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大学のホームカミングデイで業務のため出勤。卒業生が2名、近況(社会での活躍の様子)を講演してくれた。卒業生の活躍をこうして耳にすることができる機会というのは大変ありがたい、そして、皆の活躍はとても嬉しい。でもって英文のNMRの総説をようやく脱稿して共著者のK先生に論文を送付。途中、ネット不調で数回送りなおすことになった。それから月曜日の講義の準備。明日は早起きしてりんくう釣り護岸に、小物釣り(グレがいたらいいな)に行くのだ。
2023.10.21
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Springer社が期間限定でfree ダウンロードしている英語教科書 400選より抜粋。コンフォーカル顕微鏡のハンドブックHandbook of Biological Confocal Microscopy : written by James Pawleyヒトに限定した生化学Integrative Human Biochemistry : written by Andrea T. da Poian, Miguel A. R. B. Castanho化学熱力学 熱力学の教科書は何冊あってもよいChemical Thermodynamics : written by Ernö Keszei低分子向けX線結晶解析Structure Determination by X-ray Crystallography : written by Mark Ladd, Rex Palmer医学における機械学習の応用Machine Learning in Medicine - a Complete Overview : written by Ton J. Cleophas, Aeilko H. Zwinderman応用バイオインフォマティクスApplied Bioinformatics : written by Paul M. Selzer, Richard J. Marhöfer, Oliver Koch植物生理学の教科書 1000ページ近くある体系的な教科書 yokoちゃんむけPlant Physiology, Development and Metabolism : written by Satish C Bhatla, Manju A. Lal製薬分野におけるバイオテクノロジー 講義のネタにPharmaceutical Biotechnology : written by Daan J. A. Crommelin, Robert D. Sindelar, Bernd Meibohm元記事はこちらhttps://note.com/sangmin/n/nea8581fd10b4
2020.04.29
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前略 文科省様 そろそろ大喜利はやめていただけませんか?大喜利とは、寄席の余興として考案された演芸の形式のことである。TV番組、「笑点」の大喜利が有名である、というかpiyotaの年代では、それしか知らない。これまでの文科省の施策で、多くのもの、特に大学改革や高等教育施策に関連する施策が、この、大喜利制度の公募による競争になっているのは、どうにかならないものだろうか。最初のステップはお題の提示である。大喜利のお題の提示は、大抵は経済界からくることになっている。文科省は、もう、何か改革をしないと財務からお金を引き出せない体質になってしまった。いじめっ子の前で「何か面白い事を言え」と言われて、瞬間芸をして、おひねりをもらう。さて、どんな面白いことをいうか。あとで問題にならないようにするには、産業界、経済界からの要望の形にするのがよろしい。政権に近い財界人を、何かの審議会、研究会の委員に指名、適当な調査資料を渡して気持ちよく発言していただく。これで、そもそものアイデアの出どころは産業界からの要請ということになる。お題が公表されると、その内容は、適宜マスコミに公開される。Y新聞の社説や、N経新聞あたりが、飛ばし記事を書いて、主に産業界と与党支持者層の反応を見る。そうして出題された「お題」に対して、大学の執行部が、あるいは複数の大学連合が、分厚い申請書を作ってそれに答える。たとえば我が国の産業競争力をあげるにはどうしたらよいか?雇用を増やすにはどうしたらよいか?大学発ベンチャーを増やし成功させるためにはどうしたらよいか?よい答えをした回答者には、大喜利で配られる座布団のかわりに、助成金がやってくる。しかし結局のところ、こうした施策はどれも正解がない難問ばかりである。それも、本来ならば産業界なり、産業界を統括すべき経産省や財務省が主体的に解決しなければ解決できないような難問ばかりである。それをアカデミアに丸投げするのか?しかも根本的な原因(往々にして規制や規則や商慣習によるものが多いため小手先では解決できない)を解決しようとすると、お題を出した側にも相応の痛みを強いるようなものばかり。ブログ村で生命科学系論文紹介のブログを探してみる
2017.05.21
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京都ホテルグランヴィアでのA教授ご退官記念式典に参加しました備忘録がわりに写真を掲示しておきます。スープとデザートとソルベの写真を取り忘れました。偶然ですが共同研究者の方二名とお会いできたので、情報交換とご挨拶 ^-^なお、業界柄、製薬会社の偉い方もたくさん来ておられたようですが、休日モードということなので部局の営業をしませんでした。ブログ村で生命科学系論文紹介のブログを探してみる
2017.02.04
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とある業務へのボランティア協力本日はとある業務へのボランティア協力で、朝から雪の中を出かけて行った。写真は、ボランティア協力の職務場所のすぐそば、名古屋地方検察庁の早朝の風景である。雪である。真っ白である。おお寒い。ブログ村でセンター試験関連の話題を探してみる
2017.01.15
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名古屋市科学館今日はJが名古屋市科学館で、サイエンスクラブを受講とのこと。Nを連れて、行事が終わるまで待つことにします。いろいろな科学遊具で遊んでまわって楽しそうなN。竜巻発生装置の迫力ある写真がとれたので、載せておきます。名古屋市科学館は、とても力の入った施設で、このあたり他の自治体よりも科学技術教育に資本を投下しているなあという気がします。それがひょっとしたらものづくり集積都市を支えているのかも。なお愛知近郊の、子供むけ・一般向けの科学系イベント情報を簡単に得ようとおもったら、下記のツイッターアカウントをフォローするのが便利ですね。https://twitter.com/AichiScienceFes/http://twilog.org/AichiScienceFes/ブログ村で田舎暮らし・自然満喫のブログを探してみる
2016.06.12
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名古屋市科学館サイエンスクラブの申し込みがあったので、Jのためにならびに行きました名古屋市科学館サイエンスクラブの募集についてのオフィシャルはこちら朝8時に整理券配布、9:30受付作業開始とのことですが、現地7:30着で、すでに前に100組200人くらいは並んでいる様子。実際に受け取ることができた整理券番号は、259番(受け入れ枠320人中)でした。さすが、日本のモノづくり拠点と呼ばれている愛知県、市民の科学好き・科学教育熱心さも、他の自治体とはかなり熱の入れ方が違います。Piyotaの順番では受付作業開始は10:30でした。10:30まで、一度伏見駅近所のカフェに戻って、モーニングを食べたり文庫本を読んだりして時間をつぶします。10:00ころ、受付会場をのぞいてみると、こんな感じ。その場で希望日程(班、各班40名x8班)を確定して、年会費を支払って、会員券をもらうというしくみ。希望班が確定した時点で、動的に現状が壇上の掲示板に反映され、それを見ながら、申し込む人が、どの班にするのかをその場で微調整する、という、そういう仕組みです。全部、人力、さすが、モノづくり拠点あいちの名古屋サイエンスクラブ!でもでも、こういうマッチングをウェブ申込み、コンピュータ抽選にしない、ということに、ひょっとしたら何かの意義があるかもしれません、たとえば希望者の本気度を調べる、とか(汗)。文科省が国立大学に取り入れようとしている「人間力入試」も、座学の学力ではなく学生の「本気度」とか見たいんでしょうかね、きっと。というわけでJはぎりぎりのところで第一希望の日程には申し込めず、第二希望となりました。おまけ伏見からの帰り、栄の丸善 (丸善名古屋本店)によって、「論文を書くため」の筆記具を物色する。すると、ようやく見つけました ペンテル Preppy簡易型の万年筆です。インク色はブルーブラック、太さは0.5mmとやや太め、一本300円(楽天だと170円!)。これから論文執筆を手書きで進めるシーンでは、・インク色は青にこだわる・万年筆または究極なめらかボールペンのミツビシJetStreamを用いるにこだわっていこうと思います。プラチナ 万年筆 preppy プレピー 05中 ブルーブラック PPQ-200#3-05店内をぶらぶらしていたらマインドマップ作成作業にとっても適したノート マークスEDiT アイデアノートを発見。これはウェブの写真ですが実物をみてもとってもいい感じ、です。横長に使えるリング付きの自由帳(用紙はやや厚手)に、KJ法的な使い方をするための付箋。価格は、付箋つきで1600円くらい。横長ノートだけなら1200円くらい。http://www.edit-marks.jp/ideanote/【3,240円以上で送料無料】クリエイティブな思考を育てるアイデアノート【マークス オリジナル】アイデア用ノート・エディット・付箋セット付き/EDiTブログ村で田舎暮らし・自然満喫のブログを探してみる
2016.04.16
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備忘録・海外出張準備「英会話苦手」→無料のウェブ教材で使いやすいものはないか?海外出張準備のために、しばらく錆びついている英会話を何とかしたい、ということで、いろいろ調べていたらよいリソースを見つけたので、メモ。今年は後半に二件の海外出張が確定してしまったのだ。BBCの英語学習のためのウェブサイトである。このうちの6 minutes englishあたりをしばらく毎日聴くようにしようと思う。寝る前の10分間、英語学習にあてるのだ。http://www.bbc.co.uk/learningenglish/english/features/6-minute-englishちなみに、ここを見つけるに至ったのは、こちらの「無料英語教材(海外)リンク」からいくつかクリックして、見つけたもの。iTunesの教材などであれば更に選択肢が広がる。さらにこの親サイトは、本や動画なども含めて、世界各地の文化を無料で学ぶのに最適なサイトとなっている。ブログ村でDynabook R731/732/73シリーズの口コミ情報を探してみる
2015.05.11
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このままじゃイノベーションなんかできっこない1の続き。「委員会」と「変な人枠(仮称)」の問題点総務省のホームページを見ると、この委員会の議事録が委員提出資料とともに公開されている。せっかく、総務省的には「イノベーション=社会経済変革」と正しく問題提起して委員会を設置したにもかかわらず、それが各委員に浸透していないせいで、第一回から、富士通研究所の事例とか、パナソニック研究所の事例、とか出てくる。これらの事例は「成功例」なの?それとも失敗例なの?委員の方々は、メンツもあるので、これらを「たくさんお金をかけたけれどもイノベーションが出なかった失敗例」とはしたくないだろう。だが、世間の客観的評価ではどうなのか?そんなこんなで、膨大な回数の会議が行われ、相当な量の資料が回覧されたこの委員会であるが、途中から、「解決すべき課題=2030年ごろのわが国の重要課題」というように議題が誘導されていき、中間報告書を経て、「今後重点的に取り組むべき技術課題」というように議論が集約された。http://www.soumu.go.jp/main_content/000285974.pdfおかしいなあ、へんだなあ。初期のころの議論には、「イノベーションには多様性、流用性を念頭に進めること。」「一昨年、米国のインキュベーターを回って現場のマネージメントを見てきた。日本はこの機能が弱い。特に出口戦略は、出口をしっかり固定するというよりも技術がぶつかり合う場をどのように日本国内で作っていくのが大事なことかと思う。」など、Piyotaがdスクールやmedia lab事例から学んだことと同じような、それらの重要性を指摘する意見があった、のに(第一回資料より抜粋)。どうして途中から、「我が国の重要課題を絞り込む」というバリバリ固定化された出口指向の話になり、さらにそのことに委員が違和感を唱えない、みたいになっているのだろう。最終的に、「独創的な人向け特別枠(仮称)」の公募要領に、「ICT分野において破壊的な地球規模の価値創造を生み出すために、大いなる可能性がある奇想天外でアンビシャスな技術課題に挑戦する人を支援する」とはあるが、「我が国においては、研究開発等による成果を社会経済変革(イノベーション)につなげることが強く求められている」のくだりはなくなってしまっている。募集する人材は、技術課題に挑戦する個人(Inno)だそうだ。これは、innovation / inventionの用語を厳密に使い分けるのならば、"inventor"に該当するんだが。一体いつどの時点で議論がすり替わったのだ?それとも、イノベーション創出委員会委員はinventionについても議論していたのか?我が国の施策における問題点さて、イノベーションはわが国では言葉の定義があいまいで、その意味に対する共通の認識が確立していないので、議論に参加する委員がその場のフインキで好き放題話せる便利なワードであることがわかった。わが国の高等教育において、真の意味で、30年後、50年後に通用するようなinventionを推進するための施策が年々細ってきているのはご存知の通りである。だから我が国の科学的施策において innovation人材育成と同時並行的にinvention人材育成・inventor育成のための教育研究資金・予算を切に手厚くしてほしいのである。そのために必要な施策こそが、「本当に変な人の支援・保護活動」、「社会の雑音と雑用から隔絶された研究に集中できる環境の整備」だと思うのだが、それは、産業界と財務省からのバッシングにより骨抜きにされた。結論用語を正しく使って、その上で成功事例に学ばない限り、日本版イノベーション人材育成は大失敗に終わる可能性がある。特に、inventionとinnovationの誤用をすべきではない。なぜなら、それぞれに向いた人材の育て方が根本的に異なるからだ。おそらくinnovatorを育てる施策に、inventorの素質のある者を入れても、おそらく育たない。しかしイノベーション創出委員会はもう一つ面白いことを示してくれた。企業からの委員の多いこの委員会が委員会の名称を逸脱してまで最終的にまとめた結論が、「inventorを育成したい」というのは、これは企業に潜在的にinventor需要があることを示しているのではないか。それだったらcommunication能力皆無、納得いかなければ上司のいうことにも従わない、同僚との協調性もない、PhD所持者をもっと雇用したらいいのに。彼らは、その意味では十人が十人「変な人」なんだから。ブログ村で「変な人」事業に関するブログを探してみる
2014.06.06
