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ちょっと早く起きすぎたがパーシーフエース楽団を聞きながら・・・。 井の中の蛙大海を知らず されど井戸の深さを知る与論十五夜踊りの伝承をしている古老の言葉には引き継いで伝えていく者の使命を感じさせられて感動した思い出がある。 やがて今年最後の十五夜踊りが12月5日に行われる。12月におこなわれるのは月の暦によるもので 珍しいと思う。太陽暦と陰暦とのずれを調整するためにしくまれた知恵であろう。踊り子さんたちはその日の為に 身を清めて忌み嫌いをしている。 参加するわれわれも そのことを忘れてはならない。 さて、最近聞いた曲で感動したのが高校設立40周年記念祝賀会で、吹奏楽部の演奏に先生が歌った与論のかたちである 与論のかたちは くじらの姿ににています ゆりがはまは こどものくじらににています 親子そろおってほんとうに およいでいるみたいです わたしたちは この鯨に乗って 世界一周旅行を したいです・・・・・ この美しい ヨロンを いつまでも いつまでも まもりたいです。 川畑なおみさんの歌詞にハーフムーンが曲をつけて 朝夕の放送で流れていたので覚えている方も多いとおもうが 歌詞をかみ締めて聴いて感動したのは 吹奏楽の演奏と歌った先生の声と会場の雰囲気がそうさせたと思うが 他のひとはどんなに聞いたろうか。曲や演奏、歌い手は数々あるけれど ライブで聴く感動は特別なものだ。その他与論の歌を 今活躍している吹奏学部の演奏で歌ってCDにしてみたらどうだろうか。「声楽は馴染みが薄いので」と言う方もきっと喜んでくれると思う。サンシンだけでなく、こんな文化もヨロンにはあるのだとアピールしたい。 与論高校の歴史を振り返り、その指導者の質の高さを思わずにはいられないが、素直に受け入れた生徒のキャパシティ(容量)も認めてあげたい。 与論のかたちを天国で聞いた窪舎会卒業生の皆様 どうぞ みいまーぶてぃたばーり。
2006.11.29
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末期医療と死後の世界を追求し、与論を研究テーマにした近藤先生がいらっしゃる。先生とは個人的にはあまり話したことはないが、都度つど調査報告書を送っていただいた。研究の成果を本にまとめて報告をいただき、医学・文学の学位を取得された祝いの席にも同席させてもらった。「魂の島」の歌が与論のイメージとして定着したのは、パナウル診療所の古川先生と近藤先生のおかげである。もちろんかりゆしばんどの歌のおかげであることはいうまでもないが・・。 「畳の上で死にたい」のビデオテープに恩師が出てこられる。末期の医療の姿で先生をみたのはこれが最後だった。 先生ののおもいでを メモしたものがあったので。 「短くも美しく燃えて」の曲の流れるなかで。 阿野先生のおもいで 中学1年生の春の遠足の朝のこと,自転車をこいでこーにぶあぶ(内野高冨さん宅近くの坂)の上にさしかかったところ,左側の木陰に三年生の先輩達が休んでいた。 小学校の頃から,海での遊びやヤマグ遊びなどを教えてもらったり,他のヤマググループから私をかばって助けてもらった先輩達だった。弁当を作ってもらうため少し遅れていたので先を急いで追い抜こうとすると「盛,今日は遠足だからいつもよりも30分おくれてもいいんだよ」というので,半分は疑いながらもいっしょに登校することになった。 学校が近づくにつれて,先輩達の足がおそくなるので,とうとう自分は先になると言い自転車を一心不乱にこいだ。 校門に着いたら全校生徒が並んで出発を待っているところだった。急いで自分のクラスにかけつけると,阿野先生の左のゲンコが頭にガツンときた。いままでの不安な気持ちが吹き飛んで,「ああよかった」。 阿野先生には何度もゲンコツをもらった思い出がある。卒業してからも色々おせわになった。与論町誌の編集の中心となって産業経済編を執筆された先生,ハキビナから石を運ばせ誠の碑を建立した先生,腕白だったあのころ,女性徒を泣かしたり,先生の教材に使うどろんこを投げ合って美術室を汚したり,サイタラ三雄と陰口たたいたり・・・・・・ 懐かしくおもいだすことである。 「 たたみの上で ・・・・」のビデオのなかにいつまでも記憶としてのこることだろう。 H.16.3.25 メモより転記 竹 酔 日
2006.11.29
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「 知ることは 感じることの半分も重要ではない」とはあの「沈黙の春」を書いたレーチェル・カーソン女史のことばであるが,それを実感としてとらえられる教育者すばらしいと思う。 さてさて日頃考えている事の一端を棒並べで切り出してみるとしょう。 ※ 私の仕事柄,農業分野の観点から物事を考えてきたせいで,木を植える思想にとりつかれている。いつかはと決めて20年が過ぎた。(添付資料1)同級生がそれぞれの立場で偉くなっていくなかで,取り残された感じでいる今「一能やむっちゅん なー能能 」と自らを慰めながら,百年の大計を目指して,学習の森を造りたいとおもい わたしのパーマカルチャーを始めることにした。。(添付資料2)巷には,環境問題が氾濫しているなか,我が与論島においては他にさきがけて,環境の町宣言。誠に喜ばしいことと賛同しエコグループに入った。植物,昆虫,音楽,星などが自分の雑木林の中にちらばっていれば,ちいさな宇宙が拓けていくのではないか,いつかここを教育の場として提供出来ないだろうかと。又,生涯学び続けたい大人達が,癒しやゆとりを求めて与論にやってくる,そのかたがたの道案内役として,余生を楽しめたらいい。その準備のためこれから自然に学ぶ事は多くあるとアクションプログラムの作成を急いでいる。。 ・ 学校教育については,あまり考えることはないので町の教育方針に従いたい。最近地域の教育力ということをよく聴かされので,学校教育の中でも,出前講座とかの仕組みが出来ているみたいで結構なことだと思う。それぞれの職場のエキスパートや趣味人間や芸達者の人が講師を務める生涯学習の場をこれからおおいに生かして欲しい。講師にになる人材の掘り起こしや育成,お互いが教えあう雰囲気や場所をどしどし作るべきだと思う。 ・ 私の子供の頃,近所に小学生にいたずらをする名物おじいさんが3名居た。親や先生の名を聞いたり勉強したことについて尋ねねたり,ちょっとエッチな話をしたり(エロ本などない時代だったので性教育になったと思う。)そんなイキなおじいさんが地域に居て欲しい。 ・ 青少年育成推進員を仰せつかっているんで,声かけ運動をこころがけていて,夏休みの朝のラジオ体操に犬の散歩がてらに時々参加した。夏休みの反省会場において,出席多賞(犬の部)で代表に選ばれ与論献奉係で活躍できた今年の夏は大人達に自己アピールできた。地域の行事にはなるべく参加したいけど多すぎて,選択しないと体が持たぬ。 ・「日本復帰の歌」がながれてくると,子供のころに歌った「沖縄を返せ」の歌を思い出す。むしろ旗行進について行った体験の作文が,担任の先生の手直しのおかげで賞をいただいた。32色のクレパスは絵の苦手な私にとっては持てあましたが,えび茶色のクレヨンのことをシャンソンを歌ったI先生に会うたびに思い出す。これだけグローバル化した情報社会のなかで,いまさら民族自決かの感がしないでもないが,先輩方の成し遂げた偉業には敬意を払いたいし,郷土からそれに続く人材がぞろぞろでてもらいたい。 ・ これからのじぶんを含めた高齢化社会の中で,いつまでも学び続け,同じ方向を見つめ続けられる伴侶がそばにおり,子や孫に語りかけられる与論の島づくりに すこしでも役だちたい。私の庭には,海の彼方から幸せを運んでくるというオオゴマダラ蝶が住み着いている。島を訪れてくれる観光客が自宅の庭を散歩してくれることを願いながら,少しづつ,少しづつ,植物を植え,昔あった与論の環境の再現に努めたい。かつて農村振興運動の標語になった,「自らを興すこころが島興す」のひびきは教育の現場においてもおや。又,かつて読んだ「アウタルキーの形成(自給自足圏の形成)」にむけた思想の普及も教育課題だと思われる。そのことがとりもなおさず,食農教育につながっていくであろう。