで人間のようにふるまうのです。しかし、経典や念仏が語られない場合、ただの動物として振る舞うのです。この馬は、昔、大国と呼ばれる場所で王様に仕えていました。ある日、竹の葉を食べることができなくなり、山に向かって行くと、雪が降り、虎が姿を現しませんでした。虎比丘尼という女性が現れ、馬に菩提心を持つように説きました。すると、馬は本当に菩提心を持ち、虎に変身しました。人々はこの出来事に感銘を受け、馬を木彫りにして俣野の原に置き、黄金の塔を建てて供養し、馬頭観世音として祭り上げました。しかし、主人公である小栗は、馬をただの鬼かげだと誤解し、馬に乗ってしまいます。小栗は馬の力と速さに驚き、さまざまな奇妙な冒険に巻き込まれます。小栗は鬼かげの力を試すことを決意し、馬をくさりで繋ぎ、鉄の鎖に手をかけますが、それでも馬は自由になりました。目隠しを取って戸を開けると、馬はすぐに平首になり、三度も馬を乗せようとしましたが、まったく乗ることはできませんでした。馬は鎖や鎖を外す方法に対しても無関心で、どんなに困難なこともありませんでした。小栗は鬼かげの素晴らしい力に感銘を受け、その後、馬を照手姫と一緒に連れて常陸の国へ帰り、幸せな日々を楽しみました。彼らは錦の夜具やきらめく枕を持ち込んで、幸せな比翼連理の生活を楽しんだのです。そして、小栗の三男、三郎の才能も賞賛されました】「要訳横山は、息子達と再び謀議。照手は、夢に見た夫の未来を案じて止めるが、小栗は横山の館へ行ってしまう。横山はついに小栗を十人の家来諸共、毒殺してしまう。また、娘の照手も相模川に流してしまう。」兄弟には、どうしても姫を殺すことができません。沈めるための重しである大石をつないだ綱を断ち切ります。かくて姫を乗せた牢輿は、沈むことなく、流れ流れて川下へ。【照手姫松葉いぶしの段去る程に、照手姫河中を夜昼の差別無く、流れ流れて川下の片瀬越して、江の島へと、浮つ流れつ吹き流され、腰越沖の海の中へと浮きつ流れつ漂ふを腰越の漁夫呂八と言ふ慈悲深き人あり、妻は至つて鬼婆となり、或時、呂八海上に網打に行きける。向よりうつろう船とか言ふ、みやうな船一艘見へければ、櫓竿をいて行き、近寄り見れば、只、船中に女一人ありければ、其女をば吾船にうっし吾家を差して帰りける。女房に斯と告れば、有余る身の上らしき御馳走ぶると、火を吹く顔の女房に、姫は気の毒り次の朝いとまを告げて出んとせしを呂八引止め明日用事あり。大森辺迄来るならば、送来らんと情ある言葉に其の日も、終に止りける。呂八今日も暮方より網打かつぎ浜辺差して出行くも、後に女房おとまは身の上、それより志かじかと猶、疑いて隠妻と相違ないと邪推して、姫を己が側へ引寄せ、眼を怒らし、松薪振り上げ姫の黒髪幗んで打ちたゝき、情用捨も荒繩に姫を棟木にくり上げて下より松葉の青ぎをくべて火のつけていぶしければ、煙りは目口にむせびいり、姫は、泣しさ苦しさも絶ゆる斗りになりにければ、姫は之迄と守本尊を日頃拝し居ければ、南無守宮本尊助けて給へと有りければ、煙は段々婆が方へと傾き、いぶせばいぶす程色白き見る見る内に猶一層の美人となり、流石無情の鬼婆もあきれ返り居る処へ、折柄おとまが舎弟にて眼造といふ小悪者、爰に至り外より内を打覗けば、姉なるおとまが美しき女を松いぶしにするは合点の行かぬと、ずっと這り様子を聞けば嫉妬に八百眼造忽ち胸算段姉に何やらささやけば、おとま忽ちにっこりとして表の方へ行きにける。眼造立上り、くゝりし繩をほどきさまざまと介抱するに、此上又も憂目に逢はんと又も守本尊を念じつゝさしうつむきおはしける。眼造は至りけり。猫撫声でコレコレ女子、気を慥に持て、さぞくるしかったであろう、此の家の妻わしの姉なれども、心狭くして女の心から斯様な責わした上からは必ず気支はない。先、此家の女房の帰らぬ内、私が家迄同道して、夫から先は志るべく方へ行き心の儘と情ありければ、地獄で仏と後の難儀も知らぬで只管たのめば眼造は得たりと悦び、猶も親切らしく大魚籠取出し、其中に娘を忍ばせ、我家に連れ行かず、小船に打乗せ浦賀沖なる人買船に連行きて三十両にて売渡し、其夜は姉の方へ帰り少し金を分けて与へ素知ぬ顔で別れたり。偖々、照手姫は眼造にあざむかれ人買の船乗女の源次に売渡され、此上如何なる憂目に逢ふ事かと心の内に思ひ苦労を重ね居る内に、夫より又房州より来れる人買船が沖合に居り厄病神の三次と言ふ小船に三十五両にて源次は売渡し小出原沖にて、又も、三次は人買船を見付け船乗りの助八と言ふ者に、照手姫の美女たるを自慢に四十両にて売り飛し、助八は又も沼津沖にて貧神の孖助と言ふ人買に助八は四十五両にて売飛ばし吾助は又もや駿河湾沖にて人買の喜造と言ふばくち打の親分に五十両にて売渡し、此喜造と言ふばくち打は年中美濃の国府方面に天下の流浪人を集め、賭博開帳し居る故、此頃、国府に万屋長右工門と言ふ、旅人屋有り、女中も多数有る故、是を目的に此の位の玉ならば、客も取れるし相当価売も出来るし、若し、相談出来ざる其の時は、吾が左妻として囲ひ置く事と度胸を定め、万屋差して急ぎけり。或日喜造長右工門を呼出し、本日吾々訪問いたしたるに常陸の国の生れ小萩と言ふ芸者なるが、御当家の昌伺に是非御奉公致度と申立迄、連参り候。玉は御覧の通り、此の位の美女は日本には二人とはあるまじ御気に召したば、大まい百両にて御売渡し申すべく。若し御気に召さなければ、当分の間十五畳一間に良い女故とすっかり惚れ込み此顔立では相当客の御相手も出来るだろうと、百両束を投げ出して、契約も済みました故、喜造の悦びは並大抵では御座居ません。旦那随分御頼み申します。何れ又御目にかゝりませうと御礼もそこそこに出でゝ行く。喜造道ゝ一人言こんな旨言が毎日一ツあれば、御上の御目を盗んで人の金を胡魔化さなく共立派に五十両宛一日に儲かる。此様な事が毎日あれば、ばくち止める者と一人言を言ひ其夜は或茶屋でたらふく飲み尽したそうです。後には長右工門姫に向ひ御前は是から妾の家の女中ですから泊客の相手又御気嫌取りなど良く勤めよと言渡せば、姫は両手を突き、妾は常陸の国の生れ名は小萩と申すが訳あって御当家へ御厄介になります。何卒宜しく御願ひ申します。さり乍ら、私事は神に誓ひ必ず男に肌をふれませんと大願かけて候へば、此の事計りは許しなされて下さりませ。其外の事なれば、かしき、水仕事、いかなる事でもいやとは申しませんと言ふより長右衛門案に反し、金は渡したし、此の玉で一儲けせんと思ひしが、男がきらいでは仕方なし。段々様子を訪問すれば、事情あって国を出で、女の身一つで便る者なく、さまよう内に悪人共の手にかゝり、船人にだまされ良き処へと、地獄に仏と喜び居たる内、「船内から」船内へと人買船から人買船へと売渡され、此御家迄には十人位の手にかゝり、今、此、仕末自分で自分の心さへ夢か現か分らない推量あれと斗りに泣伏せば、流石長右工門も共涙実に不敏なる事なると、夫より外の女子の手前もあり、小萩は今日より十七人前の働きを言ひ付たり。『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【かつて、照手姫は川中を昼も夜も区別せずに流れ、片瀬を越えて江の島に漂着し、次に腰越の海中に漂いました。そこで、呂八という漁師が優しい心の持ち主で、彼の妻は鬼のようになっていました。ある日、呂八は船で網を打ちに出かけました。帰り道、不思議な船が目に入りました。その船にはただ一人の女性がおり、彼女を自分の船に連れて行き、自宅に帰しました。その女性は身の上に不幸なことがあったようで、女房にはすっかり身の上を話し、お礼におご馳走を振舞いました。しかし、その女性は翌日早く出発する予定で、それを告げると、呂八はその日も女性を引き止めました。もし大森まで来るつもりなら、送りますと言葉をかけられ、その日も泊まりました。呂八は翌日も網を打ちに行くことになり、しかし、彼の女房は女性の身の上を疑っていました。女性は何か秘密を隠しているに違いないと考え、彼女を自分の近くに引き寄せ、怒りを込めて叱りました。そして、女性の黒い髪を引っ張り、情け容赦なく扱い、最終的には彼女を縛り上げ、松葉の上に火をつけました。煙が目にしみ込み、女性は泣き叫びましたが、姫は守本尊に祈りを捧げ続けました。南無守宮本尊、助けてください、と。そして、煙は少しずつ傾き、燃え尽きました。すると、女性はますます美しくなり、鬼のような女房も驚きました。そのとき、屋根裏部屋で聞き耳を立てていた、姉妹のおとまの兄である眼造という悪党が、美しい女性を見て嫉妬しました。眼造はおとまに対して何かほのめかす言葉を投げかけ、おとまはにっこり笑って外に行きました。眼造が立ち上がり、縄をほどくと、女性は様々なことに挑戦しましたが、嫉妬に燃えた眼造は姉に対して何かをたくらみました。おとまは笑顔で向かいの方に行ってしまいました。眼造が再び立ち上がり、縄を解いて様々な方法で女性をいたわりました。この上、女性はさまざまな困難に立ち向かい、絶えず守本尊に祈りました。しかし、彼女は何度も売られ、多くの男たちの手に渡りました。最終的には喜造というばくち打ちの親分に五十両で売られました。彼は美濃の国府近くでばくちを開いており、美しい女性が客を引き寄せ、儲けることができると考えました。喜造は女性を長右工門という旅館に売り渡そうとしましたが、女性は男性を嫌っていました。しかし、彼女は金を受け取り、男性を受け入れざるを得ませんでした。その後、女性は十七人前の働き手として、常陸の国で働くことになりました。彼女は誓いを守り、男性に対しては心を許さなかったが、自分がどこから来たのか、自分の過去が夢か現か、分からないままでした。】「要訳腰越沖の海の中へと流れ着き漁師に助けられる。漁師の妻は嫉妬深い女だったので照手姫を松の木にしばりつけて、松の青葉でいぶり殺そうとしました。しかし姫はまたも観音様に助け られたが、漁師の妻に人買いに売られてしまい、流れ流れて、美濃の国の遊女屋「万屋」に売られる。だが、照手は遊女になることを嫌い、小萩と名を変え下働きをして苦労する。照手姫の白い美肌も気にくわない漁師の妻は、姫の雪の肌を黒くすすけさせてやろうと、松葉をくべて煙責めにする。けれども、姫は無事に過ごします。というのも、姫のかげに寄り添っている観音さまのおかげなのであった。「小萩清水をくむの段御いたはしや、小萩こそ化粧道具を請取て拾八丁向ふなる清水を汲みに出給ふ。心の内こそあわれなり。漸々清水に成ぬれば、桶をどんぶとおろしつゝざんぶと汲みて桶に人れ、汲みたる清水で顔見れば、南無三宝やつれたな、妾が姿夫れに離れて此方は前垂、たすきで暇もなく髪に櫛の歯入ざれば、劣えたる如くなり。是も誰故、夫の為め思へば、恨とも思はれずと相模の方を打向ひ念仏申夫が為め、又も申す念仏を殿原達へと回向して、汲みたる桶を肩にかけ、萬屋さして来りける。長右ヱ門此の様子を見るよりも又も御銭を取出していかに小萩此一文の銭にて世中の市で「トウナン、セイナン、ウゴモリ、カゴモク、カイロウイチシ、並のオノコツレオノコの七色の買物が一色違ふ者なれば、ながれを立つと、思ふべし。長右ヱ門奥へぞ人りにけり。いたましの照手姫とある所に立つよりくどき事あはれなり。相模の国にありし時は、百人一首の札までもっくづくおちやめの上に至る迄、から名を付てつかいしに。いやまてしばし我心是程いぶき事たして、萬屋差して帰りける。如何に御主人御覧ぜよ。先づ、トウナンとはつくづくし、セイナント申すはせりの事にて御坐なきか、ウゴモリトはうどの事、カゴモリトハ山芋の事、カイロウとはゑびの事、イチシと書いていちもちよ、扨ナシノオノツレオノコとはその事のはらにて御座なきやと買って参りました。此の七色の買物が一色違って居りましても、流れをゆるさせ給へとて涙ながらに申しました。長右ヱ門是を見るに偖不思議なる哉、出来ない相談に一文の銭にて是丈の品物を寄集め又此の符調を此で買求め来るとは実に不思議な女なり。何ぞ、訳ある身なるべしと、茲に始めて驚き、十六人の女中達も余りの事に打驚き、小萩様小萩様と情をかけ働き止め、さして真の上番の客相手にとなされました。『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【おい、小萩よ、化粧道具を持ってきて、18丁の清水を汲みに行ってくれ。心の中は可哀想だよ。少しずつ水を汲んで、桶を下ろし、その水で顔を洗った。南無三宝(仏教の祈り)と唱えて、自分の姿を見てみたが、ああ、疲れ果てているな。髪をたすき掛けて、髪の毛をとかずにいた。なぜかって?夫のためだからさ。恨むこともない。相模の方を見て念仏を唱え、その念仏を殿原たちにも回向して、桶を肩にかけて、万屋に向かってきた。長右ヱ門はこの光景を見て、さらに金を取り出して、小萩に言った。この一文の金で、世の中の市場で『トウナン、セイナン、ウゴモリ、カゴモク、カイロウイチシ、オノコツレオノコ』と呼ばれる、七色の品物が一つだけ異なるものを買ってこい。長右ヱ門の奥には人が立っていたが、照手姫と言うのに夢中であった。相模の国に住んでいた時、彼女は百人一首の歌までをくどくどと暗記していたのだ。私はしばらく彼女を見ていたが、いぶきが立ち上り、万屋に戻るように促した。御主人に見せてみろ、と言った。最初に、トウナンとはしっかりとした座布団を指す言葉であり、セイナンとはせりのことである。ウゴモリトは、うどのことで、カゴモリトは山芋のことであり、カイロウはゑびのことである。イチシは「いちもちよ」と発音され、扨ナシノオノツレオノコはその内臓を指し示す言葉である。これらの七つの異なる品物が一つずつ違っていても、それを受け入れてくださいと、涙ながらに頼みました。長右ヱ門はこれを見て、何とも不思議なことだと驚き、この一文の金でこのような品物を集めてくる女性は不思議だと感じました。なぜなら、それは一見不可能な依頼だったからだ。茂みに何か訳があるのだろうと思い、初めて驚き、16人の女中たちも驚き、小萩様と呼んで情をかけ、本当の上番の客の相手をすることになりました。】「要訳「常陸小萩」と名を変えた照手姫は、井戸の水を汲み上げて運んでは、お客の世話やら馬の世話やら、下女16人分という超ハードな仕事に明け暮れたのであった。」井戸の水を汲み上げて運ぶ小萩(照手姫)。「小萩餓飢阿弥車を引く段いたましゃ、小萩は、主人に烏帽子を申受け紐を結んで下にさげ、裾を結んでかたにかけ、門外差してぞ出給ふ。手綱に引付エンヤラエンヤラと引く程に、萬屋門外早過ぎて、宿々町々関々をひけよひけよと此事を音頭取って引かせける。姫が涙はたるい宿、ふはの関やの板びさし、月洩れとてやまばらなる、美濃近江の境なる寝物語やさめがいの嵐小嵐番場ふけとて、袖寒や、ゑち川を渡れば早やたつたの小野に付くとやすり鉢峠の細道をヱンヤラヱーと引程に御代る鏡山雨は降らねど森山や「がきやみ」の胸の木札に露の玉をば宿らねど草津のしゅく山田下田を見渡せば、さも美しき小乙女の小苗をとり田植歌にぞ歌いけり。五月花の花を見ながら飛んで「ほととぎす」山雀、弘雀、四十雀、長鳥谷も分渡れば、五月花の今が盛なり。小草若草苗代をば打望めつゝ行く程に、尚も思いは瀬田の唐橋をトントロトントロと打渡り、石山寺かや鏡が、かすかに耳にふれ、粟津はや過ぎ裏場に船止めて、彼の山みたい他の山見たい行路の音に驚きて、沖にかもめがバッと立つ。御いたはしや小萩こそ美濃を立出で今日ははや、三日の暇も大津の関寺や、玉屋が門に車付く。別に宿を取るべきか、イヤ待て暫し吾心「がきあみに」添ふも今宵一夜の事なれば、共に一夜を明さんと、車の傍に立寄りて夜もほろりほろりと泣明し。偖は餓鬼飢阿弥が耳に聞ゆる物あれば、冥途の事を聞きたいと、目が又見ゆる物なれば、一筆書て見せたいが、耳は聞へず目は見へず、思に甲斐なきガキアミと泣いて其の夜も明さるる。彼の宗占の鐘の音、月も数へて百はぼんのうの夢を覚ます様の声も静かにて玉屋の方に参り硯と筆を取揃ひガキアミが胸の木札に御書添をなされる。此度ガキアミが車を引く人は中山道は美濃の国青墓の宿万屋長右ヱ門の下の女、見つしの常陸の国の小萩と申せしは上下五日の人なり。くまの本宮の湯場に入りて、耳目明に平癒仕り必ず下行の其は尋ね候へと事懇に書留めて筆もかしことからりと捨横手を一ツ一寸打ツ、扨ガキアミと夫婦の生縁はなさね共いつぞや相模にて夫小栗に離れ志も今かきやみに離れるも何たる生縁つきずして何れ思いは同事、哀れなるやは二ッ屋子一ツは美濃に帰りつゝ、又一ツはガキアミが諸共に熊野本宮の湯に入りて病平癒仕り地獄の様子を聞たりなんは二ッ身は一ツ思ひて甲斐なきガキヤミと、余りの事に連なさに、是が別れが悲しさと泣々側を立退いて美濃国へと帰りけり。も夫よりカキアミ車引人多くして大津のうらを引出し、日野岡峠を遙々と都の町を引過ぐる。山崎千軒宝寺早や津の国に入ぬれば、天馬の森をはるばると急いて心の程もなく権現坂にと就にける扨是よりもカキアミ車には叶ふまじとガキアミを籠にのせ変り変りに擔き込み程なく湯屋に成ぬれば、世話は落なく権現は現はれ給ひガキアミの介抱させ給ふ。一七日入湯し給へば耳は聞ゆる目も見ゆる。二十七日には兵法早業三帯と申しには元の小栗に誕生成らせ給ひける。小栗のさぬる思にて是は正しく熊野山の御山と覚へたり、アラ有難やとふ仕拝み所え権現が山の武士と身を変じ金剛杖を二本御切り如何に夫れ客僧金剛杖を召さぬかやと問へば小栗申す様忝なく此街道をカキアミと呼はれ志も何ぼ無念と思ひしに金剛杖買とは吾を調伏するのかと、ハタと睨んで申すれば、其時権現は如何に客僧此杖に何ぼ由来のましましや一本は音無川に流すれば死での後に長途に赴く時に弘誓の船と浮ぶなり又一本は津き山鹿に下向ましまさば侍ならば所領と見る何程目出度此杖を値か無くば得させんと、かしこに投捨烟の如くに消にけり、小栗御覧じ、扨ては只今のは権現にて御坐るかと御後三度伏拝み数の如く一本は音無川に流さるゝ。扨て一本は津きて鹿の下向ましますが、是より直に美濃の国へと思ひしが一先父母の寿命は尋ね申すべきと思召都差してぞ上らるゝ、頓て都に成ぬれば三条院高倉大納言兼家の御所に行かんと立寄れば、熊野へ通る山伏に時料をたべと申すれば折節小殿の母上は今日は小栗の命日なればあの客僧を召時料を来らすべしと、表に立出如何に客僧来らせん。此方へと御目近くぞ召れける母上御覧じていかに客僧そなたは国は何処とましますかと小栗は取あへず、余は常陸の国とのみ申しけり母上是も聞き常陸の国と聞けば吹く風も馴かしやと吾子小栗も数年の間常陸の国へと流人となりありし其の時に相模国に武蔵の郡代を致す横山が密謀にかゝり毒酒に係って殺されたる。其の由を風の便りに承り常陸の国の客僧にて来たらすなら、小栗最後の体を御存じあるべし。話して聞せ給えや、客僧と先さめざめと泣給ふ。小栗聞召包むに色々増す風情今何をか包むべきか、某こそは此の三条院高倉が一子小栗判官にて候や、今漸々神仏の加護に依り蘇生いたし一遍上人の御助けにて宿次々の多勢の御慈悲にて熊野本宮の湯に入り、僅かニ十七日にて全快いたし、直様常陸へも何とやら久しく逢はぬ母様父様一目逢して下さいと、此世からの有様をば物語れば、母は夢かとも思へ共小栗殿に取りすがり物をも言はず御悦び限りなし。かゝる目出脱ぎ事をば、一刻も早く父兼家殿に申次げんと直様奥えと人りけり。兼家公に近付きて右の様子を物語れば、兼家公も大悦びイヤサ、夫れ、さ見聞せん、而し乍ら死にたる者が何として帰り申すべき。夫は、御身が明暮小栗を焦れて歎きに入更に他人が変装して来る物なるべし。イザ対面せんと座敷に通り立出でイカに客僧御身は吾子小栗と申せしが、吾子小栗と申するは八幡山の鞍馬多門の教へにて、兵法、早業あり、此矢を以て汝を射止め申すべし。若し客僧汝小栗に之有時は、此余が放つ矢を両手を以て取むべしそれなき時は汝の命は此矢を以て其場に倒れんと仰せらるゝ時小栗は眼をふさぎイザ先吾に矢を向け下さいと南無正八幡大菩元の早業矢取を只今現はして給えと眼を閉じて願念して御座居ます。其時、兼家彼の大引を良く引きヒューと放つ矢は左手に取りニッ矢を右手に取り三ツ険しく来れば、金剛杖にて払ひ落し吾元の小栗に疑ふ処更になし勘当許させ給へと差うつむいて御座します。兼家公夢かと斗り心にて御悦び限りなし。かゝる目出度折柄をさあらば御門へ奏門申さんと小栗殿の装束を改め内裏指してぞ上らるゝ。御門に成らば兼家は参内し始め終りを奏聞あり帝は御らん遊ばして死にたる者の帰りしは今迄曽て例なし本領ならばとて常陸の国に駿河国を添て下されけり小栗忝なしと三度頂戴なされ同じく美濃国に相模国を添て給はれと争門あり。論言は汗の如美濃国は馬の飼料にて重ねて御倫示下されける。御前を罷出御所を指して帰りける。夫より父母に暇乞をして御供数多く引連れて、美濃の国へと急がる。青墓の宿萬屋長右ヱ門がゑん入らせ給に、長右ヱ門悦び数多の女郎達御酌に出し取扱ひたる。小栗御覧あり、如何に長右ヱ門流れ女は如何せん汝が下の水汲女に常陸の国生れ小萩と言ふ者を御酌に出せ酌に出さぬ者なれば萬屋夫婦が命を取らんと申ける長右ヱ門驚き常陸の小萩を呼出し、汝は余程の果報者としかし御身が見目良き事を都の国主聞召し酌に出よと有ければ、小袖を着替へ早く出よとありければ小萩此の由聞召おろかや御仰かな斯様に酌に出ましにて十六人の水仕事をば一人にて営み申候へば此事ば斗りは御免下度候得と差うつふしぞ居りました。長右ヱ門大いに立腹し嬉しき事をも早や忘れ給ふいてないた哉、何時ぞや此の門外にてガキヤミ車の有りし時三日の暇と申せしに叶ふまじと言ければ汝其夫婦の身の上に自然大事の有時には必ず身替りて立っと申したではないか汝酌に出ぬ者なれば某夫婦が命が無きぞ早く出よとのたまえばとぞ入りける。『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【いたましゃ、小萩は、主人に帽子をかぶせ、紐を結んで下に垂らし、裾を縛り、門の外に出るように言われました。手綱を引いて、エンヤラエンヤラと引くほどに、万屋の門を出るのが早すぎて、宿や町、関所を次々に引っ張っていき、これを先導しました。姫が涙を流す宿、関所やの板垣、月が漏れて山々が散らかる、美濃と近江の境にある寝物語やさめがいの嵐、小嵐番場を越えて、袖が冷たくなり、えち川を渡れば早くたどり着く小野に向かう道をエンヤラヱーと引いていると、雨は降らずとも森山の「がきやみ」の胸の木札に露の玉が宿り、草津の宿から山田下田を見渡せば、まるで美しい乙女の小さな苗を取るための田植えの歌を歌っているかのようでした。五月の花を見ながら飛び立つほととぎす、山雀、弘雀、四十雀、長鳥谷を越えれば、五月の花が今が盛りです。小さな草や若草が茂る田畑を通るたびに、なおも瀬田の唐橋をトントロトントロと足を踏みしめて渡り、石山寺かや鏡が、かすかに耳に触れ、粟津はや過ぎて裏の場所に船を停め、その山を見つける音に驚き、沖にかもめがバッと立ち上がる。今日は早く美濃を出発しましょう。三日間の休息も、大津の関寺や玉屋の門で車が待っています。宿を別に取るべきか、いや、少し待って、心を寄せ合いましょう。ただし、今夜は一夜限りのことなので、一緒に過ごしましょうと、車の傍らで立ち寄り、夜になると涙がこぼれました。その後、餓鬼飢阿弥が何かを耳にし、冥途について尋ねたり、何かを見たいと思ったりしましたが、耳には聞こえず、目には見えず、ガキアミは甲斐ないと泣いていました。玉屋では宗占の鐘の音や、月の美しさも、静かに私たちを包んでいました。そして、ガキアミが車を引くのは、美濃の国の青墓の宿、万屋長右ヱ門の下に住む女性で、常陸の国の小萩という名前の人でした。彼女は上下五日に一度しか現れず、くまの本宮の温泉に入浴し、その後は下界に戻ると言われています。私たちは彼女のことを尋ねようとし、熊野本宮の湯で待ちましたが、何も聞けず、結局別れを悲しんで美濃国に帰りました。その後、私たちは多くの人々と一緒にカキアミの車で大津を出発し、日野岡峠を越え、都の町を遠くに見ていきました。山崎千軒宝寺を早く出発し、津の国に入った時、私は急いで進み、心の余裕もなく、天馬の森を通って権現坂に到達しました。しかし、そこでカキアミが車に乗せる籠に変わり、湯屋に着いた途端、権現が現れ、カキアミの介抱をしてくれました。私は17日間湯に入り続け、やがて耳が聞こえ、目も見えるようになりました。27日目には、兵法と早業の達人として元の小栗に生まれ変わりました。小栗はこの時、熊野山を正しく御山と認識し、感謝の念を抱きました。しかし、権現が山の武士に変身し、金剛杖を二本持ってきたことに驚き、客僧がこれらの杖を受け取らないかどうか尋ねました。小栗は杖を受け取りたくないと言いましたが、権現は杖を一瞬で消し去り、その後、小栗に金剛杖を見せて三度頭を下げました。一本は音無川に流され、死後に長途に向かうと言われ、もう一本は津き山鹿に下ると言われました。小栗はこの出来事を通じて、杖の由来を知り、感動しました。その後、小栗は常陸の国に流れ、そこで武蔵の郡代である横山の密謀に巻き込まれ、毒酒を飲まされて殺されました。この情報は風の便りとして常陸の国から来た客僧によって伝えられました。客僧は小栗の最期の状況を知っており、その悲しい出来事を語りました。小栗は客僧に取りすがり、何も言葉を発しませんでした。その後、小栗は三条院高倉大納言兼家の御所に行くことを決意しました。しかし、高倉大納言の母は小栗の命日であると知り、客僧を招き入れ、時料を提供することにしました。客僧が三条院高倉大納言の前に現れ、小栗の生存と復活の物語を語り、高倉大納言の母は驚きと喜びに包まれました。そして、小栗は父兼家公に会うことを願い、急いでその場を後にしました。小栗は兼家公に話をし、自身の復活の経緯を伝えました。兼家公は喜び、しかし、小栗が死んだと思っていたため、他人が小栗の姿を借りてきたのではないかと疑念を抱きました。それに応えて、小栗は自身が八幡山の鞍馬多門の教えで兵法と早業を学び、その弓矢で兼家公の試練を受けることを提案しました。そして、もし客僧が小栗だと信じるのであれば、小栗が放つ矢を受け取るように言いました。そのとき、兼家公は小栗に向けて矢を放つよう命じました。小栗は目を閉じて、南無正八幡大菩元の早業矢取りの力を借りて願いました。兼家公は弓を引いて矢を放ち、左手に取り、次に右手に取り、三本の矢を順に向けてきました。しかし、金剛杖を使って小栗は矢をかわし、自身が本物の小栗であることを示しました。兼家公は夢のような出来事に喜び、小栗が生きていることに感謝しました。その後、小栗は兼家公に連れられて御門へと進み、帝に面会しました。帝は小栗の帰還を喜び、美濃国には馬の飼料が豊富であることを認め、さらに小栗に対して駿河国を添えて与えました。小栗は両親に暇を願い出て、多くの従者を連れて美濃の国へ向かいました。美濃の国に到着すると、青墓の宿である万屋長右ヱ門が歓迎し、多くの女性を従えて酌を提供しました。しかし、長右ヱ門が常陸の小萩という女性を酌に出すように命じると、小萩が酌に出ることを拒否しました。そのため、夫婦の命が危うくなると言われ、長右ヱ門は怒り、小萩を呼び出しました。小萩は都の国主が自身を見たいという要請に従い、急いで着替えて酌に出ることになりました。しかし、十六人の水仕事を一人でこなさなければならないという条件がつけられました。長右ヱ門は怒りっぽくなり、かつてガキヤミ車の前で三日間待ったことを思い出し、小栗に対して自分たち夫婦の身をかえて立たせたことを非難しました】「要訳相模国で毒殺され蘇生した小栗判官が餓鬼阿弥と呼ばれる不具の身体となりながらも、「熊野の湯に入れて元の身体に戻せ」との閻魔大王のお告げを聞いた遊行寺の上人が土車を仕立てて餓鬼阿弥を乗せ、人々に曳かれて湯の峰温泉まで辿り着かせる。途中、美濃の青墓から大津までは、妻となる照手姫が正体を知らずに、亡き夫の供養祈願のためにと車を曳くことになる。そして49日間の湯治によって小栗判官はついに元の身体となるのである。」お客の世話やら馬の世話やら、下女16人分という超ハードな仕事に明け暮れます。「小栗判官小萩対面の場小栗長右ヱ門の道理に詰られて、今や如何にもして辞する事能はず只免に角もと斗りに客の座敷に出る事に相成りました。こうして銚子を取りて泣く泣く座敷へ向ひける。一間の障子の影よりも都の国様をすかし御覧あり扨も不思議や此の君は我夫の面影に良も似させ給ふうよな是に付けても吾夫は草葉の影にて自からを墲や憎せ給ふ可き、偖も是非なく世の中と泣く泣く座敷へ出給ふ、銚子手に取り御座します。小栗御覧して御身常陸の小萩と言が吾は都の人なるが情を掛て来らせん扨は御身は何国の人成るぞ、先祖を語り給ふべし、如何に如何にと仰せらる。小萩此由聞よりも御主の仰せが重ければ御酌にぞ出て来たり座敷ざんけに来らすと、座敷立さんとありし時小栗続いて袂を取り誤ちある人の先祖を問う時は吾が古を語るやと、定めし見わすれ給うまじ。