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違和感まずは、この話から。そう、平成26年5月にリリースされた、総務省主導の新しい人材育成プロジェクト、「独創的な人向け特別枠(仮称)」。これは、「情報通信審議会情報通信政策部会イノベーション創出委員会中間答申(平成25年7月5日)を踏まえ、ICT分野において破壊的な地球規模の価値創造を生み出すために、大いなる可能性がある奇想天外でアンビシャスな技術課題に挑戦する人を支援するため」の事業らしい。プレスリリース資料などには、「通称:変な人」という官公庁が使うとは思えない言葉が使われていたり、笠井技術企画調整官の「スティーブ・ジョブズのようなアイデアとそれを実現していく技術力を持った人材を支援したい」という談話が流れたり、我が国にもイノベーションを起こす人材を育てたい、と思っている人たちが、ついに動き始めたのかもしれない。これは歓迎すべきことである。だがだが。この制度に関する報道やネット上の反応を見ていると、どうにも違和感があるので、今日はそれを書いてみる。それは「イノベーションとは何か」、イノベーションとは何かということを情報通信審議会情報通信政策部会イノベーション創出委員会の委員が正しく理解しているか、の二点である。イノベーションとは何かhttp://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01tsushin03_02000046.html「総務省ICT分野におけるイノベーション創出に向けた仕組みに関する提案募集」などのページ(今回の施策ならびに「委員会」に関する提案募集のページ)には、こう書かれている。「現在、我が国においては、研究開発等による成果を社会経済変革(イノベーション)につなげることが強く求められています。」つまり、すくなくともこの時点(平成25年2月、委員会立ち上げ当時)の総務省の定義では、イノベーションとは、(研究開発などによる成果に基づく)社会経済変革のことであったようだ。Piyotaが理解する限りにおいて、この定義は割と適切で、国際的にも通用する定義のように思える。しかし、ここで落とし穴が。一般的な日本人に流布しているイノベーションの用語の定義が、とくに、横着してwikipediaなどからそれを知ろうとすると、勝手に拡大解釈されてしまう危険性があるのである。日本語版wikiのトップに、さっそくまずい記述がある。イノベーション(innovation)とは、物事の「新結合」「新機軸」「新しい切り口」「新しい捉え方」「新しい活用法」(を創造する行為)のこと。一般には新しい技術の発明と誤解されているが、それだけでなく新しいアイデアから社会的意義のある新たな価値を創造し、社会的に大きな変化をもたらす自発的な人・組織・社会の幅広い変革を意味する。つまり、それまでのモノ・仕組みなどに対して全く新しい技術や考え方を取り入れて新たな価値を生み出して社会的に大きな変化を起こすことを指す。イノベーション(innovation)=物事の「新結合」「新機軸」「新しい切り口」「新しい捉え方」「新しい活用法」(を創造する行為)ここまではいい。新しいアイデアから社会的意義のある新たな価値を創造し、社会的に大きな変化をもたらす自発的な人・組織・社会の幅広い変革を意味するこれもいい。一般には新しい技術の発明と誤解されているこれもいい。問題は、おそらく、接続詞「それだけではなく」なのだと思う。ここは「そうではなく」と書くべきだ。ここに誤読可能性が生じ、あいまいさが表れる。Piyotaの理解では、「イノベーションには新技術の発明は含まれない」。だが、ここでそれだけではなく、とつなげてしまうと、後半の「新しいアイデア」以降の内容に、新技術発明も含まれてしまうように誤読されてしまう。ていうか、この項目の筆者は明らかに、前半で誤解されている、といいつつ、新技術発明プラスアルファの意味でイノベーションを使いたがっている。それはこのWikiの日本での使われ方の「しかし、イノベーションとは技術的な革新に留まらず、世の中に普及する新しい概念を全般に指す言葉である。」と書き、例に「 熱機関 ⇒ 蒸気機関車・自動車・飛行機 半導体 ⇒ コンピュータ・インターネット・携帯電話・カーナビゲーション・現金自動預け払い機 」と書き足してあることからも明らかである。これはまずいよ。イノベーションにまるわる誤解における誤解「ヘイ グループのイノベーションを起こす組織」日本人は創造性に欠ける?イノベーションにまつわる誤解 」ダイヤモンドオンライン(山口周著)の記事にすら、イノベーションという用語をわざと誤用している個所がある。そのせいで、せっかくいい指摘をしているのに、この誤解を指摘するはずが誤解を助長しているようにみえるのだ。繰り返し書くが個別の要素技術における革新はイノベーションとは別物のはずである。なお、この「イノベーション誤解」の記事、結論自体は同意できる。日本型組織(合議制)がイノベーションを殺すのだ。これについてはいずれどこかの機会で。英語版wikipediaは明快だ日本でのイノベーションという用語の用法が誤用であるという明快な証拠は、innovationを英語版wikiで引いてみればわかる。そこには、「半導体 ⇒ コンピュータ・インターネット・携帯電話・カーナビゲーション・現金自動預け払い機」のような説明はない。そのかわりに、invention↓innovation↓diffusionと書かれている。半導体とか熱機関の発明は"invention"であり、innovationのための絶対的必要条件ではあるが、innovationそのものではない。くりかえす。inventionだ。なぜこんなことにこだわるのかというと、昨年のこの時期に、L大学院申請に関わって、海外の大学院におけるイノベーション人材育成プログラムの代表的な2拠点、スタンフォード大学"d-school"とMIT media labについて、勉強会を開いてまで研究したからなのであった(ちなみにPiyotaは自腹で書籍も購入した)。メディアラボ、 Dスクールなどの例を見ても、根本原理まで遡って発明、発見、素材開発まで踏み込んだりしてるところは例外的、限定的である。産業界出身の委員たちはinnovationとinventionの違いに気が付かないのであろうか?Piyotaが常々疑問に思っているのは、実はこの点である。産業界出身の委員たちや、研究者ではない理系人の偉い人たちはinnovationとinventionの違いに気が付かないのであろうか?少なくとも、知財をちょっとでもかじったことがある人ならば、とっくに気づいているであろうはずなのに。innovationは(ビジネスモデル特許のようなものが特例的に認められない限り)知財にならない。だから、innovationの例に出される米国グローバル企業は、inventionそのものも盛んに行っていて、大量に特許出願している。それでも、その部分の特許が弱いと、簡単に中国・韓国企業にマネされて、市場を失う。AppleとSamsungのスマホをめぐる泥仕合の訴訟合戦は、現在どうなっているんだったっけ?ブログ村でイノベーション人材育成関係のブログを探してみる
2014.06.05
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統計とか有意差とか再現性とか客観性とかに毎度毎度腐心している研究者としての日々が、ある意味むなしくなってくるような、この「客観性を欠いたブログ記事」の応酬なわけです。記事1「勉強のできる」東大生が、社会に出て「成功できない」理由 --- 内藤 忍記事2「勉強ができる」と「ビジネスができる」が違う簡単な理由--- 大西 宏記事1.2とも「アゴラ 言論プラットフォーム」に掲載されたコラム(ブログからの転載)。記事中に、「勉強のできる」東大生と「勉強のできない」東大生と、「勉強のできる」他大生と「勉強のできない」他大生、それぞれの、社会にでて成功したかしていないか、の比率のデータとか、ビジネスが出来たか出来てないかとか、という客観的な資料が示されたわけではない。ただし2では、少なくとも、各大学出身の企業の社長の数を提示して、少しでも何らかの数値に基づいた議論をしようとしている。そのような状態でもっともらしい理由を述べられても、信じられないのだけれども、理系的な考えになじみのない人は、こういう文章に違和感を感じないのだろうか?ちなみに、Piyotaは、東大生か東大生じゃないかということよりも、どっぷり理系かそうでないかのほうがひょっとしたら問題化もと思っているので、わざとこういう書き方をしています。(理系教育をどっぷり受けてしまうと、科学的厳密さ・論理的思考が、社会生活に差し障るくらいまで染みついてしまうので気をつけましょう的な意味で。もちろん理系教育ではなく、文系でも一流の高等教育を受けていればそうなるかもしれないのだが)ちなみに内藤氏の「理由とは」「勉強のできる」東大生は、なぜ社会に出てその能力を成果に結び付けられないのでしょうか?その理由の1つは、「答えを求めること」です。なのだそうだ。そりゃ確かに高校卒の受験生を相手にした入試では、採点しやすいなどの都合で、正解が一つに絞りやすい試験問題を作りますけどね?東大の中で行われている教育には、ゲーム理論も最適化もあるわけで、卒業生が社会に出てまで「たった一つの答えを求める」って、、、そんなわけないじゃないですか、ねえ。その上、更に、少なくない学生が大学院に進むわけだし、4割以上は理系なわけだし。で、そういうことを、ちゃんと理詰めで反論すればいいのに、大西先生も、あえてその言説にはトドメをささずに、「別の切り口」で、東大出身の上場企業の社長の数、などを出されておられる。バッサリと止めを刺すのもなかなか難しいので、そういう言説にならざるを得なかったのだろうか・・・でもでも、内藤氏ご自身のブログの他の記事をパラパラと読んでいると、たとえばこの記事とか、ちゃんと統計値を引用して、分析するシャープな記事も書いているのにね。魔が差して、東大生を批判したくなったのだろうか?そうこうしているうちに、巷ではもっともっと大問題のマンガ(美味しんぼ問題)とそれに続く記事が、世間を賑わしていた。記事3 「美味しんぼに登場した医師が激怒!松井英介医師「鼻血等はすべて事実。抗議は被災者に失礼」」真実を探すブログこれは、記事が問題なんじゃなくて、記事に書かれている内容と、マンガ「美味しんぼ」の過激な表現と、それに抗議した自治体に対して激怒した松井医師の発現が、問題なわけです。ブログ村で田舎暮らし・自然満喫のブログを探してみる。
2014.05.14
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SkyPDF2010e-radとは府省共通研究開発管理システム(e-Rad)のことである。研究開発助成に関する申請書を電子申請するときに、大学の研究者の人が日々日々お世話になるサイトである。近年、多くの省庁の電子申請がこのサイトに一本化されてきて、どんどん便利になっている。そんなe-radから、利用者アンケートご協力お願いメールをいただいた。で、e-radのアンケートに答えるついでに、日ごろクリックしないボタンをあれこれ押してみた。なんと、e-radアカウント所持者限定で、PDF変換アプリSkyPDF (2010)がローカルで利用可能なことが判明!無料配布とは、e-rad(政府のサイトなんだけど主幹省庁はどこだろう?総合科学技術会議?)太っ腹ですね~。これは申請書作成はかどるぞ~! 附属ツールでPDFファイルの切り貼りも可能な模様。ただし、このソフトではPDFファイルの中身は編集できない。あくまでワード、パワーポイント等の出力をPDF化するためのソフトである。またこのソフトでPDFに変換したところ、左上隅余白に「e-rad PDF converter」と10ポイントくらいの文字で必ずヘッダー表示が入る。しばらく弄ってみたがこれは消せない模様。なお、このソフトの製品版最新版はSkyPDF 2012というらしい。いまなら他社製品からの乗り換えで6000円/ライセンス、のキャンペーンをやっているようです(~3/31まで)。ブログ村で蛋白質立体構造関連のブログを探してみる
2014.03.03
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最後のほうで墓穴を掘ったほんじゃ一ねの人ツイッターでRTされて以来、あまた多くの理系教育関係者・大学関係者の神経を逆なでした、炎上商法コンサルタント兼アルファブロガーの「ほんじゃ一ねの人」のブログ記事。タイトルはわざと扇情的に。だが中ほどの内容は、一見、意外と穏当なことを言っていて、多くの理系・数学系「ではない」一般人の(ブログの)読者層の賛同が得られやすい内容である。しかもこの文章、一見テキトーに見える文体で、しかし細心の注意をもって書かれている。恐るべし。だけれども、そのままひっぱってひっぱって、最後のほうの次の一文で、馬脚を表しているように思えるので指摘します。換言すれば、「全員に与えるべきは、技術者や研究者になるための専門教育ではなく、生活者として自己決定ができ、健全に安全に生きていけるようになるための科学リテラシー」だってことです。出た、リテラシー!「リテラシー」大安売りの法則ここでPiyotaが見つけた、(特に理系ではない)コンサル業の人が、理系の大学教育や大学院教育を否定したり不要だと決めつけたりする時に必ず出てくる、わざと読者の誤解を招くようなキーワードである「リテラシー」という言葉の誤用の法則について、紹介する。非理系コンサル業の人やブロガーの人はリテラシーって言葉が大好きである。しかも、その意味、重さが、文脈により、自分の主張の都合のよいように変わる。で、リテラシーを身に付けましょう、とか、リテラシーさえ身に付けていればよい、とか、さらっと書いちゃう。そしてそれがいかにも簡単そうなように読者に錯覚させるのだ。しかし、それはリテラシーという言葉を定義しないでいかにも簡単そうに使っているからに過ぎないのだ。だまされちゃだめだ。実はリテラシーがあるっていうのは、相当に教養を積んだ状態なのだということを、にもかかわらず、書き手にとっての専門外の分野については「リテラシーの大安売り」をする傾向がある、というのが、Piyotaの指摘したい「誤用の法則」である。非理系コンサルや文系ビジネスマンの人は、自分は理系は専門外だから、と安直に逃げられると思っているかもしれないが、それならばそれで、そういう人にぜひ質問したいのが、「それならば【リテラシーを持っている】と言える状態を、一般的な指標で数値化してみてください」、という質問・・・簡単な思考実験である。例「今年うちの課に入った新人には、英語のリテラシーがあるんだよ、すごいよね」というときの「英語のリテラシーがある新人」ってTOEIC何点くらいを想定しているのか?という問い。どれくらいですかね。600点ってことはないでしょう。700点?800点?ちなみに、製薬国内最大手の武田薬品工業さん、2013年4月入社の新卒採用から730点を要求するとかで話題になりました。ウェブで検索してみると、センター試験の英語が9割とれるくらいの人たちのTOEIC平均点が650点とか。なので概算で、英語については「リテラシーがある」=センター試験英語9割以上ってことです。別に通訳とか言語学者になろうとかそう人でない人で、あるいは社会人として国内勤務の人であっても、「最低限のリテラシー」といいつつセンター試験9割以上の英語力が求められていたり、する。グローバル化って怖いですな。じゃあ、英語のリテラシーと、理科や数学のリテラシーで、理科や数学はセンター試験的にもっと低レベル(3~5割)でも「リテラシーがある」って言っていいの?「生活者として自己決定ができ、健全に安全に生きていけるようになるための科学リテラシー」というのを身に付けるための理数系の能力を、もし、仮に、センター試験で計るのだとしたら、非理系コンサルや文系ブロガーの人は、何点を想定しているの?4割?5割?英語よりも低得点に設定していいって、何の根拠で決めてるのでしょう?そもそも専門家じゃない人が〇〇学における最低限のリテラシーを、一体全体何の根拠で定められるんでしょう。ということで、ほんじゃーねの人、最後に「生活者として自己決定ができ、健全に安全に生きていけるようになるための科学リテラシーを身に付ける」ってさらっと書いちゃっていますが、これって、やっぱり数学も理科も8~9割はとれているっていうレベルじゃないとリテラシーがあるって言わないと思う。で、全体を通して記事を読み直してみて、あの文脈で引っ張ってきて、最後の最後に、「下から7割の人もセンター試験で理数8~9割はとろーね」だったら、論旨としては大賛成だけれどもブログ記事としては支離滅裂だよなあ。ちなみに一番低く見積もられて侮られていて、業界の人が可哀想になってしまう誤用がコンピュータリテラシーである。リテラシーという以上、いろいろなものがそこそこ使えるのが原則なので、「一番簡単な言語でかまわないので、何か一つスクリプトが書ける」くらいはできないとコンピュータリテラシーがある、とは言わないんだよな、これが。理系の大学生でもまっとうにスクリプト言語を何か一つ学ばせようと思ったら、1単位分の講義か実習が必要というのが実感。ともあれ、ほんじゃ一ねの人も、用語を正確に使わないせいで、墓穴をほっちゃいましたね。自分のアタマで考えるのはよいことですが、それは決して、自分に都合のよいルールを考えてもいい、って意味ではないということです。ありがとうございました。ブログ村で炎上商法ブログを探してみる
2014.02.28
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ニートの子:小学校から私立→就活失敗で6000万円超 -人生後半戦の収支決算、徹底シミュレーション【5】- プレジデントオンライン(2014年2月26日10時45分)Infoseekニュース「子供ニートにしやすい親の傾向」という表題のリンクからクリックしたら釣りだった、という話でした(*´Д`)記事本文中にこんなことが書いてあります。「教育費がかさみ、慢性的に家計が逼迫している家庭は多い。しかも、“教育費に糸目はつけない”という家庭で育った子供ほど、ニートになりやすい傾向があります。」前半は、逆に言うと世帯年収以上の教育費を無理して出費している家計がある、ということなのだと思うが。昨今の少子化で、そもそも子供を持っている世帯が少ないというところまで考えると、教育費を無理しているために家計がひっ迫している家庭は、「多い」のか?多いとしたら何に比べて多いのか・・・ あまり科学的ではない記述に感じる。だがそれ以上に危険なのが後半のレトリック。「しかも」で接続して、根拠なしで「~~~傾向があります」、これはいくらなんでも、ひどすぎるでしょう。検証可能な一時データを示してほしいものです。本当にそういう統計があるならばすごいよなあ。で、そうでないならば、デマ、ないし風説の流布、です。Piyotaが常々主張していることは、ジャーナリスト、マスコミの記者・記事執筆者・編集者、それからコンサルタントの質担保。消費者保護の観点から、そういうことを主な収入源としている人たちの詐欺まがいの被害から消費者を守るためにも、国家資格を導入すべきなんじゃないか、ということである。ちなみに民間が認定している資格と国家資格は同一に論じるべきではないかもしれないなあと思う今日この頃。せっかくなので、同じレトリックを使ってみることにしますね。こんなサイトで資格取得の難易度は調べられる。なお、コンサルタント業の人は、本質的に知識・情報・ノウハウを提供することで対価を得るサービス業なわけであるので、その価値を高めてより高い対価を得るために、自分自身に何らかの権威付けを行い、かつ、既存の権威を失墜させようという行動に加担するという傾向があります。その場合、大抵は大学・大学院などの高等教育、国立大学とくに旧帝大の権威を貶めるような工作活動をすることが多いです。しかも、消費者全員が賢くなるような社会の到来を阻もうとする傾向があります。自分が失業する可能性を少しでも低めようという戦略なのではないか、と深読みすると、わかりやすくありませんか?ブログ村で田舎暮らし・自然満喫のブログを探してみる
2014.02.26
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こんなツイートがあったので。@junt_g2643 人生を省みるに、バケーションとは学部3年生あたりだよな。単位ほぼ揃って後は実習単位くらいで。そんで4年生になって研究室に配属されて、「座って講義受けて試験受ける方がなんぼか楽」って気づくんだけど。理系学生生活難易度★★★★★ 予算をとってプロジェクトを完遂する★★★★ 研究計画・実験・解釈・論文執筆を自分で全部行う★★★ 結果を自分で解釈して新しい仮説を立てる★★ いわれたとおり手を動かして実験する★ 座って講義受けて試験受けるpiyotaは昨年、某理系生命系学部三年生12名が受講する「演習」で、つぎのような論文読解をおこなった。1.論文Aを読む2. 論文Aとは異なる結論の論文Bを読む3.AとBの内容を判断してポンチ絵を1枚描く4.A/Bと更に結論が異なる論文C・Dを読む5.A-Dの論文内容をすべて統合したポンチ絵を1枚描く。その時に、原著論文を読むときにただ訳すだけじゃだめ、内容の是非も含めて自分の頭で考えて!とメッセージを発した。ところがその後、研究室配属のためにラボ訪問してきた学生と面談したときに、「piyota研はなんかとても難しそうなので敬遠されてます・・・」、と来た。みんな、自分の頭で考える習慣を身に付けようよ!【1000円以上送料無料】自分のアタマで考えよう 知識にだまされない思考の技術/ちきりん【RCP】来年度はこの本あたりから輪読するか・・・orzブログ村で蛋白質立体構造関連のブログを探してみる