教育だけでなく農業も観光も,もろもろのものが混ざり合った環境の科学がまたれている。 ・ 歴史や文化については最も教育現場が関与する分野だと思われる。按司根津栄神社の氏子であることもあり,関連遺跡を調べてみるとまだまだ研究に値する余地を残している。お墓についても調査してみると,与論独特の風習があることに気がつく。和泊町にある世之主の墓の門構えの墓が与論に少なくとも4つを確認。とある出会いから関西大学のT教授に,城集落の家の構えについて,中国の風水の思想たるを教えてもらった。人文地理的な観点から集落の成り立ちに興味を持っているので,来年から共同研究をしようと頼まれているので,興味のあるかたの協力が欲しい。 ・ 与論には川がないとよく言われるが,地上に地下に複雑な流れの川が(小さくて水のないのも含めて)見いだせると思う。地質をしらべ湧水との関係をときあかすのも楽しみのひとつである。※ 新しく赴任した島外の方の知恵や知識,経験に頼ることも研究の成果を上げる近道ではないだろうか。 「与論島まるごと博物館」を作るために島に住む皆のちえを結集したい。 私は枕もとで見る夢の,続きを見ることが出来る特技をもっているから,死に至るまでこの「意味 」の続きをおいかけたい。たわけごとの〆として私が庭造りの師と仰いでいる,明治神宮の森を造林された上原敬二先生の言葉をおかりして終わりとします。 用意の深いところに過ちなく 意志のあるところにいつか実現の機会がある それが世の中というものだ。 おしまいから 注1、教育関係月刊誌「青少年」記載文からの転記 「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない。美しいものを美しいと感じる 感覚,新しいもの未知なるものにふれた時の感激,思い遣り,哀れみ,賛嘆や愛情の さまざまなかたちの感情が,ひとたび呼び覚まされると,次はその対象になるものについてもっと知りたいとおもうようになります。そのようにして見つけ出した知識は,しっかりと身につきます。 注2、平成8年開催 与論町産業祭における講演 金子照美氏の演題 注3、東京農業大学造園学科教授 著書「樹木の美性と愛護V」より転記 竹 酔日 日本農業新聞の平成15年6月掲載記事から転用
2006.11.28
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日々変る風景。日進月歩。 昨夜、企画課の職員と懇談した。久しぶりに議論の場をみてついうれしくなって、選外になった小文をのせてみよう。教育長が募集し、3名しか応募がないというので、遊び心でかいてみた。 その頃思っていたこと、そのままである。手先が震えながら書いた海のいろはいかがなものであろうか。 笑ってやってください。 ヨロン島がすきだから やーあい いっちーこーむでいりょう (おーい けえってこ) 竹 酔 日 那間小発行のことわざ日めくりをめくりながら思うことに,これを実行してたらさぞかしいい人間になっているだろうと。 どれが一番すきかと問われれば,「 馬鹿ラバ馬鹿リ 熟シュラバ熟シ 熟シ 熟シ田ヌ米ヤ畦枕」を選ぶだろう。先の教育長竹下先生から初めて聴かされたとき生涯学び続ける姿勢はこれだろうとおもった。さて,私の家は専業農家で,父は朝から晩まで畑仕事に追われていて学問などとは全く縁のない人に思えた。母は高等科を出たとか言って変な発音の英語などを聞かされた覚えがある。祖父は少々学のあるほうで,テレビドラマなどを見るよりは辞典を見るほうがいいとか言っていて,儒学まがいのことわざなどをよく聴かされたものだった。漢文や古文が好きになったのは祖父の影響によるところが大きい。祖母はそばでいつもニコニコ笑っていた。那間小時代は2年先輩のヤマグ兄達の子分を自認し,キンカ鳥をだかされたり山みかんを盗んで食べたりクサビつりにつれて行ってもらったりして,とても勉学どころではなかった。私の遊びの特技は,うちふだ,ビー玉(目玉),こままわしであった。茶花のキサユシ商店で遊び道具を買うとそのまま,近辺の(現在のひょうきんあたり)同世代の子供達と暗くなるまで遊んで帰っては母によく叱られたものだった。数えの13才になった時お祝いをしてもらった。なぜか,海上保安庁,税関の方がお祝いに来てくれて「不断の努力」と書かれた掛け軸を戴いた。それがきっかけで白い大きな客船とセーラー服にあこがれた。親戚のおじいさんが外国航路の船乗りだったので,話しを聞きに行ったら,商船大に入るのが航海士になる近道だと教えてもらった。。中学校入学式の日,新しく買ってもらった靴がなぜか気恥ずかしくてはだしで登校。中学の門をはいると,赤佐出身のA先生が待っていてくれた。先生のことを,美術室にあった教材で,チャンバラごっこしたり,女生徒にチョッカイを出した褒美に出席簿のビンタを食らったことを懐かしくおもいだす。中学は小学校とは雰囲気が違うことに気がついた。ケンカの強い男より,頭のイイヤツが女にもてることにもきがついた。そんな不純な動機で勉強を始めた。地元に高校ができたからというので,東京見物をアメ玉にだまされて,やむやむ与論分校に入学・・・あぶないところだった。授業の中身が中学校とは全然違う。目標を神戸商船大に定めてヨーソロー,だども高2のとき突発性難聴の災難にあい船は浸水してしまった。しばし子山羊は悩み,自暴自棄になり無為にすごす。時あたかも長髪運動勃発。説明資料の作成担当を買って出た。いよいよ進路を決める頃,頭をまるたねずみメガネが似合う副担任のK先生に職員室に呼び出された。何かわからぬまま教職員皆の前で,いきなりボデイブローをくらったあと,一言「上寺住宅に来い,面倒をみてやるから」と。あのときの痛みがなかったら,いまの私はなかったろう。恩師ということばはいまでも生きている。先生ありがとうございます。どうにか高校生活を終え,浪人暮らしの2年間,学力は低下したが知識は仕入れる事が出来た。ようやく,東京の私立大に拾ってもらた学生時代は,わたしの人生にとっては有意義な4年間となったが,専門知識を生かせる就職もあまりあてにならずに,一番無難な道を選んだのがいまの職場である。仕事はそれなりにとして,否応なしに青年活動に明け暮れる。ノンアルコールの家庭で育ったせいもあり,友達と「酒を飲まない会」をつくってアウフへーベン(止揚)を試みたが長くは続かなかった。青年ソフト大会,バレー大会,卓球大会、船こぎ競争などなど,古里Bチームひっさげて活躍したっけが。古里の盆踊り大会は青春真っ盛り,田舎暮らしで良かった良かっ・・・。休日は父の手伝いの農作業,親孝行息子と自我自賛する。30歳まではと決めてた結婚も願ったりかなったりで,親には,遠いとちょっとはんたいもされたけど,飛行機の世のなかだものひとっ飛びだね。一男二女にも恵まれて,目指すはPTA活動。那間小の先生方とも交流がでてきたが,教員コンプレックスの我が身にとっては,へいへいに活動するのが板に合ってた。主要役員は免れることができた。中学校,高校のPTAは子供の言動もまずまずなので,母親まかせにして,じぶんの趣味の世界にひたりきり。受験勉強をけしかけると長男は,三年に進級した矢先「親のやっかいになってまでは進学する気はない」といい放つ始末。ままよと諦めて,就職コースを認める。I先生の指導のよろしき甲斐あって,何とか就職も叶い,今でも同じ職場で頑張っている様子を嬉しくおもっている。長女はと言えば,大学受験するも,冬の庭のさくらはまだつぼみ,2浪もした身にとっては怒るに怒れずで,ようやく短大の自由が丘にさくらさいた。末娘は高一,バスケットの部活で精一杯のようだ。化学が好きといっているがどのような進路選択をするのか楽しみだ。自分の人生だからねと言い聞かせてはいるが,自覚が足りないみたいに思える。私も,人生50年も生きてると,少々生意気になり勝手なことばかりほざいていて家族をこまらせている。3分の1人生論(仕事、趣味、家庭)とかいっているくせに,仕事や家庭を省みず趣味三昧。家も庭も畑も先祖からいただいたものだのに,父母を施設の厄介にして,畑はサシグサのお花畑。このごろ家庭の環境は崩壊寸前のR-tyuuの足もとで庭を散歩する。 さて,今日行く論(生涯学び続けるための自己暗示)にはいろう。
2006.11.28
