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橋の袂の交差点で一人のお母さんと、お母さんに抱かれた赤ちゃんに出合いました。折から赤信号で同じ側で信号待ちしていたのですが、お母さんはお若くてというより幼くて、ショートなスカートから伸びた二本の肢はまだ高校生のよう、すべらかに細くて、赤ちゃんは6ヶ月くらいでいらっしゃるかしら、兎の耳のついたお帽子がかわいくて、お嬢さんということはわかりました。 信号がかわって、自然に並んで歩きだしました。お二人に目を奪われてしまって、つい声をかけました。先に聞いてしまったのは「お母さんですか」という問いかけでした。その質問がわたしにはほんとでしたから。お母さんは素直に「はい」とおっしゃいました。まあ何としたその幼さと素直さ、赤ちゃんのおつむ(頭)の上で兎さんのお耳がピクンとゆれました。赤ちゃんが笑っています。 車道を渡る一瞬の出合い、わたしがこころから、「お幸せにね」と瞬間いいましたら、赤ちゃんと同じにかわいいお母さんが、こっくりと首を前に下げてお返事を返してくださいました。 今年も残る時間はわずか、新しい年には誰も誰もの上にもっともっと幸せがたくさんありますように。 今日の一首 抱くときうしろのくらき園見えて樹々もろともに抱く、轟(とどろき) 岡井 隆(群論ー「短歌」昭和37年7月号)
2009.12.30
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たわいもないことを、それがどんなに励みになるかという、たわいもないことを書かせていただきます。 今日は娘のひとりが、わが家へまいりました。そして日ごろあこがれのお寿司屋さんへ連れていってくれました。そして、そして、すごいすごい、どしどし一級品を注文して食べさせてくれたのでした。 たわいもないことと申しますのはそのことです。小さな赤ちゃんだったその子、昔、平屋だったわが家の屋根の上を走りまわり、はらはらさせたわが子、叱りますと、こんどは座布団をもって、庭の一番高い樅の木におやつ持参であがり、日が暮れそうになっても降りてこなかったその子。高校2年生のときには腰椎分離症で手術、一年近くギブスベット暮らしだったその子。 お寿司屋さんから帰ると、家中をお掃除し、わたしのベットにあたたかい毛布を添えてくれたのでした。 今夜は元気いっぱいで仕事ができます。あほかいなと己を笑いつつ。 今日の一首 白珠は人に知らえず知らずともよし知らずとも吾し知れらば知らずともよし 萬葉集巻第六(1018)
2009.12.27
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やや疲れています。そんな自分に今日のブログで慰めを与えたい、そんな自己愛にそそられる歳晩の一夜となりました。 そんないま、おのずからに思い出す泣菫の「望卿の歌」、四季に分かたれた最後の部を書かせてもらいます。 わが故郷は、朝凍(しみ)の真葛か原に楓(かへで)の葉、 そそ走りゆく霜月や、専修念仏の行者らが 都入りする御請凪(おこうな)ぎ、日は午さがり、夕越の 路にまよひし旅心地、物わびしらの涙眼(いやめ)して 下京あたり時雨する、うら寂しげの日短かを、 道の者なる若人は、ものの香朽ちし経蔵(きやうぞう)に、 塵居の御影、古渡(こわた)りの御経の文字や愛(めで)しれて、 夕くれなゐの明らみに、黄金の岸も慕ふらむ かなたへ、君といざかへらまし。 この詩は泣菫が京都の風土を、故郷のように愛していた故に生まれた名詩です。むずかしいと思われがちですが、その底にあるものはゲーテの「ミニヨンの歌」にも通う新しさ、京都を愛するものには、読みこなしていくうちに自ずから理解されてゆくようにわたしは思っています。或いは失った故郷への挽歌と、ときとして悲しくに思いつつも底にあるものはかわらないと、ありがたくさへ思うこのごろです。 今日の一首 あらあらと渡る時雨は自らの寒さに濡れて夜をくらくす 西村 尚(「疾走時雨」昭和57年「短歌」より)
2009.12.25
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一息ついていますと二日や三日はたちまちに過ぎていくようです。ここまで書いていて、電話のベルが鳴りました、しばらく話して、いま切ったばかり、さて続けましょう。 そんなことをしていますと書こうとしていた思考が少しかわったようです、仕方がありません、世の中はお付き合い、しかしながら、それも決して人のせいにしてはいけません。決断が鈍いのは自分でありますから。 ところで、わたしが考えていたことは、思えば喫茶店探し、あしたお眼にかかるお方とどこの喫茶店でお話しましょうかということであります。近からず遠からず、ぶりすぎず、ぶらぬではないところ。 今、目の前にあるアルスの一冊を持参して、ちょっとお話しをしたいのです。どのあたりのことにしましょうか、明治36年ごろのあたり、それとも「大正2年4月15日夕、空には朝来の雨なごりもなく、汽車はこころよくはうきの海岸に添うて走る」のあたりを。 今日の一首 波あらふ衣のうらの袖貝をみぎはに風のたたみおくかな 「山家集・雑歌」
2009.12.23