以前此の街道をガキヤミ車と言はれし時御身情の車道三日引いて下され上り、大津の関寺玉屋の門に引付られし胸木札は是れなりと懐中より取出し差出せば小萩つくづく御覧あり扨も目出度此君や是に付ても、吾夫は修羅道に落ち給ふわ又餓飢道にましますか冥途の人とは聞なれどば、自から先祖を語りつゝ夫の在りかよ尋ねんと、恥か敷事ながら自からは相模国俣野にて横山太郎が妹の照手の姫と名のりあへぬに小栗どの扨て御身はかや吾こそは昔の小栗に候との給へば、照手吃驚仰天し、扨は、吾夫小栗殿にてましますかと思はず知らば抱きつき声を上てぞ泣給ふ。落る涙の下よりもなさけきは無なるが妾が父様よそなたを毒酒で殺し置き、自らも境川へと沈めんと鬼次兄弟に仰付、既に沈みに成べきを彼の兄弟の情にて命かりて、うつろう船にて海え流され人買人買に身を売られ人手に十回余りも売飛され、此家に買取られ流れをけない夫故下の水仕事を致します。此れも君の故なるば恨みと更には思はぬなりと吾夫くどきも只焦れて泣き給ふ。小栗聞召それそれ御主の仰せに御前に出でたる。小栗御覧していに長右ヱ門汝人を遣へばとて、斯様になむごき遣方は有べききかと仰ける。照手頓て押止め彼の御主が自ら買取って有ればこそ再び此処に逢瀬の岩枕、御主の命、自からに御免しなされと詞をつくして仰ける。小栗聞いて其様にそなたが言ふなれば、今よりは此処を庄屋頭を言付沢山の御褒美を下されました。長右ヱ門有難く頂戴して、御前を罷出、扨は其後は小栗殿是より相模へ罷出横山が一族を打亡ぼさと仰けるこれも照手が押止め昔が今にいたる迄子が親に弓ひくためし候はず何事も三郎殿の仕業なり、何うそ赦して下されと。頓て相模に人を遣し三郎を御前に引出す。小栗御覧じて泣く泣く腹も立、今迄の三郎其方の致方は何事ぞ恐れ多くも吾こそは京都三条院大納言兼家の一子小米判官満重と申する者。吾日本国主後小松天皇の仕へ奉る可き資格あり。汝此場にて腹一文字に割切れば、良し左もなくば時は相模武蔵の郡代役とは表向。横暴極まる横山が一族を只一打と致さんと申ければ、有難く三郎は見事割腹いたしける。扨、其後は小栗殿照手姫を供ないて常陸の鞍木の城へと帰りけり。二度生れ返った方は此苦心惨憺たる記事は読者諸君の判断に任せ現在の古蹟と実録と合せて造りたてた実録伝であります。夫れが故に此小栗判官照手姫の恋愛話に依って生れたる非惨なる此の蘇生塚へ参詣する者多く縁結びの神として拝めり。終り『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【小栗は長右ヱ門の言葉に詰られ、辞退することはできず、座敷へ向かいました。そこでは都の国主を思わせる美しい女性が座っており、小栗はその姿に驚きました。小栗は、この女性が都の人であると思い、自身も都の人であることを話しました。しかし、この女性は小栗に自分の出身地を尋ね、小栗は常陸の国出身であることを告げました。それから、小栗と女性は互いに自分の過去を語り合いました。小栗は、以前にガキヤミ車として三日間待たされたことを話し、女性は自分の過去を語りました。彼女はかつて自分の父が毒酒を盛られて亡くなり、自身も海に流されて売られたことを明かしました。そして、その後、彼女はこの家に買い取られ、水仕事を十回以上もこなさなければならなかったことを話しました。小栗は感動し、彼女が自分の妹であることを知り、再び抱きしめて涙を流しました。彼女は自分の父が小栗を殺し、その報いとして自らも苦しむ運命にあると語りました。小栗は彼女のために報いを求め、美濃の国で多くの褒美を受けたことを伝えました。その後、長右ヱ門は褒美を受け取り、小栗とともに相模へ帰り、横山一族を打ち倒しました。小栗は自身の正体を明かし、三条院大納言兼家の一子であることを証明しました。そして、常陸の鞍木の城へと帰りました。この物語は二度生まれ変わった小栗判官と照手姫の苦難と恋愛を描いており、その物語を元に造られた蘇生塚は多くの人々に拝まれています。蘇生塚は縁結びの神として信仰され、多くの参詣者が訪れています。終わり】「要訳都に戻った小栗は、帝から美濃国を拝領し国守となった。そして照手の働く遊女宿に上がる。小栗は「常陸小萩」の酌を希望する。国守を小栗とは知らない照手はが酌にでると、小栗が照手を見つめ自分の身の上を語りだした。すると照手は黙ってむせぴ泣き出した。こうして二人は再会し、幸せになったという。」小栗判官正清は、相模横山大膳の計略に引っかかり毒殺されて地獄に堕ちるが、閻魔大王の裁定により地上界に戻された。しかし異形の餓鬼阿弥の姿となり、歩くことすらままならない。餓鬼阿弥となった小栗は、藤沢の遊行上人の手助けで、土車にのせられて、妻の照手姫や多くの人々の手助けで熊野本宮の湯の峰へ運ばれ薬湯の効用により蘇る。「矢取りの段」は本復した判官政清が、修験者姿で生家の館を訪ねるが丁度自分の一周忌法要の最中であった。悲しみにくれる母に親子の名乗りをするものの、父高倉大納言は聞き入れず、本物の政清ならば「矢取りの秘術」を習得しているはずと政清に向かって矢を射かけるのであった。そして、青墓の宿で働く常陸小萩──照手姫と再会。横山大膳を討とうと取り囲みますが、姫の言葉で思いとどまり許します。原作者及び原作年代は不明なるも江戸時代か明治初期と思はれます。兎角西俣野と東俣野の土地全部小栗判官にまつわる名称古跡である、小栗塚、道場谷、御所ヶ谷、四ッ塚、鬼鹿毛馬の「ませ田」等々皆旧籍を言い伝え又字名が皆旧籍地と一致します。それを飯田与七様が写し、又それを尾島治平様が写したのが今日に伝はったわけです。又尾島貞良が写したわけです。但、中風で指がきかず読みにくいが平に御容赦下さい。昭和四十九年二月元本より写す尾島貞良と記してあります。計画の首謀者である三男の三郎は罰して死罪に。こちらの絵では、三郎に切腹を命じているところであると。かくして、京都、常陸、藤沢、青墓、熊野と、各地を結ぶ物語は大団円を迎えます。そして物語は、各地に伝説を残しました と。そして別の部屋にも様々な仏像等が展示されていた。花祭りの時に誕生仏に柄杓(ひしゃく)ですくった甘茶をかけるのだが・・・。七福神 布袋 様。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・モバイル スタンド&クリーナー 240個セット販売 折りたたみ式スマホスタンド クリーナー内蔵 2色取混ぜ タブレットも使用可能 モバイルグッズ 販促品・景品・ノベルティ・記念品
2023.09.22
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そして、花應院12代目住職が、パソコン、プロジェクターを準備されて、「花應院」に伝わる「小栗判官照手姫縁起絵巻」について説明してくださいました。「小栗判官照手姫縁起絵巻」。通常、絵巻は横に長いが、この絵巻は縦に段になって掛け軸絵の形に。また、当初は横長の巻物として描かれたものを、後に切断して、掛け軸絵として装幀し直すこともあるが、こちらはどうやら最初から1枚の絵として、縦に段にして描かれたもののようであった。1段目。そもそもこの物語の発端は、京の都におわします二条大納言兼家さま。子どもの出来ないことを嘆いて、鞍馬山にお参りして授かったのが、幼名・有若、頭脳明晰、成績優秀、すくすくと成人し、常陸小栗どのとお成りある。ところがこの小栗、気に入る女がおらぬと嫁を嫌って独身を通しております。あるとき、鞍馬に詣でる途中、一興にと横笛を吹いていたところ、近くの深泥(みぞろ)ヶ池にすむ大蛇、その音(ね)に聞き惚れ、美女に変身。小栗とちぎりを結びます。1段目右。鞍馬に子供授けて欲しいと詣でる小栗判官の親の姿。1段目左。深泥(みぞろ)ヶ池の淵で横笛を吹く小栗判官。近くの深泥ヶ池にすむ大蛇、その音(ね)に聞き惚れ、美女に変身して小栗に近づく。小栗とちぎりを結ぶのであった。2段目。それが都じゅうのうわさとなって、父の兼家は大激怒。小栗は今の茨城、常陸の国へと飛ばされます。そこで官職を与えられ、判官(はんがん)となる。そこへ、化粧品や薬をセールスして歩く小間物商人、後藤左衛門が訪ねて来る。彼が、評判の美人の話をすると、小栗は、その姿を目にしていないのに一目惚れ。その美人こそ、武蔵・相模(現・神奈川県)の国の郡代、横山大膳の娘、照手姫、後藤左衛門は橋渡しとなって、小栗のラブレターを姫に届けたのであった。2段目右。ラブレターを書く小栗判官。2段目左。小栗のラブレターを読む照手姫。3段目。照手姫も、その文をすっかり気に入り、二人は相思相愛。ところが、姫の父親の横山大膳は、この結婚に猛反対。しかし、そのことは表に出さず、三男の三郎がはかりごとを巡らし、ひそかに小栗を殺そうと企てる。そんなことともつゆ知らず、十人の家臣と横山家を訪れた小栗。そこで横山大膳は、馬の鬼鹿毛(おにかげ)に乗ってみよと誘います。この鬼鹿毛は、小山ほどもあるという暴れ馬。人間を秣(まぐさ)代わりに食べている人喰い馬で、これに殺させようというわけ。ところがこの暴れ馬、今にも小栗を踏みつぶすかと思いきや、小栗に言葉をかけられた途端、すっかりおとなしく従順となる。小栗を背中に乗せて、碁盤の上に乗るという曲芸までやってのける。3段目右。二人は相思相愛。3段目左。馬の鬼鹿毛(おにかげ)は小栗を背中に乗せて、碁盤の上に乗るという曲芸までやってのける。4段目。腕ではかなわないと踏んだ横山大膳は、三男の三郎に言われるまま、宴会の酒に毒を盛り、小栗と家臣十人を毒殺します。これでは都の聞こえが悪いと考えた横山大膳、わが娘照手姫まで殺そうとする。そこで家来の鬼王・鬼次兄弟に、姫を川に沈めよと言いつけます。牢輿(ろうごし)という罪人を入れる乗り物に姫を閉じ込め、舟に乗せ、相模川のおりからが淵へ。ところが兄弟には、どうしても姫を殺すことができません。沈めるための重しである大石をつないだ綱を断ち切ります。かくて姫を乗せた牢輿は、沈むことなく、流れ流れて川下へ。4段目右。兄弟には、どうしても姫を殺すことができません。沈めるための重しである大石をつないだ綱を断ち切ります。かくて姫を乗せた牢輿は、沈むことなく、流れ流れて川下へ。4段目中。そうして流れ着いたところが、海の浜。その浜「ゆきとせが浦」は、現在の横浜市金沢区野島あたりかといいます。発見した漁師たちは不審に思い、不漁続きはこいつのせいだと打ち叩こうとする。そこへ割って入ったのが漁民のリーダーである村君の太夫(たゆう)。太夫は姫を助けて家へ連れ帰ります。4段目左。しかし、それが気にくわないのが太夫の奥さん。照手姫の白い美肌も気にくわない。そこで太夫が仕事で留守のあいだ、姫の雪の肌を黒くすすけさせてやろうと、松葉をくべて煙責め。けれども、姫は無事に過ごします。というのも、姫のかげに寄り添っている観音さまのおかげなのでした。(照手は日光山の申し子ゆえ、本尊の千手観音が護ってくださったといいます。)5段目。そこでいよいいよ腹を立てた太夫の奥さん、太夫に内緒で、姫を六浦が浦(現・横浜市金沢区六浦あたり)の人買い商人に売ってしまいます。姫はその身を売られては買われ、流れ流れてたどり着いたのは、美濃の国は青墓の宿(現・岐阜県大垣市青墓)の宿屋でした。その美貌から遊女にさせられそうになるところを病気と偽って、下働き。今は亡き夫の故国(常陸の国)にちなんで、「常陸小萩」と名を変える。井戸の水を汲み上げて運んでは、お客の世話やら馬の世話やら、下女16人分という超ハードな仕事に明け暮れます。5段目右。照手姫はその身を売られては買われ、流れ流れてたどり着いたのは、美濃の国は青墓の宿(現・岐阜県大垣市青墓)の宿屋でした。井戸の水を汲み上げて運ぶ照手姫。5段目左。お客の世話やら馬の世話やら、下女16人分という超ハードな仕事に明け暮れます。6段目。蘇生した小栗判官が最初に向かったのは、実家の京都、二条大納言兼家の屋敷。しかし、小栗と名乗られても、ゾンビではあるまいし、まさか死んだはずの息子が訪ねてきたとは信じられず、「失礼だが、試させてもらうぞ」と兼家は、障子越しに小栗をめがけて弓をひき、ひょうとぞ放つ。すると、二条家に代々伝わる「矢取りの術」の秘伝、幼い頃より教えられ修練してきたその技で、小栗、一の矢を右手ではったとつかむ。続いて放たれた二の矢を左手ではったとつかむ。さらに飛んでくる三の矢を、歯でがちとかみしめ受けとめる。6段目右。一の矢を右手ではったとつかむ小栗判官。続いて放たれた二の矢を左手ではったとつかむ。さらに飛んでくる三の矢を、歯でがちとかみしめ受けとめる。6段目中。そして、青墓の宿で働く常陸小萩──照手姫と再会。横山大膳を討とうと取り囲みますが、姫の言葉で思いとどまり許します。6段目左。計画の首謀者である三男の三郎は罰して死罪に。こちらの絵では、三郎に切腹を命じているところであると。かくして、京都、常陸、藤沢、青墓、熊野と、各地を結ぶ物語は大団円を迎えます。そして物語は、各地に伝説を残しました と。ここ西俣野地区周辺の小栗判官に関連する旧跡地図。閻魔堂跡👈リンク土震塚👈リンク小栗塚碑👈リンク ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.09.21
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次に住職による「地獄変相十王絵図」の説明が始まる。江戸時代、西俣野村に浄土宗、旧藤沢宿にある「常光寺」👈リンクの末寺「閻魔堂」(法王院十王堂とも称す)がありました。毎年(陰暦)正月16日(初閻魔)と7月16日(大賽日)は閻魔大王の賽日で人々は「十王詣」といって閻魔堂に行って十王図や地獄変相図を拝んでいました。この日は、閻魔堂には縁日が立ち商家で働く奉公人たちの年2回の休日で実家に帰っていましたので大盛況であった。しかし、天保11年(1840)焔魔堂の火事で「閻魔祭り」もしばらく見ることは出来なくなりました。幸い火事の際、村の若い衆が閻魔堂から近くの花應院へ木造彩色の閻魔大王像をはじめ、小栗判官縁起絵図、地獄変相十王図、閻魔宝印の原版などが運び込まれた。その後、大正13年まで西俣野村の青年が新暦正月と8月の16日には農作業を休んで「閻魔祭り」を行い、小栗判宮縁起絵図や地獄変相十王図の絵解きをしていたが、途絶え、2つの絵図は昭和50年まで旧名主の飯田五右衛門氏の土蔵で眠っていた。土蔵から出された時は見る影もなく痛み、虫が食い、軸棒も落ちていたと。その姿に耐えきれず住民が西俣野史跡保存会を設立、70万円の寄付金で修復された。後、昭和60年から毎年1月15日(本来は16日)と8月16日に「闇魔祭り」として西俣野史跡保存会の飯田氏よって小栗判官縁起絵図絵解きと、花應院ご住職による地獄変相十王図の説明が復活したが、最近になって小栗判官縁起絵図の演者・飯田氏が亡くなり、現在は12世山本雅彦住職による小栗判官縁起絵図と地獄変相十王図の説明が1月16日と8月16日に行われているのである。一般の方も檀家の方々と一緒に聞くことができるのであった。そして「本堂」入口の壁に沿って上部に「地獄変相十王絵図」が並んでいた。右から【畜生報復地獄の図】これは娑婆で動物たちをいじめたり、殺したりしていた人達がこの地獄に落とされ娑婆で自分達が犯したのと全く同じような報復を受けます。不殺生戎(ふせっしょうかい)を破る報いです。虎獅子犬蜂まで巨大な体を持つ動物昆虫等が居て襲いかかります。手足胴までばらばらに食いちぎり、蜂は火をふいて襲い、逃げられないように周囲は火炎地獄が取り巻いています。無理をして逃げ火炎地獄で苦しんでいる亡者も見られます。巨大な虎、獅子、犬、蜂達が亡者を襲いに追いかけられる、そして手、足、腰まで、ばらばらに。【地獄の釜ゆでの図】大釜と臼があり、ご存知の地獄の釜ゆでの場面。大釜の中に亡者をどんどん投げ込んで上手に煮るために鬼がお化けの様なホークでかき廻している。程よく煮られた亡者は臼に移されて鉄棒で打たれて人間の擂身(すりみ)となる。能率を上げるたために地獄の鳥が亡者を空中輸送をしています。何のために大釜があるか?家庭で菜葉やごぼうを湯でると何が出ますか?出るのは「あく」。人間を茹でて「あく」を出す、悪(あく)を出して善だけ残し、悪を為さしめないようにする閻魔大王の大慈悲心がせめ道具の上にもあらわれている様に考えられます。勿論全く悪が抜け、善だけになった亡者は釜の中より極楽浄土に転生します。お化けの様なホークでかき廻しながら大釜で亡者を煮る鬼。臼のなかで、亡者を鉄棒で打ち叩く鬼。【火の車の図】地獄の使者、獄卒の牛頭(ごず)、馬頭(めず)が火の車を引き、死者の霊を迎えに来て待ち構えて居る。足ることを知らず、欲の心がうず巻くとき、おのずから、焦熱地獄に落ちる。地獄の使者、牛頭(ごず)、馬頭(めず)が火の車を引く。牛頭馬頭(ごずめず)とは、仏教において地獄にいるとされる亡者達を責め苛む獄卒で、牛の頭に体は人身の姿をした牛頭と、馬の頭に体は人身の姿をした馬頭をいう。足ることを知らず、欲の心がうず巻くとき、おのずから、焦熱地獄に落ちる。【剣の山と餓鬼地獄の図】剣がいっぱい生えている山で登るまいとすれば獄卒が槍や鉄棒で打ち、登れば剣が手足身体を切りさく。餓鬼道に落ちる者はこの世で食べ物を粗末にしたり、自分だけ美食をして、他の人に食を与えなかったりした人が落ちる地獄。子どもを食べようとする女餓鬼。椀にもった飯は火となり燃えあがる。地面から剣の刃がいたるところから飛び出して。【賽の河原と奪衣婆の図】賽の河原とは幼い子供たちが行く処で子供たちは河原の石で塔を積みますがもう少しで積み上がろうとすると鬼達が来て、きちんと積んでいないので見苦しいと崩してしまう。積んでも積んでも崩されて何時出来上がるかわからない。そこに地蔵菩薩が救いにおいでになっています。三途の川の岸にはいあがった亡者は、奪衣婆(だつえば)に着物を剥ぎとられて・・・。奪衣婆とは、三途川(葬頭河(そうずか))で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。日本の仏教では、人が死んだ後に最初に出会う冥界の官吏が奪衣婆とされている。奪衣婆は盗業を戒めるために盗人の両手の指を折り、亡者の衣服を剥ぎ取る。剥ぎ取った衣類はこの絵にはないが、懸衣翁という老爺の鬼によって川の畔に立つ衣領樹という大樹にかけられる。この木の葉は鋭利な刃物の様で手を触れることが出来ません。此所では生前の罪の度合いによって、衣を懸けた枝の垂れ下がり具合が異なって来ます。これより先は生まれた時の姿となり娑婆における権力も富も役に立たず平等に地獄の苦を受ける事となるのです。河原の石で、塔を積み上げる子。積んでも積んでも、鬼たちに崩される。そこに地蔵菩薩が救いにおいでになっています。その先にも「地獄変相十王絵図」が並んでいた。【閻魔大王裁きの場の図】この拾壱幅の絵の中心をなす形で描かれて居ます。其の日は、五、七、三十五日の日で、裁くのは閻魔大王で前には司命、司録が立っている。左に罪をはかる秤(はかり)。右に生前の罪をうつす浄瑠璃の鏡。閻魔大王のまえには司命。司録がいて、人命を司り、一切の記録を。亡者は首枷(くびかせ)をはめられ、しばられて鏡のまえに。ズームして。閻魔大王はどのような審判を行っていると言われているでしょうか?答えは【死者の転生先(生まれ変わり先)を決める】です。人は天国への旅路で計7回(7日ごと)の裁きを受けます。7日ごとの7回目の裁き=49日をもって仏様となります。5回目(死後35日目)の裁きに登場するのが閻魔大王です。閻魔様はここで天国への切符か地獄への切符かを裁いて死者に渡すことになります。行先は地獄道(その名の通り地獄の世界)餓鬼道(飢えにもがき苦しむ世界)畜生道(人間以下の動物に生まれ変わる世界)修羅道(終始、争いの世界)人間道(楽しいことばかりではなく煩悩に悩む世界)天上道(苦しみもなく優れた世界。しかし、煩悩がないわけではない。衰退もある)の六道のいずれかになります。閻魔大王は極楽浄土、少しでも苦しみのない世界へ向かうに相応しい死者かどうかを裁きます。そこで、ご家族は「どうか極楽浄土へ導いてください」と追善供養(法要)を行うのです。そして無事に49日を迎え、浄土の世界へ旅立ち仏様になる。このように言い伝えられています。閻魔大王は怖い顔で裁きも厳しそうですが、実は地蔵菩薩と呼ばれ私たちを見守ってくれているそうです。中央に人頭の杖が立てられ、頭に首が二つついていて(悪人と善人)大王の象徴とされています。罪をはかる秤(はかり)。さすがに大きな石の分銅も亡者の罪の重さに上がっているのであった。亡者は首枷(くびかせ)をはめられ、縛られて鏡のまえに引き出されて。生前の罪を映す浄玻璃(じょうはり)の鏡。生前に悪事をはたらいた者は、その姿が高性能な防犯カメラの映像のようにくっきりと映し出されるということです。更には心の中の悪い考えまで映し出されるそうです。この亡者は生前娑婆にて火付け(放火)を犯したことがありありと映っているのであった。さらに左側にも「地獄変相十王絵図」が続く。【極寒地獄 氷の池の図】亡者達は氷の池に入れられ、冷たさにもがき苦しむ。岸に上がろうとすると、鎌槍、鉄棒をもった獄卒に突き落とされる。意識を失えば、活、活、と唱え、生き返らせ、苦しめる。ここまでで左より中向の大王が終わり、ここから右より中向の大王五人に移るのであった。氷の池に入れられ、冷たさにもがき苦しむ亡者の姿。【修羅地獄の図】闘争心が強く、人を殺し、殺そうとする者の落ちる地獄。空中に短剣が舞う。斬りあい首を落とす者。下には氷の川。氷が割れて、極寒の底に沈みゆく亡者・・・。空中に短剣が舞う。斬りあい首を落とす者。【針の山地獄の図】三途の川の渡し場は三つあるのだ。上流にある渡し場を「浅水瀬」といい、ここは水底が浅く、膝までしかなく罪の浅いものが渡る渡し場、中程に有るのが「橋渡し」といい、この美しい橋は善人だけが渡れるのだと。下流に有る渡し場を「強深瀬」といい、水底の深さが無量で、悪人が渡る場所。この絵は悪人がこの「強深瀬」を渡り、流される悪人を襲う竜。からだ中に針が刺さっても、亡者たちは、獄卒に槍や鉄棒で突っつかれて・・・。深瀬を渡り、流される悪人を襲う竜。【畜生再生の図】人間ではありながら、心は畜生にも劣る心を持ち畜生なような生活行動をすると、畜生に生まれ変わって其の苦しみを受けるのだと。元は人間だった証拠に頭だけが人間の男女になっている。人から再生した馬を、地獄の獄卒、馬頭が追う。亡者の頭に錐(きり)を刺し、善行を命ずる脳に入れかえる白鬼。鉄の杭にしばり、大きな釘抜で、舌を引き抜こうとする鬼。人から再生した馬を、地獄の獄卒、馬頭が追う。執念に取り憑かれた男女が大蛇に体が変身して、未だ業が果てることなく亡者の一人をぐるぐる巻にして絞め殺そうとしている。 舌を抜く地獄の鬼 。子供の頃祖母から「嘘をつくと閻魔様に舌をぬかれちゃうぞ!!」と何度も言われた私。亡者の頭に錐(きり)を刺し、善行を命ずる脳に入れかえる白鬼。【血の池地獄の図】この絵では亡者が腹に釘を打たれている。釘の長さ一尺、人間が悪いと言う場合腹が悪いと言う。其の悪い腹を善くするために釘を打っているのです。其の下には恐しくて逃げている亡者、とうとうつかまって縄でしばられている亡者、下にすでに縄にしばられた亡者が二人転がっている。腹に釘を打たれている亡者の上に餅にささった釘が有ますが、これは四十九の餅の供養の功徳によって釘を打たるるとも餅にささりて苦なしと言う経文中の功徳を現わしているのだと。亡者の悪い腹に釘を打ち、善に変えようとする鬼。下部の図は血の池地獄で、この地獄はお産で死んだ女の人だけが落ちる地獄。この地獄は往生要素には書いてないが誰でも知っている地獄。これは鎌倉時代頃より読まれ始めた「血盆経(けつぼんきょう)」と言うお経に書かれている地獄で男には関係の無い地獄 と。川の辺に四本の竹を立て、これに般若心経を墨書した晒を渡して傍らに柄杓を置き、通りがかりの人が柄杓で川の水を汲んで晒にかけてやると、文字がたんだん薄くなって完全に消滅すると救われるという「流れ灌頂(ながれかんじょう)」。これに救われたか血の池より一人女がはい上がり山の下で一心に合掌し祈りをささげている。それを地蔵菩薩様がお救にお出でになっている のだと。この十王図には一枚につき一人の王が描かれていたが、どれがどの王かは、はっきりした事は解かっていないと住職から。この「十王」👈リンク とは冥土で亡者の罪を裁断する十人の王の事。人間が亡くなると、極善と極悪の者は直ぐに裁判を受けずに極楽浄土に転生し、片方は地獄に落ちます。中の者は裁判を必要とするので初七日より順次七日ごとに審判を受けて決った者は罪に相当する処に送られる事となります。未定の者は次の裁判へと送られ「十王」👈リンクに裁断されるのだと。亡くなった日を1日目として、49日目までの7日ごとに秦広大王 (しんこうだいおう)、初江大王(しょこうだいおう)、宋帝大王(そうていだいおう)、五官大王(ごかんだいおう)、閻魔大王(えんまだいおう)、変成大王(へんじょうだいおう)、泰山大王(たいざんだいおう)が裁きを行い、それでも結論が出ない場合は、100日目に平等大王(びょうどうだいおう)、1周忌に都市大王(としだいおう)、3回忌に五道転輪大王(ごどうてんりんだいおう)が裁判を行います。このような過程を経て、亡くなった人が極楽浄土に行くのか、それとも地獄に行くのかが決まるのだと。さらに詳しく。地獄の裁判官、十王。地獄に落ちるか落ちないか、というのは現世の裁判のように審査されるのです。審査をされてから正式に地獄行きが通達されるまでかなりの時間を有します。それもなんと49日間!実はこの間に、書類審査から現世の善行診断、軽い実刑まで行われるのです。そしてその裁判を行うのが十王と呼ばれる10人の裁判官たち。その中にかの有名な閻魔大王がいるのです。秦広王:死後から初めの7日目、まず最初に裁判を行うのは秦広王(しんこうおう)。 獄録というものによって書類審査が行われます。ここでは生前に行ったことを全て 見られてしまうため、嘘も通じません。初江王:死後14日目、次は初江王(しょこうおう)により罪の重さを測られます。 ここの裁判所には死者が必ず通ると言われる「三途の川」が実は地獄にあるのです。 三途の川を渡れば天界かと思いきや、そうではありません。 ここには奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)という鬼がおり、通る際に亡者の 服を剥ぎ取ります。その服を衣領樹(えりょうじゅ)という木の枝にかけ、初江王の 裁きの前に罪の重さを測るのです。罪が軽いものは枝が曲がらず、罪が重い者ほど枝が しなると言われています。宋帝王:死後21日目、宋帝王(そうていおう)が現世で犯した邪淫(じゃいん)を審査します。五官王:死後28日目には五官王(ごかんおう)が妄語を審査します。五官王は精巧な天秤を 持っており片側に亡者をのせることで、その傾きにより罪の重さは決まり、行く道が 決まるのです。いわゆるここが地獄行きを決定する、最初に判決を出す場所になります。閻魔王:地獄行きが決定しても、一度で全てが決まるわけではありません。地獄も現世の裁判制度 と似ており、その真偽を確かめます。 死後35日目、閻魔大王によって亡者は裁かれます。閻魔大王が持っている鏡は、亡者を 立たせると、亡者の生前の悪行を映し出すことができる特別なものです。 閻魔大王はこの悪行を見て、どこの地獄に行くか判決を下します。ちなみにここで嘘を つけば、閻魔大王に舌を抜かれる事に。また、この裁判日に縁者や親族が追善供養を 行っていると、その徳を認められ人間界や天界に送られることも。変成王:死後42日目、変成王(へんじょうおう)の元に行くために、大岩の流れる川を 渡らされます。ここでは、大岩に身体を砕かれては蘇りまた砕かれと繰り返す事により、 やっとの思いで岸に上がることができます。 そして変成王はここにきて初めて、亡者の言い分を聞いてくれる慈悲深い王になります。 そんな王の前で、亡者はここまで与えられた罰で十分償えたのではないかと 訴えるのです。すると変成王は三つの道を示し、自分が正しいと思うのなら、正しいと 思う道を選んで進め、そうすれば正しい道へ行けると助言します。 これを進んでしまうと罠にハマることに。進めば更なる罰が与えられるのです。お前が 本当に正しい人間なら自分を正しいと思うはずがない!と言うのが変成王の言い分。 上げて落とされた亡者にはなかなかキツい仕打ちです。 この時に、黙って己の行為を恥じ、恐れ入り、罰を受け入れる人間だけが光が差し 救われると言われています。そして、ここで亡者の生まれ変わりの場所の条件が 決定されるのです。泰山王:死後49日目、最後に亡者は泰山王(たいざんおう)の元へ。ここでは最終判決がついに 下されます。六つの道が示されており、それぞれ六道に繋がっています。ここで来世の 生まれ変わる世界が決定する事に。 他にも平等王(びょうどうおう)・100日目、都市王(としおう)・1年目、 五道転輪王(ごどうてんりんおう)・2年目がいますが、彼らは最終的に判決が 決まらなかった際、つまり再審の際に登場するのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.20