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与論の諺にいきさーへーさー 素手では帰るなとある。与論町町政施行40周年記念発行の「与論のことわざカレンダー」を日めくりにしている方も多いとおもうのであえて説明はいらないだろう。私がきになるのは、ことわざをきいてもとなえても我が行いにせずばかいなしでぶらさがっただけのカレンダーになってしまっていることだ。2年間日めくり使用したが、今年からは閉じたままにしている。 言葉には裏と表があることに誰もが気づいているとおもう。 いきさーへーさー・・そんなせちがらい世の中誰が作ったのかなどと。手間ど宝。暇があるからそれを大事にして癒されている。軽トラックでごみを捨てたあとはもったいないので肥料や飼料を積んで帰りたい。と誰もがおもうことだ。 物がない時はもと来たみちは帰らない違う道から帰ると何か新しい出会いがあるかもしれない。 毎日の通勤時間がもったいない。5分の間に今日の仕事の計画をたてる。帰りの5分で今日の足りなかったこと考える。誰でも実行できる簡単なこと。頭の中と目線が違うことにきずいた人が お前は挨拶をしないという。私は腰が落ち着かずあちこち歩きまわる性癖がありよく注意散漫とおしかりをうける。又、片耳がツンボなもので、都合ミミともいわれる。 いきさーへーさーキャッチボールをしなさい。できれば仲間同士で一つのボールをすばやくたくさんまわしなさい。それも価値の高い者を短時間に出来るだけ多くの仲間に、できればひとりひとりが価値を付加すれば益々価値が高くなる。 泡さん今頃気がついたのですか。ときやまさん笑っているだろう。ネットの世界へようこそと。 ブロックを平面で積む工作の世界から空間でブロク積む世界にやっと目醒めました。初心者をみなさんよろしくおねがいします。 あのねのミミちゃん 聴いとくれ。 そうそう、百人一首を通学電車で暗記したがほとんど忘れている。こまめに出してつかわなければ宝の持ち腐れでした。 断酒したおかげで 暇が出来 パソコンのほこりも払えたし いいことばかり。 皆さん アルコールはひかえめのほうがいいですね。自己宙。
2006.11.27
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東西南北裏から見ても東西南北に読める。旗にしたら裏と表から同じによめる。川内川 上からよんでも下から読んでも裏からよんでも 山本山 も。与論島の 与をデザインした人の発想も素晴らしい。 昨日の高校40週記念のパネルディスカションは実に良かった。個性の持ち味をいかした、コーディネーターの山之内先生と質問した元井君に敬意を表したい。うさぎとかめのたとえ話の発想の転換をしたヨロン談義の竹内さん、読むより実物のほうが面白かった。あいさつできてうれしかったが、いつかじっくりとお話を聞きたい。 情報は南からこれまではいつも受け手であった 最先端になるには情報の発信源になればよい。 そのためには常に新しいものを作り出すことだ。イデアあるいは、芸術を。 まず起点を変えてみてみよう。東京発を那覇発に。未だ浮かばないが、何かが生まれそう。 与論高校存続を真剣に考えなければ島の未来はないと思えた。この土地で培った考えがなければなかなか島に帰りたいとは思えないだろう。 与論に高校がなかった頃、向学に燃えた輩や恵まれた一部の者は下宿するか寮生活の仕送り暮らしであった。 ここで、逆転の発想をしてみよう。 生徒を全国募集して、下宿か寮を開けばいい。全国では、落ちこぼれもある、特殊な才能をもっているのもある。あるいは、不登校者も。 同級生の発想を借りると、勉強したい者はNHKの通信講座で充分だと。いまは、メディアの時代。どこにいても教育はうけられる。 世界史などの単位が問題になったが、逆に単位を取得する方法論を展開して与論高校の生き残る道を考えてみたら。 県立がダメなら町立では、私立なら思想を持っている人を見方につければ存続は出来るはず。できれば郷土出身の教育者を期待する。特殊学級を併設するのもいい。 与論の在住人口で考えるからダメなのであって・・・。やっぱり、お前はおかしい。誰がやるのか、でおしまい。 沖縄県の伊江島の観光協会長の民泊誘致の発想をいただくとしよう。新たに興すのは出来ているものの何倍ものエネルギーが必要だ。私の島には高校がない。あなたの島には高校があるじゃないですか。私のしまはこれから民泊の修学旅行の誘致を推進している。あなたの島はすでにヨロン島知名度がある。 どうですかみなさん。この知名 ヨロン島の銘柄を利用し特産物を発想・発送しようではありませんか。匠の郷、匠の島、丸ごと与論島博物館。 夢の島を興すのは あなた。 そういう 自ら。 自らヲ興す者ガ 島ツクリ。 窪舎 はフブシャと呼ぶ。 与論 ヨロン 世論 我等が高校 輿論。 くぼしゃかい 元快蝶 泡 盛クブ ブクブク ヨッテハイマセン。
2006.11.26
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またもや不思議な出来事に遭遇してしまった。郷土研究会の麓先輩から電話があり与論城主オーシャンの墓を捜しているが、奉行墓あたりに検討つけている。 もしそこでなかったらドゥリ墓辺りではないかと思うが、云々・・・。急遽、残り少ない年休をもらって先輩と墓探しの手伝いをすることになった。 お供をしたのは神がかった女性と連れの男性。私がかねて目をつけていた場所に案内すると急に女性の様子がおかしくなって苦しみだして倒れてしまった。先輩から聞いていたので驚くことはなかった。ここぞとばかり藪を掻き分け捜したが、それらしき印はそこいらではみつからなかった。 農協選果場南側のドゥリ墓と言われるところでは全く霊感なしであった。探しの途中で、私が近日まえに馬の蔵屋敷から出てきた石、の話をしたところそれを見たいとのことで、屋敷からもちだされた石のあるところに案内することになった。 捜していたものはそれだとのことになって、サー大変。 私は案内人および確認者である。続きはいつかまたあとで。 今日は、40周年記念。
2006.11.25
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又、楽しからずや。午前様で帰還。遅れて出席したら恩師の体育教師丸田先生を囲んでの同窓会だった。いつものメンバーに途中からシーチャン先生も加わっていただき、出来の悪かったTが話題の的になり大いに盛り上がった。 2次会はカラオケ。結婚披露宴をひけたM夫婦や20期生会長もくわわりマンボなどしながらの喉自慢。 私は「加賀の女」を歌った。同窓会で真面目に歌うのは初めてだったのだろうか。 酒止めてよかったね。照れるじゃないか。 レパートリー多いんだけど。なんて思ったりしながら、迎えに女房よんだら友達連れてやってきた。元同僚だった先生の歓迎会からといってたが、一緒にのんだり踊ったりして飲まずにいられた私が友達送って 星降る夜の 田舎道 遠回りして帰った。
2006.11.24
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お元気ですか。 柿の葉が落ち、赤い実が風に吹かれている。相変わらず寒い毎日だ。孝と待ち合わせて健一の下宿を訪ねたたが留守で、何もせず別れてきた。 昨夜は夜更かしで君の名はをいっきに読み終わった。戦後の傷跡を生き抜く人々の姿、人妻を愛する男性の苦悩、片思いに身を焼く女の人間模様をであった。 これで安心して児童公園の課題に取り掛かれる。今月いっぱいに提出すれば、来月からは学校は休みでいよいよ卒論にかかる。帰郷するかどうか思案中、できれば卒論がすみ、自動車免許をとってからいっそのことアパートを引払って帰りたい。 その方が経済的だ、1月中旬ごろになるだろうか・・? さて本にあこがれるようになったのはたぶん学生になってからであろう(あるいは浪人時代に)。中・高校時代は教科書意外の本はまれにしか読まず、低学年によんだルパン全集、童話などしか記憶にない。僕に比べて弟は読書が好きだと母はよく言っていた。高校時代弟が借りてきたロシア文学をめくっていた時、なんとかイワノビッチ・・、などの発音に閉口して文学書などは退屈そのもので、ギターを弾くか外で農業をしたほうがましだった。