2014.01.28
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はだしのゲン閲覧制限要請を撤回…松江市教委- 読売新聞(2013年8月26日21時11分)Infoseekニュース【続きはInfoseekニュースへ】「教育委員や学校現場と協議せず要請した手続きに不備があったためとした。」と記事中にあるが、別のニュースには、教育委員と相談せずに事務局が決定し閉架を各校に要請した、とあった。事務局、なのか、教育長の独断だったのか、は、教育委員会制度としては、かなり大きな問題である。しかも、一度、市議会に請願があったこと(閉架)に対して、市議会が否決していることに対して、・事務局が率先して動いたのか・教育長が支持したのかについて、報道はもっと掘り下げるべきなのではないかと思う。いずれにせよ、世論が沸騰したり、ウェブで炎上したりしてから、要請を撤回するというのは、教育機関の上部機関としてはあまりにもみっともない。教育委員会や教育長に求められる資質としてぜひ求めたいもの、それは、自分たちが教育者であるという自覚である。自分たちが教育者であるという自覚がないものが、教育者や教員組織を統率できるわけもなく。そして、教育者の重要な資質は、一貫した態度を貫くこと、である。なお松江市の教育委員会議事録が、HP上で読めるので、興味のある方のためにリンク。さて、それでは、松江市議会に対する陳情の内容については、これはこれで、別の視点から議論されるべきであろう。http://www.huffingtonpost.jp/2013/08/18/hadashinogen_n_3777636.htmlハフィントンポストの記事によれば、陳情の内容そのものは、「はだしのゲン」の著者の偏った政治的な思想や、事実誤認・歴史歪曲(と陳情者が主張)こそが問題であって、じつははだしのゲンを特徴づけている残酷な原爆被爆の表現などが問題なのではない、らしい。そしてこの陳情者の方は、ご自身のブログで、その主張を述べておられる。陳情者が問題にしているのは、「はだしのゲン」の作品の成り立ち、誤った歴史観だ、ということのようである。まあ、いろいろデリケートな話題ではある。内容が原爆というナイーブな問題を含んでいることと、「誤った歴史観」(と陳情者が主張)に関することであるとすれば、(陳情者が言及している日教組云々はおいておくとしても)、それに関する議論は、やはりとってもデリケートな議論のなるだろう。教育委員も、議事録を公開なんかされたくないに違いない。たとえば、これが「水伝」だったら、どうするのか?(小中学校の図書館に入れることに反対する陳情があったとしてもおかしくない)では、それでは「ポケットモンスター」だったらどうなるのか?(「進化」に関して、生物学的には明らかに誤った概念を日本の子供たちに蔓延させているので、一部ではかなり問題視されている)それでも、子供たちは自由に本を読む権利があり、それを侵害すべきではなく、個々の書籍の内容について、是々非々で議論を深めていくことが、よりよい教育につながる、というのが模範解答の一つなのだろうか?ブログ村で「偽科学問題」関連のブログを探してみる
2013.08.26
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MITメディアラボにイノベーション創薬を学ぼう!MITのメディアラボの未来志向の仕組みは魅力的で、・教員組織の魅力 ・運営体制の魅力 ・カリキュラムの魅力 どれをとっても(いまの)日本では真似できなさそうに感じる。でも、だから上っ面をまねることはあきらめて、その精神だけを、移入することにすると決めれば、効果の高い教育ができるような気がする。たとえば薬剤師教育から一線を画しているうちみたいな組織で、有機系・構造分析系・生命薬理系のヘテロな3系が融合しているようなところならば、MITメディアラボみたいな創薬研究ができるかもしれない。いままで、そういう方向性のブレインストーミングはしたことがなかった。必要なもの→1,多様なバックグラウンドを持つ人材 2,それらがお互いに密接に結びつくしくみ 3,短期的なノルマに追われないスケジューリング 4,新しい領域に挑戦することを評価・後押しする風土 5,活発なオープンディスカッションたとえば英国のMRCでは、毎日のティータイムの時間の活発なオープンディスカッションがサイエンスを深め・拡げる鍵である、とはよく耳にすることである。3,4,5を同時に成立させるために必要なのは、たぶん、資金である。「ひもつきではない潤沢な資金」。ちなみにMITメディアラボの運営資金はすべて企業が拠出していて、しかも金は出すが口は出さないというルールとなっているらしい。それでは出資企業のメリットは何か?実は、出資企業は、メディアラボ発の特許などのアイデアの無償利用する権利があるのだ。この「これから出す特許を利用する権利」に企業が金を払うという慣行が成立していることこそが重要。そう!、***先発明主義***、の恩恵なのだ。アイデアを出した人を重用するアメリカ文化の風土だからこそできることである。日本は知財後進国前々から思っているのだが、日本の知財制度は国際競争的にとてもまずいかんじに遅れていると思う。具体的には、グローバル化を見据えて、先発明主義ないしそれに準ずる制度に移行したほうがいいのではないか?。そして、それができないのならば、そもそも、グローバル人材育成とか言い出すことも、世界大学ランキングを羨望交じりに眺めることも、無意味だと思うのだ。もちろん、だから、知財制度・法人税制の前提を抜きにして、日本の大学の運営制度を米国と比べるべきでない。大学ランキングで理系トップを米国が占めることができるその原動力の一つは、米国の、アカデミック研究者に有利な知財制度と特許訴訟制度(サブマリン特許訴訟)にある。大学発ベンチャーに強み・うまみがあるのも、ここに起因している。日本みたいに先願主義で知財を気にしていたら、オープンな異分野融合による議論とかコラボとか、そうそうできるわけがないのだ。日本は知財後進国、そしてその知財制度は護送船団形式で昭和の企業を守るために作られた仕組みである。それでもアイデアを出すための環境は必要だ。日本みたいな知財後進国で、アイデアを出すことに血道をあげるよりも、他人のアイデアに乗っかるほうが楽、みたいな風潮が蔓延しているのは、とても嘆かわしいことだ。だが現実には、日本の製薬企業は、トップ企業であるT社をはじめとして、これまで、「世界的に確立された創薬標的を相手にした創薬」しか狙ってこなかった。つまり、ベストインクラスの薬を後発的に出す(ゾロ新という)ことは出来ても、ファーストインクラスの薬を出すということが、そもそも仕組み的に不可能だったのだ。あるいは、昨今リストラなどの動きの激しい関西の某旧M電機。旧社名は「模倣する」という日本語で揶揄されていたとかいないとか。だがそんな現実は、取りあえずおいておいて。それでも、自分たちだけでも、真摯にイノベーションしようと思ったら、じゃあどうすればいい?例えばパーティーやランチオンミーティング、があるよね。そこでの日頃とはちがったメンバーとの議論が、個々の研究者の頭脳と知性を刺激し、新しい発想につながる。それを日本の学生・大学文化に根付かせようとするのならば、施設、予算整備が必要であろう。ひも付きではない予算。クリエイターとかイノベーターとか発明家とか(あともちろん研究者とか)、常識を覆すことのできる人というのは、そもそも(社会の)常識とは相性の悪い人たちである。そういう人たちに存分に力をふるってもらえる社会・文化への意識改革。それこそがイノベーション実現、ひいては日本再興に必須なのだとおもう。ブログ村でMITメディアラボ関連のブログを探してみる
2013.07.25
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ラボの宣伝にAdwordsを活用して見た。今年度、大学院入試の宣伝戦略に失敗した。具体的にはインターネット以外のメディア(たとえば有料の学会誌など)に宣伝を打とうという提案をしたのだが、事情があって実現しなかった。ともあれ、理系の大学院の研究室運営において、宣伝は極めて重要なミッションであるということを理解している。何もしないでじり貧で手をこまねいているわけにはいかないのである。そこで、みなもすなるAdwordsといふものを、我もしてみむとてするなり。と相成った。で、5月中旬の大学院入試説明会に焦点を絞るべく4月中旬に登録、アカウント立ち上げを行い、7月第三週の願書締め切りまで、およそ14週間、Googleで誰かがとあるキーワードで検索したはずみに、うちのラボと研究科の大学院生募集の広告が出る、ということになった。さて、戦績。クリック数 表示回数 クリック率 平均 CPC 費用 317296,2150.11%¥115¥36,587このような結果になった。表示回数vsクリック数グラフを詳細に見てみると、少ない日で数百回、多い日では12,000回も広告が表示されたらしい。なんか、ちょっと嬉しい。だが、広告が表示されても、クリックされる率はわずか0.1%。このGoogle広告から、「ちぇぶら」ラボのページに飛んできた回数というのは300回とちょっと、ということである。なお、「ちぇぶら」ラボの公式ウェブページの一日当たりのユニークアクセス数は、現時点で約40件。つまり14週間での総ユニークアクセス3920回に対して、Adwordsによる宣伝効果は、およそ8%(広告からのクリック件数はすべてユニークアクセスであると仮定)ということに、なる。なお、今年度、「ちぇぶら」ラボを志望してくれている外部からの受験生が何人いるか、とか、そういう意味での更なる費用対効果については、ここで書けるわけもなく【禁則事項です】ということで、お許し願いたい。ラボの宣伝にかかった費用について、今回は(そしておそらく今後も)公費から支出するめどは全く立たないので、費用はすべてブログ主のポケットマネーである。しかしこのおかげで、Adwordsのしくみ、効果的な宣伝法、表示回数、必要な料金の見積もりなどについても、一定のノウハウが得られた。面白かったのは、どういうキーワードで検索すると表示されるのか、その指定キーワードあたりの価格が、刻々と変動すること。なので、予算を考慮しながら、そこにbidする価格を適切に挙げていかないと、表示されなくなり、広告効率が極めて落ちてしまうのである。そういったノウハウがある程度得られたのは貴重である。ただし、詳細にメモを残していないので、来年覚えているかは、自信が全くありませんが orz。また、広告からクリックされたページは、実は大学院入試説明に関する研究科公式ページのミラーページなので、クリックしても「ちぇぶら」研究室の宣伝にはなったわけではない。このあたりも、もう一枚案内ページをはさんで、クリックした人を惹きつけるような工夫は必要かもしれない。要検討事項山積み。いい勉強になりましたw。それを考えれば、この程度の出費は惜しくない?いや、当初は10,000円くらいでやめようと思っていたので、やっぱりこの額は痛い痛い。でも、途中でやめられなかった。やっぱり定員割れは避けなければならないし、他分野に比べて「構造生物学という学問」が不人気分野であるという例が、恒例化することも避けなければならないからね・・・だが、更に別の考え方もある。例えば実験医学とか日経バイオテクとかに有償で人材募集広告記事を載せると(ポスドク募集などとは異なり大学院生募集はたいがい有償である)大体30,000~50,000円だったような。それらの発行部数が多くても30,000部で(確か前に広報委員会の仕事で調べたのだが、データはすぐにはでてこないのでこの辺うろ覚え)。雑誌媒体と比較するとなると、37,000円というコストは、ある意味妥当かもしれない。少なくとも表示される効率はよいだろうなあ。ブログ村でキーワード連動型広告のブログを探してみる
2013.07.24
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備忘録 2013参議院選結果昨日、投票には行ったけれども、晩の選挙特番は全く見ずに、寝てしまった。それだけあまり関心がなかったということである。 自民 民主 維新 公明みんな生活 共産 社民 みどり諸派 無所属合計 獲得議席数 65178118081 012121 選挙区471024403001273 比例187674051 00- 48 新勢力 11559920 182113 023242 公示前勢力 848631913864437237欠5自民=自民党、民主=民主党、維新=日本維新の会、公明=公明党、みんな=みんなの党、生活=生活の党、共産=共産党、社民=社民党、みどり=みどりの風、諸派(新党大地、幸福実現党、維新政党・新風、緑の党) 前回の衆院選、今回の参院選と、ドラスティックに民主党が支持を失った。震災復興の遅延、アベノミクス経済政策との対比による経済政策の失策、福祉政策における迷走など、いろいろあるかもしれない。しかし、理系の大学教員(とそこからの間接的波及による文系の大学教員)への、最大のトラウマは蓮舫議員らによる「仕訳け」であろう。「世界一になる理由は何があるんでしょうか?2位じゃダメなんでしょうか?」発現に対し、「ノーベル賞・フィールズ賞を受賞した5人の科学者が記者会見で批判し、中でも野依良治は「全く不見識であり、将来、(蓮舫を含む仕分け人は)歴史という法廷に立つ覚悟はできているのか」と述べ[25]、利根川進も「“世界一である必要はない”と語った人( = 蓮舫)がいるが、1位を目指さなければ2位、3位にもなれない」と続き[26]、鳩山由紀夫首相(当時)に次世代スーパーコンピューターへの予算編成を行うべきだと直談判した。」(ウィキペディアより)これら一連の「仕訳け」や「公務員叩き」に関する事例は、あまりにも衝撃的であり、民主党の「市民目線タレント目線」重視・科学技術軽視・高等教育軽視の姿勢を象徴する事件として、当分の間、有権者の記憶から消えないであろう。実は、民主党が躍進したときの選挙で、既得権益構造からの脱却・55体制の改革が日本を停滞状況から救うかもしれない、と考えて、民主党を支持した層のなかに、これら大学教員や中央省庁公務員、公務員労組などの層が混じっていたかもしれないことを、ちゃんと政策に反映させられなかったとか、そんなことなんだろうか。ブログ村で「事業仕分け」関連のブログを探してみる
2013.07.22
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スキル・リテラシーvs教養・見識の対立軸ツイッター上の某氏の「この場合、科学的なプロセスを経て得られた結果を、科学的な思考プロセスのできない人が受けとったなら、疑似科学になり、科学的な思考プロセスを経て受けとったなら科学になる。また、科学的な思考プロセスのできる人が受けとって、これは科学ではない、ということなら、それは疑似科学となる。 」という発言から着想をいただいて。疑似科学問題、科学コミュニケーションを超えて、むしろ大学院における高等教育のカリキュラムポリシーにも及ぶような深い問題点と認識を新たにした。以下ツイートを選択して収載する。科学的思考プロセスができるかできないか、というのは、大きな問題だと思います。ですが、わが国では、それを思考プロセスや思考力そのものではなく、もっと過小評価・矮小化しようという運動が、意図的に政治的になされたのかもしれません。「科学リテラシー」ってやつです。 posted at 15:15:41科学的思考プロセスができる、あるいは、科学的思考プロセスというものがあるということを知っているということを、科学的リテラシーがある、というふうに矮小化すべきじゃないと思うのです。前者は、科学的教育をうけなければ多分到達できない。後者はなんとなくできそう。 posted at 15:17:33あくまで、反駁を恐れずに言うなら、後者が教養ならば前者は「知性」だと思うのです。少なくとも知性の一形態かと。なので、「知性」と「教養」すくなくともどちらかはないと、偽科学の標的になるんだと思います。 posted at 15:45:33横入り大変失礼いたしました。 posted at 15:17:56ここからが本題・・・・たぶん、皆が「ほんとうに身につけなければならないもの」は知性と教養なんだと思う。で、とくに科学に関する知性と教養は、現代社会を生きる上で必須なのである。 でもその本質は「知性と教養」であって、「スキル」ではない。なので「科学技術リテラシー」という言葉そのものが、変と思う。 posted at 16:13:25一部の学生だけかもしれないけれども、大学生や大学院生が、「知性と教養」の問題を回避して、「スキル」を身につけることばかりに熱心な様をみると、ちょっとがっくりくる。 posted at 16:14:38それでもまだ「スキル」が実技が伴うっていうイメージがあるから、まだましなんだよね。「リテラシー」を身につけたいって言う場合、本来は読み書きどっちもできなければならないはずなのに、一般的には実技なしの受け身一辺倒のイメージ。 posted at 16:26:44今後は、一連の概念の対立に対して「知性と教養vsスキルとリテラシー」論争と名付けることにしよう。前者は、ある意味、従来の伝統ある高等教育原理主義的な側面を持つ。後者は、大学改革あたりの流れをうけて出てきた最近の商業主義的高等教育、カフェテリア方式、教育バウチャー的。 posted at 18:04:47企業が(就活などを通して)バイアスをかけて誘導したのは、たぶん後者。そして、その後者で育った人材()がどうやらあまり使えないことがわかりつつある。で困り始めたので、リーマンショックあたりを契機に「グローバル人材教育」とか煽ってみたところ、文科省が動いた←いまここ posted at 18:07:04もう一つの問題は人材の評価の問題。スキルやリテラシーは、数値化しやすい側面がある。知性も教養も数値化できない。数値化して上位から採用して、でも、使える人材じゃなかった、って企業が文句いう。