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まずは「花應院」の「本堂」の見学をさせて頂きました。慶長9年(1604年)に開山は国境と開基は祖桂として創建された。曹洞宗の寺院。山号は西嶺山。近くにあった「閻魔堂」👈リンク(法王院 十王堂、浄土宗、常光寺末寺、武蔵国六浦金沢からの金沢道沿い。小栗判官の墓がある)が天保11年間(1840年)に火災にあい閻魔大王像がここ「花應院」に運び込まれた。天上から大き黄金の「人天蓋(にんてんがい)」が下がっていた。古くはインドにおける日よけ(日傘)がその原型とされる。暑さをさけるため王様や貴人が使用することから、高貴さや豊かさの象徴であった。のちに、それが転じて、仏や菩薩を守り、美しく厳かに飾るための道具となった。お寺の本堂の中央、導師が立つ位置の天井から吊り下げられるものを「人天蓋(にんてんがい)」、仏像の上にあるものを「仏天蓋(ぶってんがい)」と呼ぶ。箱型、傘型、華型、丸型などの様式があり、いずれも瓔珞(ようらく)や幢幡(どうばん)といわれる装飾が施されている。大きさや形、装飾に違いがあるので、お寺でその違いを見てみるのも面白い。ちなみに、時代劇などで登場する虚無僧(こむそう)が頭にかぶる笠も天蓋と称する とネットから。本堂の祭壇を正面から。大きな「香炉」の台座をズームして。台座には【五七桐】紋が。五七桐紋は、中心に7つ、左右に5つの花を立てた桐紋。桐紋の中で最も権威が高く、『五三桐』よりも格が高い。天皇家の家紋として知られるが、天皇家が自身で用いるより、足利氏や豊臣氏など政権を担当する家に下賜されて用いられることが多かったのだ と。花應院と【五七桐】紋の関係は?祭壇の右側には、この日の「閻魔祭」の為の塔婆が並んでいた。「閻魔十王 報恩謝徳塔」、「照手姫 追善菩提供養塔」、「忠光院殿刃空浄居士追善菩提供養塔」、「天翁録守信士」と書かれた塔婆も奉納されていた。「忠光院殿刃空浄居士」は小栗判官の戒名。「天翁録守信士」はこの村を水害から救う為にわが身を投げ出し、人柱となってこの土手を守った浪人・「土手番様(どてばんさま)」👈リンク の戒名であるとのこと。再び「人天蓋(にんてんがい)」を見上げる。天蓋(てんがい)とは、仏像や住職が座っている上にかざす笠状の装飾具のことで、それぞれ仏像の上にかざすものを仏天蓋(ぶってんがい)、住職の座る上をかざすものを人天蓋というとのこと。祭壇を更にズームして。最上段に並ぶ仏像を見る。左:曹洞宗の御本尊の「釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)」右:花應院の御本尊の「聖観音像(しょうかんのんぞう)」総持寺👈リンク を開山した「瑩山禅師(けいざんぜんじ)」像。瑩山禅師は1 2 6 4年( 1 2 6 8年の説もある)、越前にお生まれになり、8歳て永平寺に入り三世徹通義介禅師のもとで修行を始めました。1 3歳でニ世孤雲懐弉(こうんえじょう)禅師について正式に僧となると、瑩山と名を改め、1 9歳になると諸国行脚の志をたて、求道生活に精進されました。そして3 5歳のとき、義介禅師の後を継いて加賀国(石川県)の大乗寺住職となり、2年後に「伝光録」をお示しになりました。その門下には優れた人材が集まるようになり、曹洞宗が発展する基礎が築かれました。また、5 0歳で能登に永光寺(ようこうじ)を開き、そこで「坐禅用心記(じんき)」を撰述されたといわれています。その後、5 8歳のとき諸嶽寺(もろおかでら)を寄進されると禅院に改め總持寺と名づけました。1324年、6 1歳のとき總持寺の住職を峨山(がさん)禅師に譲られ、翌年62歳てそのご生涯を閉じられました。曹洞宗には、大本山が2つあります。ひとつは大本山永平寺(福井県吉田郡永平寺町)であり、ひとつは大本山總持寺(横浜市鶴見区鶴見)です。これを両大本山といいます。両大本山は曹洞宗寺院の根本であり、信仰のみなもとであります。大本山の住職の正式な呼び方は貫首(かんしゅ)といい、禅師さまと親しくお呼びしておりますとネットから。曹洞宗の開祖:道元禅師像。道元禅師は1 2 0 0年、京都にお生まれになり、14歳のときに比叡山にて得度されました。24歳で仏道を求め宋に渡ると如浄禅師のもとて修行に励まれ、「正伝の仏法」を相続されました。2 8歳で帰国した後、正しい坐禅の作法と教えをすすめようと「普勧坐禅儀」を著され、3 4歳のときに宇治に興聖寺を建立し、最初の僧堂を開いて修行者の養成と在俗の人びとへの教化を始めました。また、仏法の境地と実践を伝えるべく「正法眼蔵」の執筆を続けられ、4 5歳のときに越前に大仏寺(後に永平寺と改名)を建立しました。その後も道元禅師は修行の生活を送りながら弟子の育成につとめられ、1 2 5 3年、5 4歳でそのご生涯を閉じられました。「払子(ほっす)」を持たれていると、校正の師匠から。もともとは、お釈迦さまの時代に、蚊やハエを追い払う道具として使用することが許されたのがはじまり。私たちと同じように飛び回る虫に悩まされていた当時のお坊さん。しかし、むやみに殺すことはできない…。殺生を禁じる仏の教えを実践するための生活道具だった。「払子」はその後、中国に伝わりその意味合いが変化する。お釈迦さまの「髪の毛」にみたて、煩悩や災いを払う功徳を持つと考えた。禅宗では高僧が説法する時や、法要の導師をつとめる時に手にし、厳かに左・右・前に振るようにして払う動作をする。その作法とともに師匠から代々受け継がれる尊い法具である とネットから。そして市指定重要文化財の座像胎内の「石像閻魔大王座像(像高24cm)」。この日は「閻魔祭」であり、閻魔大王像の胎内から出されていたので実物を初めて見ることが出来たのであった。他にも様々な木彫像が。本堂の欄干の彫刻も見事。そして本堂・祭壇の左側の部屋。そしてこれが「閻魔大王像」。花應院の北には、かつて閻魔堂👈リンクがあった。しかし、1840年(天保11年)に火災に遭い、本尊として祀られていた木造閻魔大王坐像は、ここ花應院に運び込まれたのだと。それが現存する木造彩色のこの「閻魔大王坐像」だという。普段は、この「閻魔大王坐像」の胎内に先程の「石像閻魔大王座像」が安置されているのだ と。そして罪状を読み上げ、判決文を記録する司命(しみょう)と司録(しろく)という2人の書記官(しょきかん)が両脇に配されていた。この閻魔像は、宝冠をつけ道服を着し、沓(くつ)を履いて上畳座に坐していた。また右膝上に笏(しゃく)をかまえ、眉をつり上げ、目を大きく見張り、口を開けて忿怒(ふんぬ)を表していた。お顔をズームして。司録・司命像は宝冠をつけ、上衣と膝下で括った袴を着し、沓をはいて立っていた。左側の司命(しみょう)は死者の行状を究明するための銘札を持っていた。右側に位置する司録(しろく)は、罪状を記録するための筆と巻子を持っていた。「閻魔大王像」の左隣りの祭壇には多くの位牌が安置されていた。そして御住職、副住職による「閻魔祭」の納経・読経が執り行われた。立派な木魚の音が本堂内に拡がったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.19
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この日は8月16日(水)、自宅から車で5分程の場所にある「曹洞禅宗 西嶺山 花應院」を訪ねた。この花應院は、小栗判官と照手姫の伝説が残された寺。「小栗判官照手姫縁起絵巻」と「地獄変相十王図」が永く保存されており、毎年1月と8月の16日の閻魔祭で開帳され住職による複製11幅による「地獄変相十王絵図」の「絵解き」解説が行われているのであった。花應院は、曹洞宗の寺で、慶長年間(1596年~1625年)の創建と伝えられている。最初は自転車で向かうつもりであったが、家を出る直前に激しい雨が降り出したので、急遽車で向かうこととし、境内に車を駐めさせていただき、雨も止んだので山門に向かう。藤沢市西俣野866。「小栗判官・照手姫 縁起の寺 花應院」と。「不許葷酒入山門」碑。【くんしゅ【葷酒】 山門(さんもん)に入(い)るを許(ゆる)さず】「葷」は韮(にら)・葱(ねぎ)・大蒜(にんにく)などの香りの強い野菜のこと。多く禅宗の寺の門前に立つ結戒の一つ。「不許葷酒入山門」とあり、臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。「曹洞禅宗 西嶺山 花應院」碑。側面には「奉祈 馬頭観世音菩薩」と。「案内板」が2種類。「小栗判官・照手姫、縁起の寺小栗判官と照手姫の物語は、中世以降から伝承されてきた物語です。説経節として端を発し、浄瑠璃や歌舞伎などの題材にもなり世に広まりました。物語の大筋は、照手姫を見初めた小栗が、姫の父兄に殺され、閻魔大王によって娑婆に戻され、藤沢の遊行上人の助けを得て蘇生し、姫と再会し復讐するというストーリーです。ここ花應院には、小栗判官照手姫縁起絵と地獄変相十王図(地獄絵)が伝来し、例年一月・八月二回の閻魔祭りでは、縁起絵並びに十王図の開帳と共に、伝説の小栗判官・照手姫の奇想天外な物語と、地獄のさまざまな姿の絵解きが行われます。西俣野には「小栗・照手ゆかりの地」として、多くの史跡・地名が残されています。 平成三○年(ニ〇一八年) 二月 藤沢市教育委員会」「市指定重要文化財(彫刻) 昭和四十一年(一九六六) 一月十七日指定 石造閻魔大王像 像高 24.0cm 袖張 25.0cm小像ながら力強さと大きさを感じさせます。安山岩製の硬質な石材を巧みに彫りあげ、閻魔大王の風貌をよくとらえています。造立年代は近世初期と推定されています。以前は村内の閻魔堂(現、西俣野八〇五)の本尊の「前立ち」として安置されていましたが、天保十一年(一八四〇)のお堂の火災の際に、村の若者の手によって危うく難を免れ、花應院に移されたものです。木造彩色の閻魔大王像は、像高104cm、袖張104cmと大型像ながら丁寧な彫刻が施されており、『新編相模国風土記稿』には「小野篁(たかむら)彫刻せしと云う」と記されています。背後から石像閻魔大王像を胎内に納める作りとなっています。 平成三○年(ニ〇一八年) 二月 藤沢市教育委員会」そして山門の前には、ジェラート・アイスクリームが人気の店「飯田牧場」があった。参道を進んで行くと右手には「六地蔵」が。正面から。「本堂」に向かい合う位置には様々な石仏が。近づいて。右手に錫杖(しやくしよう=頭部に数個の輪が付いている杖)、左手に宝珠(ほうしゅ=宝の玉)をもつ地蔵菩薩像。こちらも手に何かを持たれていたのであろうか?こちらも同様に。その先右手にも石碑群が。一番右側には馬頭観世音菩薩碑。本堂手前の右側には九重石塔と水子地蔵。「本堂」。扁額「花應院」。「本堂再建記念」碑。昭和五十七年五月十六日落慶花應法地二世 大法逸巖代建設委員長 渋谷彦三 謹書 と。「藤沢市指定重要文(彫刻)石造閻魔大王坐像本像はもと閻魔堂(正しくは法王院十三堂といい、花応院の北方100mに「閻魔堂跡」として保存)の本尊である木造閻魔大王坐像の”おまいだち”として安置されていたが、天保十一年(一八四〇)のお堂の火災の際に、村の若者の手によって危うく難を免れ、花応院に移されたものである。本尊の閻魔大王像は、木造彩色坐像で像高一〇四.〇cm 袖張一〇四.五cm と大型像ながら、丁寧な彫刻が施されており、一説には、平安時代の漢学者、歌人である小野篁(おののたかむら)の作と伝えられている。他方、市指定重要文化財の石造閻魔大王坐像は、前記の木造閻魔大王坐像の胎内仏で、像高ニ四.〇cm 袖張ニ五.〇cmと小像ながら、安山岩製の硬質な石材を巧みに彫りこなして、大王の風貌を遺憾なく表現した秀作で、造立年代は室町後期か桃山期と推定されている。昭和四十一年一月十七日 指定 藤沢市教育委員会」 ・・・つづく・・・
2023.09.18
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この日は8月10日(木)、仕事の応援で滋賀県彦根市に前夜泊で向かいました。小田原駅から新幹線ひかりを利用して、米原駅に向かう。米原駅の手前の車窓からは、緑あふれる稲作水田が拡がっていた。そして彦根駅東口近くにあるホテルにチェックイン。ホテルの我が部屋から山の上に建つ「彦根城(ひこね じょう)」が見えた。ズームして。彦根城は、近江国犬上郡彦根(現在の滋賀県彦根市金亀町)にある城。江戸時代には彦根藩の政庁が置かれた。天守、附櫓及び多聞櫓は国宝、城跡は特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域である。天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は犬山城、松本城、姫路城、松江城)。彦根八景・琵琶湖八景に選定されている。姫路城などとともに天下の名城の一つに数えられる彦根城は、井伊直継(なおつぐ)・直孝(なおたか)によって約20年の歳月をかけて建設され、元和8年(1622)に完成しました。佐和(さわ)山城・安土城・長浜城・大津城の石垣や用材が使われました。月明かりに浮かぶ彦根城は美しく、琵琶湖八景の1つに数えられています。明治時代の廃城令や戦火を免れた彦根城の勇壮な姿を、城内散策で眺められます。また、彦根城の別名金亀城(こんきじょう)の名は、彦根城築城以前、彦根山上にあった寺院に金の亀に乗った観音像が安置されていたため、と言われています。国指定の特別史跡です。JR彦根駅を見下ろす。彦根から6km、琵琶湖の真ん中に浮かぶ「多景島(たけしま・たけいしま)」が見えた。元は島内に竹が多く自生していることから「竹島」といっていたが江戸時代に荒神山から土を運び植林。木が成育すると島を眺める方向によって多様な景色に見えることから多景島と呼ばれるとのこと。1655年(明暦元年)に長浜・妙法寺僧慈雲院 日請上人が島内に日蓮宗見塔寺を開寺。島内全域が見塔寺の敷地になっているとのこと。島の一番高い場所にある誓いの御柱が見えた。五角形の柱の五面それぞれに明治天皇の五箇条の御誓文が刻まれているとのこと。夕焼けを背にした彦根城。ズームして。近江鉄道、土山サービスエリアのラッピング電車が走っていた。城山に立つ彦根城。城山は湖と東の山々の間の中にポッコリと盛り上がった高さ140メートルほどの小さな山。天守閣とその下に天秤櫓が見えた。彦根城と城下町の建設は、今からおよそ410年前の慶長(けいちょう)9年(1604)に始まり、20年近い歳月を経て完成した。その中心をなしたのが、天守のある本丸。現在の本丸には天守の建物しか残っていないが、かつては藩主の御殿である「御広間(おんひろま)」や「宝蔵」、そして「着見櫓(つきみやぐら)」なども建っていた。天守は3階3重、つまり3階建て3重の屋根で構成。規模は比較的小ぶりだが、屋根は「切妻破風(きりづまはふ)」「入母屋破風(いりおもやはふ)」「唐破風(からはふ)」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓(かとうまど) 」、3階には高欄付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せているのだ。城の表門や大手門から入ると、鐘の丸を経て太鼓丸を通らないと、本丸にはたどりつけない。その入り口に設けられたのが、天秤櫓である。櫓門の左右に二重の隅櫓が置かれ、その後方にも短い続櫓がある。中央部に廊下橋がかけられており、いざというときには橋を落とし、鐘の丸からの侵入を防ぐようになっていたという。西の空が、さらに赤く染まって来た。天守閣をズームして。ビルの間に見えた多景島の先に夕日が沈む。京都方向の山に沈む夕日。夕飯を食べに、JR彦根駅の西口に向かう。中央通路にあった「国宝「彦根屏風」ジャンボ複製」。「彦根屏風(ひこねびょうぶ)は、江戸時代初期に描かれた風俗画。紙本金地著色、六曲一隻、縦94.0cm横271.0 cm(本紙のみ)の中屏風画である。1955年に国宝に指定。国宝指定名称は「紙本金地著色風俗図(彦根屏風)」。滋賀県・彦根市所蔵、彦根城博物館保管。近世初期風俗画の代表作の1つで、浮世絵の源流とも言われる。描かれた場面は近世初期、京都六条柳町(通称三筋町)の遊里である。当時、六条柳町の太夫は同時に四条河原町で演じられる遊女歌舞伎の演者でもあった。こうした遊里や歌舞伎といった享楽的で華やかな題材にもかかわらず、絵にはどこか冷たく寂しげな雰囲気が漂う。制作年代は、類品との比較や金地の使い方などから、寛永年間、特に寛永6年(1629年)前後から11年(1634年)の間だと推測される。この時代、風紀の取り締まりが厳しくなっていき、絵のような情景は急速に失われつつあった。この絵の発注者及び絵師は、かつて自分たちが楽しみ、今無くなりつつある情景を追憶するために制作されたとも推測できる。画中の形式を観察すると、中国の文人たちの「雅」な遊び「琴棋書画」を、当世日本の「俗」な物に置き換えられている事が指摘できる。即ち、琴は三味線、棋(囲碁)はすごろく、書は艶文、画は画中屏風の山水画、にそれぞれ見立てられている。こうした趣向は近世絵画では珍しいことではないが、彦根屏風はその最初期の作例であり、後の浮世絵にも受け継がれている。」とウィキペディアより。「風俗画(彦根屏風)(国宝)彦根藩主井伊家に伝えられるため、「彦根屏風」の名があり、寛永期(1624~44)を代表する風俗図として知られる。現在は彦根城博物館に所蔵され、年1回公開されている。原寸は縦94.5cm横278.8 cm(絵が描かれている本◯部)」もともと六曲一隻の屏風であったが、現在は保存に便利な六面の額装に改装。遊里の一室にくつろぎ遊ぶ男女15人の姿を、全面金箔(きんぱく)地の画面に描いている。彦根屏風(第5・6扇)。左から、水墨画の山水図屏風の前で三味線を弾く人々、その隣では男女で「双六」遊びをして楽しんでいたりする様子が繊細な筆づかいで表現されている。彦根屏風(第3・4扇)。中央には恋文を書いていると思われる女性の姿が。彦根屏風(第1・2扇)。右には阿国歌舞伎のような姿で、太刀にもたれたポーズで立っている若衆や犬を連れた女性などが描かれていた。そして中央通路からJR彦根駅ホームを見下ろす。食事を済ませ、ホテルへの帰路へ。駅前からライトアップされた、以前に訪ねたことのある「彦根城」👈リンク を見る。「佐和山城跡」案内板。彦根駅の北側、佐和山(232.5m)にある城跡。不破(ふわ)の関があった関ケ原(せきがはら)に近く、交通の要衝であった。近江守護佐々木氏によって築城され、天正18年(1590)石田三成(いしだみつなり)(1560-1600)が、佐和山城主となってから、5層の天守を構え、鳥居本(とりいもと)を大手とする立派な城だったと。三成が関ケ原の戦いで破れた後、井伊直政(なおまさ)が新しい城主になったが、慶長11年(1606)、彦根城築城にともない廃城になった。建築物の多くは彦根城や麓にある清凉寺(せいりょうじ)、龍潭寺(りょうたんじ)に移築転用され、現在では佐和山城を偲ぶものは、わずかに残った石垣と、後の時代に建てられた石碑だけとなっている。また、山頂からは琵琶湖や比良山系が一望のもとに見わたせるのだ。JR彦根駅改札口。彦根の物産。「石田三成の城 佐和山城」そして、この日のホテルの部屋に到着。久しぶりのホテル宿泊。部屋の壁には。そして窓から彦根城の天守閣を再びズーム。そして翌朝にも。井伊家三十五万石の礎として築城された彦根城は、昭和27年に国宝指定された現存天守の美しい城。三層白亜の天守も見事。近世の城で天守が残っているのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城。このうち、国宝に指定されているのは松本、犬山、彦根、姫路、松江のわずか5城。そのうちの一つである彦根城は、規模こそ小さいが、天下の名城とも名高く、琵琶湖八景の1つにも数えられているのだ。天守は、大津城から移築したものだが、入母屋破風に唐破風や切妻破風など他の天守閣にはない、変化に富んだ美しさを見せているのだ。1番上の窓枠も、寺院建築に使われていた美しい曲線でかたどられた花頭窓になっているのが確認できたのであった。そして朝食を済ませ、JR彦根駅からタクシーにて、この日のお客様の工場に向かったのであった。 ・・・END・・・
2023.09.17
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「鉄砲洲通り」を更に亀島川に沿って北に進むとあったのが「稲荷橋」碑。中央区八丁堀4丁目12−11。さらにその先、「桜橋第二ポンプ所」の車両出入口の横にも。「いなりばし」ではなく「いなりはし」。洪水や氾濫で川が濁らないようにと、意図的に濁点をとることで験(げん)を担(かつ)いでいます。実際の地名とは異なる読み方になる場合もありますが、その背景には安全を願う思いが込められているのです。「桜橋第二ポンプ所」がある場所は、かつての掘割「八丁堀」があった訳で、ここにも橋・「稲荷橋」が架かっていたことを理解できたのであった。この地図で見ると、楓川と亀島川をつなぐ運河。長さが約8丁(約873m)あったので八丁堀。明治になって、桜川と改称されたのだと。「稲荷橋」のあった場所から「亀島川」を見る。「旧八丁堀」が「亀島川」に合流した場所も埋め立てられ「亀島川公園」になっており、「亀島川緑道」が造られていた。ベンチも設置され、休憩場所にもなっていた。先程訪ねた、亀島川に架かる「南高橋」が確認できた。休憩用デッキから河川敷の緑道への階段を降りる。展望・休憩デッキその先に「南高橋」。その先に「鍛冶橋通り」の「亀島川」に架かる「高橋」。「高橋」から「亀島川」、「南高橋」を再び振り返る。「鉄砲洲通り」の路地を西に向かい、亀島川から離れて「居留地中央通り」に出る。「居留地中央通り」を北に向かう。この辺りが「八丁堀」があった場所であろう。「中央区立女性センターブーケ21」前。中央区湊1丁目1−1。「中央区立桜川屋上公園」案内板。「東京都下水道局 桜橋第二ポンプ所」の建物の屋上が利用されていた。「桜川屋上公園 入口」。「中央区立桜川屋上公園」は緑あふれる公園になっていた。水の流れる小川も。そして「居留地中央通り」に戻ると右手にあった路上アート。アルミ製の帯鋼を用いて3人の女性(美神)の姿を表現?中央区湊1丁目1−1。「海の三美神」と。足下にはモザイクアートが。青い海の波を表しているのであろう。「海の三美神 エステル・アルバルダネ 1993年」。「東京都下水道局 桜橋第二ポンプ所」案内板。「桜橋第二ポンプ所」の反対側の「特別養護老人ホーム わとなーる桜川」の建物の壁には色彩豊かなイルカの親子?の姿が。そして次に訪ねたのが「新大橋通り」沿いにあった「中ノ橋北東児童遊園」。中央区八丁堀4丁目11。その隣が「中央区立桜川公園」になっていた。入口・「新大橋通り」沿いにあったのが吉田 昇作「MOON LIGHT STAGE —月舞台—」。中央区入船1丁目1−1。「—月舞台—」とあるが、何を表現しているのであろうか、丸いのが月?それを支える石は?穴の開いた石もあるが、芸術品の感受性の乏しい私には・・??。「桜川公園」の北側の奥に案内板があった。中央区入船1丁目1。「八丁堀(桜川)跡」案内板。所在地 中央区八丁堀四丁目 新富・入船・湊の各一丁目 地域江戸時代初期、京橋川の下流から隅田川へと流れ込む通船のための水路が開削され、この堀割を「八丁堀」と称していました。八丁堀の開削年や名称の由来には諸説ありますが、『京橋区史』には、南八丁堀1丁目と本八丁堀1丁目の間より東流し、桜橋、中ノ橋、稲荷橋を過ぎ亀島川に会いして海に入る。慶長17年(1612)に漕運の利を謀りこれを鑿つ、当時海口より凡そ八丁(約870メートル)なるを以ってこの名ありと書かれています。なお、地域名としての八丁堀は、堀を境に北側の地域一帯を本八丁堀(北八丁堀)、南側の河岸地一帯を南八丁堀と称し、広範囲にわたっていました。通船堀としての八丁堀は、明治になって「桜川」と改称され、関東大震災後の復興事業を経て新桜橋・桜橋・中ノ橋・八丁堀橋・稲荷橋が架けられました。昭和35年(1960)から昭和41年(1966)頃には、中ノ橋から稲荷橋までを残して桜川の上流が埋め立てられ、その後、桜川は完全に埋め立てられました。埋立地の一部は、桜川公園として整備され、この辺りに堀割があったことをしのばせています。平成17年(2005)3月 中央区教育委員会」「中央区の橋・橋詰広場-中央区近代橋梁調査-」。通船堀としての八丁堀は、明治になって「桜川」と改称され、関東大震災後の復興事業を経て新桜橋・桜橋・中ノ橋・八丁堀橋・稲荷橋が架けられた と。そして、「桜川公園」の「新大橋通り」側の南側にあったのが「入一地蔵菩薩・入一観音菩薩」。この地は江戸初期に開削された堀割の八丁堀(明治期以降は桜川)が北側に流れ、中の橋が架かっていた南詰東側であって、かっては南八丁堀と呼ばれていたとのこと。「入一地蔵菩薩・入一観音菩薩」と書かれた幟。「入一」というのは、この地蔵様のある入船一丁目の略であろう。中央区入船1丁目1−26。正面から。大小三体の地蔵様。以前は川だったこのあたり「八丁堀」を、お守りされていたのであろう。川を守る、川から人を守る!観音さまは水を統(す)べる方、お地蔵さんは異界との門番。そう考えると、水害と海運の祈願と供養ということなのであろう。右から「地蔵菩薩立像・入一地蔵菩薩」。中央に「小さな地蔵様」。左に「聖観音立像・入一観音菩薩」。そして地蔵堂脇にあったのが「むしば祈祷石」と。周り約90cm余り、高さ60cm余りの油石と称する自然石が古くより存在していて、以前は表面もすべる滑かさがあつたそうです。この石が火災にかかって油石の油も燃切り、今はガサガサ石と変じてしまったとか。この「むしば(虫歯)祈愕石」には、こんな記録が残っている。「あぶら石(歯痛) =京橋区南八丁堀ニ丁目の路傍(みちばた)に周(まはり)三尺余高さニ尺余のあぶら石と称する自然石(しねんせき)が古くより存在してゐる、以前は表面も頗る滑(なめら)かがあったが、数年前火災に罹(かゝ)って油石の油も燃切り、今はガサ/石と変じて了(しま)った、何の理窟か分らぬが古来歯痛(はいたみ)の願を懸けるものが夥(おびた)だしい、又油石の下には石で作った男女の首が埋めてあるといふ説もある。(「東京朝日新聞」明治40年( 1907 ) 12月15日付)」とネットから。虫歯に御利益があるとされていたようだ。そしてこの日の散策はここまでとして、「JR八丁堀駅」からこの日の最終目的地に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.09.15