その頃、失意にあった僕を家族は半ば諦めていたらしく好きなようにさせていた。 浪人時代、やりきれない思いから源氏、石坂、山手樹一郎などおもしろいだけの本を貸本屋から借りて読んだ。三和町の親戚の家でも何冊か読んでいるうちに人並みに読書の楽しみを知ったようだ。あなたがK公園ちかくに・・・・・。 学生になって、自覚して文学書を読む決意をした。まず1・2年は教養書、3・4年は専門書をと計画、卒業までに本棚3ついっぱいを目標にした。結局1年は文学全集、2年は趣味と自然科学書、3年は専門書数冊。現在は興味本意となっている。結果は、目標の3分の2というところだろうか。 小説を多少低くみている傾向がある、正しくないと思うが・・。無理して、岩波新書、NHKブックスを数冊読んだがさっぱり頭にない。自分にあった本の読み方をしなければと今は反省している。 繰り返し読んだ本に、ギリシャ神話・星座に関する本音楽がある。 この3分野は多少勉強もした。蔵書をみるとそのひとのことが分ると言うが、少しでもそれを真似しようと努めたけれどいかんせん、本の数がそれを示さない。いつまでも憧れで終わってしまいそうだ。 お茶を飲みながら続けます。僕はどっちかと言うと甘党らしい。渋いお茶に生菓子、紅茶にケーキなど大好きで、本にあきたり、音楽が聴きたくなったりしたときあのねのミミちゃん・フーちゃんをみながら、香りと味を楽しんでいる。同窓会の翌日、孝がアルバム見ていたので「尾瀬」の写真をみせようとさがしても見つからず、あとで「島人を愛す」にはさんであること思い出してた。孝は帰ったあとだった。 ふたりほど趣味の違う友達も珍しいだろう。会っても何も話すことがない。男同志って自分のことなどあまり話しもしないが、ふと淋しい時がある。 略 僕は、書くことによって、話すことによって夢がかなえられるような気がします。僕は自分の夢を「kuboの小さな世界」などとよんでいますが、どうぞあきずに読んでください。 11時を過ぎた、今週は必死で課題を仕上げなければ。 卒業できないことにでもなれば家族に申し訳ない。 11月21日(曇り) 返事の手紙より
2006.11.23
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苦手なことはと聞かれたら 絵を描くこと かけっこ 工作 と答えるだろう。母方の血統 本 家は絵の才能があると思う。実際に絵本をだしてる 本くに子さんこれから有名になるかもしれない アトリエ「ノアノア」の本兼光さん叔父 福雄も素人の絵を描いていた。その血をひいているはずの母は歌は父ゆずりのド音痴 野呂足 絵を描いてるのみたことないその点、故福雄叔父は歌に絵に口もうまかった。叔父譲りの私に絵の才能があったならばいまでは芸能界で活躍していただろう。 工作もダメで何のとりえもないので、後は頭で勝負するしかないと悟ったのが中学2年生動機は 憧れの君に振り向いてもらうため 彼女5番で僕30番ぐらいの成績だったよな・・・。努力のかいあって少し成績あがったけど 結局美しい片思いでした 高校2年の世界史の担任で下村先生が美術を担当していた。野外写生で漁港の絵を描かされたみなのまえで取り上げられた先生の評価は 小学生にも描けないであった。相当のショックでいまでも立ち直れない。 その反動か、時々絵画展は見るようにこころがけた。同級生に美術を職業にしているのが2人いる池田と苗字しているが日本とアメリカの大学で講師だという。 誉は東京青山での個展もきまっている。ヨロンのDNAで紹介しているので「与論島公式ホームページ」をたづ寝てください。 誠良は陶芸をやっているときいているが、ここのところ会っていない。人生はまだまだ・・・。 苦手をばねに、得意を伸ばして私も芸術家に挑戦しよう。 ビーナスの夢が泡となって消えないこと願いつつ 夜明けをまつ。
2006.11.21
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日光を見ずして結構というなかれ フーテンの虎さんは 猫はいだらけ・・・・・・ 子子子子子子子子子子子 子が多かったかな。 番狂わせがあると結構面白いことに出会える。 予定を切り上げ切符を切り替え登乗手続きを済ませると、与論地方悪天候のため天候調整中のアナウンスがあった。次々と、顔見知りの連中があつまり次いで町長までも・・・。 結局は、欠航が決まり次の行動の決断を迫られる。霧島の温泉に行こうかとも思ったが、(以前欠航したときの妻との思い出があったので) 呉越堂州 とパソコンが表示されている。独り船に乗って、錦港湾の船中でビールの酔いに酔いしれたい欲望を抑えることができるか はたまた、団体行動のなかでの献奉を断る意志を貫くことができるかを試すことにし、払い戻しをうけた農協職員他一行6人と市内行きシャトルの車中の人となった。 問題は船の出港までの時間つぶしだ。映画がいいが、大将等はパチンコのため下車場所から遠い昼食あとは自由行動、熊本の動植物公園でサボテンの群れを見てたので気持ちは植木屋に。 幸い連れが一人できてタクシーを乗り合い、港経由で目的地につれて行ってもらった。珍しく小遣いがあったので観葉植物とサボテンを選んで専門の係員に荷作りしてもらった。 ハスノハキリとオーストラリア原産のガジュマルの仲間は大木になるので植栽場所を検討しなければ。今日あたり届くであろう。 サボテンは水はけの良い用土を入れ、砂地を砂漠に見立てた配植を考えている。「亜阿相界」 パキポディウム・ゲアイ(マダガスカル)原産アジアとアフリカの境界のマダガスカル島に自生する(相)キョウチクトウ科の植物名 あと10年したら小さな面積のなかで砂漠とジャングルが共生したら面白い。凸凹(盛窪)苑と名づけようか。 水辺もほしい。小鳥も飼いたい。 亜阿それなのに それなのに ビールはとうとう飲まないで無事帰還することができた。 目出度し めでたし。
2006.11.20
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秋晴れが続いていたので久しぶりの雨は農作物にとっては何よりだ。鹿児島ー与論便が欠航で船に乗り換え昨日無事着いた。玄関を開けると雨漏りが待っていた。応接間の天井から2箇所、まだポタリ、ポタリとおちている。早くなおさないとそのうち天井と床が朽ちてくるだろう。外見は頑丈だけれど、内はだいぶ傷みだしている。大きなお祝い事がある前に模様替えをしたいのだがその前に周辺の整備からと、つくろい暮らしで忍んでいる。 さて、出張は有意義に過ごすことができた。会いたい人のところを転々と3泊した。南日本美術展で入選した本さんの作品を時下にみれたのは良かった。次いで、娘と熊本動植物公園でサボテンをみて「ああ爽快な」の植物名に驚かされた。(漢字は当て字、きょうちくとう科の植物)自宅の庭にサボテンを増やすことと、洋ラン小屋を作ろうと思った。 交通の便から、妻の実家に泊るため新幹線に乗った。熊本行く時は各駅停車だっただけにその速さと言ったら便利だけれどトンネルばかりじゃ情緒もなんのその・・、しかし夜だったからまーいいか。 朝早く起きて荒崎の鶴見の近くまで散歩したが、夜明け前に帰り着き野田町の朝市を見学に行った。元気な老人の憩いの場所でした。村づくりの先進地を見習わなくっちゃ。 紫尾越えで飛行場到着、天候調整で町長他農協関係の要人たち皆が顔合わせ、結局欠航が決まり、町長を残し船に乗り換え島に着くまで団体行動をすることになった。 船の中で兄弟島でお世話になった島さんにも会えて本当にいい旅行であった。雨漏り・・・。「ふるやのもり」のはなしごぞんじですか。文面とは関係ありませんが・・・。 今週は行事が山盛り。盛だくさんです。
2006.11.20