最初から知性と教養あふれる人を採用すればよいんだよ、 posted at 18:09:56(それは多分、スキルとかリテラシーとかは、積み上げ型学習における一次的な要素であって、それを複合的に積み上げないと知性や教養や見識にはならないからだと思う。入社1~3年目の即戦力という点では、それがまず最重要視されるのはよいだろう。しかし、企業で10年選手と呼ばれて中堅を担うためには、そしてその先の企業の運命を決めるような幹部職になるためには、それを柔軟に組み上げ組み合わせて、未曾有の危機に対応したり、イノベーションしたりする能力が必要なのだ。スキル・リテラシー重視の新卒採用者が1~3年で会社をやめる理由の一部に、そうした成長限界があるのかもしれないとちょっと思った。)リテラシーという横文字とその語感が好ましいせいで、みんな意味を深く考えないで安易に用語を使ってしまって、そのせいで、本来の教養教育が安っぽく切り売りされて、切り売りされた結果教育が成立しなくなったってことかもね。すくなくともリテラシーとコンピテンシーの誤用・混同・誤解は、深刻かもしれない。 posted at 19:51:53に加筆だがともかく、「~~を身につけよう」という~~に入るときの「カガクリテラシー」「ジョウホウリテラシー」(あえてカタカナ表記)というものの、演出されたお手軽感みたいなものに、カガク・ジョウホウに対する悪意の存在をかんぐっちゃうんだよなあ。 posted at 19:55:01リテラシーとかスキルとかを切り売りして、それ単独で成立しうるように、「消費者」を誘導する、同時に、学位の陳腐化と学位認定に裏打ちされたアカデミアというシステムそのものの陳腐化・瓦解を図る、そんな感じの悪意を感じる。教育への商業主義の蔓延の弊害である。 posted at 20:00:54を加筆別に保守でもないし既得権益を擁護したいわけではないけれども、改革という口車に乗せられて、もともとある既存のシステムのよいところまでも根こそぎ破壊するっていうのが、ここ30年間行われてきた教育改革だと思います。 posted at 20:02:13閑話休題怪しい横文字・カタカナ語撲滅運動って、教育や研究の現場を正常化させるのに、意外に効果的かもしれないぞ 教育分野での禁止語「スキル」「リテラシー」研究管理関連での禁止語「アカウンタビリティー」 posted at 21:11:54横道からもどって(とくに理系に特化した)体系的・包括的な学問の教育システム(ある種の全人教育カリキュラム、ないし全方位教育カリキュラム)を、短くとも10年スパンくらいで実施できるように大学における教育体制を(財務基盤も含めて)整えてほしい。国際的に活躍できる優れた人材を効率よく輩出するために。 posted at 22:28:22高等教育におけるカリキュラム、「~~スキル」やら「~~リテラシー」やらに細分化してカフェテリア形式で切り売りすると、教育効果が下がると思う。麻雀でいうとピンフ・タンヤオみたいな役作りでは得点に限界がある。もっと全体が混沌として、還元主義では切り分けられない役を狙うような、そういう教育が重要なのではなかろうか。 posted at 22:32:35を一部加筆ブログ村で生命科学系論文紹介のブログを探してみる
2012.10.05
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グローバル人材とは?あとあと混乱して恥をかくとこまるので、ちゃんと出典付きで整理しておくことにした。まずダイアモンドオンライン記事。画像はそこへのリンクです。グローバル人材育成なんていう与太話、どこから出てきたのか知りたかったので調べてみたのです。そしたら、記事から、こういう会議があることが判明↓グローバル人材育成推進会議の提言からの資料審議まとめ1.我が国がこれからのグローバル化した世界の経済・社会の中にあって育成・活用していくべき「グローバル人材」の概念を整理すると、概ね、以下のような要素が含まれるものと考えられる。要素1:語学力・コミュニケーション能力要素2:主体性・積極性、チャレンジ精神、協調性・柔軟性、責任感・使命感要素3:異文化に対する理解と日本人としてのアイデンティティー2.「グローバル人材」に限らずこれからの社会の中核を支える人材に共通して求められる資質としては、幅広い教養と深い専門性、課題発見・解決能力、チームワークと(異質な者の集団をまとめる)リーダーシップ、公共性・倫理観、メディア・リテラシー等このように大本の資料にあたってみると、メディアの報道などが偏っているせいで、昨今の大学等におけるグローバル人材育成の方向性の議論などが、大きく偏っていることが浮き彫りに、なった。つまり、2に書かれている、この幅広い教養と深い専門性や問題解決能力などは、「グローバル人材にかぎらず求められる資質」として、挙げられているのだが、挙げ方が悪いせいで(あるいはこのことに関する報道で正しく報道されていないせいで)、多くの議論ではすっかり忘れ去られているか矮小化されている。2に加えて1が大事、と、審議まとめでは書いてある。なのに2を無視して、1だけなんとかしようという議論が先走っているので、なんだかへんなことになっているのだなあ、ということがわかった。たとえば、東大が秋入学の議論で、1についてのみ議論するのは(東大ならば)ゆるされる。なぜなら、2についても、東大(や他の旧帝大やトップクラス私立)ならばもともときっちりこなすことが前提として自明なものとして見做せるからである。だが、それ以外の大学が、2抜きで1だけやったら、それこそ英会話教室か自己啓発セミナーになっちゃうだろうな。そして、各大学のリーディング大学院提案は、専門性教育や問題解決教育を無視して語学力・プレゼン力重視の教育になってしまっている。この件を整理している間にもう一つおもしろい資料(こっちは経産省関連)を見つけた。これは収穫かも。産学協働人財育成円卓会議(第1回)の開催についてhttp://www.meti.go.jp/policy/economy/jinzai/san_gaku_kyodo/20110727.htmlブログ村でグローバル人材関連のブログを探してみる
2012.09.11
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大学生・大学院生のみなさん。大学は主体的に学習する場、って知っていましたか?〇〇先生は板書が下手とか、凸川先生は講義とシラバスの内容が違いすぎるとか、いろいろ不満はあるかもしれません。でもね、そもそも、大学は主体的に学習する場なんです。知ってました?大事なことだから二回言いました!アゴラ記事「大学は主体的に学習する場」(辻元 著)大学は主体的に学習する場 http://agora-web.jp/archives/1464310.htmlこのブログ記事の意見にまさしく同感である。実際に、今年度から東海地域理系学生の中では医学系を除いてトップクラスであるはずの理系の学生二年生に、「物理化学」を講義しているわけだが。いくら読んでも理解できない基礎向けの教科書っていうのがいくらでもあるので、大学の講義は重要と思う。あと、「試験をする」「単位がもらえない」「追試・再試」「徹夜で勉強」の儀式にも学習効果があると思います。日本の大学教育をdisるいくつかの批判ブログでは、「意識の高い学生は勝手に教科書を読んで理解するので、講義は不必要」※という意見があるのだが、それは学問をなめていると思うのだ。定期的に試験をして、理解度を強制的にチェックされるというのも、「意識のあまり高くない学生」に知識を叩き込むのにはかなり有効らしい。そして、そうして学んだことが、卒業後実社会で役に立たない、という批判は、一般化すべきではない。100人受講者がいて、そのうち1人がどこかでそれを役に立てればいい、学問というのはそういうものだからである。むしろ、ひょっとしたらいつか役に立つかもしれないし、立たないかもしれないが、そのわずかな可能性のためにも、禁欲的に自分をトレーニングすること、が、知性を開花させるための必須条件なんだと思う。ところで、※みたいな意見を言っている人の経歴をみたら、なんちゃらコンサル業の人だった。日本のビジネスマンが、みな大学時代に勤勉に勉学を重ね知性教養を磨き、ビジネス以外にもそれぞれ独自の専門分野を持ち、専門分野以外のことにもそれなりの教養をもつようになったら・・・?「コンサルタント業」の人たちはさぞかし商売しにくくなるだろうなあ・・・・と想像した。つまり、コンサル業の人は、大学をdisることがそのまま自分の職業の将来的な擁護につながるわけで、そういうのは、正統な批判というのではなく、ポジショントークっていうんじゃなかったっけ。なので国公立大学が、安くて質の高い教育サービスを提供して、専門分野に強みを持つだけでなく教養もありリベラルアーツにも強い人材が増えるのを、断固阻止しようと考えるんだろうなあ。でも、そういうポジショントークにひっかかる人が多いのも事実なのです・・・。だから、そういう卑賤なレトリックに簡単にひっかかって間抜けをさらさないようにするためにも、大学を上手に利用して「主体的に学習」してほしいものです。ほとんどの知性至上主義的な大学教員は、そういう主体的な学生に機会と手段の提供を惜しみませんから。ブログ村でコンサルタント業の利益誘導的なブログを探してみる
2012.06.20
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はじめ「えっ!?」うそでしょあれ大間違いでしょなにねぼけてんの?っておもったけれども、熟読してみてなるほどと思った良記事がこちら。「ゆとり教育は間違いではなかった」赤沢 良太http://agora-web.jp/archives/1464922.html 問題はゆとり教育ではなくて「新学力観」だった、という指摘。これはすばらしい指摘だ。新学力観とは・・・1989年改訂の学習指導要領で採用された新しい学力観であり、従来のように知識や技能を子どもたちにひとしく身につけさせるのではなく、子どもたち自らがものをかんがえ、社会の変化に対応できる能力の育成を、目指すという考え方である。「真っ白なところから解き方を考えさせる」のを目指す。しかし赤沢氏は指摘する。「九九を発見することに血道をあげ、九九の習熟は「つめこみ(=旧学力観)だからだめ」とした価値観、こそが、ゆとり教育の教育現場をゆがめ、いわゆるゆとり世代の学力低下を招いた諸悪なのだ、と。この指摘、実に納得がいく。そして、そのうえでさらに恐ろしく悲惨な予測も。「ゆとり教育」は転換された。問題は、教育委員会や現場の教師が「ゆとり教育」だけでなく、「新学力観」も捨て去られたと認識していないことだ。分厚くなってしまった教科書を、「新学力観」で指導すれば、どういった結果を招くかは、ここまで読まれた方々にはおわかりになるのではないだろうか。「教科書が厚すぎて終わらない」消化不良になるのは目に見えている。うげげげげげ。ブログ村で蛋白質立体構造関連のブログを探してみる
2012.06.18
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この「生物物理学」の教科書はすげーや。月曜日の講義で、一般的学問である物理化学(含む生物物理学)を創薬のための基礎的な実験のために、別の切り口から講義しようと考え、「タンパク質・低分子相互作用をどうやって計測するか」を体系的にまとめようと思い立った。(余談だが、23日にオーガナイザの片割れを担っている蛋白質科学会での本部企画ワークショップも、それに関連する内容である)。今回あらためて講義資料の準備をはじめてみて、piyota0が話したい、伝えたいと思っていることを、一冊にまとめた成書はなさそうだ、ということを感触を得た。なので、今年度は、明日を皮切りに都合7回くらい行う講義の、パワポ作成だけで精一杯であるが、来年度もその次も続く(しかも改善する)ことも考えると、どこかでまじめに教科書執筆も視野にいれなければならないかな、と。ところが。せっかく、野望を持ちやる気スイッチが入ったところで、急速冷却!もしやと思って検索していたら、piyota0が教科書を書く必要がなくなってしまった!!と消沈してしまうくらいの、名コンテンツ(PDFファイル)をネット上にて発見してしまったのである。http://theory.biophys.kyoto-u.ac.jp/~takada/MBP10.pdf さすが、脱帽、京大の高田彰二先生、バイオインフォマティクスの俊英。しかも無料。めっさ悔しい(笑) 才能のある人っていうのは、どこにでもいるものだなあ・・・っていうか、高田先生とpiyotaなんかじゃ比較しようとおもうことすらおこがましいなあ。でもでも、落ち込んでいてもしょうがないので、ありがたく講義資料に使わせていただきます。いやあ、それにしても、この教科書は、すげーや。ブログ村で生物物理学の教科書のブログを探してみる
2012.06.17
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【その研究何に役に立つの?】基礎研究の研究者にはいつも頭の痛いこの質問。正月に帰省したときに、親戚とあった理系大学院生が、「へ~研究しているんだ、すごいね~でも・・・」と、前振りされた上で、この質問に会い、再起不能に陥るのが、恒例となっているのである。さて、Piyotaは、神奈川県内の大学に勤務していたときは、この質問には「どうやら千葉県がすごい研究をしているらしいので、それに勝つためにもっとすごい研究をする必要があるのです」と答えることにしてました。と、さすがは神奈川県民、とくにその中でもお洒落感覚が抜きん出ている横浜市民。周囲は割りとみな好意的でした。神奈川vs千葉、首都を挟んだ攻防は根深かいです。だが横浜市民としては、千葉とか柏とかに馬鹿にされるわけにはいかないのです。~応用編~この質問にまともに答えないようにするために、埼玉の研究者は「神奈川と千葉ですごい研究しているみたいなので、それに勝つためにもっとすごい研究をする」 栃木の研究者は「群馬では超画期的なプロジェクトがはじまりそうなので(以下略)」 ・・・これならいくらでも応用が効きます。ともあれ、ともかく、この手の質問はまともに答えたら負けなのです。この手の質問は、質問者が「納得がいくまで理解させてもらえる」ことを前提に質問してきます。質問者に素養がなくて、理解可能な答えがもらえなかったときには、キレます。時には、ヒステリーとか神経症とか、ともかく正常域を超えちゃっているような反応を示す人もいるかもしれません。世間って広いなあ。で、ともあれ、なんでこんな風潮が野放しになっているのか、というと心当たりがひとつ。「説明責任」ということばに関してです。もともとは、税金などを使う立場の人々の「アカウンタビリティー」を暫定的に、かつ不用意に、説明責任と訳したのがこの茶番の始まりだと思うのです。それがために、不要なことまでクソ丁寧に説明文書を書く業務が、役所や大学教員に増えたんじゃないか、と思います。実際、ここ10年で科研費などの基礎科学に支出される予算は増えているにもかかわらず、日本の科学論文のアウトプットは減っているそうです。それはなぜか?大学に限って言えば、研究に費やすべき時間を、この手の雑用がうばっているからではないか、と。そこで、なんとかこの状況を打破できないかとお悩みの皆様に。今日からアカウンタビリティーの日本語訳を 「説明責任」ではなく、【垢可性】 とすることにしました。これで素人相手の説明業務から解放! どうでしょう!?本日の読書備忘録【ラノベ】海馬亭通信 ポプラ文庫ピュアフル Pむ-1-5 村山 早紀 読了 最近、村山早紀先生作品にハマってます。ラノベよりも少女小説に近い童話ってかんじ、すなおでふんわりしている感じが好き。ブログ村で村山早紀先生を応援するブログを探してみる
2012.01.18
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まちぼうけいろいろ苦労して時間をつくって、今日は神戸勤務の日という風にしたのだが、なんということか、いつまで待っても学生が、来ない。メールを確認したところ、一方的に日程変更のメールが入っていたので、ちょっとキレた。ブログ村で蛋白質立体構造関連のブログを探してみる
2011.11.04
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レポート代筆サイトの危険性(1)どこがどう危険なのか?なにがどう悪いのか?これにコンテンツを提供している人達はきっと悪意なんかないんだろうなあ、これを利用している学生も、自分のお金をどう使おうとも問題なんか起こらないと信じているんだろうなあ、などと想像すると暗鬱になるビジネス。http://www.happycampus.co.jp/昨今、ウェブ上の文書(ふくむWikipedia)のコピペによるレポート作成が問題視されており、全文検索による不正防止を大学学務が積極的に導入するなどの例も増えてきているという。早稲田大学メディアネットセンターの告示文「レポートにおける剽窃(盗用)行為について」が、この問題について、かなりしっかりと記述し、学生の行動に対する厳しい罰則などをうたっています。一方こちらは慶応大学図書館 KITIEの情報の使い方ガイドラインの一部。他人が書いた論文・レポートを自分のものとして投稿・提出するのはいけないことだ、とちゃんと書いてある。happycampus.co.jpの利用は、まさにこれにあたる。というわけで、論文の剽窃、不適切引用などは、単に著作権の問題のみならず、研究者のコンプライアンス問題や各大学が規定する学術憲章・科学倫理憲章に関わる問題などにも密接に関連する、重要な問題であるということが、わかる。つまり、ちょっと気軽に利用するというその「気軽さ」自身が、「コンプライアンス問題・科学倫理問題に関わる不見識」として厳しく罰せられてしまうのである。調べたところによると、京都大学では、試験におけるカンニングと同等に扱われて、場合によってはその年次の単位すべてを失うとかなんとか。500円程度の有料コンテンツが、高くつくのである。さてさて、ではこれにコンテンツを提供する行為のほうは何らかの方法で制限・規制できないのだろうか?・・・・追伸:このhappycampus、最初に事業化されたのはどうやら中国、で、つぎに韓国、で最後に日本らしい。この中国→韓国→日本 というならび、なんか象徴的である。漢字伝来とか仏教伝来とか、そういう意味でなく。ブログ村でhappycampus関連のブログを探してみる
2011.10.12