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ka 時折に思う寺山修司はやはり懐かしいふるさとのようです。修司の絶筆は「墓場まで何マイル?」であることはご存知のとおり。 彼にとって、墓はかなり魅惑的な存在であったようです。パリの古本屋で買った、アンドレ・シャポの撮った写真集も墓でいっぱいでありましたそうで、「金庫のような墓、彫刻のような墓、アルバムの一頁をひらいたような墓、天使が腰かけている墓、胸像の墓」となかなか魅惑的であったそうです。 そして「寿司屋の松さんは交通事故で死んだ。ホステスの万里さんは自殺で、父の八郎は戦病死だった。従弟の辰夫は刺されて死に、同人誌仲間の中畑さんは無名のまま、癌で死んだ。同級生のカメラマン澤田はヴェトナムで流れ弾丸に当たって死に、アパートの隣人の芳江さんは溺死した。」などと書いています。 ところで、関係ありませんが、先夜の歌会で、ひとつの歌に対する褒め言葉に、今までこんな歌なかったでしょうという人があって、わたしは言葉を失ってしまったのでした。 今日の一首 烏だに 憂世(うきよ)厭(いと)ひて 墨染に染たるや 身を墨染に染めたり 閑吟集(225)
2009.12.20
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久しぶりになつかしい農学部前のカフェへゆき、それから植物園へはいりました。冬の林がさみしく、でもこの時期しか見られないうつくしさがありました。池の水もそうでした。琵琶湖疏水から水がそそがれる溜まりのところには、自然にこまやかな砂地があらわれ、ひっそりと小さく渦を巻いていました。 この日も訪れる目的は園を出て北へ200メートルのセンペルセコイアでした。深まる冬のさみしさに、その大きさに、大きさほどのさみしさがありました。 西門前の馬術部は随分整理をされて今、馬小屋は見えません。広い空き地はここも冬のさみしさが。いくつかの「さみしさ」の言葉を書きあらわしてしまいましたが、それはさみしさというより恋うるもののあるセンチメンタルであったのでした。 わたしは自分の幸せを思いました。ほんとうに恋うるもののあるしあわせを。 今日の一首 すこし血の滲む繃帯垂れ下がるのみにて窓の外に空なし 福島泰樹(「望郷」より)
2009.12.18
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朝から同じことを繰り返しながら、こんな時間になりました。日にちまでかわってしまって。 歌をつくるということは、水に、それも自分の水にただようように、よき気持ちでつくらねばならないと思います。いうまでもなく恩義や義理ではありません。ひとりなのです。 わたしはひとりが好きで、不義理を重ねて、何十年歩いてまいりました。だからでしょうか、気持ちがよいであります。花も水も、蝶も蛙も、蛇も守宮もお友達、そういった方向と時を合わせながら仕事をしています。 詩といえばこんな詩が頭に浮びます。 否定の象徴 羽根をつくのもいいだろう 歌留多で女を捕へるのもいいだろう 神様を愛するのもいいだろう 犬が交尾している間に 葬式も終わった こひびとよ すべてを肯定するのもいいだろう 年をとるのもいいだろう 昭和三年一月一日 候御葛稔(まつおかつとし) 今日の一首 黒林のなかに入りゆくドウナウはふかぶかとして波さへたたず 斉藤茂吉(「遍歴」より・大正12年)
2009.12.16
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今日、12月13日は「事始め」でございます。事の始め、今日からお正月の準備をいたします。わが家の事始めは、とにかく、今日は形の上の掛けの軸の取替え準備だけで終わりました。甲斐性のないことでございます。あとは、まだ落ち着きませぬ原稿整理でございます。あれこれしておりますと、もうそこに「果ての二十日」が迫っておりますのに、しっかりものの近江商人の家の出の祖母がおりましたらえらいことでございます。 この日祇園では舞のお師匠さん、井上八千代さんのところへ芸子さん、舞子さんがご挨拶にあがらはります。うっかりしていましたら、テレビに写っていて気がつきました。八千代さんのねき(そば)にはいつものお茶屋さんの女将さんが付き添ってお世話をしてはりました。毎年のことですが、つい、うっとりと見とれてしまいました。もうお正月なのでございますね。なんだか嬉しいような、涙ぐむような気がいたします。 今日の一首 ふらんすのばりに行く絵師送らんと畫をかきにけり牛をくひにけり 正岡子規(明治33年・黙語氏の送別会を庵に開きて)
2009.12.13
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長年ご愛顧いただいている、雑誌社の今月のコラムが遅れています。申し訳ありません。このごろは何でも世の中に出てしまいますから、うっかりしたことは書けません。あちらを向いてもこちらを向いても、毎度ありがとうございます。遅くなりまて申し訳ございませんでございます。 とにかくいまは自分のブログを書かせていただきます。自分を落ち着かすためにであります。と、申しますとまたのんきにといわれそうでありますが、朝から「無常といふ事」をそろりと覗いておりました。書いてあるのに見えなかったそんな言葉があるものです、そればかりかもしれませんが、でもひとつ、見えたと思う言葉がありました それを書かせていただいて貧しい心の供養といたします。「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」と読めました。 今日の一首 青白く壁にうつれるわがかげも朝がたゆゑに見なければならず 前川佐美雄(『植物祭』より)