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次に訪ねたのが鉄砲洲通り沿いに鎮座していた「鐵砲洲稲荷神社(てっぽうずいなりじんじゃ)」。中央区湊1丁目6−2。提灯と社号標石には「鐵砲洲稲荷神社」と。そして鳥居の両脇には一対の「狛犬」。普通の狛犬より2回りほど小さなサイズの狛犬は昭和十五年(1940)奉納 と。「鐵砲洲稲荷神社所在地 中央区湊1−6−7鐵砲洲稲荷神社は、中央区湊にある稲荷神社として、地域の人々の信仰を集めてきました。神社は寛永元年(1624)頃、稲荷橋南東詰に遷りましたが、明治元年(1868)現在地に移転し、今日に至っています。関東大震災により被害をうけた境内は昭和10年(1935)より復興、整備され、正面中央奥に社殿、左手に神楽殿と摂社八幡宮、右手に社務所と手水舎が向かい合うように配置され、境内西南隅に神楽庫が設けられています。また、西北隅には富士山の溶岩で築いた富士塚があり、そこを富士信仰の場としていました。むかしの富士塚は「江戸名所図会」にも描かれた有名なものでした。境内は昭和初期の神社建築とその配置の有様をよく伝えており、また、富士塚も区内唯一の富士信仰の名残りをとどめている点から、共に中央区民文化財に登録されています。平成五年三月 中央区教育委員会」「京橋地区の生成並びに鐵砲洲稲荷神社御由緒鐵砲洲の地は、徳川家康公入府の頃は、既に鐵砲の形をした南北およそ八丁の細長い川口の島であり、今の湊町や東部明石町の部分が該当します。寛永の頃ここで大砲の射撃演習をしていたので、この名が生まれたとも伝えられています。昔の海岸線は現在のものより遥かに奥まったものであり、八丁堀の掘られたのが慶長17年で、京橋辺りの土地形成が天文の頃、足利義輝公の治世、京橋地区一帯の土地生成の産土の神こそ、現在の「鐵砲洲稲荷神社」の「生成(いなり)大神」であります平安時代初期、第54代仁明天皇の承和8年(皇紀1501年・西暦841年)打ち続く凶作に教えられる所あって、住民たちがこの地に自らの産土の国魂を祀り、万有の生命を生かし成し給う大御親生成(いなり)の大神として、日常の御守護を祈願しました。所が此のご鎮座の地が、当時の東京湾の最も奥に位置していた為に港として諸船舶の出入りが繁く、霊験のあらたかなる神徳と相まって当然の結果として船乗人の崇敬が頗る篤くなりました。その後、埋立が進行して現在の京橋のあたりへ遷座となり、更に室町末期の大永年中に氏子崇敬者たちの願望によって、また新しい海岸へ遷座し奉って、八町堀稲荷神社と称しました。」今の新京橋の近くであります所が更にその後年にも埋立が進行して海岸は東方へ移りましたので、寛永元年には南八町堀地続きとなった鐵砲洲に生成大神を御遷座申し上げ、従来から鐵砲洲御鎮座の八幡神社を摂社とし、以って今日の鐵砲洲稲荷神社の基礎を築かれました。此の時代を通じて江戸で消費する米・塩・薪炭を始め、大抵の物資は悉く此の鐵砲洲の港へ入ってきました爲に、大江戸の海の玄関に位置する此の鐵砲洲に御鎮座のいなり大神は、船員達の海上守護の神としても崇敬されました。港が横浜や芝浦に移転してしまった現在でもなお、特殊神事・冬至開運祈願祭に授与する「金銀富貴」の神札等は、全国的に篤く崇敬されて、諸諸方々の人々から拝戴されています。抑も此の神社は、此の土地の氏子達は勿論のこと、全人類をして悉く「富み且つ貴からしめたい」との御神慮に基くものであります。さて、我等は如何にして富み且つ貴くなる事が出来るかと言うに、それには各自悉くが自分の親を大切にして先祖を供養し、子孫の為に善根を培って行けば、人も自分も、先祖も子孫も、此の世にも彼の世にもみんな救われて永遠の生命に生きることが出来ます。また天地生成の恵みに感謝し、人のお蔭様に報恩の誠を捧げて行けば、必ず富み且つ貴い運命を開く事が出来ます。此の運命開拓の御催促と共に、力の不足に対する、力の本源である大御親神から愛子への愛の御力添えが、此の金銀富貴の神礼であります。」「百度石 大正十四年三月」と。百度詣は百回踏とも言いますが、神様に願い事を聞いて頂く為の厳しい作法のお詣り。夜中など、人目が少ない時に、白い着物を着て素足で、暴風雨でも大雪でも100日間続けてお詣りをするのだ。しかし、それを一日で完結させる方法として百度石を使った方法もあった。神社の百度石から参拝所までをグルグルと100回まわってお詣りするのであった。「手水舎」手水舎には気になる文面が。「反省威張る時には神に捨てられ 欲張る時は金に背かれ」「妬む(ねたむ)ときには友を持ち得ず 怒るときには己を失うのだ ---正光---」と。・・・我が身にもなかなか深いお言葉なのであった。鳥居をくぐって左手には、「神楽殿」。1923(大正12)年の関東大震災で拝殿とともに大きな被害を蒙ったが1937(昭和12)年に再建されたのだ と。神楽殿は入母屋造りの木造建築で、屋根はすべて銅板葺になっていた。 右手には「社務所」。社殿手前の狛犬(阿形像)。社殿手前の狛犬(吽形像)。そして正面に「社殿」。「旧社殿」は関東大震災で焼失し「現社殿」は昭和十年(1932)に再建されたもの。再建された社殿は戦時中の戦火から免れ現存。起立の年月として口碑に伝えるところはきわめて古く承和年間というが、元祿十六年および文政十二年の火災に社記を焼失して詳しいことはわからない。鎮座の地が東京湾の最も奥に位置していたため、船人の崇敬が他にまして厚かったという。鉄砲洲稲荷が本湊町に移ったのは慶応三年八月のことで、以来元八丁堀稲荷と称したが、明治五年十一月村社に列し、翌六年七月郷社となった。現在の建造物は大正震災後のもので、本殿・拝殿・幣殿等檜流造五十坪は昭和十年十月に、神楽殿・社務所など百六十坪は昭和十二年それぞれ竣工したものである。例祭を五月二十日にいとなみ、月次祭は一日・十五日に執行する。摂社に鉄砲洲八幡神社、末社に金刀比羅神社・恵比寿神社・鉄砲洲富士浅間神社がある。富士浅間神社は宝暦十一年五月五日富士講の奉賽するところともいうが、山麓の石碑には、当神社境内に在る婦富士山は始め寛政二年九月稲荷橋南詰の元社地内に築造されしものなり江戸名所図絵巻之一湊稲荷神社の図のうちにあり 明治二年二月社地の移転ありて明治七年四月に至り現在の大島居より東南十二三間の処に再築さる 明治十八年社殿御造営に際し現在の大島居の西北約八間を距りたる処に移されしが、更に大正大震後の区画整理に因る社地移転に当りて昭和三年十二月此処へ移す昭和三年十二月郷社鉄砲洲稲荷神社御社殿御造営に因り昭和十一年秋右に記録せる位置より富士山を西へ二間大島居を南へ二間夫々移動せり 社司青葉運太識とある。元旦の歳旦祭、節分祭、五月例大祭、十一月十五日七五三祭、十二月冬至祭などの年中行事がある。また、二月十七日豊年祈願祭には田植舞、十一月二十三日新穀感謝祭には稲穂舞などの神楽舞が奉納され、在京外国人の見学する姿をよく見受ける。冬至祭には金銀富貴の札と、一粒万倍の金銀目芽え袋とを頒与する。氏子は銀座東一丁目から八丁目まで、新富町一、二、三丁目、入舟町および湊町の全域、明石町、越前堀一丁目など区内十九ヵ町にわたり、その数約五千戸に達する と。内陣。御祭神は宇迦之御魂大神、豊受姫大神。さらにズームして。仁明天皇の御代、承和八年四月十五日に創祀。年来打續く冷害凶作に教へられ、江戸湾海岸櫻田村の住民が、宇迦之御魂の大神を祀って豊年を恵まれた。菜畠稲荷と称した。次に今の新京橋の所に遷って八丁堀稲荷と称した。次に鐵砲洲に遷って今日に至った と。拝殿に向かって左、神楽殿の並びにある社。古くから鉄砲洲に祀られていた「八幡神社」が「摂社」として祀られている。左右には「随身」のお姿が。日本の神道において、神を守る者として安置される随身姿の像のことも「随身」といい、この場合は随神とも書かれる。門守神(かどもりのかみ)、看督長(かどのおさ)、矢大神・左大神とも言う。神社の門のうち、門の左右に随身を安置した門のことを随身門・随神門(ずいしんもん)と呼ぶこともある。正面に向かって右が左大臣(老人)。近づいて。正面に向かって左が右大臣(若者)。近づいて。この随身像1対は松本昇作 木挽町七丁目の中村語郎奉献 と。木挽町は現在の銀座の東側の旧町名で1951(昭和26)年に町名廃止になっているので奉納から少なくとも72年近くは経過していることになる。実際は八幡神社だけでなく、天満社・浅間社三輪社・琴平神社・住吉社も合わせ祀った社殿であり、神座も5座あるのであった。社殿手前の大きな狛犬(阿形像)。社殿手前の大きな狛犬(吽形像)。「二宮金次郎尊徳像」。平成十四年(2002)の奉納 と。近づいて。撤去され失われていく二宮金次郎像が多い中、こうして比較的新しく奉納されたのは珍しいと感じたのであった。「二宮尊徳先生は本名金次郎 天明七年(一七八七年)相州二宮に生れ、早くして両親を亡くし、水害で田畑を失ひ、伯父万兵衛に引き取られて農奴となる。夜間と雖も勉学を許されず、荷を肩に運びながらも読書にいそしむ姿を、此の銅像に表はせり。家老服部家の下郎となりて、若殿を學問所へ送る。教室の廊下に上がる事も許されず、床下に潜りて、講義を漏れ聞いて、學業に勵めり。勤倹、貯蓄、推譲によって世を導き、多くの人を助けて、一世の师表と仰がる。「天下の貧者を見ては、普く之を救済して、富に至らしめん事を祈願するものなり」「民を水火から救ふ能はずんば吾が身を猛火に投ぜん」と、神佛に祈った。忍從と不退転との決意を實行して、萬人に拜まれ、世界から崇められて、報徳二宮神社に神鎮まります。山内高嘉」「和平神繆斌(みょうひん)顕彰碑繆斌 号は丕成 光諸廿九年(一九〇三年)三月七日癸卯を享く 廿一歳上海南洋大學卒業黄埔軍官學校となり、・・・・・」対日協力政権である南京国民政府(汪兆銘政権)で立法院副院長の職にあった繆斌は、1943年(昭和18年、民国32年)8月から、蔣介石の重慶国民政府の軍統(軍事委員会調査統計局)の幹部や軍政部長の何応欽と連絡を取り合っている。彼は重慶政府の要人と連絡を取り合っていたことで南京政府より監禁されたことがあり、釈放後は逼塞していた。1945年3月、繆は蔣介石政権の密命を受けたとして訪日し、南京国民政府の解消と交換に日本軍の中国撤退や満州国の認知などを条件とする日中の単独和平交渉を日本の小磯内閣に提案した。対米英戦争(太平洋戦争)において敗色濃厚となった日本では、連日の激しい本土空襲に苦しんでおり、繆斌の示した和平条件はかなりの好条件であった。また日本の対米英開戦のそもそもの原因が中国問題にあったことから、この工作は対米英戦の和平につながりうるものとして期待された。この交渉を主導したのは小磯國昭内閣総理大臣や情報局総裁の緒方竹虎国務大臣らであり、天皇に近い東久邇宮稔彦王もこの和平工作に賛成していた。3月21日、小磯は繆斌を最高戦争指導会議に招致することを閣僚に提案し、当初はこの和平工作に陸海軍首脳も賛成の意向であった。ところが、重光葵外務大臣はこの工作に猛反対であり、内大臣の木戸幸一も重光を支持した。重光外相は、非正規の外交ルートによる外交交渉に反対という原則論に加え、和平工作そのものにも激しい批判を加えた。重光によれば、繆は「繆斌に蔣介石との繋がりはなく、日本の機密情報を持ち帰ってそれを手土産に蔣介石に寝返ろうとしているだけの和平ブローカー」として、それを示す情報を陸海軍首脳に提示した。重光の反対を受けて、杉山元陸相と米内光政海相も見解を変更し、繆を通じての和平工作に反対した。参謀総長の梅津美治郎も反対の意向を示した。小磯首相はあくまで交渉の続行にこだわり、陸海外の3大臣が反対するなか、4月2日に昭和天皇に繆を引き留めることを上奏した。しかしこれがかえって天皇の不興と不信を買った。昭和天皇の見解は「繆斌は汪精衛(汪兆銘)を見捨てた男である。元来重慶工作は南京政府に一任しているのだから日本が直接乗り出すのは不信な行為であるし、いやしくも一国の首相ともある者が蔣介石の親書も持って居ない一介の男である繆斌如き者の力によって日支全面和平を図ろうと考えるのは、頗る見識の無い事である。たとえ成功しても国際信義を失うし、失敗すれば物笑いとなる」というものであった。4月3日、天皇は繆斌の帰国を小磯に指示、この「繆斌工作」の失敗を受けて、小磯内閣の不統一が露呈し、小磯首相は退陣するにいたった とネットから。「東久邇宮・蒋介石使者繆斌談笑画像碑」小さい方の石碑には終戦処理内閣の首相だった東久邇宮稔彦王と繆斌とのツーショットが彫りこまれていた。今まで知らなかった歴史の1コマを今更ながら知ったのであった。終戦処理内閣の首相だった東久邇宮稔彦王と繆斌とのツーショット。大きな穴の開いた石碑は「針塚」と。裏側には「昭和三十五年」、「松徳和洋裁専門学院」の文字が。「神輿殿」であっただろう。本社神輿と鳳輦(ほうれん)は3年に一度、例大祭で渡御する。鳳輦は、「屋根に"鳳凰"の飾りのある天子の車」を意味する言葉で、日本においては、古くから、天皇の正式な乗り物を意味するほか、現代では神社の祭りなどに使われる、鳳凰の飾りがある神輿を意味する。本社神輿は大正5年製作で、台輪幅は4尺1寸5分 と。「本殿」を横から。本殿(と地下室)は昭和10年建造の鉄筋コンクリート建築。戦前の鉄筋コンクリート製の神社本殿は割りと珍しいのであった。火消し番号で六番組(す組)は京橋地区や築地などを担当したのだ と。「力石」は江戸時代に力比べに使用されたもの。 「力石」「三十貫」「享保十九年正月」などの刻銘が。そして社殿の右手には「富士塚」が。中央区唯一の「富士塚」 と。「富士塚」とは富士信仰(浅間信仰)に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚。本物の富士山に登拝するのは困難でも富士塚に登って富士を拝めば霊験あらたかとされ、江戸を中心に関東圏には数多くの富士塚が築山される事となったのだ。ここの「富士塚」は明治三年(1870)の移築で縮小、その後も明治十八年(1885)、昭和三年(1928)、昭和十一年(1936)と境内の中で移築されて少しずつ規模が縮小。現在の富士塚は平成二十八年(2016)に改修して築造されたものである と。富士塚の周囲をぐるりと回れるように舗装されていた。登山道の入口には石鳥居が。「ご注意 危険ですから富士山に登らないでください 鉄砲洲稲荷神社」。普段の登拝はできないが、富士山の山開きに合わせて7月1日のみ登拝が可能となるとネットには。実物の富士山の溶岩を用いて寛政二年(1790)に築造された と。この穴の中を覗きたかったが、上の注意書きが!!。登山道の途中、頂上には石祠が祀られていた。富士塚の山頂にあるのが末社「鉄砲洲富士浅間神社」。平成二十九年(2017)3月に、「平成の大改造」の第一期工事として解体されていた富士塚が再築されたのだ と。「鐵砲洲稲荷神社 御鎮座一千百八十年奉祝平成の大改修事業のご案内」。「富士塚修復 完成予想図」と。そして「鐵砲洲稲荷神社」を後にして、「鐵砲洲通り」を北に進むと交差点の角にあったのが「築地警察署 湊交番」。中央区湊1丁目6−5。「湊1丁目」交差点を右折して「隅田川」に合流する「亀島川」に向かって進む。前方に見えて来たのが「亀島川」に架かる「南高橋」。「南高橋」碑。「南高橋この橋は、亀島川の河口に位置し、関東大震災の復興事業の一つとして、昭和7年(1932)に架けられました。橋の主要部は、明治37年(1904)に架けられた旧両国橋の材料を利用して作られたもので、都内に現存する鉄橋のうち道路橋としては、最も古い橋です。また構造上の特徴は、トラスの1部材の端に丸い環のついた”アイバー”が用いられており、全体はピントラス橋とも呼ばれています。このため明治期の技術を今に伝える貴重なものとして、中央区民文化財に登録されています。平成28年(2016年)に、土木学会選奨土木遺産として認定されました。」「歌舞伎座前より乗合自動車に乗り鉄砲洲稲荷の前にて車より降り、南高橋をわたり越前堀なる物揚波止場に至り石に腰かけてて名月を観る。石川島の工場には燈火煌々と輝き業務繁栄の様子なり。水上には逗州大島行の汽船二三艘泛びたり。波止場の上には月を見て打語らう男女二三人あり。岸につなぎたる荷船には頻に浪花節をかたる船頭の声す。」 ((昭和9年7月・永井荷風「断腸亭日乗」より))橋梁の諸元型 式 : 下路式単純プラットトラス橋橋 長 : 63.1m有効幅員:11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)着 工 : 昭和6年1月竣 工 : 昭和7年3月総 工 費 : 76,600円施 工 者 : 東京市 平成28年11月 中央区「中央区文化財 南高橋所在地 東京都中央区新川2丁目湊~1丁目 (亀島川)創架年代は、昭和6年(1932)に起工、同7年3月に竣工。現在の 南高橋 の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、 亀島川 上流に 高橋 があったのみでした。大正12年(1923)の 関東大震災 ののち、街路の大規模な 区画整備 が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。東京市 は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治37年(1904)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の 両国橋 の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。都内において、珍しくも明治37年の トラス橋 の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の 土木遺産 として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで二番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で六番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。平成14年3月 中央区教育委員会」橋名板「南高橋」。関東大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのだ と。その下流側にあったのが「亀島川水門」。亀島川は、日本橋川から分かれ、隅田川へ合流する全長1kmほどの川。この川の上流端には「日本橋水門(1971年完成)」が、下流端にはこの「亀島川水門(1968年完成)」がある。高潮あるいは津波時には、両水門を閉鎖して亀島川流域住民の生命・財産を守る と。水門の大きさは、1門が幅15メートル、高さ8メートル、重さ60トンと都内では大型の水門である と。そして「湊ニ丁目(第5次)遺跡出土の土管花壇に使用されているのは、明治時代に製作された常滑焼の土管です。平成28年に行われた発掘調査で、井戸のくみ取り口用に3段重ねられた状態で発見されました。常滑焼は現在の愛知県常滑市の焼物で、江戸時代は大型の壺や甕の生産が主流でしたが、明治時代に入ると、都市の近代化にともない土管が量産されるようになります。このような大型の土管が割れることなく発見されることは稀であり、当時の生活の一端を伝える遺物です。 中央区」3つの土管は、まるで鉢植えのように、中に草花そしてざを茂らせていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.14
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「居留地中央通り」をさらに進むと、左手にあったのが「聖路加国際病院 小児総合医療センター」。聖路加国際病院(せいるかこくさいびょういん)は英語でSt. Luke's International Hospital と。今回、訪ねるまで、「せいろか」とばかり思っていました。中央区明石町10。その先「居留地通り」を渡って進むと右手に進むと石碑が現れた。正面から。「明治二十一年(一八八八)創立 暁星学園発祥の地」。石碑の裏面には「Ecole de l'Etoile du Matin」と。フランス語で「明けの明星(étoile du matin)の学校(Ecole)」すなわち「暁星学園」との意味であると。碑の上に1冊の本が開かれた形のモニュメントが載っていた。「あなたがたは地の塩 世の光である(マタイによる福音書)」と。その奥にあったのが「カトリック築地教会聖堂」。カトリック築地教会(かとりっくつきじきょうかい)は、東京都中央区明石町にあるキリスト教(カトリック)の教会およびその聖堂である。教会堂名は「聖ヨゼフ」。カトリック神田教会と同じく、東京で比較的早い段階から日本人のために開かれていた教会で、現在の聖堂は東京都選定歴史的建造物および東京都中央区の区民文化財に指定されている。教会としては珍しいギリシャ神殿パルテノン様式。正面にはドリス式の円柱が6本並び、ペディメント(三角破風)には、左右にバラと中央にユリの彫刻がなされていた。前庭に置かれた銅製モニュメントには「聖ヨゼフ幼稚園」の文字が。大正13年に創設された明石町の聖ヨゼフ幼稚園が80年以上の長い歴史に幕をおろし、2007年3月31日に閉園式を挙行しとのこと。閉園式では、月島在住の彫刻家・小畠泰明氏によるこの記念碑も除幕されたとのこと。聖書のぶどうをあしらい、卒園した人たちの思い出をひき出す作品であると。「カトリック築地教会聖堂」入口右にあった立像。キリストの十二使徒の一人である「聖ペテロ像」。1878年に他の3人の聖人像と共に聖堂内に置かれていたが、1923年の関東大震災で聖堂が焼失、この聖ペテロ像だけが残ったとのこと。イエス・キリストの一番弟子とのこと。イエスから「天国の鍵」を授かったので、大事に鍵を左手に持っているのだと。右手には書物、聖書であろうか。「東京都選定歴史的建造物カトリック築地教会聖堂所在地:中央区明石町5-26設計者:シロジアス神父、石川音次郎建築年:昭和2年(1927)築地一帯は、明治初期に外国人居留地に指定された。築地教会は明治7年(1874)に、パリ外国宣教会が居留地35番・36番を政府より借り受け、聖ヨゼフを守護聖人として設立したものである。明治11年(1878)から大正9年(1920)まで司教座がおかれた教会で、東京で最も古い教会の一つでもある。明治11年(1878)に献堂された旧聖堂は、ゴシック式赤レンガ造りであったが、大正12年(1923)に関東大震災で焼失。昭和2年(1927)に、木造2階建の現聖堂が献堂された。現聖堂は、当時の東京大司教であるレイ大司教の希望によりギリシア建築パルテノン型が採用され、正面にはドリス式オーダーが立ち並ぶ。明石町一帯は空襲をまぬがれたため、教会は戦災に遭わず、壮麗な姿を今に伝えている。東京都生活文化局 平成8年3月」「カトリック築地教会聖堂・銅製洋鐘所在地:中央区明石町5番26号カトリック築地教会は、明治4年(1871)にパリ外国宣教会のマラン神父が、鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借りて伝導活動を行ったことに始まります。その後、明治7年(1874)に築地外国人居留地35・36番(現在地)を借り受け、明治11年(1878)にはゴシック様式の立派な聖堂が献堂されました。この聖堂は、大正12年(1923)の関東大震災で焼失したため、昭和2年(1927)に再建されたのが現在の聖堂です。パリの聖マグダレナ天主堂を参考に設計したこの聖堂は、石造建築のように見えますが、実際には壁面をモルタル塗りで仕上げた木造の建物です。ギリシャ神殿を思わせる建物の正面には、ドーリア式の大きな柱が6本並び、屋根正面の切妻壁にはユリとバラの彫刻も施されています。また、旧聖堂が建立されていた時代から長年使用されてきた銅製の洋鐘は、1876年(明治9)にフランスのレンヌで製作されたものです。なお、この洋鐘には、当時の司祭・ルマレシャル神父が名付けた「江戸のジャンヌ・ルイーズ」という呼称を持っ歴史ある鐘です震災復興期に建立されたカトリック築地教会の聖堂と明治初年にフランスからもたらされた銅製洋鐘は、現在の明石町一帯に外国人居留地が置かれていた歴史を示す貴重な文化財です。令和3年3月 中央区教育委員会」構内に入る扉のすぐ右側には、1876年にフランスで鋳造された銅製洋鐘が展示されていた。この洋鐘は、当時の司祭・ルマレシャル神父が名付けた「江戸のジャンヌ・ルイーズ」という呼称を持っ歴史ある鐘。そして次の目的地の「佃島渡船場跡」に向かって進む。右手にあったのが「ニチレイ明石町ビル」。そして、「佃島渡船場跡」に到着。「佃島渡船」碑。「築地江戸前散歩」案内板。「中央区民文化財佃島渡船場跡所在地 中央区湊三丁目一八番 佃一丁目一一番四号佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲(よりす)でした。江戸幕府初代将軍徳川家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区)の漁民を招いて住まわせたところと伝承されています。この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に正保二年(一六四五)に通ったのが佃の渡しです。明治九年(一八七六)には、渡し銭一人五厘の掲示札の下付を願い出て許可され、大正十五年(一九二六)東京市の運営に移り、翌昭和二年三月に無賃の曳船渡船となりました。「佃島渡船」の石碑は、手こぎ渡船を廃止した記念として、この時期に建てられたものです。昭和三十年(一九五五)七月には一日七十往復にもなりましたが、同三十九年八月の佃大橋の完成によって三〇〇年の歴史を持つ佃島渡船は廃止されました。渡船の歴史を記念する史跡として、中央区民文化財に登録されています。平成十六年三月 中央区教育委員会」昭和28年頃の佃島渡船。江戸後期・ 安政期頃の古地図である。渡船の航路は、鉄砲洲川の河口から「佃の渡し」と「寄場の渡し」の2本が描かれている。寄場とは石川島の人足寄場(にんそくよせば)である。鉄砲洲川河口に架かる2つの橋は、明治大正期には河口側が「鉄砲洲橋」で、陸側が「小橋」であった。明治後期から大正期にかけての地図では、現在地と同じ場所(=佃大橋西側)に移っている。そして現在の「佃大橋」を見る。「佃大橋」は隅田川の渡船場として320余年続いていた「佃の渡し」の位置に架けられた橋であり、上流に平行している永代橋、下流の勝鬨橋の交通量の増加、および1964年東京オリンピック開催に備えた関連道路の一部として、戦後初めて隅田川に架橋された橋である。当時佃島と月島を隔てていた佃川は、佃大橋の取付道路建設のために埋め立てられ、佃島と月島は地続きに、同時に佃川に架かっていた佃橋は廃橋となった。この日も東京クルーズ「エメラルダス」の姿が。堤防上から隅田川そして中央大橋を見る。そして中央大橋の袂に聳える、地上35階のタワーレジデンス、リバーポイントタワーを見る。中央大橋をズームして。そしてリバーポイントタワーの手前に見えたのが「石川島灯台」。隅田川河口、品川沖を航行する船の安全ための常夜灯として築かれた石川島灯台を復元したモニュメントで、佃川支川が隅田川に合流する住吉水門近くに建ち、石川島の歴史を今に伝えるシンボル的な存在になっているとのこと。慶応2年(1866年)、人足寄場奉行・清水純崎(しみずじゅんき)が人足寄場で生産した油絞りの益金を利用し、人足寄場の西岸に築いた六角2層の常夜灯がこの石川島灯台。灯台の完成で江戸湾から日本橋方面に入る船の航路、近在漁師の安全が図られたのだと。中央区佃1丁目11−4。そしてその右には、「住吉大神」と書かれた幟が。こちらも「住吉大神」と書かれた幟と、隅田川沿いに建つ朱の鳥居も見えた。隅田川には、この先で左側から亀島川が合流する。そして新富晴海線を西に進み、右折して進む。「鉄砲洲通り」。中央区湊に鉄砲洲、という地名があった。住所として「鉄砲洲」、という地名はないとの事だが、鉄砲洲稲荷や鉄砲洲通りなどにその名を残していた。江戸名所図会の「銕炮洲」の項目には地名の由来を以下のように記してあると。「伝へいふ、寛永(1624年~1644年)の頃、井上・稲富ら大筒の町見を試みしところなりと、あるいは、この出洲の形状、その器に似たるゆゑの号なりともいへり」つまり、鉄砲洲の地名の由来は以下の2説。・幕府鉄砲方の井上・稲富の両家が、この砂州上で大筒の稽古を行っていた・砂州の形が鉄砲に似ているどちらの説が正しいかはっきりとはしないが、江戸幕府の初期の頃にはこの辺りで大筒の稽古が行われていた。その後、この鉄砲洲の地が江戸城に近いことから、大筒の稽古場は鎌倉の由比ガ浜に移されているとのこと。次に訪ねたのが「中井鋳物工場跡(戦前建築)」。右端の壁には「中井鑄物工場」の文字が。シャッターが下り、既に閉鎖されているようだが、伝統的な木造家屋の一部を洋風にしたタイプでやや珍しい。正面の破風は屋根形状と無関係に取りつけられているのであった。周囲を高いビルやマンションに囲まれつつも、この一角のみ戦前の面影を残しているのであった。そして再び隅田川に向かって進む。振り返ると「宗教法人妙真教会」があったが境内に入ることは出来なかった。正面に見えたのが「湊第一児童遊園」。その横にあったのが「汐見地蔵尊」。「汐見地蔵尊文化四年(一八〇七)富岡八幡宮祭礼日に永代橋の崩落事故が起り二千余名もの犠牲者が出ました。その後も大火災、大地震、疫病が江戸一帯を襲い多数の死傷者が出ました。明治時代に入りこの地に怪奇現象が起こり川底から一体の石像と多数の人骨、歯牙歯骨が出ました。人骨は両国の回向院に、石像と歯牙歯骨はこの地に葬つて供養しています。歯を病む者が祠前の塩を持ち帰り口中を漱げば痛みが治り、お礼に塩や楊枝を供する習しで霊験すこぶるあらたかな地蔵尊として篤い 信仰を集めています。 供養祭 毎年八月六日」内陣。さらに。鉄砲洲川は埋め立てられたが、現在、鉄砲洲川河口跡付近はここ「中央区立湊第一児童遊園」(湊二丁目16)辺りで、隅田川護岸には「下水道管埋設」の標識板があり、ここが川跡の痕跡。よって江戸後期・ 安政期頃には、この場所に「佃の渡し場」があったのだ。「御産稲荷堂新築にあたり」。そして「中央区立 湊公園」に立ち寄る。再び隅田川、中央大橋、リバーポイントタワー、スカイライトタワーを見る。「中央大橋」は1994年1月に開通した架橋であり、隅田川に架かる橋で平成時代に初めて建造された新規の架橋である。夕刻から夜10時までは、白色の水銀灯と暖色系のカクテル光でライトアップされている。隅田川はフランスのセーヌ川と1989年(平成元年)に友好河川を提携しており、中央大橋を架橋する際に、フランスのデザイン会社に設計を依頼した。そのためか、主塔および欄干部分に日本の「兜」を意識した特徴的な意匠が施されている。また上流側の中央橋脚部には当時のパリ市長であったジャック・シラクから東京都に友好の印として贈られた彫刻家オシップ・ザッキン作の「メッセンジャー」と名づけられた彫像が鎮座する。彫像は川側を向いており、橋をくぐる水上バスからの方が見やすい。なお、このお礼にパリ市に「屋形船」を寄贈している。構造形式:二径間連続鋼斜張橋橋長:210.7m幅員:25.0m中央区新川2丁目。次に訪ねたのが「中央区立鉄砲洲児童公園」。中央区湊1丁目5−1。「鉄砲洲児童公園」碑。夏の名物、「じゃぶじゃぶ池」と。幼児用の水深が浅いプール。「じゃぶじゃぶ池利用案内」「鉄砲洲小学校」の沿革碑。(鉄砲洲児童公園内に設置されている。もともとは、小学校の敷地にあったものか)「知徳体 調和のある子」と。「鉄砲洲小学校の沿革」。明治10年(1877) 京橋区南飯田町1番地に築地学校として開校。明治23年(1890) 京橋区新湊町3-4-5へ移転。明治43年(1910) 東京市鉄砲洲尋常小学校と校名を改称する昭和 4年(1929) 大正12年 関東大震災で校舎全焼 中央区湊1-4-1に校舎の落成により移転昭和 6年(1931) 東京市鉄砲洲幼稚園を併設開園昭和22年(1947) 学制改革により東京都中央区立鉄砲洲小学校と改称する昭和51年(1976) 開校百年記念 記念式典を挙行 協賛会事業の一環としてこの碑を建立平成 5年(1993) 鉄砲洲小学校と京華小学校が合併して中央小学校が開校。 (校舎は鉄砲洲小学校の校舎を改築して使用) 鉄砲洲小学校は廃校になりました。知者は水を楽しむ 隅田の河畔 鉄砲洲南飯田町に明治10年築地学校として呱呱の声を上ぐ爾来 原泉混混として晝夜を舎かず清流長途 大河と成りてここに百年の星霜を加うこの記念碑を建立するは 永遠に世の浄化に参画するを祈ればなり 神清うして風自ら高し昭和51年10月 東京都中央区立 鉄砲洲小学校百年記念事業協賛会鉄砲洲通り沿いにあった歴史を感じさせる噴水池。噴水池に座りしばしの休憩、水分補給を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.13