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急に名古屋で会議に呼ばれたので、懸案の宿題に関する作文を昨晩から大急ぎで行う・・・ふう疲れた。1.大学院入試説明会に関して2.アドミッションポリシー素案3.カリキュラムポリシー素案・ディプロマポリシー素案この3は昨年より学校教育法か文部科学省の方針かどちらかがかわり、そのため明文化しなければならなくなったものらしい。とりあえず、2の作文は待ったなしであった。アドミッションポリシーの役割アドミッションポリシーという文章、どの大学・大学院のウェブページやパンフレットにも書かれている。おそらく受験生はほとんど読まない。構成員・教員もあまり真面目に読んでいない。だが、文章を作る際は、行間まで含めて、結構真剣に作られることが多い。というのは、基本的に、大学という組織が、極めて自立性の高い「研究室」「講座」という組織の寄せ集めに過ぎず、にもかかわらず、学部学科、研究科単位で、教育研究の質について一定の水準を担保する社会的義務を負っているという、二律背反的な側面があるからである。そのために、「研究科の理念」みたいな文章でもって集団全体の目標に対してはある程度の意思統一、価値観の共有をしなければならない。一方、入学してくる学生のカラーについてある程度は制限を設けなければ、理念に(あるいは高い理想に)沿った教育はなしえない。ましてや、入試問題を作るための難易度を設定することもできなければ、面接試験におけるポイントを設定することもできない。そういった核になる文章が、アドミッションポリシーである。そんなわけでPiyotaたちは来年度4月から有効となる(実際には来年1月に実施される)入学試験のためのアドミッションポリシーを作文している。ちなみに、Piyotaが先日まで所属していた大学院のアドミッションポリシーは△△専攻は、国際的医療産業都市を志向する[地名]に立地する大学院修士課程として、生命科学と医学の国際的・先端的な研究・教育の拠点となる事を目指しています。そのために、意欲と協調性を有する次のような学生を求めています。 1) 国際的に活躍する生命科学・医学研究者を目指す学生2) 他分野の専門知識を生命科学・医学領域に応用・発展させたい学生3) 先端的な生命科学・医学的知識及び技術を学びたい学生4) バイオ・医学・医療等の関連産業において活躍したい学生である。※Piyotaが現在所属している大学院のアドミッションポリシーは、・××専攻では、生命現象の不思議さや美しさ、巧みさに,飽くことのない興味と関心を持つ人を求めます。また、真理の解明に挑むために、チャレンジ精神に満ちあふれ、瑞々しい創造力をもつ人を求めます。・博士課程前期課程(修士課程)では生命科学の最前線を理解し、同時に、専門分野の研究を行うために必要な知識と技術を習得します。また、論理的思考力、創造力を養い、主体的な研究姿勢を身につけることを目指します。さらに、博士課程後期課程(博士課程)では独自に研究を立案、遂行する能力を身につけることを目指します。・生命科学の研究発展を担うことにより社会に貢献できる研究者を育成します。また一方、社会の中のさまざまな分野において、科学的素養を生かして指導的役割を果たす人材の育成も行います。である。§どのアドミッションポロシーにも一長一短があるのだが、いざ改訂しようとしても数回の委員会と数回の教授会を経なければ決裁できない、厄介な代物である。改訂されるまでは、学生は、この文言に従っていれば、最低限大学側から文句は言われないはず、という文書にも拘わらず。学生さんはアドミッションポリシーを悪用(?)することができる例えば、※のアドミッションポリシーには、「産業において活躍したい学生」という文言が入っている。これは、読みようによっては、大学院当局から学生に対する「就職活動許可」のお墨付きである(常識的には、そう読み取ったとしても、文句がつけられない)。昨今、大学院の修士課程における就職活動は、平均7ヶ月、最長12ヶ月かかるので、それを「学生の当然の権利」ととられて、フルに実施されてしまうと、2年間のカリキュラムが3~5割減となり、それは大学院教育の「質の担保」と矛盾してしまう懸念がある。Piyotaは、関連の委員会で、アドミッションポリシーからこの文言をできれば削ることを主張・画策したが、削除は適わず、ようやく記載の優先順位を四番目まで下げることとなった。この場合、たとえば面接入試の採点基準として、「博士課程進学を志望する学生」>「修士課程で就職を希望する学生」といった採点が可能となると同時に、そういう採点がありうることを学生に告知することにもつながる。ただし、この程度のことはあまり抑止力にはならないであろう。虚偽の申告をしても、大学側に強制力はないからである。結果、M2の年度末に、就職活動に明け暮れて、「コミュニケーション能力(笑)」に磨きのかかったかわりに、専門的知識としては4回生に毛の生えた程度の修士学生が、社会に送り出されることになるのかもしれない。さて、§のほうの文章は、後半(これは大学院募集要項には載らないがウェブページに載っている)の「指導的役割をになう人材」とはっきり入れているところが、ちょっと、イイ。つまり「平社員」になりたいと最初から思っている学生さんは、他所に行ってくれ、大学院には来ないでくれ、という意味が込められている。これなら、平日日中から大学に来ない学生に、「キミ、なんでここにいるの?」と暗に問うことができる(言葉にして問うとアカデミックハラスメントになるかもしれないので、ビミョウであるが)。ともあれ、大学院教育の質の担保は、「平日日中をさぼりまくっても単位不足で卒業できない」という制度になっていない現行の大学院修士教育課程制度と、それを悪用している確信犯の企業人事が横行している状況では、とっても難しいということである。それをなんとかしたいという思いを、アドミッションポリシーのほんの数行の文章にこめようと、いろいろな教員が、研究教育の時間を割いて、苦労しているというのが、日本の大学院の現状である。ブログ村で大学院のアドミッションポリシー関連のブログを探してみる
2011.10.05
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リクルート、今年度から「就職人気企業ランキング」の公表取りやめ?こんな記事が。リクルート「就職人気企業ランキング」の公表取りやめを歓迎するhttp://bizmakoto.jp/makoto/articles/1104/15/news009.html元記事については、以下日経新聞より引用、太字piyota注 リクルートは13日、毎年春に発表していた大学生の就職志望企業ランキングの公表を今年から取りやめる方針を明らかにした。同ランキングは1965年卒業予定分から発表していたが、2012年春卒業予定分から非公表にする。大学全入時代を迎えたほか、学生の価値観の多様化で一律のランキングを発表する意味が薄れたと判断した。同社によると学生の志望企業は性別や文系・理系、総合職・一般職などの属性で大きな差が出ており、総合的なランキングの発表は学生の誤解を招く懸念が高まっているとみている。同ランキングは不況期には鉄道会社の人気が高まるなど、時代や経済情勢に応じた学生の志向を反映してきた。上記、Biz誠の川口雅裕氏の記事は、この発表に会社の序列化やブランド化などの弊害がすでに起こっており多くの学生は誤解している、と断じ、発表を歓迎している。しかしいずれにせよ、毎日コミュニケーションズ・エンジャパン・リクナビ・日経就活ナビなどの「就活情報支援」というビジネスモデルは、ビジネスモデルそのものとして、学生、求人企業、大学の直接顧客・関節顧客の3者いずれからも批判を受け、いずれの顧客の満足度も低下しつつある、「一人勝ち」システムとなっていきづまりつつあることは間違いない。顧客の不満足度の「ありそうな例」をあげてみよう。・求人企業(人気企業) システムを導入することで、質の低い人材も玉石混交状態となり、採用活動のコスト削減になっていないばかりか、面接の手間が増え、かつ、よい人材の採用につながらない・求人企業(不人気企業) ランキングで低位になってしまい、システムを導入してもよい人材が集まらない・求人企業(全般) 結果的に就職活動が長期化し、本来の学業を修めないまま、「就活マニュアル」を鵜呑みにして応募してくる学生が増え、そのせいもありよい人材の採用につながらない・求人企業(全般) インターネット就活の普及により、本当にその会社・職業に熱心ではないが、面接などをうまく切り抜けた、「社風にあわない学生」を採用してしまう事故が多発。それは早期での離職率上昇にもつながる・学生 多くの企業にエントリーするため、結局消耗し、本来勉学社会勉強などにあてる時間が削られる・学生 多くの学生が特定の企業に集中してエントリーするため、みかけの倍率があがり、無駄な就活をさせられる・学生 企業の採用基準が不透明・大学 多くの学生が無駄な就活に奔走することになり、本来、学業研究などに専念すべき時間が削られるだが、では現在のようなインターネット就活が一般的な時代ではなかった80-90年代、企業研究に「電話帳のような」就活情報誌が宅配で届けられていた時代は、どうだったのだろうか。当時、一部の企業・一部の学生・一部の大学を満足させる、別の就活ルートが、もっと一般的であった。それは、企業と大学の研究室や特定のゼミとの結びつきを意識した、OB訪問のシステムであり、学校推薦・教授推薦のシステムであった。後者は、一部の学校推薦枠(研究科推薦枠)などは現在でも機能しているようだ。学校推薦、教授推薦は透明性と公平性に欠けるきらいがあるので、全体的にはそれを回避するように動いてきたとも言える。バブル崩壊後、雇用制度が大きく変化しつつある現在において、特に学部学生中心の新卒一斉採用の慣行を前提としたインターネット就活のビジネスモデルが、変貌しつつあることは間違いない。しかし、それでは現行のシステムを上回るような画期的な仕組みが考案できるのか、そしてそれが企業・学生・大学の三者にとってよりよい仕組みになるのかというと、Piyotaに特効薬の案は浮かばない。ただ、「企業」に送り込んだ「新卒学生」がさっさと離職すればするほど、その「企業」は穴埋めをするために次年度の採用を増やすわけだし、離職した学生は「転職支援サイト」の顧客となる。これは、マッチポンプである。なので、特効薬の案は浮かばない代わりに、極めて日本的な次善の案を提案したい。つまり、法による規制である。 雇用に関する重大な問題なので、本来ならば厚生労働省が主導すべきであるが、労働派遣法改正においてもその他労働者の権利の問題においても、これまでに厚生労働省が労働者の側にたった施策を主導して成功に導けた例は少ない(ような気がする)。個人的には、文部科学省の、特に高等教育局や大学改革関連のセクションに期待したい(なんとなく優秀な人材がそろっているような気がする、嘘かもしれないがここは純粋な期待)。高等教育の健全化は我が国が震災後に立ち直るために喫緊の課題であることを大義名分として、就活ビジネスに対して法規制の網をかけるのである。 え、なになに?「小さい政府」「市場主義」「規制緩和の流れ」に反しているって?自由市場にまかせた結果、日本の経済状態そのもの(日本の企業の国際競争力など)を根こそぎ破壊するような、悪循環がおこっているんじゃありませんか。市場が状況を打開できないのであれば、法規制も仕方ないと思います・・・・はい。ブログ村で就職活動のブログを探してみる
2011.04.15
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修士論文発表会本日は修士論文発表会、である。Piyotaラボの大学院生△△さんの堂々とした発表、おそらく内容が濃すぎて、専門外の人達にはそれがどれほど大変なことなのかもぴんと来なかったに違いない。内容はすばらしいものである。2つ難がある。1つは、追い込みでの研究の進展が速すぎて、せっかく立体構造(新規、高分解能)がとけたというのに、それを議論するだけのヒマがなかったこと。もう一つは、まったくの分野外の先生からの質疑応答で、アガってしまったこと。ともあれ、まあ大した瑕疵ではない。さて、どこのラボの学生さんも、発表はそれなりにきちんとこなせていたようである。うちの大学院の修士課程は、・修士論文の提出は修論発表会のほぼ一月前・修士論文のページ数の上限が定まっていて、それが異様に短い・発表会は7分4分。・審査は、主指導教員以外の、修士課程教学委員3名からなるピアレビュー形式・合否判定のみがなされるというタフなものである。専門外の教員に、「まじめにやっていた」だけではなく「オリジナルな成果が出た」ことをアピールしてわかってもらわなければならない。それは相当にきついことである。ただし、発表時間が短く、構造生物学に特化しているせいで学生一人=1独立テーマのPiyotaラボのようなところはまれで、ほとんどの研究室は研究領域を絞りこみつつチーム制をとっている。そこで、プレゼンをうまくされると、ラボの同僚・先輩の既存データと、学生本人の成し遂げた成果とを、区別して見分けて、正当に評価することは困難である。なので、そこで、ひょっとしたら不公平は生じるかもしれない。それについては要改善である。だが、ともかく、頑張ってきつい評価を受けて卒業する立派な学生も、何割かは(大多数と信じたい)確かにいるのだ。うちの大学院の卒業生を採用してくださる企業の採用担当者の皆様におかれましては、ブランドとか偏差値とかで判断せず、もちろんエントリーシートとか圧迫面接の成績とかでも判断せず、修士課程でどんな教育を受けてきて、それをいかに血肉に転化してこれたのか、そういう本質を是非みきわめていただきたい、です。 カリキュラムが「きつい」ことを誇れる大学院にしたい・・・結局それが大学院と卒業生の、両方のためになるのだから。ブログ村で蛋白質立体構造関連のブログを探してみる
2011.02.22
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【ネタ】無償化で高校教育は本当に再生するのか?@DrSnakemer氏 >顧客って考えた結果が大学の教育ががたついてる原因だったりするもんな・・@Piyota0 >授業料無料化で学生が顧客じゃなくなるから、高校教育はこれから教える側がやり放題ですよwww@DrSnakemer氏 >「ここは義務教育じゃねえんだ、教育を受ける権利を確保したいなら必死で学べ、ゴラァッ!!」。@Piyota0 >高校教師「我々のスポンサーは国(国民の税金)なので、我々は諸君を国のために役立つ人材に育て上げるミッションがあるのだ!」@Piyota0 >高校教師「国のために役立つ人材になりたくない奴はいますぐこの学び舎弟から去るがよい~~っ」どこの国民学校だろう、これ。 ↑よくよんでみると意味不明ですね。wwwともかく、授業料無償化で顧客とサーバントという関係性が、もともとの「教師」と「生徒」という正しい関係性に戻ることを強く望みます。【ちょっとまじめ】就職活動と大学院教育と労働市場に思うこと海外の理系大学院では多くは大学院生に給与が支給されている。リーディング大学院プログラムでは、はじめて国の助成金から修士学生にTA/RA経費が支給できるようになるようである。さて、一部の企業では、4卒の給与を修士卒と同額に引き上げるという、大学院教育のメリットを全否定するような給与体系に移行したところも出てきたと報じられている。だが、そもそも、多くの就活生に誤解があるのは、企業が採用したいと思っているのは実は二種類の人材なんだけれども、入口は見掛け上は一つの就職サイトである、ということなのである。つまり「一般従業員」と「幹部候補生」である。軍隊には一兵卒と士官候補生、官僚組織などでは、キャリアとノンキャリアが厳然として存在していて、入口もちがう。しかし、企業は、体面もあるし、組合対策も必要だし、中で働いている多くの社員の人達のモチベーション維持もしなければならないので、「枠はひとつ」「待遇は昇進も含めて平等な能力主値」としたいらしい。そういう、無理して単一化された「就職活動の入口」という暗黙のルールのもと、実際には企業は優秀な人材を求めている。そんなわけで、企業の本音とは乖離したルール・協定のもと、企業間の「青田買い」競争が行き過ぎているのが現状であろう。言い替えれば、青田どころか「先物取り引き」になってしまって、(労働)市場全体が信頼を失ってしまった、といいかえることもできる。青田買いならばまだ手をだしてもいいが、先物取引はリスクが高すぎる。そもそも就活時の学生の「卒業見込み」はまったくの空手形なわけであるし、それを自覚して就活に応じるというのでは、売るほうも買うほうもモラルハザードな労働市場といえる。それが辛うじて機能するのはだが、「大学」=「シグナル」仮説の成立が前提である。でもそれが成立するのは、ごく一部のトップランクの下~トップ大学の中ランクだけで、超トップも中堅以下もシグナルとしては機能しないはずだ。超トップ大学の合格者には、いわゆる「受験バカ」が一定数混じるリスクが高くなりすぎる。一方、ある程度より下の偏差値の大学では、一夜漬けはむりでも一週間漬けの有無で合格・不合格が左右されてしまうので、シグナル仮説はなりたたない。そういう状況で青田買いの採用をされても、大学も、自分のブランドに責任を持ち得ない。だから、そういうランクのところ以外では、大学で行われるちゃんとした教育にもっと期待してもらいたいものである。ま、企業も大学も受験産業も、みんな共犯、どこが一方的に悪いというわけではないのだということかもしれない。【ネタ】わんちゃんマスクが、なぜアヒル・鴨たちのあいだでここまで人気なのかはとっても謎である。http://27.media.tumblr.com/tumblr_li17e5oXv01qzh6r6o1_500.jpgブログ村で田舎暮らし・自然満喫のブログを探してみる
2011.02.20