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同窓会にて 4時に登戸待ち合わせ、幸子がきて10分ばかりしたら孝が来た。新宿で乗り換え目黒で降りると彰彦が山州会館を教えてくれて、孝を先頭にネオン街を歩く。やっと捜しあてたところで一清に会えた。10名ぐらいが席についたところでしばらくしたらビールで乾杯。挨拶もそこそこに始まった。23名、久しぶりの顔は中村・益田・山本・竹沢・・みんないっぱい気分で調子づいている。俊成が歌ったり踊ったり、演説したり、なかなか愉快な人物だ。西、中村、竹沢君などと話をしたが酔って耳が遠くなったので熱心に話すことが出来なくて残念だ。 注意してあまり飲まなかったせいで気は確かなままだったので酔っている友達をみるのは愉快でもあった。中村とか竹下君などとはじっくり話したい気持ちもあったが、人声が入り混じったたり相手もろれつがまわらないではまともな会話も出来そうにない。伸子が孝と、健勇・山下の噂話をしているのを聞いていた。Aがだいぶ酔ってどなっている。SはNにつかまった・・・、みんないろいろな顔をしている。僕はどんな顔をしていたのだろう・・孝と伸子はYさんのことを話しだした。彼はYさんのことが好きだったのだろう・・。 校歌を歌ってお開き。孝のグループは西田、染川・・・・を予定してたが来ず、龍野・竹沢・川上が加わって、新宿のやきとり屋に入る。竹沢のおごりで飲み、新宿で別れた。 孝が泊ってくれたが雨で帰れず、将棋などして昼過ぎまで遊んだ。彼は仕事をせずブラブラしているという。どうするつもりだろう、話してくれてもよさそうに。海老の飾り物もらって帰っていった。来週あたり、スケイトに彼女を誘っていくかもしれない。 思ったとおりの同窓会で、たいした収穫もできなかった。宴会はこりごりだと感じる。話も自由に出来なくては楽しめない。2・3人で家庭内で飲むほうがいい。孝は大分酔っていて、中原駅から走ったりふらついたりして、アパートまで来てろくろく話もせず寝てしまった。 アルコールのせいで、おかしな夢をみてしまう・・・。おじいさんが気が違って、両親が都会に引越してきた。家のまわりものはそっくりそのまま、ポツリと都会に居るのだ・・支離滅裂。 Nは少々おしゃべりだ。香水のかおりが心地良かったが、あまり上品にはみえなかった。Mさんは割りと落ち着いていて感じがいい・・・。 あとNとAは仲がいいらしい。 S・52・11・14(日) まだ眠くならない。ので書き足そう。 「一生を終えて残るのは我々が集めたものではなく、われわれが与えたものである」という言葉に感動して。 「日記を3年続けて書いた人間は将来何かを成す人間である。10年間続けて書いた人間はすでに何かを成した人間である」というのに勇気づけられるとともに、何か成さねばと励まされたり。 11冊目の日記帳もあと2ページ・・・8年あまり素直に自分を書いたつもりだ、だから悪いことは決してできないはず・・・とはいっても、うしろめたいことは何度かしている。 でも日記はそのことを許している。それが、自己の弱さでも。この日記が僕を悪い道に走らせなかったものと思う。今日書いた手紙は、かねて日記に書くような調子なのだ・・だからほんにつまらないものだ・・文才があればいいのにとつくづく思う。 ・・・・、それに就職のことは?音沙汰がないから未だ決まってないのだろう。世の中そう甘くないのだな。覚悟して帰るぞ。結婚は28~30才ぐらいにと思っているのだが、そのうち大恋愛でもしたら別だけれど、当分は、本とオーディオとオーディオルームのことで頭がいっぱい。そのためには、快楽を絶って、汗水流す決心。まだまだ自分のことだけ精いっぱいです。 ではみなさま、お体に気おつけて、 元気な正月を。 もうねるぞ。おやすみなさい。
2006.11.14
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学生時代小田急沿線に住んだことのある役場職員の飲み会を1回だけやったことがある。目が覚めて急に思いついて書いている。起きるには未だ早いが、2度寝するつもりでいる。誰からともなく言い出して、私が年上だから会長にさせられたがそれこそ何もしない会長である。 新年会を兼ねて退職前にもう一回はやりたいと思う。 弟は神大、私は農大で通学の関係でアパートを捜してもらった。最初の1年あまり海老名に住んでいた。友人が座間にいたので近くでもあり、よくお世話になった。 それから、南部線の武蔵中原で卒業まで暮らした。散歩で多摩川までいける距離にあったので、まんが寺、等々力緑地などはよく徘徊した。野球のキャンプ地なども近くにあり散策するには良かった。卒業したあと3度行ったが、まんが寺の池がなくなっていたのでもう2度といかない。岡本一平になぜかこだわっている。住職に会ったときの印象が悪かったせいか・・・。 なぜか暗くなるので書き直そう。
2006.11.14
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自然美と造形美について考えさせられる。自然の神秘を美しいと見るか、当たり前のこととして見過ごしてしまうかによって心の豊かさが違うようなきにさせられた。 ゲルニカのレプリカを与論高校創立40周年記念に寄贈したいと、長崎さんが与論移住の記念にとはなされていてが、どうしたらいいかと昨日職場においでになった。 以前に募金係りの阿野さんには話していたが早速、実行委員会に相談してみたとこ丁度会合があるとのことで、とんとんと話が進み校長室まで案内された。 歴代校長の写真を見ながら長崎さんといっしょにお茶をいただいた。レプリカの額を友達が作ってくれて、普通の家庭では不似合いなので公共の場がいいだろうとことで寄贈を思いついたと。 なるほど、私がもらっても私の玄関には不具合だ。校長室の白い長めの空間には丁度似合うと思った。歴代校長の顔写真はほとんど見覚えがある。 懐かしい校長室だ。初代の写真は、恩師納山主事で数学でしぼられた。「一歩・一歩それが大きい」の口癖の神田校長などなど・・・。 窪舎会の役員会や監査で校長室は馴染みがあるので、もしこの部屋にゲルニカが飾られると誇らしい気持ちにさせられると思いながらのひと時であった。 長崎さんのメモより ゲルニカ 1937年 フランコ将軍統治下の小さな町 ゲルニカ(スペイン)当時内戦で、ナチスドイツがフランコに味方して当町を空爆、大きな犠牲出た。怒ったピカソが、同年のパリ万博のスペイン館に壁画を描いた。 今はアメリカを経てスペインにもどっている。 井戸端に残してあるはずの月下美人がいつの間にかなくなっていた。13歳祝いに浜田さんからいただいた記念の大切な木なのに、感謝の心を忘れていたのだ。同時に頂いた掛け軸 「不断の努力」 「清く 正しく 明るく」 忘れてはいけないないその約束を。船乗りにはなれなかった。けれど灯台守りとして島を見てくれた海上保安庁灯台係長の浜田さんを思い出しながら名瀬の出張を楽しみにしていた。要所要所の灯台を見ながらのビールは最高だった。一隅を照らす者になれるかどうか、これからの努力にかかっている。 今度の出張ついでに野田にも立ち寄って、月下美人をもらってこよう。アトリエ「ノア・ノア」にもお邪魔したい。 そのまえにしっかりしたヒアリング資料を作らないと。夜明けが待ちどおしいと犬がよんでいる。
2006.11.13
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ウインドサーフインの季節がやってきた。友達の島内案内に大金久海岸に行ったら写真のような海洋青年がいっぱいいた。ちょっと風が強いので初心者には無理のようだった。 昨日のウォーキングは天気に恵まれよかった。見送りの時間を気にしてたので急ぎ足で歩いたので話友達ができなかった。途中、郷土研究会の先輩に呼び止められたりして抜きつ抜かれつで足の長さはたいして変らなかった。12時前にゴールしたが完走のビールが飲めないのが残念。 見送りも無事終え、家でくつろいでいるところに停年退職した先輩夫婦が訪ねてきて庭木をもらって帰っていった。家を新築したので木陰が欲しいのだろう。苗を用意して置いとくといいと思った。 昨夜、妻が長女と話していた。職場研修旅行での人付き合いと気配りについての様子らしかった。出張ついでに、次女美知瑠を熊本に訪ねてみようと思う。ついで、長女も呼ぶとするか。 それよりも、仕事大丈夫かいな。休み明け、まずは仕事、仕事。
2006.11.13