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「聖路加国際病院トイスラー記念館」を後にして、入口まで戻り、「聖ルカ通り」を東に向かって進む。左手道路脇にあったのが「女子学院発祥の地」碑。中央区明石町11−5。「ジュリア・カロゾルスが1870年、築地居留地6番にA六番女学校を創設、米国長老教会に所属した。1999年10月24日学校法人 女子学院」「女子学院発祥の地」記念碑発祥の地である旧築地居留地6番には、既存の建築物があるため、学校法人聖路加看護学園のご厚意により、ここに設置しました。学校法人 女子学院」「築地外国人居留地」は、商館の多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し、教会や学校などを数多く開いて教育を行っていた。このため、「築地外国人居留地」で発祥・開設されたキリスト教系の学校も多く、現在も校名や所在地を変えながら発展を続けており、当地区内には発祥を記念した石碑が数多く建てられているのであった。「学校発祥の地 記念碑一覧マップ」をネットから。「聖路加国際大学 シンボルマーク アスクレピオスの杖」アスクレピオスの杖(アスクレピオスのつえ、英語: Rod of Asclepius)とは、ギリシア神話に登場する名医アスクレピオス(アスクレーピオス)の持っていた蛇(クスシヘビ)の巻きついた杖。医療・医術の象徴として世界的に広く用いられているシンボルマークである。欧米では医の象徴として世界保健機関(WHO)、米国医師会(AMA)等のマークにも使われている。薬学のシンボルとして薬局の看板などに用いる国もあるが、薬学のシンボルとしては「ヒュギエイアの杯」(ヒギエイアの杯)が一般的である。また、このマークは世界各国で救急車の車体に描かれていたり、軍隊や準軍事組織等で軍医や衛生兵などの兵科記章や資格章・特技章に用いられていることも多い。日本の陸上自衛隊でも衛生科職種の職種き章(徽章)に用いられている とウィキペディアより。その先、「聖ルカ通り」の内側、聖路加看護大学の構内の遊歩道沿いにあったのが「立教学院発祥の地」碑。ドーナツを半分に割った ユニークな形の黒色の石碑が建っていた。中央区明石町10。「立教学院発祥の地」と。「立教学院」はその後「立教大学校」「立教専修学校」「立教中学校」などの名称を経る。 明治40年(1907)には「立教大学」を開設し、大正7年(1918)に 現在地(豊島区池袋)に移転した。「創立125年を記念してこの碑を建立する。1999年12月2日 ウィリアムズ主義記念日 立教学院」そして「聖ルカ通り」と「居留地中央通り」のロータリー内にも石碑があった。「日本近代文化事始めの地「慶應義塾発祥の地」「蘭学の泉はここに」1982年2月3日」中央区明石町11−11−先。「慶應義塾発祥の地」碑。台座は黒御影石で、正面および側面に建碑の由来が記され、スウェーデン産花崗岩でできた書籍のかたちをしたオブジェの表面には、『学問のすゝめ』初編初版本の活字と同じ字型で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の文字が刻まれていた。「安政五年福沢諭吉この地に学塾を開く。創立百年を記念して昭和三十三年慶應義塾これを建つ」。「天ハ人の上に人を造らず人の下に人を造らず」。「慶応義塾 の起源は一八五八年福沢諭吉 が中津藩 奥平家の中屋敷に開いた蘭学 の家塾に由来する。その場所はこれより北東聖路加国際病院 の構内にあたる。この地はまた一七七一年中津藩の医師前野良沢 などがオランダ解剖書 を初めて読んだ由緒あるところで、日本近代文化発祥の地 として記念すべき場所である。一九五八年四月二十三日除幕」。「蘭学の泉はここに」碑。「蘭学の泉はここに」の碑は 前野良沢・杉田玄白・中川淳庵の 三人が この近くにある中津藩邸で、オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』の 翻訳を行ったことを記念するもの。一隻の屏風を広げたようなデザイン。右側には人体図が彫られていて、解体新書の文字が読める。左側は碑文だが、何しろ彫りが浅くて読めないのが残念である。右側の面には「解体新書」の序図の巻に掲げられている最初の解剖図にある男子の背面図が模刻されていた。「解体新書」の文字も。この絵であろう。『解体新書』の挿絵である。その医学書から美術手法を学びながら挿絵を担当したのが玄白の友人であった小田野直武(おだのなおたけ)であり、まさに“日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ”を冠するに相応しい人物だったと。「解体新書」。左側の碑文は解読不能であったのでネットから。「一七七一年・明和八年三月五日に杉田玄白と中川淳庵とが前野良沢の宅に集まった。良沢の宅はこの近くの鉄砲洲の豊前中津藩主奥平家の屋敷内にあった。三人はきのう千住骨が原で解体を見たとき、オランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアの図とひきくらべてその正確なのにおどろき、発憤してさっそくきようからこの本を訳しはじめようと決心したのである。ところがそのつもりになってターヘル・アナトミアを見ると、オランダ語をすこしは知っている良沢にも、どう訳していいのかまったく見当がつかない。それで身体の各部分についている名をてらしあわせて訳語を見つけることからはじめて、いろいろ苦心のすえ、ついに一七七四年・安永三年八月に解体新書五巻をつくりあげた。これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめで、これから蘭学がさかんになった。このように蘭学の泉はここにわき出て、日本の近代文化の流れにかぎりない生気をそそぎつづけた。」「聖路加国際病院の小径」を振り返る。そして再び「聖路加国際大学」入口まで引き返す。ツインタワー、連絡橋を再び見る。そして「築地川公園」を縦断し「築地三丁目」交差点まで歩く。東京メトロ「新富町」駅入口横を通過。築地川に架かっていた「入船橋」手前を左折して進む。左手にあったのが「変なホテル Henn na Hotel」。2015年7月に開業した「変なホテル」👈リンク。 “まず名前が変だろっ!”と言いたくなるこのホテルは、ハウステンボスの“スマートホテルプロジェクト”の取組みとしてハウステンボス敷地内(長崎)に誕生した“究極の生産性を追求するホテル”が最初だと。ウワサによると、フロントスタッフもロボット、クロークもポーターも案内人もロボットと、接客する従業員がロボットだとか。その先には「築地橋」。「中央区役所入口」交差点を渡る。左手に案内板があった。中央区築地1丁目1。近づいて。「土佐藩築地邸跡所在地 中央区築地一丁目一~六番・六~九番地域この地は、江戸時代前期に埋立てられ、武家地や町人地となりました。文政九年(1826)、この一帯の土地がまとめられ、土佐藩山内家が拝領しました。山内家は中屋敷ないし下屋敷にしていたようで、幕末までこの地にありました。土佐藩は初代山内一豊から十六代豊範まで続きました。幕末の変革期に有名な山内豊信(容堂)は十五代で、ここに屋敷を構えていたときに藩主でした。豊信は、安政五年(1858)の条約勅許や将軍の継嗣問題において、一橋慶喜(後の十五代将軍)を擁立する一橋派に協力しましたが、家茂(後の十四代将軍)を推す大老井伊直弼に敗北し、豊信は藩主を退きました。この後、井伊直弼が暗殺されるなど、政情は混乱していきます。そのような中で、豊信率いる土佐藩は、幕府に大政奉還を働きかけてこれを実現し、後の版籍奉還、廃藩置県に至るまで、薩摩藩、長州藩と並んで明治維新の先頭に立っていました。なお、幕末に土佐勤王党を結成して幕府打倒を掲げた武市半平太は、ここから程近い士学館道場(現銀座一丁目、京橋公園辺り)に通っていました。また、薩長同盟を成立させ、大政奉還を提言した坂本龍馬は、安政三年(1856)から同五年ころ、剣術修行のため江戸に来ていました。龍馬はこの地の土佐藩築地邸に寄宿しながら、桶町(現八重洲二丁目・京橋二丁目の一部)にあったとされる千葉定吉道場に通っていたようです。平成二十年三月 中央区教育委員会」次に「築地橋」を渡り「新富座跡」に向かう。「新富座跡所在地 中央区新富二丁目六番一号新富座は万治三年(一六六〇)木挽町五丁目(現在の銀座六丁目、昭和通り西側)に創建された「森田座」を引き継ぐ歌舞伎の劇場でした。森田座は代々森田勘弥(かんや)が座元で、天保十四年(一八四三)浅草猿若町(現在の台東区浅草)に移り、安政五年(一八五八)に「守田座」と改めました。明治五年(一八七二)には、守田座十二代勘弥が新富町に移転進出し、同八年(一八七五)に「新富座」と改称しました。新富座は市川団十郎・尾上菊五郎・市川左団次などの名優を集めて積極的な興行を行いました。劇場は近代的な様式を取り入れた大規模な建物で「東京第一の劇場」と称され、周辺には歌舞伎関係者が多く居住し、一帯は芝居町となっていました。明治二十二年(一八八九)に歌舞伎座が開場するまで芝居興行の中心的存在でしたが、大正十二年(一九二三)の関東大震災で焼失しました。明治期の錦絵には海鼠壁(なまこかべ)の上に絵看板を並べた大劇場の様子が見え、往時の繁栄ぶりがうかがえます。平成十六年三月 中央区教育委員会」惣役者集会「東京第一等之劇場新富座繁栄之図」。「救世軍渡来記念の地」碑。救世軍(The Salvation Army)は キリスト教プロテスタントの独立した一派で、 明治11年(1878) にイギリスで創設された。 独特の軍隊的組織のもとに 伝道と社会事業を行なうことで知られる。 歳末になると軍服を着た男女がラッパを吹いて“社会鍋”に寄付金を集めている姿を思い出す。明治28年(1895) にライト大佐が来日して 日本救世軍を創設。山室軍平氏を中心に活動を広め、大正8年(1919) 神田に日本救世軍本営が完成した。戦時中の国家統制のため昭和17年(1940) 解散に追い込まれ、戦後 昭和21年(1946) に再興された。救世軍では、一般に“教会”と呼ばれる活動の拠点を“小隊”と呼び、地域ごとのグループを“連隊”と呼ぶ。たとえば、この碑の近くにある教会は、「東京連隊京橋小隊」という具合である。中央区新富2丁目4。碑の中央がミニ花壇になった ユニークな形式である。「救世軍渡来記念の地一八九五年(明治二八年)九月英国より来日したライト大佐一行はこの地に日本最初の本営を設け救世軍活動を開始した。一九九五年九月日本における救世軍創設百年を記念して設置する。救世軍本営」「先ず人を造れ山室軍平」。そして次に訪ねたのが「新富稲荷神社」。中央区新富2丁目9−5。新富稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、明治末期か大正のはじめごろに守田勘弥氏が祀り始めたと、伝えられているとのこと。明治維新後この一帯が新島原遊郭になり、中万字楼という妓楼の前にあったので、中万字稲荷とも呼ばれたという。遊郭廃止後、明治5年(1872)、新富町に守田座(のちの新富座)を移転するときに十ニ代目守田勘弥が再建したそうだ。明治期当時の新富座界隈絵図に描かれているので芝居町の鎮守社だったのだろうか。境内には「奉納坂東三津五郎」の扁額と「七代坂東三津五郎」名が刻まれた手水舎があった。「新富稲荷神社」。鳥居の扁額は「新富稲荷神社」。「奉納 坂東三津五郎」の扁額と「七代坂東三津五郎」名が刻まれた手水舎があった。手水鉢には「奉納 七丗坂東三津五郎」と。「奉納 坂東三津五郎」の扁額「社殿」。「内陣」。「靴業発祥の地明治三年(1870)三月五日西村勝三が伊勢勝・造靴場を創建したのは旧築地入船町五丁目一番のこの地であった。勝三は佐倉藩の開明進取の風土に育ち、時の兵部大輔大村益次郎の勧めと 藩主堀田正倫 並びに渋澤栄一の支援を得て靴工業を創成し、これを大成した。斯くてこの地は日本に於ける製靴産業 の原点であるので、ここに建碑事績を記す。昭和六十年(1985)三月十五日日本靴連盟題字 堀田正久 書中央区入船3丁目。再び「築地川公園」を縦断し、「聖路加通り」まで戻る。この角に「五代友厚終焉の地」とGoogleマップにあったが、石碑や案内板は見つからなかった。「居留地中央通り」沿いにあったのが「立教女学院 築地居留地 校舎跡記念」碑。立教女学院は1877年キリスト教に基づく女子教育を目的に、米国聖公会により派遣されたC.M.ウイリアムズ主教によって、湯島に創立された。1882年立教女学院は築地居留地に移転して、新校舎を建設し、1923年の関東大震災までこの地にあってその教育事業を継続した。立教女学院のキャンパスは現在久我山にある。 St.Margaret's School was founded in 1877,with the aim of providing higher education forwomen based on Chiristianity.The school was started by Bishop Channing Moore Williams,who was sent as a missionary from the Episcopal Church in the United States,and wasoriginally located in Yushima.In 1882,the school mobed to the Tsukiji Foreign Settlement and constructed new school buildings St.Margaret's continued its mission of service through education at this locationuntil the Great Kanto Earthquake of 1923.The St.Margaret's campus is presently located in Kugayama,Tokyo.2007年11月1日 学院創立130周年 学校法人立教女学院」校章であろうか。「ST.MARGARET’S RIKKYO ZYOGAKUIN」と。初代の立教女学院校舎 1884年に完成。明治17年(1882)より大正12年(1923)の関東大震災までこの地にあった。「立教女学院. St.Margaret's college and schools築地居留地校舎跡(1882-1923 )記念碑立教女学院は1877年キリスト教に基づく女子教育を目的に米国聖公会より派遣されたC. M.ウィリアムズ主教によって湯島に創立された。1882年立教女学院は築地居留地に移伝して新校舎を建設し、1923年の関東大震までこの地にあってその教育事業を継続した立教女学院のキャンパスは現在久我山にある。」「聖路加国際病院」を見上げる。「居留地中央通り」の「聖路加国際大学」と「聖路加国際病院」の連絡橋下を進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.12
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この日は8月8日(水)、五反田にある銀行に向かったが、先日の「汐留・築地・明石地区を巡る」で訪ね忘れた場所がある事に気が付き、そして更に「新富」、「湊」地区も訪ねたいと思い、朝から自宅を出発した。この日も「東銀座駅」で下車し、歌舞伎座の前に。正面に「八月納涼歌舞伎」の演目案内。第一部 次郎長外伝 裸道中 大江山酒呑童子第二部 新門辰五郎 団子売歌舞伎座を見上げて。中央区銀座4丁目12−15。「八月納涼歌舞伎」の第三部 三代猿之助四十八撰の内 新・水滸伝 二幕 も上演されると。一幕目こちらにも「八月納涼歌舞伎」の演目案内。左右の案内板一対で「八月納涼歌舞伎」の演目案内が行われているのであった。第一部~第三部のそれぞれのポスターが。道路を渡って、歌舞伎座を見る。そして歌舞伎座を振り返りながら、銀座五丁目の路地を進む。「みゆき通り」を「昭和通り」に向かって進む。歩道右手にあったのが「佐久間象山塾跡」説明板。「佐久間象山塾跡所在地 中央区銀座六丁目十五番地域この地域には、江戸時代後期の思想家で、信濃国(現在の長野県)松代藩士佐久間象山(1811~1864)の私塾がありました。象山は初め儒学を修め、天保(1839)神田お玉ヶ池付近に塾を開き、さらに松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務めました。後に海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永4年(1851)、兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町五丁目(現在地付近)に塾を開きました。 嘉永六年改正の絵図によると、「狩野勝川」(幕府奥絵師木挽町狩野家の画塾)と向かい合う場所に「佐久間修理」(象山)の名が見られます。この塾は二十坪程の規模で、常時三十~四十人が学んでいたといいます。その門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本佐内・河井継之助など、多くの有能な人材が集まり、土佐藩士坂本龍馬の名も門人帳に確認することができます。龍馬は、嘉永六年に江戸へ最初の剣術修行に出て、その最中である十二月一日に象山に入門しました。木挽町の塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が急増しましたが、嘉永七年に門人の吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許に蟄居を命ぜられてて塾も閉鎖されました。平成二十二年三月 中央区教育委員会」「佐久間象山」をネットから。「京橋南芝口橋築地鉄炮州辺絵図」。「銀中通り」を進み「万年橋西」交差点から「万年橋」を見る。昔は「築地川」が流れていたが、現在は昔の川底を「首都高速都心環状線」が通っているのだ。そして次に訪ねたのが、これも前回訪ね忘れた「東劇波除稲荷神社(とうげきなみよけいなりじんじゃ)」。「東劇ビル」の南側にあった小さな神社。中央区築地4丁目1−1 東劇ビル。「奉納 東劇波除稲荷神社 松竹株式会社」と書かれた幟。扁額「東劇波除稲荷神社」。東劇の駐車場に鎮座している「東劇波除稲荷神社」。昭和50年(1975)に高層ビルに建替えられた時、この場所に祀られたとのこと。「社殿」に近づいて。築地の「波除稲荷」👈リンク から分祀されたものとのことこの東劇、今はシネマ歌舞伎などを上演している映画館ですが、昭和5年(1930)に開場し、戦後間もない時期までは歌舞伎などの演劇を上演していた劇場。劇場には「楽屋稲荷」がありますのでその頃は劇場内にあったのでしょう。歌舞伎座が東京大空襲で焼亡していたので、1947年11月、戦後初の「忠臣蔵」を上演したのはこの東京劇場であるとのこと。そして「東劇」の1Fにあったロビーを訪ねた。棒しばり👈リンク・太郎冠者の衣装を展示していた。狂言の登場人物の中で最も代表的なキャラクターが太郎冠者(たろうかじゃ)。「冠者」とは使用人の事、太郎とは、一番目、すなわち筆頭の召使いという意味。 気が良くてお調子者、主人思いの人物として描かれることが多く、愛すべき人柄。 主人に付き従い、様々な曲に登場するとのこと。「小津安二郎生誕120年」ポスターと小津が使用していた「ミッチェル撮影機」。「日本を代表する映画監督・小津安二郎(1903~1963)は、日本の文化や社会状況を背景に、家族の日常、人生の悲哀などを、練り上げた脚本と〈ローポジション〉をはじめとする独自の撮影技法によって、細部にまでこだわり表現してきました。「小津調」と呼ばれるその作品世界は、国境を越え世代を超えて多くの人に愛され、評価され続けています。戦後は鎌倉に住み、『晩春』『麦秋』『東京物語』などの脚本を湘南の旅館・茅ヶ崎館で執筆、また、戦前から県内各地を撮影地とするなど、神奈川は小津映画にとって大変ゆかりの深い場所でした。」「棒しばり 大名 曽根松兵衛衣装 白紫紺しじら織段熨斗目白毛抜口着付」。曽根松兵衛(そねまつべえ):太郎冠者と次郎冠者の酒ぐせにいつも困らされている。『棒しばり曽根松兵衛・白紫紺(しろしこん)しじら織段熨斗目白毛抜ロ着付(おりだんのしめしろけぬきぐちきつけ)。・藍色龍紋向鶴菱長裃(あいいろりゅうもんむかいつるびしながかみしも)大名という役柄から、独特の凹凸のシボが特徴であるしじら織で、横段の縞の総柄になっている段熨斗目の着付の上に、武士の正装である裃の中でも、身分や役の高さを象徴する長裃をあわせた装い。』「棒しばり 太郎冠者衣装 翁格子白毛抜口着付(おきなごうししろけぬきぐちきつけ)」。『棒しばり太郎冠者(たろうかじゃ)・翁格子白毛抜ロ着付(おきなごうししろけぬきぐちきつけ)・皮色龍紋狂言模様玉子通裏袴(かわいろりゆうもんきょうげんもようたまごとおしうらばかま)・茶龍紋注連縄(ちゃりゅうもんしめなわ)に御幣青海波玉子裏肩衣(ごへいせいがいはたまご うらかたぎぬ)・白羽二重雲版石帯(しろはぶたえうんばんせきたい)次郎冠者同様、狂言を踏襲した衣裳となっている。両手を棒に縛られた次郎冠者と、後ろ手に縛られた太郎冠者が、試行錯誤して酒蔵の酒を飲み、興じて酒宴になると、明るく愉快に舞い踊る。』「棒しばり 次郎冠者衣装 翁格子白毛抜口着付(おきなごうししろけぬきぐちきつけ)」『棒しばり次郎冠者(じろうかじゃ)・翁格子白毛抜ロ着付(おきなごうししろけぬきぐちきつけ)・茶龍紋狂言模様玉子通裏袴(ちゃりゅうもんきょうげんもようたまごとおしうらはかま)・黒龍紋立浪玉子裏肩衣(くろりゅうもんたつなみたまごうらかたぎぬ)・白羽二重雲版石帯(しろはぶたえうんばんせきたい)狂言の「棒縛』を題材とし、歌舞伎舞踊に仕立てた"松羽目物"のひとつ。衣裳も、狂言の紋尽くしの袴に、大胆に衣全体に描いた立浪模様の肩衣と、狂言に則った扮装となっている。』「かぶきにゃんたろう」「かぶきにゃんたろう」は歌舞伎の魅力をよりたくさんのお客様へ伝えていくためのキャラクターとして2017年4月に初お目見え。歌舞伎座にいるかわいい猫のかぶきにゃんたろうは、とても珍しく幸運を呼ぶとも言われる三毛のオス。歌舞伎衣裳のたすきのような首輪を付けて、背中の模様はハートマーク。楽屋にひょっこり現れたり、稽古場をのぞいたり、歌舞伎の動きをこっそり練習することも?にゃんたろうが歩くと首の鈴がコロコロ鳴ります。歌舞伎座のどこかで涼やかな鈴の音が聞こえたら、にゃんたろうがそこにいるかもしれません。多くの風鈴が。この度、夏を彩るイベントとして、一般社団法人東銀座工リアマネジメント主催による「東銀座ェリア風鈴イベント2023」く7月15日(土) ~ 8月31日(木)〉を開催する運びとなりました。日本では古来、疫病を避け魔除けを行うために鐘型の青銅の鈴である風鐸(ふうたく)を飾る風習がありました。その風習に因み、岩手県で親しまれる「南部鉄器風鈴」を用いて、銀座~築地エリアを中心とした周辺地域ご協力のもと、約500個の風鈴を店舗等の軒下に吊り下げます。また銀座松竹スクエア内では、江戸時代から伝わる伝統を受け継いだ「江戸風鈴」も展示いたします。そして短刪部分のデザインには、中央区の三十七町の街並みと各地域に因んだ絵が描かれた「千社札」の図柄をあしらい、中央区の歴史を感じられる趣向を凝らしています。」と。「京橋郵便局」前の交差点を渡る。その先に流 正之氏作「波除獅子」があるはずであったが・・・。中央区築地1丁目13−10。これを見に来たのであったが・・・。ネットから。波除獅子とは、この一帯の産土神で祀られている築地・波除稲荷神社に由来する獅子であると。流 正之氏は世界的な彫刻家、作庭家。2018年に亡くなったと。長崎に生まれ、海軍予備兵の零戦 搭乗員として終戦を迎えます。独学で彫刻を学び、1967年には、TIMEが選ぶ日本を代表する文化人の一人に選ばれたそうです。そして「築地本願寺前」交差点を渡る。交差点の先に「築地本願寺」の本堂の屋根が見えた。「築地本願寺」👈リンク の脇の路を進むと、北門が右手に、そしてその先にも本堂が見えた。そして「築地川公園」を縦断し「聖路加国際大学」の入口近くにある交差点に到着。「聖路加通り」の先にも、築地川を埋め立てて出来た細長い「築地川公園」があり入口にはカラフルなモニュメントが。近づいて。「聖路加国際病院 旧館、トライスターハウス、聖路加国際大学」案内板。校内を進んで行くと、左手に見えたのが「聖路加国際病院(せいるかこくさいびょういん)旧館」。聖路加国際病院は、米国聖公会の宣教医師トイスラーが明治34年に設立した築地病院で、同35年に聖路加病院、大正6年には聖路加国際病院と改称。旧館には昭和8年に竣工した病棟の中央部が保存されているほか、前庭には同年に竣工の旧宣教師館がトイスラー記念館として移築されている。なお、旧館の敷地は、浅野家内匠頭邸跡として東京都指定旧跡ともなっている。旧館の中央部には、昭和8年に竣工したSRC造の病棟の中央部のみが保存されている。(当初の)設計はアントニン・レーモンド(Antonin Raymond)。チェコ出身の建築家。フランク・ロイド・ライトのもとで学び、帝国ホテル建設の際に来日。その後日本に留まり、モダニズム建築の作品を多く残す。日本人建築家に大きな影響を与えた。第二次大戦時アメリカの対日戦争協力者でもあった と。東京都選定歴史的建造物。十字架が立つ尖塔をズームして。