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受験生の方必見!AO入試きょうはうちのところの入試でした。朝早くから駆り出されました。このblogをずっと読んでいる人はひょっとしたら気づいているかもしれませんが、Piyotaは構造生物学という、大学院のごく一部でしか教えないマニアックな学問の、おもに研究がメインの、教員です。学部生の講義もわずかに分担していますが、医療従事者育成という、教員の教育業務に付いて、それを主たる職務にしている専門家でもなければ、受験の採用担当の専門家でもありません。いままでいろいろなところで、入試には陰に陽にかかわり、面接もしたこともあれば、試験問題を作成したこともあります。そんなわけで、今回も、学務から駆り出されたときに、断る理由はありませんでした。だからといって、積極的・主体的に参加したわけではありません。いやいややっているわけではなく、それなりにこの仕事に意義と面白さを見出していて、Piyota個人としては有意義に時間を過ごしていますが、だからといって、主体的にビジョンを持っているわけではありません。この主体的ビジョンの意味を、あとで説明します。主体的ビジョンをもって参加していないからといって、そのことでPiyotaの職業倫理が乏しいとか、そういうことを責めないで欲しいと思います。こと、教育に関して、そこに参加する成員たる教員が、自分のできる最大限でもってかかわって進める。ですが、同時に、専門でない場合には、口をさしはさむのを控える態度も重要だと思っているのです。日本の教育が迷走しているのは、たとえば数学教育の専門家でない人が、円周率や二次方程式の解の公式について頓珍漢な介入を行って、結果、いろいろとひどいことが起きたことを、Piyotaは重く受け止めています。Piyota以外の多くの教員が、本日のこのイベントに参加していますが、それらの教員の大半はPiyotaと同じように善意のサイレントマジョリティーであって、それぞれベストは尽くすが、オピニオンリーダーとして主体的に組織の責任を担うような行動をとるだけの、職責についていない、または、それだけの能力がない(と自分で思っている)、そういう人達です。Faculty Developmentの重要性とアドミッションポリシーさて、一見つまらないことを長々と書いてきましたが、これはAO入試の話です。AO入試がどう行われるか、の話です。AO入試を誰がどう行っているのか、の話が、この話のメインになります。それは受験生や受験生の親御さんや受験産業の人にとって有益な情報かもしれないしそうでないかもしれないけれども、ともかくそういう話です。さて、大学法人なんですから、入学した人に対してよりよい教育効果が入学後に得られるよう、本来ならば学力(のみ)で合否判定をすべきにもかかわらず、そうしないのはなぜか、という問題です。それは、学力テストで計れる能力と、大学が学生に求めている能力が、ちがうから、です。アドミッションポリシーと受験制度さて、AO入試というのは、上にもちょっとかいたけれども、「学力テストだけでははかれない」でも「大学の求めている学生」を採用するための制度です。でも、どういう学生が、自分の大学の自分の学部にとって都合のいい学生か、なんか、面接官の個人の先生にわかるわけありません、ということが第一点。かりに、ある先生が、「こういう学生こそわが凸凹学部にふさわしい」と言い出したとしても、それが、全教員の合意を得られるかというと、そうはならない可能性が高いことが、第二点。従って、面接官のあたりかたによって受験生に不公平が生じないようにするためにも、採用するための面接のポイントともいうべき基準を、受験ごとにつくります。そしてその基準をつくるための、おおもとになっている考え方を公表します。そうです、それがこのアドミッションポリシーです。だから、AO入試で合格しようと思ったら、受験生に公開されているアドミッションポリシーの行間を読み取ること、それが一番大事なのです。試験担当の委員の先生からしますと、このアドミッションポリシー、変えたくてもそう簡単に変えられるものではありません。文章をいじるだけでも会議を数回通さないといけません。どこの大学のアドミッションポリシーも、相当によく練られていると考えて間違いありません。たとえばほとんどの大学医学部のAO入試では、人気診療科を志望する臨床思考の医学生をとろうとは思っていません。外科・内科は人気なので、どんな制度でも人が集まるから大学も病院も困らないのです。人気のないところといえば、ジェネラリスト養成の救急とか、産婦人科・小児科とか、基礎研究分野とか、病理医とか法医学分野とかです。なので、「救急」「災害医療」「産婦人科」「産業医」みたいなマニアックなキーワードとともに語られない限りは、面接で「患者さんに接してその役に立ちたい」というのはむしろNGワード、です。ポリシーに沿わない、「いわゆる人気診療科志向」ととられてもしかたありません。でもって、そういう人たちは、それこそ学力中心の一般入試でとるべきだと思います。なぜなら、人気診療科なので、とってからさらに選抜できるからです。ところで受験生の皆さんは、医学部の基礎がどんなところか、御存じですか? 今、国公立大学の医学部の基礎系の講座では、東大・京大を除けば、志望学生が減っていてとても困っています。本音をいうと、基礎をしっかりやってくれるなら、センター試験の点数なんて、50点くらいトップの人よりひくくても、全然構わない、と思っています(つまり、センターでそれくらい差が付いていても、AOにおける面接点で逆転が起きてよいと思っている、ということです)。基礎医学がしっかりした研究を脈脈と続けることが、医療の質を保ち新たな治療法を生み出すためには、とても大事です。高校生のみなさん、もっともっと基礎医学に目をむけてください、Piyotaのお願いです♪ブログ村でAO入試関連のブログを探してみる
2011.02.07
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中教審答申「修論いらない」は暴論か?正論か?2月初めに、中教審の答申がでた。それに先立つこと数日、ニュースでも報道された(ニュース記事コピーへのリンク)これに関しては詳細なブログ記事をSciComの榎木先生が記事にしてくれていて、とてもわかりやすい。中教審、大学院に関する答申を出すもとの情報はこちら。グローバル化社会の大学院教育~世界の多様な分野で大学院修了者が活躍するために~答申正確でないかもしれないが、これらからPiyotaが読み取れた事象と感想は・中教審答申は博士前期後期課程のカリキュラムの一体型教育を要求するものである・大学院リーディングプログラム(後述)は、それを受けた予算措置を実体化するためのプログラムである・冷静に読むと、博士一貫カリキュラムでは、修士での就活を不可にするようしばりをきつくすることを推奨しているようにも読める・中教審答申では、博士課程に進む学生には、修士論文ではなくむしろ「進学試験」「クオリファイングイグザム」を課すことを提案・5年間、学部からだったら6年間、一つの研究室に所属して、そこの教授から指導を受けるという従来の多くの学生の履修スタイルを「徒弟制度」として一蹴・かわりに、複数の専攻を学べるような博士を養成する仕組みを考案するよう提案といったところである。ネット上で騒ぎになっていたのは、新聞記事が、この話題が世間ではまだまだマイナーな博士一貫コースの特有の話題であるという前提をとっぱらって、「修士論文廃止でqualifying exam(QE)をする」と十把一絡げに粗雑に報道するから、誤解を読んでおかしなことになったのだと思う。だが、それを差し引いても、日本ではQEを導入することが文化にそぐわない、と思う。これは、日本のほとんどの4年生大学が、「卒業試験を科せない」「科しても落第留年は出せない」ことに起因する。つまり米国の「出るのが難しい大学」を実践することができない。逆に言うと、もし、一貫性の博士課程で修士を習得して進学せずに就職する人は、QEを落ちた人、という不名誉な称号を背負うことになりそうなんだけど、そんな制度設計で本当に大丈夫かな。大学の修士・博士課程での教育の改革の効果が表れにくいのは、やはり、学部教育が、「高校レベルの補習」という想定外の業務に大きく足をひっぱられているからだと思う。高校で「卒業試験」を科せないのはなぜか?思考実験【文科省が就職サイトを運営しはじめたら?】そんなわけで、フロアから、文部科学省の室長様に暴論的な質問(コメント)をしてしまった。P 「いくらカリキュラムを工夫しても現行の新卒一括採用の就職活動がおこなわれている状況では実効性があがらない、御省から積極的に規制するなど働きかけていただけないか?」室「具体的には?P 「たとえば、御省が主体的に。就職サイトを運営する、とか」室「そういう発想はこれまでありませんでした、考えてみます」******************Piyotaは個人的には、既存の就職サイトのビジネスモデルの在り方が、昨今は企業にとっても大学側にとっても学生にとってもマイナスの、就職サイトひとりがちのビジネスモデルになっているのではないか、と危惧しているので、そこに一石を投じることで問題の打開をはかったらどうか、と提案したいのである。文部科学省が、たとえば「G-COE/リーディング大学院etc」などのプログラムに参加している大学院の院生のみが登録可能なシュウカツサイトをつくり、そこでは、文部科学省が指導した大学側がカリキュラムを完遂するのに都合のよいスケジュールでの採用側就職活動のみしか認めない。それに賛同する企業のみしかエントリーさせない。サイト運営側は、毎年、「エリート理系大学院生(と世間的には見える)」からみた人気企業ランキングを発表する。そんなことをしてみたらどうなるのだろう、と夢想してみた。中洲の高級料亭懇親会、パスして帰ろうかとおもったのだが、帰れない。中洲の高級料亭、まわりは黒服の客引ばかりで、なんじゃここはっていうくらい、柄悪い場所、ただし料理はうまい。ブログ村でリーディング大学院関係連のブログを探してみる
2011.02.04
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雪の影響今日は、某所で重大な会議に呼ばれていたのであるが、本務の大学のほうでもさぼれない業務があったので、会議を欠席させてもらう。まあしょうがない。本務というのはそういうことだ・・・。で、重大な業務とは、入試業務である。なので、9時半くらいから待機していなければならないのである。そのために、早く通勤しようと思ったのだが、先週末の豪雪の影響で、新快速が遅れている。もちろん、新幹線も遅れているのだが、その遅れている新幹線の自由席を購入したところ、ちょうどいいタイミングで下りが来た。【読書】街場の大学論 内田樹著 角川文庫本書は、「ウチダ式教育再生」と冠されて、内田先生のブログ記事から、大学教育・高等教育をテーマとしたトピックが章立てされて掲載されている。どこかで読んだ内容もあるにはあるが、2006年ころの記事から2008年くらいまでの記事が掲載されているので、この2~3年で大学を取り巻く環境がさらに激変したことが、見て取れる。たとえば、大学の機構評価とか。定員割れする大学、とか。内容の一部は神戸女学院大学の学生向けのメッセージだったりもするので、一般の人が読むと違和感を感じるところもあるかもしれないが、まあ、それはそれ。ブログという媒体で一度フィルターをかけて、そのフィルター故の臨場感というものが、うまく保存されているようにも思える。さて、この本の出色は、2010年7月に行われた内田先生と文部科学省大学法人支援課杉田課長との再対談である。もともとの企画で2007年の内田先生と杉田氏の対談がまず収録されていて、そのあとに最新のものが特別収録されている。文科省が大学の行き過ぎた実学傾倒に危機感を抱いていることがわかって、ためになったと同時に安堵した。 大学院入試制度雑感さて、大学院を国際化しなければならないとしたら、「海外からの学生を多く受け入れる」というのは一つの方策であろう。しかし、問題は、その「国際化」がどの国を対象にした国際化か、ということである。たとえば、うちの会社の感染症関係分野では、インフルなどの人獣共通感染症対策や、熱帯感染症とのからみから、インドネシアとの交流が深い。一方、基礎医学・医科学の観点からは、中国・モンゴル自治区などの学生の人気が高い。さらに、分子生物学・細胞生物学などの観点では、地域的な影響もあり、韓国からの留学生が多い。博士課程のカリキュラムであれば、日本人学生も、海外からの学生も、ともかく英語が国際共通語であるからという理由で英語ですべて講義をしてしまえば、まあそれで(教育効果はともかくとして)、なんとかなる。だが、修士課程の学生はどうだろう。学部を持たないうちのカイシャの修士課程には、近隣の国公私立大学の学生がつどってきているが、そうして入学してくる学生のほとんどは、「4月からすべての講義・セミナーが英語になる」ということを想定していないのだ。そもそも、英語を学ぶことのさまざまなコストが英語を使うことのメリットを超えるのはTOEICだったら700-750点レベル、ということを考えると、そこまで優秀な学生はわずか。つまり、うちの修士課程で、大学院講義や実習を英語で行うと、日本人の学生に対する教育のパフォーマンスは著しく低下する可能性が高いのである。なお、Piyotaは最近の修士学生が、「積み上げ型学習」が苦手であるとの印象をもっているが、それでは海外からの修士学生が、この積み上げ型学習が得意かどうか、については、ますます情報がない。ブログ村で大学院入試制度雑感関連のブログを探してみる
2011.01.31
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【ラノベ】迷走する生徒会【じゃない】2葵せきな氏のラノベ著作に「生徒会の一存」を始めとする一連の碧陽学園生徒会議事録シリーズがある。(以下は参考画像です、ブログ本文とは関係ございません)さて、今日も朝から憂鬱であったのだが、やっぱり、冗談ではないっ、いいかげんにしてくれっ、というような自体が出来。日中、非公式な会議による呼出が二回。いろいろなすりあわせなど。そして、当初の想定以上に長引いた会議。意味不明な文書、うちの会社のサイコー責任者が出したと思われる、「私は責任はとりませんよ、みなさんの見識を信じます」という意味不明の公文書、リスクを過大評価する人達と、リスクを軽視する人達と、感情的になってしまって、どちらの評価をもまっとうに下せない人達、一枚岩と考えられていた組織の中の2大セクトの間の軋轢、などなど。それに比べれば碧陽学園生徒会のなんと平和なことか・・・・・予定変更というわけで、ほんとうは、今晩中に横浜入りする予定だったのだが、それを変更。明日から開催される横浜の天然変性シンポジウムに参加すべく、今晩から横浜泊のはずだったのだ。だが、しかたないので、今夜は新幹線の駅の近所に泊まることにして、Express 予約でもって新幹線を明日早朝の列車に変更、横浜の宿はキャンセルっ!こういう予定変更のおかげで、出張時に体力を消耗するのを避けようという涙ぐましいPiyotaのスケジュール管理の努力が水泡に帰したりするのである >_< 泣きそう。情弱とはっさて、くたびれはてているPiyotaに追い撃ちをかけるような事態がさらに自宅方面で出来。詳しくは書けない。キーワードは情弱。情報弱者の意味であるが、あまりに語感がアレなので、そのうち、放送禁止用語などに指定されるに違いない。なお、「情報弱者」(情弱) とは、デジタルデバイド(情報格差=情報や通信の技術やインフラを、様々な理由により利用できない人や、それによって生じる格差) によって情報を得られない人、得られても質、量、速度的に劣る情報しか得られない人のこと、というのが原義だった。最近では、単に情報リテラシーがない人・弱い人の意味にも使われていて、そういう使いかたをされるとアレである。情弱度判定ツールなるものが出回りつつある。ブログ村で「碧陽学園生徒会シリーズ」のブログを探してみる
2011.01.26
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企業の求めるコミュニケーション能力の真相昨今、大卒・院卒予定者の就職内定率の低下が著しい。企業の多くは、(そこにリーマンショック後の経済危機に対してどの程度経営努力をはさむ余地があったのかはいざしらず)新卒学生が採用に値しない程度の能力しか身につけていない、といい、大学院教育のカリキュラムは直すべき、という。そして、いま、もっとも企業が新卒学生に求めている能力といえば、コミュニケーション能力である。この「企業の求める」コミュニケーション能力とは何か、ということについて、これから、深読みをしてみよう。少なくとも、大学の研究室で考えているコミュニケーション能力ではないことは確か。たとえば、英文であったこともない科学者とやりとりして、editor rejectだった論文をなんとかmajor revisionに昇格させ、3ヶ月の猶予を勝ち取ったのちに、実働一ヶ月程度分のデータ追加で論文をacceptにしてしまうような高等交渉術、などは、企業が要求しているコミュニケーション能力には入っていないようだ。だから、もちろん、基礎研究の成果をシロート(きんじょのおじちゃんおばちゃんと市民派の議員のひと)に説明する能力なわけでもない。piyotaの想像する真相とはずばり、 1)バブル崩壊後20年で若手採用を抑制 2)団塊世代と中堅・現役世代で世代ギャップ増大 3)世代間コミュニケーション低下による技術継承・価値観の継続性などに不具合 4)企業が新規採用者に一層の「コミュニケーション能力」を課すようになったという歴史的な流れである。だとしたらいまのシュウカツ戦線で企業が新卒者に求めているコミュニケーション能力とは、「団塊の世代(の人事権とかにぎっているおじさんたち)の言っていることを汲み取って、かつそれに心の底から同意・同感・共感できる能力のこと」ということになる。シュウカツ生の皆さん、そんな能力磨かなくていいですよ!!(笑)だって、そんな特種用途のコミュニケーション能力=「団塊の世代の言っていることを汲み取って、かつそれに心の底から同意・同感・共感できる能力」は、あと5年もしたら時効だから(つまり団塊の世代は退職してしまうのでそもそも社内では不要になる。)。そういう能力が、その後も必要となるのは、その団塊世代が顧客となる業種、つまり福祉と高齢者医療の現場とかである。そういう現場でしか必要とされなくなる能力=(企業が求めている)コミュニケーション能力ということになる。そういうわけで、最近になって企業が求めているコミュニケーション能力というのは、ひょっとすると、大学で教育するべき内容には値しない可能性が出てきた。もちろん、上意下達の営利企業で、えらぃさんの意向を汲み取る能力は、身につけておいて損はないかもしれない。だが、それを大学教育に求めちゃいけないんじゃないだろうか?もちろん、大学の研究室でそういう能力を培うことは可能である。教員が皆、「企業にいる団塊の世代のおじさんのように日々振る舞えばよい」のである。でもって、「○○くん、そういうことはもっと根回ししてくれないと困るよ」とか「そんな話、俺は聞いてないよっ!」とか、毎日やっていればよいのである。学生諸君は、さぞ鍛えられることであろう。だけど、すみませんね、いま、日本の大学の研究室は、とっくにグローバル化を終えていて、日夜海外の最先端ラボと切磋琢磨の競争に励んでいるのですよ。「団塊のおじさんごっこ」で遊んでいる時間が惜しいくらい。本日のまとめ就活生のみなさんは、自分が学生(大学生・大学院生)であるということをもう一度再自覚して、企業のいうことを100%真に受けたりしないような、判断力を養おう。本日のまとめ2海外の一流ジャーナルに論文が出せている研究室は、組織がちいさいだけに、日本の企業よりも早くグローバリゼーションが終わっている。(たとえばラボに団塊がいない。)それをわざわざ一昔前の基準に戻す必要もない。ブログ村で蛋白質立体構造関連のブログを探してみる