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島内案内は天気がよかったせいでまずまずで終わったあとマツばあちゃんのお悔やみと母の見舞いに案内した。母は眠っていた。目を開けて見る事はできたが本人を認識できたか定かではなかった。父は昔のことよく記憶して話が弾んだ。 「かりゆしバンド」が島外公演のため民謡と踊りを楽しむことができないのでカラオケに誘った。連れが歌もダンスも得意と聞いていたので腕試しに、新装開店したチャレンジに弟夫婦も誘っての挑戦。 歌いだしは私が、ドリフのずんどこ節・・・。後の人が歌いやすい。弟は歌いなれているから上手い。目当ての連れは、上手いのなんの、セミがフロにはいったような、踊りにあどりぶにはたまた、容姿も・・・。すっかり堪能して帰った。 あとの人は、なんて聞かないで。私のは「加賀の女人」がうけたようでした。 今日はパナウルウォークの半周コースに参加したあと見送りに行く予定。オリオンが輝いて月灯りがみえるので天気はいいらしい。風のおとがするがこれくらいは愛嬌で、むしろ汗ばまないていどで歩きやすいだろう。 今回はどんな人に出会えるか楽しみ。歩こう、歩こう、歩くの大好きだから・・・。 一生歩けるうちは参加し続けたい。
2006.11.12
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旱魃が続いている。豊年祈願で雨乞いをしたのに天に届かなかったのだろうか。琉球の舜天王統の義本王はあまりの旱魃のため凶作続いたので、王位を英祖にゆずり琉球の各地を転々とし巡礼して廻っていたが最後は与論島のタテダラの近くの洞穴で息を引き取ったと物語を作ってみたらおもしろそうだ。 義本王が即位したのが1249年である。私の守護神は大舜といわれている。大舜は中国の歴史にも記されている孝行息子であるのでしっかりせねばならないが・・・・・。そもそも、守護神を信じればのはなしである。さて、十五夜踊りで何に向かって祈願するのかと聞いたところ、写真の正面にある「太鼓」だときいた。寄進者の子孫も参加していて2番組は安泰である。 昨日の告別式は島中の参列者のもと滞りなく盛大に行われた。故人の人柄によるものと思われる。岩村神官のおかげで、埋葬の儀式についてききながら写真に記録したのであとで整理しておきたい。今回は使い走りの役目だったので自由に動くことが出来、ぞうりつくり・池堀などについて聞き取りすることができた。 さてさて、鹿児島より来客があったので3日祭りは早めに切り上げて楽園荘に行ったら、カナおばあちゃんと床の間で話していた。母の従姉妹にあたるが私と同じ歳、浪人してたころお世話になった人で姶良町に住んでいて、旦那が役場職員なので似たような生活環境だろう。旦那の妹さんが与論島初めてなので観光しながらのお墓参りにと訪ねて下さった。この前、兼光さんのアトリエ「ノア・ノア」を訪ねた時久しぶりに会った。与論は高校のとき以来というからなにもかも変っているだろう。まず、私の家も、父の生家も、キビ植えした畑も。 浪人時代に彼女にもらった、日本文学全集・河出書房37.「あじさいの歌」石坂洋次郎を取り出して最初の2ページ読んでみた。世田谷農大から小説の舞台、砧はすぐ近くにある。 妙なとりあわせである。田舎者にとって、時の、田園調布の町並みは憧れであった。有名人に偶然会えないかなどとおもいながら、多摩川あたりを散歩したりしていた学生時代を思い出させる。 昔の静かな住宅街のイメージを、与論島文化人村構想に膨らませている昨今である。ランドアンド・ランドスケイプの夢をもう一度。
2006.11.10
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与論島に初めて電灯を灯し バスを走らせた人「南 前村」 執筆者 竹 盛 窪 与論島に初めて電灯が灯されたのは、昭和27年5月のことで、あたかも島の文明開化を告げるごとき画期的な重大な出来事でした。その頃の与論は終戦後祖国と分離され、奄美群島政府で、信託統治下にあり住民は沖縄との交流でようやく生計を保持している状況にありました。夜の暗闇での生活は、風除けのため工夫されたホヤによるランプとカンテラの灯をたよりの貧しい暮らしでありました。暗闇も同然なランプの灯の下で勉強している子供たちを見るたびに「勉強せよ、もっと勉強して偉い人になれよ」という親心から電灯を灯すことを決意し、私設の電気発電所を新設し、茶花の民家150戸に希望の明かりを灯した人が南前村翁であります。 翁は、明治43年6月21日父安元、母モチャの4人兄弟の長男として叶集落で生まれ、那間尋常小学校の4回卒業生であります。与論高等小学校卒業後向学の志に燃え、兵庫県朝来郡生野町三菱生野鉱山へ行き、選鉱部の事務所で鉱石分析係として働きながら学び、生野町青年学校を卒業しております。会社では後輩の指導にあたりながら将来を嘱望されていたが、病気のため止む無く21歳の時帰郷し、父の農業を手伝う傍ら現在の事業所で昭和10年より物品業を開業し、青年実業家としてのスタートをきりました。妻いつこと結婚したのもこの歳でした。 その心の内には、青少年時代に学んだ「人間は各々の職場を通じて相互信頼、相助け合って共存共栄の生活をする」との信念と決意がみなぎっておりました。 翁の開設した私設の電業所は島民に希望の灯を灯しながら、茶花の一隅の民家からやがて全島に広がり、奇しくも那間小学校第一校舎が竣工した昭和32年に村営事業として引き継がれることになったのであります。 翁は、青年実業家としての才を遺憾なく発揮し、販売事業を拡大していき、昭和37年には一般貨物運送業等の営業免許を取得、南陸運(株)を設立し与論島にも初めてバスが走るようになりました。すでに走っていたタクシーと共に、島の生活に欠かせない交通の便の整備は、その後の観光ブームの到来を予見させる出来事であったといえよう。 初めてのバスを本船から降ろすときに、2艘の艀をつなぎ筏を組み供利の桟橋に運ばれたがすぐには陸揚げ出来ずに、一夜明けた朝の8時、満ち潮のタイミングを利用し陸揚げした苦労話をされながら、翁はこうつぶやいた・・・。 「陸運事業は電気と同じく文化生活には必要であるが、島が小さく営業には不利な条件が多い上に多額の資金がかかる事業だから、収支を度外視し、場合によっては場合によっては自分の命賭けになるやもしれぬと思いつつも、今俺がやらなければ・・・と決意した」と。 又、子供たちに言い続けたと語る。「島は大きくはならないから、勉強をして、学問のちからで島を大きくすることを考えよ、大学を出たら島に帰ってきて島のために働きなさい」と。 子供たちは翁の教えをまもって島に帰り、長男は25代首長として21世紀の島づくりに、次男は翁の事業を引継ぎ、更に事業を拡大し島の発展の大きく貢献しています。 子や孫に囲まれながら現在も会長として元気に執務されている翁の姿は、島は小さくても、体は小さくとも、学問の力によって大志を果たすことができること。 「南の島から、南に向けて、南は最先端、みなみなみ」南の島の発想で頑張れと励ましておられるような気がします。 那間小学校100周年記念誌より 転記
2006.11.09
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「蒼い珊瑚礁」で客人と昼食中に訃報をうけた。突然の知らせであったが、高齢でもあったのであまり驚きもなく、悲しくもなかった。とうとうお迎えがきたのか、との思いでそくさくとお客さんに訳を話し早めの見送りをして病院に行ったがすでに自宅に送りましたとのこと。 オートバイを走らせながら葬儀に掛かる一連のしきたりを頭に思い浮かべながら自分の役割と親戚への連絡等段取りをつけた。弟等はすでに掃除等作業にかかっていた。神に召されたマツばあちゃんの顔は白くきれいで、目はしっかりと閉じられていた。 生前から私と、酒匂(憲)は記帳係にと指名されていたので、迷うことなくその役を意識して手伝いにかかった。テントを張って準備を進めている間に身内が次々と集まり、川内さんが指示を与えて仮通夜の準備は5時には終わった。庭が広かったおかげで、桟敷き(張り出し)を組まなくてよかったので作業は楽だった。 私は死亡診断書をもらい死亡届けの為に役場に行き、職場で埋葬許可証をもらい2時の出棺を知らせ葬儀のため年休をもらった。緊急の仕事はなかったが、10日に入札があるので気にかかる。 総当り(すーあたい)の川内陽吉さんに呼ばれ、役目係りを記録するのが私の役目で、神官に岩村さん、祭り人に川畑辰雄さん、奉公人(ぷーくにん)4人、池堀人(いきぷいにん)3人、記帳係(ちょうちき)4~5人、酒係(さいあたい)2人以上、加勢人・・。