こちらが「聖路加国際大学(せいるかこくさいだいがく)」。聖路加国際大学は、1920年にトイスラーが設立した聖路加国際病院附属高等看護婦学校が母体となっている。立教大学によれば、聖路加病院が開設された築地居留地37番は、ウィリアムズが私財を投じて購入した土地で、病院開設前は、立教の校舎(当時は、立教大学校)が建っていた場所であった。居留地37番を後にした立教学院は、居留地57~60番へと移転したが、その場所が現在の聖路加国際大学の敷地で有ると。立教学院と聖路加国際大学は、米国聖公会を母体とする教育機関で非常に近い関係にあるのだ。そして一番奥にあったのが「聖路加国際病院トイスラー記念館」。「聖路加国際病院トイスラー記念館所在地 中央区明石町一〇番昭和八年、トイスラー記念館は隅田川畔の明石町19番地に聖路加国際病院の宣教師館として建設されました。設計者は米国人建築家のJ・V・W・バーガミニィで、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)が行いました。建物の躯体は、昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリート造一部木造の二階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物でした。平成元年に解体工事が行われ、平成10年(1998年)2月に現在地へと移築復元されました。復元にあたり、創設当時の施工技術や構造上の特徴を精密に記録し、再利用可能な部材をできる限り用いています。外観は、外部に柱や梁を表現したハーフティンバー風の意匠です。室内はチューダー・ゴシック風のデザインで、玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装がみられます。この建物は、聖路加国際病院の歴史を物語るとともに、築地居留地時代から引き継がれてきた明石町の歴史の一端を伝える貴重な文化財です。平成十八年三月 中央区教育委員会」「創設者 R.B.トイスラー医師」碑 「創設者 R.B.トイスラー医師」。「DR. RUDOLF BOLLING TEUSLER' FOUNDER本院は創立以来、キリスト教精神の下に病む人を中心とした医療と看護を実践してきました。その精神は百年を経た今日も受け継がれ、永遠に生き続けます。This hospital is a living organism designed to demonstratein convincing terms the transmuting power Of Christian lovewhen applied in relief of human suffering.キリストの愛の心が人の悩みを救うために働けば 苦しみは消えて、その人は生まれ変わったようになる。この偉大な愛の力を、だれでもがすぐわかるように あらわせるよう、計画されてできた生きた有機体がこの病院てある。 聖路加国際病院 2002.10.18」「アメリカ公使館跡石標」。「アメリカ公使館跡石標アメリカ公使館は安政6年(1859)ハリスにより港区元麻布1-6、善福寺に開設されたが、明治8年(1875)12月築地の外国人居留地内のこの地に新築され、はじめて形容を整えた。のち明治23年(1890)3月赤坂の現在地に移転され、現在の大使館になっている。最後の移転により、この地には8個の小松石の石標が残された。石標には、白頭鷲、星条旗、星の3種類の彫刻が施されており、白頭鷲はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13の星は同国初期の13州を示す。8個の石標のうち3個は昭和59年(1984)10月に日米友好のシンボルとして、赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、現在同大使用館の前庭に配置されている。残る5個の石標は、築地の居留地時代を伝えられるものとして中央区民文化財団に登録されており、うち3個をここに、2個を旧病院前に設置する。1998年5月 聖路加国際病院」右から「星条旗」。「星条旗」に彫られた13の星は同国初期の13州を示す。中央「白頭鷲」。もちろん、「白頭鷲」はアメリカの国鳥。左に「星」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.11
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「居留地通り」の先にあったのが「芥川龍之介生誕の地」。「芥川龍之介生誕の地」案内板。「芥川龍之介生誕の地所在地 中央区明石町一〇番付近明治十六年(一八八三年)ごろ、この付近(当時の京橋区入船町八丁目一番地)に「耕牧舎」という乳牛の牧場がありました。作家芥川龍之介(一八九二~一九二七)は、明治二十五年(一八九二年)三月一日、その経営者新原敬三の長男として、ここに生まれました。龍之介は誕生後七ヶ月にして、家庭の事情から母の長兄芥川道章に引き取られて、本所区小泉町(現、墨田区両国三丁目)に移り、明治三十七年(一九〇四)、芥川家の養子になりました。東京帝国大学在学中から文筆に親しみ、第四次『新思潮』に発表した『鼻』が夏目漱石に評価され、文壇に出ました。「羅生門」「地獄変」「河童」「歯車」など多くの名作を遺しました。平成三十一年三月 中央区教育委員会」芥川龍之介の実父、新原(しんばら)敏三(としぞう)は外国人后留地のあったこの地で、耕牧社という牧場を持ち、外国人相手の牛乳販売業を営んでいた。龍之介は、1882年3月1日にこの地で生まれたが、生後7ヶ月後ごろ、生母が心を病んでしまったので、母の実家である「両国・回向院前の芥川家」👈リンク にひきとられた。JR両国駅から歩いて7分くらいのところとネットから。「芥川龍之介(1882~1927)」。そして「築地川公園」に突き当り左折して進むと左手に石碑が姿を現した。「都旧跡 浅野家内匠頭邸跡」碑。近づいて。「東京都指定旧跡浅野内匠頭邸跡(あさのたくみのかみていあと)所在地 中央区明石町一番(一部)・十番・一一番地区常陸国笠間(現在の茨城県笠間市)藩主であった浅野長直(ながなお)(官職名・内匠頭)は、正保二年(一六四五年)に領地替えによって播磨国赤穂藩(赤穂郡とその隣接地を含めた五万三五〇〇石の所領)へ入封しました。そして長直の子・長友(官職名・采女正)の代に所領の一部を親族へ分知与して五万石となります。延宝三年(一六七九)には、父・長友から家督を継いだ長矩が赤穂藩第三代藩主となり、後に祖父と同じ内匠頭を与えられました。江戸時代に鉄砲洲と称されていた当該地には、江戸中期頃まで赤穂藩浅野家の上屋敷が置かれていました。当時の赤穂藩邸は西と南の二面が川(堀割)に面した広大な敷地(およそ八九〇〇坪)であったことが古地図からも確認できます。しかし、元禄十四年(一七〇一年)三月十四日、勅使御馳走役(饗応役とも)を努めていた浅野内匠頭長矩が、江戸城の松之大廊下において儀式・礼儀を司る高家職の吉良上野介義央に対して刃傷におよんだため、即日切腹を命ぜられました。この事件によって江戸上屋敷や所領は没収され、赤穂藩主浅野家は断絶となりました。なお、浅野家旧臣たちは、主君の仇を討つため元禄十五年十二月に本所・「吉良邸」👈リンクへ討ち入った事件は、後の世にも語り継がれる歴史的事件の一つとして知られています。本懐を遂げた浪士たちは、浅野家の菩提寺である泉岳寺へ向かう途中で旧上屋敷付近を通ったとも伝えられており、当該地は赤穂事件に関係する縁の地の一つとして東京都の旧跡に指定されています。平成三十一年三月 中央区教育委員会」築地川に面した「旧浅野内匠頭屋敷跡」。「元禄年中(1688~1704)之形」。「赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷(鉄炮洲上屋敷)の絵図屋敷は、現在の東京都中央区明石町に位置し、面積は8,974坪8合(29,600平方メートル余り)とされ、赤穂城とほぼ同じ建物配置が見られます。絵図は、元禄時代のものと推定され、元禄14(1701)年に取りつぶしとなる直前に描かれたとみられ、下地の和紙に、部屋の形に切り抜いた和紙を建物の配置に合わせて張り合わせています。邸内には、多くの部屋が描かれ、執務室のある「大書院」、奥方が暮らす「座敷」等の書き込みも見られ、長屋には、四十六士の一人、間瀬孫九郎ら家臣の名前も記述されています。堀部安兵衛の書状で、「浅野内匠頭切腹の夜、藩邸に堀から町人が押し入り、家財を奪おうとした」などの記述があり、これまで船着場から侵入したと考えられていましたが、実際には水門しかなかったことが絵図から伺えます。そして「聖路加国際病院トイスラー記念館」入口近くの交差点の角のあったのが「歴史と文化の散歩道」案内プレート。「この散歩道は、長い歴史が育んだ伝統と新しい東京の文化を訪ねる道です。私たちの、ふるさと東京を知る道しるべとしてください。」「銀座佃島コース」案内表示。解りにくいのでネットから。「築地江戸前散歩築地江戸前散歩は、歌舞伎座から佃島までの約2.5Kmのみちのりです。 江戸前とは江戸っ子がつくりあげた味の世界。現代の魚河岸築地市場からエキゾチックな香りを残す築地居留地跡そして古風な町並みの別世界佃島をめぐります。」「江戸の海と築地このあたり一帯と海との関わりは、江戸から近代への歴史の流れと共に遷り変わって来た。佃島は江戸時代はじめ、徳川家康の命を受けここに移った摂津国(大阪)佃村の漁師が開いた。漁は当時江戸前と呼ばれた東京湾で行われ、隅田川河口でとれる白魚は将軍の御前に供された。築地も海とは緑深い。その起源は文字通り、江戸初期の埋め立て地。維新後、今の中央卸売市場に海軍操練所が設けられた。この頃明石町には武家屋敷にかわって外国人居留地やアメリカ公使館が置かれ、文明開化の窓口役を果していた。」交差点の対角線上反対側「築地川公園」入口にあったのが「暁橋跡」。明石町11−15。「暁橋の記憶かってこの場所には築地川南支川が流れ、震災復興橋梁のひとつであるラーメン橋台橋構造の暁橋が架かっていました。道路建設の都市計画決定に伴って、昭和46年(1971年)に築地川は埋立てられ、その後昭和60年(1985年)に暁橋は撤去されました。旧暁橋の橋銘板は、平成元年(1989年)に埋立てられ、平成元年(1989年)に開園した区立築地川公園の入口に設置されて以来、平成の時代を見守ってきました。」「明石町付近の航空写真 昭和7年(1932)頃撮影」。「築地川南支川」。橋名板「暁橋」。そして再び「ツインタワー」を見る。交差点の先にあった「聖路加国際大学」を振り返る。中央区明石町10−1。そしてこの日の散策予定を終了し、「築地本願寺」の横を通り、東京メトロ「築地駅」から「JR大崎駅」と向かったのであった。
2023.09.10
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そして再び「あかつき公園(保険所側)」の東側の入口から公園内に入る。「中央区立あかつき公園(保健所側)」案内板。中央区立あかつき公園は、明石堀(築地川の隅田川河口に設けられた扇型の船入堀)が埋め立てられてできた土地につくられた公園で、1971年12月に開園した。あかつき公園の名前は、築地川に架かっていた暁橋に由来します。公園の保健所側(東側)は、明るく開放的なメタセコイアの林と噴水広場が特徴で、ローラー滑り台などの遊具や、ドイツ人の医師・博物学者シーボルトの胸像などが設置されていた。「平和都市宣言碑」。中央区明石町12−1。廻り込んで。「中央区平和都市宣言いまいちどたちどまり 平和の尊さをみつめようささやかな幸せも こよなき繁栄も平和の光が消えたなら すべてが失われる私たちの手にあるこの輝きを明日の世代に伝えよう1988年3月15日、この日 私たちは 永遠の平和を願い 中央区が平和都市であることを宣言する。」「太陽のまち中央区宣言~福祉と健康とスポーツのまちをめざして~思いやり 助け合い 心がふれあう 幸せなまち互いに心と体をきたえ 健やかに いきいき くらすまち光輝く あの太陽のように 明るく あたたかく たくましくあすへの希望に満ち満ちたそんなわがまち 中央区 1990年4月1日」「花の都中央区宣言緑をはぐくみ 花をいつくしみ 生きとし生ける生命を尊ぶ美しいまち 清潔なまち 思いやりと 人情あふれるまち 中央区そんなほっとするまちにしたい だからいま 花の都中央区宣言 それは ひとつぶの種 小さなひとつぶが やがてまちいっぱいに大輪の花を咲かせる そんな願いをこめて平成元年(1989年)4月1日」そしてその先に「シーボルトの胸像」。中央区明石町13−14。近づいて。「シーボルト(1796~1866)フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、オランダの商館医員として文政6年(1823)7月に長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。同9年正月、商館長と共に江戸へ向かい、3月4日、日本橋の長崎屋に止宿し、4月12日出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。しかし、同11年シーボルト事件が発生し、12月に日本から追放された。後に安政6年(1859)幕府顧問として再来日したが、まもなく帰国しミュンヘンで没した。彼の江戸における指導は、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。この地が江戸蘭学発祥の地であり、且つ彼が長崎でもうけた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことから、ここに彼の胸像を建て、日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。」そして前方にあったのが「噴水広場」。奥にあったのがモニュメント「星の時間」。中央区築地7丁目19。5本のポールの先に風を受ける羽がついており、これがゆらゆらと動くという仕掛けで、なかなか興味深く眺めたのであった。関西空港の国際線ターミナルの天井にも、同じような発想の風を受けて動く飛行機が設置されていた記憶があるが、それと似た原理のようであった。「星の時間 astoral time 1991 新宮晋(しんぐうすすむ)」と。「霧の噴水」は、噴水広場に設置されていた。この広場は2006年7月にリニューアルされたところで、噴水のまわりが広げられ、大きな広場となっのだと。放水は、キャンドル型のものが中央にあり、これが高くなったり低くなったりを繰り返していた。さらにその周囲には霧の噴水が6つ設置され、地表からミストを噴出していた。この霧噴水は、リニューアル時に新たに設置されたもののようだ。中央区築地7丁目19。噴水が高いときにミストも出るようであった。ミストをズームして。「霧の噴水」を後にして、「あかつき公園(保険所側)」の東側の入口まで戻り、公園を出るとその先にあったのが「アメリカ公使館跡」案内板。中央区明石町8。「アメリカ公使館跡所在地 中央区明石町八開港によって日本に駐在した初代アメリカ公使ハリス は、安政六年(1859)に現在の港区元麻布一-六の善福寺 に公使館 を開設しました。ついで明治七年(1874)、築地居留地 内のこの地に公館を新築し、初めて形容を整えました。後にこれが手狭となり、同二十三年(1890)、赤坂の現在地(アメリカ大使館)に移転しました。公使館跡には、小松石の記念碑が残されていました。大きさは、縦86~101センチメートル、横84~118センチメートル、厚さ18~34センチメートル、うち、二個は冬至のアメリカの国章である盾、一個には星と鷲と盾、二個には五陵の星が刻まれています。現在三個は聖路加国際病院トイスラー記念館 の前に、二個は聖路加ガーデン 内に移されています。この記念碑は、築地の居留地時代を伝える貴重な遺品として、中央区民有形文化財に登録されています。平成27年3月中央区教育委員会」「アメリカ公使館」は下記のごとくに。「聖路加タワー」と「聖路加レジデンス」を見上げる。隅田川に面して建つ超高層ツインアタワー。「聖路加タワー」は、1~2階に商業サービス施設、3~46階にオフィス、47階に展望スカイレストランが配置されている。「聖路加レジデンス」は、1~31階がシニア向けサービス付賃貸マンション(175戸)、32~38階が銀座クレストン(旧東京新阪急ホテル)で構成されています。オフィス棟の28階に、銀座クレストン32階への連絡ブリッジがある。中央区明石町8−1。「銀座クレストンホテル」。中央区明石町8(聖路加ガーデン)。高さ220.63m、地上51階、地下4階の「聖路加タワー」を見上げて。ツインタワーの前をさらに北に進むとあったのが「ヘンリー・フォールズ住居の跡」・「指紋研究発祥の地」碑。ここは明治初年にあった築地居留地の18号地で英国人医師ヘンリー・フォールズ(1843~1930)が明治7年(1874年)から明治19年(1886年)に至る滞日中に居住したところである。フォールズはスコットランド一致長老教会の宣教師として来日しキリスト教布教のかたわら築地病院を開いて診療に従事し、また日本人の有志とはかって盲人の保護教育にも尽力した。彼はわが国で行われていた指印の習慣に興味をもちたまたま発掘された土器に印象されていた古代人の指紋を発見し、これにヒントを得てここではじめて科学的な指紋の研究を行なった。明治13年(1880年)10月英国の雑誌『ネイチャー』に日本から投稿した彼の論文は科学的指紋法に関する世界最初の論文といわれ、その中で早くも犯罪者の個人識別の経験を発表し、また指紋の遺伝関係にも言及している。明治44年(1911年)4月1日、わが国の警察においてはじめて指紋法が採用されてから満50年の今日、ここゆかりの地に記念碑を建立し、その功績をたたえるものである。」中央区明石町7−15。交差点の先にあったのが「明治学院発祥の地」碑。明治学院は1877年(明治10年)ここ旧築地17番地に開校された東京一致神学校を基とする。これを記念しこの碑を建てる」中央区明石町7−20。明治学院の起源は1863年にジェームス・カーティス・ヘボンが横浜に開いた「ヘボン塾」である(のちに男子部は明治学院、女子部はフェリス女学院となる)。1877年にアメリカ長老教会、アメリカ・オランダ改革派教会、スコットランド一致長老教会の3会派が協力して「東京一致神学校」を設立。その後、1880年に築地へと移転し、「築地大学校」と改称されてカレッジ・コースが設置された。1883年には横浜の先志学校を併合して「一致英和学校」と改称され、大学と予備科を整える学校となった。後に予備科は神田淡路町へ移転し、「英和予備校」となった。その先に「女子聖学院発祥の地」碑。台座の右面には「この地は女子聖学院発祥の地、も築地居留地14番であった。そこに建つ14番館が、宣教師ジョン・マッケレフ先生の居宅だった。1905年、米国のクルスチャン・チャーチ(ティサイプルス・オブ・クライスト)の宣教師バーサ・F・クローノン女史が借り受け婦人伝道師の養成を始めた。開校式は同1905年11月1日教師3人に生徒10人であった、という。今日では幼稚園から大学院までを擁する総合学園になっている。 学校法人 聖学院」と。中央区明石町6−23。さらにその先にも石碑があった。「青山学院記念の地」碑。中央区明石町6−24。「青山学院記念の地 海岸女学校 一八七七年 開校」と。「青山学院は、米国メソジスト監督教会の宣教師により創立された三つの学校を源流としています。「海岸女学校」は、ドーラ・E・スクーンメーカーによって創立された源流の一つ「女子小学校」(1874年麻布に開校)が「救世学校」を経てこの地で大きく発展したもので、明治の女子教育に多大な足跡を残すとともに、青山学院の礎となりました。」写真は「当時の海岸女学校」。「学校発祥の地 記念碑一覧マップ」。下記の全ての石碑を巡ったのであった。その後「佃大橋」交差点を左折し進み、セブン-イレブン 中央区明石町店の角を左折すると右手にあったのが「ガス街灯柱」。中央区明石町2−1。「ガス街灯柱これは、ガス灯を点灯するための街灯柱です。高さは、三・四メートルで柱は鋳鉄製コリント風の様式をとり柱頭・柱身・基部の部分からなっています。柱頭のランプ部分は新たに復元しました。この街灯柱は、以前この場所に在った「中央区立第ニ中学校」に設置されていました。また、基部の台座も「学校」の階段の石(白御影石)が使われています。平成十六年三月」中央区明石町2−1。「ガス街灯柱」を見上げて。その先にあったのが「雙葉学園発祥の地」碑。中央区明石町1−6。「徳に於ては純真に義務に於て堅実に明治四十ニ年 雙葉学園発祥の地」と。その先に「関東学院の源流 東京中学院発祥の地」碑。一八九五年九月十日、ここ築地居留地四二、四三番地で米国ハプテスト伝道教会が東京中学院を設立した。関東学院教育の源流はここに発する。中央区明石町1−6。後の「関東学院」の源流の一つとなった東京中学院。明治28年(1895) ここ築地居留地に開校した。明治32年(1899)「東京学院」と校名を変更し、新宿区市谷左内町に移転。明治37年(1904) に高等科を設置し、さらに大正8年(1919) に日本バプテスト神学校と合併して「神学部」ができた。大正12年(1923) の関東大震災により大きな被害を受けたため、昭和2年(1927) に横浜の「中学関東学院」と合併し 「財団法人関東学院」が組織された。戦後の学制改革により「関東学院中学校・高等学校」および「関東学院大学」となって現在に至っている。当時の東京中学院。校訓「人になれ 奉仕せよ」。「二〇〇九年 創立一二五周年記念学校法人 関東学院」。この道は「居留地中央通り」、その奥にツインタワーが見えた。中央区立明石小学校・幼稚園の手前にもガス街路灯があった。道路の反対側にも石碑があった。「明治二十一年(一八八八)創立 暁星学園発祥の地」碑。中央区明石町5−26。近づいて。「あなたがたは地の塩 世の光である(マタイによる福音書)」「ガス街路灯と石のベンチ」が「中央区立明石幼稚園」の角の交差点角に。「旧校舎の石このベンチの座面に使われている花崗岩は、大正15年に建設された復興小学校である明石小学校・明石幼稚園の旧校舎の階段に使用されていた石材を再利用したものです。平成ニ十五年一月」。その横にあったのが「築地外国人居留地跡」案内板。中央区明石町5−26。「築地外国人居留地跡所在地 中央区明石町地区安政五年(一八五八)六月、江戸幕府はアメリカと修好通商条約・貿易章程に調印し、これを原型として同年にオランダ・ロシア・イギリス・フランスともそれぞれ締結しました(安政五カ国条約)。この条約に基づき、箱館(函館)・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の五港を開港し、江戸・大坂(大阪)の開市を取り決めました。日本における外国人居留地は、条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区として開港場・開市場の土地に設けられました。江戸(東京)の開市は、明治元年十一月十九日、明治新政府のもとで実現し、現在の明石町地区に築地外国人居留地が設定されました。築地外国人居留地は、商館の多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し、教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。このため、築地外国人居留地で発祥・開設されたキリスト教系の学校も多く、現在も校名や所在地を変えながら発展を続けており、当地区内には発祥を記念した石碑が数多く建てられています。文教地区として大きな特徴を持っていた築地外国人居留地は、条約の改正によって明治三十二年に廃止されるまで、日本の近代化に多大な影響を与えた一地区を形成していました。居留地時代のレンガ塀遺構右にあるレンガは、イギリス積みで積まれた築地外国人居留地時代のレンガ塀遺構の一部です。明治期に居留地の五十二番(明治十一年~三十二年:聖パウロ教会)と四十二番(明治九年~二十二年:新栄女学校、明治二十八年~三十二年:東京中学院)の地境に建てられて以降、関東大震災や空襲による戦禍を免れ、現在の明石町一番二十三号と明石町十五番(明石小学校)の地境にあたる場所に残されてきました。このレンガは、平成二十四年七月に竣工した明石小学校の整備にあわせてここに移設したもので、明治期の当地域に外国人居留地があったことを物語る貴重な遺構として保存しました。」「ガス街灯の柱このガス街灯の柱は、コリント風の様式で上部にある左右二十センチメートルの腕金や下部に施された帯状の操り形など、特徴的な装飾が見られる鋳鉄製の柱です。照明ランプ部分は、電気灯として使用されていたランプを修復した上で、後年に取り付けたものです。柱部分は、形状や材質などから判断して、明治末年頃のガス街灯のものであると推定されます。明治情緒を偲ばせるガス街灯の柱からは、文明開化の象徴として輝いていた頃の様子が想像されます。 平成二十五年三月 中央区教育委員会」「東京築地鉄砲洲景 歌川国輝画」築地居留地一帯の様子を細かく描写した6枚続の錦絵です。居留地内にはホテルを始めとして、税関にあたる事務所や住宅、外国人目当ての日本人商店、さらには遊廓もあったことがわかります。明治元年(1868)、東京は外国人に向け、開市しました。当初の予想に反して、築地居留地は、あまり発達しませんでしたが、明治5年(1872)の大火後も教会・学校・病院などが次々と建てられ、東京への欧米文化輸入の入口として、文明開化の先端を行く地域であり、市民に与えた影響は非常に大きいものがありました。本図からは、海を背景に右側に築地ホテル館、中央に外国人居留地があって、日本、アメリカ、ロシア、フランスなど15ヶ国の国旗がひるがえり、左側には新島原遊廓があります。下段には、外国人と日本商人、芸者などの、内外語チャンポンの日常会話も加えてあります。15ヶ国の国旗がひるがえる中央部分をズームして。「居留地通り」を西に進むと左手にあったのが「聖ルカ礼拝堂」。中央区明石町10−1。聖ルカ礼拝堂は明治33年(1900)に米国聖公会宣教医師トイスラー博士により建てられた聖路加病院の礼拝堂として発足。関東大震災で倒壊したが昭和11年(1936)に現在の礼拝堂が竣工。昭和20年から31年まで(1945~1956)は米国陸軍42病院のチャペルとなっていたとのこと。現在は旧病院棟、現看護大学棟に残っている。奥に見えるのが「聖路加国際病院旧館」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.09