2011.01.24
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研究室と大学院生のカンケイ・・・大学院生は授業料を払っているお客さん、か?昨日のエントリーの続編的な内容である。悲痛な、匿名ブログのエントリー「たとえ死んでも生命化学系の研究者をめざしてはいけない」に関する話題の、続き。大学の教員(研究室を主催するPI)も、研究室に所属する他のスタッフも、そしてそこに所属する大学院生も、自分らの使命について自明的であるべきじゃないか、という提案なのであるが。そして、それは、大学院生は「授業料を払っているお客さん」か?という、根元的な質問に通ずる。まずPiyotaの考える大学・大学院の持つ社会的使命について。青臭い考えかもしれないが、とりあえずまとめておきたい。(国公立)大学教員のもつ使命は、学生の教育であると同時に、(この国の)科学と科学的知性のレベルを高めそれを保つことにもあるのだから。その後者の社会的使命は、大学の使命のすべてではないにしても、やはり大きい比重を持つと思う。誰かが巧妙なビジネスモデルを立てて、科学的に誤った方法・結果を悪意をもって利用して、市民を害する可能性が出てきたときに、責任ある対処をする。あるいは、知財や医療訴訟などについて、科学的に責任の明確な、公正中立誠実な対応を行う。そういうことが、国民の安全・安心につながるのである。そのためには一流の科学的水準を保っていなければならない。まあ、いうなれば、科学者全体の倫理であり、科学の社会的責任であり、それを主体的に先導的に行う機関である大学の、社会的使命であると思うのだ。問題は、上記の使命は、教員の持つ使命であると同時に、大学の研究室の持つ使命でもあるということである。だから、研究室の一員になるということは、大学院生であったとしても、その使命の一端を担うことにつながる。だから、研究室に所属する大学院生にも、等しくその自覚を促したい、と思っているPIはPiyotaだけではないはずだ。さらに本音をいえば、「そうした研究室の担っている社会的使命」を協同して担うことに同意できない学生は、研究室のメンバーになってほしくないとすら、思える。しかし、現在、それを拒むしくみがないのである。この問題は、「大学院生は授業料を払っているから研究室にとってのお客さんである」という考え方に対するアンチテーゼに通ずる。昨今、商業主義&受益者負担という考え方が蔓延しているから、上記の考え方も多くの人にとって「正しい」と思えてしまうのであろう。拡大適用されすぎた商業主義・顧客第一主義の弊害は、いたるところで指摘されている。例えば、同じような誤謬の例として、「患者は治療費を負担するから医療機関にとっての顧客であり、患者様と呼ぶべきである」とする考え方がある。これもまた商業主義的には真理。だが、そもそも、教育や基礎科学や医療に商業主義を持ち込んではいけない、商業主義的な考え方がどの世界でも等しく正しいわけではない、というのもまた、昨今の社会学・哲学上の常識、コンセンサスでもある。だから、あくまでそうした考え方が他の分野では主流であるということに配慮しつつも、こんなふうに提案したい。・商業主義的観点から、研究室で大学院生は「お客さん」として「も」よい。・一学徒として、また科学のソサエティーの末端につらなるものとして、研究室で大学院生は、より責任ある主体として積極的にふるまって「も」よい。・(希望的観測であるが)後者のほうが、社会的・学問的に得られるものが多い(といいな)。・前者のような学生が大多数を占めた場合、(たぶん)日本の大学院教育ならびに基礎科学研究は、崩壊する。なお、米国の大学院教育が日本よりも効率的に機能しているのだとしたら、(一部の大学院教育改革論者は日本の大学院教育を米国なみにせよ、とよく仰る)、米国では大学院生は「お客さん」として振舞わないからだ、と反論させていただきたい。米国の大学院生は、一度社会において就職した後、大学院に進学した学生の割合が高く、科学のソサエティーにつらなるものとしての自覚とモチベーションが高い。同時に、多くの大学院生は、何らかのプロジェクトに参加することで給与を得ているので、そこには「受身のお客さん」という考え方が入る余地がない。半人前ではあるかもしれないが(学位をとるまでは一人前とはみなされない)相応のプロフェッショナルとしてふるまうことが要求される。給与を払う方も、「業務命令」という錦の御旗をふりかざすことができる。それなら、ドラッカーみたいな組織運営力に乏しくても、組織はまわるだろう。ラボがまわっていれば、それに伴い大学院教育の質もあがるんではなかろうか。楽観だが。授業料無償化がもたらす高校教育の再生!!あるいは崩壊こうして考えているうちに、ふと、面白いことを思い付いた・・・。高校の授業料無償化である。授業料が無償化されてしまったら、高校生は高校の教室において「お客さん」ではなくなってしまう、だってお金払ってないから。これって、つまり、「金銭の授受関係」だけで考えれば、あるいはみんなが大好きな商業主義的に考えれば、「高校側はどこまでサービスを低下させたとしても、オッケー」ということになる。小学校・中学校は、義務教育をしなければならないという法律のしばりがあるから、従うべき指導要領もあってがんじがらめである。だが、高校は、いままで教育を蝕んでいた商業主義から、奇しくも解放されてしまった。つまり高校の先生は、学生を金輪際お客さん扱いしなくてもよくなってしまうわけである。すると、もし高校生が、何らかの(よりマシな)教育を受けたいと思ったら、どうふるまうのが正しいのだろうか?おそらく、「教えを請う」ということをしなければならないのだと思う。そして、教師は、教師であるがゆえに「請われたら教えなければならない」。教員の給与の元資は税金である。だから、高校の教員が給与分働いているかは、納税者が監視すればよい。しかし、給与分以上に教員が働いてくれるかどうかについては、口を出せない。教育する主体と、教育を受ける主体が、それぞれ主体的に係わって、そこで成立するのが教育である。それが教育の原点である。その原点に立ち帰るチャンスが、奇しくも民主党政権のおかげで、やってきた。今回のまとめ・お客さんとしてふるまう大学院生は、授業料以上のものを研究室で得ることはできない。・日本の大学院も、米国みたいに大学院生に給与を出すべきだ。・奨学金ではなく給与であることが重要だ。・日本の高校教育は、授業料無償化を契機に、飛躍するかもしれない。・ともかく、教育現場に商業主義のロジックをもちこんではだめだ。ブログ村で高校無償化関連のブログを探してみる
2011.01.05
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いくつかのタダ乗り問題についてたとえば、他の人は税金を払っているのに一部の人は払わない、とか、他の人は負担しているのに一部の人たちはその負担をしていないとか、そういう不公平感に対して、人々は怒るのだと思う。そういうわけで、タダ乗り問題ともいえる問題を三件。1.アマゾンは日本で非常に多くの売り上げをあげているのに、日本法人は日本に法人税を払っていない。当然配送には日本のインフラ(国道とか鉄道とか)を使っているわけなので、それはタダ乗りなのではないか!?(http://site-ichijo.net/blog/archives/date/2010/1011-231855.php)というブログがある。なるほど。本を買うなら、やっぱりbk1だな。(ごめんなさい、楽天booksさん。でも使いやすいんですよ、bk1)。2.劣悪な雇用条件で人を使い捨てにして、すぐまたハローワークに広告をだすブラック企業は、ハローワークのしくみにタダ乗りしていて、企業法人としての社会的債務を果たしていないのではないか?(http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20101012/1286817063)という意見がある。なんてこったい。そういえば、無添くら寿司が「内定辞退強要」を行ったというニュースが流れて、無添もブラックか?みたいな憶測も流れ飛んでいたが、どうなんだろう?3.運営費交付金削減→大学授業料値上げに従って、現在の「大卒正社員」の給与では、子供世代を大卒にできないのではないか、という話がでている(ソース紛失。)もしそうだとしたら、大卒社員にしかるべき待遇を与えない企業は、大学教育・高等教育に対するフリーライドということになりはしないか?まあ、これは日本には高等教育は不要、もっと低賃金で働く人を量産せよ?みたいな某論を言う財界人もいるらしいので、継続議論が必要ではあるが。ブログ村でフリーライダー関係のブログを探してみる
2010.10.12
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大学生就職:新卒一括採用=制度疲労、悲喜こもごもtwitterで流れていたニュースなどより、雑感。大卒2割 就職せず…今春10万6000人 読売新聞ニュースより日本の大学教育が崩壊している 大学生の2割が就職も進学もできない 2010.08.11(Wed) 池田 信夫この池田氏の意見であるが、Piyotaは大学を専門学校なみの実学を教える場とすることに基本的に反対である。少なくとも学部→大学院(修士)(博士)と、さらに高度な教育をステップアップして行おうという最高学府としての教育ポリシーをもっているところには、実学偏重はそぐわない。大体、多くの親は、大学で実学を教えれ、という主張にどこまで賛同するのであろうか? たとえば英会話とか簿記とか、エクセルの使いかたとかPostScriptファイルの直接編集法とか、Makefileの書き方とか、営業トークとか、そういうことは大学で教えるべきこと、大学で学ぶべきことなのであろうか??? それと、それでは池田氏が主張している専門学校生とは、本当に満足する意味での就職は良いのであろうか?そもそも大学とは、「これまでに遭遇したことのない問題」に対する問題解決能力を養うための修錬の場であってほしい、と切に願う。なぜならば実学は、すぐに古びるからである。例えばエクセルの使いかたは某MS社の気まぐれでエクセルのバージョンがかわれば古びてしまう。学ばなければならないことは、表層の変化ではゆるがない本質であり、本質を見極める能力であり、基礎であり足腰であるような気がするのだが。ともあれ、就職氷河期の再来で、大学生新卒にまたもや皺寄せが気手織り、第二弾ロストジェネレーションが生産されようとしている。ブログ村で新卒一括採用のブログを探してみる
2010.08.11
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小さな政府の成長戦略に異論 つづきまずいきなり結論にとびます。子供手当は全学、貯蓄にまわしましょう。根拠は今後10年以内に起こりそうな、国公立大学の超大幅学費値上げ、です。そういう方向にこの国が舵を霧始めた、という予兆があります。昨日も議論しましたが、「小さな政府」政策による高等教育・大学教育の規模の縮小や質の低下に大きく懸念を持っています。現在の民主党政策は、社会保障比の自然増をそのまま他の政策的経費の切り詰めで賄おうとしているため、このままでは来年から即座に多くの国公立大学が破綻をしはじめます。それを回避するためのひとつの方法論は「国公立大学の学費の値上げ」であります。一部の日本の識者、経済団体などが大好きな、「アメリカ」の高等教育制度、大学教育制度の日本での適用という大義名分のもと、その教育の質から考えればなかなかのCPを誇っていた日本の国公立大学の学費は、早晩、米国なみとなることが懸念されます(もちろん、そうならないでほしいのですが!)ちなみに、東北大学は来年度授業料を75万円にしないとやっていけない、という悲鳴をあげています。さて、それでは米国ハーバード大学の授業料なみに、日本の一ツ橋や東大・京大が授業料を引き上げるということについてシミュレーションしてみましょう。すぐにはそのレベルにはあがりませんが、10年後にはきっとそうなっている、というつもりで。昨日も紹介しましたが、年間38000ドルの費用がかかる国立・州立大学をモデルにすることにします。そうすると、2020年に某国立大学に入学したZくんは、卒業するまでに350万円x4年間=1400万円かかります。現行制度の授業料53万円から考えると、差額は1188万円です。Zくんはいま8歳。15歳までは子供手当がもらえます。財源はこれ以上増えそうにないので月13000円。全部貯蓄にまわしましょう。年間156,000円x8年間、124万円。高校も無償化ですね。授業料を払ったつもりになって、きっちり貯蓄しましょう。12万円x3年間、36万円。両方たしても160万円ですね。 上記の差額分を考えて、1028万円分赤字です!ようするにそういうことなのです。子供手当と高校無償化で、いま8歳の子供が高校卒業までに受給されるはず、の総額160万円を4で割ると40万円、現在の国公立大学の年間授業料が93万円に引き上げられるような制度改正がおこれば、それだけでこの分の差額はふっ飛んでしまいます。もし、お子さんがいまの年齢の時点でとんでもないアホアホではなく、これからがんばれば地方国立大学にはなんとかひっかかりそう、というレベルならば、自衛のためにも子供手当は全部貯蓄にまわしましょう。「小さな政府」政策をなんとなく支持しているサラリーマン世帯は、自分の子どもたちにどんな高等教育をうけさせられるのか、はたして想定していたでしょうか?「小さな政府」ということは、「頼れるのは自分の収入と貯蓄だけ」ということなのですが。若い世代、現在の働き盛り世代、子育て世代の負担は、いまの政策では増える一方のような気がします。しかし、誰か議論をリードする人達のなかに「グローバリゼーション大好き」「アメリカの大学教育マンセー」の人がいて影響力を持っていたとしたら、国立大学の授業料の値上げ議論はすぐ出てきてしまいます。なぜなら、米国と比較すれば、日本の国立大学の授業料の値上げ余地は300万円くらい、あるからです。なんでもかんでも米国と比較して、それを良しとするような思考停止は、いいかげんもうやめよーよー。ブログ村で米国の大学教育の最新情報を探してみる
2010.07.28
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6年制薬学部を中退して別の研究科の修士課程に進学って、企業就職的にはどうなんでしょう?6年制薬学部を中退して薬学部や医科学の修士課程に進みたい学生さんっていますか?6年制薬学部を卒業することのメリット・薬剤師の受験資格が得られる。・薬剤師を持っていることのメリット→資格があるので安定している・残業が少ない?・平均時給2050円は看護師さんより高い。これは仕事きつさを考慮すれば破格。デメリット・6年間授業料を払い続けなければならない。・私学の薬学部の授業料ってそんなに安くありませんよね。やっぱり国公立でしょうか?・その経済的負担の割に薬剤師となることの年収は高くない。・薬剤師の年収は年功序列で伸びるんでしょうか?薬剤師の年収についてはこんなサイトがあります。ところがこのサイトにある「6年制卒業」→「製薬会社就職」という道が今後どんどん狭くなることが予測されるのです。というのは製薬会社の主力は修士学生(研究・開発営業学術いずれの職種においても)だからです。製薬会社には「病棟」はありませんから、ベッドサイド研修などは製薬会社の会社員が求めるスキルにはあまり含まれていません。そこで、6年制薬学部に入ってしまったけれども、薬剤師にならないで、研究をたっぷりして製薬会社などに進みたい、と、路線変更した場合に、生物系の大学院修士課程はその受け皿になれるのでしょうか?法律などを一生懸命読み直してみたのですが、結局、大学院にその気があれば、できる、というのがPiyotaの結論です。-------------------------以下、学校教育法102条と同施行規則第159条。学校教育法第百二条 大学院に入学することのできる者は、第八十三条の大学を卒業した者又は文部科学大臣の定めるところにより、これと同等以上の学力があると認められた者とする。ただし、研究科の教育研究上必要がある場合においては、当該研究科に係る入学資格を、修士の学位若しくは第百四条第一項に規定する文部科学大臣の定める学位を有する者又は文部科学大臣の定めるところにより、これと同等以上の学力があると認められた者とすることができる。○2 前項本文の規定にかかわらず、大学院を置く大学は、文部科学大臣の定めるところにより、第八十三条の大学に文部科学大臣の定める年数以上在学した者(これに準ずる者として文部科学大臣が定める者を含む。)であつて、当該大学院を置く大学の定める単位を優秀な成績で修得したと認めるものを、当該大学院に入学させることができる。の○2の文部科学大臣の定める年限について、学校教育法施行規則第百五十九条 学校教育法第百二条第二項 に規定する文部科学大臣の定める年数は、三年(医学を履修する博士課程、歯学を履修する博士課程、薬学を履修する博士課程又は獣医学を履修する博士課程への入学については、医学を履修する課程、歯学を履修する課程、薬学を履修する課程のうち臨床に係る実践的な能力を培うことを主たる目的とするもの又は獣医学を履修する課程に四年)とする。となっています。条文を上から順に解釈すると、1.大学院には「大学を卒業した者」を入学させることができる。2.ちょっと高度な大学院の場合(?含む6年制大学の上の大学院)には修士の学位と同等以上というきびしい入学資格とすることができる。3.上記の規定にかかわらず、施行規則159条に書かれている年数大学に在学したものは、それぞれの大学院で「(単位数を認定して)優秀であると認定すれば」入学させてよい(飛び入学制度)。4.施行規則159条の但し書き。6年制大学の博士課程については、6年制大学に4年在籍しなければならない。つまり、大学院の側が、制度を正しくつくっておけば、受け入れは可能なわけです。どんな制度かといえば、「優秀な成績」を定義するための単位数の認定につきます。○○年次までに修得する単位の○○%を優以上の成績でうんぬん、というところの○○を3年次中退者用と4年次中退者用の二通りつくって、その大学院の研究科教授会で承認すれば、あとは文部科学省に報告するだけで(報告も必要ないかもしれない)受験資格を認定することができるのです。学生さんのメリットは、とりあえず大学院を受験して、合格したら中退する、とすればよいです。3年次、4年次、5年次、6年次の4回チャンスがあります。「創薬」を出口の一つとしている生命系の大学院修士課程は、大学側にその気さえあれば、6年制薬学部を中退して受験してくる、ガッツのある学生を受け入れ可能にできます。ただし中退ですので、そのリスクに見合うだけの大学院教育をしなければなりません。これはハンパなことではないのは確かです。なお、Piyotaの最終的なお勧めはあくまで博士(薬学)をとること、です、念のため。何百万人・何千万人の命を救うかもしれない薬を作るのに必要な専門知識を磨くには、課程博士でのトレーニングはかかせません。ブログ村で創薬関連のブログを探してみる