女性の総指揮(総当り)は川内千代子さんで、本ヒデ・本京子さんが補佐役。加勢人は多いほうがよく、真弓らもその仲間になる。6時前には夕食(ゆーばんじぬ)が終わり、用事のあるひとは帰り、行き違いに伝え聞いた身内が集まり酒などを酌み交わし通夜(ゆとぅぎ)は役割を確認し合って、8時前に終わった。記帳係に高井さんが加わったので、進行係りは彼に頼むとしよう。私は川内さんの指示で自由に動ける役割がいいと思う。 埋葬なので、これからあまり経験できないので記録しておく必要があると思い書いている。葬式が続いていて、冷静な目で見ることが出来るし、又火葬にも慣れてきているので今後の葬儀のあり方にも興味を持っていたのでいい機会にしたい。次は我が身である。そういえば、初めて葬儀に参加したのは(死を意識)故人の母チヨさんだった。小学校から授業中によばれ、家の後ろで泣いたあと原田家に行かず皆田の海岸に立ち寄り泣いたのを覚えている。原田家ではあれ以来(44年前)の葬儀とのことである。長命の家系で、私の祖母エクは9人姉妹の長女であり7人が召されたことのなる。 かわいがってくださった祖母のためにもちゃんと心をこめて役目を務めたい。今日の最初にすませておかなければならないことは、故人の写真。いざとなる時捜せないのがこの写真である。自分が死ぬ前に気に入ったのを捜しておこう。 みなさん お体を大切に。
2006.11.08
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昨日、沖縄からビンのリサイクルについて指導に来てくれた業者の方から「海ぶどう」の養殖のことを聞くことが出来た。ボランティア精神のにじむ人柄がとても好ましく思えた。心配していた、ビンの仕分けや輸送方法についても相談ができ、ストックヤード事業も順調に進んでいる。目出度し目出度し。 「海からの発想」を本で読んでから20年ぐらい経つであろうか。沖縄近海での海洋牧場のことを書いていた。購読のきっかけは「海はなぜ青くみえるか?」のことを解説していたからであったが、沖縄の研究書であったので試してみたい発想がいくつかあった。モズク養殖の成功したあと、「おごのり」の養殖試験を水産試験場の協力で船倉海岸で行ったが今だ業とする人を聞かない。時の担当に期待してたのでちょっと寂しいおもいでいた。又、ずい分前、石垣島を観光してた時海ぶどうの土産を買った。これも養殖できることしってたので、誰かがとおもってたが近年漁協ではじめたらしい。 「海洋牧場」のことはそれ以来頭にあったが、海のことは得意でなかったのであまり言い出せなかった。漁業権のからみもあるので・・・。「海が畑であるとしたら」から発想すると、まず耕すだろう。カルチベイト。畑だったら、防風がきを作り、他の所有者との区切りをつける。種を蒔き、水をかけ、・・・・。陸地が海に変わるだけ。そう簡単二以下ないのが、潮流、水温、台風などなど・・・。 モズクだって同じ条件で成功している。海でダメなら陸地で。 海ぶどうが成功している。 沖縄で事業化されているものは、工夫すれば与論でもできる。いつも問題は、誰がするにのか。 お前がやれ、成功したらおれもやる。まーま、それでいい。みんなでやろうと行政や、組合が本気で取り組めばとみんなが待っている、そんな時代ではなくなった。 馬鹿をいったついで、海中公園特別区を特区とか言って、海洋牧場としてエリアをきめて、管理してみてはどうか。口でいうのは簡単。お前がやれとしたら。やはり「皆田離れ」が適地だ。 海上はシーカヤックなど使ってもいいが、海中のものは極力採取しない。元の深さに海中を耕して、海洋生物の生息調査をする。 漁業者の協力を得て、一般の潮干狩りの採取を期間を決めて禁止するなどするためには、漁協組合員の結集が必要だと思う。 与論を豊かにする近道は、昔のラグーンを取り戻すことだ。「海の再生」はたったの7000人が協力すればすぐにできる。10年計画ですればもっと豊かな海を再生できると信じている。 協力者は世界中から応援をたのべばいい。きっといるはず。 魂は、母なる大地で生まれいつか海に帰るのだから。地球は青いというが、それは、空に写った海のいろだから。 保護するだけが手法ではないはず。世界遺産も大切だけれど、神々はそれを望んではいないだろう。宇宙は人間の力で保護できるものではない。 やはり自然との共生のためいろんな手法が議論されていいとおもう。さておいて、現実として、海ブドウは新鮮な海水と適度の水温とえさがひつようであり、ひと時も管理が怠れないとのこと。何が足りないかは、海ブドウが教えてくれるとのこと。 「適地もいっぱいありますね、私が移住してきてやってもいいですね、一緒にやりませんか。商品取引をするには量が必要だから、一人で儲けようとしたら儲かりません。みんなで儲けましょう。」だって。この話に乗りませんか。
2006.11.07
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竜頭蛇尾にならないように。 鹿児島の尻尾であるよりも琉球のシャッポであれ。サトウキビを作ってみようと考えた。組合法人なら経営規模を大きく出来るだろう。発想を琉球の頭に切りかえよう。原点に返れ。代々つぶれずにつくれる作物にはそれとしての存在する意味があるから残っているはず。 名誉町民有村翁に学ばなければならない。無駄をださないこと。必ず足元にこぼれるようにものを考えること。やはり、循環型農業だ。 誰か、金を貸してくれ・・・。網たぼーれ。 ブラジルのコーヒーが出来たと読んでいる。
2006.11.07
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エーゲ海に行ったことないので真珠の輝きが分らない。ポールモーリアさんの訃報をきいた。イージーリスニングの入門の曲だったと記憶している。 「東洋の海に浮かび輝く一個の真珠・与論島」への夢の続き(ほやさん)をかいていたが、書き込み途中おもいが爆発してかき消えてしまった。 幻の書き込みとしていつか又、思い出す時のためにとって置こう。湧き上がるおもいは、そのときでなければかけないもので、夢の続きをみることの特技を持っている泡さんでも無理。 静かに夜明けをまとう。満月よりも十六夜月がきれいにみえる。女房と連れ立って買い物帰りで見た月はきれいだった。 うつくしいものを、美しいと感じられる心があるのが何よりだ。 たぐさとるなら いざ酔い月夜 二人でやれほに 水入らず あらら つきの葉にげて いれずも あらなん もうやがて よがあける かぐや姫は 一度目がさめておりてきたが またもや・・・・。 日々是好日 わたしは口実をつけて夢をねだる 仮面の踊り この文化にどんな意味があるかを保存会の若い方々が調べて意見交換の機会を作って欲しい。文化財としての価値は、伝承だけではないはずである。じぶんが伝承者である意味、役目について考えながら執り行うとこれまでとは違う所作が出来るのではないだろうか。 加計呂間島の「諸鈍シバヤ」などとの交流も必要だとおもう。文芸員の町さんも与論出身だし、大島群島の古代から中性をしらべるには、特に海の交易を調べる上で重要なことである。 今年最後の十五夜踊りまであと一月足らず。私は按司根津栄の神社に奉納する予定です。今期から、地主神社は副神としようとおもいます。
2006.11.07