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「築地本願寺」を後にして、北門から出て南方向に向かう。左側にあったのが、「中央区立築地川公園」。中央区築地と中央区明石町にまたがる公園。入口にあった案内板。「備前橋跡橋の名称は、橋の辺に備前岡山藩邸があったことに由来しています。震災復興橋梁の一つ。築地川南支川に架かる橋で、小田原町(現・築地七丁目)から築地ニ、三丁目の間へ渡されていました。震災前は橋長14メートル、幅4メートルの木橋だったが、震災後に橋長33メートル、幅17メートルの鈑桁橋(ばんげたきょう)に改架されました。大正14年(1925) 5月に竣工しました。備前橋の上流部分の水路は昭和40年(1965) 1月に埋立てられ、平成元年(1989) 4月に区立築地川公園として開園。また、下流部分も昭和62年に埋立てられ、区営駐車場、駐輪場となりました。」中央区築地7丁目1。「昭和11年当時の橋の位置と現在地の関係」橋名板「備前橋」。実は橋には、入口と出口があるのはご存じでしょうか?下の写真のように橋の親柱にある橋名板(きょうめいばん)の橋の名称が漢字表記だと入口になります。そしてひらがな表記が出口となるのです。ちなみにどの橋にも橋名板がついていて、漢字表記の向こう側は必ずひらがな表記となっているのです。どちらも向って左側にあるはずです。それでは、なぜ橋には入口と出口が存在するのかというと、道路には『道の始まりの地点を「起点」、終わりの地点を「終点」とする決まりがあり、起点を入口、終点を出口としたのです。昔は「すべての道路の起点は東京の日本橋」とされていて、日本橋に近い方を起点(入口)、遠い方を終点(出口)としていたそうです。現在では各都道府県や政令都市によって、県庁側が起点だとかその逆だとか、重要都市側を起点にするとか、国道や県道・市町村道によっても取り扱いが変わっているようですが。「築地川公園」の奥に歩を進める。遊歩道の脇には小川が流れていた。更に奥に進みと右手前方にも「案内板」があった。「堺橋跡」案内板。中央区築地7丁目3−1。「堺橋跡堺橋または境橋。震災復興橋梁の一つ。築地川に架かる橋で、小田原町(現・築地七丁目)から明石町へ渡されていました。震災前は橋長5.5メートル、幅4メートルの木橋あったが、震災後に橋長25メートル、幅8メートルの鈑桁橋として改築され、昭和3年(1928) 7月に竣工しました。築地川(明石堀とも呼ばれた)は、堺橋の先で分流し、南への水路が築地川南支川となり、北へ曲がる本流は合(相) 引川とも呼ばれていました。この橋を境にして築地川の川筋が分かれていました。昭和46年(1971)、首都高速道蕗の建設のため、築地川の埋立てに伴い撤去されました。」「昭和11年当時の橋の位置と現在地の関係」橋名板「堺橋」。以前訪ねた「三吉橋」👈リンク に置かれていた築地川の橋づくしの案内板。文明開化期の地図をネットから。築地川は、掘割であったため流れがほとんどなかったと。河川より運河といったほうが近かったと。現在はーー濃い青が築地川本流のあった場所。ーー薄い青が築地川南支川のあった場所。ーー水色が築地川東支川のあった場所。現在は殆どが埋め立てられ、残っているのは、浜離宮恩賜庭園の北東側河口付近のわずか750mの部分だけ。本流の大部分は川底を首都高速道路、南支川(暗渠の上部利用)は築地川公園、駐車場、駐輪場に東支川(暗渠の上部利用)は築地川駐車場・駐輪場、公共施設等になっているのだ。「中央区立築地川公園」内にはカラフルな遊具が。もう1基の「さかいはし」親柱。橋の名前をひらがなで表記する場合は「○○橋」は「○○はし」と濁点をつけずに書くそうです。これは川の水が濁らないようにという意味が込められていて、いかにも日本人らしい!!しかし、これは慣習的なものであり、多くの例外もあるとのこと。「堺橋跡」の親柱の道路の反対側、「あかつき公園」入口に向かう。入口左にあったのが「工学院大学学園発祥之地」碑。中央区築地7丁目2。「工学院大学学園発祥之地」。「工学院大学学園発祥之地明治二十一年我国工業の黎明期に当り、此地に「工手学校」👈リンクが創設された。爾来工業界の各分野に有能な技術者を送った数は実に三萬を超えその発展に多大の貢献を致した事は周知である。関東大震災の後昭和三年出身者の熱意と努力により新宿に宏壮な校舎が建設され校名も工学院と改められ、時世の進運に則して終始発展充実を続けて来た。更に昭和二十四年に至り学園に工学院大学が設立され最高の工業教育機関として工業報国の伝統精神を発揚しつゝある。近く創立七十周年を迎えんとし先輩の遺徳を偲び後進の発奮を促すため有志相図り学園発祥の地に記念碑を建てる。工学院大学校友会題字 工学博士 桂 弁三 書碑文 工学博士 野口尚一 撰学園歌一 見よ 清浄の淀橋に 校舎は高くそびえたり 実力の旗ひるがえし 我等が健児意気高し 誠実努力撓みなく 進めいそしめ国のため二 見よ先輩の螢雪は 工業日本を築きたり 築地の風に鍛えたる 師兄の意気を受継ぎて 誠実努力撓みなく 進めいそしめ国のため」「あかつき公園」に沿った道を東に進む。「THE TERRACE TSUKIJI」は賃貸オフィスであるようだ。「あかつき公園 冒険広場」。「あかつき公園」は遊具のある公園と冒険広場があり、子供たちにはとてもワクワクするスポット!?。公園にはローラーすべり台やブランコ、砂場など一通りの遊具が揃っていて、飽きずに遊べそう。冒険広場にはたくさんのタイヤや大きな土管、ターザンロープなどがあり、かくれんぼや鬼ごっこなど、体を動かしてさまざまな遊び方ができそうであったがこの時は子供の姿はなく。中央区築地7丁目19−1。そして交差点の先にあった「中央区立 あかつき公園(保健所側)」案内板。中央区築地7丁目19。平成元年作成のレリーフが並んでいた。明石小学校の児童の作品とのこと。さらに隅田川に向かって交差点を渡る。ここは昔「明石橋」があった場所。東京名勝図会 鉄砲洲明石ばし/歌川広重(3代目)(1868年)右手にあったのが「月島の渡し跡」案内板。中央区築地7丁目18−2。「月島の渡し跡所在地 中央区築地7丁目18番地域 明石町14番「月島の渡し」は、月島一号地の埋め立てが完成して間もない明治二十五年(一八九二)十一月、土木請負業の鈴木由三郎が、南飯田町(現、明石町十四)から月島(現、月島三丁目)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船をはじめたことにはじまるといいます(『月島発展史』)。明治三十四年(一九〇一)、月島への交通の重要性を考慮した東京市が市営化を決め、翌三十五年、汽船曳船二隻で交互運転を開始し、渡賃も無料となりました。月島は東京の臨海工業地帯として発展し、明治四十四年には、乗客の増加に対応するために徹夜渡船が開始されました。その後、昭和十五年(一九四〇)には勝鬨橋が架橋され、渡船の利用者は減少の一途をたどり、月島の渡しは廃止されることとなりました。平成十三年三月 中央区教育委員会」『東京市十五区番地界入地図』東京市京橋区全図 明治40年(1907)発行。当時の地図をネットから。①鉄砲洲橋②新湊橋(しんみなとばし)③明石橋(あかしばし)④明石堀⑤新栄橋(南明橋)⑥堺橋⑦暁橋現在の地図と埋め立てられた場所。公営住宅の角にあった「電信創業之地」碑。中央区明石町13−10。「電信創業之地東京傳信局跡明治二年十二月廿五日開始紀元二千六百年逓信省」「電信創業記念碑の由来明治2年9月19日(太陽暦10月23日)横浜裁判所と東京築地運上所に設けられた「傳信機役所」を結ぶ約32キロメートルの電信線架設工事が開始され、同12月25日に業務を開始した。これが、我が国における公衆電気通信の最初である。この記念碑は、先駆者の業務を後世に伝えるため、昭和15年に建立されたもので、昭和53年、南南東約40メートルの地点から当地へ移設されたものである。」その先にあったのが「東京税関発祥の地碑(運上所跡)江戸幕府は、慶応三年(1867年)に、江戸築地鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地と定め、この地に税関業務等を行う運上所を設置しました。これが、東京税関の始まりです。」。中央区明石町13−10。さらに隅田川に向かって進むと、カーブの場所にあったのが「水たき つきじ 治作」。中央区明石町14−19。「幕末、文明開化の中心地として華やいだ中央区明石町。その一角にひと際目を引く大邸宅。1899年建造の三菱財閥の旧別邸を買い取り1931年に創業した「つきじ治作」は約1000坪の古きよき伝統美をが息づく園内と、俗世を遮断したかのような静寂で贅沢な空間。多彩なコース料理をお愉しみください。 なかでも、名物「水たき」は九州出身の創業者がもたらした逸品と長年愛されております」と。数寄屋造り・木造二階建ての瀟洒な料亭。大きな滝のある和風中庭があるようだ。創業時から変わらない緑に囲まれた門構え と。「つきじ治作名物 水たき」セット。何方か、連れてって!!その先に奇妙な絵画を発見。工事現場の防音壁の「だまし絵」。ネットで調べて見ると「フォトリックアート」👈リンク と呼ぶらしい。東京都中央区の「マンホール蓋」。 区の花「ツツジ」と区の木「ヤナギ」がデザインされていた。「灯」と書かれているので、街路灯の制御を行うためのハンドホールの蓋であろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.08
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「親鸞聖人像」を後にして、再び正門前まで戻り、「築地本願寺」の「本堂」を見る。正面全景。インド風仏塔(ストゥーパ)は左が鐘楼、右が鼓楼である と。パノラマ撮影してみました。本堂正面をズームして。現在の本堂は、東京帝国大学(現在の東京大学)名誉教授で建築史家の伊東忠太博士の設計によるものですが、建築研究のためアジア各国を旅した博士と、時を同じく、仏教伝来ルートを明らかにするために探検隊を結成し、シルクロードを旅した大谷光瑞(当時の浄土真宗本願寺派門主)との出会いが縁となっています。築地本願寺の建物は、インド等アジアの古代仏教建築を模した外観や本堂入り口のステンドグラス、数多くの動物の彫刻などが特徴で、オリエンタルな雰囲気は、まさにシルクロードを伝わる仏教伝来のルーツを感じさせます。その一方で、内観においては僧侶のお勤めスペースよりも本堂内の参拝スペースの方が広く、中央正面に本尊阿弥陀如来が安置しているなど、伝統的な真宗寺院の造りとなっていた。2014(平成26)年には本堂及び大谷石の石塀と三門門柱が国の重要文化財に指定された。正面の屋根には菩提樹の葉の形の中に蓮の彫刻があしらわれていたり、ストゥーパと呼ばれる塔があったりと細部まで造り込まれているのだ。シルクロードを旅してきた伊東忠太博士でなければ作り上げることのできない、独特な仏教寺院であると。「親鸞聖人御誕生八百五十年立教開宗八百年慶讃(きょうさん)法要」案内板。慶讃とは、 仏菩薩や祖師の功徳(くどく) を喜び、ほめたたえること。右手に「衆水一味浄」という字が彫られている「手水場」。この「衆水一味浄」の出典は『教行信証』にあり、『正信偈』にも見ることができるとのこと。魚が泳ぐ綺麗な川もあれば、工業用水で汚れた川もある。様々な川の水が流れてくるにもかかわらず、海は潮の味ただ一味だけ。人もまた、様々な人種や思想、価値観を持っていて、煩悩まみれの人もいれば煩悩のない聖者もいるし、仏に逆らう人もいれば仏法を謗る人もいる。それでも、阿弥陀さまの本願のもとでは、私たちは何の分け隔ても差別もない「一味」であるということ と。「本堂」と巨大「石灯籠」。近づいて。「光顔巍巍(こうげんぎぎ)」の文字が。「「増仏偈」は、「光顔巍巍」という言葉から始まります。「光顔巍巍」とは、法蔵菩薩が世自在王仏の徳をほめ讃えた言葉です。法蔵菩薩は、何よりもまず光り輝くそのお顔をほめ讃えられました。世自在王仏の清らかな心がそのまま表情に表れていたのでありましょう。ところで、私たちの顔が光り輝いているように見えるときとは、どのようなときでしようか。目標に向かって一生懸命になっているとき、うれしさや喜びを体いつばいに表現しているときなどが思い浮かびます。このような一生懸命な姿やうれしさ、喜びは、だれが見ても自然と伝わってくるものです。法蔵菩薩が世自在王仏のお顔を光り輝いていると讃えられたのは、世自在王仏が深く喜んで説法をされているのが法蔵菩薩に伝わったからであり、また法蔵菩薩がその説法を聞いて深く喜んだからにほかなりません。」本堂手前右側の境内には、「納涼盆おどり大会」用の提灯がたわわに。2023年8月2日(水)から8月5日(土)までの4日間、「第76回 築地本願寺 納涼盆踊り大会」が開催されていたとのこと。「本堂」へと進む。左側の仏塔(ストゥーパ)・鐘楼を見る。正面階段下の獅子像の前には「案内板」が並ぶ。「獅子像(右・阿形像)」。「獅子像(左・吽形像)」。「重要文化財築地本願寺本堂一棟附正門・北門・南門(各一所)、石塀(五基)所在地 中央区築地三丁目一五番一号浄土真宗本願寺派(京都西本願寺)の直轄寺院・築地本願寺は、江戸時代初期の元和三年(一六一七)、浅草近くの横山町に創建されました。江戸浅草御坊と称された当寺院は、明暦三年(一六五七)の大火で焼失した後、現在地に移転・再建されました。特に本堂の大屋根は江戸湊に人る船の目印であり、江戸庶民によく知られた名所の一つでした。江戸時代から明治期にかけて何度か再建された木造の本堂は、大正十二年(一九二三)の関東大震災で焼失した後、昭和九年(一九三四)に現在の本堂(鉄骨鉄筋コンクリート造、地上二階・地下一階)となりました。西本願寺二十二世宗主・大谷光瑞の依頼を受けた、設計者の建築家・伊東忠太(一八六七~一九五四)は、日本の伝統的な寺院様式ではなく、仏教の発祥地であるインドの建築様式を独自の解釈で外観に取り人れ、特異な雰囲気をもっ伽藍を創出しました。花崗岩が用いられた建物中央の本堂は、上部に銅板で葺いた巨大な円形屋根がのせられ、左右対称にのびた翼部には鐘楼と鼓楼の塔屋を置き、正面中央と左右の入口には独特の曲線による破風を設けています。内部は伝統的な浄上真宗寺院の本堂形式でありながら、外観各部にはインド風の建築手法が見られ、入口の破風・柱頭飾り・屋根上の尖塔、さらに細部の装飾が一体となり、全体として調和のある外観を創り出しています。当寺院本堂は、建築家・伊東忠太が最新の技術を用いて東洋的な建築を追求した典型例であるとともに、秀逸な建築デザインを保持する震災復興期の貴重な建造物といえます。また、本堂とほぼ同時期に建築された外周の石積塀や石造柱門(正門・北門・南門)も共通のデザインを踏襲しており、本堂と一体をなす貴重な建造物となっています。これらの建造物は、平成二十六年に重要文化財として指定されました。平成二十七年三月」本堂二階平面図(竣工時)「国指定重要文化財築地本願寺本堂一棟附 正門・北門・南門、大谷石積塀入口正面のステンドグラスには蓮の花が。本堂2階案内図。本堂1F案内図。「本堂」正面を見る。ズームして。本堂右側。ズームして。本堂左側。ズームして。本堂前から正門方向を見る。「大江戸助六太鼓」👈リンク と。「納涼盆おどり大会」の舞台。「盆おどり提灯協賛ご芳名」。「第一伝道会館」。内部には日本料理店「紫水」があった。「第一伝道会館」前から本堂を見る。「浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候うべし」と。「このお言葉は、親鸞聖人が門弟に宛てたお手紙の一節です。私たちは、死という先の見えない不安を抱えて苦悩します。その不安を除くため、私が往くべき安らかな世界をご用意くださったのが、阿弥陀という仏さまです。今生での別れは避けられないけれども、また遇える世界が恵まれていることを伝えてくださっています。」「第二伝道会館」前から本堂を見る。そして「北門」から「築地本願寺」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.07
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そして「築地本願寺」の「正門」に到着。中央区築地3丁目15−1。築地本願寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で、京都の本願寺(西本願寺)が本山。その発祥は1617年、西本願寺の別院として江戸に建立。浅草・横山町にあったことから「江戸浅草御堂」と呼ばれていた。1657年明暦の大火により焼失。大火後の区画整理のため、幕府より代替地として指定されたのは、八丁堀の海上であった。そこで佃島の門徒が中心となり、海を埋め立てて土地を築き1679年に再建されことが「築地」という名称の由来であり、「築地御坊」と呼ばれるようになった。1923年、関東大震災により再び本堂を焼失。現在の本堂は、建築家の伊東忠太氏の設計により、古代インド仏教様式の外観で1934年に落成。2012年、正式名称が今の「築地本願寺」と改められた。2014年には、本堂・石塀・ 三門門柱(正門・北門・南門)が国の重要文化財に指定された。正門入口左側。「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要(きょうさんほうよう)」👈リンク「築地本願寺」は西本願寺系であり寺紋は「下がり藤」。しかし、からまる蔓の重なりの筋が無い。こちらが「西本願寺」の「下り藤」。からまる蔓の重なりの筋がある。実はこの蔓の「右が上」というのがとても大事。築地本願寺はこれが無い。「築地本願寺」配置案内図。解かりやすい配置図をネットから。「正門」を入ると、右側には石碑、墓石等が並んでいた。最初にあったのが「九條武子夫人歌碑」。九条武子は柳原白蓮、江木欣々とともに大正三美人と称された歌人である。武子は西本願寺第21代法主大谷光尊の次女として1887年に京都に生まれている。1909年には公爵家出身で正金銀行に勤務する九条良致と結婚し夫の勤務先兼留学先であるロンドンに渡るが翌年、単身で帰国する。そのころから佐々木信綱に和歌を学ぶようになる。1911年義姉・大谷籌子裏方の早世に伴い、30歳の若さで仏教婦人会本部長に就任する。その頃、仏教に基づく教育との視点から、現在の京都女子学園・京都女子大の設立にも参画する。1920年には夫が帰国し現在の新宿区下落合に居を構え、夫婦同居が実現される。1923年の関東大震災により崩壊した築地本願寺の再建に努めるとともに、同地に臨時救済事務所出張所をおいて救済事業の陣頭指揮をした。また、上野公園に託児所、日比谷公園には臨時」の診療所を造った。これが現在の「あそか病院」の基礎となった。九条武子は西本願寺の大谷伯爵家の出であり、大正時代の代表的麗人であるだけでなく、女流歌人であり社会事業家であった。1928年震災復興事業での奔走の無理がたたったのか、敗血症発症により42歳の若さで世を去っている。結構大きく立派な歌碑だが刻まれている和歌が薄くて小さく読み取り難いが、右手に和歌が記された立札があるので分かったのであった。「おおいなる もののちからに ひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや」。「酒井抱一(さかいほういつ)墓」。「等覺院文詮墓」酒井抱ー( 1 7 6 1 ~ 1 8 2 8 )は、名門酒井雅楽頭家の姫路主酒井忠仰(ただもち)の次男として生まれた。明和4年( 17 6 7 )忠因(ただなお)と名乗る。大名家の習いとして、武術、絵画、俳諧、狂歌などにも親しんだ。寛政9年( 1 7 9 7 )、3 7歳で西本願寺文如上に随い出家し、「等覚院文詮暉真」と称した。浅草千束に移住し、抱ーと号す。抱ーは寛政年間後半ころから尾形光琳の画風に傾倒し、文化12年( 1 8 1 5 )には、文化6年に移り住んだ下根岸の新居(後の雨華庵)で光琳百回忌を営んだ。抱ーは、琳派の画風に諸派の技法を取り入れた独特な作風を確立し、粋で瀟洒(しようしゃ)な江戸琳派を完成させる。代表作として、「光琳百図」「四季花鳥図屏風」「夏秋阜図屏風」などがある。文政1 1年、雨華庵で亡くなり、築地本願寺に葬られた。「東京都指定旧跡酒井抱一墓所在地 中央区築地三の十五の一 築地本願寺仮指定 大正十三年二月五日指定 昭和三十年三月二八日酒井抱一(一七六一~一八ニ八)は、名門酒井雅楽頭家の姫路藩主酒井忠仰(ただもち)の次男として生まれました。明和四年(一七六七)忠因(ただなお)と名乗ります。大名家の習いとして、武術、絵画、俳諧、狂歌などにも親しみました。寛政九年(一七九七)、三七歳で西本願寺文如上人に随い出家し、「等覚完文詮暉真」と称します。浅草千束に移住し、抱一と号します。抱一は寛政年間後半ころから尾形光琳の画風に傾倒し、文化一ニ年(一八一五)には、文化六年に移り住んだ下根岸の新居(後の雨華庵)で光琳百回忌を営みました。抱一は、琳派の画風に諸派の技法を取り入れた独特な作風を確立し、粋で瀟洒な江戸琳派を完成させます。代表作として「光琳百図」「四季花鳥図屏風」・「夏秋草図屏風」などがあります。文政一一年、雨華庵で亡くなり、築地本願寺に葬られました。平成ニ四年三月建設 東京都教育委員会」「土生玄碩(はぶげんせき)先生之碑」。墓標には「桑翁土生君之墓」と。「東京都指定旧跡土生玄碩墓所在地 中央区築地三の十五の一 築地本願寺標識 大正十三年一月指定 昭和三十年三月二八日上生玄碩(一七六ニ~一八四八)は江戸時代後期の眼科医で安芸国吉田で生まれました。名を義寿といい、桑翁と号しました。文化七年(一八一〇)奥医師を拝命し、同一三年法眼に叙されました。文化五年には一ニ代将軍徳川家慶の眼疾を治療しました。文政一ニ年(一八ニ九)、シーボルトから眼病治療法を教授された謝礼に将軍拝領の紋服を贈ったことで、シーポルト事件に連座し、改易となり、江戸を追放されました。嘉永元年(一八四八)八月一七日、八七歳で死去し、土生家の菩提寺である築地本願寺中眞龍寺に葬られましたが、昭和三年(一九ニ八)一ニ月区画整理のため改葬されました。墓標には「桑翁土生君之墓」とあります。著書には、「銀海波抄」、「指談録」、「獺祭録」などがあります。平成ニ四年三月 建設 東京都教育委員会」墓石の前には石碑が並ぶ。「遺弟念力浄土真宗の繁昌は「遺弟の念力より成ず」と。浄土真宗の繁昌は、遺弟の念力より起こるのだと。遺弟とは、親鸞聖人の残されたお弟子方のこと。そのお弟子の念力、念力と言っても別に超能力のことではなく、ご信心の力である。つまりは、自力を離れて他力念仏に帰する浄土真宗の繁昌とは、一人でも信心を取る人が生まれることである。それは親鸞様の残されたお弟子方の信心の力によるのだと」「心悦清浄(しんねつしょうじょう)」。「心悦」は相手の行動や言葉に本心から喜ぶこと。心に清らかなよろこびを生じさせようと。「随喜鑚仰(ずいきさんぎょう)」。心から喜んで仏道に帰依(きえ)し、深く仏を信仰すること。 また、深く物事に打ち込み熱中すること。 「随喜」は心から喜び、ありがたく感じて仏に帰依すること。 「鑚仰」は「論語」子罕(しかん)の「これを仰げば弥(いよいよ)高く、これを鑽(き)れば弥(いよいよ)堅し」から》聖人や偉人の徳を仰ぎ尊ぶこと。「佃忠兵衛報恩塔」。正面には「篤行院釋久西居士」の法名と「寛文二年壬寅 四月四日 享年九十有四歳」の没年陰刻。「佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔」「佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔所在地 中央区築地三丁目十五番一号 築地本願寺」正保元年(一六四四)に埋め立て造成された佃島(現在の佃一丁目)は、将軍の命で摂津国西成郡佃村・大和田村から江戸に下った漁師たちによって築島されました。島内の地所は、先達を務めた佃村の庄屋・森孫右衛門、実弟・九左衛門、従弟(九左衛門の娘婿)・忠兵衛をはじめ、摂津国からの移住漁師三十数名の割り当て所有となりました。その後、孫右衛門は本国佃村で没し、九左衛門は日本橋の本小田原町で魚問屋(「佃屋」)を開いたため、一族の衆望を担った忠兵衛が佃忠兵衛を名乗って佃島の初代名主役を務めました。初代名主の佃忠兵衛は、将軍・幕府への御用漁や佃島の開発とともに、明暦三年(一六五七)の大火で焼失した本願寺の替地の埋め立て(築地)と御堂の再建にも尽力しました。境内に立っこの石塔は、佃島の開祖である初代名主・佃忠兵衛の遺徳を称えて、文久元年(一八六一)の二百年忌に十代名主・森幸左衛門勝鎮(九左衛門家家が絶家のため七代目から森姓を継承)と親族の佃宇右衛門寛敏が建立した報恩塔です。正面には忠衛の法名と没年(「篤行院釋久西居士」/「寛文ニ年壬寅四月四日享年九十有四歳」)、側面には、開祖の遺徳や代々名主を奉職してきた歴史が刻まれています。なお、これまで石塔正面の法名は「森孫右衛門」のものと判断されてきましたが、名主家伝来の記録などから「佃島初代名主 佃忠兵衛」であることが明らかになりました。 令和二年三月 中央区教育委員会」「大瀛(だいえい)の墓 」。「大瀛(だいえい・一七五九~一八〇四)」「大瀛(だいえい・一七五九~一八〇四)大瀛和上は、江戸時代後期の浄土真宗本願寺派の学僧です。生まれは安芸筒賀村(広島)。11歳で得度をし、広島報専坊の慧雲に師事して、一七七六年、西本願寺の学林(僧侶の教育機関)へと入り、浄土真宗の教義の勉学に励みました。その後は河内(大阪)、備後(広島)、安芸(広島)、石見(島根)を住職として周り布教活動に勤めました。勉学への志が高く、一七九四年に広島城西に学寮・芿園舎(せいえんしゃ)を設立して子第の育成に力を注ぎました。一七九七年に「三業帰命説」という教義が世に出されると、大瀛和上は「横超直道金剛鉾(おうちょうじきどうこんごうへい)」などを著して反論し、いわゆる「三業惑乱(さんごうわくらん)」という法論が起こりました。この騒動は江戸幕府が介入するほどの大きな事件となり、大瀛和上は病身のまま京都や江戸に赴き、対論しました。しかし一八〇四年に、当時の江戸築地別院内の成勝寺にて死去されました。その後、幕府から「三業帰命説」は異端であるとする審判が下され、そして西本願寺からもこれが認められて、大瀛和上の徳は今日まで多くの念仏者に偲ばれています。」「間新六(はざましんろく)之塔」。「帰真釈宗貞信士霊位 元禄十六癸未 二月四日 間新六墓」と。「間新六供養塔」。「東京都指定旧跡間新六供養塔所在地 中央区築地三の十五の一 築地本願寺標識 昭和十三年十月指定 昭和三〇年三月二八日間新六光風(一六八〇~一七〇三)は赤穂藩主浅野家臣間光延の次男として生まれます。元禄一四年(一七〇一)三月藩主浅野長矩が殿中刃傷事件を起こし、藩は改易となります。新六は父及び兄光興とともに仇討ちに加わり、元禄一五年一ニ月一四日(一七〇三年一月三〇日)に吉良上野介を討ち取り(赤穂事件)、麻布の長府藩毛利邸へ預かりとなり、切腹します。赤穂義士の墓は主君長矩の墓のある高輪泉岳寺にありますが、新六は義兄中堂又助により、築地本願寺に埋葬されました。泉岳寺にも新六の供養塔がありますが、本願寺に葬られた理由は、檀徒であったのか、生前の意志によるものなのか、不明です。現在のものは、火災により焼失したものを天保五年(一八三四)に羽佐間宗玄が再建したものです。平成ニ四年三月 建設 東京都教育委員会」。「陸上交通殉難者追悼之碑」。交通事故による殉難者を悼み、交通事故絶滅を願い建てられたものである。「いつ果てるともない交通事故は、日夜多くの犠牲者を続出しています。今ここにいたましい犠牲者の追悼碑を建設し、こころから、その冥福を追慕し、ふたたび、このような悲惨事をくりかえしてはならぬという警告を、より広く、より深く、多くの人々にうったえ、交通事故絶滅への礎としたい。 交通事故殉難者追悼碑建設会 名誉総裁 三笠宮崇仁親王 役員代表・・・以下省略・・・」「文明は尊きものか惨なるかエンヂンの音耳すましきく 和南」。「この追悼碑に寄せられた國民有志の数々の善意に対し心から感謝いたします。昭和四十四年十一月ニ一日陸上交通殉難者追悼碑建設会 名誉総裁 三笠宮崇仁親王役員・・・以下省略・・・」「台湾物故者の霊」。「台湾物故者遺骨安置所建設の由来」。「台湾物故者遺骨安置所建設の由来太平洋戦争敗戦とともに、台湾在留の日本人は引き揚げたが、台湾に残された日本人物故者の墓地には誰一人訪れる人もなく放置されていた。これら台湾における日本人物故者を悼む多くの方の強い願いによって、昭和32年、当時の日本及中華民国、両国政府の合意に基き、台湾各地に散在する日本人墓地の整理が開始された。昭和36年にこれが完了と共に。台北、台中、高雄の三か所に日本人遺骨安置所がつくられ、1万3千余人の遺骨が納められた。その後、これら全員の分骨を故国に持ち帰ることができ、これを安置するために昭和38年3月「台湾物故者慰霊塔建設委員会」により、本願寺築地別院(当時)に遺骨安置所が建設された。爾来、その維持管理および年次法要は一般財団法人台湾協会がその掌にあたっている。さらに、その後台湾物故者の強い希望もあって戦前故国へ帰還して亡くなった方の遺骨も、昭和60年9月以降ここに納めている。なお、境内整備に伴い、現在、遺骨は合葬墓に納められている。 平成29年4月 一般財団法人 台湾協会」そして一番奥に「親鸞聖人の像」。像の手前の両側に大きな石灯籠。「親鸞聖人」。「親鸞聖人◯誕生と幼少期平安時代も終わりに近い承安三年(一一七三)の春、わたしたち浄土真宗本願寺派の宗祖・親鸞聖人は京都にてご誕生になられました。父親は藤原氏の流れをくむ日野有範、母親については現在までよく分かっていません。日野氏は儒学を得意としており、親鸞聖人も六歳頃から漢文の教育を受けていたと推測されます。親鸞聖人は九歳のとき、慈円和尚のもとで出家・得度をされ、範宴(はんねん)と名のられたと伝えられています。◯比叡山での修行比叡山では、横川で不断念仏などを修行する堂僧として、20年の間、厳しい学問と修行に励まれました。しかし建仁元年(一ニ〇一)親鸞聖人29歳のとき、比叡山では悟りに至る道を見出すことができなかったことから、ついに山を下り、京都の町中にある聖徳太子ゆかりの六角堂にて100日間の参籠をされました。95日目の暁、聖徳太子に関する偈文を唱え終ったところに六角堂の本尊である観音菩薩からの夢告を得て、東山の吉水で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人の草庵を訪ねられます。◯吉水での法然聖人との出遇いその後、自身が浄土往生できるための縁、すなわちその指導を得るために法然聖人の弟子となられました。聞法と研学に励まれた親鸞聖人は、法然聖人の特別の信頼を得て聖人の主著である「選択本願念仏集』と真影(肖像画)を写すことを許されています。◯結婚と越後流罪親鷽聖人は吉水での生活の中で、京都の三善為教の娘である恵信尼さまと結婚されます。そのころ法然聖人の開かれた専修念仏の教えに対して、延暦寺や奈良の興福寺などから激しい非難が出され、ついに承元元年(一一〇七)に、親鸞聖人などの師弟が罪科に処せられ、親鸞聖人は越後国(新潟県)に流罪となりました。これを機に「愚禿(ぐたく)親鸞」と名のられ「非僧非俗(ひぞうひぞく)のの立場に立たれます。〇関東伝道と『教行信証』の執筆越後への流罪は、家族を連れての布教活動の始まりとなりました。およそ7年間の流人生活の後、親鸞聖人とその家族は関東へ向かわれることになります。一説には、新興の武士の都である鎌倉での布教を目指したのではないかと考えられています。延保2年(一二一四)、42歳の親鸞聖人は家族とともに、下野国(栃木県)・常陸国(茨城県)の大領主・宇都宮頼綱の領地である稲田へと向かわれました。常陸国・稲田に草庵を結んだ親鸞聖人は、そこから約30数km以内の所へ一泊ニ日での布教活動をされたと考えられています。また主著『教行信証』もこの地で書き始められました。関東時代後半には鎌倉幕府で行われた一切経校合の事業にも参加されておられ、ここ東京を含む南関東にも多くの由緒を伝える寺院が現存しています。」◯再び京都へ親鸞聖人は60~66歳のころ、関東約20年の伝道を終えられて帰洛されます。京都では晩年まで「教行信証」を添削されるとともに、「和讃」など数多くの書物を著され、関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝え、書簡で他カ念仏の質問に答えられました。弘長2年11月28日(新暦一ニ六三年一月一六日) 90歳、親鸞聖人は三条富小路にある弟尋有(じんう)の善法坊で往生の素懐(そかい)を遂げられました。」「親鸞聖人の像」。お顔をズームして。「親鸞聖人」。「親鸞聖人 題字勝如上人 御染筆」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.06