2010.07.23
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大学院教育実質化とは、本当はどういうことか?企業が中心となっている経済団体が「日本の大学院教育は社会のニーズに答えていない」と非難し、文部科学省は「大学院教育の実質化にとりくみましょう」と提言をまとめたり白書をまとめたり、煽るのに忙しい。http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/siryo/__icsFiles/afieldfile/2010/06/02/1294318_02.pdfで、まあ、こういう報告書にはそれなりに事実に基づいたいいことがいっぱい書いてある。どれもこれも「カリキュラム」「キャリアパス指導」などについては書かれているのだが・・・いくら仕組みをよくして枠組みを定めても、それらは簡単に骨抜きになってしまうのである。それが、就職活動による大学への実質的な不登校に対する処遇である。カリキュラムがよくできていればよくできているほど、8ヶ月間に渡って週二日以上休んでも罰則なし、というのならば、それによるネガティブな効果は大きい。特に大学院大学の場合、M1の秋からほぼ8カ月就職活動をするとなると、ほとんど何ら「マシ」な成果を出さないまま、卒業してしまう。就職活動で欠席した学生を救済する名目で、大学院講義がM1前期にまとめて開講される大学院は多い。そのことの教育的な是非について、そもそもまじめに議論はなされたのか?企業の新卒一斉採用活動、しかもそれが4年生学生と同時期に行うためのスケジュールによる企業の都合によって日本の理系の修士大学院教育が大きく骨抜きにされ、その影響で博士課程の人財育成にすら影を落としつつある現状、なんとかしなければならない。理学系大学院は修士課程を3年に博士課程を2年にする3+2制度にせよPiyotaは大学院教育が与えられる最も重要な教育効果は、「努力と成功体験に裏打ちされた問題解決能力」だと思う。それを実現するためには修士課程で、少なくとも一本、査読つき英語専門紙に論文投稿可能なデータを最後まで出して、日本語または英語でまとめ終える、それくらいの経験をしてほしいと思うのである。そしてそのための一つの処方箋として、大学院修士課程を三年にする(ただし就職活動をせずに一心に研究にうちこんだばあいには早期進学をありにする」にしたらいいのだと思う、」ブログ村で大学院生の就職情報を探してみる
2010.07.06
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【物欲番長】はやぶさの偉業を称えるにはこれを買え!?買って飾れ!?予約商品★アオシマスペースクラフトシリーズNo.1 1/32 惑星探査機はやぶさ★プラモデル★6月上旬予定これでは萌えない人にはこういうものも・・・【30%オフ】スカイネット 擬人化フィギュア はやぶさたん イトカワ台座Ver.おかえりなさい!はやぶさたん!!個人的には上のほうはやはりかっこいいと思った。なおこのエントリーの下書きを書いてからのニュースであるが、どうやら微粒子がいくつかはイトカワから採取できていたらしい、とのこと。すばらしい。ブログ村ではやぶさと宇宙開発関連のブログを探してみる
2010.06.28
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・監督不在のサッカーで勝ちつづける方法そろそろ私たちは気づくべきだと思う。私たちと言うのは30代~40代の中年(※一部のグラントでは若手枠に分類されるが、ここではあえて中年というタームを使う)研究者/PIたちのことである。ここ数年の選択と集中の名のもと、どういう根拠で配分されているのか不明朗な研究予算、昨年末の劇場化した事業仕分けの茶番劇、そしてその後の「ごね得」のような一部予算の復活と、達成されなかった運営費交付金削減方針の改革。そろそろ私たちは、理解するべきだと思う。そう、この国には科学技術に関する長期的な視点がないことを。もちろん私たちは知っている。研究者仲間の会合で酒が入ると毎回この話題になる。「この国の科学はどうなるのか?」と。「なんでこんな政策になるのか?」と。「○○先生(予算配分を牛耳っているとされるが真偽は明らかでない大御所の先生の名前は一体何を考えているのだろうか?」と。そして必ずこう結ばれる。「今のままではいけない」と。だが、それでもまだ私たちにはどこかに甘えがあるのだ。あるとき急に文部科学省と経済産業省と財務省が大方針転換をして、あまたある科学技術政策と高等教育・大学院教育の制度をドラスティックに改善し、今よりもよい未来の日々が来るかもしれない、と。少なくとも、今よりもうほんのちょっとだけ、研究がしやすくて、科学が楽しめて、雑用や書類書きが少なくなるような、そんな日々が来るにちがいない、と。そんな、小さなささやかな希望を慰めに、日夜、オーバーワークしながら、我が国の最先端を支えている中年たちの、なんと多いことよ。だが、いいかげんもう気づかなければならないのだ。確かに、私たちにとって「ほんのちょっとだけいい時代」というのは、くるかもしれない。もしかしたら。だが、我が国が長期的な科学技術政策・成長戦略をもち、それを施策に反映させて、我が国の科学技術創造立国戦略がこの国に卓越した国際競争力をもたらす、なんてことが、すぐに起きるとは到底信じられない。私だけでなく、きっとみんな信じていないだろう。だが。それでも、だからといってこのまま負け組になることを心よしとするのか? 否である。だから私たちは頭を切り替えなければならない。監督がいないサッカーチームで、なんとか勝ちを拾うためのサッカーをするために。すくなくとも大負けしないサッカーをしつづけるために。・指示なしで現場判断でパスをだすようするに、監督の指示がなくても、司令塔が不在でも、ピッチを広く見渡して、現場の判断で一流のサッカーをめざせばよいのだ。もし自分がいまバックスの位置にいるのなら、フォワードにベストのパスを出せばいいのである。誰だかしらないフォワードがその場に走り込んでくることを信じて。もし自分が、敵のマークのついていないフォワードなのだとしたら、誰かがロングフィードをあげてくれることを信じて、オープンスペースをひた走りに走ればよい。誰だかしらないMFを信じて。やっちゃいけないのは、自分ですべてのボールをコントロールしようとしたり、パスを出さないで抱え込んだりすることだ。それでなくても、日本の科学ソサエティーは、欧米のそれに比べてはるかに閉鎖的だという説がある。だが、本当に誰だか知らなければ、パスの出しようも受けようもないって?そりゃ確かに道理だ。だとしたら、せめて選手の顔くらいは見ておいてもそんはないだろう。そう、異分野の若手に合いにいく、これはきっと重要だと思う。もともと若くしてPIにならんという人々は、総じて優秀で勤勉で、しかも人柄がよい(例外もいるかもしれないが)。オープンマインドの重要性なんか百も承知の人々ばかりだ。だとすれば、日頃からほんのちょっとコミュニケーションの機会を増やしてさえおけば、いざとなったら一瞬のアイコンタクトだけで咄嗟に高度なセットプレーができたりするんじゃなかろうか?ブログ村で「日本の科学技術の未来」について語っている人を探してみる
2010.06.21
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一芸入試AO入試、とも。【wikipediaより抜粋】AO入試(エーオーにゅうし、アドミッションズ・オフィス入試)は、出願者自身の人物像を学校側の求める 学生像(アドミッション・ポリシー)と照らし合わせて合否を決める入試方法である。学力試験の結果で合否が決まる従来の一般入試とは異なり、志望理由書や面接などにより出願者の個性や適性に対して多面的な評価を試み学力は問わない点に特色がある。現在では、大学入学者の半数近くが従来の学力検査(「一般入試」)とは異なる方式で大学へ進学している。・・・・単なる学力にとらわれず、独特の才能を持つ学生を確保するために行われている、はずである。しかし、受験産業は、そういうAO入試にすら、対策法を講じてくる。結果的に、残念な子供たちが入学してくることになる。うちのカイシャにおける、学務教務上の二大問題発生源は、これと、あと「学XXX制度」であるように思う(問題が多いので伏字)。基礎系の研究室で、いろいろなことがいろいろ起こるのである。だが、だからといって一般入試で、受験秀才をとっても、いいことばかりとは限らない。そもそも、高校卒業までは、「大学入試でよい点をとるために勉強する」でも、それはべつにかまわない。問題は、大学一年生になって、「なんのために学ぶのか」を切り替えられない学生が多いこと、である。大学で何をどう学ぶべきか、なんて最近は誰も教えないのだろう。とくに医歯薬の実学資格取得系学部生に多いだろう。受験資格さえ得られれば、あとはどうでもいい、みたいな考え方である。一方、理学・工学系のカリキュラムは、「猫も杓子も研究者養成」というおためごかしをはかる。それはそれで、いいことはあまりない。大切なのは、「常に学び続ける力」「学んだ知識を体系化して統合する力」「自分を常に高める努力を惜しまないために必要な基礎力」そして、それらをすべて注ぎ込んで「社会に貢献する力」である。社会に貢献することこそが生き残るための最大の要件である。なぜ学ばなければならないのか?それは、高校生や大学生が想像している以上に、世界は複雑で、不透明で、かつ刺激的だからである。この生きにくい社会を、ただ生き延びるだけでも結構大変なのに、それを「楽しみながら生き残る」ためには、標準以上の教養とカガクリテラシーが必要なのである。ブログ村で創薬関連のブログを探してみる
2010.02.08
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2月になっちまったぃ!なんてこったぃ!! 今月も忙しい。いろいろと仕事がおっつかないです。特にrefinement関係ね。来年の話をすると鬼が大笑いだじぇ国際会議予告日程:2011年1月27日ー28日場所よこはまヴィアマーレhttp://www.yokohama-viamare.or.jp/viamare.html大学院入試きょうはうちのところの大学院入試。雨が降っていて寒い中、二名面接。話してみて思ったことは、大学教育における「自分の学んだことの体系化」がなされていないことである。生物系、化学工学系、出身はさまざまである。成績証明書を見ると、みんなそれなりにいい成績ではある、が。断片的な知識が体系化されていないまま、専門科目の早期詰め込みに遭遇して、消化不良のままオトナになってしまう、というような症状と思われる。 ○○を使いこなすためには△△が必要→ それには■■と××と▼▼の知識が必要→ やっぱ数学って大事だよね、みたいな目的意識で、退屈な座学をマスターして知識を積み上げようとする学生なんて、もういなくなっちゃったんだな。Piyotaと、もう一人の先生が注視して重視するのは、いわゆる基礎の基礎の科目の成績が優であるかどうか、である。つまり、物理とか、解析数学とか、統計とか、有機化学とか。生物学も基礎ならともかく、専門科目の点数がよくてもあまり参考にならないような気がする。大学院は、これから伸びる場所、これから伸びたいと思っている人だけが来てよい場所、のはずである(建前では)。(実際には、「いま行き場所が他にない人」の避難所という側面がないわけではないが・・・)。ともあれ、この先どれくらい伸びシロがあるかを見積もるのってむずかしいなあ、という話である。お昼はカレー遅いお昼は怪しいインド屋さん。【IdeaPad U350】ウェブ会議に使ってみたV-CUBEちゅう会社(ベンチャーかしら)というところのWEB会議に参加してみました。とりあえず、IdeaPad U350の内蔵カメラと内蔵マイクで十分WEB会議ができるというところまで確認して、明日の本番の会議に備えることになりました。しかしLenove EasyCameraの逆行補正設定など、できそうなのにどこを触っていいのかわからないっす。朝日新聞の特集「数学」そういえば今朝の朝刊の「数学特集@朝日新聞」おもしろかったな。ブログ村でnice2meet.us / V-CUBE関係のブログを探してみる
2010.02.01
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【おやじの小言】いまの若い人は(うちのラボ関係者の知合いだけかもしれないが)「やればできる奴」というふうに思われたいように見える。「できる奴」というアピールをするのは、ちょっとはしたないとかかっこ悪いとか思っているのかもしれない。だが「やればできる奴」なんて評価はまやかしである。そういうふうに評価してもらいたさそうにしている若手には、「で、君、いつやるの?」と聞いてあげたい。そういう状況になったら、その時がきたら、自分は全力を出して勉強・研究・仕事するぞ、って思っているのかもしれない。だが、「その時」っていつなの?「その時というのは現在じゃないの?」Piyotaは皮肉屋なので、こう言ってしまう。「その時なんて決してこない。」ぶっちゃけ、「いま」その能力を発揮しなければ、明日は(将来は)ないかも知れないのに。いつか全力投球しなければならないような難関にぶつかるまで、余力をとっておこうなんて考えているのかもしれないが、往々にして、そういう人は現状への危機感が希薄である。「やればできる」というのは怠け者の自己憐憫である。いまやってなければ嘘である。「いま、ここで、全力投球」「いま、ここ」は相田みつを氏の名言の一つであることを申しそえておく。(いまここの画像をみる)かっこ悪いかどうかなんて、どうでもいいじゃないか。なぜ、いま、ここで全力を出さないのだい?全力を出して学び、全力を出して考え、全力で仕事し、全力で眠る。全力で怒り、全力で喜び、そして全力で科学を楽しむ。本日の業務備忘録1.午前中、会議2.試験の採点を行った3.アミロイドのNMRを測った。何も見えなかった。4.JBC論文のリバイスをびしばし行った。あともうちょい。5.人材派遣会社の人と打ち合わせ。悩み多し。6.出張報告書2件、2~3月分の出張申請4件。システム打ち込み。やれやれ。7.研究員Fさんに説教。説教されるべきような事態が出来。まあ自業自得なんだが。今回の教訓「プレゼンテーションの準備は、自分のパラシュートをつめるのと同じくらい慎重にやること。」ちゃんと動作しなければ墜落死。ブログ村で相田みつを「いまここ」の関連ブログを探してみる
2010.01.27
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教育レベルの低下まあ,このニュース記事のクリップコピーを見てほしい.http://9126.teacup.com/piyota0/bbs/470貧すれば鈍する,とは良くぞいったものだ.若い世代の離職率増加は,実践的な職業教育の充実によって低下させられるのか?という問題である。若い人にとって魅力的な職場、魅力的な待遇、魅力的な組合(w)を準備して、そのうえでまだ若者の離職率が下がらなければ、考えてもいいのではないか?それともう一つは、現在の就職活動のシステム(マイコミュやリクルートが音頭をとっているあれ)が求人と求職をベストマッチさせていないから離職・転職がおこるのではないか?そもそも、離職率が増加して困っている業種と,そうでない業種と比較して,離職率が増加している職種について実践的な職業教育が大学などの教育機関でできるのか?という問題である.離職率が高いのは営業職や企画職などの総合職ではないのか?もしそれで離職率が高いのなら,それは企業におけるOJTの質が低下して,制度疲労を起こしているせいではないのだろうか?企業が就職協定一つ満足に守らないで、大学における3年次・4年次・M1後期の教育が機能していない状態で、そういった問題を十分検証しないままで、新しい学校制度をつくろうというのだとしたら、ほんとうにおめでたい。にほんブログ村ゆとりばか新聞の投書欄を見ていたら,ゆとり世代の学生が,ゆとりだからといって色眼鏡でみないでほしい,ゆとりばかというレッテルをはらないでほしい,という主張をしていた.まあ、確かに、世代全体として色眼鏡で見られることに対する反論はわからないでもない。でも・・・ぷっ・・・。そういう主張は,団塊世代とか昭和40年代生まれとかと同程度のストレス耐性を身につけてから,言ってほしいものだ.先にも書いたが,企業は入社試験で,志望者のストレス耐性の有無にかなりこだわり,それで積極的に選別しているようなのである.ゆとり教育カリキュラムの失敗は、学課を減らした事にあるのではない。むしろ総合的学習の時間のカリキュラムの失敗、社会と上級学校のニーズを無視した無策にある。生きる力を教えるべきとして他のカリキュラムを犠牲にして確保された時間枠で、地域とのふれあいとか、伝統産業の紹介とか、ボランティアごっことか、そういうお遊びをやってしまっていたことに対する反省が見られない。それでは、何をする(させる)べきだったのか。とくに小学生中学生に対して、彼らが将来社会で生きるために最も必要な力はなにか、といえば、それこそが『ストレス耐性』だったのではなかろうか?現代社会で社会人がうける4大ストレス、(1)成果主義徹底によるストレス、(2)競争社会におけるストレス、(3)人間関係におけるストレス、(4)過重労働によるストレス、この4つに対する耐性を身につけるための機会がゆとり教育によって失われてしまい、その穴埋めとなるはずの、「総合的学習カリキュラムが」、機能しなかった・・・結局こういうことなのではなかろうか?皮肉なことに、とりあえず機械的に受験戦争を激化させて、偏差値で学生を差別化することで、特に意図しなくても(1)~(4)に対する耐性が身につくようになるのである。にほんブログ村
2009.06.25
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