2009.12.11
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わたしは小池光が平成のはじめの『国文学』、「歌人の謎」に書いた言葉の節々を時折によみかえし深く納得するところがあります。 「短歌とくに近代の短歌は、作者の実人生と多くの場合並走する。作品の鑑賞は、その作品が生まれた実生活上の背景への理解、知識なしにうまく機能しない。これは短歌のような短い形式が、近代の個の表現として復活するために止むに止まれず想定された時代の輪郭であり、無言の約束事でもあった。(略)短歌はよかれ悪しかれそのようなものとして作られ、また鑑賞されてきたのである。」と。 「歌人の謎」は幾人かの歌人を幾人かの筆者が担当、書かれた文章でありましたから、勿論ここには小池が書いた一人の歌人への言葉でもあったわけですが、四ページにわたる長きの最後の言葉に「身辺の平凡な出来事を日常の脈絡の中から切断すること、切断し、一現象を一現象として限りなく孤立させること。そのとき一現象は解きがたき謎となって輝く。」と締めくくられた文章に、わたしは長くに短歌につき言い切れなかった不満を一時に吹っ切れさせた思いがしたのでありました。もうよかれ悪しかれのものとして作られ、鑑賞されるような短歌は捨て切ることが出来ればと思います。 今日の一首 うすきうすき一枚の紙舞ひあがりなべての紙そらに舞ひあがる 葛原妙子(『葡萄木立』)
2009.12.08
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昼間でしたが、四条通りは込み合っていました。そんな中に「さようなら四条河原町」と書かれた張り紙が見えました。長い間の高名な店舗の前の張り紙でした。 色々な変わり目はとにかく、今日は関係する冊子の編集準備を終えました。われらは健在であります。帰路、出町柳の馴染みの店でアイスクリームを浮かせた珈琲をのみました。親切なお店のお方にお腹が冷えませんかと心配してもらいましたが、今日は大丈夫、ちょっと燃えていますから。それから例年の「はたらく仲間のうた」のカレンダーを注文、年末行事の一つを終了。 今日のこと、一つのことが過ぎたことは過ぎたのだから、奇妙な寂しさの感情はありますが、何事も過ぎなければ、ものごとは進まない、出来ないということの不思議の法則を思ったりしています。 今日の一首 二の腕をあらわにさせて髪あらう草のにおいを消しさるために 黒崎由起子(『アジタート 夏』より)
2009.12.05
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明朝は早くに出かけなくてはなりませんから、今夜は早目にブログをかくことにいたします。今日は何故か一日楽しいことでありました。 昼すぎ駅前で一人の友人と会い、夕刻今一人の友人と出合ったのですが、なんと二人とも心の美しい方でありますことか。こうした友人、出合いを持つことができますことが、わたくしの幸せ、自分への教えでございます。 思いますと、わたしも同じですが、いつも泣きそうになりながら、何度も立ち上がることを繰り返しています。そんなことが楽しく出来ますのもこれら、友人のおかげです。一人は物書きさん、何度、死の渕に立たれたことでしょう。ものを書いて生きるということはそういうことでございます 夕刻、お出合いした方は年賀状のことで、相談させてもらっているお若い女性。最近、仲良しになったばかりですが、その純真さにまいっています。その友と話していますと、自分の汚れがよくわかります。言い換えれば常識論がです。わたしも自分がある程度、純に物事を考えているつもりですが、彼女は自身のすべてが純です。マリア様かなあと思ったりです。 今日の一首 聖水とパンと燃えゐるらうそくとわれのうちなる小さき聖壇 葛原妙子(『飛行』より)
2009.12.03
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わが町は早くに市制がしかれているのですが、調べてみますと明治22年であったそうです。自分ではそんな昔は知るよしもありませんが、曽祖父とか祖父母からは相当の昔の話を聞いています。とともに当然、自分には自分である程度の見聞があるわけです。 その程度の知識からみても、ただいま眼前にある一箇所の変わり果てた風景は眼を覆うばかりであります。その一箇所といいますのは現在の河原町三条カトリック教会の周辺です。 教会の百年史によりますと、明治22年の定礎、敷地は2千坪、対馬藩宗屋敷の跡地でした。祖母のはなしでは、大正頃までは、その敷地は河原町から高瀬川まで続いていたそうで、東の木屋町通りから眺めると、川波の光る向側に黒衣のパードレイ(神父)やイルマン(宣教師)の姿が見えたそうでありました。 先日ちょっと歩いたそのあたりの変動のもの凄さ、明治、大正のままとはいいませんが、昭和の40年代までありました聖堂はどこえやら、現在の聖堂は各種のホテルに囲まれ、前庭の入り口も繁華の町の明かり、看板に埋もれています。 京都に切支丹寺ともいうべき天主堂が出現したのは永禄3年(1536)のことでありました。寺社同様、大きい歴史の足あとであることに違いはないずです。 今日の一首 さて萬葉へむかわんものを水漬(みづ)きたる我の拠点の水汲めるのみ 佐佐木幸綱(『夏の鏡』1976)
2009.12.02
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