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「波除神社」を後にして、「築地六丁目」交差点を右折して「晴海通り」を進むと左手に「案内板」があった。「軍艦操練所跡所在地 中央区築地六丁目二十番地域ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政四年(一八五七)四月、旗本や御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転を練習させる目的で軍艦教授所(後の軍艦操練所)をこの地にあった築地講武所内に創設しました。万延元年(一八六〇)正月に講武所が神田小川町(現在の千代田区)に移転をした後には、跡地一帯は軍艦操練所の専用地とされました。元治元年(一八六四)三月には焼失して、南隣りの広島藩主浅野家下屋敷のあった場所(絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転をしています。設立当初は旗本永井尚志が総督をつとめ、長崎の海軍伝習所修業生を教授方としていました。その後、向井将監や勝海舟等が頭取をつとめました。慶応元年(一八六五)七月、新たに海軍奉行を置き、慶応二年七月には海軍所と改称されました。同年十一月には再び類焼して現在の旧浜離宮庭園の地に移り、跡地には、日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建てられました。平成二十一年三月 中央区教育委員会」「京橋南築地鐵炮洲絵図」。元治元年(一八六四)三月には焼失して、南隣りの広島藩主浅野家下屋敷のあった場所(絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転をしています と。そしてさらに「隅田川」に向かって進むと前方に「勝鬨橋(かちどきばし)」が現れた。中央区築地6丁目 ~勝どき1丁目。勝鬨橋は、東京都中央区にある隅田川に架かる橋。晴海通り(東京都道304号日比谷豊洲埠頭東雲町線)が通る。日本で現存する数少ない可動橋(跳開橋)であるが、1980年に機械部への送電を取り止めており、可動部もロックされ、跳開することはない。近年、再び跳開させようとの市民運動や都・一部都議の動きはあるものの、機械部等の復旧に莫大な費用(東京都の試算では約10億円)がかかることや多数の道路交通量があることから、実現の目途は立っていないとのこと。「ハの字に開いた勝鬨橋」をネットから。いつ頃の写真であろうか?右奥にあったのが「かちどき 橋の資料館」。残念ながらこの日は開館日ではなかった。中央区築地6丁目20−11。「小鳥付車止め「ピコリーノ」」がここにも。江ノ電「江の島駅」にもあったが。1970年に旗ポールメーカーとして創業したサンポールは、売上を軌道に乗せた後、東京進出も決めて急成長をとげていました。しかし、旗ポールだけで会社を維持していくには限界があると考えた経営陣は、第2の柱として車止め業界への参入を決断します。「業界参入の先駆けとして、先行メーカーと差別化でき、市場にインパクトを与える、新しいコンセプトの車止めを作ろう」こうしてサンポール初となる車止めの開発が始まりました。会社をあげて新製品のアイデアを練っていた折、公園管理者のあるつぶやきが耳に入ります。「公園の入口に設置されている門型の車止めの上に、子どもが飛び乗って座るなどして転倒する事故が多く困っている。」この声にひらめきを得た当時の専務権藤千代子は、持ち前のバイタリティーでアイデアをまとめ上げていきました。そうして1981年12月「ピコリーノ」が誕生したのです。ちなみに、ピコリーノ(picolino)という名前は、「小さいもの」という意味のイタリア語「ピコラ(piccola)」にちなんで付けた造語です。「おチビちゃん」といったニュアンスでしょうか。とネットから。奥に「かちどき橋の資料館」。「かちどきのわたし」碑。「勝鬨の渡し跡」案内板。「勝鬨の渡し跡月島地域には、明治ニ十五年(一八九ニ)に月島と築地・銀座方面を結ぶ渡船「月島の渡し」が開設されました。その後、両地を結ぶ交通需要が増加し、明治三十八年(一九〇五)には「勝鬨の渡し」と名付けられた渡船が開設されました。「勝鬨」の名は、京橋区の有志が日露戦争における勝利を記念して名付けたことに由来します。当地にある石碑には、正面に「かちときのわたし」とあり、側面には「明治三十八年一月京橋区祝捷會挙行之日建之 京橋区同士會」と陰刻されています。なお、当初に設置された渡船場は、ここから約百五十メートル西の波除稲荷神社の先にありましたが、関東大震災後に現在地付近へ移設されました。また、対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通九丁目先(現在の勝どき一・三丁目の境)にあり、この間を渡船が運航していました。勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。とくに、この渡船は月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、当該地域の発展に寄与しました。関東大震災後、隅田川を航行する大型船舶のために、中央径間部が跳開する可動橋の工事が進められました。その結果、昭和十五年(一九四○年)六月に「勝鬨橋」が完成し、渡船の廃止に至りました。明治末以来、市民交通の要として利用されていた勝鬨の渡しは、橋名に受け継がれながらその歴史を継承しています。 令和三年三月 中央区教育委員会」。「月島西河岸通先の勝鬨渡船場」「海軍経理学校之碑」。中央区築地6丁目20−10。「海軍経理学校之碑明治七年海軍会計学舎が芝山内天神谷に設けられたが、のち幾変遷を経て明治四十年これが海軍経理学校となった。 その間明治二十一年校舎は築地に移されたが、その敷地は松平定信邸の浴恩園の跡に当たった。明治時代この付近には海軍の施設が多く、その一帯は海軍発祥の地とも称されている。校舎はさらに幾度かの移改築を経て、昭和七年、この西側築地の一角に移築された。太平洋戦争中就学人員激増のため、品川ほか地方三ケ所に校舎を増設した。戦後海軍解体に伴い昭和二十年九月、同校は約七十年の歴史を閉じ。その間出身者は万余をかぞえ輝かしい功績を残したが、戦後もわが国復興の中核となって活躍した。 戦後三十年を機にここにその栄誉と同校の跡を記念してこの碑を建てる。 昭和五十一年四月」「勝鬨橋之記」碑。中央区築地6丁目20。「勝鬨橋之記明治三十七八年の戦役に於て皇軍大捷す京橋區民は之が戦勝を記念し此處に渡船場を設け勝鬨の渡と名付け東京市に寄附す昭和八年六月東京市は新に双葉可動橋の架設に着手し偶日支事變勃發せるも今年六月功を竣ふ即ち橋に名付くるに亦勝鬨を以てし長く皇軍戦勝の記念となす昭和十五年十二月 東京市長 大久保留次郎 撰併書」裏側には「設置経緯」が書かれているようだが・・・。「日本国重要文化財 勝鬨橋 東京都知事 石原慎太郎〔諸元〕 橋 長 二百四十六・○メートル 幅 員 跳開部二十六・六メートル 固定部二十五・八メートル 上部工 中央径間 鋼製跳開橋 側径間 鋼製タイドアーチ橋二基〔所有者〕 東京都〔指定年月日〕 平成十九年六月十八日指定(建第二五○二号)〔指定の意義〕 勝鬨橋は、東京港修築工事の一環として、海運と陸運の共栄を意図し、建造された、中央二連が ハの字形に跳ね上がる日本国内において唯一のシカゴ型二葉式跳開橋等で、昭和十五年六月に 竣工した。 勝鬨橋の特筆すべき点として、わが国最大の可動支開を有し大規模でかつ技術的完成度の高い 構造物であり、上部構造は中央二連の中路式可動桁及び機械装置によりなる跳開橋と、 左右一連の拱曲線を放物線とした下路式ソリッドリブタイドアーチからなる。 下部構造は直接基礎の鉄筋コンクリート造で内部に機械装置を収め、可動桁の端部が回転する 空間を備える橋脚二基と、杭基礎の橋台二基からなる。 建造工事は、東京市が施工し、設計者は東京市嘱託員成瀬勝武の指導のもと同技師滝尾達也及び 安宅勝らである。」「勝鬨橋」の下流側の鉄鋼トラスは塗装工事?の足場設置工事中であった。隅田川には東京都観光汽船(TOKYO CRUISE)の観光船・ホタルナ(HOTALUNA)がやって来た。漫画・アニメ界の巨匠・松本零士氏がデザイン。「ホタルナ」は、宇宙船をイメージしたシルバー・メタリックの流線形ボディにガルウィングの扉、船体屋上には屋上デッキを設置し船外で景観が楽しめるようにしました。また、ホタルナは、“月が輝く夜に神秘な輝きを放つ蛍が隅田川を舞う”ホタルとルナ(月の女神/LUNA <ラテン語> )「ホタル月」という、新たなる旅立ちとして松本零士氏の思いが込められた船名である と。ズームして。船体屋上の屋上デッキには多くの若者の姿が。「勝どき橋」の鉄骨構造をズームして。「勝鬨橋」の先には中央区勝どき1丁目の高層マンション群が。「勝鬨橋」を見ながら、横断歩道を渡る。左に「ブリリアイストタワー勝どき・地上45階、地下2階、高さ159.85mの 賃貸タワーマンション」右に「プラザタワー勝どき・地上43階、地下1階、高さ155.25mの賃貸タワーマンション」「勝どき橋西」交差点を渡ると正面にあったのがパブリックアート・「「巻貝と種の広場」 my sky hole 91-2」、井上武吉作。〒中央区築地6丁目19。赤が印象的。「隅田川テラス」を歩く。勝鬨橋の中央に26.6m長の、ハの字形に跳ね上がる日本国内において唯一のシカゴ型二葉式跳開橋の姿が見えた。再び開く日が来るのであろうか。中央区築地6丁目19−20。この下が「勝鬨橋簡易船着場」。「隅田川には自由に利用できる小型船舶用の簡易船着場があります!小型船舶から乗り降りするための簡易な船着場です。自己の責任において、自由に利用することができます。」とのこと。現在は、勝鬨橋の工事で利用できないようであったが。中央区築地6丁目。隅田川の対岸にあったのが「月島川水門」。「隅田川と月島川を隔てる水門で、1964(昭和39)年度に竣工しました。水門は、堤防の役割を果たす構造物です。月島川は、1892(明治25)年に完成した埋立地である月島1号地(現・中央区月島)と、1894(明治27)年に完成した埋立地である月島2号地(現・中央区勝どき)の間で埋め残した水面です。さらに南西側にある新月島川、月島・勝どき地区と晴海地区を隔てる朝潮運河とともに、月島川水門を含む4つの水門によって浸水被害から守られています」と。中央区月島3丁目25−9。「はとば公園」内にあった「my sky hole 水の情景」、これも井上武吉氏の作品。中央区築地6丁目19。シンプルな外観なのですが、妙に存在感が。川側には目のような穴が二つ、反対側には、穴が一つのデザイン。そして引き返し、再び「勝どき橋西」交差点の横断歩道を渡り、銀座方向を見る。ここにも「築地場外市場」案内板が。先程通過した「築地六丁目」交差点を直進。さらに「晴海通り」を進むと左手にあったのが「八紘一宇(はっこういちう)の碑」。八紘一宇とは、天下・全世界を一つの家にすることだそうで、「日本書記」の「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」を、全世界を一つの家のようにすると解釈したものだと。これが、第ニ次世界大戦中、日本の中国・東南アジアへの侵略を正当化するスローガンとして用いられたと指摘され、戦後の日本においては、あまり聞くことの無いことばとなった と。右側には建立者の「築地門跡青年団」の文字も確認できた。中央区築地4丁目14。築地のこの辺りは、「海軍発祥の地」でもあり、海軍史跡巡りができるほど「大日本帝国有軍」に関わりの深いエリアでもあり、この碑もその関連でここに設置されたものであろうか?現代では、日本による海外進軍を正当化するための言葉ともいわれています。終戦後、GHQによってこの言葉を公文書に使用することは禁止されたのだ と。「紀元二千六百年 八紘一宇」紀元二千六百年とは1940年(昭和15年)が神武天皇が即位してから2600年に当たることから1940年(昭和15年)11月10日、宮城前広場において昭和天皇・香淳皇后出御の下、内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。11月14日まで関連行事が繰り広げられて」国民の祝賀ムードは最高潮に達した。また、式典に合わせて「皇紀2600年奉祝曲」が作曲された。長引く戦争による物資不足を反映して、参加者への接待も簡素化され、また行事終了後に一斉に貼られた大政翼賛会のポスター「祝ひ 終つた さあ働かう!」(現代日本語: 祝い終わった さあ働こう!)の標語の如く、これを境に再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活はさらに厳しさを増していくことになった とネットから。道路の反対側にも「案内板」が設置されていた。「門跡橋の親柱」。「門跡橋の親柱所在地 中央区築地三丁目十七番八号先門跡橋は、昭和三年(一九ニ八)六月に築地三丁目(現在の築地三・四丁目)と南小田原町一・二丁目(現在の築地六丁目)との間に架けられた築地川南支川の震災復興橋梁でした。昭和六十一年(一九八六)から開始された築地川の埋め立て工事や道路の拡幅工事に伴って撤去されましたが、その時に花崗岩製の親柱一基が高欄の一部とともに、この場所に移築保存されました。なお、門跡橋という名称は、江戸時代に同じく築地川南支川に架けられていた小川原橋の俗称から取ったものです。当初は「築南橋」という橋名が付けられていましたが、昭和三年十一月、西本願寺の門徒代表以下五十九名から、東京市長宛に「門跡橋」への名称変更に関する陳情書が提出され、門跡橋と改称された経緯があります。この親柱は、復興事業の歴史を今日に伝える資料として重要であるともに、震災復興橋梁がこの辺りに架けられていたことを物語る貴重な文化財です。 令和ニ年三月 中央区教育委員会」「築地川南支川に架かる門跡橋」。「門跡橋 親柱」。「昭和三年六月 復興局建造」と書かれたプレート。その先にあった「松籟山 善林寺」。中央区築地3丁目17−8。浄土真宗本願寺派寺院の善林寺は、松籟山と号し、開基は越前朝倉家一門の武士、真柄十郎左衛門の孫です。四代目宗休が江戸浜町本願寺建立の時、本願寺12代目准如上人の命により尽力し、その功績により寛永11年3月20日(1624)善林寺の号をいただき一ヶ寺を建立しました。明暦(1657)の大火によって浜町御坊(後の築地本願寺)と共に築地へ移転、関東大震災後の区画整理で当地に移転しました。朱印受付、観光案内はしていません と。歴史ある寺院であるが、現在は鉄筋コンクリートビルの「善林寺」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.05
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「築地場外市場」の「波除通り」を進むと突き当り正面にあったのが「波除神社(なみよけじんじゃ)」。中央区築地6丁目20−37。石鳥居の右側にあったのが「海幸橋」案内板。「海幸橋海幸橋は、昭和2年に旧築地川東支川の隅田川河口部に創架された鋼下路アーチ橋です。大正12年の関東大震災で日本橋にあった魚市場が全焼してのち、築地に移転しましたが、これに先立って築地市場の人口に新しく架橋された橋でした。橋梁設計は東京市道路局で、築地川東支川は平成7年に埋め立てられ、橋本体は同14年に撤去されました。しかし、鋼鉄製の親柱2基と石造親柱2基はそのまま記念物として現地に保存されることになりました。鋼鉄製親柱2基は破損した部材をもと通りに修復し、塗装も創架当時の濃緑色に戻してあります。この鋼鉄製の親柱のデザインと4基の配置は、日本ではめずらしいオランダのアムステルダム派のデザインの特徴をもっており、点対称に2基ずつ配置されているめずらしい構造です。この橋の親柱は昭和初期の橋梁デザインを伝える貴重な近代土木遺産として区民有形文化財に登録されています。 中央区環境上木部 中央区教育委員会」説明板に掲載されていた在りし日の「海幸橋」。この先は「旧築地場内市場」でフエンスが設置され進入禁止となっていた。「波除稲荷神社所在地 中央区築地六丁目二十番−三七号波除稲荷神社の創建は万治元年(一六五八~一六六一)と伝えられています。築地一帯の埋立てが進められた万治年間、波浪により工事が難航を極めた際、海中に漂う稲荷明神の像を祀ったところ波浪が治まり、埋立て工事が無事完了したと言われています。「波除」という尊称はこの故事に由来するもので、江戸時代以来、航海安全や災難除け・厄除けなどの神として人々に篤く信仰されてきました。波除稲荷神社の祭りは、江戸時代から獅子祭りとして知られ、祭りの際には数多くの獅子頭が町をねり歩きました。獅子頭の多くは震災・戦災などで失われましたが、現存する嘉永元年(一八四八年)製作の獅子頭一対(中央区民文化財)は社宝として本殿に安置されています。なお、現在でも毎年六月の「つきじ獅子祭」では、「厄除け天井獅子」や「弁才天お歯黒獅子」が巡行されることがあり、獅子祭りの伝統を伝えています。また、本殿前にある天水鉢二基(中央区民文化財)は、尾張藩船からの積荷の陸揚げに従事した小揚(こあげ)たちが天保九年(一八三八年)に奉納したものです。江戸時代、旧築地市場の南半分には尾張徳川家の蔵屋敷があり、米穀や尾張の特産品などが運び込まれていました。船の無事を祈って奉納したこの天水鉢は、波除稲荷神社への信仰を伝える貴重な文化財です。 平成二十ニ年三月 中央区教育委員会」「日本橋南芝口橋迄八丁堀霊岸島築地辺絵図」(部分)。社号標石「波除神社」。多くの奉納提灯が。石鳥居とその奥に五色幕。「波除神社の由来」「波除神社の由来江戸時代の初め築地一帯は一面の海でした。江戸開府前より始まった埋立で 明暦の大火の後に4代将軍家綱公により最後の埋め立て工事が行われ その工事の中で困難を極めたのが築地海面でした。波が激しく何度堤防を築いても波にさらわれてしまうのてす。或夜の事 海面を光りを放って漂うものがあり人々は不思議に思い船を出してみるとそれは立派な稲荷大神の御神体でした。皆は畏れて早速現在の地に社殿を造りお祀りして 皆で盛大なお祭をすると 波風がピタリとおさまりエ事はやすやすと進み埋立も無事に終了致しました。萬治2年(1659年)の事です。人々は、その御神徳のあらたかさに驚き 稲荷大神に『波除』の尊称を奉り社殿に雲を従える<龍>風を従える<虎>の頭が祀られ それを見下ろす形で一声で万物を威伏させる一対の<獅子>の巨大な獅子頭が奉納され これを担いて回ったのが祭礼『つきじ獅子祭』の始まりです。それ以来今に至るまて「災難を除き、波を乗り切る」波除様として災難除・厄除・商売繁盛・工事安全等の御神徳に崇敬が厚く神社境内には日本一の大きさを誇る夫婦の獅子頭 社殿には龍虎頭とそれを見下ろす形の江戸時代より伝わる一対の獅子頭をご覧いただくことができます。」6月に行われる「つきじ獅子祭」の様子。「お歯黒獅子」。「お歯黒獅子」は雌の獅子。頭のてっぺんに飾られている宝珠の中には弁財天の像が収められており、やはり女性を象徴するような存在。高さ2.15メートル、幅2.5メートル、重量700キロ。「波除弁財天 お歯黒獅子」。口に近づいて。「雌の大獅子 お歯黒獅子芸能・習い事に福を授ける芸能の神弁財天 市杵島姫命江戸時代に東都名物とされ焼失しておりました雌の大獅子は平成14年に高さ一尺の台座を含め高さ2.2m 両耳幅2.5m 総重量700kg 総塗り一木造りで紅色の肌地にお歯黒を施し金箔押しの巻き毛で腰高の姿に再興されました。雌を表す頭の宝珠の中には古式に習い紫水晶を御神霊として抱く弁財天の御神像が また夏の大祭「つきじ獅子祭」で担きます際の見返り幕は弁財天の艶やかな立ち姿を友禅染に刺繍を施し新調されました」「弁財天 見返り幕」をネットから。石鳥居を覆うが如き「御神木 枝垂れ銀杏」。「御神木 枝垂れ銀杏」。鳥居の両側に、枝全体が垂れている御神木のイチョウが2本立っていた。イチョウに枝垂れの品種はなく変種とのこと。このイチョウは雄木なので実は生らないようだ。神社では9月9日の「重陽の節句」限定で、長寿祈願の枝垂れ銀杏のお守りが販売されているとのこと。「吉野家」碑。「奉納 吉野家」と。「ここ築地の地に、牛丼の吉野家の創業店がありました。吉野家の歴史は、かって栄えていた日本橋の魚河岸で明治三ニ年に開業したのが始まりです。屋号は、創業者・松田栄吉の出身地である大阪・吉野町より名づけられたと伝えられていますその後、関東大震災の影響により、大正一五年、魚河岸とともにこの地に移転いたしました。東京大空襲によって店舗は焼失しましたが、終戦後、すぐに屋台で営業を再開。そして昭和三四年、「築地一号店」を開店したのです。当初、具材には季節の旬な食材と豆腐なども盛り込まれていましたが、市場で働く人が牛丼を注文するのは、牛肉が食たいからなのです。ニ代目社長、松田瑞穂は、そんな想いに応えてメニューを改良。より多くの牛肉と、味わいを深めるための玉ねぎだけを使った、シンプルな牛丼を生み出しました。この牛丼は市場で大いに愛され、またたく間に各地へとひろがり、日本人のお腹を満たす国民食となっていったのです。平成ニ八年、再び市場の移転にともない「築地一号店」も移転することになりました。この地で永きにわたり多くの方々に、ご愛顧いただいてまいりました「はやい、うまい、やすい」吉野家の牛丼は、まさにこの土地で育まれた味なのです。」関東大震災後、築地に移転したばかりの「吉野家」。写真提供/吉野家。そして「厄除天井大獅子」。「厄除天井大獅子ご自由にお入りください。左回りに獅子頭を一周お周りいただけます。」知田清雲作 と。「日本一 雄の大獅子「厄除天井大獅子」高さ2.4m 幅3.3m 重さ1t昔より 龍は「雲」を従え 虎は「風」を従え 龍と虎が暴れることで波風が立ち それを一声で威伏させるのが獅子だと伝えられ 神社創建時に龍虎の頭また巨大な雄雌一対の獅子の頭カが奉納されました。築地では江戸時代よりお金に余裕がある方はお一人で お金に余裕のない方は複数人で講をつくり雄雌一対の獅子頭を持ち町中で約30対の獅子頭があり 夏のお祭りではその獅子頭が一斉に神社に集まったと伝えられており これが現在も執り行われております「つきじ獅子祭」の始まりです。残念ながら神社の雄雌の大獅子は江戸時代の火事で その他の獅子頭は関東大震災てほとんどが焼失し 唯一修理に出していた一対だけが残り中央区の文化財として現在神社本殿にお祀りをしております.現在の「厄除天井大獅子(雄の大獅子)」は平成2年に神社の御鎮座330年を記念し 樹齢約三千年の黒檜(ねず)の原木を用いて日本一の大獅子として石川県加賀鶴来の現代の名工・知田清雲氏とその工房の手により再興され伊勢神宮外宮て知られる「豊受大神」七福神で知られる「武甕槌命(毘沙門天)」「白髭大神(寿老人)」「猿田彦命(福禄寿)」「八意思兼神(布袋尊)」が祀られる御社殿を安置した獅子殿に納められましたまた古来よりこの大獅子には「願い串」の奉納という行事があります願い事を書いた「願い串」をこの大獅子の収め籠に納め念じると 願いを大獅子がのみこんて叶えてくださるとされ今も多くの方々のお参りがございますこの「願い串」は専用の箱に収められ 1年分を12月第3土曜日に執り行われる「お火焚祭」でお焚き上げされます」「厄除天井大獅子」の裏側に展示されていた。「厄除天井大獅子」の裏側から鼻の穴を見る。神棚も。「お守り ご朱印 授与所」。様々な種類のお守りが並んでいた。「御朱印のご案内」社殿を正面から。内陣。火消し「す組」の桶。「波寄神社七福殿」。「波寄神社七福殿毎月七日の七福神参りの際に御神像を安置する社殿です。その月の七福神の御神像が七日に安置されます。また七日以外では祭典の際に祓所としてもお祀りされます」「社殿を護るように築地らしい海産物をかたどった「海の七福神(粘土作家田辺ヒデキ作)が安置されております。」「玉子塚」。すし屋、料理屋で業務用の卵焼きが多く作られるので、使用した玉子への感謝を込めて玉子塚が建てられたと。末社の天祖神社。天照大神(あまてらすおおみかみ) 伊勢の神宮の御祭神(日本人の大御祖神さま)大国主命(おおくにのぬしのみこと) 大黒天様(経営・開運の守り神)少彦名命(すくなひこなのみこと) 恵比寿様(医薬・開運の守り神)天日鷲命(あめのひわしのみこと) お酉様(商売繁盛の守り神)「すし塚」。「すし塚の由来」碑。すし 日本の風土に育ち日本の誰れもがこよなく愛し 自慢している食べ物 それが すし 永い永い伝統の中にある すし しかしその歴史の蔭にいくたの魚介が 身を提してくれたであろうか 世人の味覚をたのしませ そして また わたし達のたつきの基になってくれたさかなたち それらあまた魚介の霊を慰めとわに鎮まれしと祈り 而して永遠の食物としてのすしを表徴するため ここゆかりの地にすし塚を建てたゆえんである 昭和47年(1972年)11月1日「海老の大丸の碑奉納株式会社海老の大丸東天會てんぷら料理協同組合」「海老塚」碑。「鮟鱇塚」碑。「鮮魚塚」碑。「おきつね様と称される小祠」。「昆布塚」碑。ここにも「波除神社」と。「大獅子頭新調・大神輿修理」案内板。「魚がし」碑。「魚河岸」碑。そして「築地魚河岸 海幸橋棟」を見る。中央区築地6丁目27−1。そして再び「波除神社」の入口を振り返り、「波除神社」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.09.04
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