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与論の歴史を調べているなかで「馬の倉屋敷」について小耳にはさんだのはちょいと最近のことである。だれからだったかは定かには思い出せないが、場所については以前から知っていてとても気になっていた屋敷であった。ムトウ砕石からピャーヌパンタに差し掛かる三叉路の左側にある無人家で、昨日通りがかりに立ち寄ってみた。自転車が停めてあったのでもしや話しが聞けるかと思って入り口を登っていくと、玄関から出ていらっしゃるおばあちゃんにお会いすることができた。私のことは知っているとのことで、蔵屋敷についての経緯など語っているところに娘さんもやってきて「うんじゃん祭り」にむすびつきそうなことまで話が発展した。屋敷あとに大切な石があるとのことであったので、3人で伝え聞いてある場所をさがした。みつからないと帰ろうとするところであったが、ちょっと待ってと私が奥を覗いたところそれらしき形の楕円形の石を見つけた。 間違いないとの事で、二人で取り上げ、手のひらや指でほこりを掃い入り口の石垣の上に安置した。偶然に出会った出来事なのであるが、虫のしらせでよびよせられたようなきがする。長くなるので書かないが、前後してこの日の偶然が続くからである。 屋敷がつぶされる前に、郷土研究会で調査して残しておかなければならない。研究会長のゆかりのある家であることも分ってなおさらのこと。十五夜の神おがみのなせる偶然ととって、いい方向にとりなして調査研究の励みにしよう。帰ってから自宅の庭の「神石」の前に石組みを追加した。 まだ納得のいく石組みではないが、裏の植物と石垣を整理しながら年月をかけて完成しようと思う。夕食は、札幌から移住した長崎さん宅にて、パスタのフルコースをご馳走してもらった。初めての経験であった。与論文化村構想などを語り、金持ちや芸術家の友達を呼び寄せる話など夢が広がってくる。夢が正夢に近くなってくるような、わくわくの一日だった。 さて、現実のもどって今日の仕事を考えなければ、残りあとわずか。 記事と写真は関係ない自宅庭の花
2006.11.05
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運転(技能)教習。配車番号52・・・・。「嵐が丘」を読み終えた。主人公の執念にゾーットさせられる。恐ろしい愛情、性格・・それを考えずにはいられない、北方人の性格だろうか、南国生まれのわれわれは人生をもっと明るく捉えようとするはずだ。魂で結ばれたばれた愛情を考えずにはいられない、病的にも思える愛情だ。どうしてもっと広い世間に目を向けないのだろうか?不思議である。送金、8万円。今月はズボン一着と本が欲しい。祖父が弱ってきているらしい・・。 木曜日(晴れ)さて、沖縄で練習に撮った写真を載せてみよう。 これは自宅での写真だから、沖縄ではない。やり直しは次回にとっておこう。これから、海をみにでかけよう。
2006.11.04
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写真アップの練習初日。晴れのひとなった。海洋少年と朝子さんありがとう。
2006.11.03
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昨日は久しぶりに後輩の皆さんと居酒屋で・・・ブログ仲間の男前さんが久しぶりの帰郷で、同級生の歓迎会に同席した。予想以上の好青年である。特に美人奥さんの愛嬌には・・・・ 3連休の始まり さて何を始めるか?
2006.11.03
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本土、あるいは内地から購入した植物をあれこれ試してみた。花木として一般的な山茶花・もくれん・つつじ・じんちょうげ・キンモクセイなど。これらは適さないようであった。 土壌・強風・塩害・温湿度などの条件に合った植物でなければその本来の姿を楽しむことが出来ないとわかって沖縄の植物を集めて植えているが、何せ大木になる木が多いので庭が狭くなった。これからは畑に進出するしかない。産業祭りで購入した苗を植えてないので定植しよう。場所探しに頭を使う。友(植物の)遠方より来る、又楽しからずや・・・。 植物の一本一本が記念樹である。3年後10年後の姿を想像しながらの配植が楽しい。エコガーデン盛窪へいつかおこし下さい。
2006.11.03
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ビール片手の庭散歩(雑木の庭つくり) 「ねぇ聞いてよ、僕はね、型にはまった庭はいらない。ぼくはぼくだけの庭が欲しいんだよ。ぼくの意志のあるぼくだけの庭、それが雑木の庭なんだ。後10年、50年経ってごらんよ、ぼくの庭は天下一品になるんだ、だってどこにもないぼくだけにしか造れない庭だからさ。ビール片手に散歩しながらいろんな事考える。それがぼくなんだ。分ってくれよ、解ってくれるよねせめて君だけは・・・。」 これがぼくのビールねだりの言い訳です。『緑地』さま、酔いどれオヤジの独り言かかせていただきありがとうございます。 手塚おさむ氏の「三つ目がとおる」でよんだ呪文「アブドール、ダムニク、ホリマク、我とともに来たりて我とともに滅ぶべし」と呪文を唱えると自己催眠にかかってしまう。知る人ぞ知るぼくは「変なおじさん」を自認している。山らしい山もなく川らしい川もないエメラルドグリーンの海に囲まれたこの島に帰って、はや23年が過ぎた。先祖からいただいた屋敷林を切り倒し、古家を移設し新しい家を建てた。その償いにやたらめったら木を植えた。植物が好きで、かつては島の植物のすべてに名札を付けたいと叶わぬ夢をみたこともあったが雑多な趣味に明け暮れている。特殊病害虫係りをしている仕事柄、虫たちとの出会いは多く、現在はカンキツグリーニング病と友達しているが、庭には蝶の食草を植え、蝶たちとたわむれている。中でもオオゴマダラは年中庭を飛び回って、その優雅に飛ぶ様は心なごませる。虫たちの世界は正直で、好きな食べ物に集まってくる。まさしく食物連鎖の証明だ。渡りをする蝶「アサギマダラ」と付き合って虫の世界にひきづりこまれてしまい、いろんな人との出会いが始まり愉快な仲間が出来、その中で視野がずい分広がった様な気がする。 土日は農作業半日、庭いじり半日、またの半日は自然とのつきあいで海や野、池や林を夫婦でほっつき歩いている。最近は水辺の植物に興をそそられ、500リットル水タンクを7つも買ってしまった。水生植物を配色し、グッピーなど熱帯魚を泳がせて喜んでいる。トンボがどこからとなく飛んできてヤゴが増えたよ。おたまじゃくしがボーフラを食べてくれるよ。小鳥のさえずりも多くなった。木や水辺の植物のおかげで「我が家にはエアコンはいらない」とはまでは言わないが、涼しく過ごせるようになった。 「人は一生のうち5本の木を植えよ」聞いた。一本の木が林になり、林が森になりやがて森林に生長していくという。趣味はと問われたらやはり木を植えることと答えるだろう。雑木の庭つくりに取りかかりはや20年が過ぎた。すこし形が現れたかなと思うこの頃。 環境にやさしい農業にも惚れて、無肥料、無農薬栽培のマンゴーが今年も実った。自然のありがたさに感謝しつつ相方といつまでも同じ方向を見つめていたい・・・・・。 2002年10月号 鹿児島県農業・農村振興協会機関紙「緑地」より転記一部書き入れ 泡 盛窪 より「私の趣味」
2006.11.01
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仙人掌の種類を集めている。水管理をしないですむので楽だという理由で。又、姿かたちも他の植物と一風変わっているし、花も美しいから。クジャクサボテンの色のついたものを栽培したことがあるが水遣りで失敗した。奄美の島に一番あっているのが「月下美人」だろう。花好きの家庭の常備薬ならぬ花である。私が10歳のころ、奄美大島出身のかたが与論に赴任した記念に持ち込んだもので当時は珍しい花であった。一夜の花で香りと純白の大輪の花を観賞するために叔母の知人が集まっていたことを思い出す。結婚当時、妻の実家に株分けしたのがあちこちにもひろがったらしいが、自宅のは株分け管理を怠ったため元株はどれだかわからなくなった。地植えの一本は日陰すぎて花も咲かず忘れ去られている。 月下美人は実がつかない花として認識されていたが、数年前、昨日の写真のような赤い実を確認することができた。多品種との交配による結実ではなかろうかと推測している。ドラゴンフルーツの品種にその例をみることができるから。ドラゴンの花がどこにでもみられるようになって影が薄くなってしまったが、名前からして愛でたい植物である。月をみながら一杯なんていかが・・・。 ああ 上弦のつきだったっけ。今日何日、つき始め、元気欲スタートしよう。
2006.11.01
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